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「愛徳」―完全な愛徳と不完全な愛徳  【公教要理】第八十五講

2020年02月23日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十五講 天主に対する愛徳


前回見たように、愛徳とは「愛の源なる天主のゆえに、限りなく愛すべき天主へ直接に繋がらせ、向かわせる」対神徳です。
愛徳はただ一つですが、二つの側面があります。愛徳によって天主を深く愛すべきであるということと、愛徳によって隣人を愛すべきであるということです。

第一に、天主を深く愛すべきであるということ。これは一体どういう意味でしょうか。天主を愛するとは一体どういうことでしょうか?「愛」という言葉が非常に頻繁に使われるようになりました。残念ながら、一般に使われる「愛」という言葉は濫用されていて、キリスト教の愛とは全く違ったものになってしまっています。何もかもが、もうそれが意味不明になるほど、「愛」と呼ばれているのは理不尽なことです。その結果、最近教会においてでさえ、「天主の愛」という言葉がとんでもなく理不尽なことを意味するかのように使われることも少なくありません。

そこで、天主への愛を助ける「愛徳」について、じっくりと説明する必要があるように思われます。
では、天主を愛するとはどういう意味でしょうか?そして、「愛」とは一体何なのでしょうか?

愛の定義は「意志による愛情」とされます。言い換えれば、「愛する時」には、意志による行為が実行されます。愛するのは意志による行為です。当然ながら、それは感覚による行為でもありうるのですが、天主は純粋に霊的な存在なので、感覚よりも、意志を中心に「愛する」という行為です。ところで、愛徳という対神徳は、(感覚においてではなく)意志においてこそ備わる徳です。要するに、愛するという行為は「意志による行為を実行する」ということです。

あえて言えば、「愛する」という行為は「実行しようとする」意志の行為そのものだといえます。それはなぜでしょうか。意志を持つとき、「実行しようとする」時は、当然「善・益を望む」という意志を持つことになります。なぜ、当然に善を望むのでしょうか。それは、善を得ること、つまり自分にとっての善・益を享受することですから善を望むのです。自分を愛しているため、自分のために善が欲しいゆえに、善を望んで善を愛するか、あるいは、その善自体が良いものだとわかったから愛するほかないと信じて愛するか、のどちらかです。

したがって、自然に意志を持つ時とは、「何かが欲しい時」、「何かを望む時」であって、同時にその何かを愛するのです。ですから、意志による行為が愛する行為なのです。要するに、「愛する」というのは意志による愛情なのです。
天主を愛するとは何でしょうか?それは「意志による愛情であり、その意志の行為によって天主を愛する」ということです。

そして、天主を愛徳によって愛するというのは、創造主あるいは恩人としてだけ天主を愛するのではなく、それに加えて、父として、究極の目的として天主を愛するということです。そのため、愛徳による愛とは「意志による愛情であり、その愛情によって、この上ない最高の善として、また究極の目的として、天主へと向き、言い換えると、天主に結び付き、天主ご自身を愛する」ということです。

天主はこの上なく愛すべき存在で、この上ない最高の善です。そして、この上ない善であるということは、この上ない目的でもあるということです。言い換えると、究極の目的だということです。
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前回ご説明しましたように、愛徳による愛は、友人愛の一種です。それはどういう意味でしょうか。
そもそも、愛には二つの種類があります。一般的には、愛は親切愛(あるいは厚意愛)と現世欲愛との二つの種類があります。親切愛というのは、その語自体が示すように、「相手の善を望む」という愛です。厚意のゆえに、思いやりのゆえに、相手の善だけを望むという愛です。親切愛は、愛している人の善だけを望むのです。

他方、現世欲愛は、「自分の善を得るために」生じる愛です。言えば、現世欲愛は「自分中心」だといえましょう。自分が得る善が最終的な目的なのです。エゴイズムと似ているかもしれませんが、現世欲愛で動くからといって、必ずしも利己主義の罪になるとは限らないことに注意しましょう。「自分を愛する」、自愛とは、本性に刻印されている自然な傾向であり、その傾向があるのはよいことです。

要するに、現世欲愛というのは、「自分のために」何かを愛するということです。他方、「親切愛」は「その人のためにだけ、その人の善のためにだけ愛する」ということです。

愛徳は親切愛の一種です。言い換えると、自分のために天主を愛するだけではなく、愛徳によって、第一に天主のためにのみ、天主ご自身のためにのみ愛するということです。当然ながら、自分のために天主を愛することも可能であるばかりか、そのようにも天主を愛すべきです。

不完全な愛徳には、当然現世欲愛も入っています。つまり、天主から多くの賜物を得ているがゆえに天主を愛するというのが現世欲愛です。その意味で、愛徳における現世欲愛の部分は望徳以外のなにものでもありません。天主から善や限りない賜物を得るがゆえに天主を愛するのが現世欲愛です。その場合、結局、天主ご自身よりも、得られる賜物を愛しているのが現世欲愛の実態です。また場合によっては、天主を愛するよりも、結局、自分の方をもっと愛してしまうようなこともあるかもしれません。

一方、愛徳における現世欲愛は、私たちが天主への感謝を表すという正しい行動を助けてくれます。天主からの多くの賜物を得て、天主への感謝が生じるのは自然です。これは現世欲愛の効果です。
こういった不完全な愛徳は、愛徳であるには変わりがないのですが、やはり、天主ご自身よりも、天主からの賜物あるいは自分への善の方が天主ご自身より中心的になってしまいます。つまり、天主を黙想するよりも、自分を見るような不完全な愛徳です。とはいえ、こういった不完全な愛徳も愛徳であって、それは良い愛徳です。天主に感謝することは非常に良いことですから、不完全な愛徳自体は良いことです。

しかし、それが完全な愛徳ではないということに違いはありません。つまり、現世欲愛による愛徳は完全な愛徳ではないと言わなくてはなりません。完全な愛徳は、天主のためにのみ、天主を愛するということです。天主が天主であるがゆえに、天主ご自身のためにのみ、天主を愛するということです。

つまり、私たちの聖化のために天主を愛するのではないということです。よくあるパターンですが、結局、自分を聖化して、聖人になるという観点からのみ天主を愛してしまうのは自然で普通のことかもしれません。それはそれで良いことですが、完全な愛徳はそれを超えるものです。完全な愛徳は天主のためにのみ天主を愛するのです。つまり、天主の栄光を望むのみです。それは、自分の善よりも、天主の善である栄光を望む愛徳です。

「でも、結局それは一緒のことになる。天主の栄光は当然私の善につながるのだから。」と思われるかもしれません。それはそうなのですが、動因が違います。見方が違うのです。自分の善を忘れてまで天主の栄光を愛するのです。つまり、一方では天主のために働くかもしれませんが、自分を中心に見がちだということです。それはそれでよいことなのですが。完全な愛徳は、自分のことを忘れても、天主だけを見て、天主の栄光のみを望むのです。確かに、天主の栄光を望むことが、必ず天主は自分に善を与えてくださるということに繋がるのですが、その観点が違うということをお分かりいただけますでしょうか。なぜかというと、完全な愛徳は友人愛ですから、親切愛の一種であり、現世欲愛と違って、「お互いに愛し合う」からです。

言い換えれば、友人愛は、必ず二者の間での愛です。お互いに愛し合い、相手の善を望むことによってのみ愛し合うことです。つまり、友人が友人を愛するのは、友人であるという理由によってのみです。自分の益・善とは関係しません。その結果、友人愛という徳が、友人の間にお互いに通じ合う「流れ」のようなものを生む結果、愛する側は、愛される側が受けている善をも自然に享受するようになります。つまり、友人が受けるすべての善を見て、自分もそれを受けたかのように喜ぶのです。

ですから、愛徳は本当の友人愛です。その友人愛によって、まず天主の栄光を望み、そして天主であるがゆえに、天主のために、天主がこの上なく善なる天主であるがゆえに、天主の栄光を望み、天主の栄光のために働き続けます。その結果、当然天主はそれに応じて、より多くの善を与えてくださいます。ですから、天主からいただくそれら多くの良きことへの感謝を表すのは当然です。
それでも、完全な愛徳は、天主ご自身のみを対象にしているのです。
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これから、愛徳のいくつかの側面を見ていきたいと思います。それはほんの一部にすぎませんが。というのは、愛徳は私たちの霊魂におけるダイヤモンドのようなものだからです。

愛徳によって、私たちは天主との友人愛を得ることができ、天主との親交を得ることができます。友人愛は必ず親交を前提とするからです。本物の友人なら、秘密は一つもなく、心の内のすべてを明かします。ところで、天主はご自分の御心のすべてを、啓示を通じて私たちに明らかにしてくださいました。ご自分のすべてを見せてくださいました。啓示、それは私たちの信仰そのものです。天主は私たち一人一人を、表現に絶するほど限りなく愛し給うのです。天主は私たちのためにのみ啓示をしてくださいました。それは天主の栄光にもつながるかもしれませんが、天主はまず私たちを愛してくださるのです。
ですから、私たちも天主のためにのみ天主を愛するように努力しましょう。常に天主との親交に、より深く入るように努力しましょう。友人愛は、友人との親交を深めることがその根本にあるからです。

そして、愛徳は大変綺麗な聖徳であり、いと美しき徳ですから、ダイヤモンドのように多くの側面があります。
第一に、愛徳の愛には、心遣い、思いやりの愛があります。それは愛徳の結果です。つまり、天主を見るだけで、天主を黙想するだけで、天主の考えにあふれるだけで喜ぶ、という思いやりの愛です。天主においてこそ喜びを得ます。天主においてこそ喜びに浸るのです。その喜びは天主のみのための愛によって生じる、天主における喜びです。

また、愛徳は前述したように親切愛でもありますが、それは、天主に限りない栄光を帰し、天主をほめたたえたくなるということです。天主の善である栄光を望むということです。天主の栄光を望む。ある詩編には、「Non nobis domine, sed nomini tuo da gloriam」と歌われています。「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、あなたのみ名に」 。詩編にはまた、「すべての栄光はあなたに帰する」ともあります。この通り、愛徳とは親切愛でもあります。

その結果、従順の愛が生じます。つまり、天主の掟に積極的に従おうとすると、それが天主の掟であるがゆえに、天主の掟であるということのみによってそれに従う、という愛徳による従順心です。それは天主を愛しているからです。ある人を愛している時は、その人の望み通りの行為をしたいと思います。それは自然なことです。愛しているからこそ、望みの通り、み旨のままに従いたいと思うのです。またそれは、愛している相手の望むことであるから当然望む、ということでもあります。それは、天主の望まれることは天主の善ですから、天主を愛しているから、その善を望むのみ、ということです。ですから、どうしても愛している相手の望み通りにしたくなり、それに従いたくなるのです。本当に相手を愛するときは、相手の望みの通りにしたいものです。ですから、愛徳をよく理解すれば、従順の徳をも理解できることになります。

そうすれば、従順の徳が直接愛徳に依存しているということも理解できます。愛徳に依存していがゆえに、信徳にも依存しているのが従順の徳です。
だからこそ、盲目的な従順を命令する人々は間違っています。深く間違っています。これほど誤ったことはありません。これほど愛徳に反することはありません。従順というのは、上に立つ者が望むことを自分も望むということです。したがって、従順は、まず上に立つ人を愛することから始まります。そして、愛することによって、上に立つ者の望むことが善であること、良いことであることを深く理解したときこそ、本当の意味で従順が可能となるのです。このように、愛徳の愛は従順の徳に現れます。

また、愛徳の愛は、熱心の徳にも現れます。というのは、天主の栄光をどこまでも広めたいがゆえに、全宇宙が天主の掟を全うするように努力したくなるのです。それが天主の掟なのですから。もう一度繰り返しますが、この愛が盲目的な従順を望むことはありません。それはあり得ないことです。天主は例外なくすべての人々の究極の目的であるがゆえに、また、天主の栄光のためにも、すべての人々が天主の掟に積極的に従うように熱心に働くことになります。当然と言えば当然ですが、天主の御働きへの熱心な従順の根拠は愛徳にあります。

それから、愛徳のもう一つの側面は、痛みを感じる愛としての愛徳です。それは、愛徳に反するすべての物事に遭遇する時、痛みを感じて苦しむということです。まず、自分自身において、天主の愛の妨げになること(傲慢、自己愛など)に痛みを感じます。それから、自分の周りにある、天主の愛の妨げとなる物事についても同じです。ですから、愛徳に生きる人は、天主を悲しませるようなあらゆる物事に遭遇したとき、痛みを感じて苦しむのです。

聖人の霊魂を見ると、その聖人がなぜ聖人であるかがわかります。言い換えれば、そのような痛みを感ずる愛によってこそ、どの霊魂が聖人の霊魂であるかがわかるのです。聖人は、天主を侮辱するような行為に対して必ず深く傷つくということです。もちろん、聖人自身による行為(誰もが罪人であり、罪は天主に対する侮辱です)も含まれますが、それだけではなく、周りの多くの悪しき行為に対しても聖人は非常に痛みを感じて苦しむのです。

つまり、聖人にとって周りの悪に対する無関心はあり得ないことなのです。周りの悪を見ると、必ず痛みを感じて苦しむのです。「Stabat Mater Dolorosa」。いとも聖なる聖母は、この世における被造物のうち最も完全なる愛徳に満ち溢れた人生を送ってこられました。ですから、聖母マリアは愛徳を傷つける受難をはじめ、天主に対する様々な侮辱の行為に痛みを感じ苦しまれるのです。もちろん、聖母マリアは、私たちの主イエズス・キリストのご受難の際、主を直接苦しませた人々によって苦しめられましたが、それだけではなく、更に全人類による罪によって苦しめられたのです。それは、原罪に始まり、過去、現在、未来のすべての罪が十字架のご受難の遠因だからです。「憐みの聖母」とも呼ばれる聖母マリアは、そのために、愛徳において非常にお苦しみになったのです。天主のために、天主を愛しておられるがゆえに、天主への侮辱に痛みを感じて、聖母はお苦しみになるのです。それは、罪によって侮辱される天主のため、愛徳によって痛みを感じる苦しみです。

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また、天国に入るためには愛徳が必要不可欠です。これは当然のことです。天国は天主の愛そのものだからです。天国は、また私たちと天主との完全な親交に他ならないからです。天主との親交に入るために、愛するという前提があるのはあたりまえです。天国は愛そのものです。したがって、超自然である愛徳を持たない人は天国に入ることはできません。天主との親交に入ることもできません。逆に、愛徳を持つ人は自分の心に天国の始まりを持っているのです。それは、愛徳のゆえに、天主が私たちの霊魂にお住まいになるからです。

親交は天主との一体化を意味します。愛は二つの心の一体化を意味します。愛は二者の霊魂の一体化なのです。もし私の記憶が正しければ、ナチアンツの聖グレゴリウスは友人同士について、「友人愛とは、二つの体にあたかも一つの霊魂しかないかのようなものである」と言っています。人の間の友情さえそれほど素晴らしいものであるならば、天主との友情はいかに素晴らしいものでしょうか!

天主の友人愛なる愛徳によって、天主が私たちの霊魂に住みにきてくださるということです。またそれによって私たちの霊魂を変えてくださいます。その結果、愛徳によって霊魂の中に天国の始まりが開かれます。幼きイエズスの聖テレジアは、「天は地を訪れにいらっしゃいました」と言いました。このように、愛徳を持たない人は天国に入ることはできません。

ですから、救いを得るためには、愛徳は最も必要なものです。それは救いの「手段」として必要だといわれます。つまり、愛徳という手段がなければ、愛徳という道を歩かなければ、我々の目的地である天国にたどり着くことは不可能だということです。それは不可能なのです。

天主への本当の愛を持たない人、愛徳を持たない人は、残念ながら天国に入ることはできません。
また救いを得るためには、愛徳が「掟として」必要だとされます。つまり、愛徳を実行し、愛する行為を実際に実践する必要があるということです。「愛徳がある」というだけでは足りないのです。誰かを愛する時、「愛している」と言うだけでは足りないのと同じです。それを行為に移し、実践することによって、また言動によって愛していることを証明するということです。

そうしないのであれば、いくら愛しているとしつこく言ったとしても、相手が疑問を抱いてもおかしくないどころか、相手の疑問ももっともであることになるでしょう。ですから、理性には不自由がないのであれば、愛徳を実践する行為を行う義務があります。言い換えると、天主への愛を実践する必要があります。例えば、祈りは天主への愛の行為の一種です。また、「天主を愛しているがゆえに」実践するあらゆる行為も、そういった愛徳による行為です。
ですから、愛徳は絶対に必要です。私たちは何よりも天主をもっと愛すべきです。

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残念ながら、愛徳に反する罪が存在します。
まず、愛徳による行為を行う義務があるにもかかわらず、その行為を意図的に行わない場合です。それは、愛の掟です。善き天主がその掟を与えてくださったのですから、その場合、愛徳の行為を拒むのは愛徳に反する行為となります。これは当然のことです。また後述しますが、罪とはまさに天主の愛に反する行為です。ですから、深い罪人でありながら愛徳にあふれるということはあり得ません。善徳・聖徳と愛徳は切り離すことができないので、愛徳にあふれるのなら、それは善徳につながるのです。

ですから、時々聞くような近代主義的な意見は無意味です。例えば、天主は何か馬鹿みたいに「優しい人」で、何の掟も存在しないかのように何をやっても大丈夫で、どんな形で愛しても良く、必ず天国に入ることができるといったような理不尽な誤りです。それは真実ではありません。

愛するということは愛する相手の善を望むことですから、天主のお望み通りのことを実践しようとする時こそ、本当に「愛している」と言えます。ですから、天主のみ旨を拒むたびに、必ず天主に背くことになります。天主がお望みになること、天主が愛されることに背くことになりますから、それは天主の愛に背くことになります。天主の愛は愛徳ですから、愛徳に背くことになります。

また、天主を憎むことによって、愛徳に対する罪を犯すことがあります。カトリック教会の歴史を見ても、世界の国々の歴史を見ても、天主を非常に憎んだ人々がいたということがわかります。たとえば、学校から天主を追い出そうとした人々がそうです。現代においても引き続き学校と社会から天主を追い出そうとしている人々がいます。そういう人々には愛徳がないのです。愛徳を持てないのです。天主を愛さない人々ですから、その状態で天国に入ることはできません。当然のことです。

それは、天主に正面から反対する憎しみという大罪です。敵意による憎しみです。天主が天主であるがゆえにのみ憎む、という愛徳に反する罪です。それは罪のうちで一番深い、最も深刻な罪です。サタンの罪です。天主が天主であるがゆえにのみ憎むという罪です。それは自らの最高の善である天主、目的である天主を憎むということです。悲惨なことです。

また同じように、天主から多くの賜物を得るからこそ天主を憎むという罪もあります。恩人だから恩人を憎むということです。また、天主の掟を憎むから、天主の望みである掟を憎むという罪もあります。相手を愛しているのなら、相手の望み通りの行為をすることによる喜びがあるはずです。本当に愛しているのなら、それが難しくても、愛している相手の望みを果たそうとします。しかし、その掟を憎めば、必然的に天主ご自身を憎むようになります。残念ながらそうなってしまいます。これは嫌悪の罪と呼ばれます。

そのほか、大罪のせいで愛徳を失うこともあります。枢要な罪の一つとして、「怠惰の罪」もあります。それは天主に従うことを怠ける罪です。以上、愛徳に反する罪についてお話ししました。

「愛徳」―対神徳 愛徳は永遠に続く、一番完全な聖徳 【公教要理】第八十四講

2020年02月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十四講 愛徳


愛徳という対神徳
対神徳についての講座を続けましょう。今回は、第三の対神徳である愛徳をご紹介しましょう。信徳と望徳の次は、愛徳です。
愛徳とは超自然の徳であり、愛徳によって、愛の源なる天主の限りなき慈しみのゆえに、深く天主を愛し、天主のためにのみ天主を愛する能力です。さらに、「天主を愛するがために、また人をもわが身の如く愛する」能力です。
ですから、愛徳には多くの側面があります。

第一に、愛徳は超自然の徳です。愛徳の源は超自然の次元にあります。愛徳の基盤は超自然の次元にあります。つまり、愛徳は天主に由来しています。天主がその源です。また愛徳と聖寵とは切り離せないものです。聖寵の状態にある人、つまり聖寵に満ちている人は、同時に愛徳を持っているということです。言い換えると、聖寵によってこそ愛徳を持つことができるのです。つまり、天主のみが、聖寵と同様、私たちの霊魂に天賦の徳として愛徳を注ぎ給うということです。

唯一天主のみが愛徳の持ち主であり、愛の源です。つまり、人間だけの世界には、人間だけによる愛は存在しないということです。より正確に言うならば、この世で「愛」という時、それが人間らしい「愛」を指す場合、それは対神徳の愛徳ではなく、天主の愛ではないということです。なぜでしょうか。

天主が私たちの創造主であるという理由のみで私たちが天主を愛しているのではなく、また、私たちがすべてにおいて天主に依存しているという理由のみで私たちが天主を愛しているのでもなく、私たちは愛徳によって、そして天主を父として愛します。愛徳のゆえに、私たちは天主をわが父として愛することが可能となります。

では、どうして天主は私たちの父なのでしょうか。まさに「聖寵」によって、天主は私たちの父なのです。言い換えると、「私たちを養子にしてくださる聖寵」によってです。聖寵を持たない人は天主を父として仰ぎません。当然ながら、聖寵を持たない人が創造主としての天主を仰げば、広義では、天主はその人の父にあたるかもしれませんが、被創造物であっても聖寵がなければ天主の子ではありません。そして、聖寵を持たない人は天主の子ではなく、天主の養子ではないため、天主を父として愛することはできません。したがって、愛徳を得るためには聖寵を持つことが大前提なのです。愛徳がその源において、超自然の徳と呼ばれる所以です。

また、愛徳はその対象においても超自然の徳です。というのも、愛徳は、天主を、「信徳によってこそ知っている」天主として愛することを可能にするからです。天主を、ヴォルテールが言っていたような「宇宙の時計屋」として愛するのみならず、つまり、単に全宇宙の創造主である天主として愛するのみならず、愛徳は、天主を、ご自身の内面をご啓示くださった父として、またご自身の生命である聖寵を与えてくださる父として愛することを可能にするからです。では、天主の内面とは何でしょうか。それは聖なる三位一体の玄義そのものです。またそこには聖なる三位一体の玄義から生じる他の多くの玄義も含まれています。托身の玄義。贖罪の玄義など。それらの玄義は互いに相通じる玄義であることは、信経の部でご紹介した通りです。

ですから、私たちが天主を最も愛するその対象は、まさに天主との親交である天主の内面です。また、天主が私たちに注ぎ給う天主の生命です。ですから、愛徳とはその対象においても超自然の徳だといわれます。愛徳が愛する対象は天主の内面なのです。

最後に、愛徳は目的においても超自然の徳といわれます。つまり、愛徳によって私たちが向かう目的は、天主ご自身のためにのみ天主を愛するということです。愛徳は、私たちのためではなく、天主が天主であるがゆえに愛することを可能にするのです。

次は、愛徳の種類についてお話しします。愛徳唱において唱えられるように、また通常の祈りや会話でもよくいうように、愛徳は天主を愛するだけではなく「隣人を愛する」ことでもあるということです。ここでは、天主への愛と隣人への愛との正しい関係をよく理解する必要があります。なぜなら、愛徳は一つだからです。二つではありません。同じ愛徳のゆえに、天主を愛し、隣人を愛することが可能になるのです。同じ愛徳のゆえに、というのは、天主への愛も隣人への愛も同じ根拠に基づいているという意味です。「(隣人への)愛のない者は神を知らない。神は愛だからである。(…)「私は神を愛する」と言いながら兄弟を憎む者は偽り者である」 。

天主への愛と隣人への愛とは通常二つの愛として認識されることが多いのですが、実際は同じ一つの愛です。言い換えると、天主への愛と隣人への愛とは切り離せないものです。隣人を愛さずに天主を愛すことはできません。また、天主を愛さずに隣人を愛すことはできません。同じ一つの愛徳を持つことによって、天主と隣人を愛すことが可能となります。それでは、天主と隣人を愛する、その唯一の根拠はなんでしょうか。

天主はこの上なく愛すべき存在であるから、というのがその根拠です。天主はこの上なく最高の善として愛すべき存在だからです。言い換えると、いと慈しみ深き天主、いと憐み深き天主、いと善き天主を観想すればするほど、愛徳によって私たちの心に天主への愛が湧き、私たちが自然に天主を愛し、また天主を愛するよう私たちを方向づけるのが愛徳です。

天主のゆえに、天主ご自身のゆえにのみ、天主は愛すべき存在なのです。天主はこの上なく完璧な存在なので、天主をたとえ垣間見るような観想ができたとしても、その天主を愛さざるを得ない、愛する以外にない、ということです。本質的に天主は善そのものだからです。これこそが愛徳の根拠です。天主こそが愛徳の根拠です。これは信じられないことですし、また素晴らしいことでもあります。天主はいと素晴らしき存在であるがゆえに、私たちは天主を愛します。この上なく善なる天主、この上なく愛すべき天主であるがゆえに、私たちは天主を愛すべきであるのです。

そうすると、一体なぜ私たちは隣人を愛するのでしょうか。隣人は隣人であるということだけで愛すべき存在だからでしょうか。いえ、そうではありません。天主のゆえにこそ、隣人は愛すべき存在であるからです。隣人は天主より来て、天主へ戻るべき人だからこそ、愛すべき存在なのです。そのゆえに「隣人愛」は存在し得るのです。これが隣人愛の根拠です。後述しますが、隣人を愛する根拠は、第一に、隣人が天主の被創造物であることです。

たとえてみましょう。あなたが特別に愛している友人がいるとしましょう。あなたがその友人を愛する唯一の理由は、その友人がその人であるからです。本当の友人は、相手が何をやるか何をするかを問わず、その友人がその人であるからこそ愛する、という本当の友情を持っています。本当の友人というのは、自分の利益や自分との共通点のためではなく、その人自身のゆえにのみ、その人を愛します。しかし、友人を友人自身のゆえにのみ愛するなら、最終的にその友人から生じるすべてのことをも愛することになります。したがって、その友人の行う物事、作る作品、その人の働きなどは、その友人から生まれたがゆえに、それらをも愛することになります。同じように、隣人愛も完全に天主への愛によっているのです。

私たちが天主を愛するのは、天主が限りなく、この上なく愛すべきお方、文字通り「可愛い(愛し得て、愛すべき)」お方だからです。そして、天主に依存しているすべてのもの、また、天主に繋がるすべてのものをも、それらが天主に依存しているがゆえに愛することになります。
したがって、隣人への愛と天主への愛は、全く同じ愛徳によって愛し得る、ということです。

第二に、私たちが天主において特に愛するのは、天主が私たちに伝えてくださるこの上ない善良さです。善き天主は、私たち一人一人にご自分の善良さの一部を、賜物の一部を与えてくださいます。これは称賛すべきことです。また隣人を愛すべき根拠でもあります。隣人は必ず天主の善良さをいささかでも持ち合わせているがゆえに、隣人は私たちが愛すべき存在なのです。

要するに、愛徳の究極の根拠は天主ご自身です。善なる天主としての天主、この上なく善き天主としての天主ゆえに、天主はこの上なく、限りなく愛すべき存在です。これこそが私たちの愛徳の根拠です。
もう一度繰り返しましょう。そもそも、天主はこの上なく愛すべき存在ですが、なぜそれほど愛すべきであるかというと、それは天主が私たちにご自分の内面を啓示されたからです。したがって、愛徳は、その源も対象も目的も天主ですから、超自然のものです。

聖徳の内で、愛徳こそが一番完全な聖徳です。聖徳の内で、この上なく最も優れたものが愛徳です。
ご存知のように、愛徳は永遠なる徳で、終わりのない対神徳です。私たちの主はそう仰せになりました。確かに、信徳も望徳も愛徳も、三つの対神徳はすべて非常に大事であり、それらのおかげで私たちは天主へと方向づけられます。信徳のおかげで、天主を知ることが可能となります。望徳のおかげで、天主の与えてくださった多くの賜物によって、私たちが天主に近づくことが可能となります。そして、愛徳のおかげで、天主の愛を分かち合うことが可能となります。

しかし、三つの対神徳のうち、天国では愛徳のみが残ります。天国では信徳はなくなります。なぜかというと、天国では天主をありのままに「見る」ことができるからです。ですから、天国では信徳はもう要らないのです。直接天主を見るのですから。同様に、望徳も天国ではなくなります。何かを望むということは、その何かを享受していない、あるいは持っていないということが前提となりますが、天国ではもう常に天主を享受しているので、望徳はもう要らないのです。

しかし、愛徳だけは天国でも残ります。いつまでも、永遠に、天主への愛は残ります。まさに、天国では永遠に、言うならば愛徳によって私たちは燃えることになるのです。永遠なる天主との親交で、天主のみ前に常にいることのできる、終わりのない至福としての愛徳です。天国にたどり着いた暁には、いよいよ本当の意味で私たちの全能力を尽くして天主を愛しつくせるようになります。天国では愛徳がまさに君臨しています。天国はすべて愛徳から成り立っています。当然その意味で、天主は愛そのものですから、人が天国に入ると、天主の愛に入ることになるということです。

また、なぜ愛徳がこの上なく優位であるかというと、愛徳こそが法の完成だからです。福音の中で有名な場面があります。ある弟子がイエズス・キリストのもとに来て、「『先生、律法のうち、どのおきてがいちばんたいせつですか』と尋ね」ました。
普通に考えると、私たちの主イエズス・キリストは、十戒の中の一つの掟、たとえば「われのほか、何者も神となすべからず」という掟などを挙げられるだろうと思うのも当然かもしれません。または、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」、あるいは「なんじ、殺すなかれ」という掟を挙げられるだろうと思うのも自然なことでしょう。
しかし、私たちの主はまさに「愛の掟」を挙げられます。「イエズスは〈すべての心、すべての霊、すべての知恵を上げて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。」 とおっしゃいました。
これこそが、律法の最高の掟、律法を完成する最大の掟だということです。私たちの主は、「すべての律法は」この掟による、と仰せになりました。天主への愛こそがすべての律法を要約し、完成するのです。また後述しますが、この福音には続きがあります。「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」

「似ている」という言葉は大事です。天主への愛のゆえに隣人を愛するという意味で、「似ている」というよりは、むしろ原文を見ると、「同一」と読むべきところです。天主への愛と隣人への愛は同じ愛だということです。
また、愛徳がなぜそれほど優位であるかというと、愛徳が備わっているおかげで、霊魂における天主との真の親交、真の友情が実現するからです。つまり、愛徳は、天主と人との間の睦まじさを可能にするのです。

実は、天主が私たちに愛徳をお与えくださるというのは、私たちにご自身の友情をわけ与え、私たちにその友情を提供してくださることです。友情というのは、親切心を基盤とする愛です。つまり、愛する友人の善を正直に本当に望む愛です。つまり、天主は「友人にならないか」と私たちに申し出てくださいます。それによって、天主ご自身が私たち一人一人の友人になってくださる、という驚くべき提案です。「これからもう私はあなたたちをしもべとは言わない。(・・・)あなたたちを友人と呼ぶ」 と、私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに仰せになりました。

このように、愛徳によって、天主は私たちに天主の仲間となることを提案してくださいます。つまり、天主は私たちに対してある程度の対等さをもって付き合っていこうと提案してくださいます。友人の間ではある程度の対等さが前提となるからです。これこそが愛徳です。天主の友情こそが愛徳の特徴です。これが天主の愛です。天主は私たちを愛し給うのです。愛徳は、天主と人の霊魂との間の相互の流れです。これが愛徳という対神徳です。

それから、愛徳にはまた完全性があります。愛徳のゆえに、罪人は義化されます。それは、愛徳を持っている人は死に至らせる罪(大罪)を負っていない、という意味です。愛徳と大罪とは相いれず、根本的に矛盾しており、同じ霊魂に同時に愛徳と大罪が存在することは不可能です。なぜかというと、死に至らせる罪、すなわち大罪の定義は「霊魂において天主の生命を殺す」ことだからです。他方、愛徳は「霊魂に天主の生命を与える」のです。ですから、大罪と愛徳とはまったく相いれず、矛盾しています。

最後に、愛徳こそがこの上なく優位な聖徳である、もう一つの理由があります。神学用語を使うと、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だからです。それはつまり、愛徳のおかげで、直接、私たちの目的として、私たちの最高の善として、天主と私たちとを一体化させる最高の徳だからです。

思い出しましょう。「目的」と「善」は同一の意味をもっています。ですから、この上なく善なる天主は、同時にこの上ない目的たる天主でもあります。天主は私たちの究極の目的だということです。つまり、愛徳のゆえに、私たちは私たちの究極の目的である天主と直接に繋がり、一体化することができるようになるのです。したがって、愛徳による行為を実践する人は、当然、言動に当たっても賢明や従順や正義など多くの聖徳を実践し、また愛徳をも実践することによって、自らの働きにおいて、それら多くの聖徳をもって究極の目的である天主に繋がることになります。言い換えると、目的にたどり着くために存在する多くの善徳は、愛徳のゆえに、私たちをその究極の目的である天主とつなぐことが可能になるのです。

この意味で、愛徳は「ほかのすべての聖徳の形相因」だといわれます。つまり、愛徳は、すべての善徳・聖徳を包含するかのように、抱くかのように、燃え立てるかのように、すべての善徳・聖徳を究極の目的である天主へと向かわせるのです。
以上、この上なく優れた愛徳についてお話ししました。