白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
堕落。アダムとイブは堕落しました。楽園では、試練を受けました。善悪を知る木の実を食べてはならぬという掟でした。天主の掟を破ってしまって、傲慢の罪を犯しました。「天主のようになる」と言われた悪魔の誘いに負けて、天主と同等になる存在になろうとしましたから。それきり、無条件に天主から与えられた総ての賜物を失ってしまいました。聖寵や外自然の賜物などを失いました。また、人間の本性はそのままに保全され、善のままだったものの、自然上の諸能力においても、人間が傷つけられてしまいました。
しかしながら、それより悲惨なことがあります。この罪が、なぜ原罪と呼ばれるかというと、人類の起源、人類の最初に犯された罪だからだけではありません。原罪と呼ばれているのは、すべての人間に伝わってしまう罪だからでもあります。
「不正なこと!」と誰か言い出すかもしれません。しかしながら、忘れてはいけないことがあります。総ての人間に原罪が伝染されてはいますが、一方、アダムとエワが罪を犯さなければ、享受していたすべての外自然の賜物も同様に子孫へ伝わるはずでした。つまり、彼らの後を継いで、我々も不死になっていたはずでした。保全、平安、天賦の知識のままになっていたはずでした。
この罪は、なぜ原罪でしょうか。言い換えると、なぜ代々に伝わる罪になったのでしょうか。それは、アダムが、罪を犯したときに、単なる私的な個人として犯しただけではないからです。人類の頭(かしら)として行動したからです。ラテン語でアダムが人類の「caput カプット」として、つまり「頭」として振舞いました。従って、個人としてある義務を負わせたのは勿論、頭として、人類に対する義務をも負わせました。だからこそ、原罪を犯したのは、エワではなくて、アダムが一人で犯したわけです。人類の頭であるアダムこそが、最初に創造された人間であるアダムこそが、すべての人間の父としてのアダムこそが犯した罪ですから。父としてこの罪を相続させてしまうのです。
類似的に言うと、借金に似ています。家長が借金を負ってしまうと同じような状況です。家長が、借金を負ったら、自分だけではなく、義務を負わせて、家全般を拘束させてしまうわけです。要するに、家長が亡くなる時が来たら、借金は、残念ながら、子孫に継がれるのです。遺産も継がれるように。まあ、兎も角、継がれていたように。
要するに、善が継がれる時に、同時に、残念ながらも、同時に悪も継がれるわけです。家族の頭の犯した悪も、家族の全員に伝わるのです。
要約すると、アダムの犯した罪は、個人的な罪及び原罪です。不正だと思われるかもしれません。しかしながら、我らみんな、ある家族に属するわけです。現代のあまりにも個人主義的な世では、かかる悪の継承を理解するのは難しいかもしれません。とはいえ、皆、人類という大家族の一員であることに変わりがありません。
しかしながら、我々において、原罪は個人的な罪ではないことに注目してください。
言い換えると、アダムとエワは、世界にそれから広がっていくすべての罪の起源でしたが、その上に、二人においては個人的な罪でもありましたから、アダムとエワは、個人的な罪としても、厳しく罰せられました。
一方、われらにおいては、厳しく罰せられてはいないということです。確かに、罰として、聖寵と栄光と天国と天主の生命はハッキリと剥奪されました。まさに、これらは原罪そのものです。言い換えると、根源にあった正義の欠陥の結果にほかなりません。同時に、剥奪なのです。原罪は、天主に与えられた総ての賜物の剥奪なのです。特に、天主の聖寵と栄光の剥奪です。しかしながら、我らにおいて、個人的な罪ではありませんので、原罪だからと言って、アダムとエワの受けた罰とは、我々は違う罰を受けています。
残念ながら、原罪によって、天国の門は閉じられてしまいました。要するに、原罪は、成聖の恩寵の剥奪であり、続いて、残念な事実ですが、アダムの責任を我々も負っています。あえて言わせれば、人間という種による罪のようなものです。人類という全人種の罪です。また言い換えると、家族の罪に他なりません。その不名誉は、人類の一員一員の皆にまで及んでしまいます。総ての人の諸民まで。現代風に言うと、いわゆる全人類まで。
以上は原罪でした。また、なぜ子孫へ伝わるか説明しました。
しかしながら、感嘆するよいこともあります。堕落に続く聖書の創世記の物語の前に、感嘆せざるを得ませんから。天主は、如何に人間の救いのために寄りそい給うたことを見て感嘆しましょう。
~~
アダムとエワが原罪を犯した途端、楽園に天主が登場してきて、アダムとエワの近くまで寄っていらっしゃいます。というのも、原罪以前にも普段に行き来なさっていたように。そこで、アダムとエワが、ある種の恥を感じざるを得ません。赤面してしまうような恥です。過失を犯してしまう時に感じる恥です。子供が何かした時に、後ろめたい感じで、目を下ろさずにいられないような恥です。
そこで、アダムとエワは隠れます。それから、天主はアダムを呼び求めてみます。「アダムよ、アダムよ、どこにいるか」と。この場面だけでも、素晴らしい限りです。天主のほうが、人間に会いにいらっしゃるからです。天主が、人間を呼び求めます。「アダムよ、アダムよ、どこにいるか」と。
アダムがこう答えます。「園であなたの足音を聞きましたが、私は裸なので、こわくなって、隠れました。」
そこで、天主はこういい返します。「裸であることを、だれが、お前にいったのか。」と。つまり、お前の心に生じたこの欲望はどこから来たのかと。
そこで、想像に難く無いのですが、アダムが、女に責任を擦り付けます。しかも「女」だけではなくて、「天主より貰ったこんな女」と答えてしまいます。「あなたが私のそばにおいてくださった女が、あの木の実をくれたので、私も食べました」。
それから、同じく、女がヘビに責任を擦り付けます。
そこで、善き天主は彼らを罰します。楽園から追い出します。つまり、すべての賜物を失うことを示します。初めて、死、罪、苦痛、戦争などを経験するようになります。
御覧の通りに、これらの苦しみすべては、天主の御業でもなんでもありません。人間の業で、最初に犯した罪の結果にほかなりません。それにこれらは、人類によって積もる多くの罪の結果に他なりません。もう、人間は、内面上の欲望と反逆を経験するようになります。
しかしながら、これらの苦しみなどを経験するようになると同時に、善き天主が、人間に救い主の到来を約束し給います。
アダムとエワは堕落しました。アダムとエワは天主と離れました。アダムとエワが、「我々は天主と同等だ」ということによって、天主と自分を切り離しました。「天主のようになる」ということで、天主を拒絶しました。
にもかかわらず、天主は人間の堕落を御覧になって、救い主の到来を約束なさいます。創世記そのものの物語です。罪が犯されてからすぐに、天主は、救い主の到来を約束なさいます。人類の贖罪のために来り給う救い主を。天主に対する侮辱を償うために来り給う救い主を。
創世記では、救い主の到来の約束は、明記されています。救い主の御約束ですが、ヘビに向かって、天主はこう仰せになります。「私は、お前と女の間に、お前の末と女の末との間に、敵意を置く」と。
あなたの子孫と女の子孫の間に。それに「女の末は、お前の末の頭を踏み砕き」とあります。「女」というのは、他ならない聖母マリアの預言です。我らの主イエズス・キリストを産む聖母マリアですが、又、贖い主とも呼ばれる救い主です。「贖い主」とはあえて言えば「買い戻し者」との意味です。つまり、罪を償いに来り給った者ということです。
それから、代々に、旧約聖書によれば預言者の口を通じて、天主が最初になさった贖い主の到来の御約束を改めて繰り返し、繰り返し、宣言してきます。この御約束こそ、旧約聖書を照らすかのように、族長たちや預言者や諸王などを照らし導くのです。この御約束こそは、旧約聖書の光であるかのようです。我らの主イエズス・キリストの到来以前に生きていた人々の期待と希望なる光としての御約束なのです。
因みに、この御約束は、預言者の口を通じて伝わるだけではなくて、旧約聖書の人物のその身に起こったことによって告げられることもあります。身内によって殺された我らの主イエズス・キリストを象徴する弟に殺されたアベル。また、アブラハムの息子なるイザアクが自分の生贄(いけにえ)に使われる薪を持っているのは、木材なる十字架を負う我らの主イエズス・キリストを象徴します。また、ヨゼフが、兄弟の嫉妬のせいで、裏切られて売られているのは、身内によって、ユダによって裏切られて売られている我らの主を象徴します。また、モーセがエジプトから民を解放して、聖地までに導くのは、罪への隷属から解放しに来り給った我らの主を象徴します。また、ヨナが三日間、鯨(くじら)の胃にいるのは、三日間の間にお墓に葬られた我らの主を象徴します。などなど。
要するに、旧約聖書において、多くの前兆は、我らの主イエズス・キリストの到来を示すわけです。
そこで、この民は、アダムとエワの子孫は、我らの主イエズス・キリストなる救い主を待ち望むのです。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第十七講 天主の約束について
堕落。アダムとイブは堕落しました。楽園では、試練を受けました。善悪を知る木の実を食べてはならぬという掟でした。天主の掟を破ってしまって、傲慢の罪を犯しました。「天主のようになる」と言われた悪魔の誘いに負けて、天主と同等になる存在になろうとしましたから。それきり、無条件に天主から与えられた総ての賜物を失ってしまいました。聖寵や外自然の賜物などを失いました。また、人間の本性はそのままに保全され、善のままだったものの、自然上の諸能力においても、人間が傷つけられてしまいました。
しかしながら、それより悲惨なことがあります。この罪が、なぜ原罪と呼ばれるかというと、人類の起源、人類の最初に犯された罪だからだけではありません。原罪と呼ばれているのは、すべての人間に伝わってしまう罪だからでもあります。
「不正なこと!」と誰か言い出すかもしれません。しかしながら、忘れてはいけないことがあります。総ての人間に原罪が伝染されてはいますが、一方、アダムとエワが罪を犯さなければ、享受していたすべての外自然の賜物も同様に子孫へ伝わるはずでした。つまり、彼らの後を継いで、我々も不死になっていたはずでした。保全、平安、天賦の知識のままになっていたはずでした。
この罪は、なぜ原罪でしょうか。言い換えると、なぜ代々に伝わる罪になったのでしょうか。それは、アダムが、罪を犯したときに、単なる私的な個人として犯しただけではないからです。人類の頭(かしら)として行動したからです。ラテン語でアダムが人類の「caput カプット」として、つまり「頭」として振舞いました。従って、個人としてある義務を負わせたのは勿論、頭として、人類に対する義務をも負わせました。だからこそ、原罪を犯したのは、エワではなくて、アダムが一人で犯したわけです。人類の頭であるアダムこそが、最初に創造された人間であるアダムこそが、すべての人間の父としてのアダムこそが犯した罪ですから。父としてこの罪を相続させてしまうのです。
類似的に言うと、借金に似ています。家長が借金を負ってしまうと同じような状況です。家長が、借金を負ったら、自分だけではなく、義務を負わせて、家全般を拘束させてしまうわけです。要するに、家長が亡くなる時が来たら、借金は、残念ながら、子孫に継がれるのです。遺産も継がれるように。まあ、兎も角、継がれていたように。
要するに、善が継がれる時に、同時に、残念ながらも、同時に悪も継がれるわけです。家族の頭の犯した悪も、家族の全員に伝わるのです。
要約すると、アダムの犯した罪は、個人的な罪及び原罪です。不正だと思われるかもしれません。しかしながら、我らみんな、ある家族に属するわけです。現代のあまりにも個人主義的な世では、かかる悪の継承を理解するのは難しいかもしれません。とはいえ、皆、人類という大家族の一員であることに変わりがありません。
しかしながら、我々において、原罪は個人的な罪ではないことに注目してください。
言い換えると、アダムとエワは、世界にそれから広がっていくすべての罪の起源でしたが、その上に、二人においては個人的な罪でもありましたから、アダムとエワは、個人的な罪としても、厳しく罰せられました。
一方、われらにおいては、厳しく罰せられてはいないということです。確かに、罰として、聖寵と栄光と天国と天主の生命はハッキリと剥奪されました。まさに、これらは原罪そのものです。言い換えると、根源にあった正義の欠陥の結果にほかなりません。同時に、剥奪なのです。原罪は、天主に与えられた総ての賜物の剥奪なのです。特に、天主の聖寵と栄光の剥奪です。しかしながら、我らにおいて、個人的な罪ではありませんので、原罪だからと言って、アダムとエワの受けた罰とは、我々は違う罰を受けています。
残念ながら、原罪によって、天国の門は閉じられてしまいました。要するに、原罪は、成聖の恩寵の剥奪であり、続いて、残念な事実ですが、アダムの責任を我々も負っています。あえて言わせれば、人間という種による罪のようなものです。人類という全人種の罪です。また言い換えると、家族の罪に他なりません。その不名誉は、人類の一員一員の皆にまで及んでしまいます。総ての人の諸民まで。現代風に言うと、いわゆる全人類まで。
以上は原罪でした。また、なぜ子孫へ伝わるか説明しました。
しかしながら、感嘆するよいこともあります。堕落に続く聖書の創世記の物語の前に、感嘆せざるを得ませんから。天主は、如何に人間の救いのために寄りそい給うたことを見て感嘆しましょう。
~~
アダムとエワが原罪を犯した途端、楽園に天主が登場してきて、アダムとエワの近くまで寄っていらっしゃいます。というのも、原罪以前にも普段に行き来なさっていたように。そこで、アダムとエワが、ある種の恥を感じざるを得ません。赤面してしまうような恥です。過失を犯してしまう時に感じる恥です。子供が何かした時に、後ろめたい感じで、目を下ろさずにいられないような恥です。
そこで、アダムとエワは隠れます。それから、天主はアダムを呼び求めてみます。「アダムよ、アダムよ、どこにいるか」と。この場面だけでも、素晴らしい限りです。天主のほうが、人間に会いにいらっしゃるからです。天主が、人間を呼び求めます。「アダムよ、アダムよ、どこにいるか」と。
アダムがこう答えます。「園であなたの足音を聞きましたが、私は裸なので、こわくなって、隠れました。」
そこで、天主はこういい返します。「裸であることを、だれが、お前にいったのか。」と。つまり、お前の心に生じたこの欲望はどこから来たのかと。
そこで、想像に難く無いのですが、アダムが、女に責任を擦り付けます。しかも「女」だけではなくて、「天主より貰ったこんな女」と答えてしまいます。「あなたが私のそばにおいてくださった女が、あの木の実をくれたので、私も食べました」。
それから、同じく、女がヘビに責任を擦り付けます。
そこで、善き天主は彼らを罰します。楽園から追い出します。つまり、すべての賜物を失うことを示します。初めて、死、罪、苦痛、戦争などを経験するようになります。
御覧の通りに、これらの苦しみすべては、天主の御業でもなんでもありません。人間の業で、最初に犯した罪の結果にほかなりません。それにこれらは、人類によって積もる多くの罪の結果に他なりません。もう、人間は、内面上の欲望と反逆を経験するようになります。
しかしながら、これらの苦しみなどを経験するようになると同時に、善き天主が、人間に救い主の到来を約束し給います。
アダムとエワは堕落しました。アダムとエワは天主と離れました。アダムとエワが、「我々は天主と同等だ」ということによって、天主と自分を切り離しました。「天主のようになる」ということで、天主を拒絶しました。
にもかかわらず、天主は人間の堕落を御覧になって、救い主の到来を約束なさいます。創世記そのものの物語です。罪が犯されてからすぐに、天主は、救い主の到来を約束なさいます。人類の贖罪のために来り給う救い主を。天主に対する侮辱を償うために来り給う救い主を。
創世記では、救い主の到来の約束は、明記されています。救い主の御約束ですが、ヘビに向かって、天主はこう仰せになります。「私は、お前と女の間に、お前の末と女の末との間に、敵意を置く」と。
あなたの子孫と女の子孫の間に。それに「女の末は、お前の末の頭を踏み砕き」とあります。「女」というのは、他ならない聖母マリアの預言です。我らの主イエズス・キリストを産む聖母マリアですが、又、贖い主とも呼ばれる救い主です。「贖い主」とはあえて言えば「買い戻し者」との意味です。つまり、罪を償いに来り給った者ということです。
それから、代々に、旧約聖書によれば預言者の口を通じて、天主が最初になさった贖い主の到来の御約束を改めて繰り返し、繰り返し、宣言してきます。この御約束こそ、旧約聖書を照らすかのように、族長たちや預言者や諸王などを照らし導くのです。この御約束こそは、旧約聖書の光であるかのようです。我らの主イエズス・キリストの到来以前に生きていた人々の期待と希望なる光としての御約束なのです。
因みに、この御約束は、預言者の口を通じて伝わるだけではなくて、旧約聖書の人物のその身に起こったことによって告げられることもあります。身内によって殺された我らの主イエズス・キリストを象徴する弟に殺されたアベル。また、アブラハムの息子なるイザアクが自分の生贄(いけにえ)に使われる薪を持っているのは、木材なる十字架を負う我らの主イエズス・キリストを象徴します。また、ヨゼフが、兄弟の嫉妬のせいで、裏切られて売られているのは、身内によって、ユダによって裏切られて売られている我らの主を象徴します。また、モーセがエジプトから民を解放して、聖地までに導くのは、罪への隷属から解放しに来り給った我らの主を象徴します。また、ヨナが三日間、鯨(くじら)の胃にいるのは、三日間の間にお墓に葬られた我らの主を象徴します。などなど。
要するに、旧約聖書において、多くの前兆は、我らの主イエズス・キリストの到来を示すわけです。
そこで、この民は、アダムとエワの子孫は、我らの主イエズス・キリストなる救い主を待ち望むのです。