白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
四つの枢要徳のうちに、賢明の徳と正義の徳をご紹介しました。枢要徳とは、道徳において、人間の行為を調整する基本的な徳であります。また、あらゆる徳はこの四つの枢要徳を中心に据えているのです。
今回、枢要徳のうちの最後の二つの徳をみておきましょう。剛毅の徳と節制の徳です。この二つの枢要徳は特に人間の行為において感覚を調整するのです。特に現世欲(色欲など)や感情(怒り)を調整する徳なのです。例えば、天使には身体も感情も感知力も感覚もないので、天使には剛毅や節制といった徳がありません。
というのは、天使は身体がないので、身体上のことを調整しなくても済むのです。一方、天使は賢明の徳と正義の徳を実践するのです。が、剛毅の徳と節制の徳は天使にとって基本的に意味をなさない徳なのです。要するに、剛毅の徳と節制の徳は人間においての感覚・身体次元のすべてを調整する徳なのです。
第一に、剛毅の徳を見ておきましょう。剛毅の徳というのは、人間における「怒る能力」を調整します。「怒る能力」というのは、言い換えると、「困難(艱難)の物事に当たる時に使う」剛毅の徳なのです。剛毅という徳のおかげで、我々は困難な難しい事柄を実施することができるのです。時には、大きな苦痛・苦労・犠牲を伴う行為を実践するように助けるのが「剛毅の徳」なのです。
剛毅の徳は「恐れ・恐怖」を退けてくれます。というのも、恐れというのは至難な業・働きの前にいる時、私をこの難しい働きから逸らそうとする感情なのです。また、剛毅というのは大胆を抑制する徳としても大切な徳です。つまり、大胆が剛毅によって調整されなかったら、出来る範囲を超えるところまで実践しようとして、うまく行けないことになってそれもよくありません。
要するに、剛毅の徳は恐れと大胆との二つの激情を和らげて調整する徳なのです。剛毅の徳は恐れと大胆を調整して、中庸を得るように助ける枢要徳です。臆病にならいように、過剰に果敢にならないように。剛毅の徳はこの二つの過剰な境地の間に、常に相応しい中庸を得るように助ける剛毅の徳です。
そして、剛毅の徳は「怒り」を抑制するのです。怒りとは、人間においての感情ですが、何かの障害が現れたとき、怒りの感情によって、この障害を攻撃するように自分を傾かせる感情なのです。そして、剛毅の徳は怒りをも調整していて、困難な物事に対して、苦痛・苦悩を伴う支障などに対して相応しく反応するように、過剰にならないで耐えられないように助ける剛毅の徳なのです。
要約すると、剛毅の徳は、困難(艱難)な働き、犠牲・苦痛・苦悩を伴う行為を実行するように助ける徳なのです。そして同時に、我々における陥れやすい過剰な感情(怒り、恐れ、大胆)を抑制することを助ける徳でもあります。恐れがありすぎると、麻痺となって何も行動できなくならないように。
つまり、剛毅の徳を中心に、付属の多くの徳があります。ある意味で、剛毅の徳の多面の中の一面となる付属の徳なのです。
第一付属の徳は高潔さです。高潔な人は語源の意味でいうと、「広い霊魂を持つ人」だという意味です。つまり、偉業や偉大な行為を常に志す習慣なのです。
第二付属の徳は鷹揚さです。鷹揚な人は気前良い人であり、高貴な事柄のためなら無償に全力を尽くし、献身に身を捧げる人です。従って鷹揚な人は高貴の事柄のためなら、自分の持っている多くの事々を犠牲にしても構わない心を持つ人です。
第三付属の徳は辛抱です。文字通りに「辛さをかかえる」ということです。辛抱の徳のお陰で、苦悩・苦痛・災害・不幸などを受けても耐え忍べるように助ける徳であり、または、苦痛を受け入れるように助ける徳です。辛抱とは、苦しみを受け入れて耐えるということです。ちなみに、辛抱の第一の対象は自分自身です。つまり、(短所や欠陥・欠如だらけの)私のありのままに自分を耐えるということです。それほど容易なことでもないといえましょう。
それから、第四付属の徳は根気の良さです。根気の良さのお陰で、長期にわたって禍害を耐えるように助ける徳なのです。また、忍耐の徳もあります。忍耐と根気の良さは長期にわたっての苦痛を耐えるように助ける徳なのです。根気の良さと忍耐は辛抱と密接な関係にあると同時に、ある意味で時間において、辛抱の延長線にあるような徳なのです。つまり、一瞬だけではなく、長く忍耐するというようなことです。例えば、敵陣によって攻囲されている時、敵に対して消耗戦になるかのように、忍耐強く最後まで耐えるように、根気よく忍ぶように、辛いことが多かろうとも辛抱するように。
剛毅の徳をよく実践する人は支障・障害を単に攻めるような人ではなくて、一瞬攻撃するのではなくて、根気よく継続的に勝利するまでにこの支障・障害への攻撃を続行する人なのです。つまり長い時間において絶えまなく攻めることを続行して、攻撃を続けるという意味です。忍耐は大切です。私たちの主も仰せになった通りです。
「だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる。」
忍耐の徳、あるいは剛毅の徳の実践は「殉教」という行為において特によく表れているのです。殉教というのは、最大の苦しみを耐え忍ぶ行為です。人間にとっての最大の禍は死です。つまり人間にとって一番大切なもの、命が奪われるという意味での死なのです。殉教という行為は、剛毅の徳の実践の内、一番英雄的な行為なのです。
なぜかというと、この世で最悪の禍である死とそれに伴う多くの苦しみを耐え忍ぶ行為だからです。よって、永遠の命のために、天主の生命のために、殉教死を耐え忍ぶ行為だといえます。つまり、この世での命をうしなってまで、この世の命を捨ててまで天主の生命なる永遠の命を得るという決断をする最も英雄的な行為なのです。それが殉教です。そして、本当の意味での殉教死を成し遂げる人は、剛毅の徳の一番英雄的な実践をやるということです。
また、剛毅の徳は殉教する時、他の多くの徳と密接に関係しています。信徳と望徳と愛徳と密接に剛毅の徳がかかわります。というのも、信仰と天主への愛を継続的に保つためにこそ剛毅の徳を実践して殉教を成し遂げられるからです。
また、賢明の徳ともかかわります。殉教を受け入れた人は、身体にかかわる物事と現世を大切にするような過剰な用心よりも、永遠の命の方が大切であることを判断して受け入れてつまり賢明の徳を実践した上に、剛毅の実践の助けをもって永遠の命を選ぶ殉教者です。また正義の徳ともかかわります。殉教するとき、天主に返すべき本来のことを返す行為です。つまり、自分の名誉より、人間の名誉より、天主の栄光を選んだ殉教者は正義の徳を実践します。剛毅の徳はこれらすべての徳を助けます。
当然ながら、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。最近、剛毅の徳について普段、あまり聞こえないからそれについて考える機会も少ないでしょうが、残念ながらも剛毅の徳に対して罪を犯すのも容易です。第一、軽率に行動することによって、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。過剰に大胆であり、思い上がった時に行為するときの罪です。
また、剛毅の徳に対しての逆の罪があります。剛毅が欠如している時です。つまり何もかも恐れすぎて臆病で何も行っていない、何も始まらないで、何もやらないという時の罪です。つまり、剛毅の徳に対して、やりすぎも物足りなくて何もやらないことも罪になります。やりすぎによっても罪を犯せます。剛毅すぎるというか、野望あるいは図々しさに陥いっている時です。
野望の人は、得てして本来ならばできる以上のことを望んでいて行為をやるので、剛毅に対する罪となります。例えば、上司になろうと思う人がいるとしましょう。そして、上司になる能力はないのに、そうなりたいと思う人だとしましょう。このような時の罪です。また虚栄心によって罪を犯すこともあります。これも剛毅がありすぎる時です。
そして、剛毅が足りない時の罪もあります。遠慮すぎる、臆病のような時です。気の弱さとも言います。臆病です。ラテン語の語源を見ると、高潔の反対語で、「小さい霊魂」で、何も偉大なことをやろうともせずに、恐れすぎて何もやらないような。思い切って何か行為することはそもそもないということです。
たとえば、言うべきことを言えないなどです。たとえば、隣人の罪に対して、何かを正直に言うべき時なのに、恐れて言わないような時です。典型な状況は上司が部下に対して部下の欠陥、過ちを指摘しないで、部下の改善と進歩をそのせいで妨げる時でもあります。
また、剛毅の徳に対してのもう一つの罪は浪費癖なのです。鷹揚の徳のとき、相応しく正しく善のために費やすことに対して、浪費癖になった時、過剰に浪費するということです。福音においての放蕩の息子のたとえ話は典型です。彼が持っているすべての財産を浪費して財産をなくすのです。
その逆の罪もあります。ケチになる時、何も尽くさないで何も費やさない時です。冷淡さという罪もあります。剛毅の欠如の時に現れます。つまり、自分にかかわる禍に対しても隣人にかかわる禍に対しても無関心になり、冷淡であるときの罪です。これも罪であり、剛毅に対する罪です。辛抱に対する罪ですね。「構わないよ」という。「無感動」あるいは「冷やかさ」という時です。これも罪です。苦しまざるを得ません。誰でも苦しんでいるのです。だから、苦しむこと自体をなくすかのような態度は罪です。どうしても何もかも苦しみを避ける弱さ。悪に対する無関心になるような罪です。剛毅の欠如です。
逆に、忍耐心がないことも罪です。性急で何も耐えないということで、結局、苦しむことをいつも回避するような罪です。そういえば、忍耐に対する過剰な罪は執拗であります。つまり、本来ならばやめるべき道をどうしても固執に頑固にやり続ける時です。逆の罪もあります。忍耐が欠如している時、移り気という罪です。何かをやり始めた時、すぐやめるような。以上は剛毅の徳に対するいくつかの罪のご紹介でした。
~~
剛毅の徳の次に、枢要徳の最後の徳、節制の徳をご紹介しましょう。節制の徳は人間においての現世欲を調整する徳なのです。つまり、現世欲とはみだらな欲望への魅力だといえます。言いかえると、五感を過剰に楽しませる物事です。特に味覚と触覚はそうなのですが、すべての五感も同じです。
節制の徳は人間の五感と感覚の乱れる傾向を抑えて、調整するのです。つまり、五感を楽しませる多くの物事に当たって、中庸を得られるように助ける徳です。つまり、相応しい良い楽しみをとるように、そして抑制すべき悪い楽しみを退けるように助ける節制の徳なのです。現世欲の多くの欲望は節制の徳の対象です。特に色欲や身体にかかわる欲望がその対象です。節制の徳の実践によって、調整されて抑制されて相応しい中庸を得られます。
節制の徳の基礎は第一に慎みと遠慮です。つまり、自然に恐れるべきことを実際に恥じうる能力です。はにかむ能力です。ラテン語では慎みと遠慮の語源は赤面するという意味です。残念ながら、現代ではカトリックの信徒の間に至って慎みと遠慮というものがかなりなくなりつつありますが、本来の慎みと遠慮の徳は自然に赤面するような物事に対する警戒心とでも言えましょう。
つまり、やってしまったら恥じるから遠慮する行為を対象にしています。一言でいうと、健全な恥の働きです。節制の徳において、慎みと遠慮の徳があります。また、節制の徳において、基礎として礼節の徳もあります。礼節のお陰で、相応しい慎みを自然に実践するようができます。
節制の徳について語る時にいくつかの区別があります。第一に、禁欲があります。禁欲というのは、主に食べることに関する過剰と欠如を調整する徳なのです。また節酒があります。節酒は飲むことに関する過剰と欠如を調整する徳です。
そして、貞節の徳もあります。貞節というのは生殖に関する行為における欲望を調整する徳なのです。貞節の徳では、それぞれの召命と身分次第にふさわしく、欲望は理性の法に従わせているということです。結婚においての貞節。また童貞もあります。未亡人とやもめの貞節の徳でもあります。
そういえば、貞節の徳と密接にかかわるもう二つの徳があります。現代において特筆すべき徳なのです。さきほど、慎みと遠慮について説明しましたが、羞恥心もあります。あるいは自制心です。つまり、外面的な行為を調整する徳です。視線・服装・言葉・仕業などに関する調整であって、卑猥な行為、下品な快楽にかかわるすべての行為が対象となります。これらの行為は羞恥心あるいは自制心によって調整されて抑制されています。
節制の徳に関して、付属の徳もいくつかあります。寛容、仁慈、柔和、謙遜、謙虚、勤勉などです。これらの徳は節制の徳と密接にかかわっています。その共通点は乱れた過度の欲望を調整して抑制することにあります。例えば、知識の乱れた過度の欲望や五感による乱れた欲望などの欲望を抑制するような徳です。要するに、節制の徳にかかわる多くの徳は人間の欲望を調整するのです。
欲望に関する罪についてまた今度の講座でご紹介する予定です。天主の十誡それから七つの罪源に関する講話の時、改めてご紹介します。とりあえず、節制の徳に対する罪を要約しましょう。
節制が足りない時、欠如するときの罪は「暴欲暴食」あるいは過度という罪になります。節制の徳に対して過剰にある時の罪は無情・無感覚になる罪なのです。「過度」の罪という時に、五感の快楽において何の抑制、何の遠慮なく、快楽を追求するときの罪です。時には、「不節制・過度」のせいで、知性を失うことがあります。
「暴欲暴食」の結果は「精神の目暗み」があります。これは非常に悲劇的な帰結なのです。例えば、いわゆる過度の「食道楽」つまり貪食は典型です。節制の徳に対して過剰に実践することによって罪となりますが、ここでの過剰とは「量において」でもありますし、また「質において」でもあります。例えば美食過ぎて、あるいは食いしん坊になる時など。多くの違う形をとれる過度の「食道楽」なのです。あとは、邪淫という罪があります。貞節に反対する罪です。
これらの罪に陥れないために、苦行を行う必要があります。なぜかというと、原罪以来、我々人間における欲望はよく理性と意志に対して反乱を起こすようになっているからであり、そのため、苦行は必要となります。苦行の積み重ねのお陰で、このような乱れを抑えて、欲望を本来の位置、機能に戻してくれます。つまり、欲望を整理するということで、相応しい程度に欲望を抑制してくれる苦行なのです。そうすることによって、欲望は再び理性に従うことは可能となります。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第八十九講 剛毅の徳と節制の徳
四つの枢要徳のうちに、賢明の徳と正義の徳をご紹介しました。枢要徳とは、道徳において、人間の行為を調整する基本的な徳であります。また、あらゆる徳はこの四つの枢要徳を中心に据えているのです。
今回、枢要徳のうちの最後の二つの徳をみておきましょう。剛毅の徳と節制の徳です。この二つの枢要徳は特に人間の行為において感覚を調整するのです。特に現世欲(色欲など)や感情(怒り)を調整する徳なのです。例えば、天使には身体も感情も感知力も感覚もないので、天使には剛毅や節制といった徳がありません。
というのは、天使は身体がないので、身体上のことを調整しなくても済むのです。一方、天使は賢明の徳と正義の徳を実践するのです。が、剛毅の徳と節制の徳は天使にとって基本的に意味をなさない徳なのです。要するに、剛毅の徳と節制の徳は人間においての感覚・身体次元のすべてを調整する徳なのです。
第一に、剛毅の徳を見ておきましょう。剛毅の徳というのは、人間における「怒る能力」を調整します。「怒る能力」というのは、言い換えると、「困難(艱難)の物事に当たる時に使う」剛毅の徳なのです。剛毅という徳のおかげで、我々は困難な難しい事柄を実施することができるのです。時には、大きな苦痛・苦労・犠牲を伴う行為を実践するように助けるのが「剛毅の徳」なのです。
剛毅の徳は「恐れ・恐怖」を退けてくれます。というのも、恐れというのは至難な業・働きの前にいる時、私をこの難しい働きから逸らそうとする感情なのです。また、剛毅というのは大胆を抑制する徳としても大切な徳です。つまり、大胆が剛毅によって調整されなかったら、出来る範囲を超えるところまで実践しようとして、うまく行けないことになってそれもよくありません。
要するに、剛毅の徳は恐れと大胆との二つの激情を和らげて調整する徳なのです。剛毅の徳は恐れと大胆を調整して、中庸を得るように助ける枢要徳です。臆病にならいように、過剰に果敢にならないように。剛毅の徳はこの二つの過剰な境地の間に、常に相応しい中庸を得るように助ける剛毅の徳です。
そして、剛毅の徳は「怒り」を抑制するのです。怒りとは、人間においての感情ですが、何かの障害が現れたとき、怒りの感情によって、この障害を攻撃するように自分を傾かせる感情なのです。そして、剛毅の徳は怒りをも調整していて、困難な物事に対して、苦痛・苦悩を伴う支障などに対して相応しく反応するように、過剰にならないで耐えられないように助ける剛毅の徳なのです。
要約すると、剛毅の徳は、困難(艱難)な働き、犠牲・苦痛・苦悩を伴う行為を実行するように助ける徳なのです。そして同時に、我々における陥れやすい過剰な感情(怒り、恐れ、大胆)を抑制することを助ける徳でもあります。恐れがありすぎると、麻痺となって何も行動できなくならないように。
つまり、剛毅の徳を中心に、付属の多くの徳があります。ある意味で、剛毅の徳の多面の中の一面となる付属の徳なのです。
第一付属の徳は高潔さです。高潔な人は語源の意味でいうと、「広い霊魂を持つ人」だという意味です。つまり、偉業や偉大な行為を常に志す習慣なのです。
第二付属の徳は鷹揚さです。鷹揚な人は気前良い人であり、高貴な事柄のためなら無償に全力を尽くし、献身に身を捧げる人です。従って鷹揚な人は高貴の事柄のためなら、自分の持っている多くの事々を犠牲にしても構わない心を持つ人です。
第三付属の徳は辛抱です。文字通りに「辛さをかかえる」ということです。辛抱の徳のお陰で、苦悩・苦痛・災害・不幸などを受けても耐え忍べるように助ける徳であり、または、苦痛を受け入れるように助ける徳です。辛抱とは、苦しみを受け入れて耐えるということです。ちなみに、辛抱の第一の対象は自分自身です。つまり、(短所や欠陥・欠如だらけの)私のありのままに自分を耐えるということです。それほど容易なことでもないといえましょう。
それから、第四付属の徳は根気の良さです。根気の良さのお陰で、長期にわたって禍害を耐えるように助ける徳なのです。また、忍耐の徳もあります。忍耐と根気の良さは長期にわたっての苦痛を耐えるように助ける徳なのです。根気の良さと忍耐は辛抱と密接な関係にあると同時に、ある意味で時間において、辛抱の延長線にあるような徳なのです。つまり、一瞬だけではなく、長く忍耐するというようなことです。例えば、敵陣によって攻囲されている時、敵に対して消耗戦になるかのように、忍耐強く最後まで耐えるように、根気よく忍ぶように、辛いことが多かろうとも辛抱するように。
剛毅の徳をよく実践する人は支障・障害を単に攻めるような人ではなくて、一瞬攻撃するのではなくて、根気よく継続的に勝利するまでにこの支障・障害への攻撃を続行する人なのです。つまり長い時間において絶えまなく攻めることを続行して、攻撃を続けるという意味です。忍耐は大切です。私たちの主も仰せになった通りです。
「だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる。」
忍耐の徳、あるいは剛毅の徳の実践は「殉教」という行為において特によく表れているのです。殉教というのは、最大の苦しみを耐え忍ぶ行為です。人間にとっての最大の禍は死です。つまり人間にとって一番大切なもの、命が奪われるという意味での死なのです。殉教という行為は、剛毅の徳の実践の内、一番英雄的な行為なのです。
なぜかというと、この世で最悪の禍である死とそれに伴う多くの苦しみを耐え忍ぶ行為だからです。よって、永遠の命のために、天主の生命のために、殉教死を耐え忍ぶ行為だといえます。つまり、この世での命をうしなってまで、この世の命を捨ててまで天主の生命なる永遠の命を得るという決断をする最も英雄的な行為なのです。それが殉教です。そして、本当の意味での殉教死を成し遂げる人は、剛毅の徳の一番英雄的な実践をやるということです。
また、剛毅の徳は殉教する時、他の多くの徳と密接に関係しています。信徳と望徳と愛徳と密接に剛毅の徳がかかわります。というのも、信仰と天主への愛を継続的に保つためにこそ剛毅の徳を実践して殉教を成し遂げられるからです。
また、賢明の徳ともかかわります。殉教を受け入れた人は、身体にかかわる物事と現世を大切にするような過剰な用心よりも、永遠の命の方が大切であることを判断して受け入れてつまり賢明の徳を実践した上に、剛毅の実践の助けをもって永遠の命を選ぶ殉教者です。また正義の徳ともかかわります。殉教するとき、天主に返すべき本来のことを返す行為です。つまり、自分の名誉より、人間の名誉より、天主の栄光を選んだ殉教者は正義の徳を実践します。剛毅の徳はこれらすべての徳を助けます。
当然ながら、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。最近、剛毅の徳について普段、あまり聞こえないからそれについて考える機会も少ないでしょうが、残念ながらも剛毅の徳に対して罪を犯すのも容易です。第一、軽率に行動することによって、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。過剰に大胆であり、思い上がった時に行為するときの罪です。
また、剛毅の徳に対しての逆の罪があります。剛毅が欠如している時です。つまり何もかも恐れすぎて臆病で何も行っていない、何も始まらないで、何もやらないという時の罪です。つまり、剛毅の徳に対して、やりすぎも物足りなくて何もやらないことも罪になります。やりすぎによっても罪を犯せます。剛毅すぎるというか、野望あるいは図々しさに陥いっている時です。
野望の人は、得てして本来ならばできる以上のことを望んでいて行為をやるので、剛毅に対する罪となります。例えば、上司になろうと思う人がいるとしましょう。そして、上司になる能力はないのに、そうなりたいと思う人だとしましょう。このような時の罪です。また虚栄心によって罪を犯すこともあります。これも剛毅がありすぎる時です。
そして、剛毅が足りない時の罪もあります。遠慮すぎる、臆病のような時です。気の弱さとも言います。臆病です。ラテン語の語源を見ると、高潔の反対語で、「小さい霊魂」で、何も偉大なことをやろうともせずに、恐れすぎて何もやらないような。思い切って何か行為することはそもそもないということです。
たとえば、言うべきことを言えないなどです。たとえば、隣人の罪に対して、何かを正直に言うべき時なのに、恐れて言わないような時です。典型な状況は上司が部下に対して部下の欠陥、過ちを指摘しないで、部下の改善と進歩をそのせいで妨げる時でもあります。
また、剛毅の徳に対してのもう一つの罪は浪費癖なのです。鷹揚の徳のとき、相応しく正しく善のために費やすことに対して、浪費癖になった時、過剰に浪費するということです。福音においての放蕩の息子のたとえ話は典型です。彼が持っているすべての財産を浪費して財産をなくすのです。
その逆の罪もあります。ケチになる時、何も尽くさないで何も費やさない時です。冷淡さという罪もあります。剛毅の欠如の時に現れます。つまり、自分にかかわる禍に対しても隣人にかかわる禍に対しても無関心になり、冷淡であるときの罪です。これも罪であり、剛毅に対する罪です。辛抱に対する罪ですね。「構わないよ」という。「無感動」あるいは「冷やかさ」という時です。これも罪です。苦しまざるを得ません。誰でも苦しんでいるのです。だから、苦しむこと自体をなくすかのような態度は罪です。どうしても何もかも苦しみを避ける弱さ。悪に対する無関心になるような罪です。剛毅の欠如です。
逆に、忍耐心がないことも罪です。性急で何も耐えないということで、結局、苦しむことをいつも回避するような罪です。そういえば、忍耐に対する過剰な罪は執拗であります。つまり、本来ならばやめるべき道をどうしても固執に頑固にやり続ける時です。逆の罪もあります。忍耐が欠如している時、移り気という罪です。何かをやり始めた時、すぐやめるような。以上は剛毅の徳に対するいくつかの罪のご紹介でした。
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剛毅の徳の次に、枢要徳の最後の徳、節制の徳をご紹介しましょう。節制の徳は人間においての現世欲を調整する徳なのです。つまり、現世欲とはみだらな欲望への魅力だといえます。言いかえると、五感を過剰に楽しませる物事です。特に味覚と触覚はそうなのですが、すべての五感も同じです。
節制の徳は人間の五感と感覚の乱れる傾向を抑えて、調整するのです。つまり、五感を楽しませる多くの物事に当たって、中庸を得られるように助ける徳です。つまり、相応しい良い楽しみをとるように、そして抑制すべき悪い楽しみを退けるように助ける節制の徳なのです。現世欲の多くの欲望は節制の徳の対象です。特に色欲や身体にかかわる欲望がその対象です。節制の徳の実践によって、調整されて抑制されて相応しい中庸を得られます。
節制の徳の基礎は第一に慎みと遠慮です。つまり、自然に恐れるべきことを実際に恥じうる能力です。はにかむ能力です。ラテン語では慎みと遠慮の語源は赤面するという意味です。残念ながら、現代ではカトリックの信徒の間に至って慎みと遠慮というものがかなりなくなりつつありますが、本来の慎みと遠慮の徳は自然に赤面するような物事に対する警戒心とでも言えましょう。
つまり、やってしまったら恥じるから遠慮する行為を対象にしています。一言でいうと、健全な恥の働きです。節制の徳において、慎みと遠慮の徳があります。また、節制の徳において、基礎として礼節の徳もあります。礼節のお陰で、相応しい慎みを自然に実践するようができます。
節制の徳について語る時にいくつかの区別があります。第一に、禁欲があります。禁欲というのは、主に食べることに関する過剰と欠如を調整する徳なのです。また節酒があります。節酒は飲むことに関する過剰と欠如を調整する徳です。
そして、貞節の徳もあります。貞節というのは生殖に関する行為における欲望を調整する徳なのです。貞節の徳では、それぞれの召命と身分次第にふさわしく、欲望は理性の法に従わせているということです。結婚においての貞節。また童貞もあります。未亡人とやもめの貞節の徳でもあります。
そういえば、貞節の徳と密接にかかわるもう二つの徳があります。現代において特筆すべき徳なのです。さきほど、慎みと遠慮について説明しましたが、羞恥心もあります。あるいは自制心です。つまり、外面的な行為を調整する徳です。視線・服装・言葉・仕業などに関する調整であって、卑猥な行為、下品な快楽にかかわるすべての行為が対象となります。これらの行為は羞恥心あるいは自制心によって調整されて抑制されています。
節制の徳に関して、付属の徳もいくつかあります。寛容、仁慈、柔和、謙遜、謙虚、勤勉などです。これらの徳は節制の徳と密接にかかわっています。その共通点は乱れた過度の欲望を調整して抑制することにあります。例えば、知識の乱れた過度の欲望や五感による乱れた欲望などの欲望を抑制するような徳です。要するに、節制の徳にかかわる多くの徳は人間の欲望を調整するのです。
欲望に関する罪についてまた今度の講座でご紹介する予定です。天主の十誡それから七つの罪源に関する講話の時、改めてご紹介します。とりあえず、節制の徳に対する罪を要約しましょう。
節制が足りない時、欠如するときの罪は「暴欲暴食」あるいは過度という罪になります。節制の徳に対して過剰にある時の罪は無情・無感覚になる罪なのです。「過度」の罪という時に、五感の快楽において何の抑制、何の遠慮なく、快楽を追求するときの罪です。時には、「不節制・過度」のせいで、知性を失うことがあります。
「暴欲暴食」の結果は「精神の目暗み」があります。これは非常に悲劇的な帰結なのです。例えば、いわゆる過度の「食道楽」つまり貪食は典型です。節制の徳に対して過剰に実践することによって罪となりますが、ここでの過剰とは「量において」でもありますし、また「質において」でもあります。例えば美食過ぎて、あるいは食いしん坊になる時など。多くの違う形をとれる過度の「食道楽」なのです。あとは、邪淫という罪があります。貞節に反対する罪です。
これらの罪に陥れないために、苦行を行う必要があります。なぜかというと、原罪以来、我々人間における欲望はよく理性と意志に対して反乱を起こすようになっているからであり、そのため、苦行は必要となります。苦行の積み重ねのお陰で、このような乱れを抑えて、欲望を本来の位置、機能に戻してくれます。つまり、欲望を整理するということで、相応しい程度に欲望を抑制してくれる苦行なのです。そうすることによって、欲望は再び理性に従うことは可能となります。