ファチマの聖母の会・プロライフ

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公教会の6つの掟:なぜ復活節に聖体拝領をしなければならないのか?

2020年12月30日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百五講  教会の掟



天主の十戒の紹介は終わりました。いわゆる自然法なのです。人々の霊魂に刻印されている自然法なのです。
一方、法に関する講座をした時、教会は法を制定することができるということを見てきました。いわゆる実定法あるいは制定法であり、自然法を前提にして、追加される法なのです。
天主の十戒は人間の本性の一環になっていますので、これらを変えることもできないし、変わることもありません。天主の十戒を変えることがあり得るのなら、人間の本質を変えることができることを意味するようなことになり、人間が人間でなくなるというような意味を持つのです。

一方、追加される法、つまり教会が制定する法律は時代時代でかわることはあります。そして実際に教会が制定してきた法律(教会法)は変わってきました。
現代でも「教会の掟」はありまして、これらの掟が命じることは深刻な義務となっています。つまり、違反したら大罪となるほど、強く義務づけられています。

現代の教会の掟を要約するには、六つにまとめることができます。
第一と第二は守るべき祝日とこれらの祝日の聖化に関する掟となります。
第三と第四は聖体拝領と改悛の秘跡に関する掟となります。
第五と第六は教会内における償いに関する掟についてです。

まず、第一と第二の掟は守るべき祝日に関する掟です。
カトリック教会は特別に祝い、聖化し、守るべき祝日を指定することを是としました。なぜでしょうか?カトリック教会のそれぞれの祝日には、それぞれ特別の恩寵が与えられているからです。例えば、私たちの主、イエズス・キリストの人生の場面を記念する祝日になると、各々の出来事に固有の恩寵が与えられています。同じように、聖人を祝う時、天主は称えられて、聖人が崇敬される上、各々の聖人の個別の天主へのとりなしによって、特別な恩寵が私たちに与えられています。

要するにカトリック教会においては最初から守るべき祝日が存在してきました。時代が下り現代に至ると、厳密にいう「守るべき祝日」は十にまで制限されるようになりました。1917年の教会法において、普遍教会には十の守るべき祝日が指定されています。一通り取り上げてみましょう。

12日25日、ご降誕の祝日。いわゆる、クリスマスです。イエズス・キリストのご降誕です。
クリスマスの8日後、割礼の祝日があります。一月一日なのです。
主のご公現の祝日。1月6日です。私たちの主、イエズス・キリストのはじめての公けの現れを記念する祝日です。三人の東方の博士(国王)は主のみもとに来て、主に贈り物を捧げます。
御昇天の祝日。私たちの主、イエズス・キリストはこの世を去り、父なる天主の御右に座るために、天にお昇りになられた日です。
聖体の祝日。『Corpus Christo』と呼ばれる祝日です。この日に、聖体においてこの世にましまして実存される私たちの主、イエズス・キリストを荘厳に礼拝する祝日なのです。



以上は5つの祝日であり、私たちの主、イエズス・キリストについての祝日です。
そして、この5つの祝日の他にさらに5つあります。
二つは聖母マリアの祝日です。聖母無原罪の御宿りの祝日です。これは聖母の特権であり、つまり原罪を負ったことがない聖母の特権です。12月8日です。
それから、聖母の被昇天の祝日、聖母の多くの特権中の特権です。つまり、身体と霊魂を一緒に、地上を去り、天に昇られる聖母になりましたが、それを記念するのが8月15日の祝日です。

それから、もう一つの祝日は聖ヨゼフの祝日です。聖母マリアの主人である上、私たちの主、イエズス・キリストの養父です。3月19日の祝日です。普遍教会においてこれも守るべき祝日です。
それから、カトリック教会の二柱である聖ペトロと聖パウロの祝日です。6月29日の祝日です。
そして、最後に諸聖人の祝日です。つまり、すべての聖人を祝う日です。11月1日です。

以上は普遍教会の十の守るべき祝日です。フランスではピオ7世とナポレオン一世の間に結ばれた条約によって、4つにまでさらに制限されてしまいました。フランスにおいては、守るべき祝日は四つにまで制限されました。要するに、国ごとに、多少、守るべき祝日は違ったりします。フランスの場合、ご降誕の日、昇天の日、被昇天の日と諸聖人の祝日なります。【日本においても同じように、この四つの祝日は守るべき祝日となります。】
以上、教会の第一の掟についてでした。

教会の第二の掟は主の日を聖化するためにどうすべきかについての掟です。
天主の第三戒については、すでに触れましたから、手短にします。ただ、強調したいのは、天主に相応しい礼拝、創造主なる天主に恩返しとして捧げるべき礼拝を実践するのは自然なことであるということです。天主は私たちの創造主であり、私たちのあるじであり、子供は親に対して孝行を実践すべきであることと同じように、あらゆる被創造物は各々の分に応じて、創造主に対して礼拝すべきです。これは自然法です。

教会の第二の掟とはこの自然法的な規定を明確化するということです。つまり、具体的にどうやって天主を礼拝すればよいかということを明らかにします。
方法は前述したように二つあります。主日にミサに与ること。それから、主日に肉体労働をやらないこと。これが第二の掟です。
つまり、分別がついた信徒には、日曜日、それから、先ほどの守るべき祝日、ミサに与ることは重要な義務であって、違反すると大罪になるということです。もちろん、この間に見たように、やむを得ない正当な理由があってミサに与ることはできない場合、免除されることもあります。

以上、教会の第一と第二の掟でした。祝日と主日の聖化を助ける掟です。

第三と第四の掟は二つの秘跡に関する掟です。聖体拝領と告解です。
教会の第三の掟は改悛の秘跡について規定します。カトリック教会は信徒が最低、年一回に告解に行くことを義務づけしています。年一回という少なさから、カトリック教会がどれほど寛大であるかお分かりかと思います。この掟の趣旨は分かりやすいと思います。つまり、分別がついた洗礼者、つまり善悪を区別できる信徒は最低年一回、大罪を犯した場合、告解へ行くようにという掟です。

カトリックは信徒たちのために人間の本来の目的地である至福を常に求めています。つまりカトリック教会は信徒たちの永遠の命の取得を渇望しています。そのためには、天国に入るために成聖の恩寵にある必要があります。そして、成聖の状態を得るには告解が必要です。この掟はカトリック教会がどれほど善き母であるかを示しています。

一方、年一回の改悛の秘跡に与るよう命じながら、それ以上に義務化していません。つまり、かなりの自由を信徒に与えているのです。要するに、この掟のお陰で、救済を得るための告解の秘跡の必要性を教会は強調していながら、同時にこの少ない一回の告解を求める以外、カトリック信徒に対しては告解に行くことに関して広い自由を与えています。

つまり、カトリック教会は「救済を得るために告解は必要ですよ」と想起してくれると同時に、信徒の意志をも尊重しています。この第三の掟は均衡をとった掟であり、かなり中庸をとった掟なのです。繰り返しますが、最低、年一回の告解に行くことだけを洗礼者に義務づけているのです。

当然ながら、復活節の間に告解にいくことに越したことはありません。とういのも、第四の掟は年一回、復活節の間、聖体拝領をすることを洗礼者に義務づけているのです。告解に関する掟は年間通してのいつの時期か規定されていないのですが、一方、聖体拝領の掟については、復活節の間という時期が規定されています。

なぜ、聖体拝領をするようにカトリック教会は勧めるでしょうか?聖体拝領をする信徒は私たちの主、イエズス・キリストの聖なる生贄と一致するからです。そして、イエズス・キリストの十字架上の聖なる生贄こそは天国を開けてくださった犠牲であって、悪魔の影響から私たちを引き出し、罪から解放し、天主に戻してくださる贖罪のみ業だった生贄だったからです。

従って、聖体拝領をするということは、聖体において実際に現存されている天主を信徒が受け入れるということになります。そうすることによって、自分は聖化されて、霊魂を養うのです。聖体拝領というのは霊魂の糧なのです。ですから、カトリック教会が信徒に向けて「霊魂を養うように」命じている理由もわかるでしょう。

第四の掟もかなりの均衡をとった掟で、年一回だけの義務となります。その上、信徒の自由に任せられています。では復活節とはいつからいつまででしょうか?基本的には復活祭の二週間前から復活祭の二週間後までの期間です。言いかえると、ご受難の主日からよき牧者の主日までの期間です。場合によって、カトリック教会はその期間を長くすることが多いです。一般的にいうと、灰の水曜日から、つまり復活祭の40日間前から復活祭後の50日間以上の三位一体の主日までの期間に拡大されることが多いです。
以上、聖体拝領に関する掟でした。

もちろん、聖体拝領するためには、成聖の恩寵にある必要があります。そうではないと、冒涜的な拝領になります。そして、冒涜的な拝領をしても第四の掟を満たすことにはなりません。そして、もしもの場合、復活節の間に聖体拝領をしなかった信徒はその期間外にでも聖体拝領をする義務が生じます。大罪になることは言うまでもありませんが、それでも掟を破ったことを償うために、なるべく早く聖体拝領をしなければなりません。

最後に、第五と第六の教会の掟は改悛についての掟です。悔い改めるというのは、キリスト教徒の義務です。洗礼者聖ヨハネは悔い改めるように説教してきました。また私たちの主、イエズス・キリストも悔い改めるように私たちに要請していて、そして、イエズス・キリストご自身は具体的に償いの行為をなさって、模範を示してくださいました。また、「自分を捨て、自分の十字架を担って従え」とイエズス・キリストは命令しました。十字架こそが私たちのために天国を開けてくださるのです。従って、カトリック信徒は必ず償わなければなりません。

この二つの掟においてもカトリック教会はカトリックの叡智を活かして、カトリックの寛大さを示している掟を制定しました。償いを義務化しながら、同時に人々にとって重くならないように、負担にならないように教会は制定しました。過剰な苦行などを要求するのではありません。この掟は評価すべきもので、本当の意味でカトリック教会の叡智を表す掟です。まさに均衡を持った掟です。大切な償いの義務をなくさないでそれを維持しながら、信徒に無理な負担をかけないようにしているのです。あえていえば、掟のお陰で、償い、苦行は穏やかなことになるために、しいていえば快適な苦行になるかのようです。

償いに関して、第五と第六の掟があります。
第五の掟は大斎です。第六の掟は小斎です。第一に、大斎です。現代では大斎という義務は非常に少なくなりました。年に二日間だけ大斎を義務化しているにすぎません。ただ、この二日間に大斎を行わなければ大罪となります。灰の水曜日と聖金曜日です。信徒にたいして無理な苦行を要請している教会だということは全く言えないほどに軽い掟でしょう。年に二日間だけなのですから。

では大斎とは何でしょうか。一日の内、普通の食事を一回だけ取るということです。ただ、その普通の食事の上、小さなおやつをを二回まで取ることは可能です。大斎の本質は一日に一回だけの普通の食事をとるということです。

それから、小斎の掟もあります。小斎とはなんでしょうか?動物の肉体をたべることを遠慮するということです。つまり、簡単にいうと肉と肉類の汁です。ただ、小斎の日に乳牛類や魚や卵などは食べてもよいことになっています。つまり、川あるいは海に生まれて生きている動物を食べてもよいのです。

小斎の義務は基本的に毎週金曜日と大斎の日です。聖金曜日は金曜日なのでいうまでもありませんが、灰の水曜日も小斎の義務があります。つまり、大斎の日は必ず小斎にもなりますが、小斎の日は必ずしも大斎になるわけではないということです。

それはともかく、小斎の意味は軽い形での償いへの招きであります。また、毎金曜日に小斎する理由はイエズス・キリストが十字架上に死に給うた日だからです。つまり、小斎には本当の根拠、理由があって、しかもご受難をより善く黙想するために霊的にも心理的にも助けとなる掟です。これもカトリック教会の叡智を表しているのです。つまり、金曜日になると、イエズス・キリストのご受難を黙想して、肉を食べないことにより犠牲を捧げましょうということです。小斎とはかなり軽いでしょう。魚はおいしいし、量的に普通に食べてもいいですし。

以上、教会の掟でした。
これで、道徳の部は終了します。次回から秘跡の部に入ります。

幼きキリスト様の持って来てくださるもの

2020年12月19日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」50章 我が国民の大きな待降節。アドベントリースと幼いキリスト様のための藁の茎をご紹介します

良き夫婦の信仰と子供たちへの愛情は、子供たちを幼きキリスト様へ自然に向かわせることができるのですね。美しい待降節と喜びにあふれたクリスマスは、私たちの心からの準備で与えられるのではないでしょうか?もうすぐクリスマスです。私たちも幼きイエズス様を私たちの心に愛を持ってお迎えしたいです。

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
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あすは、待降節の最初の日曜日である。
待降節。黙想と反省の時期、痛悔と生活の更新の時期。もしヨハネが今日、再びやって来て、彼の『悔い改めよ。』という言葉を、人々の心に呼びかけるならば! 一つの新しい精神が、はいりこむであろうか?
一つの新しい星が、救世主の秣槽(まぐさおけ)の方へ、ベトレヘムへの道をさし示すであろう。

待降節。新しい時代が、わが国民のために来るであろうか、黙想と反省の時期が? 人々は、自然法に関する忠実さ、子供に対する忠実さ、純潔の忠実さを再び信奉するであろうか? そうなるならば、外面的な生活改善という話においてもまた、待降節となるであろう。

あす、私たちは、待降節を私たちの新しい借家人のところで、一緒に祝うことになっている。それは、よい人たちである、ラウエルさん一家。父親は、職工長だ。母親は、裁縫婦として少し働いている。しかし裁縫をする時間は、あまりなかった。彼女は、いま四番目の子供を宿している。一番上の子は七つ、二番目のは五つ、三番目のは三つだ。その全家族のために洗濯し、繕(つくろ)いものをし、アイロンをかけ、縫物をして、万事がととのえられるまでには、一日が殆んど一ぱいになる。

そして子供たちも、少しは母親に相手をしてもらいたがる。晴れた日には、彼女は大抵、一時間ほど子供たちと一緒に野や森を散歩し、自然の素晴らしい事物に注意し、そしてそれを楽しむように彼らを指導する。それから、野外にまだ何か花が見いだされる限りは、彼らは、私への土産に、花束をもって帰って来る。そしてそのお礼に、彼らは、私が林檎を樹から採ってやるのを手伝うことができるのである。

私たちは、互いに仲がよかった。
ちょうど私たちは、美しい大きな待降節の花輪(アドベントリース)を一つ束ねようとしていた。このことは、ラウエルさんのところでは、新しいことであった。両親が悦ばしくも、この考えに思いついたのであった。この花輪は、来たるべきクリスマスの前夜の象徴として、待降節中の時日を特別に聖なるものとするであろう。それは、声高らかに叫ばれた「主の道を備えよ!」という言葉を表わすであろう。まだ本を読むことのできぬ子供たちのためにも。

間もなく、その花輪は、居間の天井にかけられた。紫のリボンで荘厳に吊るされ、かつ巻きつけられて。そして大きな黄色な蝋燭が、その上に立っている。四本だが、それは待降節中にある四回の日曜日に想応するものである。一個の空(から)の秣槽が、箪笥の上に置いてある。それは、幼いキリストのために中味を整えられねばならぬものである。

『お母さん、あれ何とキレイなんでしょう! なぜあの花輪は、きょう、あすこにかかっているの?』
『それは、最初の待降節だから。みんな今、幼いキリスト様をお迎えする準備をせねばなりません。晩に私たちは、一番目の蝋燭に火をつけ、そして待降節の歌をうたうのです。そして幼いキリスト様に、何を私たちはすることができるか、みんなで相談しましょう……』
『今晚、お母さん?』
『そう、今晚―――暗くなってから……』
子供たちは、それが殆んど待ちきれなかった。
『お母さん、まだなかなか暗くならないの?』と、小さい娘のロッテが、もう昼飯のときに尋ねた。とうとうその時が来た。私たちは、みんなその部屋に集まっていた。そこで父親が最初の蝋燭に火をともした。そして私たちは、あの好きな古い歌をうたう、天よ、義(ただ)しき人に露をしたたらせよ……子供たちは、とても、お祭のような気分になった。



『きょうは、私たちは、ただ一つ燈火をつけるだけです。なぜなら、まだやっと待降節中の最初の日曜日だから。日曜ごとに、もう一つずつ蝋燭がともされるでしょう。そこで、あんたたちは、みんなクリスマス前夜祭が、だんだん近づいて来るのがわかるんです。私たちが、ますます急いで秣槽を作り上げねばならないことが。

あすこに、秣槽(まぐさおけ)は、もう置いてある。でも、まだ全く堅くて空(から)です。そこで、あんたたちは、藁(わら)の茎だの、羽根だのを集めて来なければなりません。いま幼いキリスト様のために、小さな犠牲を一つ捧げる人は、藁の茎を一本取って来ることになるんです。それを、あんたたちは秣槽の中に入れるんですよ……』

『お母さん、もしお母さんが燕麦の餅をつくり、そして僕がそれを食べ、そしてちっとも泣かなければ……それは二本の藁の茎だ、そうでしょう?』と、五つのフランツが、その間に叫んだ。
『そして、もし私がコーヒーに砂糖を入れなければ、その砂糖を、クリスマスに貧民院のカトリンお婆さんのところへまた持って行っていいの?』と、七つのマリアが尋ねた。この娘は、四旬節中に、そうすることが出来たのであつた。

『そうですとも、そうしていいわ。そしてロッテは、もうきかん坊であってはいけませんよ。そして、そのことを待降節の天使たちが見ると、とても悲しまねばならないのです。だからロッテちゃんは、すぐこう言うでしょう、幼いキリスト様のために、わたしは、おとなしくするって。そうすると、ロッテちゃんも、藁の茎を一本、もらえるんですよ。』
『お父さん、なぜ蝋燭は、ちょうど四本あるの?』
『なぜなら、嬉しいクリスマスの日まで、日曜日が四つあるから。』

そこで、一番小さい子でも、その日がだんだん近づくのを知るのである。
『そして、もし四本の蝋燭がみな燃えてしまうと、すぐクリスマスの樅の木が来るの? そして……そして……お母ちゃん、話してちょうだい、それからどうなるの?』
『それは、お母さんには判りませんよ。それもやはり、待降節の天使たちが飛んで行くとき、日曜ごとに、あんたたちのことを幼いキリスト様にお知らせすることに全くよるのです……』
『天使たちも、秣槽の中に沢山藁の茎があるかどうか、のぞき込むの?』



『確かに天使たちも見ますよ。でも何よりもまず、天使たちは、人間の心のうちを見ます。愛と親切心が、その中に沢山はいっているかどうかを……しかし、お母さんは、幼いキリスト様が、ことし、持って来て下さる或るものを知っているんです。』
『お母さん……何?……何?……教えてちょうだい……どうぞ、どうぞ!』

『全く可愛らしい或るもの、小っちゃいきょうだい……』
『あっ、小っちゃい弟?……そうでしょう、小っちゃい弟……』 フランツは全く嵐のように熱望した。『女の子は、もう二人いるのに、僕はいつまでも、ひとりぼっちなんだもの……』
『それは、弟になるか妹になるか、幼いキリスト様は、まだ打ち明けて下さいません。そこで私たちは、それが生れてくるまで、待たねばなりません。』
『お母さん、どうしてお母さんは、そのことを知ったの。』と七つのマリアが考え深そうに尋ねた。その間に、小さいロッテは、待降節の花輪の燈火を吹き消そうとして興(きょう)がって【おもしろがって】いた。

『なぜなら、一人の天使が、その小さな霊魂を持って私のところへ来たからです。この霊魂は、天主様が私に贈って下さったのです。天主様は、それを搖籃(ゆりかご)の小さなベッドの中に置かせなさったのですが、そのベッドは、天主様が御自身で、ひとりひとりのお母さんの心臓の下に、赤ちゃんのために支度をなさったのです。そのベッドの中に、赤ちゃんが、いま眠っていて、そして幼いキリスト様とその聖天使たちの夢を見るのです。それから赤ちゃんが十分に大きくなると、私たちは、それを普通の小さなベッドの中に置くことができるのです。』

『では、私たちの赤ちゃんは、もうお母さんのところにいるのね。』とマリアが言った。そしてこの愛らしい秘密について、何ものかをうかがい知ることができるかのように、母親に非常にぴったりと寄りそうた。
『そうです。赤ちゃんは、もうここにいますよ。そして私たちは、赤ちゃんがいい子で、正直で、そして丈夫でいるように、これから毎日赤ちゃんのためにお祈りしましょう……』

『お母さん、なぜ天主様は、赤ちゃんを直ぐに贈って下さらないの? 天使は、赤ちゃんを直ぐお母さんのベッドか、お父さんのベッドかへ置くことができるんでしょうに……』
『あんたは、もう覚えていないの、美しい花が庭で咲いて出るが、その元の種子は、どんなに小さいものだったかということを? 赤ちゃんも、そんなに小さいんです。そして、そのお母さんは、天主様がその種子を植えつけなさる土地なのです…』

『私も、いつか、そのようにお母さんのところにいたの?』
『そうですよ。この子供たちは、みんな、一度は自分のお母さんのとこにいたものです。だから母と子たちは、またそんなに親密なのです。』
『そしてお父さんもね…』とその娘の子は言って、そして腕を両親に捲(ま)きつけた……

待降節。蝋燭は、つぎつぎと燃えて行った。どの土曜日の晚にも、その家族は、ほんとに嬉しい思いをいだいて、暫らくの間、一緒に坐っていたし、そしてどの日曜日にも、自己教育と自制への熱意が新たに燃え立たされた。子供たちは、クリスマスの日がますます近づいて来るのを知った。そしていつでも実際的な性質のフランツは、もっと多くの藁の茎を秣槽の中に入れるために、父親から数本のシガレットを、うまくだまして取り上げたのである。

『お父さん、もしあなたが、いまシガレットを吸わなければ、藁の茎を一本お供えすることになるのでしょう……そして僕は、それをクリスマスに貧民院のミヘル爺さんのところへ持って行ってやるんです。』
『子供たちが、我々を教育しはじめましたよ。』と父親が私に言った。そして息子の気に入るようにしてやった。

最後の待降節の日曜日の翌日の夜、男の子が生れた。それは、どんな喜びであったことか!  
実に黄金色をした元気な子供!  そのため、玩具のことなんか、すべて忘れられていた。私たちは、この小さな地上の市民を、お祭りのように迎えるために、四本の待降節の蝋燭をともして置いた。そしてその大きな赤い蝋燭の間に、小さな白い蝋燭を立て、そして銀色の小さな鈴を幾つか花輪にかけておいた。それが鳴って、クリスマスの祭日の開始を告げるのである。今夜、幼いキリスト様がお出でになる……!



『小っちゃい弟がもうここにいる。そして幼いキリスト様がお出でになる!』と子供たちは競って歓呼した。夕方、私たちは、クリスマス・ツリーをお母さんの部屋に置いた。小さな秣槽(まぐさおけ)をその下に。絵本を一冊、玩具箱を一つ、人形を一つ、それから饅頭と林檎と胡桃を盛った皿、それになお、冬季用の暖かい小さなジャケツと、色とりどりの毛糸で刺繍した子供帽。

それらは、今日の観念からすれば、わずかなものだった。しかし、正しく教育された子供たちにあっては、それは、大きな喜びを与えるにあまりあるほどであった。全く非常に多くの品物をもって、子供に不必要な願望と熱望とを目覚ますこと、および生活への要求を不適当な方面に導くことは、意味がない。心からの愛をもって与えられたわずかなものが、その目的を達するのである。

しかし、最も美しいキリスト様の贈物は、小っちゃい弟であった。それは興味の中心だった。
『いつ、それはスープを作ってもらうの?』とマリアが尋ねたが、この娘は、すでに小さな主婦であった。
『それは、まだスープは飲みませんよ。お母さんのお乳をのむんです。まあ御覧なさい。何という可愛らしいんでしょう……』と、私は赤ちゃんを寝かせながら、それに答えて言った。

『お母さん、私もそうしたの……?』そして母親にぴったり寄りそった。
『赤ちゃんは、みんなそうするんですよ。』もちろん子供たちは、何事でも、なされ且つ言われたそのままに受け入れた。子供たちは、真に無邪気な心で、そのような事物に出くわすならば、決してそれにつまずくことはない。

私がその翌日、赤ちゃんにお湯を使わせたとき、家族のものはみんな、風呂桶のまわりに集まった。そんな小っちゃいのが、水をパチャパチャするのを見るのは、とても面白いものだ。マリアは突然質問した。『おばさん、それじゃ、なぜ男の赤ちゃんは、そのように少しちがうの?…』
『赤ちゃんが生れて来ると、お母さんは、それが男の子か女の子かを見なければなりません。 だから、それは少し、ちがわねばならないのです。もし、そうでなければ、私たちは、女の子にハンスと名づけたり、男の子にグレートヘンと名づけたりするようなことになるでしょう……』

二三人の兄弟姉妹が育ってゆくところでは、もし真実の親の愛が、小さな巣を支度し、そして、それを保ちつづけて行くなら、その家庭は遙かに温かい。そこでは、すべての祝日は、全く独特な光輝をもつのである。



待降節……
全くひそやかに、たとえば初めての春の予感のように、新しい理解が世界を貫いてゆく。世間には、今日まだ美しい真の夫婦がある。その数は少ない。しかし実際に存在する。そしてそれは、酵母のような作用をするであろう。もしそれが純粋に、かつ忠実に保存されるなら。

そうすると、そのような夫婦生活からして、より高い価値に対する理解と、新しい理想への努力が、再び国民大衆の中に、しみとおるであろう。そのような夫婦の数は、増して行くであろう、もしそれが持ち続けられるなら。その人たちの上に、その少数の忠実な人々の上に、わが国民の将来と運命とが、かかっている。――それゆえ、それらの夫婦たちは、その生命力が窒息しないうちに、何よりもまず支持し保護されねばならない。そのような家庭で育った子供たちは、愛の真の精神をつかみ、そしてそれを次代へ伝えるであろう。かようにして彼らは、わが国民の大きな待降節を招き寄せることであろう。

カトリックにおける世俗と宗教の関係について : 法華経とキリスト教の比較について【原文全文】

2020年12月15日 | カトリック
【国体文化】令和 2 年 11月号掲載された書評のポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

カトリックにおける世俗と宗教の関係について

法華経とキリスト教の比較について/ポール・ド・ラクビビエ

相澤弘明氏による『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』を興味深く拝読させていただいた。研究家として、また、一カトリック信徒として、二冊に関する評価が求められたので、ささやかな拙文を作成してみたので以下、紹介したい。

まず、これらの書籍を通して、今回、初めて、法華経と日蓮の思想を細かく知る良い契機になったことに対し、著者に感謝の意を表したい。
そして、「なるほど」と思いながら、読ませていただいたが、日本史、さらには東洋史における法華経そして日蓮の王法思想の思想背景と議論がよくわかり、大変、勉強になった。

ただ、二冊とも内容が多岐に及ぶが、本文で取り扱う課題はごくわずかであることについて大方のご容赦をいただきたい。
本文の中心課題として、相澤弘明氏が提起するキリスト教と法華経の比較に焦点を絞ることとする。

I.共通点について
以下にわずかな共通点を取り上げることにする。統一への渇望などあるだろうが、それには触れず、とりあえず、顕著な点だけを取り上げることにする。

1.三位一体的な構成について
日蓮主義系を基礎づける法華経において、一体三宝観という教義があることは私にとって大変興味深い発見だった。また面白いことに、ジョルジュ・デュメジルの研究の成果によって、彼が提唱した説をさらにあとづける事実だと思った。

ご存知のように、ジョルジュ・デュメジルは多言語ができて、多くの民族と宗教の神話、それから多くの宗教を研究していた大研究家である。
ジョルジュ・デュメジルを象徴する学説は、いわゆる、インド・ヨーロッパ語族における比較神話学の構造的体系化を行った結果としての「三機能仮説」である。面白いことには、この三機能仮説をフランス語から直訳すると「三位一体的な構成あるいは構造」とでも訳せるのである。
このように、一体三宝観というのはまさにその仮説(三機能仮説)をあとづけているとも言えよう。

さらに興味深い発見だったのは、世界中の宗教において「三位一体的」な構成、あるいは構造があるという現象が確認されていることだ。仏教ではこのような構成は存在しないと思っていたが、日蓮主義において存在するということを知って「やはり、三位一体的な構造は普遍的な現象である」と改めて新鮮に感じたのである。

加えて、興味深かったのは、田中知学系の日蓮主義においてはキリスト教になぞろうとする意志がみうけられたことだった。そこまで無理に類似性を見出さなくてもいいのにと思いつつも、このような発想、思考については、個人的にシンパシーを感じた次第である。

2.戦闘精神
『日蓮の王法思想への誘い』を読んで、強く感じたことはカトリックの戦闘精神と日蓮主義の戦闘精神はあい通じるところがあるいうことである。ともに消極的に受動的にやるだけにとどまらず、積極的かつ能動的に真理を勧め、実践しているのである。

武家による支配の長い歴史も関係しているのかもしれないが、日蓮の態度はその意味で評価すべきだと思う。つまり、信念があり、誤謬をはっきりと指摘し、誤謬を誤謬として叩いていく姿勢。そうすることによって、なるべく多くの人々を真理へ導くような熱心さ。

3.王法と仏法の間の調和
また、王法と仏法を調和させようという姿勢は、フランス国体からみてもカトリックからみても、かなり通じるところだと思った。つまり、王権と教権は補完的にも調和的に働き合うときこそ、繁栄な時代が訪れて、そしてその「和」のために全力に尽くそうとする姿勢がある。

人類学の成果を見ても、多くの民族では宗教と政治は密接につながっていて、時には一体化するが、とにかく、枢要的な位置を占めることが殆どであり、これも普遍的な現象だと思った。人間は常に政治的な平安も精神的な平安も求め、そうするために全力を尽くしてきたということが歴史と人類学が教えることであろう。

II.相違点について
以下になるべく簡単にキリスト教との比較に当たって疑問をいだいた点をいくつか紹介しよう。カトリックはどうなっているかについてはなるべく簡単に紹介して、結論を各位に任せることにしたい。細かい話には入れないので、三位一体について、また御托身と贖罪の玄義については、ユーチューブのチャンネル[注1]に公開されている公教要理の当該箇所をぜひ見ていただければと思う 。

1.異質なのにすべてをキリスト教として同視化するには無理がある。
これは根本的な重要な問題であるが、日本ではかなり誤解があるようで、認識してほしいことがある。ユダヤ教(諸宗派)、カトリック、イスラム教(諸宗派)とプロテスタント(諸宗派)は全く違う宗教であること。

それについて詳しく知りたい方はプロテスタント主義に関する講演[注2] 、あるいは9月中に発信予定のHillard先生の講演(ユダヤ教の誕生を紹介する) に参照するようにお勧めする。
それはともかく、なぜ、それぞれ異質なのだろうか?

一、ユダヤ教もプロテスタントもイスラム教もひとくくりにまとめられてはいるが、実体は数えきれないほどの宗派があってお互いに争いあっている。一方でカトリック教会は最初から教義上も組織上もイエズス・キリストによって統一されたカトリック教会として制定されたという違いがある。

二、ユダヤ教もプロテスタント諸宗派もカトリックを否定する形で成り立っている(この史実を知るために、ユーチューブ動画を参照)。ここにいう「ユダヤ教」とはイエズス・キリストの時代のユダヤ教ではなく、そのあとに出来上がったタルムード教である。このタルムード教は(ユダヤ教と一般的に呼ばれてはいるが)カトリックを否定する形で出来上がった。プロテスタントもそうであることは言うまでもない。イスラム教もタルムード教とキリスト教の異端が混ざった形でなりたっており、その意味でカトリックを否定している(そういえば、イスラム教から見ると、カトリックは多神教だと軽蔑されている)。

どういう形で否定されているかというと、三位一体の玄義、御托身の玄義(真の天主、真の人なるイエズス・キリストという存在)、十字架上の生贄の徹底的な否定である。プロテスタントも一緒である。キリストを優れた預言者、賢者としてしか評価しない。



一方、異教の宗教はどうなのか?異教を指して、用語をあえて使うと「自然宗教」とよばれることがある。キリスト教以前の宗教なので、あるいはキリスト教との接触はなかったので、正面からカトリックを否定するために成り立ったことはない宗教である。自然法(簡単にいうと基本的な秩序と道徳)に従っているという意味で、自然宗教ともいわれている。

ではカトリックの教父たちによる正統的な解釈において、自然宗教はどう評価されているだろうか?
第一、知らない内に悪魔たちを礼拝している自然宗教もあれば、第二、単なる偶像崇拝(つまり物質的であるか、そうではないかを問わず、何らかの被創造物を絶対化して神として礼拝する)もある。例えば、この意味で、現在はかなり深い偶像崇拝となっている。民主主義という偶像に。そして、第三、だからといって、自然宗教において、原始的な予言は(ノア時代、あるいはアダム時代)ぼやけた形で残っていることもありえる。その意味で、自然宗教においてイエズス・キリストの到来を予兆する要素も確認できることがある。あえて言えば、三位一体的な構造が確認できるのはそういったケースであろう。

しかしながら、例えば、先祖を崇拝することは当然にできるが、先祖を神(創造主)として礼拝するのは誤っているという立場になる。

2.三位一体なる玄義と一体三宝観は異質である。
三位一体なる原義と一体三宝観は、その構造的こそ似てはいるものの、その中身はまったく異質であると言わざるを得ない。例えば、共産主義はカトリックと同じような構造をとろうとしている。ただ、その中身は違う。共産主義になると、救済はあの世ではなく、この世に実現されることになる。救済主はイエズス・キリストではなく、共産党によることになる。

恩寵は否定され、唯物史観の法則ですべて決まっているとされる。まさに外観はメシア信仰的であるが、その本尊ともいうべきカトリックについては徹底的に否定する宗教もどきのイデオロギーなのだ 。要するに、構造が近いからといって、その本質も近いとはかぎらないということである。
では、なぜ、異質といえるのだろうか?

たとえば、三位一体というのは説ではなくて、教義であるが、天主の内面的な現実を指している。玄義なので、人知は及ばないものではあるものの、黙想できてそれについて述べることもできる。

三位一体という玄義の中身を簡単にいうと次のようである。
天主は唯一である。そして、天主は万象において宇宙において天主として働き給う。だから、地上に御托身なさったイエズス・キリストのすべての業は天主ご自身の御業だった。宇宙を創造したのも天主だった。聖霊降臨の時にも天主ご自身が降臨した。

つまり、天主の外的のすべての働きは三位一体なる天主による御業であり、父と子と聖霊を区別できない。人間はその能力が限られた存在なので、便宜上、より分かりやすくするために、それぞれの働きを割り振る(例えば父なる天主が宇宙を創造した)ことがあるが、あくまでもより簡単にイメージを持たせるためであって、天主の唯一性はそれでも変わらない。

では、三位一体の父と子と聖霊の区別はどこにあるのか?内面的な営みにおいてである。子は父のみ言葉であり、そして子と父の間の完全なる愛は聖霊である。そういった関係を示している。愛としての三位一体。

また、イエズス・キリストは真の天主、真の人であるとご自身が何度も宣言しているのだが、これは肉身をもった人であると同時に、真の天主でもあるという意味だ。また多くの奇跡によってこの「御托身」の玄義を証明して(ご自分の復活、病気の治療、死者の復活、時間と場所を決めて十字架上に自分に意志で掛かられたことなど)、また旧約聖書のすべての預言を成就したこと(誕生した時と場所、受難のすべての流れ、王家の末裔として生まれたことなど)などが完璧な教えによって証明されている。要するに、三位一体はただの説ではなく、根拠が非常に強くて、聖書においても聖伝においても明白になっている教義なのである。

3.もう一つの違い。三位一体は後で発見された説ではない。
『法華経世界への誘い』の313ページに、三位一体は4世紀に作られた説だという意見があるが、それは違う。福音書において数えきれないところで三位一体を確認できる。旧約聖書にもあれば(創世期の最初の一句から、天主を指している言葉は「Elohim・神々」と複数形になっているのに、ヘブライ語では「創造した」という動詞は単数系になっている。(ほかにも創世記、I,25,26。創世記、III、22。イザヤ、VI、3.など)新約聖書において数多く出る(マテオ、28、19。ヨハネ、V,7。ヨハネ、1、1。ヨハネ、14、16など)。

そして、聖伝(使徒から伝わってきた伝承)も同じことを断言する。
教義として4世紀になって初めて再断言されたのは、多くの異端が三位一体を攻撃していたからだ。
ここに、注目していただきたい点がある。イエズス・キリストによってカトリック教会が制定されて、聖ペトロをトップに最初の使徒たちが教会の基礎を敷いた。13人は、ヨハネを除き(ヨハネは何度か処刑されかけたが、いずれも生還を果たしている)殉教死を遂げた。その殆どは漁夫あるいは低い身分な人々で、高い教育は受けていなかった。それなのに、僅かな数十年で当時の全世界までその教えは広まった(インドまで及んだ形跡もあり、西へも東へも広まった)。

4.聖典と解釈の違い
「聖書」という聖典は図書館のようなものであり、異質の多くの本が一緒になっている。旧約聖書は救い主の到来を準備して予言して、新約聖書は救い主の人生とその教えを記録する。

そして、最初から天主の啓示として聖書が古典化された。また、何が中に入っているかも決定的に決められた。また、聖なる言語も決められている。つまり、ラテン語、ギリシャ語とヘブライ語である。翻訳してもいいのだが参照になり得るのは、古典化された三つの言語だけである。
解釈においても使徒たちの聖伝によって、また当初の多くの教父たちによって定着した。聖書についての一番大事な場面への解釈はかたまっていて、言い換えたり、それを改めることはできない。また、他のところへの解釈方法も規定されていて、プロテスタントのように、自由に解釈してはいけない。解釈することはもちろんできるが、勝手にはできない。

つまり使徒や教父らによって、最初の時代から、教え(教義)と権威(教皇)の正当性は確立された。だからこそ、「異端」という存在が出てくる。信仰の中身は最初から明確に定められているので、何が異端であるかも明確になっている。つまり、教義上の真理は何であるのかというような議論は基本的におこらない。天主によって示された真理を受け入れるかどうかで異端になるかどうか決まる。異端が出た時、攻撃される真理を再断言することによってカトリック教会がイエズス・キリストから預けられた真理を守る。

5.融合か回心か
カトリックの教義においては、真の人、真の天主なるイエズス・キリストの外に救済はない(ヨハネ、3、17-18。マテオ、28、19-20。使徒行録、4、12、などなど)。1+1=2と1+1=3という二つの真理は同時に成り立つわけがない。両方とも1という文字を使っていることにおいて共通点があるが、その中身は違って、一方、正しくて、もう一方、誤っている。

このように真理は本質的に排他的である。現実は排他的である。私は男性である。女性ではない。女性だと言い出したら、間違いである。
それはそれとして、カトリック教会の信仰では、イエズス・キリストを通じてのみ救済が得られる。だから布教、宣教、伝道がある。その天主に関する現実を伝えなければ、多くの霊魂は救われない。

また、天主によって提示された信仰、つまりその教義を受け入れてイエズス・キリストに倣うかどうかが関心事である。教皇から一般使徒まで一緒である。つまり、真理を追究することもなかったら、「覚る」こともない。繰り返すが、天主によってあらかじめ提示される真理(基本的に信経で要約されているが)に同意するかどうかにカトリックの信仰はかかっている。だからといって、回心した時に元のすべてを捨てるべきなのか?誤ったことのすべてを捨てて、間違っていないことは捨てなくてもよいということである。

しかしながら、融合などはあり得ない。畳上ミサをやってもいいのだが、イエズス・キリストは唯一の真なる天主、真なる人間とされているのに対し、日蓮はあくまでも被造物にすぎない点において明確に異なる。

結びに変えて
不思議なことに、フリーメーソンあるいはノア宗教あるいはグノーシスのような宗教をみると、すべては融合して統一化して、すべての宗教は真理をある程度に把握しているとされ、正に「エキュメニカル」なところがある。現在のグローバリズムの原動力にはそういった「バベルの塔を再建しよう」という理想を描く思想があると言えよう。

日蓮主義においても、三位一体的な構造、あるいは御托身を思わせる要素もあるように見えた。また、実践面でもカトリックとの共通点も感じた。しかしながら、結果的には、グローバリズムといった危険思想が蔓延したり、あるいは亡国を避けるために伝統を守り本来あるべき現実的な秩序を取り戻す必要はないと説かれているのではないだろうか?

融合的な思想もあるかもしれないが、現在の世界ではこのような思想はグローバリズムにつながってくるのではないのか?日蓮も保守派の皆さんも、日本の亡国、それから日本文化の抹消につながることを望んでいないと思う。日本国を守るために、日本国の亡国を誘導する危険を含んでいる思想に対して少しでも警戒を持った方がいいのではないだろうか?

カトリック信徒としては、イエズス・キリストにおいてこそ、本物の復興があり、本来の秩序があると信ずる。また、日本はイエズス・キリストに回心したらより日本的になり、日本らしさをも守れると確信している。

日蓮を優れた人間として模範と教訓を仰ぐのはかまわないだろう。しかしながら、聖母マリアの御宿りによってご降誕なさった肉体をもった赤ちゃん、真の天主であるイエズス・キリストと混同するのはその属性(イエズスは受肉した天主、創造主。日蓮は被造物たる人間)から全くして違うような気がする。
すでに長すぎる文章になり、また、伝わらないことも多いことを懼れるが、この小稿が次の議論につながれば幸いである。

[注1]:白百合と菊Lys et Chrysanthèmeのユーチューブチャンネルで、「公教要理」プレイリスト。三位一体に関して第九講から第十一講まで。ご托身の玄義贖罪の玄義
[注2]:白百合と菊Lys et Chrysanthèmeのユーチューブチャンネルで、「プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)」 講演録は王権学会のサイトに載っている。
[注3]:九月下旬、公開予定。

カトリックにおける世俗と宗教の関係について:【序文】

2020年12月13日 | カトリック
【国体文化】令和 2 年 11月号掲載された書評のポール・ド・ラクビビエ氏の原文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ


カトリックにおける世俗と宗教の関係について

〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
法華経とキリスト教の比較について
相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』

はじめに

相澤宏明氏の「キリスト教と法華仏教(2)」を拝読して、カトリック信徒としてカトリックについて幾つかの点について簡単に修正しなければならない。

私も皿木さんの本を読書して感銘を受けた。というのも、昭和天皇がヴァチカンとの外交をどれほど重視していたか、また平和工作のためにも積極的にその関係を結ぼうとしていたかがよくわかるからである。戦前日本は列強諸国の内に唯一、ある程度の自然法に従っていた分、カトリック教会とカトリック信仰になじみやすかったと思われる。具体的には中国において日本軍はカトリック信徒を守り、ヴァチカンだけは日本の政策を否定していなかった事実があった。他の列強諸国(ソ連、ドイツ、フランス共和政、米国、英国などなど)は皆、激しく反カトリックの勢力であり、国家として当時のカトリック国は殆どなくなっていた。

聖なること、世俗なることの違い

相澤氏は次のようにおっしゃる。すなわち「生まれつきの宗教者、信仰者などこの世に存在しない。生をこの世に受けたその瞬間から生地、すなはち国籍が付きまとって離れない。国籍こそが宗教籍より先にあり、この両面を無視し、宗教籍をのみ振り回すことは角礫思想だ。」と。
しかしながら、以上の言及はカトリックの教義に照らして必ずしも正しいとはいえない。

というのも、「国籍」対「宗教籍」というような対立関係にある区別は成り立たないというのがカトリックの立場だからである。敷衍すると、「世俗」と「超世俗」との区別も成り立たない。カトリックの信仰では、「国籍」と「宗教籍」ではなく、この世に生まれたことから来る恩に対して報いる義務(第四戒の掟、自然法の一部)を当然に果たさなければならないと同時に、洗礼を受けて真の天主であるイエズス・キリストの命に生まれた恩にも報いなければならないということを宣べる。両者は常に相通じて、矛盾せず、両立するのである。いや、天主の生命とでも呼びうる「聖寵」の内に生きていることによってこそ、自然次元の人生(祖国に対する義務、上司に対する義務、家族の一員としての義務など)は祝福され、完成化されてゆくのである。

法華経とカトリックは冥合不可能だ

このように考えると、相澤氏の「このようにキリスト教徒と法華仏教徒とが、奇しくも軌を一にして冥合している」というくだりは糺す必要がある。なぜだろうか?なるべく簡単に説明してみよう。

繰り返しになるが、最初にキリスト教といってもその教義はさまざまである。そのなかでイエズス・キリストご自身が制定なさったカトリック教会という神秘体の真の宗教たるカトリックに加え、カトリックを否定しているプロテスタントをはじめとする無数の異端派などがある。教義上にも実践上にもこれほど天地の違いがあるのでキリスト教というくくりでカトリックと他のセクトを十把ひとがらげにしないように留意が必要である。
それはさておいて、カトリックと法華仏教との目的は全く相容れないことを言わざるを得ない。

私の理解では、法華仏教の基本的な目的は「立正安国」であり、あるいは「絶対平和」である。ニュアンスは多少違うかもしれないが、法華仏教はこの世において理想国を作ろうとしていると私はみている。この意味で、殆どの異教、またユダヤ教、イスラム教、プロテスタント諸派と同じように、地上における理想国家を作ろうとしている。その思想は古代の大文明国家からあった。

ではカトリックはどうなのか?イエズス・キリストという真の天主と真の人間は全く違う真理を啓示なさった。
我々は罪人であり、原罪を負っている惨めな存在であり、十字架上の生贄なしに、イエズス・キリストの教えと秘蹟に頼らない限り、救霊はもとより何事もなしえない。かりに頼ったとしても、この世の理想国家なり絶対平和なりはいつまでも実現しない。これは子どもが見る夢想に過ぎなくて、歴史に照らしても明らかであるように、イエズス・キリストなくして、絶対にこの世は永続的な正しい法もたてられないし、永続平和にもならないし、理想国家にもならない。

いや、イエズス・キリストの教えは違うのだ。「私の国はこの世のものではない。(。。。)私の国はこの世からのものではない」(ヨハネ、18、36)そして、イエズス・キリストはその真理を行動で証明した。というのも、当時のユダヤ人たちはローマの占領から解放して強い国家を作るメシアを待っていたが、イエズス・キリストはその力があったものの、十字架上に登って、霊魂の救済を果たした。同じように、イエズス・キリストは公生活を始める前、砂漠で40日間、断食と祈りをささげたとき、悪魔の誘惑を受けるが、イエズス・キリストが齎す平和、幸福、救いはこの世にはないことも示されている(マテオ、4、1-11)。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべての言葉によって生きる」もある他、イエズス・キリストは使徒たちに向けて、この世では迫害と苦しみのみ約束している。「あなたたちは私の名のためにすべての人から憎まれる」(マテオ、10、22)。また、同じように、有名である山上の垂訓にある教えからも明らかである。「正義のために迫害される人は幸せである、天の国は彼等のものである」(マテオ、5、10)

要は、使徒信教にもあるように、人間の目的地はこの世にあるのではなく、あの世にある。そして、天国という至上の国を得るためにカトリック信徒は全力を尽くす。非宗教化を図るのはグロバーリズムの都合のいいことになってしまう!
ちなみに、その意味でカトリックの「非宗教化」は無理である。というのも、イエズス・キリストは仰せになるように、「私の味方でないひとは私に背き、私とともに集めぬ者は散らしてしまう。」(マテオ、12、30)。「私は道であり、真理であり、生命である。私に依らずにはだれ一人父のみもとにはいけない。私を知れば私の父も知るだろう。」(ヨハネ、14、6-7)。これは、カトリックの一つの教義である「公教会の外に救済なし」のとおりである。

現実と理想の違い

では、ここに至って、カトリックは絶対平和をも立正安国をも目的にしていないどころか、人間の傷つけられた本性のせいで、このような夢はあり得ないとしている。また、イエズス・キリストを通じなければ、救霊はないという教義も明記されている。つまり、カトリックは明確に排他的に他の宗教を否定しており、冥合のようなことはこれまでも今後も絶対にあり得ない。

だからといって、カトリックは世俗世界を無視してきたのだろうか?それはそうではない。相澤氏が記事の前半に指摘する通り、カトリック信徒たちは国家と家族のために常に犠牲を捧げて、立派な憂国と祖国愛を果たし続けたのである。

それはそうだ。というのも、カトリック教義に照らしても、人間は霊魂と体との一体であるごとく、普遍性である天主につながるためには、固有性を通じなければならない。これは家族、村、社会、国、教育などという固有性である。だからこそ、カトリックに回心した多くの国々はその特徴性を失ったことなく、むしろカトリックになってこそ、更に民族の才能は花開いてきた。また歴史に照らしても、繁栄と幸福も実現されてきたのである。ただし、この世における繁栄と幸福のためではなく、イエズス・キリストの勝利のためのみに働いたあかつきに、「たまたま」繁栄したということであるが。

カトリックはこの世を大切にしている

また、カトリックの目的地は天国だからといって、この世を無視するわけにはいかない。なぜだろうか?第一、現実にこの世においてこそ救済の可否にかかっているからであり、自分の救いもそうだが、愛している人々の救いもこの世の人生でかかっているので、イエズス・キリストに倣って、イエズス・キリストの奴隷となって、イエズス・キリストのよき道具になるように努めて、常に信仰生活を果たさなければならない。その一部として、自然法から生じる諸義務を果たすべきであるのは当然である。

というのも、カトリックのいうところの超自然の生命は自然の生命を否定するのではなく、自然の生命を完全化させて、それを基盤に贖罪の神秘を行うのであり、しっかりとした家族、村、社会、国になるように全力を尽くさなければならないということをカトリックは教えるからである。ただし、それはあくまでも天国に行くためであって、この地上において「バベルの塔」を作るためでも、「世界政府」のような統一された世界のためでもない。

この意味において、カトリックにおいては、世俗と霊的な次元は区別されても、離れてはいない。むしろ、常に世俗社会を聖化すべく、秘蹟を普及させ、よき実践を敷くことが肝要なのである。

結びに代えて

結びに代えて、結論を出そう。カトリックの歴史を見ても、繁栄した国、安泰となった国はあった。信仰深くあればあるほど、そのような時代が訪れた一方、信仰から離れれば離れるほど、堕落していった。フランスの歴史はその意味で典型的であり、皇室の歴史を見ても近いかもしれない。キリシタンを禁教にして根絶した時代は皇室が拘束されて傀儡のような存在まで落ちた。悪魔的な勢いが全世界を覆おうとした19世紀末と20世紀の時、日本はカトリックに回心する切っ掛けが与えられて、一時的に繁栄したが、それを見逃して現代におけるような状況に至っている。

結論として、絶対平和や理想国家の建国を「深く諦めて」イエズス・キリストの十字架上の生贄を認めて、十字架という犠牲と苦しみを愛して初めて、本物の平和と繁栄は訪れるだろう。だから、宗教の非宗教化でもなく(これはまさに共産主義が目指すような理想)、また諸宗教の統一でもなく(これはフリーメイソンの夢である)、唯一本物の宗教、カトリックに回心して初めて、日本は日本らしくなり、繁栄していくことを願い、確信するものである。

ポール・ド・ラクビビエ

記事本編に続く・・・

それは正しくない所持となっていないか?外面的にも内面的にも盗んではならない:第七戒と第十戒

2020年12月06日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百三講 第七戒と第十戒について



第五戒と第六戒の次に第七戒を見ていきましょう。
第七 なんじ、盗むなかれ。

そして、第六戒の場合、第九戒と一緒に見てきたように、ここ第七戒と第十戒と一緒に見ていきましょう。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

第六と第九の戒の相互関係と同じように、第七戒は盗むことに関して外面的な行為を禁じ、そして、第十戒は盗むことについての欲望と思いを禁じるのです。すなわち、外面的な罪と内面的な罪という関係。

内面的な罪も存在します。外観からすると外面的な行為は何もないものの、意志において既に悪を望む時、あるいは悪を追究する時、内面的な罪になりえます。つまり、霊魂において乱れた欲望、乱れた何かがあると、罪になりえます。

第七戒は第五と第六戒の次にきます。第五と第六戒は生命の保護と生命の伝承のために設けられています。それは、生命は天主のものであって、天主のみが生命の御主であるからです。「生命」という時には広い意味で理解しなければなりません。いわゆる、「新しい生命を伝える」としてだけではなく、生まれた新しい命の成長とその完成化をも意味します。

そして、人間の命の完成化は一先ず徳の実践にあります。徳とは自分の動きで善を選んで善の内に生きていくことを常にするということです。そして、道徳的な人生を送るために、つまり、善徳を身につけるために社会が必要であって前提となります。

つまり、人間は本性的に「政治的な動物」なのです。なぜかというと、人々はこの世に生まれてきても必ずしもまだ完成性は何もありません。あるのは、「人間の本性」を持つということだけであり、部分的な完成性を持っているのにすぎません。つまり、生まれた時点では人間はまだ人間の尊厳というものは全くありません。

人間に尊厳を持てるのは、成長してある程度完成化した時であって、つまり、自ら徳において行動していくことが可能となった暁に尊厳であると初めていえるようになります。つまり、本物の「人間らしい」人として行為するようになった時、つまり、ある程度に完成化された意志と知性をもって、善と真の内に行為していける時、人間としての尊厳を得られるということです。

そして、人生というものが発展あるいは成長していくためには、また、社会において善徳の内に、かつ調和の内に成長していくためには、人間の本性に基づく自然法が「所有権」を含むことでもあります。私有の所有権のおかげで、人々は私物を持ててその使用を享受できます。そして、これらの財産を活かして徳において成長しくことができるのです。

というのも、徳において成長するためには、ある程度の物質的な物、財産が必要です。聖トマス・アクイナスはこれを教えています。つまり、善を選び、善へ行くことにするためには最低限の財産、現代風に言うと最低限の生活水準が必要だという意味です。残念ながら、極端に貧窮な状態は徳の実践を困難にさせます。

従って、所有権というのは自然法の一部であって、人間の生まれながらの所有権です。ですから、隣人の物を盗むとか、盗むことを望むとかは、端的にいうと、隣人が善徳を実践することに対する障害となるということです。端的に申しあげましたが、結局、盗むのがなぜ悪いかというと、隣人の善の実践を妨げるからです。これが第七戒の趣旨なのです。

では所有権とは何でしょうか。「所有権とは第三者をさしおいてある物とその効用性を享受する自由(特権)」なのです。そして、皆一人一人は必ず、最低限の「私物」を必要としています。人はいわゆる安定的な「領分(Dominion)」を取得する権利があります。

なぜでしょうか?人にはある程度の安定さを必要としているからです。ですから、所有権という権利は自然法を越えて、天主の法に由来しています。天主は「ぬすむなかれ」というのですが、盗むことを禁じているということは、裏を返せば、当然ながら「私有権」をお望みであるということを示しています。

ですから、所有権を否定しようとしている人々として、特に浮かぶのは「社会主義者」という一般的な呼称で呼ばれる共産主義者などであり、彼らの多くのイデオロギーは、カトリック教会によって否認されたイデオロギーです。教皇ピオ9世とピオ11世の幾つかの回勅は明確にこれらのイデオロギーを否認しました。

これらの思想家は結局、理想主義者にすぎません。なぜ理想主義者なのでしょうか?この思想は所有権を否定して、平和を確立する思想なのです。つまり、簡単にいうと、財産の共産化を実現することによって、ある種の平等、それから平和を実現できると彼らが確信していますが、実際にはその逆の結果を伴います。所有権を否定すると、善徳の実践を困難にさせるから、社会はどんどん乱れていくしかありません。このことは、それについて長く話す必要はなくて、歴史を見れば、また現実を見れば、残念ながら、すぐ確認できることです。

ですから、人間には私物を持つこと、それから所有権を活かすことは必要なことなのです。したがって、所有権を犯すことの深刻な罪になるのです。これは「不正」と呼ばれています。不正に隣人の物を持っているということで、つまり、所有されている誰かの物を奪うということは罪になります。これは「盗む」ということです。誰かの物を奪うということであり、隣人の自由あるいは権利を侵害する行為なのです。

そして、隣人の自由を侵害するというのは、隣人を侮辱することになります。そして、転じて、天主を侮辱することにもなります。これは大変なことです。現代では、隣人に対する罪は必ずしも天主に対する罪ではないと考えられがちですが、それは違います。隣人に対する罪は必ず天主に対する罪となるのです。というのも、所有権をお望みになり、また善をお望みになり、また徳をお望みになる天主に対する罪なのです。ですから、所有権を妨げることは、善を妨げること、徳を妨げることであり、天主に対する罪なのです。盗む行為は、もちろん、第一に隣人に対する罪に端を発するのですが。

窃盗、横領、掠奪、詐欺などは現代で誰もよく見うけられる行為ですが、これらは罪であり、殆どの場合、大罪なのです。

正しくない所持とはこっそりと保持しているということですが、つまり、隣人の物を自分の手元において保持しているという意味です。そして、これによる不正な侵害は、悪意をもって、あるいは軽率によって失われ奪われたせいで隣人が損を負わざるを得ないということです。いわゆる、奪われたことによって自分が利益を得なかったとしても、隣人はその物を失ったことによって負う損は不正な侵害だと言えます。



これらの罪は隣人の善を妨げる行為なのです。また、深刻な罪です。そして、これらの罪は具体的な償いを必要とします。この点を特に強調しましょう。犯された不正を具体的に償う必要があります。つまり、盗む類の行為は「不正な行為をやってしまった!告解に行こう。それで済むから。」ということだけでは足りません。例えば借りた本をいつまでも返さないというようなことも盗む行為の一種となります。

告解の際、罪の赦しを得るために、盗んだ物を具体的に返す義務がありますので、本気で返す意志がない限り、秘跡の効果を得られません。つまり、盗んだ者に盗んだ物を返すべきです。なぜでしょうか?盗まれた物には所有者があります。つまり、その物には主人があるということです。これが大事です。物には主(あるじ)があります。



ですから、何かを盗んだ時、例えばある生徒は同級生のペンを盗んだ時、このペンの占有者を変えてしまいました。ペンは元の同級生の占有物だったのですが、盗んだ生徒の占有物となってしまいます。しかしながら、所有者は依然として元の同級生のままです。これこそは不正の状態なのです。で、ペンを盗んだ生徒は悔い改めて、告解に来てちゃんと罪を明かした時、盗んだペンを返す本気の意志があって初めて悔い改めたと言えます。なぜでしょうか。盗まれたペンは同級生の物ですから。つまり、ペンを盗んだ生徒はペンを占有しているものの、彼の所有物ではありません。占有しているから所有になるわけではありません。

何かを所有するためには、正当に取得する前提があります。不正に占有された物は所有物にはならないで、いわゆる所有権の移転がないまま、不正な占有でありながら元の者の所有のままになっています。

また、不正に取得するということは、狭義の盗みだけではなく、形はいろいろあります。例えば、意図的に悪い契約を結んで相手を騙した結果、何かを取得した場合それは不正な取得となります。ここにも「盗む」行為が発生します。

従って、第七戒はかなり広い掟であって、適用される場合も広いです。動産や不動産について掟でもあるし、いろいろあります。
この掟の目的は隣人の所有物を守ることにあります。そして、社会上、ある程度の平和を維持するための掟でもあります。そして、このような平和のお陰で、善徳が奨励されるのです。要するに、善において行為していくように奨励するための掟です。本物の社会のそもそもの様子は和、調和、平和なのです。つまり、和は社会の共通善そのものであり、それを取り戻すためには不正な行為を償う必要があるということです。
そして、第六戒の場合と同じように、実際に外面的な窃盗はなかったとしても、罪になることはあります。これが第十戒です。

第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。



つまり、隣人の物を積極的に奪うことを望むことはすでに罪です。場合によっては深刻な罪となります。なぜかというと、思いだけでも、隣人の正当なる所有権を否定していることになるからです。もちろん、実際に行為をしなかった限りにおいて、具体的に物を返す必要はありません。具体的に物を返す前提にはもちろん実際に盗んだということがありますね。

つまり、究極的に、この世のあらゆる物事は天主のものなのです。天主は万物の創造者である故、万物の所有者なのです。支配者なのです。ですから、天主こそはご自分の万物を人々に与えて、その二次的な所有者になさいます。

従って、所有権は天主より直接に与えられた特権なのです。繰り返しますが、最終的に万物は天主の物です。ですから、天主は万物を自由に与えたり奪ったりすることができます。ですから、天主は万物の主であるがゆえに、いつでもどこでも私たちから物を奪うこともでき、また与えることもできます。そしてそれは不正でも何でもありません。善き天主こそは(私たちを含めて)万物の正当なる所有者ですから、何かを私から取り上げる時、盗むことではなく、占有権を取り戻して、つまりそれに対する所有権を実行したにすぎません。

たとえば、ヨブの話は有名ですね。たった一日で、ヨブが持っていたすべて(親戚を含めて)を失うことになることを天主は許可されました。ヨブは言っていました。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1、29)天主は万物の御主なのです。



旧約聖書には善き天主が隷属状態にあったヘブライ人をエジプトから解放なさった場面がありますね。その時、天主はヘブライ人に「エジプト人の貴重な物すべてをとれ」と命じました。現代的な感覚でいうと、ヘブライ人はエジプト人から盗んだと言われるかもしれません。しかしながら、そうではありません。ヘブライ人は盗んでいません。天主の命令に従っただけです。万物は天主の物だから、天主はエジプト人の物がヘブライ人の物にすることを決められたわけです。ただ、もちろん、自分を正当化するために「天主の命令だから」といって何かを盗むことは当然ながら誰一人も許されていませんね。

しかしながら、大事なのはすべて、万物は天主の物だということなのです。ですから、この意味で、生きていくためにどうしても必要な物、例えば飢え死にならないため例外的に盗みが許される場合があります。つまり、本当に絶対的に必要としている物だけをとる場合です。もちろん、現代ではこのような場合を想定するのはかなり難しいですが、時代によってかなり日常的な状態でもあったりしました。

例えば、食うものを何も持たない人、つまり非常に貧困に陥っているその人、つまり飢え死にする人は自分が生き残っていくために、つまり、自分の生命が途絶えないためにだけ(これこそが大事です。生命を守るためということです。転じて、善へ行くため、徳の道を歩むために生命を守るという)、必要としている食べ物のみを「とっても」許される場合があります。もちろん、そうすることによって、隣人を飢え死にさせないという前提条件もありますが。

要するに、すべての戒は生命のためにあり、つまり命を守るためにあり、それは、善と徳、またいわゆる「立派に生きる」という意味での「善く生きていく」ためにある掟なのです。

なぜ貞潔を守らなければならないのか?―第六戒と、第九戒:行いと思いで貞潔に背く罪

2020年12月01日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二講 第六戒と第九戒



第六戒と第九戒について

第五戒の次は第六戒があります。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。

以上の第六戒は第九戒と一緒に見ることになります。第九戒は外的な行為についてではなく、思いに関する掟となります。第六と第九はその意味で補完的な関係にあってセットとなります。第六戒は純潔に背く外面的な行為に関する掟である一方、第九戒は純潔に背く欲望と思いといった内面的な行為に関する掟であります。

これから以降、第六戒という時、第九戒も含まれているということにしていきます。そして第六戒が第五戒の次に来るということには意味があるということ指摘しておきましょう。
前回、第五戒について申し上げたように、善き天主は気まぐれに掟を決定したことはありません。好き勝手に人間をいじめるために掟を決定したということもありません。いや、そうではなく、(ここでいいたいのは)被創造世界、つまり宇宙には秩序があるということです。そして、この秩序を理解することが大事です。掟は人間がその秩序にしたがうために与えられたわけです。

で、第六戒は第五戒の次にきます。なぜこの位置づけは大事でしょうか?これを理解すると第六戒を実践するための徳をよりよく理解できるということになりますので注意しましょう。

思い出しましょう。第五戒は「人を殺すなかれ」という掟ですね。命は大切だから生命を犯してはいけないということです。そして、第五戒は人々の命についての掟です。そして、一人の人の生命に背く罪である殺人を禁じる掟です。

第六戒は第五戒と同じように生命に関する掟ですが、第六戒は人類の生命に関する掟です。つまり、個人は人類の一員にすぎないということです。そして、それぞれの時代において人々が人類の生命を伸ばしていくことに貢献することは非常に良いことです。ですから、第六戒は第五戒と違って個人の生命の維持を助けるための掟ではなく、人類の生命の延長と継続を助けるための掟です。第六戒を理解するために、人類の生命を守るためにこの掟が制定されたということをよく覚えておきましょう。

第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
に加えて
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。

とあります。これは不倫を禁じる掟です。つまり、人類の存続のために行われていない性的行為は、そして人類の生命の延長という目的の枠外に行われている性的行為は罪になるということです。なぜでしょうか?このような行為をしてしまうと、わがままに自分の欲望を満たすせいで、「人類の存続」という共通善に損害を与えるからです。

そして、一般的な原理原則ですが、「全体の善は一部の善より好ましい」ということです。ですから、全体より一部を優先するという行為は過失であり、偏った行為となります。たとえてみると、絵画にある細部がどれほど立派であるとしても、全体としての絵画を見ない限りにおいてこの細部は無意味ですし理解できません。また同じように身体の四肢の存在理由は身体全体を見て初めて成り立つのです。ですから、身体を自ら害することは罪になりますが、それは全体から大切な一部を奪うから罪となるということです。逆に、身体全体の生命を救うため、腐っているがゆえにやむを得ずして全体の命を脅かす一部の切断は罪ではないのです。

敷衍(ふえん)すると「姦淫」という罪は人類全体の生命を損じる行為であり、罪となります。善き天主は人類の存続のためにある種の器官を与えた上に、人類の存続のために生殖行為にある種の快楽をも与えました。それは人類の生命の延長のためです。

残念ながら、人間は与えられたこの(器官と)快楽を悪用して、わがままのために利用したりします。つまり、本来ならば、全体としての人類に自分を捧げた暁に得られる快楽であるはずが、人類の生命の存続のためという目的から外れてしまう結果、つまり全体のためにあるはずの行為を歪曲した挙句、わがままにして自分自身だけの快楽に歪曲したという大罪になります。

善き天主はアダムとエワに命令しました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世、1,28)
善き天主はこのように命令なさったのですが、この命令を満たすことは徳のある行為であるということです。なぜかというと、善のための行為、善に従っている行為は必ず徳の高い行為だということになるからです。

で、人類という全体の善のために人を向かわせる徳というのは何かというとそれは「貞節」の徳です。貞節の徳とは何でしょうか?ラテン語の由来は「Castigare」にありますが「罰する」あるいは「懲らしめる」という意味です。ここにいう「罰する」というのは罰するために罰するのではなくて、「本来の居場所に物事を戻す」という意味で「罰する」という意味です。

原罪以前には、人間において正しい秩序がありました。恩寵の下に意志と知性は従っていました。そして、意志と知性の下に感情は従っていました。そして、感情の下に身体は従っていました。

しかしながら、原罪によってこの本来の秩序と調和は乱れてしまいました。その結果、本来、下は上に従っていた調和的な一致が砕かれてしまいました。で、下の方は上を無視して自分の方向に勝手に行ってしまうようになってしましました。社会にたとえてみていえば、子供は親に従わない、とか村は祖国に従わず、祖国を無視して勝手に動きだして社会を混乱させるといったような乱れと似ています。



貞節の徳は本来の秩序を取り戻すために働く徳であり、たとえば霊魂は身体への支配権を取り戻すための徳になぞらえます。つまり、貞節の徳とは、霊魂の赴くままに身体が従順させるための徳です。言い換えると、貞節の徳の場合、本来の目的である人類の生命の延長のために身体を使うということにむすびつきます。

このように、貞節の徳は第六戒の中心なる徳です。
貞節の徳は「禁じられた肉体の快楽を控える」ために助ける徳です。ですから、結婚においても貞節の徳はあります。つまり、結婚においての交際を律する貞節があります。

そして、童貞という貞節の徳もあります。つまり、一生、肉体による快楽を控えるという徳です。
貞節の徳は必要不可欠なのです。姦淫の罪に対峙する徳です。また、自然の次元で言っても、超自然の次元で言っても貞節の徳は当然の徳であり、避けられない徳でとても大事です。

というのも、貞節の徳のお陰で、理性に従って、理に適って振舞うことが可能となるからです。一方、姦淫は乱れた行為を推し進める結果、理にかなわなくなって、理性と知性に背く行為になっていくのです。あえていえば、意志にも背く行為になります。なぜかというと、意志とはそもそも善のためにあるなので、悪いことのために意志を用いると、意志を侮辱することになります。

そして、超自然の次元においても、忘れてはいけないことがあります。私たちは聖霊の神殿であることを忘れていけません。聖パウロが記す通り、「あなたたち神の聖所であり、神の霊はその中に住みたもうことを知らないのか。神の聖所を壊す者があれば、神は彼を壊される。神の聖所は聖なるものである。あなたたちはその聖所である。」(コリントへの第一の手紙、3、16-17)。この文章はコリントへの第一の手紙の第三章の他に、第六章にもあります(6、19)。

貞節の徳は立派です。まあ現代人はそう思わないことは多いかもしれませんが、貞節の徳は非常に優れている徳です。確かに、貞節の徳を実践するためには身体を霊魂の下に取り戻すためにある程度の苦行を必要とします。しかしながら、貞節の徳を実践していくと、霊魂において静謐(せいひつ)は生まれてきます。また、裏を返せば、姦淫の内に生きている者は静謐ではなくて、いつもいつも安心できないのです。残念ながら、現代では時に、顔にまでこのような不安定さが現れることもあります。

また、貞節の徳を実践していくと、霊魂において大きな喜びが生まれて、善においての実りも多くなっていきます。つまり、貞節を守る者は善においてより多くの実りを出していきます。
諸聖人の人生を見ると明らかです。福音書においてはなおさらに明らかです。
そして、当然ながら貞節の徳を実践したら、天国においての大きな報いに値します。

第六戒は貞節の徳の実践を要求しています。第六戒は単なる「禁止」だけではありません。それよりもまず「秩序」あるいは「和」なのです。つまり、「和」を得るために必要な徳なのです。または安心、静謐。乱れた時、このような和を得られないわけです。

しかしながら、身体が霊魂に従い、霊魂が天主に従う時、本当の秩序があって、本当の安心と静謐と和の境地に入れます。ですから、第六戒はこのような秩序、和、静謐、安心に達するための戒です。逆に、姦淫はこの和を壊すものです。

ですから、
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。

要するに姦淫とは卑猥な快楽への愛着なのです。「卑猥」という時、乱れた快楽という意味であって、つまり結婚以外に求められている快楽であります。そして、結婚とは生殖のために制定された制度です。結婚とは子供を産むために制定された制度です。このようにして、結婚の枠外に求められて得た快楽は卑猥になるということで、罪です。大罪なのです。姦淫は七つの罪源の一つなのです。

また、姦淫というのは外面的な行為を伴わないとしても、内面的にこのような卑猥な快楽を味わうこともあって、これもすでに罪となります。つまり、姦淫による快楽を思って味わうことは罪です。実際に外面的な行為をもって満たされないとしても、意図的に姦淫の行為を望み、欲するのは大罪です。なぜでしょうか?すでに悪を意図的に望む行為だからです。思い出しましょう。罪というのは意志においてこそ成立します。そして、当然ながら、外面的な行為を伴ったら、更にこの行為も大罪となります。

従って、第六戒はすべての卑猥な行為、姦淫の行為、いわゆる孤独の快楽をも厳格に禁止します。つまり、結婚の枠外に犯される行為、あるいは自然に反する行為を厳しく禁じています。残念ながら、最近の社会では自然に反する行為は多くて、いわゆる「同性愛」と呼ばれているところのものです。

また、結婚においても生殖という目的から意図的に逸らされている行為も罪です。たとえば、避妊、ピル、避妊リングなど、避妊を利用するのは大罪となります。避妊あっての行為はその行為の目的から外れる行為となり、乱れた行為となるからです。これは深刻な罪です。なぜでしょうか?物事の本来の目的は物事の完成を意味しますから、その完成化を拒み、物事の目的を拒否することは大変な罪です。

たとえてみましょう。それは、あたかも技術者が機械を作るとして、その作った機械の使途を無視して、関係のないことのためにその機械を使うのと似ています。例えば、洗濯機なのに皿を入れたらどうなるでしょうか?洗濯機も壊れるし、皿も壊れることになります。洗濯機の目的から外れた使用になったので、乱れた使用となったから、弊害をもたらすのです。

同じように、人間の目的は人間の目的地であって、また人間の完成化でもあります。これらは一致します。このように、姦淫の罪は生殖の行為を本来の目的(人類の生命の延長)から外す行為であり、ひいては人間の目的を拒否することとなるので、大罪となるのです。

残念ながら、現代の社会は非常に堕落しています。ソドムとゴモラの時代ほどの乱れた社会になっているかのようです。そして、ソドムとゴモラの二つの都市に対する天罰がどうなったかは、周知のとおりです。ソドムとゴモラは考古学によると、非常に豊かな自然のなかにありましたが、現在、そこでは、何も残っていないのです。不毛の地となっています。いつまでも何も植えられない地となりました。残念ながら、現代社会にいる我々もこのような天罰を覚悟した方がいいでしょう。



続いて、外面的な罪は禁じられるのはもちろん、内面的な罪も禁じられています。例えば、意図的に、あるいは控えようとしない卑猥な不潔な視線という罪があります。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している」(マテオ、5、28)と私たちの主、イエズス・キリストは仰せになりました。またヨブ書にはこのように書いてあります。「私は自分の目と契約を結んだ、どんな娘にも目をとめないと。」ヨブの31章にあります。素晴らしいでしょう。

また、このような罪を引き起こしうる状態に意図的に自分を誘惑に晒すことも罪なのです。というのも、罪の機会を意図的に自分に与えるということは、すでに罪を望むようなことです。

次に、姦淫の結果を見ましょう。姦淫はかなり悲惨な結果を伴うことを忘れてはいけません。姦淫によって身体上の快楽が強いあまりに、身体こそが知性と意志を従えることになってしまいます。知性と意志はまさに堕落していきます。つまり、上の者は下の者に従っているという逆さまになるという意味です。従って、殆どの場合、姦淫の結果は、知性が暗んでいきます。

姦淫におぼれている者は例えば、「姦淫な行為がなぜだめなのか」ですらわからなくなっていくのです。そして本当に深刻な姦淫にはまってしまったら、ある意味でもはや姦淫の人は残念ながら、なぜだめなのかをも理解できなくなります。貞節の徳を実践することによって、霊魂は高められてはじめて上から俯瞰できるようになりますが、姦淫の人の霊魂は暗闇に落ちています。

そして、このような霊魂の蒙昧の状態だと、姦淫の人は反省することを非常に嫌がることになります。本当に悪循環です。そういえば、近代の社会はまさに不安定、移り気、そして何よりも浅薄な人々を生んでいきます。現代人の典型的な人々の性格は真理の前に過剰に小心になり、臆病になる傾向にあると言えましょう。そして、裏を返せば、現代人は死の前にビビって、この上なく絶対的な恐怖を感じるようになっていきます。というのも、死というのは好むと好まざるとを問わず、真理へと目を向かわせてくれるからです。

それから、姦淫の結果、他に注意散漫、放心、無節操、意志の弱体化をもたらします。もはや意志は戦えなくなって、戦おうともしなくなるのです。残念ながら、現代はまさに弱体化された意志の時代となっています。弱体されたということは移り気の意志になり、虚弱なもろい意志になっているということです。

それから、姦淫の他の結果として、天主の忘却、それから現世への愛着をもたらします。そして、転じて霊的な生活の忘却と来世の命に対する嫌悪感をもたらします。
それから、社会全体にも悪い結果があって、堕落がはびこります。現代を見たら自明でしょう。衰退と侮辱をもたらすのです。

貞節の徳を実践していくためには、戦う必要があります。そうするために、中心となる徳は羞恥心なのです。羞恥心の徳というのは、霊魂を守るある種の障壁なのです。羞恥心という徳は純潔を犯しうる遠因を常に警戒しているようなもので、純潔さを守っている徳なのです。例えば、服装があります。つまり貞節に適った服装が必要です。いわゆる慎みに適った服装のことです。私たちは天主の神殿ですから。それから、貞節に適った会話。また、貞節に適ったことを見て聞いて、あるいは知り合いなど。

転じて、広告、CM、流行り物なども、貞節に適うか適わないか、この第六戒に関係しています。つまり、これらの物事は貞節の徳の実践を励むか、逆に姦淫を刺激するか、どちらかです。

貞節の徳を守るために、主に三つの超自然の方法があります。祈りと犠牲と秘跡なのです。そして自然な方法として、無為の状態の回避と、善い休息をとる方法があります。これは残念ながら、現代の社会は提供できなくなった善い休息です。

昔は休息するため、くつろぐためには本当に良い形でやっていました。例えば、大自然を眺めるだけでは大きな助けとなっていました。現代、人造的な環境においてばかり住んで、その挙句に、自然なことに関する感覚を失ってしまっている弊害があります。本来ならば、貞節の徳はこのような自然に育まれている徳でもあります。

以上は第六と第九の戒でしたが、現代ではデリケートであるかもしれません。しかしながら、不潔な人に対する善き天主の罰があることを忘れないでおきましょう。そのためには、特に、ソドムとゴモラのことを思うのがよいでしょう。永遠に地上から取り消された都市。