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1500年前のフレスコ画でわかる、変わらぬミサ、変わらぬ信仰|削除された聖変化の直後の美しい祈り

2021年11月30日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



プーガ(D.Puga)神父様のお説教  
聖伝ミサ、変わらぬミサ
2021年9月12日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、芸術の作品などを見ることによって、先人たちの信仰がどうなっていたのかを確認することができます。だからキリスト教が生んだ芸術は重要です。フランスでは非常に古い教会や綺麗な教会は多くありますが、本日は主任司祭様が喜ばれるかとおもいますが、イタリア北部にある教会についてお話したいと思います。というのも主任神父様の故郷の近くにあるラヴェンナの教会、サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂という教会だからです。

6世紀の初期に建てられたとても古い教会であり、現代まで立て直されていないことから、もとのままになっています。その教会には立派なモザイク画がありまして、旧約聖書と新約聖書の幾つかの場面が描かれています。ラヴェンナの教会は最初、一世紀にはじめて建てられまして、聖アポリナリスによって創建されました。聖アポリナリスは聖ペトロの弟子の一人でありますので、公教会の初期中の初期です。

そして綺麗なこれらのモザイク画の内の一つについて特別にご紹介したいと思います。旧約聖書の三つの場面が並べられてこのモザイク画にあります。アダムとイヴの子であるアベルのお供えの場面があります。ご存じのようにアベルは汚点一つもない仔羊を捧げる場面です。アベルの犠牲は天主によって召しいられることになりますが、アベルの兄、カインは人々の労働の実りであった農産物をお供えしましたが、天主によって召しいられなくて認められませんでした。それでカインは犠牲が認められた弟を嫉妬し憎むようになり、アベルを殺しました。歴史上はじめての殺人ともなります。



アベルの犠牲は我らの主、イエズス・キリストの生贄の前表であり、イエズスの犠牲を示します。というのも、アベルのようにイエズス・キリストもユダヤ人たちの指導者たちなる「兄」によって死刑に処せられました。また、正しい人だったアベルは正しい人イエズス・キリストをも示します。この上なく聖なる人であり、汚点一つもない仔羊として自分自身を十字架上に架かり捧げた正しい人です。

同じモザイク画にはもう一つの別の犠牲も描かれています。アブラハムの生贄です。ご存じであるかと思いますが、天主がアブラハムに命じた生贄でした。アブラハムには息子一人しかいませんでした。そしてこの息子より多くの子孫が生まれるだろうという約束を天主がアブラハムにされたのに、いきなりアブラハムはアブラハムの息子の生贄を命じます。アブラハムは非常に動揺しましたがアブラハムは天主の命令に従うべきだと知っていました。このようにアブラハムは自分の息子を生贄として捧げる準備をはじめます。アブラハムが愛する息子、最愛の息子、イサクを、聖伝に照らして、エルサレムのモリヤ丘へ連れていって、イサクを生贄として捧げることになります。

イサクは生贄を燃やすための薪を負っていましたが、イサクは捧げられる生贄は自分自身であることは知りませんでした。するとイサクは父に聞きます。「ここに火と薪を持っていますが、いけにえの子羊はどこにいるのですか」(創世期、22、7)。父は聖霊の感化もあって、「息子よ、天主がいけにえの子羊をご自分ではからってくださるだろう」(創世期、22、8)と答えました。そして、アブラハムは天主の恐ろしい命令を実行する直前になると、主の天使が現れてアブラハムを止めてイサクの生贄はすくわれました。天主はアブラハムの覚悟を見て召し入れられました。このようにしてイサクは死から逃れました。



この生贄も我らの主の生贄を示し、イエズスの将来の生贄を予告します。我らの主、イエズス・キリストはアベルのように死なれたのですが、同時にイサクのように生き残られたのです。イエズスは十字架上で死なれてから、復活されました。
そしてアブラハムは正しいことに聖霊の導きにしたがって、「息子よ、天主がいけにえの子羊をご自分ではからってくださるだろう」といいました。現に、アブラハムの言う通りでした。というのも人々は天主に値する生贄を見つけることなんて到底できないことですから。ですから、天主はご自分自身の息子を生贄として与え給いました。実にイエズスをもってはからってくださいました。天主はアブラハムに結局、息子の生贄をさせなかったのですが、代わりにご自分自身の息子を生贄のために与えられ、現に十字架上で死に給いました。天主は我々のために計らってくださいました。



以上の二つの場面はモザイク画の両端にありますが、中央には旧約聖書の謎の多い人物、メルキセデクが描かれています。メルキセデク大司祭です。メルキセデクはアブラハムの人生の間に出会った人物です。アブラハムがある戦争に勝利して帰省する時に登場した人物です。凱旋して帰る途中のアブラハムの前に、王であるとともに司祭でもあったメルキセデクが会いに来ました。至上司祭であるメルキセデクです。サレム王であるメルキセデクです。ヘブライ語では「メルキセデク」ということばは「正義の王」という意味です。また、「サレム」とは「平和」の意味であり、現代ヘブライ語の「シャロム」という挨拶の語源です。つまり、メルキセデクは正義の王であり、平和の王です。なぜなら、本物の平和は正義が全うされてはじめて確立できることだからです。正義が全うされていない時、平和は確立できない、実現できないのです。ことに天主に返すべき正義を全うしなければさらのことです。



聖書ではメルキセデクについての詳細は不明です。彼の家系などもわからないままに、父母もいないかのようです。そして、アブラハムはメルキセデクへ貢(みつぎ)を進呈しました。聖パウロはこの場面を説明してくれます。アブラハムは旧約聖書の司祭たちの父であります。レビ族の父だからです。言いかえると、旧約聖書の司祭職はメルキセデクの神秘な司祭職の前にひれ伏すということです。

ご存じのようにメルキセデクはまた、パンと葡萄酒をお供えします。そしてメルキセデクのお供えはパンと葡萄酒の形色の下にまします我らの主、イエズス・キリストの前表だと公教会は理解しました。ちなみに、メルキセデクの時代の数世紀後、ダヴィド王は王たる救い主、メシアについて語られるとき、天主はダヴィド王に次のように仰せになったと詩編に残されました。「Tu es sacerdos in aeternum, secundum ordinem Melchisedech(あなたは永遠の祭司、メルキセデクの位に等しく)」(詩編109、4)

「メルキセデクの位」という意味は旧約聖書より優れて上位にある司祭職であるという意味で、イエズス・キリストはこの上ない司祭であることを表します。また新約聖書の司祭職は旧約聖書の司祭職より優れて上位にあるということをもあらわします。なぜなら、イエズス・キリストが制定なされた司祭職は決定的であり、また正義の王、平和の王であるメルキセデクはもちろんイエズス・キリストを示すからです。メルキセデクには家系がないのは、イエズス・キリストの神秘に満ちている御托身、肉体になり給う玄義を示しています。

「Tu es sacerdos in aeternum, secundum ordinem Melchisedech(あなたは永遠の祭司、メルキセデクの位に等しく)」(詩編109、4)

このようにメルキセデクはモザイク画の中央に描かれて、メルキセデクの祭壇にあるパンと葡萄酒に向けてアベルが仔羊を捧げる姿です。同じように、イサクもアブラハムに連れられてメルキセデクの祭壇へ赴く姿です。そしてモザイク画のメルキセデクの姿は旧約聖書において記されている老人のように描かれると同時に、我らの主、イエズス・キリストの風貌も見えています。

このモザイク画は6世紀のモザイクです。つまり1500年前の古いものです。なぜ、このモザイク画について紹介したかというと、愛する兄弟の皆様、聖伝ミサの典礼において、イエズスの御体と御血へ変化するパンと葡萄酒の聖変化のすぐ後に司祭は天主へお祈りを申し上げるからです。

「ありがたきご受難」から生まれますが、人祖の原罪について「O Felix Culpa(嬉しき罪)」と歌い、つまりこれほど素晴らしい救い主を送られたので、ありがたい原罪というようなことですが、おなじように「ありがたいご受難」とも祈ります。天国の門はご受難のお陰で我々のために開けられたからです。

「ありがたきご受難、いとも高きみいつ(ご威厳)に対して、御身のたまわった賜物の中から、この清く、聖なる、汚れなきいけにえ、永遠の生命の聖なるパンと永遠の救いのカリス」を捧げ奉るという祈りです。言いかえると、祭壇の上にある御体と御血を天主にお捧げしますが、この御体と御血は天主から与えられたわけです。
 
続いて、司祭は祈りをつづけます。「この供え物に、ご嘉納のおだやかな御目を降し給え。」
先ほどご紹介したモザイク画にはメルキセデクの上に天主の御手があって、御手は穏やかに差し出されて、天主は生贄を召し入れ、受け入れる、嘉納することを表します。

それから、カノンの祈りは続きます。「主のむすこなる義人アベルの供え物と、我らの太祖アブラハムのいけにえと、主の大司祭メルキセデクが主に捧げ奉った供え物を受け入れ給うた如く、汚れなきホスチアを受け入れ給え」

ご覧のように典礼の聖変化の次にすぐ、アベル、アブラハムとメルキセデクの生贄は記念されています。唯一真の生贄であるミサ聖祭、言いかえるとイエズス・キリストの十字架上の生贄を事前に予告し、示され、前表となったこの三つの生贄は聖変化のすぐ後に記念されるということです。イエズス・キリストは汚点一つもない仔羊であり、天主の唯一の御子であり、聖パウロがいうように、「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのために渡された」(ローマ人への手紙、8、32)方であり、また至上の祭司であることを思い起こさせます。

罪の償いのためにパンと葡萄酒の外観の下に、イエズス・キリストは自分自身をお捧げするということも聖変化の次の祈りによって思い起こされます。またこの生贄は天主が召し入れて、受け入れ給い、喜び給うお供えです。そして、このようにイエズス・キリストのいけにえのお陰で天からの恵みを得られるようにという美しい祈りです。

先ほどのモザイク画は1500年前のモザイク画ですよ。このモザイク画はカノンの聖変化の次の祈り(Unde memento とSupra Quae)とぴったりと重なります。このように1500年前の信仰、我々の先人たちの信仰は現代の信仰と全く同じであるころを芸術を通じてわかります。このため、芸術は大事です。

というのも先ほどのモザイク画の場所ですが、当時ミサ聖祭が捧げられる場所でした。ミサ聖祭を捧げる場所であると想定して描かれたモザイク画です。つまり、カノンの後の祈りは1500年前にすでに存在していたことの証拠です。要するに聖変化の後の祈りは少なくとも1500年前までさかのぼります。それ以上に古いとされています。大教皇レオの時代にはすでにこの祈りがあったことが知られています。



つまりこのような祈りは宝です。イエズスの生贄の本質についての素晴らしい中身としても宝ですし、先人たちの祈りであり、最初からラテン語の形で祈られたとしても宝です。というのも、先ほどのラヴェンナの教会は聖ペトロの弟子、聖アポリナリスによってはじめて建設されたことから、聖ペトロによってラヴェンナへ福音を運ぶために送られたと思われるからです。ラヴェンナでは2世紀に入ったらすでに強く広いコミュニティがそこにありました。当時、ラヴェンナは大きな都会でした。

要は、現代でも聖変化の後のこの祈りは聖ペトロご自身にまで遡っている可能性が高いということです。ですから聖伝ミサを「変わらぬミサ」だと呼ぶのはこのためです。聖伝ミサの中には、非常に古い要素が多くて、イエズスや最初の使徒たちに繋がっている要素も多いのです。

ところが、愛する兄弟の皆様、1969年の典礼改革を経て、この祈りは取り消されました。新ミサにはいくつかのカノンがありますが、いずれにもなくて、完全に取り消されました。

つまり、カトリック信仰を完璧に表現する祈り、または聖ペトロの時代に遡るだろう祈りをあっさりとなくされたということです。
現代では全国にある古い教会を破壊しようと積極的に進められたら、皆様はどうしますか?いわゆる、時代遅れの建築なので、これらの教会を壊して、その代わりに近代的な建築に変えようと言い出されたらどうでしょうか?これは犯罪になります。深刻な犯罪です。

同じように、数世紀以上、ほぼ2千年の遺産をなくすことなんてまさに犯罪です。

愛する兄弟の皆様、以上のようなことからどれほど聖伝ミサが大切であるかを考えましょう。先人たちの信仰を表す聖伝ミサを守りましょう。聖伝ミサは本当に長い伝統を持ちます。

最後に、本日、聖なるマリアのみ名の祝日でもあります。本日は日曜日なので主日のミサを捧げます。というのも聖母マリアよりイエズスが優先されるからですが、折角の聖母マリアの祝日なので、聖母マリアの名において何かの信心をぜひともやってください。

また本日はウィーン包囲の戦いの勝利です。1683年9月12日、トルコの侵略を撃退した戦いですが、その勝利は聖母マリアのみ名のお陰で得られました。また、今週の水曜日は、聖母マリアの七つの苦しみの祝日でもありますので、汚れなき御心を特に愛している我々なので、我らの御母を特に崇敬しましょう。また、典礼の遺産を我々が守れるように助けを与えるように祈りましょう。聖伝ミサの宝は我々の信仰の維持がかかりますので踏ん張って守り抜きましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

教会の一致:その意味を間違えてはいけない

2021年11月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教  
教会統一、教会一致というもの
2021年06月06日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日のミサ、御聖体の祝日のミサの密唱をもって、教会はこのように我々を祈らせます。カノンひいて奉献部の前の祈りです。「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」

以上の祈りにおいて、教会は一つの真理を示します。ご聖体と教会の一致とは密接に結びついているという真理です。
さて、教会の一致についてまずひとこと、言っておきましょう。以上の祈りの綴りは誤解を招きかねないので、改めて注意していただきたいという点です。つまり、教会の一致は成し遂げるべきことではなく、すでに現実に教会は一致しているという事実があります。現代は皆、「教会の一致を成し遂げよう」とよく言われているのは要注意です。というのも、教会の一致はすでに存在していて現にあるからです。

教会の一致の礎は信仰なのです。信仰が一致しているから、教会は一致しています(注・信仰とは信経の信条という客観的な中身を指し、気持ちとか感覚とか慣行とかではありません)。それから、教会の一致はさらに秘蹟において発展して、秘蹟が時代と場所を問わないで一致することから、教会が一致しています。また、教会の一致は動因をも持つのです。教会の一致の動因は、信仰と秘蹟を守る権威者、教皇にあるのです。

以上の祈りのように、我らの主に「一致の賜物」を希うことがあります。その意味は要注意です。我々が一致の賜物を希う時、「一致するように」願うのではないわけです。すでに教会が一致しているからです。いや、その時、教会の一致が増えるように、その賜物が多くなるように願うわけです。



このような祈りをするのがよいです。教会の一致を増やすということは、まず外延的な意味で願います。つまり、地理的な意味で、全世界、全霊魂へまで、教会の一致が広がるようにということです。具体的には、宣教活動によって、教会に属しない人々が教会に入るチャンスを与えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はこれに他なりません。つまり、宣教、伝道です。つまり、まだカトリックではない霊魂たちがカトリックになるようにつくすということです。

つまり、教会の一致に貢献するというのは、現代風にいったら、諸宗教の間に話しあい、最小限の同意を求めていることではないのです。カトリックとプロテスタントとがそれぞれ何も変わらない共存するための努力ではないのです。

いや、教会の一致のために貢献するというのは、分離あるいは異端誤謬において迷っている霊魂たちを、すでにある教会の一致に迎えるということです。または、イエズスの名を知らない異教徒の霊魂たちを教会の一致に迎えるということです。教会の一致のために尽くすという本来の意味はそれです。教会の一致をなるべく広く届けて、なるべくより多くの霊魂たちに届けていくように尽くすということです。

我々、一人一人としても、教会の一致を増やす義務があります。いわゆる、自分の内面、心において、教会の一致を増やすために、信仰と愛徳の実践を強化することに尽くすという意味です。

いと愛する兄弟の皆様、このように教会はわれわれに求めています。教会の一致の賜物を給うようにと祈るのは、我々の内面において教会の一致が強化されるように、また外で、外延的に広まるようにという二つのことです。全世界の霊魂まで教会の一致を届けるように。また我々一人一人の霊魂において教会の一致は深まり強化されるように。このように我々はより完全にイエズス・キリストと一致して、深くつながるように。

しかしながら、密唱に戻ると、追加の文章があります。
「主よ、願わくは、御慈悲によって、この供物に神秘的にかたどられている一致と平和の賜物を、御身の教会に与え給え。」



「この供物に神秘的にかたどられている一致」です。
聖トマス・アクイナスもよく思い起こした真理で、教会はいつも思い起こす大事な真理です。ご聖体こそ教会の一致を象るという真理です。聖なる御聖体こそ教会の一致を象るのです。ちなみに、「秘蹟・サクラメント」という言葉の言語上の意味は「象り、象徴」という意味です。つまり、御聖体は「一致の秘蹟」だといえます、つまり一致の象りなのです。これはどういう意味でしょうか?つまり、御聖体はしるしであって、物資的に霊的な現実を表すもので、教会の一致を具現化しているということです。

具体的にいうとどういうふうに、御聖体において教会の一致が象られているでしょうか。聖トマス・アクイナスの説明を要約すると、小麦の種々をあわせて挽いて、一つのホスチア(パン)となります。つまり、もろもろの種から、一つだけのホスチアになると。ブドウ酒も同じです。多くのばらばらのブドウの実から一つ、一体をなす葡萄酒になります。このように教会の一致は物質において象られています。霊的な意味でいうと、教会の構成員である信徒、我々はバラバラな個人から、ホスチアあるいは葡萄酒のように、洗礼によって一致することとなります。聖パウロもこのことを書簡において語ります。

皆、それぞれ違う個人ですが、共同の言動と目的において、教会の一致を具体的に表すことです。つまり、教会の一致は、信者たちを結び合い、統合する信仰と愛徳の実践において、同じ典礼に与ることにおいて具体的に実現します。ですから、皆、個人として個性は保たれていながら、教会の一致は具現化します。皆、同じ御身である教会に属して、同じ心、イエズスの心に倣うのです。聖パウロが言われるように、「体は一つ、霊は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェゾ人への手紙、4,1-6)

以上のとおり、御聖体は教会の一致を象るのです。しかしながら、象りだけではなく、御聖体は秘蹟でもあるので、御聖体は教会の一致の動因でもあります。というのも、秘蹟において、しるしにおいて、常に二つの現実が一致して存在します。感知できる物質的なしるしは霊的な現実を示すだけではなく、秘蹟はその霊的な現実を起こします。

例えば、洗礼の時、水を注ぐというしるしは、「清め」を示します。それは一般的に、多くの異教でも見られて、水は体などを清めるわけです。それは物質的なしるしですが、洗礼において、この物質的なしるしは霊的な現実、つまり、霊魂の清め、霊魂の禊ぎを象るのですが、かたどるだけではなく、秘蹟の際、実際、水を注ぐことによって、霊魂は清められるわけです。洗礼という秘蹟は霊魂の清めの動因でもあります。繰り返すと、洗礼において、水は禊ぎのしるしとなって、霊魂の禊ぎを物質において象るしるしですが、同時に、霊魂の清めを興し、霊魂の清めを成すという意味で、霊魂の清めの動因ともなります。すべての秘蹟はつねにこのようになっています。秘蹟の定義です。



ですから、同じように御聖体は教会の一致の象りであると同時に、教会の一致の動因でもあります。教会の一致の動因は御聖体においてあります。なぜでしょうか?

第一、御聖体というのは、我々に与えられている主イエズス・キリストだからです。ご現存ということで、御体、御血、ご神聖、ご霊魂とともに、イエズス・キリストは完全に我々に御聖体においてご現存しておられて、信徒たちに与えられています。
というのも、イエズス・キリストこそカトリック教会の一致の礎、原因、動因であるからです。イエズス・キリストの神秘体である教会の一致はそもそもイエズスによってこそ存在しているわけです。イエズス・キリストの御体は教会であって、またイエズス・キリストは教会という御体の頭なのです。そして、教会という神秘体はイエズス・キリストの生命で生かされているわけです。聖寵という生命力です。それによってだけ、教会は生かされて、また、それによってこそ、イエズス・キリストは教会の一致を成し給うのです。

また、イエズス・キリストは聖父への唯一なる御取り次ぎの者であり、つまりこの上なく至上の司祭なるイエズス・キリストだからこそ、我々のために天主の御慈悲を給い、天主に返すべき栄光や正義を十字架によって全うしたイエズス・キリストは我々の罪を贖い給うのです。イエズス・キリストは唯一なる御取り次ぎ主なので、この意味でも教会の一致の動因ともなっています。いと愛する兄弟の皆様、聖父への取り次ぎ主であるということは、司祭であるということです。イエズスご自身は生贄になり給うたので、司祭としても、この供え物を我々のために代わりに捧げ給い、これによって我々のために聖父から多くの恵みを得しめ給います。そして、イエズス・キリストは唯一なる司祭であるとして、教会の一致を本当の意味で成し給っています。

同時に、イエズス・キリストご自身は唯一なる供え物であるから、生贄という意味のホスチアであるので、イエズスは唯一の効力のある供え物を捧げ給うことによって、天主の御怒りを鎮める唯一なる生贄なのです。これは生贄の再現であるミサ聖祭でもあります。贖罪のための生贄なのです。イエズスのみ、天主が召す唯一なる生贄になります。イエズスは生贄を捧げ給うことによって、教会の一致を成し遂げて、それを毎日、御聖体である、聖なる生贄であるミサ聖祭で再現することによって、教会の一致を実現しています。



ミサ聖祭において、司祭なるイエズスは人の司祭の手を通じて、生贄を捧げ給うからです。人が生贄を捧げるのではなく、イエズスご自身こそが捧げるわけです。そして、捧げられる生贄はホスチアなるイエズスご自身です。だからこそ、ミサ聖祭はそれほど聖なる行いです。だからこそ、御聖体であるミサ聖祭はこの世において、教会の一致の源なのです。またミサ聖祭によってこそ、地上では、天にいる聖人たちと煉獄の霊魂とともに、教会の一致を実現させます。また、ミサ聖祭において、御聖体において、聖体拝領をすることによって、イエズスご自身は我々一人一人へご自分を与え給います。

また、聖体拝領によっても、我らの主は教会の一致を実現させています。なぜでしょうか?聖体拝領こそはイエズスの御愛を示し、つまり愛の秘蹟だからです。言いかえると、愛徳の秘蹟なのです。天主において愛とも愛徳とも全く同じことです。
聖トマス・アクイナスの言葉を借りたら、愛徳こそは「Concretiva et unitiva」なる御力です。愛徳こそは統一の種であるのです。愛徳こそは霊魂たちを統一するわけです。愛徳こそはそれぞれの心と理性を統一しています。愛徳こそはそれぞれの意志を統一します。愛徳の具体的な成果は、現に実る成果はその統一にあるのです。

そして、御聖体の秘蹟において、我々のためにご自分を与え給うイエズスはこの上なく愛徳の実践であるのです。愛の秘蹟なのです。また、我らの主、イエズス・キリストはご自分の愛を我々に与え給います。我々の霊魂と心へ愛徳を注ぎ給うことによって、愛徳によっての天主との一致を実現させて、そしてさらに、信徒たちの間にも一致を成し遂げ給います。というのも、教会の一致は愛徳の絆に帰するからです。そして、信徒たちの間の一致も愛徳に帰するからです。

このように、我らの主、イエズスは御聖体において、パンとブドウ酒と物質において教会の一致の象りであると同時に、御聖体の秘蹟の両面となる聖なる生贄と聖なる拝領において教会の一致の動因でもあります。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、御聖体はどれほど偉大なる秘蹟であることを知りなさい。また御聖体を攻撃すると必ず教会の一致を攻撃することも知りなさい。ですから、御聖体であるミサ聖祭の典礼を変えてしまうということは、あえていえば教会の一致を変質させてしまったのです。このように、1969年、ミサ聖祭の典礼が変わってしまったせいで、教会の一致の意味も変わりました。ですから、我々はこれらの誤謬を受け入れるわけにはいきません。新しく間違った教義を運ぶ新しいミサを受け入れることはできません。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我々は何よりも永遠のミサ聖祭を守って保つのです。このミサ聖祭こそは天主との我々の一致を実現させるだけではなく、教会の一致をも成し遂げます。
いと愛する兄弟の皆様、また、教会の一致以上に、聖伝のミサ聖祭は我々の家族、共同体、小社会の一致をも成し遂げます。家族全員で、ミサ聖祭に与って聖体拝領を受けて初めて、家族としての生命の一致と統一を得ます。同じように、本物の秘蹟である婚姻の秘跡も御聖体においてこそ、婚姻の秘蹟上の聖寵を常に得られます。
またそれぞれの社会、つまり、小教区、村、国、国家でも、社会としてミサ聖祭に与って国王が聖体拝領してはじめて、国の本物の一致と統一、また本物の平和が実現します。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、カトリック信徒なら、御聖体を礼拝して、御聖体に返すべき栄光を行為で表すことは義務です。特に、御聖体の祝日なので、人の前で、公に、外での行列をもって御聖体を礼拝することは信徒としての義務です。
また、注意していただきたいと思いますが、ミサ聖祭と聖体拝領は信徒個人としての義務だけではないわけです。政治上の義務です。公けのための義務です。天主に対して果たすべき義務です。良心も命じる義務です。

いと愛する兄弟の皆様、ですから、我らの主に値する名誉と栄光を荘厳に正しく返して果たしましょう。礼拝において、典礼においても。また公に、人の前で、カトリック信仰を広く遠慮なく示していきましょう。社会全体が回心するように信仰告白しましょう。それは、自分自身だけの霊魂の救いのためだけにやるべきではありません。非常にエゴイズム的になるからです。全社会、全共同体のためにです。というのも、我らの主、イエズス・キリストは教会の一致であるだけではなく、国家、もろもろの社会の本物の一致の種でもあります。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
***
参考:集祷文「奇(くす)しき秘蹟において、御受難の記念をわれらに残し給うた主よ、願わくは、われらに、御身のあがないの効果を知らせ、深い敬虔の念をみって、御体と御血の奥義を尊ばせ給え。」

私たちが与えられたタレントは何のために使えばいいのか?

2021年11月12日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様のお説教  
私たちが与えられたタレントは何のために使えばいいのか?
2020年11月04日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
いと愛する兄弟の皆様、本日の福音書は有名なるタレントの箴言です。一人は主より5タレントを頂いて、これを使って、倍にして追加の5タレントを得ました。また同じく、もう一人は主より2タレントを頂いて、これを使って、倍にして追加の2タレントを得ました。そして、最後の人は主より1タレントだけを頂いていたのですが、これを実らさないで「地下に隠しに行った」(マテオ、25、25)が殖やすことはなくて主によって罰せられました。

本日の祝日の聖人は、聖カルロ・ボロメアですが、このような聖人たちが聖人になったのは彼等が貰っていたタレント(才能、能力など)を実らせたからです。つまり、主より貰っている多くの物事を自分のものであるかのように自分の楽しみのために享受することに留まらなかった聖人たちです。彼等はそうするのではなくて、聖人たちは主より頂いたタレントを愛徳のためにあって、愛徳にために使わなければならないということを深く実感していました。また、主より頂いたタレントは共通善のために使われるべきであって、それらはつまり皆の善のため、そして間接的に自分の善のためにもなります。



頂いたタレントは種のようなものです。種を撒いていずれか収穫できるように働くことです。種を撒かないで、種を実らせないことはすべての種を失うことになります。頂いたタレントですら失うことになります。想像してください。畑でまくために種を貰った奉仕人がいるとしましょう。そして、種を撒かないで種を保留した場合、主人には収穫できない分、弊害をもたらすわけです。

聖人たちは頂いたタレントを倍にしたのですが、どうやってでしょうか?霊的な生命のために、自分のタレントを尽くしたことによってです。また、被創造物に留まらないで、常に創造主へ目を向けることによってです。また、物質的な物事よりも、霊的な事実へ向けたことによってです。移り変わる物事よりも、永遠に存在する事実へ向けたことによってです。この世に自分の持っていた財産を二倍にしたのです。あえていえば、天を得た上に、この世をも得た聖人たちです。地下に自分のタレントを隠すということはやはり、天を無視して、この世の物事ばかりを考えているようなことです。その結果、この世をも失うことになります。

これこそは現代の一番大きな間違いです。快楽主義な、物質主義的な現代は、過剰な個人主義に加えて、自分の持っているものごとを自分のものであるかのように、自分のためのみ使うように勧める現代です。愛徳を無視して、共通善のために一切働かないということを勧める現代です。「私の体は私の快楽のためにあり、好き勝手にやってもよいだろう」と言わんばかりの現代です。



しかしながら、これは間違っています。大いに違います。
いと愛する兄弟の皆様、我々は頂いたタレントとすべての物事の利用について、人生の間にすべての物事について、いずれ臨終の時に報告せざるを得ない時が来て、裁かれることになります。

そして、天国に多くの福者の霊魂を送ることを助けている霊魂たちは幸いあれ。多くの子供を設けてよきカトリック教育を与えるカトリック的な家庭なり、宗教生活を通じて、自己犠牲を尽くして、天主の贖罪に奉仕してなるべく多くの霊魂たちを奪還するための道具になることを択んだ修道院や司祭のような人々となり、このような人々はこの世における旅の間に多くの実りが生まれるように貢献したことは天においての報いとなり、栄光の冠になるということをよく知っています。このような働きのお陰で得た霊的な収入は想像を絶します。



逆に、地下にタレントを隠すということは、天主より頂いたタレントを天主のために使わないことにする態度です。また、この世のためにだけこれらのタレントを使う態度です。つまり、自分の頭や能力を天主に奉仕するためではなく、現世的なことのために使う態度なのです。
以上の態度は罪人の態度はでないのですよ。つまり、罪を犯そうとしている罪人より酷いです。タレントを地下に隠すのではなく、罪人はタレントを浪費するようなことと似ています。タレントを地下に隠す人は、あえて言えば怠慢の罪となります。つまり、善を成しうるのに、わざと善を成さないことにしてしまいます。怠けるから、善を成すのは難しいから、理由は多いでしょうが、洗礼者はイエズス・キリストを頂いているのに、霊的な生活を営むことを避けて逃げるような人です。

ですから、我々の救霊、また天での喜びはこの世での我々の人生のすべてを天主のために使うことにあることをよく自覚しましょう。それらはそれぞれの分において、天主に奉仕することにあります。我々は皆、違うタレントを頂き、それぞれ与えられる使命を果たすために十分にあるタレントなので、多かろう少なかろうとも、ともかく貰ったタレントを天主の聖寵に頼りながら実らせるように努めましょう。

一番大事なのは頂いたタレントの量ではありません。一タレントにせよ、五タレントにせよ、千タレントにせよ、それは問題でありません。また、我々、カトリック信徒はどれほど多くの秘跡に与ったことがあるだけを考えても、どれほど多くの恵みを頂いているのかは自明でしょう。

一番大事なのは、常に、天主より頂いたすべて、つまり人生のすべてを天主のために奉献して捧げることにあります。ですから、働きの偉大さよりも、自分なりの力で、天主のために使おうとする清い意志の方は報われるわけです。
聖カルロ・ボロメアはその意味で、全力を尽くして、献身して愛徳の模範となっています。ミラノのペストの時、聖カルロ・ボロメアは病人を訪れて、すべての教会と家を訪れました。このようにこの世のタレントを使い、天のタレントを得ていきました。多くの霊魂ためにも自分の霊魂のためにも多くの恵みをもたらした犠牲と働きでした。



現代の流行っているコロナウイルスという名目で、教区の司祭たちにミサを捧げるな、と、あるいは秘跡を授けるな、告解を聴くな、と命令する司教たちは禍なこと!
残念ながら、このようなとんでもない指示は本当にあって事例があります。例えば、ニュージーランドのウエリントンWellington司教はこのような指示を出しています。彼は外出自粛の間に、教区の司祭にミサを捧げること、また告解を聴くことを禁じました。
使徒、聖パウロは次のことを言っていたのではないでしょうか?「ああ、私が福音をのべないなら、禍なことだ。」(コリント人への第一の手紙、9、16)ですから、地下にタレントを隠す聖職者たちは禍なことです。残念ながらこのようなことをしていると、すべてのタレントを失い、すべてを失うことになります。

そして、無駄にされたタレントは彼等から奪われて、すでにタレントを倍にした人々に与えられます。言いかえると、天主のために働けば働くほど、溢れるほどにどんどん天主の聖寵は与えられていきます。イエズス・キリストの仰せのとおりです。「持っている者は与えられてますます豊かになるが、持たない者は持っているものまで取られてしまう。」(マテオ、13、12)
ですから、このように、悪を成さなくても、「タレントを地下に隠した」者、つまり良い働きを成さない者に対する罰が厳しかったら、「タレントを浪費した」者、つまり罪を犯す者に対する罰はどれほど厳しいか垣間見えるでしょう。

そして、最後に聖オストルモワンヌAustremoineについて触れたいとおもいます。この聖人はフランス領地、ニューカレドニアの守護聖人であり、ニューカレドニアの信徒たちは聖ニコラ教会のミサを見ていることを知っています。聖オストルモワンヌAustremoineは三世紀の末あたり、フランス本土のオーヴェルニュAuvergne地方に伝道するために教皇から送られた聖人です。そして、クレモン教区の当初司教です。では、なぜ、ニューカレドニアの守護聖人になっているでしょうか?
ニューカレドニアへ最初、伝道した宣教師たちはマリスト修道会でしたが、リオンからきて、聖Austremoineを特に崇拝していたことから来ます。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

救霊パスポート

2021年11月03日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教  
救霊パスポート
2021年08月15日 聖母被昇天
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆様、1950年から、カトリック信仰の一つの信条として、被昇天を祝うことになっています。本日の玄義を黙想すると、三つの側面が現れて、同じ玄義から三つの点が浮かびます。
第一点、いとも聖なる童貞マリアはこの世を去られたということです。
第二点、聖母マリアは天国に昇られたということです。
第三点、聖母マリアは天国で冠を戴き、天地の元后になったということです。

被昇天の玄義の第一の側面はいとも聖なる童貞マリアはこの世を去られたということです。人間なら皆、例外なく、いずれか死ぬということを知っています。この世に残るために人間は創造されたわけではありません。人間が欲しがる幸せはこの世には存在しません。聖母マリアも人間の一人にして、このような普遍的な原則に従ったわけです。つまり、聖母マリアの居場所はこの世ではないという意味で、一緒です。ですから、ある日、この世を去り、天国へ行かれました。

聖母マリアはこの世を去られたのですが具体的にどのように去られたでしょうか?その点について信条はまだ確定になっていなくて、教皇ピオ12世は信条を確立した時、聖母マリアは死んだか死ななかったかという点について断言しなかったのです。神学者の意見は分かれていて、聖母マリアは死んでから被昇天した説もあれば、死なないで被昇天したという説もあります。言いかえると、被昇天の際に聖母マリアは死んでいたか死んでいなかったかというのは信条ではなく、神学者の議論にゆだねられており、違う意見をもっても現時点では大丈夫です。



ただし、確かに言えるのは、聖母マリアは死んでいたとしても、その体は腐敗していなかったことは確実な事実であり、神学者、教父たちは揃って断言していることです。また、聖母マリアの体は死ぬことによる腐敗を経験しなかったことは信条です。というのも教皇ピオ12世は被昇天の教義を宣言する教皇回勅はその点を明らかにして断言されているのです。聖母マリアは死ぬことによる体の腐敗を経験しなかったということです。

死んだか死ななかったかにはかかわらず、聖母マリアはこの世を去られなければなりませんでした。そして、聖母マリアはこの世の去り方に関していうと、聖母マリアが生きておられた延長線にあるということです。つまり恩寵に満ちた世の去り方でした。ですから、聖母マリアの被昇天はどちらかというと非常に自然なことでした。言いかえると、聖母マリアの場合は、地上の彼女の人生と天国での人生は完全に継続しているというということです。聖母マリアに限って断絶はありません。

ご存じのように、教義に照らして、信徳というのは至福の前触れであり、望徳は至福を得ることの前触れでありますが、愛徳は前触れではないのです。地上で愛徳の内に生きた時、同じ愛徳の内に天国で生きていくということです。ただ、愛徳の内の生き方は地上と天国と違っていて、地上では信徳を通じて愛徳の内に生きられる一方、天国では直接に天主を見て愛徳の内に生きるということになります。

聖母マリアの場合、愛徳の内に聖寵による絶えまない上昇の人生でした。そして、この世で最高の程度を達した時、愛徳による同じ動きを続けてこのまま、被昇天が起きて、天国で完全な愛徳に達しました。つまり、聖母マリアにとって、この世から天国への上昇は容易でしたし、苦しみもなかったわけです。

「死んだ」という意見の神学者は「愛徳のあまりに死なれた」といっています。具体的にいうとエクスタシー(天主との一致によるこの世での恍惚状態)のあまり、聖母マリアの霊魂はつい、何の断絶も、何の苦しみもなく、体から抜けて天主を直接見ることができたということです。

さて、愛する兄弟の皆様、以上の第一点からの教訓はなんですか。聖母マリアは御子イエズスに続いて、違う形で、死に対して打ち勝ったということです。我らの主、イエズス・キリストは死なれたことによって死に打ち勝ったのですが、聖母マリアは天国へ容易に苦しみなしに昇られたことによって死に打ち勝ったということです。

ですから、私たちは聖母マリアにこのような良き死という恵みを頼みましょう。また、ロザリオを祈っている時、栄えの玄義を黙想する時、被昇天の玄義の時に、善き死、よく死ぬ徳を頼んでいるわけです。善き死を得るために何が必要ですか?よく生きてきたということです。聖母マリアは私たちにとって、善き死の本当の模範であるということです。聖母マリアは一生の霊的な上昇を続けて、その延長線上に天国へ自然にいかれたという完璧な霊的な生活を送りました。ですから、私たちもよく死にたいと思うのなら、よく生きることを務めなければなりません。本日、いとも聖なる童貞マリアに善く死ぬ恵みを希いましょう。



玄義の第二側面、聖母マリアは天国に昇られたということです。死んだか死ななかったにはかかわらず、いずれにせよ、天国に昇られました。死なれなかった場合、被昇天はそのままに行われて、死なれた場合、腐敗していない体はすぐ、霊魂と体は改めて一緒になって、霊魂と体はともに天国に昇られたということです。結果は同じです。聖母マリアは霊魂とともに体をもって天国に昇られました。これも信条です。

イエズスはいとも聖なる童貞マリアのためにこの上ない恵みを与え給うたのはなぜでしょうか?聖母マリアに対する報いです。一生、完全に清らかの状態を保たれた聖母マリアのいとも潔白さに対する報いですが、同時に、童貞のまま宿られたことに対する報いでもあります。聖母マリアの体は無傷無事の一生であって、罪からも腐敗からも穢れも受けなかったのです。というのも聖母マリアは一度も、罪の道具にならなかっただけではなく、罪を受け入れた神殿になったこともないからです。罪を犯したことのない聖母マリアの体は罪の道具になりませんでした。原罪から守られた聖母マリアの体は罪の神殿にも(我々と違って生まれながら)なったことはありませんでした。このように、聖母マリアの体は一度も一切、何の罪の汚点を負ったことはありませんでした。

そこで、霊魂だけではなく体とともに聖母マリアの被昇天をさせたイエズス・キリストはなぜ、御母にこの恵みを与え給うたのでしょうか?
童貞聖母マリアの体には現世欲による動きは一度もなかったのです。洗礼を受けても告解などをはじめとする秘蹟の内に聖寵を受けて生きていても、現世欲による動きと混乱をわれわれは常に経験しています。というのも、この現世欲は原罪による傷跡のように、我々の本性は損なわれているからです。これは、いとも聖なる童貞マリアの罪に対する勝利です。

被昇天とは死を打ち勝ったと同時に、罪に打ち勝ったのです。また、罪に対する典型的な勝利であると同時に、我々のよみがえりをも思い起こされると預言されています。つまり、我々はよみがえった時、決定的に完全に罪と現世欲にたいして勝利することになるからです。
ですから、私たちは自分の体を自分の霊魂に従わせられるように、それから自分の霊魂は聖寵に従わせられるように、いとも聖なる童貞マリアにこの恵みを祈りましょう。




我々はこのように生きなければなりません。体は霊魂に従って、霊魂は聖寵に従うという生き方です。そして、聖母マリアは天国に体とともに直接に昇られた理由は簡単です。聖母マリアはこのような従順は一瞬も絶えたことはないからです。また生まれた時から地上の最期まで聖母マリアの従順は完璧だったからです。聖母マリアは罪に打ち勝ちました。そして、我らの祈りと信心次第で、聖母マリアは罪に対する勝利を我らにも与えてくださいます。

いとも愛する兄弟の皆様、被昇天の教義の第三点、聖母マリアは天国で冠を戴き、天地の元后になったという側面を見ましょう。霊魂と体とともに天国に昇られた聖母マリアです。そして、このように天国にいる体としては二人目です。一人目はイエズス・キリストの御体なのです。そこで天使たちは創造中の最高被創造物である聖母マリアを眺めて喜ばれます。天使たちやすでに天国に行けた選ばれた福者の霊魂たちもみんな、聖母マリアの清らかな体を見ています。また、聖母マリアの霊魂の美しさをも見ています。



そして聖母マリアは高く高く高く天国へ。選ばれた者全員より高く天国へ。旧約聖書の正しき者にせよ、イエズスの昇天よりすでに裁かれて天国に入れた聖人にせよ、九階の天使たちにせよ、一番偉い天使ケルビムとセラフィムにせよ、聖母マリアは皆の前を通り、無原罪の美しさを見せられて、より高くいかれます。

全員よりも聖母マリアはその美しさにおいても神聖さにおいて優れています。このように聖母マリアは天主の内の一番美しい天使よりも高く昇られて、天主の王座のみ前にたどり着かれます。そのみ前に冠を戴きます。王妃として冠を頂きます。天地の王妃となります。聖母マリアは人間の一員であるのに、天使の王妃ともなります。ある時代の一点に生まれて儚い時代を生きた聖母マリアは創造の前から存在するだろう天使の王妃となります。聖母マリアは儚い単なる被創造者、しかも女性であるのに、冠を頂き天地の王妃となります。天主の御母であるので冠を頂きます。我らの主はその栄光を報いるために天地の王国の統治に聖母マリアを参加させ給うのです。このように、本日、被昇天の祝日をもって現世に対する勝利をも祝います。

聖母マリアは死と罪とに打ち勝っただけではなく、天地の王妃としても現世にも打ち勝ちます。愛する兄弟の皆様、この事実は私たちにとって大きな希望となります。イエズス・キリストも使徒たちに向けてこの事実を明らかに仰せになりましたように、この世の王妃となる聖母マリアは現世的な王国を確立するためではありませんよ。この世にある悪い物事にたいして我々が打ち勝てるように我々を導くために聖母マリアはこの世の王妃となります。私たちもいずれか、天国で聖母マリアとともに天主の栄光を浴びられるように。

聖母マリアは天国の王妃であるが故にこの世の王妃となります。我々は地上にて聖母マリアの良い臣民になり、天国に行けるために聖母マリアはこの世の王妃となります。つまり現世的な栄光を浴びるために聖母マリアはこの世の王妃となるわけではありません。天国へ我々を招き求めるように聖母マリアはこの世の王妃となります。この世では単なる旅人として生まれた事実を受け入れて、また天国に行くように手伝うために聖母マリアはこの世の王妃となります。はい、我々は天国に行けるように聖母マリアはこの世の王妃となります。我々に永遠の至福を得しめるために聖母マリアはこの世の王妃となります。

混乱している現代では何でもかんでもこの世にいつまでも着用させようとされます。現に、ワクチンパスポートなどによって、われわれはこの世において止めさせようとされています。いとも聖なる童貞マリアはこの世が我々の居場所ではない事実を思い起こしてくださいます。我々の居場所、目的地、本来の住まいは天国であるという事実を思い起こしてくださいます。ですから、カトリック信徒にとって、聖母マリアはあえて言えば、救霊パスポートなのです。聖母マリアこそは天国に入れるためのパスポートです。聖母マリアを通じてこそ、天国に行けて永遠の至福を得られます。ワクチンパスポートをもったとしてもこの世では楽な人生が約束されるが、あの世では何も得られません。救霊パスポートなる聖母マリアはこの世で必ずしも栄光も得ないし、楽な人生にもならないかもしれないが、あの世で永遠の至福を得させてくださる救霊パスポートです。

ですから、愛する兄弟の皆様、私たちは限りなく聖母マリアへすべてを託しましょう。また、私たちは常に天国の事を第一にできるように聖母マリアに祈りましょう。また、地上の人生にあまり執着しないように、無関心でいられるように、軽蔑できるように聖母マリアに祈りましょう。
また、現代でもどれほど大変なことが起きても、どれほど悪魔的な出来事が確かにいま起きていても、これは何でもないことであることを知り、このように振るまって不安にならないように聖母マリアに祈りましょう。そして、望徳と喜びが与えられるように、死と罪と現世に対して私たちは打ち勝つための力が与えられるように聖母マリアに祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン