ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

お腹の赤ちゃんと妊婦さんを守ろう!【ネット署名始めました】※用紙での署名活動も同時進行中 17130名(2022/3/27時点)

2022年04月13日 | ファチマの聖母の会とは?
CREDIDIMUS CARITATIさんの記事をご紹介します。
【お腹の赤ちゃんと妊婦さんを守ろう!ネット署名を始めました】経口中絶薬は危険な薬です。胎児のいのちを奪います。

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
経口中絶薬は危険な薬です。胎児のいのちを奪います。女性の身心をむしばみます。
ウクライナで民間人や子供たちが殺害されていると大きく報道されています。とても悲しいことです。
しかし日本で罪のない赤ちゃんたちが毎日、堕胎(人口妊娠中絶)で殺害されています。日本人の子供たちへの攻撃はメインストリームの新聞やテレビでは無視されています。

日本の統計によると、2017年に16万4621人の赤ちゃんが、2016年には16万8015人が堕胎で殺害されました。毎日451人から460人が殺害され続けました。つまり、日本の赤ちゃんたちのうちの7人に1人が殺されています。
これは戦争犯罪です。しかし、だれも赤ちゃんたちを助けようとしていません。
だから、私たちは経口中絶薬の承認に反対します。

胎児のいのちを守ってください。

お腹の赤ちゃんと妊婦さんを守ろう!【ネット署名始めました】※用紙での署名活動も同時進行中 17130名(2022/3/27時点)

未来の命・胎児と子どもたちを守るためにご賛同いただける方は、ぜひご署名をお願いいたします。
必ずしもエールは必要ではありません。エール(ご寄付)は任意ですので、ご署名だけ頂くことで全く構いません。

1.経口中絶薬は、危険な薬です。
母体に対する深刻な影響があります。服用後2週間近くの間、強い腹痛と嘔気を伴うケースが多く、膣からの出血が長期間続くこともあります。時に止血手術を要する大量出血や感染症も引き起こします。また胎児や胎盤の排出が不完全で、手術が必要になるケースが数%発生しています。このため、中絶手術よりも、長期間厳重な医療監視下に置かれる必要があり、個人の自己管理下での使用ではさらに危険性が増します。また、投与前には子宮外妊娠、子宮内避妊具使用、副腎障害、ステロイド薬使用、抗凝血剤使用の有無等を、超音波検査も含めて厳重にチェックする必要があり、怠ると死を招く危険すらあります。

2.胎児の生きる権利を奪う薬です。
いのちは“授かりもの”であり、お腹の赤ちゃんも大切な市民です。かけがえのない個性と役割を持つワン&オンリーの存在です。その小さな命の生きる権利を奪ってはなりません

3.今必要なのは、すぐに中絶にアクセスすることではなく、妊婦への相談と支援です。
経口中絶薬は、女性の身心を蝕む薬です。「妊娠SOS相談窓口」の充実と周知、また出産困難な事情の解消と経済的支援を含む援助の提供など、妊娠に悩む女性への相談と支援が優先されるべきです。

4.いのちの始まりを大切にする社会づくりが求められます。
増加する乳幼児虐待の背景には、いのちの始まりを大切にしてこなかった風潮があると指摘されています。その風土で育つ子供たちには、十代中絶の低年齢化等様々な社会問題が起きています。お腹の赤ちゃんと妊婦さんを温かく迎える社会づくりが求められます。

経口中絶薬に反対するプロジェクト

情報拡散のご協力もお願いします。

なかなかの平手打ち|サンタクロースの知られていない奇跡

2022年01月28日 | ファチマの聖母の会とは?
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ(D.Puga)神父様のお説教をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

サンタクロースのモデルと言われている聖ニコラス司教は、多くの奇跡をおこしたことが伝えられています。



プーガ(D.Puga)神父様のお説教  
なかなかの平手打ち
2021年12月6日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、本教会の守護聖人、聖ニコラスを祝うために、大勢集まられて嬉しく思います。また、本教会は大聖人聖ニコラスの守護を仰ぎ、光栄に思います。

リュキアにあるミラの聖ニコラスです。リュキアは当時、小アジアと称して、今のトルコにあたります。聖ニコラスは単なる司教でしたが、司教らしく、自分に与えられた群の世話をつづけました。3-4世紀ごろでした。聖ニコラスは大変に有名になったのは、死後、多くの奇跡を起こしたからです。聖ニコラスの墓に参ると、聖ニコラスの執り成しによって多くの驚く奇跡がありました。

だからといって、この世での聖ニコラスの戦いを忘れてはいけません。なぜなら、聖ニコラスの司教在位の最初のころ、迫害を受けました。古代ローマのディオクレティアヌス帝の大迫害の時代でした。逮捕されて、数年にわたって牢屋にいました。そして、牢屋にいても信徒さんたちの信仰を支え続けました。

そして、司教在位の後半、コンスタンティヌス帝が回心するようになって、迫害が収まりましたが、今度、大変な異端が現れました。アリウス主義でした。異端名はアリウスという司祭に由来していて、アリウスがはじめて提唱した異端です。アリウスはアレクサンドリアの大きな小教区の一人の司祭です。

アリウスは我らの主、イエズス・キリストにすこぶる驚嘆して、善意をもって信仰を守ろうと思っていたはずですが、傲慢になり誤謬に陥りました。なぜ傲慢になったかというと、アリウスは苦行で広く知られて多くの人々が彼の教えを聞きに来たりしていたからです。このせいで、傲慢に陥り、また捨てるべきだった誤った哲学を見捨てることを拒んだ結果、我らの主イエズス・キリストのご神聖を否定するようにいたりました。はい、そうなのです。

なぜなら、アリウスにとって創造と発生とは同じ事柄でした。創造はある時点から始まるものですね。そしてアリウスにとって、発生というのも、時間において始まりを持たなければならないと思い込んだのです。また聖書において、明らかに御子の「発生」があると啓示されています。ですから、アリウスはこう結論しました。意向を踏まえて、合理的にいうと「イエズスは永遠ではない」という結論に至りました。そうなると、イエズスは天主ではないと結論せざるを得なくなってしまいました。そうなると、天主において、御父と御子とがなかった時代もあったと。
これらは重大な異端です。

残念ながらこれらの異端は意外と広く受け入られました。なぜなら、これらの異端を肯定すると、信徒の日常生活を楽にさせるからでした。イエズスが人間だけなら、わかりやすくて、厄介な質問がされなくても済むし、またアリウスは音楽を作成することが上手でしたので、自分の教えを覚えやすい音楽・歌にして、広く流されて一般信徒までおぼえられてしまいました。
そして、アリウス主義の異端は非常な規模まで拡大しました。カトリック教会自身がアリウス主義になったのではないかを思わせるぐらい流布しました。

聖アタナシオスだけは確固たる姿勢を示し、一歩も譲りませんでした。ニケア公会議を遵法しました。アリウス主義の異端が拡大し始めたころ、コンスタンティヌス帝の招集令の下、教皇シルウェステル1世の承認の下、ニケア公会議がはじまりました。アリウスをも誘いました。そこに参列していた300人以上の司教の前で、アリウスが自分の教えを説明させるためでした。325年のことです。第一回の公会議です。

コンスタンティヌス帝の回心はつい最近のことです。要するに、アリウス神父は自分の神学説を弁護するために誘われました。そして、そこに集まる司教たちは話し合って、カトリック信仰に照らして、この神学説の是非を判断する目的を持った公会議でした。
公会議に参列した司教たちの内に、ミラの聖ニコラスもいました。ですから、今晩、ニケア公会議と聖ニコラスについてご紹介します。



ニケア公会議はご存知のように、アリウスの説を断罪しました。
ニケア公会議の間に起ったある場面が記憶に残りました。これはアリウスが自分の説を紹介する時でした。そして、聞いている司教たちからアリウスへ問われました。「そうなると、アリウスにとってイエズスは天主の被創造物であるということですか」と。そしてアリウスは「はい、その通り、イエズスは被創造物です」と答えました。会衆にはざわざわとして、いっぺんに、皆、恐れおののいたかのような空気になりました。なぜなら、これほどの冒涜を平気に言えることはショックでしたし、またアリウスの結論から生じるとんでもない帰結をも予想したからでした。

アリウスの理論を追求させたら、イエズスは天主によって創造された、ある種の偉い、高等天使のような存在で、肉体を問った天使だとします。そしてこのすごい天使は天主の全能を通じて、全宇宙を創造したとされます。そして肉体をとったのですが、天主ではないとアリウスは言います。聖なる三位一体の第二の位格ではないということです。

しかしながら、肉体をとったからといって、アリウスにとってイエズスは本当に人間でもないという立場です。なぜなら、アリウスにとってイエズスの霊魂は人間の霊魂ではなく、霊的なロゴスと称する、いわゆる天主以外の至上の天使の霊魂であるとアリウスが言っているからです。
愛する兄弟の皆さま、以上のアリウス説の帰結はなんですか。キリスト教の全滅を意味します。なぜなら、イエズスが天主ではないのなら、天主は御托身(肉体になりたまう)を実現しなかったことになります。つづいて、イエズスは天主でなければ、十字架上に我々を贖罪し給うたのは天主ではないという意味になります。さらに、イエズス・キリストは本当の人間でなければ、人類を贖罪したのも人間でなくなります。人類の一員が贖罪の玄義を行ったという意味がなくなります。御托身の玄義も、贖罪の玄義も、聖なる三位一体の玄義も否定されます。つまりアリウスの愚論は信仰の基盤を攻撃していました。



ニケア公会議のその場面にもどりましょう。この冒涜を聞いた司教たちは声をあげて反論します。訴えます。
すると、一人の司教は立ち上がって、アリウスの説を聞いて憤ったあまり、アリウスの近くまで来て、アリウスへかなり激しい平手打ちを与えました。この司教は他でもないミラの聖ニコラスでした。

それを見ていた他の司教たちは驚いてちょっと異議を立てます。「アリウスがこれほど冒涜したとしても、これほどの反応までする必要はないだろう。アリウスも司祭なので、司祭職に対する尊厳はどうなるのか。あなたは司教だろう。教会法に照らしても聖職者が殴られるべきではないと定められている」などの批判が高まりました。

この結果、そこにいた全員揃って、その司教に対して罰することを決意します。聖ニコラスの司教服はその場で脱がせられました。また、皇帝に申し付けて、「聖ニコラスを投獄するよう」と要求しました。理由は「教会法を甘くみることを放置するわけにはいかない」というものです。
また当時の東洋では、司教職を象徴していた「Omophorion」という布をも取り上げられました。西洋では「パリウム」とちょっと似ていますが、パリウムと違って、当時の司教なら身につける一般的な司祭服でした。要するに、司教職を示す服でしたね。

可哀そうなミラの聖ニコラスはそのまま、牢屋に投じられました。しかしながら、聖ニコラスの平手打ちは激情に負けてのことではなく、聖なる怒りによってイエズス・キリストに誘導された行為だったのです。
つまり、聖ニコラスは牢屋にいましたが、牢屋に聖母マリアが現れました。聖母マリアは何も言いませんが、聖母マリアの手には司教職を示すOmophorionがありました。そして、そのOmophorionは聖母マリアにより聖ニコラスへ渡されました。

数日が経ちました。投獄の期間は数日間でした。なると、ミラの聖ニコラスは赦免されて、公会議に戻ることが許されます。たしか、公会議に出る時、没収されたはずのOmophorion即ち司教服を身につけていました。それを見た会衆は聖ニコラスが改めて他の司教と一緒に公会議で座れるべきだと認めざるを得なかったです。

愛する兄弟の皆さま、しいて言えば、なかなかの平手打ちでしたね。確かに、我々は異端者を殴るようなことをしてはいけません。我々の戦いは霊的なものだからです。ただし、この平手打ちは正しい憤慨の現れです。
そして、最終的に、ニケア公会議は改めてはっきりと信仰を断言しました。つまり、イエズス・キリストは聖なる三位一体の第二位格であることが示されました。御父と同質であり、永遠であるのです。また、肉体になりたもうた人間です。また、十字架上にて我々を救い給いました。本物の天主からうまれた本物の天主です。

その後、信経を唱えられます。聖ニコラスの信仰を念頭において唱えましょう。この信経はニケア公会議が制定した祈祷です。ですから、ニケア公会議はカトリック教会において非常に重要な役割を果たしました。それにもかかわらず、アリウス主義という異端は広まり、流布しますが、聖アタナシウスや歴代教皇がそれに対して戦いました。
聖ニコラスは天主の良い僕として、自分の教区にて安らかに亡くなりました。

愛する兄弟の皆さま、なぜ以上の話をしたかというと、1975年との関係があります。
本教会、聖ニコラスは現在、聖ピオ十世会の司祭たちがお世話になっています。ご存じのように、聖ピオ十世会はルフェーブル大司教によって創立されて、70年代になって、多くの困難にあいましたね。公会議に続いて、多くの新しい典礼や改革に対して抵抗し始めた大司教でしたので、多くの困難にあいました。公会議などの改革は本来ならば平信徒に影響を及ばないはずでした。

そして、70年代なら、多くの人々はルフェーブル大司教が新しい聖アタナシウスではないかと言われたりしましたが。つまり、新しいアリウス主義に対するカトリック信仰を守る聖アタナシウスだと。時々、聞いたことですが、本当であるかどうかわかりませんが、ラッツィンガー枢機卿(後のベネディクト16世)は「ルフェーブル大司教は20世紀において司教の内でも数少ない一番優れている方です」と言ったそうです。そのように言われたかもしれません。

それはともかく、1975年になって、思い出すのも悲しい教皇パウロ六世はルフェーブル大司教に書簡を書きました。思い出すのも悲しいというのは、いま、聖伝典礼は虐待されて、非常に限られたところでしか捧げられなくなった状態はそもそもパウロ六世のせいだからです。それはともかく、パウロ六世は1975年、ルフェーブル大司教に書簡を送りました。いまでも聖ピオ十世会は保管している書簡です。1975年6月29日の書簡です。こうあります。

「第二ヴァチカン公会議はニケア公会議ほど重要であり、もしかしたら、ニケア公会議より重要であるかもしれない」という教皇の文章があります。問題は第二ヴァチカン公会議が信条に関する断言と誤謬に対する断罪をあらかじめあきらめていました。これは公会議の最初から明らかにされて、司牧活動に限っての公会議だとあらかじめことわっていました。

また第二ヴァチカン公会議は正式に、王たるイエズス・キリストの社会への統治権などを横へうっちゃったのです。このような教義を無視した公会議と教会の宝石なるニケア公会議とをいったいどうやって比較できるでしょうか。今でも毎日曜日に唱える信経を定めたニケア公会議です。第二ヴァチカン公会議と比較できるものですか。第二ヴァチカン公会議は「エキュメニカル」だと自称しましたが、「エキュメニカル」の二重の意味を利用して誤魔化し、公会議は他の宗教との合併を障害するあらゆる要素を斬り捨てようとしました。

愛する兄弟の皆さま、あさっては無原罪の御宿りの御祝日となります(12月8日)。聖母マリアはリベラルの方ではありません。自由主義者ではありません。聖母マリアはよく知っておられました。聖ニコラスはアリウスにたいして平手打ちをした時、罪をおかさなかったのです。ちなみに、アリウスの最期は惨めで酷かったです。

いや、聖ニコラスの平手打ちはイエズス・キリストへの激しい愛、礼拝などの心から生じました。愛される御主が侮辱されて、何もせずにいられませんでした。このような激しい愛をだれよりも理解しておられる方は聖母マリアです。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

[再掲]秋葉悦子氏の論文から

2021年07月03日 | ファチマの聖母の会とは?
とても興味深い論文をご紹介します。

バチカン生命アカデミーのメンバーとして活躍する随一の日本人が、刑法学者の秋葉悦子教授です。秋葉さんは、ヒト胚研究の倫理的側面を論証してきた第一人者で、始まりのいのちが不可侵である真理を説く日本では稀有な存在です。( プロライフ.jpのエデュケーションのWEBページより )


秋葉悦子氏(富山大学経済学部経営法学科教授)
「イタリアとカトリックの生殖補助医療をめぐる倫理問題」
 2010年3月21日

※実際のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵に近いものです。

【引用開始】
これは、ヒト胚をテーマに2006年に開催された生命アカデミーの国際会議のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵です。右側の赤い服を着ているのがマリアです。マリアのおなかの中にはイエスがいます。そして左側にいる女性、エリサベトのおなかの中には洗者ヨハネという預言者がいて、2人が出会ったとき、おなかの中の子が喜び躍った、と聖書には記されています。

この絵を生命アカデミーが使ったのは、生まれる前の子どももコミュニケーションしていること、人と人とのかかわりをしていることを示したかったからだと思います。そして、次のような人格概念を提示します。「個人」だけが孤立してあるのではなくて、人と人とのかかわりが人格にとって不可欠な要素である。その人格的なかかわりは、自意識のレベルに限られません。ヨハネと洗者ヨハネは、母胎内にあって自意識はなかったかもしれないけれども、何かを察知してコミュニケーションしていた。それは、精神的なコミュニケーションなのですが、それを示したかったのだと思います。

生命アカデミーの文書は、この絵について直接解説しているわけではありませんが、先ほど水野先生がおっしゃっていた「胎児と母のコミュニケーション」が生化学のレベルで行われていることを、子細に証明しています。受精卵、胚が子宮に着床する時期はごく短期間に限られていて、子宮はこの期間を過ぎれば胚を受け入れません。この着床期の子宮の受精卵に対する許容状態は窓にたとえられて「着床ウィンドウ」と呼ばれています。このウィンドウが開くのに合わせて、胚も着床できる状態に変化するのだそうです。このように、母と子の間では、生化学レベルで非常に猛烈な対話が交わされています。したがって、着床は、母親が一方的に決めるのではなくて、子どもと子宮との間のクロストークなのです。双方の条件が整わなければ着床は起こらないことが、生物学的に明らかにされています。ヴァチカンは胚が母との間でこのような生化学的なコミュニケーション、物理的な対話が交わされることを証明して、胚が人格であることを示そうとしているのです。
【引用終わり】

全文はこちら

【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その四:ルソーの教育論の問題点【エミール】4

2020年05月31日 | ファチマの聖母の会とは?
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


ルソーは「地理学」ならちょっとでもやるといいといっています。というのも、地理学だと、周りの世界に基づいているからやっても良い学問だといっています。ただ、非常に手軽に限定的にやるべきだと。遊べる近くの川と芝生ぐらいを教えるだけでよい、まあ、ちょっと大げさに言ってみましたが、原文を見るとほとんど大げさに言っているわけでもありません。

というのも、ルソーが問題にしているのは、近くだけの地理学ではないのなら、地球模型を差し出す必要が出てしまい、そしてそれは「人工的な」段ボールの模型だからけしからんというのがルソーのスタンスです。本物の地球ではないから、地理学を習ってはいけないというロジックです。

歴史はダメ。言語学はダメ。死語ならなおさらのことだと言いますが、いつもラテン語で引用しているルソーなのになあ。これは、ルソーの多くの矛盾の一つなのです。

読書なら、一冊しか許されていないと言います。これは『ロビンソン・クルーソー』です。象徴的でしょう。「善き未開人」の再登場です。ここではその良き未開人はエミールですね。
しかし、続いて、エミールは職業を習うべきだと言います。それは、「独立に生計を立てる」ことができるためです。
「わたしはどうしてもエミールに何か職業を学ばせることにしたい。少なくとも何か品のいい職業を(…)えらぶことによう。それにしても、有用性のないところには品もないということをいつも忘れないでおくことにしよう。」

また、いつも同じ繰り返しになります。ルソー論において、「知る」のは有用でなければなりません。そういえば、現代社会では全くその空気です。何かを学ぶときに、「何のために」、「何の役に立てる」とすぐに聞かれるでしょう。例えば、「哲学を学んでいます」、すぐに「何のため?」と。「いや、哲学は何の役に立たない学問だ」。はい、哲学は具体的には何の役にも立たないが、「良く生きるために」役に立ちます。

「何のために?」「何の役立つ?」。近代的な質問です。しいて言えば、他人に奉仕するためとかは論外となっていて、自分の何かの利益がなければやらないといった雰囲気があります。有用性がなければならないということが常識になりつつあります。


現代社会では、役に立たない職業は、好まれていないようです。修道士や一生独身の神父などは何の役に立つでしょうか。具体的に、物質的にいうと、何も役立たないのです。結果、観想系の修道会をつぶそうとする動きが強くなっています。フランシスコ教皇は例えば、近代主義に染まって、観想系の修道会を迫害しています。理由は「社会上、何の役に立たないから」というだけです。

「天主に栄光を捧げる」修道会ですが、それは「役立たない」らしいのです。悲惨なことですが、ルソーらしく有用性を重んじるあまり、とんでもなくなります。
「彼には島にいるロビンソンの役に立ちうるような職業が必要だ。」と言います。


「すべてをよく考えてみると、わたしがいちばん好ましく思う職業で、私の生徒の好みに合っていると思われるのは、指物師の職業だ。それは清潔で、有益で、家の中で仕事をすることができる。それは十分に体をはたらかせ、職人の器用さと工夫を必要とし、用途によって決定される作品の形には、優美さと趣味も排除されてはいない。」

「こうして私たち自身のところに帰ってきた。私たちの子供は、自分という個人を認めて、もう子供ではなくなろうとしている。いま彼は、これまで感じていたよりもずっと痛切に、彼を事物に結び付けている必然を感じている。(12歳から14歳まで)まず彼の体と感官を訓練したあとで、わたしたちは彼の精神と判断力を訓練した。」

なんてね。「精神と判断力」の訓練なんて、何も習っていないのに。それでも、判断力と精神があるようになったとされています。歴史も、言語も、何も習っていないのに、知性は訓練されているみたいです。
「そして彼の手足を用いることを彼の能力を用いることにむすびつけていた。」
これは教育の第二段階と第三段階の関係です。第二段階は体の教育でした。第三段階は精神と判断力だと言います。
「彼を行動し思考する存在につくりあげた。」
つまり、15歳になる前、行動していたかもしれないが何も思考していなかったという意味ですね。ルソーの理想教育です。

「人間として完成させるには、人を愛する感じやすい存在にすること、つまり感情によって理性を完成することだけが残されている。」
要するに、「14歳になる前に、理性などはなかったかのように、まともな感情がなかったかのように」ルソーがいわんばかりです。あり得ないでしょう。
「人間は知れば知るほど誤りをおかすことになるのだから、誤りを避けるただ一つの方法は何も知らないでいることだ。」
これは、最後の方にある引用です。

第三編の最後の部分には、ルソーが若きエミールを描写しています。
「エミールは純粋に物体的な自然についての知識しかもたない。彼は歴史という名詞さえ知らないし、形而上学とか倫理学とかいうものがどういうものがどういうものかも知らない。」
つまり、15歳にもなって、また道徳などは何も知らないということです。
「事物に対する人間の基本的な関係は知っているが、人間対人間の倫理的な関係については何も知らない。」
しいて言えば、エミールは「自然(状態)の人」だということです。

「観念を一般化することはほとんどできないし、抽象化することもほとんどできない。」

ルソーは明白に明かしますね。エミールはほとんど何も知らないって。つまり、エミールはまさに「幸せな馬鹿」です。
「ある種の物体に共通の性質はわかっているが、その性質自体について考えることはしない。」
ちょっと飛ばします。
「エミールはよく働き、節制を守り、忍耐心に富み、健気で、勇気にみちている。けっして燃え上がることのない彼の想像力は、危険を大きくして見せるようなことはない。」

ちょっと飛ばしていたところですが、ルソーはエミールに「一人で闇に行かせたりして」とかありますよ。なんかコツみたいな、完全に無知でありながら、無知ではないかのようにね。まあ。
「死ということについては、それはどういうことかまだよく知らない。」15歳なのに、滑稽ですな。

「しかし、(自然状態に生きているから)反抗せずに必然の掟をうけいれることになれているから、死ななければならないときには、うめき声をあげたり、悶えたりすることもなく、死んでいくだろう。」どうでしょう。
「それがすべての人に恐れられているこの瞬間において自然が許していることのすべてだ。自由に死、人間的なものにあまり執着しないこと、それが死ぬことを学ぶ一番いい方法だ。」

「一言でいえば、エミールは彼自身に関係のある徳はすべてもっている。」

自明でしょう。「彼自身に関係のある」と。いつもこういった個人主義です。
「社会的な徳ももつためには、そういう徳を必要としている関係を知ることだけが残されている。」

それでは、第四編になります。今日は第四編に深く入らないことにしています。なぜかというと、まず第四編は15歳から20歳までですから、成長上の非常に大事な時期です。ルソーは「青春時代」だといっています。で、ルソー論において、その15歳から20歳まで、「人生の物事を教える」ほかに、「心と感情を持つように」教えると言います。

第四編の最初あたり、次の描写があります。
「ところが、私のエミールを見るがいい。私が彼を導いてきた時期には、彼は感じたこともなければ、嘘をついたこともない。」

なんて素直な教育者でしょう。

「彼は、愛することはどういうことか知らないうちに、だれかに「わたしはあなたを本当に愛します」といったことはない。」

つまり、15歳になっても、感情などはまだないという。不思議でしょう。まあ、エミールは孤児だから、愛している親もない当然か。まあ、ルソーの教育を施すために、生徒を厳格に選ばないとできないのですね。

「父親の部屋、母親の部屋、あるいは病気で寝ている教師の部屋にはいるときにはこういうふうにしなさい、などと彼は言いつけられたことはない。感じてもいない悲しみをよそおう技巧を教えられていないからだ。」

感情はないということです。悲しみでさえ感じていないエミール。
「誰が死んでも、それ涙を流したことはない。死ぬとはどういうことか知らないからだ。」

エミールには感情が一切ないのです。なんて理想的な!
「心情が無関心なら、態度も同じように無関心だ。ほかの子供もすべてそうであるように、自分のことのほかには一切関心を持たない彼は、誰にも興味を感じない。」
つまり、ルソーの教育によって、頑固なる「わがまま」を作ったのです。ただ、ルソーに言わせると、その「エゴイストの者」は一応道徳的に振る舞うといっています。15歳ですよ。しかも、何も知識がありません。無知です。

それでも、エミールには15歳から「愛することを教える」ことになると。それでは、ルソー教育論の最後の段階ですが、愛の仕方を教えるということで、他人との関係の持ち方を教えることとされています。

しかしながら、第四編において、エミールは他人と触れ合うことは一度もないのです。第五編になっていよいよ少女ソフィーと出会うことになりますが、いきなり登場する者です。そして、そのソフィーには何の養成・教養・教育はないと。「女性のゆえに当然だ」とルソーがしています。「母になる最低限の知識でよい」としています。
そして、いきなり、ルソーはエミールとソフィーと結婚させます。理由は?ありません。決まったことですから、と。


第四編において、もう一つ指摘しましょう。エミールはいよいよ歴史を習うことになります。15歳になってから。しかしながら、歴史といっても限られた歴史ですよ。ちょっと引用を探してみます。配布していないかと思います。

「青年にとって一番悪い歴史家は判断を下している歴史家だ。」(中・64頁)
繰り返します。「青年にとって一番悪い歴史家は判断を下している歴史家だ。事実を!事実を!そして生徒自身に判断させるのだ。」

つまり、ルソーにとって良い歴史家は、事実だけを取り上げて、判断を下すことは一度もないということです。で、プルタルコスはいいとルソーが判断しますから、エミールはプルタルコスを読むことになります。
また、一応、個人の人生についての本を読んでも良いと。まあ、もちろん、聖人の人生ではないのですが、一般人の人生ならいいと。  ・・・続く

【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その四:ルソーの教育論の問題点【エミール】3

2020年05月31日 | ファチマの聖母の会とは?
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


第二編に移りましょう。文章は長いです。
ルソーに言わせれば、第二編は人生の第二段階についてです。二歳から十二歳まです。
第二編では、生徒の代わりに少年です。もう泣かない、もう叫ばない、喋り始めるとされています。ルソーにとって、二歳から十二歳までの教育は感覚の教育だけなのです。

禁止することなどは一切ないとします。それは非常に大事な点です。先ほどの引用をもう一度読み上げます。
「子どもは、ただ事物にだけ抵抗をみいだし、けっして人々の意志に抵抗をみいだすことがなければ、反抗的にも怒りやすくもならず、いっそう健康に身を保つことになる。」

ルソーに言わせれば、子どもの意志に抵抗すれば、教育者の抵抗にぶつかるから生徒が反逆者になるか(そして、ルソーはそれを避けたいといっていますが)、あるいは、教育者に確かに従うのですが、奴隷になってしまうということで、自由でなくなると言います。ルソーに言わせれば、子どもには命令をしてはいけないのです。子供の気まぐれだけが許されます。

子どもは成長に連れて少しずつ自分自身の力を認識するようになって、少しずつ他人に頼らなくなってもよいようになっていくとします。子どもは自分の力だけですべてをやるべきだと。

次の引用です。
「さらにもう一つの進歩が子どもにとって泣くことをそれほど必要にしなくなる。それは力がついてくることだ。自分ひとりで多くのことができるようになると、子どもはいままでのように他人のつけを求める必要がなくなる、力とともにそれを正しく用いることを可能にする知識も発達する。」

「第二の段階において、正確にいって個人の生活がはじまる。ここで人は自分自身を意識することになる。記憶があらゆる瞬間における自分の存在の同一性という感情を拡大する。彼は本当に一個の同一の人間となり、したがってすでに幸福あるいは不幸の感情を持つことができる。ですから、これからは彼を一個の精神的存在と考える必要がある。」

「自然が彼らに与えている短い時を奪い去って、後で悔やむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。」

ルソーの教育論では、「楽しませる」「充実させる」ことだけが教育の目的とします。
「人生を味わうこともなく死んでいくことにならないように」と。

人生の第二段階になって、生徒にルソーが初めて教えます。しかし習うすべてのことは生徒が自然において見出さなければならないとします。
時間の問題で、多くの引用を割愛せざるを得ませんが、すでに申し上げたように、生徒は自分の力で真理を見出すべきだと言っています。やらせっぱなしにすべきだと。

配布した引用の内、第二編の最後の二つの引用です。後ろから二つ目です。
「そうだ、自然はあらゆる種類の印象を受け取れるような柔軟性をこどもの頭脳にあたえているが、それは、陰気で不毛な少年時代を悩ましている、国王たちの名前や日付けや、紋章学、天球、地理などの術語、要するに子どもにとって何の意味もないことば、あらゆる年齢の人にとって何の役にもたたないことばを覚えこませるためではない。」

要するに、12歳まで、学問を一切教えてはならないとルソーは言うのです。一切です。歴史も地理も教えません。知的な学問は一切ダメだと言います。用語も読書もダメです。でも、読み書きは習わなければならないだろうといわれるかもしれません。ルソーはこう答えます。招待状が届いたら、その時、読み方を教えたらよいと。かなり理想主義ですね。

それから、道徳をも一切教えてはならないと言います。ルソーは生徒と家庭教師の間に会話を設けてみます。
家庭教師は「そういうことをしてはいけない」といってしまう場面です。つまり、道徳を教えようとします。
子ども、「なぜ、こういうことをしてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
子ども 「悪いこと。どういうことが悪いことなのですか。」
先生 「止められていることです。」
子ども 「止められていることをすると、どんな悪いことがあるのですか。」
先生 「あなたはいうことをきかなかったために罰を受ける。」
子ども 「ぼくは人にわからないようにそうします。」
先生 「誰かがあなたを見張っているでしょう。」
子ども 「ぼくはかくれているでしょう。」
先生 「あなたはたずねられるでしょう。」
子ども 「ぼくはうそをつきます。」
先生 「うそをついてはいけない。」
子ども 「なぜうそをついてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」

そして繰り返しになりますから、道徳を教えることはどうにもならないと言いたいのです。悪循環だと。ですから、道徳を教えてはいけないと。子どもは生まれながら自然に良いから、道徳はいらないと。
ルソーが言うとおりに子どもを教育していったら、どうなるか試したい人いますか?(笑)

次は、寓話についての話があります。
ルソーはラ・フォンテーヌの一つの寓話 を取り上げて、もてあそびます。
「烏と狐 « 烏先生、とまっていた、木の枝に、 » 先生、この言葉はそれ自体何を意味するんですか。固有名詞の前にある時はどういう意味になるんですか。烏とは何ですか。」

続いて、ルソーがコメントします。
「「とまっていた木の枝に」とは何か。わたしたちは「とまっていた木の枝に」とは言わない。「木の枝にとまっていた」と言う。だから、詩における倒置法と言わなければならない。散文とはどういうものか、詩とはどういうものか、ということを述べなければならない。」
それは子どもにとって難しすぎるといっています。

「 « チーズを一つ口にくわえて。 »
どんなチーズだったのか?スイスのチーズ、それともイギリスの?それともオランダの?子どもがまだ烏を見たことがなかったら、その話をしたところで何になるだろう。すでに見たことがあるなら、烏が口にチーズをくわえるというようなことを、どう考えるだろう。いつも自然のままの姿を描くことにしよう。」

ルソーはこのように寓話の一句一句について述べていきます。
「 « 狐先生、匂いにいざなわれ »
また、先生。しかしこれは狐にふさわしい呼びかけだ。狐はその道にかけてはすぐれた腕を持つりっぱな先生だから。狐とはどういうものかを話し、そのほんとうの性質と、寓話で与えられている性格とを区別しなければならない。

「いざなわれ」このことばは日常もちいられない。その意味を説明しなければならない。こんにちではこのことばは詩においてだけ用いられることを話さなければならない。子どもは、なぜ詩では散文とはちがった話しかたするのか、とたずねるだろう。あなた方は何と答えるつもりか。
「チーズの匂いにいざなわれ」云々」
寓話の一句一句、最後までルソーはやります。

「「嘘は申しません」では、ときどき嘘をついているのか。狐は嘘をついているからこそ「嘘は申しません」と言っているのだ、と教えたとしたら、子どもはどういうことになるだろう。」
つまり、ルソーが「嘘をつくのを子供に教えることになるぞ」と言わんばかりです。「嘘は申しません」と言われたら、嘘のことを教えざるをえないと言いますね。

また、
「フェニックスとは何か。ここでわたしたちはとつぜんでたらめな古代世界に投げ込まれる。神話の世界に、と言ってもいい。」
このようにのびのびとルソーがすべてを馬鹿にしています。
結論、寓話を教えてはならないと。寓話は無用だと。

結局、ルソーの教育様式は子どもを生意気なもの、気まぐれ者にするということです。
「それではどういうことになるか。第一に、あなたがたは、子どもにわかりもしない義務を押し付けることによって、あなたがたの圧政に対して不愉快な思いをさせ、あなたがたを愛さなくなるようにしているのだ。褒美をせしめるために、あるいは罰を免れるために、ごまかしたり、嘘をついたりすることを教えることになるのだ。」

以上の引用において、ルソーは固く道徳を教えてはならないと断言します。もう一つの引用があり、そのあとに出てきますが、そこでルソーはこう言っています。子どもには義務を教えてはならないが、権利を教えるべきだと。もう明らかです。子どもには義務・禁止などといったものはいらないということです。

以上の引用の続きです。
「法律というものは、良心にとっては義務的なものだが、大人に対してやはり拘束を加えている、とあなたがたは言うかもしれない。そのとおりだ。しかし、そういう大人は教育によって損なわれた子どもにほかならないのではないか。それこそまさに防止しなければならないことだ。子どもに対しては力を、大人に対しては道理を用いるがいい。それが自然の秩序だ。賢者は法律を必要としない。」

次の引用は先ほど申し上げた話です。
「わたしたちの第一の義務は私たちに対する義務だ。私たちの原始的な感情は私たち自身に集中する。私たちの自然の動きはすべて、まず自己保存と自分の快適な生活に結び付く。そこで最初の正義感は、私たちがなすべき正義からではなく、私たちに対してなされるべき正義から生まれる。ですから、子どもにまず彼らの義務について語り、彼らの権利について語らず、必要なこととは正反対のこと、子どもが理解できないこと、そして彼らが関心をもつことができないことを最初に話すというのも、一般に行われている教育の矛盾の一つだ。」

御覧の通りに明らかに書かれています。いわゆる、現代、出てくる「児童の権利」はルソーの教育論の結果にすぎません。ルソーは子どもに所有権という感覚を教えるために、子どもに小さい庭を栽培することを勧めます。
第二編の残りを飛ばしまして、その最後だけを取り上げましょう。第二編の結果、エミールはどうなっているかをルソーが描写してくれるので、参考になります。

要約すると、二歳から十二歳まで、エミールは何も習っていないということです。自然をみたりして、自然を見出そうとしたのですが、学問も習いことも何もしていないままです。

「彼の姿、様子、身のこなしは、自信と満足感を示している。彼の顔は健康に輝いている。しっかりした足取りは力強い感じを感じさせる。なま白くはないがまだ繊細な顔色には柔弱な女々しい面影は全然みられない(それはどうやってあり得るかはルソーはいっていませんが)。すでに、大気と太陽はそこに男子の尊敬すべきしるしを与えている。まだ丸味のある筋肉はつくられつつある容貌のいくつかの線を示し始めている。まだ感情の火を燃え立たたせていない両眼は、」

これは面白いです。子どもを自然のままにしているのは、子どもには感情が湧かないようにするためだとルソーが明らかに言っています。なんて現実から離れた理想主義でしょう。
「少なくとも生まれながらの清朗さをそのままにたもち、長い悲しみに暗くされたこともなく、涙がとめどなく頬をつたって流れたことはない。」

つまり、二歳から、いつも自然のままに教育されたから、泣いたことがなかったと言います。
「その年齢の活発さを、何ものにもとらわれない健気さを、多くの訓練によって獲得された経験を見るがいい。彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」なんてね。きれいな言葉ではないのでしょうか。

「彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」。さすがに。どうせ、エミールは何一つ知らないし、わかっていないままですから、打ち解けてもいいかもしれません。

「しかし傲慢でも生意気でもない態度を示している。書物のうちにかがみこんでいるようなことをさせられたことのない顔は下ばかりむいてはいない。彼には「顔を上げなさい」という必要はない。恥らいや恐れを感じて面を伏せるようなことは全然なかったのだ。」

「みなさん、この子をためしてごらんなさい。安心して何かきいてごらんなさい。この子は、人をうるさがらせたり、おしゃべりをしたり、ぶしつけなことをきいたりする恐れはありません。」

以上はエミールの描写でした。ルソーはまだ続けます。
「彼は、子どもとしての成熟期に達している。彼は子どもとしての生活を生きてきた。彼は、その完成を自分の幸福を犠牲にして手に入れたのではない。そうではなく、二つのものはたがいに協力し合っていたのだ。」

「すくなくとも彼はその子どもの時代を楽しんだのだ。わたしたちは自然が彼に与えたものを何一つ失わせたようなことはしなかったのだ、と。」

そこで、こう言ったような教育は一般に「消極的な教育」だといわれています。これはなぜでしょうか。子どもに何も教えてあげないから消極的だと言われています。その教育では、子どもが悪くならないようにするにとどまるのです。これだけですね。ルソーは以上のように教育を見ています。

ルソーの教育論では、子どもには善徳・美徳を教えることも、真理を教えることもまずありません。つまり、何ものを与えず、何も糧をあげず、子供を空っぽのままにしておく教育です。いわゆる、すくなくとも「悪」をもあたえないので、何も教えないことによって、悪をも教えないで済むというルソーの考え方です。

『エミール』の中心はこれです。子どもには誤謬をも自尊心をももたらさないことにとどまる教育が理想だとします。そうすると、子どもは傲慢に生意気にならないと。まさに子どもは空っぽにするのが彼の教育論の理想です。

中身がないままです。それは考えてみると矛盾というか、少なくとも逆説です。子どもには誤謬というか、悪徳をもたらさないために、真理も善徳も教えないという変わったロジックですから。つまり、ルソーに言わせれば、暗に誤謬と悪徳は「真理と善徳から生まれる」と言わんばかりですから。こういったことを暗に前提にしているのです。ですから、「空っぽな子どもにしておこう」という結果になってしまいます。

周知のとおり、皆様は経験しているかと思いますが、12歳の子供がいれば、もしかしたら善良さが多少あるかもしれないが、悪徳も確実にあるに決まっています。その意味で、ルソーは本当に信じられない夢想の内に生きているかのようです。つまり、12歳まで悪徳に触れないことがあり得るという空想を抱いているのです。ルソーはこのようなことを信じているので「寓話を教えてはいけない」と結論付けるのです。寓話を教えると、悪徳を教えるからというロジック。

「エミールは嘘をついたことはないから、生意気な態度を示したことはいちどもない」などと、あり得ないことを平気で言っているわけです。家庭教師と二人きりの設定ですから、まあそういった夢の中にあり得るかもしれませんが。家庭教師に対して、一度も生意気になったことはないなんて。ルソーのロジックでは、どうせ家庭教師はエミールに一度も求めたことはないから、生意気になる機会もなかったというロジックです。いい子ですね。

第三編に移りたいと思っております。幼児期から青年期にかけて。12歳から14歳までです。いよいよ、「積極的な教育」という段階に入ることになります。

子どもとしての人生をたっぷり楽しめて、何も知らないままの子供として楽しめた状態です。そのときまで、走ったり、泳いだりして、要は体を動かすようなものばっかりで、知性に頼ることを一つもしなかった状態です。つまり、子どもは「完全にうれしい状態」だと言います。現実の子供を知る人々は笑うかもしれませんが、12歳の子供はルソーにとって一度も質問をしたことはない、何も知りたくなったこともないとしています。ルソーにとって、それは普通みたいです。

12歳から14歳まで、突然、子どもの知性を埋めることになります。
そういった状態で、ルソーは第三編の最初から、次のように言っています。ちなみに、ルソーにとって、12歳から14歳までは、まだ青年期になっていないようです。子どもの時代の終わりだと言います。もしかしたら、14歳のルソーはこのようにまだかなり未成熟のままだったかはわかりませんが。でも、どうみても、こういった年齢だと、青年期に入っているというのは間違いないことです。

「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。」
この文章は非常に大事です。つまり、存在することを習うのではなく、有用なものだけを習うがいいと。最初からルソーはそう書いています。第三編の文頭の部分です。
それは何を意味するでしょうか。つまり「純理的」あるいは「思索的」な学問を絶対に教えてはならないということです。

実用的な学問だけでよい、理論的な授業、あるいは教科書的な授業、いわゆるえらい教師からの一方的な「講義」はけしからんと。いや、そうではなく、経験を通じてだけ習うのがよいと。しいて言えば、経験主義だけが教育方法としてよいと。このように教育の理想を見ています。しかしながら、ルソーはなぜそう言っているでしょうか。

彼の思考様式でいうと、講義など、単純に真理を教える教育をするとき、子どもに真理を押し付けると見ているからです。彼にとってそれは自由に反することだからです。従って、そうならないように子どもは経験を通じて、経験を積むことによってだけ、自分の力で真理を発見するがいいと。その教育方式では、教師は子どもを導くにとどまります。これがルソーにとっての教育者の理想像です。

「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。この少数のもののなかから、ここではさらに、それを理解するには、もうすっかりできあがった悟性を必要とする真理を除かなければならない。(…)無知はけっして悪を生み出さなかった」と言います。さすがに。

「誤謬だけが有害であること」つまり、ルソーにとっては、無知はけっして悪ではないから善だ、という思考様式です。
「無知はけっして悪を生み出さなかったこと、誤謬だけが有害であることを忘れずに、絶えず心に留めておくがいい。(…)まず、具体的な物質から教えるがいい。これこそは子どもの注意を自然に引くものだからである。 」

そういえば、具体的なこと、あるいは物質なことを勉強するために、12歳になるのを待つなんて、考えてみるとなかなかふざけていることですが。
「精神の最初のはたらきにおいては、感覚が常に精神の案内者となるようにしなければならない。」
ここでは、まさに、経験主義を定義するかのようです。
「世界のほかにはどんな書物も、事実のほかにはどんな授業もあたえてはならない。」
ちなみに、ルソーの場合、子どものとき、読んでばかりいましたが。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」

なんか、読者に対して意外と意地悪いですね。不思議なことに、ルソー自身は子どものとき、多くの本を読んでいたのに。しかも、読書して気に入っていたようだし、自分の父は積極的に本をルソーに勧めていたし。それなの、でも、ここでは「本はダメだ」と言っています。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」

要するに、本はダメだということで、唯一に許される「本」は「周りの世界のみ」だといっています。つまり大自然です。ですから次にどうすればよいかというと、ルソーは、「あなたがたの生徒の注意を自然現象に向けさせるがいい。やがて彼は好奇心をもつようになるだろう。しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」

要するに、生徒の好奇心を刺激すべきだと言います。そして、そうするには、どうすればよいかというと、生徒に質問を聞くことによって好奇心を刺激すると。

先ほど読み上げたとおり「しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」と。
したがって、生徒には好奇心が湧かせるのがいいことだとされていますが、それに対して、教育者はその好奇心に応じないということになっています。つまり、教育者は生徒の好奇心を満たすためにいるのではないと言うのです。

次の段落も大事です。
「彼の能力にふさわしいいろいろな問題を出して、それを自分で解かせるがいい。」

子どもは自分の力で真理を見出すという発想ですね。要するに、ルソーの教育論では「教える」ことはありません。「教育する」ことはそもそもありません。ルソー論において、エミール自身が自分の主です。その「教育者」はあくまでも「案内者」というか、導く者にすぎないで、「教師」でも、「先生」でも、「師匠」でもありません。子どもは自分の力で真理を習うということになっています。そこで、教育者は「案内」するだけです。

「何ごとも、あなたが教えたからではなく、自分で理解したからこそ知っている、というふうにしなければならない。」
明白に書いていますね。
つまり、普遍的な真理ではなく、子ども版の、子どもの主体だけの「真理」であるべきだと言います。
「彼は学問を学び取るのではなく、それを作り出さなければならない。」
ここの「作り出す」という言葉は「発明する」という意味です。

「彼の頭の中に理性の代わりに権威を置くようなことをすれば、彼はもはや理性を働かせなくなるだろう。もはやほかの人々に翻弄されるだけだろう。」
ルソー論における「教育者」には権威がありません。そもそも何も「押し付けてはいけない」と言います。子どもは自分で見い出す、と。ルソー論において、まさに「子どもは王様」主義です。

続いて、
「それにもかかわらず、たしかに、すこし彼を指導してやる必要があるだろう。しかし、ごくすこし、それとわからない程度にだ。彼がまちがったことをしても、そのままにしておき、誤りを訂正してやるようなことはせず、何にも言わずに、自分で誤りがわかり、それを自分で訂正するまで待っていることだ。」

考えてみると、ひどいことです。最近の「エキュメニズム」というのは、この教育論の遠い応用ですが、同類のことです。要するに、「相手は誤っているのだ。しかしそれには構わないで、待つだけでよい。彼が自分で気づけることを待てばよい。真理を示してはいけない」という感じです。

「あるいは、せいぜい、適当な機会に、何らかの手段を用いて誤りを気付かせるがいい。」
要するに、ルソー論だと、絶対に真理を示し説得してはいけない、相手の知性を納得させようともしてはいけないということです。

「決して誤りを犯すことがなければ、それほどよく学ぶことにはならないだろう。」また、
「彼の方から質問してきたら、好奇心を十分に満たしてやるのではなく、それを(好奇心を)はぐくむのに必要な程度の返事をしたらいい。」
いつも同じ思考様式です。繰り返しますが「子どもは自分の主だ」がルソー論の中心にあります。
・・・続く

【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その四:ルソーの教育論の問題点【エミール】2

2020年05月31日 | ファチマの聖母の会とは?
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


また、ルソーは特に生徒の自律について強調しています。
「自然人は自分がすべてである。彼は単位となる数であり、絶対的な整数である」
ですから、御覧の通り、人間は社会の一部ではないということです。人は自律した全体であり、絶対的な単位だと。絶対的ですよ。
「自分に対して、あるいは自分と同等のものに対して(他人を一応認めますね)関係を持つだけである。」
「社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。この価値は社会という全体との関係において決まる。」

ですから、ルソーにとって、社会に入ると人間は自分の本性が否定されると言います。なぜかというと、全体として自分がなくなるから、社会は反自然(本性に反する)からだと。
「立派な社会制度とは、人間をこの上なく不自然なものにして、」 明記していますね。「絶対的存在を奪いさって、相対的な存在をあたえ、」ルソーにとってこれこそは人を腐敗させます。
「「自我」を共通の統一体の中に移すような制度である。そこでは、個人の一人一人は自分を一個の人間とは考えず、その統一体の一部分だと考え、何ごとも全体においてしか考えない。」

要するに、社会は人間を反自然な存在にし、「自分において自分自身であるという絶対的な存在かつ全体」としての性格を奪うので、社会は人々を堕落させると。これは、ある種の実存主義の始まりだとみてもよいでしょう。以上は人間の自律についての部分でもあります。

次の引用の最後の部分に移します。
「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」 繰り返します。「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」「生きることは、それは呼吸することではない。活動することだ。私たちの器官、感官、能力を、私たちに存在感を与える体のあらゆる部分を用いることだ。」

ルソー論だと、いつも「自分」が中心です。
「もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最も良く人生を体験した人だ。」

体験とかは、まさに、「自分中心」主義ですね。純粋な個人主義だといえます。現代風にいうと、「生きるとは、充実していることだ」といったような感じですね。「彼は好きなことをやったらそれでよい」といった発想です。「多くの体験をして、やりたいことをする人生を送るのが良いことだ、それが生きていることなのだ」といった感じです。
「百歳の葬られる人が、生まれてすぐ死んだのと同じようこともある。そんな人は、若いうちに墓場に行った方がましだったのだ。せめてその時まで生きることができたならばのはなしだが。」

ルソーの教育論の目的です。「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」
要するに、人間の目的は「自分自身」であり、「自分自身」に従っての人間だと言います。

続いて、ルソーはいくつかの「偏見」を非難します。
「私たちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。私たちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない。社会人は奴隷状態の内に生まれ、生き、死んでいく。」

また出てきましたね。以前にもみたとおり、ルソー主義の中心となる概念がまた出てきます。「自由」です。自分のために人間が生きなければならないのは「完全に自由になる」ためです。自分が自分自身の主である、これがルソーの目的であり、自律するのは絶対的な目的だとするのがルソーのスタンスです。従って、ここに、実存主義の始まりが潜んでいます。というのも、近代的な実存主義でいうと、つまり、サルトルから流行ってきた実存主義だと、「人は自分自身を自分の力で形成していく」とされています。

「自分自身はなんであるかを自分自身で決める」が実存主義だからです。つまり人は実存するのだから、活動していることによって存在理由を持つ、やりたいことをやって存在理由を持つと説明します。シモーヌ・ド・ボヴォワール(Simone de Beauvoir)は「生まれながら女性ではなく、女性になる」といった有名な発言は象徴的です。現代においてまさにそういった空気ですね。

それはともかく、これは何を意味しているでしょうか。「個人が全体であるから、自分自身の望み通り、やりたい放題で自分自身を形成する力がある」ということの断言です。ですから、「自分自身の形成」あるいは、現代風にいうと「自己実現」の裏に、自由という前提があります。限りのない自由がなければ「自分自身やりたい放題に実現できない」からです。

自由というのはやはりルソーの思想の根本的な中心なる理想です。ルソーは続いて、奴隷について次のように語ります。
「生まれると産衣にくるまれる。」生まれたばかりなのに、もう奴隷になると言います。
「死ぬと棺桶にいれられる。」まあ、これも奴隷の一種かなあ。今、死んだルソーはそれについてどう感じているかは知りたいぐらいですね。
「人間の形をしている間は、社会制度に縛られている。」

それから、かなり時間がかかりましたが、いよいよ出てきますよ。文章はのびのびしていますが。次の引用になる前に、母の役割についてちょっと触れます。母の役割に関しては、常識的なことを口では言います。また、父の役割についてもちょっと触れます。ルソーが「子供には父と母が必要だ」といっているから、それだけは常識的だと認めざるを得ません。

しかしながら、ルソーの文章の流れにおいて以上の意見は逆説です。ルソーの文章にはいったん、直感的に常識的なことを言っていることはもちろんあります。しかしながら、次に、同時に逆なことを遺憾なく述べていきます。「母と父が子供に必要だ」といっているのに、次はその教育論において母と父は完全に否定されていて、取り消されています。というのも、エミールを教育するのは家庭教師しかいないのですから。父と母の存在はどこにもありません。さすがにルソーです。優しい夢想家のルソーです。

「そこでわたしは、一人に架空の生徒を自分に与え」ここではルソー自身が言っていますね。「わたしは」です。
「そこでわたしは、一人に架空の生徒を自分に与え、その教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康状態、知識、そしてあらゆる才能を自分がもっているものと仮定し、その生徒を、生まれた時から、一人前の人間になって自分自身のほかに指導する者を必要としなくなるまで導いていくことにした。」

面白いでしょう。社会は一切子供を導くことはない、法は一切子供を導くことはないと。象徴的でしょう。
「この方法は自分の力を危ぶんでいる著者が幻想に迷いこむのをふせぐのに有効だと思われる。ふつうの方法から離れることになったら、生徒に自分の方法を試してみればいいことになるので、子供の進歩と人間の心の自然の歩みに従っているかどうか、彼にはすぐにわかってくる、あるいは、彼のかわりに読者にわかってくることになるからだ。」

要するに、ここで、架空の生徒を作ります。「エミール」と名付けます。また家庭教師を与えます。家庭教師から見ましょう。次の引用です。
「ただ注意しておきたいのは、一般の意見に反して、子どもの教師は若くなければならない」
教育者として「さすが」な意見でしょう。
「賢明な人であれば、できるだけ若い方がいい、ということだ。できれば教師自身が子どもであれば」

御覧の通り、現実を知らない小説にすぎませんね。
「生徒の友だちになって一緒に遊びながら信頼を売ることができれば、と思う。子どもと成熟した人間とのあいだにはあまり共通なものがないし、そんなに年齢の差があっては十分にかたい結びつきは決してできあがらない。子どもはときに老人に媚びることもあるが、決して老人を愛することはない。」

また次に出てきます。
「それに、この学問の先生は教師ではなく、むしろ師傅(しふ)と呼びたい。教えることよりも導くことが問題だからだ。彼は教訓を与えるべきではなく、それを見出させるべきだ。」【師傅(しふ)とは、貴人の子弟を養育し教え導く役の人、もりやくのこと】

先ほど申し上げましたね。教えるのではなく、導くだけだと。真理を教えるのではなく、子どもが自分なりの真理を見出せるということです。
「彼は教訓を与えるべきではなく、それを見出させるべきだ。」

どちらかというと、子ども自身が自分の教育をするようにすべきだとルソーは言っています。それは、矛盾しています。また最後にご紹介しますが、矛盾があります。

教師は子供に「自由であることを思いこませておく」ことによって、子どもを自分の奴隷にしているという矛盾です。教師は導くから、子どもが自分の力で「真理」を見出しているように教師は子供に思いこませるのです。「自由だ」といっても、教師は導くままですから、教師は実際は子供の支配者です。

まさに、現代の民主主義と同じです。「民主主義で権利がある」と思い込ませつつ、結局、現実にぶつかってみると権利など私たちにはありませんね。
「子どもにつけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ。」
ですから、このように教育するため、立派な「師傅」が必要だと言います。

それから、生徒ですね。これらの引用は配布資料に乗っていませんが、なかなか才能のある生徒をルソーは作っておきます。さすがにね。教育を成功させるために、その子供は、そもそも優秀ではないと。ひどいなあ。

いわく「貧乏人は教育する必要はない。」「金持ちを生徒に選ぶことにしよう。わたしたちは少なくとも一人の人間を増やすことになるのは確実だ。一方、貧乏人は自分の力で人間になることができる。」
エミールは金持ちでなければなりません。
「同様の理由によって、エミールが名門の生まれであっても私は困らない。」
貴族出身の方が悪くないと。「とにかく一人の犠牲者が偏見から救われることになる。」

「エミールはみなし子である。」先ほどは父と母があった方が良いといっていたが、理想のエミールはみなし子です。
「父と母があっても同じことだ。父母の義務を引き受ける私は父母の権利のすべてを受け継ぐのだ。」さすがです。
「エミールは両親を敬わなければならないが、わたしにだけ服従しなければならない。」ルソー曰くですよ。

「それが私の第一の、というより、ただ一つの条件である。」
「この条件に、その当然の結果として、私たちの同意がなければ、私たちは互いに離れることはないという条件をつけくわえなければならない。」
ルソーは師傅と生徒の間の絆は非常に強いということを前提にしています。

次に、ルソーの教育論では「強壮で健康な生徒でなければならない」という条件を出します。ですから、空疎な小説にすぎませんね。現実では、ルソーが出している状況にかなう子どもはどれほどいるかちょっと疑問です。以上が「エミール」で、これで、小説の設定ができました。

それから、第一編の残りは、生まれてから二歳までの子供について語ります。本質的に何も面白いことはないのですが、のびのびと多くの詳細に入っています。ルソーは、次のようなことを言います。幼児を苦しませなければならないとか、病気にさせなければならないとか、また産衣で拘束しないようにして、それで自由を覚えさせるべきだとか。中心は自由です。第一編の最後を引用します。

「自然の習性をたもたせることによって」自然のままにほったらかせばよいということです。
「いつでも自分で自分を支配するように、ひとたび意志を持つに至ったなら、何ごとも自分の意志でするようにしてやることによって、早くから自由の時代と力の使用を準備させるのだ。」

ルソーは「気まぐれ」ではなく「意志」とあえて書いてありますが。ルソーにとって、意志とは実際に何かを実現できることであることに対して、気まぐれとは実現する力がないとしています。それは勝手な定義で成り立たないのですが。

「子どもは、ただ事物にだけ抵抗をみいだし、けっして人々の意志に抵抗をみいだすことがなければ、反抗的にも怒りやすくもならず、いっそう健康に身を保つことになる。」
要するに、教育者として、子どもの意志に一切抵抗してはならないということです。一言でいうと、かなり悪い子になるようにと言うのです。しかも社会で生きていない生徒ですから、躾はもちろんゼロです。
これで、第一編を閉めます。
・・・続く

2018年新年のご挨拶

2018年01月03日 | ファチマの聖母の会とは?
ファチマの聖母の会プロライフをご訪問くださる皆さま、

旧年中はわたくしどものファチマの聖母の会のブログをご訪問して応援してくださり、ありがとうございます。

ファチマの聖母の100周年に合わせて生まれたわたくしどもの会は、ファチマの聖母と共にマーチフォーライフに参加することができ、

たくさんの方がマーチフォーライフを応援くださり、2017年は大変実りの多き年となりました。皆様に心から感謝申し上げます。

今年の「うみの日」では皆さまとマーチフォーライフを一緒にさせて頂きとう存じます。どうぞよろしくお願いいたします。

2018年はファチマの聖母のお取り次ぎで、もっともっと、多くの胎児の小さな生命が守られ、胎児への大戦争が終戦を迎えることができますように!

大きな苦しみを耐えている国民に、緊迫した世界に「真の平和」が与えられますように!

ファチマの聖母プロライフの会は、ファチマの聖母に真摯にお取り次ぎを祈りつつ、

ファチマの聖母と共に、皆様の祈りと温かい応援によって、ファチマの聖母がお与えくださる「真の平和」のために

ますますファチマのマリア様のよき道具となりたいと存じます。

新年も、わたくしどものファチマの聖母の会のブログをよろしくお願いいたします。

「ファチマの聖母の会」を聖母の汚れ無き御心に奉献する祈り  CONSECRATION OF THE ASSOCIATION OF OUR LADY OF FATIMA

2017年06月23日 | ファチマの聖母の会とは?
ファチマの聖母の会の全ての会員の皆様に、重要なお知らせがあります。

当ファチマの聖母の会は、当会の全ての会員とその全ての活動とそのブログとを聖母の汚れなき御心に、洗者聖ヨハネの祝日に奉献します。

ファチマの聖母の会が自らを聖母の汚れなき御心に奉献する理由は、当会の上に聖母の汚れなき御心がしろしめし給うことを望み、当会が聖母の権威に忠実に従うためです。
聖母が当会を愛し給うことを感謝し、返礼として、聖母の御助けと共に、当会会員は聖母の汚れなき御心にいつも変わらない忠孝の愛を御捧げするためです。

地上に天主の御国が拡大することを望み、つまりカトリック教会の発展を望み、家庭において、社会において、国家において、全世界において、私たち一人一人から、愛され、崇敬され、奉仕されることを熱望し、当会がその聖母のものとなりたいと望むからです。

洗者聖ヨハネの祝日に奉献する理由は、プロライフと洗者聖ヨハネが関係するからです。イエズス様を胎内に身ごもっておられた聖母の御取り次ぎによって、洗者聖ヨハネは胎児の時、聖エリザベトの胎内で聖別を受けました。ゆえに、聖母が洗者聖ヨハネに果たした役割は、プロライフの胎児の保護と一致しています。そこで、洗者聖ヨハネの祝日に、当会を聖母の汚れなき御心に奉献するのが、御摂理に適っていると考えたからです。

また、2017年は洗者聖ヨハネの祝日が、イエズスの至聖なる聖心の祝日の翌日の土曜日だからです。聖母の汚れなき御心はイエズスの聖心と一致しているからです。

ファチマの聖母の会が、マリア様の汚れ無き御心に奉献されて、汚れ無き御心の凱旋のために、さらに多くの人に知られ、汚れ無き御心の信心が確立するための道具となることができますように!

聖母の汚れなき御心の御介入で、胎内の赤ちゃんたちへの戦争が終わり、赤ちゃんたちが聖なる命に導かれますように!

至聖なるイエズスの聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファチマの聖母、ロザリオの聖母よ、我らのために祈りたまえ。

会員の方々は、また将来会員になりたいとお考えの方々も、次の奉献文を6月24日に唱えるようにしてください。



ファチマの聖母の会を聖母の汚れなき御心に奉献する祈り

おお、聖母の汚れなき御心よ、イエズスの聖心の母にして、われらの元后にして母なる聖母よ!

御憐れみをたれて、このファチマの聖母の会に御眼差しを注ぎ給え。われらは御身に、忠孝の愛を示し、この荘厳な奉献によって御身に崇敬を表すことを望み奉る。

われら、ファチマの聖母の会の会員は、御身にわれらの全てを、肉体も霊魂も、能力も感覚も、人生の全ての悲しみも喜びも、われらの持てる全てを、われらそれ自身を、われらが愛する全てを、御身にことごとく捧げ奉る。

汚れなき童貞女よ、天主の御母にして全ての人々の母よ、われらは御身の聖母の汚れなき御心に、われら自身とわれらの「ファチマの聖母の会」とを奉献し奉る。われらを御身の子供として受け入れ給え。

御身の汚れなき御心が、われら会員らにとって、若きも老いたるも、健康なる者も病の者も、熱心なる者も罪を犯した者も、また将来の会員らにとっても、天主へと導く道とならんことを。

われらの愛する御母よ、われらを統治し給え。われらが豊かなときも貧しいときも、喜びの時も悲しみの時も、健康の時も病の時も、生涯に亘っても死後も、いつも御身のものたるために。

聖母のいとも憐れみにあふれる御心よ、童貞の元后よ、われらの心も精神も守り給え。御身はファチマにて、人々の傲慢や不貞潔や異教精神をいたく深く嘆き悲しみ給うたり。われらをして現代にあふれるこれらの洪水から逃れしめ給え。

今より後は、御身は当会の元后にして母なり。われらの霊的かつ物体的な善を世話し給え。われらの祈りを聞き給いて、この世の悲しみと困難の時、特にわれらの臨終の時にわれらに慰めを給え。

われらは、われらの家族、当「ファチマの聖母の会」、われらの祖国、全世界に、正義と愛徳における天主の平和を呼び求め奉る。

われらは、われらの能う限り、御身の御助けにより、償いと改悛との精神をもって御身の諸徳に倣い、真のキリスト教的生活を送り、世間体を気にせずに、頻繁な改悛の秘蹟と御聖体の秘蹟を受け、典礼に敬虔に与り、公教要理を注意深く学ぶことを謹んで約束し奉る。

おお、聖なるロザリオの元后よ、われらはロザリオの祈りを毎日欠かさずすることを約束し奉る。

われらは、御身の助けを持って、キリスト教生活が私たちに要求する犠牲を全て受け入れ奉り、それらを御身の汚れなき御心により、御身の聖子イエズス・キリストのミサ聖祭の犠牲と一致して、イエズスの聖心に捧げ奉る。

美しい愛の母よ、われらの心に、また当会とわれらの家庭に、天主を愛する愛の火を燃え立たしめ給え。願わくは、この愛の火によりて、われらの身分上の努めに常に忠実ならしめ、天主の聖寵により、われらの模範と犠牲と祈りとを通して、われらの隣人と憐れな罪人たちに対する熱心な使徒とならしめ、彼らを真の信仰生活を送るように導くことができるようなさしめ給え。

願わくは、イエズスの聖心の御国が、御身の汚れなき御心の御国と共に、当「ファチマの聖母の会」に来たらんことを。われらの元后にして母なる聖母よ、われらが御身を愛し御身に奉仕し、御身に真に奉献された生活を送ることにより、われらがついに至聖なる三位一体との永遠の至福に至るにふさわしき者とならんことを。アメン。


CONSECRATION OF THE ASSOCIATION OF OUR LADY OF FATIMA


“The consecration to the Immaculate Heart of Mary is a testimony of her sovereignty; a loyal submission to her authority; a filial and constant love in return; a commitment to work towards the establishment of her royalty in God’s kingdom, which is the Church, so that she may be loved, venerated, and served by each one of us in the family, in society, and in the world.”

(Pius XII in the radio message at the Crowning of Our Lady of Fatima - May 13, 1946)

O Immaculate Heart of Mary, Mother of the Heart of Jesus, our Queen and Our Mother! Look down with mercy upon this Association of Our Lady of Fatima. We wish to show thee our filial love and to render to thee our homage by this solemn act.

We come to offer thee our whole being, body and soul, faculties and senses, our life with all its sorrows and joys, all that we possess, all that we are, all that we love.

O Immaculate Virgin, Mother of God and Mother of all men! We consecrate ourselves and our Association of Our Lady of Fatima to thy Immaculate Heart. Receive us as thy children.

May thy Heart be for all us priests, teachers and catechists, parents and children, young people, adult and elderly, healthy and sick, absent, present and fallen away the path that leads to God.

Reign over us, O Beloved Mother, so that we may be thine both in prosperity and in adversity, in joy and in sorrow, in health and in sickness, in life and in death.

O most compassionate Heart of Mary, Queen of Virgins, watch over our minds and our hearts and preserve them from the flood of pride, impurity and paganism of which thou didst complain so bitterly at Fatima.

From this moment, thou art named Queen and Mother of this Association. Look after our spiritual and temporal well-being, hear our prayers and console us in the sorrows and tribulations of this life and particularly at the hour of our death.

We want to call down upon our families and our Association, our country and the whole world the peace of God in justice and charity. On our part, we promise to imitate thy virtues in a spirit of reparation and penance by a true Christian life, by frequent confessions and holy Communions, by fervent participation in the divine Liturgy, and by attentive study of the catechism without regard to human respect.

O Queen of the Holy Rosary, we promise to offer thee the prayer of the rosary each day.

We accept now, all the sacrifices that a Christian life will impose on us, and we offer them to the Heart of Jesus, by thy Immaculate Heart, in union with the Mass of thy divine Son.

O Mother of fair love, inflame in our hearts, our Association and homes, with the divine fire to keep us faithful to our duty of state and to become, with the grace of God, zealous apostles towards our neighbours and poor sinners by our example, our sacrifices and prayers, bringing them to the practice of the true Faith.

May the reign of the Sacred Heart of Jesus, together with thy reign, enter this Association of Our Lady of Fatima, our Queen and Our Mother, so that living truly consecrated to thy love and service, we may one day deserve eternal happiness in the presence of the Holy Trinity. Amen.


ファチマの聖母の会とは?

2017年05月27日 | ファチマの聖母の会とは?
【Q1】ファチマの聖母の会とは何ですか?

ファチマの聖母の会は、 ファチマの聖母に関する信心業をはじめとした、 カトリック信仰に基づく諸活動(プロライフなど)を行うことにより、 より多くの人々の回心に貢献することを目的としています。
ファチマの聖母の第1回目の御出現から100年目という記念すべき日(2017年5月13日)に発足しました。


【Q2】ファチマの聖母の会はどういう活動をするのですか?

ファチマの聖母のご意向は、天主、 聖母を他の人の分もあわせてお慰めすることにあり、 より多くの人々の回心のために祈り犠牲を捧げることにあります。 そのご意向にしたがった活動をします。

具体的には、

①聖母の汚れ無き御心に対する信心(初土曜日の信心など)」 を実践し、広めます。

②ファチマの聖母、ご出現を受けた3人の子供たち、 実際のご出現に関する理解を深め、 ファチマの聖母についてより多くのかたに知っていただこうとしています。

③カトリック信仰に基づいた活動にも参加します。( マーチフォーライフ、プロライフ活動など)