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ヴィガノ大司教「バチカンは『悲惨な』コロナワクチン接種への支持を撤回しなければならない」

2022年12月22日 | 迫り来る危機
英語版
https://www.lifesitenews.com/opinion/abp-vigano-the-vatican-must-withdraw-its-support-of-the-disastrous-covid-shots/

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/vigano-scrive-alla-congregazione-per-la-fede-cambiate-le-dichiarazioni-sul-siero-mrna


ヴィガノ大司教「バチカンは『悲惨な』コロナワクチン接種への支持を撤回しなければならない」


現在、大規模ワクチンキャンペーンを採用したすべての国で発表されている公式データから明らかになっている結果は、紛れもなく悲惨なものです

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
2022年10月21日 米東部標準夏時間午前10時5分

【編集者注】以下は、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教が、新型コロナウイルス感染症用ワクチン接種の道徳的性格と身体への危険性、およびその使用に関する信者への教会の指示について、教理省長官ルイス・ラダリア・フェレール枢機卿に送った書簡のテキストです。

この書簡は、教皇聖下の国務長官であるピエトロ・パロリン枢機卿、教皇庁科学アカデミーおよび教皇庁社会科学アカデミー会長のピーター・タークソン枢機卿、教皇庁生命アカデミー会長のヴィンチェンツォ・パリア大司教ら聖座メンバーにも宛てられています。

(LifeSiteNews)

枢機卿猊下、

昨年、2021年10月23日、私は米国司教協議会会長宛に手紙を書き、猊下にもそれをお送りしました。その中で私は、すでに公にしておりましたように、mRNA技術を使用して製造された実験的遺伝子血清の使用の道徳的正当性に関する、極めて議論の多いさまざまな側面について、非常に強い懸念を表明しました。

その手紙は、著名な科学者やウイルス学者の助けを借りて書いたもので、私は、当時でも表面化していて、さらに製薬会社自身が宣言した科学的証拠により、「何点かの新型コロナウイルス用ワクチン使用の道徳に関するノート」を更新する必要性を強調しました。

猊下、ファイザー社が欧州議会で最近声明を出したことと、世界の保健機関によって公式データが発表されたことを受けて、改めて訴えさせていただきたいと思います。

まず最初に、猊下が主宰されている教理省の文書は、遺伝子血清の性質とその成分に関する完全なデータがなく、また有効性と安全性の試験の結果もない状態で、2020年12月21日に公布されたことを思い起こしていただきたいと思います。「ノート」の主題は、「自然流産ではなかった2人の胎児から得た組織に由来する細胞株から開発された新型コロナウイルス感染症用ワクチンの使用に関する道徳的側面」に限定されていました。

同省は、さらにこう繰り返しました。「これらのワクチンが安全であり有効であることは倫理的に関連があって必要なことですが、それに関する評価は生物医学研究者と医薬品庁の責任ですから、私たちにはワクチンの安全性と有効性を判断する意図はありません」と。したがって、安全性と有効性がこの「ノート」の主題ではなく、「ノート」は、「使用の道徳的側面」についての意見を表明する際に、これらの薬剤の「製造の道徳性」についてコメントすることが適切とは考えなかったのです。

個々のワクチンの安全性と有効性は、通常数年を要する実験期間を経て確立されるべきものでした。しかし、今回の場合、各国の保健当局は、科学界の通常の慣行や国際的な規制、個々の国の法律から逸脱して、国民全員に対して実験を行うことを決定しました。

現在、大規模ワクチンキャンペーンを採用したすべての国で発表されている公式データから明らかになっている結果は、紛れもなく悲惨なものです。実験用血清の接種を受けた人々は、ウイルスの感染や重大な病気から守られないばかりか、mRNA技術によって免疫系が不可逆的に損なわれたことで、新型コロナウイルスやその変異株に対してさらに脆弱になっていることが明らかになりつつあります。

また、不妊症、妊婦の流産誘導、授乳による子どもへのウイルス感染、心筋炎や心膜炎などの深刻な心臓疾患の発症、一度治癒した癌腫瘍の再発、その他一連の衰弱させる病気など、短期・長期にわたる深刻な影響が、データから浮き彫りになっています。最近まで頑なに血清の接種とは無関係とされてきた多くの突然死のケースは、若く健康で体力のある人でも、繰り返し投与された結果であることが明らかになりつつあります。

また、安全上の理由から医療従事者による厳しい管理下にある軍人にも、血清を受けた後に同じような副作用の発生が見られます。この血清がそれを受けた人に一種の後天性免疫不全を引き起こす可能性があることは、現在、数え切れないほど多くの研究で裏付けられつつあります。世界中で、ワクチン接種後の死者や深刻な病態の数は飛躍的に増加しています。これらのワクチンは、過去30年間の他のすべてのワクチンを合わせたよりも多くの死亡を引き起こしています。また、それだけではありません。多くの国で、ワクチン接種後に死亡した人の数は、新型コロナウイルス感染症で死亡した人の数よりも著しく多くなっています。

教理省は、血清の有効性と安全性について意見を表明しませんでしたが、それにもかかわらず、血清を「ワクチン」と定義し、血清が免疫力を与え、能動・受動伝染病から人々を守ることを当然のことと考えていました。しかし、世界の全保健当局や世界保健機関(WHO)が、ワクチンを接種した人は、接種していない人よりも深刻な感染症にかかり、他の人に感染させる可能性があり、また、免疫系が現実に取り消されないまでも劇的に減少していると宣言したことによって、この要素は今や否定されています。

このように、「ワクチン」と呼ばれてきた薬剤は、「ノート」が指すと思われるワクチンの正式な定義には該当しません。「ワクチン」とは、生命体による防御抗体の産生を誘導し、特定の感染症(ウイルス性、細菌性、原虫性のいずれか)に対する特定の抵抗力を付与する製剤と定義されています。この定義は、WHOによって変更されました。なぜなら、そうしなければ、新型コロナウイルス感染症用の薬剤は防御抗体の産生を誘導せず、Sars-CoV-2による感染症に対する特異的な抵抗力を付与しないため、ワクチンの定義に含めることができなかったからです。

酸化グラフェンは、その存在についても、その毒性のために人間への薬品としての使用についても、科学的に正当化できないという事実があるにもかかわらず、「ワクチン」のバッチと接種された人の血液の両方に存在することが、今や合理的な疑いを超えて証明されていることは、指摘しておくべきことです。酸化グラフェンが接種を受けた人々の臓器に与える破壊的な影響は今や明白であり、製薬会社は近いうちに責任を問われることになりそうです。

猊下はすでにご存じのことでしょうが、自己組織化酸化グラフェンナノ構造体を用いたこれらの技術を使用することは特許を取得されており、それは被験者の追跡や遠隔操作を可能にするため、特にそのナノ構造体によって発せられるブルートゥース信号を通じてクラウド接続する方法で、各患者のバイタルパラメーターをモニタリングするためです。この情報が陰謀論者の考え出したものではないという証拠として、猊下はおそらくご存じだと思いますが、欧州連合は技術革新に専念した二つのプロジェクトのコンペの勝者を選びました。「人間の脳とグラフェン」です。この二つのプロジェクトは、今後10年間でそれぞれ10億ユーロの資金を受けることになっています。

新型コロナウイルス感染症用の「ワクチン」は、命にかかわる病気に対する唯一の可能な代替療法として提示されてきました。これはまさに最初から偽りであり、2年後の視点で見ても偽りであることが裏付けられました。代替療法は存在しましたが、製薬会社によって組織的にボイコットされ(安価で自分たちの利益を生まないため)、巨大製薬会社が資金提供する科学出版物によって信用を貶められており、その際使われた論文は、明らかに偽造データに基づいていたために、後になって撤回されたものだったのです。

さらに、新型コロナウイルス感染症は、周知のとおり、また科学的にも明白だったように、治療可能で命にかかわるものではない季節性型のコロナウイルスであり、すでに他の基礎疾患を持つ人々の間で最小数の死者を引き起こすにすぎない一種のインフルエンザであることが明らかになったのです。数年にわたるコロナウイルスのモニタリングにより、この点では疑いの余地はなく、また、ワクチン押しつけの口実として使われた「健康上の緊急事態」という要素も排除されます。

国際的な規範は、他の有効な代替治療がない場合を除き、実験的な薬剤の配布を許可することはできないと明記しています。このため、世界中の医薬品庁は、イベルメクチンや高免疫血漿、その他有効性が実証されている治療薬の使用を妨げてきたのです。猊下が思い起こされる必要はないことですが、WHOと並んで、これらの機関はすべて、製薬会社とそれに連なる財団からほとんどの資金提供を受けており、最高位の人々において重大な利益相反が存在するのです。

ここ数日、欧州委員会のウルズラ・フォン・デア・ライエン委員長は、彼女の夫が勤務するイタリアとギリシャの研究所に提供されたPNRR(再興・回復のための国家計画)資金について議会で答弁しなければなりませんでしたが、同委員長がファイザー社のアルバート・ブーラCEOと交わした供給契約に関するテキストメッセージ(これはまだ明らかにされていません)を欧州監査裁判所に提出するのを拒否したことも忘れてはならないことです。

実験的な血清の投与は、心理学の専門家にはよく知られている大衆操作のテクニックを使って、最近の歴史では前例のない方法による組織的な活動によって行われました。このメディア・テロおよび個人の天賦の権利の侵害、それに耐え難い脅迫と差別を伴う作戦において、カトリックの位階階級はこのシステムの側に立つことを選び、自らを「ワクチン」の推進者とし、ワクチンを「道徳的義務」として推奨するまでに至っています。メディアはローマ教皇の霊的権威とそのメディアへの影響力を巧みに利用して、主流の物語(ナラティブ)を承認しました。これはワクチン接種キャンペーン全体の成功に不可欠な要素であり、多くの信者が、教皇とその世界的役割について持っている信頼により、ワクチン接種を受けることを納得させられたのです。

聖座の職員に課せられたワクチン接種の義務は、他国で課せられたプロトコルの路線に従ったもので、科学的妥当性が全くない極めて不注意で無謀な立場とバチカンが完全に一致していることが裏付けられました。このことは、バチカン市国を、その職員の一部が法的責任を負い、さらにその国庫を圧迫するという可能性にさらしています。また、危険な薬のセールスマンと化した自分たちの牧者に対して、信者が集団訴訟を起こす可能性も排除できません。

2年以上たった今でも、教会は、新しい科学的証拠に照らして、今や時代遅れで、厳しい現実と大きく矛盾するこの「ノート」を訂正するために、声明も出す必要があるとは考えていません。ワクチン使用の道徳性の評価に限定して、教理省は遺伝子血清の利点――それは全くありません――と、今や誰の目にも分かる短期および長期の副作用との間の比率を考慮に入れていません。

ワクチンとして販売されている薬剤は、大きな利益をもたらさず、それどころか、新型コロナウイルス感染症が深刻な脅威ではない人々でさえ、非常に高い割合で死亡や深刻な病気を引き起こすことが明らかになったため、リスクと利益の間の比率を実証する試みは、もはや有効とはみなされず、したがって、「ノート」が基づいていた前提条件の一つ、「ワクチン接種の道徳性は、自らの健康を守る義務だけでなく、公益を追求する義務に依存する。流行を止める、あるいは防ぐための他の手段がない場合、共通善は、特に最も弱く、最もさらされている人々を守るために、ワクチン接種を推奨することがある」(5番)は排除されました。

私たちは、「他の手段がない」のではないこと、また、血清は流行を止めることも防ぐこともできないことをよく知っています。このことは、中絶された細胞株で作られたmRNA「ワクチン」を道徳的に受け入れられないものにするだけでなく、人の健康にとって、そして妊婦の場合には子どもの健康にとっても絶対的に危険なものにしているのです。

教会は、ワクチンの道徳的評価を表明する際に、全体的な判断を形成するのに貢献する多くの要素を考慮しないわけにはいきません。教理省は、薬物それ自体の道徳的合法性の一般論に自らを限定することはできません――その合法性は、その効果のなさ、遺伝毒性および発癌性のテストの不在、そして副作用の証拠を考えると完全に疑わしいものです。むしろ、教理省は、次の事実についてできるだけ早く発言しなければなりません。血清が「流行を止める、あるいは予防するために」完全に役に立たないことが証明された今、もはやそれを投与することはできず、実際、保健当局や製薬会社は危険で有害なものとしてそれを回収し、個々の信者には、予防接種を拒否する道徳的義務が存在します。

猊下、さらに私は、カトリック教会の権威を利用して、国連の「アジェンダ2030」と世界経済フォーラムの「グレート・リセット」の新マルサス主義的プロジェクトを支持できると信じてきた民間団体や多国籍企業から、聖座が決定的に距離を置く時が来たと信じています。キリストの教会の声が、人類を慢性的な病気にすることや、不妊症を誘発させることに基づく世界人口の削減計画に加担し続けることは容認されません。そして、これらの犯罪計画の立案者から後援と資金提供を受けることによって、聖座がさらされているスキャンダラスな利益相反に直面すれば、なおさらその必要性が高まります。

猊下は、「サイコ・パンデミック」の物語(ナラティブ)への無謀な支持の結果として、聖なる教会に非常に深刻な影響があることを見逃すことはなさらないでしょう。フランシスコの言葉や演説を利用して、役に立たないことが証明されているだけでなく、実際には重大な有害性を持つ血清に身をさらすように信者を導くことは、バチカンの権威を著しく損ない、不完全かつ偽造であることが証明されているデータに基づく治療を広めるよう促しています。

厳密に科学的な懸念の分野において、この無謀で透明性の低い行動に最高位の教会の権威による干渉が関わっていたのですが、この分野は本来、「生物医学研究者と医薬品庁の責任」です。このような裏切りの後、忠実なカトリック信者や教会を確かな道しるべとする人々は、どのようにして教会の立場を信頼でき、信用できると、平静さと確信を持って考えることができるでしょうか? 

また、ワクチンを受けなければ教会に行くこともミサに出ることも聖歌隊で歌うこともできないと語った教皇や司教や教区司祭によって勧められたという理由だけで、医学的な訓練も能力もなくワクチン治療を受けて、実際に健康を害したり早死にしたりした人々が受けた被害を、どのようにして償うのでしょうか?

カトリックの位階階級は近年、グローバリズムのイデオロギーへの支持に正比例する衰退を経験しています。気候イニシアチブ――これも科学的根拠のない誤った仮定に基づいています――や、トランスヒューマニズムの企てに聖座が参加していることから判断すれば、ワクチンキャンペーンを支持するという関与は孤立したケースではないでしょう。

しかし、これは私たちの主が教会を地上に置かれた目的ではありません。教会は、何よりもまず真理を宣べ伝えなければならず、地上の権力者たち、さらにはその中でもキリストの教えとカトリック道徳に悪名高く敵対する人々との危険な関わりから遠ざかっておかなければなりません。もしこの卑屈な隷属状態を振り払わなければ、もしこの世の精神に立ち向かう勇気と尊厳を再発見しなければ、位階階級は圧倒されて、つまずきの石や逆らいのしるしでなくなるというところまで犠牲となるでしょう。

猊下、私は、猊下が、これらのテーマの特別な重大性についてのみならず、福音の教え、および、今もこれからも教会の至高の法(suprema lex)である霊魂の救い(salus animarum)に忠実である緊急の賢明な介入についても考慮したいと思われることを確信しております。

In Christo Rege,
王たるキリストにおいて

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

前駐米教皇大使
2022年10月18日



ヴィガノ大司教:現代社会における『天主の国』と 『悪魔の国』について

2022年12月13日 | 迫り来る危機
ヴィガノ大司教、「現代社会における『天主の国』と『悪魔の国』について」

英語版
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/6241-archbishop-vigano-on-civitas-dei-and-civitas-diaboli-in-contemporary-society

イタリア語版
https://www.stilumcuriae.com/mons-vigano-a-liberi-in-veritate-civitas-dei-e-civitas-diaboli-nella-societa-odierna


カルロ・マリア・ヴィガノ

Beatus populus, cujus Dominus Deus ejus. 天主が主である国は幸いである(詩篇143篇15節)

〈民主主義〉を基礎的な価値とし〈革命〉を最高の思想的原理とする世界において、フリーメーソンが、リソルジメント【イタリア統一運動】の蜂起によって、また、カルボナリ党と秘密結社が組織した様々な反乱によって、イタリアの諸王国の転覆を決意する以前、私たちの先祖がどのように生活していたのかを理解するのは困難なことです。

そして、さらに困難なのは、宗教さえもその役務者たちによって冒涜される世俗化した世界に住む私たちが、たとえ2世紀前であっても、公式行事から家庭内の小さな出来事まで、日常生活のあらゆる側面に信仰が影響を及ぼすという、深くキリスト教化した社会に住むことがいかに普通であったかを理解することです。

私たちとその世界の間では2世紀半近くが過ぎ、その間、フランスやオーストリアによる占領、独立戦争、1848年の革命、教皇領侵略、イタリア統一戦争、第一次世界大戦、ファシズム、第二次世界大戦、内戦、共和国宣言、1968年の革命、第二バチカン公会議、テロ、マーニ・プリーテ(Mani Pulite、清廉な手)【1990年代初頭のイタリアの検察による汚職捜査】、欧州連合、NATO戦争、サイコパンデミックの茶番劇、ウクライナ危機が次々と発生しました。

わずか2世紀余りの間に、イタリア人は、ブルボン家の、教皇の、あるいは、モデナ公爵の臣民であった曽祖父母が目にし、認識することができたであろう以上の出来事を目撃してきたのです。体制やイデオロギーや暴力の混沌とした連続、また、自由や自治やアイデンティティーの段階的な喪失は、それらの作者たちが意味ありげに革命と呼ぶものによって、段階的な特徴があります。

フランス革命―“la Révolution”―から、第一次、第二次、第三次、そしてクラウス・シュワブによって理論化された第四次産業革命までの段階です。そのどれもが、技術、テクノロジー、科学の分野での成果を特徴としていますが、畑を離れた後、工場で働くという夢を追い求めるために北へ移住せざるを得なくなったり、家族や伝統を捨てて郊外の匿名性のあるマンションに住み、コールセンターでの電話オペレーターや、「ジャストイート」【フードデリバリー業者】の配達員として仕事をせざるを得なくなったりするなど、人々の生活に非常に大きな影響を与えました。

自然のリズムに合わせ、宗教的な祭事や家族や地域の行事に彩られ、親族や友人や仕事の絆で結ばれて安定した何世紀もの生活が、組み立てラインのシフト、オフィスの勤務時間、通勤と外での昼食、狭いアパート、宅配弁当、核家族、老人ホームに入れられた高齢者、エラスムス計画【EU加盟国における学生の交流促進計画】で分散した子どもたちに取って代わられています。

不思議なのは、〈持続可能性〉に非常にこだわるその人々こそが、人間的な規模に立つ〈古代世界〉―本来、身体は自然、精神は宗教によって、つまり伝統によって、規定されていた世界―を破壊したのと同じ人々であることです。その破壊は、安い労働力を利用(搾取)し、それまで単なる維持管理の論理で運営されていた大規模農地を最大限に利用し、未成年者や女性の労働力を搾取し、蒸気機関のエネルギーを利用して大量生産を行い、電気を利用し、原子のエネルギーを利用し、利用、利用、利用…するためでした。
そして、さらにお金を稼ぎ、自分たちの富を増やし、人件費を削減し、従業員の保証や保護を奪っていくのです。何という商人根性でしょうか。何という搾取者たちでしょうか。すべてが利益の源泉に、稼ぎの機会に、利益の機会に貶められているのです。

19世紀から20世紀にかけては、イタリア人の心を動かした偉大な理想があったと言えるでしょう。多くのイデオロギーが崩壊した後、人々は「進歩」が廃墟となったのを見て幻滅しました。ですから「ロンバルディアの少年斥候兵」(La Piccola Vedetta Lombarda)【19世紀イタリアの作家エドモンド・デ・アミーチス(1846-1908)の小説「クオーレ」に収録されている短編】のレトリックや革命家であり愛国者だったチーロ・メノッティの輝かしい行動は、今日のレトリックとは異なりますが、それは、私たちに押し付けられた変化を正当化しなければならない口実が変わったにすぎないからだ、と答えることができます。

最初は、祖国という理想と暴君(実は暴君ではなかった)の抑圧からの解放という理想を口実とし、次に階級闘争という理想と資本主義の抑圧からの解放(実は消費主義の理想を取り入れるため)という理想を口実にし、さらに、誠実さという理想と腐敗した政治家の抑圧からの解放という口実となり、ついには、環境という理想の口実、地球上の人間の数を減らす義務―誰かが勝手に(motu proprio)伝染病、飢饉、戦争によって成し遂げようと決めたもの―という口実に変わっただけです。

リソルジメント【イタリア統一運動】と第一次世界大戦は口実でした。なぜなら、カトリックの君主制を抹殺し、カトリック教会を弱体化させ、両者の財物を没収するというフリーメーソンの真の意図を隠していたからです。民主主義と共和国の構想は口実でした。なぜなら、大衆を操作して、自分たちで運命を決められると欺く計画を隠していたからです。

そして、1968年【フランスでの学生による文化的革命運動】の思想もまた口実でした。超越的な原理からの自由というその理想は、離婚、中絶、同棲関係の合法化と、若者の堕落と家族の解体を招いたからです。ちょうど、第二バチカン公会議の理想を口実に、誰も求めていなかった新しいミサが、誰も変えたくなかった新しいカテキズムが、誰も必要としなかった世俗化しただらしない司祭が、カトリック信者に押しつけられたのと同じです。

パンデミックの茶番劇も、私たちが2年間注意を向けることなく繰り返してきた結果、今日、主流メディアにも現れているように、口実だったのです。ウクライナ危機も口実だったのであり、ロシアへの制裁、エネルギー緊急事態、グリーンへの移行、電子マネーも同じです。

ですから、伝統的な世界と革命的な世界という二つの世界があるのです。しかし、自分を欺かないようにしましょう! この二つの世界は、時代遅れのモデルから現代のニーズに対応したモデルへの単なる転換ではありません。この二つの世界は、互いに現代のものであり、互いに反する文脈上の現実であり、善と悪、光の子と闇の子、天主の国(Civitas Dei)と悪魔の国(civitas diaboli)の間の区別(discrimen)を常に示してきた現実です。


二つの現実は、必ずしも境界線や特定の統治形態によって特定されるのではなく、この世についての神学的な考え方を共有することによって特定されます。私たちが聖イグナチオの霊操で、二つの旗の黙想に見るような二つの陣営、「一つは最高のかしらにして私たちの主であるキリストの陣営、もう一つは人類の不倶戴天の敵であるルチフェルの陣営」(136:第2週)です。

天主の国(Civitas Dei)において、この【神学的な考え方の】共有は、キリスト教の秩序(ordo christianus)に適合した生活のあらゆる側面に関わるものです。キリスト教の秩序においては、霊的な権力とこの世の権力は、調和のとれた位階的な構造を持つ協力関係の中で、キリストが教え、教会が守る信仰告白および道徳と一致します。

この秩序においては、世俗の権威は王たるキリストの力を表し、教会の権威は最高司祭たるキリストの力を表し、すべてのものを、始まりと終わりであり、アルファとオメガであるキリストにおいて再現します。この意味で、天主の国(Civitas Dei)はキリスト教社会に関する霊感を与えるモデルであり、そのため、国家の世俗主義【国家をキリスト教と切り離そうとする主張】の概念そのものを冒涜的であるとして排除し、教会が“国家権威の世俗化や誤謬に権利があると承認することを望む”という考えも排除します。

天主の国(Civitas Dei)においては秩序(cosmos)が支配し、主が主祷文【キリストが教えた祈り】の中で見事に要約された天主の秩序があります。「御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく地にも行われんことを」(adveniat regnum tuum; fiat voluntas tua, sicut in cœlo et in terra.)。したがって、天は地上のモデルであり、天のエルザレムはキリスト教社会のモデルです。キリスト教社会は、キリストが支配すること、「御国の来らんこと」によって達成されます。それは、自己を軽蔑するほどまで天主を愛する人々の社会なのです。

悪魔の国(civitas diaboli)の市民は、その代わりに革命によって団結します。この革命においては、すべての権力は力づくに基づいて行使され、あらゆる権威はいかなる制限もなく、いかなる道徳的戒律にも従う必要はなく、天主の御名においてではなく、敵対者【悪魔】の名において行使されます。いわば、混沌、無秩序、地獄の混乱が支配するのであり、それはルチフェルの叫びである〈私は従わない〉(Non serviam)と悪魔の教訓である〈汝の欲するところを為せ〉(Do what thou wilt)に集約されるのです。

この専制的で無秩序な社会では、同時に、不正な法律による正義の破壊、人々を抑圧する規範による共通善の破壊、悪徳、罪、冒涜の奨励による天主への反逆が行われています。すべては個人的な利益のために行われ、他者を踏みにじる代償を払っています。すべてが権力、金銭、快楽への渇望によって動かされています。そして、混沌が支配するところには、卓越した反逆者であり、エデンの園以来、革命の原則を鼓吹してきた者であり、嘘つきであり、人殺しであるサタンが君臨しているのです。

悪魔の国(civitas diaboli)に突き動かされた国家は世俗的ではなく、非宗教的、反宗教的、不敬、反キリスト教的です。それは、恐れと恐怖、強制と力づくに基づく権力、善良な個人を犯罪者にし、欺瞞と嘘によって悪を行う者を称揚するという能力に基づく権力によって人々を抑圧します。悪魔の国(civitas diaboli)においては、教会と世俗の権威は、その意図された目的に反してその権威を行使する破壊者たち、つまり教会ではディープ・チャーチ、公共の領域ではディープ・ステートによって覆い隠されています。それは、天主を侮蔑するというところまで自分自身を愛する者たちの社会なのです。

私たち、そして〈真実における自由人たち〉(Liberi in Veritate)の国民の日にお集まりの皆さんは全員、自分たちが理想的には天主の国(Civitas Dei)に属していることを分かっておられますが、この市民たちは、カトリック信者として教会と国家の両方で促進したいと思う共通善(bonum commune)のためにどのように行動し、貢献するべきかという具体的現実を見つけていません。

まるで、地球上のどこにあるのか分からない国のパスポートを持っているかのようですが、その痕跡は今ハンガリーにも、ポーランドにも、ブラジルにも、ロシアにも、そして思いがけず、私たちのような多くの〈追放者〉の中にも見られます。この市民たちは、私たちが何を言っているのかよく分かっていますが、私たちと同じように、どこかよそ者のように感じています。

米民主党のジェイミー・ラスキン下院議員が、「ロシアは伝統的な価値を持つ正統的な国である。だから、米国がどんな代償を払っても、ロシアは破壊されなければならない」(こちら)と宣言するのを聞くと、私たちは、天主の敵から受ける迫害という共通点から、その国民と霊的につながっていると感じるのです。

教会―今日、腐敗して悪魔の国(civitas diaboli)に従属している位階階級に覆い隠された教会―のよそ者になっているという同じ感覚は、私たちに、カトリック信者としても〈硬直した者、快適を求める者、後戻り主義者〉(rigidi, comodisti, indietristi)として追い出され、どこか〈追放者〉のように感じさせるのです。

何故なら、私たちには、教皇が異端、偶像崇拝的行為、挑発、過激な行為や嘘でつまずきを与え、キリストの教会を辱めることを、また、教皇にたいして反対意見をびくびくしながら表明する保守的な枢機卿や司教を教皇が馬鹿にすることを普通に受け入れることができないからです。広い道に従うことを私たちが素直に受け入れずに拒否するからです。

父親に見捨てられた子どもの感覚を持っているからです。私たちにパンと魚をくれるべき人から石とサソリを手渡されるのを見る苦痛からです。私たちが司祭を探しても、代わりに灰色の党員がいるだけです。慰めの言葉を求めても、彼らは、私たちを完全に無視するのではない場合には、侮蔑的に対応します。教会がかつてどうであったかに目を向けましょう。私たちの沈黙や、誤った従順の概念のせいで、教会がどうなったのかを甘んじて受け入れたりしないようにしましょう。

しかし、地上の戦闘の教会は天主の国(Civitas Dei)ではありません。なぜなら、時の流れの中に浸されたすべての霊的現実と同じく、善人と悪人という罪の刻印を受けた弱い人々を受け入れているからです。麦と毒麦は永遠においてのみ分けられ、一方は穀倉に集められ、他方は火に投げ込まれるのです。

天主の国(Civitas Dei)をカトリック国家(confessional State)と混同してはなりません。カトリック国家には、善き市民と悪しき市民も、正直者も犯罪者も含まれているのですから。また、地上の教会を悪魔の国(civitas diaboli)と平気で混同しないようにしましょう。私たちは、自分は選ばれた清い者だと考えて、悪魔の国から離れるべきです。もし国家の権威が政府の聖徳のモデルに従って行使されるなら、国家でさえも悪魔の国(civitas diaboli)ではありません。私たちは教会の子であり、聖なるエルザレムの市民であり、御摂理がその国に生まれることをお望みになった国の市民なのです。

では、私たちは、天主の国(Civitas Dei)を認識することができるでしょうか。また、どのようにして悪魔の国(civitas diaboli)を認識することができるでしょうか。

私たちは天主の国(Civitas Dei)を建設しなければならない者です。いやむしろ、私たちは、その天主の国から霊感を受けて、知恵と謙虚さをもって、2世紀にわたる革命によって奪われた、私たちの主のものである王冠と笏を主のもとに戻す社会を再建しなければなりません。政府の形態がどうであれ、市民としてのすべてのカトリック信者の任務は、世俗社会のすべての領域が信仰とキリスト教道徳に貫かれ、共通善、天主の栄光、霊魂の救いに向けられるようにすることです。洗礼を受けた者も同様の義務を負っています。

修道生活のすべての分野(祈り、ミサ、秘跡、カテキズム、慈善活動、子どものキリスト教教育)が流行や〈新奇なものへの欲望〉(rerum novarum cupiditas)を追うのではなく、主が使徒たちに教えられたこと、聖なる教会が数世紀にわたって守ってきたことをそのまま守るようにすることです。新しさの風は、実際、世俗の領域と教会の領域の両方において、革命の特徴的な徴候です。
ですから、キリストが私たちの国の王となられるためには、私たち一人一人が、告白する信仰の一貫した証人となり、特に家庭、子どもの教育、自分の生活を処することに関して、宗教の原則を守ることを実際に裏付けることが、まず必要です。

悪魔の国(civitas diaboli)は簡単に見分けがつきますから、一度認識すれば、勇敢に戦わなければなりません。なぜなら、それは天主の国(Civitas Dei)と戦争状態にあり、私たちを弱め、腐敗させ、屈服させるために、どんな手段もためらわないからです。

世界経済フォーラム、国連、メーソン系のさまざまな慈善財団、そしてそれらを支援する政府や国際組織、さらに中央と周辺のすべての教皇庁の部署に潜入しているベルゴリオの教会などは、悪魔の国(civitas diaboli)が地上で実現したものであり、その市民は、非人間的生活様式を押しつけることによって、キリスト教文明の残滓を消去し破壊する意志、つまり死のイデオロギーを秘密にしていません、社会行動のみならず人々の思考からもあらゆる善の痕跡が消失するようにするのです。

心からキリストを引き離した後、心からキリストを取り除かなければならないのです。そして、心を人工知能と結びつけて、天主の像と似姿が怪物のようにゆがんだ存在を作り出さなければならないのです。そして、よく覚えておいていただきたいのは、二つの〈国〉の間に休戦はあり得ないということです。なぜなら、彼らは私たちの主とサタンのように、不倶戴天の敵であり、今後もそうあり続けるからです。

しかし同時に、私たちが戦っている全面戦争は、キリストが十字架の木の上ですでにサタンを決定的に征服しておられるため、私たちの勝利は避けられない運命にあるのです。私たちを待っているのは、この衝突の最終段階に過ぎず、その結果は、救い主の約束〈地獄の門も勝てぬ〉(portæ inferi non prævalebunt.)に基づいているため、非常に確実なものなのです。

そうすると、皆さんには、目標があります。平信徒である皆さんには、その目標を社会的、政治的な行動に移すという重責と名誉があるのです。それは、天主の国(Civitas Dei)のモデルに従って、また、主が望まれた秩序に合わせて、キリストの社会的王権を促進すること、そして、悪魔の国(civitas diaboli)の最後の巨大な密集軍(phalanx)であるグローバリスト革命と、養成行動、非難、ボイコットの行動によって戦うことです。

なぜなら、もし祈りの助けを借りて、私たちが天主の御稜威(みいつ)に多くの恩寵を懇願できることが事実であるならば、私たちカトリック信者は、企業を選ぶ顧客のおかげで生きている金融グループ、情報管理センター、企業に、明確で強いシグナルを与えることができるほど十分な数を持っていることも事実であるからです。

もし私たちが、私たちの宗教を尊重しないグローバリストの多国籍企業や、体制と連携している企業、テレビ番組、ソーシャルプラットフォームから製品を買わないようにし始めるならば、私たちは、多くの人に、自分の歩みを振り返らざるを得なくさせ、新世界秩序のプロパガンダ、主流派の嘘、ウクライナ危機に関する捏造を困難なものにせざるを得なくさせるのです。

したがって、私たちは、LGBTQイデオロギー、包括性、ジェンダー論、地球温暖化、エネルギー危機、トランスヒューマニズム優生学などの偽りの教義に、公然と反対するのです。そして、私たちは何よりも、悪魔の国(civitas diaboli)の破壊転覆的な行動についての全体像を与えて、個々のイニシアチブが、世界的な計画や、その計画が採用しようとしている手段、その計画が自らに課している口に出せない真の目的と、一貫性を持っていることを示そうと努めているのです。

最後に、このイベントの主催者の方々にご挨拶を申し上げるとともに、皆さんにこのメッセージをお話しする機会を与えてくださったことに感謝いたします。この結成の日に数多くの支持者がおられることは、軍隊の配備がなされつつあること、そして天主を求めて渇いている多くの霊魂が、子どもたちの平和な未来を確かなものとするために、また、この滅びに向かう狂気のレースを止めるために戦い、身を捧げることを実感させてくれます。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
「真理における自由人たち」(Liberi in Veritate)委員会[1]の国民の日に。
2022年11月5日、パラッツォーロ・スーロリオ(イタリア)

[1] https://www.liberiinveritate.it/


人類史のなかで、唯一無二の出来事

2022年12月09日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

人類史、ユニークな歴史
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年12月04日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
親愛なる兄弟の皆さま、待降節は贖罪者と救い主を得さしめ給うた聖母マリアをよく思い起こさせます。今、ちょうど正午になりましたが、伝統に従って、アンジェルス(お告げの祈り)を歌います。昔からのキリスト教の伝統ですが、毎日、夜明け、正午、日没に三回、アンジェルスという祈祷をささげるものです。

アンジェルスの祈りを通じて、聖ガブリエル大天使から童貞聖マリアへの御告げという素晴らしい出来事が思い起こされます。
童貞聖マリアは童貞です。聖マリアは若いうちに終身、童貞のままになることを誓願しました。つまり、心身ともに天主へ奉献することを童貞聖マリアが約束されました。そもそも罪のなかった聖母マリアがさらに、合法的であったにもかかわらず、結婚して肉体上の関係を断念し、また子を産む喜びを童貞聖マリアは断念しました。


聖トマス・アクイナスが解説しているように、童貞聖マリアの貞節の誓願は条件付きの約束でした。なぜなら、当時のイスラエルの女性なら、頼まれたのなら子孫を設けることを受け入れる義務がありました。それはメシアを産むために義務化されていました。また、メシアはもうすぐ生まれるだろうということも知られていたからです。
ですから、童貞聖マリアは貞節を誓願しましたが、天主のみ旨に適っていることを条件にしました。そしてこの天主のみ旨が何らかの形で(適っていないと)知らせたら、この誓願を廃止することは可能でした。

そしてある日、ナザレにいた童貞聖マリアが、聖伝によると15、16歳ごろの娘でしたが、大天使聖ガブリエルが彼女の前に現れます。聖母マリアは大天使を見て非常に驚かれました。ですから、聖母マリアはそれ以前、天使の訪問あるいは超自然の現れなどはなかっただろうということを示します。聖母マリアはその時まで、特に天からの訪問或いは出現はなかったと思われます。でなければ、大天使が自分の前に現れても驚くはずがありません。

そして、聖母マリアが大天使を見て心乱れますが、大天使が「恐れるな、マリア、あなたは天主のみ前に恩寵を得た」と答えます。
これを聞いて、聖母マリアがさらに驚きます。いとも謙遜だった聖母マリアでしたので、このように賛美されてもわからないというか、想像もつかなかったでしょう。

そして、大天使は聖母マリアに、彼女に関する天主のご計画を告げます。つまり、救い主の御母になるようにということを告げます。
童貞聖マリアがなおさらに驚かれます。まず救い主の母なることに値しないと童貞聖マリアが思っていたからです。そして、同時に童貞聖マリアが驚いているからといっても、冷静のままです。よく考慮して引き続き考えています。感情にまけません。

聖母マリアは「私は男を知りませんが、どうしそうなるのですか」と冷静に大天使に聞きました。
童貞聖マリアはヨセフと婚約していましたが、聖伝によると、マリアよりも年配だった聖ヨセフもかなり敬虔であり、貞節の誓願をたてていました。
もしかたら、聖ヨセフも聖マリアも同じ貞節の誓願をたてていたので、お互いにこの誓願を守るために婚約して、このように、貞節を一生守れるというところがあったのでしょう。
繰り返しますが、このような一生の童貞、貞節の誓願で終身童貞になる生活というようなことは、イスラエルではかなりまれで、全然普通なことではありませんでした。どうしてもメシアを産むために子孫を設けなければならないというところがあったからです。

要するに、童貞聖マリアは以上のように大天使にした質問というのは、「私がした貞節の誓願は天主のためのものであるので、天主ご自身のみ旨ではないかぎり、私で決められない」といわんばかりですね。
そして、大天使はどうしてそうなるのかを説明します。「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです」と言います。

言い換えると、童貞聖マリアが生む子は男女の関係から生まれることではないということです。童貞聖マリアが童貞のままとなるのです。
そして、これはまた信条であり、ご存じのように、我らの主のご降誕の前、ご降誕の間とそののち、ずっと童貞のままでした。ですから、いつも童貞なる聖マリアと言います。ずっとずっと聖母マリアが童貞でありました。それは生まれるこの子が真に天主であるという真実、教義を守るために天主によって用意されたかのようです。


「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力の影があなたを覆うのです。ですから、生まれる子は聖なるお方で、天主の子と言われます。」

そして、マリアは「はい」とも「いいえ」とも言わないで、美しいお答えをします。「私は主のはしためです。あなたのみことばのとおりになりますように」と答えます。
聖母マリアは天主のみ旨に自分自身のすべてを任せて捧げます。
聖母マリアの自己意思を完全に捨てて、天主のみ旨に捧げます。

そして、その瞬間、童貞聖マリアのご体内に、子が宿られました。この子は我らの主、我らの救い主です。

待降節に特に思い起こされるご托身の玄義をよく理解しましょう。ご托身の玄義は 童貞聖マリアのご体内に宿られたかたを祝うことです。しかしながら、このかたには人間の父はいません。彼の父は天主であり、聖なる三位一体の第一の位格だからです。
イエズスは天主の御独子なのです。そしてイエズスは聖なる三位一体の第二位格でもあります。
そして、聖なる三位一体の第三位格に当たる聖霊こそが、聖母マリアの体内にイエズスを宿らせました。
ご存じのように、本来ならば、人間なら、子が生まれるために、父からくる部分と母からくる部分の両方が必要です。男女のかかわりによってしか生まれえないのです。

童貞聖マリアの場合、母からくるものは聖母マリアがもたらしたわけですが、それだけではありません。聖霊の御働きによって奇跡が起きましたが、我らの主の御体が全体として成り立つためのすべては聖母マリアから来ています。このように我らの主、イエズス・キリストの御体は完全に聖母マリアから来たということです。この奇跡はご体内の聖霊の御働きのおかげです。
イエズスには人間の父はいません。
神学者たちによると、以上の教義を受けて、聖母マリアとイエズスは身体上に非常に似ていただろうと結論します。驚くほどに似ていたでしょう。

このように、真の人である我らの主、イエズス・キリストは聖母マリアのご体内に、ご降誕まで、人類の自然法に従って、普通の人と全く同じように成長していきます。
しかしながら、ご降誕の時に、御母の童貞を犯さないで生まれたということです。これは御子から御母への特別なプレゼントでした。
そして、ご降誕の後、最後まで童貞のままであって、イエズス以外に子をもうけなかったのです。我らの主がいたら、すでにすべて持っているということになるからです。

親愛なる兄弟の皆さま、以上は我らの信仰における大玄義です。
マリアの「フィアット」とは我らにとって非常に重要で決定的です。すべての神学者らが同意しあいますが、聖母マリアは大天使からの御告げを受け入れる義務はなかったということです。聖母マリアがこれを拒んだのなら、誰がそのほかにそれを受け入れられるでしょうか。ある方が「もう一人の女性が受け入れたのでは」と言われますが、それはありえません。イエズスをご体内に宿れることに値する女性は無原罪の聖母マリア以外、存在しません。


さらにいうと、聖母マリアが罪は全くなかったのに、大天使からの御告げを受け入れる勇気がなかったとすれば、一体だれがその勇気を持てるでしょうか。聖母マリアこそが、ご托身のために最高にも一番相応しいお方でした。無原罪の御宿りは我らにとってどれほど賜物であるかそれで認識できます。

聖母マリアが大天使の御告げを受けいれられるように、我らの名において自由意志をもって自発的に素直に受けいれられるように、聖母マリアが一番相応しい方であり、相応しく創造されました。

ですから、我らは聖母マリアに感謝しましょう。
ご降誕の諸玄義の一つには、三人の博士の訪問がありますが、「こどもが母のマリアと一緒におられることをみた(マテオ、2,11)」とあります。
はい、我々は救われるために、我らの主イエズス・キリストを通じなければなりません。我らの主イエズス・キリストこそが我々を救います。しかしながら、イエズスを見つけるために、御母を通じなければなりません。マリア様を抜きにイエズスにたどり着くことはできません。それは天主のみ旨であり、最初から福音書においてそれは示されています。

ですから、恩恵を受けるたびにご聖体拝領をするたびに、秘蹟にあずかるたびに、マリア様の「フィアット」を思い出して、我々も「フィアット」といって、聖母マリアに感謝しましょう。マリア様は「フィアット」と言わなかったのなら、救い主を我々が得られなかったことになり、大絶望となったでしょう。

ですから、カトリック教会が聖母マリアへの信心を大切にしている理由はわかりやすいでしょう。また、プロテスタントからの聖母に対する異議、すなわち「カトリック信徒らが聖母マリアに対してやりすぎだ」というような文句もカトリック教会が拒んで否認する理由もわかりやすいでしょう。
御母の名誉を讃えることによって、御子の名誉が傷つけられることはありません。逆です。

親愛なる兄弟の皆さま、もうすぐ無原罪の御宿りの祝日がやってきます。
聖母マリアのために皆様、頑張って何かをささげましょう。祈りましょう。犠牲をしましょう。感謝の意を込めて。
ミサにあずかり、行列に参加し、できることをやりましょう。12月8日を大切にして、聖母マリアのほかの大祝日を見逃さないでおきましょう。
童貞聖マリアは聖母の祝日を準備して、頑張っている人々のために、特別に見守って祝福してくれますので、見逃さないようにしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン