風まかせ

ふと思ったこと、ちょっと気がついたことを気ままに

その後の備中三村氏

2023-01-29 22:09:57 | 歴史紀行
三村家親の後を継いだ子の元親が1575年の備中兵乱で討ち死にし、戦国大名としての三村本家は滅亡した。
三村宗家は元親の弟の三村親成が継ぎ、江戸時代初期には備後福山藩の水野家の家老となる。水野家に後継ぎが無く、断絶した後は、親成の曾孫の三村親澄は備中勇崎郷で帰農した。
福山市川口町にも分家筋の三村氏が居住している。

備後福山城

備中の三村氏 その3

2023-01-29 17:08:59 | 歴史紀行
備中松山城を得た三村家親は、その後、備中を統一し、備前や美作に勢力を拡大していった。
三村家親の勢力拡大に脅威を感じた宇喜多直家の放った刺客により1566年に美作・興禅寺にて家親は鉄砲で狙撃されて暗殺された。
家親の死後、子の元親が跡を継いだが、1567年に宇喜多秀家の加勢を得た荘高資に攻められ備中松山城を一時奪われる。 
その後、1571年に三村元親が毛利元清の加勢によって備中松山城を奪回し、備中の中・北部を支配した。
三村元親は1575年の備中兵乱で討ち死にし、戦国大名としての三村本家は滅亡した。




備中の三村氏 その2

2022-10-30 20:35:21 | 歴史紀行
三村宗親の息子の三村家親は星田郷から1533年に成羽の鶴首城に拠点を移した。毛利氏の傘下で、1561年に荘高資を破り備中松山城を得るまで
この城を拠点とし勢力を拡大していった。
家親が備中松山城に移ったのちは一族の三村親成が鶴首城の城主となった。

なお、鶴首城は1189年に当地の地頭職となった河村四郎秀清が築城したと伝えられ、成羽の庄の支配の拠点となっていた。





備中の三村氏 その1

2022-10-23 22:32:58 | 歴史紀行
1561年に荘高資を破り備中松山城を得た三村氏は、
清和源氏の小笠原氏の庶流で、
常陸国筑波郡三村郷が所領で三村を名乗る。
承久の乱の活躍で信濃に所領を得る。
信濃三村氏の一流の三村親実が鎌倉後期に備中星田郷に所領を得て備中の国にやって来た。
16世紀前半三村宗親のころ徐々に勢力を拡大していった。

(井原市 美星町星田の三村氏屋敷跡)

福山合戦

2022-10-09 19:39:22 | 歴史紀行


備中福山城は1335年に荘兼祐が築城したといわれている。この福山城は総社市南部の福山(標高302メートル)山上に存在した山城で、南北朝時代に『太平記』に記された福山合戦の舞台となった。

1336年4月3日 新田義貞軍の先鋒の大井田氏経が足利方の荘兼祐を追い備中福山城を占領し1500名で籠城した。5月14日に足利直義軍20万に包囲され、5月15日夕刻より攻城戦が始まった。籠城軍はよく奮戦し、足利軍は2万の死傷者を出した。しかし、大軍を前には抗しきれず17日には火をかけられ落城した。氏経は僅かに400人ばかりとなった将兵と共に足利軍の布陣を突破した。20回以上の戦闘を繰り返しながら本陣のある播磨国との国境にほど近い備前国三石城に逃れた。

太平記では足利軍は20万となっており、戦死者が2万となっているようだが、これは中国の歴史書に倣って実際の数を10倍に水増ししていると思われる。





この戦いの7日後の湊川の戦いで敗北後、大井田氏経は越後に戻る。氏経は新田義貞の遺児義宗を守って大井田城に籠城し、足利方の攻撃を防ぎ落城を免れた。以後、大井田城を拠点に大井田氏は続いていたと思われる。

戦国時代には上田長尾氏や上杉氏などに仕えた。上杉氏が米沢に移る時には一緒に米沢に移った者や、越後に戻り、越前福井の松平家に仕えたものや、そのほかの諸大名に仕えたものがいた。

備中の高氏

2022-09-25 22:32:28 | 歴史紀行
高師秀は1355年から備中松山城の城主となり、1362年に秋庭重明に追われて備前に退去するまでの約7年間 城主であった。

高氏は天武天皇の皇子の高市皇子の系統の高階一族で、八幡太郎義家の家人の高階惟章が義家の三男源義国とともに地方に下って下野国に住んだことにはじまる。以来高氏と称して、義国の子孫足利氏の執事となる。
南北朝時代に現われた高師直は、足利尊氏に執事として仕え、室町幕府成立に貢献した。しかし、尊氏の弟の足利直義と対立し、高一族は敗れて、ほぼ全滅した。
高師直の兄弟(兄?ともいわれている)の高師泰の孫にあたる師秀が生き延び、高氏の血統を後世まで伝えた。



備中の上野氏

2022-09-11 20:48:47 | 歴史紀行
上野氏は足利氏の庶流が三河の足利領の上野荘の地頭となり上野を名乗り足利一門で重きをなした。

1509年に上野信孝が木村山城城主として備中に足利氏の勢力拡大するために来る。

備中松山城の城主の秋庭元重の勢力が衰え、有漢郷に帰って土着したのに代わって、上野信孝の一門の頼久が、備中松山城主となった。頼久の死後は息子の頼氏が城主となる。
1533年荘為資の攻撃で備中松山城は落城し、頼氏は討ち死にした。
上野氏は1509年(一説では1504年)から1533年まで備中松山城の城主だった。



上野信孝は数年後、京都に帰り、木村山城は一族の上野高直が城主となった。高直の死後は上野隆徳(高徳)が城主となった。
隆徳は1550年代に備前常山城に拠点を移した。1575年小早川軍の攻撃で敗れ、隆徳は切腹し上野氏は滅亡した。(常山合戦)



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備中の高橋氏

2022-09-09 19:26:03 | 歴史紀行
元弘年間(1331年~1334年)には、勢いの衰えた秋庭氏にかわって備後の三好氏の一族である高橋宗康(高橋九郎左衛門宗康)が大松山城に入りました。
このとき、城域が小松山まで拡大されたようで、小松山城には弟・高橋大五郎を居城させたとされます。
これが、現在の備中・松山城がある小松山城の初見です。

九郎左衛門、又四郎(範時(のりとき))の親子は同3年(1333)5月7日、京都の合戦に北条氏に従い、六波羅軍に属し楠氏を攻めたが、これに敗れ、9日近江国(現・滋賀県) 番場の米山の麓、蓮華寺一向堂前で、六波羅探題 北条仲時以下 432人と共に討死・自害しました。

高橋氏は1331年頃から1355年頃まで城主だったようだ。

その後、高橋一族の末裔は備中窪屋郡流山(るざん)の城に移りました。輿光の代に毛利によって滅亡させられ、一族は毛利の配下となった模様。高橋伸賢家は毛利水軍である三田尻御舟倉床」(現在の山口県防府市)において明治維新を迎えることとなります。







木村山城址

2022-08-21 22:47:27 | 歴史紀行
木村山城は総社市八代にあり、初代備中守護となった土肥実平が備中統治のため築いたと伝わっている山城です。

土肥実平は源頼朝が平家討伐に挙兵したとき、最初から加わっており、石橋山の戦いで敗れた頼朝は実平の用意した船で真鶴から房総半島の安房国へ脱出しています。
実平は頼朝の信任が厚かったようで、源義経や範頼の平家討伐軍に参加しています。1184年には吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられています。没年ははっきりとはしませんが1191年ごろから公式記録に登場しなくなるので、この頃没したとの説もあります。

戦国時代には備前常山城主上野氏の城でその家臣が在城していました。
16世紀の備中兵乱では毛利元就の四男の毛利元清がこの城に本陣を構えたとも云われています。

麓の神神社を目指して行き、登山道を登ります。城跡への近道の看板があったので、そちらから上って行ったところ、途中で道が無くなり、とにかく頂上を目指してやぶの中を進みました。
城跡はあまり整備されておらず、草木が茂っていました。
帰りは登山道を通りました。この道を通るとかなり大回りして神神社に到着しました。






秋庭氏の備中旧跡その2

2022-08-11 22:47:51 | 歴史紀行
備中松山城を築いた秋庭一族の秋庭重明は14世紀に有漢の土井に屋敷(正尺屋敷跡)を構えた。


その正面に防備を施した常山城を築き、秋庭氏は徐々に国衆として地位・軍力を確立していった。




正尺屋敷跡近くの県道わきに秋庭氏の歴代の墓が存在する。かつて墓は分散して存在していたが、現在は今の場所に集められている。




倉敷市浅原にも秋庭氏の子孫が移り住んでいるようだ。



秋庭氏の備中旧跡

2022-07-31 19:08:58 | 歴史紀行
備中松山城を築いた秋庭氏は桓武平氏の三浦氏より分かれたといわれており、備中地域で最初に栄えた一族

秋庭重信が承久の乱の戦功の功行賞として備中有漢郷の地頭となり備中に来て、1221年有漢の台ヵ鼻に台ヵ鼻城を築き、以後、約18年間ここを居城とした。


そして、重信は1240年備中路の最大の軍事拠点となる臥牛山に備中松山城を築城。(前期 備中松山城主時代 1240年から1331年頃まで)

南北朝動乱期には松山城の城主は23年間高橋氏と7年間高氏の時期があったが、秋庭信盛が1362年に高氏を追放して秋庭氏が松山城を回復した。(後期 備中松山城主時代 1362年から1509(または1504)年頃まで)

秋庭氏は京都に住み将軍や細川氏に従って従軍などしていたが、1509年(1504年の説もある)秋庭元重は松山城を去って、有漢郷に帰って土着し、武将としては歴史から消えた。
秋庭氏は通算で約240年近く備中松山城主であった。