白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
前回、第四戒を見ましたので、今回、次の第五戒を見ていきましょう。
第五戒の題目はどうなっているでしょうか。次のとおりです。
第五 なんじ、殺すなかれ。
分かりやすい題目なのです。第五戒は隣人それから自分自身の命を奪うことを禁じています。隣人だけではなく、自分自身の生命をも奪ってはいけないという誡でもあります。
第五 なんじ、殺すなかれ。
「命」あるいは「生命」という表現には二つの意味があります。当然ながら、身体上の生命を指します。そして、その上、霊魂上の生命をも意味するのです。したがって、第五戒はこの二つの意味で理解することができます。
第一に、いわゆる身体上の生命に関する戒であって、一般的にいうと「殺人行為」に関係する戒となります。つまり、簡単にいうと、殺人することは禁じられているのです。
しかしながら、第五戒は霊魂の生命を奪うことをも禁じています。「霊魂上の命を殺す」ということは何でしょうか?スキャンダル(不祥事)を起こすということです。聖ヨハネ・ボスコの喩えによると、スキャンダルとは足掛けのようなことです。言いかえると、スキャンダルというのは人の行為ですが、この行為によって、隣人に悪影響を及ぼして、隣人に悪い行為、つまり罪を引き起こすように促進するスキャンダルです。
ですから、聖ヨハネ・ボスコは足掛けの話をします。というのも、足掛けする人は意図的に足を出して悪い行為となります。そして、足掛けという悪い行為のせいで、もう一人が転倒して、地面に転びます。そして転んだ人は痛いです。霊的の意味でのスキャンダルは例えば、正当な権威をもって悪い模範を示すことによって、ほかの人々を同じ悪い行動をするように、つまり罪を犯すように招く行為を言います。
典型的な一例として、残念ながらも、いわゆるエキュメニズム的な宗教会議があります。特に1986年のアッシジ会議では、教皇が諸宗教の指導者を迎えた時、大スキャンダルを犯しました。ルフェーブル大司教はこれを知って苦しかったあまりに、放送された映像を見るに堪えられなかったほどのスキャンダルでした。
アッシジ会議ではそれぞれの宗教の指導者は並んで一緒に祈っているという光景でしたが、これは本物のスキャンダルでした。なぜでしょうか?そうすることによって、すべての宗教は同じく真理を持っているという誤った印象を与えるからです。裏を返せば、カトリック以外にも諸宗教は良い宗教であり得るという印象を与えて、ほかの宗教はもはや否定すべきではないという誤った印象を与えるからです。
その結果、第一に、異教徒は回心への道が困難となってきます。異教徒に対してのスキャンダルです。それはそうでしょう。「私の宗教が良かったのなら、カトリックにわざわざ改宗しなくてもよい」と思わせるので、その結果、多くの人々に対して天国の門を閉めることにつながるからです。そして、カトリック信徒に対しても本物のスキャンダルです。というのも、このような会議は、カトリック信徒も自分の信仰を相対化する招きとなり、そして信仰を弱めるよう招きとなり、場合によって信仰を否認するような招きにもなりかねません。まさにこれはスキャンダルに当てはまります。つまり、教皇という一人の人の行為が、多くの人々の罪を犯す引き金となってしまったのです。
また、例えば、家長(父)によるスキャンダルもわかりやすいでしょう。つまり、悪い模範を示す父のせいで、子供たちには悪い慣習、つまり罪を身につけさせるような結果を招くスキャンダルがあります。以上、スキャンダルについてでした。つまり、霊魂の生命を奪うという意味における第五誡に関しては、このぐらいにしておきましょう。
次に、身体上の生命を奪うと意味における第五戒についてみていきましょう。この意味における第五戒に背くやり方はいくつかあります。
まず、天主より生命を頂いているということをよく理解すべきです。つまり、命の持ち主は天主なのです。唯一天主が生命の創造主であり、生命の持ち主であるということです。天主は私たちみなを創造してくださったし、命を司る存在なのです。ですから、天主こそは生命のあるじ(主)なので、自分自身の命あるいは隣人の命を犯すということは私たちへの支配権(Dominionあるいは権威)を否定することにつながります。
言いかえると、自分自身の命あるいは隣人の命を犯す人は「天主が命の持ち主である事実」を否定し、その現実を拒絶する行為を犯すことになるのです。これはまさに、自分が天主の代わりに自分自身の命あるいは隣人の命の主(あるじ)になるかのようにする行為なのです。従って、また後述しますが、殺人行為と自殺の根本にはある種の傲慢があります。つまり、「私の人生・生命・命の主(あるじ)は私自身だ!やりたいことをやってよいぞ!」あるいは「隣人の命の主(あるじ)は私自身だ!」というような傲慢です。
要するに、第五戒をよく理解するためには、天主ご自身こそがあらゆる命の(唯一の)持ち主であることを知るがよいでしょう。
これは、ほかの十戒を理解するためにも大事なことです。つまり、天主は勝手に理由や、根拠なくして、掟や禁止令を出すようなことはありません。
つまり、いわゆる純粋な道徳主義でもなければ、純粋な意志主義でもありません。また律法至上主義でもありません。カトリックの道徳は教義を基盤にして、また本物の意味での哲学【人間の本性を現実に沿って明らかにする理性の働き】を基盤にしています。カトリックの道徳は道理に従っています。つまり、人間の行動は、ことに恩寵によって完全化された人間としてのキリスト教徒の行為は、理性に従っています。要するに、知っているから、物事をわかっているから、理解しているからこそ、カトリック信徒が理性的な行動をとっているのです。
このようなことは、十戒に至って当てはまります。もちろん、十戒の内に理解しづらいこともあるし、ぱっとみたら不明に見えている部分もあるでしょう。しかしながら、善き天主は何かの掟を命じる時に「命じたから従え」ということに尽きるわけではありません。つまりこのような好き勝手な命令だったら暗に「違う掟を命じたかもしれない」というようなことになりますが、そんなことはありません。たとえば、このような理屈によると、「なんじ、殺すなかれ。」という掟が、天主が違う気になったとしたら、「なんじ、殺してよかろう」と命じた可能性があるということになります。それはありませんよ。完全に違います。どうあったとしても、「なんじ、殺すなかれ。」という掟になっています。殺すのはいつでもどこでも悪いことだということです。変わりうる掟ではありません。
なぜでしょうか。殺すという行為は自分自身を命のあるじにするという行為であって、即ち、天主の代わりに自分自身を置くという行為なので、いつでもどこでも悪い行為ということになるのです。以上のようなことを理解すると、第五戒に関する説明もより明らかになるでしょう。
殺人行為が禁止されている理由も明らかになります。殺人行為とは何でしょうか?殺人行為の定義を厳密に示しましょう。言葉には大事な意味なありますので、注意しましょう。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。繰り返します。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。
一つ一つの言葉は重いです。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」これは大犯罪です。
皆、よく知っている堕胎は、まさにこの殺人行為であり、堕胎は大犯罪なのです。なぜでしょうか?堕胎は不正な殺人だからです。また堕胎は意識的に行う殺人だからです。また、無罪の人(この場合、赤ちゃん)に対する殺人だからです。ぴったりと定義に当てはまるのです。同じように、「安楽死」も大犯罪なのです。不正な殺人である上、意識的に行う殺人であり、無罪の人に対する殺人となります。
安楽死を支持する論調としてよく聞かれているのは「病者は苦しんでいるあまりに病者自身が苦しまないように何とかしてくれと言っている」から、つまり「とどめを刺してほしい」ということを要求する病者がいるという主張があります。しかしながら、死にかけている状態をそのままにほったらかして死んでいくことと、積極的にとどめを刺すこととはかなり違う行為なのです。
つまり、死をもたらす行為を犯す人、あるいは、死の時を早める行為を犯す人は、天主に対する罪を犯すことになります。なぜでしょうか?前述したように第一に、病者であろうとも、自分自身を殺すことを決めることは「自分自身の生命のあるじが自分自身である」と宣言するような行為だからです。「しかしながら、苦しみに耐えられない場合なら許されないのか?」と言われるかもしれません。いや、むしろ、このようなことをいうのはカトリック信仰を否定するようなことです。というのも、十字架上に私たちの主、イエズス・キリストがなぜ苦しみを受けられたでしょうか?なぜ、苦しみと悔い改めを私たちに示されたのでしょうか?なぜでしょうか?苦しみは私たちの罪の償いであるからです。
ですから、苦しみと悔い改めを拒絶するカトリック信徒は間接的に、私たちの主、イエズス・キリストの十字架を拒絶することを意味します。そして、このようにして、罪の贖罪を拒絶することにもなります。あるいは、罪の贖罪を可能にしている苦しみを拒絶することにもなります。これは、苦しみを拒絶する信徒はイエズス・キリストに倣うことを拒絶するということを意味します。もちろん、言うのは簡単ですし、実際に困難な状況に遭う時、実践するのは難しいです。
しかしながら、実践することが難しいということを正当化するような社会はキリスト教を否定しているのであり、その邪悪さと責任は重いです。【つまり、苦しみを受けるべきだと言ってくれる社会でなくなったとき、もはや苦しみを素直に受け入れることが困難となり、結果としては、救済を危うくすることになってしまうのであり、これはむしろひどい話です】。
これは、いかに社会のなかで生きていくことが必要であるかということもよりよく理解されることになると思います。つまり、家族に見捨てられて病院で一人ぼっちになって孤独となった人よりも、温かい家庭の中で苦しんでいる人の方が与えられた苦しみを受け入れやすいのは理解しやすいでしょう。つまり、何も人間的な要素が残されていない「病院」に見捨てられて孤独となった人が、苦しみを受け入れることは温かい家族のなかにいる人よりも至難の業となります。
しかしながら、だからといって、これをもって安楽死を正当化するよう話にはなりません。その問題を解決することになりません。その逆です。このような場合が生じる原因は社会が堕落して、悪くなったからです。つまり、本来、言うべき真理を言わなくなった弊害は限りなく大きいのです。ですから、これを解決するためには社会の悪い傾向に抵抗すべきであって、状況を悪化させるような安楽死を支持できるわけがありません。
以上、殺人行為の幾つかの事例を取り上げました。
次に、第五戒における殺人行為の定義をよく理解した時、第五戒には例外も含まれていることがわかってきます。つまり、例外的に「殺してもよい」場合があるということです。現代フランスではデリケートな課題になって、おそらく腹を立てる人もいるでしょうけど、「死刑」という例外があります。
「でも、死刑は人権に反するだろう」という人がいます。しかしながら、問題は人権ではありません。関係ありません。天主の権利こそが問題になっているのです。人権より前に天主の権利がきます。これを理解することは大事です。
では、「死刑」とは何でしょうか?第一に死刑とは人の社会上の処刑なのです。それを忘れてはなりません。人間は社会あっての動物なのです。確かに、現代にはやっている近代的な個人主義や「一人の人が全体である」と決めつけて、「個人としてのためにだけ社会が存在するに過ぎない」というようなある種の人格主義のせいで、「死刑」に関するまともな話はもはや理解されなくなっています。
しかしながら、人々は必ず社会の一員なのです。つまり、ある全体の一部なのです。そして、全体の存命を脅かすほどに社会の一部が堕落したら、この一部を社会から除かざるを得ない場合が生じます。つまり、残りの社会を毒しないために、堕落した一部を「隔離」すべきなのです。具体的にいうと、社会から悪い一部分を切り離すというやり方にはいろいろありますが、深刻な堕落の場合、死刑に処することが正当化されることもあります。
死刑を理解するために人の身体の一部にたとえてみましょう。糖尿病の患者がいるとしましょう。その患者は足に傷口があるとしましょう。そしてその傷口は壊疽(えそ)にかかり始ったとしましょう。糖尿病の患者に聞いてみたらすぐわかりますが、残念ながらやむを得ない判断が必要となってきます。壊疽が体全体に拡大してきて、患者の死亡につながることを待つよりも、患者は自壊疽にかかる足一本の切断を間違いなく決定するのです。なぜでしょうか?一部を切断することによって、全体を救えるからです。このように一部分よりも全体の方が大事なのです。つまり、足を守って死ぬよりも、足を捨ててでも生き残る方がよいに決まっています。当然といったら当然でしょうが。
このように社会においてもこのようなことがあるということを理解することは必要です社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合には死刑が正当化されることもあるのです。当然、社会という全体を深刻に脅かすというには一定の条件がありますので、軽々に死刑の判決を出すことは当然ながら認められませんし、また、フランスの歴史を見ても容易に処された刑罰でもありません。ですから、社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合は死刑が正当化されることもあるのです。「人権に反する」あるいは「不正だ」と反駁される人もでてくるかもしれません。
しかしながら、昔のフランス、非常にキリスト教的な社会だったフランスにおいては実際に死刑についてどうしていたでしょうか?多くもなかった死刑の判決の受刑者の元に、必ず神父を送り込んでいました。つまり、受刑者の回心を助けるために神父の訪問がありました。そして、実際に歴史を見ると素晴らしい回心の事例は数え切れないほどに確認できます。記念すべき数多くの死刑受刑者の回心があります。禁固によって得られた回心です。あえていえば、死刑によって得られた回心です。
なぜでしょうか?「死」の前にいる人は自分の運命を考えざるを得なくなるからです。また、死は永遠を想起して、考えるきっかけとなるからです。そして、死刑の判決が渡された信徒、その天主よりの恩寵を受け入れて回心してゆき、自分の死を受け入れて善き死を遂げる死刑受刑者は歴史上に多いのです。歴史を見るのがよいです。回心してゆく死刑の受刑者は自分の死を受け入れるべきだということを理解していたし、立派に死んでいったのです。このように、正当なる「死刑」は「殺人行為」の一つの例外なのです。
次は、正当な戦争という例外もあります。正当な戦争が成り立つためには、不正な侵略者が存在するという前提があります。具体的には、自分の保全を守るべきある国が不正に侵略されたら、侵略した国に対して戦争をすることは正当な行為です。現代では、(経済を中心に)国境がなくなりつつある中で、「ヒト・モノ・カネ」の国際移動も増えた結果、正当な戦争という概念は理解しづらいことであるかもしれません。しかしながら、正しい戦争はやはり正当なのです。
例えば、父は正体不明の人を家にだれでも入れることはそもそもしないように父は子供を守るべきであることと同じようなことが国あるいは祖国においても同じようなことがいえます。これはまさに正当な戦争なのです。つまり、外国から来た侵略者、明らかに弊害をもたらしに来る侵略者を何もせずに侵略されて元首がそのままほったらかすわけにはいかないようなことです。このような場合に限っては正当防衛のようなこととして、正しい戦争となります。
そして、正当防衛は第五戒の例外となります。つまり、自分の命を奪おうとしている襲い掛かる人を被害者が殺した場合、殺人行為となりません。なぜでしょうか。愛徳の義務には順番があって、第一に自分自身に対する愛徳の義務があるからです。いわゆる正当防衛なのです。自分の生命を奪おうとする不正の攻撃に対する正当防衛なのです。以上、殺人行為の例外を紹介しました。
つぎに、殺人行為の一環として自殺があります。ラテン語では「sui・occidere」で「自分を殺す」という意味です。自殺は禁じられています。なぜでしょうか。自殺する人は自分自身の命のあるじであるかのようにふるまって、天主よりの私たちの生命への「Dominion(支配権・家長権)」を否定する行為だからです。
「苦しんでいる人もいるからそれはひどくない?」と言われるかもしれません。しかしながら、苦しみを受け入れることを拒否することははっきり言って卑怯です。卑怯な行為です。自殺は卑怯な行為なのです。残念ながら、現代社会で蔓延しつつある自殺は我々の社会の霊的かつ文化的な堕落、また大悲哀の結果なのです。自殺がこのような堕落の結果であることは間違いなく自明でしょう。
加えて、自殺は根本的に人間の本性に反する、反自然的な行為なのです。
自然に皆、自分の命を守る本能をもっています。例えば、転倒した時、反射的に手を出して自分の身を体が勝手に守ろうとしています。だれでも自然に命を愛しています。考えないで、頭で否定しようとも、身体は反射的に自分を守ろうとしています。瀕死の人にあった人はすぐわかると思いますが、瀕死の人の身体はどうしても死に対して最期まで戦い続けるのです。頭があきらめたとしても。どうしても、(身体は)自分の生命を守ろうとします。ですから、自殺は、つまり自分の生命を奪うことは反自然的な行為なのです。
また、自殺は社会に反する行為でもあります。これはより理解しづらいかもしれません。人間は社会の一部であるがゆえに、一人の人は自分自身のためのではなく、社会全体のために行為しなければならない本性を持っています。そして、自殺する人は自分を社会から削るようなものであって、非常に非人間的な行為であって、自殺者はもはや社会による完成化を享受できなくなって政治的な存在としてはなくなります。
そして、自殺することは天主に反する行為でもあります。
公教会は自殺に対して非常に厳しいです。自殺者の埋葬を禁止するほどです。もちろん、ここに言う自殺者は認識しながら自殺した者を指します。例えば、精神薬のような重い薬を飲んだ挙句に、何をやっていることでさえ自分が分からなくなって、認識も意図することもなく自殺してしまった場合、埋葬禁止にはもちろんなりません。
しかしながら、何をやっているかを知っているうえに自殺を犯した者に対しては、公教会は埋葬を禁止しています。同じように、深刻な理由がない限り、自分の命を軽々しく危険に晒してはいけません。いわゆる、自分の命を危険にさらすことは、死ぬことにはならないとしても、深刻な罪となります。これらは大罪なのです。
また、身体の保全を壊すような行為も大罪となります。たとえば、自分自身の体を楽しみに苦しめることは禁じられています。まあ、自分を苦しめて快楽を覚えることはそもそもないでしょうけど、いわゆる例えば、勝手にどうなるかを知るために自分の腕を傷つけたりするような行為はだめです。天主に対する罪でもあります。
以上、殺人行為に関する説明でした。注意しましょう。第五戒の殺人行為はほかの罪とも関係しています。というのも殺人行為自体はそれほど日常な犯罪でもないと言われるかもしれません。しかしながら、第五戒には殺人行為に導く行為も含まれています。憎悪感、復讐の欲望、怒り、不和などなどという罪は第五戒にも含まれています。当然ながら、殺人行為とは深刻度が違うのですが、これらの罪は定着してくると、殺人行為につながることもあるということです。
第五戒は「生命を奪わないこと」を要求しています。繰り返しますが、その理由は「天主は命のあるじである」からです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理 第百一講 第五戒について
前回、第四戒を見ましたので、今回、次の第五戒を見ていきましょう。
第五戒の題目はどうなっているでしょうか。次のとおりです。
第五 なんじ、殺すなかれ。
分かりやすい題目なのです。第五戒は隣人それから自分自身の命を奪うことを禁じています。隣人だけではなく、自分自身の生命をも奪ってはいけないという誡でもあります。
第五 なんじ、殺すなかれ。
「命」あるいは「生命」という表現には二つの意味があります。当然ながら、身体上の生命を指します。そして、その上、霊魂上の生命をも意味するのです。したがって、第五戒はこの二つの意味で理解することができます。
第一に、いわゆる身体上の生命に関する戒であって、一般的にいうと「殺人行為」に関係する戒となります。つまり、簡単にいうと、殺人することは禁じられているのです。
しかしながら、第五戒は霊魂の生命を奪うことをも禁じています。「霊魂上の命を殺す」ということは何でしょうか?スキャンダル(不祥事)を起こすということです。聖ヨハネ・ボスコの喩えによると、スキャンダルとは足掛けのようなことです。言いかえると、スキャンダルというのは人の行為ですが、この行為によって、隣人に悪影響を及ぼして、隣人に悪い行為、つまり罪を引き起こすように促進するスキャンダルです。
ですから、聖ヨハネ・ボスコは足掛けの話をします。というのも、足掛けする人は意図的に足を出して悪い行為となります。そして、足掛けという悪い行為のせいで、もう一人が転倒して、地面に転びます。そして転んだ人は痛いです。霊的の意味でのスキャンダルは例えば、正当な権威をもって悪い模範を示すことによって、ほかの人々を同じ悪い行動をするように、つまり罪を犯すように招く行為を言います。
典型的な一例として、残念ながらも、いわゆるエキュメニズム的な宗教会議があります。特に1986年のアッシジ会議では、教皇が諸宗教の指導者を迎えた時、大スキャンダルを犯しました。ルフェーブル大司教はこれを知って苦しかったあまりに、放送された映像を見るに堪えられなかったほどのスキャンダルでした。
アッシジ会議ではそれぞれの宗教の指導者は並んで一緒に祈っているという光景でしたが、これは本物のスキャンダルでした。なぜでしょうか?そうすることによって、すべての宗教は同じく真理を持っているという誤った印象を与えるからです。裏を返せば、カトリック以外にも諸宗教は良い宗教であり得るという印象を与えて、ほかの宗教はもはや否定すべきではないという誤った印象を与えるからです。
その結果、第一に、異教徒は回心への道が困難となってきます。異教徒に対してのスキャンダルです。それはそうでしょう。「私の宗教が良かったのなら、カトリックにわざわざ改宗しなくてもよい」と思わせるので、その結果、多くの人々に対して天国の門を閉めることにつながるからです。そして、カトリック信徒に対しても本物のスキャンダルです。というのも、このような会議は、カトリック信徒も自分の信仰を相対化する招きとなり、そして信仰を弱めるよう招きとなり、場合によって信仰を否認するような招きにもなりかねません。まさにこれはスキャンダルに当てはまります。つまり、教皇という一人の人の行為が、多くの人々の罪を犯す引き金となってしまったのです。
また、例えば、家長(父)によるスキャンダルもわかりやすいでしょう。つまり、悪い模範を示す父のせいで、子供たちには悪い慣習、つまり罪を身につけさせるような結果を招くスキャンダルがあります。以上、スキャンダルについてでした。つまり、霊魂の生命を奪うという意味における第五誡に関しては、このぐらいにしておきましょう。
次に、身体上の生命を奪うと意味における第五戒についてみていきましょう。この意味における第五戒に背くやり方はいくつかあります。
まず、天主より生命を頂いているということをよく理解すべきです。つまり、命の持ち主は天主なのです。唯一天主が生命の創造主であり、生命の持ち主であるということです。天主は私たちみなを創造してくださったし、命を司る存在なのです。ですから、天主こそは生命のあるじ(主)なので、自分自身の命あるいは隣人の命を犯すということは私たちへの支配権(Dominionあるいは権威)を否定することにつながります。
言いかえると、自分自身の命あるいは隣人の命を犯す人は「天主が命の持ち主である事実」を否定し、その現実を拒絶する行為を犯すことになるのです。これはまさに、自分が天主の代わりに自分自身の命あるいは隣人の命の主(あるじ)になるかのようにする行為なのです。従って、また後述しますが、殺人行為と自殺の根本にはある種の傲慢があります。つまり、「私の人生・生命・命の主(あるじ)は私自身だ!やりたいことをやってよいぞ!」あるいは「隣人の命の主(あるじ)は私自身だ!」というような傲慢です。
要するに、第五戒をよく理解するためには、天主ご自身こそがあらゆる命の(唯一の)持ち主であることを知るがよいでしょう。
これは、ほかの十戒を理解するためにも大事なことです。つまり、天主は勝手に理由や、根拠なくして、掟や禁止令を出すようなことはありません。
つまり、いわゆる純粋な道徳主義でもなければ、純粋な意志主義でもありません。また律法至上主義でもありません。カトリックの道徳は教義を基盤にして、また本物の意味での哲学【人間の本性を現実に沿って明らかにする理性の働き】を基盤にしています。カトリックの道徳は道理に従っています。つまり、人間の行動は、ことに恩寵によって完全化された人間としてのキリスト教徒の行為は、理性に従っています。要するに、知っているから、物事をわかっているから、理解しているからこそ、カトリック信徒が理性的な行動をとっているのです。
このようなことは、十戒に至って当てはまります。もちろん、十戒の内に理解しづらいこともあるし、ぱっとみたら不明に見えている部分もあるでしょう。しかしながら、善き天主は何かの掟を命じる時に「命じたから従え」ということに尽きるわけではありません。つまりこのような好き勝手な命令だったら暗に「違う掟を命じたかもしれない」というようなことになりますが、そんなことはありません。たとえば、このような理屈によると、「なんじ、殺すなかれ。」という掟が、天主が違う気になったとしたら、「なんじ、殺してよかろう」と命じた可能性があるということになります。それはありませんよ。完全に違います。どうあったとしても、「なんじ、殺すなかれ。」という掟になっています。殺すのはいつでもどこでも悪いことだということです。変わりうる掟ではありません。
なぜでしょうか。殺すという行為は自分自身を命のあるじにするという行為であって、即ち、天主の代わりに自分自身を置くという行為なので、いつでもどこでも悪い行為ということになるのです。以上のようなことを理解すると、第五戒に関する説明もより明らかになるでしょう。
殺人行為が禁止されている理由も明らかになります。殺人行為とは何でしょうか?殺人行為の定義を厳密に示しましょう。言葉には大事な意味なありますので、注意しましょう。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。繰り返します。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。
一つ一つの言葉は重いです。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」これは大犯罪です。
皆、よく知っている堕胎は、まさにこの殺人行為であり、堕胎は大犯罪なのです。なぜでしょうか?堕胎は不正な殺人だからです。また堕胎は意識的に行う殺人だからです。また、無罪の人(この場合、赤ちゃん)に対する殺人だからです。ぴったりと定義に当てはまるのです。同じように、「安楽死」も大犯罪なのです。不正な殺人である上、意識的に行う殺人であり、無罪の人に対する殺人となります。
安楽死を支持する論調としてよく聞かれているのは「病者は苦しんでいるあまりに病者自身が苦しまないように何とかしてくれと言っている」から、つまり「とどめを刺してほしい」ということを要求する病者がいるという主張があります。しかしながら、死にかけている状態をそのままにほったらかして死んでいくことと、積極的にとどめを刺すこととはかなり違う行為なのです。
つまり、死をもたらす行為を犯す人、あるいは、死の時を早める行為を犯す人は、天主に対する罪を犯すことになります。なぜでしょうか?前述したように第一に、病者であろうとも、自分自身を殺すことを決めることは「自分自身の生命のあるじが自分自身である」と宣言するような行為だからです。「しかしながら、苦しみに耐えられない場合なら許されないのか?」と言われるかもしれません。いや、むしろ、このようなことをいうのはカトリック信仰を否定するようなことです。というのも、十字架上に私たちの主、イエズス・キリストがなぜ苦しみを受けられたでしょうか?なぜ、苦しみと悔い改めを私たちに示されたのでしょうか?なぜでしょうか?苦しみは私たちの罪の償いであるからです。
ですから、苦しみと悔い改めを拒絶するカトリック信徒は間接的に、私たちの主、イエズス・キリストの十字架を拒絶することを意味します。そして、このようにして、罪の贖罪を拒絶することにもなります。あるいは、罪の贖罪を可能にしている苦しみを拒絶することにもなります。これは、苦しみを拒絶する信徒はイエズス・キリストに倣うことを拒絶するということを意味します。もちろん、言うのは簡単ですし、実際に困難な状況に遭う時、実践するのは難しいです。
しかしながら、実践することが難しいということを正当化するような社会はキリスト教を否定しているのであり、その邪悪さと責任は重いです。【つまり、苦しみを受けるべきだと言ってくれる社会でなくなったとき、もはや苦しみを素直に受け入れることが困難となり、結果としては、救済を危うくすることになってしまうのであり、これはむしろひどい話です】。
これは、いかに社会のなかで生きていくことが必要であるかということもよりよく理解されることになると思います。つまり、家族に見捨てられて病院で一人ぼっちになって孤独となった人よりも、温かい家庭の中で苦しんでいる人の方が与えられた苦しみを受け入れやすいのは理解しやすいでしょう。つまり、何も人間的な要素が残されていない「病院」に見捨てられて孤独となった人が、苦しみを受け入れることは温かい家族のなかにいる人よりも至難の業となります。
しかしながら、だからといって、これをもって安楽死を正当化するよう話にはなりません。その問題を解決することになりません。その逆です。このような場合が生じる原因は社会が堕落して、悪くなったからです。つまり、本来、言うべき真理を言わなくなった弊害は限りなく大きいのです。ですから、これを解決するためには社会の悪い傾向に抵抗すべきであって、状況を悪化させるような安楽死を支持できるわけがありません。
以上、殺人行為の幾つかの事例を取り上げました。
次に、第五戒における殺人行為の定義をよく理解した時、第五戒には例外も含まれていることがわかってきます。つまり、例外的に「殺してもよい」場合があるということです。現代フランスではデリケートな課題になって、おそらく腹を立てる人もいるでしょうけど、「死刑」という例外があります。
「でも、死刑は人権に反するだろう」という人がいます。しかしながら、問題は人権ではありません。関係ありません。天主の権利こそが問題になっているのです。人権より前に天主の権利がきます。これを理解することは大事です。
では、「死刑」とは何でしょうか?第一に死刑とは人の社会上の処刑なのです。それを忘れてはなりません。人間は社会あっての動物なのです。確かに、現代にはやっている近代的な個人主義や「一人の人が全体である」と決めつけて、「個人としてのためにだけ社会が存在するに過ぎない」というようなある種の人格主義のせいで、「死刑」に関するまともな話はもはや理解されなくなっています。
しかしながら、人々は必ず社会の一員なのです。つまり、ある全体の一部なのです。そして、全体の存命を脅かすほどに社会の一部が堕落したら、この一部を社会から除かざるを得ない場合が生じます。つまり、残りの社会を毒しないために、堕落した一部を「隔離」すべきなのです。具体的にいうと、社会から悪い一部分を切り離すというやり方にはいろいろありますが、深刻な堕落の場合、死刑に処することが正当化されることもあります。
死刑を理解するために人の身体の一部にたとえてみましょう。糖尿病の患者がいるとしましょう。その患者は足に傷口があるとしましょう。そしてその傷口は壊疽(えそ)にかかり始ったとしましょう。糖尿病の患者に聞いてみたらすぐわかりますが、残念ながらやむを得ない判断が必要となってきます。壊疽が体全体に拡大してきて、患者の死亡につながることを待つよりも、患者は自壊疽にかかる足一本の切断を間違いなく決定するのです。なぜでしょうか?一部を切断することによって、全体を救えるからです。このように一部分よりも全体の方が大事なのです。つまり、足を守って死ぬよりも、足を捨ててでも生き残る方がよいに決まっています。当然といったら当然でしょうが。
このように社会においてもこのようなことがあるということを理解することは必要です社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合には死刑が正当化されることもあるのです。当然、社会という全体を深刻に脅かすというには一定の条件がありますので、軽々に死刑の判決を出すことは当然ながら認められませんし、また、フランスの歴史を見ても容易に処された刑罰でもありません。ですから、社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合は死刑が正当化されることもあるのです。「人権に反する」あるいは「不正だ」と反駁される人もでてくるかもしれません。
しかしながら、昔のフランス、非常にキリスト教的な社会だったフランスにおいては実際に死刑についてどうしていたでしょうか?多くもなかった死刑の判決の受刑者の元に、必ず神父を送り込んでいました。つまり、受刑者の回心を助けるために神父の訪問がありました。そして、実際に歴史を見ると素晴らしい回心の事例は数え切れないほどに確認できます。記念すべき数多くの死刑受刑者の回心があります。禁固によって得られた回心です。あえていえば、死刑によって得られた回心です。
なぜでしょうか?「死」の前にいる人は自分の運命を考えざるを得なくなるからです。また、死は永遠を想起して、考えるきっかけとなるからです。そして、死刑の判決が渡された信徒、その天主よりの恩寵を受け入れて回心してゆき、自分の死を受け入れて善き死を遂げる死刑受刑者は歴史上に多いのです。歴史を見るのがよいです。回心してゆく死刑の受刑者は自分の死を受け入れるべきだということを理解していたし、立派に死んでいったのです。このように、正当なる「死刑」は「殺人行為」の一つの例外なのです。
次は、正当な戦争という例外もあります。正当な戦争が成り立つためには、不正な侵略者が存在するという前提があります。具体的には、自分の保全を守るべきある国が不正に侵略されたら、侵略した国に対して戦争をすることは正当な行為です。現代では、(経済を中心に)国境がなくなりつつある中で、「ヒト・モノ・カネ」の国際移動も増えた結果、正当な戦争という概念は理解しづらいことであるかもしれません。しかしながら、正しい戦争はやはり正当なのです。
例えば、父は正体不明の人を家にだれでも入れることはそもそもしないように父は子供を守るべきであることと同じようなことが国あるいは祖国においても同じようなことがいえます。これはまさに正当な戦争なのです。つまり、外国から来た侵略者、明らかに弊害をもたらしに来る侵略者を何もせずに侵略されて元首がそのままほったらかすわけにはいかないようなことです。このような場合に限っては正当防衛のようなこととして、正しい戦争となります。
そして、正当防衛は第五戒の例外となります。つまり、自分の命を奪おうとしている襲い掛かる人を被害者が殺した場合、殺人行為となりません。なぜでしょうか。愛徳の義務には順番があって、第一に自分自身に対する愛徳の義務があるからです。いわゆる正当防衛なのです。自分の生命を奪おうとする不正の攻撃に対する正当防衛なのです。以上、殺人行為の例外を紹介しました。
つぎに、殺人行為の一環として自殺があります。ラテン語では「sui・occidere」で「自分を殺す」という意味です。自殺は禁じられています。なぜでしょうか。自殺する人は自分自身の命のあるじであるかのようにふるまって、天主よりの私たちの生命への「Dominion(支配権・家長権)」を否定する行為だからです。
「苦しんでいる人もいるからそれはひどくない?」と言われるかもしれません。しかしながら、苦しみを受け入れることを拒否することははっきり言って卑怯です。卑怯な行為です。自殺は卑怯な行為なのです。残念ながら、現代社会で蔓延しつつある自殺は我々の社会の霊的かつ文化的な堕落、また大悲哀の結果なのです。自殺がこのような堕落の結果であることは間違いなく自明でしょう。
加えて、自殺は根本的に人間の本性に反する、反自然的な行為なのです。
自然に皆、自分の命を守る本能をもっています。例えば、転倒した時、反射的に手を出して自分の身を体が勝手に守ろうとしています。だれでも自然に命を愛しています。考えないで、頭で否定しようとも、身体は反射的に自分を守ろうとしています。瀕死の人にあった人はすぐわかると思いますが、瀕死の人の身体はどうしても死に対して最期まで戦い続けるのです。頭があきらめたとしても。どうしても、(身体は)自分の生命を守ろうとします。ですから、自殺は、つまり自分の生命を奪うことは反自然的な行為なのです。
また、自殺は社会に反する行為でもあります。これはより理解しづらいかもしれません。人間は社会の一部であるがゆえに、一人の人は自分自身のためのではなく、社会全体のために行為しなければならない本性を持っています。そして、自殺する人は自分を社会から削るようなものであって、非常に非人間的な行為であって、自殺者はもはや社会による完成化を享受できなくなって政治的な存在としてはなくなります。
そして、自殺することは天主に反する行為でもあります。
公教会は自殺に対して非常に厳しいです。自殺者の埋葬を禁止するほどです。もちろん、ここに言う自殺者は認識しながら自殺した者を指します。例えば、精神薬のような重い薬を飲んだ挙句に、何をやっていることでさえ自分が分からなくなって、認識も意図することもなく自殺してしまった場合、埋葬禁止にはもちろんなりません。
しかしながら、何をやっているかを知っているうえに自殺を犯した者に対しては、公教会は埋葬を禁止しています。同じように、深刻な理由がない限り、自分の命を軽々しく危険に晒してはいけません。いわゆる、自分の命を危険にさらすことは、死ぬことにはならないとしても、深刻な罪となります。これらは大罪なのです。
また、身体の保全を壊すような行為も大罪となります。たとえば、自分自身の体を楽しみに苦しめることは禁じられています。まあ、自分を苦しめて快楽を覚えることはそもそもないでしょうけど、いわゆる例えば、勝手にどうなるかを知るために自分の腕を傷つけたりするような行為はだめです。天主に対する罪でもあります。
以上、殺人行為に関する説明でした。注意しましょう。第五戒の殺人行為はほかの罪とも関係しています。というのも殺人行為自体はそれほど日常な犯罪でもないと言われるかもしれません。しかしながら、第五戒には殺人行為に導く行為も含まれています。憎悪感、復讐の欲望、怒り、不和などなどという罪は第五戒にも含まれています。当然ながら、殺人行為とは深刻度が違うのですが、これらの罪は定着してくると、殺人行為につながることもあるということです。
第五戒は「生命を奪わないこと」を要求しています。繰り返しますが、その理由は「天主は命のあるじである」からです。