風まかせ

ふと思ったこと、ちょっと気がついたことを気ままに

備中の高氏

2022-09-25 22:32:28 | 歴史紀行
高師秀は1355年から備中松山城の城主となり、1362年に秋庭重明に追われて備前に退去するまでの約7年間 城主であった。

高氏は天武天皇の皇子の高市皇子の系統の高階一族で、八幡太郎義家の家人の高階惟章が義家の三男源義国とともに地方に下って下野国に住んだことにはじまる。以来高氏と称して、義国の子孫足利氏の執事となる。
南北朝時代に現われた高師直は、足利尊氏に執事として仕え、室町幕府成立に貢献した。しかし、尊氏の弟の足利直義と対立し、高一族は敗れて、ほぼ全滅した。
高師直の兄弟(兄?ともいわれている)の高師泰の孫にあたる師秀が生き延び、高氏の血統を後世まで伝えた。



備中の上野氏

2022-09-11 20:48:47 | 歴史紀行
上野氏は足利氏の庶流が三河の足利領の上野荘の地頭となり上野を名乗り足利一門で重きをなした。

1509年に上野信孝が木村山城城主として備中に足利氏の勢力拡大するために来る。

備中松山城の城主の秋庭元重の勢力が衰え、有漢郷に帰って土着したのに代わって、上野信孝の一門の頼久が、備中松山城主となった。頼久の死後は息子の頼氏が城主となる。
1533年荘為資の攻撃で備中松山城は落城し、頼氏は討ち死にした。
上野氏は1509年(一説では1504年)から1533年まで備中松山城の城主だった。



上野信孝は数年後、京都に帰り、木村山城は一族の上野高直が城主となった。高直の死後は上野隆徳(高徳)が城主となった。
隆徳は1550年代に備前常山城に拠点を移した。1575年小早川軍の攻撃で敗れ、隆徳は切腹し上野氏は滅亡した。(常山合戦)



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備中の高橋氏

2022-09-09 19:26:03 | 歴史紀行
元弘年間(1331年~1334年)には、勢いの衰えた秋庭氏にかわって備後の三好氏の一族である高橋宗康(高橋九郎左衛門宗康)が大松山城に入りました。
このとき、城域が小松山まで拡大されたようで、小松山城には弟・高橋大五郎を居城させたとされます。
これが、現在の備中・松山城がある小松山城の初見です。

九郎左衛門、又四郎(範時(のりとき))の親子は同3年(1333)5月7日、京都の合戦に北条氏に従い、六波羅軍に属し楠氏を攻めたが、これに敗れ、9日近江国(現・滋賀県) 番場の米山の麓、蓮華寺一向堂前で、六波羅探題 北条仲時以下 432人と共に討死・自害しました。

高橋氏は1331年頃から1355年頃まで城主だったようだ。

その後、高橋一族の末裔は備中窪屋郡流山(るざん)の城に移りました。輿光の代に毛利によって滅亡させられ、一族は毛利の配下となった模様。高橋伸賢家は毛利水軍である三田尻御舟倉床」(現在の山口県防府市)において明治維新を迎えることとなります。