アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

692 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ④ 春日局事件

2020-03-26 10:10:58 | 日記


④ 春日の局

「春日の局」の画像検索結果

 

 

 

 

 

 従来からの通説では、差し迫った事情というのは、天皇の腫物による「鍼灸治療問題」だと言われている。腫物とは、腫瘍のことで民間では、「でんぼ・おでき」とも言う。現代なら外科手術で切除できるが、良性のものでも熱や痛みを伴ったりすると命の危険を伴い厄介なものだった。当時は、針灸がよく効くとされたが、玉体(天皇の体)には鍼灸はタブーとされた。従って、譲位して自由な身となって治療を受けたかったというのだ。後水尾天皇は、基本的にはとても健康だったのだが、腫物ができやすい体質だったらしく、よほど悩ましい状況だったのだろう。因みに前年、叔父の智仁親王が同じ病で死去している。

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 しかし、最近の研究ではそれは、譲位する「口実」であり、便宜的な理由でしかないという見方が有力だ。
やはり本当の理由は前項で述べた「紫衣事件」である。しかし加えて、さらに許しがたい事件が重なった。それが「春日の局」参内問題である。以下、緊迫感ある経緯を時系列で書くと。
寛永6年 8月    幕府、天皇へ譲位の延期を要請
 8月27日 和子女子出産(またしても徳川家血統の男子誕生の夢破れる)
     これを受けて、家光の乳母「お福」を使者にして天皇の実情を伺いに派遣決定
    10月10日 お福改め「春日の局」 天皇に拝謁し天盃を賜る
    10月15日 後水尾天皇から土御門泰重に密命降る
    10月24日 宮中で神楽 春日の局のみ見学(後水尾参加せず重大決心をする)
    10月27日 土御門泰重に女一宮を内親王に叙すことでの調査指示   
    10月29日 女一宮を内親王に叙す
    11月 2日 中院通村を大納言に昇任
    11月 8日 公家衆に伺候命令  その場で譲位伝える。
 以上の経緯を眺めると、そこまでの許しがたい状況に加えて、無位無官の武家の娘「お福」が幕府の使いとして参内することが、きっかけになって後水尾天皇がにわかに行動に移していることが分かる。因みに、お福とは、本能寺の変の明智光秀の第一の侍大将であった斉藤利光の子である。本来なら、「謀反人の子」なのだが、家光の乳母として大奥に揺るぎない地位を築いた女性である。簾内とは言え無位無官では天皇に拝謁できない為、急きょ「従三位春日の局 藤原福子」の称号を与えた。何故、これほど光秀ゆかりの人物を重用するのだろうか。「本能寺の変」を徳川家康の陰謀とする説は、このような事実から出て来る。話を戻す。従来なら、このような重大決定は幕府に許可を取るか、せめて事前に伝えなければならない。その様な手続きも飛ばしている。

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徳川家光


 遂に、幕府に宣戦布告したようなものだった。最後は、一人の公家とも相談せずおひとりで決断したようだ。しかし、もっと許せないことがあった。かも知れない。

 


691 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ③ 紫衣事件

2020-03-25 08:40:36 | 日記

③ 紫衣事件

 さらに後水尾天皇の君主意識を傷つける事件が起こる。

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沢庵和尚


「紫衣事件」という、僧侶が身に着ける法衣・袈裟の色に紫を使う事は最高の地位を現わすもので、朝廷が許可を出す。当然、朝廷の大きな収入源でもあった。ところが、慶長18年(1613年)の「勅許紫衣法度」と慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」で幕府は、みだりに朝廷が授けることを禁じた。ところが、後水尾天皇は従来通り十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。そして幕府は、なんと寛永4年(1627年)になって、法度違反だと多くの勅許状を無効にした。当然、幕府の突然の強硬な対応に朝廷は強く反対した。

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金地院崇伝


 この事件の不思議なのは、最初の「法度」から14年、「禁中並公家諸法度」からは12年たってから何故ここで問題となったかである。この間、ずっと有名無実化していた法度であり、紫衣を許された僧侶が複数いる事を幕府も将軍も知っていたのである。ここで活躍するのが、金地院崇伝である。南海坊天海上人と並び江戸初期の幕府の政策全般に関わった政治家であり高僧である。特に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝は、この年(寛永4年)になり、江戸城で一つの覚書を提出する。その内容はつまり、「元和の法度」(慶長20年は、元和元年である)以降の出世(勅許)を尽く無効としたというものであった。浄土宗だけでも29通の綸旨(勅許)が無効とされるもので宗教界はパニック状態に陥る。朝廷のみならず有名な高僧が次々に抗議し、大徳寺の沢庵宗彭和尚や玉室宗珀、江月宗玩が、「抗弁書」を提出した。崇伝は、「甚だもって上意にかなはず」として一蹴した。結果、沢庵、玉室の二人は配流と決まった。因みに崇伝は、京都では、「天下の嫌われ者」と言われた。
 さて、後水尾天皇はこのことでどう対応したか。元和以来の多くの綸旨が無効にされ、大徳寺や妙心寺の高僧達が、不届きものとされ衣をはがれ、さらに流罪に処されたのである。言わば、天皇ご自身ののど元に刃を向けられたようなものであった。「主上にとってこの上の御恥はないとの儀」と細川三斎(忠興)は述べている。この事件は、勅許よりも法度、天皇よりも将軍が上であることを天下に知らしめたに等しい。まさに朝幕の力関係は幕府優先が確定したのであった。

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東福門院和子


 後水尾天皇は、再び譲位を武器に戦いを挑んだ。この時、天皇が詠んだ御製は。
思う事なきだにいとう世中に哀れ捨ててもおかしからぬ身を である。
ここで、重要な事は、中宮徳川和子との間に男子の誕生はあったが、いずれも早世であったことだ。女一宮のみが生育していたので、幕府は譲位を許すと徳川の血統は一代限りになってしまう事である。なんとしても二人の間に健康な男子が誕生することが切望された。
 しかし、後水尾天皇にはもっと差し迫った「事情」があった。


690 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ② およつ御寮人事件

2020-03-24 08:23:44 | 日記

② およつ御寮人事件

 後水尾天皇の最初の戦いは、女性問題である。

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川口松太郎著書に詳しい

 徳川家康は生きている間に、幕府政権を盤石にする為には、二つの大きな仕事が残っていた。一つは豊臣氏の抹殺である。関ケ原の戦いの結果、一大名の地位に成り下がった豊臣秀頼だったが、反徳川勢力の象徴的存在である事は間違いなかった。秀頼・淀君に対して京都の巨大寺院の再建を促し、その膨大な財力を削ぐよう仕向けたりしたが、心配で仕方ない。とうとう、方広寺の梵鐘の銘文にいちゃもんをつけて戦いを仕掛けた。大阪冬の陣・夏の陣である。

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方広寺梵鐘銘文 


 そして、もう一つの仕事は、徳川家から朝廷への「入内」である。自らの孫娘を天皇の后にすることで外祖父の地位を確保することである。藤原摂関家の手法と同じだ。秀忠の第5女和子(まさこ)が、慶長12年に誕生していてこの姫を考えていた。後水尾天皇の12歳下ということになる、やや無理はある。因みに、幕末将軍家茂に嫁いだのは、「和宮」の名は、親子(ちかこ)である。それぞれ立場は反対だが、公武合体の運命に翻弄されたお二人の姫である。

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お江与(崇源院)
 しかし、入内直前に大変な事が発覚した。後水尾天皇の典侍である「御与津(およつ)」に子が出来ていることが発覚したのだ。すでに20代半ばになっていた天皇に子が出来たことに何の不思議もないのだが、出来た子が皇子であったこと、さらに和子の母が「お江与の方」であることだ。お江与の方とは、淀君の妹であり信長の妹お市の方の3姉妹の一人である。戦国の渦中に生きたお江与は、極度の「悋気」持ちであった。因みに、秀忠の隠し子保科正之は、会津藩初代藩主という優秀な大名になったのだが、お江与を恐れて生涯父子対面は叶わなかったほどだ。そのお江与が後水尾天皇に対して激怒したのである。
 結局、およつの兄四辻季継を含む公家衆6名に対して、流刑などの重罪が下された。さらに、およつ自身も程なく落飾して明鏡院と称し嵯峨に隠棲したのである。その事は、後水尾天皇の逆鱗に触れた。「逆鱗」は天皇にのみあるもので、庶民に逆鱗はない。しかし、武士との戦いに手段は限られている。唯一の手段は、「攘夷」だった。後水尾の最初の戦いだ。

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藤堂高虎


 ここで、戦国武将の生き残り藤堂高虎の出番だ。身長190cmに及ぶ武闘派だが、生涯に9人主君を変えたという世渡りの上手い高虎は、天皇に公武合体を強要し、公家衆を通じて、「此儀我等不調法に罷成候はば、切腹仕り候までにて候」と、脅した。後水尾は事実上の初恋の女性とその子との別れを突き付けられたのである。およつとの年齢差は不明であるが、魅力的な女性であったのだろう。その後もう一人皇女(梅宮)をもうけている。因みに問題となった最初の皇子は早世している(幕府による暗殺か)。生きていたら天皇の地位にもなるお子であったはずだ。
 青年天皇の恋心を踏みにじった幕府への敵愾心は、後々まで影響する。


689 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  後水尾天皇 ①父子不仲

2020-03-23 08:28:14 | 日記

① 父子不仲

 後陽成天皇の第3皇子、政仁(ことひと)親王、以下後水尾天皇という。本稿は、熊倉功夫『後水尾天皇』中公文庫2010年を参考にする。」

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後水尾天皇

その生誕の時代背景は、戦国時代の終焉を目前にした慶長元年であった。父後陽成天皇は、早く譲位して院政を行いたかった。戦乱の世の中が続き、皇室の権威が失墜した為、長く院政という時代がなかった、いや出来なかったのだ。幼い自分の子である天皇を支えて父が「院政(治天の君)」を行うのは、朝廷権威の象徴だったのに、譲位や即位には余りにも莫大な金がかかる。その様な資金力は朝廷単独では到底無理だったのだ。

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後陽成天皇」


 後陽成天皇は、しばしば譲位を申し出るものの、徳川家康が許さなかった。後陽成は子への愛情が薄かったのか、なぜか第1皇子も第2皇子も門跡寺院に出してしまった。実は、弟の八条宮智仁(としひと)親王への譲位を考えていたのだ。しかし智仁親王は、以前豊臣家の養子となっていたことがあり徳川幕府からは承認されるはずはなかった。因みにその後「桂離宮」を造ったことで有名である。
 幕府からは、仕方なく第3皇子の後水尾天皇への即位を勧める。従って、後陽成自らの意志というより幕府の後押しで即位となった為、後水尾との親子関係は終生良くなかった。譲位後も、諸道具や書類を引き渡さないなど険悪なムードさえあったという。

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清和天皇」


因みに、水尾天皇とは、右京の水尾村に御陵がある平安初期の清和天皇のことだが、清和も本意ではなく兄の惟喬親王を差し置いて即位している。当時は、藤原良房の時代でありその権力闘争の結果であったのだ。同じ境遇の水尾の追号を望んだのである。後鳥羽、後醍醐とは、事情は異なるが前天皇の第1皇子からの平和裏に即位したものではなかったのは同じだ。


番外  コロナ騒動

2020-03-23 07:15:42 | 日記

昨日、大相撲大阪場所が千秋楽を終えた。

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白鵬が優勝した事以外は、異例ずくめだった。取り組み終了後、無観客の客席(テレビカメラ)に向かい協会挨拶があった。通常は千秋楽の取り組み途中にあるのだが、全幕内力士を左右に集めて行ったものだが、その内容が、良かった。なんと、八角理事長がしばらく絶句した。感極まってしゃべれなかったのだ。無観客とは言え開催に踏み切ったプレッシャーは相当なものだっただろう。いずれの判断をしても心無い批判は必ずあるものだ。相撲を、「神事」であると強調した挨拶内容は初日に続き相当練ったものと思われる。力士の体は健康な人間の姿を現し、四股は邪気を鎮める神事なのだ。コロナウイルスという邪気が蔓延している現在、中止してはならないのである。

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この時期ある「祭礼」は、すべて季節の変わり目に発生する「流行り病」を鎮める願いを込めて行う。祇園祭などは、鉾のてっぺんの刃で邪気を取り込むという。このように、国難の今こそ宗教界は立ちあがらなければならない。東日本大震災の時には、三千院の完全秘仏の御本尊を厨子からお出ましを頂いた。人目に触れたことの無い輝く黄金の輝きには相応の御利益があったと思う。当然、民衆が殺到することは避けねばならない。筆者は、本来の「祭礼」をやってもらいたいと言っている。「おまつり」ではない。非公開の「儀式」でも良いのではないか。

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御神輿巡行は、遷座と言い「本殿」から「御旅所」に移し、町内領域をめぐって災いを鎮める意味がある。また、神様に世間をお見せして慰める意味や、また、近くの川や海で清める意味もあるのだそうだ。しかしそこは全知全能の「神様」だ。神殿の奥深くにいて我々を救っていただこう。ここから始まる祭礼シーズン。決して中止せず、非公開で実施してもらいたい。