ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

怪物の印(しるし)

2021年12月27日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(G. Billecocq)神父様によるお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



ビルコック(G. Billecocq)神父様のお説教  
怪物の印(しるし)
2021年11月21日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
愛する兄弟の皆様、本日の福音において、文字通りに世界終末の光景が提示されています。我らの主は、世の終わりに関して預言しておられます。かなりつらく大変な時代として描かれています。イエズス・キリストご自身は仰せになります。「だがその日は選ばれた人々のおかげで短くされる。」(マテオ、24,22)

皆様はご存知であるように、なぜか、皆、世の終わりはどのように具体的に起こるかについて知りたくなりますね。いつどこでどうなるか、変な好奇心が湧く傾向があります。そして、世の終わりについて知りたくて、知りたくて、皆様の内には何人か黙示録を読んでみて具体的にいつどこでどうについて見抜こうとされた方もいらっしゃるかもしれません。
そして、黙示録において相次いで出てくる有名なる怪物などについて気になったかもしれません。また、いわゆる怪物の印のことについてもですね。

愛する兄弟の皆様、以上のようなことについての好奇心には不健全なところがあります。残念ながら毎日のようにだれでも経験して確認できるように、我々はなぜか「罪」「悪」への不健全な好奇心を持つ傾向があって、美・善よりもこのような醜い事柄に引っ張られることが多いでしょう。これは悲しいことですが、毎日のように経験しています。福音あるいはイエズス様の御人生を見ようとすることよりも、悪い動画、絵画などへ引っ張られている若者がどれほどいるかをみるのは哀しいことです。

我々の究極的な目的地についても、つまり天国・地獄、最後の裁判、世の終わりについても、アンチ・キリストはどういった人物になるのか、どこいつ誕生するか、誰になるのか、どうやって彼を認定できるか、アンチ・キリストの印は何なのかなどについて、どうしても不健全な好奇心を持つことは少なくありません。

ご存知のように、怪物の印について、とかくも多くの意見などがありますね。
以上の状態ですが、同じ福音において、選ばれた人々は皆、天主の印に刻まれるという記載もあるにもかかわらず、皆、怪物の印についてだけ興味をもつのは残念です。

面白いことに、私のところに来て、「天主の印って何?」と聞いた信徒は一人もいませんよ。怪物の印についてなら、無数ほどにいて、皆、怪物の印は何であるかを聞きに来ますが、天主の印については何も聞かれていません。
愛する兄弟の皆様、このようなありさまはどれほど私たちの好奇心は不健全な方に行く傾向があることを語ってくれます。つまり、多くの場合、善・美よりも、悪・醜へ傾く傾向があります。

さて、以上のような不健全な好奇心を祓うために「怪物の印」についてお話したいと思いますが、黙示録に記されている通りに、また教父たちが解釈した通りにご紹介したいと思います。というのも、現代ではいろいろあるせいで、終末論などは多々あって変なことも多いからです。



さて、黙示録に記されている非常に有名なる怪物の印がありますね。いわゆる、怪物に従う人々は額と腕に印が刻まれて、その印がなければ何も売ることも買うこともできないということは記されていますね。

これを受けて、ワクチン接種とかは「怪物の印」ではないかと主張する人々がいます。かつて、同じ人々はクレジットカードあるいはバーコードは怪物の印なのではないかと警戒していました。

そして、怪物の印について、「人間の数字」だと記されて、「666」という文字によって表されます。この666と黙示録の記述についても切りのない推測や説がありますね。

さて、怪物の印はまず、額と腕に刻まれる印だと黙示録に書いてあります。
聖アウグスティヌスはその意味を説明してくれます。聖アウグスティヌスは目に見える印について述べないのです。つまり、墨入れあるいは皮下チップのようなものにならないということです。聖アウグスティヌスによると、額と腕での刻印は悪魔への隷属を象徴するということです。

悪魔への隷属は最初に額への刻印によって表されます。つまり「告白」「宣言」によって現れます。言いかえると、怪物への隷属の最初の側面は怪物の覇権を宣言して、別の教父が指摘するように、天主の全能を否定することにあります。要するに、怪物の一つの印は否定です。天主への否定、天主の全能への否定、天主によって創られた被創造世界への否定、御托身への否定、ご贖罪への否定などです。

要するに、一言でいうと、額での刻印は「棄教」に他なりません。意志的に心を込めての棄教を言うのです。なぜなら「額」とは心にある思いなどを外に現すということを象徴します。なぜなら、額は誰にも見えていることから、聖アウグスティヌスが説明するように、額にある印ははっきりと声高く内面的に思っていることを宣言する事柄を象徴するというのです。

キリスト教の印は十字架ですね。十字架を切る時も、額からとなります。そして、十字架の印を切ることによって、キリスト教徒は外面的に信仰を表すのです。キリストへの従順を表すのです。つまり「私は主に従って、キリストに倣って十字架を負おうとしているよ」と宣言する印です。
同じように怪物の印の最初の側面は額の刻印となりますが、つまり、悪魔への隷属と天主への否定を宣言するということです。

二つ目の怪物の印は手への刻印です。聖アウグスティヌスは同じように説明します。これは墨入れでもチップスでも物質的な印ではないとことになります。聖アウグスティヌスは聖書において「手・腕」とは「働き」「行為」を象徴するということを思い起こさせます。このように、怪物への隷属を示すのは、悪行であり、悪い働きと行為であると聖アウグスティヌスは説明します。罪を犯す行為、罪のための働きという行為などです。怪物に隷属している人は悪において、つまり悪行をすることによって具現化されています。悪魔に従う人は罪の働きをします。

親愛なる皆様、怪物の印は以上のようなものです。
我々の救いは現世的ではありません。我々の戦いも現世的ではありません。このように、天主への隷属も悪魔への隷属も物質的な現世的なものではありません。ですから、自分の体に何かを刻んでも、打っても、入れても、これで悪魔への隷属が実現したということはありません。また同じように、何か体に刻んだからといって、天主への従順が確保できるようなことはありません。

天主への所属を印すのは霊的な刻印です。洗礼によって刻まれる、取り消しのできない霊魂における印です。キリスト教徒が天主の物であることを印すのは洗礼による霊的な刻印です。この刻印をもって始めて、他の秘蹟を受けることが可能となります。怪物への隷属の印も刻印ですが、ありがたいことに取り消しのできない印ではないのです。意志における刻印であります。悪を選んで罪を犯すことによって意志に刻まれる印です。

我々の戦いは霊的な戦いです。霊戦です。同じように、天主への我々の所属も霊的です。また同じように、残念ながらも、悪魔への隷属も霊的です。天主への所属は恩寵によって具現化されます。恩寵の印に刻まれる人々は天主の物だということを知らせる刻印になります。恩寵によって、だれが天主の物であるかがわかります。愛徳の実践、天主への愛と天主の愛によって生きていくことは聖寵の内に生きることを示します。

悪魔への隷属は罪です。つまり、天主への愛を持たないで、現世上の事柄、物質的な宝、人間的な欲望などに執着してそれを優先することは悪魔への隷属を示します。
黙示録に出る「666」という怪物の印は「人間の数字」だと記されています。この数字の意味をうまく説明した教父に聖エイレナイオスがいます。聖書においてはすべての数字に意味があることから、ラビの伝統に従って、666を解釈されています。いわゆるゲマトリアという解釈学ですが、文字に数字を付与して、数字から改めて解釈するような解釈方法です。

このように、666という数字を分析しようとして、どの意味になるか、あるいは、どの名前が潜んでいるかを解釈しようとした人々は多いです。
それはともかく、教父たちは皆、揃って同意します。アンチ・キリストの名前はアンチ・キリストが現れる時まで不明のままであることについて皆、そろって同意します。ちなみに、聖書における予言は皆そうです。つまり、預言は実現されるまでに、いつどこで、具体的にどうなるかについて不明のままになります。実現した時になってのみ、預言の意味全般が明らかになります。「なるほど」ということになります。黙示録も預言であるので、同じです。実現するまでわからないということです。

しかしながら、聖エイレナイオスは666という数字において、多くの象徴的な意味があると説明します。それはその通りです。他にも多くの数字があって、象徴たっぷりです。皆聖人の祝日の朗読にあった14万4千人の選ばれた者、あるいは部族ごとに1万2千人など、他にも多くあります。
要するに聖書において、数字は文字通りの意味の他に、象徴的な意味もあります。



「7」なら、十全性を表します。「8」は完全性を表します。「6」とは不完全を表します。
教父たちによると、「6」に留まることによって、天主までに行けなくなるというのです。ですから、「6」とは人間の不完全を象徴するだけではなく、人間中心主義というか、人間を中心に、人間ばかりみるということをも象徴します。

聖エイレナイオスはつづいて、三つともある「666」はさらに意味があります。人間は人間中心主義に嵌めるだけではなく、つまり人間を絶対化するだけではなく、体の罪も霊魂(意志と理性)の罪、心の罪をも象徴します。
身体上の罪はあまり詳しく述べなくてもいいでしょう。現代では残念ながらも一番目立って毎日のように確認できる至極わかりやすい罪ですね。例えば天からの復讐を引き寄せる反自然の罪も含めてです。

意志と理性の罪もあります。つまり、理性は真理を自分の物にできることを無理にさせる障害、事柄はその罪の書類に属します。愛する兄弟の皆様、天主に感謝しましょう。我々の子供に真理を与えるために尽くす多くの方々に感謝の意を表しましょう。たとえば、ドミニコ会のシスターなどが特に念頭にあります。つまり本物の真実を与えて、善い教育を与えて、イエズス・キリストへよりよく倣えるように助ける真理を教えられています。

理性だけではなく、意志も対象となります。つまり、現代の世界は絶対に真理へ目を向けないように意志を歪めようとする罪です。これは文部科学省などにより教育綱領、教育方針などがそのために作られています。子供に何が良いか悪いかを知られないように、善悪はなんであるかどうやって善を施せるかを本当に理解できないように現代の教育は考えられています。

最後の6とは「心の罪」を表します。心の罪とは天主を拒む罪を言います。つまり、天主から目を逸らすようにする頑固さ、天主を拒み追い出す罪なのです。心の門を天主の前に閉める罪だと言います。現代では、この罪が特に天主の神殿において蔓延っています。いわゆる、天主への侮辱を行う嫌悪すべきこの新しいミサなどはこの罪を表します。なぜなら新しいミサは天主を無視して、人間を中心にして、人間中心主義的な典礼だからです。



愛する兄弟の皆様、以上のように、カトリック教会は世の終わりについての不思議な預言を解釈し続けました。世の終わりについての預言は実現するまでに謎の多いことになって、解こうとしても人間は解けないものです。

愛する兄弟の皆様、ですから、無理やりに解けないことを解こうとすることをやめましょう。いくらでも変な、常識を失いかけるような説に対して興味を持たないようにしておきましょう。どれほど辛い酷い大変な現代になっていても、この世でどれほど深く深く嘘がつかれていても間違いだらけになっていても、どれほど実際に危険な毒が売られようとも、怪物の印とは霊的な事柄であることを忘れないでおきましょう。罪の刻印だということです。

罪を犯すことによって悪魔の奴隷となります。
恩寵と愛徳によって、天主の奴隷となります。
愛する兄弟の皆様、このように我らの主ははっきりと仰せになります。「体を殺せても霊魂を殺せない者を恐れるな」(マテオ、10、28)。
現代ではこの教えは非常に役立ちます。
「体を殺せても霊魂を殺せない者を恐れるな。むしろ体と霊魂をゲヘンナで滅ぼせるお方を恐れよ」(マテオ、10、28-29)。

また我らの主、イエズス・キリストは使徒たちから離れる前に、使徒たちに次のように仰せになります。「勇気を出せ、私はこの世に勝ったのだ」(ヨハネ、16,33)

ですから、現世的なものも、物質的な脅迫も恐れるべきではありません。罪を恐れるべきです。体の死を恐れてはいけないのです。むしろ霊魂の死、永遠の死を恐れるべきです。

たしかに、特に現代では将来は極めて見えていなくて不安が多いでしょう。不確かであるかもしれませんが、確信できる一つのことがあります。

善き天主は我々の父です。善き天主は自分の子供を忘れていないのです。善き天主はご自分の子供を守っておられます。善き天主はご自分の子供を養っておられます。どれほど厳しい試練が用意されたとしても、またこれらの試練の将来はどうなるか全く不明だとしても、かならずイエズス様に頼ったら恩寵は必要以上に与えられることを確信できるので、安心しましょう。

このように不幸な現世にいても我々は望みと喜びに満ちています。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

クリスマスツリーの本当の歴史

2021年12月19日 | カトリック
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの動画をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



『昔のクリスマスの話』

Isabelle de Saizieu編

クリスマスツリーの本当の歴史


クリスマスツリーがアルザス地方に生まれたことは歴史家たちの間に通説となっている。というのも、クリスマスツリーを明確に記している一番古い歴史資料は1492年のストラスブール市と1521年のアルザス地方の中央にあるSélestat市に見られるからである。また、1555年と1557年のSélestat市に保管されている本にもクリスマスツリーの話が一部でている。

これらの史料を分析すると、「クリスマスツリー」の伐採は規定化されていたことがわかる。また、Sélestat市がご降誕の祭日の数日前から、森林の監視人を雇い、クリスマスツリーの伐採と窃盗を防ぐため、これらの木の番をしていた(昼間だけではなく、冬の長い寒い夜も含めて)こともわかる。

これらの木は必ずしもモミの木ではなかった。古い版画を見ると、クリスマスツリーにしていた広葉樹もあることがわかる。冬になって葉はなくなっているから、その代わりに葉を真似したリボンで飾っている。しかしながら、現代と同じく、多くの場合は広葉樹よりもモミの木の方が使われていた。というのも、モミの木は冬になっても美しい緑色の松葉がいつもあるからであった。
一番好まれたのは「トウヒ」の木だった。このモミの木こそは「アルザス地方のモミの木」であるからである。

読者はクリスマスツリーの話をするとき、もしかしたら「これはプロテスタントの伝統だから、カトリック家庭には入れてはいけない」と言われたことがあるかもしれない。


このような人によると「カトリックの家庭で小屋を置いていることを見たプロテスタントらはカトリックと区別するためにモミの木を置いた」と言われたりする。ところが、本当にそうだったのなら、カトリックの事業としてストラスブールの大聖堂の修理と世話を担当していた「ノートルダムの会」が、1492年、ストラスブールにある九つの小教区のため、九本のモミを買ったのはなんのためだったのであろうか?

プロテスタント改革は1517年に生まれたというのに、それ以前にモミの木が使われたということになる。だから、モミの木はプロテスタントの発生以前からあるということになるので、カトリックとしてモミの木を置くのはなんらおかしいことではない。もちろん、馬小屋が第一の位置に置かれて、モミの木は馬小屋の第二の立場においてあるのは当たり前であるが。

さて、クリスマスツリーの起源はアルザス地方にあるのなら、我らの主、イエズス・キリストのご降誕の祝日の時、一体なぜモミの木を飾るであろうか?

先祖がクリスマスツリーを飾ったのは御托身の玄義とご贖罪の玄義を記念するためである!
現代、時にみられるピカピカの飾りをいったん忘れて、アルザス地方の家に昔から伝えられる古典的な飾り方を見ると御托身の玄義とご贖罪の玄義を記念するために飾られたということがよくわかる。


第一に、モミの木は楽園にある「命の木」を象徴することを思い出そう(注・モミの木はずっと葉を持っているから不死身を象徴している)。そして、木の一番低い枝に飾るのはアダムとイヴの表象となる。よく色付いた綺麗な絵を飾る。人祖の夫婦の上の枝に、収穫の時に大切に保管された一番綺麗な赤いリンゴを枝に吊る。この赤いリンゴは食べてはいけなかった木の実を象徴して、我々の人祖が犯した原罪を想起させる。

また、12月末になっても他に保管された美しい新鮮なリンゴをツルツルになるように拭いて、何個もモミの枝に吊る。これらのリンゴは楽園のいと多くのおいしい果物を象徴する。これらの果物と一緒に、折り紙でも、紙からあるいは鉄からあるいは結晶からの鳥を吊る。これらはもちろん、楽園での美しくさえずる多くの鳥を象徴する。

しかしながら、アダムとイヴは原罪の罰として楽園から追放されて、天国に入れなくなったところ、顔の美しい天使が現れた。だから、モミの木の一番高い枝には天使を吊る。この天使は救い主が送られる御約束を人祖に(そして我々に)父なる天主が約束し給うたことを想起させる。

ところが、ご降誕の喜びの内に、天主の至上の我々への御愛とご受難と十字架上の御死によってこそ我らを贖い給うたことを忘れてはいけない。そのために、モミの木の枝にミサ用のパンを飾る(つまり御聖体ではなく、聖変化されていないホスチアである)。それは、我らのために天国の門を開ける贖罪の玄義を想起させる。

さてさて、幼きイエズスのご降誕を祝う時の数時間前になった(アルザス地方では、クリスマスツリーを置いて飾るのはクリスマスを待つ24日の前夜祭のミサの前の時である)。モミの木の天辺には星を飾ろう。この星は小屋の空に輝いている星で、長い旅をやってきた三人の博士を導く星である。

最後に、昔はモミの木をアルザス風の家の中央部屋、stubb(家族全員が常に集まっていた場所である)の天井に吊る。あるいは、馬小屋の後ろに置く。そして、間もなくクリスマスになるので、多くの蝋燭を灯して枝につる(注・これはイルミネーションの起源である)。



このようにクリスマスの夜、イエズス・キリストはお生まれになった時、幾百万の天使がきて、毎回のミサの時と同じく、「いと高き天においては神に光栄あれGloria in excelsis deo」と歌うことを想起させるのである。

  

反キリストとは誰のことか?|『私をイシュマエルと呼びなさい』 ジェイソン・モーガン氏

2021年12月10日 | 迫り来る危機
使徒聖ヨハネはこう言う。「小さな子らよ、最後のときである。あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが、今や多くの反キリストがあらわれた。…おん父とみ子とをいなむ者、それこそ反キリストである。」(1ヨハネ2:18)
「イエズスを宣言しない霊は、みな、天主から出たものではなく、あなたたちが、来るであろうと聞いている反キリストの霊である。それはもう世にきている。」(1ヨハネ4:3)

フルトン・シーン司教は、共産主義も、キリストを否む反キリストの一つであると見た。すでに1947年、フルトン・シーン司教は時の印を見ていた。彼は、反キリストが、人類への愛を口では言いながら、天主を信じないことを予言している。

つまり、反キリストは、世界中の人々に「兄弟の皆さん」と呼びかけて、兄弟愛の美しい話をしながら、イエズス・キリストを宣言しないだろう。反キリストの宗教は、キリストを宣言せず、キリストの御父をも宣言せず、本当の父のない「兄弟愛」だからだ。

しかし、フルトン・シーン司教は、私たちは反キリストを恐れる必要はないという。
「私たちが心配するのは、教会の不可謬性のことではない、この世が可謬性に倒れることだ。天主が玉座を奪われることではなく、野蛮な蛮行が横行するのを私たちは震えあがる。全実体変化が無くなることではなく、家庭が無くなることを危惧する。秘跡が消え失せることではなく、道徳基準が消え失せることを憂慮する。」

イエズスは婦人たちの方をふりむいておおせられた。「イエルザレムの娘たちよ、私のためになくことはない。むしろあなたたちと、あなたたちの子らのために泣け。」

カトリック教会は、かつて大きな危機を乗り越えてきた。教会は、現代の悪を乗り越え生き残り、この悪の葬儀を歌うだろう。教会には何度も聖金曜日があった。しかしこれは復活の主日の予告にすぎなかった。反キリストは反教会を作るが、勝つことはない。

使徒聖ヨハネがいう意味で、ジェイソン・モーガン教授は「反キリスト」という言葉を使っている。

—ジェイソン・モーガン教授の記事をご紹介します。―



私をイシュマエルと呼びなさい。(「ザ・レムナント」が、フランシスコによる忠実な信者に対する最新の攻撃に答える)
ジェイソン・モーガン(「ザ・レムナント」コラムニスト)
2021年9月22日(水曜日)

Call Me Ishmael (The Remnant Responds to Francis’ Latest Attack on Faithful Catholics)
Written by Jason Morgan | Remnant Columnist
Wednesday, September 22, 2021
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/5598-call-me-ishmael-the-remnant-responds-to-francis-latest-attack-on-faithful-catholics

バチカン市国のサン・ピエトロ広場を囲む2列の列柱は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによって、両手を広げて歓迎するように設計されました。(https://vatican.com/St-Peters-Square-Colonnades/)カトリック教会は普遍的で、救いを求めるすべての人に開かれています。


ニューヨークの自由の女神像の台座には、この気持ちを世俗的に表現したものがあります。「Give me your tired, your poor, your huddled masses yearning to breathe free, the wretched refuse of your teeming shore.」(我に委ねよ、なんじの疲れたる貧しい人々を。自由の空気を吸わんものと、身をすり寄せ、なんじの岸辺に押し寄せる、うちひしがれた群衆を。=岡田光世訳) (https://www.nps.gov/stli/learn/historyculture/colossus.htm)しかし、教会にとっては、「群衆 huddled masses」も、顔の見えないプロレタリアートという「押し寄せる」人の群れもありません。個々の罪人がいて、教会は、迷える羊を探し求め、すべての人を名前で呼び戻すキリストなのです。誰もが教会の門戸を叩き、洗礼と赦しと永遠の命のパンを求めることができるのです。

イエズスは昔も今も教会です。イエズスは、逐謫(ちくたく)の身(楽園を追放された者)なる人々を探し求めておられます。イエズスは、ハンセン病患者や霊に取り憑かれた人々の間を行き来されました。イエズスは、筵(むしろ)の上の不具者を、身をかがめて慰め、「身を寄せる群衆 huddled masses」によって半ば踏み潰されました。イエズスは、サマリア人や徴税人と話をし、売春婦や遊女に自分たちも非常に愛されているため罪が赦されることを思い起こさせられました。イエズスは、死者をよみがえらせられました。イエズスは、盲人を見えるようにされました。イエズスは、心の清い人を誰も拒否なさいませんでした。

イエズスの敵がイエズスを憎んだのは、自分たちが善業をしていると公に断言するという偽善を、イエズスが明らかになさったからです。ユダはお金の入った袋を預かっていました。ユダヤ教最高法院(サンヘドリン)は[聖書の]巻物を誇示しました。白塗りの墓[偽善者]でした。キリストが来られたのは、命をもたらすためであって、この世的な死を承認するためではありませんでした。

イエズスは門戸を閉ざされることはありませんでした。ご復活の後、使徒たちが隠れ家で「身をすり寄せる群衆」だったとき、聖霊が火の舌となって一人一人にご出現になりました。墓の扉が閉じられていたとき、主はご復活の栄光をもって天使をお呼びになり、石板を脇にどけさせられました。エマオへの道で、二人の使徒[弟子]の感覚の門戸が主に対して閉じられたとき、主は彼らの良心に平和と愛を溢れさせ、彼らが主を認識して「燃える」までにされました。井戸の女が自分の過去の門戸を主に対して閉じたとき、主はその門戸をやさしく開いて、この女の人生のすべてが癒やされるようにされました。律法主義者たちが主を律法で囲い込んだとき、主はすべての人が救われるように律法を新たにされました。なぜなら、子どもたちは、この世が要求する出世するための、この世が嘘をつくような嘘のつき方をまだ学んでいないからです。

イエズスは誰かを愛する前に書類をチェックなさることはありませんでした。イエズスは、山上の垂訓に参加するために身分証明書の提示をお求めになることはありませんでした。

今月、バチカンは、ローマの中心にあるこの都市国家を訪れようとする人には、ワクチン・パスポートを要求すると発表しました。(https://www.catholicnewsagency.com/news/249038/vatican-requires-vaccine-pass-for-visitors-employees) まさに[ラ・サレットの]聖母が言われたように、ローマは信仰を失いました。ローマは旧約のやり方に戻り、闇に生きる人々に良い知らせをもたらすために出て行くキリストのみわざよりも、この世への賛辞と、お金や影響力の奴隷であることを好んでいるのです。


この分裂の時代に、世界は逆さまになりました。使徒の骨の上に建てられた聖ペトロ大聖堂は、キリストが抱擁した子どもたちの体を注射するという悪魔的な儀式に参加していない人々には門戸を閉ざしています。教皇は、世界革命の火種となるパンデミックを設計したグローバリストの所属司祭(チャプレン)として身を売っています。

時代精神は、グローバリストが描く地獄のビジョンのための、倒錯、反転、違反、霊的破壊行為、創造された秩序の拒絶です。ローマにいる教皇はこれを祝福し、自分の役務者たちをグローバリストの計画案のために祈るように送り、信者たちに儀式化された幼児虐殺の胎児血清で新たな洗礼を受けるように強要します。教会は東ドイツの官僚機構になってしまいました。ローマの名はもはや歓迎されず、政治的な服従が求められています。

教皇は反キリストです。私の言っていることが本当かどうか、自分で考えてみてください。「サタン、引き下がれ」が、「暗黒の君、何かお役に立てるでしょうか?」になってしまいました。

これは大げさでしょうか? フランシスコは、聖ペトロ大聖堂の柱列を通過するすべての人が、獣のしるしをつけられ、ワクチン証明書類でそれを誇示するように指示しています。フランシスコのワクチン義務化(バイデンの場合は言うまでもありません)と、フランシスコが統括するグローバリストとの関連性は否定できません。

例えば、最近の「ザ・レムナント」のビデオ(https://remnant-tv.com/video/454/world-vaccination-michael-matt-on-the-kennedy-connection)では、編集長マイケル・マットが、ロバート・ケネディ(殺害されたロバート・ケネディ司法長官の息子にして殺害されたジョン・F・ケネディ大統領の甥である)の近刊を紹介しています。ロバート・ケネディは、コロナウイルスのパンデミックが発生するほんの数カ月前に、グローバリストたちがニューヨークに集まり、現在私たちがこの目で見ている、まさに虐殺と支配の乱痴気騒ぎを計画していたことを思い出させてくれます。

新型コロナウイルスは生物兵器であり、「ワクチン」はそれに続いて来るものです。最初のパンデミックで世界を驚かせ、臆病にさせ、次に「ワクチン」で服従を教え込み、支配を強化します。秘跡にあずかりたい人は、人間のいけにえという反秘跡にあずかったことを証明しなければなりません。もし悪魔がローマを支配しているとしたら、これ以上の悪魔的な支配はないでしょう。

それだけではありません。この生物兵器はアンソニー・ファウチという名のサイコパスが資金提供したもので、彼は自分の国の法律を迂回して、自分の『ドクター・モローの島』の仕事を中国に移したのです。ファウチはグローバリストのモローであり、武漢はグローバリストのグアンタナモ収容所です。欧州や北米では決してできないことができます。グローバリストが資金を提供した生物兵器が放たれると、あとは地球規模でのワクチン接種という「計画」に従うだけでした。

その計画の真意は、世界規模の戒厳令を正当化し、最終的にはフランシスコの大切なガイア[大地の女神]を汚す人間を抹殺することにあります。ベルゴリオがパチャママをなだめるために、バチカンが皆さんにワクチンを打てと言い張っていると思わないのであれば、皆さんは気が付いていなかったのです。回勅「ダウダート・シ」(Laudato si)を読んで、フランシスコが人間と植物のどちらの命を救うことを選ぶだろうかを考えてみてください。(https://www.vatican.va/content/francesco/en/encyclicals/documents/papa-francesco_20150524_enciclica-laudato-si.html)


フランシスコと、悪魔的グローバリストとの癒着は、たまたま起こった単なる付随的なものではありません。これは、理解するにはあまりにも恐ろしい真実です。フランシスコは、単にグローバリストと仲良くしようとしているのではなく(それもしていますが)、グレート・リセットの中心的存在なのです。

フランシスコが統括する「新しい教会」が無かったならば、つまり「ノブス・オルド・ミサ Novus Ordo masses」と呼ばれるプロテスタントの異端の儀式に参加する、また、殉教者がそのために死んだ教えをないがしろにする、分かっていない反カトリックの「群衆 huddled masses」が無かったならば、そもそもグレート・リセットはあり得なかったのです。

第二バチカン公会議は最初のグレート・リセットでした。それがなければ、転覆、逆行、違反、霊的破壊行為、創造された秩序の拒絶などの現在行われているモダンバレエ[近代的な動き]のその他の部分は不可能だったでしょう。

「新しい教会」は、グローバリズムの犠牲者ではありません。グローバリズムは「新しい教会」の副産物なのです。最初の革命は[堕天使らの天主への反乱として]天でありました。それで天使たちが地獄を支配するようになったのです。「新しい教会」は、教会に対するミルトンの反対イメージです。フルトン・シーン大司教(https://www.virgosacrata.com/antichrist-signs-of-our-times.html)やクリストファー・フェラーラ、トーマス・ウッズ(https://www.angelicopress.org/the-great-facade-ferrara-and-woods)の洞察を借りれば、それは猿まねであり、「偉大なファサード[見かけ]」です。

グレート・リセットの中心に、「新しい教会」というカルトの信者がいることは明らかです。ナンシー・ペロシ[米下院議長]、ジョー・バイデン[米大統領]、マーク・ミリー[米軍統合参謀本部議長]、テッド・リュー[米下院議員]、ジョン・ロバーツ[米最高裁判所長官]、アンソニー・ファウチ…すべて「新しい教会」の信者です。全員が第二バチカン公会議の毒入りの井戸を飲み干し、熱心に「現代世界憲章」(Lumen Gentium)を書いた者の言いなりになろうとしています。

「新しい教会」の背教者であるジェームズ・コミー[元米連邦捜査局(FBI)長官。議会で当時のトランプ米大統領に不利な証言をした]は、グレート・リセットの目玉である、ドナルド・トランプに対するクーデターの実行を手伝いました。(2016年は、米国の最後の選挙でした。それ以来、一度もないし、今後もないでしょう。独裁的なコントロールは、もう一人の「カトリック信者」であるリチャード・デイリー[元シカゴ市長。在任中、警察の拷問が問題になった]の手法が、全国的に導入されて初めて完成するのです)。

「新しい教会」のプロパガンダ担当者であるスティーブン・コルベア[米コメディアン。ホワイトハウス夕食会でのスピーチが物議を醸した]は、ネオ・カトリックが世界秩序をリセットする間、「群衆 huddled masses」の気をそらすために笑いの要素を提供しました。「新しい教会」は、グローバリストが人類に対して実行している「ツークツワンク」(Zugzwang)[チェスで自ら状況を悪化させる手を指さざるを得ない状態]の最初の動きです。第二バチカン公会議の後、悪魔とその「新しい教会」の助け手が私たちを信じさせようとしていることは、カトリック信者の唯一の選択肢が、諦めるか退却するしかかないと思わせることです。

「ワクチン」が非常に便利なのは、不法な権力者が、羊と山羊、つまり、「新しい教会」とグローバリズムの大嘘を受け入れる者とそうでない者を明確に区別することができるからです。羊は従いますが、山羊は頭を突き合わせてしまうので、処分しなければなりません。

「ワクチン・パスポート」は、この重要な一線を引くための完璧な政治的リトマス試験です。黄色いダヴィドの星は、私たちの携帯電話についている小さな緑色のチェックマークと全く同じ機能を果たしました。現代の「踏み絵」は、フランシスコが皆さんに勧めているワクチンの予約です。「愛徳の行動」として、です。(フルトン・シーン大司教が反キリストについて警告したことを思い出してください。「反キリストは愛のための愛を増やし、人のための愛を減らすでしょう。宗教を破壊するために宗教を引き合いに出すでしょう。彼は天主を信じないでしょう」。(https://www.ncregister.com/blog/fulton-sheen-s-clear-warning-about-the-anti-christ))


皆さんは自分の体と政府の仕事を守るために、自分の良心を殺してもいいと思っていますか? わかりました、それならここにグリーン・パスポートと青いチェックマークがあります―皆さんは愛から行動したに違いありません! 皆さんは、リセットすることを望んでいないのですか? 皆さんは、新世界秩序を受け入れたり、現代のやり方に「現代化(アップデート)」したりするためには、硬すぎるのですね? それならば、ここに黄色い星[ナチス時代にユダヤ人たちが付けることが義務付けた]があり、息苦しいマスクがあります。皆さんが分裂させる者であるというしるしとして、これを身につけてください。水晶の夜[1938年11月9日に起きたユダヤ人商店などを破壊するナチスの活動]、または1月6日[2021年の米連邦議会議事堂"襲撃"事件の日]に、当局に報告してください。

フランシスコは「新しい教会」の指導者であり、彼の仕事はキリスト教を破壊することだけではなく、抵抗し続ける少数の残ったキリスト教信者にしるしをつけて追い詰めることです。フランシスコのゲームを理解するために、彼が自分の攻撃を隠そうとする嘘を考えてみましょう。

彼は、2000年の聖伝と真理を覆すような自発教令を発し、それを継続と一致の名の下に行うと主張しています。そのことを批判されると、また別の嘘をつきます。例えば、9月中旬に東欧を訪問した際、フランシスコに最近行った腸の手術について質問した司祭に対する、このような驚くべき回答があります。(https://apnews.com/article/europe-religion-pope-francis-slovakia-bratislava-f018aeb6e5d420703822ef75aed6272c)

「まだ生きていますよ」とフランシスコは言いました。「私が死ぬことを望む人もいましたが。世間で言われているよりも教皇の状態が悪いと考える司祭たちは、会議さえ開いたと知っています。彼らはコンクラーベの準備をしていたのです」。
「辛抱してください。私が元気であることを天主に感謝します」と付け加えました。

フランシスコは、信仰や聖にして母なる教会への攻撃に対する批判が個人的な侮辱であるかのように、真実を捻じ曲げています。(フランシスコの友人が発明した)コロナウイルスに感染したバーク枢機卿を公然と馬鹿にしたのはフランシスコでした。しかし、私たちは真理を忘れ、フランシスコが考えついたことを聞いて、それを信じるしかしません。その背後にあるものは、野心とそびえ立つ高慢さだけです。ローマ皇帝の候補者のように、フランシスコは冠を --- この場合は自分で想像したメロドラマのような殉教の冠を --- 拒否し、他方では、同時にそれを受け入れています。「彼らは私が死ぬことを望んだが、私は生きている!」と。いいえ、フランシスコ、私たちが求めたのはミサです。はっきり言うのは申し訳ないのですが、あなたのことではなかったのです。

嘘を隠すために嘘をつくという策略は、同じ短いインタビュー(しかもロイス・ラーナー流に事前に準備されていたと思われます)[ロイス・ラーナーは、オバマ大統領再選のため保守系団体を狙い撃ちにした税審査の厳格化問題で追及されて辞任した官僚]での一連のコメントにも引き継がれています。
フランシスコは、分裂や、自分を疑いの目で見る人々にどう対処するかについても問われました。これは、フランシスコが資本主義を批判し、環境や移民に焦点を当てていることを長い間批判してきたカトリック保守派への言及でした。


彼らの批判は、7月にフランシスコが古いラテン語ミサの挙行を取り締まったことで、怒りに変わりました。フランシスコは、引退教皇ベネディクト十六世[の自発教令]をひっくり返して、古いミサを捧げることを再び制限し、ラテン語ミサが教会の分裂の原因となり、イデオロギー的な理由で利用されてきたため必要な措置である、と述べました。

フランシスコはその回答の中で、ラテン語ミサの反響に言及し、「教皇の悪口を言い続けている大きなカトリックのテレビ局」があると指摘しました。彼は名前を挙げませんでしたが、EWTNメディア巨大企業のことを指していたのかもしれません。このテレビ局は現在の教皇職に批判的で、特にフランシスコが古いラテン語ミサを制限していることに批判的です。

「私は罪人なので、個人的には攻撃や侮辱を受けるに値するかもしれませんが、教会はこのようなことにはふさわしくありません。これは悪魔の仕業です」と彼は言いました。「ええ、私のことを悪く言う司祭もいます。時に我慢できなくなることがあります。特に、彼らが本当の対話に入らないで、裁く時そう感じます。あのような態度は、どうすることもできませんね。」

しかし、フランシスコは、自分の対応は、ただ宣教だけだと言いました。「私は、彼らの考えや空想の世界に入り込むことなく、ただ前進するだけです」と語っています。
この方向を変えることこそが、「新しい教会」の本質であり、「新しい教会」が生み出した「グレート・リセット」の本質です。まるで「資本主義」や「環境」の問題であるかのように。地球を偶像化し、共産主義を信経に変えたのはフランシスコですが、彼の嘘はすべてを反対に変えてしまうのです。

根本的な真実は、フランシスコが「新しい教会」とカトリック教会の間のあらゆるつながりを破壊したことです。その後、悪魔的な茶番劇で、教会を攻撃しているのは他の人々だというふりをしています。同時に、彼は自分のことだけでなく、自分が解体用のボールを振ってぶつけている他の教会組織についてもすべて、他の人々のせいだというふりをしています。

フランシスコは反キリストです。彼は聖ペトロ大聖堂の廃墟の上に座り、自分が消し去ったものを保存し、さらにアップグレードさえしたと主張しています。彼は、フルトン・シーン大司教が言ったように、愛から、そして宗教のために、これを行ったと主張し、聖母が予言した恐ろしいドラマを演じているのです。

圧迫を受けると、嘘つきのフランシスコはアキレスになって、誰もがいつも自分を狙っているとすねてしまいます。それはサラウンド音声による悪魔的な方針の間違いです。教皇フランシスコの口から出てくる言葉の全てがそうです。彼は混乱しているわけではありません。体調が悪いわけでもありません。彼は反キリストです。サタン的な分裂させる者です。キリスト教の大司祭(キリスト教的な天と地との橋作り)の衣装をした悪魔です。

この新世界秩序において、サタニズムがキリスト教であり、憎しみが愛であり、中絶された子どもたちが薬であり、反キリストが教皇であり、「新しい教会」が真の教会であり、ノブス・オルドが[真の]ミサであり、人口減らすことが管理であり、地球が神であり(占星術に対するフルトン・シーン大司教の警告を思い出してください―フランシスコは究極の占星術師です。地球を神格化していますから)、グローバリズムが愛国心であり、分裂が安全であり、ダヴィドの星がケアの象徴なのです。

この新世界秩序において、私をイシュマエルと呼びなさい[イシュマエルは、アブラハムの子供で、妻の奴隷であったハガルから生まれた。しかし、アブラハムの妻サラは後にイサアクを生むと、イシュマエルとハガルを荒野に追放した]。私に亡命者と拒否者の烙印を押しなさい。私を、身をすり寄せる群集から離れて歩かせなさい。私を山羊と呼びなさい。天主の小羊の血を拒む羊たちと一緒に群れるつもりはないからです。