脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

やっぱり消費者金融へ

2015年09月20日 09時49分55秒 | わが半生
昭和57年9月・・家電量販店に入社し、わずか半年で転職を考え就職情報誌を購入。そして応募しようとした会社は・・今では三井住友フィナンシャルの一員となったプ○○スと新生銀行フィナンシャルのレ○クでした。ほぼ同時に履歴書を郵送すると先に面接をしたいと回答が来たのがレ○クでした。私は大阪のビジネス街の中心である地下鉄本町駅を降りてレ○クの近畿支社へと足を運びました。当時、【サラ金】と言われながらも本町に本社ビル、近畿支社も自社ビルを構え消費者金融会社で自社ビルを持っているのはレ○クだけでした。また、もともとアコムもプロミスも大阪で創業されてますが本社は東京に移転してました。当時の業界大手4社で唯一、大阪を拠点にしていたのがレ○クです。私は面接を終えて自宅に帰るとプ○○スから面接の案内が来ていたらしく翌日、電話をして面接の日時を約束しました。すると、その翌日、レ○クの面接してくださった方より連絡が入り採用したいとの回答をもらったので、すぐさまプ○○スへ連絡し面接辞退をしたのです。そして昭和58年3月 レ○ク玉造支店に配属となりました。丁度、私が入社する少し前にオープンした新規店舗でしたが10店舗同時オープンだったらしく業界・・特に大手は出店競争をしていた時代です。ちなみに当時の金利は年率47・45%で10万円を借りると一か月3900円が利息でした。現在では考えられない高い金利でしたが、それでも当時では安かったのです。新規オープン店舗でしたので顧客数も少なく、やはり早朝のティッシュ配布や折り込みチラシでの集客。友人の紹介を促すことで来店を増やそうとしてましたが・・環状線の玉造駅・・かなり集客は厳しかったのです。支店はヒマで・・・そして私が入社して1~2週間した頃、支店長から『○○君・・回収業務をやってみる?ここ新店やし回収もない。この仕事は回収してわかって来ることも多いし・・』もちろん快諾しました。すると翌日、支店長は心斎橋支店に出向き100件前後の延滞顧客台帳を持ってきてくれました。『○○君・・これ遅れ客。えっと100人ほど持ってきたから・・』当時は今のようにデータ管理されておらず全てが紙ベースでの管理でした。なにせ支店にはソロバンもあったくらいでしたから。そして店長が持ってきた顧客台帳を見て驚きました。なんや、これ!!
コメント
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