白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
【洗足式】
私たちの主は、ユダヤの過越しの祭を作法正しく祝いました。食事は和気あいあいの雰囲気でした。ところが、最後のところに使徒の間にちょっとした喧嘩がありました。そういえば、その話題で喧嘩になるのは初めてではありませんでした。つまり、天国では、使徒の間でだれが一番偉いかという話題でした。以前に私たちの主は既にお答えになったのです。一人の子供が来て、使徒たちの前に私たちの主が一人の子を連れてきた時にその形で答えを出しました。
にもかかわらず、使徒たちの間には偉大さへの欲望がどうしても残ります。また、称賛への欲望もですね。従って、もう一度、だれか一番偉くなるかについて喧嘩します。第一になるのは誰だろうかと。
そこで、私たちの主は使徒たちに向けて、謙遜の模範を示すことになさいました。言葉だけではなくて、一人の子を連れてくるだけのではなくて、私たちの主が席より立ち上がります。使徒たちが喧嘩している途中ですけど、お立ち上がりになります。そこで、どうなさるでしょうか。私たちの主は布類を取り、腰にお帯になります。で、盥(たらい)を手に取り、水をそこにお注ぎになります。何をなさるでしょうか。奴隷の作業を御自分で果たすのです。順番に横になっていた使徒たちの下を回り、彼らの足を盥でお洗いになるのです。本来ならば、奴隷の仕事です。
【奴隷の仕事】
というのも、ユダヤ教徒でしたら足を洗うのは禁じられていた行為です。お客さんを自分の家にお迎えする時に、お客さんの足を洗う慣習がありました。お客さんを労う上に、おもてなしの心を示すための慣習でした。ところが、ユダヤ教徒はその儀式を自分で果たすことはできませんでした。なぜかというと、ユダヤ教徒が誰かの足を洗ってしまったら、律法上にいうと穢れを負ってしまう行為だったからです。ユダヤ教徒は、律法上の穢れを覆うことは全く許されていなかったわけです。
従って、この慣習を果たすために、奴隷にやってもらっていたのです。盥を取りお客さんの足を洗うということは、奴隷の果たすべき作業でした。しかしながら、私たちの主は奴隷の果たすべき作業を御自分自身で果たされます。
【聖ペトロとイエズス・キリストとの会話】
そこで、周りの反応を想像してください。喧嘩は一気に収まってシーン。私たちの主は足をお洗いになりますが、使徒たちは唖然としたままです。「先生はどうなったのか」と思いながら。皆、心の中に「どうしたのか」と思いますが、一人だけがより血気で反応しますね。周知の通りに、陽気なる聖ペトロです。
聖ペトロが発言します。「主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか」 と。そこで、私たちの主は聖ペトロに応じて、使徒たちに向けて謙遜の模範を示していることを説明されます。「主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか」。
私たちの主はこうお答えになります。「私のすることを、あなたは今は知らぬが、後にわかるだろう」 と。ところが、血気なるペトロは「いいえ、決して私の足を洗わないでください」 と。当然の反応でしょう。聖ペトロは主に対する尤もの尊敬を抱いている者なので、足を洗うのは主がすべきではないことで奴隷のやるべきことだということから彼が反対します。
要するに、聖ペトロの反応は、主に対する尊敬を示しながらも、私たちの主の教えに対する理解不足をも表します。
すると「もしあなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもなくなる」 と私たちの主が仰せになります。この言葉をもって、私たちの主がの象徴性を示すのです。悔悛あるいは霊魂の内面的な清めの秘跡を予告する場面なのです。
そこで、聖ペトロが勿論、主との関わりを続行したいので、「主よ、では、足ばかりでなく手も頭も」 と言いました。ところが、私たちの主が「すでに体を洗った者は、(足のほか)洗う必要がない、その人は全身清いからである。あなたたちも清い、だがみなそうではない」 と仰せになります。つまり、既に聖寵の状態にある人々が、全身を清める必要はなくて、小さな欠陥を清めるだけで十分だという意味です。これが、洗足の意味です。
【主の教え】
続いて、私たちの主が教えを説きます。「あなたたちには私のしたことがわかったか。あなたたちは私を先生または主と言う。それは正しい、そのとおりである。私は主または先生であるのに、あなたたちの足を洗ったのであるから、あなたたちも互いに足を洗い合わねばならぬ。私のしたとおりするようにと私は模範を示した。」
要するに、地上と外的な名誉を求めてはならぬ、という教えです。むしろ、自分が主(長・おさ)になろうと思うなら、誰かの弟子になるべきだとの教えです。また、偉大になろうと思う者は、自分を貶めるべきだとの教えです。
【主の模範:謙遜、純潔、愛徳】
つまり、以上の場面は、第一、使徒たちに向けて謙遜の模範となります。言葉と行動両方を踏んでの模範です。
謙遜の模範の上に、純潔の模範でもあります。清める為に、私たちの主が司祭職を制定するし、御聖体をも制定なさいます。そこで、御聖体という偉大な秘跡に近寄るには、どれほど純潔の状態であるべきか教えられています。
それから、純潔の模範の上に、イエズス・キリストのお言葉の通りに、使徒たちに向けて兄弟的愛徳の模範でもあります。つまり、天主を愛し、隣人を愛せよという教訓ですが、両方の愛は全く一致するからです。
【ユダ・イスカリオトに対して】
ところで、以上の模範を示したうえに、私たちの主が使徒ユダに向けて、次の忠告を施します。どれほど私たちの主はユダに対して親切であるかがこの忠告で見とれます。使徒たちに向けて、あなたが清いと仰せになったが、全員ではないと言い加えるのです。使徒たちはこの警告を聞いて不安になります。使徒ユダ以外に、誰か裏切り者であるか誰も分からないままですから。
「あなたたちの一人が私をわたすだろう」 と。この言葉で、私たちの主はユダの心に当てるものの、他の使徒たちにバレないようになさっています。何て立派な如才なさでしょう。ユダの霊魂に如才なく触れるものの、深く揺るがします。ユダからみて、心が揺るいだに違いありません。ところが、周りの使徒たちがユダ向けであることは分からないままです。ユダだけが分かっています。また、ユダは私たちの主が知っていたことも、わかっていました。そこで、まだユダに至って手遅れではなかったということです。裏切りの計画をそこで諦めればよかったのに。残念ながら、ユダが頑固になってしまいます。しかしながら、この忠告において、私たちの主からのユダへの愛と親切さは見いだせます。
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【御聖体の秘跡と品級の秘跡の制定】
その後に、私たちの主は聖なる晩餐を制定されます。言い換えると、御聖体の秘跡と品級(叙階)の秘跡を制定されます。
パンを手に取り、祝別して裂き、使徒たちに与え、「これを取って、私の体である」 と仰せになります。で、使徒たちに御自分の御体を与え、拝領させるのです。福音の記す通りに、食事の後に、杯(さかずき)を取り、同じようにして使徒たちに与え「この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約である」 と仰せになります。私たちの主はご自分自身の御血を使徒たちに飲ませるのです。これをもって、イエズス・キリストは初めてのミサ聖祭を行うわけです。十字架の犠牲を控えてのミサ聖祭です。しかしながら、このミサ聖祭は既に本物の犠牲・いけにえとなります。
【いけにえの成立のために必要なこと】
いけにえが成り立つために、三つのことが必要となります。第一、供え物(奉献とも呼ばれる)です。いけにえを奉献することです。ところで最後の晩餐の前の日曜日に、私たちの主は神殿で既にご自分を奉献していました。その上、私たちの主はご自分の人生のすべてを、ずっと御父に奉献していたのです。従って、最後の晩餐の際に、ミサ聖祭の奉献の部は既に済んでいたのです。
第二、屠(ほふ)り(犠牲)が必要です。言い換えると、犠牲者なるいけにえが流血で殺される必要があります。つまり、血を流すことによって、いけにえの体と血が分離するということこそを「屠り」と言います。最後の晩餐の際に、この屠り・犠牲はもう行われました。まだ、現実に本当の流血がなかったものの、神秘的に行われたとされています。
要するに、物質的な印(しるし)を通じて行われたのです。パンと葡萄酒(ワイン)の二重の聖変化は、体(パン)と血(ワイン)を分離する形で、神秘的に屠り・犠牲の実現を示すのです。従って、本当の意味での犠牲が実現されました。
第三に、犠牲・いけにえという儀式が成り立つには、犠牲されたいけにえを拝領する必要があります。私たちの主は使徒たちに御自分の体と血を拝領させました。
【最後の晩餐は本物の犠牲】
要するに、最後の晩餐の際に、私たちの主が制定なさった聖体の秘跡は、本物のいけにえ・犠牲なのです。
そこで、この聖体の秘跡を実現することによって、これからいつもまでも、ご自分の死の後からずっと、私たちの主は使徒たちにミサ聖祭を挙げる力、または聖体の秘跡を実現する力を与えます。つまり、最後の晩餐に行われた全く同じ犠牲を改めて捧げる力を使徒たちに与えるのです。イエズス・キリストは御自分の司祭として使徒たちを選定し指名します。「私の記念としてこれを行え」 と仰せになります。つまり、この言葉をもって、使徒たちも、ミサ聖祭を行えるようになったということです。
注意してください。「これの記念を行え」という命令ではなくて、「私の記念としてこれを行え」という命令です。「これを行え」。要するに、使徒たちが今度捧げていく犠牲は、つまり司祭の捧げていくミサ聖祭は、本物の犠牲になるということです。
私たちの主が最後の晩餐の際と十字架上の際に御自分で行った犠牲をミサ聖祭において再現するということです。
「これを行え」という命令ですから。「Hoc facite ホック・ファチテ」「私の記念として、これを行え」。だから「私の記念をやれ」ということだけではありません。つまり、過去への思い起こしだけではありません。また、記念の義務へといった励みだけでは決してありません。それではなくて、改めて、行われたこの犠牲をもう一度行えという命令なのです。
「これを行え」。具体的に言うと、「私が今やったばかりのように、このパンが私の体とこのワインが私の血で今聖変化したように、あなたたちも本物の犠牲を行え、パンとワインを私の体と私の血に聖変化せよ、今捧げた犠牲を再現せよ」という命令です。
「私の記念として」の意味は、「十字架上の私の犠牲に依存すべき犠牲として行え」という意味です。要するに、「あなたたちがこれから行うこの犠牲は、ミサ聖祭は私の犠牲に依存するから、これから十字架上にお捧げする私の犠牲に他ならない。十字架上の犠牲はいま晩餐の際にあらかじめ行っただけだ」という意味です。
【ユダは立ち去る】
以上は、聖体の秘跡と叙階の秘跡(または司祭職の制定)の制定のご紹介でした。
そして、制定の後、もしかしたらその前だったかもしれませんが、福音だけを見ると、前後はあまり言えないのですが、兎も角、ユダはその場を去ります。そういえば、私たちの主がハッキリとユダに向けて仰せになりました。「お前のしようとしていることを早くせよ」 と。制定の後にユダが去るか、制定の前に去るかどちらかです。とにかく、私たちの主、イエズス・キリストを裏切って、かれを渡すために、大司祭のところに行くのです。
【主の最後の訓話】
聖体の秘跡と叙階の秘跡の制定の後に、「晩餐後の垂訓」と呼ばれる場面があります。長い垂訓になりますが、聖ヨハネ福音の第13章から記されています。使徒たちに向けて、私たちの主が教えを説きます。同時に、胸の思いをも特に打ち明ける垂訓となります。私たちの主の最後の垂訓、言い換えると、イエズス・キリストの遺言です。使徒たちにむけての、死ぬ前の最期の言葉です。使徒たちは遺言であることを確かに感じてはいます。立派な垂訓ですが、使徒たちが戦うように励まします。
「この世はあなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」 と。私たちの主は使徒たちを激励します。この世と戦うように、この世に妥協しないように、この世に反対するために自分の苦しみを捧げるように、この世と同盟しないように激励します。まら、パラクリトゥス(聖霊)を私たちの主が約束します。使徒たちを助け、強めるために聖霊を送ると約束をします。そして、私たちの主がチェナクルム(高間)からご退場します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第三十六講 贖罪の玄義・歴史編・最後の晩餐
【洗足式】
私たちの主は、ユダヤの過越しの祭を作法正しく祝いました。食事は和気あいあいの雰囲気でした。ところが、最後のところに使徒の間にちょっとした喧嘩がありました。そういえば、その話題で喧嘩になるのは初めてではありませんでした。つまり、天国では、使徒の間でだれが一番偉いかという話題でした。以前に私たちの主は既にお答えになったのです。一人の子供が来て、使徒たちの前に私たちの主が一人の子を連れてきた時にその形で答えを出しました。
にもかかわらず、使徒たちの間には偉大さへの欲望がどうしても残ります。また、称賛への欲望もですね。従って、もう一度、だれか一番偉くなるかについて喧嘩します。第一になるのは誰だろうかと。
そこで、私たちの主は使徒たちに向けて、謙遜の模範を示すことになさいました。言葉だけではなくて、一人の子を連れてくるだけのではなくて、私たちの主が席より立ち上がります。使徒たちが喧嘩している途中ですけど、お立ち上がりになります。そこで、どうなさるでしょうか。私たちの主は布類を取り、腰にお帯になります。で、盥(たらい)を手に取り、水をそこにお注ぎになります。何をなさるでしょうか。奴隷の作業を御自分で果たすのです。順番に横になっていた使徒たちの下を回り、彼らの足を盥でお洗いになるのです。本来ならば、奴隷の仕事です。
【奴隷の仕事】
というのも、ユダヤ教徒でしたら足を洗うのは禁じられていた行為です。お客さんを自分の家にお迎えする時に、お客さんの足を洗う慣習がありました。お客さんを労う上に、おもてなしの心を示すための慣習でした。ところが、ユダヤ教徒はその儀式を自分で果たすことはできませんでした。なぜかというと、ユダヤ教徒が誰かの足を洗ってしまったら、律法上にいうと穢れを負ってしまう行為だったからです。ユダヤ教徒は、律法上の穢れを覆うことは全く許されていなかったわけです。
従って、この慣習を果たすために、奴隷にやってもらっていたのです。盥を取りお客さんの足を洗うということは、奴隷の果たすべき作業でした。しかしながら、私たちの主は奴隷の果たすべき作業を御自分自身で果たされます。
【聖ペトロとイエズス・キリストとの会話】
そこで、周りの反応を想像してください。喧嘩は一気に収まってシーン。私たちの主は足をお洗いになりますが、使徒たちは唖然としたままです。「先生はどうなったのか」と思いながら。皆、心の中に「どうしたのか」と思いますが、一人だけがより血気で反応しますね。周知の通りに、陽気なる聖ペトロです。
聖ペトロが発言します。「主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか」 と。そこで、私たちの主は聖ペトロに応じて、使徒たちに向けて謙遜の模範を示していることを説明されます。「主よ、あなたが私の足をお洗いになるのですか」。
私たちの主はこうお答えになります。「私のすることを、あなたは今は知らぬが、後にわかるだろう」 と。ところが、血気なるペトロは「いいえ、決して私の足を洗わないでください」 と。当然の反応でしょう。聖ペトロは主に対する尤もの尊敬を抱いている者なので、足を洗うのは主がすべきではないことで奴隷のやるべきことだということから彼が反対します。
要するに、聖ペトロの反応は、主に対する尊敬を示しながらも、私たちの主の教えに対する理解不足をも表します。
すると「もしあなたを洗わないなら、あなたは私と何のかかわりもなくなる」 と私たちの主が仰せになります。この言葉をもって、私たちの主がの象徴性を示すのです。悔悛あるいは霊魂の内面的な清めの秘跡を予告する場面なのです。
そこで、聖ペトロが勿論、主との関わりを続行したいので、「主よ、では、足ばかりでなく手も頭も」 と言いました。ところが、私たちの主が「すでに体を洗った者は、(足のほか)洗う必要がない、その人は全身清いからである。あなたたちも清い、だがみなそうではない」 と仰せになります。つまり、既に聖寵の状態にある人々が、全身を清める必要はなくて、小さな欠陥を清めるだけで十分だという意味です。これが、洗足の意味です。
【主の教え】
続いて、私たちの主が教えを説きます。「あなたたちには私のしたことがわかったか。あなたたちは私を先生または主と言う。それは正しい、そのとおりである。私は主または先生であるのに、あなたたちの足を洗ったのであるから、あなたたちも互いに足を洗い合わねばならぬ。私のしたとおりするようにと私は模範を示した。」
要するに、地上と外的な名誉を求めてはならぬ、という教えです。むしろ、自分が主(長・おさ)になろうと思うなら、誰かの弟子になるべきだとの教えです。また、偉大になろうと思う者は、自分を貶めるべきだとの教えです。
【主の模範:謙遜、純潔、愛徳】
つまり、以上の場面は、第一、使徒たちに向けて謙遜の模範となります。言葉と行動両方を踏んでの模範です。
謙遜の模範の上に、純潔の模範でもあります。清める為に、私たちの主が司祭職を制定するし、御聖体をも制定なさいます。そこで、御聖体という偉大な秘跡に近寄るには、どれほど純潔の状態であるべきか教えられています。
それから、純潔の模範の上に、イエズス・キリストのお言葉の通りに、使徒たちに向けて兄弟的愛徳の模範でもあります。つまり、天主を愛し、隣人を愛せよという教訓ですが、両方の愛は全く一致するからです。
【ユダ・イスカリオトに対して】
ところで、以上の模範を示したうえに、私たちの主が使徒ユダに向けて、次の忠告を施します。どれほど私たちの主はユダに対して親切であるかがこの忠告で見とれます。使徒たちに向けて、あなたが清いと仰せになったが、全員ではないと言い加えるのです。使徒たちはこの警告を聞いて不安になります。使徒ユダ以外に、誰か裏切り者であるか誰も分からないままですから。
「あなたたちの一人が私をわたすだろう」 と。この言葉で、私たちの主はユダの心に当てるものの、他の使徒たちにバレないようになさっています。何て立派な如才なさでしょう。ユダの霊魂に如才なく触れるものの、深く揺るがします。ユダからみて、心が揺るいだに違いありません。ところが、周りの使徒たちがユダ向けであることは分からないままです。ユダだけが分かっています。また、ユダは私たちの主が知っていたことも、わかっていました。そこで、まだユダに至って手遅れではなかったということです。裏切りの計画をそこで諦めればよかったのに。残念ながら、ユダが頑固になってしまいます。しかしながら、この忠告において、私たちの主からのユダへの愛と親切さは見いだせます。
~~
【御聖体の秘跡と品級の秘跡の制定】
その後に、私たちの主は聖なる晩餐を制定されます。言い換えると、御聖体の秘跡と品級(叙階)の秘跡を制定されます。
パンを手に取り、祝別して裂き、使徒たちに与え、「これを取って、私の体である」 と仰せになります。で、使徒たちに御自分の御体を与え、拝領させるのです。福音の記す通りに、食事の後に、杯(さかずき)を取り、同じようにして使徒たちに与え「この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約である」 と仰せになります。私たちの主はご自分自身の御血を使徒たちに飲ませるのです。これをもって、イエズス・キリストは初めてのミサ聖祭を行うわけです。十字架の犠牲を控えてのミサ聖祭です。しかしながら、このミサ聖祭は既に本物の犠牲・いけにえとなります。
【いけにえの成立のために必要なこと】
いけにえが成り立つために、三つのことが必要となります。第一、供え物(奉献とも呼ばれる)です。いけにえを奉献することです。ところで最後の晩餐の前の日曜日に、私たちの主は神殿で既にご自分を奉献していました。その上、私たちの主はご自分の人生のすべてを、ずっと御父に奉献していたのです。従って、最後の晩餐の際に、ミサ聖祭の奉献の部は既に済んでいたのです。
第二、屠(ほふ)り(犠牲)が必要です。言い換えると、犠牲者なるいけにえが流血で殺される必要があります。つまり、血を流すことによって、いけにえの体と血が分離するということこそを「屠り」と言います。最後の晩餐の際に、この屠り・犠牲はもう行われました。まだ、現実に本当の流血がなかったものの、神秘的に行われたとされています。
要するに、物質的な印(しるし)を通じて行われたのです。パンと葡萄酒(ワイン)の二重の聖変化は、体(パン)と血(ワイン)を分離する形で、神秘的に屠り・犠牲の実現を示すのです。従って、本当の意味での犠牲が実現されました。
第三に、犠牲・いけにえという儀式が成り立つには、犠牲されたいけにえを拝領する必要があります。私たちの主は使徒たちに御自分の体と血を拝領させました。
【最後の晩餐は本物の犠牲】
要するに、最後の晩餐の際に、私たちの主が制定なさった聖体の秘跡は、本物のいけにえ・犠牲なのです。
そこで、この聖体の秘跡を実現することによって、これからいつもまでも、ご自分の死の後からずっと、私たちの主は使徒たちにミサ聖祭を挙げる力、または聖体の秘跡を実現する力を与えます。つまり、最後の晩餐に行われた全く同じ犠牲を改めて捧げる力を使徒たちに与えるのです。イエズス・キリストは御自分の司祭として使徒たちを選定し指名します。「私の記念としてこれを行え」 と仰せになります。つまり、この言葉をもって、使徒たちも、ミサ聖祭を行えるようになったということです。
注意してください。「これの記念を行え」という命令ではなくて、「私の記念としてこれを行え」という命令です。「これを行え」。要するに、使徒たちが今度捧げていく犠牲は、つまり司祭の捧げていくミサ聖祭は、本物の犠牲になるということです。
私たちの主が最後の晩餐の際と十字架上の際に御自分で行った犠牲をミサ聖祭において再現するということです。
「これを行え」という命令ですから。「Hoc facite ホック・ファチテ」「私の記念として、これを行え」。だから「私の記念をやれ」ということだけではありません。つまり、過去への思い起こしだけではありません。また、記念の義務へといった励みだけでは決してありません。それではなくて、改めて、行われたこの犠牲をもう一度行えという命令なのです。
「これを行え」。具体的に言うと、「私が今やったばかりのように、このパンが私の体とこのワインが私の血で今聖変化したように、あなたたちも本物の犠牲を行え、パンとワインを私の体と私の血に聖変化せよ、今捧げた犠牲を再現せよ」という命令です。
「私の記念として」の意味は、「十字架上の私の犠牲に依存すべき犠牲として行え」という意味です。要するに、「あなたたちがこれから行うこの犠牲は、ミサ聖祭は私の犠牲に依存するから、これから十字架上にお捧げする私の犠牲に他ならない。十字架上の犠牲はいま晩餐の際にあらかじめ行っただけだ」という意味です。
【ユダは立ち去る】
以上は、聖体の秘跡と叙階の秘跡(または司祭職の制定)の制定のご紹介でした。
そして、制定の後、もしかしたらその前だったかもしれませんが、福音だけを見ると、前後はあまり言えないのですが、兎も角、ユダはその場を去ります。そういえば、私たちの主がハッキリとユダに向けて仰せになりました。「お前のしようとしていることを早くせよ」 と。制定の後にユダが去るか、制定の前に去るかどちらかです。とにかく、私たちの主、イエズス・キリストを裏切って、かれを渡すために、大司祭のところに行くのです。
【主の最後の訓話】
聖体の秘跡と叙階の秘跡の制定の後に、「晩餐後の垂訓」と呼ばれる場面があります。長い垂訓になりますが、聖ヨハネ福音の第13章から記されています。使徒たちに向けて、私たちの主が教えを説きます。同時に、胸の思いをも特に打ち明ける垂訓となります。私たちの主の最後の垂訓、言い換えると、イエズス・キリストの遺言です。使徒たちにむけての、死ぬ前の最期の言葉です。使徒たちは遺言であることを確かに感じてはいます。立派な垂訓ですが、使徒たちが戦うように励まします。
「この世はあなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」 と。私たちの主は使徒たちを激励します。この世と戦うように、この世に妥協しないように、この世に反対するために自分の苦しみを捧げるように、この世と同盟しないように激励します。まら、パラクリトゥス(聖霊)を私たちの主が約束します。使徒たちを助け、強めるために聖霊を送ると約束をします。そして、私たちの主がチェナクルム(高間)からご退場します。