脳出血という病気は【死】のリスクが高いので、今、こうして生きられている事じたいに感謝の連続です。自宅で過ごすことが多いので、よく自分をみつめることが増えました。自分というのは自分の真我と向き合うこと。でも全く、みつかりません。最近では身体をクルマに例え運転手が魂であると思うようになり運転手が降りて自分の車を外から眺める感覚を、まずつかもうかな?と。身体を魂の入れ物とし見てみれば、見ている自分は魂そのもの。そしてカルマや今までの人生の中での因果を思い起こすようにしています。すると?少しずつですが『あー・・必然だったんだ』とか『あー、あの時は天から試されたんや。』とか。【天からの試し】の一番、ビビッときたのは今から12年前の2004年、私の部門は業績が絶好調で全エリア中、トップ争いをしていたのです。2001年から徐々に業績が右肩上がり、当時の私の役職はクラスで言えば課長クラス。そして2004年11月突然、かつての上司が関西に出張で来たときのこと、『俺の事業部に来てくれないか?もちろん昇進もある。』私は、この誘いを今、思うと断るべきであったのかな?としかし、私は、それを受け入れ翌年1月に東京へと行ったのです。そこからが人生の歯車が狂い家族にも大きな迷惑をかけ挙句にリストラ・・。現在、静かに自分という身体から降りて『我』を見つめてみると原因と結果による因果の法則がピタリと当てはまるような気がしてなりません。脳出血は、あの豪華客船タイタニック号が氷山にあたったように私は人生の航海で氷山にあたったのかも知れません。調子に乗り速度を上げた結果のタイタニック号と同じ・・。そして沈みました。しかし人間=霊魂は努力すれば、また浮かび上がり、航海を続けることも出来るのです。自らの傲慢さ、欲望に囚われ自分が正しい・・お灸をすえないと・・神様は私に気づかせようと病気の試練を与えてくださったのです。神様は苦しめようと試練を与えているのではなく【気づかせようとする】愛情なんだと受け止めました。脳出血から3年近くの日数が、かかりましたが漸く、ほんの少し自分をみつめることが出来たような気がします。
良い行いをすればよいことが返って来るし悪い事をすれば不幸として自分に返って来ると言います。後者を【カルマ】と言いますが、例えば人を殴れば、いつか自分が殴られる・・それは殴られる痛みを神様から教えられるらしいのです。人の痛みを知るには人に痛いことをしないと分らないわけですよね。では??何で俺が?こんな目に遭うんだ?と思う事、そのいくつかは過去生での事と言うこともできますが、今世において自分が無意識に人を傷つけていたことの報いは無いのかな?とも。例えば人の悪口や批判を当事者のいないところで言っていた時・・何気なく。また自分は批判や悪口でなく事実を普通に言ったつもりでも聞いた相手が悪口や批判に受け止めたらまわりまわって当事者に悪口として、それも尾ひれが沢山ついて知ることになるかも知れません。そんな事になってるとは知らない言いだしっぺの自分に時間や日数が経過してから・・周囲より批判や悪口を浴びることに。「なんで俺が、批判されるんだ?」と被害者意識しか持ちません・・というか持てないです。このように例え事実でも批判や悪口のように受け止められ誤解が生じることは、あちこちで見られます。では?やはり人との会話では長所・良いところを言うにこしたことはありません。とにかく、いいとこ探しを心掛ける事が一番と思う今日このごろです。
【カルマ】を作って【カルマ】を解消するのが魂の絶対条件のようの思います。カルマを作ることで次に埋めないといけないパズルの箱が見えてくるのかな?ジグソーパズルは予め何枚のピースを埋めるかわかっていますよね?1000ピースなら1000枚のピースがありパズルの絵柄も買う時にはわかっています。でも魂のジグソーパズルは生まれてくる前には1000なら1000ピース。絵柄は・・とパズルの難易度も自分で作って神様に提出して了承を頂いてから、この世に生まれてくるのかな??でも生まれた瞬間、全ての記憶を消されます・・。ジグソーパズルの形、絵柄、ピース数・・魂のレベルが未熟な人には例えば300ピースで絵柄も絵本のように優しく形も長方形。標準的な成熟度の人は500ピースで風景の柄。形も長方形で未熟な人に比べるとパズルを作成するステージが違います。そして成熟度が大人になると1000ピース。少し上級レベルだと1000ピースで形は形の五角形とかダイヤモンド型とか・・絵柄も複雑で色彩コントラストも複雑なパズル・・。生まれた時はパズルのピース数は勿論、絵柄や形もわからない・・ただパズルをバラバラに貰って埋めていく・・「あ・・これは・・え?違う・・」とか思いながら作っていく。家族・友人など多くの人たちと共に・・。共同作業中に励ましあったり、時に相手のパズルを奪ったり・・ここでカルマが発生!とか。話は逸れましたがカルマを作ることが魂の成長なのかも知れません。そして1度作ったカルマは解消したら二度と作らない。人に足を踏まれたら痛いです。人に足を踏まれたということは以前に人の足を踏んだから。これで踏まれた痛みを漸く知るわけでして。まずは踏んでしまう・・カルマを作る。踏まれたら踏み返す?とまた踏まれてカルマのスパイラルに陥りますよね。だから不幸な出来事が起きた場合は振り返って反省し、気づかせてもらったことに感謝すると全ての人たちに感謝の気持ちが芽生えるのかな?と思う今日このごろです。
人に足を踏まれたら踏まれた痛みを感じ取ります。【カルマの法則】人に嫌な事をしてしまった!とか人を傷つける事を言ってしまった!と自分が分っていたら、やがて同じことをされたら、『あの時の報いだなぁ~。』と反省もすぐにできますが・・・でも無意識に人の心を傷つけたり無意識に足を踏むようなことをしたときは??例えば、何気に居酒屋で同僚と酒を飲みながら言った言葉が知らず知らずに当人に知れることとなり、言った自分は、それを知らず・・また悪口のつもりでなく正論であったとしても??時が経過し、やがて周囲から自分が批判される立場になったとき・・『なんで俺が?批判されるんだ?!誰が言ってるんだ?!』と怒りをあらわに・・でも時を遡れば自分が他人を批判したわけでなくても自分の話を聞いた人が【批判】ろ受け止めてしまうと、その人が別な人に伝えるときは【批判】として伝わり、やがては【悪口】として当人の耳に入ることもありますよね。え?あくまで自分は悪口でない!自分の話を批判や悪口として受け止めて広げた周りの人が悪いんだって?言いたいのでしょうが。根本は自分が行った事。聞いた相手が批判や悪口に聞こえるように言った自分に非があるわけです。話は逸れましたが、無意識に【カルマ】を作っているかも知れない・・では、無意識に【カルマ】を作らないように気をつけるには???やはりポジティブシンキングと人の長所を見ることになるのかな?人に優しくすること。自分本位で考え行動しないこと。起こった失敗は自分に責任があること、手柄は人をたてること・・ものすごく難しいですね。でも、これを貫き通すと・・おそらく今まで感じなかった幸福感を味わえるのかな?まずは人の誹謗中傷をやめることが大切なのかなと思う今日この頃です。
脳出血で倒れ意識が戻ったときは身体中チューブとコード。とにかく蛍光灯の光が眩しかったのを覚えています(・・;)そして?目を開いても普通に見えないのです。看護師さんの声が聞こえてますが、どこにいるのやら(・・;)とにかく物や人の確認を目では見えないのです。勿論、失明したわけではなく、なんとなくの感覚で集中治療室に居るんだなとは理解したのですが(一体、今は何時なんやろ?)時間も分からず。後で妻に聞くと倒れた翌日に意識が戻ったらしいのです(・・;)意外と早かったみたい。会社の人が集中治療室に入ってきたのですが、声で誰かは分かるものの目では姿が確認できないのです。とにかく眩しいのと、人の身体が何重にも重なりながら同じ人が何人も見えて、丁度、トンボから見たイメージでわたしの目は複眼的に物が見えてることが漸く理解出来たのです。(え?ずっと、こんな見え方のままで生きていくのか?)そう思った瞬間、喪失感と不安とでパニックになりました。寝ているベッドは身長185センチの私には小さく足がベッドの柵に当たるしチューブだらけと点滴が何本かあり、とにかく窮屈なのもあり、そのストレスで叫び始めたのです(・・;)