しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <エフタの娘>

2024-11-07 | 士師記
「エフタがミツパの自分の家に帰ると、なんと、自分の娘がタンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子で、エフタには彼女のほかに、息子も娘もなかった。」(士師記11:34新改訳)

アンモン人と戦いを始める時、エフタは必死だったにちがいない。「もしこの戦争に勝たせてくださるなら、勝利の帰還をするとき、最初に出迎えた者を全焼のいけにえとして献げます」と誓ったのだ。エフタの真剣さはわかるが、この誓願はあきらかに、不信仰から出ていたとみるべきであろう。なぜならすでに「主の霊がエフタの上に下った」(29)ので勝利はイスラエルのものになることが確かだったからである。▼その結果、悲劇が生まれてしまった。凱旋(がいせん)したエフタ一行を真っ先に迎えたのは、なんとかけがえのないひとり娘だったのだ。彼の悲しみの言葉は我々の心を打つ。「ああ、私の娘よ、おまえは本当に私を打ちのめしてしまった。おまえは私を苦しめる者となった。」(35)▼しかし考えてみると、だれが真っ先に出て来たとしても、誓願により犠牲になったわけで、悲劇は起きたのだ。だから、それが彼の娘となったことに、私たちは神の深い御心を感じないわけにいかない。人は不完全きわまりない存在である。その人間が誓うということは、明日起きることさえわからないのに、未来を決めようとすることだから、やはりまちがった行為というべきであろう。誓いをするということは、それを守れなかったとき、何らかの意味で誰かが苦しむことになる。だから主イエスは言われた。「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。」(マタイ五36)