ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

カトリック鹿児島教区司教中野司教様からの、マーチフォーライフ2019へのメッセージ

2019年05月31日 | マーチフォーライフ
カトリック鹿児島教区司教中野司教様からの、マーチフォーライフ2019へのメッセージ

Bishop Nakano gave us powerful pro-life message. May God bless him and take him to March for Life.

「目に見える事柄だけではなく、目に見えない事柄にも心の目が開きますように。声を出せない小さな命の代弁者として、大きな声を出していきましょう」

中野 裕明 カトリック鹿児島教区司教

"May eyes of the mind open not only for things seen, but for things not seen. Be the voice and speak out for those who cannot speak for themselves."
Hiroaki Nakano, Bishop of Kagoshima






台湾での第一回マーチフォーライフ(2019年5月11日)「真理電台天主教」のニュース動画

2019年05月28日 | マーチフォーライフ
台湾での第一回マーチフォーライフ(2019年5月11日)「真理電台天主教」のニュース動画

カトリック教会新竹司教区「聖ジャンナ・モラ・生命尊重センター」の企画による「マーチフォーライフ」は、5月11日桃園市で行われた。台湾内外から500名以上の支持者が桃園聖母の汚れなき聖心教会を出発し、「マーチフォーライフ、生命保護、始まりから自然の終わりまで」とスローガンを唱え、生命の尊重を喚起した。

由天主教新竹教區「聖吉安娜生命維護中心」所籌畫的「為生命而走」遊行5月11日在桃園市舉行,海內外五百多位支持者由桃園聖母聖心堂出發,沿途高喊「March for life,維護生命,從開始到自然結束。」以喚醒人們對生命的尊重。

真理電台天主教」作成のニュース動画



子供の数、過去最低の1,533万人

2019年05月19日 | プロライフ

子供の数、過去最低の1533万人 38年連続減からの転載

●外国人を含む14歳以下の子供の数は、前年より18万人少ない1533万人だった。
●38年連続の減少。
●14歳以下の子供が総人口に占める割合は12・1%で、45年連続で低下した。
●主要国32カ国のうち、日本は最低で、韓国の12・9%さえも下回る。

●比較可能な昭和25年以降、人数、割合とも過去最低を更新した。
●少子化に歯止めがかからない。
●14歳以下の子供の人数は、昭和29年(2989万人)のほぼ半数。
●平成元年の14歳以下の子供の人数は2320万人で、30年間で800万人近く減った。




子供の数、過去最低の1533万人 38年連続減

総務省は4日、「こどもの日」を前に人口推計(4月1日時点)をまとめた。外国人を含む14歳以下の子供の数は前年より18万人少ない1533万人で、38年連続の減少となった。総人口に占める割合は12・1%(前年比0・2ポイント減)で、45年連続で低下した。比較可能な昭和25年以降、人数、割合とも過去最低を更新し、少子化に歯止めがかからない状況が明らかになった。

人数はピークだった昭和29年(2989万人)のほぼ半数に落ち込んだ。平成元年の2320万人と比べ30年間で800万人近く減った。内訳は男子が785万人、女子が748万人。低年齢層ほど少なく、12~14歳は322万人、0~2歳は286万人だった。

人口に占める割合について調査年次に違いはあるが、国連人口統計年鑑によると、主要国32カ国のうち、日本は韓国の12・9%を下回り最も低い。

都道府県別(昨年10月1日時点)での増加は東京都のみで、沖縄県は横ばい、他の45道府県は減少した。100万人超は東京、神奈川、愛知、大阪の4都府県。人口に占める割合は沖縄県が17・0%で最も高く、秋田県の10・0%が最低だった。


台湾で第1回目のマーチフォーライフが行われました!2019年5月11日

2019年05月17日 | マーチフォーライフ
台湾の新竹司教区で、新竹司教の全力的な支持の下に、台湾における最初のマーチフォーライフ(第一屆 為生命而走)が、2019年5月11日、中華聖母の祝日に行われました。

由瑪達拉上主及聖母之僕修女會的修女服務、位於台灣新竹教區的 聖吉安娜生命維護中心於2019年5月11日在新竹教區的全力支持下, 舉辦了第一屆 為生命而走 遊行

St Gianna Pro life Center in the Hsinchu Diocese, Taiwan, which is served by the sisters of the Institute Servants of the Lord and the Virgin of Matara (SSVM) organized the first Walk-for-Life in Taiwan on 11 May 2019.




贖罪について―私たちの主が人類を贖う 【公教要理】第四十六講 贖罪の玄義[歴史編]

2019年05月05日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第四十六講  贖罪の玄義・歴史編・その十四 贖罪について、私たちの主が人類を贖う




前からご紹介してきた贖罪の玄義には二つの側面があります。
第一の側面は、最初に申し上げたとおり、歴史的な側面でありまして、今までこの側面を中心にご紹介しました。歴史としての贖罪を見るということですから、一つ一つ順番に当時の諸出来事を細かく習ったということです。また、人類の歴史の中に、また私たちの主の一生の中に、贖罪の玄義の具体的な流れを見て、その成り行きやその実現を細かくご紹介して描写してきました。

贖罪の玄義の第二の側面は、神学上の側面です。言い換えると、贖罪の玄義の意義はどうなっているかということを解くという側面です。また、その意義と共に、贖罪の玄義にある多くの真理とその多くの大きな宝を検討します。これから、ご紹介させていただきたいと思っております。

【贖罪の玄義の神学上の側面:贖いとは何か】 

「贖罪」という言葉はラテン語の「Redemptum」から来ますが、また動詞形なら「Redimere」という語源です。語源の意味は「贖う」という意味ですけれど、具体的に言うと「改めて買い戻す」re + emereという意味です。また「買う」という意味はそもそもなにを意味するでしょうか。「何かを入手する」或いは「何かを自分の所有にする」という意味です。従って「買い戻す」という時に、「元に自分が所有していたものを入手し直して、自分が所有するように取り戻す」という意味となります。

「贖罪の玄義」というのは、私たちの主が「もとに所有していた者だったが途中で失っていたそのものを買い戻す、またご自分の所有のために取り戻す」という玄義に他なりません。つまり、「人類を贖う」ということで、「人類を御自分の所有のために取り戻す」という意味です。「人類」というと、具体的に言うと、「人々一人一人の霊魂を贖う」という意味です。

というのも、罪のせいで、人々は堕落してしまったので、天主への本来の恩寵上の所属を捨ててしまったという状態でした。そこで、私たちの主が贖罪によって、罪を贖うということを実現なさいます。言い換えると人間を買い戻すために、「罪」の代価を私たちの主が払い給うたということです。その代償を払ってくださったお陰でこそ、私たち人間が再びに天主の所有となり得ます。
以上の玄義を解説したいと思います。


【贖罪の玄義の定義】
「贖罪の玄義」に当たる定義はこうです。「総ての人間の救済のために十字架上に死したもうたイエズス・キリストという玄義」だとされています。

「総ての人間の救済のために十字架上に死し給うたイエズス・キリストという玄義」。
先ず物質的な側面があります。また、形式的な側面があるとも言えます。
イエズス・キリストという特定の人こそ、具体的に実際に「十字架上に死し給うた」と。
目的があっての事実でした。つまり、「人間の救済のために」ということで、私たちの主によってこそ、総ての人間は贖われました。
従って、贖罪の玄義に当たって、二つの事について考慮しなければなりません。

第一、総ての人間のために「天主御自ら」が犠牲になり給うという事実です。驚嘆すべきことです。まず、「托身の玄義」において、天主御自身が「肉となり給う」たのです。つまり、天主の本性を失わず、人間の本性をも負い給いました。具体的に言うと、天主の第二の位格である御子が人間の本性を負い給いました。

天主の御子、言い換えると、私たちの主イエズス・キリストが、同時に真の天主、真の人です。この世に、人々の中にご降誕し給い降臨し給いました。また、人間と一緒に生き給いました。人間と話し給いました。しかしながら、それに留まらずして、その上、十字架上に死し給いました。完全に御自分を貶め、ご自分を辱めたもうたのです。聖パウロによると「自分自身を無とされた」 。


【愛の玄義】
何のためだったかというと、「人間の代わりに、自分自身を生贄としてお捧げする」ためでした。そして、人間の代わりに、自分自身を犠牲としてお捧げすることを通じて、天主の人間に対する御愛が啓示されています。この事実は偉大で驚嘆すべきです。想像してください。人間をどれほど愛し給うかということを。どれほど天主が肉体的に人間の傍にましますか、どれほど公然と自分自身を貶めることを甘んじられたか、どれほど人間の目の前に「自分自身を無とされた」か、十字架上に死し給うた時、正にどれほど誰の目にも晒されたか、これらすべてのことを通じて、天主がどれほど人間を愛し給うかということを実践において証明してくださり、啓示されます。


【正義の玄義】

以上は、「御愛の玄義」なのですが、その上に「正義の玄義」でもあります。というのも、御子であるイエズス・キリストは、御父なる天主に、罪の償いをお捧げします。天主に対して人間によって犯された侮辱(原罪)を償える生贄にイエズス・キリストがなるというわけです。これも「贖罪の玄義」の大要素です。

御自身を「奉献・供え物」として十字架上でお捧げするイエズス・キリストの奉献は、無限の奉献となります。なぜかというと、「生贄をお捧げする」者はイエズス・キリスト、つまり天主であるから、無限なのです。確かに、生贄を捧げる者は、聖三位一体の第二の位格であって、天主でありますから、天主なるイエズス・キリストである祭祀者のすべての行為には無限性が伴うわけです。
従って、十字架上で私たちの主がお捧げする生贄は(ご自分の)無限の価値を持つのです。従って、無限の価値故に、天主に対する侮辱という無限の罪を償うに足りるのです。
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【まとめ】
まとめてみると第一に「愛の玄義」です。天主が御自分自身を貶めてまで、辱めてまで、人間を愛し給うからです。
第二に「正義の玄義」です。十字架上で私たちの主が罪の償いに足りる生贄を天主にお捧げするからです。

「贖罪の玄義」を実現することによって、私たちの主が天主から人間の贖罪を得しめ給うたのです。罪のせいで罪によって奴隷となっていた人間、天主に対して負債者となっていた人間、原罪によってサタンの所有となっていた人間、つまり自分の天主から離れてしまい(これこそ罪です)堕天使の下部・召使になっていた人間でしたが、私たちの主イエズス・キリストの生贄のお陰で、人間は贖(あがな)われました。

ティモテオへの第一の手紙において、聖パウロは「彼はすべての人をあがなうために、ご自身を与えられた」 と記しています。というのも、イエズス・キリストは十字架によってこそ、ご自分の生贄によってこそ、私たちすべての人を解放されたからです。罪による支配から解放し給うたのです。サタンによる支配から解放し給いました。罪の支配から解放し給うと共に、私たちを天主の子になし給うのです。言い換えると、私たちを贖うことで、私たちを「買い戻し」、「負債を償還し給うた」お陰で、天主の所有に取り戻し給うたのです。これこそが「贖罪の玄義」に他なりません。



【贖いの代価・代償】

その上、贖罪の玄義における要注意の点がもう一つあります。「贖罪」とは、「買い戻し」ということだから、「代償」あるいは「代価」が必ず伴うのです。要するに、どういった「代償」をもって、主は私たちを贖ったのでしょうか。また、十字架上で、私たちを御自分の所有に取り戻すために、どういった「身代金」を払うことになさったでしょうか。

代償はイエズス・キリストの「御血」です。御受難の間にずっと、そして十字架上に流し給った「御血」です。だからこそ「いと尊き御血」というのです 。また「貴重な御血」です。語源の意味によると、ラテン語のpretium(値)から由来したpretiosus(貴重な)の語源的意味は「値がある」です。たしかに、一般的に何かを指して「貴重だ」と言うと、「高価」であるとか、高級であるとか、非常に価値のある、という意味で利用していますね。

従って「いと尊き御血」は、すべての人の贖罪の代価であるからこそ、すべての人の償還の代償であるからこそ、貴重さは極まりないものです。その上「いと尊き御血」はなぜすべての人の贖罪の代償となり得るかというと、「天主の御血」である故に他なりません。

「私たちの主イエズス・キリストの御血」であるからです。勿論「イエズス・キリストの御血」なので、人間の血でもあります。でも、同時に、人間の本性を受け給うた天主なる第二の位格の御血でもあります。つまり、聖三位一体の第二の位格の御血です。これこそ、「贖罪の玄義」の中心となります。計り知れない玄義です。「天主は御独り子を与え給うほどこの世(人間)を愛された」 とイエズス・キリストが仰せになった通り、愛される者のために御自らにご自分の命をお捧げになりました。つまり、まず、代償として愛する天主に対してお捧げになり、そして、贖罪として愛するすべての人のためにお捧げしました。すべての人を「御自分の所有に取り戻すために」、ご自分の命を生贄としてお捧げしました。

以上、手短に美しきこの「贖罪の玄義」をご紹介しました。カトリックの信経の第四条で宣言する玄義です。「十字架に付けられ、死し」給う。