ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

カトリックにおける世俗と宗教の関係について:【序文】

2020年12月13日 | カトリック
【国体文化】令和 2 年 11月号掲載された書評のポール・ド・ラクビビエ氏の原文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ


カトリックにおける世俗と宗教の関係について

〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
法華経とキリスト教の比較について
相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』

はじめに

相澤宏明氏の「キリスト教と法華仏教(2)」を拝読して、カトリック信徒としてカトリックについて幾つかの点について簡単に修正しなければならない。

私も皿木さんの本を読書して感銘を受けた。というのも、昭和天皇がヴァチカンとの外交をどれほど重視していたか、また平和工作のためにも積極的にその関係を結ぼうとしていたかがよくわかるからである。戦前日本は列強諸国の内に唯一、ある程度の自然法に従っていた分、カトリック教会とカトリック信仰になじみやすかったと思われる。具体的には中国において日本軍はカトリック信徒を守り、ヴァチカンだけは日本の政策を否定していなかった事実があった。他の列強諸国(ソ連、ドイツ、フランス共和政、米国、英国などなど)は皆、激しく反カトリックの勢力であり、国家として当時のカトリック国は殆どなくなっていた。

聖なること、世俗なることの違い

相澤氏は次のようにおっしゃる。すなわち「生まれつきの宗教者、信仰者などこの世に存在しない。生をこの世に受けたその瞬間から生地、すなはち国籍が付きまとって離れない。国籍こそが宗教籍より先にあり、この両面を無視し、宗教籍をのみ振り回すことは角礫思想だ。」と。
しかしながら、以上の言及はカトリックの教義に照らして必ずしも正しいとはいえない。

というのも、「国籍」対「宗教籍」というような対立関係にある区別は成り立たないというのがカトリックの立場だからである。敷衍すると、「世俗」と「超世俗」との区別も成り立たない。カトリックの信仰では、「国籍」と「宗教籍」ではなく、この世に生まれたことから来る恩に対して報いる義務(第四戒の掟、自然法の一部)を当然に果たさなければならないと同時に、洗礼を受けて真の天主であるイエズス・キリストの命に生まれた恩にも報いなければならないということを宣べる。両者は常に相通じて、矛盾せず、両立するのである。いや、天主の生命とでも呼びうる「聖寵」の内に生きていることによってこそ、自然次元の人生(祖国に対する義務、上司に対する義務、家族の一員としての義務など)は祝福され、完成化されてゆくのである。

法華経とカトリックは冥合不可能だ

このように考えると、相澤氏の「このようにキリスト教徒と法華仏教徒とが、奇しくも軌を一にして冥合している」というくだりは糺す必要がある。なぜだろうか?なるべく簡単に説明してみよう。

繰り返しになるが、最初にキリスト教といってもその教義はさまざまである。そのなかでイエズス・キリストご自身が制定なさったカトリック教会という神秘体の真の宗教たるカトリックに加え、カトリックを否定しているプロテスタントをはじめとする無数の異端派などがある。教義上にも実践上にもこれほど天地の違いがあるのでキリスト教というくくりでカトリックと他のセクトを十把ひとがらげにしないように留意が必要である。
それはさておいて、カトリックと法華仏教との目的は全く相容れないことを言わざるを得ない。

私の理解では、法華仏教の基本的な目的は「立正安国」であり、あるいは「絶対平和」である。ニュアンスは多少違うかもしれないが、法華仏教はこの世において理想国を作ろうとしていると私はみている。この意味で、殆どの異教、またユダヤ教、イスラム教、プロテスタント諸派と同じように、地上における理想国家を作ろうとしている。その思想は古代の大文明国家からあった。

ではカトリックはどうなのか?イエズス・キリストという真の天主と真の人間は全く違う真理を啓示なさった。
我々は罪人であり、原罪を負っている惨めな存在であり、十字架上の生贄なしに、イエズス・キリストの教えと秘蹟に頼らない限り、救霊はもとより何事もなしえない。かりに頼ったとしても、この世の理想国家なり絶対平和なりはいつまでも実現しない。これは子どもが見る夢想に過ぎなくて、歴史に照らしても明らかであるように、イエズス・キリストなくして、絶対にこの世は永続的な正しい法もたてられないし、永続平和にもならないし、理想国家にもならない。

いや、イエズス・キリストの教えは違うのだ。「私の国はこの世のものではない。(。。。)私の国はこの世からのものではない」(ヨハネ、18、36)そして、イエズス・キリストはその真理を行動で証明した。というのも、当時のユダヤ人たちはローマの占領から解放して強い国家を作るメシアを待っていたが、イエズス・キリストはその力があったものの、十字架上に登って、霊魂の救済を果たした。同じように、イエズス・キリストは公生活を始める前、砂漠で40日間、断食と祈りをささげたとき、悪魔の誘惑を受けるが、イエズス・キリストが齎す平和、幸福、救いはこの世にはないことも示されている(マテオ、4、1-11)。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」もある他、イエズス・キリストは使徒たちに向けて、この世では迫害と苦しみのみ約束している。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる」(マテオ、10、22)。また、同じように、有名である山上の垂訓にある教えからも明らかである。「正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼等のものである」(マテオ、5、10)

要は、使徒信教にもあるように、人間の目的地はこの世にあるのではなく、あの世にある。そして、天国という至上の国を得るためにカトリック信徒は全力を尽くす。非宗教化を図るのはグロバーリズムの都合のいいことになってしまう!
ちなみに、その意味でカトリックの「非宗教化」は無理である。というのも、イエズス・キリストは仰せになるように、「私の味方でないひとは私に背き、私とともに集めぬ者は散らしてしまう。」(マテオ、12、30)。「私は道であり、真理であり、生命である。私に依らずにはだれ一人父のみもとにはいけない。私を知れば私の父も知るだろう。」(ヨハネ、14、6-7)。これは、カトリックの一つの教義である「公教会の外に救済なし」のとおりである。

現実と理想の違い

では、ここに至って、カトリックは絶対平和をも立正安国をも目的にしていないどころか、人間の傷つけられた本性のせいで、このような夢はあり得ないとしている。また、イエズス・キリストを通じなければ、救霊はないという教義も明記されている。つまり、カトリックは明確に排他的に他の宗教を否定しており、冥合のようなことはこれまでも今後も絶対にあり得ない。

だからといって、カトリックは世俗世界を無視してきたのだろうか?それはそうではない。相澤氏が記事の前半に指摘する通り、カトリック信徒たちは国家と家族のために常に犠牲を捧げて、立派な憂国と祖国愛を果たし続けたのである。

それはそうだ。というのも、カトリック教義に照らしても、人間は霊魂と体との一体であるごとく、普遍性である天主につながるためには、固有性を通じなければならない。これは家族、村、社会、国、教育などという固有性である。だからこそ、カトリックに回心した多くの国々はその特徴性を失ったことなく、むしろカトリックになってこそ、更に民族の才能は花開いてきた。また歴史に照らしても、繁栄と幸福も実現されてきたのである。ただし、この世における繁栄と幸福のためではなく、イエズス・キリストの勝利のためのみに働いたあかつきに、「たまたま」繁栄したということであるが。

カトリックはこの世を大切にしている

また、カトリックの目的地は天国だからといって、この世を無視するわけにはいかない。なぜだろうか?第一、現実にこの世においてこそ救済の可否にかかっているからであり、自分の救いもそうだが、愛している人々の救いもこの世の人生でかかっているので、イエズス・キリストに倣って、イエズス・キリストの奴隷となって、イエズス・キリストのよき道具になるように努めて、常に信仰生活を果たさなければならない。その一部として、自然法から生じる諸義務を果たすべきであるのは当然である。

というのも、カトリックのいうところの超自然の生命は自然の生命を否定するのではなく、自然の生命を完全化させて、それを基盤に贖罪の神秘を行うのであり、しっかりとした家族、村、社会、国になるように全力を尽くさなければならないということをカトリックは教えるからである。ただし、それはあくまでも天国に行くためであって、この地上において「バベルの塔」を作るためでも、「世界政府」のような統一された世界のためでもない。

この意味において、カトリックにおいては、世俗と霊的な次元は区別されても、離れてはいない。むしろ、常に世俗社会を聖化すべく、秘蹟を普及させ、よき実践を敷くことが肝要なのである。

結びに代えて

結びに代えて、結論を出そう。カトリックの歴史を見ても、繁栄した国、安泰となった国はあった。信仰深くあればあるほど、そのような時代が訪れた一方、信仰から離れれば離れるほど、堕落していった。フランスの歴史はその意味で典型的であり、皇室の歴史を見ても近いかもしれない。キリシタンを禁教にして根絶した時代は皇室が拘束されて傀儡のような存在まで落ちた。悪魔的な勢いが全世界を覆おうとした19世紀末と20世紀の時、日本はカトリックに回心する切っ掛けが与えられて、一時的に繁栄したが、それを見逃して現代におけるような状況に至っている。

結論として、絶対平和や理想国家の建国を「深く諦めて」イエズス・キリストの十字架上の生贄を認めて、十字架という犠牲と苦しみを愛して初めて、本物の平和と繁栄は訪れるだろう。だから、宗教の非宗教化でもなく(これはまさに共産主義が目指すような理想)、また諸宗教の統一でもなく(これはフリーメイソンの夢である)、唯一本物の宗教、カトリックに回心して初めて、日本は日本らしくなり、繁栄していくことを願い、確信するものである。

ポール・ド・ラクビビエ

記事本編に続く・・・

扇子(せんす)のような印象

2019年12月30日 | カトリック
2019年7月に開催された国際シンポジウムで講演のために来日された、ジャンフランソワ・トマス神父様(イエズス会員) P.Jean-François Thomas s.j. のコメントをご紹介します

Impressions en éventail
扇子(せんす)のような印象


19世紀末、日本の芸術はフランスにおいて突然登場しました。浮世絵と根付を多く取集してきたゴンクール(Goncourt)兄弟により、日出ずる国の芸術は、特に当時の印象派に多くの影響を与えました。それにもかかわらず、ほとんどの欧州人にとって、その芸術がそこから由来した日本という国は、ほとんど知られず、謎の多い国にとどまります。

私に関していえば、長年、東南アジアに滞在し、アジアの多くの国々を訪問してはいましたが、日本には足を踏み入れたことがまだありませんでした。昔からずっと日本という大国を知りたく思っていました。日本は、私が属するイエズス会の絶頂期に、聖フランシスコ・ザビエルが福音伝道を始めた国だったからです。私は幼い頃から、この信仰の英雄的叙事詩の内容とその後の迫害の長い時代とに感銘を覚えており、また、それほどの迫害にもかかわらず、司祭の不在と組織の皆無にもかかわらず、公教会が日本列島において消滅せず残ったという特別な普通では考えられない事実の前に私は感嘆しました。こういった事実は、日本人の民族性にどれほど忠誠心と毅然さが刻まれているかを物語っています。

フランス共和国の公立学校における歴史教育は、生徒たちの心の中に、遥かなこの皇国への興味あるいは愛を養ってはくれません。むしろ支配的なイデオロギーが生徒らに日本をヒットラー・ドイツのアジア版として教えています。極端な単純化ですが、大いに浸透しています。しかも、アメリカによるプロパガンダがその上に重なり、なおさら悪い先入観がフランス人に押し付けられました。長崎と広島への原爆の投下は必要で不可避だったばかりか、 道徳的な行為だった、戦時中の日本人の残酷さとひねくれた行動に比べたら、小銭のようなものに過ぎない、と声高々に宣言されたプロパガンダです。

真相は全く違います。そういえば、天主は他の民族に対すると変わらない同じ正義と御憐みをもって日本国民を見守り給います。

残念ながら素早く駆け足で巡らなければならない日程だったのですが、私がこの偉大な国 — その歴史と文化とによって偉大な国 — を初めて体験し発見したのち、フランスに帰国してから今もまだ深い郷愁が私にまとわりつき離れないほどです。日本に行くまでは、日本人をほとんど知らず、ただ旅のついでに、たまたま数人の司祭、修道士、信徒の日本人と出会ったり、またはパリ、あるいはモン・サンミッシェル、あるいはロワール川沿いの城を訪問したりする際、たまたま見かけた行儀良い秩序正しい日本人の観光客ぐらいしか知りませんでした。彼らはフランスに来る前に想像していたフランスに抱く完全なイメージとかけ離れた実際のボロボロになったフランスを発見して、恐らくあっけにとられているだろう、と私は思ったりしたものでした。

それはともかく、フランス人である私は日本に到着した途端、その秩序の良さ、清潔さ、サービスと交通機関における品質の高さ、身につけている自然な礼儀正しさ、大都会を含めての人々の落ち着き、他人への尊敬とその配慮、服装の慎ましさ、人々の遠慮深い態度とその愛想の良さ、等々全てに私は感銘を受けました。というのも、それらの善い性質はかつてならばフランスにおいても当然とされていて普通に実践されていたことでしたが、残念なことには、大体消えてしまっているからです。

私がもっとも感銘を受けたことのうちに、外国の文化への日本人の深い興味関心と外国人の前での日本人の謙遜さがあります。この他者に対して持つ関心によって時には自らの固有の文化を損なうことが起こり得るのですが、それはよいことではありません。(謙遜な姿勢で他の文化に対処する)そのような民族は、自国の文明に対するも慎みつつ誇りを抱くものとなるでしょう。それが正当な祖国愛です。また、押し付けられたか選びによるかは別にしてアメリカ化とグローバリズムの圧力を受けているにもかかわらず、日本は、少子高齢化する今も、自国の伝統を尊重する配慮がいまだに強いという印象を受けました。

近現代史上、日本ではキリスト教への受容が極めて弱いという事実はずっと私が疑問に思うことでした。神聖なるものへの感覚が自然に身についているにもかかわらず、日本人はなぜ啓示された宗教を、その大部分の人々が受け入れないのでしょうか。数十年前からの公教会の聖職者たち、あるいは典礼をはじめとする困惑させられる諸改革が、そういった回心を促さなかったのでしょう。しかしながら、日本の地は肥えています。信仰の種子を受け、多くの実りがもたらされる準備が整っています。

小野田神父様に導かれている聖ピオ十世会の信徒たちと数日を私は過ごした結果、それを見て教訓を貰っただけはなく、希望に満たされました。大阪と東京の信徒団の敬虔さと愛徳さを言葉で語る必要はありません。実際にそれを生きています。日本の未来のためにも、このパン種は極めて有望です。カトリックの聖伝は、日本人が自然に持つ垂直次元への愛着、美への愛への愛着に、超自然的に対応する以外にあり得ません。見てください、基礎は既にあります。キリストの福音の宣教とその受容のためには、たしかに十分ではないものの、不可欠な基礎がここにはあります。

日本社会に関していえば、非常に短く垣間見ただけですが、世界中で今起きつつある画一化が日本ではそれほど進んでいないように見えます。一番驚いたのは、世界で一番人口の多い東京での人々の落ち着きのある雰囲気が印象に残ります。特に、誰もがせわしなく忙しい様子をしているパリ(そのせいで愛想も良くない)から来るとなおさらのことです。フランスではもはや、より調和的に、いつも緊張せずにあちこちを駆け回らないで済む生活を送るために必要な最低限の礼儀、言葉遣いなどは消えてしまいました。当然ながら、完璧な社会などは存在するわけはなく、日本においてもいつも桜の花のようにすべてがバラ色だとは言うつもりはありません。しかし、ほとんどすべての人々によって守られている規範が残っており、社会の外的な関係と共同生活を大いに助けています。

しかしながら、古より受け継がれた日本の文化の豊かさと多様性だけではグローバリズムの攻撃からこの国を守るには足りません。ほとんどの日本人は、習慣的な儀礼を別にして、意外にも本物の宗教心が欠如している状態ですから、若手の世代は快楽主義と物質主義に耽り、ついにこの皇国の偉大な遺産も一気に忘れ去られる大きな危険があります。現代において、それらに抵抗するためには、島国であることや、習慣を維持するだけでは足りません。真理をもって霊的に心を養う必要があります。

日本のどこに行っても、私は大変良いおもてなしを受けましたが、それは日本がカトリックの聖伝に対してなすべきであろう最も本質的な受け入れの「しるし」のようでした。カトリックの聖伝は、日本人たちが自然道徳によって既に学んできたことに、その深い意味を与え、啓示の光によって、既に存在しているこの英知を浄化し、補足し、修正し、完成させることができるでしょう。聖フランシスコ・ザビエルをはじめ、彼に続く多くの宣教者たちによって始められたことが、休耕地のように長く生かされないままではけっして留まりえないでしょう。

しばしば悪い部分において非常に西欧化し、善いところは非常に守られている日本が、今直面している歴史の転換期において、その生き残りにかけて、その成長と向上のために、この日出ずる皇国が、人々から来るのではない真の光、天主だけから来給う光に眼差しを上げることは、いまだかつてなかったほど必要で死活にかかわることでありましょう。


P.Jean-François Thomas s.j.
ジャンフランソワ・トマス神父(イエズス会員)
Saint Barthélémy
聖バルトロメオの祝日に
24 août 2019
2019年8月24日





国際シンポジウム「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」

2019年07月11日 | カトリック
国際シンポジウム「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」

REMNANT TV in JAPAN: Michael J. Matt to Speak at Trad Conference in Tokyo

13-14 juillet : Revisitons la révolution – Symposium international


ファチマの聖母の会が王権学会と共同主催で
客観的な歴史の観点から、フランス革命を見つめ直す
国際シンポジウムが開かれます


■日時:2019年7月13日(午前9時半から午後6時半)、7月14日(午後2時から午後6時半)

■場所:麗澤大学 東京研究センター 新宿アイランドタワー4階(西新宿)
 ●東京メトロ・丸の内線「西新宿駅」に直結
 ●都営地下鉄大江戸線・都庁前駅からは徒歩5分。
 ●「新宿駅」西口から徒歩10分(新宿警察署そば)。

■テーマ:「1789-2019、230周年を機に、フランス革命を見直そう」




■発表者

 ●ジャン・フランソワ・トマス神父(イエズス会)【"Le goût des myrtilles" Ed. Via Romana, 2018などの著者】
 ●マイケル・マット氏(レンムナント誌編集長)
 ●川上洋平准教授(専修大学)【『ジョゼフ・ド・メーストルの思想世界―革命・戦争・主権に対するメタポリティークの実践の軌跡』創文社(2013)などの著者】
 ●ジェイソン・モーガン准教授 (麗澤大学)【『リベラルに支配されたアメリカの末路 - 日本人愛国者への警告』ワニブックス(2018)などの著者】
 ●ポール・ド・ラクビビエ氏(國學院大學)
 ●ガブリエル・ビルコック神父(聖ピオ十世会)
 ●トマス小野田神父(聖ピオ十世会)
 ●平坂純一(作家)

 ●フィリップ・ピショ=ブラヴァール教授(ブレスト大学)【"La révolution française", Ed. Via Romana, 2014などの著者】
 ●アン・ベルネ(歴史家)【"Le cardinal Thuan, un évêque face sau communisme", Tallandier, 2018, "Histoire générale de la chouannerie", Perrin, 2016などの著者】

■主催
 ●王権歴史研究会
 ●ファチマの聖母の会





This weekend, Michael J. Matt will team up with the Traditional Catholic remnant in Japan for a conference on the French Revolution.

Michael’s talk answers the questions: What can Catholics today learn from the French Vendeans who resisted the demonic Revolution? And what can the remnant of Catholic believers learn from the “Hidden Christians” of Japan who kept the old Faith for 250 years—without the Mass and without priests?

Michael Matt (The Remnant) : Catholics of the Vendee: First Responders Against a Nascent New World Order

Philippe Pichot (Univ. Brest) : Les permiers 14 juillet

Anne Bernet (Historien) : Chouanneries, une guerre de la fidélité.

Marion Sigaut (Historien) : Au nom du peuple

Père Jean-François Thomas (s.j) : Vandalisme et émergence de l’idée de l’idée de patrimoine

Yohei Kawakami (Univ. Senshu) : Joseph de Maistre et contre-révolution.

Jason Morgan (Univ. Reitaku) : L’indépendance des états-unis : révolution avant la révolution ?

Paul de Lacvivier (Univ. Kokugakuin) : Tribunaux révolutionnaires et jugements du roi et de la reine.

Junichi Hirasaka (Ecrivain) : Réception de la révolution française au Japon depuis l’ère Meiji

Abbé Gabriel Billecoq (sspx) : Relations de l’État et de l’Église

Abbé Patrick Summers (sspx) : Grandfather of French Revolution, Jean-Jacques Rousseau

Abbé Thomas Onoda (sspx) : ouverture des deux journées





国際シンポジウム「1789-2019、フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう」

2019年06月19日 | カトリック

ファチマの聖母の会が、王権学会と共同主催で
客観的な歴史の観点から、フランス革命を見つめ直す 「国際シンポジウム」が開かれます



■日時:2019年7月13日(午前9時半から午後6時半)、7月14日(午後2時から午後6時半)

■場所:麗澤大学 東京研究センター 新宿アイランドタワー4階(西新宿)
 ●東京メトロ・丸の内線「西新宿駅」に直結
 ●都営地下鉄大江戸線・都庁前駅からは徒歩5分。
 ●「新宿駅」西口から徒歩10分(新宿警察署そば)。

■テーマ:「1789-2019、フランス革命から230年、伝えられなかった真実を見直そう」

■発表者

 ●ジャン・フランソワ・トマス神父(イエズス会)【"Le goût des myrtilles" Ed. Via Romana, 2018などの著者】

 ●川上洋平准教授(専修大学)
    【『ジョゼフ・ド・メーストルの思想世界―革命・戦争・主権に対するメタポリティークの実践の軌跡』創文社(2013)などの著者】

 ●ジェイソン・モーガン准教授 (麗澤大学)【『リベラルに支配されたアメリカの末路 - 日本人愛国者への警告』ワニブックス(2018)などの著者】

 ●ポール・ド・ラクビビエ氏(國學院大學)

 ●マイケル・マット氏(レンムナント誌編集長)

 ●フィリップ・ピショ=ブラヴァール教授(ブレスト大学)【"La révolution française", Ed. Via Romana, 2014などの著者】

 ●アン・ベルネ(歴史家)
    【"Le cardinal Thuan, un évêque face sau communisme", Tallandier, 2018,
     "Histoire générale de la chouannerie", Perrin, 2016などの著者】

 ●ガブリエル・ビルコック神父(聖ピオ十世会)

 ●トマス小野田神父(聖ピオ十世会)

 ●平坂純一(作家)

■主催
 ●王権学会
 ●ファチマの聖母の会




LGBT vs プロライフ

2019年06月10日 | カトリック
March for life から「LGBT vs プロライフ」の記事転載

● カトリック東京教区の教区長が、教区の信者たちから「提言」を求めるという異例のリクエストがあった。ただちに「提言」に取り組もうとしたのは、"LGBT"のグループと"プロライフ"のグループ。LGBTとプロライフ。その2つは、カトリックの"いま"を写す鏡だ。

● LGBT vsプロライフ。信者であればどちらかを選ばなければならない。中立はない。両方を選ぶことは出来ない。無関心であることはもう許されない。LGBT vsプロライフとは《新しいカトリック》か《古くからのカトリック》かの選択だ。

● LGBTのグループは、たんに性的マイノリティの立場を教会でも認めてほしいと訴えているのではない。カトリックを新たに作り替えようとする壮大な野心によって彼らは駆動されている。《新しいカトリック》は、LGBTとともにある。そして《新しいカトリック》は、反カトリックである。

● 「女性同性愛」、「男性同性愛」、「両性愛」、「性同一性障害」、その4つの性的志向を表わす英語の頭文字をとった略称によってLGBTと言われるが、それは元来カトリックが絶対に認めることがない、不変の「ドグマ」に反する性的志向の総称だ。

●《新しいカトリック》はカトリックの名のもとに反カトリック(=LGBT)の活動をしているのであり、東京教区では反カトリック(=LGBT)のためのミサが定期的におこなわれているのだ。《新しいカトリック》は反カトリックを寛容に受け入れる。反カトリックを受け入れるからこそ《新しいカトリック》なのだ。《新しいカトリック》正しいも邪悪もない。多様性の坩堝こそが《新しいカトリック》の主張となる。

● LGBT運動がシンボルとする"多様性"を示すというレインボーカラーにカトリック教会を染めあげていくこと。それがLGBTCJたちの究極の目的だ。レインボーの御旗のもとで、カトリックから悪も地獄も罪も消え去り、同性愛を認め、堕胎さえ悪とされることがない"平和"な日が訪れることを夢見ている。

● 《古くからのカトリック》は、反カトリックを認めない。反カトリックに対抗する昔ながらの異端論駁の姿勢をとらざるをえない。プロライフ(Pro-Life)とは、カトリック的には堕胎という究極の悪を斥ける運動である。愛をもってNOと言う。No Pro-Life, No Catholic 〜 プロライフでなければ、カトリックではない。《古くからのカトリック》の合言葉だ。

● LGBTは性的マイノリティのための運動とされているが、いまや世の中的にはメインストリームとなってしまった。LGBTは世界経済を動かすメジャーなアジェンダとなっているのである。莫大な宣伝資金が投入された大キャンペーンが全世界規模で拡大中である。LGBT運動に乗れなければ、LGBTに「いいね!」しなければトレンドから取り残される。

● 世の中の勢いがそのまま教会に押し寄せる。そこでLGBTとプロライフの攻守をとおして、《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》がせめぎ合う。LGBTの祭典であるPRIDEとプロライフの祭典とも言いうるMarch for Lifeを見比べてみるといい。中高年層が目につくのは前者で、後者は10代、20代の若者の多さに圧倒される。新しいカトリックのほうが必ずしも若者に支持されるわけではない。若者はなんでも新しいもの好きという見方自体が時代遅れだ。プロライフに出会うことで若者が教会に戻ってくる傾向は世界的には顕著である。

●《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。自分にとってどちらが都合がよいか?という話ではない。問題は真理である。真理はどちらにあるか。真の平和はどちらにあるか。神の愛はどちらにあるか。それが問題だ。


LGBT vs プロライフ by Masaaki Ikeda

東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い

カトリック東京教区の教区長である菊地功大司教が、教区の信者たちから「提言」を求めておられる。「東京教区宣教司牧方針策定への協力のお願い」である。元旦の東京教区ニュースの一面で大司教様が直々に呼びかけられた。会社でいえば、今後の経営方針の参考になる提案を社長が全社員に向けて願い出るようなものである。グループで話し合って文書にして聖霊降臨(6月9日)を目処に提出してほしいと、締め切りまで明記されていたところから、大司教様のひとかたならぬ強いご要望であることがうかがえた。

この教区長の異例のリクエストにこたえ、ただちに「提言」に取り組もうとしたグループが2つある。

ひとつは、”LGBT”のグループである。LGBTCJと称するグループ(※CJとはカトリックジャパンのことか)の主宰者が自身のウェブサイト上で菊地大司教への提言をおこなおうとグループのメンバーに協力の呼びかけをしていたことが確認されている。すでにそのウェブサイト上では提言の具体内容まで公にされているのかもしれないが、それは与り知るところではない。ただ、教区の中の“一つのグループ”として、このたびの教区長の呼びかけをチャンスと好意的に受けとめ、意欲的に提言づくりに向かおうとしていたことは確かである。

そして、このチャンスに大司教様に提言を出そうと意気込んだもうひとつのグループが、”プロライフ”のグループである。毎月第二木曜日に松戸教会でおこなわれている「プロライフのためのミサと祈り」に集まる有志たちである。こちらのグループによる提言は早々に作成され、聖霊降臨のずっと前、神のお告げの3月25日にすでに菊地大司教に文書が提出されている。

ところで、LGBTも、プロライフも、いまだ日本の教会ではあまり馴染みのないことばだろう。上の2つの当該グループとは関わりのない、だいたいの日本の信者さんにとっては馬耳東風ではないか。ミサ後のお茶会などでLGBTあるいはプロライフのことを話題にしようとしても「はあ?」と返されることがほとんどである。しかしカトリック教会が世界宗教であるなら、LGBTにもプロライフにもあまり馴染みがないというのは実は異常なことである。


LGBTとプロライフがせめぎ合うカトリックの"いま"

良くも悪くも世界から孤立する日本の教会は、カトリックの激動の”いま”を生きていない。LGBTとプロライフ。その2つは、カトリックの”いま”を写す鏡である。それがレンズであるならば、極端に焦点の異なる2つの鏡である。LGBTに傾くカトリックか、プロライフに根ざすカトリックか。乱反射するその両極のせめぎ合いのうちに、カトリックの”いま”がある。

まったく相異なる立場でありながら、上の2つのグループが同じように意気揚々と取り組んだ大司教様への提言は、いみじくも、もっと日本の教会もカトリックの”いま”を生きなさい!と寝た子を起こす喇叭であったかもしれない。この先、どちらの喇叭の音が馬耳東風の日本の信者さんの耳に届くことになるのだろう。己の信仰の琴線に触れることになるのはどちらの音色なのか。そして目を覚まされたとき、己の目の前にある真理のレンズは、果たしてどちらに焦点があたっているだろうか。

LGBT vsプロライフ。大衆誌風の煽り見出しで申し訳ないが、決して大袈裟ではない。それが、異端論駁を繰り返してきた二千年の歴史の上にあるカトリックの”いま”なのである。信者であればどちらかに軍配を上げなければならない。どちらかに軸足を置かなければならない。あるいはどちらかを踏み絵にしなくてはならない。どちらにたいしても馬耳東風であることはもう許されない。世界のカトリック教会から蚊帳の外だった日本においても、その両極のせめぎ合いが始まるのだ。このたびの大司教様への提言を契機に、たたかいの火蓋が切って落とされた!と言っても過言ではないだろうと思う。

《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。LGBTおよびプロライフという運動のかたちで表出される両極のせめぎ合いを、そのように言い換えることができるだろう。おそらくLGBTのグループは、たんに性的マイノリティの立場を教会でも認めてほしいと訴えているのではない。カトリックを新たに作り替えようとする壮大な野心によって彼らは駆動されているのではないだろうか。《新しいカトリック》は、LGBTとともにある。そして《新しいカトリック》は、あろうことか、反カトリックなのである。


反カトリックを受け入れる新しいカトリック

「女性同性愛」、「男性同性愛」、「両性愛」、「性同一性障害」、その4つの性的志向を表わす英語の頭文字をとった略称によってLGBTと言われるのだが(昨今さらに「性愛無関心」を意味するQが加わってLGBTQとするのが適切らしい)、それは元来カトリックが絶対に認めることがない、不変の「ドグマ」に反する性的志向の総称にほかならない。確かに日本人には馴染みにくいそんな英字を使わなくとも、LGBTの代わりにそうした性的志向を端的に「反カトリック」と言ってしまえばいい。カトリックの名のもとに反カトリック(=LGBT)の活動をしているのであり、東京教区では反カトリック(=LGBT)のためのミサが定期的におこなわれているのである。

それは何も語義矛盾ではない。むしろそこにこそ、カトリック教会におけるこの《新しいカトリック》の運動の可能性があると言うべきだ。運動に関わる当事者たちにもその自負があるはずだ。《新しいカトリック》は反カトリックを寛容に受け入れる。反カトリックを受け入れるからこそ《新しいカトリック》なのだ。《新しいカトリック》には正も反もない。これからは、何もかも受け入れる”多様性”の坩堝がカトリックなのだ、というのが《新しいカトリック》の主張となるであろう。

LGBT運動がシンボルとする”多様性”を示すというレインボーカラーにカトリック教会を染めあげていくこと。それがLGBTCJさんたちの究極の目的ではないか。そこには争いもなければ「悪」もない、と彼らは考えるだろう。レインボーの御旗のもとで、カトリックから悪も地獄も罪も消え去ることを夢見ているだろう。同性愛を認める《新しいカトリック》の色が見えてくるならば、堕胎さえ悪とされることがない”平和”な日が訪れるのもそう遠い先のことではないかもしれない。


反カトリックを斥ける《古くからのカトリック》

LGBTのグループにとっては希望であることが、《古くからのカトリック》を継承するプロライフのグループにとっては危機となる。《古くからのカトリック》は、もちろん反カトリックを認めない。「現代化〜アジョルナメント」がおこなわれた今日でも、反カトリックに対抗する昔ながらの異端論駁の姿勢をとらざるをえない。それゆえプロライフは”好戦的”と揶揄されもする。プロライフの教書というべき聖ヨハネ・パウロ2世の回勅「いのちの福音」は、明らかに宣戦布告の書である。プロライフ(Pro-Life)とは、世の中的には産まれる前のいのちを守る活動であるが、カトリック的には堕胎という究極の悪を斥ける運動である。

《古くからのカトリック》の信仰を守るために堕胎を意図した妊娠中絶にはNOと言わねばならない。松戸教会の有志を含む世界のプロライフはそう考える。もちろん敵愾心からではなく、愛をもってNOと言うのである。

世界から孤立する日本では、ようやく松戸教会で動きが出てきた程度でプロライフの認知などほとんど無いに等しいが、世界に11億人いるカトリック人口の半分以上は、「いのちの福音」を読んだことはなくても、まさしくプロライフが現代における福音であると信じているだろう。

No Pro-Life, No Catholic〜プロライフでなければ、カトリックではない。《古くからのカトリック》の側にいる人々の言い分であり、合言葉である。


世界経済を動かすLGBT vs 若者が支持するプロライフ

LGBTは性的マイノリティのための運動とされているが、いまや世の中的にはメインストリームとなってしまった。LGBTのイベントのスポンサーに錚々たるグローバル企業が名を連ねているように、LGBTは世界経済を動かすメジャーなアジェンダとなっているのである。莫大な宣伝資金が投入された大キャンペーンが全世界規模で拡大中である。LGBT運動に乗れなければ、LGBTに「いいね!」しなければトレンドから取り残される。まだそれに関与していない企業担当者もそんな不安に駆られるだろう。各国で同性婚が法制化される流れは強まる一方である。LGBTを推奨するプログラムが公教育の現場にも導入されるようになっている。

そして、世の中の勢いがそのまま教会に押し寄せる。そこでLGBTとプロライフの攻守をとおして、《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》がせめぎ合う。《新しいカトリック》の色に浸食されて、《古くからのカトリック》は後退を余儀なくされるのだろうか。現在はまだ全カトリックの半数以上と思われるプロライフ人口は縮小していくことになるのだろうか。

むしろプロライフが持ちこたえることで、《古くからのカトリック》が盛り返す機運も見出せるのではないか。LGBTの祭典であるPRIDEとプロライフの祭典とも言いうるMarch for Lifeを見比べてみるといい。中高年層が目につくのは前者で、後者は10代、20代の若者の多さに圧倒される。新しいカトリックのほうが必ずしも若者に支持されるわけではないようだ。若者はなんでも新しいもの好きという見方自体が時代遅れなのかもしれない。プロライフに出会うことで若者が教会に戻ってくる傾向は世界的には顕著である。


《新しいカトリック》の土壌が育まれている日本

しかし世界のカトリックの動向が日本にあてはまるかどうかはわからない。世界から孤立している日本ではあるが、この半世紀、”新しくなければカトリックではない”とする風潮が止むことなく、カトリックの信仰の遺産は神経症的に排除され続けてきた感は否めない。日本は着々と《新しいカトリック》を受け入れる土壌を育んできたのかもしれない。その意味で、LGBTのグループが攻め入るチャンスは大いにあるだろう。一方、形勢不利にみえる状況で、プロライフのグループがどこまで巻き返す底力を発揮できるだろうか。

LGBTのグループ、プロライフのグループ、それぞれが菊地大司教に提出した提言のその後の展開を見守りたい。少なくとも来年の今ごろは、LGBTにたいしてもプロライフにたいしても、信者はもはや誰も馬耳東風ではいられない状況がうまれていることを期待したい。

《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。自分にとってどちらが都合がよいか?という話ではない。問題は真理である。真理はどちらにあるか。真の平和はどちらにあるか。神の愛はどちらにあるか。その判断材料を個々の信者に示すことが「宣教司牧指針」なのかもしれない。

また、それ以上に、世の中のひとたちは、どちらの《カトリック》に期待するだろうか。そこは極めて重要なポイントである。日本はカトリック人口が0.35%という、紛れも無い世界最大の「未布教国」である。99%のキリスト者ではない日本人に、カトリックはどうアプローチできるのだろうか。


宣教司牧指針策定にマーケティング発想を

現代の未布教国にたいする「宣教司牧指針策定」にはマーケティングの発想が不可欠だろう。《新しいカトリック》と《古くからのカトリック》。それはマーケティング的にも使えそうな切り口(コンセプト)ではないか。キリストを知らない多くの日本人に福音として響くのはどちらなのか。リサーチしてみれば、きっと有意義で興味深い答えが出てくるだろう。

カトリック教会が公式に日本社会に向かうとき、いつも反対の声ばかりがあがっていたように思える。死刑制度反対、憲法改正反対、原発反対、新天皇即位式への公費拠出反対などなど。しかしマーケティングという観点に立つならば、カトリック的な価値を体現しているとみなせる世の中の個々の事象にたいし、カトリックとして称賛の声をあげることが必要ではないかと思う。それが単純に世の中にたいするカトリックのアピールになるだろうし、さらには、未布教国の社会の中に秘められたキリスト教の真理を捜し当てる「inculturation〜インカルチュレーション」の実践とはそういうことなのかもしれない。

たとえば《新しいカトリック》の立場から、性同一性障害の悩みを克服し女性同士でありながら真面目な”夫婦”として生活するカップルを祝福し称賛の声をあげる。あるいは《古くからのカトリック》の立場から、妊娠中に子どもに重い障害があることがわかっていながら産み育てている家庭を祝福し称賛の声をあげる。そのどちらを採ることがマーケティング的な「差別化」となるだろう。どちらも同じように祝福すればいいというのは無理な相談だ。それでは世の中的に「カトリックってなんなの?」ということになってしまう。

周囲の偏見に屈せず同性愛を貫いたカップルを称賛するのと、困難な妊娠にもかかわらず産む決意をした女性を称賛するのと、どちらの《カトリック》がより多く「いいね!」を獲得できるだろう。ひとつ、そういう視点から「宣教司牧指針策定」がおこなわれることを望みたい。

新しいカトリックか、古くからのカトリックか。
宣教司牧の「指針」は、どちらに向かうだろう。

生命・ダウン症・体外受精―カトリック信徒は、なぜ命を守るのか?

2019年04月17日 | カトリック
カトリック信徒は、なぜ命を守るのか


中絶といったお腹の中の赤ちゃんの殺害、あるいは安楽死といった殺人など社会を転覆させるような野蛮な「権利」は人間にはない。これに反対するのは人としての常識だ。勿論、残念ながら、綺麗な言葉に騙されたり、毒めいた空気に負けたり、直接に関係ないからと思い無関心であったりするせいで、曖昧に黙認してしまうのが現代社会の現状だろう。

そのような中で、幸いに、無辜の命を守る為に立ち上がる人々がいる。切っ掛けは多くあるだろう。中絶によって自分の子を殺してしまった母の後悔と苦しみから、他人の女性に同じような過ちをしてもらいたくない、と立ち上がる人。無罪の命、声のない一番弱いものの命を奪うことによって、金儲けをしている資本主義的な要素に対して憤怒する人。日和主義に陥れ、中絶による「死の文化」が恒常化し、社会全体の形骸化を嘆き、亡国を憂う人。その他、無数に、中絶を無くしたいと思う理由がある。このような人々の中で、受精の瞬間から赤ちゃんの人間としての命を守るべきだという理由を掲げる勢力として、カトリック信徒の数が特に多い。なぜだろうか。


私自身がカトリック信徒であるので、なぜ中絶を廃するための運動に加わっているのか、私なりに説明したいと思う。



霊魂の救いのために中絶を廃せよ
結論から言うと、赤ちゃんの霊魂の救いのために、カトリック信徒して、どうしても生まれる赤ちゃんを守ろうとするしかない。

勿論、カトリック信徒ではなくても、生まれる命を大切にするということはごく自然なことで、ごく常識的なことになるはずだ。そのぐらいなら、信仰を持つ必要はない。無罪の子ども、一番弱い存在、大人になりうる、いや大人になるために守り育つべき、授かった赤ちゃんを守るのは、ごく自然のことで、人道的なことだ。また、家と国の未来を保証する多くの子孫を大切にする心なども、ごく自然のことで、文明国たりうる国なら、異教徒であろうとも、カトリック教徒であろうとも、何処でも何時でも命を守ったということは歴史の裏づける事実だ。逆に言うと、こういった赤ちゃんの命(または英知を持つ年配の方の命)を軽蔑して、無視して、貶める文化は、野蛮な国、非道な国、最低な人間の非文明的な国に他ならない。そして、必ず亡国するだろう(スパルタやソドムなどの前例がある)。これらの理由は、常識的なことで、自然なことで、だれも理解できることで、感じうる自然な感情と人間の理性だけで把握できる事実であろう。


それはいいとして、それを超えたところに、なぜカトリック信徒が、それほど中絶に反対するのだろうか。なぜ、生まれようとする子供をそれほどに大切にするだろか。


単純に、生命を大切するためだけではない。より根本的な理由があるカトリックの信仰によると、イエズス・キリストの内的な永遠の命こそ、この世での旅の唯一の目的となっている。つまり、長寿するためとか、この世の豊富を享受するためとか、この世での「幸せ」のためとか生きているのは、人生の究極の目的ではない。全く違う。逆に言うと、洗礼を受けた分別のない幼児が死んでしまったら、人間的に悲しむかもしれないが、カトリックの親としては喜ぶべきことだ。なぜかというと、洗礼を受けた幼児が、原罪から清められた上に、新しい罪(自罪)を犯していないので、確立に救われている、天国に入った、聖人となったとことになる。因みに、幼児洗礼を受けた子どもの葬式の典礼は、喜び溢れる典礼だ。大人の葬式典礼とは真逆になっている。なぜかというと、洗礼を受けた大人が死んでしまったら、罪なく天国に行ける何の保証もないし、我々、この世に生きている人間がどこに行けるかを知るよしもない。皆、罪人で、そして天国への門は狭く、容易に天国には入れない。だから、地獄あるいは煉獄に行ってしまった可能性が高く、天主の御憐れみに寄り縋りながら罪の償いを捧げる悲しい典礼となっている。

もう一点に注目していただきたい。洗礼をうけなければ、救われることはない。天国には行けない。洗礼を受けていないまま、死んでしまうのは地獄行きの切符となっている。

従って、お腹にいる赤ちゃんを殺すとは、一番酷いことだ。なぜかというと、その赤ちゃんの霊魂の救いを奪って、地獄に送ってしまうということだからだ洗礼を受けていない原罪を負っているままの堕落した霊魂だから、必ず地獄に落ちてしまう。だから、中絶は絶対に許せない。母と関係ない。妊娠によって、母に死命的な危険があったとしても、中絶はありえない。問題は霊魂の救いに帰する。しいて言えば、両方が死んでしまうことになったとしても、両方が天国に行けるならば良い。まあ、そこまで行かなくても、実際のところ、どの場合があっても、「赤ちゃんを殺さなければ、母が必ず死ぬ」と断言できることはありえない。もしある「医者」と名乗っている人がこういった確率のような断言を言ったら、詐欺だ。嘘に過ぎない。医者の使命は命を救うことだ。実際のところ、医者から「必ず死ぬ」と言われた場合でも、結局、皆が救われた場合が多い。さらに言えば、そのような場合、天主のみ旨のままに、二人の命を共に守る為に出来るだけのことをやった後、祈りと犠牲において、天主により縋るしかいない

また、強い人が弱い人を守って自分の命を捨てるべきだ。イエズス・キリストが人類のために自分の命を捨てた。夫が妻のために自分の命を捨てる。母が自分の子どものために自分の命を捨てる。これこそ、人道であるはずだ。実践し辛いことであろうとも、「そうすべき」だということに関して変わらない。

もう一つ言い付け加えよう。「信仰の論理に立って、洗礼を授けた子どもをすぐに殺すなら子供は天国に行けるから、なぜそうしないか」という疑問が出てくるかもしれない。

それは信仰上にあり得ない帰結だ。なぜかというと、理由は幾つかある。先ず、勿論、第四戒の掟に反する。「汝、殺すなかれ」。どこの文明にもある掟だ。

それから、死ぬ時を決めるのは、人間ではなくて、天主だからである。つまり、天主が、我々それぞれに使命を与えて、それに合わせて死の時をも決め給うということだ。例えば、悪人が長生きするのは、天主の恵みの証拠だと言えるということになっている。なぜかというと、回心しないままに、悪人として死んでしまったら地獄に落ちるが、天主はすべての人々を愛し給うから、その悪人を長生きさせて、救おうとする。(因みに、救われるためには、我々が救われようとしない限り救われないという前提もある)

もう一つの理由は、どうしても罪を犯してはいけないからだ。「罪」とは「天主に背く」、「天主を悲しませる」「天主から離れる」という意味だが、赤ちゃんを殺してしまったら、天主の掟を破って(汝、殺すなかれ)、正義に反して(原罪が赦されて清められた、洗礼を受けた霊魂こそ、本当の意味での無罪の霊魂なので、ある意味で洗礼を受けていない赤ちゃんを殺すよりも重い罪となる)、大きな罪を犯すことになり、自分の霊魂は大罪を犯すことになる。隣人愛というのは、まず自愛から始まる。自分の霊魂の救いを蔑ろにして他人の救いのために働くことはありえない。

第三の理由は、より超自然的なことだが、洗礼を受けた赤ちゃんを殺して、天国に行けたとしても、それは酷い話だ。なぜかというと、その幼い霊魂の栄光を奪うことになる。長生きして、聖人になる使命のある霊魂なのかもしれない。また、多くの働きによって、犠牲と祈祷によって、天主のみ旨を果たす霊魂になるはずだから、それを奪って、天国におけるより多いな栄光の立場を奪ってしまうことになるからだ。あり得ない行為だ。

もう一つある。「天主のみ旨のままに」という至上の謙遜と従順との心が十字架上のイエズス・キリストによってこそ示された。「完全にキリストに倣う、それこそが完全な信仰を持つことだ」と信仰を要約できるかもしれない。従って我々はイエズス・キリストに倣って一生を送るべきだ。そこで、天主御父によって与えられたすべての恵みと試練とを、イエズス・キリストが単純に抵抗なし受け入れ給ったと同じように、我々も主の御旨を受け入れるのだ

要するに、誰でも共感するはずの自然的な理由の上に、カトリック信徒は、その彼方に、その上に、超自然の信仰に基づく理由がある。自然な理由を否定しないで、自然的な理由を織り込みながら、それを超越する理由だ。従って、霊魂を救うために、天主のみ旨によらない人為的な営みによる中絶に反対するのだ。



ダウン症の子が生まれるという恵
それでは、同じく別の例を挙げてみよう。
信仰から見たら、ダウン症の子をどう見るかをご紹介したい。
お腹の中にいる子の殺人と同じように、ダウン症を大切にする自然的な理由は多い。「それでも私の子」「より弱い子なので、守るべき存在だ」などだ。

しかし、例えば、「普通に成長して生活できるから」というような理由・根拠は、本来ならば、命を守ろうとする理由とするべきではない。これは弱い根拠なので、捨てるべきだ。なぜかというと、その根拠によると、生まれてから数週間で死ぬような不自由な子ならば、殺しても良くなるからだ。ところが、生まれてから数日間でも死んでしまうような難病の子であっても、その子を最期まで守るべきだ。霊魂の救済のために、天主のみ旨のままに従うために。天主のみ臨終のときを決めることができるからだ。

それは兎も角、信仰という立場に立つのなら、ダウン症が授かるというのは、至上の幸せになる。非常な恵みだ。なぜかというと、洗礼を受けたダウン症の子が、高い確率で天国に行けるからに他ならない。ダウン症の子の理性が弱くて、感情が強くて、天主の玉座の一番近くに座れるような手柄を果たせなかったとしても、大体の人々が天国の狭い門から入れないのと違って、ダウン症の子は罪を犯しづらいから、天国に行きやすく、凄い恵みとなっている

また、ダウン症の子の周辺の人々も恵まれているとも言える。ダウン症の子のお陰で、兄弟たちと親戚をはじめ、犠牲の心、愛徳の心、祈祷の心が育てられやすくなり、より天主を愛し、天主に近づくことが可能になるからだ。これは嬉しい事だ。

従って、ダウン症の子をお腹の中に皆殺しにするのは、酷い話で、その救霊を奪う上に、周辺の救霊を困難にしてしまう。(さらにいうと、以上の良い影響を奪うだけではなくて、犯してはならない罪を犯してしまうことになるから、天主からより離れてしまうことになる。)

因みに、カトリックによる貧困者と病人に対する特別な配慮の底流は、以上のことからも見いだせる。貧困者や病人こそ、イエズス・キリストのような存在でありながら(福音によると貧乏人と病人にしたことはキリストにしたことだ、という言葉がある)、一般に、富める人よりも貧乏な人や病で苦しむ人の方が、祈りや謙遜によって天主に近い場合が多い。だから天主によって恵まれ、一般の人より回心しやすく、救霊の道に近いはずなのだ。



体外受精について
最後に体外受精という例を挙げよう。以上の信仰の論理に従って、体外受精に対するカトリック教徒の立場は明らかだろう。徹底的に反対なのだ。
その理由は容易に分かる。体外受精の結果、何人かの赤ちゃんが受精するが、一人か二人しか生まれない。その他の受精した人間らは冷凍されて人間実験の対象となるか、単に死んでしまう。中絶と同じような致命的なこととなる。

因みに、私自身が体外受精の子だ。大人になってその技術の詳細を知ったとき、いよいよ分かってしまった。「私は長男だと思っていたが、そうではない。顔も名もない兄弟が殺された。自分だけが生き残った」。なかなか大変な発見で、知った時には憤慨した。少なくとも、殺された兄弟の分を含めて、自分の使命を果たすべきだと思った。どれほどさり気なく近代の社会が酷い事をすることが出来るなんて、思うだけでぞっとする。

最後に、「子どもが欲しい」という気持ちは普通ならば自然なのかもしれない。だからといって子どもを殺してまでも欲しいと求めることは、けしからんことだ。先ず、子どもが授かっているのは、子どもが両親のためにあるのではなく、両親が子どもの救霊のためにあるだけだ。結婚して、不妊だということが分かったとしても、子どもが出来なければ、それでよし。一般の夫婦と違って子供を育てる使命がないということになるだけだ。それを受け入れることは大事だ。無理矢理に子どもが欲しいといって、自称「不妊療」などをするのは、ほとんどの場合、赤ちゃん殺しを伴っているからだ。体外受精については、中絶と同じように、徹底的に戦うべきだ。



結びに
以上はあまりに聞き慣れないことだろうが、はっきり言うことが、大事だと思ってご紹介した。「命のために」係わっている人々、特にカトリック信徒の場合、物事を明白にせず、明らかな概念を持たずに、曖昧でもやもやした考えだけでは、残念だが足りないし、ややもすると危険にもなりうる。

信仰に基づく原理を明らかにして、念頭に置いて行動や発言すると、活動自体がより効率的になり、布教活動にもつながる。

最後に注意していただきたい点がある。悪と罪に対して公教会はいつも絶対的に不寛容で非妥協的だった。だが、それは人間一人一人を救うためにそうだった。

悪・罪を明白に咎めるということは、一人の人間を咎めることではない。逆に言うと、総ての人間は罪人である。聖人と言われている人々でさえもそうだ。だからこそ、十字架上で見せられた罪の恐ろしい帰結から解放するために、罪から背を向けさせるために、愛徳からくる義務として、明白に物事を誠実に発言して、何も曖昧さのない形で断言すべきだ

言わなかったとしたら、罪がある限りその結果が伴う。だから、迷っている者を救うために、迷いの原因、苦しみの原因、つまり罪を明白に言ってあげなければならないのだ。言ってあげなかったら人間はどうしようもないのだから、カトリック教会は真理をドンと断言し続けた。なぜそれほど自信を持てるかというと、自分で発見して言うのではなく、天主から啓示されたことを単に繰り返すだけだったからだ。だから天主の垂れた教えを言い続けられたのだ。

すべては天主のみ旨のままに。

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【全文】その3

2019年01月01日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)



ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう

(続き)
以上は、プロテスタント主義の政治上の結果を簡潔にご紹介しました。観想生活の廃止。仕事を絶対な自己実現にすること。

あとでも触れますが、新しいミサの典礼には「労働の実りであるこのパンを捧げる」という祈りがあります。新しいミサとプロテスタント主義の関係は周知の通りです。それに加えて、資本主義とも関係があるのでは?質問だけですけれど。要するに、以上は、プロテスタント主義の理論の政治上の幾つかの結果をご紹介しました。

これから、ちょっと時間を割いて、世俗社会でもない非聖職社会でもないもう一つの社会なるカトリック教会へのプロテスタント主義の理論の影響を見ていきたいと思います。

残念なことに、現代では、間違いなく言えることで悲しい事です。聖職者がいま教えている教義は、かなりプロテスタント風になっています。例えば、教皇ヨハネ・パウロ二世でも、マックス・シェーラーやシェリングやフィヒテなどといった思想家の許に基本養成を受けた事実を思うとそうなります。それらの思想家は皆少なくともプロテスタント主義の理論への憧れを持っていました。従って、当然ながら、それぞれの影響は出てきています。特に、第二ヴァチカン公会議の際にかなり登場します。

周知の通り、第二ヴァチカン公会議に関わった諸教皇は皆、プロテスタントの諸宗派の公会議への参加を積極的に促進しました。まず、勿論、プロテスタントの代表者らは招待されて参加しました。どちらかというと、プロテスタントの代表者たちが公にした発言などは、一番面白いところでもありません。プロテスタントの代表者たちは、観客席が与えられて、公会議の議会に臨んだわけですけど、それよりも面白いことがあります。一般的にも言えることですけど、一番興味深いというのは、公の人前での発言の場面ではなくて、その後です。つまり、映像もマイクもない時、気が緩める時、手に一杯を飲むときの方が興味深いです。一言で言うと、居酒屋でのことか、お手洗いで交わす会話といった感じのときです。驚くべきではないことですけど、公会議も全く一緒でした。司教たちと枢機卿たちでさえ、人間ですから。

そこで、公会議上の正式な議会以外の会話は、とても興味深いものでした。その裏舞台では、プロテスタントの代表者たちは、大きく働いたのです。招待されたから、現地にいたわけで、どうしてもカトリックの聖職者たちと一緒にいたのです。なんか「プロテスタント代表者よ、招待したけど、勘弁してくれ。我々の神学上の問題に意見を述べるわけがないので、介入しないでくれ」といったようなことはありませんでした。むしろ逆なのです。委員会なり、勉強会なりに、プロテスタントの代表者たちに参加させて、発言させて、意見を述べさせたりしました。裏舞台でプロテスタント代表者が喝采されたりしました。秘密でもなく、ただ、正式な議会以外での舞台でした。どんどんプロテスタントの代表者の意見が聞かされて、それらの種が撒かれてしまったわけです。また周知の通りですけど、例の有名な写真もあるように、プロテスタントの代表者が、どれほどに新ミサの制作に関わったか知られているところです。「我々がこのミサに参加してもよいね」と彼らが言ったほどですよ。信じられないことですが、事実であって、悲惨です。

さて、現代のカトリック教会において、プロテスタント主義の理論の何処を特に見いだせるでしょうか。一先ずに、権威のある種の廃止が見られます。一番悲惨な現象です。ややこしい誤謬ですが、団体主義(collégialité)の誤謬から来ます。つまり、団体主義という誤謬は、真っ向からカトリック教会の君主制たる体質と矛盾して相容れません。

「君主制(モノ・アルコス)」は「一つの長」「一つの権威」という意味です。カトリック教会は君主制なのに、あえてそれをもう表に出さずに、カトリック教会が開かれた議会団体であるかのように紹介されています。結局、しいて言えば、民主主義的です。少なくとも、民主主義っぽい味がすると言えます。もう、長(おさ)が指導するのではなく、団体が指導するとされています。そこから、枢機卿会や司教会や司教総会や司教団などといった発想が生じます。勿論以前にも、司教団とか存在していたが、公会議の後に余計にそれらを重んじるようになりました。また、当然、会も多くなって、そして非聖職者でさえどんどん参加していって意見を述べたりします。団体主義ですね。ある種の民主主義です。「平等」です。そこから、大変なことに、カトリック教会の定義でさえ侵されてしまってきています。カトリック教会は単なる「神の民」となります。「旅する民」とか。数日前にフランシスコ教皇さまが「歩こう」といいましたね。「歩こう!歩こう!」

私たちの主は「私は道である」と仰せになりました。そして、「命に至る道は狭い」とおっしゃいます。それに対して、「歩こう」とね。まあ。そこで皆と一緒に歩きますが、もう真理を認めさせることは無くなります。聖職者たちは、真理をもう認めさせようともしなくなりました。開いた教会ということで、話し合い大歓迎ということになってしまいました。直接にプロテスタント主義の理論の結果ではないものの、先の例でみたように、真理に、もう優位を与えないことになっています。真理というと、客観的な対象です。つまり、ある種の主観主義がカトリック教会に入ってしまいました。皆それぞれ、自分自身の好きな信仰を決めるということです。ちなみに、教皇聖ピオ十世による「Pascendi」回勅で破門されている「近代主義」という誤謬は、この主観主義に他なりませんでした。言い換えると、内面的な感情としての信仰、経験としての信仰という間違った見方を破門します。この誤謬によると、信仰は個人的な考え方に過ぎなくなります。ある種の「自由」になります。皆それぞれ、自分自身勝手に信じても良いという自由を持っているということです。言い換えると、天主はもう天主でなくなって、天主がなんであるか自分で決めるということです。もう天主が個人の発想になってしまいます。つまり、啓示を通じて人間に御自分をお示しになった天主、それで、ご自分を有りのままに人間に認めさせる天主でなくなって、皆それぞれもっている、個人が神を何であるかと考える意見が、神そのものになってしまいます。それで、皆が自分の「神」を創ってしまいます。まあ、皆といったら、私たちはそうではありませんけれど。

しかしながら、残念なことに、めちゃくちゃになっています。政治上では「政治の自由」ですが、宗教上では「宗教の自由」になります。皆、自分の告白する宗教を自由に自分で決めるという発想です。つまり、真理の優位性は無くされたので、カトリックの国家もなくなりました。

その先にあるのは、かなり頻繁に言われているものですが、「良心の尊厳」です。「人格の尊厳」に相当します。プロテスタント主義に基づく個人主義は、現代では、宗教上の「良心の道徳」という形で普及しました。「良心の道徳」というのは、客観的に従うべき道徳でなく、主観的に個人の良心で決まる道徳になってしまいます。罪というのは自覚する罪に過ぎなくなります。私が「罪だ」と思ったら罪になり、「罪ではない」と思ったら罪でないことになります。道徳の客観性がなくなります。それぞれが自分の道徳を作ってしまいます。その理屈でいくと、一番大事なのは善意があればそれで済む、です。その通りではないですか。でも、凄い混乱になりますね。皆それぞれが自分の道徳を持っているのなら、権威の役割はどこにあることになるでしょうか。完全にどこにもなくなります。まあ、懸け橋を建設して、壁を壊す役割ぐらいかな。

残念ながら、悲しいことに、カトリック聖職者の教えの中にプロテスタント主義の理論がどうやって少しずつ染みてしまったかは明白です。



それで、時間となりましたので、結論を出したいと思います。
どのような社会、どのような政治的生活においても、その客観的な共通善が秩序(和)であるというのに、プロテスタント主義はその共通善を破壊するものとなっているということになります。不和と混乱の種を持っているプロテスタント主義ですから。

秩序を無くしたところでは、乱れということを定義することもできなくなります。秩序というのは、何かに向けて方向付ける、方針づける、秩序立てる、順序立てるという意味です。秩序を回復するのは、他の何かに順序たてて整理するという意味です。物事をその適所に戻すというのは、第一の物を第一のところにおいて、第二の物を第二のところにおいて、第三の物を第三のところにおいてという意味です。これが秩序なのです。「物事は収まっている」とスイス人が言うんですけど、それぞれがそれぞれの分を弁えて、すべてのものが相応しいところにあるという意味です。つまり、この世ではすべてが相対な関係にあって、相対的な関係においてその相応しい関係にあるというのが 秩序なのです。そこに、混乱、不和と無秩序をもたらすことによって、こういった「適切な収まり」が破壊されてしまいます。また、人間における相応しい従属を破壊することになります。

まず、国家においての世俗的な善での相応しい従属を壊したうえに、霊的次元でも天主への相応しい従属をも壊しています。ルターがまさにその混乱をもたらしました。まず自然上の「共通善」がなくなります。つまり「(平)和」、「(道)徳」などといった自然なる幸せがもうありません。それに対して、「個人の善」なる財産の蓄積が幸せとされています。

そして、外的な従属もなくなります。つまり、天主への従属・順序がなくなります。皆それぞれに、自分勝手に自分の宗教を創ってしまいます。まさに、秩序を弊害する乱れそのものです。なぜでしょうか。権威も共通善も無くされているからです。個人こそが絶対になってしまうので、社会自体が破裂してしまうからです。人間中心主義の宗教に他なりません。まさに、プロテスタント主義がこの「人間中心主義の宗教」という種を含んでいるのです。

例えば、教皇パウロ六世がこういった要素を含んでいる発言を国連でやりました。それから、ルソーによる有名な言葉も典型的ですね。「良心よ、良心よ、神聖なる直観よ」とあります。まさにこの感じです。「良心よ、良心よ、神聖なる直観よ」。その続きは今、思い出せませんが。でも、御覧の通りに、人間の良心こそは、人間においての「神」となってしまいます。「私の良心が神です」と。つまり、結局、「神は私です」となります。

要するに、プロテスタント主義というものが根本的に「乱れ」そのものなのです。カトリック教会において、トレント公会議のお陰で、その乱れは早く止められました。トレント公会議は、教義において秩序を回復して、素晴らしく整理することができました。トレント公会議による諸文書を読むことをお勧めします。感嘆すべき文書ばかりです。簡潔で、明確簡明で、そして、神学上の偉大さと意味深さで、感嘆すべき文書ばかりです。そういえば、周知のように、トレント公会議から生まれたのは、公教要理です。勿論、トレント公会議の公教要理はそれほどに素晴らしいんですけど、それ以降のすべての公教要理もすべて、トレント公会議と直接に繋がっています。特に、真理の優位性の再確認。で、真理なる天主の優位性の再確認が重要です。

そこで、当時、トレント公会議のお陰で、カトリック教会において止められたプロテスタント主義はカトリック教会内部には普及できなかったのですが、世俗社会へは少しずつ浸み込んできてしまいました。まず、啓蒙思想家に続いて、フランス革命に至ったのです。割愛せざるを得ませんが、啓蒙思想家は特に権威を完全にぶっ壊したのです。

それはともかく、19世紀に自由主義や民主主義などが相次いで生じてしまいます。が、教皇ピオ九世による「シラブスSyllabus」によって、厳しくカトリック教会において止められました。また同教皇の「クァンタ・クーラQuanta Cura」と第一ヴァチカン公会議によっても止められました。そういえば、第一ヴァチカン公会議の成果は何でしょうか。その上もなくカトリック教会の至上の権威を再確認します。つまり、絶対なる自由に対して、人間の独立に対して、権威と秩序を再断言します。これは二つ目の城壁ですね。

ここで、注目していただきたいのは、カトリック教会こそがどれほどすべての誤謬から盾になって、城壁になっているかということです。そこで結局、カトリック教会はカトリックの保護者であるばかりではなく、平和に生きたいと思っているすべての人々の保護者でもあるのです。

残念なことに、誤ったそれらの理論が少しずつ普及してきて、カトリック教会の中まで染みてしまいます。例えば自由主義派や民主主義派といった聖職者の派閥によって、カトリック教会に入ろうとしました。人間中心主義を入り込ませてしまっています。それから、すべてを絶対化するために、すべてを相対化してしまいます。そういった人々の逆説なのですけど、「我々にとってすべては相対だ」といっているけど、結局、すべてが相対になってしまったら、「絶対な物」が無くなってしまったとしたら、すべてが絶対になります。単なる論理上の帰結ですね。

そういった中で、第二ヴァチカン公会議は真理を再確認するために設けられた公会議でした。そういえば、公会議のために準備資料と公会議草案の資料によると、そこにはその真理の再確認という旨が明白だったのです。ところが、公会議が始まってから早い段階に、その膨大な準備の資料や方針などは、ゴミ箱に捨てられてしまいました。要するに、第一ヴァチカン公会議の結論を再確認し、発展するべきだったはずの第二ヴァチカン公会議が、なんというべきか、プロテスタント主義が教会内に突入する道を正式に開く羽目になりました。

要するに、プロテスタント主義がまず社会で発展してしまい、そして、カトリック教会にも入ってしまいました

細かく調べてみると、結論が出せます。近代の哲学者たち、つまり近代の思想は、根本的にプロテスタント主義なのです。今日は、ホッブスとかロックとかルソーとか紹介しましたが、他にドイツの大人物の思想家も皆そうです。カントをはじめ、ヴォルフかな、そしてシェリング、フィヒテ、へーゲルなどはプロテスタント信徒です。近代的な哲学者の元祖とされているデカルトに至ってまで、彼はカトリックでしょうけど、一体なぜプロテスタント主義だらけのオランダに行ったでしょうか。何を求めに行ったでしょうか。単に自分の「自由」を求めたわけです。だから、カトリックだったかもしれないが、実践上はプロテスタントでした。

また、知識上にも、近代的な神学者でさえ、近代的な哲学の発想をする憧れに落ちてしまいました。つまり、プロテスタント主義の種を含んでいる近代的な哲学への憧れです。それから、近代的の政治体系のすべても、ルターが撒いた種に憧れているわけです。つまり、近代の哲学者であれ、近代の神学者であれ、近代の政治学者であれ、プロテスタント主義と無関係ではありません。それより、プロテスタント主義の内に、個人主義・権威否定主義、そして、既に見たようにそこから専制主義などの種を撒いてしまいました。

以上、プロテスタント主義が、当初単なる神学上の誤謬のはずのものが、というか、ルターによる単なる異端だったはずのものが、社会の全般にいたってまで、思想全般に至って、どうやって大革命を起こしたか見ました。従って、御覧の通り、今年の宗教改革500周年を祝う理由は一つもないということが明白だと思います。ご清聴ありがとうございました。
(完) 

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【全文】その2

2018年12月31日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)



ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう

(続き)
では、これからより理論的にプロテスタント主義がもたらす結果を分析しましょう。

先ほどに申し上げましたが、プロテスタント主義の第一の特徴は、統一の欠如にあります。しかしながら、政治的生活の根本には統一が必要です。一国なり、一家なり、一族なり、何か統一される共同体が前提になります。例えば、政治の基礎を成す単位は、家族ですが、自分の家に対して、「うちの家」といいますね。「うちの一族」といいますね。「うち」でないと、自分が属する家として成り立ちません。なぜでしょうか。家族という基礎社会を構成する違う人々の個性を越えて、社会の構成員の統一を成す絆があるわけです。家族なら夫婦と子供の間に血縁と親縁(親しみの心)という絆はその統一を成すわけです。そういった統一は実際に自然にあります。家族の例だと、血縁という絆に基づく統一です。

プロテスタント主義は、自由解釈のせいで、不和の種を潜在的にしろ常に持っています。言い換えると、プロテスタント主義は統一をもたらすことはできなくて、不和をもたらします。まず、勿論、理論上の不和・分離(不統一)をもたらします。そうして、教義上の統一が消えたら、間もなくして政治上の統一も消えます。不和をもたらすことによって、プロテスタント主義は社会の統一を破壊します。ところで、この統一は、社会の共通の善(公共のための善)の一つであります。従って、プロテスタント主義は、少なくとも種として、社会の共通善に反するのです。つまり、平和に反するのです。平和こそは、社会の共通善の一つですから。言い換えると、プロテスタント主義は社会の目的に反するのです。

自由解釈を訴えることによって、不和をもたらすばかりではなく、結局その先に個人主義をもたらします。なぜかというと、「自由」という価値観を普及させるからです。「自由」こそは、現代において好まれています。「自由」とは、単なる「自由主義」の意味ではなく、人間の根本的な特徴としての、人間の固有の善としての「自由」という意味です。ある意味で、それらの結論は当たり前といったら当り前です。本来ならば、通常ならば、人間の一番大切となる特徴は、完全性は、知性になるはずだからです。そして、知性の完全化もその最高の特徴です。

しかし、プロテスタント主義における知性に対する極端な悲観主義は、知性が物事を知ることができるという能力を否定する悲観主義だからこそ、人間の一番尊敬すべき能力を否定して、人間を堕落しきったものとさせます。ここにおいて知性と真理における避難所が無くなったルターはどこへ避難するでしょうか。「自由」へと避難するのです。しかしながら、問題があります。「自由」と言い出しても、具体的に中身はありません。知性の場合ならば違いますね。知性を語るときに、本来ならば、必ず、真理も登場せざるを得ません。真理を知る知性ですから。要するに、他の能力にも適用できることですが、知性を特徴づけるのは、知性の固有の善である真理をもって特徴づけます。

現代では、ルター的に「自由」について語るときに、「自由」といって、それきりです。まさに、不確定なものとしての自由となります。従って、プロテスタント主義は、個人主義と共に、「絶対的な自由」をもたらすことによって、ある種の不確定主義をもたらします。

本来ならば、人間のどの能力とも同じように、人間と自由を第三者(その善)に関係づけるべきところを、「自由」という能力を完全に独立させて、何によっても確定されなくしてしまうのです。つまりそれ自体の価値にしてしまい、「自由」を特徴づけるものはもうなくなります。いえ、あえて特徴づけるなら「やりたいことをやりたいだけやる」という自由だけです。でも問題は解決しません。「何が欲しいか」「ほしいモノが欲しい」というふうに、「何が」よりも「やりたい気持ち」の方が重んじられるようになります。結果として、以上のように「自由」を定義してしまうと、とどめのない悪循環になり、論理上、終わらない矛盾になります。不確定の「自由」になります。従って純粋な個人主義になります。

要するに、これで行くと人間が自分自身に閉じこもり縮(ちぢ)こまることになります。その上、自分が自分に善を与えるようになります。自由解釈の一つの結果であるこの「絶対的な自由」というものによって、どれほど人間がおのずと共通善を破壊していくかは明白でしょう。つまり、「絶対的な自由」を訴える人にとっての共通善は、もう共通善でなく、(自分の)善になってしまうのですまさに個人主義です。社会の構成員の分裂を意味するに他なりません。共通善も分裂されました。統一を分裂させてしまったことによって、ルターは共通善に反します。この上、絶対的な価値としての自由をもたらすことによって、社会自体も分裂してしまい、それぞれの個人が、自分の善を自分に置かせてしまうわけです。

近代では、こういった発想は、特に実存哲学に濃く見られます。近世の実在主義は結局、無神論になってしまいました。実に、これこそ、面白い帰結です。プロテスタント主義とルター主義は、無神論の萌芽を含むのです。後で触れますが、なぜ、無神論に繋がるかというと、プロテスタント主義は権威者をすべて拒絶するからです。それでは、天主、カトリック教会、聖伝の権威の代わりに置かれるのは、もう人間になってしまうからです。だから、プロテスタント主義において、無神論の種が既にあります。


前回に詳しく触れたのですが、以上を見ると、ルター主義がなぜ根本的に自然主義と密接に繋がっているか明らかになります。自然主義をはじめ、ルネサンス期の諸哲学理論との関係が深いのです。要するに、人間中心主義(ヒューマニズム)です。

さて、「絶対的な自由」に戻ると、実存主義においてそれは見いだせます。実存主義という理論において、人間はある種の自発的な存在となり、自分を自分自身で自らを構造する、と言います。従って、人間は自分自身こそが自分の目的で、自分の善になります。サルトルを読んでみると明白です。そういえば、彼の著書『実存主義、一種のヒューマニズム』の題を見るだけで自明です。人間中心主義になってしまい、その上に、個人主義にもなっています。

その個人主義の内容ですが、個人が自分を作り出すことになるけれども、何も誰にも依存しないで、独立に自分を作るべきだという論調になります。他の人の目線に依存すべきではない、と。何の権威も受け入れない、何の共同体の権威をも受け入れない、と。その個人は、独りぼっちなのです。人間はこの世にほうり投げ出されている感じです。実存主義の哲学者の有名なる「ダザイン(現存在)」の概念は将にこれを示します。その中に、だれにも依存してはいけない、と。依存してしまったら、自分の自由を失うからです。サルトルの「他人こそは地獄だ」の有名なセリフは、その意味で言っているのです。つまり、地獄なのは、他人と一緒に生きるのではなく、「他人の目線に依存することが地獄だ」という意味です。

結局のところ、以上のことは何を意味するでしょうか。「自由」を絶対なこととして捉えることを意味します。しかしながら、「自由」を絶対なこととして捉えることは、非常識にすぎません。「自由」というのは、絶対ではありませんから。もしも「自由」が絶対なことなら、「自由」をもって特徴づけられる人間も、絶対なことになってしまうわけです。ちなみに、近代家たちは、まさにこの結論にいたりますが。で、人間は絶対になってしまい、つまり、天主の代わりに、人間が天主となってしまうのです。

そういえば、ある哲学者が、へーゲルだったか、シェリングだったか、フィヒテだったか、今は思い出しませんが、御覧の通りに、その辺りの思想家です。ドイツ人でありながら、同時になかなかのプロテスタント主義者だといった人々です。ところで、そのうちの一人が、自分の講座が終わった時だと思いますが、授業が終わったら「次回の講話では、私が神を創造して見せます」といったという典型的な逸話があります(笑)。いや、正にこれではないでしょうか。絶対としての自由の立場だったら、人間が独りぼっちで、自分だけが自分を造るわけだから、自分が自分の運命の主だとしているから、もう天主に創造されたとか、天主に依存しているとか、それらはなくなるからです。しかも、その理論だと、逆に、人間が天主を創造して、人間の自分に天主が依存するようになってしまうのです。全く本末転倒です。従って、それで行くのなら、人間が天主を創造する全能なる力を持っているので、天主を創造するのも、天主を破滅させるのも、人間の勝手次第になってしまいます。

もう一度言っておきますが、自由解釈ということの結果は以上のようになります。ルターの理論において、まだ種に過ぎないことは確かです。が、その種があって、すべての基礎があって、発展していったら、「絶対の自由」になっていきます。かなり早いペースで、「自由・平等・博愛」に至ってしまいます。20世紀ではないんです。もう18世紀の早い段階でもうそこまで行っています。

ルターの後に、2世紀もう経っただけのところです。そういえば、教皇ピオ6世だったと思いますが、ある教皇は「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」といっておられたほどです。まさにそうなんです。「自由」が叫ばれる限り、プロテスタント主義の遺産物になります。

以上の実存主義は、別の名前で、20世紀初頭にも知られていたことを加えておきましょう。現代は聞き慣れなくなった呼称ですが、人格主義(ペルソナ主義)という理論です。要するに、人格主義の基礎理論はこうなります。

人格の尊厳は、共通善の代わりに置かれるという理論です。エマネル・ムニエ(Emmanuel Mounier)によって設立された理論です。その後継者はジャック・マリタン(Jacques Maritain)です。それでは、人格主義の根本的な意味はなんでしょうか。これは人格を共通善よりも上に置く理論です。本来ならば、健全な政治理論の場合では、人間が共通善のために順序だてられています。そこで、共通善のために励んで働くのです。そして、共通善のために働くことによって、自分を豊かにするわけで、自分を完全化させます。言ってみると、共通善が人間の善を完全化させると言えます。去年か一昨年かの講演でそれについてお話ししました。

しかしながら、人格主義などでは逆になります。共通善は人間の人格に従うようになってしまいます。つまり、人格が、個人が絶対なことになってしまいます。定義を思い出しましょう。相対なるものは、何かに依存している時に相対だと言います。絶対なるものは、何ものにも依存しない時に絶対だと言います。依存関係はなくなったという時に絶対だと言います。まさに絶対を定義するのはこれですね。あるモノが、絶対になるというと、そのモノが依存する他のモノが一切ないという意味です。ところで、人格主義という理論は、人間の人格を絶対なこととして捉える説です。別の言い方になりますが、また自由を絶対なこととして捉える説に他なりません。人間の尊厳といった表現は、毎日のように聞こえて普及しています。人間の尊厳から出発して、良心の自由、他人への尊厳(無差別)というところに至ります。言い換えると、共通善は廃止されてしまいます。

ちょっと想像してみてください。ある子が、悪戯(いたずら)して、父に叱られるとしましょう。悪戯というか、家族の共通善に反する行為を犯してしまったので、父に罰せられるとしましょう。簡単に言うと、「家の精神」に反した行為を犯したと言ったほうが分かりやすいかもしれません。そこで、その子が「私の人格の尊厳はどうなるのか」と言い出すと想像してください。?☆#!* 当然です。子どもの権利でしょう。人間の権利に続いて、子どもの権利でしょう。これから間もなく、動物の権利にもなるでしょうし、続いて、植物の権利もでてくるでしょう。なんと滑稽なでしょうか。

最後に、以上のこういった絶対な自由の裏に、何かあるかというと、すべての権威への拒絶です。ここでは、政治上の権威のことです。プロテスタント主義の理論からの直接な結果です。念頭においていていただきたいことなのですが、西洋史では、少なくともヨーロッパでは、権威に反乱する理論として、プロテスタント主義は初めて出てきた理論です。勿論、中世期においての混乱とか、争いとかありました。しかしながら、ずっと権威を尊敬する前提だったのです。また、教皇と皇帝の間の軋轢はありました。が、権威に対する尊敬はずっと絶えることなくあったわけです。皇帝も教皇もその権威が無視された事実があったとしても、それぞれの権威は権威としてしっかり認められて尊敬されていたというのも揺るがない事実なのです。

プロテスタント主義は、純粋な単なる権威への拒絶です。権威者をすべて捨てて、従うべき権威を無くす理論です。「権威」を許すことが残っているとしたら、調整者としての権威だけになります。ところが、従うべき権威だとか、最高なる公のため人々に何かを課すべき権威だとかなどは、否定されているのです。

(これは)重大な問題です。なぜかというと、権威を拒絶してしまったら、不和をまき散らすことになりますから。ルターがそうしてしまった通りです。その上に、政治上もまた同じ結果になります。不和の蔓延です。現代を見ると明白でしょう。自由を唱えれば唱えるほど、不和をまき散らすことになります。それで、不和が深く蔓延してしまったらどうなるでしょうか。否が応でもある権威者に譲るしかありません。人間は不和を嫌いますから。だからどうするかというと、やむを得ず、ある権威を求めるようになります。ところが、やむを得ないということで求めざるを得ないのですが、理論の原理として権威を拒絶しているので、正当ではない権威になってしまいます。そこで、その正当のない権威が成り立つためには、暴力を振るっての専制となるしかありません。ホッブスがレヴィアタンと言う名前を付けたのはそこから来るわけです。そこで、国家は暴君になってしまいます。

こうしてかなり逆説的な状況を生みます。ところで、誤謬の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということにこそあります。つまり、権威を拒絶しますが、人間というのは自然体としては権威抜きに生きられない自然体という事実があるので、ある権威が登場せざるを得ません。ところが、自然的にも理性の上でもいかなる権威も阻まれてしまっている理論の原理に成り立っているので、力ずくで正当性を手に入れるしかないことになってしまいます。

「正しいモノを強いモノで無くした人間は、強いモノを正しいモノとしてしまった」(パスカル)。誰の出典だったか忘れました。有名なのに。まさにその通りです。というのも、理性と知性で整理される正義は、皆が従うべき正義として居続けらなくなってしまっているからです。

ルターの置いた理性と知性に対する悲観主義という種からこの否定が来ています。そこで、正義が優位に立てなくなったところで、強制を採用するしかなくなります。そこで、戦争が起きます。ところで、力づくに無理矢理に自分を押し付ける専制というのは、何れ覆されるしかありません。というのも、理性への悲観主義と軽蔑から来て、つまり理性抜きに力づくで自分を立てようとする権力の特徴は、必ず皆に嫌われるようになります。皆、理性と合理性を求めるからです。言い換えると、人間はおのずと常識的な存在であるので、理性に合わないと落ち着きません。人間はすべてを理解する能力がないとしても、部分的にでも啓蒙されてほしい事実に変わりがないのです。

要約してみましょう。統一の不在。権威の拒絶。自由。自由解釈。人格主義。個人主義。結局、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するためにある種の権威を自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしよう、とする。これは、民主主義に他なりません。まさに、民主主義です。この意味で、民主主義はルター主義の政治上の結果の一つです。「自由、平等」です。博愛はあまり旨くいきません。彼らは望んでいるのですけれど。

「自由、平等、博愛」。言ってみると、かなり逆説的でしょう。「自由」を絶対のものとして置いてしまった限りでは、平等も博愛も無理になります。まさに、こういった三つの価値観を原則として置いてしまうと、間違いなく、人間は「人間に対して狼」になるしかありません。要約してみると、プロテスタント主義の一つの政治上の結果は、民主主義です

もう一つの面白い結果があると思います。正直に申し上げると、最近の「地の塩」という月刊誌に載ったBousquet氏による記事のものです。「プロテスタント主義と資本主義」を題にする記事です。驚くべきでないことでしょう。事実、プロテスタント主義と唯物論は密接的に繋がっているからです。その関係のあり方を見ると面白いと思います。

ルターが信仰を失ったのは確かなことです。前回にご紹介したと思いますが、ルターの天国についての発言があります。いわゆる「結婚」した修道女と一緒に歩く場面です。

修道女は天国について話し出します。ルターが「天国はもう私たちにとって届かないところだ。もう手遅れだ。」という感じの答えをします。修道女がこう応じます。「私たちはそれぞれの修道会に帰って、正しい生活を送ってみたらどうでしょうか。」ルターが、「いや、無駄だ」と答えてしまう典型的な場面です。

つまり、ルターは信仰を失います。信仰を失ったら、望徳をも失ってしまいます。そして、周知のように、愛徳をも失います。悲しいことに当然と言ったら当然ですけど。信仰を失うことによって、恩寵を失って、超自然の秩序をも失います。

私たちの主はこう仰せになります。これは政治上以上に、神学上の帰結になりますが、面白いことに、超自然の秩序は自然の秩序を破壊することは一切ありません。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」 とイエズス・キリストが仰せになります。続いて、「一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人を疎んずるかである」 と。

これは一つの真理で、当たり前の真理ですが、超自然上の真理でもあります。そこで、私たちの主はこの真理を私たちに啓示します。勿論、間違っていないし、私たちの主によって啓示されたことでもあって、なおさらのことです。ところで、それより面白いことがあります。「人は二人の主人に仕えることはできぬ」と仰せになるときに、その二人の主人を明白に指してくださるわけです。つまり天主とマンモン(富・黄金)との二人の主人です。

ここで、「人間は二つのことに引き付けられているよ」と私たちの主が仰せになります。超自然の人間の目的(これが天主です)に引き付けられるか。それとも、超自然の人間の目的ではなく、物質的なモノの方に引き付けられます。要するに、金(カネ)です。その理由は、お金が力をもたらすからです。購買力であり、所有力であり、何でもです。お金というのは、勿論、最高の財産ではないのですが、一番多くの物を手に入れられる財産は確かにお金なのです。金持ちになっても、豊かになっているとは限りません。ただ、金持ちになると、多くの富を手に入れるということです。単なるお金を沢山持っている者は、実際に多くの財産を持っていません。購買したときに、何かを所有したときに、完全な形で豊かになっていきます。つまり、金というのは、多くの物を所有できる力(道具)なのです。勿論、物質的な物を所有することの。「私はこれらの国々を皆あなたにやろう」。これは、私たちの主に対してなされた、荒れ野での最後のサタンによる誘いです。「サタン、退け〈神なる主を礼拝し、ただ天主にだけ使えねばならぬ〉」 。まさに、天主とマンモンとの間の選択です。天主を礼拝しなければ、残念ながらマンモン(黄金)を礼拝するようになってしまう、と。

要するに、どれほど絶対な自由を望もうとしても、個人主義と無神論で徹底しようとしても、結局のところに、人間は天主のしもべでなかったら、他の何かの奴隷になってしまうだけです。絶対的な自由や、絶対としての人間がすべてのモノの主になる人間なんて、実際の世界では存在しないのです。どちらかです。一方で、天主のしもべになるという方法で立派になるのか、それとも、もう一方の、黄金にでも耽ってその奴隷になるのかどちからかです。とにかく、「私が自分自身の主である」というのは、決して現実にあり得ないことで、実際に存在しないことです。自分が自分自身の主であることに意味があるのなら、天主が私自身の主であってのことでかありません。つまり、人間の本性には、抵抗できないそもそもの衝動(傾向)があるからなのです。それは何かに仕えるという衝動です。なぜかというと、本質的に、人間が相対的な存在だからです。本質的に、何かに依存(従属)していることが人間の特徴です。これは揺るぎない事実です。自分を絶対なものとどれほど訴えようとしても、実際においてずっと何かに依存しているわけです。ここで、天主に依存しなければ、この世の富に依存してしまうのです。

プロテスタント主義は、天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含みます。そこで、ルターが福音的勧告を廃止します、それらを特に憎むのです。福音的勧告を、です。福音的勧告というのは、修道士の立てる誓願に要約されています。宗教生活の完徳への志を象徴する誓願なのです。つまり、福音的勧告というのは、貞潔の誓願、清貧の誓願と従順の誓願からなります。

貞潔の誓願をすることによって、肉身に関連する快楽を断念します。
清貧の誓願によって、この世の財産を断念します。
そして、従順の誓願によって、自分の持っている一番大切な専有物なる自分自身の意志を断念します。

ルターはこれらの福音的勧告が大嫌いでした。修道士の誓願についてのルターの諸文書は最も酷いものです。また、ルターが自分の誓った誓願を捨てて、どのように悲しむべき状態で人生を送ってきたかは周知の通りです。

貞潔の誓願を捨てて、ルターは感覚の快楽に耽ってしまうのです。ある種の唯物論が見られます、少なくとも、肉身的唯物論です。
清貧の誓願を拒絶してしまうことによって、ルターが暗にこの世の財産に従属してしまいます。
従順の誓願をぶっ壊そうとすることによって、ルターがすべての権威を拒絶してしまうわけです。

まさに、一貫性があります。ルターの革命が、ある種の悪循環を起こして、ある種の悲惨なる絡繰りを動かしてしまいました。簡潔に言うと、やはり、革命そのものです。総てを変えたからです。ルターが修道士として誓った誓願への反逆において、これには唯物論の種が含まれています。権威はなくされ、この世の財産への従属、また、残念ながら、肉欲への従属があります。

そういえば、ルターのデスマスクが恐ろしいそうです。子供に見せてはいけないほどに恐ろしいそうです。酷い話でしょう。時々、死者の顔を見たら、穏やかだなあと言う時があります。一方、そうは言えない死者の顔もあります。良き天主の代わりに、私たちが裁くことはもちろん一切できないのですが。とはいえ、目の前に見ていることなら、判断できるだけはできますね。

続いて、ルターが修道士の誓願を拒絶するとともに、修道生活自体を否定します。それから、当然ながら残念なことに、聖職者たる生活をも否定してしまいます。聖職者たる生活を、また修道生活をも特徴づけることは一体何でしょうか。

より根本的に言うと、すべての霊的生活をも特徴づけることですが、それは観想です。つまり、キリスト教信者の精神を特徴づけるのは、また天国での霊魂を特徴づけるのは、観想です。ところで天国にはキリスト教信者だけがいます。というか、カトリックしかいません。それは、確かなことです。その天国の特徴は、天主の観想に他なりません。この地上での「聖徳の生活」を特徴づけるのは、そしてこれは「一番主(おも)たる共通善」でもありますが、真理の観想に他なりません。

それで、観想を拒絶してしまったルターが、本来ならば観想と相関的な関係にある行動にだけに耽ってしまいます。一般的に、観想と行動を対立の関係で捉われることが多いですね。本来ならば、両方は繋げるべきです。二年前に共通善についてご紹介したときに、詳しく説明しました。

行動というのは、観想に従属すべきことです。また「作ること」と「行うこと」と「観想すること」の三つのことは、お互いにどうやって関係していて、従属・秩序を整えるかご紹介しました。

また、知性にしても、最高の知性の作用である観想というのは、行動中の至上の行動であるということをもご紹介しました。しかも、天下のすべての諸々の善は観想という秩序に従うべきだということをも見ました。

もう一度繰り返しますが、観想を拒絶してしまったルターは、共通善の本来の目的を否定するようになります。共通善の本来の目的は真理の観想ですから。しかしながら、同時に、ルターが行動へ夢中になり、徹底的に行動に耽ってしまいます。一言でいうと、活動的生活に耽ってしまいます。言い換えると、唯物論へ耽ってしまうことになります。いいですか。


そういえば、教皇レオ十三世によって破門された一つの理論は、「アメリカ主義」と呼ばれています。教皇レオ十三世によって破門された「アメリカ主義」とは一体何でしょうか。この理論は、いわゆる「消極的な徳」を軽蔑して捨てるという理論です。つまり、この説によるとね、これらの「消極的な徳」などは、生産性がないので、無駄だとされて、何にも役立たないとされています。例えば、謙遜の徳や従順の徳や貞潔の徳や清貧の徳などは、「消極的な徳」とレッテル付けられています。他には、柔和の徳や忍耐の徳や寛容の徳などなどもあります。要するに、「小徳」といわれる聖徳ですが、決して小さくない徳で、大事な徳です。かなり実践しづらい徳ですが、「消極的な徳」と呼ばれる理由は、「活動的な生活」に帰属しないからです。

そこで、あるアメリカ人たちは、「活動的な生活」を重んじた挙句に、「消極的な徳」を否定しました。教皇レオ十三世がその「活動主義」を破門しました。いわゆる「消極的な徳」より「活動的な徳」を優位に見なすこの誤謬を破門しました。これも、ルター主義の一つの結果といえます。アメリカで生まれたのも象徴的ですね。アメリカでは、プロテスタント主義がカトリックより主流になっているから、そこに生まれやすい誤謬だったのです。そこで、アメリカ主義という誤謬の破門の意味は、「活動的な生活」或いは「物質主義」に耽っていくということを戒めることです。したがってプロテスタント主義において、労働と生産は肝心なことになっています。面白いことに、ルターもカルヴァンもそれらについて一言も触れていないのに、後の諸世紀のプロテスタントの発展に連れて、もともとあったこの種が成長していき、労働と生産は人間の人生にとって中心になっていくのです。

プロテスタント主義が「豊かさは神の恩恵の証だ」というほどです。「豊かさは神の恩恵の証だよ」と。カルヴァン主義の帰結でもあります。一体なぜでしょうか。

一方で、これを義化の問題からその因果関係を説明することができます。プロテスタント主義なら、もう人間の内は義化されなくなります。外から、覆われて、仮面だけのような「義認」になりますから。従って、これだと、神が誰を救うか、誰を地獄に投げるか、神意のままで決まることになります。プロテスタント主義における救霊予定説の問題です。カトリック信徒の救霊予定の理解と完全に反対しているのです。

カトリックなら、一人も欠かずにすべての人間は天国に行くように呼び出されています。十字架上の御死去は、「Qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis」「主は、我ら人間のために、我らの救いのために、天から下り給うた」と。つまり、限られた人数の救霊のためのではなく、すべての人々の救霊のために、ということです。これは、カトリックによる救霊予定です。要するに、天主は、つまり私たちの主は、一人も欠かずすべての人々の救霊のために、出来るすべてのことを尽くし給うたのです。つまり、すべての人間は天国に行くように呼び出されています。

プロテスタントなら、神の自由意志で、ある人を救うならば、他の人を地獄に送る神意の決定があるとされています。ところが、人間は確信を必要としています。

カトリックである私たちなら、確信があります。というのも、私たちのために天主様は死に給うたという確信を持っているからです。そこで、十字架上のイエズス・キリストは、私のために死に給うたという確信がある限り、私たちの主に従う限りに、もう救われています。これこそは揺るぎない確信で、カトリックにとっての大喜びなのです。要するに、カトリック信徒は、すべての人間のために死に給うたから自分のためにも私たちの主が死に給うたことを知っているので、もしも私が自分自身をイエズス・キリストに適わしめるのなら、確実に救われる大喜びの内に生きていられます

プロテスタント信徒なら、救われるかどうかわからないままです。総ての人間が天国に呼び出されている教義が廃止されたからです。プロテスタントなら、神は少ないある人々を救うだけですから。そこで、理性の位置をどれほどに否定したとしても、人間はどうしても確信抜きにはいられないなので、プロテスタント信徒でさえも確信を求めます。ということで、一体どこに確信を求めに行くでしょうか。救われた証として、物質的な豊かさにおいて求めるわけです。従って、プロテスタント主義の裏には、資本主義との密接的な関係があります。物質的な豊かさと財産の保有が、絶対的な目的になるという理論です。そうなんです。

以上に見たように、プロテスタント主義が民主主義と資本主義と関係を持っていることを見ただけでも、なかなか面白いでしょう。そこで、プロテスタント主義には、人間の本性に対する有害的な種がどれほど含まれているのか 結局かなり明白になるでしょう。

(続く)

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【全文】その1

2018年12月30日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様に全文をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)



ビルコック(Billecocq)神父様に哲学の講話を聴きましょう

さて、三回にわたって、フリーメーソンについてご紹介した上に、前回はプロテスタント主義について話しました。厳密に言うと、プロテスタント主義の理論をご紹介しました。

今回は、簡潔な形になりますが、プロテスタント主義の理論は、政治の次元でどういった結果を起こすかについて触れたいと思います。つまり、政治と関係があるかどうか、です。確かに、ご紹介したとおりに、プロテスタント主義とは、先ず異端に他なりません。信仰に反する異端です。プロテスタントという異端は、発生してからほぼ直ぐに破門されました。カトリック教会が、プロテスタント主義を破門するにはそれほど時間はかかりませんでした。

プロテスタント主義は異端です。異端というのは、知識上の誤謬で、信仰に反する誤謬です。異端は思弁的な教義であるとも言えます。ところで、この理論と政治との間に関係はあるでしょうか。もしもあるのなら、こういった関係は具体的にどうなるのでしょうか。それから、実際に、政治におけるプロテスタント主義の帰結はなんでしょうか。今晩の課題として、以上の質問に答えてみたいと思っております。

結論から言うと、先ず、その理論と政治の間に強い関係があること、現代において私たちの経験しているこの世は、まさにプロテスタント主義から来る必然的な帰結に他ならないこととの二つを今晩、証明していきたいと思います。

さて、先ず、本番に入る前に、前回に見たプロテスタント主義の教義を簡潔に改めて要約してみましょう。
簡潔に整理してプロテスタント主義を要約すると、三つの視点から説明できます。

第一点、当時のカトリック教会では、改革の必要があった事実。この事実は、疑う余地がありません。ある人々は、カトリック教会において乱れがあったからといって、それでルターやプロテスタント主義を正当化しようとします。確かに、乱れなどはありました。でも、それは驚くことでもなく、人間の本性は傷つけられているので、乱れは今でも出てきているし、いつまでも出てくるわけです。つまり、確かに当時のカトリック教会では乱れがあった。が、あったとはいえ、それでプロテスタント主義の弊を弁解するわけにはいけません。少なくとも、この第一点は、当時の事情というか、当時の環境であり、その空気の内に、プロテスタント主義が生まれたことは確かです。

一般的に言われるのが、ルターはこういった乱れに対して応じようとしたのだ、とされています。しかし、残念ながら、彼は悪い答えを出してしまいました。なぜ悪い答えだったかというと、二つの理由があります。

第一の理由は、これは第二の視点になりますが、つまりルターからの視点で、また、ルターの思考では、どう応じたのかという所にあります。

当時のカトリック教会にあった乱れに対して、なぜルターが悪い答えを出したかというと、まず、彼の養成に問題がありました。前回に見たとおりに、第一に、ルターは唯名論という教えを受けました。唯名論という説は覚えていらっしゃるでしょうか。唯名論という説は、名前があっても、その名前は本当の意味を成さないよ、という理論です。人間は個別の物を知っているかもしれないが、個別の経験に基づいて、抽象化して、普遍的なモノを知るということはできない、という説です。簡潔に要約していますが、問題の核心というと、こうなります。つまり、ルターの唯名論は、理性への根本的な軽蔑にほかなりません。

こういった養成を受けたルターですが、唯名論の上に、アウグスティヌス主義という教えの影響の下にもいました。アウグスティヌス主義というのは、アウグスティヌスの理論の間違った解釈、間違った理解で、歪曲されたものです。アウグスティヌス主義は、前回の紹介をまとめると、人間の本性への根本的な悲観主義に他なりません。したがって、ルター主義の中枢には、ある種の悲観主義があるわけです。

唯名論から来る悲観主義は、理性に対する悲観主義になります。理性は、実際に何かを知ることはできないことになるからです。アウグスティヌス主義の場合は、人間の本性に対する悲観主義になります。思い出しましょう。ルターにとって、人間の本性は、傷つけられているどころか、完全に堕落した本性で、真っ暗で、「もうダメだ!」という感じです。これは大事な要素です。以上は、ルターの養成から来た彼の思考によるプロテスタント主義です。

ルターについて語るときに、忘れてはいけない側面があります。彼の傲慢です。もちろん、色々、彼の小心や彼の臆病な性格についていろいろ語られましたが、その上に、ルターの傲慢心の非常さを絶対に忘れてはいけません。ルターの伝記作者の一人によると、「ルターは対立が起きるのなら、心を打ち砕かれるよりも、却って刺激される」というほどです。まさにそうなんです。もし、ルターが本当にためらっていたのだったら、言い出すことに関して心配なことが本当にあったのだったら、本当に、細心だったのなら、当時のカトリック教会とそれらの権威に従ったら良かったことでしょう。当時の教皇が何人かの一番有識な枢機卿や神学者をルターの許へ送ってどれほど彼の説得に努力したかは、周知のことでしょう。特にカイェタン(Cajetan)枢機卿まで送って、ルターに正気を取り戻させようとしました。しかしながら、ルターは拒絶しました。彼には、深い傲慢心があったからです。
以上は、ルターという視点から見たプロテスタント主義です。

続いて、第三点は、プロテスタント主義の理論から見た視点です。言い換えると、ルターを越えて、プロテスタント主義として、宗派を問わずに、一般的に見られる共通点です。義化に関する問題です。つまり、プロテスタント主義によると、霊魂における天主からの直接の作用はもうなくなります。天主の恩寵が霊魂を覆うに過ぎなくなります。覆ったとしても、人間は汚いままです。要するに、プロテスタント主義での義化というのは、悲観主義を隠すだけにすぎません。あえて言えば、「人間の悪さを、人間の悪質を、人間の汚いドン底を隠す天主」にしてしまったのです。つまり、プロテスタントでは、天主が、義化を通じて人間を覆うかもしれないが、人間を変えることはないと言います。つまり、何があっても、何も変わらないのです。要するに、プロテスタントの宗派を問わずに、必ずその底には人間に対する悲観主義があるというわけです。そして、神学上のすべての問題は、プロテスタントの義化に集中しますが、悲観主義という問題は残ります。その誤った義化は問題は解決せずに、隠すだけです。

例えてみましょう。人間をボロボロの壁とします。そこにピカピカな紙を張り付けるだけでは、壁はボロボロのままです。これはプロテスタント主義の義認です。ちなみに、カトリックなら、義化(悔悛の秘跡)は、壁を綺麗にする(清める)わけです。ですからプロテスタントは義化ではなく「義認」と言いますが、義認とは壁にある欠陥を隠すのですが、その壊れているところを直さないわけです。ルターにとっての義化とは以上のようです。従って、天主の恩寵はもう私たちには働かなくなるという結果になります。天主の恩寵は人間を覆うものの、人間において、もう作用しないので効果がないということになってしまいます。

宗派を問わずに、プロテスタントにあるもう一つの共通点というと、「義認」の理論の他に、自由解釈ということがあります。プロテスタントといった時に、直ぐに自由解釈が念頭に浮かびます。自由解釈というのは、結局、皆それぞれの好みで、聖書を解釈できるということです。従って、しいて言うと、プロテスタントの宗派の数は、プロテスタントの信徒の人数ほどにあると言えます。実際に、多くの違うセクトにあちこちグループで集まるのは確かですが、やっぱり非常に多いんです。少なくとも、自由解釈というのは、カトリック教会の解釈を否定して、個人の解釈を重んじる主義になります。

前回に見たプロテスタント主義の理論を要約してみると、最後の第三点はこうなります。信仰の問題です。まさに、ルターにおける信仰の問題です。

ここにも、悲観主義が底流にあります。ルターにとって、理性は物事を一切知ることができないと言っているわけです。逆に、カトリック信徒にとっての信仰というと、理性による行為です信仰は知性による行為なのです。当然ながら、信徳によって昇華される行為であるかもしれませんが、一先ずに、信仰というのは本当の意味での知性による行為です。信仰が理性の行為だというのは、天主に啓示された真理に従おうという意図的な理性の行為ということです。

しかしながら、ルターにとっての信仰は違います。理性への軽蔑のせいで、その悲観主義のせいで、信仰は、もう積極的な肯定でなくなり、知性による行為でなくなります。その代わりに、信仰は一種の信頼だけになります。言い換えると、ある客観的な対象に積極的に従おうとする行為ではなくなります。逆に、信仰は主体による行為になってしまい、その主体によってこそ価値づけられています。この違いはわかりますか。大事です。

カトリック信徒にとっての信仰の価値は、「私がやっていること」というのではなくて、「肯定する客観的な対象」にあるわけです。つまり、同意する真理にこそその価値があります。要するに、ある真理が不動にそこにあって、それを見たので積極的にその真理に従おうとするのです。これこそが、信仰なのです。カトリック信仰というのは、恩寵に動かされるのはもちろんのことですが、その上に、天主によって示された真理への知性による積極的な同意に他なりません。

ルターにとっては、ずっと底流に悲観主義があるせいで、外にある客観的な真理への同意でなく、内面的な個人的な信頼になってしまいます。要するに、この信仰は、純粋な主体的な行為になってしまいます。もう、客観的な対象によってその価値が決まるというのではなく、その行為を成す主体によって信仰の価値が決まってしまいます。信頼にすぎません。
以上は、前回の見たことの要約です。


さて、それぞれの問題をより理解するために、二つの言葉で要約してみましょう。先ず、独立精神なのです。それから、二つ目ですが、結局、独立精神から来る結果で、主観主義に他なりません。

第一、独立精神です。なぜでしょうか。ルターは、カトリック教会、聖伝の諸権威を拒絶します。聖書の解釈においてこれが明白です。教父たちの言ったことを軽蔑したり、カトリック教会の言っていることを軽蔑したり、教皇様の言っていることを軽蔑したりするわけです。ルターの教皇に対する言葉が、どれほど罵倒的であるか周知の通りです。プロテスタントは、要するに、権威の拒絶に他なりません。宗教上のすべての権威の拒絶なのです。
従って、カトリック教会への拒絶にもなります。独立精神の先に、少なくとも宗教上にいうと、より酷いことがあります。つまり現実への拒絶です。ルターはもう目の前にある現実、客観的な対象、つまり物事への同意を否定したので、ルターは自分自身にしか同意していません。

自分が実行する行為に同意するのです。この意味で、プロテスタント主義を特徴づける二つ目の言葉は、主観主義です。プロテスタントの理論の底流にあるのは、また、プロテスタントの理論の結果を特徴づけるのは、主体です。というのも、何かを実行している主体を重んじるところこそ、プロテスタントの理論の大きな特徴だからです。「我」の世界ですね。個人の世界です。ルターの理論の結果をちゃんと理解する為に、独立精神という特徴を念頭に置くべきです。

もちろん、ルターは「世界や国々を変えて見せるぞ」といったような政治家として、自分を全く思っていませんでした。ルターの意図は、最初はそこにありませんでした。間違いなく。だからといって、その意図はなかったからといって、その誤った理論の結果は私たちの目の前に今あることは変わりません。ルターがこういった結果を望まなかったからといって、それらの結果が存在しないわけではありません。ルターは自分の理論を立てました。それで、これから見ていきたいのは、その理論に沿って展開し、発展してみたら、どういった結果・帰結が生じるのかというところです。ルターは種を撒きました。自分で、個人的に、種の実った果物を予想できたとは限りません。しかしながら、予想できなかったとしても、第一にその結果はそれでも存在します。第二に、それでも(それ等は)ルターの撒かれた種に由来するということです。

因みに、留意していただきたいことがあります。17世紀と18世紀の政治学上の大人物はいずれもプロテスタント信徒であることは、興味深いです。信じられないことでしょう。16世紀以降に、新政治学を設立する大理論家、いや教条主義者の内に、幾つかの名が浮かんできます。イギリス人が多くいます。例えば、ホッブスです。またロックです。それから、フランス人ですが、あるいはスイス人として考えてもいいけど、ルソーです。ルソーはカトリック信徒だったりプロテスタント信徒だったり、どちらの宗教上の権威の下にもあまり落ち着かなかったみたいです。要するに、やっぱり独立精神そのものに立った人物です。この意味でプロテスタントの精神はルソーに強く底流しています。

特にホッブスにおいてプロテスタント理論が強くあります。御存じだと思いますが、ホッブスによる主な著作は1551年に出版されたレヴァイアサンです。レヴァイアサンというのは、力強い醜い怪獣の名前で、旧約聖書に登場する海獣です。特にヨブの書に登場します。

ホッブスの政治理論の基礎は、よく知られている文章に要約されています。「万人は万人に対して狼」と。つまり、ホッブスの政治理論の中枢にあるのは、人間には本質的な悪質、悪意があるということになります。プロテスタントの底流にある人間の本性の堕落という悲観主義とまさに一致します。「万人は万人に対して狼」。人間同士では争うだけだ、と。そこから出発して、社会契約の発想に繋がります。つまり、人々は一人の長を選んで、政治上の課題を運営するために、全能の国家を設立します。全能の国家というのは、簡単にいうとこのレヴィアサンなのです。不浄なる強力なる海獣としての国家になります。ある種の独裁主義になります。その全能のお陰で、人間同士の無数の争いを解決するという説なのです。とはいえ、ホッブスの理論の基礎には、社会ではなく、一人ぼっちの個人がいるわけです。ところが、悪質なる個人なのであって、それはプロテスタントの悲観主義から来ます。

ロックは、1667年に「寛容論」を出します。「寛容」とは、面白いことで、注目してください。寛容の話の前提には、人々はバラバラで、統合無しで、統一無しで、なんとか共存させようという前提があります。要するに、それぞれの派閥の間に、一つが優位にならないようにするのが「寛容策」の目的です。当然ながら、本来の、本当の意味での「寛容」が勿論存在しますが、これと違います。ロックなどの近代的な「寛容」、こういった「寛容論」になってしまうと、真理を相対化して、真理の優位を無くすという前提がみられます。要するに、方針づける、方向付ける真理はもうありません。ここにこそ、ルターにおける理性に対する悲観主義を見いだせます。

最後にルソーです。『三人の改革者』という本において、ルソーを指して「自然の聖人 saint de la nature」とジャック・マリタン(Maritain)が名付けます。ルソーにとって、人間の本性は善いのですが、社会によって堕落させられているとしています。以前の見方との逆になりますね。人間は悪質ではないと。しかしながら、結果として、以前と変わりません。社会による堕落のせいで、人間は悪質になってしまうので。それで、人間なら、唯一の良い対策は、個人として生きていくということになります。ここでは、ルターに見られる個人主義を見出せます。これから出発して、社会生活の全般を壊すことになります。

以上の三人だけを挙げてみても、プロテスタント主義の理論がどうやって浸透していくのかが感じられます。雄蕊(おしべ)のように、花粉を空気に飛び散らしていくような感じで、どんどん新しい流派を生んでいきます。政治流派を含めて。

レヴィアサンから引用したホッブスの文章が手元にありますので、読み上げます。
「以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力が無いあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。」 その後に、「万人は万人に対して狼」というのが登場します。それから、社会契約をする必要があると訴えるところです。まあ、次の課題に移りましょう。



プロテスタント主義の政治に対する知識上の結果を分析するまえに、歴史を見ると面白いでしょう。つまり、プロテスタント主義の歴史を見るだけで、政治上のその結果は見えてきますから。プロテスタント主義が起きて、どういうふうに社会へ影響を与えたか、社会に関係したか、その歴史を見る価値があります。

プロテスタントというものを、理論として扱う前に、理論的に議論する前に、先ず事実上、どうなったかを見ておきましょう。例えば、プロテスタントが有力になったのは、平和的な手段で出来たことなのでしょうか。皆様はもう答えを知っておられると思いますけど。勿論、宗教戦争です。

神聖帝国で、ルターがどれほど激しい混乱を起こしたか周知の通りです。農民の一揆とかです。ルターが幾つかの一揆を煽ったし、幾つか煽らなかったところもありますが、幾つかの反乱を煽ったことも確かです。また、諸地方の決定的な分離も起きました。諸侯の間の不和も起きました。所謂、有名な「cujus regio, ejus religio」があります。「ある領地には、その領地の宗教」です。人々は、その領主の宗教と同じ宗教でなければならないという発想です。従って、宗教というのは、恣意的なモノになってしまった上に、領主に依存するようになってしまいました。後でまた触れますが、宗教が政治的権威に依存するようになってしまいました。

それから、当時は継続的な戦争状態となったのです。フランスでは、どれほどの多くの戦争をプロテスタントが起こしたか周知の通りです。竜騎兵平定やサン・バルテルミの虐殺は有名ですけど、宗教戦争については専門家に参照していただきたいと思います。研究上の専門家に、です。一般的に教科書で言われることではなくて、です。真面目にそれらの歴史課題を研究した専門家によると、プロテスタントによる非行や挑発は明白だと通説になっています。もしも、それらの専門書を読んでも、納得いかないのなら、北ヨーロッパの国々の歴史を見たら良いでしょう。名前をちょっと思い出せませんが、そうそう、スカンジナビアの国々で、特にノルウェーとかです。そこでは、剣をもって、どうやってプロテスタントの支配が出来たかという歴史が見られるので、だれでも納得すると思います。印象に残ります。プロテスタントの宗派の支配を無理やりに押し付けたために、数千人の死者がでたほどです。

要するに、歴史の事実を見るだけでは、プロテスタント主義と政治的生活の間に、何かうまくいかないということが既に見てとれます。事実だけですが、政治的生活上に、プロテスタント主義は平和をもたらしたのではありません。事実上、不和と戦争をもたらしたのです。前にも見たように、プロテスタント主義には、底流に不和の種を持っているのです。それで、不和と分離を実際にもたらしてしまったのです。

(続く)

プロテスタントの教えとは何か?その結果、今の社会がどうなっているか?【まとめ】

2018年12月17日 | カトリック
2018年12月1日(土)に開催された、「カトリック復興の会」でビルコック神父様による講話が上映されました。皆様にレジュメ(まとめ)をご紹介します。

プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)ビルコック(Billecocq)神父による哲学の講話



プロテスタントの教えとその政治的な結果について(後編)

●プロテスタントの教えが信仰に反する”異端”であることについて
1- 知識上の誤謬である。
2- 信仰上の誤謬である。
3- 思弁的な教義にすぎない。
 *誤謬による帰結の特徴は、矛盾となっていることを共存させる逆説ということである。
 *過ちは真理の全体の一部しか強調しない挙句に、真理に反する。

●この講話における二つの質問
1- プロテスタントの教えと政治との間に関係はあるのか。
   もしもあるのなら、こういった関係は具体的にどういうものか。
2- 実際に、政治におけるプロテスタントの教えの結果とは何か。

●結論として言えること
1- プロテスタントの教えと政治の間にはっきりした強い関係がある
2- 今現在、私たちの経験しているこの世は、プロテスタントの教えから来る必然的な結果である。
3- 近代的政治理論のすべてはプロテスタントの諸原理に基づく。中世期と近代以前の政治理論と反対する。

●前編の講話で話したプロテスタントの教えの要約
1- 当時のカトリック教会内での乱れという空気の中で、このプロテスタントが生まれたのは確か。
  これらの乱れを回復すべきだったものの、ルターによる運動は直すのではなく、壊す行為だった。
 (また、この乱れというのは、人間が持つ原罪によって傷つけられている本性の故であるので、驚くことでもなく憤慨すべきことでもない。
この乱れは、キリストへの回心秘跡の授与教義の再確認戒律の厳格な実行を再認識することによってしか解決できない。
しかしルターはそれらの立て直しの手段を壊した。)

2- ルター個人の思考と性質における問題点(ルネサンス期が覆われた誤謬めいた知識空気の影響)
  A- 理性への根本的な軽蔑と悲観主義(養成時に”唯名論”という誤謬の影響を受けた)
  B- 人間の本性への根本的な悲観主義(及び アウグスティヌス主義という誤謬の影響を受けた)
  C- 深い傲慢心(当時の教皇使節からの説得を拒絶して権威に逆らった。真理を求めたのではなく、傲慢で動いていた)

3- プロテスタントの教えの問題点
  A- 義化の問題
   天主の恩寵の作用を否定して、霊魂の清めを受けられないと主張する。
   カトリックは「義化」という。プロテスタントは「義認」と言う。
   恩寵は霊魂に注がれて清められて聖寵の状態となる 
   たとえると、ボロボロの壁(霊魂)に天主がピカピカの紙を張り付ける(義認)と理解するのがプロテスタント主義。
   ボロボロの壁(霊魂)を直接にきれいにする(義化)と主張するのがカトリック。
  B- 自由解釈の問題
   教会の解釈・権威・聖伝を否定して 個人の自由な解釈を重んじる

4- 信仰の問題
  A- カトリックにおける信仰は、啓示された天主と真理への積極的同意であり、客観的な真理への理性と知性による同意である。  
  B- ルターにとって 信仰は内面的で個人的な信頼で、客観的な真理と切り離された主観的な行為に過ぎないいわゆる「感傷的な」「感覚主義」にもつながる。


(ここまでは 前回の要約)以降は、「神学上の誤謬が、どうやって政治の誤謬へ展開していくか」検討します。
 ある理論の種が(ルターの場合は悪い種が)必ず発展して、善し悪しが実ってくるのです。

●プロテスタントの教えから導かれる、独立精神とそれから由来する「主観主義」に関すること
1- 独立精神(自由解釈から来る)とは、カトリック教会、聖伝の諸権威への拒絶
  (聖書の解釈・教父たちの言ったことへの軽蔑・カトリック教会の言っていることへの軽蔑・教皇の言っていることへの軽蔑・・)
   権威を徹底的に拒絶すること。宗教上のすべての権威を拒絶すること。宗教上のすべての権威を拒絶すること。

2- ルターが意図せずともルターの理論から展開して発展した結果が政治的にもこの世界を変えた。
   誤謬が誤謬で、何れかその結果がでてくる。

●プロテスタントの教えがどうやって浸透していったか、その具体的な検証
1- ホッブス  1551年 『レヴァイアサン』「万人は万人に対して狼」、人間個人は基本的に悪く、対立して戦い合う。
         人間の本性への悲観主義
2- ロック    1667年 『寛容論』何が真理であるか知り得ないとし、真理のもつ優位性を認めない。
         さまざまな意見と誤謬の共存を計る理論。
3- ルソー   人間は自然のままのほうが善だったが、社会が人間を悪しき者したと主張する。結局、人間は悪い。
4- 雄蕊(おしべ)のように花粉を飛び散らすように、どんどん新しい流派を生んでいった。

●歴史から見るプロテスタントの教えの社会への影響
1- 宗教が政治的権威に依存するようになった。特に北欧では、平和的な手段ではなく、武力で無理やり
   人々に押しつけて広げていった。プロテスタントは戦争を好んだ。

2- 中世には、争いとかあったが、無視されたとしても侮辱されたとしても権威は権威としてずっと認められていた。
   しかしプロテスタント主義は、権威を権威として否定する。

●理論的なプロテスタントの教えのもたらす結果の分析。共通善に反する理論
1- 権威を否定し、統一の崩壊が生じる。(政治生活の根本には統一が必要。一致は根本的な共通善)
2- 自由解釈のせいで、不和の種を潜在的に含み持つ。分離と対立をもたらす。
3- 社会の一致を破壊した。(社会の共通善に反する。平和に反する。社会の目的に反する)。

●プロテスタントの教えが、自由解釈を訴えることで、個人主義をもたらしたこと
1- 近代的な「自由」という価値観を普及させた。
2- 知性の真理を知ることによる完成を否定した挙句に、客観的な真理を求めなくなって、絶対な自由という価値観に逃避した。
3- この自由には中身がなく、純粋な個人主義をもたらした。
4- この個人主義・絶対的自由を訴えることで、社会の共通善は破壊され始めた

●さらに実存主義・実存哲学・無神論へと向かう
1- ルターの教えはルネッサンス期の諸哲学理論の人間中心主義と深く関係している。
  これは無神論に繋がっている。(悲惨なのは、天主が存在することに変わりがないということ)
2- サルトル(近代の人間はこの絶対的自由という結論へと向かっていった。)
3- へーゲル、シェリング、フィヒテなど。 
4- フランス革命「自由・平等・博愛」(教皇ピオ6世の言葉「フランス革命はプロテスタント主義の一つの結果だ」)
5- 人格主義(ペルソナ主義) 共通善の代わりに人格の尊厳が置かれるという理論。
   エマネル・ムニエ。その後継者はジャック・マリタン。

●政治上におけるすべての権威を拒絶して、民主主義が生まれること
1- 個人主義や主観主義の挙句に、社会はバラバラになって戦争状況になる。権威を否定してしまった結果に過ぎない。
   しかしながら、人間は秩序と統一と平和という共通善を必要としているので、必然的に権威をも求めだす。
   ただし、プロテスタント主義が原理において、権威を拒絶するので、権威とは「必要悪」である。
   政府は、専制主義・全体主義によって社会の乱れを鎮める。が、しかし、権威とは不正なものなので、対立構造が終わらない。

2- 統一の不在と権威の拒絶の中、個人個人が何とかして一緒に共存できるために、全体を調整するために
  ある種の権威として自らを立てるが、専制にならないようにしよう、できるなら全く専制無しにしようとする。
  これが、民主主義という制度になった。

●プロテスタントの教えと資本主義と唯物論は密接なつながりがあることについて
1- 天主ではなく地上の富を選ぶという種(たね)を含む。その理由は、プロテスタントの教えにおける誤った救済予定説
   *カトリックの救済予定説によると、人間はすべて救いに招かれている。
   イエズス・キリストが自分の死をもって、霊魂の救済のために出来る
   すべてのことをなさった。従って、救われるために、イエズス・キリストに適うかどうかということで、私たちの協力次第。
   *ところが、プロテスタント主義の救済予定説によると、生まれつき救われない人が定められている。
   が、誰が救われないのか、誰も分からない。しかし、人間に確信が要るので、物質 的な富において自分が救済されるだろうという
   確信を求めようとする。資本主義・物質主義に繋がる。また、道徳相対化の原因になる(何をやっても救われるかどうか決まっているから)。
   また、死者に対しても、生きる者に対しても祈りの必要性を無くす(救済はすでに決まっているので)。カトリックの真逆となる。

2- 元修道士だったルターは、修道生活の三つの誓願(貞潔・清貧・従順の三つ。福音的勧告と呼ばれる)を否定した。
   早い段階で、ルターが祈りの生活を送れなくなる。(自分で明かすところ)

3- ルターは、修道生活・霊的生活・観想生活を否定し、活動的生活と唯物論となった。また、秘跡を否定
   超自然生活を否定聖職生活を否定

4- 「アメリカ主義」とは、活動的生活・目に見える結果を重視することにより、
   「消極的な徳」(謙遜・従順・貞潔・清貧・柔和・忍耐など)目立たない聖徳を否定する。
   レオ十三世は、この活動主義を破門した。祈りを忘れた現代人の忙しい落ち着かない生活の背景には、この「活動主義」がある。

5- このプロテスタントの教えの影響下、労働と生産が人間の人生にとって中心になった。

6- プロテスタントの教えは、救いの確証を「物質的な豊かさ」に求めた。
   物質的豊かさと財産の保有は、生きる上での絶対的な目的となってしまう。
   霊的生活を否定して、仕事を絶対な自己実現にしてしまった。(上の1も参照)

7- 資本主義政治へと導かれる。 

8- 新しいミサの典礼には「労働の実りであるこのパンを捧げる」という祈りがある。
  (新しいミサ とプロテスタント主義の関係)


●カトリック教会へのプロテスタントの教えの影響と侵入
1- カトリック教会の聖職者と言えども社会生活のなかでは社会に蔓延したこのプロテスタントの思想や政治経済などに触れざるを得なかった。

2- 第二バチカン公会議において招待した大勢のプロテスタントの代表者の意見と考えが、
   私的な会話や歓談や茶飲み話や個人的会話などを通して
   大きく影響を与えた。非公式な集まりが多くあり、最も大事な「ミサの改定」にもプロテスタントの代表者が関わる
   ということが起きてしまった。

3- (神学者や高位聖職者・教皇でさえ、その学生時代にプロテスタントの教えの影響を受けた思想を学んでしまっているという
   教育環境により)、カトリック聖職者の思考の中にプロテスタントの教えが少しずつ染みてくるようになった。

4- 君主制なるカトリック教会が、ある種の権威を廃止した団体主義という誤謬によって壊されてしまった。
   それにより民主主義の誤謬や平等という概念と共にカトリック教会の定義が侵されるようになった。
   宗教の自由良心の尊厳人権の尊厳などの考えが内部にまではいり込んだ。
   真理の優位性を訴える力が少なくなって誤謬を断ち切る力も完全になくなっている

5- 天主に従属する秩序ある宗教ではなく、人間中心主義の宗教へと変えられた傾向がある。

●そのような影響に対する、カトリック教会がこれまでにとった対策
1- トレントの公会議で 教義において秩序を回復して、真理なる天主の優位性を再確認した。
   トレントの公会議での諸文書と公教要理によって、教会の内部への影響を食い止めた

2- 第一バチカン公会議では カトリック教会の権威を再確認した。
    「絶対なる自由」に対して、人間の独立に対して、権威と秩序を再断言した。

3- 第二バチカン公会議では、人間中心主義と全ての相対化への対策をとるための
   準備資料を用意して臨んだはずが最初の段階でそれらはゴミ箱に捨てられた
   招待していたプロテスタントの代表者による会議への関与を大幅に許してしまい、
   結果的にプロテスタントの教えが教会内に突入する道を正式に開く羽目になった。


★結論として、最初にルターが蒔いたこの種は教義上の異端であり、事実ではないものだったが
雄蕊(おしべ)のように、花粉をまき散らすようにして、どんどん社会全般・思想全般にわたり
大革命を起し、個人主義・自由主義と唯物論のみならず、専制主義、民主主義と資本主義などたくさんの新しい政治流派を生み出してしまった。

  

「カトリック復興の集い」のお知らせ―明日、2018年12月1日午後1時です

2018年11月30日 | カトリック
「カトリック復興の集い」のお知らせ

「カトリック復興の集い」が次の要領で開かれます。もしよろしかったら是非ともご参加をお願いいたします。

主催・ファチマの聖母の会・プロライフ
会場・東京都文京区本駒込1-12-5 曙町会館
http://g.co/maps/nxeh5
時間・午後1時から4時まで


午後1時・「出産の素晴らしさについて」
(ゲスト・スピーカー)池田正昭(マーチフォーライフ実行委員会)・池田美貴(助産師)
午後2時・「カトリックの結婚」ポール・ド・ラクビビエより
午後3時・上映「プロテスタント主義」Billecocq神父の講話より
午後4時・閉会


「生まれようとする命のための祈りの集い」が次の要領でも行われます。

「生まれようとする命のための祈りの集い」
会場・東京都文京区本駒込1-12-5 曙町会館
http://g.co/maps/nxeh5


「カトリック復興の集い」にひき続いて開催。是非ともそのままご参加をお願いいたします。聖ピオ十世会のアジア管区長、Summers神父様の初来日でもあります。

午後5時より・命のためのロザリオ
午後6時より・命のための聖伝ミサ(初土曜日なので聖母の汚れなき御心の随意ミサ)
お説教は、命について(Summers神父)です。

また、同じ会場での翌日の主日のミサ(午前10時30分よりSummers神父司式)の後に、午後2時より管区長の講話がございます。(お話のテーマは、わかり次第お知らせいたします。)

以上です。

ご検討をよろしくお願いいたします。!



Youtube の「公教要理」のおしらせ

2018年06月27日 | カトリック
皆様へのお知らせでございます。

皆様には、いろいろな側面・関係でご興味があるかも知れないと思い、お知らせまでに、リンクをお届けします。趣味・興味・研究・フランス語・知識・信仰・勉強などなど、なにか参考になるだろうと思いますので、お知らせします。

日本語字幕付のフランス語動画で、一講話ずつ、10分ぐらいの連載講座でありまして、カトリックの教義を纏まって説明する公教要理です。

毎週、日曜日に、発信することにしています。ユーチュブで「公教要理」を検索されると、出てきます。

極めて簡潔に纏まった連載講座で、フランス語としても素晴らしく、また幅広く、カトリック教義の内容を、正確に厳密に説明していますので、是非とも、ご覧いただければと思います!

ご紹介の部 https://youtu.be/HfrgIRD_plg
第一講 https://youtu.be/YiXUg78nRq8

お知り合いの方々にも、ご興味のある人々にも、ご存知でしたら、どうぞご遠慮なく、この情報を広く拡散していただけたら、何より幸いです


Cher tous,

Nous avons rendu public un projet de sous-titrage en japonais d'un cours de catéchisme en français sous le format de petits cours d'une dizaine de minutes.

N'hésitez à les transmettre largement, pour des japonais de votre connaissance, mais aussi pour vous-même ou vos amis, pour réviser, compléter ou tout simplement découvrir le catéchisme dans ces cours très bien faits!

Je vous envoie donc les liens du cours de présentation, du premier cours.

Présentation https://youtu.be/HfrgIRD_plg
1er cours https://youtu.be/YiXUg78nRq8

Un nouveau cours paraîtra chaque dimanche.

L'ensemble des cours en français sur le site suivant:

http://laportelatine.org/catechisme/catechisme.php

A très bientôt,



カトリックについて知りたいならば、「カトリックの信仰(岩下壮一著)」  ポール・ド・ラクビビエ 書評「キリスト教を世に問う!」より

2018年01月08日 | カトリック
書評「キリスト教を世に問う!」
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

新著紹介 【国体文化】平成 30 年 1 月号 30
〔書評〕奥山篤信『キリスト教を世に問う!』/ポール・ド・ラクビビエ より転載


はじめに

物事の醜さよりも美しさに目を向けたいと思う私からすれば、このような憎しみに溢れた文章を読むのは本意でない。「嘘や虚構は一切ない」(はじめに)という彼の記述が正しいなら、そんなものが長続きするわけがなく、そうであるなら、こんな本を書くだけ無駄ではないか。

それより問題だと思うのが、奥山氏が自身を保守派と考えており、そう周囲も捉えているらしいという点だ。彼は、無神論の一種であるヘドイズムに共感しているようだが、それは敬虔さを欠いた傲慢なエゴイズムである。そうした思想に依りつつ、超越性や精神性と堅く結びついている天皇への尊崇を守り、伝統を守ると云えるのか。カトリック信者である私からすれば、「天皇に対する反逆者」としか見えない。


結論先にありき

いきなり、ジョン・レノンの「イマジン」が登場する。「国なんて無い」・「宗教も無い」という歌詞を含む曲だが、この歌に筆者は共感するらしい。さらに、カント、フォイエルバッハ、カール・マルクス、ニーチェなどの言葉が引用されているが、彼らは皆、自己を絶対化する近代主義者であり、社会主義やグローバリズムに連なる者すら含まれる。悪い冗談としか思えない。

さらに、奥山氏は、一神教・カトリック・プロテスタントという全く異なるものをキリスト教という一つのカテゴリーに押し込めて「悪」と決めつける。その上、キリスト教の何たるかを知らぬ人々に対して教義を体系的に示すことなく、自説に都合の良い引用を列挙して事足れりという書き振りは知的に不誠実ではあるまいか。

第三章では、「山上の垂訓」を「実現不能な妄想の世界」と批判するが、その全文を引用しないのは何故か。また、キリスト教を批判するというなら(神・子・聖霊の)三位一体や(信徳・望徳・愛徳の)三対神徳といった根本書評的な教義をこそ取り上げたら良いだろうに、それを回避するのは何故か。

第五章で示される「隣人愛」に対する奥山の批判についても異論がある。「隣人愛」について「自分を善人と見せかける愛」と論難するが、隣人どうしが憎み合った方が良いというのだろうか。そもそも、「隣人愛」とは眼前の苦しんでいる人を助けることであり、第三者に見せつける必要などない。軽い笑顔で接するだけでも助けになるのであり、金品の問題ではない。その点からすれば、全く会ったことがない、見も知らぬ人のためになされる国際的な募金活動は「隣人愛」と無縁のものだ。さらに言えば、「隣人愛」は自己に対する愛があってのものだ。自分にとって一番近しい存在であるから、自分自身を肯定することなしに他者を愛することなど不可能である。


また、奥山氏は聖職者の一部に見られる「偽善」を殊更に取り上げる。

第六章ではヴァチカンとナチスとの蜜月関係が取り上げられているけれども、一面的な記述に終始している。カトリック教会は、ナチスの全体主義に批判的であった。とは言え、ドイツに居る多くのカトリック信者をナチスの迫害から守る責任がヴァチカンにはある。つまり、国家としてのヴァチカンが外交という手段で信者を守ったということに過ぎず、カトリックの教義とは関係がない。

さらに言えば、聖職者にしても信者にしても、人間である以上は罪から免れることはできない。奥山氏が思っているのとは逆に、カトリック信者は自らを完璧な存在などとは思っていない。罪深い存在であると自覚しているからこそ、自らの過ちを悔い改めて再び繰り返さぬよう神に祈り、赦しという秘蹟が与えられるのだ。教皇猊下であろうとも例外ではない。重要なのは、悔い改めて天主に近づこうとすることなのだ。

そもそも、本当にカトリック教会を批判したいのであれば、マザー・テレサのような、カトリックの内部でも評価が分かれている人物ではなく、誰もが聖人と認める人物を俎上に載せるべきではないか。また、奥山は言及せぬが、これまでの歴史において少なからぬ殉教者が存在した。それは聖職者に限らなかった。また、貴族も居たが、聖ジャンヌ・ダルクのような農民出身の女性騎士も居たのである。そうした多様な聖人について、どうして奥山氏は何も語らないだろうか。

「赤ちゃん殺し」を正当化している第四章も呆れるばかりだ。奥山氏は、「堕胎とは男女平等の普遍的原理からして当然の女性の権利である」と革命主義者まがいの科白を口にして恥じない。本誌平成二十九年十月号にも記したが、堕胎は殺人であり、それは親たる大人の許されざる我が儘である。その非を説くのは、宗教として当然のことだろう。

そして、「キリスト教の本質」と題する第七章も誤解だらけだ。奥山氏は、ニーチェに倣ってキリスト教を「ルサンチマン宗教」と見なすが、そうではない。自らの人間性を見据え、その罪深さを認めた上で、自らや周囲を哀れみ、そして愛するところにキリスト教の本質がある。

ただ、「愛」という概念は誤解されやすい。三大神徳の中でも至上である「愛徳」は、イエスを私たち人間のために送った天主の愛に由来する。つまり、人間的な愛着ではなく、天主との一致と定義できよう。天主の御姿に擬えて創造された人間(それゆえ、人間は被造物世界である宇宙において愛徳の実現化の可能性がる存在として特別な存在とされる)が宇宙の本質かつ創造者である天主を受け入れるにあたり、天国において成立している天主との関係を正しく理解し、「道」として実践することを通じて、他の人間や大自然(被造物世界)と繋がることこそ「愛」なのだ。そうした「道」としての「愛」を人間に示したのがイエスであり、その御姿にならうことが人間に課されているのである。

キリスト教を「禁欲主義」とする理解も間違いだ。少なくとも、カトリックは違う。霊魂と身体とは区別できるものの不可分であり、身体を否定しない。もちろん、乱れを容認はしない。過剰を抑え、節度を保ち、人間としての「道」を歩もうというのだ。

奥山は復讐を禁止するキリスト教を欺瞞に満ちていると主張するが、厳密に言うと、復讐は禁止されていない。イエスは、律法の破壊者ではなく、昇華せしめた存在であるから、報復を否定しているわけではない。しかし、復讐しても何の良いこともないので、敵であろうと愛しなさいと説いているのである。それは、昔の騎士のように十分な力を有していることを前提として、その上でもなお「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」と言うことなのだ。イエスは、ただ説くだけでなく、自らの受難という形で、このことを示された。そもそも、全能なる天主の子であるイエスは、その気になれば、容易に世界を破壊することが出来るのだ。にもかかわらず、頬を差し出した。そこに意味があるのだ。これの何処が欺瞞か。

以上、簡潔に疑問点を示したが、誤った事実・歴史観・先入観に基づき、神学に対する言及もないまま独善的な議論を展開している。「十字軍」や「魔女裁判」などに関する最近の研究動向も御存知ないらしい(これらについては改めて紹介したい)。奥山氏はキリスト教を「反知性的」と難ずるが、彼の言う「知性」は近代合理主義である。その相対的な人間中心あるいは自己中心的な屁理屈に過ぎない近代合理主義が、如何に人間を不幸にしてきたか。そのことに、奥山氏は思いを致しているのだろうか。

要するに、この本を読んだところで、カトリックのことは何も分からない。そう言うだけでは不親切だから、日本語で書かれたカトリック神学に関する体系的な著述を紹介しておきたい。


岩下壮一「カトリックの信仰」(二〇一五年・ちくま学芸文庫)


「敵」を間違えてはならない

「道」に背く人間が存在することは確かだ。真理は真理として存在することに変わりはないが、それと霊魂とが切り離されるという面において、そのような存在は極めて有害と言わざるを得ない。カトリックにおいて、「道」に外れた行為をなし、最期まで悔い改めなかったのであれば地獄行きは免れないが、それを裁くのは天主であって人間ではない。人間に出来るのは、天主が示された「道」から逸れまいと努力することだけだ。

奥山氏は「道」が天主の存在抜きに成立すると考えているようだが、それは不可能ではないか。天主の存在を否定し、人間を基準とする近代主義が社会に蔓延すると、宗教のみならず権威・主権・伝統・習慣・歴史といったものは悉く食い潰されてゆく。その最初にして最大の犠牲者が、わが祖国フランスだが、日本もまた同様の道をたどりつつあるように見える。撃つべきは、フランス革命に象徴される近代主義なのだ。奥山は、第九章において教育勅語を持ち出すが、そこに示された徳目を成り立たしめているものは何か。個人を超えた存在ではないのか。

教育勅語の徳目を賞賛するならば、まず個人を超えた存在に対する認識を深める必要があると思われる。その観点からすれば、フランス王室とカトリック教会との関係に目を向けて貰いたい。フランス正統派の苦闘にこそ、近代主義との闘いにおいて参考となる点が少なくないと私は思う。当然のことながら、天皇を戴く国家が続いてきた日本の国体主義者に、私たちフランス人が学ぶべき点も多い。両者は互いに良きところを取り、足らざるところを補う関係を形成すべきであろう。

この本について私が最も疑問に思ったのは、奥山氏のキリスト教に対する強い悪意が何処から生じたかという点だ。聖書を紐解けば、堕天使ルシファーやイエスを裏切ったユダを初めとして、我欲のため天主に背いた例が幾つも見える。天主にとって、私たちは必要不可欠な存在ではない。私たちの存在は、天主が創造した宇宙の秩序に何ら影響を与えない。だが、私たちは理性を通じて宇宙の秩序を知り、それに従って行動することは出来る。そうしたチャンスを活かせるか否か、死に際してなされる裁きにおいて天国に昇るか地獄に落ちるかは、自己の責任である。ただ、天主は私たち人間を愛しているので、イエスを地上に遣わし、受難の果てに磔刑にされ、復活するという奇蹟を表すことによって宇宙の秩序を示したのだ。ゆえに、カトリックの正統信仰においては、奇蹟と理性とは矛盾しないのだ。

なぜ、この点に拘るのかというと、かく云う私自身、幼くしてカトリックの洗礼を受けたものの、長年にわたり教会と距離を置いて来たからだ。当時の私は、今の奥山氏と同じだった。そうなったのは、自分自身の傲慢さによるが、愚かな信者や聖職者に対する嫌悪感ゆえでもあった。また、物事の良き側面ではなく、悪しき側面を強調する近代社会の風潮も相俟って、私は理屈を弄び、キリスト教を欺瞞と偽善に満ちた宗教だと思い込み、嫌ってきた。そうした体験を有するからこそ、この本に厳しい評価を下すのである。


では、いったい如何にして私がカトリックに回帰したか、という点に興味をもたれる方もあるだろう。

それは、真のカトリックを知ったからだ。日本ではあまり知られていないが、一九六二年から一九六五年にかけて開催された第二ヴァチカン公会議の問題点に気付いたからだ。これは、教皇ヨハネ二十三世の提唱によって始まり、次のパウロ六世の下でも続けられたが、この会議を通じてカトリック教会に近代主義が浸透してしまった。教義には何の変更がなされなかったものの、「現実世界に妥協する必要がある」という名目で牧師の活動において今まで禁じられていたことが色々と許されるようになった。とりわけ、信仰の根幹に関わることが曖昧にされた。

キリスト教の教派を超えた団結を主張である「エキュメニズム」が教会内部で力を得るばかりか、ラテン語による伝統的な典礼に代わって各国語による典礼が行われるようになるなど、「自由・平等・朋友愛」というフランス革命の理念に相通ずる「信仰の自由・聖職の劣等化・権威者の不用」を是認する施策が推進された。信仰とは頭ではなく体で受け入れるものであり、その意味において典礼は非常に重要なものだ.現代人が受け入れ易いか否かにばかり目を向けた結果、現在のカトリック教会におけるミサは本来のミサでなくなってしまった。

そのことに気付き、私は伝統的な典礼によって行われたミサに参列するようになった。ここ30年ほどの間、欧州を中心としてカトリック教会は大きな打撃を受けだが、昨今、こうしたカトリック教会における近代主義的な動きは収まりつつあり、伝統的な典礼も自由に行われるなど揺り戻しが起きている。その点に関して興味がある方は、是非ともルフェーブル大司教(一九〇五~一九九一)の歩みを辿ってみてほしい。大司教の人生を描いた映画もインターネット上で見られる(https://vimeo.com/112910346)。

奥山氏におかれては、我欲に塗れ、近代主義に毒された多数派ではなく、たとえ少数であっても伝統的な神学や典礼を固守し続け、天主の忠実なる僕たらんとしてきた一団にも目を向けて頂きたい。伝統的な典礼で行われるミサに御案内し、本物の聖職者に面会する機会を喜んでセッティングしたい。その上でもなお、キリスト教は非難すべきものであるのか、改めて御見解を伺いたい。

メキシコシティ: 礼拝が増すにつれ、暴力が劇的に減少

2017年11月17日 | カトリック
●2008年から2010年まで、メキシコ北部のフアレス市は、世界で最も危険な都市の一つだった。しかし今とても安全と考えられている。その変化は聖体礼拝のためだ。「教会が昼も夜も神を礼拝する時、街は変容する。」
●聖体礼拝を始めた直後から殺人率が劇的に低下し始めた。2010年から2015年の間に、殺人件数は3,766人から僅か256人に減少した。
●絶望した小教区の一つが宣教師たちに絶え間ない聖体礼拝を頼んだ。「イエズス様だけが私たちに安全を与えることができる」と確信したからだ。
●アメリカのテキサス州フォートワースの使徒聖ペトロ教会でも、メキシコのフアレス市にならい絶え間ない聖体礼拝を始めた。周囲の複数の教会からも礼拝者が来ることで、この礼拝は広い地域全体のための恵みになっており、人々がこれを求めている。


メキシコシティ: 礼拝が増すにつれ、暴力が劇的に減少より引用

メキシコシティ
礼拝が増すにつれ、暴力が劇的に減少
「教会が昼も夜も神を礼拝する時、街は変容します」 by パティ・ナップ


2008年から2010年まで、メキシコ北部のシウダー・フアレスは、薬物やギャングに関連した暴力のために、世界で最も危険な都市の一つに数えられていた。しかし今、劇的に転換し、ボルチモアやニューオーリンズなどのアメリカの都市よりも安全と考えられている。

パトリシオ・ヒレマン神父は、その変化は聖体礼拝のためだと信じている。「教会が昼も夜も神を礼拝する時、街は変容します」と彼は言う。

シウダー・フアレス出身の訴訟追行者、検察官であるホルヘ・ゴンザレス・ニコラスは、「フアレスは非常に苦しんで来ました。多くの痛みの中をくぐって来ました。しかし、市は甦りつつあります。これは、どのようなことが起こり得るかに関する一つの象徴的な出来事です。これほど急速に方向転換することができた場所は他にありません」と語った。

ヒレマン神父がラジオ・マリア・アルゼンチンに語ったところによると、宣教師たちは2013年に最初の永久礼拝堂を開設した[管理人注1]。当時は「ドラッグをアメリカに密輸する二つのギャング団が抗争していて、そのために一日に40人の人が死んでいました」。

彼らはフアレスとシナロアの〔麻薬〕カルテルだった。後者は最近メキシコから米国に引き渡されたホアキン “エル・チャポ” グスマン・ロエラによって率いられていた。ヒレマン神父は「教会は、この戦いは終わらないだろうと言っていました。何故なら、一方のギャング団は兵士の一団と結びついており、他方のギャング団は警察と結びついていたからです。彼らは人々を殺し、家々を焼き払い、立ち去る、といった仕方で、町中で戦いを繰り広げていました」と回想する。

しかし、礼拝を始めた直後から、殺人率が劇的に低下し始めた。2010年から2015年の間に、殺人件数は3,766人から僅か256人に減少した。

「絶望に打ちひしがれた」小教区の一つが宣教師たちに永久礼拝堂の開設を頼んだ。何故なら、彼らは「この事態から私たちを救うことができるのはイエズス様だけだ。イエズス様だけが私たちに安全を与えることができる」と確信したからである。宣教師たちは僅か三日後、初めての永久礼拝堂をフアレスに開設した。

ヒレマン神父は、市が占拠状態にある時に起こった一つの出来事について語った。或る一人の女性が、午前3時からの担当のために礼拝堂に向う途上、6人の兵士たちに止められた。彼らは彼女に、どこへ行こうとしているのか、と尋ねた。彼女が、「小聖堂」に行こうとしているのだ、と答えると、制服を着た男たちは、そんな場所がどこにあるというのか、と言った。と云うのは、その時刻では、どこもかしこも閉まっていたからである。それで彼女は彼らに、自分の目で確かめるために彼女について来てはどうか、と提案した。彼らが礼拝堂についた時、彼らはそこで「6人の女性が午前3時からの聖時間を行なっている」のを見た。ヒレマン神父はそう語った。



次はアメリカはテキサス州の話。しかし、上のメキシコの話と関係する。

使徒聖ペトロ教会は
摂理的なタイミングで永久礼拝を始めた by メリー・ルー・シーウォースター

2017年7月19日

フォートワースの使徒聖ペトロ教会の信徒マーチン・デイリーが永久礼拝を始めることを望んで同教会のマヌエル・ホルギン神父に接触した時、その成り行きは摂理的だった。

「彼は目に涙をためていました」とデイリーは回想する。「そして彼は『私は誰かが私のところに来るのを待っていたんです』と言いました」

デイリーは、ホルギン神父が2016年7月に同教会に着任する以前からフォートワースで永久礼拝が行なわれるようになることを祈っていたことを知らなかった。そしてホルギン神父もまた、デイリーが2015年以来、永久礼拝を求めてミシェル・オルセン司教に手紙を書いていたことを知らなかった。

「それは非常に摂理的でした」とホルギン神父は言う。「それは私も望んでいたことでした。彼は完璧な時に私のところに来ました」

それは完璧なタイミングだった。何故ならその時、聖ペトロ・ユース・センターは改装中であり、そこには容易に永久礼拝堂にすることができる小聖堂の改装も含まれていたからである。

「神様のタイミングは完璧です」とホルギン神父は言う。

カルカッタの聖テレサ・永久礼拝堂は今、ほとんど完成している。それは、祭壇、ステンドグラスの窓、カンデラブラ〔枝つき燭台〕、そして小さな香部屋が整っている。最初のボランティアたちは〔2017年〕7月5日の午前9時から午後6時まで御聖体を礼拝した。

現在、礼拝の時間は毎日曜日の午後6時に始まり、土曜日の深夜まで続く。最終目標は、日曜日の数時間を埋めることを引き受けてくれる人が現われて、それによって永久礼拝〔途切れることのない礼拝〕が成立することである。

ホルギン神父は、自分はこの教会で永久礼拝が行なわれることを望んでいる、何故ならそれは夜昼なく常時御聖体の前で祈ることから来る実りと利益を経験する機会を提供するものであるから、と語った。

「私たちはこの素晴らしい恵みを持っています。御聖体の内なる神のまことの現存を。私たちはカトリック教徒として、この恵みに気づき、その価値を正しく評価することが大切です。彼は本当にそこにおられる、と知ることが大切です」

永久礼拝を求めるモチベーションとなったもう一つの事は「或る地域が24時間の礼拝によって変容したのを知ったこと」である、とホルギン神父は語った。

彼は ACI Prensa の一つの記事〔英訳〕に言及した。その記事の中で、パトリシオ・ヒレマン神父が、メキシコのシウダード・フアレスでの暴力の減少の原因を永久礼拝に帰していた。2013年、その国境の街に最初の永久礼拝堂が開かれた後、二ヶ月も経たないうちに、その都市での死亡率が減少し始めた。

バルバラ・ブスタマンテによる同記事によれば、フアレスに於ける年間殺人件数は、2010年の3,766件から、2015年の256件へと減少した。

「街は麻薬カルテルと犯罪と闘っていました」とホルギン神父。「しかし[永久礼拝堂に於ける]主の現存が、その地域の人々の現実を変えたのです」

オルセン司教から永久礼拝の許可を受けようとする時、ホルギン神父は、自分もまた「御聖体と人々の両方を保護」しなければならないのです、と説明した。

そうするために、教会はその礼拝堂の内と外にセキュリティカメラを設置した。午後11時から午前6時までは、スケジュールされた礼拝者たちだけが、コード化されたキーパッドを介して礼拝堂に入ることができる。警備会社も、午後11時から午前5時まで、礼拝堂の外を巡回している。
礼拝のスケジュール編成を手伝った聖ペトロ教会の助祭ヴェンデル・ガイガーは最初、毎日の各時間帯のために2名の礼拝者を用意する、という要件は満たすのが難しいのではないか、と懐疑的だった。

「しかし、結果は驚くべきものでした。告知すると、次から次へと人々がやって来たのです」と彼は言った。
「これは神がそうされたに違いありません」と彼は付け加えた。「私たちは、この事を口伝えで聞いた他の教会の人々からも電話を受け始めました。私たちは彼らには伝えていなかったのですが、彼らの方から私たちに連絡して来たのです」

助祭ガイガーは、周囲の複数の教会からも礼拝者が来ることで、この永久礼拝は「本当に広い範囲のコミュニティの利益になっています。それはその地域全体のための恵みになっており、私は、人々がこれを求めていることをとても嬉しく思っています」と語った。

助祭ガイガーは、6人の専任教会員のチームに加えて、3月のウィークエンドのミサで聖体礼拝について説教したローレンス・ヴィロン神父(Missionary of the Blessed Sacrament)の助けも借りることにした。

「彼は人々の内なる飢えを引き出す素晴らしい説教をしました。私たちは極めて大きな反応を得ました」と助祭ガイガーは言う。「これは、祈りの共同体ということと、神の御前に居たいという人間の心の望み、などに関係します」

彼はまた、ウィチタフォールズのイエズスの聖心教会で礼拝を促進しているブレンダ・グレイソンとも仕事をした。その教会での礼拝はまだ永久的な〔途切れない〕ものにはなっていないけれども、230名のスケジュールされた礼拝者を得て、一日の礼拝時間を15時間から19時間に増やした。

「運営上、彼女は私にって大きな助けとなりました」と彼は語った。「私がしなければならなかったことと云えば、Excel の使い方を覚えることと、人々の能力を使わせてもらうことぐらいでした」
使徒聖ペトロ教会の目標は永久礼拝だが、日曜日の数時間は依然として礼拝者がいない。永久礼拝堂は教会の聖域とは別の建物にあるので、礼拝はウィークエンドのミサの間もそこで続けられることが可能だろうけれども。

ホルギン神父は、御聖体の中のイエズス様と一時間を過ごしたいと思う人なら誰にでも、礼拝者になるよう招いている。

「主はあなたを待っています」と彼は言う。「彼とコミュニケーションを取ることは良いことです──彼に対して心を開くことは。そして、イエズス様もまた私たちに対して心を開いておられる、ということを経験して下さい」

メキシコのビューティー・クィーンは、修道女として天主に身を捧げるために全てを捨てる。

2017年08月05日 | カトリック
「メキシコのビューティー・クィーンは、修道女として天主に身を捧げるために全てを捨てる。」
Reina de belleza mexicana deja todo para entregarse a Dios como religiosa
Por Diego López Marina
からの引用

エスメラルダ・ソリス・ゴンサレス(Esmeralda Solís Gonzáles)は、2016年地元で「ミス・ビューティー・クィーン(Reina de belleza)」に選ばれた20歳の若いメキシコ女性である。「ミス・ハリスコ」に応募する代わりに、2017年3月御聖体のクララ宣教会に入会した。




「もし全世界をもうけても、自分の命を失ったらそれがなんの役にたつだろう。人は、その命をなにととりかえられよう。」(マルコ8:36)

エスメラルダは1997年4月2日にメキシコのハリスコ州バジェ・デ・グァダルーペのカトリックの家庭で生まれた。栄養士の仕事を退職して、今ではモレロス州のクエルウナバカの御聖体のクララ宣教会の修道院にいる。

エスメラルダは「キリストの十字架を受け入れてそれをもっと近くに生きる生活」を望んだ。そのために祈りと愛徳に多くの時間を費やした。

御聖体のクララ宣教会は、1945年、メキシコのクエルナバカで、福者マリア・イネス・テレサ・アリアス(María Inés Teresa Arias, 1904~81)によって創立された。1951年には日本でも創立された。

「本当は日本で創立したかったそうです。イエズス会のペドロ・アルペ神父が、メキシコに行った時、修道女の集まりで、原爆投下された敗戦直後の広島の様子を伝えたといいます。その話に心を打たれた創立者は、修道会が認司されると同時に、日本に4人の会員を派遣しました。ですから、私たちの会では、日本地区は“長女”と呼ばれています」

いまでは、メキシコ、コスタリカ、アルゼンチン、アメリカ合衆国、スペイン、イタリア、アイルランド、ロシア、日本、韓国、インドネシア、シエラ・レオナ、ナイジェリア、ベトナム、インドに修道院がある。