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汝、殺すなかれ:なぜアシジの会議は第五戒にあたるのか?

2020年11月22日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百一講 第五戒について



前回、第四戒を見ましたので、今回、次の第五戒を見ていきましょう。
第五戒の題目はどうなっているでしょうか。次のとおりです。

第五 なんじ、殺すなかれ。

分かりやすい題目なのです。第五戒は隣人それから自分自身の命を奪うことを禁じています。隣人だけではなく、自分自身の生命をも奪ってはいけないという誡でもあります。

第五 なんじ、殺すなかれ。

「命」あるいは「生命」という表現には二つの意味があります。当然ながら、身体上の生命を指します。そして、その上、霊魂上の生命をも意味するのです。したがって、第五戒はこの二つの意味で理解することができます。

第一に、いわゆる身体上の生命に関する戒であって、一般的にいうと「殺人行為」に関係する戒となります。つまり、簡単にいうと、殺人することは禁じられているのです。
しかしながら、第五戒は霊魂の生命を奪うことをも禁じています。「霊魂上の命を殺す」ということは何でしょうか?スキャンダル(不祥事)を起こすということです。聖ヨハネ・ボスコの喩えによると、スキャンダルとは足掛けのようなことです。言いかえると、スキャンダルというのは人の行為ですが、この行為によって、隣人に悪影響を及ぼして、隣人に悪い行為、つまり罪を引き起こすように促進するスキャンダルです。

ですから、聖ヨハネ・ボスコは足掛けの話をします。というのも、足掛けする人は意図的に足を出して悪い行為となります。そして、足掛けという悪い行為のせいで、もう一人が転倒して、地面に転びます。そして転んだ人は痛いです。霊的の意味でのスキャンダルは例えば、正当な権威をもって悪い模範を示すことによって、ほかの人々を同じ悪い行動をするように、つまり罪を犯すように招く行為を言います。

典型的な一例として、残念ながらも、いわゆるエキュメニズム的な宗教会議があります。特に1986年のアッシジ会議では、教皇が諸宗教の指導者を迎えた時、大スキャンダルを犯しました。ルフェーブル大司教はこれを知って苦しかったあまりに、放送された映像を見るに堪えられなかったほどのスキャンダルでした。



アッシジ会議ではそれぞれの宗教の指導者は並んで一緒に祈っているという光景でしたが、これは本物のスキャンダルでした。なぜでしょうか?そうすることによって、すべての宗教は同じく真理を持っているという誤った印象を与えるからです。裏を返せば、カトリック以外にも諸宗教は良い宗教であり得るという印象を与えて、ほかの宗教はもはや否定すべきではないという誤った印象を与えるからです。

その結果、第一に、異教徒は回心への道が困難となってきます。異教徒に対してのスキャンダルです。それはそうでしょう。「私の宗教が良かったのなら、カトリックにわざわざ改宗しなくてもよい」と思わせるので、その結果、多くの人々に対して天国の門を閉めることにつながるからです。そして、カトリック信徒に対しても本物のスキャンダルです。というのも、このような会議は、カトリック信徒も自分の信仰を相対化する招きとなり、そして信仰を弱めるよう招きとなり、場合によって信仰を否認するような招きにもなりかねません。まさにこれはスキャンダルに当てはまります。つまり、教皇という一人の人の行為が、多くの人々の罪を犯す引き金となってしまったのです。

また、例えば、家長(父)によるスキャンダルもわかりやすいでしょう。つまり、悪い模範を示す父のせいで、子供たちには悪い慣習、つまり罪を身につけさせるような結果を招くスキャンダルがあります。以上、スキャンダルについてでした。つまり、霊魂の生命を奪うという意味における第五誡に関しては、このぐらいにしておきましょう。

次に、身体上の生命を奪うと意味における第五戒についてみていきましょう。この意味における第五戒に背くやり方はいくつかあります。
まず、天主より生命を頂いているということをよく理解すべきです。つまり、命の持ち主は天主なのです。唯一天主が生命の創造主であり、生命の持ち主であるということです。天主は私たちみなを創造してくださったし、命を司る存在なのです。ですから、天主こそは生命のあるじ(主)なので、自分自身の命あるいは隣人の命を犯すということは私たちへの支配権(Dominionあるいは権威)を否定することにつながります。

言いかえると、自分自身の命あるいは隣人の命を犯す人は「天主が命の持ち主である事実」を否定し、その現実を拒絶する行為を犯すことになるのです。これはまさに、自分が天主の代わりに自分自身の命あるいは隣人の命の主(あるじ)になるかのようにする行為なのです。従って、また後述しますが、殺人行為と自殺の根本にはある種の傲慢があります。つまり、「私の人生・生命・命の主(あるじ)は私自身だ!やりたいことをやってよいぞ!」あるいは「隣人の命の主(あるじ)は私自身だ!」というような傲慢です。

要するに、第五戒をよく理解するためには、天主ご自身こそがあらゆる命の(唯一の)持ち主であることを知るがよいでしょう。
これは、ほかの十戒を理解するためにも大事なことです。つまり、天主は勝手に理由や、根拠なくして、掟や禁止令を出すようなことはありません。

つまり、いわゆる純粋な道徳主義でもなければ、純粋な意志主義でもありません。また律法至上主義でもありません。カトリックの道徳は教義を基盤にして、また本物の意味での哲学【人間の本性を現実に沿って明らかにする理性の働き】を基盤にしています。カトリックの道徳は道理に従っています。つまり、人間の行動は、ことに恩寵によって完全化された人間としてのキリスト教徒の行為は、理性に従っています。要するに、知っているから、物事をわかっているから、理解しているからこそ、カトリック信徒が理性的な行動をとっているのです。

このようなことは、十戒に至って当てはまります。もちろん、十戒の内に理解しづらいこともあるし、ぱっとみたら不明に見えている部分もあるでしょう。しかしながら、善き天主は何かの掟を命じる時に「命じたから従え」ということに尽きるわけではありません。つまりこのような好き勝手な命令だったら暗に「違う掟を命じたかもしれない」というようなことになりますが、そんなことはありません。たとえば、このような理屈によると、「なんじ、殺すなかれ。」という掟が、天主が違う気になったとしたら、「なんじ、殺してよかろう」と命じた可能性があるということになります。それはありませんよ。完全に違います。どうあったとしても、「なんじ、殺すなかれ。」という掟になっています。殺すのはいつでもどこでも悪いことだということです。変わりうる掟ではありません。

なぜでしょうか。殺すという行為は自分自身を命のあるじにするという行為であって、即ち、天主の代わりに自分自身を置くという行為なので、いつでもどこでも悪い行為ということになるのです。以上のようなことを理解すると、第五戒に関する説明もより明らかになるでしょう。

殺人行為が禁止されている理由も明らかになります。殺人行為とは何でしょうか?殺人行為の定義を厳密に示しましょう。言葉には大事な意味なありますので、注意しましょう。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。繰り返します。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」。

一つ一つの言葉は重いです。「殺人行為とは無罪の人を対象に不正かつ意識的に行う殺人です」これは大犯罪です。

皆、よく知っている堕胎は、まさにこの殺人行為であり、堕胎は大犯罪なのです。なぜでしょうか?堕胎は不正な殺人だからです。また堕胎は意識的に行う殺人だからです。また、無罪の人(この場合、赤ちゃん)に対する殺人だからです。ぴったりと定義に当てはまるのです。同じように、「安楽死」も大犯罪なのです。不正な殺人である上、意識的に行う殺人であり、無罪の人に対する殺人となります。



安楽死を支持する論調としてよく聞かれているのは「病者は苦しんでいるあまりに病者自身が苦しまないように何とかしてくれと言っている」から、つまり「とどめを刺してほしい」ということを要求する病者がいるという主張があります。しかしながら、死にかけている状態をそのままにほったらかして死んでいくことと、積極的にとどめを刺すこととはかなり違う行為なのです。

つまり、死をもたらす行為を犯す人、あるいは、死の時を早める行為を犯す人は、天主に対する罪を犯すことになります。なぜでしょうか?前述したように第一に、病者であろうとも、自分自身を殺すことを決めることは「自分自身の生命のあるじが自分自身である」と宣言するような行為だからです。「しかしながら、苦しみに耐えられない場合なら許されないのか?」と言われるかもしれません。いや、むしろ、このようなことをいうのはカトリック信仰を否定するようなことです。というのも、十字架上に私たちの主、イエズス・キリストがなぜ苦しみを受けられたでしょうか?なぜ、苦しみと悔い改めを私たちに示されたのでしょうか?なぜでしょうか?苦しみは私たちの罪の償いであるからです。

ですから、苦しみと悔い改めを拒絶するカトリック信徒は間接的に、私たちの主、イエズス・キリストの十字架を拒絶することを意味します。そして、このようにして、罪の贖罪を拒絶することにもなります。あるいは、罪の贖罪を可能にしている苦しみを拒絶することにもなります。これは、苦しみを拒絶する信徒はイエズス・キリストに倣うことを拒絶するということを意味します。もちろん、言うのは簡単ですし、実際に困難な状況に遭う時、実践するのは難しいです。

しかしながら、実践することが難しいということを正当化するような社会はキリスト教を否定しているのであり、その邪悪さと責任は重いです。【つまり、苦しみを受けるべきだと言ってくれる社会でなくなったとき、もはや苦しみを素直に受け入れることが困難となり、結果としては、救済を危うくすることになってしまうのであり、これはむしろひどい話です】。

これは、いかに社会のなかで生きていくことが必要であるかということもよりよく理解されることになると思います。つまり、家族に見捨てられて病院で一人ぼっちになって孤独となった人よりも、温かい家庭の中で苦しんでいる人の方が与えられた苦しみを受け入れやすいのは理解しやすいでしょう。つまり、何も人間的な要素が残されていない「病院」に見捨てられて孤独となった人が、苦しみを受け入れることは温かい家族のなかにいる人よりも至難の業となります。

しかしながら、だからといって、これをもって安楽死を正当化するよう話にはなりません。その問題を解決することになりません。その逆です。このような場合が生じる原因は社会が堕落して、悪くなったからです。つまり、本来、言うべき真理を言わなくなった弊害は限りなく大きいのです。ですから、これを解決するためには社会の悪い傾向に抵抗すべきであって、状況を悪化させるような安楽死を支持できるわけがありません。

以上、殺人行為の幾つかの事例を取り上げました。
次に、第五戒における殺人行為の定義をよく理解した時、第五戒には例外も含まれていることがわかってきます。つまり、例外的に「殺してもよい」場合があるということです。現代フランスではデリケートな課題になって、おそらく腹を立てる人もいるでしょうけど、「死刑」という例外があります。

「でも、死刑は人権に反するだろう」という人がいます。しかしながら、問題は人権ではありません。関係ありません。天主の権利こそが問題になっているのです。人権より前に天主の権利がきます。これを理解することは大事です。

では、「死刑」とは何でしょうか?第一に死刑とは人の社会上の処刑なのです。それを忘れてはなりません。人間は社会あっての動物なのです。確かに、現代にはやっている近代的な個人主義や「一人の人が全体である」と決めつけて、「個人としてのためにだけ社会が存在するに過ぎない」というようなある種の人格主義のせいで、「死刑」に関するまともな話はもはや理解されなくなっています。

しかしながら、人々は必ず社会の一員なのです。つまり、ある全体の一部なのです。そして、全体の存命を脅かすほどに社会の一部が堕落したら、この一部を社会から除かざるを得ない場合が生じます。つまり、残りの社会を毒しないために、堕落した一部を「隔離」すべきなのです。具体的にいうと、社会から悪い一部分を切り離すというやり方にはいろいろありますが、深刻な堕落の場合、死刑に処することが正当化されることもあります。

死刑を理解するために人の身体の一部にたとえてみましょう。糖尿病の患者がいるとしましょう。その患者は足に傷口があるとしましょう。そしてその傷口は壊疽(えそ)にかかり始ったとしましょう。糖尿病の患者に聞いてみたらすぐわかりますが、残念ながらやむを得ない判断が必要となってきます。壊疽が体全体に拡大してきて、患者の死亡につながることを待つよりも、患者は自壊疽にかかる足一本の切断を間違いなく決定するのです。なぜでしょうか?一部を切断することによって、全体を救えるからです。このように一部分よりも全体の方が大事なのです。つまり、足を守って死ぬよりも、足を捨ててでも生き残る方がよいに決まっています。当然といったら当然でしょうが。

このように社会においてもこのようなことがあるということを理解することは必要です社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合には死刑が正当化されることもあるのです。当然、社会という全体を深刻に脅かすというには一定の条件がありますので、軽々に死刑の判決を出すことは当然ながら認められませんし、また、フランスの歴史を見ても容易に処された刑罰でもありません。ですから、社会の一部である一人の人間が社会という全体を深刻に脅かす場合は死刑が正当化されることもあるのです。「人権に反する」あるいは「不正だ」と反駁される人もでてくるかもしれません。

しかしながら、昔のフランス、非常にキリスト教的な社会だったフランスにおいては実際に死刑についてどうしていたでしょうか?多くもなかった死刑の判決の受刑者の元に、必ず神父を送り込んでいました。つまり、受刑者の回心を助けるために神父の訪問がありました。そして、実際に歴史を見ると素晴らしい回心の事例は数え切れないほどに確認できます。記念すべき数多くの死刑受刑者の回心があります。禁固によって得られた回心です。あえていえば、死刑によって得られた回心です。

なぜでしょうか?「死」の前にいる人は自分の運命を考えざるを得なくなるからです。また、死は永遠を想起して、考えるきっかけとなるからです。そして、死刑の判決が渡された信徒、その天主よりの恩寵を受け入れて回心してゆき、自分の死を受け入れて善き死を遂げる死刑受刑者は歴史上に多いのです。歴史を見るのがよいです。回心してゆく死刑の受刑者は自分の死を受け入れるべきだということを理解していたし、立派に死んでいったのです。このように、正当なる「死刑」は「殺人行為」の一つの例外なのです。

次は、正当な戦争という例外もあります。正当な戦争が成り立つためには、不正な侵略者が存在するという前提があります。具体的には、自分の保全を守るべきある国が不正に侵略されたら、侵略した国に対して戦争をすることは正当な行為です。現代では、(経済を中心に)国境がなくなりつつある中で、「ヒト・モノ・カネ」の国際移動も増えた結果、正当な戦争という概念は理解しづらいことであるかもしれません。しかしながら、正しい戦争はやはり正当なのです。

例えば、父は正体不明の人を家にだれでも入れることはそもそもしないように父は子供を守るべきであることと同じようなことが国あるいは祖国においても同じようなことがいえます。これはまさに正当な戦争なのです。つまり、外国から来た侵略者、明らかに弊害をもたらしに来る侵略者を何もせずに侵略されて元首がそのままほったらかすわけにはいかないようなことです。このような場合に限っては正当防衛のようなこととして、正しい戦争となります。

そして、正当防衛は第五戒の例外となります。つまり、自分の命を奪おうとしている襲い掛かる人を被害者が殺した場合、殺人行為となりません。なぜでしょうか。愛徳の義務には順番があって、第一に自分自身に対する愛徳の義務があるからです。いわゆる正当防衛なのです。自分の生命を奪おうとする不正の攻撃に対する正当防衛なのです。以上、殺人行為の例外を紹介しました。

つぎに、殺人行為の一環として自殺があります。ラテン語では「sui・occidere」で「自分を殺す」という意味です。自殺は禁じられています。なぜでしょうか。自殺する人は自分自身の命のあるじであるかのようにふるまって、天主よりの私たちの生命への「Dominion(支配権・家長権)」を否定する行為だからです。

「苦しんでいる人もいるからそれはひどくない?」と言われるかもしれません。しかしながら、苦しみを受け入れることを拒否することははっきり言って卑怯です。卑怯な行為です。自殺は卑怯な行為なのです。残念ながら、現代社会で蔓延しつつある自殺は我々の社会の霊的かつ文化的な堕落、また大悲哀の結果なのです。自殺がこのような堕落の結果であることは間違いなく自明でしょう。
加えて、自殺は根本的に人間の本性に反する、反自然的な行為なのです。

自然に皆、自分の命を守る本能をもっています。例えば、転倒した時、反射的に手を出して自分の身を体が勝手に守ろうとしています。だれでも自然に命を愛しています。考えないで、頭で否定しようとも、身体は反射的に自分を守ろうとしています。瀕死の人にあった人はすぐわかると思いますが、瀕死の人の身体はどうしても死に対して最期まで戦い続けるのです。頭があきらめたとしても。どうしても、(身体は)自分の生命を守ろうとします。ですから、自殺は、つまり自分の生命を奪うことは反自然的な行為なのです。

また、自殺は社会に反する行為でもあります。これはより理解しづらいかもしれません。人間は社会の一部であるがゆえに、一人の人は自分自身のためのではなく、社会全体のために行為しなければならない本性を持っています。そして、自殺する人は自分を社会から削るようなものであって、非常に非人間的な行為であって、自殺者はもはや社会による完成化を享受できなくなって政治的な存在としてはなくなります。
そして、自殺することは天主に反する行為でもあります。

公教会は自殺に対して非常に厳しいです。自殺者の埋葬を禁止するほどです。もちろん、ここに言う自殺者は認識しながら自殺した者を指します。例えば、精神薬のような重い薬を飲んだ挙句に、何をやっていることでさえ自分が分からなくなって、認識も意図することもなく自殺してしまった場合、埋葬禁止にはもちろんなりません。

しかしながら、何をやっているかを知っているうえに自殺を犯した者に対しては、公教会は埋葬を禁止しています。同じように、深刻な理由がない限り、自分の命を軽々しく危険に晒してはいけません。いわゆる、自分の命を危険にさらすことは、死ぬことにはならないとしても、深刻な罪となります。これらは大罪なのです。

また、身体の保全を壊すような行為も大罪となります。たとえば、自分自身の体を楽しみに苦しめることは禁じられています。まあ、自分を苦しめて快楽を覚えることはそもそもないでしょうけど、いわゆる例えば、勝手にどうなるかを知るために自分の腕を傷つけたりするような行為はだめです。天主に対する罪でもあります。

以上、殺人行為に関する説明でした。注意しましょう。第五戒の殺人行為はほかの罪とも関係しています。というのも殺人行為自体はそれほど日常な犯罪でもないと言われるかもしれません。しかしながら、第五戒には殺人行為に導く行為も含まれています。憎悪感、復讐の欲望、怒り、不和などなどという罪は第五戒にも含まれています。当然ながら、殺人行為とは深刻度が違うのですが、これらの罪は定着してくると、殺人行為につながることもあるということです。
第五戒は「生命を奪わないこと」を要求しています。繰り返しますが、その理由は「天主は命のあるじである」からです。

遅すぎた!吝嗇の報い、取り戻せない時間

2020年11月21日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」9章『お医者さんへ使いをやりましたか。奥さんは死にますよ!』をご紹介します

吝嗇な夫、誘惑に打ち勝てないが能力で仕事を取り戻せる夫、彼らの日常の悪徳ゆえに悲劇を招いてしまったのではないでしょうか?後悔してももう遅すぎたのです!私たちも悪い習慣を明日からはやめよう、今回はしょうがないといって先延ばしにしてしまうこともあるのではないでしょうか?まったくの他人事とは言えないかもしれませんね。

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
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二十四時間も私はウンテルワイレルの百姓のお上さんのそばに坐っていたが、お産はまだいつ終るとも見えなかった。陣痛は、来たかと思うとまた去った――そして、その憐れな女を非常にゆすぶり動かしたので、彼女は踏みにじられた虫のように、のたくり廻った。しかし、分娩はまだ始まらなかった。嵐は、まだ最後を目ざして力を集中することなしに、いつも衰えた。

心配と、募る苦痛と苦悶との中にあること二十四時間――二十四時間というものは、長い長い時間である。もし人が、長い、暗い一夜を、苦痛のため、のたくり廻ったとしたならば、最後にやっと夜が明けそめて、日光がさして来るときには、いかに息を吹きかえすことであろうか。 朝の活動の潮が、少しばかり寄せて来る。人々の往来がはじまる。彼等は、よく時々、非常に詰らないことを話していることもある――しかし、それでもそれは一つの変化であり、気分転換になる。それに反して、夕方が近づいて来て、眼に見るものとては、ただ夜ばかりということになるとどうであろうか――あの長い、暗い、苦痛に満ちた夜……

このような二十四時間というものは、この世において限りもなく長いものである。母親でなくともその傍らで眠らずに待ち受け、希望し、かつ心配し、そして彼女に対してほんとに全く何の助けもなし得ない者にとっても、また同様である。

繰返し繰返し陣痛が、その憐れな女をゆすぶった。それなのに分娩は、まだ始まらない。
『お百姓さん、まだお医者さんを呼びにやらないのですか? 奥さんは、少し様子が変ですよ!』もう私は、とっくにお昼頃に、 その百姓にウイリ先生のところに使いをやるように頼んで置いたのであった。ところが彼は、お八つに来たとき、それをやっと思い出した。

『あっ、なに、自然は時間がかかるものさ。待っているよりほかに仕方がないさ。』 と、彼は気むずかしげに言って、中庭に出て行った。私は、彼について行った。
『ただ待っているだけでは何もできませんよ。今度は、何だか、いつものようではないと、私は気づいているんですよ。お医者さんをお呼びなさい。』
『時間は、かかるものだよ。お前さんは、家畜小屋で、もう三晚も待っていてもいいよ。お前さんたち、女というものは、全く何と騒々しいんだろう……』

夕方になった。クリスマスの頃には、夕方は余りにも早く暗くなる。病室では、ランプの光が、せわしなく油煙を立てていた。揺れ動く長い影を、壁に描いていた。雨が降りはじめ、そして風が重い水滴を窓ガラスにバラバラっと打ちつけた。外では、犬が吠えた。そして徴かな戦慄が、その家を通って行った。それは、死の陣痛であって、死神は、そのいけにえを眺めていたのだ。下女は、硬ばった眼つきで病室をのぞき込み、十字を切った。煉瓦ストーヴのそばにある革のソーファの上に、百姓はうずくまってジッと前を見つめていた。

『お医者さんへ使いをやりましたか。奥さんは死にますよ!』
『お医者さんだって、この悪い天気では断わるだろう……うるさい女だね。だが、待っておれるだろう。俺は、お金を窓から投げ捨てるために持っているわけじゃないよ。今までに、もうふんだんに金がかかっているんだ。だが、もちろん、お前さんの仕事が早くすまなくちゃ困るだろう。何かこわいことでもあるかい!』

夜が更けた。陰気な、真黒な夜だった。病室は静かだった、無気味なほど静かだった。そして今や、陣痛は衰えて、段々と短く弱くなって来た……全く無くなってしまおうとしているようであった。母親の胎內は、静かだった。もはや子供の心臓の音は聞えなかった……
そのとき、馬係りの若者が部屋にはいって来た。そこで私は、彼に呼びかけた。 『フェリックスさん、どうかお願いだから、村に走って行って、お医者さんを連れて来て下さい。子供がお腹の中で、死ぬんです、お母さんも。』

彼は、百姓の方を見た。『夜が明けるまで待っておれるだろう。今夜のことにするというと、沢山お金がかかる。自然は時間がかかるもんだよ。』 と、百姓は言って、ソーファの上に体を伸ばして鼾(いびき)をかいた。そこで馬係りの若者は、こっそり部屋から抜け出て、提燈を持って村に行った。その若者は、お上さんに対しては、その百姓よりも、もっと多くの親切心を持っていた。

こんな夜には、時間はいかに長々しく、心配に満ちたものであろうか! やっと、その下男は帰って来た。低い音で、彼は窓をたたいた。彼は、百姓の怒りをおそれて、部屋の中に、はいって来なかった。医者は、彼が村に着かないうちに、あいにく、よそへ呼ばれて行っていた。しかし、後でお宅ヘ行くでしょうと、医者の母親が言われたそうだ。

百姓のお上さんは、寝入っていた。しかし、青白い頬には、赤い斑点が現われていた。私は、体温計で測った。体温は、目立って下りはじめた。とうとう夜半すぎに、医者が見えた。

『遅すぎましたね。』と、医者は言った。『またしても半日遅すぎましたよ。』
わざと鳴らしていた百姓の喉の轟音が、停った。もし妻が死ねば、それはお前の責任だ! 殺人者だ!という考えが、彼の心にひらめいた。
『もう午前中から、私は先生をお呼びせねばならないと言い張っていたのです。どうも調子がよくないと見てとったものですから……』
もう一度、下男は村の薬局へ行かねばならなかった。彼は、できるだけ早く走った。

しかし、またもや長い心配な時間が経った。あらゆる方法を尽くし、注射だの、産科鉗子や鉤(かぎ)だのを使って、長い時間をかけた後、やっと死んだ子供が母胎から取り出された。それは男の子であったが、すでに母胎の中で窒息していた。また母親にも、死体の毒がすでに感染していた。

五日後に、私たちは、その母と子を埋葬した。その当座の日々を、その百姓は、いかに気違いのように振舞ったことか! 今や彼は、三人の子供をかかえて、自分の吝嗇(りんしょく)の果実を蔵におさめねばならなかった。老司祭は、さらに不幸が引きつづいて起らないようにするため、百姓を自殺させないように、お骨折りになった。遅すぎた!

この初めての出來事から余り経たないうちに、私はさらに、もう一度、全く文字通りの悲劇を経験せねばならなかった。すなわち、自分自身の責任によって遅すぎたという事件である!

村はずれに、幾つかの工場がある。その近くに、労働者たちの家がある、醜い古いあばら家だ。そして、さらに森の方へかけて、工場の使用人たちが、次から次へと、小さな一戸建ての住宅を建てて移住している。もっとも、その当時は、やっと、こんな家が一軒立っていただけであった。この家には、一人の技術監督が、若い妻と住んでいた。もし正確に言おうとするなら、「ここに彼の若い妻が住んでいた」と言うべきだ。というのは、

その監督は、在宅しているよりは、居酒屋か、または近くの町かにいる方が遙かに多かったからである。彼は、放蕩者というわけではなかったが、極端に意志の弱い人だった。 ほんの僅かな誘惑にも負けた――もっとも、彼は非常に才能のある男だった。もし、そうでなかったなら、彼の不しだらな生活は、もうとっくに彼の地位を失わせていたであろう。

しかし、彼は、半日怠けたところのことを、短時間のうちに 十分取りかえすことができたのであった。
もっとも、彼がそうできたのは、工場内で機械や設備と取っ組んだり、新しい考案を練る場合のことであって、生きた人間を相手にしたのでは、そうはゆかなかった。

かつて、彼は休暇に、ある山間の小さな町に逗留していたとき、今の妻を知ったのである。そして世間によくあることであるが、彼がそこにいる間は、万事うまく行った。彼女は、非常に物静かな、可愛らしい娘であって、自分が置かれた境遇に対して余りにも物柔らかに順応した。彼女が、その村はずれの家から、私たちの村にやって来たのは、稀であった。

彼女は、プロテスタントであったから、日曜日には時々町の教会へ乗り物で出かけた。なぜなら、私たちの村には、カトリック教会があるだけであったから。村はずれの森の端には、彼女の家以外は、まだ一軒も立っていなかった。そこで彼女は、静かに独りで、家の周囲に色とりどりに美しく咲いている花と一緒に住んでいた。夫は、彼女をよその家庭に連れて行くような面倒なことはしなかった。恐らく、彼女がそこで、いろいろなことを経験するかも知れぬことを恐れたのであろう。そして彼女としても、自ら進んで、人と交際することはしなかった。

彼女の結婚から数ヶ月たって、その母親が一度、彼女のところへ訪ねて来た。その当時、その二人の婦人は、新妻が妊娠していることを知っておいてもらうために、私のところへもやって来た。そのとき、すでに私は、彼女の暗い眼の中には、深い悲しみが横たわっているかのように思われた。しかし、私は別に尋ねようとはしなかった。それから、数ヶ月経つうちに、私たちが、日曜日などに、ちょっとした散歩に連れ立って行くことができたときに、私は彼女を時々観察した。

そのとき、彼女は赤ちゃんのために作って置いたものを私に見せた。そのよく気を配るお母さんは、疲れも知らずに、美しい小さなものを編んだり、縫ったりした。彼女は、あれこれと質問した。彼女は、旧い習慣に從って、まだ何も知らずに結婚したのであった。そして、そういうことが、かつては最高の理想とみなされていたのである。



しかし、何ものかが彼女の心の中に、また眼の中に横たわっていた。 何ものかが、それは飛び出そうとはしたが、飛び出すことはできなかった。しかし、私はあえて尋ねようとはしなかった。というのは、恐らく彼女が予感もしなかったであろう事柄を、彼女の心の中に運びこむ怖れがあつたからである。

結婚してから数週間後に、その監督は、人が変ったかのように思われた。わずか数週間で、彼の以前の怠惰な生活が再びはじめられた。彼は、仕事が非常に忙しいのだと、彼女の前で偽りをいった。しかし、彼が帰宅したときの大抵の状態は、彼女にそれと気づかれずにはいなかった。彼女がいかに大きな愛情を持っていても、それは彼女をそれほど盲目にすることはできないであろう。

そうしているうちに、大体、お産の時刻を計らねばならぬほど近づいて来た。ある朝、この若い妻は、特別に具合が悪かった。そして昼食のとき、ごく微かに最初の陣痛が起った。
『今晚はどうか早く帰って来て下さいね、ヨハン。できるだけ急いで。私たちの赤ちゃんが、生れるような気がするんです。』
『もちろんだよ、マリア。仕事が片づき次第、早速ね……』
『もし、そうでなかったら、誰かをうちに寄こして下さい。もし具合がもっと悪くなって、リスベートさんを呼ばねばならぬようなことがあると、私ひとりでは困りますから……』
『お前は、何を考えているんだね。僕は、もちろん、直きに帰ってくるよ。』
『お母さんにきのう、手紙を出して下さったのですか?』
『いや、そこまでは手が廻らなかった。』
『では、私が書きますから、葉書を持って行って下さらない?』
『それは止したまえ。僕が電報を打とう。お母さんは、用件をよく御存知だから、驚きはしないだろう。』

午後五時頃に、彼は工場で帰り支度をして出て行った。しかし、入口の門の前で、親友のある保険監督官と出会った。彼はちょうど、きょう、この村に着いたばかりであった。『弱ったなあ! 帰らなけりゃならないんだが……』
『三十分ぐらいは構わないだろう。初めての子は、そう速くは生れないものだよ。お互いに随分長い間、会わなかったね! それに、言おうと思っていたのだが、実はエルドマン氏も来ているのだ。そら、あのインキ塗装器具屋の彼氏だ。直きに、ここへやって来るはずだ……』

彼等は、居酒屋にはいって行き、酒を飲み、一緒に晚飯を食べた。昔の青年時代のいたずら気が目覚めた――連れ立っての冒険……自宅で苦しみ心配している憐れな妻のあることは忘れてしまった。アルコールの酔いが、いま彼が最も関心をもたねばならぬ現実の上に、ますます厚いヴェールを投げかけたのであった。――

村はずれの森の端では、これから母になろうとする妻が、夫の帰宅を待っていた。陣痛はますますひどくなった。忍び寄って来るもの――未知のものに対する恐怖は、ますます大きくなった……彼女は、あけ放たれた窓に腰をかけて、細い步道をずっと眺めやっていた。秋風が、気づかわしいほど冷やかなのに、気がつかなかった。夫は、どうしても帰って来るに違いない――どうしても。薄暗くなって、晩がやって来た――夜になってしまった。神樣、ああ神樣、あの人はいつ帰って来るのでしょう! 誰かを私のところへ送ってよこしたのでしょうか? お母さんもまた、どうして来ないのでしようか? ヨハンは、電報を打つのをまた忘れたのだろうか? いま私は全くの一人ぼっちだ。

そしてあたりの恐ろしさ……彼女は頭を窓枠に置いて、胸も張り裂けるばかりに泣き出した。彼女が今までそんなに静かに胸の中に畳んでいた数ヶ月以来の苦痛と悩みとが、今や一度にほとばしり出た。彼女は、どのくらい長く待っていたのか、気がつかなかった。どこかで時計が鳴った。そして彼女は無意識に算えはじめた――十時。それなのに、夫はまだ帰って来なかった。

もう私は、誰かのところへ行かねばならない――どこかへ――もはや待ってはおれない――もうどうしても……
両足が彼女を運んで行くことは、非常な骨折りであった。苦痛に堪えかねて、彼女は地面に体を折り曲げた。そして、さらに垣根に添うて、苦労しながら進んだ――樹から樹へと――そしてとうとうまだ燈火がついている最寄りの労働者の家に辿りついた。そして彼女は、窓をたたいた。年寄りの女――母親――が燈火を手に持って戸口に出て来た。『あらまあ、監督の奥さん。どうなさったんですか……』そして彼女を内に引き入れた。部屋の中で、若い母親は崩れ落ちた。『宅の主人が帰って来ないんです……でも、私はもう待っていることができません。』

その年寄りには、子供がある。事情は、あまり尋ねなくても、よく判った。若い女をソーファに寝かせ、枕を運んで来た。そして、すでに寝ていた息子を呼び起した。『早くリスベートさんのところへ走ってお出で!』熱いお茶をわかした。優しい慰めの言葉を二つ三つ言った。直きに万事終ってしまいますよ。すると苦しみの代りに、母の喜びが来るのですよ。男っていうものは、確かにそういうものですね。いつも外に留められてばかりいて。妻がどうなっているか、知りもしない。それでも、女は子供を産まねばならぬとすると――この世には、もっとよいことが 非常に沢山あるだろうと。お婆さんは、少し冗談を言おうと試みた。

私は、呼ばれて行って見て、少なからず驚いた。熱、悪寒、陣痛……これは、一度には余り多すぎる。そこで私は、早速、お医者さんを呼びにやった。ウイレ先生が見えたが、これはどうなるのか、自分にはよく判らぬとおっしゃった。とにかく、非常に体が冷えている。それに多分、また興奮もある。その家の息子は、工場の災害救護部へ寄って来た。そして医者と若者とは、若い母を注意深く、その自宅へ運んだ。

重苦しい、心配な夜が来た。一時頃に、その夫が帰って来た。よろめき、わめきながら。彼が、私たちが彼の妻のベッドのそばに立っているのを見、そして事態が解りはじめたとき、彼は急に酔いがさめて、子供のように泣き叫び出した。そこで、ウイレ先生は、彼の襟首をつかんで、別室へ引き立てて行った。一言も言わないで。バタンと戸をしめた。『酔っぱらいの豚め……』と、先生は唸った。

『ここは静かにしていなくちゃならないんですよ。』明け方に、女の子が生れて来た。しかし、お医者さんは、まだその家を辞さないうちに、すでに母親が両肺とも重い肺炎にかかっていることを確認することができた。そこで、今や本当に電報を打って姑を呼び寄せた。熱は、どんどん昇った。

そして三日目に、若い母親は死んだ。心臓がそれ以上持たなかったのだ。憐れな心臓……今までに、それが何に堪えて来なければならなかったかを、誰が推量することができようか……

夫の監督は、もはやそのベッドを離れなかった。髮をかきむしり、そして非常に優しい言葉をもって、亡き妻に向って、どうかただ一瞥を――ただ一言を――と乞い求めた。そしてあまつさえ、苦悩に満ちて祈りはじめたのであった。遅すぎた!

アメリカで百万人の大行進「アメリカをもう一度偉大にする(Make America Great Again)」:ヴィガノ大司教のメッセージ

2020年11月18日 | 迫り来る危機
ヴィガノ大司教、百万人の「アメリカをもう一度偉大にする(Make America Great Again)」大行進にメッセージ:
「祈れ、正義と真理が勝利すると信頼せよ」英語原文WEBサイト
をご紹介します。

「誇りを持って天主の下にあることを宣言するこの偉大で愛すべき国のキリスト教徒、誠実な市民として、私たちにはこの機会にも、正義と真実が勝利することを信頼する義務があります。そして、多くの人々の誠実さや公平さだけでなく、何よりも私たちの祈りによっても勝利することでしょう。弁護士や判事が犯した虐待や犯罪を調査するとき、私たちの強力な代弁者(弁護者)である聖マリアの御取り次ぎを通して、最高の判事である主に立ち返ろうではありませんか。まさにこれが、天主のみ旨が成就し、真理が偽りに打ち勝つことができるように、私たちが訴えることができ、訴えなければならない「最高裁判所」なのです。」―ヴィガノ大司教

日本にいる私たちも、ヴィガノ大司教の特別な祈りに心を合わせましょう!
アメリカ大統領選挙は終わっていません。今こそ、この記事をお読みくださる皆様の寛大なお祈りが必要なのです!


Abp. Viganò to Million MAGA March: Pray and “Trust that Justice and Truth Will Triumph”
ヴィガノ大司教、百万人の「アメリカをもう一度偉大にする(Make America Great Again)」大行進にメッセージ:「祈れ、正義と真理が勝利すると信頼せよ」


【編集者注】昨日(2020年11月14日)、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、ドナルド・トランプ大統領を支持する「Million MAGA March」(百万人 MAGA 大行進)英語原文サイトはこちらのために首都ワシントンに集まった数万人の米国人に挨拶と特別な祈り(PDFはこちら)を送りました。
https://www.lifesitenews.com/news/trump-supporters-flood-streets-of-dc-urge-president-do-not-quit-as-he-fights-for-fair-election



この挨拶と特別な祈りのPDFはこちら 英語原文
https://catholicfamilynews.com/wp-content/uploads/2020/11/Abp.-Vigano-Million-MAGA-March-Message-and-Prayer-11.14.2020.pdf

テイラー・マーシャル博士も出席し、米最高裁判所の建物の外に集まった群衆に閣下のメッセージを伝えました(時間の都合上、マーシャル博士はメッセージを若干省略し、大司教様がこの日のために作成した祈りを省略せざるを得ませんでした)。




百万人 MAGA 大行進

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

明らかになりつつある不正選挙に直面して、真実と透明性を求める正当な要求をしている皆さんと霊的に一致して、このメッセージを送らせてください。

国民が一人の候補者を声を上げて支持したと信じさせようとしている人々がいますが、彼らは愚かにも、まだ票の計算が進行中に、このことを伝えました。彼らは勝利を確信していたので、反対の声を一切受け付けず、現職の米大統領の言葉を検閲するところまで行ってしまったのです。

それは本当です。国民は声を上げましたが、母親の胎内で罪のない命を殺すことを推進している人たちを支持してではありません。私たちの子どもたちに死のイデオロギーを押し付ける人たちを支持してではありません。新世界秩序の確立を望む国際的なエリートに従う人たちを支持してではありません。

そうではなく、国民は伝統的な価値を支持し、生命を守り、家族を守り、国家主権を守るために声を上げてきました。米国を偉大にし、皆さんの国の自由と平和、調和と繁栄の基礎を形成している価値を。

国民がメディアの洗脳に従わないなら、民主主義は、いわゆる民主党にとってはもはや重要ではありません。彼らは詐欺や欺瞞、票や合意の操作に頼らざるを得ないのです。しかし、何かがおかしくなってしまったのです。「罠は破れ、私たちは逃れた」(詩篇123章7節)。

誇りを持って天主の下にあることを宣言するこの偉大で愛すべき国のキリスト教徒、誠実な市民として、私たちにはこの機会にも、正義と真実が勝利することを信頼する義務があります。そして、多くの人々の誠実さや公平さだけでなく、何よりも私たちの祈りによっても勝利することでしょう。弁護士や判事が犯した虐待や犯罪を調査するとき、私たちの強力な代弁者(弁護者)である聖マリアの御取り次ぎを通して、最高の判事である主に立ち返ろうではありませんか。まさにこれが、天主のみ旨が成就し、真理が偽りに打ち勝つことができるように、私たちが訴えることができ、訴えなければならない「最高裁判所」なのです。

祈願

われらの主イエズス・キリストのご托身とご受難とによって、罪深い人間を御身の愛でかたじけなくもあがない給うた至聖にして分かたれざる三位一体、全能の天主なる主よ、われら御前にひれ伏してこい願い奉る。われらの愛する国に闇が蔓延していると思わるるこの大混乱の時に、御身の力強きご保護を与えられんことを。

万軍の天主なる主よ、御身の永遠の定めにより、われらの母にして元后、至聖なるマリアの足で踏み砕かれし人類の敵を地獄へ退け給え。悪徳と御身への憎しみで盲目となり、われらの国と全世界を、罪の暴政と御身の至聖なる法への反逆に陥れようとする者たちの攻撃をむなしいものとなし給え。米国の運命を導くために召された人々、そして忠誠と名誉をもって国に仕える人々に知恵と勇気を与え給え。

主よ、われらの大統領と公職者ら、牧者らを祝福し給え。上から託された権力を行使する人々が、誠実さと正義とをもって職務を遂行せんがために必要なる御恵みを得られんがために。

全能の天主よ、キリスト教徒の軍隊の側に何度も御自分の御右手の力を現された御者よ、御自ら、この御身の子らの軍勢の先頭に立ち給え。聖母マリアの御取り次ぎによって、われら御身に祈りを捧げ奉る。その祈りが、香のごとく御身のもとに立ちのぼり、それによって、御身の掟を守り、われらの罪を悔い改める決心をさせ、御身がわれらに約束し給うた自由と平和を得られんことを。「われ平和をなんじらに残す。わが平和をなんじらに与える。わが平和をなんじらに与えるのは、世が与えるごとくにあらず。なんじら心を騒がさず、恐れてもならぬ」(ヨハネ14章27節)。

天主なる主よ、われらの民に平和を与え給え。われらのふさわしからざるに目を向け給わず、米国の元后にして守護者なる無原罪の聖母の御功徳に目を向け給え。聖母が、御身の御稜威の玉座にわれらの謙虚なる祈り、われらの聖なる意向、われらの償いとを捧げられんことを。

マカベの時代に御身が聖なる英雄と勇敢なる信仰の証し人を興し給うたごとく、今日もわれらが御身に挙げ奉る祈りを聞き給え。そして、彼らの心からおごり高ぶりを散らし給い、御身の聖なる御旗の下に仕え奉る人々に勝利を与え給え。アーメン。

GOD BLESS THE UNITED STATES OF AMERICA
GOD BLESS OUR PRESIDENT
(米国に天主の祝福があらんことを
われらの大統領に天主の祝福があらんことを)

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

共産主義犠牲者のための国民的記念日のトランプ大統領のメッセージ:2020年11月7日

2020年11月17日 | 迫り来る危機
みなさまに記事をご紹介いたします。
共産主義犠牲者のための国民的記念日の大統領メッセージ :ドナルド・トランプNEWSへのリンク
共産主義犠牲者のための国民的記念日の大統領メッセージ

投稿日:2020年11月10日

引用元:【英語原文】ホワイトハウス 2020.11.7 へのリンクはこちら

共産主義犠牲者のための国民的記念日のこの日、我々は20世紀に共産主義によって奪われた1億人以上の命を厳粛に追悼します。我々は、必ず不幸、破壊、そして死といった結果を残す圧政的な思想のまん延を食い止めることに全力を注いでいます。自由と民主主義の恩恵を大事にする誇りあるアメリカ人として、我々は、現在共産主義政権に捕らわれ、生存と自由の不可侵の権利を否定された10億人以上の人々を支持すると約束します。

今年は、「ワルシャワの戦い」において、ポーランドがウラジーミル・レーニンのボルシェビキに対して決定的勝利を収めてから100周年を記念する年となります。ビスワの奇跡として知られるように、この戦いでポーランドの英雄たちは数十年間、ヨーロッパでの共産主義の拡大を食い止めました。残念ながら、ソビエト連邦はポーランド周辺に鉄のカーテンを築き、近隣諸国と世界中に共産主義を広めました。その時以来米国と自由政界は、中国の捕虜収容所やソビエトのグーラグを含めて、共産主義の恐怖を証言してきました。前世紀の間、カンボジアのクメール・ルージュからエチオピアのデルグに至るまで、共産主義政権はカール・マルクスの哲学につきものの、魂を破滅させるような抑圧を裏付けてきました。

現在でも、我々は「人民の共和国」が人民ではなく一党に属し、選ばれた少数の利益のために存在しているという皮肉を目撃しています。幾度となく、共産主義と社会主義は、生存、自由の根本的権利や幸福の追求とは相いれないものだと証明されてきました。マルクス主義は平等、平和、幸福を約束していますが、実際には、不平等、暴力、絶望の結果にしかなりません。

この共産主義犠牲者のための国民的記念日において、我々はこうした陰湿な思想に立ち向かうことを約束し、米国が決して社会主義国にならないことを大きな誇りを持って誓います。我々は、共産主義に対して命を失った全ての人々を記念し、未来の世代が繁栄できるように自由を推進していくことを改めて約束します。



【英語原文】
Statements & Releases
Presidential Message on the National Day for the Victims of Communism

Law & Justice
Issued on: November 7, 2020

On National Day for the Victims of Communism, we solemnly remember the more than 100 million lives claimed by communism in the 20th century. We commit ourselves to stopping the spread of this oppressive ideology that, without fail, leaves in its wake misery, destruction, and death. As proud Americans who cherish the blessings of freedom and democracy, we promise to support the more than one billion people currently captive within communist regimes and denied their unalienable rights to life and liberty.

This year marks the 100th anniversary of the decisive Polish victory against Vladimir Lenin’s Bolsheviks in the Battle of Warsaw. Known as the Miracle on the Vistula, the Polish heroes of this battle halted the spread of communism in Europe for decades. Sadly, the Soviet Union erected an Iron Curtain around Poland and spread communism to neighboring countries and around the world. Since then, the United States and the free world have borne witness to the horrors of communism, including Chinese prison camps and Soviet gulags. Over the last century, communist regimes from Cambodia’s Khmer Rouge to Ethiopia’s Derg have confirmed the soul-crushing oppression inherent in Karl Marx’s philosophy.

Still today, we observe the irony of “People’s Republics” that belong not to the people, but to one-party and that exist only for the benefit of a select few. Over and over, communism and socialism have proven to be irreconcilable with the unalienable and fundamental rights of life, liberty, and the pursuit of happiness. While Marxism promises equality, peace, and happiness, in practice it results only in inequality, violence, and despair.

On this National Day for the Victims of Communism, we commit to standing against this insidious ideology, and pledge with great pride that the United States will never be a socialist nation. We memorialize all those who have lost their lives to communism and recommit to promoting freedom so that future generations can flourish.

マスコミが報道しない、トランプ大統領の真実

2020年11月13日 | 迫り来る危機
みなさまに動画と記事をご紹介いたします。

マスコミが報道しない トランプ大統領の真実


トランプ大統領の歴史的演説「I am your voice」


GIRAブログさんの記事 「メディアが報じないトランプ大統領の真実」 へのリンクもご紹介します。
引用開始・・・ 日本人にとって、あるいはアメリカ人以外の国にとって「アメリカ大統領選挙なんて関係ない」と感じている人も多いかもしれません。
「トランプなんて、下品で傲慢で人種差別主義者で自分勝手な最低な奴だ」なんて酷く嫌っている人も多いかもしれません。
しかしそれは、闇側のメディアの偏向報道によってすっかり信じ込まされた洗脳・思い込みです。
こういった、トランプ大統領の素晴らしい功績を極左メディアは一切報じませんが、アメリカの為、世界の為に、年棒たった1ドルで働き続けているのがトランプ大統領です。(米大統領の年俸は40万米ドル(約4500万円)と決められていたのだが、トランプ氏はこれを辞退し、たった1ドルという年俸を受け取っているのである(2016年11月14日付け BBCニュース) ・・・・引用ここまで



********************

日本の私たちも、マスコミやメディア、出版から、真実ではないことを洗脳されていたのだとしたら・・・
日本のビジネスマン御用達の経済誌も、トランプ批判しかしていませんでした。
日本国民もトランプ大統領の真実を知らなかったのだとしたら・・・

Recent salary donations go to the Health Department
https://www.politifact.com/truth-o-meter/promises/trumpometer/promise/1341/take-no-salary/



世界に影響を与えるアメリカにトランプ大統領が与えられたのは、紛れもなく天主の憐みであり、恩寵だったのではないでしょうか?
またしてもメディアや、世の中は挙って、「もう遅すぎる、もう大統領選挙は終わった、トランプは大統領ではない」と、アメリカ国民だけでなく、世界中の人々、日本国民もあきらめるように騙そうとしているのだとしたら?
私たちは騙されてはいけません。今こそファチマの聖母に、信頼に満ちた謙遜な祈りを、特にロザリオをお捧げしようではありませんか!
なぜならファチマの聖母は、「私はロザリオの元后です。」とおっしゃったからです。

「私達の生きるこの最後のときに当たって、聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。
たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。
ロザリオを唱えることによって、私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。」(シスター・ルシア)

シスター・ルシア 「ロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。」CREDIDIMUS CARITATI 私たちは天主の愛を信じたさんの記事より転載

ロザリオの元后、我らの祈りをお聞きください!
天主の御前におとりなしください!

全部つじつまが合っているーパンデミックは「グレート・リセット」の道具、ジョー・バイデンの勝利、現代世界は"自ら分裂"している:ヴィガノ大司教

2020年11月11日 | 迫り来る危機
ヴィガノ大司教「現代世界は"自ら分裂"している。客観的な現実とメディアによる虚構の分裂。「グレート・リセット」の道具であるパンデミックや、ジョー・バイデンの勝利を既成事実とする米国の政治状況がそうだ。」英語原文WEBサイトをご紹介します。

ヴィガノ大司教の言葉によると、「アメリカ大統領選挙の欺瞞、詐欺行為、新型コロナウイルス感染症などなど、は「全部つじつまが合っています」。ですが、真理は天主ご自身であるゆえに、これらの欺瞞の時は数えられていると確信できる。光は闇を壊滅させる。」と。

日本にいる私たちも、特に今の日々に、祈りを増やし、アメリカ大統領のために特別なご保護を主に懇願しようではありませんか?
御ミサに与る時にも特別の祈願を、聖母の汚れ無き御心の介入を、無垢な子の信頼を持ってお願いしようではありませんか?
この記事をお読みくださる皆様の寛大なお祈りをお願いします!

Archbishop Viganó slams US Bishops conference for claiming Biden is second ‘Catholic’ President
ヴィガノ大司教、バイデンが二人目の「カトリックの」大統領だと主張する米国司教協議会を非難

英語原文出典もとはこちら


2020年11月8日

2020年11月8日(LifeSiteNews)カルロ・マリア・ヴィガノ大司教様は、「LifeSiteNews」の掲載用に以下の声明を送ってこられました。
***
私たちが生きているこの世界は、福音書の表現を使うならば、「in se divisum 自ら分裂して」(マテオ12章25節)います。この分裂は、現実と虚構の乖離(かいり)で成っていると私には思えます。一方には客観的な現実があり、他方にはメディアによる虚構があります。

これが、「グレート・リセット」の道具となる社会工学のツールとして利用されてきたパンデミックに対して当てはまるのは確かです。しかし、巨大な不正選挙の証拠がメディアによって検閲され、そのメディアが今やジョー・バイデンの勝利を既成事実として宣言しているという超現実(シュール)な米国の政治状況に対しては、それ以上に当てはまります。

新型コロナウイルス感染症の現実(本当の事実)は、主流メディアが私たちに信じさせようと望んでいることとは明らかに大違いですが、それだけでは、大多数の人々があきらめの気持ちで受け入れている奇怪な虚偽の城を解体するには十分ではありません。同様に、不正選挙という現実、あからさまなルール違反かつ組織的な結果の改ざんという現実は、ジョー・バイデンが米国の新大統領、以上、終わり、と言っている巨大な情報メディア産業によって私たちに与えられた物語とは大違いです。

そうでなければならないのです。決まっています。昨年と同じ数の死者を出した季節性インフルエンザの "壊滅的な"猛威とされるもの(新型コロナウイルス感染症)にも、腐敗して「ディープ・ステート」に従属している一人の候補者の選出が避けられないということにも、選択肢はないのです。実際、バイデンは、すでに都市封鎖を復活させると約束しています。

現実はもはや重要ではありません。現実が、構想された計画とその実行の間に立ちはだかるとき、それは絶対に無関係です。新型コロナウイルス感染症(Covid-19)とバイデンは二つのホログラムであり、二つの人工的な創造物であり、偶発的なニーズに合わせて何度でも何度でも採用されるか、あるいは必要なときに新型コロナウイルス感染症(Covid-21)とカマラ・ハリスで置き換えられるかの準備ができています。

集会を開催するトランプ支持者に投げつけられた無責任だという非難は、BLM(ブラック・ライブズ・マター)のデモですでに起こったように、バイデンの支持者が通りに集まるとすぐに消えてしまいます。ある人々には犯罪的なことであっても、他の人々には許されています。それには説明もなく、倫理もなく、合理性もありません。

左派であるという、バイデンに投票しているという、マスクをつけているという事実だけが何をするについても許可証である一方で、右派であるという、トランプに投票しているという、マスクの有効性に疑問を持っているということだけが、非難されたり、証拠や裁判を必要とせずに処刑されたりする十分な理由なのです。彼らは事実上、ファシスト、主権主義者(分離主義者)、ポピュリスト、否定論者としてレッテルを貼られており、これらの社会的な汚名を着せられた人々は、ただ黙って引き下がることとされています。

このようにして、私たちは善人と悪人の間の、その分裂に戻るのです。それは一方の側(私たちの側)が使うときにはあざ笑われており、逆に私たちの敵が使うときには議論の余地のない前提として支持されています。私たちはこれを、「光の子ら」と「闇の子ら」に関する私の言葉に反応していた軽蔑的コメントで見てきました。それはまるで、私の「黙示録的な言い方」が、ひどく狂った心がつくり出したものであり、ただ現実を観察できていないかのようにです。しかし、この聖書にある人間の分裂を軽蔑しながら拒否することによって、彼らは実際にその分裂を裏付けており、社会的、政治的、宗教的な正当性という認可を与える権利を自分たちだけのものに制限しています。

彼らこそが善き人々であって、たとえ彼らが罪のない人(胎児)を殺すことを支持していたとしても、われわれはそれに慣れなければならないとされます。彼らこそが民主主義を支持する人々であって、たとえ選挙に勝つためには彼らが常に欺瞞や詐欺に頼らなければならないとしても --- しかもそれがあからさまに明らかな詐欺であったとしても --- そうだとされます。彼らこそが、自由の擁護者であって、たとえ毎日のように私たちから自由を奪っているとしても、そうだとされます。彼らこそが客観的で正直である、たとえ彼らの汚職や犯罪が目の見えない人にさえも明らかになっているとしてもそうです。私たちにおいて、彼らが軽蔑して馬鹿にしている教義(ドグマ)は、それを推し進めるのが彼らである以上、議論の余地も疑問の余地もないのです。

しかし、私が以前に述べたように、彼らは小さな細部、彼らが理解できないあることを忘れています。それは真理というものが存在していることです。真理はそれを信じる人がいるかどうかに関係なく存在しています。なぜなら、真理はそれ自身に、存在論的に、(真理が)有効であるそれ自身の理由を有しているからです。

真理は天主の属性であるがゆえに、否定することができません。真理は天主ご自身なのです。そして、真理であるすべてのものが、嘘に対するこの優位性にあずかっています。ですから、私たちは、神学的にも哲学的にも、これらの欺瞞の時は数えられている(限界がある)と確信することができます。なぜなら、彼らの上に照らされる光がやがて十分な量となって、彼らを破滅させるであろうからです。

正確に言えば光と闇です。ですから私たちは、一歩も引かずに、バイデンと民主党の欺瞞に光を当てましょう。彼らがトランプ大統領と米国に対して企てた詐欺行為は、長い間立ち止まったままにはならないでしょうし、新型コロナウイルス感染症という世界的な詐欺、中国の独裁者の責任、腐敗した者と裏切り者の共謀、そして「ディープ・チャーチ」の奴隷化も、同じであろうからです。Tout se tient.[全部つじつまが合っています。]

メディアによって広められ、組織的に構築された嘘のパノラマの中で、ジョー・バイデンの選挙は、望まれているだけでなく、不可欠であり、それゆえ真実であり、それゆえ決定的なものであるとみなされています。それは、たとえ投票数の集計が完了していなくても、たとえ投票の確認と再集計が始まったばかりであっても、たとえ不正行為を主張する訴訟が提起されたばかりであってもです。バイデンが大統領にならなければならないのです。なぜなら、「彼ら」はすでにそれを決定しているからです。米国民の投票は、この投票がこの物語を承認する場合にのみ有効です。そうでない場合は、投票は「再解釈」され、国民投票の漂流、ポピュリズム、およびファシズムとして退けられるのです。

それゆえ、民主党が自分たちの候補者にこれほど粗野で暴力的な熱意を持っていることも、メディアや公式のコメンテーターがこれほど抑えがたい満足感を持っていることも、世界中の政治指導者たちが「ディープ・ステート」への支持とへつらいの従属を表明していることも、驚くべきことではありません。自分たちが民主党の操り人形の圧勝を常に信じていたと見てもらえるように、誰が先に到着できるか、ひじを打ったり、誇示するためにはしゃいだりしながら、選挙の流れを見ています。

しかし、世界の国家や党書記のトップたちのへつらいの態度は、世界的な左翼の戯言の一部に過ぎないと理解しているならば、私たちは率直に言って、「バチカン・ニュース」サイトにすぐに再掲載された米国カトリック司教協議会の宣言がかなり気になっています。この宣言は、不安そうな寄り目で「米国の歴史上二人目のカトリックの大統領」を支援したと自らに功績があるとし、バイデンが、熱心に中絶賛成で、LGBTイデオロギーや反カトリックのグローバリズムの支持者であるという無視できない細部を明らかに忘れています。

ロサンゼルスの大司教ホセ・H・ゴメスは、母国(メキシコ)のクリステロスの殉教者の記憶を冒涜するように、「米国民が語った」と率直に言っています。糾弾され、広く証明されてきた不正行為は、ほとんど問題ではありません。千通りもの方法で汚されているとはいえ、国民の投票という迷惑で形式的なものは、今では、この提携した主流派思想の旗持ちに有利な結論が下されたと考えなければなりません。私たちは、ジェームズ・マーティン(イエズス会)や、バイデンのつかの間の勝利を分かち合うためにバイデンの馬車に乗ろうとしているすべての廷臣たちの投稿を、多少吐き気を感じながらも読みました。

反対する人々、明確さを求める人々、自分たちの権利が保護されているのを見るために法に訴える人々は、何の正統性を持っておらず、黙っていなければならず、自ら辞して、消えなければなりません。あるいはむしろ、この人々は、歓喜に満ちた聖歌隊と「一緒になって」、拍手と笑顔を送らなければならないのです。受け入れない人々は民主主義を脅かすものであり、追放されなければなりません。このように、まだ二つの陣営がある状態ながらも、今回は正当であり紛れもないものなのです。なぜなら、それらを押し付けるのが「彼ら」であるからです。

このことが示しているのは、米国カトリック司教協議会(USCCB)と中絶会社「Planned Parenthood」の両方が、同じ人物の選挙の勝利とされるものに満足を表わしていることです。この完全に一致した合意は、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオの選挙の際に、フリーメーソンの複数のロッジが熱狂的に支持したことを思い起こさせます。この選挙も、コンクラーベ内部での不正行為の影から逃れていたのではなく、同様に「ディープ・ステート」によって望まれていたものでした。

それはちょうど、ジョン・ポデスタの電子メール(ヒラリー・クリントン大統領候補の選対本部長当時のメールがウィキリークスによって流出した)から、またセオドア・マカリックと彼の同僚たちが民主党およびバイデン自身と結びついていることから、私たちがはっきりと知ることができるのと同じようにです。取り巻きによる非常に「すてきな」小グループであり、疑う余地はありません。

米国カトリック司教協議会のこれらの言葉で、「ディープ・ステート」と「ディープ・チャーチ」の間で結ばれた「pactum sceleris」[犯罪の契約]が、確認され、押印(確認)されています。つまり、新世界秩序(New World Order)のためにカトリックの位階階級の最高レベルが奴隷化であり、キリストの教えと教会の教理の否定です。

これに注目することは、現在起きていることの複雑さを理解し、超自然的で終末論的な視点でそれを考察するために必要な、第一のステップです。唯一のまことの世の光であるキリストが、その光を覆い隠している闇に対して既に勝利したことを、私たちは知っていますし、実際に確信しています。

米国のカトリック信徒は、祈りを増やし、米大統領のために特別なご保護があるように主に懇願しなければなりません。私は司祭たちに、特にこの日々の間、サタンと背教の天使たちに対する悪魔祓いを唱え、「Pro Defensione ab hostibus」の私誦ミサを捧げるようにお願いします。私たちが米国と全世界をその汚れなき御心に奉献する童貞聖マリアが介入してくださるよう、確信を持ってお願いしましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2020年11月8日
聖霊降臨後第二十三主日


「トランプ降ろし」で結託する民主党と中国共産党

2020年11月10日 | 迫り来る危機
みなさまに動画をご紹介いたします。

ピーター・ナバロ米大統領補佐官(通商担当)に、米中貿易政策についてのインタビュー。
また 米国の団体が中国政権の、“有用なバカ”になっていることや、ウォール・ストリートの対中投資、中共とバイデンのビジネス取引を巡る疑惑についても、話を聞いた。【動画コメントより引用】

【アメリカの思想リーダー】ピーター・ナヴァロ米大統領補佐官にインタビュー
「トランプ降ろし」で結託する民主党と中国共産党 大統領選後の米国経済を占う



マフィア映画のような、信じられないことが、平然と現実に起こっている、米国主流メディアもFBIも不正をずっと放置しているというのが悲しい現実だということです。

世界に影響を与えるであろう、アメリカの大統領選挙での、またアメリカでずっと行われてきた巨大な不正をお許しにならないでください!
ロザリオの聖母、我らの祈りをお聞きください!
天主の御前におとりなしください!



マスコミ3社が遮断と中継停止した、トランプ大統領の記者会見の内容

2020年11月10日 | 迫り来る危機
みなさまに動画をご紹介いたします。

真実を伝えるメディアは黙らされる?
大紀元新唐人グループのアカウントがBAN 
大統領選は投票制度を利用した民主党によるクーデター

トランプ大統領の発言内容は、4:16あたりから



選挙の公正さ、誠実さ、透明さは蒸発してしまっているようです。



今回のアメリカ大統領選挙について、バイデン氏からの全世界の皆様へのメッセージ

2020年11月10日 | 迫り来る危機
みなさまに動画をご紹介いたします。

Joe Biden brags about having “the most extensive and inclusive VOTER FRAUD organization” in history.
和訳:Joe Bidenは、歴史上「最も広範で包括的な不正選挙組織」を持っていることを自慢しています



つい口が滑ってしまったということでしょうか!





「アメリカは『巨大な不正選挙』のただ中にあり、敵を打ち破るために今こそ祈らねばならない」:ヴィガノ大司教

2020年11月07日 | 迫り来る危機
ヴィガノ大司教「アメリカは『巨大な不正選挙』のただ中にあり、敵を打ち破るために今こそ祈らねばならない」英語原文WEBサイトをご紹介します。

日本にいる私たちにとって、アメリカの選挙は対岸の火事と無関心ではいられません。巨大な悪がなされようとしているときに、私たちも、恩寵で全能な、悪魔が最も恐れる聖なる童貞マリア様に謙遜な祈りを捧げて取次ぎを願い、天主様に信頼と謙遜な祈りを捧げようではありませんか。

「私たちを待っている日々は、皆さんすべてにとって、また、世界中のあらゆる場所から皆さんに霊的に一致する人々にとって、貴重な機会となります。皆さんには、この霊的な戦いの勝利に参加できるという名誉と特権があり、私たちの父祖たちがレパントで敵軍を撃退したように、聖なるロザリオという強力な武器を振るうという名誉と特権があります。」―ヴィガノ大司教

Viganò: America is in midst of ‘colossal electoral fraud,’ we must pray NOW to defeat enemy
ヴィガノ大司教「アメリカは『巨大な不正選挙』のただ中にあり、敵を打ち破るために今こそ祈らねばならない」

英語原文出典もとはこちら



2020年11月4日
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、

敬虔なキリスト教徒として、また米国の忠実な市民として、皆さんは、大統領選挙の最終結果がまだ不透明な中で、愛する国の運命を強く心から心配しています。

特定の候補者に有利になるように事の真相を検閲しようとする主流メディアの恥ずべき試みにもかかわらず、不正選挙のニュースは増え続けています。投票数が有権者数を上回っている州があれば、郵送による投票がジョー・バイデンにのみ有利なように見える州もあり、理由もなく投票用紙の集計が中断されていたり、センセーショナルな改ざんが発見されていたりする州もあります。その改ざんは、ドナルド・J・トランプ大統領には常に不利のみで、バイデンには常に有利のみです。

実際には、数カ月前から、がく然とするニュースや、操作されたり検閲されたりした情報、驚くような証拠や反論の余地のない証言に直面して黙殺されたり、隠蔽されたりした犯罪が、連続して流れ出てくるのを、私たちは目の当たりにしてきました。

闇の子らが望んでいる新世界秩序(New World Order)の確立に猛烈に反対してきた男の敗北を確実にするために、ディープ・ステートが自ら組織し、前進させ、歴史上最も巨大な不正選挙を実行するのを、私たちは目の当たりにしてきました。

この戦いにおいて、皆さんは、神聖な義務として善き人々の側に必ず立たなければなりません。他の人々は、悪徳の奴隷になったり、私たちの主に対する地獄のような憎しみで盲目になったりして、悪の側に立っています。

闇の子らが正直に行動すると思ってはいけませんし、彼らが欺瞞をもって行動していてもつまずいてはいけません。皆さんはおそらく、サタンの信奉者たちが正直で、誠実で、忠実であると信じているのでしょうか。主は悪魔に対してこう警告されました。「彼は初めから人殺しだった。彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき心底からうそを言う。彼はうそつきであり、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。

地獄の門が勝つように見えるこの時に、皆さんに私の訴えを述べさせてください。素早く寛大さをもってこれに応えてくださると信頼しています。

天主への信頼の祈り、けんそんの祈りと、「万軍の主」への子としての信心をお願いします。可能であれば、皆さん全員の家族や大切な人、友人、兄弟姉妹、同僚、仲間の兵士たちと一緒に聖なるロザリオを祈るようにお願いします。いとも聖なる御母に頼る方法を知っている子どもたちの自己放棄の心をもって、天主の御稜威の玉座の前で執り成してくださるように祈りましょう。

真摯な霊魂と純粋な心をもって、聞いてくださる、答えてくださるという確信をもって祈りましょう。「キリスト信者の助け」(Auxilium Christianorum)である御母に、敵の力を打ち負かしてくださるように願いましょう。戦列を整えし軍隊(雅歌6章10節)のように恐るべき御母に、善の勢力に勝利を与え、悪の勢力に屈辱的な敗北を与えてくださるように願いましょう。

皆さんの子どもたちに、皆さんが教えた聖なる言葉を使って祈らせてください。高齢者や病人に祈らせ、私たちの贖いのために尊い血を流された私たちの主が十字架上で受けた苦しみと一致して、自分の苦しみを捧げるようにしてください。若い女性たちに祈らせて、清らかさと母性の模範である御母に立ち返るようにしてください。

そして、男たちよ、皆さんも祈らなければなりません。皆さんの勇気と名誉と大胆さが新たにされ、強められますように。皆さん全員、この霊的な武器を手に入れてください。その武器の前では、サタンとその手下たちが猛烈に退却します。なぜなら、彼らは、全能の天主にさえも増して恩寵によって全能である、いとも聖なる童貞を恐れているからです。

敵の策略に惑わされないようにしてください。うそと詐欺の不謹慎さが天に挑むこの恐ろしい時代にはなおさらです。もし皆さんが祈るならば、信仰をもって、まことの熱情のある愛徳をもって祈るならば、私たちの敵たちの時間は数えられています(つまり限られています)。

主が、一人の敬虔で忠実な声が、皆さんの家、皆さんの教会、皆さんの街路から立ち上がらせてくださいますように。この声は聞き届けられないままではありません。なぜなら、この声は、嵐が最も激しく吹き荒れるその瞬間に、「主よ、助けてください。私たちは死にそうです」(マテオ8章25節)と叫ぶ民の声だからです。

私たちを待っている日々は、皆さんすべてにとって、また、世界中のあらゆる場所から皆さんに霊的に一致する人々にとって、貴重な機会となります。皆さんには、この霊的な戦いの勝利に参加できるという名誉と特権があり、私たちの父祖たちがレパントで敵軍を撃退したように、聖なるロザリオという強力な武器を振るうという名誉と特権があります。

私たちの主に信頼して祈ってください。「求めよ、さらば与えられん。探せよ、さらば見いださん。たたけよ、さらば開かれん」(ルカ11章9節)。皆さんが自分の国の救いを求める王の王は、皆さんの信仰に報いてくださいます。このことを覚えておけば、皆さんの証しは主の心に触れ、勝利を達成するために今まで以上に不可欠な天の恩寵を増やしていくことでしょう。

皆さんと天主が主であることを認めるすべての人々に向けた私の訴えで、皆さんが、皆さんの愛する国の霊的再生の寛大な使徒にして勇気ある証人となり、さらに全世界の霊的な再生の証人となりますように。Non praevalebunt.(これに勝たざるべし)

God bless and protect the United States of America!
One Nation under God
(天主の下にある一つの国家、米国に天主の祝福と御保護がありますように!)

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
前駐米教皇大使
2020年11月4日
聖カルロ・ボロメオの祝日

アンチ・キリストの時代は来たのか?

2020年11月05日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、動画「11月2日全ての死せる信徒のお説教」をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

プーガ(Puga)神父様によるお説教 2020年11月2日全ての死せる信徒の日


PUGA神父様によるお説教
2020年11月02日 Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

アンチ・キリストの時代はきたのか?

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

いと愛する兄弟の皆様、「今の世は厳しく悪い時代になっています。残念ながら、現代社会は死をもたらしていると言わざるを得ません。いつもどんどん、死をもたらしている、死を宿している現代社会になっています。邪悪や堕落が支配しています。法律においてまで、支配しています。
ですから、現代のこれほどの堕落と邪悪さ、精神らの腐敗を確認すると、もはやイエズス・キリストによって予言された世の終わりの時代に入りかけているのではないかと思ってもおかしくありません。そして、堕落をもたらす子、アンチ・キリストはすでにこの世において到来しているのではないかと思ってもおかしくない時代なのです。」

以上の言葉は私の言葉ではなく、20世紀のはじまりぐらいに教皇聖ピオ十世の言葉でした。聖ピオ十世が現代で生きていたら、何と言っていたでしょうか?

いと愛する兄弟の皆様、死というのは天主の印ではなくて、怪物の印なのです。堕落した天使、自分を創造し給った天主に対して反逆したルシファーの印なのです。

反乱を犯したこの天使を指して、イエズス・キリストは仰せになりました。「彼は始めから人殺しである」(ヨハネ、8、44)
まさにその通りであって、悪魔は人を殺しています、

というのも、創造の始まりから、人間を創造なさった時に、天主は本来ならば生まれながら死すべき人間に不死を与えて、ご自分の永遠性に参加することをお許しになりました。しかしながら、サタンの誘惑の結果、アダムは原罪を犯してしまいます。その結果、死がこの世に初めて入ってしまいました。

いと愛する兄弟の皆様、死はどこにでも入ってきました。人間なら皆、死によって染まっています。そして、現代になって、死は社会をめちゃくちゃにさせて社会を破壊しています。堕胎、安楽死、殺人をはじめ、死は蔓延しています。

この世は不思議ではないでしょうか?コロナ関係で、人々を救うという名目で、自由をなくす多くの法律を押し付けられている現代です。そして、社会に死をもたらすこれらの「衛生法」などは、社会における絆全体を破壊するだけではなく、家族をも破壊しています(注・フランスで、家庭教育を禁止する勢い、教育義務は三歳まで引き下げられたなどなど)。また、宗教による絆をも破壊しています(注・フランスでのミサなどの禁止を指す)。

この少し前、10月の頭ぐらいに国家の一番偉い権力者が堕胎に対する反発を見て、憤慨したのはまさに象徴的でしょう。彼は堕胎を指して、女性の基本的な権利だともちろん断言しておきつつ、「女性が自分の体を自分の勝手にする権利がある」とまで言っていました。母のお腹の中の赤ちゃんはあたかも単なる生命のない器官であるかのようなことを暗に断言している酷い発言でした。



生物学あるいは遺伝学の大専門家ではなくても、だれでも、赤ちゃんが生きていることを知っているはずなのに、これを言うのは国家のエリートによる単なる嘘にすぎません。それは驚くことではないのです。というのも、彼等の父は悪魔に他なりません。キリストは仰せになるように、悪魔は「うその父だ」(ヨハネ、8、44)からです。

いと愛する兄弟の皆様、我々は以上のような酷い嘘を述べている人々を聞いて、彼等が天主のみ前に、天主の裁判への出廷が来た時を考えてみると、恐ろしくてゾッとせずにいられません。「人が話した無駄ごとは、すべて裁きの日に裁かれるだろう」(マテオ、12、36)と仰せになったイエズス・キリストなので、これは恐れるべきことです。

聖書にしるされているように、「生きる天主の御手に落ちるのは恐ろしいことである」(ヘブライへの手紙、10、31)

かつて、フランスでは、死刑の廃止になってかなり騒がしかったのです。今になって、カトリック教会のトップの人ですら、「死刑廃止せよ」となんの憚りもなく、主張しています。

しかしながら、いと愛する兄弟の皆様、フランスにおいて、死刑が廃止されている現代はどうなっているでしょうか?もはや死刑台では誰も死なないかもしれませんが、我々の町で、我々の教会で斬首刑にされている人々が多くなっています(注・教師の斬首刑、またニースにおけるテロ事件三人死亡。犠牲者を斬首刑しようとしたが、実現できなかった。)



ついこの前、野蛮人らによって酷く容赦なく殺された教師を思い出しましょう。このような犠牲者を捧げて、共和政が彼を英雄にしてしまいます。しかしながら、この教師を見たら、一体どこに英雄的なことがあるでしょうか?14歳の未成年者の女性たちに、ポルノグラフィー(春画)を見せることは共和政にとって英雄的なことになっているとでもいうのでしょうか?

このような理不尽は「表現の自由」という大義でなされていますが、この教師も含めて、「表現の自由」を理解していないのではありません。共和政は意図的に「表現の自由」を悪用しているのです。

この結果、この教師、犠牲者のために、教育の聖域だとされているソルボンヌ大学において、豪華な記念式が執り行われました。
このような理不尽を見て、憤慨せずにいられないのですが、このような憤慨は忘れてしまいましょう。そして、イエズス・キリストが仰せになった通りにしましょう。「死人は死人に葬らせておけ」(マテオ、8、22)。

以上のようなフリーメイソン的な共和政が打ち出す「英雄」よりも、我々、カトリック信徒は公教会の慎み深い殉教者たちを模範にしています。
このような殉教者はある日、いつもと変わらないで、ある教会に入って天主に自分を捧げようとしていたところ、肉体をまとった悪魔的な人に出会い、カトリック信徒であるという理由だけで殺されている殉教者たちです。

彼は死にあったとき、裁きに出廷する準備はできていたでしょうか?これを見て、なぜか祈るために神殿に入るファリサイ人と税吏を思い出します。税吏の人は慎み深くて、教会の奥にとどまって、自分の旨を叩き、「ああ、天主よ、罪人の私をあわれみください」と言っている姿を思い出します。そして、イエズスは「私は言う。この人は義とされて家に帰った」(ルカ、18、9-14)と仰せになりました。

イエズス・キリストにおける殉教はすべてを清めます。「主において死ぬ人々は幸いである」(ヨハネの黙示録、14、13)と主は仰せになる通りです。

いと愛する兄弟の皆様よ、ですから、我々は死に負けることはありません。本日、死者の祝日ですが、死を祝うのではないのです。死んだ人々のために祈る日ですが、死んだ人々すべてのために祈るのではありません。キリストの信仰と希望と愛徳の内に死んだ人々のためのみ、祈っています。

カトリック信徒なら、死を恐れないのです。なぜでしょうか?我々の天主、イエズス・キリストがこの世に来たのは、死という辛苦を嘗めるためでした。我々の主、イエズス・キリストは死を受けて、耐えられた結果、御自らのご復活の力によって死に打ち勝たれたイエズス・キリストです。はい、カトリック信徒なら、死を恐れないのです。死は単なる通過なので、カトリック信徒なら、死に備える次第です。我々は知っているように、キリストはご自分の復活を我々と分かち合い給うことになります。これは墓地においても尊敬を払う死んだ信徒たちや先祖たちの信徳と望徳だったように、我々の信徳と望徳でもあります。

ですから、聖パウロは「死よ、おまえの勝利はどこにある。」(コリント人への手紙、15、55)という通りです。我々も悪魔に「おまえの勝利はどこにある。」と言ってもよいでしょう。悪魔は永遠の負け犬であり、現代風にいうと「ルーザー」です。聖ヨハネが言うように、「天主から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である」(ヨハネの第一の手紙、5、4)のです。

現代の指導者たちはミサ聖祭に与ることを禁止しようとしています。これも、怪物のわざであることを示しています。
また、あちこちでしつこく、コロナの第二波はまったくさきがみえないよと宣言されています。もう、我々の目には彼等の目論んでいることは見え見えです。



ちょっと前まで我々が持っていた自由の時代はもう一度訪れて取り戻せるでしょうか?だれも言い切れないことでしょう?
ですから、本教会の雑誌、『Le Chardonnay』の最新号を読むようにお勧めします。イエズス・キリストの御業を破壊することにあたってのサタンとその役割についてなので、これから都市封鎖になりますが、これを読むのがよいです。

また、聖母マリアにすべてを捧げましょう。聖母マリアは善き死を支配している御(おん)方です。最初から、ヘビの頭を踏みにじった御(おん)方です。毎日、我々は聖母マリアに祈って、言います。「罪人(つみびと)なるわれらのために、今も臨終の時もいのりたまえ」
はい、今と臨終の時が一致している日は近づいています。ですから、敵の前に、イエズスが恐れていた使徒たちを励むために仰せになった次の御言(みことば)を思い出しましょう。
「あなたたちがこの世で苦しむだろう。だが勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ、16、33)

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

愚かな母親、それは娘を守れず、天主を試みることにほかなりません!

2020年11月03日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」23章 常に繰り返される一つの歌、悩みの歌をご紹介します

我が子を危険のなかに送り込んで、守護の天使に祈っても、天主の正義によりそれは叶わないということの実例です。愚かな母親は、賢明な父親の忠告をきかずに娘を守ることができませんでした。単純で真直ぐで正しい父親の忠告はまさに家庭の王イエズス・キリストの忠告でもあったのですね!

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
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『マルガレーテさん。』 郵便局の窓口にいたその娘は、驚いて耳をそばだてた。郵便局長が、 彼女に、そのように姓ではなく名を呼んで、話しかけたことは、これまでにないことであった。局長は、いつも非常に形式張って固苦しかった。――『あんたは、今晚、僕と一緒に町へ行きませんか。僕は芝居の切符を二枚持っているんです。ところが、きょうは、家内は都合が悪いんです。女というものは、妊娠すると、そうなるんですね……』

町へ! 劇場へ……長い間の熱烈な憧れ! まだ劇場へ行ったことがなく、それをただ聞いたり、読んだりして知っているに過ぎない若い娘にとつては、そういうところには、一体、どんなあらゆるものがあると思えるのであろうか。素晴らしい幻像が電光のような速さで、そびえ立った。戦争前の幾年間というものは、小さな村の娘たちは、独りでそんな探検旅行をあえてしようとはしなかった。

マルガレーテの家には、一緒に行く人は誰もいなかった。父母は、静かに暮していたかった。恐らくまた、そんな新しい事物に対しては、あまりにも不安な感じがしたのであろう。弟や妹は、まだ小さすぎた。――彼女は、ただもう一緒に行きたくて堪らなかったので、大喜びで、はいと言った。これが一つの運命になるか知れないという考えは、全然、彼女には起らなかった……それは、一つの譲歩であったということ――および、乙女が、生存のための戦いにおいて、道德的に身を守るために絶対に必要とするところの「人格的自由」を失う最初の譲歩であるということを。――

昼食のとき、マルガレーテは言った。『私は今晚、郵便局長さんと一緒に町へ芝居を見に行くんです、局長さんが私を招待して下さったの、奧さんはきょうは都合が悪いというんで……』
『それやお前、いけないよ。』 と父親が答えた。彼は昔風の正直な職人気質(かたぎ)の指物師である。『娘というものは、贈物をもらってはいけないんだよ。芝居の切符だってそうだ。きょう昼行ってから、こう言いなさい、御招待下さって有難うございますが、お断わりせねばなりません、と。』

悲しげに、娘は頭をうな垂れた。ところが、母親が口をさしはさんだ。
『あんた、お願いですよ! もし局長さんの御機嫌を損じたら、娘は首になるかも知れませんよ。いつか、町からわざわざ一人の女を雇おうとしたことがあったのを、あなたはもう忘れたのですか? この村の娘たちは、まだ殆んど自由を認められていなかったので、あの頃、言われたことには……』



『何ももらっちゃいけない。』と父親は、頑固に言いはった。『もらうと、義理が出来る。今度の場合は、恩返しができないんだから、それこそ二重に不愉快なんだよ。』

『そんなに昔風にしないで、娘を喜ばしてやりなさいね。』と母親は弁護した。『今日では、もうそのことを、そんなに生真面目に取る人はありませんよ。郵便局長さんは、結婚していらっしゃるのです。局長さんが、いま持っていらっしゃる切符を無駄になさる代りに、娘を連れて行って下さっても、それは局長さんにとっては別に何ということもないでしょう……』

『結婚していようが、いまいが……全く同じことだ。娘よ、このことを決して忘れないように、よく覚えておきなさい、人は何ももらってはいけない、と。全く何も。人に支払ってもらってはいけない。汽車の切符でも、コーヒー代でも……お前がこのことを知らないために、行きますと、もう言ってしまったのなら、仕方がない、ぜひ一緒に行きなさい。 だが、将来のために、このことをよく心に銘じて置きなさい。そして、もしお前たちが今晚、飲食店にはいるようなことがあっても、支払ってもらってはいけないよ。卒直に言いなさい、私は自分で払いますと。そして、この次にまた招待されたら、お礼を言って断ってしまいなさい。』

『まあ、あんた、何を言うんです。相手は局長さんですよ。私は、ほんとにあんたの気持が知れませんよ。あの娘が、大変上役の気に入っていることを喜びなさいよ。あのお方は、部下を昇進させる権力を握っていらっしゃるんですよ。ほかの親なら喜ぶだろうに……』

『よその家庭を御覧よ、お母さん。きょうまでに工場の事務所に務めていた十人の娘のうち、もう三人が私生児の母となっているのだよ。これは、「娘たちが、大変気に入られている」ということから来たことなんだ。残念ながら、以前とは経済事情が変わった。しかし、だからといって、昔からの賢いことまでが、変わるものではない。我々は、悪魔に小指をさし出すような危険なことは、してはならないよ。それどころか、誤ちの機会が大きければ大きいだけ、それだけ娘は、自分の廻りに砦(とりで)を高く築かねばならないんだよ……』

しかし、母と娘は、ついに勝利を占めた。マルガレーテは、日曜日の晴着を着、そしてサンドウィッチを持って出て行った。彼女は郵便局の窓口を閉めた後、すぐ駅へ行かねばならなかった。
『よく楽しんでお出でよ、お前!』と母親が言った。
『お父さんは、私の喜びにけちをつけたのよ……』
『お前知っての通り、お父さんは旧式な人なんだからね。今日では全く世の中のことは、いろいろ変わって来ているんだよ。そして、人は、時代と一緒に進んで行かねばならないものだね。』

その憐れむべき母親は、自分の娘の成功を非常に誇っていたので、そのことを私に話して聞かせた。
私は、その父親の意見の正しいことを主張しようと試みた。しかし、それは失敗した。
『そんなことは、私の娘に限ってありませんよ! あんたは一体、何を考えていらっしゃるの……それに、相手は郵便局長さんですよ、結婚なさったお方ですよ……よくお考えなさいな!』

その夜、父親の指物師は、駅で終列車を待っていて娘を迎えた。郵便局長は、驚いて機嫌を悪くした。マルガレーテは、満足しきって輝いていた。

このようにして人生の中に初めて巣立って行った若い娘が、そういう気持になったことは、よく判る。彼女は、その晩、非常に多くの新しいものを一度に経験したので、もはやそれを全部思い出すことはできなかった。父親の戒めは、もちろん全部、忘れてしまっていた。人は、時代と一緒に進んでゆかねばならないよと、お母さんもほんとに言ったのだ……



『あんたは、今夜は、僕のお客さんですよ。』と郵便局長は言った。彼は、汽車の切符を買い……そして当時一般に行われていた観劇客の悪習にならって、チョコレート菓子を買い……それから、なおブドー酒を飲んだ……時代はまさに変わり、そして父親は旧式になったのだ。
その翌朝、郵便局のマルガレーテの席には、チョコレートが一枚置いてあった。『きのうの残りですよ。』と局長は言った。『あなたのお父さんは、いつもあなたのことを心配していらっしゃるんですか? 全く敬服ですね! しかし、今日では、生活は変って来たのです。古いお方は、変わった時代の中では、もう勝手がよく判らないのですよ……』

三日後、彼は彼女の方に菓子を一箱押しやって、『これで一日中、あまり退屈しないように。』と言った。その際、彼は彼女に非常に接近して、彼女の手をそっと撫でることができるような段取りにすることを知っていた。小さな御機嫌取り……小さな愛撫……厚かましさ……もし、それに触れると、無邪気さが葬り去られるところの縄(なわ)が、どのように綯(な)われているかということを、誰が知らないであろうか……

それなのに、その娘は、一たび誤った道に第一歩を踏み出した後、見かけ上の幸福のために、非常に心を奪われていたので、いかに男女の境界線が、おもむろに、いよいよ遠くへ押しやられ、そして消滅してしまったかということに気がつかなかった。――

『お母さん、わたし今夜、音楽会へ行けるといくんだけど。でも、お父さんが……お母さんは、よく判っていて下さるんだけれどもね……』
二週間後には、こういう調子であった。
『お前、多分お断わりはしなかっただろうね?』
『そうよ、局長さんに向っては、断われないわ。私がはじめに一緒に行って、そしてあのお方がとても親切にして下った後ではね――もし断わると、ほんとに侮辱だと思うわ。』
『お父さんには、こう言っておいていいだろうね、 お前はあるお友達のところへ行きました――なぜなら、クリスマスが近づいたのだからって……』父親が、そんなに分らず屋であるなら、どうしたらいんだろうか? と母親は、自己弁護をした。世間の人のするようにしておれば、どんな場合でも、うまい具合に行くものだと……

二人だけでの楽しみは、お定(きま)りのこととなった。交際はますます濃やかな形をとっていった。御機嫌取りはますます大きくなった。 新しい財布だの、絹のブラウスだの……母親は、それらの品物は、自分が調達してやったものだということにして、家庭でのごたごたが起らないようにした。もう娘にとって、そういうものが、似つかわしくなって来たからには、娘にもそれを当てがってやらねばならないと母親は言った。ああ、その母親は、娘が大へん局長の気に入っていることを非常に誇りとしていたのである!……

※イメージ図です

二月に郵便局長は、誕生日を迎えた。『マルガレーテさん、誕生日のキッスをして頂けないでしょうかね?』娘は当惑した。警戒心が起った、電光のように速く――父の姿が。お父さんは、何と言うだろうか? しかし、彼女はそんな小さな害のない願いを断わることはできなかった。――そんなに親切にしていただいた後は……? 何がまたそこに潜んでいるであろうか。――

『なるほど、僕は結婚した男です。しかし、そこには本当に何もないのです。僕は、いつもあなたに親切ではなかったですか? ですから、いま僕もまた、あなたが少し僕によくして下さることを一度見せていただきたいんです、そう、小さな誕生日のキッスを……』

黄金の鎖――それは、どんなに堅く縛りつけることか……
それは、誕生日のちょっとしたキッスだけに止まっていなかった。いな、それからは、さらに敬意を表わすキッスが要求された。しかし、そこには一体、何があるか? 間もなく、キッスは、每日の勤務上の義務となった。そして……然り、そして――

ある晩、彼らは町へ行ったが、もう劇場へは、はいらずにヴァライエティーへ行った。そこでは、いろいろな刺戟的なものがあった。多かれ少なかれ、ただ一つしか意味のないものが。半裸体の女が、現われて踊った。二人は、強い酒を飲んだ――終列車に乗りおくれた。そこで、その娘は大へん昂奮した。お父さん! もし彼女が家に帰らなかったなら、どうなることであろうか? 停車場で彼らは自動車を拾った。村へ車を走らす途中、郵便局長は、興奮、アルコール、目覚めた官能を利用して、最後のものへの大胆な攻撃を敢行した。そして多くの抵抗なしに勝った。何が一体あったのかということは、もはや全然、娘の意識に上らなかった。――

翌朝、マルガレーテは、しかし、相当な二日酔を押して出勤した。『僕たちは、きょうは、少し長く働かねばなりませんよ、』と局長は言った。そして午後おそく、強い赤ブドー酒をお八つに出した。
『マルガレーテさん、きょうは大へん顔色がよくないですね。 赤ブドー酒を沢山飲まねばいけません。さもないと、具合が悪くなっても、僕は責任を負いませんよ……』

なるほど、その通りに彼らは、 窓口を閉めた後、一緒に居残っていたが、食事はしなかった。娘は、涙を抑えようと努めた。『マルガレーテさん、いま僕は、あなたが僕を愛していることを知っています。きのう、あなたはそれを僕に示して下さったのです。僕の結婚は、あまりにも不幸でした……家内は、全然僕に適していません……僕を全然理解しないんです。もしあなたと一緒になれたら、どんなに幸福になれるでしょう! そうすると、生活は全く違ったものとなるでしょう。』

もうすでに、いかに多くの娘たちが、この鳥黐(とりもち)の上に足を踏み入れたことであろうか!
もちろん、局長は、離婚しようと思った。そうすれば、道は新しい幸福に向って自由に開けるわけであった。もっとも、当分の間は、彼らは結婚せずに、ただ愛し合っていなければならないのであったが。しかし、この相愛は、今はもはや変更することのできないものであった。彼らは、互いに相手のものとなっていた……

『リスベートさん、男というものは、よくも美しいことがしゃべれるものですね。それなのに、私たちは馬鹿で、それを信じこむんですね。そしてそれは、全くその通りだと考えるんですね…… あの人は、いまお前を掌中に握っている……お前は、あの人にしっかりすがっていようとする以外には、もうどうすることもできないのだ、とね。人間は実に馬鹿なもので、もし自分で愛を感じるなら、その愛を信じこんでしまって……心変わりすることなんか、考えることができないんですね……』

産褥で、私は彼女から、その「人生の懺悔」を聞いた。しかし、残念ながらその懺悔は、この種類の唯一のものではない。それは、常に繰り返される一つの歌である、誤った道に第一歩を踏み出した悩みの歌である……

郵便局長は、転任を命ぜられた。女の郵便助手は、局内での妊娠が知れわたったとき、免職となった。今や、その娘の母親は手を揉み、髮をかきむしった。『何という不名誉! 信仰が、ぐらついて来る。每日、私は娘の守護の天使にお祈りしたのに! 每晚! それなのに、今この恥辱……』と、母親は私のところで嘆き悲しんだ。

『目を覚まし、そして祈れ、と救い主は、おっしゃいました。キリストは、目覚めることを第一位に置かれましたが、それは何故かということを御存知だからでした。あんたがなさったように、お子さんを危険の真中に送りこむということは、天主を試みることです。このような瞞着(まんちゃく)【ごまかし】を、救い主は、お護り下さるわけには行きません……』

母親は、娘を家から出そうとした。しかし、父親が執りなした。 いつもと同じように、彼は単純で、真直ぐで、正しかった。『お前に責任があるんだ、』と彼は妻に言った。『だから、お前は、今お前のやり方の結果を引きうけたらいいだろう。』

郵便局長は、もちろん、真面目に結婚しようという気は毛頭なかった。以前その家にいた女中も、局長の子供を一人生んだことがあるということを知ったとき、父親はきっぱりと一切の関係を断ち切った。

なるほど、彼の娘は、一度その自由を売った――しかし、局長のような人間の屑に対して娘がそうしたことは、父親としては、今なお勿体なさ過ぎたことに思われたであろう。――
数年後に、世界戦争が勃発したとき、マルガレーテは再び郵便局に雇われた。そして今や自分で子供の世話をすることができるのである。