白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理 をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第四十六講 贖罪の玄義・歴史編・その十四 贖罪について、私たちの主が人類を贖う
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前からご紹介してきた贖罪の玄義には二つの側面があります。
第一の側面は、最初に申し上げたとおり、歴史的な側面でありまして、今までこの側面を中心にご紹介しました。歴史としての贖罪を見るということですから、一つ一つ順番に当時の諸出来事を細かく習ったということです。また、人類の歴史の中に、また私たちの主の一生の中に、贖罪の玄義の具体的な流れを見て、その成り行きやその実現を細かくご紹介して描写してきました。
贖罪の玄義の第二の側面は、神学上の側面 です。言い換えると、贖罪の玄義の意義はどうなっているかということを解くという側面です。また、その意義と共に、贖罪の玄義にある多くの真理 とその多くの大きな宝 を検討します。これから、ご紹介させていただきたいと思っております。
【贖罪の玄義の神学上の側面:贖いとは何か】
「贖罪」という言葉はラテン語の「Redemptum」から来ますが、また動詞形なら「Redimere」という語源です。語源の意味は「贖う」という意味ですけれど、具体的に言うと「改めて買い戻す」re + emereという意味です。また「買う」という意味はそもそもなにを意味するでしょうか。「何かを入手する」或いは「何かを自分の所有にする」という意味です。従って「買い戻す」という時に、「元に自分が所有していたものを入手し直して、自分が所有するように取り戻す」という意味となります。
「贖罪の玄義」 というのは、私たちの主が「もとに所有していた者だったが途中で失っていたそのものを買い戻す、またご自分の所有のために取り戻す」という玄義に他なりません。つまり、「人類を贖う」ということで、「人類を御自分の所有のために取り戻す」 という意味です。「人類」というと、具体的に言うと、「人々一人一人の霊魂を贖う」という意味です。
というのも、罪のせいで、人々は堕落してしまったので、天主への本来の恩寵上の所属を捨ててしまったという状態でした。そこで、私たちの主が贖罪によって、罪を贖うということを実現なさいます。言い換えると人間を買い戻すために、「罪」の代価を私たちの主が払い給うたということです。その代償を払ってくださったお陰でこそ、私たち人間が再びに天主の所有となり得ます。
以上の玄義を解説したいと思います。
【贖罪の玄義の定義】
「贖罪の玄義」に当たる定義はこうです。「総ての人間の救済のために十字架上に死したもうたイエズス・キリストという玄義」 だとされています。
「総ての人間の救済のために十字架上に死し給うたイエズス・キリストという玄義」。
先ず物質的な側面があります。また、形式的な側面があるとも言えます。
イエズス・キリストという特定の人こそ、具体的に実際に「十字架上に死し給うた」と。
目的があっての事実でした。つまり、「人間の救済のために」ということで、私たちの主によってこそ、総ての人間は贖われました。
従って、贖罪の玄義に当たって、二つの事について考慮しなければなりません。
第一、総ての人間のために「天主御自ら」が犠牲になり給う という事実です。驚嘆すべきことです。まず、「托身の玄義」 において、天主御自身が「肉となり給う」たのです。つまり、天主の本性を失わず、人間の本性をも負い給いました 。具体的に言うと、天主の第二の位格である御子が人間の本性を負い給いました。
天主の御子、言い換えると、私たちの主イエズス・キリストが、同時に真の天主、真の人です。この世に、人々の中にご降誕し給い降臨し給いました。また、人間と一緒に生き給いました。人間と話し給いました。しかしながら、それに留まらずして、その上、十字架上に死し給いました。完全に御自分を貶め、ご自分を辱めたもうたのです。聖パウロによると「自分自身を無とされた」 。
【愛の玄義】
何のためだったかというと、「人間の代わりに、自分自身を生贄としてお捧げする」ため でした。そして、人間の代わりに、自分自身を犠牲としてお捧げすることを通じて、天主の人間に対する御愛が啓示されています。この事実は偉大で驚嘆すべきです。想像してください。人間をどれほど愛し給うかということを。どれほど天主が肉体的に人間の傍にましますか、どれほど公然と自分自身を貶めることを甘んじられたか、どれほど人間の目の前に「自分自身を無とされた」か、十字架上に死し給うた時、正にどれほど誰の目にも晒されたか、これらすべてのことを通じて、天主がどれほど人間を愛し給うかということを実践において証明してくださり、啓示されます。
【正義の玄義】
以上は、「御愛の玄義」なのですが、その上に「正義の玄義」でもあります。というのも、御子であるイエズス・キリストは、御父なる天主に、罪の償いをお捧げします。天主に対して人間によって犯された侮辱(原罪)を償える生贄にイエズス・キリストがなると いうわけです。これも「贖罪の玄義」の大要素です。
御自身を「奉献・供え物」として十字架上でお捧げするイエズス・キリストの奉献は、無限の奉献 となります。なぜかというと、「生贄をお捧げする」者はイエズス・キリスト、つまり天主であるから、無限 なのです。確かに、生贄を捧げる者は、聖三位一体の第二の位格であって、天主でありますから、天主なるイエズス・キリストである祭祀者のすべての行為には無限性が伴うわけです。
従って、十字架上で私たちの主がお捧げする生贄は(ご自分の)無限の価値を持つ のです。従って、無限の価値故に、天主に対する侮辱という無限の罪を償うに足りる のです。
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【まとめ】
まとめてみると第一に「愛の玄義」 です。天主が御自分自身を貶めてまで、辱めてまで、人間を愛し給う からです。
第二に「正義の玄義」 です。十字架上で私たちの主が罪の償いに足りる生贄を天主にお捧げする からです。
「贖罪の玄義」を実現することによって、私たちの主が天主から人間の贖罪を得しめ給うたのです。罪のせいで罪によって奴隷となっていた人間、天主に対して負債者となっていた人間、原罪によってサタンの所有となっていた人間 、つまり自分の天主から離れてしまい(これこそ罪です)堕天使の下部・召使になっていた人間でしたが、私たちの主イエズス・キリストの生贄のお陰で、人間は贖(あがな)われました。
ティモテオへの第一の手紙において、聖パウロは「彼はすべての人をあがなうために、ご自身を与えられた」 と記しています。というのも、イエズス・キリストは十字架によってこそ、ご自分の生贄によってこそ、私たちすべての人を解放されたからです。罪による支配から解放し給うた のです。サタンによる支配から解放し給いました。罪の支配から解放し給うと共に、私たちを天主の子になし給うのです 。言い換えると、私たちを贖うことで、私たちを「買い戻し」、「負債を償還し給うた」お陰で、天主の所有に取り戻し給うた のです。これこそが「贖罪の玄義」に他なりません。
【贖いの代価・代償】
その上、贖罪の玄義における要注意の点がもう一つあります。「贖罪」とは、「買い戻し」ということだから、「代償」あるいは「代価」が必ず伴うのです。要するに、どういった「代償」をもって、主は私たちを贖ったのでしょうか。また、十字架上で、私たちを御自分の所有に取り戻すために、どういった「身代金」を払うことになさったでしょうか。
代償はイエズス・キリストの「御血」 です。御受難の間にずっと、そして十字架上に流し給った「御血」です。だからこそ「いと尊き御血」 というのです 。また「貴重な御血」です。語源の意味によると、ラテン語のpretium(値)から由来したpretiosus(貴重な)の語源的意味は「値がある」です。たしかに、一般的に何かを指して「貴重だ」と言うと、「高価」であるとか、高級であるとか、非常に価値のある、という意味で利用していますね。
従って「いと尊き御血」は、すべての人の贖罪の代価であるからこそ、すべての人の償還の代償であるからこそ、貴重さは極まりないものです。その上「いと尊き御血」はなぜすべての人の贖罪の代償となり得るかというと、「天主の御血」である故に他なりません。
「私たちの主イエズス・キリストの御血」であるからです。勿論「イエズス・キリストの御血」なので、人間の血でもあります。でも、同時に、人間の本性を受け給うた天主なる第二の位格の御血でもあります。つまり、聖三位一体の第二の位格の御血 です。これこそ、「贖罪の玄義」の中心となります。計り知れない玄義です。「天主は御独り子を与え給うほどこの世(人間)を愛された」 とイエズス・キリストが仰せになった通り、愛される者のために御自らにご自分の命をお捧げになりました 。つまり、まず、代償として愛する天主に対してお捧げになり、そして、贖罪として愛するすべての人のためにお捧げしました。すべての人を「御自分の所有に取り戻すために」、ご自分の命を生贄としてお捧げしました。
以上、手短に美しきこの「贖罪の玄義」をご紹介しました。カトリックの信経の第四条で宣言する玄義です。「十字架に付けられ、死し」給う。