白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
プーガ(D.Puga)神父様のお説教
「狭き門」という神秘について
2022年2月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、「なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マテオ、20,16・22,14)というみ言葉を聞くたびに我々はなぜか恐ろしく思います。それはそうでしょう。我々についての御言葉であり、天主の口から出されたみ言葉であるので、動揺するのです。
しかしながら、このみ言葉を見て、天主が呼ばれた者は少なくて、この少ない呼ばれた者だけが救われるだろうと理解してはいけません。逆です。天主は人間一人一人の、全員の救いを望まれておられます。救いとは霊魂の救いです。救霊です。言いかえると、死を迎えたら、我々は天主側に並べられることを意味する救霊です。そして、永遠に天主様を直視できる至福を味わえる救いです。このように天主は人類全員のために救霊をお望みになっておられます。それを果たすために、御子イエズス・キリストは十字架上に死に給いました。この贖罪によって、人間の一人一人は贖われて、イエズスは救霊の道を開き給いました。
ですから、この一句の意味は呼ばれた者自体が少ないということになりません。カルヴィンはこのような間違った解釈を採用しましたが、プロテスタント主義の一つの大きな誤謬です。いわゆる救霊予定説という間違った理解です。カルヴィンの考えによれば、天主は事前に、生まれながらある人々を天国へ行くことを運命づけられて、ある人々は地獄へ墜ちることが運命づけられているということを主張していました。言いかえると、天主に悪意を見出したということになります。天主に対する侮辱であり、冒涜です。
さて、「選ばれる者は少ない」のです。なぜでしょうか。人間全員の救いを天主が望まれないからではなく、救霊への道は険しいからです。この真理もルターの解釈が否定したところです。なぜなら、道が険しいという現実がルターを悩ませた結果、ルターはこのような困難による不安を払拭させるために、次のことを思いつきました。「天主はどうせ我々を救うだろう。何とかして。そして、我々の言動を見ないで救い給うのだ」と。つまり、あえて標語的に要約してみると、「信じて罪を犯せ」という誘いになります。なぜなら、何を行ってきたにもかかわらず、天主は罪を隠して、目をつぶってくださるので、罪がないかのように天主は見守ってくださるからだというロジックです。問題はみんな、罪人のままになっているということです。
なぜ、このような解釈になってしまったかというと、ルターは成聖の恩寵を信じず、告解等の秘蹟によって、我々の霊魂はすこしずつ聖化されて、天主は変え給うといった真理をルターは否定したからです。
さて、福音の別の部分を取り上げましょう。天主ご自身なる、天主の御子イエズスはまさにこれに関する問題について触れてくださいました。聖マテオの第七章、13-14句にあります。「狭い門から入れ、滅びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない。」
聖地、特にベトレヘムを訪ねた方がいたらわかると思いますが、ベトレヘムにあるご降誕のバジリカ聖堂にいくために、細く狭い門をくぐらなければなりません。身を屈めざるを得ないし、狭いです。持ち物を持ったままに通れないことになっていて、一旦、持ち物を外してしか通れないほどに狭い門です。通ってから、手を伸ばして持ち物を持ち上げるということになっています。
数世紀前からのかなり古い門です。
この象徴はもちろん、全能なる天主は幼くか弱い子になり給うたということを思い起こさせてくださいます。
福音の「狭い門」はこのバジリカの狭い門と似ています。つまり、身を屈めて、つまりへりくだり、持ち物、すなわちこの世を捨てることさえすれば、入りやすい門ということです。
天への道はこの門と似ています。このようなものです。謙遜の心を果たすことによって、天主のみ前にひれ伏して、天主が我々に与え給うた手段を使い、そしてこの世、変わり移るものごとを捨てる覚悟さえできたら、天への道は通りやすい道となります。救われるための心構えは謙遜と天主のみ旨のままにすべてをお任せするということにあります。
さて、救われる者はだれでしょうか。親愛なる兄弟の皆さま、救いを得るために確かに道は険しいです。しかしながら、無理であることはまったくありません。聖ヨハネの黙示録を思い出しましょう。天にいる救われた霊魂が見える時です。「おびただしい数え切れぬ大群衆が現れるのを見た」(黙示録、7,9)とあります。ですから、救われる者は「おびただしい数え切れぬ大群衆」ともなります。
そこで、親愛なる兄弟の皆様、どうすれば以上の二つのことを調停できるでしょうか。つまり、一方で救われることは難しいこと、そして同時に簡単なことという二つのことです。
救われるのがなぜ難しいかというと、(その答えは)我々側にあります。つまり自分自身を見捨てて、諦めることが必要不可欠だからです。イエズス・キリストが仰せになる「自分の十字架を担う」ことにあります。つまり。へりくだり謙遜になる必要があります。それは難しいことです。イエズスが「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人への手紙、2,8)ということです。イエズスに倣い、我々も卑しくして従って、謙遜になる必要があります。
これは一番難しいところでしょう。しかしながら、キリストが天主の御子であるという真理を受け入れて、認めることによって謙遜でいられることさえできるようになったら、後は比較的簡単です。道は通りやすいです。洗礼に与ることにして、洗礼をうけるのです。そして、天主の掟に従いながら、自分に与えられた立場と仕事への義務を果たし、教会が信徒に要請するように、御聖体を糧にして、よく告解にゆき、毎日、必ず天主に祈ることです。このようなことは、これほど難しくなくて、簡単であるはずです。単純でいられたら、簡単なことです。
親愛なる兄弟の皆さま、天国に行けるのは大聖人だけではありません。いわゆる、非常に難しい苦行を果たすような聖人だけではありません。不思議な才能、カリスマ性、能力を持つ聖人、比較できないほどに愛徳の内に生きて愛徳に満ちあふれ出すような聖人だけではありません。
天国に行けるのは、善意のある者なら全員です。要するに天主の掟に常に従う者です。普段どおり、普通に、日常の毎日を通じて天主に従う者です。
我々が天国に辿りついたら、無名の人、素直な人々、人の評判から一生ずっと隠されていた人々がどれほど多くいるかを知って驚かれるでしょう。
親愛なる兄弟の皆さま、この話について避けるべき過剰な、極端な主張が二つあります。
一つは、凡人よりも遥かに優れている聖人でなければ、我々の模範となり導いてくれる光となる聖人でなければ、救われまいという極端な説を避けましょう。このような極端な考え方は、絶望につながり「私には無理だ」というふうになってもおかしくないのです。
もう一つ極端な主張があります。残念ながら、この誤謬は現代、かなり広まり、教会内でも嘆かわしく広まっている誤謬です。つまり「一人も残さず、みんな救われるだろう」という誤った説です。
教会内でもこの説が広まっている状況をよく示しているのは、死者のための新しい典礼でしょう。我々も、時々、親戚などの死によって、やむを得ず、葬式のために新しい典礼に参列せざるを得ないこともあるでしょう。それに参列した方はご存じだと思いますが、もう、皆、必ず天国にいるという印象を与える典礼になってしまいました。つまり、死者の救霊のために祈るべきだった死者の典礼は新しい典礼になると、もはや死者の霊魂のために祈らなくて、死者を記念して敬意を捧げるような感じになっています。これは大間違いです。公教会の教義に反することです。
要するに、天国に行くのは、同時に難しいことであり、簡単なことなのです。なぜ難しいかというと、僅かな努力である「天主の方に向いて、天主を認めて、自分の霊魂への天主の恩寵の働きを許す」という、本来ならば非常に小さな一歩であるはずのことが、この一歩を踏み出す人々が残念ながら少ないからです。しかしながら、同時に簡単な道なのです。この一歩さえ踏み出したら、イエズス・キリストと彼が制定なさった教会が与えてくださる手段は容易に使えるし、天主に祈ったら我々が必要としている恩寵も容易に得られるので、難しくない道でもあるのです。
回心という恩寵が得られるように、我々のために死に給い、我々に御力を分かち合い給うたキリストを頂くことができますように、という願いさえしつこく天主に捧げたら何とかなります。毎日、何度でもわずかな瞬間をぬって、天主の御助けを願うなり、天主を黙想するなり、このような祈祷することはそれほど難しいことでしょうか。簡単なことです。少しのことだけです。そして天主を愛すれば愛するほど、自分自身の霊魂に天主の御働きを仰ぎ、少しずつ自分自身が改善していくのです。変わります。回心です。少しずつ。
ですから、イエズス・キリストが仰せになった通り、霊魂の「滅び」もあるのです。つまり、滅びとなってしまう霊魂は現にいるわけです。そして悲しいことに滅びの霊魂は結構いることも知っています。多数派であるかどうか、教義上にだれも言えないのですが、少なくとも多くいることは確かなのです。ですから、我々は常におののき、畏怖しながら、同時に天主に信頼して、あたたかい希望をもっております。
なぜなら、良き天主は我々の力を越えた試練と誘惑にさらされることはないということをも啓示されているからです。ですから、皆一人一人に誘惑が来ても、それに抵抗する十分な能力があるということを知りましょう。自分のできる以上の誘惑が天主によって許可されることはないからです。これは大いに慰めになり、また天主の御慈悲と善への信頼を固めることができるものです。
親愛なる兄弟の皆さま、最期まで忍耐という恩寵をよく願いましょう。粘り強く最期まで、忍耐があるという恩寵を希いましょう。なぜなら、一回だけどれほど善い行いをやったとしても、これだけで決定的に救霊を得られることはありません。いや、そうはなっていません。善における粘り強さこそが救霊に繋がります。
言いかえると、臨終の時まで、聖寵の状態の内に居続けられるようにを希いましょう。そのための忍耐は天主からの賜物ですので、天主に希う必要があります。そして天主は我々がこのような願いを捧げることを望んでおられます。そして、良く死ぬ恩寵が与えられるようにという祈願が頻繁に捧げられたら、その恩寵は与えられます。
イエズス・キリストの内に生き続けて、イエズス・キリストへ愛の内に、我らの主イエズス・キリストへ忠実を尽くし続けられるように祈りましょう。そして、その祈りを聖母マリアの御取り次ぎによって祈りましょう。聖寵に満ちみてるマリア、すなわちアヴェ・マリアの祈祷をよく捧げましょう。「我々のために今も臨終の時にも祈り給え」という祈願があるように、臨終のときになったら、聖母マリアが我々の傍にいるように、そして天主のご栄光に入れるように助けてくださるように、よく祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
プーガ(D.Puga)神父様のお説教
「狭き門」という神秘について
2022年2月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆さま、「なぜなら、呼ばれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マテオ、20,16・22,14)というみ言葉を聞くたびに我々はなぜか恐ろしく思います。それはそうでしょう。我々についての御言葉であり、天主の口から出されたみ言葉であるので、動揺するのです。
しかしながら、このみ言葉を見て、天主が呼ばれた者は少なくて、この少ない呼ばれた者だけが救われるだろうと理解してはいけません。逆です。天主は人間一人一人の、全員の救いを望まれておられます。救いとは霊魂の救いです。救霊です。言いかえると、死を迎えたら、我々は天主側に並べられることを意味する救霊です。そして、永遠に天主様を直視できる至福を味わえる救いです。このように天主は人類全員のために救霊をお望みになっておられます。それを果たすために、御子イエズス・キリストは十字架上に死に給いました。この贖罪によって、人間の一人一人は贖われて、イエズスは救霊の道を開き給いました。
ですから、この一句の意味は呼ばれた者自体が少ないということになりません。カルヴィンはこのような間違った解釈を採用しましたが、プロテスタント主義の一つの大きな誤謬です。いわゆる救霊予定説という間違った理解です。カルヴィンの考えによれば、天主は事前に、生まれながらある人々を天国へ行くことを運命づけられて、ある人々は地獄へ墜ちることが運命づけられているということを主張していました。言いかえると、天主に悪意を見出したということになります。天主に対する侮辱であり、冒涜です。
さて、「選ばれる者は少ない」のです。なぜでしょうか。人間全員の救いを天主が望まれないからではなく、救霊への道は険しいからです。この真理もルターの解釈が否定したところです。なぜなら、道が険しいという現実がルターを悩ませた結果、ルターはこのような困難による不安を払拭させるために、次のことを思いつきました。「天主はどうせ我々を救うだろう。何とかして。そして、我々の言動を見ないで救い給うのだ」と。つまり、あえて標語的に要約してみると、「信じて罪を犯せ」という誘いになります。なぜなら、何を行ってきたにもかかわらず、天主は罪を隠して、目をつぶってくださるので、罪がないかのように天主は見守ってくださるからだというロジックです。問題はみんな、罪人のままになっているということです。
なぜ、このような解釈になってしまったかというと、ルターは成聖の恩寵を信じず、告解等の秘蹟によって、我々の霊魂はすこしずつ聖化されて、天主は変え給うといった真理をルターは否定したからです。
さて、福音の別の部分を取り上げましょう。天主ご自身なる、天主の御子イエズスはまさにこれに関する問題について触れてくださいました。聖マテオの第七章、13-14句にあります。「狭い門から入れ、滅びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない。」
聖地、特にベトレヘムを訪ねた方がいたらわかると思いますが、ベトレヘムにあるご降誕のバジリカ聖堂にいくために、細く狭い門をくぐらなければなりません。身を屈めざるを得ないし、狭いです。持ち物を持ったままに通れないことになっていて、一旦、持ち物を外してしか通れないほどに狭い門です。通ってから、手を伸ばして持ち物を持ち上げるということになっています。
数世紀前からのかなり古い門です。
この象徴はもちろん、全能なる天主は幼くか弱い子になり給うたということを思い起こさせてくださいます。
福音の「狭い門」はこのバジリカの狭い門と似ています。つまり、身を屈めて、つまりへりくだり、持ち物、すなわちこの世を捨てることさえすれば、入りやすい門ということです。
天への道はこの門と似ています。このようなものです。謙遜の心を果たすことによって、天主のみ前にひれ伏して、天主が我々に与え給うた手段を使い、そしてこの世、変わり移るものごとを捨てる覚悟さえできたら、天への道は通りやすい道となります。救われるための心構えは謙遜と天主のみ旨のままにすべてをお任せするということにあります。
さて、救われる者はだれでしょうか。親愛なる兄弟の皆さま、救いを得るために確かに道は険しいです。しかしながら、無理であることはまったくありません。聖ヨハネの黙示録を思い出しましょう。天にいる救われた霊魂が見える時です。「おびただしい数え切れぬ大群衆が現れるのを見た」(黙示録、7,9)とあります。ですから、救われる者は「おびただしい数え切れぬ大群衆」ともなります。
そこで、親愛なる兄弟の皆様、どうすれば以上の二つのことを調停できるでしょうか。つまり、一方で救われることは難しいこと、そして同時に簡単なことという二つのことです。
救われるのがなぜ難しいかというと、(その答えは)我々側にあります。つまり自分自身を見捨てて、諦めることが必要不可欠だからです。イエズス・キリストが仰せになる「自分の十字架を担う」ことにあります。つまり。へりくだり謙遜になる必要があります。それは難しいことです。イエズスが「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」(フィリッピ人への手紙、2,8)ということです。イエズスに倣い、我々も卑しくして従って、謙遜になる必要があります。
これは一番難しいところでしょう。しかしながら、キリストが天主の御子であるという真理を受け入れて、認めることによって謙遜でいられることさえできるようになったら、後は比較的簡単です。道は通りやすいです。洗礼に与ることにして、洗礼をうけるのです。そして、天主の掟に従いながら、自分に与えられた立場と仕事への義務を果たし、教会が信徒に要請するように、御聖体を糧にして、よく告解にゆき、毎日、必ず天主に祈ることです。このようなことは、これほど難しくなくて、簡単であるはずです。単純でいられたら、簡単なことです。
親愛なる兄弟の皆さま、天国に行けるのは大聖人だけではありません。いわゆる、非常に難しい苦行を果たすような聖人だけではありません。不思議な才能、カリスマ性、能力を持つ聖人、比較できないほどに愛徳の内に生きて愛徳に満ちあふれ出すような聖人だけではありません。
天国に行けるのは、善意のある者なら全員です。要するに天主の掟に常に従う者です。普段どおり、普通に、日常の毎日を通じて天主に従う者です。
我々が天国に辿りついたら、無名の人、素直な人々、人の評判から一生ずっと隠されていた人々がどれほど多くいるかを知って驚かれるでしょう。
親愛なる兄弟の皆さま、この話について避けるべき過剰な、極端な主張が二つあります。
一つは、凡人よりも遥かに優れている聖人でなければ、我々の模範となり導いてくれる光となる聖人でなければ、救われまいという極端な説を避けましょう。このような極端な考え方は、絶望につながり「私には無理だ」というふうになってもおかしくないのです。
もう一つ極端な主張があります。残念ながら、この誤謬は現代、かなり広まり、教会内でも嘆かわしく広まっている誤謬です。つまり「一人も残さず、みんな救われるだろう」という誤った説です。
教会内でもこの説が広まっている状況をよく示しているのは、死者のための新しい典礼でしょう。我々も、時々、親戚などの死によって、やむを得ず、葬式のために新しい典礼に参列せざるを得ないこともあるでしょう。それに参列した方はご存じだと思いますが、もう、皆、必ず天国にいるという印象を与える典礼になってしまいました。つまり、死者の救霊のために祈るべきだった死者の典礼は新しい典礼になると、もはや死者の霊魂のために祈らなくて、死者を記念して敬意を捧げるような感じになっています。これは大間違いです。公教会の教義に反することです。
要するに、天国に行くのは、同時に難しいことであり、簡単なことなのです。なぜ難しいかというと、僅かな努力である「天主の方に向いて、天主を認めて、自分の霊魂への天主の恩寵の働きを許す」という、本来ならば非常に小さな一歩であるはずのことが、この一歩を踏み出す人々が残念ながら少ないからです。しかしながら、同時に簡単な道なのです。この一歩さえ踏み出したら、イエズス・キリストと彼が制定なさった教会が与えてくださる手段は容易に使えるし、天主に祈ったら我々が必要としている恩寵も容易に得られるので、難しくない道でもあるのです。
回心という恩寵が得られるように、我々のために死に給い、我々に御力を分かち合い給うたキリストを頂くことができますように、という願いさえしつこく天主に捧げたら何とかなります。毎日、何度でもわずかな瞬間をぬって、天主の御助けを願うなり、天主を黙想するなり、このような祈祷することはそれほど難しいことでしょうか。簡単なことです。少しのことだけです。そして天主を愛すれば愛するほど、自分自身の霊魂に天主の御働きを仰ぎ、少しずつ自分自身が改善していくのです。変わります。回心です。少しずつ。
ですから、イエズス・キリストが仰せになった通り、霊魂の「滅び」もあるのです。つまり、滅びとなってしまう霊魂は現にいるわけです。そして悲しいことに滅びの霊魂は結構いることも知っています。多数派であるかどうか、教義上にだれも言えないのですが、少なくとも多くいることは確かなのです。ですから、我々は常におののき、畏怖しながら、同時に天主に信頼して、あたたかい希望をもっております。
なぜなら、良き天主は我々の力を越えた試練と誘惑にさらされることはないということをも啓示されているからです。ですから、皆一人一人に誘惑が来ても、それに抵抗する十分な能力があるということを知りましょう。自分のできる以上の誘惑が天主によって許可されることはないからです。これは大いに慰めになり、また天主の御慈悲と善への信頼を固めることができるものです。
親愛なる兄弟の皆さま、最期まで忍耐という恩寵をよく願いましょう。粘り強く最期まで、忍耐があるという恩寵を希いましょう。なぜなら、一回だけどれほど善い行いをやったとしても、これだけで決定的に救霊を得られることはありません。いや、そうはなっていません。善における粘り強さこそが救霊に繋がります。
言いかえると、臨終の時まで、聖寵の状態の内に居続けられるようにを希いましょう。そのための忍耐は天主からの賜物ですので、天主に希う必要があります。そして天主は我々がこのような願いを捧げることを望んでおられます。そして、良く死ぬ恩寵が与えられるようにという祈願が頻繁に捧げられたら、その恩寵は与えられます。
イエズス・キリストの内に生き続けて、イエズス・キリストへ愛の内に、我らの主イエズス・キリストへ忠実を尽くし続けられるように祈りましょう。そして、その祈りを聖母マリアの御取り次ぎによって祈りましょう。聖寵に満ちみてるマリア、すなわちアヴェ・マリアの祈祷をよく捧げましょう。「我々のために今も臨終の時にも祈り給え」という祈願があるように、臨終のときになったら、聖母マリアが我々の傍にいるように、そして天主のご栄光に入れるように助けてくださるように、よく祈りましょう。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン