しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <臭くなったマナ>

2024-02-01 | 出エジプト記
「しかし、彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておいた。すると、それに虫がわき、臭くなった。モーセは彼らに向かって怒った。」(出エジプト記16:20新改訳)

エジプトから出たイスラエル人は、肉性がきよめられていないキリスト者の象徴でもある。彼らは、神がエジプトで現された奇蹟の数々を見ておどろき、神を信じた。クライマックスは紅海が二つに分かれ、そこを歩いて渡ったことだろう。ところが、荒野に入って水に渇くとたちまち、「エジプトにいたほうが良かった」と文句を言い、「ああ肉が食べたい」とつぶやく始末であった。そこで神がマナを毎朝降らせ、食べさせるとしまいには「来る日も来る日もマナばかりで嫌になる」と不平をならした。▼人間が生まれつき持っている罪深い性質は、どこまでいっても救いがたいものであることがわかる。彼らはモーセから「マナはその日のうちに食べよ、残してはいけない」と言われても、ある者は言うことを聞かず、残しておき、腐ってしまった。まさに人間の心は臭くなったマナとおなじだ 。だが、さいわいにもキリストは十字架上に詛われた存在となることにより、私たちの古き人(心の腐敗性)を殺し、「新しい人」を創造してくださったのだ。

朝の露 <主は私の救い>

2024-01-31 | 出エジプト記
「主は私の力、また、ほめ歌。主は私の救いとなられた。この方こそ、私の神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」(出エジプト記15:2新改訳)
モーセとイスラエル人は紅海のほとりで、海にのまれて滅んだエジプト人たちを見ながら神をほめたたえた。続いてミリアムに率いられた女性たちも、歌と踊りで主を賛美した。彼らの喜びはさぞ大きかったにちがいない。あれほど執念(しゅうねん)深くイスラエルをねらったエジプト軍が壊滅(かいめつ)したのだから。▼やがて来る艱難時代、そこでも「モーセの歌」が歌われる。反キリストに抵抗し、殉教した人々が天にある「ガラスの海」のほとりで、モーセの歌と子羊の歌を歌う(黙示15:3,4)。どちらも神の偉大さとさばきの正しさ歌っている点が興味深い。▼キリスト者は救われた喜びを、いつまでも忘れてはならない。私たちはその意味で一生涯、紅海の海辺に立っているようなものである。遠く対岸に見えるこの世、そこには決して戻れないよう満々たる紅海が横たわっている。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。」(ガラテヤ6:14同)

朝の露 <海が元の状態に>

2024-01-30 | 出エジプト記
「モーセが手を海にむけて伸ばすと、夜明けに海が元の状態に戻った。エジプト人は迫り来る水から逃れようとしたが、主はエジプト人を海のただ中に投げ込まれた。」(出エジプト記14:27新改訳)

想像するだけでこの光景には圧倒される。イスラエル数百万人が、そそり立つダムのような海水の間を通って対岸に渡るまで一昼夜はかかっただろう。そのあいだ、水の壁は少しもくずれなかったのだ。人々は絶壁のような両側の水をおどろきの目で見ながら、急ぎ足で海底を歩いたのではなかろうか。▼ところが、それを見て戦車とともに海底に入ったエジプト軍に向かって、海水は怒涛(どとう)のようにくずれ、おそいかかったのであった。「水は元に戻り、後を追って海に入ったファラオの全軍勢の戦車と騎兵をおおった。残った者は一人もいなかった」(28)。つまり全滅したわけである。▼私たちが救われたというのは、いわばこの世を脱して紅海を渡ったのとおなじだ。しかし誰でもイエス・キリストを信じることなしに天国に入ろうとするなら、エジプト軍のように滅びるしかない。救いとはこんなにも厳粛(げんしゅく)な事実である。

朝の露 <過ぎ越しと長子>

2024-01-29 | 出エジプト記
「ファラオが頑なになって、私たちを解放しなかったとき、主はエジプトの地の長子をみな、人の長子から家畜の初子に至るまで殺された。それゆえ私は、最初に胎を開く雄をみな、いけにえとして主に献げ、私の子どもたちの長子をみな贖うのだ。」(出エジプト記13:15新改訳)

過ぎ越しの夜、エジプト中の長子は人と獣(けもの)といわずすべてが殺された。では、イスラエル人たちの長子はなぜ殺されなかったのか?といえば、神の所有とされたからである。つまり、このときからイスラエル人たちの長子は、イスラエル人のものではなく、神のものとなった。だから殺されずにすんだともいえる。▼この世界はやがて、人間が犯した罪ゆえにのろわれ焼き尽くされてしまう。すなわち史上最大の過ぎ越しの夜を迎える。そのときイエス・キリスト(真の過ぎ越しの子羊)を信じた者たちは、神の子どもとして永遠の新世界を引き継ぐのである。▼三千年以上、過ぎ越し祭を守っているイスラエル、二千年間、聖餐式を守り続けている教会、これらは終末の大審判到来を告知する予表なのである。

朝の露 <四百三十年後に>

2024-01-25 | 出エジプト記
「イスラエルの子らがエジプトに滞在していた期間は、四百三十年であった。四百三十年が終わった、ちょうどその日に、主の全軍団がエジプトの地を出た。」(出エジプト記12:40,41新改訳)

この大事件からちょうど四百三十年前、神はアブラハムに言われた。「あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。」(創世記15:13,14同)▼このみことばはそのままイスラエル民族に実現した。つまりエジプト人たちはすべての長男が急死してしまったので非常な恐怖心を抱き、一刻も早くイスラエルに出国してもらおうと、先をあらそって宝石、貴金属、衣服その他を与えたのである。こうして奴隷だったイスラエル人たちは一晩で大金持ちになり、荒野へ出立することになった。▼歴史を支配される神は、なんとふしぎで知恵に満ちたお方であろう。アブラハムへの約束を寸分たがわず実現させた。しかもこのお方は今なお、私たちキリスト者と共におられる、すなわちインマヌエル(神が私たちとともにおられる)のお方であられる。