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新しいミサ(パウロ六世のミサ)について 【その2】

2021年03月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十講 新しいミサについて



新しいミサについて
Gabriel Billecocq神父

さて、新しいミサについて、手短に具体的にご紹介しました。欠陥だらけのミサです。なぜでしょうか? まず、変更箇所は数えきれないほど多いです。また、朗読と大声での言葉は過剰に重視されています。それよりも、少しずつでしたが、いくつかの重要な現実を取り消して、その代わりに他のことを重視するような典礼になっていきました。つまり、贖罪などの教義を隠すかのようにされていて、その代わりに教義でもないことを過剰に示している典礼となっています。これこそ、新しい典礼の根本的な問題です。

例えば、罪に関する教義を見ましょう。司祭が罪人である事実を想起する儀礼は聖伝ミサにおいて多々あります。多くの清め、告白も、祈祷も、自分を咎める祈祷もいっぱいあります。一番目立つのは、階段祈祷でしょう。階段祈祷はさらに信徒も罪人であることを認めて、赦しを願うわけです。

これらのすべての祈祷は取り消されたか(階段祈祷がそうなのですが)、見えないようにされたか、少しずつ、なくされてきました。
また同じように、霊的な戦いの意義と促進を表す儀礼と祈祷も聖伝ミサにおいて多々ありました。が、新しいミサはもはやこのような戦闘精神は消えました。

例えば、1969年の段階だけでも、告白は残っているものの、天主の赦しの儀礼は取り消されました。なんか、許されなくても良いかという印象をあたえるような。階段祈祷の時、司祭がお辞儀しながら告白して、お赦しを願うのですが、これらの儀礼なども取り消されました。また、奉献の部のところ、「Suscipe Sancte Pater(聖なる父、全能永遠の神、不肖の下僕である私が、活けるまことの神にささげるこの汚れなきホスチアを受け入れ給え)」という祈祷も取り消されました。ここで、司祭は自分が非常に罪人であることを認めているのですが、それも取り消されました。また、現世利益とこの世を侮蔑する祈祷もすべて取り消されました。また、霊的な戦いに関するすべての祈祷も取り消されました。

また贖罪についてはもはや何も言われていません。つまり、十字架上の生贄によって全人類が贖われたということを曖昧にさせて、もはや贖罪はなくなって、「救済」という言葉を使うのは殆どなくなりました。

いとも処女なる聖母マリアの永遠の童貞性に関する祈祷なども取り消されました。諸聖人の通功に関するすべても取り消されました。王たるキリストとして、キリストの王としての統治も完全に取り消されました。地獄と天国、つまりあの世での我々の目的地についてのことも完全に取り消されました。周知のように、死者に関する典礼や祈祷も大幅に変更させられてしまいました。

そういえば、死者のための典礼は新しい典礼を指して「もはや埋葬ではなく、天葬だ」とからかわれることがあります。つまり、死者のために祈らなくても良いような典礼となっていて、煉獄なども完全に取り消されて、地獄に対するもっともな心配を慰める祈祷などもすべて取り消されました。その代わりにあえて言えば「ばかばかしく優しい神」という誤った印象が与えられています。それは深刻です。天主を侮辱するようなことですから、また、もはやその侮辱すること自体がわからなくなったら、天主はなんであるかを全く理解しなくなっているということを意味します。
以上のような典礼の変更のせいで、結局、このように信仰も変わります。
ある祈祷を取り消して、ある動作を取り消して、ある儀礼を取り消すと、このように信仰は変わるのです。



現在、新しいミサを見たら一瞬で感じることです。ミサの構成は不安定で乱れていて、二週間の間でも変わることがなくはありません。また、祈りは全くなくなっていて、長い「騒音」になっています。うるさくて黙想もできない、祈ることもできないという信じられない状況にあります。

私はパリの中心にあるSaintNicolas du Chardonnet(サン・ニコラ・シャルドネ)教会に任命されていますが、聖伝ミサが初めての方が、頻繁にいらっしゃいます。ときどき、本当にいきなり、教会の前を通行していたら興味をもったので、さりげなく入って見たという方もいます。すると、皆さん、最初の印象はおなじです。「ここは黙想に耽っているなあ、祈っている空気、聖域に入った感覚、天主の実存を感じる場所」といったようコメントばかりです。

このような印象は感動でも感情でも関係ありません。信仰は感情ではないからですが、単純に聖伝ミサのすべては、聖伝ミサの一つ一つの言葉と動作まで、万象の主である天主、全能永遠なる天主、創造主なる天主を外的に表しているからだけに過ぎません。

聖伝の生贄、ミサ聖祭の典礼のもう一つの立派なところは、天主の恩寵を得るためにどれほどわれわれは罪人であること、卑劣であること、そしてどれほど平伏してつつしんで、天主のみ前に出なければならないという必要性を強く教える典礼であるということです。また、どれほど強く救霊を得るために戦う必要があるということです。これらの根本的な要素が取り消されたのは非常にひどいことです。犯罪的なことです。

また、新しいミサでは「信徒の参加を増やす」という方針の下に行われたのですが、その裏で、「司祭」を貶(おとし)めることになりました。司祭職の本当の意味を曖昧にさせて、なにか集会の司会だけをやっているかのような典礼になっています。



また新しいミサにおいては、もはや天主へではなく、信徒へ向かっています。天主に生贄を捧げるかどうか微妙になるほど信徒にむかっています。
それから、ホスチアを天主に捧げることではなくなって、「人間による労働の実り」を捧げるということになっています。言いかえると、超自然を捧げることではなくなって、自然次元なものだけを奉献することになります。

信徒の過剰な参加のせいで、本当に神父が生贄を捧げるか、あるいは信徒も生贄を捧げえるかということも微妙となってきます。
これらの典礼の変更のせいで、品級と司祭職についての教義が少しずつ変えられていきます。つまり、一般的な信徒も神父であるかのような印象を与えます。「信徒たちが共有する司祭職がある」という表現が第二ヴァチカン公会議以降に使われているのですが、非常に覚束ない曖昧な表現で、危険な表現で、信徒を惑わす表現です。



以上のような変更のせいで、一言でいうと、典礼の非神聖化が起きています。またラテン語の廃止と現地の言語の利用はまさにこの非神聖化を促進しました。また、一部だけではなく、ミサ典文まで訳されて、そして大声で読まれています。ミサ典文は小声で唱えられていたのにです。トレント公会議は小声で唱えるべきだと命令しているにもかかわらずです。

それに想像してください。神父が信徒たちに向かっているまま、よく集中しているままにいられるのは至難の業です。一番聖なる執り行いを実施しているのにです。
また新しいミサにおいて、信徒がよく神父に代わって聖体を配るのですが、これは天主に対する不敬を表しています。その結果よくある話ですが、御聖体が手から地面に落ちた時です。これは知り合いの神父様が目撃したことですが、そこの主任司祭は足で御聖体を踏んだという恐ろしい冒涜行為をやってしまいました。もちろん、どこでもそうはなってはいないかもしれませんが、数えきれないほどの恐ろしい結果の一つの例です。

それよりも一番恐ろしい変更は、秘跡としての生贄としての要素が取り消されたことです。思い出しましょう。ミサ聖祭は生贄でありますが、償いを得るための生贄であって、言いかえると、天主の我々に対するご好意を得るための生贄です。つまり、罪のせいで天主は人間に対して怒っておられます。憤怒しておられます。



肉体になり給えり、十字架上の生贄を捧げたイエズス・キリストのみ、天主の怒りを鎮めることができます。だからこそ、毎日、我々カトリックはミサ聖祭を捧げることになっています。十字架上の生贄の再現なので、同じ効果をもたらして、天主の怒りが静まるように希い奉って、我々の罪へのご慈悲が得られるようにミサ聖祭を執り行うわけです。

新しいミサにおいては、以上のようなすべての要素は取り消されたのです。つまり、罪はそれほど深刻ではないかのように、どうでもいいかのようにされてしまい、また天主にとっても罪はどうでもいいかのようにされているという恐ろしい状況です。

信徒のかたから聞いた話ですが、新しいミサの神父様に罪について聞いたら、このように答えられたそうです。「罪って?どうでもいいよ。神にとってどうでもいいから、神は罪なんて構わない」という答えがあったようです。なんて天主に対して不敬であり、信徒に対して惑わすことになるのでしょう。このような信じられない返答があり得るのも、新しいミサの一つの結果だと言えます。聖伝ミサだと、罪は軽いものではないことがその内容でわかりますから。



また、新しいミサにおいては、奉献の部も完全に取り消されました。生贄を示すために非常に大事だったのに、また罪の償いのために奉献されることが強調されていて、内面的な献身と奉献も強調されていた部分なのに。すべては取り消されたのです。

贖罪と罪の償いという要素は殆ど完全に取り消されました。実は新しいミサのミサ典文も変更されていて、変えてはならぬカノンですら、なくなっていて、四つの文章があって、司祭が選べるということになっています。それに、実際においてそれ以上、カノンが変わることがあります。

それはともかく、新しいミサの第二のミサ典文において、一番短い文章になりますが、生贄・犠牲という単語自体が取り消されました。恐ろしいことです。そうなったとき、どうなったかということです。もはや犠牲ではなくなって、普通の食事、ちょっとした記念に過ぎなくなります。

あと、聖変化の祈祷は大声で唱えられて、記念であるかのように唱えられるようになっているので、聖なる典礼の中心中の中心的な執り行いという性格を失うかのように、もはや記念となっています。
聖伝ミサなら、聖変化の時、一旦沈黙して、体を慎み深く傾けて、聖変化の祈祷を小声で唱えてから、沈黙して跪いて、それから御聖体を取り上げますが、その差は歴然でしょう。また、聖変化の祈祷を唱えるのは司祭自身です。司祭だけです。昔の話を語るのではなく、十字架上の生贄を再現するということです。つまり、聖変化の祈祷の内、確かに記念する部分がありますが、聖伝ミサでは、記念の部分が終わったら一旦止まって、沈黙して、身体の態勢をも変えてそして聖変化へ入ります。つまり「いまはもう記念ではなく、再現だよ」と典礼が叫びます。

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残念ながら、新しいミサにおいて聖変化になっても「叙唱」の口調は維持されています。特に何もおきていないかのようにされています。聖変化であるのに!司祭たちはおそらくあまり教わっていないと思われるのでしょうがないかもしれません。神学校では何を教えているかわかりません。

また新しいミサにおいて、我らの主のご現存を強調し、表す動作と儀礼などは非常に少なくなってしまいました。例えば、跪(ひざまず)きの数は殆どなくなっています。司祭の手指も重要でなくなったのです。ご存じのように、聖伝ミサでは、御聖体に触れた司祭の指先をこのようにくっついているままにして、清めてから初めて離れてもよいとなっています。御聖体に触れたので、清めない限り、何も触れてはいけないことになっているからです。ですから、聖変化のあと、このように摘まみの姿勢のままに司祭がミサを続けるのです。これも取り消されました。また指の清めの儀礼も取り消されました。

また、聖杯あるいは聖皿、つまり御血と御体に触れる聖具は本来ならば金属にならなければなりません。天主なので、なるべく貴重なものではなくてはならないと。でも今では何でもつまらない器でもよいわけです。
また、聖器(聖杯とパテナ)の清めの儀式も取り消されました。聖杯を覆うため(御血の中に何も落ちないようにするため)パラという聖具も取り消されました。聖壇の祝別も取り消されました。聖壇に布かれるべき、三重の祭壇布も取り消されました。本当に恐ろしいことです。何も残っていません。聖職者の貴重性を象徴する荘厳性も殆どなくなりました。

以上のように、新しいミサはプロテスタント的なミサとそっくりです。プロテスタントは「カトリックの新しいミサに参列してもよい」といっているほどです。またルターを引用しましょう。
「(カトリックを潰す)目的をなるべくかならず達成するために、古いミサの幾つかの儀礼を維持せよ。そうすれば、急な変更によって憤怒しそうな信者は文句を言わないだろう。」

信じられないのですが、これがなんと20世紀後半になって実現されました。新しいミサにおいて、もはや聖なることは何も残っていません。そして、そのせいで教義、信仰も損なわれています。これは悲劇的なことです。ミサを変えることによって、信仰を変えることになりました。要するに、新しいミサに行くと、信仰を危険に晒すということになります。必ず。新しいミサに与ると、信仰を失う可能性が高いということです。

で、悲しい現象であり、また、面白い現象でもありますが、この典礼改革の一つの言い訳は「一般人に合わせるため」だということでしたが、数年で教会は空っぽとなりました。これは必然的な結果です。今の「信徒」は尊敬も畏敬も畏怖も抱いていないのです。聖なることなんてどうでもよくなっています。教義と信条なんてどうでもよくなっています。



新しいミサに行っている信徒のかたに、試しに聞いてみてください。「信仰と教義について殆どしらない。」「地獄なんてしらない。」「地獄は空っぽだろう」といわれるかもしれません。煉獄については「それはなに?」でしょう。
また教義だけではなく、道徳についても聞いてください。新しいミサに与る信徒のかたに、堕胎や避妊などについて意見を聞いてみてください。また貞節に関することを聞いてみてください。

新しいミサの神聖性を最少限にしたせいで、信仰を非常に弱めたということです。裏を返せば、最初は信仰が強くても、新しいミサに行くと信仰を守れない、信仰を失って行くしかありません。ですから、新しいミサに与ってはいけません。ですから、もしも、ある信徒がその近辺に新しいミサしかないから、どうするかと迷っていたら、簡単です。ミサに行かないことです。その場合ミサに行く義務は免除されているからです。ミサに与る義務は信仰を守るためにあるからです。新しいミサに行くと、信仰を失って行くから、信仰を危険に晒すことは非常にだめなことです。この場合、ミサに行かなくても罪になりません。絶対に新しいミサに与ってはいけません。信仰が危険ですから。

ミサと信仰は密接につながっています。聖伝ミサに与ったら、信仰は強くなっていきます。正しいままなのです。



要するに、新しいミサとは冒涜そのものです。非神聖化そのものです。プロテスタント化そのものです。カトリック信徒なら、一切、新しいミサに与ってはいけません。無理です。

最後に、新しいミサに関する細かい分析に興味のある方は次の文書があります。一番よくできている新しいミサへの反駁だと思われます。
二人の枢機卿による文章です。戦闘の天使である大天使聖ミカエルの祝日、1969年9月29日に発表された文章です。Ottaviani(オッタビアーニ)枢機卿とBacci(バッチ)枢機卿による文章で、二人とも、当時のヴァチカン政府の主要な地位に立っていました。
「Bref examen critique(手短な批判的な検討)」。この文章は最適なのでお勧めします。比較的短い文章で読みやすいのでぜひともお勧めします。その文章は次のことを確認します。新しいミサは全体としても詳細においても聖伝ミサのカトリック神学から非常に遠ざかっていると。この文章をお勧めします。


新しいミサ(パウロ六世のミサ)について 【その1】

2021年03月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十講 新しいミサについて



新しいミサについて
Gabriel Billecocq神父

以前、生贄を見る中で、聖なる生贄であるミサ聖祭をご紹介しました。ミサ聖祭は「流血を伴わない十字架上の生贄の再現」でした。
今回、一般的に「新しいミサ」と呼ばれることについて触れなければなりません。それは、「パウロ六世のミサ」とも呼ばれますが、最近できたミサで、第二ヴァチカン公会議の直後にできたミサです。新しいミサの詳細を見る前に、少し歴史を見ることにしましょう。つまり、いわゆる聖伝ミサ、また「ピオ五世のミサ」といわれるミサはピオ五世の時代のミサではないことを思い出すのがよいでしょう。

聖ピオ五世は16世紀の教皇ですが、トレント公会議を執り行った教皇であり、またそのトレント公会議の決定をなした教皇です。それから、聖ピオ五世はいわゆる「聖ピオ五世のミサ」と現在呼ばれるミサの典礼を確定させる勅書を発しました。この勅書をもって、教皇聖ピオ五世は聖伝ミサを神聖化し、永遠の価値を与え、そのミサをいわば列聖したと言えましょう。というのも「いつまでも、廃止すること能わず」というミサであると教皇が明確に命じたからです。



どちらかというと、「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれるミサは実は聖ピオ五世のつくったミサでないのです。その呼び名は「Quo Primum」の勅書に由来していて、つまり聖ピオ五世が最終的に聖伝ミサの典礼を確定したという出来事を記念した呼び名にすぎません。つまり、聖伝ミサのすべては聖ピオ五世以前から存在していました。聖ピオ五世は何も新しい典礼を制定することもなく、新たなミサを作ったわけではないのです。聖ピオ五世はただ、当時の聖伝ミサの典礼を編纂したにすぎません。

聖伝ミサは使徒時代から継承されてきたわけです。聖伝ミサのカノン(ミサ典文)は、つまりミサ聖祭の中心部分、序誦から主祷文までの部分ですが、使徒時代には、すでに定着していた聖伝ミサの核心です。というのも、使徒たちはミサ典文にある諸祈祷をすでにそのままに唱えていました。

さらに言うと、中心中の中心部分である聖変化の祈祷は福音書において明記されており、また聖パウロの書簡においても明記されています。御聖体を取り上げる儀礼は逆に11世紀あたりの遅い時代になって追加されました。いわゆる、Beranger de Toursの異端と戦うためですが、御聖体の取り上げの儀礼以外に、ミサ典文のほとんどすべては使徒時代から定着していました。ほとんどの部分は「古より」といわれるほど、その起源を特定できないほど大昔から唱えられている祈祷でした。

要するに、ミサ聖祭の核心部分は非常に古いのです。最も中心中の中心はイエズス・キリストご自身が制定されて(聖変化)、使徒時代の時に定着しました。

それから、ミサ聖祭の典礼に追加されてきた他の祈祷や儀礼はいきなり追加されたものではなく、少しずつ時代ごとに慎重に適切に追加されてきました。それを示す資料として古文書である多くの典礼文があります。

ゲラシウス教皇典礼書(4世紀前半)、グレゴリウス教皇典礼書(8世紀)、レオン教皇典礼書(5世紀)などが残っていますが、そこでは、今の聖伝ミサのほとんどの祈祷はすでに使われていました。特に四旬節において現在でもつかわれている毎日の祈祷に関していえば、非常に古くてこれらの典礼書において既にあります。

つまり聖ピオ五世はこれらの祈祷などを一つも作っていないわけです。繰り返しますが聖ピオ五世は聖伝ミサの典礼を編纂したにすぎません。編纂する意味は、それから以降、聖伝ミサの典礼が変更できないようにしておいたという意味です。長い時間の積み重ねで、多くの聖職者の叡智で聖伝ミサの達した高い完成度をいつまでも保つための編纂でした。


というのも、当時はプロテスタントの異端によってミサが攻撃されていたことを思い出してください。ただし、使徒時代以降に追加された部分などは考えてみるとそれほど多くはありません。もう少し遅くできたのは階段祈祷(10世紀)と最後の福音(16世紀)ぐらいでしょう。

しかしながら、ミサ聖祭の典礼とその構成自体は何も変わっていません。使徒の時代と最初の諸世紀の時代にすでに定着しているわけです。ミサ典文、カノン自体は使徒時代の時にすでに固まっていました。

要するに、「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれるミサは、実を言うと、何も変わっていないミサ聖祭であり、「変わらぬミサ」と呼ばれることがありますがもっともな呼称です。この意味というのは、使徒たちがご自身がすでに唱えていたミサ聖祭という意味です。同じ祈祷、同じ言葉を使って、使徒たちは継承者へ伝えていき、数世紀の内に典礼書において成文化されてきたという聖伝ミサです。そして、この最終的な古典化は聖ピオ五世の編纂によって行われたということです。
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新しいミサを産んだ運動として「考古学主義」というものがありました。つまり、聖伝ミサよりも古い形のミサに戻ろうという考え方です。
この考え方は非常に誤っているのです。教皇ピオ12世はその誤謬を丁寧に否定しました。また回勅においてこの「考古学主義」を排斥しました。
問題は部分的に正しい指摘もあるものの、完全に誤っている部分が多いのです。

正しい指摘としては、例えば、聖体拝領は最初の数世紀の間に手で行われたということがあります。確かに、そうでした。問題はそれに戻ろうとするのは過ちです。教皇ピオ12世は丁寧に説明します。我らの主、イエズス・キリストによって制定されたカトリック教会は時代が下るにつれて、少しずつ経験を積み、成熟したかのように、成長しました。子供が大人になっていくのと同じように、カトリック教会も成長していきました。その本質は変わらないで、同じ本質、同じ顔立ち、おなじ体型ですが、成熟していきました。

聖パウロの書簡においてこう記してあります。「私が子どものころは、子どものように話し、子どものように考え、子どもように論じたが、大人になってからは子どもらしいことを捨てた」(コリントへの第一の手紙、13,11)。

聖伝ミサの典礼の歴史はまさにカトリック教会の成熟の歴史をもの語っています。確かに、事実としてカトリック教会は最初の数世紀の幾つかの慣習を捨てました。しかしながら、それは非常に限られた慣習であって、多くはありませんよ。例えば手での聖体拝領。8-9世紀になると、手での聖体拝領は完全になくなっていました。あるいは、二つの形色ともに拝領する習慣も12世紀から14世紀までにはなくなりました。これらの決定などはたまたまではなく、叡智と経験と成熟の結果の成果なのです。

ですから、長い経験の結果を決定したことを取り消す意志、つまり、原初のミサに戻るとする「考古学主義」はなかば夢想されている深刻な誤謬といえます。これは、カトリック教会の長い歴史によって得られた経験と叡智を蔑ろにすることでしかありません。たとえば、手での聖体拝領がわかりやすいと思います。不敬になりやすいから排除されました。そこまでいかなくても多くの問題がありました。御聖体に触れた信徒の手をどうすればよく清められるか、また、多くの人々が拝領すると、冒涜の可能性も増えて、御聖体の欠片が落ちたりするおそれも。舌で聖体拝領した方が絶対にご現存に対する畏敬は保たれやすいのです。そうすることによって、多くの不用意な冒涜を回避できるわけです。残念ながら、現在の新しいミサではこのような冒涜は頻繁に起きるのです。

二つの形色ともに拝領する習慣を維持するのもかなり困難でした。衛生上の問題もあるなかで、御血を拝領するのは実際上容易ではありません。液体ですから。しかしながら、御血として我らの主、イエズス・キリストに対して最大の礼拝をも払わなければなりません。そのため、実際上、御血の拝領は困難でした。液体を運ぶのでこぼし易くなるし、吹管を使って拝領していたから非常に不便が多かったのです。そして、御血の拝領は司祭以外に必要であるわけではないので、カトリック教会の叡智が働いて、その結果、西洋では御血の拝領を廃止しました。それでも、御聖体を拝領するだけで、我らの主、イエズス・キリストの御血、御体、ご霊魂とご神性のすべてを頂くことになりますので、信徒にとっては何も変わらないのです。

その上、聖伝ミサはこの上なく最も立派に信仰を示す典礼なのです。聖伝ミサにおいて、信仰のすべては要約されていて、信じるべき信条のすべてが入っています。このように、我々が執り行う聖伝ミサと我々が告白する信仰は密接につながっています。離れられない絆があります。聖伝ミサは信仰のすべてを表現します。



原罪は聖伝ミサにおいて示されています。信徒も司祭も罪人として聖壇の前に向かうわけです。贖罪の玄義は聖伝ミサにおいて、当然ながら非常に表現されています。御托身の玄義も言うまでもなく示されています。一番象徴的なのは、奉献部にある祈祷、葡萄酒において水の一滴を入れる儀礼の時に御托身の玄義が示されています。葡萄酒は神性を象徴して、水は人間性を象徴しています。無原罪の御宿りの聖母、それから贖罪の御業のおける聖母マリアの至上の役割と位置づけも示されています。霊魂における聖寵の働き、イエズス・キリストのご生命の働きも語られています。

要するに、カトリック信仰のすべての信条は聖伝ミサにおいて語られています。さらにいうと、ミサ聖祭の構成においても文章においてもこれらの信条は立派にうまくはめ込まれています。このように、聖伝ミサに与ると、信仰は教えられているだけではなく、信仰徳も増やされていきます。



教皇セレスティア四世の言葉だったと思いますが「Lex orandi, Lex Credendi」という格言があります。「祈っている法は信じている法だ」。つまり、典礼は信仰につながるのだという意味です。また信仰こそが典礼を方向付けるのです。このように信仰と典礼の絆は切り外せないのです。祈り方と信仰は密接につながっています。

俗に言ってもこのような諺がありますね。「君がやっていることを見て、君が誰なのかを教えよう」という格言があるように、「君がどうやって祈るかをみて、君がどういった信仰を持つかを教えよう」といえます。つまり、行為において、行動は本質を表すということですね。このように、ミサ聖祭はこの上ない典礼なので、正に「執り行う」ことであって、行為そのものです。そして、ミサ聖祭という行為は信仰がなんであるのかを表明します。要するに聖ピオ五世のミサはカトリック信仰のすべてを表します。

繰り返しますが、ミサと信仰は密接につながっています。そして、聖伝ミサは、本当の意味で聖伝であり、つまり、イエズス・キリストから使徒へ、使徒から司教へ、司教から司祭へ、代々引き継がれた聖なるミサなのです。ですから、変わらぬミサと変わらぬ信仰は密接につながっています。

ですから、お気づきになったと思いますが、ミサを変更しながら信仰を変更しないことは至難の業です。逆もしかりです。信仰を変更しながら、ミサを変更しないことは至難の業です。信仰とミサの間に密接な絆がある所以です。繰り返しになりますが、ミサ聖祭の構成と祈祷の儀礼において信仰がはめ込まれているからです。

従って、ミサを変えたら必然的に信仰が変わる危険が大いにあります。さらにいうと、信仰生活をも害する恐れが大いにあります。
例えば、聖伝ミサにおける信徒が取るべき態度、動作などは規定されていますが、これらも天主への礼拝を表すためです。言いかえると、外的な態度や動作を変えるだけで、天主への礼拝の仕方、祈り方をも変えることになります。その結果、天主へ払うべき畏敬を変えることになります。



残念ながら、以上のようなことを実際にやってしまったのが、第二ヴァチカン公会議だというべきです。第二ヴァチカン公会議の一つの結果となった新しいミサのせいで、以上のような変更がありました。

第二ヴァチカン公会議の正式の最初の文章(法令)は第二会期が終わった時、発表されましたが、典礼についての文章です。「Sacrosantum concilium」という文章です。この文章はいわば時限爆弾でした。というのも、この文章は曖昧過ぎるせいで、完全に好き勝手に解釈することが可能です。この文章においては、一応、変わらぬ教義が明記されてはありますが、同時に毎回、いつも「特例」あるいは「例外」を設ける余地が与えられています。

例えば、絶対的に典礼はラテン語になります。が、司教は違う言語を選んでもいいです。といったような感じです。
また、例えば「絶対に新儀(新しいこと)を典礼にいれてはいけない。が、固有文化に適応するためなら変更してもよい」という感じです。

要するに、この文章のやり方を一言で要約すると簡単です。一方で真理を一応再断言するものの、他方でこの真理を変更してもよい項目を設けておくというものです。この意味で、「Sacrosantum concilium」という文章はまさに時限爆弾となります。それに基づいて何でも正当化できるからです。本来ならば、教皇あるいは公会議が発する文章に期待すべき性質を持たない文章です。本来ならば、逆です。はっきりとした、解釈の余地のない明白な文章が期待されているのに、第二ヴァチカン公会議の文章の特徴でもありますが、もやもやしすぎて、好き勝手に解釈しても差し付けなく、結果とし何でもできるという。

「Sacrosantum concilium」の直接の結果が新しいミサなのです。またパウロ6世のミサと呼ばれるミサです。この新しいミサはいきなり出てきたものではありません。本来ならば、その歴史を紹介すべきですが、簡単にいうと「典礼運動」に由来しています。複雑な歴史なので割愛しますが、それにご興味のある方はBonneterre神父の研究に参照していただければと思います。

この中で典礼運動が研究されていますが、少しずつ、「どうしても変更すべき」空気の生成や「動作よりも言葉だけを重んじる」傾向や「考古学主義」の流行りや「犠牲の執り行いを軽視する」傾向などがよく描写されています。当然といえば当然ですが新しいミサは自然に発生したものではなくて、数十年の間、この典礼改革が準備されていたわけです。最初は典礼学において「改革希望」を操作した数十年の運動の結果なのです。


そして、新しいミサは1969年の時、パウロ6世によって正式に制定されました。「Novus Ordo Missae」と呼ばれる文章によってです。「ミサの新しい構成(あるいは典礼)」という意味です。この新しいミサを実現した主役は他でもないパウロ6世です。もちろん、一人でこの典礼を作ったわけではありませんが、パウロ6世はかなり関わりました。が、典礼改革の中心人物はBugnini(ブニーニ)司教でした。かれこそ、この改革を推し進めて実現させました。その他、改革の主役を担った人物として、Birminghak教区のBouyer(ボイヤー)司教の他、残念ながら、二人のプロテスタント信徒もいました。ここに言う人物は積極的に新しいミサの典礼を作った者たちであり、単なる「顧問」のような消極的な役割を持つ人ではなかったのです。

当時、エキュメニズムを担当していたBaum(バウム)司教の証言を引用しましょう。
「(典礼改革のための)これらのプロテスタント信徒たちは単なるオブザーバではなく、顧問もやり、さらには積極的にカトリック典礼改革の審議に参加しています。オブザーバだけならそもそも誘う意味がありません。彼らは積極的に改革に貢献しました。」

信じられないと言えば信じられないのですが、パウロ6世ですら普通に認めています。新しいミサの典礼が発表されてから数日後、1969年4月10日、パウロ6世は次のことを発言しました。典礼改革に参加したプロテスタントの牧師の前での発言です。聞いてください。本当に信じられない発言です。
「あなたたちが数年前から尽くしてくださった仕事に対し、誠に感謝の意を表する次第です。はい、正に、カトリック教会の善のため以外、何の報酬の期待をも持たないで、速やかに、また高度な見識の能力を示して、複雑かつ困難な作業に勤しんでくださったのですから。」



500年もの間、カトリック教会に対し、多大なる弊害を与えたから、そして、カトリック教会の基礎を覆そうとしていたから、歴代教皇や公会議はずっとずっとプロテスタントを排斥して、その誤謬を否定していたことを考えると、信じられない発言です。ある意味で新しいミサは「プロテスタント的なミサ」です。詳しく後述しますが、新しいミサは現にプロテスタント的なミサです。これは悲しいことであって、悲劇です。

ルターの言葉を借りましょう。彼はもちろん新しいミサを夢にも見たこともないのですが、象徴的なので引用します。ここで彼のいうミサはもちろん聖伝ミサですね。
「ミサが転覆される日が訪れたら、教皇の位が転覆されることを意味すると思う。というのも、教皇の位のすべては、つまり、教皇の下にある修道院、教区、学校、慈善施設(病院など)、聖職者と信仰(教義)のすべては巌(いわお)であるかのようにミサの上になり立っているからだ。憎むべき冒涜であるミサが崩れた瞬間に、これらのすべても崩れるのだ。」
非常に明白でしょう。面白いことに、教会のすべては、修道院を含めて、ミサの上に成り立つとルターが言っていますね。



Bugnini(ブニーニ)司教が新しいミサを紹介していた時の話です。ルフェーヴル大司教が参加されたときになされた発表でしたので、ルフェーヴル大司教は我々神学生に、次のような話をよく話されていました。それは、新しいミサの詳細をブニーニ司教が初めて説明した時、ルフェーヴル大司教はいつもすぐに発言するタイプなのに、その時はあまりにも信じられない内容だったせいで、ショックを受け、驚きのあまり、何も言えなかったと。

後で見ますが、新しいミサにおいては、信徒たちの積極的な参加が過剰に重視されているので、当時の説明会の時、一人の修道士が立ち上がって「では、修道院においては(基本的に信徒がいないので)どうやって執り行えるか」という質問をしました。その答えはなんと「ああ、考えていなかった問題ですね」というものでした。

なんか、信じられないことでしょう。新しい典礼という非常に重い改革がおもいつきのように作られたなんて。つまり、全教会のために作られてもいない典礼。修道士を視界に入れていなかった典礼。つまり、カトリックの典礼ではないということです。カトリックとは「普遍」という意味ですから。以上の話だけでも、どれほどカトリック的ではないミサであるか見えてきたと思います。

しかしながら、重要な点を強調しましょう。以上の新しい典礼を発表したからといって、パウロ六世は聖伝ミサを廃止したことはありません。全くありません。聖伝ミサは一度も廃止されたことはありません。ヨハネパウロ二世もベネディクト16世も枢機卿に相談した時、何度もはっきりと「聖伝ミサは廃止されていない」ということを明白に示されました。

要するに、今でも、すべての司祭は聖ピオ五世のミサを捧げることができて、聖伝ミサを捧げる権利があるということです。
聖ピオ五世は「Quo Primum」の勅書を発した時、次のように明確に書かれています。「廃止すること能わず」。また正確に言うと聖伝ミサを「神父が捧げることを妨げること永遠に能わず」と。


ミサに与るための典礼書、「毎日のミサ典書」の使いかた

2021年03月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十九講 ミサ典礼書「毎日のミサ典書」を使いましょう



以前、ミサ聖祭とは何であるかを見てきました。その本質、その現実を見ました。流血を伴わない十字架上の生贄の再現です。そして、前回はミサ聖祭の具体的な構成をご紹介しました。ミサ聖祭はどういった流れになって、どのように全体を成して十字架上の聖なる生贄を再現しているかを見ました。

今回、手短に非常に具体的なことを紹介したいと思います。「毎日のミサ典書」をどう利用すればよいかという課題です。信徒の皆さんが常に使っている「毎日のミサ典書」ですね。

この本ですが、ミサ聖祭に善く参列するためのすべての典書が入っています。
分厚い本なので、初めて「毎日のミサ典書」を使うとちょっと迷う方もいると思いますので、簡単にご紹介しましょう。
そして、簡単に、「毎日のミサ典書」の利用に当たるコツを紹介しましょう。

まず、「毎日のミサ典書」は大きく言うと二つに分けられています。第一部はかなり長いですが、ミサ聖祭に関する部分、殆ど3分の2以上占めています。そして、残りの部分は信徒のための祈祷、祝福など、つまり祈るため、信仰生活を助ける部分です。例えば、告解に行くためのしおりとか、他の秘跡の典礼とか、多くの祈祷とか、聖歌とか、いろいろあります。この部分は直接にミサ聖祭についてではありません。普段使いの本として便利な書のようなものです。

さて、「毎日のミサ典書」自体を見ましょう。「毎日のミサ典書」を効率よく使うために、一番大事なのはミサ聖祭の在り方と構成をよく理解することです。より一般的にいうと、典礼を理解すると使いやすくなります。典礼とは祭礼を律する物事です。もちろん、ミサ聖祭は典礼中の典礼ですね。

ミサ聖祭に関して、大きく言うと二つの部分があります。
第一、全く変わらない部分です。「通常文」と呼ばれるもので、ミサ聖祭の構成そのものです。
そして、第二、毎日変わる祈祷と朗読です。いわゆる、ミサ聖祭の構成の中に、毎日、変わる朗読と祈祷です。



ミサ聖祭の構成、ミサ聖祭の典礼はミサ聖祭の流れを指しています。そして、ミサ典文あるいはカノンは全く変わらない部分です。
この変わらない部分、つまり通常文とは「毎日のミサ典書」の真ん中にあります。「通常文」です。
ですから、ミサ聖祭に参列する時、流れを追うために一番やりやすいのは、「通常文」に沿っていくことです。

そして、「通常文」の最初に、「階段祈祷」があります。そして、ページをめくると、ミサの流れが追っていけます。つまり、神父が唱える祈祷がミサの流れにそって一通り載っています。ただし、「通常文」だけを見ても、当日のミサ聖祭の「固有文」は載っていません。しかしながら、「通常文」を見ると、ミサ聖祭において変わらない流れが載っています。

「通常文」を開くと、最初に教育の部がありますが、その流れに沿って、固有文のところに、空っぽな四角が載っています。これは固有文を参照してくださいという意味です。

もしも、「毎日のミサ典書」がはじめての方にとって、固有文を参照することが難しいのなら、ご心配なく、とりあえず「通常文」だけでいきましょう。ミサ聖祭の流れ自体で、主な祈祷はすべて入っていますので、最初、ミサ聖祭に与る方は「通常文」に沿って行けばよいです。ページをめくっていくと、次に奉献の部に入っていきます。つまり、聖なる生贄の部のすべての祈祷と文章が載っています。それを読みながら、司祭の祈祷に心を合わせましょう。

司祭のペースが速すぎてついていけないと言われる信徒もいますが、ご心配なく。すべて読んでいなくてもいいのです。ミサ聖祭の目的はすべてを読むのではなく、十字架上の生贄と一致することにありますので。
このようにミサ聖祭の最後まで、「通常文」は続きます。
以上はミサ聖祭に与るための一番重要なところです。比較的それほど長くもない「通常文」で、100ページ弱ぐらいで、ミサ聖祭の主な部分は入っています。これを見ると、ミサ聖祭の流れを追って行けます。

さて、次の段階は固有文を見つけることです。最初はちょっとチャレンジになるかもしれません。
先ほどに申し上げたように、「通常文」は「毎日のミサ典書」の真ん中にあります。固有文を参照するために、「通常文」の前にあるか、後にあるかどちらかです。チャレンジは今です。カトリック教会は長い叡智の結果、典礼を「毎日のミサ典書」において整理した結果、一年分のミサが載っています。



そして、固有文は二つのグループに分かれています。一つは「通常文」の前にあります。もう一つは「通常文」の後にあります。前の部分、つまり「毎日のミサ典書」の前半を占める部分は「聖節の部」と呼ばれています。後の部分、つまり「毎日のミサ典書」の後半を占める部分は「聖人の部」と呼ばれています。

前の部分は通年のそれぞれの典礼の時期のミサの固有文が載っています。つまり、基本的に主日の固有文です。待降節の第一の日曜日の固有文から、聖霊降臨後の最後の日曜日の固有文まで載っています。要するに、この部分においては主に主日の固有文が載っていまして、通年の日曜日の順番で載っています。言いかえると、我らの主、イエズス・キリストの人生と玄義を追っていく部分です。
一年の典礼の流れはイエズス・キリストの人生を追っていきます。

ですから、主に主日の固有文が載っている「聖節の部」は待降節から始まります。続いてご降誕の祝日。そして御公現の祝日。そして、七旬節になって、そして、四旬節になっていきます。四旬節は結構長いです。それから、我らの主、イエズス・キリストのご受難になります。聖週間とその後、復活祭です。そして、次にご昇天へ。そして、聖霊降臨があります。そして聖霊降臨のあと、一通り、典礼年の主日の最後までの固有文が載っています。これは、主に主日の固有文の部分でした。つまり、日曜日にミサに与るとき、「通常文」に載っていない固有文はこの前半のところにあります。

「聖節の部」という一つの循環と関係なく、もう一つの循環があります。「聖人の部」です。後半の部分です。
年間の毎日、我々の模範となる聖人、また我々に恩寵を分配してくれる聖人を崇拝するようにカトリック教会は典礼を整えました。そうするために、固有のミサは用意されています。これらの固有分は後半にあります。



後半の部分は年間の毎日の聖人を崇めるためのミサの固有文が乗っています。
一般的に、「聖人の部」は11月末から始まります。「聖人祝日の部」とも呼ばれています。11月30日の聖アンドレアから始まることが多いです。そして、毎日、聖人が崇められています。ご存知のように、よくある日を指すために日付を使わないで、その聖人で指す習慣があります。例えば、「聖バレンタイン」とか「シュルベステル」(12月31日)とかあります。

なぜ11月末で始まるのでしょうか?殆どの場合、待降節の第一の主日は11月末になることが多いからです。そこに、聖人の祝日の固有文が乗っています。6月24日、洗礼者ヨハネ。6月29日、聖ペトロと聖パウロ。7月1日、主イエズス・キリストの御血などなど。8月15日、被昇天の祝日は「聖人祝日の部」において載っています。聖母マリアが天に昇られたことを祝う日です。このように、通年の聖人の祝日が載っています。「聖人の部」です。

さて、もう少しチャレンジしましょう。
それぞれの聖人のために、更に固有の祈祷あるいは固有の朗読をカトリック教会が指定したり作成したりしました。しかしながら、場合によっては、固有の文章は特になくて、聖人共通の文章もあります。例えば、童貞殉教者の聖人なら、童貞殉教者の聖人のための共通ミサもあるということです。

その結果、「聖人の部」は2つに分かれています。聖人ごとの固有文と、聖人の「種類」による共通ミサの固有文。



しかしながら、ご心配なさらないでください。聖人の祝日に預かったとき、単純にその聖人の日に参照すれば、共通文に参照するためのページが書かれているから、参照しやすいです。例えば、10月10日のページにあたりました。証聖者、ボルジアのフランシスコの祝日です。そこにあるのは「大修院長の共通ミサ(57頁)」と書いてあります。簡単でしょう。

さて、要約すると何を覚えておけばよいでしょう。「毎日のミサ典書」において、三つの部分があります。真ん中に「通常文」。そこから入りましょう。前半に「聖節の部」。これは主日の固有分です。後半は「聖人の部」。
その上で、後ろには多くの祈祷や秘跡の典礼や祝福が載っているので、ぜひ御覧ください。糧になるものがいっぱい載っています。

胎内の赤ちゃんの擁護と堕胎に関与するワクチンに反対する女性の声

2021年03月21日 | プロライフ
参考情報です
胎内の赤ちゃんの擁護と堕胎に関与するワクチンに反対する女性の声 からの転載

Covid-19ワクチンと胎児の細胞

では、COVID-19ワクチンの現在のケースを考えてみましょう。直接的に製造過程であるいは間接的に試験を通してその多くは堕胎された胎児の細胞株を利用します。このような利用は道徳的であるだけでなく、パンデミックの深刻さを鑑みて、隣人に対する実際の愛徳行為であると主張する人たちがいます。私たちは、司教たちによって、なおかつバチカンさえも公式に発表したものも含め、このような主張は、予防接種と免疫学の科学の不完全な評価に基づいていることを謹んで提案し、そのような推進者には以下の事実を参照して、自分たちの主張を再評価されることを懇願いたします。

堕胎された胎児細胞を「試験中のみ」で使用したと報告されているワクチン候補は、そのmRNA候補の開発に不可欠な部分としてHEK-293細胞を使用し、mRNAの有効性を確認するために、時には一つ以上の種類の確認試験を行うこともあります。

問題となっているワクチン候補は、実際にSARS-CoV-2の感染や感染拡大を予防する効果についての試験は行われておらず、COVID-19の確定症例を発症した人の症状の重症度の軽減についてのみ評価されています。このような中等度の予防効果の評価でさえ、ひどく誇張されているかもしれません。
SARS-CoV-2感染からの平均生存率は98.3%を超えており、これほど効果の低いワクチンでも大きな影響を受けることはないと思われます。
このワクチンはインフルエンザワクチンの5~10倍の反応源性があり、15~26倍の頭痛、倦怠感、めまいを引き起こします(VAERSのデータによります)。また、このワクチンはより多くの重篤な反応を引き起こし、多数の死者を出しています。収集された安全性のデータは、起こり得る長期の効果を決定するには不十分です。

ワクチンの実験的な性質により、人々に接種を促したり強制することは、生命倫理と人権に関する世界宣言に直接違反することになります。

これらすべての要因を合わせると、堕胎に関連するCOVIDワクチン候補の使用を正当化する発言は、胎児に対する犯罪の重大性と即時性を無視しているだけでなく、この病気に関する科学的証拠や現在のワクチン候補の不十分性、既知や未知のリスクを無視していることがわかります。

結論として、キリスト者である私たちは、キリストのお考えを身に着け、私たちの心をイエズスの聖心とマリアのけがれなき御心と一体化させるように呼びかけられています。ですから、私たちはこの途方もなく地獄のような幼子虐殺のカルトに協力することはありません。私たちはもはや、この一粒の香すらモレクに捧げることはできません。真実のために命を捨てることを厭わない初期のキリスト者を真似る時が来たのです。私たちは加担しません。立ち上がる時です!

✛2021年3月8日
病院と病者の保護聖人である神の聖ヨハネの祝日
国際女性デーに
翻訳者:カトウ  ジュンヤ

バチカン、中絶胎児由来の細胞株使ったワクチン接種を容認

2021年03月20日 | 迫り来る危機
参考情報です
バチカン、中絶胎児由来の細胞株使ったワクチン接種を容認 からの転載
https://www.cnn.co.jp/world/35164214.html

(CNN) 新型コロナウイルスワクチンの開発、製造段階で人工妊娠中絶された胎児に由来する細胞株が使われているとして、中絶反対派のカトリック教徒らが懸念を示していた問題で、ローマ教皇庁(バチカン)は21日、こうしたワクチンの接種を受けることは倫理上、正当化されるとの見解を示した。

バチカン教理省がフランシスコ教皇の承認を受けた覚書を公布した。

新型ウイルスのワクチンをめぐっては、中絶で採取された胎児の細胞を使っているとして、一部の司教らが接種反対の立場を表明。実際にはこれらの細胞は、数十年前に入手した組織を使って実験室で操作し培養されたもので、中絶胎児から直接つくられたものではないが、カトリック教会内部で意見が分かれ、倫理上の指針を求める声が上がっていた。

米カトリック司教協議会も今月、ワクチンの使用は倫理的に正当化されるとの判断を示していた。

バチカンの覚書は判断の根拠として、危機の緊急性が高いこと、代わりに使えるワクチンの選択肢がないこと、数十年前に行われた中絶と今作られたワクチンの接種を受けることの間に密接な関連性はないことを挙げている。

接種を受けても中絶に加担することにはならないとし、中絶胎児由来の細胞株を使うことが倫理的に是認されたと解釈するべきではないとも明記された。

さらに各国政府や製薬会社、国際機関は道義上、ワクチンが貧困国にも平等に供給されるよう努める義務があるとも強調している。


聖ピオ五世のミサ(聖伝のミサ)の構成をご紹介します|聖伝のミサとは、使徒たちから、そのままの形で受け継がれたミサ聖祭という意味です

2021年03月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 百十八講 ミサ聖祭の構成



ミサ聖祭の構成
Gabriel Billecocq神父

以前に、ミサ聖祭の定義を示して、聖なる生贄、聖なる犠牲だと紹介しました。今回はミサ聖祭の構成をご紹介したいと思います。
ここでいうミサ聖祭はいつものミサ聖祭です。通常「聖ピオ五世のミサ」と呼ばれることが多くて、あるいは「聖伝ミサ」とも呼ばれています。その通り、聖伝のミサですが、なぜ聖伝であるか後ではなします。現在、聖伝ミサを指して「特別形式」と呼ばれることもありますが、特別でも何でもなく、通常の形式であり、ごく普通の形式であるというべきです。

さて、ではなぜ「聖ピオ五世ミサ」と呼ばれるのでしょうか?聖伝ミサの典礼を最終的に確定させて編纂したのが聖ピオ五世だからです。聖ピオ五世は16世紀の教皇であり、在位は1566年から1572年までです。当時の状況からするとルター改革、ひいてはプロテスタント主義の台頭による弊害に立ち向かわざるを得なかった教皇でした。ご存じのように、ルター改革とプロテスタント主義は根本的にミサ聖祭を破壊するのです。プロテスタント主義を踏襲する形で、第二ヴァチカン公会議もミサ聖祭を破壊しています。

このように、プロテスタント主義に対して抵抗するために、聖ピオ五世はミサ聖祭の典礼を決定的に確定させました。なぜでしょうか?ミサ聖祭をプロテスタント主義の攻撃から守るためであり、プロテスタント主義からの防御対策のためです。

しかしながら、大事なのは、聖ピオ五世による典礼の編纂はあくまでも既存の典礼、すでに執り行われていたミサ聖祭の典礼を整理し、典礼書の形にしたにすぎません。言いかえると、新しいこともなく、構成も以前を踏襲したにすぎません。

後ではなしますが、特に、ミサ聖祭の中心部分であるカノン、ミサの典文の奉献の部と聖変化の部はつまるところ使徒時代のままです。
この意味でこそ、「聖伝ミサ」といえます。つまり、使徒たちからそのままの形で、受け継がれたミサ聖祭だという意味です。福音書の最後の晩餐のところの我らの主、イエズス・キリストの御言葉を読んでみると明らかですし、また、聖パウロの手紙においてもミサ聖祭の中心部分の祈祷はそのままに記されています。

これが、聖なる生贄であるミサ聖祭の核心の祈祷が、使徒時代に制定されたと言われる所以です。そして、イエズス・キリストによって制定されて、使徒たちがミサ聖祭の核心部分を制定して、現代にいたるまで受け継がれてきました。

もちろん、だからといって、現代の典礼は使徒時代のミサだけではありません。カトリック教会の叡智とその成熟のお陰で、ミサ聖祭の典礼は増やされていき、新しい付属の儀礼が追加されたり、より拡張され、また少しずつ典礼も編纂されてきました。なぜこのような追加などがあったでしょうか?犠牲を捧げるに際して、心構えができるため、生贄を準備するため、また相応しい心境でミサ聖祭に臨むためです。

カトリック教会は、カトリック信徒が良い相応しい内面的な心境で臨むための儀式であることも、犠牲のあと、良き天主に感謝を捧げることも大事ですから、そうするための儀式も追加されたりしました。

要するに、このような追加は時代につれて少しずつ行われてきました。ところが、大事なのは、これらはあくまでも追加に過ぎなくて、ミサ聖祭の核心を変えることもなく、ミサ聖祭の本質を変質することもなく、逆に、かえって、ミサ聖祭の本質をより綺麗に忠実にするための付属儀式が加わったということです。

つまり、ミサ聖祭の本質はそのままに使徒時代から伝わっていたその本質をより大切にするために、核心の周辺、本質ではない部分あたりに多くの儀式と祈祷が少しずつ、少しずつ、それぞれの時代の叡智に従って、またそれぞれの時代の状況に応じて、追加されてきたのです。その理由は、司祭も信徒もこの上なく素晴らしい執り行いであるミサ聖祭に、よりよく与ることができるように、天主と一体となることができるような助けを得るためです。つまり、宗教中の宗教行為をより善くできるようにするためです。



このようにして、使徒時代のミサから、時代が下ってくると、少しずつ豊かになってゆき、そして聖ピオ五世は一旦、典礼を最終的に確定させました。プロテスタント主義の攻撃から防御するためです。

また今度詳しくご紹介しますが、残念ながら、第二ヴァチカン公会議の際、以上のような長い歴史から生まれた叡智とミサ聖祭の鎧はパウロ6世の改革によって新しいミサが制定されて、急に正面から否定される羽目になりました。この新しいミサは完全にプロテスタント的でありますが、これについては今度の話に譲ります。

しかしながら、以前からご紹介しているミサ聖祭は言うまでもなく、聖伝ミサのことです。なぜでしょうか。聖伝ミサこそが最も明らかに十字架上の犠牲の再現を示しているからです。思い出しましょう。ミサ聖祭は秘跡であると同時に犠牲でもあります。

そして、聖ピオ五世によって典礼化された聖伝ミサ、そして現代に至って今でも捧げている聖伝ミサこそが、ミサの幾つかの形式の内、一番「秘跡的」な典礼となっています。いいかえると、最も明らかに十字架上の犠牲とは何であるかを示して、具現化しているのです。ですから、聖伝ミサこそが最も象徴的というか、十字架上の犠牲を最も明らかに示して、ミサ形式中の最も明白にミサ聖祭を具現化して、十字架上の犠牲をはっきりと示しているのです。

新しいミサの根本的な問題は(無効にならないとしても)十字架上の犠牲を示さなくなっていることにあります。決定的な弱点です。

さて、今日でも使っている聖伝ミサの典礼は聖ピオ五世によって編纂されました。
大きく言うと、この典礼は二つに分けられています。カトリック教会の初期から、使徒時代から、大きくミサ聖祭を二つに分ける伝統がありました。

つまり、「求道者のミサ」と「洗礼者のミサ」という二つの部分です。「求道者、つまり洗礼志願者のミサ」とは最初の部分ですが、信者や求道者に教えるためにあります。そして、「洗礼者のミサ」とは犠牲そのものです。言いかえると、「心構えをするための部」と「犠牲を捧げる部」という構成になります。

そして、最初の数世紀の間、求道者たちは「教えの部」に参列していましたが、「犠牲の部」が始まると退場していて、洗礼者のみ臨んでいたことから、「求道者のミサ」と「洗礼者のミサ」と呼ばれています。
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要約すると、ミサ聖祭の構成には二つの部分からなっています。第一部は「準備の部」、第二部は「生贄を執り行う部」という構成です。
時には、第三部という区切りもあって、つまり「感謝の部」、犠牲をささげた後に天主に感謝するという部分です。基本的に、第二部の付属部分として区別されています。

まず、ミサ聖祭の第一部は「教育の部」です。この第一の部の中心の目的は、ミサ聖祭という生贄に、相応しい心構えで、相応しい心境で、良い内面的な状態で臨めるようにするための部分です。言いかえると、カトリック教会は霊魂たちの黙想を助け、霊魂の静謐を助け、つまり、天主に向かわせるための状況を唱え、この世の雑音や騒音などを亡くす環境を作るための部分です。

このように、霊魂は少しずつ、一心に、天主を中心に集中することができて、外の世から一旦去るような心境を作ることを助ける部分です。このようにして、霊魂たちはなるべく天主と高度な一致の状態で、ミサ聖祭という十字架上の聖なる生贄に臨むための部分です。つまり、一人一人の霊魂が十字架上の犠牲となるべく現に一致できるようにされていく部分です。

さて、では、第一部の構成はどうなっています。小さい八つの部分からなっています。
第一、司祭は祭壇の下までいく「階段祈祷」があります。司祭は祭壇の下に向かいますが、祭壇の前の階段の下に止まって、祈祷を捧げます。通常、祭壇は高めに設置されており、祭壇まで上るために奇数の階段(一つあるいは三つ)があります。それはともかく、司祭は階段の下に止まります。そこで、「階段祈祷」を捧げます。その内の中心部分は告白の祈りです。つまり、司祭は自分が犯した罪を告白して、その赦しを希い、そうすることによって、良い生贄を捧げられるように心の準備をします。



これは当然のことです。ミサ聖祭を捧げる司祭はキリストにおいて執り行うことになりますので、出来るだけ、なるべく清い状態で捧げ、司祭の霊魂は最大になるべき我らの主と一体化している必要があります。そうすることによって、自分を一番従順な道具にさせ、イエズス・キリストの御手に道具たる自分を捧げるための準備を行います。「階段祈祷」はそのための準備です。

そのあと、祭壇まで上って、一心に接吻して、それから「入祭文」を唱えます。「入祭文」は当日の祝日に合わせた詩編の一句となっていて、ミサ聖祭に入るための祈祷です。

「階段祈祷」の延長線には、「求憐誦」(キリエ)という祈祷を唱えます。「主、憐み給え。キリスト、憐みたまえ。主、憐み給え。」と。
当初は連祷を唱えていた部分ですが、あとの時代に連祷は短くなって、キリエという形で残されました。そういえば、聖土曜日、復活前夜祭の時、連祷はそのままに全部唱えられています。

それはともかく、「求憐誦」(キリエ)とは天主の怒りを鎮めるための祈祷です。「主、憐み給え。」と。
それから、例外もありますが、殆どの場合、「栄光頌」(グロリア)を唱えます。感謝の讃美歌です。ご降誕の際(クリスマスの際)、天使たちが唱えた讃美歌です。「グロリア・イン・エクシェルシス・デオ」、「いと高き天においては、神に栄光あれ。」これはまさに賛美する祈祷です。そして「地上においては、善意の人々に平安あれ」「Et in terra pax hominibus」、これは我らの主が私たちに齎する(もたらす)宝です。平安、平和。十字架上の犠牲、我らの主、イエズス・キリストの犠牲こそが人類史上、過去・現在・将来も含めて、この上なく、天主に最高の栄光をもたらした出来事です。そして、栄光だけではなく、イエズス・キリストの犠牲のお陰で、地上における平安、平和ももたらされています。
言いかえると、ミサ聖祭の外に本物の平安、本物の平和はないということです。この意味でミサ聖祭は公けの執り行いでもあり、政治的な行為でもあるわけです。

「栄光頌」(グロリア)のあと、祭壇の右側へ移動して(祭壇に向かって考える)当日の「集祷文」を唱えます。「集祷文」において、特にどういった恩寵を受けたいか、どういった恩寵を霊魂たちに分配していきたいかを希います。

「集祷文」のあとは、「朗読」があります。基本的に、一つとなっています。例外的に、複数の朗読のミサもあります。「朗読」は一般的に「書簡」とよばれています。というのも、多くの場合、一人の使徒の書簡になっているからです。時には旧約聖書の朗読もあります。参列している信徒たちへの教えです。



「書簡」のあと、賛美する部分があります。「昇階誦」あるいは「詠誦」と「アレルヤ」と「小詩句」あるいは「続誦」などからなっています。ほとんどの場合、詩編からなっていて、それは主に感謝するためです。

そういえば、書簡の終わりに、参列者は「Deo Gratias」といい「天主に感謝」といいますが、この「天主に感謝」は「昇階誦」、「アレルヤ」と「続誦」という形で続きます。歌ミサの場合、賛歌隊が唱える讃美歌です。感謝するためです。

そのあと、司祭は祭壇の反対側へ移動します。つまり、右側から左側へ。そこで「聖福音」を朗読します。つまり、四つの福音からの一部を朗読します。言い換えると、我らの主、イエズス・キリストの人生の一つの場面です。



そのあと、「説教」があります。司祭が当日のミサの書簡と福音などを説きます。当初の時代、司教自身がやることが基本で、その時こそが、使徒に向けた、また洗礼志願者に向けての教育の場でした。

そのあと、「信経」が唱えられます。これは、この上なく、信仰的行為なのです。というのも、信経においてこそすべての真理が要約されているからです。そして、信徒たちは信教を唱えることによって、信仰の行為を果たしてから、当初の時代、求道者は教会から退場することになっていました。そして、信徒は残って、信仰的行為を果たしたおかげで、本物の生贄に臨むための準備がおわります。
これで、第一部、教育の部は終了します。

続いて、第二部に入ります。生贄の部です。
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さて、聖なる犠牲は三部からなっています。というのも、前回にも見た通り、すべての犠牲には三つの段階があるからです。第一、奉献の部です。つまり、お供えする部分。奉納する部分。奉献の部の際、司祭は予めパテナの上においてあるホスチア(パン)とカリスにある葡萄酒を天主に奉献します。目的は天主がこれらの犠牲を受け入れていただくためです。

奉献の部には奉献する祈祷がありますが、このなかで司祭は自分自身をも奉献することになります。そのなかで、「ラヴァボ(洗い)」という儀礼があります。手を洗う儀礼ですが、この儀礼は非常に古い儀礼です。このような外的な手洗いという行為によって、内面的な清めを表すのです。犠牲を捧げるために自分を清める儀式です。まとめると、犠牲の第一部は奉献の部ということになります。

奉献の部は序誦で終了します。そして、「序誦」はその名前通り、ミサ典文に先立つ祈祷です。ミサ典文、カノンは供犠・生贄の部であって、ミサ聖祭の中心部分となります。ミサ聖祭の核心部分です。この犠牲の部は「序誦」のあとから始まり、「Pater主祷文」までです。

このミサ典文、カノンの部は供犠、生贄を捧げる中心部分となります。必ず、声を出さないで無言に唱える部分です。トレント公会議の際でも再確認されたように、なぜ声を出さないで唱えるかというと、聖なる執り行い中の聖なる執り行いであるほどに恐れ多いからです。また、その部分は司祭のみ執り行える生贄なので、信徒たちは司祭ではないので、カノン典文の際、信徒たちはなにも作用することはないのです。

カノンの間、司祭以外、皆、跪いた姿勢で沈黙の内に黙想します。そして、聖なる生贄となるべく一体化することに努めます。言いかえると、十字架上の生贄に一致する努力です。そうするための一つのコツというと、本当に十字架上の下にいると想像して、聖母マリアと同じように、十字架上の御子の生贄を一致して、その苦しみを共有したと同じように、私たちも、十字架上のイエズス・キリストとの一致を行うことです。



そして、司祭は聖変化を執り行うのです。これは言いかえると、生贄を捧げる行為そのものです。まず、パンの聖変化を執り行い、そのあと、御聖体となったパンを掲げます。この持ち上げの儀礼自体は10世紀に定着しました。Berangerによる異端に抵抗すべく、御聖体におけるご現存をより善く示すために御聖体を持ち上げる慣習が出来上がりました。

それはともかく、ご現存の実現は聖変化の時の御言葉を司祭が言う瞬間です。そして、同じようにカリスの葡萄酒の聖変化を執り行い、御血となり、御血を持ち上げる形で、よりよく信徒たちが礼拝できるようにします。

~~
以上が生贄の部でした。「主祷文」までです。そして犠牲の部の最後の部は、拝領の部です。奉献して、生贄を捧げて、最後に拝領します。

拝領の部もミサ聖祭の大事な一部です。犠牲が完全するためには必要不可欠の一部です。司祭が拝領しない限り、犠牲は完成されないのです。最低でも、司祭は拝領します。このとき、信徒たちも拝領することに越したことはありません。

このように、拝領の部に入ると、司祭は「主祷文」を唱えます。そのあと、パンを裂く儀式があります。この儀式も非常に古くて、当初の数世紀の間、そのパンは発酵のパンでしたが、奉献の部の時、信徒たちが行列しながらパンをお供えして、そして司祭によって聖変化されて、そしてパンは裂かれて御聖体を配っていたのです。聖パウロの書簡において、すでにパンを裂く儀式についての記述があります。そのあとの時代になっていくと、パンを裂く儀式は大きなホスチアを裂く儀式に縮小されるようになりました。

信徒たちのためのホスチアは小さな無酵母のパンです。種無しのパンです。聖変化の時、すべてのホスチアは聖変化されます。そして、そのあと、司祭はパンを裂いて、拝領して、次に司祭は信徒の拝領のため、ご聖体を配ります。以上が、ミサ聖祭の核心の部分です。

拝領がおわった後、短い感謝の部分があります。善き天主に感謝し奉るという部分です。聖体拝領誦があります。昔は聖体拝領の間に歌われていましたが、聖体拝領が終わってから司祭が唱える祈りです。それから、聖体拝領後の祈りがあります。この祈りは、捧げられた犠牲、それから頂いた拝領が霊魂たちの間に実るように希う祈祷です。



そして、最後の福音の朗読があります。御托身の玄義を想起するための福音です。というのも、御托身とミサ聖祭は密接につながっているからです。御托身がなければ、十字架上の犠牲もあり得なかったのです。御托身があるからこそ、我らの主、イエズス・キリストは本物の犠牲者、本物の司祭、本物の天主になっているからです。

最後の福音はミサ聖祭のすべてをもう一度要約するかのような部分です。ヨハネ福音書の冒頭です。イエズス・キリストの御托身を語って、御托身があって初めてミサ聖祭は成り立つということです。

以上がミサ聖祭の構成でした。ご覧のように、ミサ聖祭の構成は非常に完全であります。
また、ミサ聖祭の構成は時代に下って、成熟して、その完成度は高くなりました。カトリック教会は子供が大人になっていくと同じように、完成していきます。聖ピオ五世によって最高の完成度に達成したと言えましょう。



ミサ聖祭の本当の意味:カトリック司祭の第一の存在理由は人間のためにあるのではないーIn persona christi

2021年03月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十七講 ミサ聖祭という聖なる犠牲



ミサ聖祭という聖なる犠牲
Gabriel Billecocq神父

我らの主は完全なる犠牲を捧げ給うたのです。前に一般的に犠牲とは何であるのか、犠牲の四つの目的は何であるのか、それから我らの主、イエズス・キリストの十字架上の犠牲はなぜ完全なのか、そしてどうやって旧約聖書の犠牲を廃止したのかを見てきました。そして、我らの主は完全なる犠牲を捧げ給うたのです。

我らの主、イエズス・キリストはこの犠牲の犠牲者であり、同時に司祭であり、同時に犠牲の対象、捧げられる天主でもあります。
我らの主、イエズス・キリストは十字架上の犠牲を時間のうえで延長することになさいました。そうするために、ミサ聖祭という秘跡を制定なさいました。この秘跡は犠牲でもあります。

そして、ミサ聖祭は十字架上の犠牲の再現です。大事なのは、十字架上の我らの主、イエズス・キリストの犠牲は唯一であって、もう一度起きるわけではありません。完全なる犠牲でしたので、もはや再び起きることはあり得なくて、唯一無二の犠牲です。前回見た通りです。我らの主、イエズス・キリストの犠牲は唯一無二です。というのも、イエズス・キリストの司祭職は永遠であり、キリストは天主であるからです。十字架上の犠牲は完全です。というのも、キリストは完全なる犠牲者であるとともに、天主によって同意されている完全なる司祭でもあるからです。

同時に、人間はどうしても天主に犠牲を捧げようとする本性があります。善き天主は人間の本性を見守っておられます。従って、天主は人間が引き続き、天主への犠牲を捧げ続けるようにお望みになりました。しかしながら、完全な犠牲を捧げられることになさいました。そうするために、我らの主、イエズス・キリストは十字架上の犠牲が世々に至るまで延長することを可能になさったのです。

つまり、そうするために、ミサ聖祭を制定なさいました。ミサ聖祭はまさに十字架上の犠牲の再現です。ミサ聖祭は十字架上の聖なる犠牲の延長です。我らの主がご自分の犠牲を世々に至るまで延長されたのも、人々が十字架上の犠牲を引き続き天主に捧げられるためです。つまり、十字架上の犠牲と同じ効果の犠牲になるためです。ミサ聖祭を捧げることは、イエズス・キリストの犠牲の再現なので、天主のお気に召された犠牲であり、天主の怒りを鎮められる犠牲ともなります。



そうするために、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさいました。つまり、ミサ聖祭は単なる食事ではありません。単なる記念ではありません。単なる集会ではありません。ミサ聖祭は根本的に十字架上の犠牲の再現です。それは非常に大事なことです。ミサ聖祭は犠牲である本質を否定したら、秘跡を否定することになり、犠牲を中心にする宗教の本質を否定することになります。ですから、注意しましょう。

言いかえると、より神学的な定義でいうと、ミサ聖祭は我らの主、イエズス・キリストの十字架上での流血を伴わない犠牲の再現です。言いかえると、ミサ聖祭は十字架上の犠牲を再現します。あるいは現代において十字架上の犠牲を改めて実現する犠牲です。ただ、流血を伴わないということで、神秘的な形で再現されます。あるいは秘跡という形で再現されるともいわれます。なぜでしょうか?

十字架上の犠牲の再度の実現は目に見える印を通じて行われているからです。ミサ聖祭の目に見える印とは祭壇上のパンと葡萄酒の聖変化ですが、今、目に見えない現実、十字架上の犠牲を祭壇上に再現するための秘跡です。

要するに、一度だけ、十字架上で行われた犠牲の執り行い方こそ違いますが、捧げられる犠牲は同じであるということです。
ミサ聖祭は十字架上の犠牲そのものです。ミサ聖祭という聖なる犠牲において、十字架上の犠牲のすべての要素と効果を持っています。全くの一致です。ミサ聖祭という聖なる犠牲は十字架上の聖なる犠牲と同じ現実です。

さて、犠牲になるための要件を思い出しましょう。奉献、破壊、拝領という三つの要件があります。十字架上の犠牲の際、我らの主がご自分を捧げるというのが奉献です。そして、犠牲者の破壊は我らの主が死に給(たも)うたときです。受難の間、我らの主の御体から流れる御血こそが御死を一番あらわしています。死は身体と霊魂の離別を意味しますので、それを一番あらわしているのは身体と血が別々になるという血が流されることでしょう。

このように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさいましたが、犠牲であるミサ聖祭において、十字架上の犠牲のすべての要素が含まれています。ただし、ミサ聖祭の場合、我らの主、イエズス・キリストはご自身を捧げ給うのですが、パンと葡萄酒の外観の下に捧げ給うことになさいました。玄義はそこにあります。まさに真の玄義です。

従って、ミサ聖祭の際、天主の怒りを鎮めるために、犠牲者を生贄にして司祭によって捧げ、そして拝領します。
犠牲者はあります。十字架上の犠牲者は本来の個別の御体をもったイエズス・キリストです。それは目に見える形で捧げられました。祭壇において、イエズス・キリストは現存しておられます。しかしながら、パンと葡萄酒という形色の下に、本質的な形で現存しておられるということです。これこそがミサ聖祭の玄義であって、そこにおいてこそ、犠牲は秘跡となります。

以前に見たように、ミサ聖祭という秘跡は目に見える、物質的なパンと葡萄酒という外観の下に、我らの主、イエズス・キリストの目に見えないご現存を実現する秘跡です。これは以前に見た定義ですね。そこにこそ、秘蹟と犠牲はつながっています。パンを指すために、ホスチアといわれることもありますが、ホスチアの意味は「犠牲者・生贄」という意味です。



要するに、ミサ聖祭の際、我らの主、イエズス・キリストは祭壇の上にご現存しておられます。身体を持った形でおられるのではなくて、パンと葡萄酒の外観の下で本質的な形でおられるということです。しかしながら、パンと葡萄酒の外観に過ぎなくて、ご聖体になった途端、我らの主、イエズス・キリストご自分自身となり、現存しておられます。現に、実際に、祭壇におられます。これは大事なことです。現実であって、実際に、十字架上の犠牲は今まさに目の前に再現されて改めて実現されているということです。

要するに、ミサ聖祭においては、十字架上の犠牲とのミサ聖祭の犠牲は同じ犠牲者です。同じく現におられる犠牲者です。十字架上なら、身体を以て。ミサ聖祭なら、本質をもって。

それから、生贄として犠牲を捧げて、犠牲者を破壊するということでもあります。十字架上の犠牲だというとわかりやすいですね。ご受難という非常な苦しみの結果、流血が伴い、そして生贄の破壊は十字架上の死で果たされました。言いかえると、ご霊魂と御体は離別した時、犠牲者の破壊は果たされます。

ミサ聖祭においても生贄の破壊は行われます。しかしながら、身体を以てではなく、パンと葡萄酒の外観の下にご現存しておられると同じように、秘蹟的な形でこの破壊は行われています。どういうことでしょうか?

十字架上と違って、祭壇上の破壊は流血を伴わないで苦しみを伴わないのです。要するに、ミサ聖祭の際、十字架上のように我らの主、イエズス・キリストは苦しまれていません。しかしながら、ミサ聖祭の際、御体と御血は離れる時があって、これは秘跡的な破壊となります。ですから、ミサ聖祭において、聖変化は二つあります。第一、パンを御体へ。そして葡萄酒を御血へ。この二重の聖変化は御血と御体の離別という現実を示し、十字架上の生贄の破壊を示しています。これは秘跡的な生贄の破壊を意味します。

ですから、この二重の聖変化は非常に重要です。この二重の聖変化がない限り、犠牲として成り立ちません。生贄にして犠牲を捧げるためには、生贄を破壊するという前提があるので、御血と御体の離別があってはじめて犠牲として成り立ちます。パンと葡萄酒は別々にあるという意味はそこにあります。犠牲だからです。犠牲者の破壊を示すのです。そこは秘跡になります。つまり、身に見える形で(パンと葡萄酒の別々の聖変化)十字架上の御死という現実を題壇上の再現という目に見えない実際にある現実を示します。



というのも、聖変化のあと、我らの主、イエズス・キリストはパンと葡萄酒の外観の下で双方に実際に現にご現存しておられますので、十字架上の犠牲は本当の意味で再現されます。もちろんこれは理性を越える玄義ですが、非常に重要な玄義です。そこにおいてこそ、ミサ聖祭の意義があります。

十字架上の犠牲とミサ聖祭の犠牲は全く同じです。形だけは違います。前者は流血を伴うが、後者は流血を伴わない。前者は実現された犠牲であり、後者は再現される犠牲です(十字架上の犠牲は唯一なので)。前者は目に見える形であり、後者で身に見えない形です。前者は身体を以て現実にあって、後者は秘跡を以て現実にあります。ということです。

ミサ聖祭は玄義中の玄義です。祭壇の上に、我らの主、イエズス・キリストはご自分をご自分自身によって捧げ給い続けることになさっています。
以上はミサ聖祭の中心である聖変化、犠牲を実現する中心部分でした。生贄の破壊を再現する部分です。

そして、犠牲が成り立つためには、「捧げる」ことが必要なので、司祭が執り行うことが要件ですね。十字架上の犠牲の際、司祭は我らの主、イエズス・キリストご自身です。永遠なる真の司祭なるイエズス・キリスト。

祭壇上の犠牲の際、イエズス・キリストは代理人をお選びになって、ご自分の持っておられる全権を代理人に託すことになさいました。
ですから、聖変化の時、司祭は「In persona christi」として犠牲を捧げると言われています。つまり、キリストご自身にして犠牲を捧げるという意味です。つまり、聖変化の時、司祭は自分の人格を完全に失うかのように、我らの主、イエズス・キリストは司祭を完全に任じる形で、イエズス・キリストが捧げ給うように司祭に任じられたことになります。言いかえると、聖変化の時、イエズス・キリストは司祭の代わりに、司祭の体を借りて、犠牲を捧げ給うことになります。



これこそ、司祭の立派なところです。つまり、イエズス・キリストの全くの道具となります。自分の名においては何もせず、イエズス・キリストを捧げ給うのです。また、あと後述しますが、犠牲の執り行いと司祭職とは密接につながっています。ミサ聖祭の時の司祭は「Alter christus」で代わりのキリストとなっています。

そして、最後に、十字架上の犠牲が捧げられた第一の目的は天主の御怒りを鎮めるためです。で、そのおかげで、全人類のために効果を表しました。同じように、ミサ聖祭は天主の御怒りを鎮めて、参列して拝領している人々へその効果をもたらします。

十字架上の犠牲の際、我らの主、イエズス・キリストは無限の功徳を得られて、全人類の救霊を得られる無限の功徳を得しめ給いました。我らのために。祭壇上の犠牲の際、十字架上で得られた功徳は霊魂たちに分配されています。ですから、実際に救霊を得るためには、ミサ聖祭の犠牲と一致する必要があります。言いかえると、十字架上の犠牲と一致する必要があります。そうすることによって、十字架上に得られた救霊のための功徳の効果を頂けます。

以上,ミサ聖祭の犠牲を紹介しました。繰り返しますが、十字架上の犠牲は苦しみと身体を以て、流血の結果に、死に給うことをもって遂げられた犠牲となります。ミサ聖祭の犠牲は二つの聖変化によってとげられる犠牲の再現です。で、十字架上の犠牲の時、我らの主、イエズス・キリストによって得られた功徳をミサ聖祭の犠牲はこれらの功徳を分配し、割り当てます。そして、これらの功徳は余るほどあふれているので、ミサ聖祭の犠牲の効果は無限で限りないということになります。



また、今度ご紹介しますが、新しいミサと司祭職については、もう、お気づきだと思います。新しいミサにおいて、何もかも非神聖化されたし、犠牲のすべての要素は見えないようにされていて取り消されています。奉献、生贄の破壊、天主の怒りを鎮めることなどなど。

悲しいことに、新しいミサを行ったせいで、天主の怒りを招いた司祭はどれほどいるでしょう。間違いなく、神聖中の神聖なる営みを非神聖化することは大きな責任を伴います。つまり、ミサを人間レベルに引き落として、十字架上の犠牲との一致、一体化のすべてを取り消し、どれほど信徒の霊魂への弊害があるかは見えてきたと思います。我らの主、イエズス・キリストを侮辱するようなことです。玄義中の玄義はむやみに変更して操る事柄ではないわけです。

以上は、ミサ聖祭という聖なる犠牲をご紹介しました。
そして、前の講座も含めて、犠牲の定義、それから十字架上の犠牲の完全性を理解することによって、ミサ聖祭の犠牲が何であるかをより理解していただければ何より幸いです。また、どれほど大事な秘跡であって、どれほど、我々がミサ聖祭を中心にすべきか、または司祭の存在理由はひとえにミサ聖祭にあるのかが見えてきたでしょうか?
司祭の第一の存在理由は人間のためにあるのではなく、天主に犠牲を捧げるためにあって、天主の御怒りを鎮めるためにあります。司祭は「In persona christi」として犠牲を執り行います。そして、それを実施してはじめて、司祭は天主のお恵みを多くの霊魂に分配して及ぼすことができます。



では、現代では一体なぜ天主はまだ具体的に手を出さないで、罰を受けるべき多くの人々に天罰をまだ下っていないでしょうか?聖伝のミサ聖祭が引き続き挙行されているからこそ、天主の御怒りを鎮める効果はいまだに続いているからでしょう。
ある意味で、現代の堕落をみて、現代の醜い罪を見て、これでも天主の御手を止められるミサ聖祭の効果がどれほどあるかが評価できると思います。

最後に自覚しましょう。ミサ聖祭こそが我々の人生の中心になるべきです。なぜでしょうか?ミサ聖祭の時、拝領すると、我らの主、イエズス・キリストの犠牲に一体化、一致させられるからです。その結果、犠牲に伴う恩恵は我らの霊魂に流れ込むことになります。

旧約の犠牲は廃止された。イエズス・キリストの十字架上の犠牲によって。

2021年03月04日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十六講 旧約聖書の犠牲と我らの主、イエズス・キリストの犠牲



旧約聖書の犠牲と我らの主、イエズス・キリストの犠牲
Gabriel Billecocq神父

以前、一般的にいう犠牲とは、何であるのかを見てみました。「奉納品の破壊を伴う外的な奉献であり、これは内面的な奉献を示す祭礼」のことです。
次に、犠牲をよりよく理解するために、犠牲の四つの目的を紹介しました。第一に、礼拝そして感謝。第二、償いあるいは贖罪。第三、恩恵の希求。第四、神との一体化 あるいは一致(拝領)。

要するに、犠牲を執り行うことによって、人間が神に物質的な貴重品を捧げて、そうすることによって、その所有権を捨てて、神に属させるということで、犠牲にされる奉納品は「聖化」される(これは西洋語において犠牲の語源の意味になっている)ということです。そして、このような犠牲を捧げることによって、人間は神への依存、それから犠牲にされる犠牲者との絆を示しています。犠牲者との絆は、犠牲を捧げる人々が内面的に神に自分を奉献することを表すためです。同時に、破壊される奉納品、犠牲者を通じて、神との一体化を図る祭礼となります。

殆どの場合、どこでもいつでも犠牲において捧げられる奉納品は形を問わず破壊されています。なぜでしょうか?それは、人間は神のために、より完全な「奉納」をするためです。奉納品を破壊すると、人間は取り消すことなく、本当に、その奉納品を神に完全に譲ったよということを表すからです。

もちろん、犠牲という祭礼は主に外的な儀式となっています。奉納品を奉献するのも、奉納品の破壊も、その拝領も、身体を動かす祭礼であり、物質的な要素が多いです。しかしながら、同時に、このような外的な祭礼は内面的な犠牲を示すことでもあって、またそのように示すべきです。

天主は霊的な存在なので、霊的な犠牲を捧げる必要もあるということです。我らの主はこう仰せになりました。「天主は霊であるから、礼拝者も霊と真理をもって礼拝せねばならぬ」(ヨハネ、4、24)と。つまり、物質的な現実を通じて、霊的な現実、それから内面的な現実を表すということです。

以上、簡単に以前に見たことを要約してみました。少しだけ、犠牲の歴史を見てみましょう。この講座の目的は歴史ではないので、手短にしますが、我らの主、イエズス・キリストの犠牲をより良く理解するために、ある程度、犠牲の歴史を見ておきましょう。

まず、犠牲という現象は「自然次元」に属します(つまり、人間の本性に織り込まれている事柄で、人間にとって必須の営みです)。もちろん、カトリックにおける犠牲は超自然次元の営みでもあり、天主は超自然のレベルまで犠牲を引き上げたということですが、そうすることによって、その自然のレベルを破壊したことはなく、むしろ、その自然レベルを全くそのままに保ちながら、これを昇華するのです。言いかえると、天主の生命の働きによって、本来ならば人間の本性を越える実が結ばれることを可能にするのが天主の聖寵ということになります。

ですから、旧約聖書の時代、天主は既にヘブライ人に犠牲を要求しました。しかしながら、犠牲という祭礼はどこでもいつでもすべての宗教において存在する祭礼です。どこでもいつでも宗教というものは、お供え、犠牲、生贄などがあります。以前に定義した犠牲が必ずあります。



例えば、古代エジプト、古代メソポタミア、古代ギリシャと古代ローマなどの犠牲の歴史は資料が多く残ってよく知られています。また、アステカをはじめ、中南米の犠牲などもよく知られています。アフリカの多くの文明においても犠牲があります。アジアも一緒です。どこでもいつでも祭礼があります。というのも、祭礼を営むのは人間の本性の一部であって、人間は社会において必ず祭礼を捧げます。

というのも、創造主が存在するということは現実なので、その自覚度あるいは認識度がばらばらであるとしても、どこでもいつでも少なくとも人間を超える存在を崇拝して、礼拝を捧げる営みが存在します。人間の本性に刻まれる事柄です。どうしても創造主たる存在へ礼拝を捧げようとします。つまり、自分を創造したとされる存在へ、犠牲を通じて祭礼を捧げるのはどこでもいつでもある現象です(先祖へであろうとも、仏へであろうとも、神々へであろうとも)。

そもそも、創造主を想定して捧げられた犠牲でしたが、もちろん、歴史上に、多くの誤謬と邪道が生じて、多くの過酷なこともありましたし、間違った対象に犠牲を捧げることもありましたが、それは別の問題です。つまり、面白いことに、どれほど邪道になっても、間違っても、過酷になっても、とりあえず、人間の社会なら、どこでもいつでも、祭礼があって、犠牲という祭礼が存在するということです。人間の本性に属する要素なので、普遍的な現象になるからです。

では、なぜ悲惨な犠牲などが生じたでしょうか?それは人間が罪人であって、原罪を負っているから、どうしても人間が営む事柄において、その罪も染まってきて、本来の筋から脱線したり邪道になったりすることは多くて当然のことです。それでも、形を問わず、人間の本性に従って、人間は必ず、犠牲を捧げようとします。

いわゆる、歴史上に生じた人間の生贄、あるいは子供や赤ちゃんの生贄があったのですが、一番覚えてほしいのは、形をさておいても、以前、定義した「犠牲」、つまり「上の存在への供え物、奉納、奉献」という祭礼はいつでもどこでもあるということです。

いや、逆にいうと、現代でも新興宗教や多くのセクト、たとえば、フリーメーソンの幾つかのロッジにおいて、人間の生贄、あるいは悪魔のミサが確認されていますが、それでも犠牲なのです。ただ、「悪魔へ捧げた犠牲」になりますが、しかしながら、間違った対象になったとしても、人間は必ず犠牲を捧げる本性を持っています。それだけは変わりません。

このような悪魔のミサや人間の生贄などは、凄まじく醜く人間の本性に背く生贄になりますが、それでも逆説的に、「悪魔に感謝を捧げる」というようなことになっても、彼らが間違った対象に犠牲を捧げても、彼らは絶対視される何かへ「自分を奉献する」、あるいはその絶対化されたその存在への依存を示そうとして、犠牲の祭礼があります。

何のためにささげられるのでしょうか?残念ながら、現世利益を求めて、権力と金などを得るための犠牲になりますが、それでも犠牲であるということに関しては、人間の本性を表します。以上の悪魔へのミサは一番堕落した形の犠牲になるかと思いますが、それを語る資料などをみたら、現にひどいものですが、より広く知られているところでいうと、いくつかの「ロックバンド」は文字通りに「悪魔に自分を奉献する」祭礼を展開している現実があります。彼らは現世利益を得るために、悪魔へ犠牲を捧げ、また悪魔と一体化して、拝領しますが、悲劇的な結果となります。

しかしながら、面白いことに、どれほど間違った方向にいっても、人間の本性はかわらないのです。つまり、面白いことに、どれほどの誤謬になったとしても、誤謬自体は本質的な事柄として存在しないので、すべての誤謬は一部の真理をもっていて一部の真理を表します。たとえば、このような悪魔への犠牲の場合、「犠牲を捧げるのは人間の本性の一部である」ということを証明します。どうしても、人間が犠牲を捧げます。
問題は、善く捧げるべきだということです。
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そうするために、旧約聖書において、天主ご自身はどうやって犠牲を捧げるべきかについて細かく規定なさいました。天主は創造主であって、また犠牲が捧げられている時、天主への犠牲なので、天主ご自身が旧約聖書において犠牲を規定することになさいました。これらの規程はモーゼ法に記されています。

モーゼ法以前にももちろん犠牲はありました。例えば、カインとアベルの二つの犠牲がありますね。カインが捧げた犠牲を天主は受け入れませんでした。一方、アベルの犠牲を天主は受け入れました。言いかえると、前者の犠牲を捧げても天主の好意を得られない一方、後者の犠牲を捧げられたら天主の好意を得られるということでした。

なぜでしょうか?新約聖書は、なぜ後者は有効になっていた一方で、前者は無効だったかを説明します。それは、アベルが犠牲を捧げた時、自分の霊魂をも奉献したおかげで、外的の犠牲と内面的な犠牲は一致していたので、天主のお気に召されました。一方、カインの犠牲は外的な犠牲、形式的な犠牲のみを捧げており、自分を奉献しなかったので、天主はカインの犠牲を拒まれました。否定しました。

ただ、カインとアベルの時代には、すでに犠牲が捧げられていたということです。ノア、アブラハムなども犠牲を捧げたことが記されています。例えば、ノアの大洪水のあと、ノアは犠牲を捧げた記述もあるし、アブラハム、イサクなども一緒です。歴史と人類学の成果を見ても、どこいつも犠牲があることは確認されていますが、ヘブライ民と旧約聖書においてももちろん犠牲がありました。



そして、時代が下って、天主はモーゼに律法を与えられたとき、犠牲を細かく規定なさいました。これはいわゆる「旧法」と呼ばれる律法であり、後述しますが、イエズス・キリストによって旧法は廃止されて、もはや有効でなくなりましたが、あとでなぜどうやって廃止したかということを紹介します。

要するに、旧約聖書において天主は犠牲を規定なさいました。犠牲において、流血を伴う犠牲もあれば、流血を伴わない犠牲もありました。流血を伴わない犠牲でいうと、例えば果物の供え物とか、お香、油などを奉献する奉納でした。それで、殆どの場合、お香を焼いて、油を火になげたりしていたので、ある意味で、流血を伴わないお供え物においても、奉納品の破壊が存在しました。

それから、流血を伴う犠牲には種類が三つありました。 
第一、ホロコースト(いけにえ)がありました。
第二、罪のためのホスチア(いけにえ)がありました。
第三、平和的な犠牲がありました。

さて、それぞれを見ていきましょう。
第一、ホロコースト(いけにえ)という犠牲は奉献される奉納品の完全な破壊を意味していました。つまり、犠牲者は完全に焼かれた犠牲でした。神殿において、その犠牲のための場所があって、司祭たちはそこでホロコーストを捧げていました。つまり、犠牲者を全く残さない犠牲。

第二、罪のためのホスチアと呼ばれる犠牲は、罪を償うためにありましたが、捧げられた犠牲者の一部を残して、司祭たちはそれを食べていました。つまり、この犠牲の中心の目的は贖罪です。ホロコーストの場合、礼拝が中心の目的になる一方、罪のためのホスチアの場合、贖罪が中心の目的となります。ですから、司祭は犠牲者の一部を拝領して、つまり一部を食べました。

第三の平和的な犠牲は主に、「感謝する」ということを目的にしています。面白いことに、モーゼ法の犠牲において、犠牲の種類ごとに殆ど犠牲の目的別で分けられていますね。もちろん、すべての目的はすべての犠牲においてにありますが。
そして、平和的な犠牲において、犠牲者の一部は司祭と犠牲を捧げていた一般人によって食べられたのです。

要約すると、第一の犠牲、ホロコーストの場合、犠牲者の全部が破壊されます。
第二の犠牲、贖罪のための犠牲の場合、司祭が犠牲者の一部を食べます。
第三の犠牲、感謝を中心にする犠牲の場合、司祭と犠牲を捧げることを頼んでいた「奉納者」は犠牲者の一部を食べました。

以上が、旧約聖書における犠牲の幾つかの種類です。ここで一つ指摘しておきましょう。旧約聖書の犠牲には犠牲として効果がありませんでした。つまり、不完全な犠牲でした。

なぜでしょうか?これらの犠牲を捧げていた人が罪人だったからです。で、罪人なる人、罪人として犠牲を捧げる人は天主の好意を得ることはできません。というのも、これは矛盾そのものだからです。「罪人」であるというのは、天主の好意を得ていない、自力で好意を得られないという意味ですから、天主の好意を得ていない人が天主の好意を得ようとしても無理があります。

罪人は天主と間に、絶交の状態にある人なので、このような人が他人のためにも自分のためにも仲直りを得ようとしても一体どうやって得られるでしょうか?自分の力だけでは無理があります。つまり、言いかえると、罪人が捧げる犠牲の価値は一体どうやってあり得るでしょうか?というのも、罪人は天主の味方ではない、天主の好意を得ていない人なので、天主から見て彼が犠牲を捧げても何の価値がないのは当然でしょう。(想像してください。あなたを徹底的に侮辱した人が何の仲介者なし、償いなし、自分のため、あるいは他人のため、あなたに恵みを乞いに来てもその申請を受け入れることはあり得ないようなことと似ています)。



言いかえると、司祭が天主によってお気に召されて初めて、その司祭が捧げる犠牲に効果があります。その逆ではないのです。天主のお気に召されていない人が犠牲を捧げても効果はありません。そして、罪人という定義は天主のお気に召されていないという意味です。

このように、罪人によって捧げられた犠牲は不完全でした。しかしながら、現実として、旧約聖書においての犠牲は天主のお気に召されていたのではないかと思う方もいるでしょう。確かにそうなのです。旧約聖書においての犠牲は天主のお気に召されていましたが、なぜでしょうか?旧約聖書においての犠牲は別の特別な犠牲を示し、予兆していたとしてのみ、天主のお気に召されていたということです。つまり、別の完全な犠牲の象徴、予兆であったこととしてのみ、天主が旧約聖書においての犠牲を肯定していたということです。

ですから、旧約聖書においての犠牲の価値は結局、我らの主、イエズス・キリストの犠牲を目的にしていたということです。要約すると、旧約聖書における諸々の犠牲は、我らの主、イエズス・キリストの完全なる犠牲、正しい犠牲、唯一の有効な犠牲を予兆して、象徴していたのです。

我らの主、イエズス・キリストの犠牲は、旧約聖書の犠牲にはなかった完全性を持っています。だからこそ、十字架上の我らの主、イエズス・キリストの犠牲は旧約聖書のすべての犠牲を廃止しました。というのも、旧約の犠牲は、イエズス・キリストの犠牲を予兆させるためにのみ、存在した犠牲だったから、実際に、イエズス・キリストの犠牲が実現されたら、もはや旧約聖書の犠牲の存在理由は消えたからです。

また、旧約聖書の約束もイエズス・キリストの犠牲によって果たされたので、その旧法も果たされて、亡くなって、その代わりにイエズス・キリストの犠牲が新法をもたらしました。旧法を完成した新法、旧法よりも清く正しく現実的である新法をもたらしたのはイエズス・キリストの御血です。旧法では、羊やヤギなどの血は何の価値もありませんでした。イエズス・キリストはそれについて仰せにもなっています。


このように、イエズス・キリストの十字架上の犠牲をもって、唯一、完全なる犠牲を果たしたことによって、旧法の約束を果たして、その意味で旧法は廃止されました。また、ですから、我らの主、イエズス・キリストの犠牲をもって、旧約聖書は終わります。つまり、旧約聖書における天主の御約束を成就したイエズス・キリストの犠牲、イエズス・キリストの御血なので、もはやその約束のためにあった旧法、立法などの存在理由がなくなり、廃止されます。

そういえば、現代のユダヤ教を見ても以上のことは確認できます。面白いことに、今でも旧約聖書は終わっていないと思い込んでいるユダヤ人たちは現実問題として旧約聖書の律法を続けることができません。というのも、神殿が破壊された時以来、モーゼ法に従って犠牲を捧げることが不可能になっている状態にあります。これはイエズス・キリストの犠牲以降、ずっと続いています。事実上、旧約聖書の犠牲も廃止されています。

ユダヤ教においては、現在、犠牲はもはや存在しません。悲しいかもしれませんが、天主は旧約聖書を廃止したから、ユダヤ教徒たちがどれほど踏ん張っても無駄です。現実を見ると、明白なのに。つまり、ユダヤ教において神殿が破壊されて、また犠牲もなくなったのです。



で、犠牲がなくなると、宗教はもはやなくなったということになります。ですから、犠牲のない現代のユダヤ教は宗教ではありませんし、宗教になろうとおもってももはやなれません。というのも、旧約聖書の諸々の犠牲の不完全性に代わって、我らの主、イエズス・キリストの完全なる犠牲が実現されつづけているからです。

さて、では、なぜ、我らの主、イエズス・キリストの犠牲は完全であるのでしょうか?以前に見た通り、イエズス・キリストは真の天主であると同時に、真の人でもあります。両方です。イエズス・キリストの人間性はイエズス・キリストの天主性によって聖化されています。これは御托身の玄義です。位格の結合の玄義です。要するに、イエズス・キリストは真の天主であるおかげで、いつまでも人間ならだれも持てない完全性をイエズス・キリストが人として持っています。

具体的にいうと、我らの主、イエズス・キリストには原罪がありません。天主であるから、原罪を負えません。具体的には、奇跡を通じて、聖霊の御宿りによってお生まれになったことは、その無原罪を示します。我らの主、イエズス・キリストは真の人であると同時に、真の天主であるということです。完全に人であると同時に、完全に天主であるイエズス・キリストなのです。

では、イエズス・キリストは何をなさいましたか?唯一、本物の犠牲を捧げ給ったのです。ご自分自身を犠牲者として捧げ給ったのです。すでに教義の部に紹介しましたが、聖なる犠牲、本物の犠牲が実現されたのは十字架上の時です。

第一、天主へ捧げられた犠牲です。また我らの主、イエズス・キリストは天主ご自身です。第二、我らの主、イエズス・キリスト、完全である司祭、至上に浄い司祭によって捧げられた犠牲です。第三、捧げられた生贄はイエズス・キリストご自身です。イエズス・キリストはご自分自身を犠牲者として捧げ給ったのです。「その命は私から奪い取り物ではなく、私がそれを与える」(ヨハネ、10、18)と仰せになりました。要するに、我らの主、イエズス・キリストは司祭としてまた犠牲者なるご自分自身を捧げ給うたのです。

要約すると、我らの主、イエズス・キリストは天主なるご自分自身に犠牲を捧げ給うたのです。また、犠牲を捧げ給った司祭でもあります。また捧げられた犠牲者でもあります。そして、その上、真の人なるイエズス・キリストなので、人として捧げ給い、十字架上の犠牲の効果を全人類まで及ぼしました。

以上に見るように、十字架上に実現された生贄はこの上なく完全なる聖なる犠牲なのです。

また、現に、唯一の本物の犠牲は我らの主、イエズス・キリストの犠牲のみです。他のすべての犠牲は最高でも似非(えせ)犠牲にすぎません。旧約聖書なら、我らの主、イエズス・キリストの犠牲を予兆し、象徴として特別な位置づけがありましたが、十字架上の犠牲が実現された時点で、旧約聖書の犠牲は廃止されました。無用となったからです。天主の御約束が果たされたからです。また、イエズス・キリストの犠牲はいとも完全なる聖なる犠牲になられたので、他にはこのような完璧な犠牲は存在し得ません。

つまり、我らの主、イエズス・キリストの犠牲はこの上なく犠牲中の犠牲を捧げ給うたのです。イエズス・キリストの犠牲に適える犠牲は存在しません。そしていつまでも存在しません。

繰り返しますが、我らの主、イエズス・キリストのみ、本物の、唯一の聖なる犠牲を捧げ給うたのです。十字架の犠牲です。また、この犠牲は永遠です。というのも、我らの主、イエズス・キリストの司祭職は永遠だからです。真の天主であるからです。我らの主、イエズス・キリストの司祭職は永遠だからです。従って、我らの主、イエズス・キリストの司祭職は唯一で、無比です。ですから、その犠牲も唯一で、無比です。そのため、唯一なる永遠なる犠牲と司祭職なので、我らの主、イエズス・キリストには継承者がありません。司祭なる我らの主、イエズス・キリストには継承者がありません。



旧約聖書においては違いました。司祭には継承者があって、定期的に司祭職を継承していました。が、新約聖書では、司祭たちは司祭職を継承していません。天主によって、我らの主、イエズス・キリストの司祭職とその司祭権に任じられているだけです。

また後述しますが、新約聖書の司祭たち(司祭と司教)は「Alter Christus」であって、代わりのイエズス・キリストであって、キリストの継承者ではありません。あえて言えば、イメージですが、司祭になった時点で、もう一度、我らの主、イエズス・キリストの司祭職が具現化したかのように、完全にその司祭職が司祭に与えられているということです。

言いかえると、司祭は我らの主、イエズス・キリストの司祭職をそのままに延長しています。また、司祭はイエズス・キリストの権限と権威に与っていますが、司祭個人としては何の力もありません。あくまでもイエズス・キリストに任じられたとして、イエズス・キリストを代理して、その権限と権威を持っています。

王権上の勅使に似ています。あるいは政治上の大使に似ています。つまり、天皇が任命して、天皇がいないとして、天皇の権限と権威を持った大使あるいは勅使。そして、大御心を仰ぎ、大使あるいは勅使が天皇のご意向通りに行動するにすぎません。

また今度、見ておきますが、司祭が捧げる犠牲であるミサ聖祭は十字架上の聖なる犠牲、唯一の犠牲そのものであって、その再現です。神父は十字架の聖性により、新しい犠牲、あるいは違う犠牲を捧げないということです。神父は全く同じ犠牲を捧げるのです。

以上のように我らの主、イエズス・キリストの完全なる性格を見ました。永遠に確立された聖なる十字架の犠牲は、古い犠牲を果たしてそれを実現させることにより、古い犠牲を廃止したのです。