【国体文化】令和 2 年 11月号掲載された書評のポール・ド・ラクビビエ氏の原文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ
カトリックにおける世俗と宗教の関係について
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
法華経とキリスト教の比較について
相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』
はじめに
相澤宏明氏の「キリスト教と法華仏教(2)」を拝読して、カトリック信徒としてカトリックについて幾つかの点について簡単に修正しなければならない。
私も皿木さんの本を読書して感銘を受けた。というのも、昭和天皇がヴァチカンとの外交をどれほど重視していたか、また平和工作のためにも積極的にその関係を結ぼうとしていたかがよくわかるからである。戦前日本は列強諸国の内に唯一、ある程度の自然法に従っていた分、カトリック教会とカトリック信仰になじみやすかったと思われる。具体的には中国において日本軍はカトリック信徒を守り、ヴァチカンだけは日本の政策を否定していなかった事実があった。他の列強諸国(ソ連、ドイツ、フランス共和政、米国、英国などなど)は皆、激しく反カトリックの勢力であり、国家として当時のカトリック国は殆どなくなっていた。
聖なること、世俗なることの違い
相澤氏は次のようにおっしゃる。すなわち「生まれつきの宗教者、信仰者などこの世に存在しない。生をこの世に受けたその瞬間から生地、すなはち国籍が付きまとって離れない。国籍こそが宗教籍より先にあり、この両面を無視し、宗教籍をのみ振り回すことは角礫思想だ。」と。
しかしながら、以上の言及はカトリックの教義に照らして必ずしも正しいとはいえない。
というのも、「国籍」対「宗教籍」というような対立関係にある区別は成り立たないというのがカトリックの立場だからである。敷衍すると、「世俗」と「超世俗」との区別も成り立たない。カトリックの信仰では、「国籍」と「宗教籍」ではなく、この世に生まれたことから来る恩に対して報いる義務(第四戒の掟、自然法の一部)を当然に果たさなければならないと同時に、洗礼を受けて真の天主であるイエズス・キリストの命に生まれた恩にも報いなければならないということを宣べる。両者は常に相通じて、矛盾せず、両立するのである。いや、天主の生命とでも呼びうる「聖寵」の内に生きていることによってこそ、自然次元の人生(祖国に対する義務、上司に対する義務、家族の一員としての義務など)は祝福され、完成化されてゆくのである。
法華経とカトリックは冥合不可能だ
このように考えると、相澤氏の「このようにキリスト教徒と法華仏教徒とが、奇しくも軌を一にして冥合している」というくだりは糺す必要がある。なぜだろうか?なるべく簡単に説明してみよう。
繰り返しになるが、最初にキリスト教といってもその教義はさまざまである。そのなかでイエズス・キリストご自身が制定なさったカトリック教会という神秘体の真の宗教たるカトリックに加え、カトリックを否定しているプロテスタントをはじめとする無数の異端派などがある。教義上にも実践上にもこれほど天地の違いがあるのでキリスト教というくくりでカトリックと他のセクトを十把ひとがらげにしないように留意が必要である。
それはさておいて、カトリックと法華仏教との目的は全く相容れないことを言わざるを得ない。
私の理解では、法華仏教の基本的な目的は「立正安国」であり、あるいは「絶対平和」である。ニュアンスは多少違うかもしれないが、法華仏教はこの世において理想国を作ろうとしていると私はみている。この意味で、殆どの異教、またユダヤ教、イスラム教、プロテスタント諸派と同じように、地上における理想国家を作ろうとしている。その思想は古代の大文明国家からあった。
ではカトリックはどうなのか?イエズス・キリストという真の天主と真の人間は全く違う真理を啓示なさった。
我々は罪人であり、原罪を負っている惨めな存在であり、十字架上の生贄なしに、イエズス・キリストの教えと秘蹟に頼らない限り、救霊はもとより何事もなしえない。かりに頼ったとしても、この世の理想国家なり絶対平和なりはいつまでも実現しない。これは子どもが見る夢想に過ぎなくて、歴史に照らしても明らかであるように、イエズス・キリストなくして、絶対にこの世は永続的な正しい法もたてられないし、永続平和にもならないし、理想国家にもならない。
いや、イエズス・キリストの教えは違うのだ。「私の国はこの世のものではない。(。。。)私の国はこの世からのものではない」(ヨハネ、18、36)そして、イエズス・キリストはその真理を行動で証明した。というのも、当時のユダヤ人たちはローマの占領から解放して強い国家を作るメシアを待っていたが、イエズス・キリストはその力があったものの、十字架上に登って、霊魂の救済を果たした。同じように、イエズス・キリストは公生活を始める前、砂漠で40日間、断食と祈りをささげたとき、悪魔の誘惑を受けるが、イエズス・キリストが齎す平和、幸福、救いはこの世にはないことも示されている(マテオ、4、1-11)。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」もある他、イエズス・キリストは使徒たちに向けて、この世では迫害と苦しみのみ約束している。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる」(マテオ、10、22)。また、同じように、有名である山上の垂訓にある教えからも明らかである。「正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼等のものである」(マテオ、5、10)
要は、使徒信教にもあるように、人間の目的地はこの世にあるのではなく、あの世にある。そして、天国という至上の国を得るためにカトリック信徒は全力を尽くす。非宗教化を図るのはグロバーリズムの都合のいいことになってしまう!
ちなみに、その意味でカトリックの「非宗教化」は無理である。というのも、イエズス・キリストは仰せになるように、「私の味方でないひとは私に背き、私とともに集めぬ者は散らしてしまう。」(マテオ、12、30)。「私は道であり、真理であり、生命である。私に依らずにはだれ一人父のみもとにはいけない。私を知れば私の父も知るだろう。」(ヨハネ、14、6-7)。これは、カトリックの一つの教義である「公教会の外に救済なし」のとおりである。
現実と理想の違い
では、ここに至って、カトリックは絶対平和をも立正安国をも目的にしていないどころか、人間の傷つけられた本性のせいで、このような夢はあり得ないとしている。また、イエズス・キリストを通じなければ、救霊はないという教義も明記されている。つまり、カトリックは明確に排他的に他の宗教を否定しており、冥合のようなことはこれまでも今後も絶対にあり得ない。
だからといって、カトリックは世俗世界を無視してきたのだろうか?それはそうではない。相澤氏が記事の前半に指摘する通り、カトリック信徒たちは国家と家族のために常に犠牲を捧げて、立派な憂国と祖国愛を果たし続けたのである。
それはそうだ。というのも、カトリック教義に照らしても、人間は霊魂と体との一体であるごとく、普遍性である天主につながるためには、固有性を通じなければならない。これは家族、村、社会、国、教育などという固有性である。だからこそ、カトリックに回心した多くの国々はその特徴性を失ったことなく、むしろカトリックになってこそ、更に民族の才能は花開いてきた。また歴史に照らしても、繁栄と幸福も実現されてきたのである。ただし、この世における繁栄と幸福のためではなく、イエズス・キリストの勝利のためのみに働いたあかつきに、「たまたま」繁栄したということであるが。
カトリックはこの世を大切にしている
また、カトリックの目的地は天国だからといって、この世を無視するわけにはいかない。なぜだろうか?第一、現実にこの世においてこそ救済の可否にかかっているからであり、自分の救いもそうだが、愛している人々の救いもこの世の人生でかかっているので、イエズス・キリストに倣って、イエズス・キリストの奴隷となって、イエズス・キリストのよき道具になるように努めて、常に信仰生活を果たさなければならない。その一部として、自然法から生じる諸義務を果たすべきであるのは当然である。
というのも、カトリックのいうところの超自然の生命は自然の生命を否定するのではなく、自然の生命を完全化させて、それを基盤に贖罪の神秘を行うのであり、しっかりとした家族、村、社会、国になるように全力を尽くさなければならないということをカトリックは教えるからである。ただし、それはあくまでも天国に行くためであって、この地上において「バベルの塔」を作るためでも、「世界政府」のような統一された世界のためでもない。
この意味において、カトリックにおいては、世俗と霊的な次元は区別されても、離れてはいない。むしろ、常に世俗社会を聖化すべく、秘蹟を普及させ、よき実践を敷くことが肝要なのである。
結びに代えて
結びに代えて、結論を出そう。カトリックの歴史を見ても、繁栄した国、安泰となった国はあった。信仰深くあればあるほど、そのような時代が訪れた一方、信仰から離れれば離れるほど、堕落していった。フランスの歴史はその意味で典型的であり、皇室の歴史を見ても近いかもしれない。キリシタンを禁教にして根絶した時代は皇室が拘束されて傀儡のような存在まで落ちた。悪魔的な勢いが全世界を覆おうとした19世紀末と20世紀の時、日本はカトリックに回心する切っ掛けが与えられて、一時的に繁栄したが、それを見逃して現代におけるような状況に至っている。
結論として、絶対平和や理想国家の建国を「深く諦めて」イエズス・キリストの十字架上の生贄を認めて、十字架という犠牲と苦しみを愛して初めて、本物の平和と繁栄は訪れるだろう。だから、宗教の非宗教化でもなく(これはまさに共産主義が目指すような理想)、また諸宗教の統一でもなく(これはフリーメイソンの夢である)、唯一本物の宗教、カトリックに回心して初めて、日本は日本らしくなり、繁栄していくことを願い、確信するものである。
ポール・ド・ラクビビエ
記事本編に続く・・・
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ
カトリックにおける世俗と宗教の関係について
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
法華経とキリスト教の比較について
相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』
はじめに
相澤宏明氏の「キリスト教と法華仏教(2)」を拝読して、カトリック信徒としてカトリックについて幾つかの点について簡単に修正しなければならない。
私も皿木さんの本を読書して感銘を受けた。というのも、昭和天皇がヴァチカンとの外交をどれほど重視していたか、また平和工作のためにも積極的にその関係を結ぼうとしていたかがよくわかるからである。戦前日本は列強諸国の内に唯一、ある程度の自然法に従っていた分、カトリック教会とカトリック信仰になじみやすかったと思われる。具体的には中国において日本軍はカトリック信徒を守り、ヴァチカンだけは日本の政策を否定していなかった事実があった。他の列強諸国(ソ連、ドイツ、フランス共和政、米国、英国などなど)は皆、激しく反カトリックの勢力であり、国家として当時のカトリック国は殆どなくなっていた。
聖なること、世俗なることの違い
相澤氏は次のようにおっしゃる。すなわち「生まれつきの宗教者、信仰者などこの世に存在しない。生をこの世に受けたその瞬間から生地、すなはち国籍が付きまとって離れない。国籍こそが宗教籍より先にあり、この両面を無視し、宗教籍をのみ振り回すことは角礫思想だ。」と。
しかしながら、以上の言及はカトリックの教義に照らして必ずしも正しいとはいえない。
というのも、「国籍」対「宗教籍」というような対立関係にある区別は成り立たないというのがカトリックの立場だからである。敷衍すると、「世俗」と「超世俗」との区別も成り立たない。カトリックの信仰では、「国籍」と「宗教籍」ではなく、この世に生まれたことから来る恩に対して報いる義務(第四戒の掟、自然法の一部)を当然に果たさなければならないと同時に、洗礼を受けて真の天主であるイエズス・キリストの命に生まれた恩にも報いなければならないということを宣べる。両者は常に相通じて、矛盾せず、両立するのである。いや、天主の生命とでも呼びうる「聖寵」の内に生きていることによってこそ、自然次元の人生(祖国に対する義務、上司に対する義務、家族の一員としての義務など)は祝福され、完成化されてゆくのである。
法華経とカトリックは冥合不可能だ
このように考えると、相澤氏の「このようにキリスト教徒と法華仏教徒とが、奇しくも軌を一にして冥合している」というくだりは糺す必要がある。なぜだろうか?なるべく簡単に説明してみよう。
繰り返しになるが、最初にキリスト教といってもその教義はさまざまである。そのなかでイエズス・キリストご自身が制定なさったカトリック教会という神秘体の真の宗教たるカトリックに加え、カトリックを否定しているプロテスタントをはじめとする無数の異端派などがある。教義上にも実践上にもこれほど天地の違いがあるのでキリスト教というくくりでカトリックと他のセクトを十把ひとがらげにしないように留意が必要である。
それはさておいて、カトリックと法華仏教との目的は全く相容れないことを言わざるを得ない。
私の理解では、法華仏教の基本的な目的は「立正安国」であり、あるいは「絶対平和」である。ニュアンスは多少違うかもしれないが、法華仏教はこの世において理想国を作ろうとしていると私はみている。この意味で、殆どの異教、またユダヤ教、イスラム教、プロテスタント諸派と同じように、地上における理想国家を作ろうとしている。その思想は古代の大文明国家からあった。
ではカトリックはどうなのか?イエズス・キリストという真の天主と真の人間は全く違う真理を啓示なさった。
我々は罪人であり、原罪を負っている惨めな存在であり、十字架上の生贄なしに、イエズス・キリストの教えと秘蹟に頼らない限り、救霊はもとより何事もなしえない。かりに頼ったとしても、この世の理想国家なり絶対平和なりはいつまでも実現しない。これは子どもが見る夢想に過ぎなくて、歴史に照らしても明らかであるように、イエズス・キリストなくして、絶対にこの世は永続的な正しい法もたてられないし、永続平和にもならないし、理想国家にもならない。
いや、イエズス・キリストの教えは違うのだ。「私の国はこの世のものではない。(。。。)私の国はこの世からのものではない」(ヨハネ、18、36)そして、イエズス・キリストはその真理を行動で証明した。というのも、当時のユダヤ人たちはローマの占領から解放して強い国家を作るメシアを待っていたが、イエズス・キリストはその力があったものの、十字架上に登って、霊魂の救済を果たした。同じように、イエズス・キリストは公生活を始める前、砂漠で40日間、断食と祈りをささげたとき、悪魔の誘惑を受けるが、イエズス・キリストが齎す平和、幸福、救いはこの世にはないことも示されている(マテオ、4、1-11)。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」もある他、イエズス・キリストは使徒たちに向けて、この世では迫害と苦しみのみ約束している。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる」(マテオ、10、22)。また、同じように、有名である山上の垂訓にある教えからも明らかである。「正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼等のものである」(マテオ、5、10)
要は、使徒信教にもあるように、人間の目的地はこの世にあるのではなく、あの世にある。そして、天国という至上の国を得るためにカトリック信徒は全力を尽くす。非宗教化を図るのはグロバーリズムの都合のいいことになってしまう!
ちなみに、その意味でカトリックの「非宗教化」は無理である。というのも、イエズス・キリストは仰せになるように、「私の味方でないひとは私に背き、私とともに集めぬ者は散らしてしまう。」(マテオ、12、30)。「私は道であり、真理であり、生命である。私に依らずにはだれ一人父のみもとにはいけない。私を知れば私の父も知るだろう。」(ヨハネ、14、6-7)。これは、カトリックの一つの教義である「公教会の外に救済なし」のとおりである。
現実と理想の違い
では、ここに至って、カトリックは絶対平和をも立正安国をも目的にしていないどころか、人間の傷つけられた本性のせいで、このような夢はあり得ないとしている。また、イエズス・キリストを通じなければ、救霊はないという教義も明記されている。つまり、カトリックは明確に排他的に他の宗教を否定しており、冥合のようなことはこれまでも今後も絶対にあり得ない。
だからといって、カトリックは世俗世界を無視してきたのだろうか?それはそうではない。相澤氏が記事の前半に指摘する通り、カトリック信徒たちは国家と家族のために常に犠牲を捧げて、立派な憂国と祖国愛を果たし続けたのである。
それはそうだ。というのも、カトリック教義に照らしても、人間は霊魂と体との一体であるごとく、普遍性である天主につながるためには、固有性を通じなければならない。これは家族、村、社会、国、教育などという固有性である。だからこそ、カトリックに回心した多くの国々はその特徴性を失ったことなく、むしろカトリックになってこそ、更に民族の才能は花開いてきた。また歴史に照らしても、繁栄と幸福も実現されてきたのである。ただし、この世における繁栄と幸福のためではなく、イエズス・キリストの勝利のためのみに働いたあかつきに、「たまたま」繁栄したということであるが。
カトリックはこの世を大切にしている
また、カトリックの目的地は天国だからといって、この世を無視するわけにはいかない。なぜだろうか?第一、現実にこの世においてこそ救済の可否にかかっているからであり、自分の救いもそうだが、愛している人々の救いもこの世の人生でかかっているので、イエズス・キリストに倣って、イエズス・キリストの奴隷となって、イエズス・キリストのよき道具になるように努めて、常に信仰生活を果たさなければならない。その一部として、自然法から生じる諸義務を果たすべきであるのは当然である。
というのも、カトリックのいうところの超自然の生命は自然の生命を否定するのではなく、自然の生命を完全化させて、それを基盤に贖罪の神秘を行うのであり、しっかりとした家族、村、社会、国になるように全力を尽くさなければならないということをカトリックは教えるからである。ただし、それはあくまでも天国に行くためであって、この地上において「バベルの塔」を作るためでも、「世界政府」のような統一された世界のためでもない。
この意味において、カトリックにおいては、世俗と霊的な次元は区別されても、離れてはいない。むしろ、常に世俗社会を聖化すべく、秘蹟を普及させ、よき実践を敷くことが肝要なのである。
結びに代えて
結びに代えて、結論を出そう。カトリックの歴史を見ても、繁栄した国、安泰となった国はあった。信仰深くあればあるほど、そのような時代が訪れた一方、信仰から離れれば離れるほど、堕落していった。フランスの歴史はその意味で典型的であり、皇室の歴史を見ても近いかもしれない。キリシタンを禁教にして根絶した時代は皇室が拘束されて傀儡のような存在まで落ちた。悪魔的な勢いが全世界を覆おうとした19世紀末と20世紀の時、日本はカトリックに回心する切っ掛けが与えられて、一時的に繁栄したが、それを見逃して現代におけるような状況に至っている。
結論として、絶対平和や理想国家の建国を「深く諦めて」イエズス・キリストの十字架上の生贄を認めて、十字架という犠牲と苦しみを愛して初めて、本物の平和と繁栄は訪れるだろう。だから、宗教の非宗教化でもなく(これはまさに共産主義が目指すような理想)、また諸宗教の統一でもなく(これはフリーメイソンの夢である)、唯一本物の宗教、カトリックに回心して初めて、日本は日本らしくなり、繁栄していくことを願い、確信するものである。
ポール・ド・ラクビビエ
記事本編に続く・・・