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3つの条件が揃わないと、善を行うことにはなりません 【公教要理】第七十四講

2019年11月23日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十四講 人間の行為の道徳性について



前回は「人間的な行為」とは何であるかをご紹介しました。つまり、「人間的な行為」とは、完全に意識した行為で、意志をもって行われた行為です。

今回は「人間的な行為」の道徳性がどこにあるかを紹介したいと思います。「道徳性」とは、行為を規範する道徳法に、ある行為が適合することです。

従って、ある行為の道徳性を決める要素は、その行為と規範との関係です。
例えてみると、線が真っすぐというのは、線が定規にそった時「真っすぐ」と言えます。同じように、ある行為が「道徳的」というのは、「線が定規に沿う」と同じように、その行為が道徳の規則に適う時です。言い換えると、道徳の法によって要求されていることを満たす行為が「道徳的」です。

線が真っすぐではないとは、定規に沿わない時です。
同じように、ある行為が、行為を規定する道徳規則に適わない時、「不道徳的」となります。
以上が行為の道徳性です。

行為の道徳性は、行われた行為とその行為を規定する道徳の法との関係を指します。その関係性次第で、ある行為が道徳的か、不道徳的か、となります。
道徳法に対する適合性が欠如している時、或いは、その関係性が欠如している時、不道徳的な行為となります。
~~

つぎに、人間的な行為を規範する「法」とは一体何でしょうか。
つまり、行為の適合性を決める基準、その基準を決定する「法」とは一体何でしょうか。
あとで詳しく後述しますが、手短にいうと、法には二つあります。

第一の法は、外的および遠因の法で、第二に、内面的および近因の法です。
また後述しますが、これらの二つの法の間には深い関係があります。
外的および遠因の法とは「天主の法」と呼ばれます。天主の法にはさまざまあります。
内面的および近因の法とは「良心」と呼ばれます。今度、より詳しく天主の法について、また良心についてご説明していきたいと思っております。
~~

これから、もうちょっと詳しく「人間的な行為」の「道徳性」を決める基準についてご紹介したいと思います。

今回は、その道徳性の基本的な要素を、法から見るのではなく、行為自体から見て、紹介します。行為自体において、どんな基準で、その行為が道徳的であるか、不道徳的であるかを判断できるでしょうか。どんな基準によって、その行為が良いか悪いかを判断できるでしょうか。

人間的な行為の道徳性の根源(基準)には三つあります。
第一の根源は、行為自体の中にあって、行為の「対象・中身」です。言い換えると、「どんな行為だったか」です。
第二の根源は、同じく行為自体の中にあり、行為の「事情」にあります。
第三の根源は、行為を行う人においてあり、その意図、行為の目的です。つまり、何のために、なぜ行為を行ったかという点です。

第一の「行為の対象・中身」というのは、ある行為の本質を成します。
私が行った行為は何だったかです。その「中身」は「何を具体的にやっているか」ということですね。人間的な行為の道徳性を決める第一の基準・根源です。なぜかというと、本質的に善い行為もあれば、本質的に悪い行為もありますが、それを見抜くにはその本質である「中身・対象」を見なければなりません。だから、その対象は道徳性の第一の根源だと言います。

例えば、「天主を礼拝する」という行為は本質的に善い行為です。「天主を礼拝する」という行為を特徴づける本質自体が、既に善です。「親を敬う」行為は本質的に善い行為です。なぜかというと、子どもは親を敬うべきですから。「盗む」という行為は本質的に悪い行為です。同じく、「嘘をつく」という行為は本質的に悪い行為です。「行為の対象・中身」というのは、こういったようなことです。一言で言うとある行為に対して「一体どんな行為だったか」という質問の答えです。ある行為の本質は「嘘をつく」「盗む」だった、と。
以上が人間的な行為の道徳性の第一の根源です。ある行為の善悪を判断するために、先ずその行為の本質、つまりその行為の「対象・中身」を見る必要があります。

しかしながら、これだけでは足りません。ある行為は本質的に善い行為だとしても、次にその行為の「事情」を見るべきです。
「事情」は道徳性の第二の根源です。「事情」というのは、あえて言えば、ある行為に伴う「諸偶然性」です。「事情」のラテン語の語源は「Circum stare」という言葉ですが、「周辺にある物事」という意味です。言い換えると、ある行為の「事情」というのは、その行為を具体化する「事」であって、他の行為を区別できるように、いわゆる特定の個別の行為にしてしまう「事情」です。たとえば「嘘をつく」といっても、その行為の事情といったら、「どこでいつだれが嘘をついたか」などをはじめとして、その「個別」の嘘を特定するあらゆる「事情」を指します。従って、事情とは、行為の際に伴う具体的に関わる「特性・要素」で、七つに数えられています。

第一、「人」という事情。「だれ」がやったのか。例えば、同じ行為だったとしても、一般の大人がやるか子供がやるか次第でその行為が変わってきます。同じく、一般の大人がやるか、司祭がやるか次第で、その重さもまた変わってきます。また、同じ行為だったとしても、教皇がやるとまたその重みが変わってくるのです。

事情によって、つまり、誰がその行為を行ったかによって、それぞれの行為の本質も変わることがあります。例えば、「叫ぶ」という行為を取りましょう。教会において、子供が「叫ぶ」のなら、いや赤ちゃんが「叫ぶ」のなら、一般の大人が教会において「叫び出す」行為と全くその本質を異にします。誰が叫ぶか次第で、その行為の道徳性が変わるのです。

また例えば、「教皇がコーランに接吻する」のなら、一般の市民が「コーランに接吻する」とは、全くその本質が変わります。教皇がやる場合、模範を示すべき教皇であるので、より深刻です。「誰が」行為をやるかによって、その行為の道徳性が変わるのです。一つの事情です。また、もう一つの例を取り上げると、誓願によって身分が決まっている人、例えば奉献されている修道士などのその行為には重みがあります。というのも、子どもの不服行為よりも、修道士の不服行為が遥かに深刻なことですから。なぜかというと、修道士の場合は院長に服従する誓いを成しているからです。

第二の事情は行為の「量あるいは質」です。例えば、「盗む」という行為を例に取り上げましょう。「盗む」という行為自体は本質的に悪い行為ですが、「一円」を盗むか、「5万円」を盗むかによって、その深刻さが変わります。この事情次第で、行為の道徳性が変わり、先ほどの例では事情次第で行為の道徳性が悪化します。例えば、「祈る」という行為は本質的に善い行為です。そこで、「30秒」に祈るか「30分」祈るかによって、その行為の道徳性も変ってくるのです。

第三の事情は「場所」です。例えば「おしゃべり」という行為は「中立な行為」ですが、教会の中でのおしゃべりはもう中立でなくなりますね。また、「盗む」ことは本質的に悪い行為ですけど、教会において盗むのはより悪い行為になります。「祈る」というのは本質的に善い行為ですけど、御聖体の御前で「祈る」のはより良い行為となります。場所次第で、行為の道徳性が変わるのです。

第四の事情は「手段」です。手段次第で、行為の道徳性が変わることがあります。例えば、良い行為をするために、悪い「手段」を取った場合、その善い行為が汚れます。

第五の事情は態度です。どんな態度で行為をやるか次第で行為の道徳性が変わることがあります。悪狡さをもって、無知をもって、無能をもって、恐れをもってといった態度次第で行為の道徳性が変わりうるのです。

第六の事情は「時」です。日曜日に働くとか、また小斎(断食)の日に肉を食べるのは悪い事ですけど、「肉を食べる」行為自体は中立な行為であるか、時には善い行為でもありますね。しかし、小斎の日に肉を食べると悪い行為となります。要するに、「時」次第で、行為の道徳性が変わることがあります。御覧の通りに、行為自体だけではなく、行為の「事情」をも見る必要があります。
(第七の事情は「なぜやったのか」という事情、第三根源と重なることもある。)


行為の道徳性の第三の根源は行為の目的です。言い換えると、どんな意図で行為がなされたか、です。「なぜこれをやったか」という質問に対する答えです。どんな意図で行為が行われたか、です。意図次第で行為の道徳性が変わることがあります。
例えば、施しをする人がいるとしましょう。乏しい人に一銭をあげて、その分、貧乏人の貧困を救うのです。愛徳をもって(これは彼の意図ですね)、施しをするのなら、慈しみで施しをやるのなら、良い行為です。しかし「自慢をするために」施しするのなら、または「施しをやるところが見られて自分の評判を高める」ためにやるのなら、傲慢という悪しき意図おいての行為ですから、行為が汚染されてしまいます。従って、意図次第で、行為の道徳性が変わることがあります。簡単ですね。

例えば、酒「一杯」を飲むのは悪いことでもありません。しかし「酔っ払うために」酒を飲むのは悪い行為となります。酔っ払うと理性を失うからです。この例では、その目的次第で、行為の道徳性が変わるのです。どの意図で行為を行うかというのは行為の道徳性の一つの根源です。意図を基準に、ある行為の善悪を評価することができるのです。

問題なのは、意図が隠れているということです。行為を行う本人しかハッキリと自分の意図を知らないということです。ただし、時には行為の事情があまりにも特別である時、その意図が外からも見え見えとなる場合もあります。しかし、意図を評価するのは一番難しいことです。
確実にいえるのは、意図が良いとしても、本質的に悪い行為をやるのは一切許されていない、ということです。

ある行為が悪となる条件は、「行為の中身」が悪いか、それとも「行為の事情」が悪いか、それとも「意図」が悪いか、です。
一つでもあれば、それで十分であって、その行為は悪しき行為となります。
善い意図を持って盗んだとしても、悪い行為のままです。
善い意図を持って嘘をついたとしても、悪い行為のままです。
従って、これらの行為は悪です。害です。
三つの根源のうち一つだけでも悪いのなら、行為全てが悪となります。

裏を返せば、行為が善となる為には、「中身」も、「事情」も、「意図」も良くなければならないのです。三つとも揃って初めて善い行為となります。
しかし、もしも「中身」、「事情」、「意図」、その一つだけでも欠如したら、行為は悪となります。行為が汚されてしまいます。
だから、ある悪い行為を見て、「でも良い意図でやったんだよ」といっても、その行為が善い行為になるわけはなく、悪しき行為のままです。
善い行為になるには、意図だけでは足りないからです。行為が善となるために、良い「中身」と良い「事情」と良い「意図」とが全て揃ってはじめて善い行為となります。
以上は、行為の道徳性の三つの根源でした。

行為と行動はどう違う? 【公教要理】第七十三講

2019年11月16日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十三講 道徳の一般原則・人間の行為について



道徳編の第一部は、道徳の一般原則です。そこで、人間的な行為についてご紹介したいと思います。道徳とは「人間的な行為あるいは人が行動することを律する実践的な学問」です。したがって、最初に人間的な行為というのは一体どういったものなのかを考えてみましょう。
人が行動するということとは一体何でしょうか。

人間的な行為とは、「人間としての人間により発する行為」ということです。言い換えると「(人間の本性を成す)知性と意志により発する行為」です。一言で要約してみると、人間的な行為は、思考した行為であり、故意の行為です。万物の被創造物の中で、人間を特徴づけるのは「知性と意志」が備わっているということです。意志といった時、「自由」も含まれます。人間的な行為というのは、「人間の本性全体をもって、ある人が成す行為」です。言い換えると「知性をもって、意志をもって」の行為です。

つまり、人間的な行為は「思考してやった行為」であって、「知りつつやった行為」、「考えてやった行為」、「故意の行為」で、「完全な意志をもって成し遂げられた行為」です。人間的な行為は、以上のような行為です。
そこで、人間が行為するに当たって、行為に対する完全な認識が欠如している場合、或いは行為に対する完全な意志が欠如している場合、その個別の行為は厳密に言うと完全に人間たる行為ではありません。というのも、「意志と知性」から発しない行為なので、完全な人間たる行為とはなりえないからです。この場合「不完全な行為」といいます。または(人間的な行為ではなく)「人間の行動」とも呼ばれます。

たとえば、夜中に不本意に歩きだす夢遊病の者は「自分が何をやっているか、何の行動をするかを完全に認識していない」状態です。従って、夢遊病の者が眠りながら行う行動は「人間的な行為」ではありません。いわゆる単なる「人の行動」です。便宜上に「人の行動」とは、当然ながら「人が行う行為」を指しながら、人間を特徴づける本性、つまり「意志と知性」をもって成し遂げられた行為ではない、という意味を持つ表現です。人間の行う「行動」に過ぎません。

「人間的な行為」とは道徳の対象となる行為のことです。つまり、ある人が自分の動きで、完全に成す行為です。また、自由に、いわゆる「意識して」成す行為です。完全な意志をもっての「人間的な行為」です。要約すると、「知性と意志」より発生するのが「人間的な行為」です。
以上の定義を見ますと、完全に人間的な行為、あるいは「完全に道徳上の行為」になる為に何が邪魔になるかが見えてくるでしょう。
例えば、先ほど、行為に対して知性が欠けた夢遊病の例を取り上げました。その他、知性が障害される別の可能性もあります。そういった場合、知性の欠如が、完全な意志をもって行うということを邪魔する場合です。
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以上は人間的な行為の定義でした。
次に、「人間的な行為」あるいは「意志的な行為」の幾つかの種類を区別してみましょう。なぜ「意志的な行為」という表現を使うかというと、「意志をもって行為を行う」には、通常ならば、「知性」が暗に前提になっているからです。
というのも、人間において「知性」とは、「光」を持つ能力であって、「真理を把握することができる」能力です。知性をもって、知性に照らして、人間が行為を決めるために、知性は意志を知性の光で照らします。

従って、「人間的な行為」というのは「意志的な行為」です。というのも、最終的に「意志によって行われる」からです。知性は物事を知り、意識して真偽を分別し、そして意志を照らし、意志を動かしますが、意志は行為を勧め、行為するように全体を動かすのです。従って、人間的な行為は必ず「意志的な行為」です。

続いて、「人間的な行為」について語る時に、幾つかの方法で区別することがあります。
例えば、ある「人間的な行為」に対して「誘発的」であるか「命令的」であるかといった形容を使ったりします。「誘発的」な行為の場合、直接に、仲介なく、意志により生じる行為です。意志の自発的な行為であって、意志だけから来る特有の行為です。例えば「愛すること」あるいは「憎むこと」はなどはそういった行為です。
他方「命令的」な行為の場合、別の能力へと意志が命じて発生するものです。といっても勿論意志を通じて成し遂げられる行為です。例えば、「歩く」というのは、意志が幾つかの別の能力に命じて、行為が発します。

別の区別もあります。行為は「外面的」であるか、「内面的」であるかという区別です。この区別は大事です。というのも、「人間的な行為」というのは必ずしも「身体をもって行われる」行為ではないからです。

「行為」とは、大体の場合、「行動する」ということが頭に浮かんで、「外面的な行為だ」と思いがちです。しかしながら、そうとは限りません。注意しましょう。内面的な行為も「人間的な行為」として成り立つのです。というのも、内面的な行為も「意志により発生する」行為ですから。例えば「何かについて考える」という行為は条件が揃えば、意志的な行為になりうるのです。つまり「これについて考えることを決めて、意図的に「これ」について考えている」といったような場合は、意志的な行為です。こういった場合は、外面的にみると何もわからないままです。完全に内面的な行為でありながら、やはり「人間的な行為」です。「知性と意志によって発する」思考ですから。

次に、人間的な行為に対して、別の区別もあります。「善い行為」、「悪い行為」、「中立な(善悪関係ない)行為」という区別です。
善い行為というのは道徳の法に適った行為です。
悪い行為というのは道徳の法に反する行為です。
中立な行為というのは「その行為自体は、道徳の法と無関係だ」という場合です。例えば、「歩く」という行為自体は道徳の法と関係はありません。善悪と無関係です。例えば、「休む」という行為実体は善悪と無関係であって、道徳の法と無関係です。

また、人間的な行為に対して、別の区別もあります。「自然(本性)な行為」あるいは「超自然な行為」という区別です。
人間の本性に織り込まれている能力と習慣とによってだけ生じる行為の場合、「自然な行為」と言います。
他方、超自然な能力によって発生する場合、例えば愛徳によって生じる行為の場合、「超自然な行為」と言います。例えば、人に施しを与える、貧乏人に金を与えるというのは、「慈悲」をもってだけの気持ちで成す行為の場合、「自然な行為」に留まります。自然な能力より生じる行為だからです。
しかしながら、天主の栄光のために、天主の愛に動かされて成された行為の場合、超自然な行為です。なぜかというと、超自然なる聖徳によって発生する行為だからです。

以上のように、人間的な行為を区別する幾つかの方法をご紹介しました。
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人間的な行為、あるいは「意志的な行為」は、多少邪魔されることや、多少軽減されることがあります。つまり、幾つかの理由、幾つかの原因のせいで、ある行為は「人間的な行為」でありながらも、完全な行為ではなく、多少「人間性」を失うというか、ある程度「意志的な力を失った」がしかし「人間的な行為」ということです。
逆に言うと、理由・原因次第で、ある「人間的な行為」はよりその「人間性」を増やし、より意志的な行為となることもあります。言い換えると、人間的な行為には、その行為をより「道徳的に強く」する理由、あるいは「道徳的に弱く」する理由がある、ということです。

手短にご紹介する必要があるのは、どういった要素が、ある「行為」の意志的な程度を邪魔する、あるいは軽減するかという点です。

第一に、知性においてどういった要素が意志的な程度を邪魔するでしょうか。完全に意志的な行為となるのを邪魔する要素は何でしょうか?
「無知」です。「無知」といっても、種類はいくつかあります。
主に「無知」には二つの種類があります。「克服できない無知」と「克服できる無知」との二つです。

「無知」とは何なのでしょうか。「知識の欠陥」です。ただし、「持つべき」知識の欠陥としての「無知」です。道徳論上の用語でいうと、持つべき知識の欠陥としての「無知」と、持たなくても良い知識の欠陥としての「不知」という言葉で区別します。
「不知」というのは、「何かを知らない」ことですが、道徳上に知らなくても良いことを指します。
他方、道徳上の「無知」というのは、確かに「知らないこと」ですが、本来ならば知っているべきことです。

そこで、「無知」に対して、更に二つの無知を区別します。「克服できない無知」と「克服できる無知」です。つまり、本来ならば知っているべきでありながら、どうしてもそれを知ることが不可能だった場合、「克服できない無知」と言います。
他方で、本来ならば知っているべきで、ちょっとすれば知ることが可能だった「克服できる無知」です。
前者の無知、本来ならば知るべきでありながら、どうしても置かれたその個別の状況でそれを知るすべがなかった、それを知ることが不可能だった場合の「克服できない無知」で、これは行為の「意志的な程度」を軽減する要素です。
時には、克服できない無知によって、ある行為の道徳性が消滅することもあります。

他方、「克服できる無知」は、つまり、ちょっと努力して無知を解けたはずで、つまり弁護できない無知をもって遂げられた行為は、その意志的な程度を軽減することはないどころか、時にはその行為を罪深くします。
「ある悪い行為」をなしたが、「(悪いことだと)知ることができたはずなのに知らなかった」と言いながら、その悪しき行為をなした人は悪いわけです。例えば、試験を受ける生徒が授業を復習していないから答えが分からないといった場合、この生徒は悪いのです。
逆に言うと、試験のある質問の答えを知らなかったが、授業で教わらなかった課題だったからその答えを知らなかったという場合、その生徒は悪いわけではありませんね。許せる「無知」です。「克服できない無知」です。

以上のような要素は、行為の「意志の程度」を軽減し、消滅し、邪魔する第一の要素・原因です。

他の要素は意志において見つかります。三つあります。

「意志的な程度」を軽減する第一の要素は「情念」です。
ここでいう「情念」は「罪の根源」という意味ではなく、「感覚上の欲望」を指します。
人間なら皆「感覚上の欲望」が備わっています。そして、「感覚上の欲望」により生じる行為は「情念的な行為」と呼ばれています。つまり、ここで言うと「情念」は「感覚上の欲望の動き」を指し、その動きのせいで「意志的な行為」の程度を軽減することがあります。
特に、激情が、意志に先立つ場合がそうです。例えば、抑え切れない「愛情の動き」あるいは「嫌悪の動き」がある場合、あるいは「激怒の熱情」がいきなり、不本意に情念から生じる場合、または、その時に激情のせいで意志が邪魔されて、暗くされる場合です。意志が「激情の動きによって引っ張られる」かのような場合です。つまり、激情があまりに激しく、意志がその激情を抑えようとしても抑えきれないという場合です。そういった場合に限って、激情という要素が、行為の意志の程度を軽減します。
勿論、その意志の程度が消滅することはありませんが、それを軽減するのです。というのも、激情が意志を「奪い取る」かのようなことがあるからです。それでも、激情によっても意志は消滅されていないのです。この意味に限って、激情はある行為の意志的な程度を軽減することがあります。

「意志的な程度」を軽減する第二の要素は「恐れ」です。「恐れ」というのは「現在また未来にある危険によって精神上に生じる不安」です。「深刻な恐れ」だと、つまり例えば、外から強いられた「死ぬ危険」から生じる「恐れ」の場合、罪の言い訳になることがあります。
外から強いられたというのは、地震のような自然な原因もあれば、「拳銃が私に向けられている」というような人間的な原因も含める「外から」強いられた「深刻な恐れ」です。その場合、罪の言い訳になることがあります。
しかしながら、だからといって、本質的に悪い行為の言い訳になることは完全に不可能です。言い換えると、「恐れの影響に置かれて」成された幾つかの行為が本質的に悪い行為でもない場合、罪になっても弁護されることはありますが、恐れがあるからといって、本質的に悪い行為の場合、その罪が許されることはそもそもありません。例えば、「天主を否認する」という行為は場合を問わず必ずいつも「悪い行為」です。外から強いられて深刻な恐れを被っても、天主の否認の言い訳にはなりえないのです。深刻な恐れがあっても、天主を否認することは許可される場合がありません。本質的に悪い行為だった場合、絶対に許可され得ない行為です。他方、場合によって、「恐れ」によって行為の意志的な程度を軽減することがあります。

最後に、「意志的な程度」を軽減する第三の要素は「暴力」です。暴力というのは、「外から強いられた〈自由の拘束〉であって、ある人を強制すること」です。従って、ある人が暴力の下に成された行為は「強制的にやらせられた行為」です。恐れだけはなく、暴力がありますので、外にある「原因」が無理矢理に自分を動かすというのです。その分、自分が成す外面的な行為を強制することになります。しかし、だからといって、自分の内面的な意志が同意するとは限りません。それは暴力を受ける場合です。
もちろん、暴力を受けても、その人は自分を守る為に戦うべきですし、一切同意してはならないという前提でありますが、その場合に暴力を受けながら強制された行為は弁護されることがあります。自分の意志に反して不本意に強制された行為だからです。

以上「意志的な程度」を軽減する四つの場合をご紹介しました。

そして、道徳的な行為、つまり意志的な行為による「帰結」は二つあります。
一、行為自体から見た帰結、そして、
二、行為をした人から見た帰結です。

行為自体から見ると、意志的な行為は行為を成した人に帰すべき行為です。言い換えると、意志的な行為というのは、その行為を成した人の「持ち物」であって、彼がその責任を負うということです。あえていえば、その行為は「その行為を成した人」の「結果」です。例えて言うと、「暑さあるいは光が太陽による結果」であると同じように、意志的な行為は「ある人に帰すべき」だということであって、ある結果がある原因に帰すると同じように、意志的な行為は意志のある特定に人に帰すべきです。
つまり、行為から見ると、その行為は誰かに「帰しうる」ということです。

他方、行為を成す人から見ると、「その人はその行為に対して責任を負う」ということです。そして、責任を負うのなら、その責任を取るべきだという意味をしています。「責任」があるということは、その行為の責任を取るべきだということです。
要約すると、次のことだけを覚えておきましょう。本物の「人間的な行為」というのは、「考えておこなわれた行為であって、意識して行われた行為であって、意志をもって行われた行為」だということです。
言い換えると、「知性と意志」より生じる行為だということです。

カトリックの道徳が自然道徳を超える3つの理由 【公教要理】第七十二講

2019年11月09日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十二講 道徳について


前回まで、信経を各条にてご紹介してきました。信経というのは、救われるために信じるべき真理です。
今回から公教要理の第二部へ移りたいと思います。思い出しましょう。公教要理には三部があります。信じるべき真理。これは信経です。イエズスは「私は真理である」と仰せになりました。
救われるために実践すべき行為は、第二部で説明されます。道徳です。イエズスは「私は道である」と仰せになりました。そしてその道の実践の模範を自らの一生において与え給うたのです。
第三部は、救われるために、実践すべき行為を実際に行うための方法(秘跡)です。イエズスは「私は命である」と仰せになりました。

公教要理の第二部は、天国に入るために実践すべき行為についてです。道徳と呼ばれます。
というのも、救われるために、信じるだけでは足りないからです。信じて、信仰を実践する必要があります。我々の行為において、信仰を具現化し、表すべきだということです。
我々人間は、知性と意志が一致する存在です。知る、働く、この両方です。だから、我々が習った真理、また知っている信仰を、我々の人生において実践し具現化すべきです。これがまさに道徳です。

例えてみると、ピアノを弾く者が「私はピアニストです」といっただけでは、ピアニストになりません。ピアニストである証拠は実際に「ピアノを弾く」ことです。そうしてはじめて彼がピアニストであることが分かります。言うことはかまいませんが、それと行動・行為とは別です。「真実」であるために、言葉と行為が合うために、ピアニストはピアノを実際に弾かなければなりません。つまり、本物のピアニストは「実際にピアノを弾く者」です。
同じように、キリスト教徒という者は天国に入るために必要となる真理を知りながら、啓示された真理を信経において知り、これらの真理の内に実際に生き、踏襲し、実践してはじめて本物のキリスト教徒です。この実践が道徳と呼ばれる分野です。

聖ヤコボは次のようにおっしゃいます。「霊のない体が死んでいるように、善業のない信仰も死んでいる」 と。
また、聖マテオの福音において、私たちの主は次のように仰せになりました。「私に向かって<主よ、主よ>と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る」 と。
要するに「主よ」というだけでは足りないのであって、父のみ旨を果たすことが必要です。
「私を遣わされたお方のみ旨を行い、その御業を果たすことが私の食べ物である。」 と私たちの主は仰せになりました。
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このようにして、公教要理の第二部は、「道徳」と呼ばれる分野となります。キリスト教徒が実践すべき道、果たすべき業、取るべき行為・行動についてです。

道徳とは一体何なのでしょうか。定義はこうです。「道徳とは実践的な学である。」
実践的とは、働き・行為を対象にするからです。「実践的な学問である」とは、「行動を律する学問である」ということです。ここでいう「律する」というのは、「指導する」というニュアンスがあります。規則の語源は「定規」という意味ですが、一線を真っすぐ書くための道具という意味であって、「一線を規する」ということですね。
道徳上の規則は行為を導くものです。どういった「定規」かというと、我々の究極的な目的地である「至福直観」に入るために啓示に織り込まれている原理に基づく「諸規則」です。
言い換えると、啓示とは、信じるべき真理を我々に教えます。つまり、どこへ向かったらよいか、どこに行けばよいかを教えるのです。そして、さらに啓示は我々が何を実践すべきかをも教えます。信じる真理との一貫性の内に生き、目的地を知るだけではなく、実際に目的地まで辿り着くためにどうすべきか、です。その辿り着く目的地は「至福直観」です。
従って、道徳とは、キリスト教の道徳しかありません。言い換えると、「至福直観」あるいは永遠の命あるいは我々の究極的な目的地まで辿り着く「道」だけがあって、唯一の道です。これがカトリック道徳、またはキリスト教の道徳です。

カトリックの道徳は「自然道徳」よりも優位な地位に立つものです。当然、カトリック道徳は「自然道徳」を破壊することはありません。その逆です。カトリック道徳は「自然道徳」を基礎にしています。「自然道徳」とは、人間の「自然あるいは本性」に織り込まれている道徳を指します。また、我々が常に実践する自然な行為を対象にしている道徳です。
カトリックの道徳は自然道徳を受け入れ、さらに何かを付け加えます。自然法あるいは自然道徳を完全化させるのが、カトリックの道徳です。

カトリックの道徳は自然道徳より完璧ですが、それはなぜでしょうか。

【第一】、原理においてより完璧です。自然道徳は、理性と知性によってだけ律せられます。他方、カトリックの道徳は、信仰あるい啓示によって律せられます。理性よる智慧を含め、理性によって手に入らない智慧も付け加わるのです。
【第二】、対象においてもカトリックの道徳はより完璧です。なぜかというと、また後述しますが人間の本性に織り込まれている掟を実践する(自然道徳)際に、カトリックの道徳は天主ご自身が「行え」と命令された掟をも実践するからです。
【第三】に、目的においても、カトリックの道徳はより完璧です。なぜなら、自然道徳は自然な目的へ導きます(例えば社会の平和とか)が、他方、カトリックの道徳は超自然な目的へ導くからです。というのも、天主は自然な次元を超えて、人間を超自然な次元まで高めようとなさっているからです。公教要理において「永遠の命」という信条がありますが、まさにそれです。天主ご自身の生命を人間と分かち合うことを望まれ、我々に注ぎ給う「超自然の聖寵」があります。

つまり、カトリックの道徳は人間の行動・行為を律する掟・原理であって、そして、その道をしっかりと歩むなら、ほぼ間違いなく「永遠の命」あるいは「至福直観」という目的地まで辿り着くでしょう。
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カトリックの道徳について、諸誤謬があります。というのは、何かカトリックの道徳から独立した「道徳」があるかのように言われたりするからです。いわゆる「市民道徳」といったようなことですね。あえて言えば、「世俗上の道徳」とも呼ばれるものです。

しかしながら、こういった宗教なき「世俗上の道徳」は考慮する価値がありません。宗教を無視する故に、虚しい道徳です。「世俗上の道徳」は、カトリックの道徳はもちろん、自然法をすら無視しています。
この「市民道徳」の唯一の基礎は「個人の良心」にある、つまり「人間」にあるとされています。しかしながら、こうなると、もう道徳であるとは言えません。なぜかというと、道徳の原則が個人の良心になってしまったら、一人一人が違う「道徳」を持つようになるからです。こうなると、普遍的な道徳はなくなり、ある種の無秩序主義になるに過ぎないからです。

市民の道徳、あるいは世俗上の道徳、あるいは独立・自律した道徳といった類のものは、人間を原則にして、人間を目的にする挙句、無秩序を生むのです。なぜかというと、結局、人々は何も普遍的な原則を認めなくなるので、自分の「流儀」で何でも片付けるからです。そして、皆自分を守る為に何とかするのです。

以上の道徳を行うと、正に、ホッブスが『レヴィアタン』という本において言った「万人は万人に対して狼」という状態になってしまいます。確かに、市民道徳、あるいは世俗化された道徳、あるいは独立した道徳を採用すると、「万人は万人に対して狼」になるしかありません。こういった道徳の一番悲劇的なところは、結局一番弱き者、不正にあう者たちが、正義を求めようがなくなる状態となることです。彼らが犠牲になるのです。
要するに、独立した道徳というのは、意味のないことです。

逆に、どう見てもキリスト教の道徳が、一番優秀です。

第一、その道徳の基礎は天主であり、またその道徳の作成者は天主です。その上、その道徳の目的は、また天主です。そして、天主は至上の善ですから、我々人間には、皆、どうしても善を取得したいという渇望・本能があります。できるだけ完璧な善を取得したいとみんな思っています。ところで天主は「至上の善」なので、カトリックの道徳は、天主をその基礎、かつその目的にしているので、至上完全な道徳になるのです。この道徳の中身も一番完璧です。

カトリックの道徳は完全完璧です。なぜかというと、イエズス・キリストは、我々の本性を受け入れ、さらに、我々の本性を高め、追加の何か(超自然)を我々の本性に付け加えたので、最初になかったことを付け加えて「完全化」したからです。だから、カトリックの道徳は自然道徳よりも完全であって完璧だといえます。

そして最後に、天主が不変であり、普遍的であると同じように、カトリックの道徳も不変であり、普遍的です。だから、カトリックの道徳はすべての完全性を持っています。
この道徳こそを実践すべきです。



これから、この道徳をご紹介していきたいと思います。四部に分かれます。

第一部では、道徳の全般原理をご紹介します。主に、「人間的な行為」についての話です。というのも、道徳とは「行為を行う」ことについてなので、「人間的な行為」とはなんであるか、どういったことで成り立つかをご紹介します。
第二部では、「聖徳と罪」を説明していきたいと思います。その時に詳しく説明しますが、一言で言うと、「善き行為と悪き行為」です。
第三部では、「掟」について説明していきます。掟とは、天主が決めて命令した掟・戒めです。善悪の基準でもあります。
最後に第四部で、手短にしますが、天主が「十戒」に付き加えた、三つの「福音的な勧告」についてご紹介します。また「福音的な至福」も含まれています。
以上が、道徳の部の四つの部分です。

第一部は「人間的行為」と「道徳生活の全般の原理」です。
第二部は「聖徳と罪」です。
第三部は「十戒」です。
第四部は「福音的な勧告と至福」です。



地獄の永遠の苦しみをたとえると・・・ 【公教要理】第七十一講

2019年11月05日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十一講 永遠の命-③


「永遠の命を信じ奉る」
信経の最後で、人間の究極的な行き先を教える信条です。以前にも申し上げたとおり、三幕で要約できる「最期」です。
第一幕は「死」です。霊魂が身体を去り、悲痛な分裂を経験します。
第二幕は、「私審判」です。天主のみ前に霊魂が出廷して裁かれます。
そして、判決が下った後、第三幕は「判決の執行」です。
これが、永遠の命の始まる「終末論」の第三幕です。

「判決の執行」はどうなっているでしょうか。私たちの主は福音において何度もそれについて仰せになります。
救われる霊魂は「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ。」 と言われます。
断罪された霊魂は「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 と。

要するに、我々の霊魂は裁かれ、その報いを得ます。善を施し、天主との親密さの内に生きてきたならば、つまり、霊魂が愛徳の内に・聖寵の内に生きたのなら、その報酬を得ることになります。一方、天主と友情を拒絶し、聖寵を拒否し、秘跡を断った霊魂は、裁かれたのち断罪されて刑罰を受けます。判決の執行です。

正しき者の場合、その執行は天においてなされます。受刑者の場合、地獄において執行されます。

第一に、天についてご紹介しましょう。天国とは一体何でしょうか。

天とは、聖人たちと天使たちが、天主を直観し、天主を所有することによって完璧な幸せ、永遠な幸せを享受する場所を言います。天における至福は「天主の直観」にあります。というのも、天主が至上の善であるからです。そして、この天主の直観とは、天主を所有することです。地上においても垣間見える真理です。地上でのあらゆる喜びは「愛している物事を所有する」ことにあるのと同じです。従って、至上の幸せは、至上の善を所有することにあります。その所有とは、至上の善である天主を直観することによって実現します。天主よりすぐれた善などありえないからです。

天国とは、天主の直観と天主の所有です。別称は「楽園」とも言います。または、「天の王国」、「聖なる都」、「天のエルサレム」、または「天の祖国」あるいは「天の故郷」または、「栄光の住まい」などなどの呼称があります。要するに、天というのは「永遠の命」です。
当然ながら、聖書において天国の存在が啓示されています。また、公教会がいつも断言し続けた真理です。また理性に照らしても天国の存在も裏付けられます。というのは、地上で報いられていない正しき者、時に屈辱的な扱いをされて不名誉にあって酷い目に合わせられた正しき者には、来世の命において報いがあると理性によって断言できるからです。

そこで、天国というのは具体的にどうなっているのでしょうか。天国を特徴づけるのは、あらゆる悪から免れ、あらゆる善を保有することにあります。天においては、苦悩も悪も全くありません。物理的な苦悩もなければ、精神的な苦悩もありません。黙示録において、次のように書かれています。
「人とともにある天主の幕屋がこれである。天主は人とご自分の住まいを定められる。人は天主の民となり、<人とともにある天主である主>は人の天主となられる。」


ここでは、天主の所有 が表現されています。続いて、「天主は人の目の涙をすべてぬぐわれ、死ももうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。前のものが過ぎ去ったからである。」 とあります。

要するに、天において苦しみはなくなります。なぜでしょうか。聖人たちまたは福者たちは、天に住まう人の呼称ですが、というのも、天にいる人々はその通り「聖人」ですから、つまり、福なる者たちは至福直観を享受し、限りなく幸せになるのです。
福なる者たちは、天主を「見る」のですが、当然ながら身体の目で「見る」のではありません。天主は霊的な存在なので、身体の目で見ることはできません。知性をもって天主を見て、天主がその理性に注入する栄光の光によって啓発され、天主によるこの特別な賜物のお陰で、天主をありのままに「見る」ことが可能となります。
人間のこの上なく素晴らしい運命はこれです。「天主をありのままに直観し、天主との親しさを分かち合う」ことです。これこそが、天主が人間を召命する究極的な目的です。
天主は栄光の光を通じ、ありのままに御自らを天にいる霊魂たちへ示し給うのです。

それから、以上の霊魂の幸せの上に、他の幸せが加わります。例えば、私たちの主イエズス・キリストを直観し、聖母マリアを直観する幸せなど。というのも、天における聖人たちは、不動で凍結しているのではなく、本当の意味で生きているし、感覚をもそのまま持っているからです。ですから、天においては「偶有的な栄光」と呼ばれる栄光も伴います。または「感覚の栄光」も享受します。
たとえば、地上の知り合いは、天においてもお互いに知り合いのままですし、地上においてあった正当な愛情は天においても引き続き持ち続けます。
また知らない聖人たちに対しても一緒に平和的に生きて、平和の内にいつまでも生きます。
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以上、天国をご紹介しました。しかしながら、取り返しの出来ない判決を受ける人々もいます。至上の裁判官が「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 という判決を告げられる人々のことです。
地獄と呼ばれる刑罰は非常に恐ろしい刑罰です。地獄とは、呪われた者のいる場所であって、彼らはそこで悪魔たちと一緒に、永遠に苦しむ運命となります。

福音において、私たちの主イエズス・キリストが何度も何度も強調なさった真理というと、やはり「地獄」という真実です。頻繁に、いや、他の真理よりももしかしたら一番頻繁に、イエズス・キリストは「地獄」という真実について仰せになりました。私たちの主は地獄について次の言葉で説明されます。
「殺したのちゲヘナに投げ入れる権威ある御方を畏れよ。私は言う。そうだ、その御方を恐れよ」 。
または「国の子らは外の闇に投げ出され」 。外の闇というのは至福の場所である天国の外のことですね。
続いて、「そこで泣いて歯ぎしりするだろう」 と仰せになりました。

公教会は最初からいつも地獄を教え続けていました。また、信じるべき一つの信条です。フィレンツェの公会議の際、次のことが発布されました。
「大罪の状態で死ぬ人々の霊魂は、即刻、地獄に落ち、相応しい、異なった、公平な罰を受けることを我々は定義する」と。
相応しい、異なった、公平な罰とは、当然なことで、犯された罪次第で、それぞれの罰も変るからです。
また、理性に照らしても、地上では刑罰を受けなかった悪人に対して、いずれか罰を受けるだろうとするのが当然です。これが来世において受ける罰です。罪が深刻だった場合、つまり「大罪」だった場合、言い換えると「天主に対して完全に背く」罪だった場合、永遠なる存在を拒絶した故に、その罪も永遠なり、それに伴う罰も永遠となります。他方、軽い罪に留まった場合、それに伴う罰も軽くなります。



そこで、地獄における罰には、二つの要素に要約できます。
第一は、「永罰」です。第二に「感覚の罰」です。

「永罰」とは、霊的な罰なので、我々地上の人間にとっては、一番理解しづらいかもしれませんが、永罰こそが一番恐ろしい罰です。「Dam」「永罰・劫罰」という言葉から転じて「呪われた者Damné」という言葉がフランス語にあります。「永罰」とは、「至福直観」の剥奪という罰です。地上における我々にとって、天主を見ることはできないので、「永罰」が「至福直観」の剥奪だと言われても、「平気だろう」と思いがちです。しかしながら、それは間違いです。

身体から霊魂が去った瞬間に、また純粋な霊的な生命だけで生きるようになる霊魂は、どうしても霊魂の行く先への抑えきれないほどの渇望欲に包まれます。霊魂の究極的な目的、行く先は天主なので、霊魂においては、天主をどうしても願望する気持ちが溢れます。
問題は、地上において、最期までずっと霊魂の目的である天主を拒絶してしまった霊魂の場合、死後、その渇望欲を感じても、引き続き天主を拒絶してしまいます。聖霊が言う通りです。「傾いている方向に、結局、木は倒れる。」

というのも、霊魂自身が結局天主を拒絶するからです。それこそが地獄の一番凄まじい要素です。
時々、地獄があるから天主は恐ろしいと言われていますが、実際は違います。霊魂こそ、その自分の創造者を拒絶することが恐ろしい事です。天主ではないのです。天主は一人の霊魂でさえも拒絶することはありません。逆です。霊魂が天主を拒絶するのです。

そして、天主を拒絶すると、霊魂は必然的に自分を劫罰の身にしてしまいます。これこそが非常に悲劇的なことで、凄まじいことです。要するに、地獄での永罰において、霊魂は、本性的に、本質的に「天主への願望」を持っているのに、その「渇望」をその霊魂が積極的に拒絶して否定してしまうのです。悲劇的なことです。言い換えると、常時この矛盾の内に永遠に生きる罰を受けるです。罰であり、常なる分裂でもあります。地獄に落ちた霊魂は、自分を分裂させるのです。

例えてみましょう。何か、本能的に呼吸する必要のある一人が、身体的に呼吸しようとして、物理的に口を開けて肺に空気を入れようとするものの、何も空気が入ってこないようなことが、劫罰と似ています。地獄においての霊魂はこういった感じです。

聖ドンボスコがビジョンで地獄を見ましたが、次のように描写しています。
ところで地獄を見たすべての聖人が似た表現で地獄を描写しています。つまり、地獄に落ちた霊魂は「天主への渇望によって上に行こうとするが自分の罪の重みでいつも必ず下へ落ちる」と。このようにして、その終わらない常の悪循環におちいった霊魂は、自分の望んだ矛盾、そして自分の推し進めたその矛盾の内に生き続けるのです。地獄に落ちた霊魂は結局、自らが地獄に自分を落とすのです。以上が「永罰」でした。

その上に、「感覚の罰」もあります。主に、「火の罰」で執行されます。これも恐ろしい罰です。なぜかというと、この地上において、地上の物事・物質的な物・被創造物に愛着し隷属するために天主を拒絶した人は、地獄において物質的な火によって霊的に罰を受けるからです。

我々にとって、物質的な火が霊的存在を害することがありえるなんて神秘です。この世では火傷する時、身体が火傷しますが、霊魂ではありません。ところが天主の全能によって、地獄の物質的な火が霊魂を焼き、損害することが可能となります。これも恐ろしい罰です。しかしながら、永罰に比べるなら、これは恐ろしくないといってもいいでしょう。
さらに地獄に住んでいる霊魂は、悪魔たちと呪われた者からなる恐ろしい社会の中に生きる罰をも受けます。地獄には、憎しみ・嫉妬・悪意ばかりです。一方、天国においては平和と幸せのみです。
地獄にいる霊魂は、自分の犯した罪に合った刑罰を受けます。地上では、過剰に快楽を得ようとすればするほど、地獄において永遠にそれに相当する刑罰を受けます。
地獄に落ちる霊魂は、大罪の状態で死ぬすべての霊魂です。一つだけの大罪を犯しただけで、その状態で死ぬならば地獄に落ちるのです。
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地獄の存在は不正なことではありません。残念ながら、昨今、地獄に対する非難の声が少なくありません。
「天主は不正だ!」とか「天主は残酷だ!」とか言う人がいます。
「天主が愛そのものであるのなら、ある霊魂を地獄に落とす判決を出せないはずだ」とか。

しかしながら「天主はひどい」と言ってもこれは視点が間違っています。天主ではなく、霊魂のほうがひどいのです。というのも、最期に悔い改めないまま死んでしまうのは霊魂ですから。また、死んで天主を拒絶するのは霊魂です。天主から離れるのは霊魂です。従って、天主がどうやって、その状態の霊魂に「おいで!」と言えるでしょうか。その霊魂は、それを望まないわけで、天主が何者かを拘束することはそもそもありません。

面白いことに、現代では「自由万歳!」と唱えている同じ連中が「天国に入れるように天主に拘束されたい」というのですか?それは違いますね。天主を受け入れるか拒絶するかは一人一人次第です。これは人間の自由です。そこで、自由に自分の取った判断に対する責任を取るまでです。永遠にその責任を取るまでです。従って、天主を拒絶する霊魂たちこそがひどいわけです。霊魂自身が自分を地獄に落とすのです。人は自分の一生の送り方次第で、天主を拒絶することによって、また、天主の御慈悲、御憐れみを侮辱し軽蔑することによって、自らに自分を地獄に落とすのです。

天主は無償に御憐れみを人間に与え給います。御自分の御子を送り給い、十字架上に捧げ給うたのです。ある人がその素晴らしい賜物を、原罪を犯した我々に対するその有り余るほどの御恵みを拒絶したのなら、もうどうしようもありません。天主が彼の自由を拘束するわけがありません。「愛」というものは強制では得られないものだからです。天主は人間を拘束しません。ですから、天主ではなく、天主の愛を拒否することにおいてこそ、霊魂がひどいことをするのです。

また、「しかし天主は善い御方なので、地獄での罰は決まった時間で終わるだろう」という非難もあります。
しかしそれもありません。確かに天主は至上に善い存在です。それは当然ですし、大賛成です。ところが、だからといって「馬鹿げた甘やかしをする優しい天主」とはならないのです。
天主の善良さは、天主の智慧と一致しています。天主の善良さは天主の正義と同じです。従って、永遠の命を拒絶した霊魂に対して、天主は永遠なる正義を課するしかないのです。そして、犯された罪に対して、完全に適切な刑罰を与えます。公平です。不正もなければ、善良さの欠如も一切ありません。
創造主に背く霊魂こそが不正であり、自分を創造した天主に背くことこそが、善良さを欠如しています。

面白いことに、地獄に対する非難において、何か人間の責任を軽くしようとするかのように、いつも天主のせいにする傾向が見られます。しかしながら、責任は人間にあります。天主は人間のためにできるだけのことをすべて成し給うたからです。地上に来たり給い、十字架上で死に給うたほど、人類の罪を贖ったからです。

そこで、「まあ、地獄に行くことがあっても、限られた時間で償えたら天主が赦してくれるだろう」とも言われたりします。
問題は、赦しはいくらでも与えられますが、悔悛という条件があります。悔悛の心がある限り、赦しが可能です。自分を地獄に落とす霊魂の問題は、悔悛を拒否するということです。永罰の受刑者がなぜ赦しを貰えないかというと、悔悛を頑固に拒否するからです。
死後は、霊魂は純粋に霊的な生命で生きているので、「改悛を拒否」する意志も「完全」となり、永遠の責任を伴う意志の行為となってしまいます。従って、地獄には終わりがないのです。天主のせいではなく、その逆です。

地獄の定義に従うと、そこは一時的な場所ではありません。地獄に落ちる霊魂たちは、残念ながら、永遠に地獄に落ちるのです。ファチマの三人の子供たちに、聖母マリアの出現がありましたが、その時に聖母は地獄を見せました。「雪のように霊魂たちが地獄に落ちていった」のです。
そして聖母は「可哀そうな罪人のために誰も祈らないから」と嘆いていました。そして、残念ながら、霊魂たちはどんどん地獄に落ちています。
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地獄は一時的な場所ではありません。一時的な苦悩の場所は確かにあります。それは煉獄という場所です。煉獄は「天国への控室」だと定義できましょう。



至福の場所である天国に入る前に、天主を直観できる場所に入る前に、有限の罰から清められる必要があります。小罪あるいは赦された大罪に伴う償いがまだ残っていて、それを償うために煉獄にいくのです。その場合、聖寵の状態にあるので、霊魂は天国に入る資格がありますが、入るために霊魂の清めが必要なのです。その清めは煉獄の火によって行われます。地獄の火と同じように、煉獄の火も霊魂に対して物質的な火でありながら霊的な影響を及ぼします。煉獄の火は、霊魂のすべての穢(けが)れを清めます。

煉獄においても、地獄と同じように「天主を直観できない」罰がありますが、永罰と違って永遠の罰ではありません。一時的な罰であって、「有限の罰」と言われ、時間の期限のある罰です。だから、煉獄にいる霊魂たちはいずれか天国に入れる確信を持ち、そのことを知っているので、喜びが残っています。その上、「天主を直観できない」罰の上に、煉獄でも「感覚の罰」もあります。清められるために、煉獄の霊魂たちが苦しんでいるのです。現実の火(本物の火)によって起こされる肉体的な苦しみです。

煉獄での刑罰は、地上にいる我々が想像できるあらゆる刑罰よりも恐ろしくて苦しいものです。聖アウグスティヌスは次のことを書いています。「煉獄の火は地上の人生において人間が苦しめられるあらゆるものよりも苦しい。」
また、聖ベルナルド曰く。「地上で怠ったすべてものは、煉獄で百倍以上に払わねばならぬ。」

ところが、煉獄にいる霊魂たちには「希望」の慰めもあり、天主の神聖さと天主の正義を理解して慰めとします。つまり煉獄で受ける苦しみは、至上の善なる天主との接触を、天主を有りのまま直観する準備のためにあるのだと知り、煉獄の霊魂たちはある程度の慰めに癒されています。ところが、いくら煉獄で苦しんだとしても、それに伴う栄光はすこしもありません。

ところで、天の下の地上にいる我々は煉獄の霊魂たちを助けることが可能です。我々の祈祷と犠牲、または贖宥によって煉獄の霊魂たちを助けることが可能です。煉獄の霊魂たちを助け、時には解放させて、我々のお陰で天国に入った霊魂たちは、我々の愛徳に答えることも確実です。地上においての我々の人生においても、天主のみ前に出廷する日にもそうです。

最後に、もう一ヶ所についてご紹介したいと思います。より不思議な場所と言えるかもしれませんが、「辺獄」(リンボ)という場所です。そこは、洗礼を受けないまま、まだ分別がつかないまま死んだ赤んぼうの霊魂の行く場所です。

この世に生まれる子供たちはみんな原罪の穢れを持ったまま生まれます。原罪のせいで、至福直観を享受することが不可能な状態にされています。なぜなら原罪のせいで、聖寵を受けることは不可能ですから。洗礼を受けた暁に、始めて原罪から清められて聖寵の生活に生まれるのです。ところが、原罪を持ったままに生まれる赤子が洗礼を受けずに天国に入ることは不可能であって、天主を直観することは不可能です。聖寵の状態にはなっていないので、天主の直観は不可能です。
ところで、原罪は、個別の罪ではなく、個人のせいではないので、洗礼を受けずに死んでしまう幼児が「大罪を犯した霊魂たち」と同じように地獄で罰を苦しむことには値しません。ですから、神学者たちが「辺獄」と呼ぶ場所に、原罪だけの罪を持つ幼児の霊魂たちが行きます。
そこでは、天主の至福直観とそれに伴う栄光が剥奪されているものの、幼児はある程度の自然な「幸福」を享受することが可能な場所です。一言で言うとここが「辺獄」です。

以上、「終末論」についてご紹介しました。