もし原罪が無かったら、楽園での社会はどのようになっていたか?楽園について【前編】|公教要理[上級編]第13回
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
(アヴェ・マリア 最初の祈り)
さて、聖なる良き年になりますように。
休み明けの最初の授業ですので、復習しましょう。神学大全の第一部で、被創造物についてみています。
被創造物の内に既に天使や物体などをみてきました。今は人間という特徴的な被創造物を見ています。すでに人間性を見ましたが、いま、かなり具体的な細かい題目を見ています。つまり、人間の創造に関して聖トマス・アクイナスはかなり具体的に面白く解いてくれています。
前回を要約すると、霊魂は天主によって直接に創造されていること。それから、体の創造を見ることによって、聖トマス・アクイナスは創世期を振り返って解釈を試みます。その一環として、女性の創造や男女における天主の御象りなどについても見てきました。
さて、次に、楽園での人間について聖トマス・アクイナスはじっくりと説明されています。我々にとって夢みたいですね。なぜなら、皆、やはり、どこかに楽園を経験したかった気持ちがあるだろうと思います。そしてアダムとエワに与えられた賜物をもって生きたかった気持ちはどことなく皆さんにあるでしょう。
前回みたように、いくつかの賜物がアダムとエワに対して天主によって与えられました。知性に関しては、天賦の知識が与えられました。なかなかの賜物ですね。また、知性において、超自然上の聖徳も賜物として与えられました。
要するに、理解していただきたいのです。アダムとエワはある種の「自然状態」の内に創造されたということです。つまり、生まれながら人たらしめるすべての要素、すなわち人間性をもって創造されて、この人間性は完成された形で与えられました。要するに、霊魂と体の諸要素と在り方、社会的な存在などの在り方などは人間性に属しています(自然法)。
そして、良き天主は以上の自然(人間性)に超自然(人間性を超える事柄)を付き加え給うたのです。賜物として。無償に。超自然というのは人間性に属さず、他の本性なる天主性に属することだと言います。
前回みたように、超自然に属するのはひとまず、恩寵です(天主の生命、聖寵)。そして、対神徳もそうなのです。特に愛徳と愛徳の増加という恵みも与えられました。他の道徳上の聖徳も与えられました。愛徳などを含めて、天賦の聖徳と呼ばれています。言いかえると、直接に天主によって与えられた聖徳です(人間の力で達成できる善徳とは違うのです)。天賦の聖徳とともに、聖霊の七つの賜物なども与え給うたのです。
このように、つまり、我々が聖寵の状態にいる時のすべての恵みをアダムとエワも持っていました。ただし、原罪を犯していなかった点では、我々よりも完璧な形でこれらの恵みを持っていたのです。
その上、超自然上の賜物だけではなく、外自然の賜物をも与え給うたのです。これは人間性とは別の本性に属しないものの、本性の通常の在り方と通じないので、完全に自然上の要素でもないことから、外自然(あるいは過自然)と呼ばれています。
繰り返しますが、外自然の賜物は人間性に属するものの、人間性の通常の在り方で得られない賜物だという意味です。言いかえると、人間性の通常の在り方、人間の力だけで得しめることのできない賜物なのです。外自然の賜物と言います。「praeter-naturalis」というラテン語になりますが、「praeter」とは「外にある」という意味になります。
外自然の賜物には四つあります。第一に、天賦の知識があると前回に観ました。アダムは大人の状態で創造されました。大人の年齢で創造されたとともに、一人前の大人として良い人生を送り、救霊を得るために必要となる観念なども天主に与え給うたのです。天賦の知識です。要するに天賦の知識によってアダムはすべてのことを知っていたわけではないのです。例えば、川の前を通って、川底にいくつかの石があったかを知れるわけではありません。全知の賜物ではないということです。おそらく、電気の法則も知らなかったでしょう。当時、不要な知識でしたので。
アダムとエワの天賦の知識とはよく生きていくために必要な観念・知識だと言います。
面白いことに、原罪がなかったら、彼らの子孫にはこの天賦の知識がなかったとされています。またそれについて後述します。
第一の賜物は天賦の知識です。
前回にもみた第二の賜物は保全の賜物と呼ばれています。前回、縦の矢印でこの賜物を表象したかと思います。いわゆる「支配させる・従わせる」という賜物です。要するに、我々の感情などは理性に照らされていた意志に従っていたことになっていたという賜物です。そして同じように理性は天主に従っていました。また、この同じ保全の賜物によって、動物などはアダムとエワに従っていました。今はもはやそのような従順はなくなりましたね。動物も含めて。それを残念に思う男女は少なくないでしょう。想像してください。ゴキブリあるいは蜘蛛などは我々に従っていたら、ちょっと気持ち悪い経験は避けられたでしょう。
以上は保全の賜物です。このように、知性にかかわる賜物です。天賦の知識と保全です。
つづいて、聖トマス・アクイナスはかなり具体的な質問をしております。統治、権力についての質問です。要するに、楽園での人間はどのような統治をしていたかという質問です。つまり、政治上の統治権ですね。政治上の権力と権威についてです。
ご存じのように、信条で聖書に明記されているように、アダムとエワの子孫の全員は原罪の後から生まれましたので、楽園での政治を知らなかったのです。しかしながら、もしも原罪の前に子孫が生まれて、そしてもしも原罪が無かったら、楽園での社会はどのようになっていただろうかという神学上の問題です。
例えば、社会生活は楽園であったでしょうか。社会生活、政治共同体生活がなかった場合、完全なる個人主義的なことになったでしょうか?これは、あまり、人間の完成化から見るとちょっと違いますね。ですから、個人主義的を基にする個人個人からなる社会にならなかったのはいうまでもありません。しかし、そうでなかったとしても、楽園での社会において、不平等や格差があったでしょうか?
このように問うと、皆さんの関心を引いたと思いますが、どちらかというと、宇宙の創造の時にこの質問への答えはすでに解かれていました。
良き天主はあらゆる物事の間に秩序を置き、不平等と格差をもって宇宙全体を創造されました。人間社会も同様です。なぜなら、このように全体は美しくなるからです。不平等の故に美しくなります。美があります。(一律は美しくないのです。)
さて、楽園での不平等はどうなっていたでしょうか。
まず、自然上の不平等がありました。つまり、性別や年齢の違いからくる不平等があったでしょう。男性と女性の別もあったでしょう。この別は不平等なのです。身体上の差による不平等です。現代ではこのような自然上の不病でさえ否定されようとしますが、やはり、だからといって現実は変わるわけではありません。
格差、差別、不平等といった表現には非常に負のイメージがあると思います。なぜでしょうか?不平等と欠点を同一視して、同じ意味であると捉える傾向があると思われます。我々ですら、みんな現代に毒されているので、不平等と聞いたら、負のイメージがあるでしょう。欠点、足りない、十分ではない、不全であるようなイメージが思い浮かぶのではないでしょう。なにか、困ったこと、本来ならばあってはいけないこと、不正なこと、だめなことというイメージが思い浮かぶでしょう。このイメージこそが間違っています。過ちです。それは仕方がありません。現代社会は言葉の意味を非常に操作して変えてしまったせいで、だれでもこのような間違った意味で理解しがちとなり、みんな、これらの誤謬の影響を受けざるを得ないからです。
しかしながら、「不平等、差別、格差」だからといって、欠陥、不完全であることになりません。無関係です。
例えば、手に指が五本ありますが、それぞれの指は不平等で、差があって、別にあります。でもそれゆえに不完全になることはありません。かえって、このような差別は非常によいことです。手の指の差別ゆえに、手を使って我々は多くの物事ができるようになります。考えてみてください。手の力は素晴らしいものです。この力は手における差別から生じます。(親指ばかりあったら困りますね)。そして指はよいことに反逆することはありません。反逆されたなら、みんな困るかと思いますね。
指の違い、つまり不平等は欠陥でもなんでもありません。しかしながら、現代人は「不平等」を耳にしたら、「欠陥」とすぐに思ってしまいます。
要するに、楽園では不平等な社会になったことでしょう。性別においても、年齢においても。なぜなら、子供は生まれて成長していくことになったでしょうから、大人と子供の間の不平等は自然に生まれます。年齢の差も不平等であることは極く当然に見えるでしょうが、近代社会はこれですら否定したくなるかもしれません。しかしながら、この不平等を否定しても、現実は変わらないのですね。
18歳の若者は年を取った人々を殺せるかもしれないのですが、より若い子供に対して「反逆」しようとも意味を成さないのですね。また、子供に対して、「君は大人だ」といっても、子供はそれで成長したことになりません。(つまり、反逆や革命ですら、このような年齢による不平等、秩序を逆説的に裏付けるということです)。
このように、「差別」、「不平等」などに対する政治運動は基本的に反自然であることはご理解いただけたと思います。いずれにせよ、このような人間性に刻まれている基本要素(男女の別、上下の別、年齢の別など)を否定しても挙句の果てに、苦い弊害を被らせることになるだけです。
同じように体質上の不平等も楽園ではあったでしょう。身長、体重、腕力、視力なんでもいいですが、みんなバラバラですね。また身体上の才能においても不平等になったでしょう。調理する才能、木材をうまく使ってつくる才能、縫う才能、畑を耕す才能、何でもいいですが、みんな才能においても違っていて不平等ですね。(しかし)このような才能の不平等は欠陥でもなく、不完全でもありません。その逆です。これらの違いがあるからこそ、社会は成り立ち、個人個人の完成化が可能となります。またこのような多様性の故に、社会は豊かになれます。そして、一緒に生活できて、共存できるのです。
その他、霊魂における不平等もあります。記憶力が逞しい人もいれば、理解力が優れている人もありますし、洞察力、想像力なんでもいいですが、みんなバラバラで、才能が違って、不平等です。
このような不平等があってよいのでしょうか。秩序があるから(よいの)です。そして、秩序の前提には不平等があります。現代人はこのような関係への理解ができなくなったようです。秩序は不平等を前提に成り立つのです。
では、現在の社会はなぜ、どんどん乱れていき、不秩序になっていくでしょうか?平等主義を提唱する近代社会だからです。平等主義が提唱する平等が実現することを想像してみてください。みんな、全く同じ「人」になったら、どうなるか想像してみてください。政治上で言うと、命令する人はいなくなります。統治する人がいなくなります。会社においてでもいいですが、役割分担を決める人もいなくなります。どれほど目茶苦茶な無秩序になるか想像しやすいですね。ほら、みんな平等になってしまうと「社会」は無意味となります。平等主義の目指すのはこのような絶対的な平等なので、皆を同じ「ロボット」にさせようとします。しかしながら、このような社会では、役割分担もできなくなって、社会自体は消滅して、人々は破滅するしかありません。
このような平等主義が強ければ強いほど、人々はどんどん、なにごともやらなくなり、全能なる福祉国家からすべてを貰うようになり、少しずつ、いわゆる、全体主義的な国家となっていきます。(これが)平等主義の帰結です。
現在、我々が経験している国家による独裁政治、全体主義は1989年革命の時に提唱された平等主義の帰結にすぎません。この因果関係は当然ですが、現代人は見ないふりにしているかあれですが、困りますね。しかし、平等主義という政治上の思想の原理原則を考えると、現在、経験しているような状態に至るだろうということは必然的な帰結にすぎません。驚くことではありません。そして、反自然的な思想なので、長く保てないものであり、いずれか崩壊します。それも必然です。我々自身の目で政治社会の復興をみられるかどうかは別にして、時間の問題だけです。無理な政治は無理な政治だからです。いずれかこれらの矛盾は爆発します。反自然的な政治は人間性を否定して、破壊することになるので、自然は自然に抵抗していきます。要するに平等主義の帰結は全世界で現代で痛いほどその帰結を強いられていきます。
要するに、邪悪な共和政、邪悪な近代国家に対して戦う必要はもちろんありますが、それ以前に誤った政治原理原則に対して戦うべきです。これらの過った原理原則こそが弊害の原因だからです。どういった原理原則でしょうか?フランス共和政の原理でありますが、すなわち、1789年革命の原理原則なのです。自由、平等、博愛。この三つこそは反自然です。これらの原理原則こそは近代の弊害をもたらして、現代の大変な状態を作ってしまったわけです。
そして、楽園ではこのような革命的な原理は存在しなかったということになります。これはよかったですね。というか、我々にとってそれほど良い情報でもないかもしれません。なぜなら、楽園を取り戻すことは不可能だからですがこれは、仕方がありませんね。
しかしながら、繰り返しますが、楽園ではこのような革命的な政治は存在しなかったでしょう。なぜなら、繰り返しになりますが、秩序ゆえの不平等だからです。前にもご紹介したように、天使たちの位階の間にも想像に絶する不平等があります。各天使は別の天使と完全に違う存在となります。完全に不平等です。
同じように、人間の間に同じ人間性を共有する以外、みな違っていて、個性があって、特有性があって、それは非常に良いことです。
ちなみに、考えてみると、原罪のせいで、我々の心の奥に潜む罪へ誘惑は妬み、恨み、羨望などがだれものこころにあるのですね。なぜか、つい、自分が持っている物事よりも、隣人の財産、才能を睨んで羨ましくなるような。罪の根源の一つですね。これは悪魔が耳へ呟く「平等主義」です。
しかしながら、冷静に考えてみるとバカげた妬みですね。「あなたたちは神々のようになる」という誘惑は平等主義に帰着します。悪魔は「平等」が大好きであり、いつもこの言葉を利用して、我々を誘惑してしまいますね。このせいで、人間は隣の人の方が良いだろうと思いがちです。しかしながら、これは気のせいというか、やはり間違っています。自分に与えられた物事を単純に素直に満足するように努めましょう。人間は自分の欠陥などを過剰に見がちですが、逆に自分の強みや長所や才能をも認識して、これらを活かしてより完成化するように努めましょう。形は無数あります。目に見えても見えなくても、無数に才能がありますので、みんな、与えられた才能があります。我々がこの地上で存在するのは、良き天主が我々にお望みになったことを現すことであり、そして、与えられた使命を果たすために存在しており、秩序における相応しい場所、つまり分をわきまえるかたちで善き天主はお望みになったのですから、それが結構なことであり、嬉しいことです。
ある譬えが思い浮かびます。婦人が生け花をやる時です。あえて、もしも同じ種類の花だけを使うことになるとしましょう。たとえば薔薇ですね。つまり花の種類で言うと平等だということになります。全然生け花について無知なので、まちがったらゆるしてくださいね。しかしきっと、同じ薔薇になっても、同じように切られて、同じ長さで花束を作ることはないだろうという気がします。この不均衡によってこそ、花束として綺麗になるというところが生け花にあるように、このような不平等は美しいです。はい、多様性は豊かさをうみ、美しさの種となります。この意味で不平等と多様性は同じ意味になります。つまり、自分の家に家具として布団ばかりでしたら、やはり困って、あまりよく生きていけないのですね。
このように、楽園では平等のようなことは存在しません。
そうなると、楽園では社会があったということになります。そして、このような楽園での共同体はどうなったでしょうか?
当然ながら、ある人は他の人を支配するような社会になるのです。つまり、楽園での社会には位階制もありました。そうなのです。
聖トマス・アクイナスによると、楽園では本当の意味で、人への人による支配があったとされます。ここは「支配(domination)」という言葉を正しく理解すべきです。古典的に言うと、「支配」の種類は二つあります。「うしはく【領く】」という奴隷的な、独裁政治的な支配があります。現在の諸国における統治形態は、このような奴隷的な支配を通じて国を治めているのです。独裁政治です。暴君たちです。啓蒙されていない政治家です。この統治形態を理解するために、主人と奴隷の間にある関係が想定されています。つまり、上は下の意志を無視して、強制的にでも自分の意志に従わせて、道具として利用しているというような支配関係です。面白いことに奴隷制は廃止されてものの、現代の社会は完全に奴隷社会に戻りました。ちょっと不都合でしょうが、もはや我々は奴隷制の社会において生きていますよ。このような奴隷制、奴隷的な支配は楽園では存在しません。このような「覇権」は存在しませんでした。
楽園での支配はアリストテレスの言葉でいうと、「政治的な支配」となります。つまり、「しろしめす」ような世界で、王道的な、「覇権」の反対語として、「王権的」な統治となります。つまり、臣下は意志的に積極的に従う世界です。奴隷が主人に従わせられていると反対して、臣下は君主を奉仕するという政治です。臣道のような政治です。あるいは「家父長」的な政治です。主人対奴隷ではなく、父が子供を育てるような徳政です。父権も権威です。家族における政治の統治権の一つです。平等主義の名の下、父権をも否定されようとされますが、父権は社会の根本的な権威なのです。父権とは覇権的な権力ではありません。父権は王権的な権威であり、父権は完全なる本物の自然なる権威なのです。
このような支配形態は、人間性に刻まれていて、楽園で普通にあって、発展していたでしょう。そして、このような統治権の運用でいうと、何の問題にならなかったでしょう。なぜなら、人々は共通善のために尽くそうとする意志も人間性に刻まれていて、原罪がなかったので、その意志に反逆するわがままなどは起きなかったからです。
このように、人々は共通善のために尽くそうとしているので、社会全体の統合も無碍に常に成り立つ楽園での社会でした(分裂、軋轢、戦争もなく)。社会の統合は共通善という目的に従った社会になるという意味です。言いかえると、各人は自分に与えられた賜物や才能を隣人のために使い、提供することにしていたという楽園での社会になりました。社会こそはこのような相互助け合いから成り立つのです。各人は自分の才能などを隣人のために提供して、社会として成り立ち、このように各人はよく生きることが可能となり、各人は完成化できるようになります。共通善は各人の完成化にありますし、これこそが「社会生活」あるいは「社会活動」の本質だといえます。
もちろん、このように良い社会生活がすることは言葉で言いやすいですが、毎日の日常生活では、難しいです。楽園と違って罪もありますし、そして、実際に、共存するのは簡単ではないことは皆さん経験されたでしょう。犠牲と努力が要ります。
以上は楽園での政治社会の紹介でした。楽園での政治社会の存在と、人に対する人の支配の存在もあるという事実があるのは興味深いです。つまり、楽園では子供が父へ「父さんよ、ここは楽園なので、私が好き勝手にするよ。ほっといて」というようなことはありません。考えてみると、理不尽きわまりであって、無意味な発想です。本来ならば上に見守ってもらいたいし、人間の本性には社会上の統治権など、権威・権力が刻まれています。罪によって堕落しても、権威自体は人を人たらしめる根本要素です。
もちろん、現代では近代的な考え方が深く広まったせいで、または最近、全世界での変わった雰囲気のせいで、政治に関する考えにくい真理になりました。それも認識しましょう。つまり、我々はどれほどまともなしっかりとした政治に関する真理を頭で知っていても、この社会に生きているので、どうしても影響されることもありますので、警戒しましょう。このような毒された堕落した、転覆された政治下で生活せざるを得ないので、いつのまにどこかで我々も影響されているので警戒しながら、本来の良い政治を実践するように努めましょう。
そして、身体上でいうと楽園でどうなったでしょうか。【中編】につづく
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
楽園について。人間性、位階制、伝統的秩序、不平等などについて。自然法。
(アヴェ・マリア 最初の祈り)
さて、聖なる良き年になりますように。
休み明けの最初の授業ですので、復習しましょう。神学大全の第一部で、被創造物についてみています。
被創造物の内に既に天使や物体などをみてきました。今は人間という特徴的な被創造物を見ています。すでに人間性を見ましたが、いま、かなり具体的な細かい題目を見ています。つまり、人間の創造に関して聖トマス・アクイナスはかなり具体的に面白く解いてくれています。
前回を要約すると、霊魂は天主によって直接に創造されていること。それから、体の創造を見ることによって、聖トマス・アクイナスは創世期を振り返って解釈を試みます。その一環として、女性の創造や男女における天主の御象りなどについても見てきました。
さて、次に、楽園での人間について聖トマス・アクイナスはじっくりと説明されています。我々にとって夢みたいですね。なぜなら、皆、やはり、どこかに楽園を経験したかった気持ちがあるだろうと思います。そしてアダムとエワに与えられた賜物をもって生きたかった気持ちはどことなく皆さんにあるでしょう。
前回みたように、いくつかの賜物がアダムとエワに対して天主によって与えられました。知性に関しては、天賦の知識が与えられました。なかなかの賜物ですね。また、知性において、超自然上の聖徳も賜物として与えられました。
要するに、理解していただきたいのです。アダムとエワはある種の「自然状態」の内に創造されたということです。つまり、生まれながら人たらしめるすべての要素、すなわち人間性をもって創造されて、この人間性は完成された形で与えられました。要するに、霊魂と体の諸要素と在り方、社会的な存在などの在り方などは人間性に属しています(自然法)。
そして、良き天主は以上の自然(人間性)に超自然(人間性を超える事柄)を付き加え給うたのです。賜物として。無償に。超自然というのは人間性に属さず、他の本性なる天主性に属することだと言います。
前回みたように、超自然に属するのはひとまず、恩寵です(天主の生命、聖寵)。そして、対神徳もそうなのです。特に愛徳と愛徳の増加という恵みも与えられました。他の道徳上の聖徳も与えられました。愛徳などを含めて、天賦の聖徳と呼ばれています。言いかえると、直接に天主によって与えられた聖徳です(人間の力で達成できる善徳とは違うのです)。天賦の聖徳とともに、聖霊の七つの賜物なども与え給うたのです。
このように、つまり、我々が聖寵の状態にいる時のすべての恵みをアダムとエワも持っていました。ただし、原罪を犯していなかった点では、我々よりも完璧な形でこれらの恵みを持っていたのです。
その上、超自然上の賜物だけではなく、外自然の賜物をも与え給うたのです。これは人間性とは別の本性に属しないものの、本性の通常の在り方と通じないので、完全に自然上の要素でもないことから、外自然(あるいは過自然)と呼ばれています。
繰り返しますが、外自然の賜物は人間性に属するものの、人間性の通常の在り方で得られない賜物だという意味です。言いかえると、人間性の通常の在り方、人間の力だけで得しめることのできない賜物なのです。外自然の賜物と言います。「praeter-naturalis」というラテン語になりますが、「praeter」とは「外にある」という意味になります。
外自然の賜物には四つあります。第一に、天賦の知識があると前回に観ました。アダムは大人の状態で創造されました。大人の年齢で創造されたとともに、一人前の大人として良い人生を送り、救霊を得るために必要となる観念なども天主に与え給うたのです。天賦の知識です。要するに天賦の知識によってアダムはすべてのことを知っていたわけではないのです。例えば、川の前を通って、川底にいくつかの石があったかを知れるわけではありません。全知の賜物ではないということです。おそらく、電気の法則も知らなかったでしょう。当時、不要な知識でしたので。
アダムとエワの天賦の知識とはよく生きていくために必要な観念・知識だと言います。
面白いことに、原罪がなかったら、彼らの子孫にはこの天賦の知識がなかったとされています。またそれについて後述します。
第一の賜物は天賦の知識です。
前回にもみた第二の賜物は保全の賜物と呼ばれています。前回、縦の矢印でこの賜物を表象したかと思います。いわゆる「支配させる・従わせる」という賜物です。要するに、我々の感情などは理性に照らされていた意志に従っていたことになっていたという賜物です。そして同じように理性は天主に従っていました。また、この同じ保全の賜物によって、動物などはアダムとエワに従っていました。今はもはやそのような従順はなくなりましたね。動物も含めて。それを残念に思う男女は少なくないでしょう。想像してください。ゴキブリあるいは蜘蛛などは我々に従っていたら、ちょっと気持ち悪い経験は避けられたでしょう。
以上は保全の賜物です。このように、知性にかかわる賜物です。天賦の知識と保全です。
つづいて、聖トマス・アクイナスはかなり具体的な質問をしております。統治、権力についての質問です。要するに、楽園での人間はどのような統治をしていたかという質問です。つまり、政治上の統治権ですね。政治上の権力と権威についてです。
ご存じのように、信条で聖書に明記されているように、アダムとエワの子孫の全員は原罪の後から生まれましたので、楽園での政治を知らなかったのです。しかしながら、もしも原罪の前に子孫が生まれて、そしてもしも原罪が無かったら、楽園での社会はどのようになっていただろうかという神学上の問題です。
例えば、社会生活は楽園であったでしょうか。社会生活、政治共同体生活がなかった場合、完全なる個人主義的なことになったでしょうか?これは、あまり、人間の完成化から見るとちょっと違いますね。ですから、個人主義的を基にする個人個人からなる社会にならなかったのはいうまでもありません。しかし、そうでなかったとしても、楽園での社会において、不平等や格差があったでしょうか?
このように問うと、皆さんの関心を引いたと思いますが、どちらかというと、宇宙の創造の時にこの質問への答えはすでに解かれていました。
良き天主はあらゆる物事の間に秩序を置き、不平等と格差をもって宇宙全体を創造されました。人間社会も同様です。なぜなら、このように全体は美しくなるからです。不平等の故に美しくなります。美があります。(一律は美しくないのです。)
さて、楽園での不平等はどうなっていたでしょうか。
まず、自然上の不平等がありました。つまり、性別や年齢の違いからくる不平等があったでしょう。男性と女性の別もあったでしょう。この別は不平等なのです。身体上の差による不平等です。現代ではこのような自然上の不病でさえ否定されようとしますが、やはり、だからといって現実は変わるわけではありません。
格差、差別、不平等といった表現には非常に負のイメージがあると思います。なぜでしょうか?不平等と欠点を同一視して、同じ意味であると捉える傾向があると思われます。我々ですら、みんな現代に毒されているので、不平等と聞いたら、負のイメージがあるでしょう。欠点、足りない、十分ではない、不全であるようなイメージが思い浮かぶのではないでしょう。なにか、困ったこと、本来ならばあってはいけないこと、不正なこと、だめなことというイメージが思い浮かぶでしょう。このイメージこそが間違っています。過ちです。それは仕方がありません。現代社会は言葉の意味を非常に操作して変えてしまったせいで、だれでもこのような間違った意味で理解しがちとなり、みんな、これらの誤謬の影響を受けざるを得ないからです。
しかしながら、「不平等、差別、格差」だからといって、欠陥、不完全であることになりません。無関係です。
例えば、手に指が五本ありますが、それぞれの指は不平等で、差があって、別にあります。でもそれゆえに不完全になることはありません。かえって、このような差別は非常によいことです。手の指の差別ゆえに、手を使って我々は多くの物事ができるようになります。考えてみてください。手の力は素晴らしいものです。この力は手における差別から生じます。(親指ばかりあったら困りますね)。そして指はよいことに反逆することはありません。反逆されたなら、みんな困るかと思いますね。
指の違い、つまり不平等は欠陥でもなんでもありません。しかしながら、現代人は「不平等」を耳にしたら、「欠陥」とすぐに思ってしまいます。
要するに、楽園では不平等な社会になったことでしょう。性別においても、年齢においても。なぜなら、子供は生まれて成長していくことになったでしょうから、大人と子供の間の不平等は自然に生まれます。年齢の差も不平等であることは極く当然に見えるでしょうが、近代社会はこれですら否定したくなるかもしれません。しかしながら、この不平等を否定しても、現実は変わらないのですね。
18歳の若者は年を取った人々を殺せるかもしれないのですが、より若い子供に対して「反逆」しようとも意味を成さないのですね。また、子供に対して、「君は大人だ」といっても、子供はそれで成長したことになりません。(つまり、反逆や革命ですら、このような年齢による不平等、秩序を逆説的に裏付けるということです)。
このように、「差別」、「不平等」などに対する政治運動は基本的に反自然であることはご理解いただけたと思います。いずれにせよ、このような人間性に刻まれている基本要素(男女の別、上下の別、年齢の別など)を否定しても挙句の果てに、苦い弊害を被らせることになるだけです。
同じように体質上の不平等も楽園ではあったでしょう。身長、体重、腕力、視力なんでもいいですが、みんなバラバラですね。また身体上の才能においても不平等になったでしょう。調理する才能、木材をうまく使ってつくる才能、縫う才能、畑を耕す才能、何でもいいですが、みんな才能においても違っていて不平等ですね。(しかし)このような才能の不平等は欠陥でもなく、不完全でもありません。その逆です。これらの違いがあるからこそ、社会は成り立ち、個人個人の完成化が可能となります。またこのような多様性の故に、社会は豊かになれます。そして、一緒に生活できて、共存できるのです。
その他、霊魂における不平等もあります。記憶力が逞しい人もいれば、理解力が優れている人もありますし、洞察力、想像力なんでもいいですが、みんなバラバラで、才能が違って、不平等です。
このような不平等があってよいのでしょうか。秩序があるから(よいの)です。そして、秩序の前提には不平等があります。現代人はこのような関係への理解ができなくなったようです。秩序は不平等を前提に成り立つのです。
では、現在の社会はなぜ、どんどん乱れていき、不秩序になっていくでしょうか?平等主義を提唱する近代社会だからです。平等主義が提唱する平等が実現することを想像してみてください。みんな、全く同じ「人」になったら、どうなるか想像してみてください。政治上で言うと、命令する人はいなくなります。統治する人がいなくなります。会社においてでもいいですが、役割分担を決める人もいなくなります。どれほど目茶苦茶な無秩序になるか想像しやすいですね。ほら、みんな平等になってしまうと「社会」は無意味となります。平等主義の目指すのはこのような絶対的な平等なので、皆を同じ「ロボット」にさせようとします。しかしながら、このような社会では、役割分担もできなくなって、社会自体は消滅して、人々は破滅するしかありません。
このような平等主義が強ければ強いほど、人々はどんどん、なにごともやらなくなり、全能なる福祉国家からすべてを貰うようになり、少しずつ、いわゆる、全体主義的な国家となっていきます。(これが)平等主義の帰結です。
現在、我々が経験している国家による独裁政治、全体主義は1989年革命の時に提唱された平等主義の帰結にすぎません。この因果関係は当然ですが、現代人は見ないふりにしているかあれですが、困りますね。しかし、平等主義という政治上の思想の原理原則を考えると、現在、経験しているような状態に至るだろうということは必然的な帰結にすぎません。驚くことではありません。そして、反自然的な思想なので、長く保てないものであり、いずれか崩壊します。それも必然です。我々自身の目で政治社会の復興をみられるかどうかは別にして、時間の問題だけです。無理な政治は無理な政治だからです。いずれかこれらの矛盾は爆発します。反自然的な政治は人間性を否定して、破壊することになるので、自然は自然に抵抗していきます。要するに平等主義の帰結は全世界で現代で痛いほどその帰結を強いられていきます。
要するに、邪悪な共和政、邪悪な近代国家に対して戦う必要はもちろんありますが、それ以前に誤った政治原理原則に対して戦うべきです。これらの過った原理原則こそが弊害の原因だからです。どういった原理原則でしょうか?フランス共和政の原理でありますが、すなわち、1789年革命の原理原則なのです。自由、平等、博愛。この三つこそは反自然です。これらの原理原則こそは近代の弊害をもたらして、現代の大変な状態を作ってしまったわけです。
そして、楽園ではこのような革命的な原理は存在しなかったということになります。これはよかったですね。というか、我々にとってそれほど良い情報でもないかもしれません。なぜなら、楽園を取り戻すことは不可能だからですがこれは、仕方がありませんね。
しかしながら、繰り返しますが、楽園ではこのような革命的な政治は存在しなかったでしょう。なぜなら、繰り返しになりますが、秩序ゆえの不平等だからです。前にもご紹介したように、天使たちの位階の間にも想像に絶する不平等があります。各天使は別の天使と完全に違う存在となります。完全に不平等です。
同じように、人間の間に同じ人間性を共有する以外、みな違っていて、個性があって、特有性があって、それは非常に良いことです。
ちなみに、考えてみると、原罪のせいで、我々の心の奥に潜む罪へ誘惑は妬み、恨み、羨望などがだれものこころにあるのですね。なぜか、つい、自分が持っている物事よりも、隣人の財産、才能を睨んで羨ましくなるような。罪の根源の一つですね。これは悪魔が耳へ呟く「平等主義」です。
しかしながら、冷静に考えてみるとバカげた妬みですね。「あなたたちは神々のようになる」という誘惑は平等主義に帰着します。悪魔は「平等」が大好きであり、いつもこの言葉を利用して、我々を誘惑してしまいますね。このせいで、人間は隣の人の方が良いだろうと思いがちです。しかしながら、これは気のせいというか、やはり間違っています。自分に与えられた物事を単純に素直に満足するように努めましょう。人間は自分の欠陥などを過剰に見がちですが、逆に自分の強みや長所や才能をも認識して、これらを活かしてより完成化するように努めましょう。形は無数あります。目に見えても見えなくても、無数に才能がありますので、みんな、与えられた才能があります。我々がこの地上で存在するのは、良き天主が我々にお望みになったことを現すことであり、そして、与えられた使命を果たすために存在しており、秩序における相応しい場所、つまり分をわきまえるかたちで善き天主はお望みになったのですから、それが結構なことであり、嬉しいことです。
ある譬えが思い浮かびます。婦人が生け花をやる時です。あえて、もしも同じ種類の花だけを使うことになるとしましょう。たとえば薔薇ですね。つまり花の種類で言うと平等だということになります。全然生け花について無知なので、まちがったらゆるしてくださいね。しかしきっと、同じ薔薇になっても、同じように切られて、同じ長さで花束を作ることはないだろうという気がします。この不均衡によってこそ、花束として綺麗になるというところが生け花にあるように、このような不平等は美しいです。はい、多様性は豊かさをうみ、美しさの種となります。この意味で不平等と多様性は同じ意味になります。つまり、自分の家に家具として布団ばかりでしたら、やはり困って、あまりよく生きていけないのですね。
このように、楽園では平等のようなことは存在しません。
そうなると、楽園では社会があったということになります。そして、このような楽園での共同体はどうなったでしょうか?
当然ながら、ある人は他の人を支配するような社会になるのです。つまり、楽園での社会には位階制もありました。そうなのです。
聖トマス・アクイナスによると、楽園では本当の意味で、人への人による支配があったとされます。ここは「支配(domination)」という言葉を正しく理解すべきです。古典的に言うと、「支配」の種類は二つあります。「うしはく【領く】」という奴隷的な、独裁政治的な支配があります。現在の諸国における統治形態は、このような奴隷的な支配を通じて国を治めているのです。独裁政治です。暴君たちです。啓蒙されていない政治家です。この統治形態を理解するために、主人と奴隷の間にある関係が想定されています。つまり、上は下の意志を無視して、強制的にでも自分の意志に従わせて、道具として利用しているというような支配関係です。面白いことに奴隷制は廃止されてものの、現代の社会は完全に奴隷社会に戻りました。ちょっと不都合でしょうが、もはや我々は奴隷制の社会において生きていますよ。このような奴隷制、奴隷的な支配は楽園では存在しません。このような「覇権」は存在しませんでした。
楽園での支配はアリストテレスの言葉でいうと、「政治的な支配」となります。つまり、「しろしめす」ような世界で、王道的な、「覇権」の反対語として、「王権的」な統治となります。つまり、臣下は意志的に積極的に従う世界です。奴隷が主人に従わせられていると反対して、臣下は君主を奉仕するという政治です。臣道のような政治です。あるいは「家父長」的な政治です。主人対奴隷ではなく、父が子供を育てるような徳政です。父権も権威です。家族における政治の統治権の一つです。平等主義の名の下、父権をも否定されようとされますが、父権は社会の根本的な権威なのです。父権とは覇権的な権力ではありません。父権は王権的な権威であり、父権は完全なる本物の自然なる権威なのです。
このような支配形態は、人間性に刻まれていて、楽園で普通にあって、発展していたでしょう。そして、このような統治権の運用でいうと、何の問題にならなかったでしょう。なぜなら、人々は共通善のために尽くそうとする意志も人間性に刻まれていて、原罪がなかったので、その意志に反逆するわがままなどは起きなかったからです。
このように、人々は共通善のために尽くそうとしているので、社会全体の統合も無碍に常に成り立つ楽園での社会でした(分裂、軋轢、戦争もなく)。社会の統合は共通善という目的に従った社会になるという意味です。言いかえると、各人は自分に与えられた賜物や才能を隣人のために使い、提供することにしていたという楽園での社会になりました。社会こそはこのような相互助け合いから成り立つのです。各人は自分の才能などを隣人のために提供して、社会として成り立ち、このように各人はよく生きることが可能となり、各人は完成化できるようになります。共通善は各人の完成化にありますし、これこそが「社会生活」あるいは「社会活動」の本質だといえます。
もちろん、このように良い社会生活がすることは言葉で言いやすいですが、毎日の日常生活では、難しいです。楽園と違って罪もありますし、そして、実際に、共存するのは簡単ではないことは皆さん経験されたでしょう。犠牲と努力が要ります。
以上は楽園での政治社会の紹介でした。楽園での政治社会の存在と、人に対する人の支配の存在もあるという事実があるのは興味深いです。つまり、楽園では子供が父へ「父さんよ、ここは楽園なので、私が好き勝手にするよ。ほっといて」というようなことはありません。考えてみると、理不尽きわまりであって、無意味な発想です。本来ならば上に見守ってもらいたいし、人間の本性には社会上の統治権など、権威・権力が刻まれています。罪によって堕落しても、権威自体は人を人たらしめる根本要素です。
もちろん、現代では近代的な考え方が深く広まったせいで、または最近、全世界での変わった雰囲気のせいで、政治に関する考えにくい真理になりました。それも認識しましょう。つまり、我々はどれほどまともなしっかりとした政治に関する真理を頭で知っていても、この社会に生きているので、どうしても影響されることもありますので、警戒しましょう。このような毒された堕落した、転覆された政治下で生活せざるを得ないので、いつのまにどこかで我々も影響されているので警戒しながら、本来の良い政治を実践するように努めましょう。
そして、身体上でいうと楽園でどうなったでしょうか。【中編】につづく