しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 <過ぎ越し>

2024-01-24 | 出エジプト記
「しかし、イスラエルの子らに対しては、犬でさえ、人だけでなく家畜にも、だれに対してもうなりはしません。こうして主がエジプトとイスラエルを区別されることを、あなたがたは知るようになります。」(出エジプト記11:7新改訳)

過ぎ越しはやがて到来するキリストの再臨と艱難(かんなん)時代の型である。ほろぼす御使いがエジプト中をめぐり、長子という長子は頓死(とんし)したが、イスラエルでは猫の子一匹死ななかった。そして彼らはモーセに率いられ、エジプトから出て行ったのであった。▼ちょうどそのように、キリストがはなよめを迎えに空中までお出でになると、御霊をいただいた聖徒たちは復活、栄化して主のところに携(たずさ)え上げられる、つまりエジプトから出ていくのである。これが本当の出エジプトだ。主イエスはその日のために、天にあって昼も夜もはなよめの完成を待ち、みわざを進めておられるとは、なんと感謝であろう。艱難時代に取り残されないため、今のうちに明確(めいかく)な救いにあずかり、ご聖霊を内に宿す者とさせていただきたい。

朝の露 <最後通牒(さいごつうちょう)>

2024-01-23 | 出エジプト記
「ファラオは彼に言った。『私のところから出て行け。私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。』モーセは言った。『けっこうです。私はもう二度とあなたのお顔を見ることはありません。』」(出エジプト記10:28新改訳)

ファラオはとうとう、モーセに最後通牒を突き付けた。今度会うときはお前を殺す、と。▼それにしてもエジプト人に、モーセは不気味で恐るべき人物と映(うつ)ったにちがいない。なにしろふつうの老人なのに、ひと声出すと、とてつもない現象が次々に起き、それがまた彼によってピタリとおさまるのだから・・・。いったいこの人物は人間なのか、神なのか、エジプト人は恐怖さえおぼえたろう。だからファラオがモーセを殺すとおどしたのは、必死の勇気をふるってのことだった、とも考えられる。▼いずれにしてもこれで万事休す、いよいよ国中の長子が、人と動物を問わずすべて急死するときが来た。人間が神に逆らい続けても、ある程度までは許されるかもしれない。しかしそれをよいことに、あくまで反抗をやめないなら、最後は恐るべき結果を招来(しょうらい)する。

朝の露 <ファラオの心>

2024-01-22 | 出エジプト記
「しかし、主はファラオの心を頑(かたく)なにされたので、ファラオは二人の言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりであった。」(出エジプト記9:12新改訳)

この箇所を見ると、ファラオが心を頑なにしたのは神がそうさせたから、と読み取れるがそうではない。これは出エジプト記特有の書き方で、ほんとうは、「神は、ファラオがよりいっそう心を頑固にしていくままにされた」という意味で、その原因と責任は、あくまでファラオ自身にあった。▼悪魔に毒された人間の心というものは、底のない穴とおなじで、無限の深さをもっている。もちろん、神は全能者であり、その気になれば一瞬のうちにエジプト王を消し去ってしまわれたであろう。しかしそうされなかったのは、すべての時代の人々に、「人の心を汚染した罪がいかに深く、のろわれたものであるか」、その真相を知らせようとされたからだ。▼私たちは彼の姿から、人を堕落させている罪の実相を知り、戦慄(せんりつ)に身をふるわせて神の前に出るのがほんとうである。「こうして人々は激しい炎熱で焼かれ、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名を冒瀆した。彼らが悔い改めて神に栄光を帰することはなかった。」(黙示録16:2同、ほかにも16:11、16:21)

朝の露 <アブは一匹残らず>

2024-01-18 | 出エジプト記
「主はモーセのことばどおりにされた。アブは一匹残らず、ファラオとその家臣、および民から離れた。しかし、ファラオはまたも心を硬くし、民を去らせなかった。」(出エジプト記8:31,32新改訳)

ここには三つの災害、すなわち、蛙(カエル)の大群、無数のブヨ、数えきれないアブの襲来が記されている。これらがモーセの杖一本で大発生し、エジプト全土をおそったのであった。そしてふしぎなことに、またモーセの一言でいなくなったのである。どこからどう見ても、人間わざではなく、神のみわざであった。しかし、ファラオはそれを見ても、イスラエルを去らせようとしなかった。彼の心の強情さもおどろくべきものである。▼私たちは出エジプト記を読むと、モーセを通して神がなさった奇蹟のすごさに圧倒される。だが、それを見ても動かされず、反対にますます心をかたくなにしていく罪の姿にも圧倒される。その意味でファラオの心は、主イエスのわざを見ていっそう頑固になり、なんとかして殺してしまおうと画策したパリサイ人とおなじであった。▼が、忘れてはならない。私たちすべての人間は、生まれながらにして例外なくファラオと同質の頑固さ(罪による心の腐敗性)を持っている。その事実に衝撃を受けるとき、私たちはうなだれて十字架の前にひれ伏す。そしてガラテヤ2:20の体験を把握することがゆるされるのである。

朝の露 <ナイル川の魚は死に>

2024-01-17 | 出エジプト記
「ナイル川の魚は死に、ナイル川は臭くなります。それで、エジプト人はナイル川の水を飲むのに耐えられなくなります。」(出エジプト記7:18新改訳)

モーセとアロンが見せた二番目の奇蹟は、ナイル川の水が血になる、というものであった。それは水が何かの染料や鉱物で赤く染まるといった現象でなく、文字通り血(血液)になったのである。しかもナイル本流だけではなく、水路、池、貯水池、家々のあらゆる器に入った水まで、全部が本物の血になったとは!その不気味さはたとえようもなかったろう。▼それより八十年前、エジプト人はユダヤ人の男児を、みなナイル川に投げ込んで殺した。その報いがやって来たのである。ファラオたちが神としてあがめるナイル川が真の神に打たれた。冷静に見れば、この奇蹟は決して人間によるものでないことがあきらかなのに、ファラオは認めなかった。その心のかたくなさにはあきれる。▼終末のとき、再びこれが世界規模で起きるにちがいない。黙示録は世界の海が死者の血のようになり、川と水源も血になると記しているからである(黙示録16:3,4)。すべての人は、福音のとびらが開かれている今のうちに、悔い改めて永遠への備えをすべきではないか。