木村山城は総社市八代にあり、初代備中守護となった土肥実平が備中統治のため築いたと伝わっている山城です。
土肥実平は源頼朝が平家討伐に挙兵したとき、最初から加わっており、石橋山の戦いで敗れた頼朝は実平の用意した船で真鶴から房総半島の安房国へ脱出しています。
実平は頼朝の信任が厚かったようで、源義経や範頼の平家討伐軍に参加しています。1184年には吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられています。没年ははっきりとはしませんが1191年ごろから公式記録に登場しなくなるので、この頃没したとの説もあります。
戦国時代には備前常山城主上野氏の城でその家臣が在城していました。
16世紀の備中兵乱では毛利元就の四男の毛利元清がこの城に本陣を構えたとも云われています。
麓の神神社を目指して行き、登山道を登ります。城跡への近道の看板があったので、そちらから上って行ったところ、途中で道が無くなり、とにかく頂上を目指してやぶの中を進みました。
城跡はあまり整備されておらず、草木が茂っていました。
帰りは登山道を通りました。この道を通るとかなり大回りして神神社に到着しました。
土肥実平は源頼朝が平家討伐に挙兵したとき、最初から加わっており、石橋山の戦いで敗れた頼朝は実平の用意した船で真鶴から房総半島の安房国へ脱出しています。
実平は頼朝の信任が厚かったようで、源義経や範頼の平家討伐軍に参加しています。1184年には吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられています。没年ははっきりとはしませんが1191年ごろから公式記録に登場しなくなるので、この頃没したとの説もあります。
戦国時代には備前常山城主上野氏の城でその家臣が在城していました。
16世紀の備中兵乱では毛利元就の四男の毛利元清がこの城に本陣を構えたとも云われています。
麓の神神社を目指して行き、登山道を登ります。城跡への近道の看板があったので、そちらから上って行ったところ、途中で道が無くなり、とにかく頂上を目指してやぶの中を進みました。
城跡はあまり整備されておらず、草木が茂っていました。
帰りは登山道を通りました。この道を通るとかなり大回りして神神社に到着しました。