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「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死んだ」教皇聖ピオ十世|聡明で剛毅の方。教皇の使命は信仰を強めること。

2023年09月28日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼



教皇、聖ピオ十世、聡明で(上智をもった)剛毅の方。
ビルコック神父様(G.Billecocq)
2023年09月4日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて。
親愛なる兄弟の皆様、

聖ピオ十世の祝日にあたり、この偉大な教皇の聖性は、教皇ピオ十二世の下で行われたこの日のミサ典文に要約することができます。この祈祷の中で、まず第一に、教会は教皇の使命を思い起こさせます。集祷文にあるように、教皇の使命は信仰を強めることです。

教皇は、我らの主、イエズス・キリストの目に見える代表者である聖ペトロの後継者であり、イエズスは教会の創立者であるだけでなく、目に見えない頭でもあり、教皇は地上におけるイエズスの代理人にすぎません。つまり、教皇は、イエズス・キリストご自身が使徒たちに伝えたもの、すなわち、私たちの魂を養い、永遠に導くために必要な信仰の預かり物、啓示されたものを伝えているにすぎないのです。

そして、この同じ祈祷の中で、教会は教皇聖ピオ十世がこの信仰の預かり物を与え、それを完全に伝え、つまり真理を伝えるだけでなく、それを守ることにおいて輝いた美徳を強調します。聖トマスが言うように、これは継承における第二の側面であり、誤謬からこの信仰を守ること、すなわち、誤謬を糾弾することによって誤謬を非難することでもあります。

教皇、聖ピオ十世には二つの特質があります。第一は天の上智。二つ目は使徒的な剛毅です。

そして、興味深いのは、今日の祈祷の最後に、聖ピオ十世に倣うようにとありますが、たとえ私たちが教皇でなくても、私たちは皆、この信仰によって救われることができるように、信仰の完全性を守る使命をこの下に持っているのです。

まず第一に、天の上智(智慧)です。上智とは何でしょうか?上智とは、真理を知ることであり、真理を愛することです。
上智は一言で言えば語源的にいうと「味わうこと」です。上智とは、天主のものを味わうことです。賢者とは、聡明な方は教理である神聖な食物、すなわち信仰を味わう人のことです。

だからこそ、すべての天の上智には、この二つの要素が必要なのです。第一に、知識、啓示された教義に関する知識です。司祭は神学校で学ぶ間に啓示された教義について学びます。ルフェーブル大司教様が私たちに与えてくださった6年間、最初の1年間はフラヴィニーで、残りの5年間はエコンで学びました。健全な哲学は健全な神学の正しい土台です。そして、その下に台座のように、堅固で強固な哲学がなければ、長期的に持ちこたえることのできる真の神学は存在しません。

ですから、私たちにとって、この知識は神学です。しかし、親愛なる兄弟の皆様、皆様にとって、この知識とは、それぞれの能力に応じて、それぞれの時代に応じて、聖なる教義を学ぶことです。簡単に言えば、カテキズム(公教要理)を知ることです。すべてのカトリック信者はカテキズムをすでに知っているはずです。そして、同じカテキズムを、おそらく説教を通して、おそらく勉強を通して、おそらく講座を受けることによって深めることです。ここでは、この教会が多くの講座を提供しており、もちろん、信仰のために招待され、お勧めします。

残念なことに、第二バチカン公会議以来語られてきた教会の危機は、公会議ほど残酷にはいきなり到来しませんでしたが、多くの知識人、そして残念ながら聖職者の中の多くの知識人の無知の中に、こういった教会の危機が根を下ろし、無知は教会の危機を養い、準備しました。

無知のせいで盲目となるため、教義上、教会上の問題において、無知はおそらく最悪の事態の一つです。私たちの主はすでにファリサイ人の無知を糾弾し、盲人が盲人を導き、両者が落とし穴に落ちると述べておられます。

だからこそ、親愛なる兄弟の皆様、私たちはこれまで以上にこの無知を克服する必要があるのです。
現代での無知は最大であり、おそらく歴史上のどの時代よりも最大です。今日私が話しているのは、もちろん教義上の無知についてです。なぜなら、今日の正常の聖職者たちでさえ、教義、道徳、秘跡、そして人間に対する助言の問題において、この無知を見出すからです。

このような知識は、真の上智、天主の上智、この集祷文の中で語られている天の上智を確立するには十分ではありません。この知識は、既知の真理を愛することにほかならない志向を伴っています。つまり、カトリック信者は、神学的な推論をつなぎ合わせ、真理を結びつけることのできる純粋な頭脳の持ち主ではありません。

カトリック信者とは、単にカテキズムを知っている人ではなく、カテキズムの真理を味わう人なのです。もちろん、知っていることそれは良いことであり、美しいことですが、それだけでは十分ではありません。この教義に従って生きるには、この教義を愛し、この教義を味わわなければなりません。教義を愛するためには、時間をかける方法を知らなければなりません。ただ勉強するだけでなく、黙想する時間も必要です。


私たちに提供された真理を黙想し、天主の臨在の中に自分の身を置き、天主の内に生きるための時間を取るのです。親愛なる兄弟の皆様、私たちはまだ非常に活動的な時代にいます。というのも、活動主義は霊魂をこの世のものに、時には物質主義に、あるいはとにかく物質的な悩みに陥れるからです。

活動主義は司祭を脅かし、司祭職を脅かし、すべての霊魂を脅かす危険です。そして、このような心配事は、霊魂が持つべきすべてを支配してしまい、最後には、本質的なもの、すなわち、イエズス・キリストの愛に満ちた知識を窒息させてしまうのです。だからこそ、この天の上智において、聖ピオ十世がご聖体の前で過ごした時間、お祈りに費やした時間、天主の御前で過ごした時間の中で輝いていたことを理解しなければならないのです。天の上智とはこのことです。

聖ピオ十世はこの集祷文の中で、その使徒的な剛毅の模範として挙げられています。

実際、どのような指導者であれ、教会的な問題、特に教皇の問題については、決断を下すために強くなければなりません。聖ピオ十世がそうであったように、このような決断は、ときには他の地上の君主や国家元首と対立するものであり、周りの皆の意見と必ずしも一致しない決断であり、時には特定の国家から軽蔑されるような決断であるため、よく痛みを伴います。

聖ピオ十世はこの使徒的な剛毅で輝いていました。このことは、フランスの歴史を見ればよくわかります。しかし、その剛毅とはどのようなものだったのでしょうか?聖トマス・アクィナス曰く、剛毅の対象は恐れであり、危険に対する恐れです。

そして、位階制における地位が高ければ高いほど、権威があればあるほど、自分自身より人々を疎外することへの恐れ、誤解されることへの恐れが大きくなることは確かです。聖ピオ十世はこの恐れを克服しました。どのように克服したのでしょうか?

まず第一に、恐れは現世的な計算の上に成り立つものですが、聖ピオ十世はこのような単純な計算を求めることはありませんでした。聖ピオ十世は教会に権力を求めることもありませんでした。私たちは、彼が教会の位階制の中でどれほど高いところに登ったかを知っていますが、彼が決してそれを求めなかったことも知っています。教皇庁で働くためには、しばしばローマで学び、各省に入らなければなりません。聖ピオ十世の場合はそう単純ではなかったのです。最初はただの助任司祭でした。その後、小教区の主任司祭となり、教会の位階制を一歩一歩登り、司教、ヴェネツィア枢機卿、そして最終的には教皇となったのです。

聖ピオ十世は、この世のものを嗜むことはありませんでしたから、この世のものを失うことも恐れませんでした。彼の墓碑に刻まれた言葉は非常に明確です。「私は貧しく生まれ、貧しく生き、貧しく死にました」と。この世のものは聖ピオ十世の霊魂にとって何の興味もないものであったからこそ、彼はこの世のものを計算の基準にしなかったのです。

この世のものに執着すればするほど、それが物質的な所有物であれ、自分の名声であれ、(私たちがそれらに執着していることは天主もご存じですし、それはごく普通のことですが)そして、私たちが天主の敵を恐れれば恐れるほど、私たちは彼らに服従する羽目となります。聖ピオ十世は決して彼らを恐れませんでした。

フランスに関して、豊富で奴隷的な教会よりも、貧しくとも自由な教会を選ぶという決断を下さなければならなかったとき、彼はテーブルの上に拳を叩きつけ、それによって彼の堅固さ、決断力、意志、そして実際、彼の剛毅を示したと言われています。そして、この使徒的な剛毅は、偉大な堅忍によって育まれるのです。この堅忍さは、一方では徳の実践を通して、他方では改悛と苦行を通して、善を行おうとする意志の中に見出されるのです。

聖ピオ十世は、その列聖の過程が示すように、すべての徳において知られています。聖ピオ十世の列福の文章を読み直すだけでも、彼が実践したすべての善徳を強調した素晴らしい文章を読むことができます。しかし、聖ピオ十世は、私たちが見て賞賛するような善良な教皇であっただけではありません。改悛と苦行の熱心で規則的な実践なしには、真の徳、すなわち、堅忍で、愛徳によって形成された徳さえも存在しないからです。

親愛なる兄弟の皆様、これが聖ピオ十世が私たちの模範であり、今日の集祷文が述べていることなのです。ルフェーブル大司教がこの偉大な教皇、そして歴史上、今日まで最後に列福された教皇を私たちの修道会の守護聖人に選びたかった理由もここにあります。

まず第一に、その天の上智、教義の知識、教義とイエズス・キリストへの愛のゆえでした。また、現世を軽蔑し、善徳と悔悛を実践することに根ざした意志の剛毅にもよることです。親愛なる兄弟の皆様、私たちも聖ピオ十世にこれらの同じ善徳を実践するようお祈りしましょう。この観点からすれば、聖ピオ十世が生きたのは20世紀の初め、今から1世紀以上も前のことですが、彼は今も私たちの美しい模範であり続けているのです。

聖ピオ十世は、その善徳のゆえに、私たちに模範としてふさわしいのです。聖母が、彼に倣い、信仰の完全性を保ち、善徳の堅忍な実践を通してそれを味わい、そうして永遠を得る熱意を与えてくださいますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

隠された十字架や御像

2023年03月30日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

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隠された十字架や御像
プーガ神父様(D.Puga)
2023年3月26日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。親愛なる信徒の皆様、今日からご受難節に入ります。四旬節の一部ですが、四旬節中の頂点となります。今までの数週間はご受難節を準備するためにあります。公教会と一緒に、我らの主イエズス・キリストのご受難を再び追体験するのです。そして、その御死去を記念し、その三日後の日曜日の復活祭でご復活を祝うことになります。

公教会は喪を不思議な形で記念することになります。ご受難の節に入ると典礼上に変更が生じます。特に十字架や御像は紫色のヴェールで隠されます。昼間に、本教会を訪問しに来る人々はこの古い慣行の姿を見て驚くことが多いです。
この典礼上の慣行は非常に古くて、聖伝の典礼では厳格に守られています。新しい典礼では任意となってしまいましたが、とにかく古い慣行です。
初期キリスト教時代から引き継がれた改悛の精神を思い起こすための慣行です。



ヴェールの慣行についての質問を受けたら、以上のように答えましょう。

なぜなら、古代の教会では四旬節という期間は洗礼を受けようとする人々のための準備期間として重要な時期だったからです。これらの人々は典礼に与かってはいるもののまだ公教会の一員ではないのですね。
また、四旬節は公けに罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。つまり、重大な罪を犯して、しかも人々にとってあからさまな罪で、公けになる大罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。
四旬節の間、これらの深刻な罪を犯した罪人は改悛するように求められて、告解の秘蹟を通じて天主との仲直りを準備するための期間であり、その暁には復活祭のミサに再びご聖体拝領をできることになります。



四旬節の間にこれらのいわば「公けの罪人」は教会から排除されていたわけです。つまり、教会から追放されて、公教会の交わりから除かれて「破門」されていた状態でした。
時間が経つと、平信徒は自分も改悛して苦行することが相応しいと思いました。なぜなら多くの信徒は公けに罪を犯さなくても天主のみ前で重大な罪を犯すこともあるからですね。もちろん、これら罪人は見えていない罪人なので、罪であるかどうか判断しかねる場合が多いです。

このように、多くの信徒は罪人であることを意識して、公けに改悛する人々とともに、自分自身も改悛したいという気持ちがありました。そういったことから、四旬節の間に教会の内陣を隠す慣行が生まれました。教会の内陣には十字架や諸聖人の御絵、御像などがありました。古代なら、教会の中心にあった十字架の周りには諸聖人の御絵、御像は必ずといってもよいほどありました。

要するに、内陣の前に広い紫色の布を吊って、改悛という四旬節の期間に内陣が見えないようになっていました。つまり、四旬節の間は信徒たちは聖なる生贄、ミサ聖祭を見ることができませんでした。これはつまり、「私は罪人であり、ミサ聖祭にあずかる資格はない、天主の聖性に触れる資格はないことを認める」という想いを表すためでした。

このように、吊るされたヴェールは四旬節の最初から聖金曜日までありました。聖金曜日になったら、諸聖人の御像などは隠されたままでしたが、十字架のヴェールを外しました。つまり、聖金曜日になると、信徒の皆さんは十字架だけは見られるように助ける典礼上の工夫でした。
我らの主イエズス・キリストの十字架によってこそ、我々は改悛できるということを表すためでした。

聖金曜日、聖土曜日の間、教会にあるすべての十字架は見られるようになります。それは、天主の素晴らしい御愛を印す十字架であり、我らの主イエズス・キリストの御死去を思い起こさせる十字架です。イエズスは我々のために犠牲になり給うたほどに我々を愛し給うたことを思い起こさせる十字架です。また、今日もイエズス・キリストはもう一度十字架を担ってまで我々一人ひとりの霊魂を救う覚悟があるほどの御愛だということを思い起こさせる十字架です。

そして復活祭の徹夜祭の最後、我らの主の復活を祝うときに合わせて、残りのヴェールを外します。諸聖人も見られるようになります。
それは、キリスト教徒たちの罪人はイエズス・キリストに従いながら行った改悛の末に、いよいよ天にいる諸聖人の通功に復帰したということを表します。

時代を追うごとに、内陣を隠す広いヴェールは覆われなくなりましたが、四旬節の最初からではなく復活祭になる前の二週間となるご受難節から十字架や諸聖人をヴェールで隠す慣行は現代まで残りました。

聖木曜日、聖金曜日と聖土曜日の典礼にあずかれるのなら、是非与かってくださいね、以上の話が目で見えることになりますので。
聖金曜日の典礼では、十字架を荘厳に礼拝する儀式があります。十字架を礼拝する儀式の前に、助祭と副助祭の補佐をうける司祭が十字架のヴェールを外す儀式があります。そのあと、信徒は十字架を礼拝します。

それから、聖土曜日の徹夜祭にあずかるのなら、その途中ですべての御像のヴェールは外されます。それは、よい改悛の末に、再び諸聖人の通功へ復帰できるということを象徴します。天にある我々の故郷へ再び帰れるということを表すのです。

これらの典礼上のことは細かなことでしょうが、公教会はこのように多くの典礼上に工夫を尽くすことで、我々が典礼をよく体験できるように、またご受難節の間に教えられる真理をよりよく理解させるのです。

こうしてご受難節の間、四旬節の間、特に改悛のために尽くした苦行や、遷善の決心などをさらに頑張って努力して尽くしましょうということを助けるのです。

またそれよりも重要で、この世から一歩距離をおいて、現世から、またこの世の精神から離れるように、ご受難の二週間、現世にある多くの遊楽、忙しさから離れるようにと励ますのです。ご受難の節はちょうど14日間ですが、十字架の道行の14つの留に相当します。

親愛なる信徒の皆様、我々も自分の生活の中に、紫色のヴェールですべて空しい物事を隠しましょう。二週間ぐらい、我らの主、イエズス・キリストのご受難を黙想して、一致するように努力しましょう。
ぜひとも、それを努力するようにお勧めします。

そうするために、聖母マリアとともに、聖母マリアと一致して、祈りましょう。先ほど、お知らせにあったように来週の金曜日は哀れみの聖母マリアの祝日です。また聖マリアの七つの御苦しみとも言います。



十字架のもとに立っておられる聖母の祝日です。復活祭までの残りの時間を聖母マリアと一緒に過ごしましょう。
14日間あるので、例えばですが、十字架の道行の一留を毎日黙想することができます。

御哀れみの聖母と一緒に黙想しましょう。福音書の中に、イエズスの公生活になってから、聖母マリアに関する記述はほぼなくなります。公生活の最初、イエズスが起こす最初の奇跡の時、聖母マリアがいます。召使いに「何でもあの人の言う通りにしなさい」(ヨハネ、2,5)といいます。そして、それ以降、聖母マリアはあらわれなくなります。そして、聖母マリアはふたたび登場します。イエズスがすべての人々から見捨てられたときに、聖母マリアがいます。十字架の下に聖母マリアがいました。



想像してみください。童貞聖マリアの苦しみがどれほど大きかったか。自分の子が苦しめられて軽蔑されて誹謗されて拷問されることを見て、そして十字架上のイエズスの最期の叫び声が聞こえたとき、聖母マリアはどれほど苦しんだでしょうか。聖母マリアはご降誕の日、幼いイエズスを抱いて、赤ちゃんの最初の泣き声が聞こえたときと十字架の時との声、最初と最後にいたのが聖母マリアです。

親愛なる信徒の皆様、ご受難節を聖母マリアとともに過ごしたら、天主のみから来る安泰、平和のうちに我らの主イエズス・キリストのご受難節を過ごすことができることでしょう。

また、我らの霊魂が天主から見てどれほど貴重なものであるかをも理解するでしょう。
天主は、ご自身の御子なる我らの主イエズス・キリストを我らの霊魂の救いのために、我々の罪を償って天国の門を開けるために、送られるほどに我々の霊魂を大切なものとしてくれたのです。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


カトリックにおいて、子供の教育とは?

2023年03月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ド・ジョルナ神父様(B. de Jorna)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

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子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事
ド・ジョルナ神父様 
2023年3月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、福音書の中でも一番感動するだろうと思われる場面があります。イエズスが歩きながら使徒たちに何について話し合ったのかと聞きます。使徒たちはちょっと恥じらって答えません。なぜなら、使徒たちは誰が一番偉いのかについて議論していたからです。

聖マルコによると、イエズスはカファルナウムのある家に座って、使徒たちに仰せになりました。「「第一の者になろうと思うのなら、みなのあとになり、みなの召使いにならなければならぬ」といわれ、一人の子どもを彼らの真ん中に立たせ、その子の肩を抱き、「私の名のために、こういう子どもを受け入れる者は私を受け入れる。私を受け入れる者は私を受け入れるのではなく、私を遣わされたお方を受け入れる」といわれた」(マルコ、9,35-37)



教皇ピオ十一世は教育に関する回勅において、以上の福音書の場面はどの言葉よりもこの上なくよく、キリスト教的に子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事であることを表現しているといっています。イエズスご自身がご自分を子どもであるかのようにおっしゃった場面です。

ですから、福音書から明白に読み取れるように、我らの主は子どもの霊魂を非常に大切にしていらっしゃり、また教育はとても重要なことであると思っておられます。ピオ十一世がいうように、キリスト教的な教育は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事です。両親をはじめ、子どもを育てる責任のある者にとって子どもを育てるために全力をつくし、時間を与えて、すべての手段を尽くすことは最も偉大な仕事です。

良く成功する教育を与えるためには多くの状況があります。その内で一番重要なことがあります。学校の問題です。両親と学校との関係の問題です。

現代ならなおさら重要な問題です。なぜなら、学校はだんだん大きな一角を占めるようになっているからです。ご存じだと思いますが、最近、政府が決定した法律で、就学義務は六歳から三歳へ繰り下げられました。そして、ホームスクーリングは実質上禁止されました。

ピオ十一世は同じ回勅において、最も穏当なことを述べます。自然法上にも、カトリック的にも学校をどう見るべきか述べられています。引用します。
「学校は本質的に二次的制度に過ぎなくて家族と教会を補助するために存在する。それがゆえに、学校は家族と教会と反対してはいけないどころか、積極的に家庭と教会に和合する必要がある。このように、家庭と教会とともに、学校はキリスト教的な教育のために一つの聖域をなすべきことである。そうならなければ学校はその存在理由を全うしないで、その目的から外れて、かえって、破壊的な組織になっていく。」

カトリックの教えの中に、ご覧のように学校の存在が認められているものの、学校の立場は二次的にすぎない、次席にすぎない。主役ではなく脇役にすぎません。なぜなら、学校はあくまでも親の仕事を補助するためにあるだけだからです。ですから、道徳的にも理論的にもキリスト教徒の両親には、教育の責任があるので、学校を通わせるなら、カトリック学校に通わせる義務があるというふうに教皇は結論づけます。それは家庭、教会、学校の教育の一貫性を実現するために必要です。

しかしながら、どこにでも本当に徹底的なカトリック学校があるわけではありません。現実は厳しいです。なぜなら、19世紀末からカトリック学校は激しく攻撃され続けてきたからです。

非常に手短に要点だけを思い出しましょう。1880年、修道士の国外への追放令がありました。多くの修道士は教員で、学校施設を運営していました。例えばイエズス会、サレジオ会、ラ・サール会などはそうでした。
またそのちょっと後、フェリーとGoblet諸法は教育内容と教員たちの世俗化(無宗教化)を強いました。そして、1904年7月、Combes法があります。これをもって、フランス国内で、カトリック修道会が学校施設、教えることは厳禁されました。フランス滞在が合法化されている修道士も含めてです。またこれら修道会のすべての財産を没収することを命じる法律です。

これではカトリック系の教育は生き残るために、方便を見つけざるを得ませんでした。世俗者の信徒の助けを求めて、もともと教区から独立した修道会らは教区の加護のもとに自分を置かざるを得なかったのです。
幸いなことに、第一次世界大戦を経てから、これらの法律は適用されなくなり、カトリック学校は黙認されるようになって、第四共和政になったとき、一時的に公認されるときもありました。第五共和制の間、カトリック学校は一応その存在が許されていましたが、国家からは、何の保護も補助もなしでした。
一世紀半から、フランスにおけるカトリック学校の歴史を要約してみましょう。戦闘の歴史です。その存在を認めてもらうための政治上の戦闘の歴史です。国家など、公の助成金に頼らない、金銭上の戦闘の歴史でもあります。

この戦闘の歴史を代表的に象徴しているのは、聖ビンセンシオ・ア・パウロとルイーズ・ド・マリヤックとが創立した聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会があります。角頭巾のシスターたちとかつて親しく呼ばれていましたね。聖ビンセンシオ・ア・パウロによると、シスターたちは修道院は病者の家であり、禁域が町の通りだといいましたが、この修道会は多くの試練を通して現代まで生き残りました。

例えばですが、フランス革命の直後、多くの修道会の内に、愛徳姉妹会が最初に正式の存在を取り戻しました。また19世紀中に、愛徳姉妹会のシスターたちは子どもを治して、教えて、世話しつづけました。特に女性を。現代の誠意のある歴史家は19世紀における女性の識字化教育の発展の歴史は、愛徳姉妹会が重要かつ中心的な役割を担ったと認めています。

同じように、ジャン=バティスト・ド・ラ・サールが創立したラ・サール会またはキリスト教学校修士会があります。どれほど革命の混乱があっても、政治反乱があっても、迫害を押し付ける法律が出ても、戦い続けた修道会です。
二つの修道会とも、時には解体されたり、追放されたりしました。しかし、必ず戻ってきて、改めて組織化して、キリスト教的な教育を与え続けるために戦いました。

愛徳姉妹会の有名なシスターの事例を取り上げましょう。Jeanne Marie Renduですが、修道名はシスター・ロザリーです。19世紀の前半、54年間以上に、パリのムフタール通りの女性に教え、貧乏人の世話をし続けました。



現在はどうなっているでしょうか。
以上のような迫害の歴史があって、現代、本当に徹底的にカトリック的な教育を貫くカトリック学校すなわち国家契約を結ばない学校は少ないのです。このような学校を開校するのもほとんどの場合、利潤目的です。生き残って長生きするのは至難の業です。このように成功する学校を可能にさせるのは、毎年絶えない教員、両親、寄付者の寛大な気前の良さによるものです。

ここの小教区付属の学校、聖ルイ学校(昔は聖ベルナール学校)も一緒です。40年前に開校されましたが、最初は利潤目的でした。生徒の数は少なくて、教員と院長は若かったです。歴代校長ら、教員ら、両親と寄付者のすこぶる貢献によって、徐々に大きくなっていきました。1990年、中学校は郊外のクールブヴォアへ引っ越ししました。そして、小学校は当時と同じ場所にあります。聖ルイ学校は我々のための模範でしょう。よき天主さまは現代、我々に何を求めておられるかを教えてくださる事例でしょう。

我々はみな、よく、大きな「すべき論」を簡単にやるでしょう。キリスト教圏を再建築するためになにをすべきかなど、大きな夢を見ることが多いでしょうが、そのあまり、ときどき、善業は既に存在することが忘れられます。そしてこれらの善業を支えるべきことを忘れることもあるでしょう。この世に広まる悪はよき天主によって許可されているものの、よき天主は我々に戦うように求めておられます。既存の善を守り、増やすように戦闘することを求めておられます。

カトリック学校、とくに聖伝系のカトリック学校は既存の善業の中心なる部分を占めるに違いありません。なぜなら、将来があるからです。子どもの将来につなげるために、我々はこれらの施設を守り、増やしなければなりません。

ですから、毎年の通例のように、我々は皆さまの助けを求めに来ました。もちろん、物質的、金銭的な助けは必要です。我々の学校は両親が払う学費と寄付だけで成り立つわけです。そして、最近、建物などの改善事業を行っているので、必要です。

また、霊的な助けを求めます。なぜなら、我々がやっている教育の仕事は我々の力を超えているからです。キリスト教的にこどもを育てることにしていますが、そのために、超自然なる恩寵が前提です。このようなところは人間の力をはるかに超えています。一人前のカトリック信徒、大人を養成するためには、天主からの恩寵が必要です。それは皆さまの祈りにかかります。皆さまの助けのもとに、我々の学校は使命を尽くし続けます。

この使命は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事である子を育てることという大目的のために、家庭の補助のためにあります。皆さまにお頼りして、天主に信頼して、毎年のように皆さまの助けで足りることを祈っています。
よき天主は皆さまを祝福されますように。
そして施しの代わりに、よき天主からあふれるほどの恩寵を受けらえますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

四旬節には、まず愛徳を

2023年03月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、フラメント神父様(Frament)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

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四旬節には、まず愛徳を
フラメント神父様 
2023年3月8日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生の皆さん、親愛なる信徒の皆様、本日、天主の聖ヨハネという聖人を祝います。ポルトガルに1495年ごろ生まれました。ちょうど、クリストファー・コロンブスがアメリカを発見した同じ時期です。天主の聖ヨハネは熱心なキリスト教の家族に生まれましたがとても貧しい家庭でした。

そして、不思議なことに、彼がまだ若かったとき、ある旅人が家を訪れました。そして、愛想のよいこの旅人はヨハネに一緒に行くように誘います。ヨハネの親はその提案を承認して、ヨハネを旅立つことをゆるします。この旅人を信頼したわけです。

そして数か月後、未成年のヨハネはスペインにいますが、独りぼっちとなってしまいます。自分の家を捜そうとしましたが、全然だめで、死ぬまでもう二度と親と会ったことがありません。これは彼にとっての最初の大試練でした。



そして、カール五世の軍隊に志願兵として入りました。そして、多くの兵士もそうであるように、その時、ヨハネは多くの罪を犯しました。兵士という身分なら、多くの誘惑があります。殺人でも略奪でも強姦でも売春の女性との不潔な関係でも多くの誘惑がある中に、きっとヨハネも悪い模範に引っ張られて罪を犯したでしょう。

そしてある日、ヨハネは非常にピンチとなりました。何かの重い違法行為、盗みだったと思いますが、嘘でしたが、だれかに訴えられました。彼の士官が彼を吊って殺すことを決定したとき、ぎりぎり彼を救った証人が出ました。その時、ヨハネは分かりました。どれほど人生は儚いことであるのかを知りました。かれはその時、地獄に落ちる直前までいたっていました。罪を犯しているままに死にそうになったからです。告解も改悛もよくできないままに急に死にそうになったわけです。

しかしながら、幸いなことにそうならないで、救われました。そして、そのあと、ヨハネはスペイン南部のアンダルシアにあるグラナダに行きました。そして、ある日、当時、襲名な説教者として知られているアビラの聖ヨハネ神父のお説教をたまたま聞くことになりました。改悛と天主への愛についてのお説教でした。

この説教を聞いて天主の聖ヨハネは教会を出たら大声で自分の罪を悔い改めて涙を流すほどに感動しました。かれは「私は大罪人です」と叫んでばかりいたので、周りの人々から彼は狂人ではないかという扱いを受けました。
その結果、彼は逮捕されて、精神病棟に押しこまれました。縁のない狂気の沙汰として扱われたので、彼を癒そうとして、相当大変な「治療」をうけました。当時、水を顔に投げたり、殴ったら発作は鎮まるだろうと信じられていた時代でした。

そして少し時間が経ったら、かれは正気であることに気づかれて、保護所から解放されました。
しかし、この経験はヨハネに強い印象を残しました。つまり狂人といわれる人々はこれほどひどい目に合わせられて苦しみを受けるということを知ったからです。

そして、その時から、貧しい人々へ眼を傾けるようになりました。まず、冬に備えて、また一年中パンが焼けるように、貧しい人々のための薪を拾って配ってあるいていました。最初、皆、彼をにらむような視線でみていましたが、少しずつそれも変わって、良い模範がひろまるかのように、他の人々も彼に倣って一緒に貧しい人々を助けることになりました。



そして、グラナダの人々から多くの施しをいただいたおかげで、貧しい人々のために家を購入しました。最も死にかけている貧しい人々のための避難所でした。ヨハネは母親のように貧しい人々の世話をしていました。身体だけではなく、霊魂の世話もしていました。いつもいつも良き天主の話をしていました。そして彼の愛徳と柔和に多くの貧しい人々が感動して回心しました。

本日の集祷分では、天主の聖ヨハネの人生の中の有名な場面を思い起こします。
グラナダである日、ある家が火災となります。火災の家に閉じこめられた数人の霊魂がいます。聖霊につき動かされて、ヨハネは火の家へ入ってゆき、皆を救いました。そして、何の傷もなく、ヨハネは家から出てきました。多くの人々は教会もこれを見て、奇跡的に天主の御助けがあったと見ました。普通ならば、このような大変な火災の家に入り込むと死ぬしかなったからです。
彼の愛徳の報いとして、その時、無傷で家から出られました。やけども一つもなかったのです。まさに奇跡でした。
天主の聖ヨハネは後に、「病院の兄弟たち」という修道会を創立しました。

親愛なる信徒の皆さま、この聖人はとても立派な愛徳の模範をわれらのために遺しました。とくに四旬節の間なら、なお大切な模範です。
四旬節の愛、多くの遷善の決心をして、犠牲など、自分の霊魂の救いを中心に考えることが多いでしょう。しかしながら、隣人をも考えるべきです。もちろん、自分の罪を償い、自分の事情で妥当な犠牲、それから多くの祈りをお捧げするのは最低限です。

しかしながら、使徒的活動をも視野に入れるべきです。ご存じのように、この世で我々は独りぼっちではありません。多くの社会、グループに属します。

隣人とは、まず家族と親戚です。また小教区の教会です。また大学のサークルや職場なのです。隣人への愛徳は近い順で行うことです。四旬節になって、自分を考えてから、隣人をも考えるべきです。愛徳と聖徳における完成、上達は矛盾しないどころか、一緒に発展していくのです。隣人への愛徳を施すことによって、自分の聖化を助けるわけです。

これから四旬節は一か月ぐらいで終わるのであっという間になりますので、全力で頑張りましょう。
すでに犯した罪への償いと祈りの上で、隣人のために何かの遷善の決心をとることを提案します。例えば、毎日、隣人への愛徳の行為を一つ行うとかいろいろあります。隣人への愛徳は具体的にいろいろできます。乞食に施しをあげるか、ちょっと悲しげな人へほほえみを送るか笑顔で接触するか、ちょっと疲れていてつまらない話がされても、相手をよく聞くとか、近所の人の何かの手伝いするとか、小教区の手伝いとか、多くあります。
やりやすいこともいっぱいあります。そうすると、教会全体のためにも自分のためにも多くの恩寵をいただけます。

ですから、天主の聖ヨハネに祈りましょう。思いにおいても言葉においても行動においても愛徳を施せるように。
隣人愛を実践するために、遠く海を渡って旅立つ必要はありません。我々のすぐ近くに惨め、悲しみ、貧しさはいっぱいあります。パリなら大変です。自分の家族でもときにあるでしょう。我々のできる範囲で、愛徳を施しましょう。霊的な手伝い、物質的な手伝い、つまらない人々へ忍耐、天主の聖ヨハネに倣って愛徳をほどこしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


聖パトリックと大鍋

2023年03月21日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


青銅のへび
D.Puga神父  
2023年3月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、いま、四旬節の最中であり、ご覧のように聖人の祝いは次席にとどまっているところがあります。聖人の祝日は四旬節の期間中は、典礼上にその記憶にとどめて、個別のミサを捧げないことになります。

本日、あさっての3月17日に祝われる聖人について話したいと思います。聖パトリックです。アイルランドの守護聖人です。アイルランドはかつてまでとてもカトリック的な国でした。聖パトリックはケルト族のアイルランドという島へ福音を運んだ宣教師です。

なぜ聖パトリックについて特に今日、話すことにしているかというと、3月17日になると、パリをはじめ世界の多くの場所で、聖パトリックの祝日ということで、ビストロでもバーでもパブでも結構、賑やかにすることが多いです。しかしほとんどの人々は聖パトリックが誰なのかなどよくわかりません。なぜ、聖パトリックになってこのような祝いをするのかもほぼ誰も知らなくなりました。

ですから、聖パトリックはアイリッシュ・コーヒーと緑色の帽子だけではないことを知っていただくために聖パトリックについて話しましょう。

聖パトリック現在のグレート・ブリテンのどこかで生まれました。おそらく現在のスコットランドの境界に近い辺りだったと思われますが、定かではありません。四世紀中葉に生まれました。372年でした。372年だと、ローマ帝国がカトリックを国教化して間もないころです。そして、そのころ、ローマ人は少しずつグレート・ブリテンから撤収しはじめます。大陸における防衛を強化するためでした。大きく言うと、ローマ帝国のいわゆる衰退の最初の最初ですが、このような衰退は先ず遠隔地、周辺地あたりから最初の兆候が確認できます。



聖パトリックはキリスト教の家庭に生まれましたが、彼自身が後世になって、不当に中傷されたため、それに応えるために、回顧録を書きましたが、その中で聖パトリックは明かします。少年時代は、キリスト教の信仰にあまり熱心に生きていなくて、忍耐強く実践しなくて、覚悟を持った信仰生活ではありませんでした。彼の家庭は敬虔なカトリックのようではありましたが、聖パトリックをはじめ、多くの少年は親に倣わなくてあまり熱心ではありませんでした。天主のお言葉をあまり実践していなかったのです。

司祭などはいつも少年たちにハッキリと真理を述べて警告していたのにもかかわらずです。つまり、天主の掟を無視して生きていったらいずれ罰せられるだろうと司祭たちははっきりと教えていたのに、聖パトリックはそれを無視しました。

しかしながら、16歳になると、ローマ人が時々、何かあって大きな島から撤収したり戻ったりしていた時期ですが、アイルランドから来る海賊が結構、はびこるようになっていました。これらの海賊は海岸をよくせめて、人々を拉致してそして奴隷として売買していました。囚われていた人々は特に若い人々でした。

そして、ある日、パトリックはその目に合わせられました。アイルランド人の海賊の一味に拉致されました。アイルランドで売られて主人から任せられた仕事は家畜の群れの番でした。そして夜になると、パトリックは牢屋に入れられて、鎖にも縛られて逃げられないようにされていました。聖パトリックは後で明かしましたが、奴隷になったおかげで、いろいろ考えることが多くなりました。この奴隷生活は六年間ほど続いたのですが、その間に、いろいろ自分の人生の意味について考えました。また、若い時に司祭たちが説教していたことを思い出しました。

「我々は夢の中に生きているかのように自分をごまかす。今日も明日もいつまでも楽しい日々が続くだろうと思い込んでいたが、一瞬で拉致されて、奴隷におちいって、非常に厳しい拘束される生活が強いられた」というようなことを思いおこしました。
ケルト族の性格は火のように燃えて、きつくて、強くて、そこでの主人らは非常に厳格だったとされています。また、アイルランドで一番広まっていた宗教はケルトの民族宗教でしたが、多神教で、非常に残酷な宗教でした。人の生贄などを常にしていて、我々が想像しづらいところがあります。

22歳まで、奴隷生活を送っていた聖パトリックはいろいろ考えました。自分の不幸ではなく、主人をはじめとする周りにいる多くの異教徒の不幸を知り、憐れみました。異教徒はキリストの掟と全く反対の掟の中に生きている結果、格好良くしようとしても、皆、悲しいということを目撃しました。自分よりも、奴隷よりもはるかに不幸なことだとおもい知りました。愛徳も信徳も望徳もない人生は不幸です。

アイルランド人たちは多神教に非常に慣れ親しんでいて徹底的に実行していたので聖パトリックはその現実と遭いました。
そしてある日、聖パトリックは逃亡しました。海岸まで行って、異教徒の船で雇われて、この船はガリアへ犬を運んでいました。アイルランドの訓練された犬は帝国中で攻撃力のある番犬としてとして高く評価されていました。

このようにして聖パトリックは何とかフランスへ着きましたが、船で主人らにかなりいじめられました。そしてまた逃亡して、本当に自由になれました。22歳でしたが、どこへ避難したかというとフランス南部へ行きます。なぜなら、犬の搬送はイタリア半島を目的地にしていましたので、カンヌあたりで、聖パトリックは逃亡したのです。レランス諸島へ避難します。そこには有名な修道院がありました。

そこで、信徳、望徳と愛徳の実践だけではなく、自己犠牲を捧げることを習い、また福音的勧告の実践に従いました。二、三年ぐらい、そこの修道院で修練しました。そして、理由はいまだに不明ですが、ローヌ川の谷を北方へ旅して、オセールまで行きます。そこに有名なる聖ジェルマンという司教がいました。聖パトリックは聖ジェルマンに奉仕することになって、司教から司祭職になるための養成を受けました。司祭となって10年か15年間ほど努めました。そして、聖ジェルマンは聖パトリックに司教聖別式を授けて、聖パトリックは司教となりました。

聖ジェルマンはよくローマにいる教皇と連絡していたものですから、聖パトリックを中心にした数人の聖職者のために、アイルランドへ宣教せよという召命を教皇から得ました。聖パトリックはずっと前からどうしてもアイルランドの異教徒たちのために尽くしたくて宣教しに行きたかったのです。それがいよいよ実現することとなり、司教としてアイルランドへ戻りました。

それからの一生を尽くして、粗暴な人だったと言わざるを得ないアイルランド人のための布教に尽くしました。ドルイド僧とよく論争して戦いました。人々はクランという部族単位で生きていました。

布教様式として、人々の回心を実現させるために、必ず部族長の回心を得なければなりませんでした。そして、部族長が回心したら、大体部族の構成員は回心していきます。近世になって、イエズス会が東洋への布教をしましたときに、同じような様式で宣教していきました。中国でも日本でもそうでした。

聖パトリックは多くの苦行と自己犠牲を果たし続けた暁に、すこしずつ部族長が回心していきました。聖パトリックは80-90歳まで長く生き、長年の使徒的な活動となりました。数人の司教を聖別して、また司祭などからしっかりとした位階制を建てて、また人々がドルイド僧の宗教を捨てる成果をもあげました。もちろん、そのせいで、ドルイド僧から強く嫌悪されました。聖パトリックは特に、ドルイド僧の悪魔的な儀式や魔法などと毅然とした態度で戦い続けました。その結果、いろいろ苦労しましたが、勝利しました。

そして、強固な異教の国からカトリックへの国となっても、アイルランドでの布教の特徴はほとんど流血を伴った迫害が異教から発生しつづけました。もちろん、虐殺とか、あったりしましたが、アイルランドの場合、キリスト教徒を破滅するためというより、いわゆるいつからもあったような単なる暴力沙汰であったという特徴があります。あともちろん、迫害もありましたが、ローマ帝国のような大掛かりな迫害とか、日本での徹底的な迫害とかのような、大体の場合、大掛かりな迫害は、アイルランドの場合はほぼありませんでした。

聖パトリックは非常に柔和でした。しかしながら同時に厳しかったです。どうしても真理を人々に伝えたくて、人々を真理へ導くように全力を尽くしました。
ご存じのようにアイルランドの徽章はクローバーです。なぜでしょうか。
聖パトリックに由来しますが、聖パトリックが公教要理を教えていた時のことから来ます。聖パトリックが信徳がまだない、多神教なる異教徒に向けて三位一体という最も説明しづらい玄義を教えていた時に、クローバーという例えを使っていました。



聖パトリックの御像には必ずクローバーがあります。三つ葉のクローバーですね。三位一体を説明するためにこういっていました。クローバーは一つしかないが、葉っぱ三つあります。三つの葉っぱは完全同じです。聖なる三位一体の三つの位格も完全におなじです。しかしながら、三つの葉っぱともちゃんと区別できます。しかし、花としてのクローバーは一つしかありません。三つの葉っぱからなる唯一なクローバーというたとえで、三位一体を説明していました。また、一つの葉っぱを除いたら、もはやクローバーといいません。
もちろん、このたとえはたとえに過ぎなくて三位一体の現実からは遠いですが、一応すっきりとした説明で、現代まで教会の中で、三位一体を教えるために有名な説明として残っています。

親愛なる信徒の皆さま、我々にとっても非常に重要なことです。三位一体という玄義は我々の信仰の礎です。ところが玄義の中でも一番不思議で、我々の理性を超えている玄義でもあります。

三位一体は間違って理解しやすいです。過剰にとらえてしまうと、神が三つあると思い違ってしまい、多神教となってしまいます。そして、もともと多神教だったケルト人たちには、そうならないように特に注意する必要がありました。

また、三つの位格の絶対的な同一性を強調するあまりに出てくる誤謬もあります。三つの位格の絶対的な同一性は福音書において主が仰せられています。「私と父とは一つである」(ヨハネ、10,30)。それを強調するあまりに、三つの位格の区別を否定してしまい、その挙句に、三つの位格といっても、同一の位格をちょっと違う視点で見たに過ぎないという誤謬になって、三位一体ではない一神教という誤謬になります。自然宗教系の誤った一神教となります。つまり、ユダヤ人とイスラム教徒のように、天主からの天啓を否定するか、無視するかという羽目におちいります。

ですから、求道者や信徒に三位一体という最も重要な玄義を説明するためには、誤解を与えないように、どちらの誤謬にもおちいらないように、工夫して旨く説明する必要がありますね。その中で、聖パトリックは有名な説明を残して、彼の宣教の結果、人々は全員が回心しました。重要なのは三位一体という玄義は、理性で、頭ではいつまでも理解尽くせないものになるということです。我々をはるかに乗り越える天主の現実を示すからです。三位一体はいつまでも玄義です。

また聖パトリックはどういう人であるのかを感じさせるために、彼の人生の中の一つの面白い話を取り上げましょう。
ある日、ある丘で、聖パトリックは聖堂を建てることにしました。そのために、そこの部族長の許可を仰ごうとしたら、部族長から拒まれました。絶対に建てるなと。時間がしばらくたって、この部族長が病気になったと聖パトリックは聞きました。この部族長のために特別に祝別した聖水を彼のもとに届けさせました。部族長は聖水を貰って、掛けたら、大変よく回復しました。

感謝の意を込めて、部族長は礼として大鍋を贈りました。まあ、我々現代人から見たら、大鍋といってもあまり貴重品ではないと思われるかもしれないが、当時は大鍋ということは貴重品でした。また日常生活上も必需品でした。ケルト製の大変華麗な大鍋はこのように聖パトリックへ贈られました。部族長が召使いを送って、大鍋を届けさせますが、召使いは部族長のもとに戻って、部族長はどうだったのかなど報告を求めますね。なにか、私が贈った大鍋にお気入りだったのかなというような質問でした。

召使いは「聖パトリックが「Deo Gratias(天主に感謝!)」と言いました」と報告しました。
それを聞いて部族長は自尊心を傷つけられたというか、なんか「これだけの感謝言葉か、私が苦労してよいプレゼントを用意したのに返礼もないし」と怒って、召使いを再び、聖パトリックのもとに派遣して、大鍋を返してもらえと命じました。ちょっと困った召使いが聖パトリックのもとに行って、返してもらって部族長のところに大鍋をもって帰りました。また報告でしたが、部族長から「さあ、聖パトリックはなんといったのか」と聞いて、召使いは「Deo Gratias(天主に感謝!)と言いました」と報告しました。

以上の聖パトリックのちょっとした話ですが、そこには彼の現世利益に対する無関心が現れています。ヨブの模範したかったことですね。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1,21)
ヨブがこれを行ったときは、生命についてのことでした。大鍋のような品物ではなく、生命のことでした。これはキリスト教徒がとるべき基本的な態度です。キリスト教徒なら、すべては天主から与えられていることを知っているからです。ですから、天主から与えられたものを取り戻されたら、理由があって、より大きな善のためであるとキリスト教徒が知っているからです。

数年前の思い出をはなしましょう。若い夫婦でしたが、すでに二人の子がいましたが、三人目の娘がうまれたばかりでした。彼らはとても喜んでいました。しかし、娘は敗血症という深刻な病気でした。赤ちゃんで、治療しづらいところまで行っていました。そして心臓発作が併発して、蘇生のための救急医療で医者たちは頑張りました。数日だけの生まれたばかりの赤ちゃんでした。
その中で、敬虔だったこの夫婦は一緒にいた司祭に言いました。「我々はうれしいです。天主から授かれてうれしかったです。天主が娘を呼び戻すというみ旨なら、天主のみ名が祝されるようにといいました。」
そして、天主のみ旨はこの時、娘を呼びもどすことではなく、遺し給いました。娘は救われました。いまは、この娘は大人となり、多くの子どもを産みました。

ご覧のように、我々は常に天主のみ摂理への従順を増やす必要があります。でもこの天主のみ旨への従順はいわゆる愛をこめての従順でなければ意味がありません。天主は独裁者ではありません。独裁者だから、従わざるを得ないような暴君ではありません。我々は天主の奴隷ではありません。
我々は天主の子たちです。ですから父を愛して、頼まれることに愛している故に従って、送られる試練などを受け入れます。我々を憐れみ給う天主が用意し給た試練であることをよく思い出しましょう。ですからその試練は我々の善のためにあります。

聖パトリックはこのように愛徳と柔和と福音的な善行を施したおかげで、アイルランドをカトリックへと導きました。そしてアイルランドは大変に長い間にカトリック国のままでした。

そして聖パトリックは隣人に対していつも柔和でしたが、自分自身に対して非常に厳しかったです。例えば、凍ったような水風呂に入るような非常に厳格な苦行をしていました。それは厳しすぎる苦行といえるかもしれません。これに由来して、アイルランド系の修道会の伝統は特に厳しいということで知られています。それはともかく、同じ苦行をしなくてもいいですが、このような精神が重要です。自分自身に対して厳しくて、隣人に対して柔和でなければなりません。

考えてみると、人々は普通、よく、逆のことをします。自分自身に対して言い訳を見つけたり、甘くなりがちですが、隣人の軽い過失でもすぐ厳しくて許せないような態度をとりがちですね。
死の時が近づいたと感じた聖パトリックは自らの修道院へ引退しました。司教の座を譲って数年の間に、死を準備するために、天主との出会いを準備するために、修道院での生活を送りました。

ご覧のように、奴隷になったという大きな試練は、数十万人以上の霊魂の救霊につながりました。現代まで入れたら、数億人ものの救霊といえましょう。後世になっても、さらに、アイルランドから多くの宣教師も輩出しました。このすべては16歳の少年が受けた試練のおかげです。6年間、酷い奴隷の生活を送ってきたことが出発点でした。聖パトリックがこの試練は天主から用意されているということを肯定して受け入れたおかげで、多くの実りがうまれました。

ですから、聖パトリックを祝うことをとおして、何よりも信仰を大切にして、今、復活しつつある新しい異教の闇が天主の光によって照らされますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

誘惑されていない人はだれもいない。なぜ誘惑があるのか?

2023年02月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

誘惑されていない人はだれもいないだろう
ランパン神父様(Rampon)のお説教  
2023年2月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生さん、聖パウロは書簡において「あなたには私の恩寵で足りる」(コリント人への第二の手紙、12,9)とイエズスが聖パウロに仰せになられたと記されました。本日の書簡において天主のみ言葉を宣言するために、聖パウロが経験した多くの試練が記されています。また聖パウロが天国で受けた示現のことについても触れています。

聖アウグスティヌスをはじめ、聖トマス・アクイナスによれば、一時的に至福の天主への直観という最高の特権が与えられたと推定しています。いいかえると、この時の示現は一瞬、天主を直接に見られたという前代未聞の特権だっただろうということです。これは、国々を教える博士という召命を聖パウロが完璧に達成させるためでした。

本日の書簡にあるのは、「肉体に一つの刺」即ち一種の謎めいた誘惑を指すのですが、現代の近代主義者の間の通説はこの誘惑が聖徳に対する誘惑だとしますが、この説は最近のことで、近代になってからの意見で、古典的ではありません。
一方、教父たちは殆どそろって、肉体的な苦しみだっただろうと推定します。持病か何か、とにかくコリント人なら皆知っていたほどのことでした。なぜなら、これに関する短い暗示だけでコリント人がなんであるかわかったからです。

これはキリスト教徒の生活における重要な事実を思い起こしてくれます。この世で生きるすべての人々は誘惑を受けます。誘惑は不可避であることを見ていきますが、それよりも誘惑は有益であることを忘れてはいけません。また誘惑と戦う方法と手段は多く存在することを忘れてはいけません。

確かに、誘惑は必ずかかってきて、不可避です。これから数週間後の福音において、我らの主ご自身が誘惑を受けることになります。天主のいと深きご謙遜かな!神殿のてっぺんで、悪魔からの誘惑を受けることをお許しになったわけです。
聖パウロも多くの誘惑を受けたことがよく知られています。


またより最近では、19世紀のアルスの聖神父は一生、絶望に落ちるように誘導する大きいな誘惑を受けたことも知られています。これに勝利して、アルスの神父は最期を確たる安泰の心境で迎えられたことも知られています。


他に、幼きイエズスの聖テレジアなら、信徳に対する大きな誘惑を受け、聖アルフォンソ・デ・リゴリなら、年配になって明かされたように貞潔の徳に対して大きな誘惑をうけました。


はい、これはまぎれのない事実です。皆、聖人をはじめ、かならず誘惑を受けることになります。誘惑は不可避であることがトビア書の次の一句に要約されています。「あなたが天主に愛されているので、あなたの信仰を試すに誘惑が送られてきた」。

しかしながら、誘惑は不可避であるといっても、それぞれの人々はそれぞれに事情とその性格と聖徳によって違う誘惑を受けることを忘れてはいけません。
聖人も多くの誘惑を受けていたのですが、怠惰な生ぬるい信徒に比べたら聖人が誘惑により簡単に勝てたのです。実に、洗礼を受けても、原罪が清められても、貪欲の源は傷であるかのように残っています。これは乱れた感情のことであり、よく秩序づけられていない感情であって、悪い行いや悪い欲望へ狂う馬のように暴れだして走るようなものです。

この激情の源に抵抗しなければ、誘惑を一番生みやすい弱点となります。ですから、聖人なら悪魔から直接に誘惑されることが多いでしょう。つまり、比較的に感情・激情などが良く制御されているので、そこから生まれる誘惑はより少ないでしょう。ですから聖人なら内面から生じる誘惑よりも外から攻めてくる誘惑になりますので、外からくるときのほうが、勝ちやすいのです。
のんびりした緩んだ態度で生活した結果、欲望に通じる誘惑が多くなりますが、内面的なのでより抵抗しづらいのです。

このように、日常の作業についてさぼっている人、あるいは怠惰な人なら、誘惑に対して怠惰となります。好奇心の強過ぎる者、自分の意志の野望を犠牲と日常の節制の行いによってブレーキをかけなければ、誘惑に対しても好奇心によって引っ張られて誘惑へいきやすくなります。
また、いつも他人について小言をいい、あるいはいつも大きな声でお喋りする人なら、誘惑に対しても大きなお喋りするようなものです。このせいで最初の女性が人類史上にはじめて悪魔からの誘いに負けて罪を犯しました。

要するに誘惑は不可避ではありますが、乗り越えられないことは絶対にありません。乗り越えないときとは、我々が生ぬるいときです。

またこれらの誘惑は我々にとって非常に有益なのです。まず、霊的生活のための励みとなります。前進するための助けとなります。
誘惑がなければ、かならず、霊的な無気力に陥っていくでしょう。なんでもかんでもやりやすいと勘違いして、努力なしに天国に行けると勘違いするようになるでしょう。これは間違いです。

我らの主が仰せになるように、「天の国は暴力で競われ暴力の者がそれを奪う」(マテオ、11,12)ですから、聖徳を実践するために努力して、自分に対して暴力を発揮すべきです。誘惑はそのためにあります。
救済への道は既得権ではない、すでに持っていることではない、最期まで罪を犯すことはあり得るのでいつでも警戒すべきであるという事実を誘惑が我々に思い起こさせてくれます。

誘惑はまた、謙遜を身に着けるための道です。安全だと信じ込んでいた者が誘惑によってそうでもないことに気づくのです。心境が安泰で、ロザリオを理想的に祈っていたところ、いきなり誘惑がやってきて、ひどい思いばかりが頭に上がってくるような誘惑があります。この誘惑によって謙遜の徳を養うのです。

良き天主がこの世に我々を置いたのは富や現世的な宝物を得るためではなく、出世するためではなく、有名になるためではなく、天主は我々が永遠の命のための準備をし、功徳を得、聖徳の内に成長していくようにお望みです。
すべての聖徳の礎は謙遜です。そして誘惑のおかげで、我々が何でもない存在であることが思い起こされて、いつでも簡単におちいる惨めな存在であって、天主からの御助けを必要としていることが思い起こされます。これは謙遜徳を養うための助けとなります。

天主のみ前に我々がへりくだり、慎んで、謙遜するときに、天主のみ旨に従っています。そして正直な心で、「天主よ、あなたは居なければ私はろくでもない存在になる」と、よく天主へ祈りを捧げましょう。
また、誘惑のおかげで聖人になるための練習となります。聖人になる助けとなります。
なぜなら、誘惑がやってきたとき、天主の御力に頼るしかないからです。罪を犯しそうになる時、天主の御助けなしに誘惑を乗り越えられないのです。
ですから、誘惑に遭うとき、我々は幼い子のように父なる天主に寄りすがる姿は天主のみ旨に従っています。天主を素直に信じて御助けに素直に頼ったら、多くの恩寵をいただきます。

要するに、誘惑は、多くの聖徳が鍛えられて実践していく機会となります。これは重要な事実です。なぜなら天主のみ摂理の計画において、我々が誘惑に負けるはずがない、誘惑に負けることは計画において予定されていないのです。
誘惑に負けるとき、我々自身のせいだけです。天主から誘惑を乗り越えるためにすべて用意してくださっていたのに、我々はその恩寵を捨てて、誘惑にこたえることにしたせいで誘惑にまけるのです。われわれのせいだけです。

はい、誘惑と戦うために多くの方法と手段があります。大きく言うと二つのやり方があります。「予防」すること、そして「抵抗」することにあります。

第一に、誘惑の機会を事前に防ぎましょう。ヨブ書には次の一句があります。「この世にいる人にとって兵役である」(7,1)
はい、この世での人生は霊的な戦闘です。我々は霊的に武装化すべきです。我々は前線に送られる兵士のようなものです。前線に行く兵士は必ず武器を持って戦いにいくわけです。

霊的に鍛えないのは、たとえてみたら、今のウクライナ紛争の前線に甚平姿で観光客として歩いていくようなものです。非常に無謀なことです。霊的生活においても一緒です。霊的に鍛えなくて、準備しなくても、訓練しないのは無謀すぎます。最終的に誘惑に必ず負けるという状況を作ってしまうことです。

ですから、その訓練、予防のためにいくつかの手段があります。第一に、過信を絶対にさけましょう。何日ぶりも何か月ぶりも誘惑に負けていないからといって、これから負けないことは保証されていないのです。我々は自分自身に対して警戒しましょう。我々の傲慢に警戒しましょう。
聖フィリップ・ネリはよく天主に祈っていたのです。「天主よ、私フィリップについて警戒するようにしてください」


我らも、いつも警戒しつつ、無謀にならず、危険すぎる状況を避けましょう。
そのために罪を犯しやすい場所と機会を極力に避けましょう。

罪を犯す機会というのは、罪を犯す可能の高い事情をさします。そのような事情、機会を避けて、必要がないかぎり、わざわざ自分をそのような機会にさらすわけにはいかないのです。

もちろん、より大きな善のために一定のリスクを置かざるを得ない時はありますが、そのような急な理由がなければ、罪の機会にさらしてはいけないのです。そうすると天主の恩寵をそらす危険があります。

例えば、夕方になってからインターネットを見るようなことは危険です。そうすると、天主の恩寵を招かないようなことになります。また婚約者が二人きりで会うのも不要な危険にさらすことであり、良き天主の恩寵を招かないのです。このようなときは、自分のせいでこのような機会を作ってしまったので、誘惑に抵抗するための恩寵をあまり頂かないので、さらに危険です。ですから、罪を犯す機会を極力に避けましょう。

同時に、無駄な恐怖心を極力にも避けましょう。時には、罪を犯す過剰な恐怖があります。たとえば「いつも罪を犯していて、罪を犯す機会が多すぎて耐えられなくて、だから必ず誘惑に負けるに決まっている」というような思い込みです。それは大間違いです。誘惑を過剰に恐れてはいけません。それは天主の御助けへの信頼が薄すぎることをものがたります。恐怖の問題は無気力さを招き、やる気を麻痺させます。

誘惑に遭って、良き天主は我々にご自分の恩寵を与えることを予定しておられたのに、我々の過剰な恐怖のせいで、我らの意志などの能力を麻痺させて、何もできなくなり、誘惑を余計に増やすことになります。ですから、常に天主からの御助けと御力に大きく信頼しましょう。

また、極力に無為な時を避けましょう。ことわざが言うように「無為は悪のもと」だということです。その通りであり、さらにいうと、「無為は誘惑のもと」でもあります。考えてみると、誘惑を退けるために、単純な素直な作業、仕事を行うのがよいです。この意味でいつも忙しくやっているのはよいことです。誘惑の機会を減らします。

そして、誘惑が現れたときに、誘惑に全力で抵抗すべきです。速やかに抵抗し、剛毅に力強く抵抗し、謙遜のままに抵抗すべきです。シラ書にあるように、「蛇を避けるように罪を避けよ、それに近寄るとあなたはかまれる」(21,1-2)

誘惑がやってきたら、誘惑と一切遊んではいけません。悪魔と話してはいけません。すぐにそれをそらして、速やかに祈りを捧げて、新しい作業、別の仕事を行いましょう。しかしながら、そうしないで誘惑をじっくりと眺めて、こんど遊んだら、必ず誘惑に負けるはめになります。

要約すると、良き天主によって誘惑が許可されるのは、我々の善のためです。我々の霊的成長のためです。また良き天主は永遠で我々が誘惑を乗り越えるための恩寵を用意してくださることを知りましょう。

そして誘惑に対して予防も抵抗も相応しい対策をとっていったら、誘惑は天国のために多くの功徳を得る機会でしかならなくなります。
また天主のみ旨にいつも従っておられた聖母マリアに祈りましょう。

また聖パウロの助けを希いましょう。過信しないように守られるように。そうして、本日の祈祷を我々も祈っていきましょう。
「天主よ、自分の行うどんな行いにも頼りえないわれらのことを、御身は知り給う」。意味は、我々は自分自身について常に警戒しながら、すべてにおいて、天主にしか頼らないという意味です。つづいて、「願わくは、異邦人の博士(聖パウロ)の御保護により、我らの艱難より守り給わんことを」
このように、誘惑がやってくるたびに、天主への愛徳が増し、聖徳に成長し、聖人になる道を進める機会になるように。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 

不思議のメダイ|聖母マリアと悪魔

2023年01月07日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

蛇の頭を踏みにじろう
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年12月08日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
「ああ美しきマリアさま、原罪の汚点はあなたにはない」(晩歌から)

親愛なる兄弟の皆さま、本日の祝日は大祝日です。皆様、平日の夕方なのに来てくださり、これを祝したいと思います。本来ならば、ご降誕、ご復活祭などの大祝日に並べて、本日の大祝日も普遍歴で義務化の祝日です。フランスでは事情あって、この義務はなくなったのですが、皆様、仕事があるのに、遅くなっているのに、わざわざミサにあずかる犠牲を捧げるのは本来ならば当然です。なぜなら、聖母マリアからいただく恩恵は数えきれないほどあるからであり、このぐらいの報恩をするのは当然です。

本日、童貞聖マリアを祝うだけではなく、天主の御子、肉身になり給う我らの主、イエズス・キリストによる贖罪の凱旋を祝うのです。
というのも、童貞聖マリアは御宿りの時にユニークな(唯一無二の)特権が与えられたからです。人類史上に太祖アダムとエヴァの過失以来、絶対にして唯一な特権であり、聖母マリア以外、だれもその特権を与えられたことはありません。

人間はみな天主の御手から直接に造られたのですが、童貞聖マリアの霊魂はほかの人々と違って、聖寵の状態で造られました。
つまり、聖母マリアの霊魂は造られた時点で、すでに天主と良い関係があったわけです。またそれは造られた時点で天主の養子となっていたわけです。また、この上ない、至上の聖寵の状態で造られました。童貞聖マリアの完全たる聖寵の状態と呼ばれる特権です。
要するに、童貞聖マリアの霊魂は聖寵の状態で造られたうえで、完全なる恩寵に満ちていました。十全な恩寵に満ちていた状態はやはり天主の御母となる御方に相応しい特権でした。

聖母マリアはなぜこれほどの特権を与えられたかというと、天主の御母であるからです。無原罪の御宿りによって、童貞聖マリアは一度も、一瞬たりとも、罪の支配の配下に入ったことはありません。原罪に穢れたことなく、原罪から免れただけではなく、一度も大罪を犯したことはもちろんありませんでしたし、小罪でさえ一度も犯したことはありませんでした。

童貞聖マリアはずっとずっと、マリア様の心に常に宿っていた聖霊の相応しい浄配でした。
「ああマ美しきマリアさま、原罪の汚点はあなたにはない」

また、我らの主、イエズス・キリストの凱旋を祝う祝日です。
なぜなら、聖母マリアの無原罪の御宿りの存在理由は我らの主イエズス・キリストのご受難、十字架上の御死による功績から生じた、あらかじめ与えられた聖母マリアの聖化であるからです。ご贖罪の功績によってこそ、聖母マリアは罪の支配から、地獄の支配から、完全に保全されたのです。
まさに、聖母マリアは我らの主、イエズス・キリストの十字架の御力の鏡であります。

イエズスによる十字架上の御生贄のおかげで生まれた恩寵によって得られることを理解したいと思うのなら、聖母マリアを見るのがよいです。
これは天主の不思議なすごい力です。天主の権威の現れです。
いつでも、被創造世界の森羅万象を通じて、天主の威厳は現れています。宇宙は自然の現状の天主の威力を示しています。
一方、天主の御子、我らの主、イエズス・キリストの超自然次元上の威厳はいとも清き童貞聖マリアの美しさと特権において現れています。



全人類の内に選び出された聖母マリアはいとも高き御方の聖櫃になる召命を受けたわけです。
旧約聖書の天主は神殿の建立を非常に大切にしていました。旧約聖書を見ると、神殿にかかわる掟は数多く細かく厳しくて、何らの冒涜からも免れるようにされていました。それは、できるだけ神殿が立派で荘厳であり続けるためでした。
それほど神殿を大切にしておられた我らの主イエズスが制定された公教会に息吹を与える聖霊の導きによって、歴史上に立派な教会、大聖堂、教会を建立されつづけて、これらの建物を大切にするように同じ天主はお望みになります。
これらの教会は欧州を徹底的に覆い、全世界でも多くありますね。
これらの教会の建立のために、これほど立派な、荘厳な教会になるように、信仰を尽くして全力を尽くすことは望ましいことだと天主が見守っておられるのではないでしょうか。

このように、石からではなく、肉身からなる神殿なる聖母マリアのためなら、旧約の神殿、新約の神殿よりも、どれほど立派に荘厳に聖霊が清き聖櫃を造り給い、大切にしたもうたかは想像に難くないのです。

ですから、無原罪の御宿りは天主の凱旋そのものです。ですから、童貞聖マリアを崇敬しすぎることはあり得ません。教会が聖母マリアの崇敬を重視しすぎるという文句が言われても筋違いです。理不尽です。
聖母マリアを見ることは、イエズスを見ることになります。聖母マリアに寄りすがったら、我らの主、御子、イエズスへ天主へ導いてくれます。

これはルルドのご出現の時に特別に現れたことです。聖母マリアが羊飼いのベルナデッタの前に現れましたが、ベルナデッタが「お嬢様、お名前はなんというでしょうか」と素直に聞きました。ベルナデッタの証言によると、すると童貞聖マリアが手を伸ばしてから両手を自分の胸に近づきながら、天へ目をくばり、「私は無原罪の御宿りです」と答えました。それは聖母マリアの最高の栄光なる特権であり、また天主からの賜物であることを知っていたからこそ、聖母マリアがそのように答えられたのです。

親愛なる兄弟の皆さま、無原罪の御宿りはまた、悪魔への罰をも意味します。悪魔への罰は特別に重くて、天主がお望みになった形で与えられます。我々の太祖が犯した原罪の悪魔の特別な役割に合わせた罰です。というのは、サタンが最初の夫婦を攻撃するために、妻を狙ったわけです。自然上、男性より弱かった女性を狙って、二人を落とそうとしたサタンです。

原罪の後、天主はアダムとエヴァを呼び出されて、何があったかを聞き出されます。その時、もはや天主と太祖の夫婦の間に絶交の状態であることはわかります。原罪のせいで天主からのよい関係を失ったことになります。また人間同士でも人間愛が失われました。
アダムが妻をさして、「あなた(天主)が私のそばにおいてくださった女があの木の実をくれたので、私もたべました」(創世記、3,12)。
アダムは責任を妻になりつけようとします。
そして天主はエヴァに向かって、「どうして、そんなことをしたのか」と聞き、エヴァが「ヘビにだまされて食べました」と答えます。そこで、天主は蛇にむかいます。悪魔は蛇の姿を借りてエヴァをいざなったのです。

天主は蛇に質問をしません。なぜなら、悪魔には言い訳があるわけがない、弁解の余地がないからです。天主は次の非常に重要な仰せを発しました。「おまえは、そのようなことをしたのだから」罰が与えられます。

「おまえは、そのようなことをしたのだから、(…)私はおまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。」
敵意というのは言い換えると、憎しみ、憎悪という意味です。はい、天主は女すなわち聖母マリア、そして女のすえすなわち我らの主、イエズス・キリストと悪魔と悪魔のすえとの間に憎しみを置くという意味です。悪魔のすえとは、悪魔の反逆の精神で動いている人々のことをさすのです。この世の物事を愛着しているから、この世に腹ばいしていく人々のことをさすのです。

「私はおまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く。」
そして、聖母マリアは蛇の頭を踏み砕くのです。
「女のすえは、おまえの頭を踏み砕き、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう。」(創世記、3、14-15)
女のすえなので、聖母マリアだけが踏み砕くのではなく、イエズス・キリストによってこそ、イエズス・キリストと一緒に、十字架の下にいる聖母マリアが悪魔の頭を踏み砕くということです。童貞なる足で悪魔の頭を踏み砕くのですが、これはよく絵などで描かれました。ある人が思いついた表象ではなく、聖書に由来する有名なモティーフなのです。

また聖母マリアご自身は、パリのバック通り、聖カテリーナ・ラブーレの前にご出現したとき、その表象に近い形で現れておられました。不思議のメダイですね。不思議のメダイに、童貞聖マリアの素足が悪魔の頭を踏み砕く表象となります。悪魔は地面に踏みにじられているのです。これは悪魔に対する完全な大勝利を象徴します。

人間同士の運動競技などで、相手に勝利したら、相手を地面に屈させるようなイメージがあるように、童貞聖マリアが悪魔の頭を踏み砕きます。なぜ頭でしょうか。蛇の頭が捕まったら、もう蛇が無力となり、動けなくなるわけです。

そして、いわゆる、一般的にいうと、女性はこのような虫、蛇、蜘蛛などをあまり好まないのですね。だから、この表象は意味が深いです。
躊躇なく、聖母マリアが素足で蛇の頭を踏み砕くということはなんとも毅然として、何のおそれがないということを表します。乱れた欲望はいっさいないのです。

聖母マリアはすごく力強くて、悪魔が聖母マリアに対して何もできないのです。無力です。悪魔にとって最悪のことであり、一番厳しい罰です。地獄の罰よりも、悪魔にとってひどい罰は聖母マリアの存在です。なぜなら悪魔は聖母マリアに対して無力であるからです。悪魔にとって、聖母マリアこそが悪魔の反逆の完全なる失敗を常に示します。

親愛なる兄弟の皆さま、現代は困難な時代です。悪魔的な時代だといえます。悪魔的な時代とはすなわち、天主に対して反逆を起こしている時代であり、天主を侮辱している時代であり、天主を見捨てる時代なのです。ですから、我々は聖母マリアを必要としています。聖母マリアに寄りすがる必要があります。

キリスト教的な社会と生活を破壊するために戦闘する暗闇の勢力に対して、我々が戦うべき戦争の中にあって、聖母マリアは我々の御旗なのです。

親愛なる兄弟の皆さま、ですから、最後にとくに強調しましょう。不思議のメダイをつねに身に着けてください。聖母マリアが与えられた不思議なメダイなので大切にしましょう。さらに、我々パリに住んでいて、パリで与えられた不思議のメダイなので、その栄光に答えましょう。1830年、ここから近い場所で、聖母マリアがご出現されましたよ。

この不思議なメダイは全世界で広まりました。
「このメダイを身につけなさい。身に着ける人々にとって盾となり、守られるだろう。積極的に信じて身に着ける人々は多くの大きな恩恵を受けるだろう」と聖母マリアがいいましたので、身につけましょう。我々は特にこれらの恩恵を必要としています。
キリスト教徒ならもちろんですが、まだ洗礼を受けていない人々も不思議なメダイを身に着けるべきでしょう。悪魔に対する盾だからです。悪魔の誘惑と策略に対する盾です。

福音書にあるように、悪魔には厳しい時代になるとはいえ、選び出された養子でさえ落ちうるようになるかもしれないが、実際はそうなりません。

はい、不思議のメダイでは聖母マリアがいつも決まって、悪魔を地面に踏み砕く姿で描かれています。たまたまではないのです。
ですから、我々は我らの主、イエズス・キリストと同じように、女のすえにあたるので、我々もこの戦いに参戦すべきであり、この戦闘に踏ん張って加わるべきであり、我々も決定的に悪魔の蛇を踏み砕くことにしましょう。

「ああ美しきマリアさま、原罪の汚点はあなたにはない」(晩歌から)
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
 

人類史のなかで、唯一無二の出来事

2022年12月09日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

人類史、ユニークな歴史
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年12月04日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、待降節は贖罪者と救い主を得さしめ給うた聖母マリアをよく思い起こさせます。今、ちょうど正午になりましたが、伝統に従って、アンジェルス(お告げの祈り)を歌います。昔からのキリスト教の伝統ですが、毎日、夜明け、正午、日没に三回、アンジェルスという祈祷をささげるものです。

アンジェルスの祈りを通じて、聖ガブリエル大天使から童貞聖マリアへの御告げという素晴らしい出来事が思い起こされます。
童貞聖マリアは童貞です。聖マリアは若いうちに終身、童貞のままになることを誓願しました。つまり、心身ともに天主へ奉献することを童貞聖マリアが約束されました。そもそも罪のなかった聖母マリアがさらに、合法的であったにもかかわらず、結婚して肉体上の関係を断念し、また子を産む喜びを童貞聖マリアは断念しました。


聖トマス・アクイナスが解説しているように、童貞聖マリアの貞節の誓願は条件付きの約束でした。なぜなら、当時のイスラエルの女性なら、頼まれたのなら子孫を設けることを受け入れる義務がありました。それはメシアを産むために義務化されていました。また、メシアはもうすぐ生まれるだろうということも知られていたからです。
ですから、童貞聖マリアは貞節を誓願しましたが、天主のみ旨に適っていることを条件にしました。そしてこの天主のみ旨が何らかの形で(適っていないと)知らせたら、この誓願を廃止することは可能でした。

そしてある日、ナザレにいた童貞聖マリアが、聖伝によると15、16歳ごろの娘でしたが、大天使聖ガブリエルが彼女の前に現れます。聖母マリアは大天使を見て非常に驚かれました。ですから、聖母マリアはそれ以前、天使の訪問あるいは超自然の現れなどはなかっただろうということを示します。聖母マリアはその時まで、特に天からの訪問或いは出現はなかったと思われます。でなければ、大天使が自分の前に現れても驚くはずがありません。

そして、聖母マリアが大天使を見て心乱れますが、大天使が「恐れるな、マリア、あなたは天主のみ前に恩寵を得た」と答えます。
これを聞いて、聖母マリアがさらに驚きます。いとも謙遜だった聖母マリアでしたので、このように賛美されてもわからないというか、想像もつかなかったでしょう。

そして、大天使は聖母マリアに、彼女に関する天主のご計画を告げます。つまり、救い主の御母になるようにということを告げます。
童貞聖マリアがなおさらに驚かれます。まず救い主の母なることに値しないと童貞聖マリアが思っていたからです。そして、同時に童貞聖マリアが驚いているからといっても、冷静のままです。よく考慮して引き続き考えています。感情にまけません。

聖母マリアは「私は男を知りませんが、どうしそうなるのですか」と冷静に大天使に聞きました。
童貞聖マリアはヨセフと婚約していましたが、聖伝によると、マリアよりも年配だった聖ヨセフもかなり敬虔であり、貞節の誓願をたてていました。
もしかたら、聖ヨセフも聖マリアも同じ貞節の誓願をたてていたので、お互いにこの誓願を守るために婚約して、このように、貞節を一生守れるというところがあったのでしょう。
繰り返しますが、このような一生の童貞、貞節の誓願で終身童貞になる生活というようなことは、イスラエルではかなりまれで、全然普通なことではありませんでした。どうしてもメシアを産むために子孫を設けなければならないというところがあったからです。

要するに、童貞聖マリアは以上のように大天使にした質問というのは、「私がした貞節の誓願は天主のためのものであるので、天主ご自身のみ旨ではないかぎり、私で決められない」といわんばかりですね。
そして、大天使はどうしてそうなるのかを説明します。「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」と言います。

言い換えると、童貞聖マリアが生む子は男女の関係から生まれることではないということです。童貞聖マリアが童貞のままとなるのです。
そして、これはまた信条であり、ご存じのように、我らの主のご降誕の前、ご降誕の間とそののち、ずっと童貞のままでした。ですから、いつも童貞なる聖マリアと言います。ずっとずっと聖母マリアが童貞でありました。それは生まれるこの子が真に天主であるという真実、教義を守るために天主によって用意されたかのようです。


「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。ですから、生まれる子は聖なるお方で、天主の子と言われます。」

そして、マリアは「はい」とも「いいえ」とも言わないで、美しいお答えをします。「私は主のはしためです。あなたのみことばのとおりになりますように」と答えます。
聖母マリアは天主のみ旨に自分自身のすべてを任せて捧げます。
聖母マリアの自己意思を完全に捨てて、天主のみ旨に捧げます。

そして、その瞬間、童貞聖マリアのご体内に、子が宿られました。この子は我らの主、我らの救い主です。

待降節に特に思い起こされるご托身の玄義をよく理解しましょう。ご托身の玄義は 童貞聖マリアのご体内に宿られたかたを祝うことです。しかしながら、このかたには人間の父はいません。彼の父は天主であり、聖なる三位一体の第一の位格だからです。
イエズスは天主の御独子なのです。そしてイエズスは聖なる三位一体の第二位格でもあります。
そして、聖なる三位一体の第三位格に当たる聖霊こそが、聖母マリアの体内にイエズスを宿らせました。
ご存じのように、本来ならば、人間なら、子が生まれるために、父からくる部分と母からくる部分の両方が必要です。男女のかかわりによってしか生まれえないのです。

童貞聖マリアの場合、母からくるものは聖母マリアがもたらしたわけですが、それだけではありません。聖霊の御働きによって奇跡が起きましたが、我らの主の御体が全体として成り立つためのすべては聖母マリアから来ています。このように我らの主、イエズス・キリストの御体は完全に聖母マリアから来たということです。この奇跡はご体内の聖霊の御働きのおかげです。
イエズスには人間の父はいません。
神学者たちによると、以上の教義を受けて、聖母マリアとイエズスは身体上に非常に似ていただろうと結論します。驚くほどに似ていたでしょう。

このように、真の人である我らの主、イエズス・キリストは聖母マリアのご体内に、ご降誕まで、人類の自然法に従って、普通の人と全く同じように成長していきます。
しかしながら、ご降誕の時に、御母の童貞を犯さないで生まれたということです。これは御子から御母への特別なプレゼントでした。
そして、ご降誕の後、最後まで童貞のままであって、イエズス以外に子をもうけなかったのです。我らの主がいたら、すでにすべて持っているということになるからです。

親愛なる兄弟の皆さま、以上は我らの信仰における大玄義です。
マリアの「フィアット」とは我らにとって非常に重要で決定的です。すべての神学者らが同意しあいますが、聖母マリアは大天使からの御告げを受け入れる義務はなかったということです。聖母マリアがこれを拒んだのなら、誰がそのほかにそれを受け入れられるでしょうか。ある方が「もう一人の女性が受け入れたのでは」と言われますが、それはありえません。イエズスをご体内に宿れることに値する女性は無原罪の聖母マリア以外、存在しません。


さらにいうと、聖母マリアが罪は全くなかったのに、大天使からの御告げを受け入れる勇気がなかったとすれば、一体だれがその勇気を持てるでしょうか。聖母マリアこそが、ご托身のために最高にも一番相応しいお方でした。無原罪の御宿りは我らにとってどれほど賜物であるかそれで認識できます。

聖母マリアが大天使の御告げを受けいれられるように、我らの名において自由意志をもって自発的に素直に受けいれられるように、聖母マリアが一番相応しい方であり、相応しく創造されました。

ですから、我らは聖母マリアに感謝しましょう。
ご降誕の諸玄義の一つには、三人の博士の訪問がありますが、「こどもが母のマリアと一緒におられることをみた(マテオ、2,11)」とあります。
はい、我々は救われるために、我らの主イエズス・キリストを通じなければなりません。我らの主イエズス・キリストこそが我々を救います。しかしながら、イエズスを見つけるために、御母を通じなければなりません。マリア様を抜きにイエズスにたどり着くことはできません。それは天主のみ旨であり、最初から福音書においてそれは示されています。

ですから、恩恵を受けるたびにご聖体拝領をするたびに、秘蹟にあずかるたびに、マリア様の「フィアット」を思い出して、我々も「フィアット」といって、聖母マリアに感謝しましょう。マリア様は「フィアット」と言わなかったのなら、救い主を我々が得られなかったことになり、大絶望となったでしょう。

ですから、カトリック教会が聖母マリアへの信心を大切にしている理由はわかりやすいでしょう。また、プロテスタントからの聖母に対する異議、すなわち「カトリック信徒らが聖母マリアに対してやりすぎだ」というような文句もカトリック教会が拒んで否認する理由もわかりやすいでしょう。
御母の名誉を讃えることによって、御子の名誉が傷つけられることはありません。逆です。

親愛なる兄弟の皆さま、もうすぐ無原罪の御宿りの祝日がやってきます。
聖母マリアのために皆様、頑張って何かをささげましょう。祈りましょう。犠牲をしましょう。感謝の意を込めて。
ミサにあずかり、行列に参加し、できることをやりましょう。12月8日を大切にして、聖母マリアのほかの大祝日を見逃さないでおきましょう。
童貞聖マリアは聖母の祝日を準備して、頑張っている人々のために、特別に見守って祝福してくれますので、見逃さないようにしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

王の宴を拒んでしまった!誰もが天主との友情を結ぶことができるという、天主からの寛大な提案を!

2022年11月06日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、オルザンヌ神父様(G.Orsanne)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

王の宴を拒んでしまった!
オルザンヌ神父様(G.Orsanne)のお説教  
2022年10月16日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、

「身体上の喜びと霊魂上の喜びの間には、普通、大きな違いがあります。身体上の喜びに対しては、我々の中には燃えるかのような欲望が生じます。しかしながら、この欲望を満たしてしまうと、今度は嫌な思いにかられるのです。一方、霊魂上の喜びに対しては、取得していない間は、これらを嫌う傾向があります。

しかし、霊魂上の喜びを得た時、飽きることがなくて、より多くの霊魂上の喜びを得ようとする希望に燃えて、霊的な欲望を満たせば満たすほど、喜びが限りなく増えていきます。残念なことに、楽園で人祖が原罪を犯したことによって、霊魂上の喜びを失い、現代に至ります。このせいで、この世にいる我々は多くのことに対して嫌気がさすようになったため、何を希望すべきかが分からなくなっています。」

親愛なる兄弟の皆さま、教皇聖グレゴリウスが本日(聖霊降臨後第19主日)のたとえ話、お招きを拒む客さんたちの場面の説明を以上の言葉からはじめます。

我らの主は我々が何を希望すべきかを思い起こさせるためにこの譬え話を話してくださるのです。
よき天主は披露宴を設けます。御子の婚姻のための宴です。
よき天主は天国について語っておられるとき、喜ばしいことを通して語っておられます。そして国王が設ける宴ほど喜ばしいことなどあるでしょうか。

このように、聖父なる天主は御独り子なるイエズスに人間の本性との婚姻を結ばせ給うたのです。御托身の玄義です。
御托身の玄義によって、真の人、真の天主となる御子に天主が聖なる教会を嫁がせることになさいました。公教会とは信徒からなる社会です。
キリストと教会との婚姻、絆はエフェゾの人への手紙の中に美しく紹介されています。聖パウロは、教会とキリストの婚姻はキリスト教の結婚の見本となるといいます。

キリストは教会と結婚しました。教会にとってのキリストは、妻にとっての夫です。愛徳の関係となります。キリストは自分の教会のためにすべてを尽くして犠牲になりました。そして教会がキリストのみを愛い尽くしました。
これに従って、男女の結婚もそうなっています。また離婚がないこともそこから来ます。キリストと教会との絆は排他的なので、離婚はあり得ないからです。

これに加えてよき天主はこの婚姻の披露宴へ皆が招かれるようにお望みになりました。
単なる披露宴だけではなく、だれでもが天主との友情を結ぶことができるための天主からの寛大な提案です。だれでもです。貧しくても金持ちでも貴族でも奴隷でもだれでもです。

そしてたとえ話の王は我々のために何を差し出しているでしょうか。三つあります。
第一に教義です。第二に律法です。第三に特別な手段です。

教義とは福音にある信条です。信仰上の教義です。天主が我々に教え給わなかったのなら、我々の力では知り得なかった真理です。天主がご自分自身についてすこし天啓し給うたことにより、天主の大御心をすこし示し給うたのです。三位一体の玄義や愛徳などがあります。この天啓の多くは福音において収まっています。

それから、律法とは天国即ち至福に行くための道です。我々の幸福のために律法を与え給うたのです。なぜなら、法とは道案内であるからです。「幸福を得るためにその道をとおること」という天への道なる天主の法です。

最後にこの披露宴の際、良き天主は七つの秘跡を我々に与え給うたのです。我らの主によって制定された不思議な手段です。秘蹟によって、我々において恩寵即ち天主の生命を与えられるか、恩寵は増やされることになります。言いかえると、恩寵によって我々が天主のご生命を汲むことが可能となり、天主の命を共有することが可能となります。

我々は天主を信じ、天主を愛する上に、天主の生命を共有できて、天主の命で我々も生きていくことが可能となります。

親愛なる兄弟の皆さま、以上の通り、天主は我々のために愛のご計画を敷いておられます。これは天主が我々に勧め給うご計画です。我々の目の前に天主がこのような招きを送り給い、我々が永遠の幸福を得られるように、天主ご自身の命を共有するように、天主との友人になるように我々を招き給うのです。

ほら、このような招きを拒んだ人は狂気の沙汰でしょう。永遠なる天主の愛よりも、超自然の至福よりも、別の何かを選ぶ狂人などあり得るでしょうか。あり得ないはずです。しかしながら、このような狂人は実際に存在します。残念ながら、このような人がいることが本日の福音において示されています。

天国への道、永遠の命へ招きという素晴らしいご計画はひとつだけです。つまり代案は存在しません。この意味で、天主のお招きを拒んだら別の招きはありません。この意味で、天主からの招きを引き受けることは義務化されています。拒んだら他に何もないから。そして天主からのお招きを引き受けるだけではなく、喜んで引き受けるべきです。

ほら、天主から「私が友人になろう」という招きですよ。天使ですらどの被創造物に至っても、天主のみ前に、だれも天主に「なかよしになってくれないでしょうか」と頼むわけがなかったです。考えられなかったことです。臣民が陛下の友人になるなんてありえません。創造主の至福を共有して、創造主の命を共有するようなことができるなんて、だれも想像しようがなかったのです。しかしながら、天主のほうから、友人になるという素晴らしい招きを成されました。ですからその招きに応じましょう。永遠の命への道、恩寵の内での生涯という招きに応じましょう。

しかしながら、福音をみると、多くのお客さんが、いや招かれた全員が王の招きを、全員拒んでしまいます。これを見て驚かれるでしょう。「この至福は要らない。このような幸福よりもつまらない別のことが欲しい。地上、現世の方がよい。」というようなことを断言する羽目になります。
さて、聖ルカはそれについてより詳しく解説してくれます。「みな口をそろえて断ってきた」(ルカ、14,18)

これから招かれた人々は言い訳して、口実を見つけようとします。
「はじめの人は、〈土地を買ったので見にいかねばなりません。どうぞお許しください〉といい、他の人は、〈私は五対の牛を買ったのでそれを試しに行きます。どうぞ許してください〉と言い、また他の人は、〈妻をもらったので行けません〉と言った。」(ルカ、14,18-20)
最後の人は「ごめんなさい」とも言いません。

そして聖ルカが続けます。
「しもべが帰ってこの由を主人に告げると、主人は怒り、〈すぐ町の大路・小路に行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどをここに連れてきなさい〉としもべに言いつけた。」(ルカ、14,21)つまり、みなを招き給います。

さて招きを拒むための言い訳、口実は三つあります。三つとも欲望の一種です。聖ヨハネの手紙で記されている「肉の欲、目の欲、生活のおごり」という現世欲です。

はじめての人は〈土地を買った〉と言いますね。これはおごりです。傲慢です。彼が何かを買ってそれをおごりに思い、見せつける傲慢です。
そして、つづいて、〈見にいかねばなりません。〉といいますが、なぜすぐ、行く必要があるでしょうか。すぐ行かなくても、土地は消えるわけではないはずです。本来ならば婚姻の披露宴に参加する余裕は十分あるはずです。しかしながら、地上の財産と善に愛着するあまりに、より高次な善への愛が欠如してしまいます。これは目の欲です。好奇心です。現世の仕事や問題などに対する過剰な不安です。このせいで初めての人が彼の目的地から離れて、天主が招き給うたすなわち目的地を指定し給うた披露宴に出席しない羽目になりました。

二人目の人が〈私は五対の牛を買ったのでそれを試しに行きます。〉といいます。豪華な披露宴よりも、天主よりも、牛を優先させる人なんているでしょうか。います。その人がそうです。〈それを試しに行きます。〉
かれもはじめての人のように、すぐ試しに行かなくてもよいはずです。それで牛が消えるわけでもないし、披露宴に行く余裕が十分にあるはずです。しかしながら、彼もその心が現世を愛着するあまり、現世のものを優先する羽目になりました。より多くの財産をもちたい。より多くのことをみたい。より多くの場所に行きたい。より多くの趣味をやりたい。より多くの勉強をしたい。天へ行けない人です。

そして最後の人が〈妻をもらったので行けません〉といいますね。結婚したからといって、言い訳になりうるのですか。ならないということです。結婚はよいですが、目的は天主のためにあります。目的から離れたら、もうダメとなります。
ここは肉の欲です。肉の欲が抑制されないで、人間愛が乱れてしまったら、理性に従わない人間愛なら、天主への愛に従属しなければ、天主からの招きを拒む羽目になりました。そしてこの三人目の人は「ゆるしてください」ですらいいません。

そして、福音者マテオにはたとえ話の続きがあります。「またほかの人は下男を捕えて辱め、しかも殺してしまった」(マテオ、22,7)
これはキリストの御死とキリストの使命への迫害を予言する部分です。

それでもよき天主は最初に予定し給うた計画を変えません。
よき天主は披露宴を最初から計画しておられて、つまり我々一人一人のために天国という目的地を用意しておられるので、これほどの拒否があっても、良き天主は我々を愛するがゆえにご計画を実施し給います。披露宴を開き給います。

このために、「出会う人をよいも悪いもすべてを集めた」ということで、宴席は一杯となりました。ただし、礼服を着るようにが出席の条件でした。この礼服は他でもない愛徳です。

このように、よく理解しましょう。第一に天主を愛するのなら、我々の霊魂において秩序が回復されて、すべてあるべき場にあるのなら、地上の物事を正当に愛してもいいです。天主への愛を増やすための秩序正しく整理されている被創造物への愛なら、問題ありません。
そして礼服を着ない人は外へ追い出されてしまいます。彼はそもそも披露宴への招きを拒んだ人々と同じ扱いされて、外へ追い出されます。

以上のように、素直で奥深くて美しいこのたとえ話を黙想しましょう。我々にとって、反省の機会を与えてくれます。自分の心の中に、天主への愛を妨げる乱れた被創造物への愛着はあるのか。それを検討して反省して改めましょう。

生活のおごりでしょうか。名誉、財産、出世への乱れた愛着がないでしょうか。肉の欲がないでしょうか。快楽を優先させる悪い傾向がないでしょうか。これらのせいで、天主を愛するための障害となっています。

考えてみると、このようなつまらないことで、天主との出会いを見過ごすことは非常にばかなことです。愚かです。このようなつまらないもので、聖パウロがいう「丸損」のせいで、我々の人生をだめにさせることは本当に愚かです。天主への愛と被創造物への愛は比較できないほどに、異質であるのは明らかであるのに。

最後に、本日のミサの集祷文を読み上げたいと思います。天主の愛への障害が排除されるように。
「全能慈悲の天主よ、ご慈悲をもって、我らから妨げるものを取り除き給え。そして身体と霊魂とを解放し、自由な心で御身に奉仕させ給え。」

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

現代世界は、エルサレムから学ばなければならない。平和をもたらす天主イエズス・キリストを拒むと自業自得となることを。

2022年10月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



エルサレムよ!戦争の国か平和の国か
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年8月07日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、エルサレムの東にあるオリブ木の丘(ゲッセマネ園)に沿って歩き降りると、「Dominus Flevit」と呼ばれる小聖堂は建っています。そこは聖伝に従って本日の福音で思い起こされるように、イエズスは泣いておられた場所だとされています。

本当に小聖堂であり、中には聖壇があって、そして聖壇の後ろも壁に広い開きがあり、この格子窓からエルサレムの全貌が見られます。エルサレムへの展望台のように造られています。大昔に神殿のあった場所を中心に見えています。巡礼者はこの小聖堂に祈りに行ったらイエズスのようにエルサレムを見ながら祈ります。





そこでイエズスはエルサレムのために泣いておられました。泣いておられた日はエルサレムへの凱旋的な入場の日でした。枝の主日の際に祝われる出来事ですね。ゲッセマネ園から降りたイエズスを大衆が迎え入れます。大勢の人々はイエズスを迎えて、「陛下、万歳」というように、彼を王として仰いで、メシアが来たことについて喜び立ちます。
ご存じのように、人々は上着などを地面に敷いて、枝を切って手にして、歓呼しながらイエズスを仰ぎます。御受難の数日前の出来事です。

キリスト教徒ならイエズスという神人を礼拝しているので、泣いておられるイエズスを見て感動せざるを得ないのです。

なぜイエズスを礼拝するかというと、天主の御子であるので、信経にあるようにイエズスは「創られずにして生まれ給うた」として、天主と同質にして真の天主であるからです。そしてイエズスは同時に本当の感情をも持っておられて、それらの感情を見て、イエズスは同時に真の人でもあることが思い起こされます。

イエズスは真の天主であり、真の人なのです。このように、イエズスは泣いておられます。このように、イエズスは我々の人間性を共有しておられることが思い起こされて感動的です。

イエズスはエルサレムを見てなぜ泣きだされたのでしょうか。
福音では、他にもイエズスが泣いておられます。友人、ラザロの死の時にイエズスは泣きだされます。深い絆でラザロとの親友でしたので、イエズスはラザロの死を知って、ラザロの墓の前まで来たら、泣きだされました。要するに、人間にとって必ず悲劇となる死の前に、イエズスは泣きだされます。私たちも、みんな、例外なく、ある時、誰か大切な人の死の前にいると同じように。

今回、エルサレムをみてイエズスは泣きだされます。なぜでしょうか。故郷だからです。祖国だからです。
イエズスは天主でありながら真の人なので、イエズスには故郷があります。このように、人ならだれでも祖国、故郷をもって、祖国を愛する義務があります。

愛する兄弟の皆様、キリスト教徒にはそれぞれ、祖国、故郷があります。キリスト教徒は無国籍でありえないのです。普遍的な教会に属しているからといって、つまり「カトリック」として全世界へ広めるべき教会に属しているからといって、キリスト教徒は国際人でもなく、無国籍でもなく、グローバルな人ではありません。

キリスト教徒は自分の故郷を愛して、祖国を愛します。そしてこの祖国愛はよいことです。
もちろん、我が国は最高であるということになりません。またナショナリズム的に、傲慢になって自国が最高であると断定した上に、八紘一宇のような、万国無比なので全世界へ広めるべきだということは論外です。もはや祖国愛ではなく、傲慢的なナショナリズムになります。残念ながらも、このような過剰なナショナリズム、民族主義は歴史の中に、多くの弊害を及ぼして、大変な帰結を伴ったことは確認しやすいです。

祖国愛というのは、単純に生まれた土地、故郷を愛することであって、孝行の一種なのです。これ以上でも以下ではありません。
我々を産んでくれて、我々の存在を可能にした先祖への敬愛、育った故郷への感謝と愛なのです。

祖国愛は父母への愛とよく似ています。誰に聞いても自分の母が最高の母だと評価しているのは自然な気持ちです。また我が母を愛していて、全世界のすべての他の母を選べたとしても、我が母しか欲しくないというような気持ちがありますね。実際、客観的に見ても最高の母ではないとしてもです。しかしながら我が母であるので、母をどうしても大切にしたくなります。生んでくれた母なので、一生の恩人なのです。
祖国、故郷に対しても同じようなことです。

イエズスもこのように故郷を愛して、国を愛して、自分の民を愛しておられました。さて、イエズスは国のために、そして国の首都を見てなぜ泣いておられたでしょうか。



イエズスはご自分でその理由を述べておられます。エルサレムに向けて仰せになります。
「おまえが訪れの時を知らなかったからである」(ルカ、19,44)
イエズスの悲しみの理由は以上の通りです。

エルサレムは訪れの時を知らなかったからです。この「訪れ」はなんでしょうか。天主の訪れです。イエズスの御托身によって、天主の民への天主の訪れに他なりません。
しかしながら、「ホザンナ」という歓呼を浴びながら、その日は凱旋の日、喜びの日であるはずです。しかしながら、このような現世的な栄光の彼方までイエズスはお察しです。この世の栄光は変わりやすいく儚いものであるはよく知っておられます。たしかに、数日後、イエズスを仰いでいた同じ大衆は彼を罵って十字架につけよと要求することになります。

イエズスは天主であるので、未来を知っておられます。そして未来についてのご存知のことを述べておられます。エルサレムの破壊を述べておられます。神殿の破壊を述べておられます。またローマ人によって多くの破壊と死者を述べておられます。

ユダヤ人たちはその通り、後世になって、ローマ帝国に対して反逆した結果、報復としてエルサレムの神殿が破壊されました。紀元後70年になるので、イエズスのご死去とご復活の僅か40年後の出来事です。



ローマ軍はエルサレムを攻囲することになります。大変なことになりました。なぜなら、神殿の境内まで激しい戦闘となり、多くの死者が出ました。神殿のホロコースト祭壇の周辺まで戦闘は及び、ローマ軍は結局勝りました。そして、ローマ軍は神殿を完全に破壊しました。言いかえると、天主がおられた神殿は破壊されました。ユダヤ人が天主のまします場所としてお参りしに来たこの神殿は破壊されました。

また続きもありました。神殿が破壊されても、エルサレムはまだまだ存続しました。しかしながら、ハドリアヌス帝の代に、130年になって、エルサレムを復興させることを決めました。しかしながら、エルサレムの住人たちは異教徒の皇帝による復興を拒みます。

このように、ユダヤ人たちは一揆します。135年のBar Kokhba(バル・コルバ)の乱なのです。そして、この一揆はローマ軍によって厳しく鎮圧されて、多くの流血を伴いました。この一揆への報復として、エルサレムは壊滅されました。神殿が立った場所に、ユピテル神のための神殿が建てられました。最悪の冒涜ということです。最も聖域だったはずの場所、天主が礼拝されるはずの場所に異教が凱旋しているという惨事になりました。それだけではなく、エルサレムに住むユダヤ人たちは都市から追い出されました。また、ユダヤ人ならエルサレムに戻ることも移住することも禁じられました。

これらを知っておられたイエズスは泣いておられました。「ああ、エルサレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。。。」(ルカ、19,42)と仰せになりました。

愛する兄弟の皆様、エルサレムという語源を辿ったら「平和の国」という意味です。イエズスはエルサレムに向けて、「ああ、エルサレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。。。」と仰せになります。

平和をもたらすものというのは天主ご自身の訪れ、即ちメシアを認めて受け入れることなのです。「おまえが訪れの時を知らなかったからである」

そこに、因果関係があります。誤解しないでください。エルサレムはメシアを認めないでメシアの教えを拒んだゆえに、天主は罰をあたえたということではありません。いや、そうではなく、天主の御托身を拒んで、メシアの教えを拒んで、イエズスがもたらした真理を拒んだせいで、ユダヤ人たちは平和をもたらすすべてを拒んだということです。なぜなら、キリストの教えに従わなければ、本物の平和を享受できないからです。

そしてイエズスによって昇華、改革、完全化されたにもかかわらず、ユダヤ人たちは旧法を旧法のままに頑固にも固く捧げ続けてしまいます。この結果、ユダヤ人たちはある種の過激的なナショナリズム、民族主義になってしまいました。そして、この民族主義の結果、一揆を引き起こしたり反逆を犯したりしました。

そして、ご存じのように、ローマ帝国では、反逆、一揆のようなことになると、なかなか厳しかったわけです。ローマ帝国の権威に手を触れると、帝国の逆鱗に触れるようなことになります。ご存じのように、罪を犯したことによって罰せられます。天主を拒むのなら、天主ではない他の人々に渡されよう。彼らはおまえを酷く虐めるだろう。自業自得というような罰です。

愛する兄弟の皆様、このような自業自得の罰を現代で改めて考えるべき時代でしょう。

世界中の国々、社会は徹底的に天主を拒んでいます。天主の統治を仰ぐ国はもはやいません。あらゆる側面を見ても天主の統治を徹底的に拒まれています。いわゆる、自然法ですら拒まれて、自然次元ですら否定されているぐらいです。

キリストの国になることを徹底的に世界中で拒まれています。以上のようにキリストを拒みながら、「平和を確保しよう」とみんな、望んでいて、国々も望んでいます。残念ながら、このままでは平和を得ないでしょう。平和をもたらす原因、要件なるイエズスを拒んだら、平和を求めても無駄です。現代世界はこれで自業自得になるでしょう。平和の原因を拒んで、戦争しかならないでしょう。

現代世界を見たら、皆心配しているでしょう。世界中の戦争と不安定は懸念されています。そうでしょう。しかしながら、これらの戦争の原因は、石油でもなく、核兵器でもなく、ガスでもなく、人々は天主に対して反逆していることが原因です。人間は天主に対して反逆しているからです。

我々は天主の手に自分をお渡しすることを拒んだら、我々の敵らの手に渡されることになりましょう。

また、イエズスは神殿のために泣かれるのではなく、エルザレムのために泣かれます。なぜでしょうか。

当時、神殿でまだ有効に捧げられている生贄はあくまでも全人類のためのイエズス・キリストの真の犠牲の前兆に過ぎないからです。そのために泣かれるわけがありません。ですから、神殿が破壊されても悲しいことではありません。本物の生贄はイエズス・キリストの生贄なので、その再現なるミサ聖祭なので、そもそも旧約聖書の生贄はなくなる運命でした。我らの主イエズス・キリストの生贄の準備のためにだけありました。

また、世の終わりの時代になったら、御生贄(ミサ聖祭)の行使も廃止されるだろうと預言者はいっています。現代、教会内、どこでもどのレベルでも聖伝ミサに対して行われる激しい戦争はその預言を思い起こさずにいられません。

また、イスラエル国の事情をみてみると、神殿を再建する運動はどんどん活発になっていて、組織化されつつあります。神殿の再建は世の終わりの一つの兆しとしても予言されています。しかしながら、神殿の再建は実現しないでしょう。

ユリアヌス皇帝の時代を思い出しましょう。ユリアヌス皇帝は棄教者と呼ばれています。なぜなら、若いうちに洗礼を受けたにもかかわらず、信仰を捨てて異教を掲げたからです。4世紀中ごろです。前帝なら数人がキリスト教徒だったのに、ユリアヌスが即位すると、キリスト教を捨てて異教を復興することを図りました。

キリスト教の徹底的な排除を示すために、エルサレムの神殿の再建を実現させることにしました。このように工事は始まりました。しかしながら、完全に失敗となりました。土運び作業で挫折してしまい、逆に旧神殿の廃墟で残っていた礎は破壊されたぐらいでした。

そして、ユリアヌス帝は亡くなります。死ぬ直前にユリアヌス帝は次のように述べたとされています。もしかしたら実際に言っていないかもしれませんが、かなり代表的です。イエズスについて「ガリラヤ人よ、あなたが勝ったな」と。

天主を馬鹿にしたら大変なことになります。

エルサレムと神殿の破壊を見て、我らの主イエズス・キリストを通じてのみ救いがあると思い起こされます。この事実をよく考えましょう。思い出しましょう。

また勇気あれ!天主に忠実でいられ続けたら本物の平和を享受するからです。この平和は我々を永遠の平和のために心構えを助け、天主の内に永遠の平和へ導いてくれます。

そして童貞マリアの御取り次ぎに頼りましょう。天主は世界中の平和の確立のために聖母マリアに特別な使命を与え給うたのです。
償うために聖母マリアへの汚れなき心への信心を通してです。

今日から九日後、被昇天の祝日になりますので、今日から聖母マリアへのノベナがはじまりますが、ぜひとも、毎日、聖母マリアのために何か特別にお捧げしなさい。
聖母マリアを特に崇拝している人々、特に聖母マリアの祝日になる時、8月15日、それから8月22日(聖母マリアの汚れなき心祝日)にむけて聖母マリアへの信心を行うと、聖母マリアは我々罪人に特別な恩寵を与えてくださいますので、怠りなくそれを行いましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


どのように人を赦せばよいか?

2022年10月16日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



我々も人を赦せるように―赦すための手引き
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年7月31日 

Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、我々が知っているように、信じているように、良き天主は我々に対し限りなく憐み深いです。なぜなら我々は被創造物であるにすぎなくても憐み深いからです。そして我々は被創造物であるが故に、弱い存在であり、罪を犯しやすくても憐れんでくださるからです。
天主は、限りなく正しき存在であり、限りなく正義を全うする天主であり、限りなく憐み深い天主なのです。このように限りなく憐み深くおられると同時に、限りなく公平に裁いておられる天主なのです。両方の要素は常にともにあるのです。

天主は何でもお赦しになれます。なぜなら、天主はよき存在であると同時に、人間の一人である天主の御子であるイエズスの功徳のお陰で、天主から我々のための赦しを得られるようになったからです。イエズスの御血の一滴だけでも、人類の全員が犯しうるあらゆる罪、可能な罪を赦すためには十分なのです。このように無限な価値があるのです。

天主がお赦しならないことは一つだけあります。それは聖霊に対する罪なのです。愛する兄弟の皆さま、なぜでしょうか。聖霊に対する罪とは赦してほしくないと思い込んでいる人が犯す罪だからです。言いかえると、赦されなくてもよい、このような赦しが要らない、このような赦しは私なら余計なことだと思い込む人の罪だからです。

また、聖霊に対する罪とはいわゆる赦されることを認めていても、天主からの御赦しだけを拒む人の罪なのです。つまり、天主がお赦しになることをもって、天主から来ることを拒む人の罪なのです。要するに、これは天主に対する反逆の一環であるというか、サタン的なところがあるのです。

しかしながら、以上の例外を除いたら、天主はあらゆる罪をお赦しになります。聖霊に対する罪に至っても、その人が聖寵の息吹きを受け入れてまことに悔い改めたら天主はもちろん彼をお赦しになります。

しかしながら、天主は我々をお赦しになるという時、どれほど我々をお赦しになるでしょうか。なぜこの質問をするのでしょうか。
天主は何でもお赦しなられますが、それはつまり、限りなくお赦しになるということです。

この質問への答えは我らの主、イエズス・キリストが我々のために残されて、教えられて、祈るように頼まれた立派な祈りの中にあります。それが主祷文です。主祷文の後半部分を思い出しましょう。天主へお祈りを捧げながら、「われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。」

われらが人に赦す如くということです。愛する兄弟の皆さま、そこがポイントです。天主の御赦しの程度は我々の言動次第で決まるということです。我々は自分に対して罪を犯した人を赦せば赦すほどに、天主は我々をお赦しになるということです。

このように、天主は我々が犯したいくつかの罪をお赦しにならない時に、その責任は我々にあるということです。なぜなら、我々の心こそが冷淡で、隣人を赦さない堅い心になってしまうことに由来するからです。

さて、もう一点の質問があるでしょう。私は私に対して罪を犯した人を赦してもいいですし、赦したいのですが、では具体的にどうやって赦せばよいのでしょうか。要するに侮辱された人々の前に、どのように言動したら赦せるかという問題です。
何よりも大事なのは基本になるのは、受けた悪、弊害に対して応報しないこと、復讐しないこと、悪で返さないことなのです。そして、その意図、気持ちと戦い、なくすことに努めることです。要するに、赦しは内面的な態度で始まるのです。

復讐はまったくキリスト教的ではありません。つまりどれほど悪を受けていても仇討ちしない、復讐しないということです。
もちろん、受けた悪は悪のままです。罪です。だから悪を咎めるのはいいですが、しかしながら罪人は憐れむべき人であり、このように、罪人から受けた悪を悪で返してはいけません。
もしも、我々を侮辱した、我々に対して悪いことをした人がさらに後悔していて、我々へ向けて我々の赦しを求めるのなら、我々はキリスト教徒として、その依頼に応じる義務があります。それに応じて、仲直りの依頼を受け入れて赦してあげる義務があります。

天主が赦し給うことを望む人は、隣人に赦すこと、善行を受け入れる必要があります。そして、本物の赦しになる必要があります。つまり形式的に小さな声で「赦した」のではなく、心を込めて赦してあげて、言動上も帳消しにするという赦しが必要です。

次の問題はお分かりですね。我々を侮辱して、我々に対して罪を犯したのに、私の赦しを頼みに来ない人、赦しを頼みに来ることを拒み続ける人についてどうすればよいですか。つまり私を傷つけた人で「ごめんなさい」と絶対に言わない人々に対して、どうすればよいですか。このような場合は、まず大事なのは、これらが許しを求める機会、仲直りできる機会を少なくとも一回与えてあげることです。つまり、何らかの形で、我々は赦してあげる準備ができていて、向こうはいつでも赦しを乞うことができて、そうしたら心を込めてまことに赦してあげるよということを示してあげることが大事です。

このことは福音書のイエズス・キリストのお言葉を思い起こさせます。
兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それからかえって供え物を捧げよ。」(マテオ、5,24)とイエズスは仰せになります。

それでも、その人はその罪を悔い改めないで、赦しを絶対に求めないことにしつづけたら、あるいは我々に対して悪いことをし続けようとするとき、どうすればよいですか。

この場合、少なくとも彼らのために引き続き祈りましょう。よく祈りましょう。少なくとも嫌悪感、憎しみを絶対に自分の心に入れないようにしましょう。そうするために、彼らが犯している罪を憐みましょう。同情しましょう。なぜできるのでしょうか。これらの罪を最期まで悔い改めないのなら、裁かれることを知っているので、この大変な裁きを思って憐れむことができるからです。

また、政治家や責任のある人々についても適用できます。よく極悪の政策やとんでもない弊害を及ぼす決定をした人々に対して文句を言ったり、憤怒したりすることがよくあると思います。我々は完全に無力になっていて、共通善を守るべき人々が共通善に弊害を加えていることをみて、また一回限りではなく、彼らは悪をやり続けることにしていることを見て憤怒することがありますよね。

そういう時は、我々は彼らの天主のお裁きについて考えてみましょう。恐ろしいことで、ぞっとするほどの裁きになりましょう。我々は無力で何もできないとしても、彼らもある日、我らの主、イエズス・キリストによって裁かれることになるからです。このように、彼らのために祈りましょう。彼らは罪を犯して悪を行うことをやめるように祈りましょう。祈りだけではなく、彼らの回心のために犠牲をも捧げましょう。

最後に、ある話をさせてください。実際にあった話です。聖ヨハネ・ガルベー(Saint Jean Galbert)の人生の一つの場面ですが、彼は11世紀の聖人です。西暦1000年のちょっと前に生まれました。フィレンツェの人で、そこで生まれました。鉄のような時代で、厳しい時代でした。
この聖人はかなり偉い家柄の子で、カトリックの信仰の家に育ちました。しかしながら、青年期になった時、騎士になることを志しました。ご存知のように、騎士は、特に昔のそのような時代では、限られた例外がいるものの、聖徳を行いやすい職業ではありません。
このように聖ヨハネには信徳が残っていても、その人生はまっすぐではなくただしくありませんでした。

ある日、彼の兄弟、ユーグですが、一人だけの兄弟でしたが、フィレンツェのもう一人のある貴族によって殺されました。このように、ヨハネ・ガルベーはフィレンツェの貴き一族の代表者になり、ユーグ兄の殺人にたいして仇討ちを必ず果たすことを誓ったわけです。
そして、時間が経って、ある日、ヨハネ・ガルベーは馬に乗って数人の騎士と共にフィレンツェへ帰っていたときでした。ある細道では向こうから馬に乗る一人きりの人と出会うのです。その人はユーグ兄の殺人者でした。それを分かったヨハネは、すぐさま、剣を手にし、兄の名誉をすすぐためにと思って、仇討ちを果たそうとして、相手を斬りそうになりました。
そして、兄を殺した人は自分の最期が近いことを察して、馬から降りて跪き、腕を十字架のように組みました。これは赦しを希うためではなく、死ぬ前に、天主へ自分の霊魂をすすめるためです。なぜなら、もう逃げることができなく、殺されることを知っているからです。

剣を抜いたヨハネ・ガルベーも馬から降りて、兄の殺人者を斬りに行きます。そして、彼の前にいる十字形に腕を組んで跪いているその男を斬りそうになった瞬間、ヨハネ・ガルベーは前に我らの主、イエズス・キリストがおられるかのようなすごい印象におおわれました。

実は、その日は聖金曜日でした。聖ヨハネ・ガルベーはその後、この時を顧みた時に記した文章によると、「私はその男を赦さざるを得なかった」と明かします。なぜなら、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ、23,34)と天主の御赦しを希った十字架上のキリストをヨハネ・ガルベーが見たので、兄の殺人者を赦さざるを得なかったと明かしました。
聖ヨハネ・ガルベーはその時、剣を鞘に戻して、体をかがみ、兄の殺人者へ手を伸ばして彼を起して「平和の内にいけ」と言いました。



しかしながら、これで以上の話は終わったわけではありません。このように兄の殺人者を赦したのですが、その後、聖金曜日だったその日、ヨハネ・ガルベーはまた帰り道を走っていました。フィレンツェに到着したら、先に家の準備のために伴の騎士たちを送っておきました。そして、ヨハネ・ガルベーはSan Miniato al Monteという教会に行きました。祈るために教会の中へ入りました。そこで、大きな十字架の絵の前に留まります。その前に跪きます。そして、十字架に向けて、「私は彼に赦した如く、我に赦し給え」と言います。なぜなら、
ヨハネ・ガルベーは正しい生き方をしていなかったことをよく知っていたからです。
そしてその瞬間ですが、その時に起きたことはヨハネ・ガルベーの人生を覆して回心の切っ掛けになり、そのあと聖人になっていきますが、画の十字架上のキリストの頭はさがって「はい、赦してあげた」という風に示されました。

これを機に、聖ヨハネ・ガルベーは回心して、彼の生き方は一変していきます。その後、修道会にも入り、また彼自身がその修道会の改革修道会を設立することになりました。Vallombreuse修道会だったので、Vallombreuse改革と呼ばれていますが、このように聖ヨハネ・ガルベーは偉大な聖人となっていき、彼の周りに多くの善行と善を施しました。



この聖人は我々のための模範です。聖ヨハネ・ガルベーの祝日は7月12日でしたが、彼の人生を読むようにお勧めします。多くの教訓と模範があり、我々のキリスト教的な日常のために助けとなります。模範になるように。

我々を侮辱した人々に赦すための模範です。
また聖母マリアに希いましょう。憐みの御母なるマリア様よ、天主が我々を赦す如く、我々も人に赦せるように教えるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

幼きイエズスの聖テレジアは薔薇と共に茨を愛した

2022年10月04日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ランパン神父様(Rampon)のお説教     
2022年09月25日  
聖テレジアに倣って苦行をしましょう!
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

神父様、親愛する兄弟の皆様、幼きイエズスの聖テレジアを本日、祝います。
1897年9月30日、聖テレジアが天国に生まれました。そして、ピオ十一世の決定によって、聖テレジアはフランスの二位の守護者となりました。聖テレジアという聖人はきっと現代の一番有名な聖人でしょう。聖ピオ十世が述べていたように、聖テレジアは「この時代の一番偉大な聖人である」のです。
聖テレジアが行った奇跡は数多くありますが、ここは時間の問題で省きます。
一つだけを取り上げると、第一次世界大戦の際、多くの兵士たちが聖テレジアの執り成しの恩恵をうけました。

このように聖テレジアは我々に近いのですが、同時に遠い聖人でもあります。

聖テレジアの人生の間に、聖テレジアが大がかりな奇跡を行ったことがありませんでした。この意味で我々に近い聖人です。歴史には水面上を歩く聖人もいれば、未来を予言する聖人もいたし、相手の心を読みとれる聖人も数多くいました。ところが、聖テレジアはそのようなことはありませんでした。聖テレジアは平凡な人生、日常を送ってきました。

このポイントが大事です。聖人になるために何が一番重要なのかを思い起こしてくれるのが聖テレジアです。聖人になるにはひとまず対神徳の優れた実践が必要です。それからキリストに倣ってのキリスト教的な生活上のすべての聖徳の実践が必要です。

しかしながら、一方で聖テレジアを見ると、我々から遠い存在でもあることを感じることがあるでしょう。なぜなら、聖テレジアの覚悟と精神上の剛毅さは桁違いであるからです。罪に対して聖テレジアは一度も脆弱な態度を見せたことはありませんでした。もちろん、どの聖人とも同じように、いくつかの脆弱さによって罪を犯したことがありますが、最期まで大罪を犯したことはありませんでした。

このようにして最期を迎えていた聖テレジアは次のように明かしていました。「三歳の時から、天主からのみ旨を一つも拒んだことがなかった」。
これは聖テレジアの精神上の剛毅さを語ります。我々なら、このような剛毅さからはなかなか遠いでしょう。いつも、崩れることなく、誘惑に負けない剛毅さを聖テレジアほど持てる人は誰かいるでしょうか。



さて、聖テレジアは霊魂ですごい剛毅さがありました。それはどこから来ていたのでしょうか。どうやってその剛毅さを継続できたのでしょうか。これほど固く覚悟して、誘惑に負けず、聖人になれた剛毅さの秘密はなんなのでしょうか。

ここで細かい検討は無理ですが、一番大事な点だけを覚えていただきたいと思います。聖テレジアは苦行を愛し、徹底的に苦行を実践してきたのです。

聖テレジアはよく薔薇をもつ姿で描かれます。それは確かにそうですが、薔薇には多くの茨があることを忘れてはいけません。

聖テレジアは薔薇と共に茨を愛しました。

苦行とは何でしょうか。我々が持つ悪い傾向、原罪の帰結なるこれらの悪い傾向に対する戦いです。原罪による傷のせいで、我々の感情などは自分の理性に対して反乱をおかすことが多いのです。このように、苦行という行為、苦行という実践はこれらの悪い傾向と戦い、我々の本性にある下等な部分である感情、感覚などを理性と意志に従わせることです。こうした苦行によって、最終的に我々の意思と理性を天主のみ旨に従わせるのです。

苦行をするためのやり方は無数にあります。聖テレジアは例えば、食べる時、材料などを交えないことにしていました。なぜなら、それらの材料の味を薄くさせるためでした。あるいは、不本意にスプーンなどを皿に落としてしまったら、聖テレジアがあえてそのスプーンを洗わないで取り直して、改悛の精神でそういった苦行ですらしていました。

また、正当に文句を言えたのに、聖テレジアは何の文句も言わないことにしていました。具体的には、掃除で服などを洗っていた時、ちょっと虐められていたことがあって、汚水で振りかけられることがありましたが、それでも文句を言わないで、その場を去らないで、その作業を続けていました。

このような苦行はほぼだれにも気付かれませんでしたが、考えてみると、それを行うための剛毅さは凄いものがあります。

聖テレジアは修練期のシスターたちにこう述べていました。
「これらの小さな行い(苦行)は自分の健康にも悪くもないし、誰にも気づかれないし、自分の霊魂だけが超自然の熱心さを常に養ってくれる」



もちろん、現代では苦行といったら多くの人々が嫌悪感を抱くかもしれません。現代はかなり物質主義的であり、エゴイズムであり、自己満足、自分の利益、自己実現、自分の出世を何よりも優先するので、驚くことではありません。

ですから、このような世界では苦行をあまり考えたがらない傾向があります。そして、残念ながら、信徒の間でも苦行を行うことが足りないことは珍しくありません。苦行の精神が足りないこともあります。

しかしながら、苦行は必要不可欠です。

第一、 時々、苦行は義務化されています。時期、場所によって。我らの主が仰せになりました。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。」(マテオ、5,28)

つまり、罪深い眼差しもあるので、それを避けるための苦行が必要です。このような場合、苦行は任意ではありません。常に苦行を繰り返すことによる訓練のようなものです。大きな誘惑あるいは試練が来たら、抵抗できるための訓練としての苦行です。小さなことで誘惑に負けたら、大きな誘惑に抵抗することはあり得ないのです。

それから、もう一つあります。我々の心の中に、現世欲の源泉というものがあります。言いかえると、洗礼を受けることによって原罪が消されます。しかしながら、原罪が消されても、霊魂には現世欲の源泉が残っていて、傷であるかのように、そこから罪へ引っ張る悪い傾向などが出てきます。それに対して戦う必要があります。戦うには苦行が必要です。

このような現世欲の源泉は火のようなものです。火のように、火に燃料を補給すればするほど、火が強くなっていきます。そして火が強ければ強いほど、これを消すことは難しくなっていきます。逆に、火から燃料の補給を止めたら、火はどんどん弱くなっていきます。最初、小さな弱い炎だけになるでしょう。

現世欲についても、以上の火と全く同じようなありようがあります。時には正当な楽しみも含めて、毎日のように現世欲を煽っていたら現世欲を強めて拡大させる羽目になります。

逆に、正当な楽しみをも含めて、意志的にそれを拒むことを頻繁にしたら、現世欲も弱くなります。例えば、インターネット上の動画を見たり、好奇心だけで何かを視たりするような時、それは正当な楽しみであるのに、あえてそれを見捨てるような苦行などいろいろ考えられます。このような苦行によって、自分の欲望、現世欲をよりよく支配できるようになります。

それから、何よりも我らの主に倣いましょう。このように我らの主は生まれた時から最期まで、常に断念して自己犠牲を行っていらっしゃいました。「人の子には枕するところもない」(マテオ、8,20)と仰せになったほどの苦行を行われました。

そして、もちろん、ご受難の時、なおさらです。我らの主はつねに、自己犠牲、謙遜、清貧などの模範を見せ給いました。ですから、遊楽と自己満足を追求したら、イエズスに倣うことができなくなります。

イエズスご自身は以上のことを思い起こさせてくださり、仰せになりました。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。」(マテオ、16,24)

最後に、苦行は誘惑に対して抵抗するために非常に役立つことを覚えておきましょう。なぜでしょうか。誘惑が来た時、誘惑に負けたとしましょう。なぜ誘惑に負けるでしょうか。理由は主に二つあります。

ひとつは遊楽への愛着があります。偽りの遊楽によって騙される霊魂は誘惑に負けるわけです。つまり、単なる遊楽であるのに、幸せあるいは幸福であるかのようにみあやまり、遊楽へ飛び込む羽目になります。

苦行によって、このような乱れた遊楽を征服することが出来て、本物の幸せと喜びとはこれらの遊楽にはないことを常に思い出させ、この世での本物の喜びは霊的な喜びだけだということを身につけさせますs。

誘惑に負けるもう一つの理由があります。いわゆる、誘惑に抵抗するために生じる苦しみと疲労への恐れがあります。しんどいから、苦しいから、この戦いが難しいから、誘惑に負けることにしてしまうことです。

苦行は、誘惑との戦いに鍛えるための訓練です。少しずつ、意志は苦行によって鍛えられて強くなっていきます。そして、天主の恩寵によって霊魂は誘惑に対して剛毅となっていきます。

このように、自分の聖化のためにも同じようなことがあります。よりよく聖化していきたい、聖徳を実践していきたいと思っていてもつい、怠けてしまう、聖徳の実践が難しいからといって、のんびりとなってしまうようなことがあるでしょう。

聖徳の実践で足もとがすくわれることがある時、誘惑に対する戦いとの同じ二つの原因があります。それは遊楽、この世の喜びなどへの愛着、または十字架に対する恐れです。ですから、常に苦行がどれほど役立つかを思い起こしましょう。

聖テレジアが最期を迎えた時、また次のことを述べました。「私は大きく苦しんだ。霊魂たちにそのことを知らせよう。」

はい、確かです。聖テレジアはこの世で非常に苦しんだのです。多くの苦行をも果たしました。その結果、聖テレジアは次のように明かしてくれます。「この世で過ごせる最高の幸せな人生を送ってきた」



聖パウロも書簡で同じようなことを述べておられます。「私は慰めに満たされ、どんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント人への第二の手紙、7,4)

はい、苦行のおかげで、試練のおかげで、天主の子になる本物の自由を取得できることを知っている恩恵を我々は受けています。一番最高の喜びはこれらの試練から得られる天主の子になる自由をもって行う善業にあります。

ですから、よくよく思い出しましょう。苦行は必要不可欠です。また苦行は悲しいことではなく、むしろ、霊魂に多くの喜びを伴わせます。

ですから、我らの主にも、聖母にも、聖テレジアにも、毎日、多くの小さな苦行を果たせるようにと希いましょう。そうすることによって、毎日、いつも、どんどん我らの主、イエズスに倣えるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない

2022年09月18日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



G.Billecocq神父の説教
2022年8月14日 
霊は同じである(コリント人への第一の手紙、12、2―11)
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、本日の書簡において、聖パウロは「カリスマ」と呼ばれる賜物をリストアップしてあります。天主より無償に与えられているもろもろの恩寵をさしますが、これらの賜物は隣人の善と教化のために与えられる賜物なのです。

しかしながら、このような恩寵のリストを記しながら、聖パウロは一つの重要な真理を述べています。「霊的な賜物は異なるが霊は同じである。」「これらすべては唯一の同じ霊がおこなうことである」と。

カトリック教会は一つの「社会」であるという真理は聖パウロが思い起こさせてくれます。カトリック教会は我らの主イエズス・キリストによって制定された社会です。これは信条です。つまり啓示されて、信じるべき信条であって、これを信じなければ異端者になるということです。言いかえると、カトリック教会はイエズス・キリストによって制定された社会であることを信じない信徒は異端者となり、つまり信仰を失ったということになります。



教会は社会になっているのですが、なぜでしょうか。答えは単純です。聖寵とは我々の本性(人間性)を基にしているからです。そして、人間の本性には人間が社会的な存在であることがあります。

要するに、人は必ず社会において生きています。生まれながら社会の内に生きています。人間の特徴ですし、自然なことです。否応なしにも、人なら、必ず家族という社会の内に生まれ、その世話と成長のために必要としています。そして、人の成長、完成化も社会の内に行われています。生きるためにも(食衣住)善く生きるためにも(道徳を実践して一人前の人になる)、社会を必要としていて、社会のお陰で生きるためにも善く生きるためにも必要とすることを得られます。

言いかえると、アリストテレスの言葉を借りると、本性次元の真理になりますが、「社会で生きることのできない者は動物であるか天使であるか」と言います。要するに、人間は社会的な動物なのです。



我々の本性をも創造し給うたゆえに我々の社会的な本性という現実を誰よりも知っておられるので、我らの主イエズス・キリストは救いの船なる教会を制定なさった時、社会として制定なさいました。

このように人間は生まれながら社会的な存在なので、この本性に相応しい制度を制定し給い、よく育まれた本性はさらに超自然の次元において聖寵の命の成長も社会を必要としています。

このように、人は同類抜きに生きていけないわけです。聖パウロは書簡においてこのような単純な真理をも示してくれます。各人は異なる賜物があります。皆、異なって、皆の強み、性格、能力が異なるお陰で、お互いに助け合って社会的な生活を営むのです。人は人なので、同類抜きに生きていけない現実です。

真の人なるイエズス・キリストですら、この現実を経験することになさいました。我らの主、イエズス・キリストはこの世に来給い、使徒たちからなる共同体の内に生きておられました。このように、社会的な生活をイエズス・キリストはあえて経験することになさいました。このように、社会における生活による悩み、苦労と困難などをも経験しておられました。

はい、社会に生きていて苦労、悩みと困難もありますが、本来の秩序が乱れた罪の弊害によるものですが、我々の本性に刻まれる「人間の社会性」なので、人間にとって人間の成長と完全化のために必要不可欠な事柄だと忘れてはいけません。

カトリック教会は社会です。このように、キリスト教徒なら、いわゆる単に人間としてだけ社会で生きなければならないのではなく、キリスト教徒としても教会という社会で生きなければならないということです。

以上のような事実より発生する帰結は何でしょうか。カトリック教会の実際な営みについて何が見えるでしょうか。自然社会と同じように、超自然社会なる教会においても、各位はみんな、異なる賜物を以て、お互いに奉仕しあうことによって成り立つということです。

自然社会には皆、異なる仕事などをすることによって、お互いに助け合って補い合って、一定の調和ができるようになって、「社会」として成り立つわけです。超自然の社会においても一緒です。

親愛なる兄弟の皆様、超自然の社会においても賜物は各位に不平等に与えられています。社会の善のために、それぞれ皆、異なる賜物があります。ある人は敬虔徳の賜物があったり、ある人は涙の賜物があったり、またいろいろ与えられたりします。聖人の人生を見ていくと、聖人も霊的な賜物をもったりします。そして、各聖人には異なる賜物があります。時代のニーズとその使命次第に賜物は与えられています。これらの賜物は隣人のためにあるわけです。



いとも親愛なる兄弟野皆様、この真理は重要です。異なる賜物は隣人のためにあるわけです。我々はキリスト教徒としても社会的な存在です。霊的な賜物は隣人のためにあって、奉仕しあうためにあり、お互いに助け合うためにあります。

ガラツィア人への手紙において、聖パウロは以上の真理をよく述べてくれます。毎日の日課聖務で祈ります。
「Alter alterius onera portate(互いに重荷を負え)」(ガラツィア人への手紙、6,2)つづいて「et sic adimplebitis legem Christi(そうすれば、あなたたちはキリストの法をまっとうできる。)」ですから、超自然の社会の内によく生きていきましょう。

親愛なる兄弟の皆さま、よくある話ですが、我々の内にも時々、にらみ合うことがあるでしょう。妬みの念で見るか、苦々しい目でみるか。それはなくても、ほぼずっとあるのは、自分にない、隣人にある欠点を見出す破壊的な目線はよくあるでしょう。

このように、誰にも隣人を評価する、裁く傾向があるでしょう。要するに、隣人の欠点、弱みを見て、消極的に隣人を見比べる傾向が時にあるでしょう。

親愛なる兄弟の皆さま、欠点よりも隣人の強み、長所、美点を見ることにしましょう。超自然の長所も含めて。隣人の短所に止まらないでおきましょう。隣人の霊魂に天主より付与された善を見ることにしましょう。これが重要です。所詮、隣人の長所は隣人の長所であるというよりも、天主が付与し給った賜物であり、皆に奉仕するための賜物であると知りましょう。

言いかえると、皆一人一人は何らかの形で隣人のために奉仕することがあります。しかしながら同時に、裏を返せば、どの隣人でも私のためにもたらしてくれる超自然な善があるということです。

このように、超自然の生命で生きていくなら、隣人と一緒に生活していく義務があり、隣人を愛する義務があります。また隣人にある賜物をも評価して、これらの賜物による善を享受して、自分が持っている賜物を隣人のために使う義務があります。

我々は義侠の騎士ではありません。また、我々は破門を宣言する者でもありません。特に隣人がカトリックなら、あっさり破門のような発言をすることも見られますが、それはよくありません。

親愛なる兄弟の皆様、カトリック教会では超自然の次元で、お互いに奉仕しあう義務があるので、「個人主義」というようなものはありません。

有名な諺でご存知だと思いますが、「独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない」と言います。確かにそうなのです。

「独りで救われることもなければ、独りで地獄へ落とされることもない」

カトリック宗教は個人事業ではありません。隣人に対して無関心で個人だけ、自分だけの救いを考慮するような宗教ではありません。個人主義的なこのような宗教はプロテスタントが齎した要素です。教会の位階制を否定したことによって、プロテスタント主義がはじめて純粋な個人主義、個人至上主義をもたらしました。(近代の始まりでもあります。)

言いかえると、プロテスタント信徒は天主と個人との一対一だけの関係となり、隣人は排除されます。隣人への愛徳の施しが中断されて、また秘跡を通じて司祭職が齎す恩寵をも拒むプロテスタントの態度で、その結果、霊魂へ恩寵の注入は拒まれます。超自然上の人間社会性は否定されます。

だから、秘蹟は社会的な儀礼であるので、プロテスタントになると、秘蹟は否定されるのが必然です。司祭などの必要も人間の社会性から生じるので、超自然上の人間社会性が否定されて、司祭職も位階制も否定されるのが必然です。ミサ聖祭もこの上なく社会的な(古典的な意味での)政治的な儀礼なので、プロテスタントになると、それが否定されます。プロテスタントになると、天主との一対一の関係への一切の介入、奉仕、助けは排除されます。

このようにプロテスタントは宗教上に個人主義という毒を入れましたが、時間に連れてこの個人主義は政治社会、世俗社会へ広まって、現代に至って全社会は個人主義という癌にかかっています。

残念ながらもカトリック教会ですら、この病にかかりました。「近代主義」と呼ばれる誤謬によってです。近代主義の誤謬は悪狡いわけです。なぜなら、カトリック教会の位階制自体は正面から否定されていません。つまりカトリック教会が社会であること自体は否定されていません。それは教義を正面から否定するようなことであるので、すぐ異端になったでしょう。

近代主義の誤謬はいわゆるカトリック教会という社会の目的を敢えて変えることによって有害です。本来ならば、カトリック教会の目的は霊的な共通善のために存在するのですが、近代主義が言っているのは、共通善のためではなく、個人個人のために、個性のためにだけあると言います。

位階制などは、指導者などは、個人の前に去らなければならないという空気になって、本来社会秩序を逆さまにされています。本末転倒です。民」が支配していて、「民」の下に指導者たちがいるかのような「逆さまになったピラミッド」となります。

親愛なる兄弟の皆様、本日の書簡を真に受け入れて、我々宛に書かれたとして受け止めましょう。つまり、この書簡に語られている事実をよく認識して受け止めて、教会内を含めて社会的な生活を営む必要をよくしりましょう。そして実践しましょう。

ミサ聖祭に与るのも、小教区に属するのも、自分自身のためだけではありません。お互いに奉仕し合うためでもあります。要するに皆全員は同じ霊の指導の下に、同じ信仰の下に、同じ天主の下に、それぞれ異なる賜物があってこそ成り立つのです。このように我々の教会、小教区、カトリック的な社会の豊かさがあります。みんな、同じだったら何もできません。

そして、このような豊かさをこの世にも齎す義務があります。聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


聖母マリアの栄光|なぜ聖母だけに被昇天の特権が与えられたか?

2022年09月11日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



マリアさまに栄光あれ!
ビルコック神父様(G.Billecocq)のお説教  
2022年8月15日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、本日、被昇天の祝日で天でのマリア様の戴冠式をも祝い、マリア様の凱旋と栄光をも祝います。

いとも聖なる童貞マリアは、霊魂だけではなく、身体と霊魂とともに一緒に天に昇る名誉を受けたのはなぜでしょう?またこの特権をもったのはなぜマリア様のみだったでしょうか?

霊魂と身体とともに天に行った方は教会によって定められた信条では聖母マリアだけです。無原罪の聖母で、天主の御母になる使命が与えられました。真の天主、真の人なるイエズス・キリストを産むために聖母マリアは創造されました。このように聖母マリアは人としてイエズスの母です。同時に、イエズスは一つだけの位格をなしますので、人としてのイエズスの母であったら、天主としてのイエズスの御母にもなります。これは信条で、信じるべき真理です。

このようにマリア様の栄光はこの世におられた時からありました。マリア様の栄光は天主の御母であることにあります。
このように、無原罪とご降誕との賜物、特権が与えられた聖母マリアなので、聖母マリアの身体は特に高められることは相応しかったです。御母のために最高の名誉をイエズスが与えられて、イエズスと一緒に身体をもったまま、聖母マリアは天に昇らされました。

聖母マリアは、身体をもって天に昇られました。天で地上にてすでに霊魂において享受していた賜物をもって戴冠しました。地上の聖母マリアの栄光は慎み深いので、目立たないかもしれませんが、ご訪問の際、エリザベトははっきりと聖母マリアの栄光を讃えます。

一生、聖母マリアが天主と一致してきた報いとして、被昇天がありました。天主と一致しておられるのは、天主の御母であるからだとはいうまでもありませんが、さらに、カルヴァリオ丘まで御子に従ったからでもあります。十字架の下に聖母マリアは立っておられました。霊魂においてイエズスの御苦しみに一致して苦しんでおられました。



このように聖母マリアは栄光に満たされることが相応しかったのです。
親愛なる兄弟の皆様、本日、聖母マリアの栄光を祝いますが、聖母マリアの栄光はまたイエズス・キリストの栄光でもあります。なぜなら、母の栄光はもちろん、子へもおよぶからです。聖母マリアの栄光はイエズスの栄光でもあります。

被昇天を果たし、天でイエズスは聖母マリアに冠を与え給うことによって、御自分が果たされた御托身、ご受難とご復活の凱旋を思い知らせ給うのです。

我々はイエズスの凱旋をよく知っています。十字架上の御死によって、罪を贖い、霊魂を買い戻されました。十字架上の御死によって、我々のために天の門を開け給い、決定的に悪魔に打ち勝たれました。

イエズスは以上の各玄義に聖母マリアの賛同を赦し給いました。御托身ならわかりやすいですね。聖母はイエズスの御母ですから。
しかしながら、ご贖罪の玄義もそうです。聖母マリアは共同贖罪者になる特権をイエズスは与え給いました。というのは、聖母マリアはイエズスが果たされた贖罪の玄義とすぐ近くにおられて、密接に御子の贖罪の御業と共同されました。言いかえると、罪と悪魔の支配に打ち勝つ凱旋とも聖母マリアは密接に共同されました。

このように、聖母マリアの栄光はイエズスの栄光でもあります。

また、聖人の序誦にもあるように、「天主は聖人に与え給うた賜物をもって御栄光を増やすことを好まれる」。
このように、天主は聖母マリアに与え給うたすべての賜物も聖母マリアと一緒に被昇天し、戴冠されました。

聖母マリアの栄光はそれだけではありません。聖母マリアの栄光はイエズスの栄光ですが、逆も、イエズスの栄光は聖母の栄光でもあります。

イエズスの聖心と聖母の汚れなき御心は離れられないように聖母の栄光とイエズスと栄光は密接につながります。

しかしながら、さらにいうと聖母マリアの栄光は我々の栄光でもあります。聖母マリアは我々カトリック信徒の母であるからです。ですから、聖母マリアの養子なる受洗者、我々に我が母の栄光は及ぶのです。十字架上のイエズスが聖母マリアに聖ヨハネを指して「あなたの子である」と仰せになった時、聖母マリアにすべてのカトリック信徒たちを養子として託し給いました。

このように、洗礼によって聖母マリアの養子にもなります。これを表す敬虔な慣行が洗礼式の時にあります。洗礼の後、親は幼児を聖母マリアに奉献する慣行がよくありますが、それはまさに、以上のことを表します。

ですから、我々、皆は聖母マリアを母として仰ぐのを誇りにしましょう。これほど罪のない母、美しき母、清き母、貴き母、偉大な母、多くの賜物を持つ母ですから、親愛なる兄弟の皆様、この最高の母を持つことは我々の誇りです。

被昇天の祝日であるのでなおさらのことですが、我々の母を誇りにしましょう。聖母マリアの栄光はすでにこの地上で我々の栄光になりますし、この栄光は天での栄光の前幕です。

霊魂と身体と共に昇らせられた聖母マリアは我々の蘇りと被昇天の道を案内してくださいます。世の終わりに天で身体と霊魂とともにおられる霊魂は霊魂と身体において至福を得ることになります。

親愛なる兄弟の皆様、聖母の栄光はなぜ我々にとってこれほど立派でしょうか。カトリックの栄光でもあるからです。唯一にカトリック宗教は聖母マリアという無比の母、いとも力のある母、いとも慈悲深い母を与えてくれます。

ですから、聖母マリアの祝日は年間、多くあります。通年、あります。毎月あります。聖母マリアを祝う日が来るたびに、キリスト教徒である誇りを再び思い起こす機会になるように。我々が天主の子である誇りを再び思い起こす機会になるように。そして我が母の下に天に行きたい念をさらに励む機会になるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

皆さん、家族を守れ!

2022年08月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ブべ神父様(J-P.Boubée)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



皆さん、家族を守れ!
ブべ神父様(J-P.Boubée)のお説教  
2022年8月7日 

Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、本日の福音において、イエズスは泣きだされます。イエズスは我々の人間性を共有しておられますので、人間の感情をも持ち、泣くことができます。しかしながら、福音においてイエズスが泣いておられる場面は少ないのです。それぞれは人間の目から見ると感動的であると同時に、高度な霊的な意味もあります。

福音において記されているイエズスは泣いておられる場面は次の通りです。ラザロの死の際です。御受難の始まりごろ、ご苦悶の際もです。この時、人々のすべての罪を負うことになることを控える時です。

そして、本日の福音において、石から創られている要塞、エルサレムのために泣いておられます。エルサレムは旧約聖書の最高の象徴となります。エルサレムこそは多くの希望の集まり、戦いの切っ掛けとなり、また恐ろしい天罰の切っ掛けにもなってきた要塞です。

ある時、強制的にその住民は移住されて破壊されたし、またその後、復興されたりしたエルサレムです。要するに、エルサレムは旧約聖書における天主の御約束の対象でした。物質的な御約束の対象でした。その御約束の成就はイエズスの御托身の準備のためにヘブライ民の心構え次第であって、その次第で、エルサレムの盛衰が決まりました。



しかしながら、この御約束はむなしくなり、それにヘブライ民は値しなかったのです。これを知っておられた我らの主、イエズス・キリストは泣きだされた所以です。

重用なのは、物質的な約束、繁栄などのすべては、霊的な目的のためにあることにあります。霊的な目的に従属していることにあります。そこにエルサレム、神殿などの存在理由があります。

例えば、神殿について考えましょう。天主はこの神殿の建築を重視し給いました。ソロモン王は建築を果たしましたが、天主はその建築をダヴィド王に与えることをお拒みなりました。ダヴィド王は天主の最愛の王だったのにということです。天主はダヴィド王を直接に選抜して、多くの恵みを与え、イエズスはダヴィド王の子孫の内に生まれるという預言をもなさいました。それでも、ダヴィド王は多くの戦争と戦いをやらざるを得なかった結果、かれは多くの血を流したので、天主はダヴィド王が神殿を建てるのは相応しくないと判断されました。

そして、ダヴィド王の息子、ソロモンが即位すると、最初は神殿の建築にとりかかりました。宮殿でもなく、他の仕事よりもまず、神殿を優先的に建築に全力を尽くされました。なぜなら、エルサレムという要塞が天主によってヘブライ民に与えられた理由は、天主の栄光と礼拝のためだったからです。天主の家を建てるためでした。あらゆる物質的な存在は天主のためにあり、天主を目的にされているのです。

ご存じのように、新約聖書の教会はもはや特定の民族、特定の国、特定の領地でなくなり、普遍的となりました。要するに、カトリック(普遍的)という称号があたえられているように、カトリック教会はすべての人々のためにあり、だれでも入れて、皆が入るように誘招かれています。そして、時代、文明、民族、国々を問わず、カトリック教会はどこでも根を下ろせて、普遍的な教えを特徴的な一つ一つの文明、一人一人へ伝えられるように制定されました。

カトリック教会こそは国々の砦となりました。目に見える壁と物質的な要塞はないとしても、霊的に国々の要塞となりました。カトリック教会という要塞の基盤は武器でもなく武力でもなく天主の恩寵にあります。そしてこの要塞の前哨は我々一人一人の肉体をもった人生に他なりません。
このように、カトリック教会、即ち天のエルサレムの建築のために、我々は全力を尽くし、その要塞を守り抜くべきです。

地上のエルサレムは天のエルサレム即ち普遍的な教会、カトリック教会を象徴する前兆でした。天主はすべての人々を天のエルサレムへ入るように呼びかけてくださいます。あとはそれぞれの答え次第です。
天主はすべての人々が霊的な要塞なるカトリック教会に一緒になって悪魔から守られるようにお望みです。

このように霊的な要塞でありながら、地上では具体的に石を持つ要塞です。まず、我々一人一人が要塞の一個一個の石となります。しかしながら、さらにいうと、これらの石はどのように秩序化されて、調和的に一緒に天主のみ旨のままに動くかによって、要塞の建築が強く弱くなります。規律正しく、要塞、即ちキリスト教の価値基準、掟、秘蹟を守る程度次第で、天のエルサレム、カトリック教会の盛衰は決まります。

それぞれの石即ち我々一人一人は違う意志で、特定された役割をもちます。皆、教皇になるような、国王になるような使命は与えられていないわけです。それぞれはその分をわきまえて、要塞を守り抜くために、与えられた砦をしっかりと守り抜く義務があります。
そして、天の要塞を築くためのそもそもの基盤、最初の砦はカトリック家族に他なりません。このように、我々は我々の家族、キリスト教の家族を全力を尽くして守り抜くのは重要です。

昔は家族を守るために、国境までいって敵国と戦うことがありました。
キリシタン文明圏は最盛の時代に至った時でも、カトリック教会は最盛だった時でも、家族を守るために国境ではなく、遠地で敵を追い出すことがありました。キリシタンを奴隷化して、虐められた遠地へ赴き、どんどんひどい目に合わせられた古いキリシタンの共同体を助けるべく、イエズスの御墓を守るべく、多くの騎士などは十字軍に参加しました。聖地への十字軍はもちろん一番しられていますが、他にも多くの十字軍があります。キリシタンを守るためなら十字軍と言います。レパント海戦は十字軍であり、レコンギスタも十字軍であり、ヴィエナでの戦いも十字軍であり、カタリ異端との戦いも十字軍です。

これらすべての十字軍は我らの主、イエズス・キリストが統治するように行われたのです。
また、もちろん、これらの遠地の十字軍ができたのも、深くキリスト教的だった社会の元気力を示します。
現代なら、昔のように内外の国境があるよりも、ペギーの言葉を借りたら、敵はどこでもいるわけです。国境は我々の内に移動したかのようです。もはや武器を取って国境までいって国を守るようなことがなくなって、守り抜くべき国境は我々の内でもどこでもあります。
世の終わりの時代の一つの特徴はそこにあります。まはや内外の区別、味方・敵の区別が曖昧になる時代です。

さて、キリスト教の要塞のためになぜ戦うべきでしょうか。戦わなければ、少しずつ、要塞が崩れ始めて、多くの霊魂の回心を助ける恩寵や力を失うからです。

この世で、この宇宙では、あらゆる被創造物は生命のために存在します。生命、命、元気力のためにすべて整備されています。生命を伝えて、広めて、保って、運ぶために、被創造世界のすべては創られています。
三位一体なる天主は生きている神であることを示すためかのように、被創造世界のすべては生きるために存在します。

そして、自然上と超自然上の生命の成長のために必要不可欠な母体は家族です。家族こそは自然上の生命と霊的な生命の成長のための第一、最初の母体です。

ご覧のように、サタンに渡された、革命的な現代社会において、家族は絶えまなく攻撃されています。法律によって、すべての家族は責められています。もちろん、カトリック教会という大家族も攻撃されて、霊的な生活を妨げるために、破滅するためにあらゆる手段は行使されています。
そして、家族という社会の基礎的な細胞は激しく攻撃されています。

家族はまず、婚姻制度の本来の姿を壊すために激しく攻撃されています。このように、革命的社会は全力を尽くして、人々は天主がお望みになる婚姻を結ばないで、事実婚というか、内縁関係を正当化して、それを促すわけです。また、結婚する前に、試しに同棲させるような空気を革命的社会は促しています。要するに「動物のようにせよ」といわれて、この悪習は普及しています。現状です。そして、人々はいつのまにこのような状態に慣れてきてしまいました。

自称結婚と呼ばれているわけの分からない「関係」はいま何でもありというようなことになり、このままになると、ペットとも、ロボットとの「結婚」も認められそうですね。何でもありですね。堕落には限りがないのです。

離婚も同然です。離婚は許可された時から、婚姻制度を目茶苦茶にさせて、実に多くの家族を爆発させていきます。
婚姻が秘蹟になっているのはたまたまではありません。このぐらい家族をイエズスが愛されて、守ろうとしておられる砦で、男女の別などを考慮し、それぞれの分をわきまえた相応しい婚姻制度を制定なさいました。

だから、我々は不完全な人間であることすら、これらの不完全性の故に、喧嘩、争いなどがもちろんいつまでもありますが、恩寵と堅い婚姻制度という盾に頼らないで、離婚という制度の結果、それぞれの状況をより悪化させるわけです。解決を難しくするのです。

また現代の家庭内の風俗をご覧ください。ポルノなどの普及によって、若い時から子供たちは悪行に慣れてきています。学校での「性的教育」とは子供を堕落させて、動物にさせる「教育」に他なりません。
どこでもこのような不潔な絵、アニメ、映画は過剰にも流されて、外でも子供をはじめ、皆は攻撃されています。

建前に、法律上、厳密に言う酷いポルノは禁止されているはずだが、それはただの故実になっていることは見え見えで、そのあたりの悪魔の覇権は著しいです。また、このような不潔な報道などを止めさせようとする人々が登場すると、玉条なる「表現の自由」にかこつけて、これらの努力は無に帰させることが少ないです。

家族は以上のように制度として攻撃されています。またその風俗も攻撃されています。しかしながら、この上に、家族の構成員も攻撃されています。
父の使命と母の使命、それから子供の立場を破滅しようとする法律は無数ほどあります。女性の男性化のために現代の社会は全力を尽くします。男性のように女性を無理でも働かせて、家庭から離れさせて、また服装などもそうですし、なるべく男性が果たすべき仕事、業務をあえて女性に与えさせるような政策ばっかりです。

また、男性の女性化も図られています。男性らしさは常に馬鹿にされていて、否定されているあまりに、男性は男性らしくさせないための政策と空気が作られています。男性は常に身を屈して、妥協して、負けるかのようにさせるためです。

以上のような労働政策の結果、女性が働くようになって、男性の無職率も増えて、そのプライドも傷つけられて、精神的に弱虫になって、常に不安の内に生きて、自分が父らしく家庭のために働けるか自信がなくなったりします。

経済学をやった誰でも知っているかのように、無職とは単なる調整のためのファクター、様子に過ぎないかのように扱われています。
経済学を見たら、肉体の人間、家族は完全に無視されています。成長率は目的となって、一つ一つの家庭の生計を守るための経済なんかはもはやなくなりました。

社会が必要としている男の特別な使命の破滅のせいで、社会の絆が崩れて不信に陥ていって、次世代の毅然さを育てられなくなります。

子供も同然です。最近の子供は生意気で、親の言うことを聞かないで、王様であるかのように何でも子供の言いなりになるような空気になります。それは子どもの権利、あるいは児童虐待を防ぐといった故実が利用されて、家族の破壊は計られています。

いままで、家族への攻撃について申し上げたのは、その婚姻制度、その風俗、その構成員への攻撃でしたが、一番弱い構成員について、まだ触れていないのです。
家族が天主によって制定されたのは、一番弱い家族の構成員を守るためです。新しい霊魂を産み、生命を伝えて、親を継承していって、また新しい生命を産むために家族は制定されたわけですよ。このように代々の生命は繋がって引き継がれて継承していきます。自然上の生命、超自然上の生命の継承も両方です。堕胎の合法化はそれを破壊するための 最悪の政策です。

現代社会は以上の家族制度のそもそもの目的を破滅しようとします。
現代なら、家庭という聖域へどれほどの不潔な画面、動画、音楽が入り込んで、親が何もしないでその侵略を黙認しているでしょうか。外での攻撃よりも大変です。家庭の門を開き、悪を誘い込むような行為です。



昔話をさせてください。60年代のはじめぐらい、テレビがはじめて登場する時代でしたが、当時、すでに多くの人々は警鐘を鳴らしました。「ほら、本当に考えたのか。毎晩、知らない人、しかもその道徳が怪しい人、知識があまり頼れない人、判断力もそこまでの人を毎晩、自分の食事のテーブルに誘ってもよいのか。また、この「客」がうるさくて、ずっとずっと主役であるかのようにふるまって、家父であるかのように家で教えられていることについて何でも決めて、家を占領する人を家に入れてもよいのか」という警告でした。

家にテレビを置くのはそれに値する行為です。これは60年代の最初の頃だけの警告でしたよ。今のようなインタネット、画面、CM、出鱈目の番組などはまだ存在しなかったごろですよ。
現代、子供の手に危険な携帯電話なり、ゲーム機なりを与えて、子供はかってに何を見るのかゲームするのかを決めてしまうようになっています。
いずれも、価値のないことばっかりで、バカげたことばっかりで、卑しいことばっかりで、醜いものばっかりです。

このように、父母の代わりに、無資格者が家庭へ入り込んで、ボスであると自称宣言して、父母の代わりに子供に教えているに同然です。
父母はその責任を果たされなくなって、その代わりに、これらの機械を通じて、無名の悪魔たちは子どもを「育てています」。

さて、以上は厳しく描写したかもしれませんが、残念なことに現実です。なぜこれを改めて強調したでしょうか。

考えてください。我らの主、イエズス・キリストは単なる石からなる要塞であるいエルサレムのために泣いておられたのなら、エルサレムよりも重要であり、キリスト教的である小さな霊的な要塞なる我々の家族を見て、どれほどイエズスは泣いておられるでしょうか。

ですから、我々は踏ん張って戦うべきです。イエズスの涙が流されないように戦うべきです。
我らの主の我々への教訓をよく理解しましょう。キリスト教的な家族を築いていきましょう。天主によって制定された婚姻制度を愛して守りましょう。結婚するために、同じ信仰、同じキリスト教的な目的がある相手を選びなさい。家族での祈りを説くに大切にしましょう。

フランスでは時にある傾向があって、何か祈りはちょっと恥ずかしいので、それぞれですればよいというところがあります。もしかしたら幼い子供と一緒に親が祈っても、子供はちょっと大きくなったら、家族の祈りに参加しなくてもよいような場合もあります。もう大きいので、自分で祈れるしという故実ですが、多くの場合はそれはないのです。

我々の家族を大切にしましょう。我々の子供を恩寵の源なるイエズス・キリストに導きましょう。告解、御聖体拝領、ミサに子供をつれていきましょう。平日のミサを含めて連れていきましょう。

聖域なる家族を聖域らしく築いていきましょう。また天の要塞の前哨なる家族を守りぬくのは当たり前であるはずです。

ご存じのように、要塞を制覇するために、まず前哨を落とすものですから、家族を守り抜くことによって、天の要塞も守られています。
聖ジャーヌダルクはオルレアンを落とすために、まず前哨などを落としました。これらの前哨は要塞を守るためにあります。

しかしながら、家族という要塞にもさらに前哨があります。これらの前哨はなんでしょうか。聖伝系の学校です。小教区と小教区の公教要理です。小教区にあるキリスト教的な少年団体です。これらの前哨はあなたたちの家族という要塞を守るために助けとなります。

完全に独立した形で小教区にも共同体にも誰に頼らないでやっていけるだろうと思うのは幻想です。もしも、前述した無資格者を家に入れたらもうおしまいです。だから、守り抜きましょう。小教区の共同体上の生活、運動、少年団体などなどを一緒に守り抜きましょう。全力を尽くして家族を守り抜きましょう。

家族という要塞は闇の王によって狙われています。なぜなら、家族という要塞を落としたら、それによって、全破壊を実現させうることを悪魔は知っているからです。

家族は天の国の基本石なので、その基本石を壊して、全体が揺るぐからです。家族が破壊されたら国は脆くなります。

家族を守るために、家族での祈りと風俗を守るだけではなく、前哨を守るだけではなく、もう一つ、家族を守る重要な武器を大切にしましょう。平和と喜びです。時には忘れがちですが、平和と喜びを家庭内に何よりも大切にしましょう。

一緒に家族で過ごせる時間を作りましょう。主日の休日は大昔からあっていいことです。家族の日でもあります。ですから、定期に家族と一緒に過ごして、また子供は家庭にいることを喜んでいることを望みましょう。大切にしましょう。全力を尽くしましょう。
食事を家族で取って、いくつかのことで喜びと平和と強くしましょう。

「平和のために励む人は幸せである、我らは天主の子らと呼ばれるであろう」(マテオ、5,9)
平和は秩序の帰結です。
聖心へ家族を奉献しなさい。そのために遠慮なく司祭に頼んでください。聖心への家族の奉献は重要です。最初は司祭を呼ぶのは難しくても、司祭抜きで奉献できますので、奉献して、しばらくしたら、聖心の御絵、ご像を祝別するために司祭を読んだらいいですし。

聖心は愛徳です。愛徳から喜びに繋がります。喜びから平和に繋がります。しかしながら愛徳の源は我らの主、イエズス・キリストの聖心であるから、それを基にしたら、あなたたちの家族は本当の意味で喜びと平和の裡に過ごせて、正しい道を歩むことが可能となります。一定の幸せも得られるでしょうが、それよりも、安定的に教育できて、一人前のキリスト教徒を育って、天国に行けるための最善が尽くされるでしょう。

また子供によく思い起こさせましょう。天主に感謝しなさいと。家族がいて、洗礼を受けていて感謝しなさい。全家族が良いキリスト教徒という恵みがあったら、さらに感謝しなさい。現代ではこれほどの恩恵を仰いでいる家族はすくないのです。ちょっと前まで、このようなことは凄い恩恵であることすら、誰も予想もできなかったのに。

ですから、聖寵の内に、祈る精神の内に生長しなさい。家族の聖徳を育みなさい。なぜなら、家族こそは庭であって、土であって、そこにすべての実りが植えていきます。教会は家族の上に育たれています。



ですから、安心しなさい。恐れることはありません。天主の御慈悲に任せて、自分なりに全力を尽くせばあとは何とかなります。聖家族へ特に祈りなさい。聖ヨセフへの信心をも大切にしなさい。聖ヨセフはすべての父、労働者、清貧を実践する者の保護聖人です。いとも聖なる童貞マリアによく祈りなさい。聖母マリアは我々を憐み、愛してくださいます。聖徳をも見守ってくださり、助け給います。

イエズスは我々の模範になるように。子供の模範になるように。
聖家族のご像なり、み絵なり、家の中心のところに置きなさい。あなたの家族の統治者であることがよく示されるように。そうすると、聖家族はあなたたちの家族の模範であることが常に思い起こされて、多くの聖寵を受けるでしょう。

このように、なぜ我らの主は泣いておられたかについてご理解いただけたとおもいます。
われわれは個人個人ではなく、要塞の内の一員であり、共同体の一員なのです。
我々は恩寵を必要としています。また基礎共同体を必要としています。平和なる共同体なる家族を必要としています。
このように生命が生まれて継承されるだけではなく、恩寵なる生命も継承されるために必要なのです。皆、一人一人は永遠の命に至るように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン