ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

扇子(せんす)のような印象

2019年12月30日 | カトリック
2019年7月に開催された国際シンポジウムで講演のために来日された、ジャンフランソワ・トマス神父様(イエズス会員) P.Jean-François Thomas s.j. のコメントをご紹介します

Impressions en éventail
扇子(せんす)のような印象


19世紀末、日本の芸術はフランスにおいて突然登場しました。浮世絵と根付を多く取集してきたゴンクール(Goncourt)兄弟により、日出ずる国の芸術は、特に当時の印象派に多くの影響を与えました。それにもかかわらず、ほとんどの欧州人にとって、その芸術がそこから由来した日本という国は、ほとんど知られず、謎の多い国にとどまります。

私に関していえば、長年、東南アジアに滞在し、アジアの多くの国々を訪問してはいましたが、日本には足を踏み入れたことがまだありませんでした。昔からずっと日本という大国を知りたく思っていました。日本は、私が属するイエズス会の絶頂期に、聖フランシスコ・ザビエルが福音伝道を始めた国だったからです。私は幼い頃から、この信仰の英雄的叙事詩の内容とその後の迫害の長い時代とに感銘を覚えており、また、それほどの迫害にもかかわらず、司祭の不在と組織の皆無にもかかわらず、公教会が日本列島において消滅せず残ったという特別な普通では考えられない事実の前に私は感嘆しました。こういった事実は、日本人の民族性にどれほど忠誠心と毅然さが刻まれているかを物語っています。

フランス共和国の公立学校における歴史教育は、生徒たちの心の中に、遥かなこの皇国への興味あるいは愛を養ってはくれません。むしろ支配的なイデオロギーが生徒らに日本をヒットラー・ドイツのアジア版として教えています。極端な単純化ですが、大いに浸透しています。しかも、アメリカによるプロパガンダがその上に重なり、なおさら悪い先入観がフランス人に押し付けられました。長崎と広島への原爆の投下は必要で不可避だったばかりか、 道徳的な行為だった、戦時中の日本人の残酷さとひねくれた行動に比べたら、小銭のようなものに過ぎない、と声高々に宣言されたプロパガンダです。

真相は全く違います。そういえば、天主は他の民族に対すると変わらない同じ正義と御憐みをもって日本国民を見守り給います。

残念ながら素早く駆け足で巡らなければならない日程だったのですが、私がこの偉大な国 — その歴史と文化とによって偉大な国 — を初めて体験し発見したのち、フランスに帰国してから今もまだ深い郷愁が私にまとわりつき離れないほどです。日本に行くまでは、日本人をほとんど知らず、ただ旅のついでに、たまたま数人の司祭、修道士、信徒の日本人と出会ったり、またはパリ、あるいはモン・サンミッシェル、あるいはロワール川沿いの城を訪問したりする際、たまたま見かけた行儀良い秩序正しい日本人の観光客ぐらいしか知りませんでした。彼らはフランスに来る前に想像していたフランスに抱く完全なイメージとかけ離れた実際のボロボロになったフランスを発見して、恐らくあっけにとられているだろう、と私は思ったりしたものでした。

それはともかく、フランス人である私は日本に到着した途端、その秩序の良さ、清潔さ、サービスと交通機関における品質の高さ、身につけている自然な礼儀正しさ、大都会を含めての人々の落ち着き、他人への尊敬とその配慮、服装の慎ましさ、人々の遠慮深い態度とその愛想の良さ、等々全てに私は感銘を受けました。というのも、それらの善い性質はかつてならばフランスにおいても当然とされていて普通に実践されていたことでしたが、残念なことには、大体消えてしまっているからです。

私がもっとも感銘を受けたことのうちに、外国の文化への日本人の深い興味関心と外国人の前での日本人の謙遜さがあります。この他者に対して持つ関心によって時には自らの固有の文化を損なうことが起こり得るのですが、それはよいことではありません。(謙遜な姿勢で他の文化に対処する)そのような民族は、自国の文明に対するも慎みつつ誇りを抱くものとなるでしょう。それが正当な祖国愛です。また、押し付けられたか選びによるかは別にしてアメリカ化とグローバリズムの圧力を受けているにもかかわらず、日本は、少子高齢化する今も、自国の伝統を尊重する配慮がいまだに強いという印象を受けました。

近現代史上、日本ではキリスト教への受容が極めて弱いという事実はずっと私が疑問に思うことでした。神聖なるものへの感覚が自然に身についているにもかかわらず、日本人はなぜ啓示された宗教を、その大部分の人々が受け入れないのでしょうか。数十年前からの公教会の聖職者たち、あるいは典礼をはじめとする困惑させられる諸改革が、そういった回心を促さなかったのでしょう。しかしながら、日本の地は肥えています。信仰の種子を受け、多くの実りがもたらされる準備が整っています。

小野田神父様に導かれている聖ピオ十世会の信徒たちと数日を私は過ごした結果、それを見て教訓を貰っただけはなく、希望に満たされました。大阪と東京の信徒団の敬虔さと愛徳さを言葉で語る必要はありません。実際にそれを生きています。日本の未来のためにも、このパン種は極めて有望です。カトリックの聖伝は、日本人が自然に持つ垂直次元への愛着、美への愛への愛着に、超自然的に対応する以外にあり得ません。見てください、基礎は既にあります。キリストの福音の宣教とその受容のためには、たしかに十分ではないものの、不可欠な基礎がここにはあります。

日本社会に関していえば、非常に短く垣間見ただけですが、世界中で今起きつつある画一化が日本ではそれほど進んでいないように見えます。一番驚いたのは、世界で一番人口の多い東京での人々の落ち着きのある雰囲気が印象に残ります。特に、誰もがせわしなく忙しい様子をしているパリ(そのせいで愛想も良くない)から来るとなおさらのことです。フランスではもはや、より調和的に、いつも緊張せずにあちこちを駆け回らないで済む生活を送るために必要な最低限の礼儀、言葉遣いなどは消えてしまいました。当然ながら、完璧な社会などは存在するわけはなく、日本においてもいつも桜の花のようにすべてがバラ色だとは言うつもりはありません。しかし、ほとんどすべての人々によって守られている規範が残っており、社会の外的な関係と共同生活を大いに助けています。

しかしながら、古より受け継がれた日本の文化の豊かさと多様性だけではグローバリズムの攻撃からこの国を守るには足りません。ほとんどの日本人は、習慣的な儀礼を別にして、意外にも本物の宗教心が欠如している状態ですから、若手の世代は快楽主義と物質主義に耽り、ついにこの皇国の偉大な遺産も一気に忘れ去られる大きな危険があります。現代において、それらに抵抗するためには、島国であることや、習慣を維持するだけでは足りません。真理をもって霊的に心を養う必要があります。

日本のどこに行っても、私は大変良いおもてなしを受けましたが、それは日本がカトリックの聖伝に対してなすべきであろう最も本質的な受け入れの「しるし」のようでした。カトリックの聖伝は、日本人たちが自然道徳によって既に学んできたことに、その深い意味を与え、啓示の光によって、既に存在しているこの英知を浄化し、補足し、修正し、完成させることができるでしょう。聖フランシスコ・ザビエルをはじめ、彼に続く多くの宣教者たちによって始められたことが、休耕地のように長く生かされないままではけっして留まりえないでしょう。

しばしば悪い部分において非常に西欧化し、善いところは非常に守られている日本が、今直面している歴史の転換期において、その生き残りにかけて、その成長と向上のために、この日出ずる皇国が、人々から来るのではない真の光、天主だけから来給う光に眼差しを上げることは、いまだかつてなかったほど必要で死活にかかわることでありましょう。


P.Jean-François Thomas s.j.
ジャンフランソワ・トマス神父(イエズス会員)
Saint Barthélémy
聖バルトロメオの祝日に
24 août 2019
2019年8月24日





天主の自然法:五つの法の種類[その②] 【公教要理】第七十九講

2019年12月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十九講 自然法

 

「法」に関する講座を続けましょう。
最初、一般的に法の定義を見てきました。それは、「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」ということでした。
それから、法を公布する者次第で、法の種類が分けられることをご紹介しました。
天主がその公布者であれば、「天主の法」となります。
人間がその立法者であれば、「人間の法」となります。
天主の法の内に三つの種類があり、第一の種類である「永遠の法」を前回ご紹介しました。

要約すると、「永遠の法」は天主ご自分にあり、全宇宙を統治する「永遠の法」です。あらゆる物事の存在理由で、その基本的な原理です。これによりあらゆる被造物がそれぞれ目的に向かわせられています。法は「理性による規定」あるいは「理(ことわり)による命令」なので、天主の無限の御智慧、また天主の御愛により、天主はあらゆる存在を、それぞれの目的に向かわせます。その目的はなんであるかというと、天主のご栄光であり、天主のご賛美です。

「永遠の法」の次に、天主の法のもう一つの種類があります。あえていえば、永遠の法をある意味でより明確にするかのような法です。「自然法」と呼ばれているものです。
「自然法」はその名前で分かるように、「自然(本性)」において織り込まれて、刻印されている法です。さらに言うと、とりわけ人間の本性において刻印されているものです。
「自然法」は人間を対象にします。なぜかというと、人間は自由だからです。なぜかというと、天主は人間を「未定」のままに創造なさったからです。「未定」とは自由な存在物という意味で、人間は自分で決定していけるように創られたということです。以前にもご紹介しましたが、自由意志とはまさに「決定」する能力です。

「永遠の法」により、天主はあらゆる被造物をその目的に向かわせ給いました。具体的にいうと、理性のない、知性のない被造物に適用されるときこそ、永遠の法の作用は一番わかりやすくなります。理性のない被造物の場合、永遠の法によって、それぞれに目的に傾かせられていますが、あえて言えば「不本意」にも傾かせられています。理性のない被造物には自由がないからです。

ところで、他方、人間の場合は以上のようにすでに決定されている被造物ではありません。自由意志を持っています。
自由意志とはなんでしょうか。自由意志とは、天主によって人間に預けられた能力ですが、人間が「自分の力で」、人間の目的(善)にたどり着くために与えられた能力です。

言い換えると、天主は人間を創造した時、「永遠の法」によって人間に特定の目的を与えました。その永遠の法によって、人間もほかの被造物と同じように、その目的に向かわせます。被造物である人間は、永遠の法から逃れることはありません。永遠の法は「汝の目的へ歩み、汝の善(目的)を得よ」と、人間も規定しているのです。

永遠の法によって、天主は人間の目的を定め、人間への御啓示において、その目的を人間に示しました。その目的は「天主御自身」です。つまり、天主は自分自身を目的として人間に与え給うたのです。目的である天主は、喜びとして、至福の完成として自分自身を人間に与えました。
一方、天主は我々に自然本性を与え、他方、天主は人間に目的(天主そのもの)をも与えました。
ところが、自由ではない他の被造物と違い、人間は、その目的への道は「決定されていないまま」です。つまり、他の被造物と違って、その目的に向かって強制的に絶対的に向かわせられていないのです。天主は、人間に、自由あるいは自由意志と呼ばれている能力を与えたからです。自由意志によって、人間は自分自身で、その目的に行くのが天主のお望みだからです。

われわれ人間は「自然本性」に関して自由ではありません。また同じく、「自由意志」という能力を持っているという事実に関しても自由ではありません。当然ですが。自由意志が備わっているということは決まったことであり、その事実を変えることはできません。自由意志をなくすこともできません。同じく、人間に与えられた目的に関しても我々は自由ではありません。我々は自分で自分を創造したわけではないので、自分に与えられた目的を変えることもできません。
たとえてみると、技術士が機械を作るときに、その機械の目的を決定して、「何のために」機械があるのかは、技術士が決めることです。同じく、天主は人間をお創りになったとき、「何のために」人間を創ったかということを決めました。天主は創造主なので、何のために創るのか、つまり被造物の目的を決定しました。
我々は自然本性においても、自由意志を持っているということにおいても、人間の目的においても、我々は自由ではありません。

それでは、自由とは一体何でしょうか。既に定められた一定の目的に向けて、自分の動きで行くことができるようにされているということです。また実際にその目的地にたどり着くために、自由意志の付与により、目的地に行く手段を選べるということです。
~~

人間の目的にたどり着くために、その助けとして、天主は外的な法を与えました。「自然法」と呼ばれる法です。
自然法という法は、人間の自然本性において刻印されています。自然法は案内者といったような役割を果たします。我々人間の目的へ導くためです。
たとえてみると、自然法は道路に備えて置かれた安全冊と似ています。ただ、正確に言うと、安全冊は道路につけくわえられたのではなく、道路そのものと一体となって、その一部となるような感じです。
我々の中において、自然法は安全冊のような役割で、何をすべきかを常に我々に勧め、何をやってはいけないのかを我々に禁じて、それらを教えてくれるのが自然法です。天主はこういった案内者を我々において刻印なさいました。その案内者の助言のおかげで、我々がふさわしくよく自由意志を行使し、相応しい良い行為を決定することができ、我々人間の目的(善)を得るように助けてくれるためです。これが自然法です。

自然法とは、理性のある被造物の本性に刻印された「法」で、理性のある被造物(つまり人間)のみに付与されて、その目的に傾かせる効果があります。そうすることによって、自然法に従うなら、人間は自分の本性にピッタリとして適切な行動を決定していけるように創られています。だから、自然法とは、我々人間の本性のためにだけある、理性のある被造物であるという特徴に合わせた特定の法です。
あえて言えば、人間においてのみにある、人間版の「永遠の法」、人間用の永遠の法だと言えるでしょう。一人一人の人々において刻印されている人間用の「永遠の法」が「自然法」です。
~~

自然法には特性が三つあります。
第一、普遍であり、
第二、不変であり、
第三、絶対です。

第一、自然法は普遍です。
一体どういう意味でしょうか。それは、すべての人間が共通しているという意味です。また、すべての人間は例外なく同じ自然法を仰いでいるという意味です。それは当然です。というのも、すべての人間は同じ「自然本性」を共通して持つからです。したがって、当然ながら、「人間」と呼ばれるすべての人々は同じ目的を持ち、その目的へ導いてくれる同じ自然法が備わっています。自然法はその名の通り、「人間の自然本性」にかかわる法ですので、人間を定義づける本性が共通のものであるかぎり、すべての人間に適用されます。単純なことです。したがって、自然法は普遍です。
自然法はすべての人々に適用されているとは、時代を問わず、場所を問わず、すべての人々に適用されているという意味です。どこにいるにもかかわらず、人間であるなら、その自然法に従う義務があるということです。
だから、普遍的な法だといいます。例外なく、一人一人、すべての人々に適用されるからです。我われは「人間」として、人間の自然本性が備わっている事実で、自然法の傘下に入っているのです。

第二、自然法は不変です。それもわかりやすいでしょう。というのも、人間の本性からくる特性ですから。人間の自然本性は不変です。つまり、我々は人間の本性、人間を定義づけている人間本性を変えることができません。我々は「人間である」、他のものではないということです。
人間として生まれてきた限り、いきなり、ある日、「盆栽」になろうと思っても、動物になろうと思っても、天使になろうと思っても、それは不可能です。人間ですから。最後まで、我々は人間であり続けるしかありません。人間ですから。人間本性は不変です。生まれながら人間の本性をいただいているので、人間本性を変える力は我々にはありません。人間本性は不変ですから、人間本性を統治する自然法もしたがって不変です。
自然法は、我々が人間である限り、人間であるから、必ず我々に適用されています。また時代場所を問わず、人間本性と同じように不変です。また、自然法は不変であるゆえに、だれも自然法が課す義務から免除されることはありません。不可能です。何があっても、どうなっても、どこにいても、いつの時代に生きても、だれであっても、例外なく、自然法は人間に必ず適用されています。その意味で、人間は変わることなく、自然法を遵守すべきです。

第三の特性、自然法は絶対です。それも自然本性からくる帰結です。というのも、自然法は相対的であるとは言えないから、絶対です。
つまり、自然法に関して「場合によって」「場所によって」「性格によって」「時代によって」とは言えないので「絶対」です。
場合を問わず、自然法は絶対に適用されています。自然本性に刻印されているので、絶対に人間に適用されます。我々人間は自分の人間本性を常に持ち、ずっとその自然本性が備わっているので、人間の本性において刻印されている自然法をも常にもちます。従って自然法は、ずっと適用されるのです。
自然法は普遍であり、不変であり、絶対であります。
~~


自然法にはさらに二つの形で分けることができます。
自然法は肯定命令形か、否定禁止形かのどちらかです。

自然法は何かを禁ずるときに、「否定禁止形」をとります。
自然法が禁ずるとき、絶対的に禁止し、何があっても一切免除されることはありません。
自然法上、犯してはならないことは、いつまでも犯してはなりません。
例えば、「汝、無罪の人を殺すなかれ」という禁止があります。罪のない人を殺してはいけないといった命令は、人間の本性に刻印されている禁止です。自然法の一部です。例外なく、罪のない人を殺してはいけないということです。罪のない人を殺すのは一切認められることはないということです。
例えば、自然法において、「嘘をつくなかれ」という禁止もあります。嘘は真理に反するから、つまり、天主そのものに反する行為だからです。この禁止は間違いなく人間本性に刻印されています。簡単に確認できることですね。幼い子供が嘘をつくとき、子供は自然に恥ずかしくなって、良心の呵責を感じていますね。いわゆる、躾や教育はまだない時でさえ、子の心において、「嘘をつくな」といった何かがあり、「嘘をついて悪かったよ」といった声が心の中のどこかにあります。それは、自然法にほかなりません。自然本性に刻印された自然法です。幼い子が嘘をつく時、目をそらすか、あるいは赤面します。なぜでしょうか。自然本性に刻印された自然法は「嘘をつくと人間本性に反するよ、人間らしくないよ」と心において自然法が言ってくれるからです。例外なく、「嘘をついてもよい」といった場合・状態はないということです。以上は否定形の自然法であり、つまり、諸禁止です。

ところが、肯定形の掟もあります。つまり、「ある行動をせよ」と命令する掟を指します。例外なく適用されている掟ですが、必ずしも、いつもいつもずっと絶えずにやらなければないならないということはもちろんありません。
いわゆる、「やるべき時」が現れると、「やるべきこと」を命令するのが、肯定形の自然法です。
例えば、本性に刻印されている肯定形の掟の一つは、「天主を礼拝せよ」があります。
十戒の内の第三戒において、より詳しく決定されていて、「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし」とあります。
十戒が啓示される以前にも、人間の宗教性というか、どこもいつも、被造物が自分を創り給った創造主を賛美・礼拝するという行為は自然なことでした(本性に刻印されています)。当然ながら、一秒一秒、一瞬一瞬、いつも絶えずに、天主を礼拝する行為をやるべきだということではありません。天主を、礼儀正しく相応しくよく礼拝すべきだという掟です。

肯定形の自然法は、我々に義務を与えますが、否定形とちょっと違う意味です。
自然法には、否定形の掟と肯定形の掟との二つの形の掟があります。

さらにいうと、自然法を強調する必要があります。自然法は大事です。
なぜかというと、現代に置いては、残念なことに、無理なことでありながら、自然法から「解放」されようとしています。それらの悲惨な帰結を毎日のように目の当たりにします。残念なことに、自然はいずれ仕返ししてくるから、大変です。これは問題です。
自然法は必ず人間本性に刻印されているので、しょうがなく、どう思っても、人間本性をもってこのように人間が存在しているわけです。
一番野蛮な民族でさえ、歴史において、どこでも、いつの文明においても、必ず自然法への従順が確認できます。最低限でも、あえて言えば、いちばん「異教的な文明」においてでさえ、自然法という基礎があるということを確認できます。

例えば、「正義」という基礎はどこもいつも国家によって追及され続けました。というのも、正義というのは自然法に織り込まれているからです。自然本性の一つの基礎です。
正義とは「それぞれの人に、それぞれの相応しい分を与える」という掟です。法体制を問わず、形を問わず(例えば日本の場合、和の精神という形で)、こういった掟が必ず存在しています。
さらにいうと、国家以前にも、一人一人の我々の良心において正義への要求は刻印されていることはだれでも確認できます。子供と同じように、大人になっても、心の内に、良心を通じて、自然法が叫んでいます。

たとえば、異教徒のキケロは次の有名な言葉を残しました。
「成文になっていないものの、我々が生まれたとき、我々と一緒に生まれた法がある。その法を習ったことはない。誰かより貰った法ではない。どこにも読んだことのない法が。我々の人間本性からいただいた法だ。自然本性こそは我々にその法を覚えさせ、自然本性こそその法を我々の内に刻印した。」

これは古代ローマの異教徒のキケロの言葉ですが、自然法は我々において、不本意にも、いつでも刻印されているということをよく示している文章でしょう。
我々が人間であるゆえに適用されている法ということです。自然法です。

自然法の中身を具体的に知るには、どうすればよいでしょうか。
一番完結的に自然法が現れるのは、十戒においてです。
自然法を知るためには、啓示された十戒を見ると一番早いと言えます。当然、自然法ですから、自然本性の次元ですから、理性だけでその中身を究明することは可能です。
ところが、より明白にさせるために、より広くだれでも把握できるように、天主は人間に自然法を啓示なさいました。
自然法は、特に十戒において、そして、私たちの主により山上の垂訓においても、特にはっきりと啓示されました。

最後に、自然法の根本的な掟を無視することはできないと覚えておきましょう。
例えば「嘘をついていかないというのは知らなかった」といえる一人もいないわけです。キケロが言う通りです。我々の本性に刻印されている根本法だからです。


天主の永遠の法:五つの法の種類[その①] 【公教要理】第七十八講

2019年12月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十八講 永遠の法



法についての講話の続きです。
最終的に、道徳法に至りますが、道徳法は人間の永遠の目的地である天国にたどり着くために、人間の行動を律する法です。
前回の講話では、聖トマス・アクィナスに従って、法の定義を示しました。
法とは「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」と説明し、定義のそれぞれの部分を詳しく解明しました。

法を定義したのちに、法を区別する必要が出てきます。
法にはどういった種類があるのか、法の種類として何種類ぐらいあるのか、ということです。

法を区別するにあたっては、だれが立法者であるかによって区別することができます。
ところで、立法者として、大きく分けて二つがあります。
前者は最高の統治者である天主ご自身です。天主が立法する法は、「天主の法」と呼ばれています。
それから、後者の立法者は天主がご自分の権威を委任した者です。というのは、天主はあらゆる物事をご自身で直接に管理しているわけでないからです。このように天主が人間に権威を委任するという事実は、天主の全能を示し、天主の無限の力を示しています。したがって、委任されただけの権威をもって人間は法律を立てることができます。
要約すると、法には大きく分けて二つの種類があり、天主によって立法される法は「天主の法」、人間によって立法されている法は「人間の法」と呼ばれています。
~~

「天主の法」
「天主の法」には、三つの種類があります。
第一の種類、永遠の法と呼ばれています。
第二の種類、自然法と呼ばれています。
第三の種類、実定法と呼ばれています。

他方、「人間の法」は二つに分けられています。
その区別はどの社会によって立法されるかで、つまり、自然社会あるいは超自然社会によって立法され、公布されるかで分けられています。
第一の種類は、自然社会により立法されるもので、世俗法(あるいは市民法)と呼ばれています。
第二の種類は、超自然社会により立法されるもので、教会法と呼ばれています。

全部で法の種類は五つです。
一、天主の永遠の法。
二、天主の自然の法。
三、天主の実定の法。
四、人間の世俗の法。
五、人間の教会法。


一つずつこれらの法を検討していきましょう。

最初に、天主の永遠の法を説明しましょう。おそらくわれわれ人間には一番理解しづらい法であるかもしれません。というのも、どうしても人間が到底把握しえない法だからです。
それでも、この世のすべては永遠の法によって支配されている事実には変わりありません。

永遠の法とはいったい何でしょうか。その名の通り、永遠に存在する法です。永遠の法は天主の御知恵によって望まれた法でありますが、あらゆる被造物の動きと行動をそれぞれの目的に傾かせる「法(法則)」です。
もう一度、法の定義を思い出しましょう。法とは「理性による規定であって」、というのは理(ことわり)に従っているからです。
永遠の法の場合、その理(ことわり)は天主の御知恵です。全宇宙を創造なさった天主の御知恵です。ところで、天主は全宇宙を作り給うた際、被造世界を秩序づけました。

ところで、西洋語では「宇宙」を「Univers」といいますが、「Uni-」という接頭語には「単一」あるいは「統一」という意味があります。つまり宇宙が統一されているという意味ですが、それは統一されるには秩序がなければなりません。
つまり宇宙には「秩序がある」のです。天主は秩序をつけて宇宙を整えました。

また、被造物ごと、物事ごとに、それぞれに目的(地)を与え給うたのです。その結果、例外なく、あらゆる被造物、あらゆる存在、あらゆる物事はある目的へ向かわせられているのです。永遠の目的は天主の栄光です。したがって、全宇宙は常に天主をほめたたえて、天主の御栄光を示しています。いわゆる、ある何かは、存在するだけで天主を讃美し、存在しているすべての物事は天主の栄光を讃えています。

また、全宇宙は存在し続けて成り立ち、動植物は生きているだけで天主の栄光を示しています。ところで、典礼においてよく歌う聖歌がありますが、そこに被造世界のすべてが描かれています。星々、天、地、太陽、月、植物、動物、雨、霰(あられ)等々。
聖歌は「星々よ、天主を歌え、天主を讃えよ、天主を賛美せよ」と繰り返し歌っています。

なぜでしょうか。それは、それぞれの被造物は存在するだけで、また創られた時に与えられた目的を達成するだけで、あらゆる物事を秩序つけた天主の御智慧を示し、その御智慧を裏付けているからです。つまり、永遠の法はそれぞれの物事に刻印されているのです。

以上は永遠の法のご紹介でした。
繰り返すと「それぞれの物事はそれぞれに目的があり、その目的に向かわせられている」のであり、これは永遠の法によります。
「永遠の法は天主の御計画である」と言えましょう。天主の御計画です。あらゆる存在物、あらゆる物事に適用されている天主の御意志です。天主の御意志というのは、天主がお望みになったことです。

永遠の法を次のようにたとえてみましょう。
技術士が機械を作っているとしましょう。その技術士はその頭において、またそのノート、図面などにおいて、あらかじめ機械のすべてのことを考えています。彼が計画しているということは永遠の法と似ています。

技術士が作る機械の「法」、つまりその計画などは、すでに技術士の意志において存在しています。機械の作業において行っていくすべての物事は、ある目的に向いていて、それは技術士が作った時、あらかじめ技術士が決めて置いたからです。技術士はその目的を決めて、機械をそう定めます。
ですから技術士の頭にある計画、そして機械においてその計画が実際に行なわれるというのは永遠の法と似ています。

全宇宙、あらゆる存在の創造主である天主は、同時にあらゆる存在の「秩序づけ」あるいは「目的付け」の主でもあります。永遠の法そのものです。永遠の法は例外なくあらゆる被造物に適用されています。理性のない被造物ならなおさらのことです。というのも、理性のない被造物はそれぞれの目的へ「不本意にも」動かされているからです。というのは、動物や植物や大自然の物事などの動き・働きは既に決定されているからです。
創造主がお望みになった通りに、理性のない存在物は働くしかありません。また後述しますが、永遠の法は理性のある人間においても刻印されています。ある行為を人間に勧め、ある行為を禁する永遠の法ですが、人間は自由であるゆえに、最終的にその自由を使って行為を決めて実践していきます。理性のある人間は、自分の意志で、つまり自由に行為を決めて、与えられた目的へ行かなければならないのです。

以上のことを要約すると、永遠の法は、天主において存在する天主による法であり、その法は全宇宙を律するものです。永遠の法は最高の法であり、種類を問わず、あらゆる法は永遠の法に依存しています。
言われてみたら当然のことですが、永遠の法へ依存する以外、法は存在しえません。というのも、あらゆる法は「直接に天主がお望みになった法」に依存しているからです。

後述しますが、したがって、自然の法も、天主の実定の法も、そして、市民法と教会法を問わずあらゆる人間の法でさえ、結局、永遠の法に帰するのです(そうではない「法律」は法に値しないということです)。

というのも、もしもある人間の法が、永遠の法から逃れようとしたら、かかる「法律」は何ものを律することはできず、統治することはできなくなるからです。というのも、かかる「法律」は「被造物をそれぞれの目的へ導く」ような法でなくなるからです。「秩序づける」法でなくなるからです。
したがって、このような法律は、ある意味で「創造の御計画」への反乱のようなものであり、「天主の御計画」を邪魔するようなものです。だから、本来の意味で、法ではないのです。
以上は永遠の法のご紹介でした。

聖トマス・アクイナスの「法」の定義 【公教要理】第七十七講

2019年12月15日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十七講 法について、その定義



道徳に関する連座講話を続けましょう。
道徳とは「天主の許に辿り着くために、天を得るために、人間としてやるべきこと、実践すべきことを規範する分野」です。
人間が天主によって造られたのは、ある特定の目的のためでした。その目的は永遠の至福です。天国を取得するためです。そして、天を得るための「行い」を実践しなければなりません。これが「道徳」の語る分野です。
「道徳」という単語はラテン語の「Mors, moris」に由来していて、「風俗・品行・風習」という意味ですが、天主の許に辿り着くために人間が実践すべき行動を律する品行という意味です。

人間は常に行為をします。こういった行為を「人間的な行為」と呼んで、どういった中身かはすでにご紹介しました。
そこで、人間的な行為が律せられる必要があります。言い換えると、そういった行動を「相応しい秩序に適わしめる」必要があります。

「規定・規律・規則」といった単語は、本来、「定規」という語源に由来します。
「定規」つまり鉛筆で線を真っすぐに書けるように助ける道具ですね。
同じように、「真っすぐ」な行動を実践出来るように、天主は「規定」を人間に与え給うたのです。「真っすぐ」というのは、「天に行けるようにする」行動という意味です。

一般的にいうと、二つの規則があります。
一つの規則は人間の内心にあり、これは「良心」と呼ばれています。前回にご紹介した良心です。
もう一つの規則は人間の外にあり、外から人間に課せられる規則で、「法」と呼ばれています。今回は後者の規則、「法」を見ておきましょう。
「法」とは、人間の行う行為を真っすぐにするように、また人間的な行為が真っすぐであるように、外から課せられる規則であります。
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「法」とは何でしょうか。神学大全において聖トマス・アクイナスの定義を引用しておきましょう。
この定義は広く一般に認められて、広く共通されている基本的な定義です。ほぼ全神学者をはじめ、殆どの哲学者に至って、聖トマス・アクイナスの定義を採用している事実があります。

「法」とは「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」です。
以上の定義でのすべての言葉、一個一個の単語は重要です。

まず「法とは理性による規定」であります。
第一の言葉は「規定」です。大事な言葉であって、「規定」は「秩序づける」という意味で、「秩序を立てる」という意味です。まさに、「真っすぐにする」というのは、「正す」という意味であって、「秩序づける」ということです。「秩序づける」とは、「各々の物事をそれぞれの目的地に向かわせる」という意味です。
ところで、日常生活でも政治生活でも、「命令する」というのはラテン語の語源を見ると、「秩序を立てる」「整理整頓して綺麗に片付ける」というような意味です。本来ならば、「秩序づける」としての「教令する」とは、いわゆる単なる「命令する」という意味に留まらず、命令を受ける相手が自分の目的地に辿り着けるように、その目的を取得させることを可能にする「命令」という意味です。言い換えると、命令するのは本来ならば受ける側の「完全」を助けるという意味であって、「完成」する、または「命令」するとは語源的にいうと「果たす」という意味です。

なお命令には受ける側のその「目的」・「目的地」という要素が含意されています。つまり、命令するとは、「命令を受ける相手の完全を助けるためにある」のです。
そして、法とは「規定・命令」です。その意味は「その(受ける側の)目的地に向かわせる規定」としての「命令すなわち法」です。言い換えると、法の下にある被創造物が自分の目的を取得させることを助ける「法」です。
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秩序は、その前提として必ず秩序づける「知性」があります。知性が前提されています。従って、「法は理性による規定・命令」だと言われます。
法とは、理性が物事において秩序だてる営みです。だから、本来ならば、命令するとは「理性の作用」の結果です。なぜかというと、理由があります。

その古典的な定義は近代的な発想と真逆です。特に権威に対する近代的な発想と対照的です。
意志を絶対化するカント哲学に由来するそういった「権威主義」という近代的な発想は、「理由なしに理性の作用なしに、命令するだけで法となる」という発想だからです。考えてみるとこれは理不尽な発想です。なぜなら、その定義ですと、法は法でなくなるからです。
本来の「秩序づける」命令という本来の「法」ではなくなります。なぜかというと、理性などを除いた純粋な「命令」としての「法」は、何の秩序を立てることもなく、単なる「気まぐれ」に過ぎなくなるからです。これは法ではありません。それは「近代的な法」の定義の大問題であって、その点こそに誤りがあります。

「命令する」人は、「勝手に何でも命令できる」ということはありません。命令は「理性に従って正しい」命令でなければなりません。言い換えると、知性に従って発する命令でなければなりません。または言い換えると、より上の原理に頼った理性の作用による結果でなければなりません。
命令とは、本来ならば、ある種の「智慧」です。ところで、智慧の持主である「賢者」を特徴づける要素というのは「秩序づける」ことです。だから、古人による政治学理論を読んでみても、例えば古代ギリシャ人の政治学理論を読んでみると、「助言」をもって命令していた王などを助ける「哲学者」なりの賢者が必ず登場します。なぜかというと、命令するために、「正しく秩序づけるべし」という前提があるからです。そのために智慧を持つ賢者の助言無しに到底出来ないことだからです。

「法は理性による規定・命令」です。だから、「法」とは、どこかに「知性」が前提されています。ところで、意志とは、必ず知性によって照らされているはずです。そうでなければ、先ほど取り上げた「権威主義」になるか、あるいは「意志主義」になるかどちらかです。

意志主義というのは、「何ものにも」照らされずに、意志が作用するという意味です。単なる例えに過ぎませんが、意志主義とはある面、「暗闇の内で松明を持たずに進もうとする人」という状況と似てはいます。照らされていない意志とは、そういった人と似ています。ところで、知性を無視して出された命令は「光がないままに暗闇の内に行動しようとする」ことと似ています。

法とは、それと違って、知性によって発するものです。だから「法は理性による規定・命令」だと言います。
これは、法を定義するための第一点であって、非常に重要な要素です。というのも、人間はその法を理解することが可能であるはずであって、法を理性で納得できるはずです。ところで、公教要理においても、道徳の部は「教義の部」の後に置かれています。何故なら、上にご紹介した定義に沿って道徳は教義より生じるからです。

天主をはじめ、知性が信じるべき教義全般を学んだ後で、厳密に言うと全て把握することはできないものの、知性が部分的に垣間見えるそれら多くの玄義が紹介された後で、言い換えると、少なからず知性を照らす教義が紹介された後、初めて、道徳について紹介される流れです。言い換えると、教義による「光」があるから、その光に照らされて初めて如何にして道を歩くべきかが紹介できるようになるのです。

ところで、本物のキリスト教徒が、本当の意味で真っすぐに行動できるようになるには、ある程度、信仰において成熟してからのはずです。ここでの成熟というのは、真理によって「相応しく正しく照らされた」という意味です。
宗教上だけでなく、どの法でも、法であるなら、法は知性から発します。

「法」とは「共通善を目指しての理性による規定であって」、これも、法の定義において重要な点です。

「共通善を目指して」とは、法が「共通善」のためにあるという意味です。言い換えると、法は「全体」のためにあるのです。「共通善」という概念は一言で簡単に定義できないのですが、ちょっとイメージしていただくために、「共通善とは、特定善の反対だ」と言えましょう。特定善というのは「我が善」であって、「一人だけの善」です。あえて粗末にいうと、その「特定善」はある種の「エゴイズム」だと言えましょう。

それは兎も角、特定善とは、一人だけの善であり、ある個人だけの善で、個人の範囲を超えない特定の善です。それに対して、「共通善」は「個人の善」に留まらず、それを超えた「全体の善」です。というのも、人間は必ず何かの「全体」の内に生活していて、ある社会に必ず属している事実があるからです。
というのは、人間は必ず男女の交際によって生まれて、家族という小社会において成長し、学校なり村なり祖国なりの、多くの共同体の内に成長していくからです。また、超自然の次元でいうと、洗礼によって教会という超自然の社会にも属します。

ところで「指導者・立法者」によって宣布される「法」は、その法を受ける相手の完全化のためにあります。つまり、法とは受ける相手を、より優れた善である共通善に適わしめるためにあるのです。この上ない共通善、つまり、至上の共通善とは、天主御自身です。なぜかというと、天主は全宇宙の善・目的地だからです。

法とは、必ず共通善を目指し、共通善に従います。共通善に適わない法律とは「法」ではないのです。だから、ある個人、あるいはある小団体の善だけに適う法律とは「法」ではないということです。要するに、法とはその本質として、「共通善に適う」べきだからです。
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最後に、法とは、「共同体の世話を担当している人によって公布される」ものです。
その人は、統治者だったり、王だったり、権威者だったり、共同体を指導者するその人です。ところで、「指導」Regereという語源を探るとRectumという意味が含まれています。つまり「真っすぐ」という意味です。
だから、「指導する」とは「真っすぐにする」という意味です。言い換えると、指導とは、調整、規制と言ったような意味もあります。
規定が「真っすぐ線を引く」ということであるように、「正して真っすぐにする」ことです。

ところで「正義」という徳は、他人との関係を調整し、その関係を整える徳だと定義されていますが、「真っすぐにする」というのは、究極的に言うと「天主に適わしめる」、究極の共通善に適わしめるということです。

「共同体の世話を担当している人によって公布される」。
公布されるというのは、法を適用することは可能になるには、「公布」されて、知らされる必要があるからです。だれも知らない「法」とは法として成り立たないで課することはできないからです。

非常にざっくりでしたが、法とは何かをご紹介しました。
大事ですからもう一度に繰り返しましょう。一つ一つの言葉は重要であるから注意しましょう。

「法とは、共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布される」です。

以上の普遍的な定義は、法の種類を問わず、法ならば必ず当てはまります。この定義に基づいて、これから少しずつ幾つか個別の法を見ていきます。
教会法は何であるか、何のためにあるのか、どこで見ることができるのか、どうやって従うのか、何を命令しているのか、何を禁ずるのか、などなどという教会法の多くの側面をご紹介したいとも思います。
十戒に収められているそれらの課題を次回から少しずつご紹介していきたいと思っております。

「良心」の本来の意味を知っていますか?【公教要理】第七十六講

2019年12月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十六講 良心について


前回は、人間の行為の遠因の規範をご紹介しました。
すこし思い出しましょう。人間の行為の道徳性を決める基準は、道徳法に対する適合性あるいは不適合性にあります。取り上げた例として、鉛筆が定規に沿うように、道徳的な行為は道徳法に適っています。つまり人間の行為は鉛筆の書く線に例えられます。その線は定規に沿わなければなりません。
人間の行為の道徳性は、例えてみるなら「その線の評価」に当たるのですが、その根源は三つあります。行為の中身とその事情とその目的です。
人間のある行為を線にたとえるのを続けるなら、中身は「その線自体」に当たります。事情は「その線の太さや色やその他の様子」に当たります。目的は「何のためにその線をかくのか」に当たります。
つまり、人間の行為は、以上の道徳性の三つの根源により、その行為の道徳性を評価できます。しかし、さらに規範に適うかどうかを見なければなりません。

前回はその規範が二つあるとご説明しました。
第一に、外的な遠因の規範である「法」があります。
前回はこの法をご紹介しました。「天主の法」と「人間の法」、また、天主の法には、「永遠の法」と「自然法」と「実定法」の3つがあり、続いて、
人間の法には、「教会の法」と「市民法」とがあります。


次に、内面的な近因の法もあります。「良心」と呼ばれるものです。

これは現代よく使われている言葉です。問題は、現代では本来の意味から歪曲されて使われていることです。これに注意すべきでしょう。
特に17世紀の「主観主義」と言われている新しい哲学の出現のせいで、「良心」の本来の意味がどんどん見えなくなってきました。

では、道徳上、良心とは一体何でしょうか。
この道徳上の良心は、現代使われている意味での、近代哲学の「良心」と混同してはいけません。
道徳の良心とは「人間の理性による実践的な評価」です。
御覧の通り、現代では一般に「良心」とは、何か「知性の代わりに、あえていえば「理解力」の代わりに、作用している能力」というような意味になっています。

実際には、道徳上の「良心」はまず「評価」であって、「判断」です。ここでいう「判断」というのは「ある真理を表明する」という意味での評価・判断です。
つまり良心とは「実践的な評価」であって、行為の前後も行為の途中も我々に「その行為の善悪を判断して、断言してくれる」ものです。これが道徳上の良心です。「知性による判断」です。また、「実践的な判断」とは、「人間の行為を対象にしている判断」ということです。
道徳上の良心という判断の目的は、すでに行われた行為、あるいはこれからやろうとしている行為が善であるか悪であるかを判断することです。

このようにして、良心は我々の内面にあって、即時に何をやるべきか何をやってはいけないかを判断してくれます。あえて言えば、良心というのは、我々一人一人において「法が浸透した状態だ」と言うような感じです。つまり、良心とは我々の中に刻印されている「法」の「実践的な認識」ということです。行為をやる前の場合、良心は「これから何をやるべきか、何をやってはいけないか」ということを教えてくれます。行為をやった後の場合、良心の判断は、我々のやったことを肯定するか、断罪するかです。我々のやった行為の善悪次第で、我々を賞賛する良心になるか、我々を批判する良心になるか、です。ところで、以上が良心の二つの機能を現します。

「前件の良心」は、行為をやる前に「これはやってはいけない」「これはやってもよい」「これをやるのは良いことだ」というようなことを教えてくれます。そして、「後件の良心」は、行為が行われた後に作用される良心であって、「やったことは善かった」あるいは「やったことは悪かった」と裁いてくれます。内面的な叱責、内面的な後悔という気持ちで表わされる良心です。
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確かに、良心とは「善に対する愛」と「悪に対する憎しみ」という感情が伴います。または、「満足」と「後悔」が伴うものです。そういった感情が良心に伴うのです。
以上のように、同じ良心をすこし区別することがあります。

一方、良心は、近因の規範なので、次のように考えるしかありません。
つまり、「良心は規範なので、必ず良心の判断に従うべきだ」と。確かに、これはまさにそうです。良心は人間の行為の規範なので、鉛筆が定規に沿うように、我々の行為も良心に従うべきです。それは当然のことですし、確かにそうです。「我々の行為は良心に従うべきだ」ということは確かです。

しかしながら、注意しましょう。「我々の行為は良心に従うべきだ」からといって、まだすべてを言い尽したわけではありません。

というか、暗に先ほどの命題には、幾つかの前提が含まれています。思い出しましょう。人間の行為において、二つの規範がありますね。一つは人の外にある規範で、もう一つは内面的な規範です。この二つの規範は無関係ではありません。その逆です。深い関係にあります。というのは、内面的な「良心」という規範は、あえて言えば、外の規範の内面における「浸透」に過ぎないからです。
このようにして外的な規範は内面的な規範と深い関係を持ちます。つまり、外的規範は「良心を通じて私の内面において伝わる」のです。「実践的な判断」である良心とは、あえて言えば「私の内面にある思考の結論だ」といえます。ただ、その思考は「法を考慮した上、やろうとしている行為を考慮してから、良心が結論を出して判断する」と言うような思考です。

例えば、外的な規範には「盗むな」という掟があります。言い換えると、「私が所有していない「何か」をこっそり取っておくことはやってはいけない」という掟ですね。これが外的な法の掟ですね。そして、今、目の前に私のものではない「この物」がある場合、良心は「拾ったこの物は返すべきだ」と判断します。「取ってはいけない」と良心が判断します。このようにして、どうやって「良心」が、合理的な思考の結論であることが見えてきたでしょう。その思考の前半は「外的な法」です。このようにして、良心と外的な規範との間に必然的な関係があるということが見えてきます。

従って、「良心に従うべきだ」と言った時、暗に「外的な規範にも従うべきだ」ということが含まれます。つまり、「自然法の掟にも従うべきだ」も暗に含まれています。だから、「それぞれに良心があるから、道徳というのは完全に個人的なことであって、主観的なことだ」とは、到底言えないわけです。全く違います。「それぞれに良心がありながらも、ある行為の道徳性は客観的であって、どうなっても客観的なまま」です。

なぜでしょうか。良心は確かに「実践的な判断」として各自に特別に備わっているかもしれませんが、その良心は、必ず普遍的で不変な絶対の法に依存して判断するからです。だから、「良心に従うべきだ」と言った時、同時に自然法という「外的な規範にも従うべきだ」も必ず含まれています。また、暗に「外的な規範に従うように、良心を養うべきだ」ということも含まれます。

ところで、幼児を見てみるとこれがわかってきますね。「嘘をつく」という例をもう一度に取り上げましょう。子供の良心は、実践的なので、確かに「個人的な良心」であるかもしれませんが、個人的でありながらも、良心はまったく主観的ではなくて、客観的です。嘘をつく子供はどうしても「嘘をつくな」という外的な法が存在しているということを感じなくてはなりません。例えば、罰を避けるためにとか、つまり恐れをもって嘘をつきたい時でも、その幼児の内面的な声は「嘘をつくな」と必ず言うのです。これは外的な法に当たるところです。そして、頭の中で、言おうとしている言葉を検討します。言おうとしていることは「嘘」です。現実にあったことに反する「嘘」、真実に反する「嘘」です。例えば、「父がこの容器を壊したのは私なのかと聞いている」としましょう。私は壊したが、「嘘をつくな」という外的な掟を直感して、「私がやったことと違うことを言おう」と、嘘をつこうとして、良心によって悩まされますね。これこそが良心の声です。良心は、ある外的の掟とある特定の行為に対する特定の客観的な結論を指します。

要するに、道徳性の根源と外的な法と内面的な法との間に深い関係があることが見えてきたでしょう。これらはやはり全体を成します。言葉で区別したところに、実際において一体を成して、全体を成して分けることはできません。自然法という外的な規範と良心とを切り離すことはできません。前にも申し上げたことですが、良心を自然法から切り離すそうとすると、無秩序となるだけです。なぜかというと、結局、普遍的および客観的な法を否定することに帰するからです。

近代的な意味での「良心」に皆一人一人が従うべきだとしたら、つまり、実際にいうと「自分の気まぐれに従うべきだ」としたら、もう「法」はもはや存在しないことになります。各自が自分の「法」となってしまって道徳性はもはや存在しなくなります。道徳性が消えた世界では、目的も消えます。定規を外したら、定規の目指している目的地もなくなります。各自が気まぐれに一線を引いて、自分勝手に自分が自分の目的となってしまうのです。要するに、こうなった場合、「人間は自分自身を目的にする」ことになります。そうなった場合、暗に「自分を創造したのは自分だ」ということになります。というのも、「人間は自分自身を目的にする」とは、「自分で自分の法を決める」というに等しいと暗に断言されるからです。
しかしながら、人間は人間を創造したことはありません。従って、人間は人間において自分の法を決めたこともそもそもありません。従って、「人間は自分自身を目的にする」ことはありません。したがって、良心が「自律する」ことは不可能です。

こうして、個人的および主観的な良心を定義する近代期の多くの理論は、どうやって潰れるかが見えてきたと思います。
「自由だから自律した良心が気まぐれにしても良い」といった夢想は嘘です。

我々の良心は必ず客観的な法に依存しています。従って、少しずつ我々の良心が「永遠の法」に適うように、「自然法」・「天主の法」・「実定法」に従うように、そして「人間の法」(教会の法と市民法)にも従うように、これを養うべきです。

勿論、「人間の法」に従うのは、良い法の場合に限ります。つまり、人間によって制定された法が「永遠の法」と「天主の法」に依存する限り、人間の法に従えばよいのです。というのも、法を制定する権限を人間に与えたのは天主であるから、人間が法を制定する権能において必ず天主に依存するからです。
つまり、人間は、自分で制定する法を、天主に依存させるべきであって(教会の法も市民法も含めて)、そうでなくなれば「法」ではなくなります。

結局、すべては「自然法」と天主の「永遠の法」に依存しています。だから、良心でさえ、これらの法に適うように養成すべきです。
このようにして、良心が「近因の規範」とは、「自薦的な判断」としてそうです。
つまり、やろうとしているあるいはやった具体的な行為を対象にして、外的な規範を適応した判断です。

従って、良心とは絶対な法ではありません。

言い換えると、良心とは「普遍的および不変な法」でありません。
何故なら良心が「普遍的な判断」ではなく、「実践的な判断」だからです。確かに「良心に従うべき」です。が、暗に「良心を養成すべき」ことでもあって、養成した良心こそが我々の行為の規範となるのです。

「天主の法」と「人間の法」 【公教要理】第七十五講

2019年12月01日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第七十五講 道徳の法



前回は、行為の道徳性の三つの根源をご紹介しました。
要約すると、ある行為の道徳性とは、規範に対する適合性で決まる、と説明しました。
行為から見て、その善悪を決める諸基準をご紹介しました。
行為の「中身」、行為の「事情」、そして行為の「目的」つまりどの意図をもってある行為を行ったか、です。これが、行為の道徳性の三つの根源です。

また、「人間の行為」が善か悪になるには、その行為を律する規範に適合するか不適合であるかによって決まります。
二つの規範があり、「外的な遠因の規範」と「内面的な近因の規範」です。

本日は、「外的な遠因の規範」についてご説明したいとおもいます。
「道徳の法」と呼ばれる規範です。


まず、「法」とは一体何でしょうか。法とは「共同体の善を担当している指導者によって発布される命令であって、共通善を目指す理(ことわり)により発布される命令」です。この定義は密度が高いですね。

先ずは「法とは、理による命令」です。従って「法」とは、発布される「命令」ですが、恣意的に発布されるのではありません。「法」とは、必ずある光に照らされて、ある智慧に照らされて、発布されるのです(そうではないと、法にならない)。つまり、「法」とは、純粋な意志による行為ではありません。(立法者の)意志が「決めたいと思って決めたからというだけで法になる」のではありません。
法において、必ず「理への適合性」が包含されていなければなりません。「法」を定義する時に、第一に取り上げるべき要素です。言い換えると、「法」には理由、存在理由があって、智慧に照らして理によって発布されるものです。

次の要素は、法とは「共通善のために」発布されるということです。法とはある社会を統治するものです。そして、社会内の諸絆が「善く」結ばれているようにするのが「法の役割」です。法がこれらの絆を律します。
「法」は、共通善を追求し、共通善を目指すのです。「法」は、複数の人々が共通の「善」を取得して享受するために存在しますから、定義において「共通善を目指す」という部分があります。「共通善」とは、ある共同体の人々が、そのためにある「目的地」に辿り着くために、または「善を取得」するための善です。「法」とは、共同体の世話をする「指導者」によって発布されます。

次の課題は、「法はどこから来るのか」という問いです。当然ながら、社会の共通善を目指す法は、社会・共同体の世話をしている指導者によって発布されるものですから、確かに、その指導者から法が生じます。
しかしながら、究極的にいうと、あらゆる社会の創造者はだれでしょうか。天主です。というのも、天主はあらゆる物事の創造者なので、社会をも創造したからです。

従って、すべての法は天主に依存して、あらゆる物事の創造主およびあらゆる物事の目的地である天主に帰すべきです。
同じように、すべての法は「天主に由来すべき」と言えます。
このようにして、天主はあらゆる法の根源であることが見えてきます。また同じように、あらゆる法が「天主の法」につながることも見えてきます。
このようにして、「法を知る」には、必然的に天主まで戻らなければなりません。

天主は、その御智慧をもって、またその全能において、或る「法」を直接に与え給い、また別の「法」の制定を委任し給いました。
従って、その意味で、法には主に二つの種類があることになります。

一方で、「天主の法」があります。あらゆる物事の創造主である天主が直接に発布した法です。
それから、他方で、「人間の法」があります。人間によって発布された法です。天主が「統治する」権限を人間に譲ったので、人間が法を制定する権限を持ちます。だから「知性と意志」を持つ人間が法を制定し、それを人々に課することができます。
勿論、先ほどに申し上げたとおりに、ここで言う法とは共通善のために発布されて、理性(知性と意志)による命令です。言い換えると、法は知性と意志による命令です。

法に二つの種類があり、「天主の法」は天主によって発布され、直接に天主に依存する法です。
「人間の法」は人間によって発布されて、直接に人間に依存する法です。



さらに「天主の法」には、三つの種類があります。ちょっと複雑ですが。

第一の種類は、「永遠の法」です。永遠の法は天主御自らによる法です。聖トマスによると永遠の法とは「神聖なる智慧(天主)がお望みになった法であって、あらゆる被造物の動きと行為をそれぞれの個別の目的地に向かわせる法」です。要するに、永遠の法は、世界中にどこも観察できる「法(則)」です。
例えば、惑星の動きを支配する法則、動物を支配する法であって、あらゆる物事をそれぞれの目的に向かわせる法となっています。
「永遠の法」によって、太陽が輝き熱を発します。
「永遠の法」によって星が輝き、また全被創造世界が常に天主を賞賛してやまないのです。詩編にある通りです。「火も雹も、雪も霧も、御言葉を行う嵐の風も(…)主の御名をほめよ」 と。何故ならすべては天主の御摂理に支配されているし、すべては天主の命令に従っているからです。


永遠の法の次に、「第二の天主の法」とは、理性のある被造物である人間に対する特有の法で、「自然法」と呼ばれる種類の法です。
自然法とは、同じ永遠の法ですが、ただ「理性のある被造物」あるいは「人間」に刻印されている法です。刻印されたこの自然法によって、人間が自分に固有の目的へ向かわせます。どうやって向かわせられるかというと、人間の本性にとって相応しく適切な行為を行うように助けて、要求することによってです。

というのも、人間と他の被造物の間に大きいな違いがあるからです。人間には「自由」という能力が備わっています。
人間以外の被造物にとっては、自分の特有の目的地に辿り着くのは必然的なことです。他方、人間だけは自分の目的地に辿り着くには、自由によって辿り着きます。これで自由という能力の役割が何かをより理解できることでしょう。
つまり、人間に自由が与えられたのは、好き勝手にするためではなく。「自分の動きで」目的地に辿り着くことが可能になるためです。言い換えると、自由でも、自由でないとしても、「目的地」は変わらないのです。あらゆる物事は、結局天主に対して向かわせられているからです。あらゆる物事が天主によって創造されたからです。

従って、次が明白になります。天主様が我々を創造したのは、天主のためです。天主様が我々を創造したのは、天主のご栄光のためです。
詩編にあるように、火も雹も、雪も霧も、惑星もつまり大自然のすべてが存在しているすべての物事は、天主の賞賛のために存在していますが、それと同じように人間もそうです。たとえば大自然にある「和」が天主を賞賛すると同じように、人間も天主を賞賛するために存在しているのです。

しかしながら、他の被造物では、つまり物質的な被造物をはじめ、植物や動物のように永遠の法が不変の必然的な法としてその中に刻まれているあらゆる被造物とは違って、人間においては「永遠の法」は同じようには作用しない、働きません。
人間の本性に刻印された自然法は、人間を自分の目的に確かに向かわせるのですが、その作用は「必然的に」ではなく、「自由に」向かわせるのです。
というのは、人間が自分に与えられた目的地(天主)に辿り着くために、良い行為を行うように促す自然法ですが、あくまでも促しであり、人間をその目的に向かわせながらも、人間の自由な行為と意志を要求するだけです。これが「自由」です。
そして、人間において刻印されている自然法は、「行為は何を成すべきか、何を成してはいけないか」を教えてくれます。つまり自然法とは、唯一人間にだけ適応する法です。
他方、「永遠の法」はあらゆる物事に適応します。自然法の効果は人間を人間の目的へ向かわせ、人間の行為を人間の本性に即して、適切な行為を行うように促すのです。その作用において、人間は促されて、「自分の動きで」「自由に」相応しい行為を行えるようにされています。

自然法は天主より来ています。なぜ「自然」法かというと、人間の「自然(本性)」と一致しているからです。天主より与えられて、人間本性と一致することから、自然法は普遍的な法であって、不変で、絶対的な法です。

自然法が普遍的であるのは、例外なくすべての人々に適応するからです。またあらゆる理性のある被造物に課します。すべて人間は、同じ人間本性を持っているからです。したがって、人間の本性の特有な法である自然法は、当然、すべての人々に適応し、その意味で普遍的な法となります。こうして、自然法は我々の人間の本性を特徴づけます。これも大事です。

自然法を否定しても、だれも自分の本性を変えることはできません。「人間」ではない「何か」になるという「自由」など存在しません。
考えてみると「私がなりたいものになる」というセリフ自体が理不尽なことです。確かに、職業とかどういった生活にするかは決めることはできますが、「人間」であるかどうかは我々が決めることではありません。我々は必ず「人間」であらざるを得ません。人間の本性ではない別の本性を持つことは無理ですし、それを決めることも出来ません。そういったことに関して自由はありません。これだけでも考えると、人間の持つ自由は絶対ではないことが再確認できます。
だから、我々の自由は絶対ではなく、我々に刻印されている自然法があり、その自然法こそが絶対であって、自然法に対して我々は自由ではありません。

「人間の本性」を持つことによって、我々に課せられるのですから自然法に従うべきです。人間であるからこそ必ず存在しているのが、この自然法です。従って自然法は不変です。なにがあったとしても、いつまでも、どの時代も、人間の本性は変わらず、人間の本性を変えることも不可能ですし、どうしても人間は人間であるからです。

人間の本性はそのまま変わらないので、我々が自分を造り直すことは不可能であり、人間の本性に一致する自然法も不変です。同じ人間本性を持つあらゆる人々に共通するので、普遍的である上、本性が変わることはないので、自然法も不変です。

このようにして、自然法は絶対的な法となります。だから、何があっても我々は遵法(法をまもる)すべきです。なぜ遵法すべきであるかというと、不変な普遍な法で、絶対的な法だからです。つまり、絶対とは、相対的ではないということです。

これと違って、我々人間が持つ「自由」は相対的です。というのは、「自由」は「絶対」に従い、「絶対」に依存しているからです。
「自由」ではない「自然法」は相対的ではなく、絶対的です。従って、「我々の自由は自然法という絶対的な法に従うべき」となります。
以上は自然法の紹介でした。

引用してみましょう。ローマ人への手紙において聖パウロは次のように書きます。
「律法のない異邦人が自然に律法の掟を実行するなら、律法(啓示された律法ですね)がなくても、自分自身が律法となる」 と。
要するに、自分自身において自然法が刻まれているということです。
続いて、「彼らは自分の心に刻まれているこの法の存在を示している」 。

また、異教徒のキケロを引用すると非常に興味深いと思います。キケロ曰く「ある法が書かれたことはなく、我々と一緒に生まれた。我々が習ったことのない法であって、誰からも貰った法でもなくて、どこかに読んだこともない法であり、自然(本性)から受けた法で、本性から受けた法、これは本性が我々において刻んだのだ。」
経験に照らしても、自然法から離れようとする人は、結局自分の本性を破壊し、歪め、分裂させ、転覆させるようなことになって大変なことになります。

自然法をどうやって知るのでしょうか。

先ず、我々の本性において刻印されているので、その本性によって知ることができます。
例えば、「嘘をつくな」という掟は自然法の一つですが、こどもが生まれて初めて嘘をつく時に、何も言われなくても良心が悩んで赤面したりしますね。子供は何か「悪いことをやった」ということを直感的に知っているのです。自然法は本性において刻印されているからです。

その上、より容易に自然法を知るために、天主はその自然法が啓示されることをお望みになりました。啓示された自然法とは、モーゼに与えられた「十戒」です。
旧約聖書の第二法の書(申命記)の第六章にあります。それから、聖マテオの福音の第5章にある「山上の垂訓」もあります。
以上は天主の法のうちの、第二の種類でした。

天主の法というのは、天主に直接に依存しているということです。天主が人間の本性の創造主であるからこそ、自然法は天主の法という区別に入っています。

技術士が機械を作る時、その機械に特別の「性質」を与えるということと似ています。例えば、洗濯機には人間が与えた性質があって、服を洗うこと以外に何もできないという「性質」です。なぜかというと、その機械を作った技術士が、それにある特定の法を与えて、その「法によって」その機械が統治され、決まった機能をやらせるからです。
同じように、天主は我々を創造した時、特定の「人間本性」を我々に与え、これは我々が変えることはできません。なぜかというと、その本性は我々に依存するのではなく、創造主である天主に依存するからです。



最後に、「天主の法」の第三は「実定法」です。
「実定」という語源はラテン語の「Positivus」に由来していますが、天主によって「置かれた・つけ加えられた」という意味です。
「実定法」は、啓示によってだけ知れる天主の法です。言い換えると、天主が直接に仰せになった啓示を見て把握できるものです。

「天主の実定法」には二種類があります。旧法と新法という二つです。

旧法は「モーゼの法」であって、新法は「福音の法」です。モーゼの法は福音の法によって廃止されました。
例えば、モーゼの法においては、諸儀礼に関する掟が多く、すべての儀式の進行などが規定されていました。建物も含めて天主によって規定されていました。選出されたユダヤ民だけに与えられたのです。
私たちの主イエズス・キリストによって旧法が廃止され、その代わりに、福音の法が制定されました。これが全人類のために与えられた新法です。イエズス・キリストは全人類を救いに来たり給うたからです。

以上、天主の法をご紹介しました。

しかしながら、天主は御自分の権威を人間に委任したので、人間の法も存在します。
こういった「人間の法」は、「実定法」と言います。人間によって「制定される」から、実定法というのです。
ただしこれは「天主の実定法」ではなく、「人間の実定法」です。

さらに「人間の実定法」の内に二つの種類があります。人の社会には二種類の社会があるからです。
一つは、教会が制定する「教会の法」です。例えば、小斎大斎の掟、または主日の掟、ミサに与る掟などなどといったようなことです。
他方で「市民法」もあって、「市民社会」を統治する人によって制定された法を指します。例えば「刑法」とかです。

以上、我々人間の行為の「遠因の規範」となる諸法の紹介でした。