白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公生活への準備を済ませて、つまり洗礼と断食と誘惑を経た準備が終わって、私たちの主は、正式にご自分の公生活を始めます。使徒の選定が、公生活の開始となります。
使徒として12人を選びます。全員は、単純な人々で、労働層ばかりですが、キリストの公教会の柱になり、全宇宙へキリストの福音の布教者・伝道者になっていく使命が与えられました。
使徒を選ぶ前に、先ず、私たちの主は、祈る為に一旦去ったと聖書に記されています。「そのころ、イエズスは祈ろうと山に登り、夜中天主に祈られた。」 祈った後に、続いて、福音書によると、「夜明けになると弟子たちを呼び、その中から十二人を選んで、使徒と名付けられた。」と聖ルカの福音書にあります。要するに、私たちの主は、自分に十二人の使徒を、即ち自分の補佐を選びます。福音を布教するために使徒を選び、その後、主は世界中に送ったのです。
第一の使徒は、シモンです。その後、ペトロと名付けられて、シモン・ペトロです。イエズスは、シモンと共にアンドレアを選びます。アンドレアはペトロの兄弟です。二人とも漁師です。
シモンとアンドレアと供の、もう二人の漁師を私たちの主が選びます。ちなみに、四人とも、同じ出身で、ガリラヤ地方のテベリア湖で漁を営んでいました。ヤコブです。大ヤコブと呼ばれます。そして、ゼベダイの子ヨハネです。
続いて、フィリッポ、それから福音者及び税吏なるマテオ、そして、バルトロメオ、おそらく、ナタナエルでもあります。聖伝によると、バルトロメオとナタナエルは同じ人です。
そして、ディディムと呼ばれているトマです。周知の「疑い深い」トマですね。「私が見るまで信じません」と言い出したトマですからね。
続いて、もう二人の使徒は私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟に当たります。小ヤコブとユダ(或いはタデオ)です。ユダとタデオは同じ人を指します。つまり、小ヤコブの兄弟で、アルフェオ(父)とマリア・クレオファの子だと福音書に記されています。マリア・クレオファというと、いとも聖なる童貞マリア様の義理の姉妹に当たります。だから、エルサレムの第一の司教となっていく小ヤコブとその兄弟のユダ或いはタデオは、私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟に当たります。福音書では、この二人を指して、イエズス・キリストの「兄弟」と頻繁に書かれています。というのも、原文では、「兄弟」と「従兄弟」とは、同じ意味で使われて、同じく使用されているのです。だから、イエズス・キリストの「兄弟」という時に、私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟(いとこ)を指すわけです。
最後の二人の使徒は、カナンのシモンとカリオト出身の故にユダ・イスカリオトと呼ばれるユダです。このユダこそが、私たちの主、イエズス・キリストを最後に裏切ります。しかしながら、ユダも他の使徒らと同じ身分で、しかも彼も、最初は、熱意でやる気が満々でした。
裏切ってしまった後に、私たちの主、イエズス・キリストのご昇天の後に、かれの代わりに、使徒聖マティアが選ばれました。
以上は、私たちの主に選ばれて、ご自分のための12人の使徒です。12人の使徒を選んだ以降は、私たちの主は、聖地中を歩き回っていきます。つまり、福音を布教するために、ガリラヤとユダヤを歩き回ります。言い換えると、良き言葉を告げるためです。ギリシャ語では、「福音」は、まさに「福(よ)き音(おと)ずれ」で、良き言葉を意味します。良きお知らせですね。
また、御教えを宣べ伝えるために、道徳を思い起こすために、伝道するために、諸秘跡を設立するために、歩き回ります。御教えを説きながら、実践して導き、模範をお示しになります。この観点から見れば、私たちの主は、諸聖徳のいとも高き模範となります。要するに、私たちの主は御教えと共に、この御教えの具体的な実践の模範をも私たちへ示すわけです。その上に、これらはあたかも十分ではないかのように、これらのすべてを確証する形で、奇跡を起こし、預言をも言われます。
私たちの主、イエズス・キリストの公生活において、言ってみれば、三つの要素があります。
宣教(伝道)の部と、彼の聖なる一生を通じての御教えの実践の部と、奇跡と預言を通じての宣教の確立の部との三つの中軸があります。完全なる全体となります。
私たちの主は、ご自分の福音が、だれの心までも届けられるようになさいました。というのも、一番疑い深い人でも、奇跡を見て、予言を聞いて、それを受けて、御教えの証になり、また一生の神性なる人生の証となるようになさったのです。そのために、奇跡と預言を役立たせられました。ちなみに、御教えに限って言えば、だれでも、皆その素晴らしいことを認めています。優れている御教えなのですから。私たちの主の宣教・伝道は、完璧と言われるほど、優れていたわけです。「イエズスが律法学士のようではなく、みずから権威をもつ人のように教えられたからである。」 聖マテオの記すところです。税吏であるのにこう証言しましたよ。聖ヨハネ曰く、「いまだかつてあの人のように話をする人を見たことがありません」 と。
私たちの主の神性についても、当時の誰でも皆、認めざるを得ませんでした。彼の言行を咎めようがなかったわけです。落ち度も過ちも、一つもしなかったからです。また後でご紹介しますが、ファリサイ派の人々と律法学士らは、イエズスに対して、何度も罠を仕掛けるわけです。にもかかわらず、はまったことは一度もありませんでした。最後に、奇跡の前に、また一番明白な奇跡なる復活の前にして、天主の御業である以外に、なにもいいようがないのではないでしょうか。
要するに、ご自分の御教えとその聖なる実践との神聖なる性質を出来るだけの一番完璧及び完全なる形で世に示したのです。
使徒の選定以降の私たちの主、イエズス・キリストの公生活における使命を以上のように纏めることができます。
御教え、言い換えると御教えの宣教・伝道です。聖徳の実行、言い換えると御教えの実践。奇跡と預言、言い換えると御教えの確立。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第二十六講 私たちの主の公生活の概略
公生活への準備を済ませて、つまり洗礼と断食と誘惑を経た準備が終わって、私たちの主は、正式にご自分の公生活を始めます。使徒の選定が、公生活の開始となります。
使徒として12人を選びます。全員は、単純な人々で、労働層ばかりですが、キリストの公教会の柱になり、全宇宙へキリストの福音の布教者・伝道者になっていく使命が与えられました。
使徒を選ぶ前に、先ず、私たちの主は、祈る為に一旦去ったと聖書に記されています。「そのころ、イエズスは祈ろうと山に登り、夜中天主に祈られた。」 祈った後に、続いて、福音書によると、「夜明けになると弟子たちを呼び、その中から十二人を選んで、使徒と名付けられた。」と聖ルカの福音書にあります。要するに、私たちの主は、自分に十二人の使徒を、即ち自分の補佐を選びます。福音を布教するために使徒を選び、その後、主は世界中に送ったのです。
第一の使徒は、シモンです。その後、ペトロと名付けられて、シモン・ペトロです。イエズスは、シモンと共にアンドレアを選びます。アンドレアはペトロの兄弟です。二人とも漁師です。
シモンとアンドレアと供の、もう二人の漁師を私たちの主が選びます。ちなみに、四人とも、同じ出身で、ガリラヤ地方のテベリア湖で漁を営んでいました。ヤコブです。大ヤコブと呼ばれます。そして、ゼベダイの子ヨハネです。
続いて、フィリッポ、それから福音者及び税吏なるマテオ、そして、バルトロメオ、おそらく、ナタナエルでもあります。聖伝によると、バルトロメオとナタナエルは同じ人です。
そして、ディディムと呼ばれているトマです。周知の「疑い深い」トマですね。「私が見るまで信じません」と言い出したトマですからね。
続いて、もう二人の使徒は私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟に当たります。小ヤコブとユダ(或いはタデオ)です。ユダとタデオは同じ人を指します。つまり、小ヤコブの兄弟で、アルフェオ(父)とマリア・クレオファの子だと福音書に記されています。マリア・クレオファというと、いとも聖なる童貞マリア様の義理の姉妹に当たります。だから、エルサレムの第一の司教となっていく小ヤコブとその兄弟のユダ或いはタデオは、私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟に当たります。福音書では、この二人を指して、イエズス・キリストの「兄弟」と頻繁に書かれています。というのも、原文では、「兄弟」と「従兄弟」とは、同じ意味で使われて、同じく使用されているのです。だから、イエズス・キリストの「兄弟」という時に、私たちの主、イエズス・キリストの従兄弟(いとこ)を指すわけです。
最後の二人の使徒は、カナンのシモンとカリオト出身の故にユダ・イスカリオトと呼ばれるユダです。このユダこそが、私たちの主、イエズス・キリストを最後に裏切ります。しかしながら、ユダも他の使徒らと同じ身分で、しかも彼も、最初は、熱意でやる気が満々でした。
裏切ってしまった後に、私たちの主、イエズス・キリストのご昇天の後に、かれの代わりに、使徒聖マティアが選ばれました。
以上は、私たちの主に選ばれて、ご自分のための12人の使徒です。12人の使徒を選んだ以降は、私たちの主は、聖地中を歩き回っていきます。つまり、福音を布教するために、ガリラヤとユダヤを歩き回ります。言い換えると、良き言葉を告げるためです。ギリシャ語では、「福音」は、まさに「福(よ)き音(おと)ずれ」で、良き言葉を意味します。良きお知らせですね。
また、御教えを宣べ伝えるために、道徳を思い起こすために、伝道するために、諸秘跡を設立するために、歩き回ります。御教えを説きながら、実践して導き、模範をお示しになります。この観点から見れば、私たちの主は、諸聖徳のいとも高き模範となります。要するに、私たちの主は御教えと共に、この御教えの具体的な実践の模範をも私たちへ示すわけです。その上に、これらはあたかも十分ではないかのように、これらのすべてを確証する形で、奇跡を起こし、預言をも言われます。
私たちの主、イエズス・キリストの公生活において、言ってみれば、三つの要素があります。
宣教(伝道)の部と、彼の聖なる一生を通じての御教えの実践の部と、奇跡と預言を通じての宣教の確立の部との三つの中軸があります。完全なる全体となります。
私たちの主は、ご自分の福音が、だれの心までも届けられるようになさいました。というのも、一番疑い深い人でも、奇跡を見て、予言を聞いて、それを受けて、御教えの証になり、また一生の神性なる人生の証となるようになさったのです。そのために、奇跡と預言を役立たせられました。ちなみに、御教えに限って言えば、だれでも、皆その素晴らしいことを認めています。優れている御教えなのですから。私たちの主の宣教・伝道は、完璧と言われるほど、優れていたわけです。「イエズスが律法学士のようではなく、みずから権威をもつ人のように教えられたからである。」 聖マテオの記すところです。税吏であるのにこう証言しましたよ。聖ヨハネ曰く、「いまだかつてあの人のように話をする人を見たことがありません」 と。
私たちの主の神性についても、当時の誰でも皆、認めざるを得ませんでした。彼の言行を咎めようがなかったわけです。落ち度も過ちも、一つもしなかったからです。また後でご紹介しますが、ファリサイ派の人々と律法学士らは、イエズスに対して、何度も罠を仕掛けるわけです。にもかかわらず、はまったことは一度もありませんでした。最後に、奇跡の前に、また一番明白な奇跡なる復活の前にして、天主の御業である以外に、なにもいいようがないのではないでしょうか。
要するに、ご自分の御教えとその聖なる実践との神聖なる性質を出来るだけの一番完璧及び完全なる形で世に示したのです。
使徒の選定以降の私たちの主、イエズス・キリストの公生活における使命を以上のように纏めることができます。
御教え、言い換えると御教えの宣教・伝道です。聖徳の実行、言い換えると御教えの実践。奇跡と預言、言い換えると御教えの確立。