白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
前回は「人間的な行為」とは何であるかをご紹介しました。つまり、「人間的な行為」とは、完全に意識した行為で、意志をもって行われた行為です。
今回は「人間的な行為」の道徳性がどこにあるかを紹介したいと思います。「道徳性」とは、行為を規範する道徳法に、ある行為が適合することです。
従って、ある行為の道徳性を決める要素は、その行為と規範との関係です。
例えてみると、線が真っすぐというのは、線が定規にそった時「真っすぐ」と言えます。同じように、ある行為が「道徳的」というのは、「線が定規に沿う」と同じように、その行為が道徳の規則に適う時です。言い換えると、道徳の法によって要求されていることを満たす行為が「道徳的」です。
線が真っすぐではないとは、定規に沿わない時です。
同じように、ある行為が、行為を規定する道徳規則に適わない時、「不道徳的」となります。
以上が行為の道徳性です。
行為の道徳性は、行われた行為とその行為を規定する道徳の法との関係を指します。その関係性次第で、ある行為が道徳的か、不道徳的か、となります。
道徳法に対する適合性が欠如している時、或いは、その関係性が欠如している時、不道徳的な行為となります。
~~
つぎに、人間的な行為を規範する「法」とは一体何でしょうか。
つまり、行為の適合性を決める基準、その基準を決定する「法」とは一体何でしょうか。
あとで詳しく後述しますが、手短にいうと、法には二つあります。
第一の法は、外的および遠因の法で、第二に、内面的および近因の法です。
また後述しますが、これらの二つの法の間には深い関係があります。
外的および遠因の法とは「天主の法」と呼ばれます。天主の法にはさまざまあります。
内面的および近因の法とは「良心」と呼ばれます。今度、より詳しく天主の法について、また良心についてご説明していきたいと思っております。
~~
これから、もうちょっと詳しく「人間的な行為」の「道徳性」を決める基準についてご紹介したいと思います。
今回は、その道徳性の基本的な要素を、法から見るのではなく、行為自体から見て、紹介します。行為自体において、どんな基準で、その行為が道徳的であるか、不道徳的であるかを判断できるでしょうか。どんな基準によって、その行為が良いか悪いかを判断できるでしょうか。
人間的な行為の道徳性の根源(基準)には三つあります。
第一の根源は、行為自体の中にあって、行為の「対象・中身」です。言い換えると、「どんな行為だったか」です。
第二の根源は、同じく行為自体の中にあり、行為の「事情」にあります。
第三の根源は、行為を行う人においてあり、その意図、行為の目的です。つまり、何のために、なぜ行為を行ったかという点です。
第一の「行為の対象・中身」というのは、ある行為の本質を成します。
私が行った行為は何だったかです。その「中身」は「何を具体的にやっているか」ということですね。人間的な行為の道徳性を決める第一の基準・根源です。なぜかというと、本質的に善い行為もあれば、本質的に悪い行為もありますが、それを見抜くにはその本質である「中身・対象」を見なければなりません。だから、その対象は道徳性の第一の根源だと言います。
例えば、「天主を礼拝する」という行為は本質的に善い行為です。「天主を礼拝する」という行為を特徴づける本質自体が、既に善です。「親を敬う」行為は本質的に善い行為です。なぜかというと、子どもは親を敬うべきですから。「盗む」という行為は本質的に悪い行為です。同じく、「嘘をつく」という行為は本質的に悪い行為です。「行為の対象・中身」というのは、こういったようなことです。一言で言うとある行為に対して「一体どんな行為だったか」という質問の答えです。ある行為の本質は「嘘をつく」「盗む」だった、と。
以上が人間的な行為の道徳性の第一の根源です。ある行為の善悪を判断するために、先ずその行為の本質、つまりその行為の「対象・中身」を見る必要があります。
しかしながら、これだけでは足りません。ある行為は本質的に善い行為だとしても、次にその行為の「事情」を見るべきです。
「事情」は道徳性の第二の根源です。「事情」というのは、あえて言えば、ある行為に伴う「諸偶然性」です。「事情」のラテン語の語源は「Circum stare」という言葉ですが、「周辺にある物事」という意味です。言い換えると、ある行為の「事情」というのは、その行為を具体化する「事」であって、他の行為を区別できるように、いわゆる特定の個別の行為にしてしまう「事情」です。たとえば「嘘をつく」といっても、その行為の事情といったら、「どこでいつだれが嘘をついたか」などをはじめとして、その「個別」の嘘を特定するあらゆる「事情」を指します。従って、事情とは、行為の際に伴う具体的に関わる「特性・要素」で、七つに数えられています。
第一、「人」という事情。「だれ」がやったのか。例えば、同じ行為だったとしても、一般の大人がやるか子供がやるか次第でその行為が変わってきます。同じく、一般の大人がやるか、司祭がやるか次第で、その重さもまた変わってきます。また、同じ行為だったとしても、教皇がやるとまたその重みが変わってくるのです。
事情によって、つまり、誰がその行為を行ったかによって、それぞれの行為の本質も変わることがあります。例えば、「叫ぶ」という行為を取りましょう。教会において、子供が「叫ぶ」のなら、いや赤ちゃんが「叫ぶ」のなら、一般の大人が教会において「叫び出す」行為と全くその本質を異にします。誰が叫ぶか次第で、その行為の道徳性が変わるのです。
また例えば、「教皇がコーランに接吻する」のなら、一般の市民が「コーランに接吻する」とは、全くその本質が変わります。教皇がやる場合、模範を示すべき教皇であるので、より深刻です。「誰が」行為をやるかによって、その行為の道徳性が変わるのです。一つの事情です。また、もう一つの例を取り上げると、誓願によって身分が決まっている人、例えば奉献されている修道士などのその行為には重みがあります。というのも、子どもの不服行為よりも、修道士の不服行為が遥かに深刻なことですから。なぜかというと、修道士の場合は院長に服従する誓いを成しているからです。
第二の事情は行為の「量あるいは質」です。例えば、「盗む」という行為を例に取り上げましょう。「盗む」という行為自体は本質的に悪い行為ですが、「一円」を盗むか、「5万円」を盗むかによって、その深刻さが変わります。この事情次第で、行為の道徳性が変わり、先ほどの例では事情次第で行為の道徳性が悪化します。例えば、「祈る」という行為は本質的に善い行為です。そこで、「30秒」に祈るか「30分」祈るかによって、その行為の道徳性も変ってくるのです。
第三の事情は「場所」です。例えば「おしゃべり」という行為は「中立な行為」ですが、教会の中でのおしゃべりはもう中立でなくなりますね。また、「盗む」ことは本質的に悪い行為ですけど、教会において盗むのはより悪い行為になります。「祈る」というのは本質的に善い行為ですけど、御聖体の御前で「祈る」のはより良い行為となります。場所次第で、行為の道徳性が変わるのです。
第四の事情は「手段」です。手段次第で、行為の道徳性が変わることがあります。例えば、良い行為をするために、悪い「手段」を取った場合、その善い行為が汚れます。
第五の事情は態度です。どんな態度で行為をやるか次第で行為の道徳性が変わることがあります。悪狡さをもって、無知をもって、無能をもって、恐れをもってといった態度次第で行為の道徳性が変わりうるのです。
第六の事情は「時」です。日曜日に働くとか、また小斎(断食)の日に肉を食べるのは悪い事ですけど、「肉を食べる」行為自体は中立な行為であるか、時には善い行為でもありますね。しかし、小斎の日に肉を食べると悪い行為となります。要するに、「時」次第で、行為の道徳性が変わることがあります。御覧の通りに、行為自体だけではなく、行為の「事情」をも見る必要があります。
(第七の事情は「なぜやったのか」という事情、第三根源と重なることもある。)
行為の道徳性の第三の根源は行為の目的です。言い換えると、どんな意図で行為がなされたか、です。「なぜこれをやったか」という質問に対する答えです。どんな意図で行為が行われたか、です。意図次第で行為の道徳性が変わることがあります。
例えば、施しをする人がいるとしましょう。乏しい人に一銭をあげて、その分、貧乏人の貧困を救うのです。愛徳をもって(これは彼の意図ですね)、施しをするのなら、慈しみで施しをやるのなら、良い行為です。しかし「自慢をするために」施しするのなら、または「施しをやるところが見られて自分の評判を高める」ためにやるのなら、傲慢という悪しき意図おいての行為ですから、行為が汚染されてしまいます。従って、意図次第で、行為の道徳性が変わることがあります。簡単ですね。
例えば、酒「一杯」を飲むのは悪いことでもありません。しかし「酔っ払うために」酒を飲むのは悪い行為となります。酔っ払うと理性を失うからです。この例では、その目的次第で、行為の道徳性が変わるのです。どの意図で行為を行うかというのは行為の道徳性の一つの根源です。意図を基準に、ある行為の善悪を評価することができるのです。
問題なのは、意図が隠れているということです。行為を行う本人しかハッキリと自分の意図を知らないということです。ただし、時には行為の事情があまりにも特別である時、その意図が外からも見え見えとなる場合もあります。しかし、意図を評価するのは一番難しいことです。
確実にいえるのは、意図が良いとしても、本質的に悪い行為をやるのは一切許されていない、ということです。
ある行為が悪となる条件は、「行為の中身」が悪いか、それとも「行為の事情」が悪いか、それとも「意図」が悪いか、です。
一つでもあれば、それで十分であって、その行為は悪しき行為となります。
善い意図を持って盗んだとしても、悪い行為のままです。
善い意図を持って嘘をついたとしても、悪い行為のままです。
従って、これらの行為は悪です。害です。
三つの根源のうち一つだけでも悪いのなら、行為全てが悪となります。
裏を返せば、行為が善となる為には、「中身」も、「事情」も、「意図」も良くなければならないのです。三つとも揃って初めて善い行為となります。
しかし、もしも「中身」、「事情」、「意図」、その一つだけでも欠如したら、行為は悪となります。行為が汚されてしまいます。
だから、ある悪い行為を見て、「でも良い意図でやったんだよ」といっても、その行為が善い行為になるわけはなく、悪しき行為のままです。
善い行為になるには、意図だけでは足りないからです。行為が善となるために、良い「中身」と良い「事情」と良い「意図」とが全て揃ってはじめて善い行為となります。
以上は、行為の道徳性の三つの根源でした。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第七十四講 人間の行為の道徳性について
前回は「人間的な行為」とは何であるかをご紹介しました。つまり、「人間的な行為」とは、完全に意識した行為で、意志をもって行われた行為です。
今回は「人間的な行為」の道徳性がどこにあるかを紹介したいと思います。「道徳性」とは、行為を規範する道徳法に、ある行為が適合することです。
従って、ある行為の道徳性を決める要素は、その行為と規範との関係です。
例えてみると、線が真っすぐというのは、線が定規にそった時「真っすぐ」と言えます。同じように、ある行為が「道徳的」というのは、「線が定規に沿う」と同じように、その行為が道徳の規則に適う時です。言い換えると、道徳の法によって要求されていることを満たす行為が「道徳的」です。
線が真っすぐではないとは、定規に沿わない時です。
同じように、ある行為が、行為を規定する道徳規則に適わない時、「不道徳的」となります。
以上が行為の道徳性です。
行為の道徳性は、行われた行為とその行為を規定する道徳の法との関係を指します。その関係性次第で、ある行為が道徳的か、不道徳的か、となります。
道徳法に対する適合性が欠如している時、或いは、その関係性が欠如している時、不道徳的な行為となります。
~~
つぎに、人間的な行為を規範する「法」とは一体何でしょうか。
つまり、行為の適合性を決める基準、その基準を決定する「法」とは一体何でしょうか。
あとで詳しく後述しますが、手短にいうと、法には二つあります。
第一の法は、外的および遠因の法で、第二に、内面的および近因の法です。
また後述しますが、これらの二つの法の間には深い関係があります。
外的および遠因の法とは「天主の法」と呼ばれます。天主の法にはさまざまあります。
内面的および近因の法とは「良心」と呼ばれます。今度、より詳しく天主の法について、また良心についてご説明していきたいと思っております。
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これから、もうちょっと詳しく「人間的な行為」の「道徳性」を決める基準についてご紹介したいと思います。
今回は、その道徳性の基本的な要素を、法から見るのではなく、行為自体から見て、紹介します。行為自体において、どんな基準で、その行為が道徳的であるか、不道徳的であるかを判断できるでしょうか。どんな基準によって、その行為が良いか悪いかを判断できるでしょうか。
人間的な行為の道徳性の根源(基準)には三つあります。
第一の根源は、行為自体の中にあって、行為の「対象・中身」です。言い換えると、「どんな行為だったか」です。
第二の根源は、同じく行為自体の中にあり、行為の「事情」にあります。
第三の根源は、行為を行う人においてあり、その意図、行為の目的です。つまり、何のために、なぜ行為を行ったかという点です。
第一の「行為の対象・中身」というのは、ある行為の本質を成します。
私が行った行為は何だったかです。その「中身」は「何を具体的にやっているか」ということですね。人間的な行為の道徳性を決める第一の基準・根源です。なぜかというと、本質的に善い行為もあれば、本質的に悪い行為もありますが、それを見抜くにはその本質である「中身・対象」を見なければなりません。だから、その対象は道徳性の第一の根源だと言います。
例えば、「天主を礼拝する」という行為は本質的に善い行為です。「天主を礼拝する」という行為を特徴づける本質自体が、既に善です。「親を敬う」行為は本質的に善い行為です。なぜかというと、子どもは親を敬うべきですから。「盗む」という行為は本質的に悪い行為です。同じく、「嘘をつく」という行為は本質的に悪い行為です。「行為の対象・中身」というのは、こういったようなことです。一言で言うとある行為に対して「一体どんな行為だったか」という質問の答えです。ある行為の本質は「嘘をつく」「盗む」だった、と。
以上が人間的な行為の道徳性の第一の根源です。ある行為の善悪を判断するために、先ずその行為の本質、つまりその行為の「対象・中身」を見る必要があります。
しかしながら、これだけでは足りません。ある行為は本質的に善い行為だとしても、次にその行為の「事情」を見るべきです。
「事情」は道徳性の第二の根源です。「事情」というのは、あえて言えば、ある行為に伴う「諸偶然性」です。「事情」のラテン語の語源は「Circum stare」という言葉ですが、「周辺にある物事」という意味です。言い換えると、ある行為の「事情」というのは、その行為を具体化する「事」であって、他の行為を区別できるように、いわゆる特定の個別の行為にしてしまう「事情」です。たとえば「嘘をつく」といっても、その行為の事情といったら、「どこでいつだれが嘘をついたか」などをはじめとして、その「個別」の嘘を特定するあらゆる「事情」を指します。従って、事情とは、行為の際に伴う具体的に関わる「特性・要素」で、七つに数えられています。
第一、「人」という事情。「だれ」がやったのか。例えば、同じ行為だったとしても、一般の大人がやるか子供がやるか次第でその行為が変わってきます。同じく、一般の大人がやるか、司祭がやるか次第で、その重さもまた変わってきます。また、同じ行為だったとしても、教皇がやるとまたその重みが変わってくるのです。
事情によって、つまり、誰がその行為を行ったかによって、それぞれの行為の本質も変わることがあります。例えば、「叫ぶ」という行為を取りましょう。教会において、子供が「叫ぶ」のなら、いや赤ちゃんが「叫ぶ」のなら、一般の大人が教会において「叫び出す」行為と全くその本質を異にします。誰が叫ぶか次第で、その行為の道徳性が変わるのです。
また例えば、「教皇がコーランに接吻する」のなら、一般の市民が「コーランに接吻する」とは、全くその本質が変わります。教皇がやる場合、模範を示すべき教皇であるので、より深刻です。「誰が」行為をやるかによって、その行為の道徳性が変わるのです。一つの事情です。また、もう一つの例を取り上げると、誓願によって身分が決まっている人、例えば奉献されている修道士などのその行為には重みがあります。というのも、子どもの不服行為よりも、修道士の不服行為が遥かに深刻なことですから。なぜかというと、修道士の場合は院長に服従する誓いを成しているからです。
第二の事情は行為の「量あるいは質」です。例えば、「盗む」という行為を例に取り上げましょう。「盗む」という行為自体は本質的に悪い行為ですが、「一円」を盗むか、「5万円」を盗むかによって、その深刻さが変わります。この事情次第で、行為の道徳性が変わり、先ほどの例では事情次第で行為の道徳性が悪化します。例えば、「祈る」という行為は本質的に善い行為です。そこで、「30秒」に祈るか「30分」祈るかによって、その行為の道徳性も変ってくるのです。
第三の事情は「場所」です。例えば「おしゃべり」という行為は「中立な行為」ですが、教会の中でのおしゃべりはもう中立でなくなりますね。また、「盗む」ことは本質的に悪い行為ですけど、教会において盗むのはより悪い行為になります。「祈る」というのは本質的に善い行為ですけど、御聖体の御前で「祈る」のはより良い行為となります。場所次第で、行為の道徳性が変わるのです。
第四の事情は「手段」です。手段次第で、行為の道徳性が変わることがあります。例えば、良い行為をするために、悪い「手段」を取った場合、その善い行為が汚れます。
第五の事情は態度です。どんな態度で行為をやるか次第で行為の道徳性が変わることがあります。悪狡さをもって、無知をもって、無能をもって、恐れをもってといった態度次第で行為の道徳性が変わりうるのです。
第六の事情は「時」です。日曜日に働くとか、また小斎(断食)の日に肉を食べるのは悪い事ですけど、「肉を食べる」行為自体は中立な行為であるか、時には善い行為でもありますね。しかし、小斎の日に肉を食べると悪い行為となります。要するに、「時」次第で、行為の道徳性が変わることがあります。御覧の通りに、行為自体だけではなく、行為の「事情」をも見る必要があります。
(第七の事情は「なぜやったのか」という事情、第三根源と重なることもある。)
行為の道徳性の第三の根源は行為の目的です。言い換えると、どんな意図で行為がなされたか、です。「なぜこれをやったか」という質問に対する答えです。どんな意図で行為が行われたか、です。意図次第で行為の道徳性が変わることがあります。
例えば、施しをする人がいるとしましょう。乏しい人に一銭をあげて、その分、貧乏人の貧困を救うのです。愛徳をもって(これは彼の意図ですね)、施しをするのなら、慈しみで施しをやるのなら、良い行為です。しかし「自慢をするために」施しするのなら、または「施しをやるところが見られて自分の評判を高める」ためにやるのなら、傲慢という悪しき意図おいての行為ですから、行為が汚染されてしまいます。従って、意図次第で、行為の道徳性が変わることがあります。簡単ですね。
例えば、酒「一杯」を飲むのは悪いことでもありません。しかし「酔っ払うために」酒を飲むのは悪い行為となります。酔っ払うと理性を失うからです。この例では、その目的次第で、行為の道徳性が変わるのです。どの意図で行為を行うかというのは行為の道徳性の一つの根源です。意図を基準に、ある行為の善悪を評価することができるのです。
問題なのは、意図が隠れているということです。行為を行う本人しかハッキリと自分の意図を知らないということです。ただし、時には行為の事情があまりにも特別である時、その意図が外からも見え見えとなる場合もあります。しかし、意図を評価するのは一番難しいことです。
確実にいえるのは、意図が良いとしても、本質的に悪い行為をやるのは一切許されていない、ということです。
ある行為が悪となる条件は、「行為の中身」が悪いか、それとも「行為の事情」が悪いか、それとも「意図」が悪いか、です。
一つでもあれば、それで十分であって、その行為は悪しき行為となります。
善い意図を持って盗んだとしても、悪い行為のままです。
善い意図を持って嘘をついたとしても、悪い行為のままです。
従って、これらの行為は悪です。害です。
三つの根源のうち一つだけでも悪いのなら、行為全てが悪となります。
裏を返せば、行為が善となる為には、「中身」も、「事情」も、「意図」も良くなければならないのです。三つとも揃って初めて善い行為となります。
しかし、もしも「中身」、「事情」、「意図」、その一つだけでも欠如したら、行為は悪となります。行為が汚されてしまいます。
だから、ある悪い行為を見て、「でも良い意図でやったんだよ」といっても、その行為が善い行為になるわけはなく、悪しき行為のままです。
善い行為になるには、意図だけでは足りないからです。行為が善となるために、良い「中身」と良い「事情」と良い「意図」とが全て揃ってはじめて善い行為となります。
以上は、行為の道徳性の三つの根源でした。