白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様のお説教
凱旋と苦悩
2022年4月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
いと愛する学生の皆さま、信徒の皆様、我々を罪の支配から解放し給うために、人になり給うた天主なる我らの主、イエズス・キリストの苦しみである御受難とは、福音の宝であり、福音の真珠なのです。
皆様の毎日のミサ典書を見ていただいたら、御受難の福音の朗読は四回あります。聖週間に、四人の福音者のそれぞれの記された御受難が朗読されます。聖マテオによる御受難は枝の主日の時に朗読されます。聖マルコによる御受難は聖火曜日の時に朗読されます。聖ルカによる御受難は聖水曜日の時に朗読されます。聖ヨハネによる御受難は聖金曜日の時に朗読されます。
四旬節の終了を控えて、御受難を黙想するためにそれらの福音を繰り返し読みましょう。聖週間とは四旬節の最も重要な時であるどころか、典礼年間中の最も大事な一週間なのです。愛する信徒の皆様、御受難を黙想するための時間を取りましょう。できれば聖週間の間に休暇をとっていただき、日常生活から一歩距離をとって、イエズス様のためにだけ、聖週間の行事に専念していただき、聖なる週間になるように努力しましょう。
また、聖木・金・土の儀式にぜひ与かってください。聖木曜日の最後の晩餐を記念するミサ、聖金曜日の十字架の道行や聖金曜日の儀式に与かりましょう。またそれぞれの日の朝課に参加できなくても典礼書でも、何かで祈りましょう。要するに時間をとって本当にこの聖週間をよく過ごしましょう。
さて御受難についてちょっと話させてください。
最初の御受難の朗読は先ほども申し上げたように、枝の主日となります。そして、ある意味で驚くことに、救い主の御受難の朗読は、つまり我らの主の苦しみや涙の日の朗読は、枝の主日の行列と同じ日になるわけです。この行列のために、喜びに満ちた聖歌を讃えて、凱旋歌などがあります。
この大変な御苦しみ。侮辱的な死を意味する十字架上の極刑のイエズス様と王として凱旋的にエルサレムへ迎え入れられるイエズス様が同日に思い起こされることは矛盾になるのではと思われるでしょう。
エルサレムへの凱旋的な入場の数日後、我らの主は十字架につけられてしまうことになりますが、彼を称賛した人々はかれを十字架につけた同じ人々であり、また凱旋的な入場と御死去も同じ場所となります。一日、喝采歓呼していた同じ大衆は数日後、イエズス様を強烈に罵って侮辱していました。
この二つの場面を並べて聞くと、どれほど対照的であるかが印象に残ります。一方で憎しみの叫び、「ころせ、ころせ」、「消えろ」、「十字架につけろ」、他方で、賞賛、喝采歓呼の、「ダヴィド王の子、ホザンナ、祝されよ、主の皆によって来る者」と。対照的です。
「エルサレムの王よ」に対して、「シーザー以外に我々には王がない」も対照的です。
救い主を迎えるために、緑豊かな新鮮な枝を地面に敷くことに対して、枯れた十字架の木も対照的です。花に対して、茨。イエズス様を迎え入れるために、自分の服を脱いで地面に敷くことに対して、イエズス様の服を剥ぎ出して、くじ引きで分けられます。何と対照的でしょう。
聖週間までは、例えば我らの主がパンを増やされた時のように、イエズス様は人々が彼を王として仰ごうとするために、イエズス様をかつぎあげようとしていたとき、イエズス様はそっと逃げられました。王座に就かせられないために、王として人々によって仰がれそうになるたびに、イエズス様はそっと去られて、山の上に登られて、祈りに耽っていきました。
同じように御受難についても聖週間までは同様でした。敵らがイエズス様を殺しそうになるたび、イエズス様を捕まえようとするたび、イエズス様はそっとその場から去られて、敵の手から逃れました。このように、ユダヤ人は彼を殺すことを決意したと知って、ユダ地方にしばらく来ないことにされていました。また、何回も、イエズス様はすべての出来事と流れをコントロールして、支配していることを示されました。彼こそが主であることを示されました。
御自分自身、おん自らの動きで、エルサレムへ御受難へ行くことになさいました。エルサレムへの凱旋的な入場と過酷な御受難の苦しみをもイエズス様ご自身が決められて、そのタイミング、時も決められて、また彼ご自身こそ、動き出されて、それらの出来事は始まりました。
我らの主がエルサレムの王として迎え入れられて、エルサレムの民によって王として仰がれることを決意された理由は何でしょう。なぜでしょうか。主にとってイスラエルの王になってもならなくても全能なる天主なのでどこに意味があるでしょうか。諸世紀や天使たちの王であるイエズス様にとって、イスラエルという小さな国の王になってもならなくてもよかったし、また、イスラエルのために軍隊を集めて、年貢を抑えて、目に見える敵を破り、大帝国を築くためにはイエズス様は王になりませんでした。
天主の御子であり、御父と一致していて、すべてにおいて御父と一致していて、全世界を創造されたみ言葉なるイエズス様はイスラエル王になってもよいと決められました。その理由はイスラエル人への同情であり、王の王でありながら、ただのイスラエルの王になってもよいとイエズス様はなされたのですが、それは権力を増すことでもなく、むしろご自分を小さくされることであり、ましてや栄光などを増すことではあり得ず、ひたすらイスラエル人への思いやりの印ということにすぎませんでした。
そして、イスラエルの王になり給うた最大の理由は、霊魂を統治するためでした。永遠の善への準備をするためでした。イエズス様を信じて、イエズス様を望んで、イエズス様を愛する霊魂たちを天上の王国へ導き給うためでした。
この上なき智慧に満ちておられる我らの主、イエズス・キリストが枝の主日になって、王として賞賛されることを許可なさった理由は、または死刑に処せられそうになっていた我らの主が、同時に皆に期待されて、公にメシアとして、王として公認されることを許し給うた理由は何でしょうか。深い理由があります。
まさに御死去のためです。御受難を得て、十字架上に死に給うてはじめて、イエズス様は本当の意味で、完全にメシアになり、救い主になり、贖罪を果たされることによって、罪と悪魔を破り、凱旋した王になり給うたのです。イエズス様は王になることを受け入れ給うたのですが、十字架をもってこそ統治し給うたのです。十字架上の御死去をもってこそ、凱旋し給う王なのです。
「Regnavit a ligno deus」「(十字架上の)木によって天主は統治された」。
枝の主日の際、祝別される枝は喝采歓呼や賞賛のしるしである上に、勝利と凱旋のしるしでもあります。よく聖人たちは勝利の枝を手にしながら描かれることもあります。
なぜなら、我らの主は死に給うことによって、死に打ち勝ちたまうことになったからです。そして、十字架によって、死の王なる悪魔を打ち負かし給いました。
愛する信徒の皆様、このように、苦しみと凱旋との関係を紹介しました。実際、矛盾はないわけです。だから、枝の主日の時、典礼において苦しみと凱旋を傍に教会が置いたのも当然です。なぜなら、御苦しみによってこそ、我らの主は凱旋し給もうからです。
祝別された枝を頂いたら、家の中にある十字架などにつけてください。このように、いつも家にある十字架をみて、この美しい真理が思い起こされます。「十字架によってこそ凱旋の枝を得るものだ」と。また、我々一人一人は自分自身の心の中にある悪や悪習、それから我らの周りにある悪を打ち負かせるように凱旋できるように、イエズス様と共に戦うことにしましょう。そしてイエズス様は悪を打ち負かし給うたのは、十字架上に登られたことによってこそということをよく思い出しましょう。
なんて深くて美しい教訓でしょう。もう、我々が自然に持っている人間的な理解を遥かに越えられる真理なのです。「苦しみを受け入れて統治する」という真理はこの世が理解できないのです。「十字架によって統治する」という真理です。
このようにみることで、枝の主日の行列の意味が見えてきます。また皆様、Maubert広場からNicolas du Chardonnet教会までの行列に是非、参加してください。なぜなら、この行列は我々の地上の巡礼を象徴しているからです。
助祭は行列が教会に入るために、閉じたままの門に、三回ほど敲くことになります。すると、教会の門は開いて、行列は教会へ入っていきます。これは何を意味するでしょうか。十字架によってこそ、天上の王国に入ることになるという真理を示すためです。つまり、助祭につづいて、教会へ皆さんは入っていくと同じように、十字架に従って天国へ入っていくということです。
ですから、凱旋しておられるイエズス様と一緒になるだけではなく、御受難を積極的に受け入れておられるイエズス様とご一緒しましょう。このように、イエズス様は我々一人一人に相応しく、我々一人一人の特徴に合わせて我々の愛徳の程度にあわせて決めておられる十字架の一部、御受難の一部を我々は受け入れて担いましょう。
我らの主、我らの指導者なるイエズス・キリストはいずれ来る日に、天のエルサレムへご自分の臣下の皆を迎え入れ給うでしょう。天使たちの軍や選ばれた人々の喝采歓呼を浴びて、凱旋しておられる王たるイエズス様のために、「ホザンナ、祝されよ、主の聖名によって来る者」と喜びに満ちて叫ばれます。それは我々の地上の巡礼の目的なのです。凱旋を得て永遠の栄光を得ることです。
御受難は、キリスト教徒として試練を耐えて受け入れることは天国の唯一の道なのです。この人生でわれわれが経験している多くの試練や苦しみこそが天へ行くための唯一の道です。なぜなら、これらの試練や困難を被ることは、我々にとって愛徳を施す機会となるからです。
そして、最期の審判はまさに愛徳で天国に行けるかどうかが裁かれるのです。ですから、試練は我々が天主を何よりも愛することを示すための機会なのです。そして、試練のお陰で我々は天を得られるのです。また愛徳を実践することによって、試練の荷は軽くなります。耐えやすくなります。愛徳を施す人にとって、試練は軽くなります。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
クロゾンヌ(B. MARTIN de CLAUSONNE)神父様のお説教
凱旋と苦悩
2022年4月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて
いと愛する学生の皆さま、信徒の皆様、我々を罪の支配から解放し給うために、人になり給うた天主なる我らの主、イエズス・キリストの苦しみである御受難とは、福音の宝であり、福音の真珠なのです。
皆様の毎日のミサ典書を見ていただいたら、御受難の福音の朗読は四回あります。聖週間に、四人の福音者のそれぞれの記された御受難が朗読されます。聖マテオによる御受難は枝の主日の時に朗読されます。聖マルコによる御受難は聖火曜日の時に朗読されます。聖ルカによる御受難は聖水曜日の時に朗読されます。聖ヨハネによる御受難は聖金曜日の時に朗読されます。
四旬節の終了を控えて、御受難を黙想するためにそれらの福音を繰り返し読みましょう。聖週間とは四旬節の最も重要な時であるどころか、典礼年間中の最も大事な一週間なのです。愛する信徒の皆様、御受難を黙想するための時間を取りましょう。できれば聖週間の間に休暇をとっていただき、日常生活から一歩距離をとって、イエズス様のためにだけ、聖週間の行事に専念していただき、聖なる週間になるように努力しましょう。
また、聖木・金・土の儀式にぜひ与かってください。聖木曜日の最後の晩餐を記念するミサ、聖金曜日の十字架の道行や聖金曜日の儀式に与かりましょう。またそれぞれの日の朝課に参加できなくても典礼書でも、何かで祈りましょう。要するに時間をとって本当にこの聖週間をよく過ごしましょう。
さて御受難についてちょっと話させてください。
最初の御受難の朗読は先ほども申し上げたように、枝の主日となります。そして、ある意味で驚くことに、救い主の御受難の朗読は、つまり我らの主の苦しみや涙の日の朗読は、枝の主日の行列と同じ日になるわけです。この行列のために、喜びに満ちた聖歌を讃えて、凱旋歌などがあります。
この大変な御苦しみ。侮辱的な死を意味する十字架上の極刑のイエズス様と王として凱旋的にエルサレムへ迎え入れられるイエズス様が同日に思い起こされることは矛盾になるのではと思われるでしょう。
エルサレムへの凱旋的な入場の数日後、我らの主は十字架につけられてしまうことになりますが、彼を称賛した人々はかれを十字架につけた同じ人々であり、また凱旋的な入場と御死去も同じ場所となります。一日、喝采歓呼していた同じ大衆は数日後、イエズス様を強烈に罵って侮辱していました。
この二つの場面を並べて聞くと、どれほど対照的であるかが印象に残ります。一方で憎しみの叫び、「ころせ、ころせ」、「消えろ」、「十字架につけろ」、他方で、賞賛、喝采歓呼の、「ダヴィド王の子、ホザンナ、祝されよ、主の皆によって来る者」と。対照的です。
「エルサレムの王よ」に対して、「シーザー以外に我々には王がない」も対照的です。
救い主を迎えるために、緑豊かな新鮮な枝を地面に敷くことに対して、枯れた十字架の木も対照的です。花に対して、茨。イエズス様を迎え入れるために、自分の服を脱いで地面に敷くことに対して、イエズス様の服を剥ぎ出して、くじ引きで分けられます。何と対照的でしょう。
聖週間までは、例えば我らの主がパンを増やされた時のように、イエズス様は人々が彼を王として仰ごうとするために、イエズス様をかつぎあげようとしていたとき、イエズス様はそっと逃げられました。王座に就かせられないために、王として人々によって仰がれそうになるたびに、イエズス様はそっと去られて、山の上に登られて、祈りに耽っていきました。
同じように御受難についても聖週間までは同様でした。敵らがイエズス様を殺しそうになるたび、イエズス様を捕まえようとするたび、イエズス様はそっとその場から去られて、敵の手から逃れました。このように、ユダヤ人は彼を殺すことを決意したと知って、ユダ地方にしばらく来ないことにされていました。また、何回も、イエズス様はすべての出来事と流れをコントロールして、支配していることを示されました。彼こそが主であることを示されました。
御自分自身、おん自らの動きで、エルサレムへ御受難へ行くことになさいました。エルサレムへの凱旋的な入場と過酷な御受難の苦しみをもイエズス様ご自身が決められて、そのタイミング、時も決められて、また彼ご自身こそ、動き出されて、それらの出来事は始まりました。
我らの主がエルサレムの王として迎え入れられて、エルサレムの民によって王として仰がれることを決意された理由は何でしょう。なぜでしょうか。主にとってイスラエルの王になってもならなくても全能なる天主なのでどこに意味があるでしょうか。諸世紀や天使たちの王であるイエズス様にとって、イスラエルという小さな国の王になってもならなくてもよかったし、また、イスラエルのために軍隊を集めて、年貢を抑えて、目に見える敵を破り、大帝国を築くためにはイエズス様は王になりませんでした。
天主の御子であり、御父と一致していて、すべてにおいて御父と一致していて、全世界を創造されたみ言葉なるイエズス様はイスラエル王になってもよいと決められました。その理由はイスラエル人への同情であり、王の王でありながら、ただのイスラエルの王になってもよいとイエズス様はなされたのですが、それは権力を増すことでもなく、むしろご自分を小さくされることであり、ましてや栄光などを増すことではあり得ず、ひたすらイスラエル人への思いやりの印ということにすぎませんでした。
そして、イスラエルの王になり給うた最大の理由は、霊魂を統治するためでした。永遠の善への準備をするためでした。イエズス様を信じて、イエズス様を望んで、イエズス様を愛する霊魂たちを天上の王国へ導き給うためでした。
この上なき智慧に満ちておられる我らの主、イエズス・キリストが枝の主日になって、王として賞賛されることを許可なさった理由は、または死刑に処せられそうになっていた我らの主が、同時に皆に期待されて、公にメシアとして、王として公認されることを許し給うた理由は何でしょうか。深い理由があります。
まさに御死去のためです。御受難を得て、十字架上に死に給うてはじめて、イエズス様は本当の意味で、完全にメシアになり、救い主になり、贖罪を果たされることによって、罪と悪魔を破り、凱旋した王になり給うたのです。イエズス様は王になることを受け入れ給うたのですが、十字架をもってこそ統治し給うたのです。十字架上の御死去をもってこそ、凱旋し給う王なのです。
「Regnavit a ligno deus」「(十字架上の)木によって天主は統治された」。
枝の主日の際、祝別される枝は喝采歓呼や賞賛のしるしである上に、勝利と凱旋のしるしでもあります。よく聖人たちは勝利の枝を手にしながら描かれることもあります。
なぜなら、我らの主は死に給うことによって、死に打ち勝ちたまうことになったからです。そして、十字架によって、死の王なる悪魔を打ち負かし給いました。
愛する信徒の皆様、このように、苦しみと凱旋との関係を紹介しました。実際、矛盾はないわけです。だから、枝の主日の時、典礼において苦しみと凱旋を傍に教会が置いたのも当然です。なぜなら、御苦しみによってこそ、我らの主は凱旋し給もうからです。
祝別された枝を頂いたら、家の中にある十字架などにつけてください。このように、いつも家にある十字架をみて、この美しい真理が思い起こされます。「十字架によってこそ凱旋の枝を得るものだ」と。また、我々一人一人は自分自身の心の中にある悪や悪習、それから我らの周りにある悪を打ち負かせるように凱旋できるように、イエズス様と共に戦うことにしましょう。そしてイエズス様は悪を打ち負かし給うたのは、十字架上に登られたことによってこそということをよく思い出しましょう。
なんて深くて美しい教訓でしょう。もう、我々が自然に持っている人間的な理解を遥かに越えられる真理なのです。「苦しみを受け入れて統治する」という真理はこの世が理解できないのです。「十字架によって統治する」という真理です。
このようにみることで、枝の主日の行列の意味が見えてきます。また皆様、Maubert広場からNicolas du Chardonnet教会までの行列に是非、参加してください。なぜなら、この行列は我々の地上の巡礼を象徴しているからです。
助祭は行列が教会に入るために、閉じたままの門に、三回ほど敲くことになります。すると、教会の門は開いて、行列は教会へ入っていきます。これは何を意味するでしょうか。十字架によってこそ、天上の王国に入ることになるという真理を示すためです。つまり、助祭につづいて、教会へ皆さんは入っていくと同じように、十字架に従って天国へ入っていくということです。
ですから、凱旋しておられるイエズス様と一緒になるだけではなく、御受難を積極的に受け入れておられるイエズス様とご一緒しましょう。このように、イエズス様は我々一人一人に相応しく、我々一人一人の特徴に合わせて我々の愛徳の程度にあわせて決めておられる十字架の一部、御受難の一部を我々は受け入れて担いましょう。
我らの主、我らの指導者なるイエズス・キリストはいずれ来る日に、天のエルサレムへご自分の臣下の皆を迎え入れ給うでしょう。天使たちの軍や選ばれた人々の喝采歓呼を浴びて、凱旋しておられる王たるイエズス様のために、「ホザンナ、祝されよ、主の聖名によって来る者」と喜びに満ちて叫ばれます。それは我々の地上の巡礼の目的なのです。凱旋を得て永遠の栄光を得ることです。
御受難は、キリスト教徒として試練を耐えて受け入れることは天国の唯一の道なのです。この人生でわれわれが経験している多くの試練や苦しみこそが天へ行くための唯一の道です。なぜなら、これらの試練や困難を被ることは、我々にとって愛徳を施す機会となるからです。
そして、最期の審判はまさに愛徳で天国に行けるかどうかが裁かれるのです。ですから、試練は我々が天主を何よりも愛することを示すための機会なのです。そして、試練のお陰で我々は天を得られるのです。また愛徳を実践することによって、試練の荷は軽くなります。耐えやすくなります。愛徳を施す人にとって、試練は軽くなります。
聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン