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「剛毅の徳と節制の徳」―天使ではなく、人間が実践する徳  【公教要理】第八十九講

2020年04月27日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十九講 剛毅の徳と節制の徳


四つの枢要徳のうちに、賢明の徳と正義の徳をご紹介しました。枢要徳とは、道徳において、人間の行為を調整する基本的な徳であります。また、あらゆる徳はこの四つの枢要徳を中心に据えているのです。

今回、枢要徳のうちの最後の二つの徳をみておきましょう。剛毅の徳と節制の徳です。この二つの枢要徳は特に人間の行為において感覚を調整するのです。特に現世欲(色欲など)や感情(怒り)を調整する徳なのです。例えば、天使には身体も感情も感知力も感覚もないので、天使には剛毅や節制といった徳がありません。

というのは、天使は身体がないので、身体上のことを調整しなくても済むのです。一方、天使は賢明の徳と正義の徳を実践するのです。が、剛毅の徳と節制の徳は天使にとって基本的に意味をなさない徳なのです。要するに、剛毅の徳と節制の徳は人間においての感覚・身体次元のすべてを調整する徳なのです。

第一に、剛毅の徳を見ておきましょう。剛毅の徳というのは、人間における「怒る能力」を調整します。「怒る能力」というのは、言い換えると、「困難(艱難)の物事に当たる時に使う」剛毅の徳なのです。剛毅という徳のおかげで、我々は困難な難しい事柄を実施することができるのです。時には、大きな苦痛・苦労・犠牲を伴う行為を実践するように助けるのが「剛毅の徳」なのです。

剛毅の徳は「恐れ・恐怖」を退けてくれます。というのも、恐れというのは至難な業・働きの前にいる時、私をこの難しい働きから逸らそうとする感情なのです。また、剛毅というのは大胆を抑制する徳としても大切な徳です。つまり、大胆が剛毅によって調整されなかったら、出来る範囲を超えるところまで実践しようとして、うまく行けないことになってそれもよくありません。

要するに、剛毅の徳は恐れと大胆との二つの激情を和らげて調整する徳なのです。剛毅の徳は恐れと大胆を調整して、中庸を得るように助ける枢要徳です。臆病にならいように、過剰に果敢にならないように。剛毅の徳はこの二つの過剰な境地の間に、常に相応しい中庸を得るように助ける剛毅の徳です。

そして、剛毅の徳は「怒り」を抑制するのです。怒りとは、人間においての感情ですが、何かの障害が現れたとき、怒りの感情によって、この障害を攻撃するように自分を傾かせる感情なのです。そして、剛毅の徳は怒りをも調整していて、困難な物事に対して、苦痛・苦悩を伴う支障などに対して相応しく反応するように、過剰にならないで耐えられないように助ける剛毅の徳なのです。

要約すると、剛毅の徳は、困難(艱難)な働き、犠牲・苦痛・苦悩を伴う行為を実行するように助ける徳なのです。そして同時に、我々における陥れやすい過剰な感情(怒り、恐れ、大胆)を抑制することを助ける徳でもあります。恐れがありすぎると、麻痺となって何も行動できなくならないように。

つまり、剛毅の徳を中心に、付属の多くの徳があります。ある意味で、剛毅の徳の多面の中の一面となる付属の徳なのです。

第一付属の徳は高潔さです。高潔な人は語源の意味でいうと、「広い霊魂を持つ人」だという意味です。つまり、偉業や偉大な行為を常に志す習慣なのです。

第二付属の徳は鷹揚さです。鷹揚な人は気前良い人であり、高貴な事柄のためなら無償に全力を尽くし、献身に身を捧げる人です。従って鷹揚な人は高貴の事柄のためなら、自分の持っている多くの事々を犠牲にしても構わない心を持つ人です。

第三付属の徳は辛抱です。文字通りに「辛さをかかえる」ということです。辛抱の徳のお陰で、苦悩・苦痛・災害・不幸などを受けても耐え忍べるように助ける徳であり、または、苦痛を受け入れるように助ける徳です。辛抱とは、苦しみを受け入れて耐えるということです。ちなみに、辛抱の第一の対象は自分自身です。つまり、(短所や欠陥・欠如だらけの)私のありのままに自分を耐えるということです。それほど容易なことでもないといえましょう。

それから、第四付属の徳は根気の良さです。根気の良さのお陰で、長期にわたって禍害を耐えるように助ける徳なのです。また、忍耐の徳もあります。忍耐と根気の良さは長期にわたっての苦痛を耐えるように助ける徳なのです。根気の良さと忍耐は辛抱と密接な関係にあると同時に、ある意味で時間において、辛抱の延長線にあるような徳なのです。つまり、一瞬だけではなく、長く忍耐するというようなことです。例えば、敵陣によって攻囲されている時、敵に対して消耗戦になるかのように、忍耐強く最後まで耐えるように、根気よく忍ぶように、辛いことが多かろうとも辛抱するように。

剛毅の徳をよく実践する人は支障・障害を単に攻めるような人ではなくて、一瞬攻撃するのではなくて、根気よく継続的に勝利するまでにこの支障・障害への攻撃を続行する人なのです。つまり長い時間において絶えまなく攻めることを続行して、攻撃を続けるという意味です。忍耐は大切です。私たちの主も仰せになった通りです。
「だが終わりまで耐え忍ぶ者は救われる。」

忍耐の徳、あるいは剛毅の徳の実践は「殉教」という行為において特によく表れているのです。殉教というのは、最大の苦しみを耐え忍ぶ行為です。人間にとっての最大の禍は死です。つまり人間にとって一番大切なもの、命が奪われるという意味での死なのです。殉教という行為は、剛毅の徳の実践の内、一番英雄的な行為なのです。


なぜかというと、この世で最悪の禍である死とそれに伴う多くの苦しみを耐え忍ぶ行為だからです。よって、永遠の命のために、天主の生命のために、殉教死を耐え忍ぶ行為だといえます。つまり、この世での命をうしなってまで、この世の命を捨ててまで天主の生命なる永遠の命を得るという決断をする最も英雄的な行為なのです。それが殉教です。そして、本当の意味での殉教死を成し遂げる人は、剛毅の徳の一番英雄的な実践をやるということです。

また、剛毅の徳は殉教する時、他の多くの徳と密接に関係しています。信徳と望徳と愛徳と密接に剛毅の徳がかかわります。というのも、信仰と天主への愛を継続的に保つためにこそ剛毅の徳を実践して殉教を成し遂げられるからです。

また、賢明の徳ともかかわります。殉教を受け入れた人は、身体にかかわる物事と現世を大切にするような過剰な用心よりも、永遠の命の方が大切であることを判断して受け入れてつまり賢明の徳を実践した上に、剛毅の実践の助けをもって永遠の命を選ぶ殉教者です。また正義の徳ともかかわります。殉教するとき、天主に返すべき本来のことを返す行為です。つまり、自分の名誉より、人間の名誉より、天主の栄光を選んだ殉教者は正義の徳を実践します。剛毅の徳はこれらすべての徳を助けます。

当然ながら、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。最近、剛毅の徳について普段、あまり聞こえないからそれについて考える機会も少ないでしょうが、残念ながらも剛毅の徳に対して罪を犯すのも容易です。第一、軽率に行動することによって、剛毅の徳に対して罪を犯すことがあります。過剰に大胆であり、思い上がった時に行為するときの罪です。

また、剛毅の徳に対しての逆の罪があります。剛毅が欠如している時です。つまり何もかも恐れすぎて臆病で何も行っていない、何も始まらないで、何もやらないという時の罪です。つまり、剛毅の徳に対して、やりすぎも物足りなくて何もやらないことも罪になります。やりすぎによっても罪を犯せます。剛毅すぎるというか、野望あるいは図々しさに陥いっている時です。



野望の人は、得てして本来ならばできる以上のことを望んでいて行為をやるので、剛毅に対する罪となります。例えば、上司になろうと思う人がいるとしましょう。そして、上司になる能力はないのに、そうなりたいと思う人だとしましょう。このような時の罪です。また虚栄心によって罪を犯すこともあります。これも剛毅がありすぎる時です。

そして、剛毅が足りない時の罪もあります。遠慮すぎる、臆病のような時です。気の弱さとも言います。臆病です。ラテン語の語源を見ると、高潔の反対語で、「小さい霊魂」で、何も偉大なことをやろうともせずに、恐れすぎて何もやらないような。思い切って何か行為することはそもそもないということです。

たとえば、言うべきことを言えないなどです。たとえば、隣人の罪に対して、何かを正直に言うべき時なのに、恐れて言わないような時です。典型な状況は上司が部下に対して部下の欠陥、過ちを指摘しないで、部下の改善と進歩をそのせいで妨げる時でもあります。

また、剛毅の徳に対してのもう一つの罪は浪費癖なのです。鷹揚の徳のとき、相応しく正しく善のために費やすことに対して、浪費癖になった時、過剰に浪費するということです。福音においての放蕩の息子のたとえ話は典型です。彼が持っているすべての財産を浪費して財産をなくすのです。

その逆の罪もあります。ケチになる時、何も尽くさないで何も費やさない時です。冷淡さという罪もあります。剛毅の欠如の時に現れます。つまり、自分にかかわる禍に対しても隣人にかかわる禍に対しても無関心になり、冷淡であるときの罪です。これも罪であり、剛毅に対する罪です。辛抱に対する罪ですね。「構わないよ」という。「無感動」あるいは「冷やかさ」という時です。これも罪です。苦しまざるを得ません。誰でも苦しんでいるのです。だから、苦しむこと自体をなくすかのような態度は罪です。どうしても何もかも苦しみを避ける弱さ。悪に対する無関心になるような罪です。剛毅の欠如です。

逆に、忍耐心がないことも罪です。性急で何も耐えないということで、結局、苦しむことをいつも回避するような罪です。そういえば、忍耐に対する過剰な罪は執拗であります。つまり、本来ならばやめるべき道をどうしても固執に頑固にやり続ける時です。逆の罪もあります。忍耐が欠如している時、移り気という罪です。何かをやり始めた時、すぐやめるような。以上は剛毅の徳に対するいくつかの罪のご紹介でした。
~~
剛毅の徳の次に、枢要徳の最後の徳、節制の徳をご紹介しましょう。節制の徳は人間においての現世欲を調整する徳なのです。つまり、現世欲とはみだらな欲望への魅力だといえます。言いかえると、五感を過剰に楽しませる物事です。特に味覚と触覚はそうなのですが、すべての五感も同じです。

節制の徳は人間の五感と感覚の乱れる傾向を抑えて、調整するのです。つまり、五感を楽しませる多くの物事に当たって、中庸を得られるように助ける徳です。つまり、相応しい良い楽しみをとるように、そして抑制すべき悪い楽しみを退けるように助ける節制の徳なのです。現世欲の多くの欲望は節制の徳の対象です。特に色欲や身体にかかわる欲望がその対象です。節制の徳の実践によって、調整されて抑制されて相応しい中庸を得られます。

節制の徳の基礎は第一に慎みと遠慮です。つまり、自然に恐れるべきことを実際に恥じうる能力です。はにかむ能力です。ラテン語では慎みと遠慮の語源は赤面するという意味です。残念ながら、現代ではカトリックの信徒の間に至って慎みと遠慮というものがかなりなくなりつつありますが、本来の慎みと遠慮の徳は自然に赤面するような物事に対する警戒心とでも言えましょう。

つまり、やってしまったら恥じるから遠慮する行為を対象にしています。一言でいうと、健全な恥の働きです。節制の徳において、慎みと遠慮の徳があります。また、節制の徳において、基礎として礼節の徳もあります。礼節のお陰で、相応しい慎みを自然に実践するようができます。

節制の徳について語る時にいくつかの区別があります。第一に、禁欲があります。禁欲というのは、主に食べることに関する過剰と欠如を調整する徳なのです。また節酒があります。節酒は飲むことに関する過剰と欠如を調整する徳です。

そして、貞節の徳もあります。貞節というのは生殖に関する行為における欲望を調整する徳なのです。貞節の徳では、それぞれの召命と身分次第にふさわしく、欲望は理性の法に従わせているということです。結婚においての貞節。また童貞もあります。未亡人とやもめの貞節の徳でもあります。



そういえば、貞節の徳と密接にかかわるもう二つの徳があります。現代において特筆すべき徳なのです。さきほど、慎みと遠慮について説明しましたが、羞恥心もあります。あるいは自制心です。つまり、外面的な行為を調整する徳です。視線・服装・言葉・仕業などに関する調整であって、卑猥な行為、下品な快楽にかかわるすべての行為が対象となります。これらの行為は羞恥心あるいは自制心によって調整されて抑制されています。

節制の徳に関して、付属の徳もいくつかあります。寛容、仁慈、柔和、謙遜、謙虚、勤勉などです。これらの徳は節制の徳と密接にかかわっています。その共通点は乱れた過度の欲望を調整して抑制することにあります。例えば、知識の乱れた過度の欲望や五感による乱れた欲望などの欲望を抑制するような徳です。要するに、節制の徳にかかわる多くの徳は人間の欲望を調整するのです。

欲望に関する罪についてまた今度の講座でご紹介する予定です。天主の十誡それから七つの罪源に関する講話の時、改めてご紹介します。とりあえず、節制の徳に対する罪を要約しましょう。

節制が足りない時、欠如するときの罪は「暴欲暴食」あるいは過度という罪になります。節制の徳に対して過剰にある時の罪は無情・無感覚になる罪なのです。「過度」の罪という時に、五感の快楽において何の抑制、何の遠慮なく、快楽を追求するときの罪です。時には、「不節制・過度」のせいで、知性を失うことがあります。

「暴欲暴食」の結果は「精神の目暗み」があります。これは非常に悲劇的な帰結なのです。例えば、いわゆる過度の「食道楽」つまり貪食は典型です。節制の徳に対して過剰に実践することによって罪となりますが、ここでの過剰とは「量において」でもありますし、また「質において」でもあります。例えば美食過ぎて、あるいは食いしん坊になる時など。多くの違う形をとれる過度の「食道楽」なのです。あとは、邪淫という罪があります。貞節に反対する罪です。

これらの罪に陥れないために、苦行を行う必要があります。なぜかというと、原罪以来、我々人間における欲望はよく理性と意志に対して反乱を起こすようになっているからであり、そのため、苦行は必要となります。苦行の積み重ねのお陰で、このような乱れを抑えて、欲望を本来の位置、機能に戻してくれます。つまり、欲望を整理するということで、相応しい程度に欲望を抑制してくれる苦行なのです。そうすることによって、欲望は再び理性に従うことは可能となります。

「正義の徳」―実践するのは難しく、賢明の徳が必要  【公教要理】第八十八講

2020年04月19日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理-第八十八講 正義の徳


三つの対神徳なる信徳・望徳・愛徳を見てから、第一の枢要徳である賢明の徳をご紹介しました。枢要徳は四つありまして、これらの四つの徳は一番中心となる徳であるということで、ほかのあらゆる徳は枢要徳を基盤にしています。復習ですが、徳というのは、人間の行為を律する・調節する善い習慣です。そして、第一の枢要徳は賢明の徳です。前回は賢明の徳をご紹介しました。

賢明の徳の次は正義の徳があります。賢明の徳は「具体的な多くの場合において実際に何をすべきかを決めることを助ける実用的な徳」だと説明しました。それから、第二の枢要徳は正義の徳です。正義の徳は我々の意志の完成を助けます。

そもそも正義とは何でしょうか?「正しいこと」は何でしょうか?
フランス語での「Juste(正しいこと)」にはいくつかの意味があります。まず、最も一般的な意味があります。聖書においてもこの意味での正義がよく使われています。私たちの主、イエズス・キリストの推定上の父である聖ヨゼフについて、この意味で「正しい」という言葉がつかわれています。「夫のヨゼフは正しい人だった」(マテオ1.19) と福音書に書いてあります。ここでの「正しい人」の意味は「義化」された人だという意味です。つまり、恩寵によって義化されたという意味です。要するに「正しい人」は「聖寵の状態にある人」であります。つまり「聖人」の定義そのものです。
枢要徳の一つである正義の徳という時、以上の神学上の最も一般的な「正しい人」の意味ではありません。正義の徳の場合、正義は別の意味でつかわれています。

枢要徳である正義の徳は意志を完成させます。正義の徳は「各人に彼の本来の分を返すこと」あるいは「各人に彼の本来の恩に報いること」という定義になっています。この上なく政治的な徳なのです。なぜかというと人間同士の関係を調節する徳だからです。また後述しますが、人間同士の関係だけではなく、人間と天主との関係をも調節する徳なのです。要するに、正義の徳は正しい人間関係を律して、そして、正しい接触を助けて、そして人間同士の間の物事に対する中庸な態度を助けて、人間同士の間の物事の正しい管理を促す徳です。

「各人に彼の本来の分を返すこと」。これは正義です。正義の徳の対象は、返すべき「善」です。つまり、正義の徳は隣人を対象にするのではなく、隣人に返すべき「善(恩、物等々)」を対象にしています。だからこそ、正義の徳はまさに隣人との関係を調節するのです。具体的な例をあげましょう。例えば、何かの物を貸してもらったとき、正義の徳が要求するのは、その借りた物を貸主に返すことです。単純なことですが。例えば勉強のためか、なんでもいいですけど、私の友達が本を私に貸してくれたとしましょう。この本は私の本ではないのです。貸主の本ですので、この本を貸主に返すべきです。このように実際に本を返したときはこれが正しい行為です。公正です。だから、正義の徳というのは、隣人・人々を対象にするのではなく、人間同士の関係、このような事柄・善等々を対象にしています(物理的であろうとも、でなかろうとも)。

また、現代では経済の分野に関して正義の徳は多く働くのです。ある程度の正義がないと経済が成り立たないのです。言いかえると、それぞれの人々に彼の本来の善・財産・物事を返すべきです。
従って、人間同士が共通している多くの「善」(広義の善であり、物質的な財産もあれば、非物質的な事柄はふくめている。例・名誉、地位、資格、敬意などなど)の間に、ある程度の等価値を見出して、それぞれの人々にそれぞれの返すべき善を実際に返すことは正義の徳の実践だということです。
~~

正義は三つの種類に分けることができます。人間同士の関係の種類次第で、これらの種類の正義が分けられています。正義に関する話はデリケートになっているのはまさにそういうところです。というのも正義の徳は前述したとおりに、人間同士の関係を調節するものです。が、同時に、人間同士の関係は正しいといえるには、交換されている「善」が善く渡されるかどうかでも決まります。交換される対象だけではなく、交換のやり方の正しさもあるわけです。だからデリケートです。

個人個人の人々が物事を交換する際 、個人あるいは共同体同士の関係を「私法的」に管理する場合、自治的に調節する場合、この第一の種類の正義は「置換的な正義(計算的な正義)justitia commutativa」と呼ばれます。つまり、対等関係を調節する正義の徳です。

例えば、二人の兄弟がいるとしましょう。そして、この二人の兄弟の間の関係は兄弟同士だけで調節する物事に関するときは「置換的な正義(計算的な正義)justitia commutativa」になっています。あるいは、二つの当事者の間に契約が結ばれたとき、まさに典型的です。いわゆる「民間・私法・民法」的な関係の時です。「置換的な正義」といいます。

要するに、二つの当事者、あるいはあえて言えば「個人」、共同体は自分の動きで何かをお互いに約束したとき成立する関係の時です。この関係をよく調節するには通常ならば契約なり、何かの制度なりがあります。そして、この場合の関係における正義の徳というのは、約束した通りに、それぞれの当事者に与えるべき物事を与えることです。

例えば、保険契約の場合、保険を押印する被保険者が保険者に決まった保険料を払う義務があります。しかしながら、同時に、契約をサインした保険者にも義務が生じて、契約の条件通りに、補償金などを支払う義務があります。実際に、これをやる時、それは正しいことです。つまり、契約という形でも、二人あるいは二つの当事者が約束をした結果、その約束を果たす義務があるのです。正義の徳によって調節される関係としての契約・約束です。約束した通りに義務を果たすとき正義が全うされるということです。当然ながら、不正な契約もあるわけです。だから、不正な契約の場合、約束したからといって、約束したとおりに果たす義務がなくなります。しかしながら、公平に公正に交わされた約束の場合、約束したことを果たす義務があるのです。公正な契約だったら、約束を果たすべきです。これは「置換的な正義」と呼ばれます。現に、約束通りに果たした時の行為は「正しい行為」です。

繰り返しますが、正義の徳は人間同士の関係を調節する枢要徳なのです。しかしながら、人間は社会において必ず生活しています。従って、位階制も必ずあって、それから地位・権限・権威・権力を持つ人々がいるということです。これらの人々は共通善の世話をして、共通善を特に大事にする使命を持つ権力者たちです。また、「頭」、指導者の役割は下にある人々を共通善に向かわせる使命があります。そして、「頭」が行う特別の正義の徳があります。

「部下・臣下・下の人々のそれぞれに名誉・善などを返すべきだ」という正義の徳です。つまり上に立った時の上下関係を調節する正義の徳です。これは「配分的な正義」と呼ばれます。例えば、社長は従業員それぞれに与えるべき物事を与える義務があるのです。実際にこれをやる時、これは正しいことです。例えば「正しい給料」を与える義務とかです。また社長はそれぞれの従業員に「相応しい敬意、相応しい名誉、相応しい慰労」を与えるべきです(その仕事・立場次第にという意味ですね)。これは正しいことです。


だから、いかなる社会においても(会社を含めて)名称・敬称・肩書などの存在理由は正義を全うするためにあるということです。これらの身分、敬称、品位、名誉などは正当であり、正義の徳によって調節される必要があります。そして、特に、上下関係で正義を全うするために調節するのは上司、頭、上の者の役割です。配分的な正義と呼ばれています。なぜかというと、共通善の一部、あるいは共通善の配分に与る(必ずしも物質的ではなくてもいいですが)、共通善を享受させることは上の者の仕事ですから、「配分的な正義」といいます。例えば、賢者は政府に立つのは、正しいことであり、正義にかなうことです。一方、愚かな者は政府に立つのは正しくないことであり、正義にかなわないことで、相応しくないことです。不正です。「配分的な正義」ですね。

だから、上に立つ人々、上司、頭、元首などは正義に対して深刻に罪を犯しうることは理解いただけるかと思います。例えば、本来ならば配分すべき物事を独占してしまう上の者は正義に対して罪を犯します。あるいは、公正に配分すべき物事を人々の間に公平公正に配分しないとき、上の者は正義に対して罪を犯します。あるいは、それに値しない人々に、名誉・敬称などを与えたり、あるいは為政者に適わないで相応しくない人々を政府・指導者の立場に寄せたりすることも、上司・上の者の正義に対しての罪です。

第三の種類の正義の徳は、配分的な正義との逆の立場の正義の徳なのです。つまり、遵法的な正義のようなものですが、下からみた上下関係を調節する徳です。つまり、上の者、あるいは共通善、それから共通善の一環である本物の法に対して下の者が本来、返すべきことを返すことです。一言でいうと、共通善への各人の参画ということです。「遵法的な正義」の具体例でいうと、職人あるいは労働者は与えられている業務を果たすべきだというようなことです。正しい職人なら、自分の仕事を実際に果たすのです。

以上、正義の徳の三つの種類をご紹介しました。非常にデリケートな正義の徳だということが理解いただけたと思います。
どこの社会においても正義の徳が不可欠であり、なければ社会は成り立たないのです。正義の徳が実践されない社会は完全に崩壊するしかないのです。無秩序と乱れになります。まさに、正義の徳は人間同士の間の関係を秩序付けて、社会を秩序づけて、社会を整えるのです。というのも、人間同士の関係と人間同士の間に交わされる多くの「善」を調節する正義の徳ですから、社会にとって死活にかかわる徳です。

正義の徳がなくなった社会は解体して崩壊します。それは鉄則であり、正義が侮辱されて侵されたら、社会は破滅へ向かうのです。これは必然であり鉄則です。残念ながら現代社会では確認しやすい事実です。多くの社会は、ほとんどすべての社会は破滅へ走っているのです。というのも正義の徳は実践されなくなっているからです。

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要約すると、正義の徳を実践するのは難しいことです。同時に、非常に大事な不可欠な肝心要の徳となります。前回にもご紹介したように、正義の徳には賢明の徳によって調節される必要が当然にあります。

正義の徳においては、「潜在的な正義の徳がある」といわれています。言いかえると、正義の徳の中に、ほかのいくつかの正義の徳があるということです。つまり、全体の正義の徳を実践するに際して不可欠になるいくつかの他の正義の徳を指すのですが、残念ながらこれらのいくつかの徳だけでは正義の徳を実践することはできないということです。

例えば、正義の徳の基本の定義を思い出しましょう。「各人に彼の本来の分を返す(報いる)こと」と。しかしながら、ある相手に対して、本来ならば返すべき分を返せない事実がよくあります。そもそも与えすぎてくれたから到底に返せないこともあります。つまり、もらった分のすべてを返すことはできないという時です。

ですから、この場合、正義の徳を実践するのは、私の力でできるだけ返しつくすのですが、完全に正義を全うすることは不可能だということです。この場合を指して、完全に完璧に正義の徳を実践していないから、そして完全に実践することは不可能だから、「潜在的な正義」と呼ばれています。

例えば、孝行の徳があります。それから、「宗教の徳」もなおさらのことです。宗教の徳は、つまり、天主のために礼拝して、儀式を捧げることであり、もっとも正しいことです。というのも、天主は私たちにあらゆることを与え賜った存在です。天主より生命、身体と霊魂、大自然、多くの善と恵を与えて、天主のおかげでつまりすべてを享受しています。


だから、当然ながら、正義の徳を実践するために、天主にできるだけ、その本来の分を返すべきです。つまり、天主と人間の間に絶対な不平等があるからといって、下から上に何も返さなくてもよいわけがありません。いや、できるだけ、力が許すだけ、その分を返すべきだということに関して変わりません。

詩編にあるように「私に与えられた主の恵みに、何をもって報いようか」(詩編116、12)。当然ながら、このような関係だと、「完全に」返すことは到底ありえないことです。それでも、できる限り、天主にその本来の分を報いるべきです。返すべきです。その恩を報いることです。これは正義の徳の一部、潜在的な部分であり、「宗教の徳」と呼ばれています。

同じように孝行の徳があります。両親をはじめ、先祖に対して、それから国に対して。親に対して完全に彼らの本来の分を返してその恩を報いることはできないのです。生命を親か与かったことはは完全に返すことのできない善です。しかしながら、できる限り、力の許す限りに、孝行を実践すべきです。要は、先祖から受けた恩に報いるということです。それは、親に対して従順であることによって、あるいは犠牲を払うことによって、または老人になると親が必要とする世話をすることによって。これらの行為は正しい行為です。

そして、このような行為によって両親からの恩に報いないことは正義に対する罪を犯すことになります。しかしながら、親からもらったほどの物事を親に返すことは当然ながら不可能であり、無理なことです。同じように良い意味での祖国から無数に多くのことをもらっています。文化、文明、周りにある社会など。当然ながら、これほど多くの恵みを返すことは無理です。しかしながら、できるだけ、力の許す限りにその恩に報いるべきです。引き継いだ文化・文明などを守り、活かし、伝えていくことによって、それから、引き継いだ宝を増加することによって。そして、共通善のために(公のために)できるだけ善く多くに報いる努力を尽くすことによって。これも孝行(忠君)の徳です。

宗教の徳、孝行の徳は大事な徳です。そして正義の徳の一環であることは以上のように見たとおりです。まさに枢要徳の在り方を理解いただけたかと思います。あらゆる徳は、この四つの枢要徳を基盤にしています。できるだけ、各人に本来の恩に報いるという正義の徳です。

それから、当然ながら、そして残念ながら、正義の徳に対して罪を犯すことはあります。現代の社会を見たら悲惨なほどに確認できることです。
まず、隣人の権利を侵すことによって正義の徳に対して罪を犯すことがあります。例えば、生命に関する権利。殺人は正義の徳に対する罪です。正当な理由なしに隣人を殺すのは正義に対する罪です。不正です。深刻な不正です。目に余る不正です。堕胎は深刻な不正です。というのも、生命というのは人間から受けただけではなく、天主より与えられた宝ですから、殺人は人間に対する不正だけではなく、天主に対する不正でもあります。

また、同じように無罪の人を罰することは不正です。例えば、無罪であるのにその人を投獄させることは不正です。なぜ不正でしょうか。無罪の人に本来、与えるべきこと(ここで自由)を奪うから、正義に対する罪です。無罪の人を投獄させるのは無罪の人の自由を奪うことを意味します。現代の社会は「自由万歳」を唱えながら、あらゆるところで自由はどんどん奪われつつあります。

また、名誉に値する誰かの「名誉、名声」を破壊することも不正なことです。あるいは、栄光に値しない人に栄光に浴させることも不正です。詐欺師を讃えることは当然ながら不正なことです。同じように、正しい者を誹謗するのも不正なことです。隣人の良き名声、値にする名声を傷つくことは不正なことです。同じように、隣人の保有物を奪い、盗むことは不正なことです。残念ながらも、現代社会は目に余るほど不正なことが蔓延しているのです。

また、例えば、何の理由なしにある人を昇級・昇進させるようなコネ、あるいはえこひいきのようなことは、配分的な正義に対する罪です。
要するに正義に対して罪を犯すのは意外と多くてよくある話です。例えば、無宗教であることは正義に対する罪です。無神論は、それからいわゆる政教分離は天主に対しての深刻な重い罪です。宗教の徳に対する重罪です。宗教の徳に関して、いずれか天主は罰することになりますが、この報復はとんでもなく大変になってきます。


親に対しても祖国に対しても反旗をひるがえすというのは不孝であり、重罪です。祖国や文明が善い場合、両親の行為が善い場合、それらにたいして反乱を犯すのは重罪です。そういえば、国々の為政者・元首・指導者が行う不正の報いをいずれか受けざるを得ないということは自明でしょう。また、嘘をつくのは不正なことです。各人に返すべき真理に対する不正です。約束したことを果たさないことは不正なことです。偽善者であることは不正なことです。偽善者とは「自分のありのままではないように見せかける行為」ということです。つまり、外に嘘、本物ではないことを見せかけるのは不正なことです。

感謝しないことは不正なことです。というのも、善をもらったとき感謝するのは、ある種の償いだからです。忘恩という罪です。過剰に寛大であることも不正なことです。というのも、過剰に寛大である人は犯された罪・過失を償わないから不正なことです。欲張り・吝嗇・ケチであることはある種の不正です。というのも、ほとんどの場合、ケチだと、隣人に返すべきある善を与えないということを意味していますから。

それから、冷酷さ、言葉において荒々しさ、へつらい、友情における移り気などなど、不正の一種です。残念ながらもだれでも常に経験している不正ですね。正義の徳を実践するのは本当に難しいことであり、賢明の徳をかなり必要としています。どれほどそれらの枢要徳は結合して密接な関係にあることは理解いただけるかと思います。つまり、我々においてそれらの徳は完成されるために、一緒に今こそ同時にそれぞれを実践して、働くときです。


「賢明の徳」―四つの枢要徳の妃  【公教要理】第八十七講

2020年04月12日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理-第八十七講 賢明の徳


信徳、望徳、愛徳からなる三つの対神徳を見てから、これから、枢要徳と呼ばれている徳をご紹介していきたいと思っております。
枢要徳とは対神徳ではありません。なぜかというと、天主を直接に対象にする徳ではないからです。枢要徳の対象は基本的にこの世にあって、被創造世界の内にあるための徳なのです。「道徳的な徳」だと区別されています。なぜかというと、具体的にどう行為すべきか(それは道徳の分野ですが)を決めるために助けてくれる徳なのです。道徳という語源は「風俗」にあり、「振る舞う、行為する」という意味です。

そして、道徳的な徳に属する徳は非常に多いですが、いずれか四つの基本的な徳に帰することになります。その四つの基本的な徳を指して、「枢要徳」と呼ばれています。なぜかというと、ラテン語の語源は「Cardo」ですが、これは扉の「肘金」という意味で、まさに「とぼそ(枢)」という意味です。その「肘金」で扉が開閉するように、すべての道徳的の徳は枢要徳を枢軸にしています。

枢要徳には四つからなっています。道徳生活の全部は四つの枢要徳を中心に展開しているということです。枢要徳が四つあるのは、原罪によって我々の四つの大事な能力が傷つけられているためであり、その大きな傷を治すための枢要徳なのです。四つの枢要徳は次の通りです。すなわっち賢明の徳、正義の徳、剛毅の徳、節制の徳です。

賢明の徳とは我々の「実用的な理性」を律する徳です。つまり、具体的な場合に何を決めるべきかを助ける徳です。
それから、正義の徳は意志を律する徳です。つまり、善へ意志を傾かせることを助ける徳です。
剛毅の徳は艱難において感情などを善に向かわせることを助ける徳です。
最後に、節制の徳は欲望などの抑制を助ける徳なのです。以上の四つの枢要徳を基盤に、ほかの多くの徳があります。公教要理においては枢要徳を中心にご紹介することにとどめます。取り敢えず、枢要徳を一つずつご紹介しましょう。

第一の枢要徳は賢明の徳です。枢要徳の内に一番大事な徳だといえましょう。
賢明の徳とは、「正しい基準に基づいて具体的な一つ一つの場合に、何をすべきかを決めることを助ける徳」だという定義です。要するに、公教要理において教わっている多くの原則、原理、信条などを実際の場合に適用することを助ける徳です。

というのもそれらの原理は普遍的なので、そのままの形で賢明の徳に頼るということです。つまり、賢明の徳のおかげで、「Hic et nunc」つまりここ、今、何をすべきかを決めて実行します。つまり、具体的に、今、ここの固有の場合においてどうすべきだろうかということです。

要するに、賢明の徳によって、人生においての多くの具体的な場合にあって、何をすべきかを決めて実行することを助ける徳であります。言い換えると、賢明の徳は現実において、実際の場合、そして具体的な事情に置かれて、普遍的な原理をどう適用すればよいかを明らかにするための徳です。というのも、不動なる不変なる普遍的な原理を適用するのは容易なことではありません。だから、賢明の徳というのは、実用的な理性の完成を助ける徳です。なにをすべきかを教えてくれる徳です。

そういえば、賢明の徳を抜きにして道徳的な徳は存在しないのです。ちなみに、賢明の徳を指して「枢要徳の妃」と呼ばれることが多いです。なぜかというと、もちろん、剛毅、正義、節制に従って行為しなければならないのですが、結局、すべてにおいて、具体的な固有的な場合に適用すべき徳だとして、賢明の徳をも必ず作用するのです。

要注意なのは、適用するからといって、それらの徳や原理は変わることはありませんよ。ただ、事情に合わせて最適にそれらの原理原則を活かすという意味です。
したがって、正義、剛毅、節制を作用する際、それらの事情を考慮するという意味で、賢明の徳も作用しています。つまり、必ず、賢明の徳はかかわってきます。

例えば、節制するように頑張る人が断食することにするとしましょう。その時、賢明の徳は問います。「断食することは可能ですか」つまり、健康を考慮するという意味での可能性。それから「断食しても君の使命を果たし続けられるだろうか」と問います。「断食したら病気になるかどうか」と問います。たとえば「断食したら、相手のために果たすべき義務を果たしうるままになるだろうか」と。などなど。
要するに、節制の徳を適用するときに、賢明の徳は節制の徳を律することになっています。

全く同じく、賢明の徳は正義の徳を律するのです。たとえば、「ある物をある人に返す義務がある」としましょう。「自白して返すべきどうか」「そのもの自体を返すべきか、あるいは違う形でかえすべきか」、事情を考慮するとき、賢明の徳は働きます。従って、賢明の徳はすべての徳の妃なのです。賢明の徳がなければ、他の徳を作用することは不可能となりますから。

賢明の徳をよくうまく作用するために、三つの点が必要となります。つまり、完成された賢明の徳を作用するには三つのことが必要です。賢明の徳には次の三つの要素は不可欠なのです。それは、助言力、判断力、実行力という三つの要素です。
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助言力は賢明の徳の第一の段階だといえましょう。相応しい人から助言を得る段階です。ときどき、何をすべきかについてわからない時があります。自分の理性と経験だけで判断しかねる場合が少なくないのです。だから、相応しい人々に頼って助言を得ます。国王などが「輔弼」を仰ぐということはまさにその意味です。「輔弼会」を設けて、諫言、助言、顧問を聞かせます。それぞれの意見を聞かせてくれます。だから、「賢人」に頼って、豊かな経験のある先輩や老人の助言を求めるのは普通です。そういえば、聖書においてこのような場面があります。ソロモン国王の死後、新しい若き王は年長者たちに頼って助言を得ることをやめて若手からの助言を得ることにします。つまり、経験のない英知のない若手の顧問を受けることにします。案の定、結果は悲惨となりました。

しかしながら、助言を得たからと言って、それだけで賢明に行為したことにならないのです。次の段階は、賢明の徳を作用しようとしている人が判断する必要があります。多くの助言と意見の内に判断して選ぶ必要があります。判断して何をすべきかを決めるという判断力です。それは容易なことでもないのです。なぜかというと、判断する人は判断するときに独りぼっちです。彼の代わりに誰も判断しえないのです。助言を受ける時、多くの人々に囲まれているのですが、判断する際、自分の心において一人で判断することになります。統治者は所詮、多くの諫言や顧問や助言を受けて、どうするかを自分で判断するしかありません。彼が責任者なのです。

で、判断したときに、まだ賢明の徳を完全に作用したとは言えません。第三段階として、判断を実行すべきです。だから、完成なる賢明の徳は、ある個別の行為において完成されています。助言を得た上に判断したことを実行したときにこそ、賢明の徳の作用は完全に完成されました。賢明な人はこのような人です。要するに、助言を得た上に、何をすべきか判断して、実際に行為において実行した人です。

賢明の徳というと、個人的な徳として存在します。つまり、自分の人生において何かについて決める場合、助言を得て判断して実行するときです。しかしながら、同時に賢明の徳は政治的な徳でもあります。賢明の徳は統治者の一番肝心要の徳となります。本物の「頭(かしら)、君」は賢明な人でなければなりません。善き指導者は善き側近を作って、善き助言者に頼るという。非常に政治的な徳なのです。というのも、賢明の徳のおかげで、統治者は善き命令、善き法律を決めて実行できるということです。

賢明の徳に対する罪があります。徳が欠如する場合の罪と徳が過剰な場合の罪があります。つまり、賢明の徳が欠如する場合の罪です。助言を得ないですぐに決めてしまうということで「あわただしくなる」という。言い換えると、助言などを得ないで、あわてて判断して実行するという罪です。第二の欠如は軽率なのです。判断力が足りない時です。第三の欠如は移り気ということです。つまり、判断したのに、実行が中途半端に留まって判断を取り消して別のことを判断するような。第四の欠如は実行においてぞんざいに実行するという。

それから、賢明の徳が過剰な場合の罪もあります。賢明すぎる時です。第一、「肉体の賢明」という過剰罪があります。つまり、物質的あるいは世俗的な利害を重んじすぎるせいで霊的な利害を無視する罪といいます。つまり、天主の名誉を第一に考えるよりも周りの人々はどう考えているかを気にしすぎるような罪。「肉体の賢明」と呼ばれています。場合によって深刻な罪になることもありますよ。

それから、詐欺という罪です。相手をごまかすときです。

それから世俗においての「過剰な配慮」という罪もあります。肉体の賢明との共通点もありますが、つまり、自分の「イメージ」あるいは「評判」に配慮しすぎる時です。いわゆる経済でいう「レピュテーション」というやつですか。なんかの「ブランディング」というやつですね。この世の利害だけを考えて、世俗的なことだけを考えて、配慮しすぎる時です。周りの人々にどう思われるかどう見えるかに配慮しすぎる罪です。

最後に世俗的な、この世的な「将来に関する過剰な配慮」も罪です。つまり、この世での将来について全力を尽くしているのに、天国に入るための準備を忘れるような罪です。要するに、天主のみ前に良くいられることよりも、この世においてよくいられるために配慮しすぎる時です。賢明の徳の過剰です。

以上、賢明の徳をご紹介しました。