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お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

アタナシウス・シュナイダー司教:天主と永遠の救いへの唯一の道であるイエズス・キリストとその教会への信仰宣言

2024年10月03日 | カトリック

天主と永遠の救いへの唯一の道であるイエズス・キリストとその教会への信仰宣言

使徒の時代以来、教会の通常にして普遍的な教導権が継続的かつ不可謬的に教えてきたこと、すなわち、次のことを、私たちは揺るぎなく信じ、宣言します。

○ ご托身の天主の御子にして、人類の唯一の救い主であるイエズス・キリストへの信仰が、天主が望まれる唯一の宗教である。

○ イエズス・キリストにおいて新しい永遠の契約が制定された後は、キリスト教以外の宗教の教えや実践に固執することによって救われる者は誰もいない。なぜなら、「祈りは、天主に向けられ、すべての人の主にして唯一の仲介者であるキリストと結びつけられなければならず(ティモテオ前書2章5節、ヘブライ8章6節、9章15節、12章24節)、キリストを通してのみ私たちは天主に近づくことができる(ローマ5章2節、エフェゾ2章18節、3章12節)」(時課の典礼【聖務日課】の総則6番)からである。

○ 十字架につけられ、天主が死者の中からよみがえらせた(使徒行録4章10節参照)私たちの主イエズス・キリストの御名のほかには、「この世において、私たちの救われる名は、人に与えられていない」(使徒行録4章12節)ことを、私たちは固く信じる。

○ 「教会を、教会を補完するもの、あるいは教会と実質的に同等なものとみなされる他の諸宗教によって構成されるものと並んで、救いの《道の一つ》とみなすことは、たとえその諸宗教が終末論的な天主の国に向かって教会とともに収斂していると言われるとしても、カトリックの信仰に反する」(教理省、宣言「ドミヌス・イエズス」(Dominus Iesus)、21番)ことを、私たちは信じる。

さらに、教会の永続的な教導権によって忠実に伝えられた天主の啓示が、以下のことを肯定することを禁じていると、私たちは信じます。

✕ すべての宗教は天主への道である。

✕ 宗教的アイデンティティーの多様性は天主の賜物である。

✕ 宗教の多様性は創造主なる天主の賢明な意志の表れである。

それゆえ、キリスト教徒は、天主が禁じておられる偽りの宗教の信者たちとともにある単なる「旅仲間」なのではないと、私たちは信じます。

人が天主と永遠の救いに到達できる《唯一の道》であるイエズス・キリストとその教会について、天主が啓示された真理を、言葉と行いで否定している今日のすべての教会人に、天主の恩寵の助けがあるよう、私たちは切に懇願します。天主の恩寵の助けによって、これらの教会人が、自分自身の霊魂の善のため、そして他の人々の霊魂の善のために必要な公の撤回を申し出ることができますように。なぜなら、「キリストを受け入れないことは、この世にとって最大の危険である」(ポワチエの聖ヒラリオ、「マテオ福音書注解」、18章)からです。

教会のすべての真の息子たちや娘たち、とりわけ教会の「小さき者たち」の祈りと涙と犠牲によって、教会の牧者たち、そして何よりもまず教皇フランシスコが、使徒たち、数え切れないほどの殉教者たち、数多くの聖なるローマ教皇たち、そして多くの聖人たち、とりわけアッシジの聖フランシスコに倣う恩寵を受けることができますように。アッシジの聖フランシスコは、「カトリック信者にして完全に使徒的な人物であった。彼は、異教徒をキリストの信仰と法に改宗させることをすべてに優先して取り組むことを、自ら着手し、また弟子たちにも命じた」(教皇ピオ十一世、回勅「リテ・エクスピアーティス」(Rite Expiatis)、37番)のです。

「私は道であり、真理であり、命である。私によらずには、誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)という、イエズス・キリストによって宣言されたこの天主の真理を、私たちは信じ、そして天主の恩寵によって、その真理のために命を捧げる用意があります。

+アタナシウス・シュナイダー(アスタナの聖マリア大司教区補佐司教)
2024年カトリック・アイデンティティー会議の参加者たちと共に。

2024年9月29日、ピッツバーグにて

Profession of Faith in Jesus Christ and His Church as the Only Path to God and to Eternal Salvation

A Profession of Faith in a Time of Apostasy


ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

2023年10月30日 | カトリック

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

2023年8月28日(月曜日)

ヴィガノ大司教、イエズスを「病人、硬直性の虜」と誤解させたバチカン広報省次官を非難

***アルド・マリア・ヴァッリのまえがき***

苦しみに無関心で、過敏で無神経で、容赦なく辛辣で、無慈悲な神学者であり、あわれな母親を嘲り、軽蔑し、口調もスタイルも人間性も堕落した主人公であり、ナショナリズムと神学的厳格主義によって盲目になって、硬直し、混乱し、改宗を必要とし、当時の厳格さと支配的な神学的、政治的、文化的要素に病み、幽閉され、異教徒の信仰を賛美する。これは、「Il Fatto Quotidiano」のコラム「主日の福音」の中で、カナン人の女の娘の癒やし(マテオ15章21-28節)という福音書の一節について、「チヴィルタ・カットリカ」のディレクターであるイエズス会のアントニオ・スパダロ神父が語ったイエズスの肖像です。スパダロ神父の言葉について、カルロ・マリア・ヴィガノ司教の見解を紹介します。

***まえがきおわり***

カルロ・マリア・ヴィガノ

スパダロの言葉(彼の論文「革命の種:イエズスは異教徒の女性の素晴らしい信仰を賞賛した」より。以下参照)は、一世紀以上にわたって教会を苦しめてきた最悪の近代主義の屑を含んだ汚水だまりのようです。

近代主義は、神学校や自称カトリック大学から決定的には根絶されずに残り、神学校や大学に、異端者のセクトや誤った考えを持つ人々が、二千年にわたる聖伝の代わりに第二バチカン公会議のトーテムを建立したのです。少し前まで、この「あらゆる異端の統合」【近代主義のこと。教皇聖ピオ十世はこう呼んだ】は、反キリスト的な本質を顕在化させないようにして、自らの体裁を整えようとしていました。それにもかかわらず、異端の総合とともに反キリスト的な本質のものでした。まだ近代主義のために完全に身を捧げていない一部の漠然とした保守的な高位聖職者が、それのもつ内在的な危険性に気づく恐れがありました。

もちろん、【近代主義者によれば】キリストの神性は、「原始共同体」の聖なるものの必要性からくる希望的観測に過ぎないと考えられました。キリストの奇跡は誇張として、キリストの言葉は比喩として軽視されました。一方、サタン会(Society of Satan)の総長アルトゥーロ・ソーサが言ったように、「録音機はありませんでした」。今日、聖イグナチオの規則に違反してペトロの座を占めているイエズス会士に守られ、このセクトの最悪の信奉者たちは自由にわめき散らし、地獄のような錯乱の中で、イエズス・キリストを冒涜するまでに至っており、イエズスは、ベルゴリオから、すでに憂慮すべき言葉を浴びせられています。「イエズスは蛇になり、悪魔になった」と、このアルゼンチン人は少し前に言っていたのです。

スパダロも同じことを言い、自分が罰せられないと信じている者の傲慢さで、私たちの主のことを「病人であり、硬直性とその時代の支配的な神学的、政治的、文化的要素の虜」、「苦しみに無関心で、怒りっぽくて鈍感で、容赦なく強硬で、無慈悲な神学者であり、嘲笑的かつ無礼であり、ナショナリズムと神学的厳格主義によって盲目になっている」と定義しています。カナン人の女に関する福音の一節について、聖なる教父たちが何を教えてきたかを、このような混乱した心の持ち主らに説明するのは無駄です。彼らは第二バチカン公会議の偶像をその台座の上に高く保つことに関心があり、自分たちの誤謬を守るために、天主の御子を踏みにじり、過去の最悪の異端者たちでさえあえてしなかったように、天主の御子を傷つけ、冒涜しなければならないとしても、彼らにとってはほとんど問題ではないのです。
スパダロの論文は、単なる挑発――それ自体すでに前代未聞のこと――ではなく、サンタ・マルタ館のある「神学者」が言うような、偽りの教義、狡猾な戒律、欺瞞に満ちた説教、堕落させられ堕落させる役務者を擁する反教会の顕現、公現です。反キリストにひれ伏す反教会、人間に対する天主の主権を否定して挑戦するのを象徴するあらゆるものにひれ伏す反教会です。高慢。ルチフェルの高慢。限界もブレーキも知らない高慢。キリストの教会を日食で覆うこのセクトは、もはや隠れてはいません。自ら姿を現し、真の教会に決定的に取って代わることを主張します。偶像を示し、それを崇拝することを要求します。その代償として、救い主ご自身を否定し、救い主の神性を否定し、救い主の行動を裁き、救い主の言葉に異議を唱えるのです。

しかし、素朴な人々がすでに、この「ὕβρις」(ヒュブリスhybris、天主に対する侮辱)の代償が「νέμεσις」(ネメシスnemesis、天主の怒り)であることを理解しているとすれば、枢機卿、司教、司祭といったほとんどすべての司牧者たちは、後ろを向いて目をそらしています。彼らは、自分たちの臆病さ、順応主義、逆行したように見せたくないという願望によって、この地獄の革命の共同責任を負わされたことをよく知っています。彼らはその時点で、その革命を止めることもできました。しかし、60年にわたって、彼らも公会議のカルトに加わってきたのですから、立ち止まって道を逸れた地点に戻るよりも、教会と霊魂の破滅に向かう道を歩み続ける方を好むのです。こうして彼らは、自分が間違っていることを謙虚に認めることよりも、邪悪なものの凱旋、そしてそれに伴うイエズス・キリストへの冒涜的な中傷の方を好むのです。彼らは、自分たち自身が近代主義の誤謬や異端の虜になっていることを認めるよりも、「神学的な厳格さによって盲目となった」私たちの主が間違っていたと言われる方を好むのです。測りは満ちており、私たちがどちらの側につくかを選択する時が来ました。ベルゴリオとスパダロ、「シノダリティーに関するシノドス」、新世界秩序に隷属する人間的な偽物の教会か、あるいは天主と教会と聖徒たちか、を。また、よく考えてみると、カトリック信者が――私は司祭や高位聖職者のことを言っているのではありません――選択することが可能だと考えることができるという仮説を立てることが、すでに前代未聞のことなのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2023年8月27日
聖霊降臨後第十三主日
Dominica XIII Post Pentecosten

英語版
イタリア語版


クリスマスツリーの本当の歴史

2021年12月19日 | カトリック
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの動画をご紹介します。
※この動画は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



『昔のクリスマスの話』

Isabelle de Saizieu編

クリスマスツリーの本当の歴史


クリスマスツリーがアルザス地方に生まれたことは歴史家たちの間に通説となっている。というのも、クリスマスツリーを明確に記している一番古い歴史資料は1492年のストラスブール市と1521年のアルザス地方の中央にあるSélestat市に見られるからである。また、1555年と1557年のSélestat市に保管されている本にもクリスマスツリーの話が一部でている。

これらの史料を分析すると、「クリスマスツリー」の伐採は規定化されていたことがわかる。また、Sélestat市がご降誕の祭日の数日前から、森林の監視人を雇い、クリスマスツリーの伐採と窃盗を防ぐため、これらの木の番をしていた(昼間だけではなく、冬の長い寒い夜も含めて)こともわかる。

これらの木は必ずしもモミの木ではなかった。古い版画を見ると、クリスマスツリーにしていた広葉樹もあることがわかる。冬になって葉はなくなっているから、その代わりに葉を真似したリボンで飾っている。しかしながら、現代と同じく、多くの場合は広葉樹よりもモミの木の方が使われていた。というのも、モミの木は冬になっても美しい緑色の松葉がいつもあるからであった。
一番好まれたのは「トウヒ」の木だった。このモミの木こそは「アルザス地方のモミの木」であるからである。

読者はクリスマスツリーの話をするとき、もしかしたら「これはプロテスタントの伝統だから、カトリック家庭には入れてはいけない」と言われたことがあるかもしれない。


このような人によると「カトリックの家庭で小屋を置いていることを見たプロテスタントらはカトリックと区別するためにモミの木を置いた」と言われたりする。ところが、本当にそうだったのなら、カトリックの事業としてストラスブールの大聖堂の修理と世話を担当していた「ノートルダムの会」が、1492年、ストラスブールにある九つの小教区のため、九本のモミを買ったのはなんのためだったのであろうか?

プロテスタント改革は1517年に生まれたというのに、それ以前にモミの木が使われたということになる。だから、モミの木はプロテスタントの発生以前からあるということになるので、カトリックとしてモミの木を置くのはなんらおかしいことではない。もちろん、馬小屋が第一の位置に置かれて、モミの木は馬小屋の第二の立場においてあるのは当たり前であるが。

さて、クリスマスツリーの起源はアルザス地方にあるのなら、我らの主、イエズス・キリストのご降誕の祝日の時、一体なぜモミの木を飾るであろうか?

先祖がクリスマスツリーを飾ったのは御托身の玄義とご贖罪の玄義を記念するためである!
現代、時にみられるピカピカの飾りをいったん忘れて、アルザス地方の家に昔から伝えられる古典的な飾り方を見ると御托身の玄義とご贖罪の玄義を記念するために飾られたということがよくわかる。


第一に、モミの木は楽園にある「命の木」を象徴することを思い出そう(注・モミの木はずっと葉を持っているから不死身を象徴している)。そして、木の一番低い枝に飾るのはアダムとイヴの表象となる。よく色付いた綺麗な絵を飾る。人祖の夫婦の上の枝に、収穫の時に大切に保管された一番綺麗な赤いリンゴを枝に吊る。この赤いリンゴは食べてはいけなかった木の実を象徴して、我々の人祖が犯した原罪を想起させる。

また、12月末になっても他に保管された美しい新鮮なリンゴをツルツルになるように拭いて、何個もモミの枝に吊る。これらのリンゴは楽園のいと多くのおいしい果物を象徴する。これらの果物と一緒に、折り紙でも、紙からあるいは鉄からあるいは結晶からの鳥を吊る。これらはもちろん、楽園での美しくさえずる多くの鳥を象徴する。

しかしながら、アダムとイヴは原罪の罰として楽園から追放されて、天国に入れなくなったところ、顔の美しい天使が現れた。だから、モミの木の一番高い枝には天使を吊る。この天使は救い主が送られる御約束を人祖に(そして我々に)父なる天主が約束し給うたことを想起させる。

ところが、ご降誕の喜びの内に、天主の至上の我々への御愛とご受難と十字架上の御死によってこそ我らを贖い給うたことを忘れてはいけない。そのために、モミの木の枝にミサ用のパンを飾る(つまり御聖体ではなく、聖変化されていないホスチアである)。それは、我らのために天国の門を開ける贖罪の玄義を想起させる。

さてさて、幼きイエズスのご降誕を祝う時の数時間前になった(アルザス地方では、クリスマスツリーを置いて飾るのはクリスマスを待つ24日の前夜祭のミサの前の時である)。モミの木の天辺には星を飾ろう。この星は小屋の空に輝いている星で、長い旅をやってきた三人の博士を導く星である。

最後に、昔はモミの木をアルザス風の家の中央部屋、stubb(家族全員が常に集まっていた場所である)の天井に吊る。あるいは、馬小屋の後ろに置く。そして、間もなくクリスマスになるので、多くの蝋燭を灯して枝につる(注・これはイルミネーションの起源である)。



このようにクリスマスの夜、イエズス・キリストはお生まれになった時、幾百万の天使がきて、毎回のミサの時と同じく、「いと高き天においては神に光栄あれGloria in excelsis deo」と歌うことを想起させるのである。

  

お城が学校になる!フランス自由テレビ 『伝道地』

2021年08月03日 | カトリック
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの動画をご紹介します。
※白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために、動画の書き起こしをアップしております

お城が学校になる!



TV Libertés Terres de Mission 
自由テレビ 『伝道地』
作家Sacha Guitryサシャ・ギトリの城がドミニコ修道会のシスター経営のカトリック学校に!

Jean-Pierre Maugendre ヴェルサイユの近くにあるFontenay-le-Fleury市のTernay城におります。南フランスのFanjeauxに本部をおいてあるイエズスの聖なる御名修道会のドミニコ修道女が案内してくださることになります。Ternay城はかつて、Sacha Guitryサシャ・ギトリの城でした。現在、修道会のお城となりました。
さて、最初の質問です。購入する前の、この城の歴史ご紹介していただけるでしょうか?

Diane-Marie修道女 Ternayという地名の最初の出現は15世紀末の公正証書において見られます。Ternayは恐らくラテン語のTernasに由来しておりまして、「第三、三番目」との意味であります。というのも、Le Vicomte家の三番目の領土だったことから転じます。当地の封領はVillepreuxにあり、そして第二の領土は本学校の隣にある「Ferme des Graviers」にありました。

1740年になって、Grassot氏はTernay城を購入しました。狩猟御用官(王室のための狩猟用の領土などを担当する官職)だった彼のお陰で、Ternay城の領土は整えられて庭も整備されて、済みやすい家に建て直されたと思われます。1770年になってルイ15世はTernay領土を購入しました。当地にとって大出来事でした。というのも、その時、Ternay領土は王領に格上げされて、ルイ15世の狩猟御用領土となったからです。そして、1774年、ルイ16世が即位した時、Ternay城を継承しておられて、高等賓客のために使わされたのです。

1793年になって、革命によってTernay領土は「国家財産」と宣言されて、また革命期の間、領土の建物や庭などに対する弊害は多かったのです。それを示すのは19世紀の間に行われた大がかりの修理工事でした。修理の建築様式は総裁政府時代の建築様式です。革命以前から残ったのは本館だけです。それから、1938年になって、Sacha GuitryはTernay城を購入しました。

名声のあるその作家は週末や夏季をここで過ごしていました。庭と家をさらに整備しました。また、ヴェルサイユ宮殿にあるル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌを模倣しながら、小さな動物園のようなものを設けました。その時代、多くの動物は庭で自由に放し飼いされていました。1957年、Sacha Guitryが亡くなると、領地は売られて、2015年まで市井の家族がここに住んでいました。そして2015年に当地の学校が開校します。

Jean-Pierre Maugendre 学校についての質問ですが、修道会系の女学校の特徴、教育方針について説明していただけるでしょうか?

Marie-Pascale修道女 全国の他の学校(13か所)と同じく、本校においても第一の目的は遺産を伝えていくことにあります。まず、信仰という遺産です。またギリシャローマの文明において育まれた信仰の遺産を伝えていきます。
また、文学や歴史上に残された真善美の作品などを教えることによって、人間という存在への理解を深めて、その神秘とその目的、存在理由と運命に接するように努めております。

女学校なので、さらに、女性に与えられている特別な使命と役割を教えて、つまり、大人になってから生徒たちが担っていく役割を立派に果たすように生徒たちを指導しております。このように、教えられる文化を元に、私たちの生徒は人生にかかわる基本的な現実や物事に対して客観的な判断と評価ができるように努めて、そのおかげで生徒たちはより完成な人になっていくように、自由になっていくように努めております。
このようにして、今日の女子をそれぞれの召命に従って、置かれた場所で、立派なカトリック女性になっていくように養成するという教育方針です。

Ternay領土は岩や緑や水からなる詩のような場所です。ヴェルサイユ宮殿とパリからすぐ近くにありまして、教育事業に従事するために、またドミニコ修道会の召命に従って教育するために理想な場所です。
このように、建物の修理や庭の整備の計画をやっております。このように、Ternay領土は大昔のように復活して、復興して、ヴェルサイユ宮殿を心にした王冠の一つの輝かしい宝石になるように努めております。

Jean-Pierre Maugendre
 さて、遺産という意味で、どういった修理などの計画があるでしょうか?購入した時の状態はどうだったでしょうか。そして今までどういった修理などは行われたでしょうか?

Diane-Marie修道女
 購入した時、よい状態で引き継ぎました。現在、いくつかの修理工世事を行うことによって、当地の特別な雰囲気と性格を維持するように努めております。つまり18世紀風の建物です。庭に関して、特筆すべき樹木を維持する方針です。例えば、オーストリアの立派な樹木がありまして、18世紀の樹木なのです。また、フランス風の庭、この庭が最初に創られた時のスタイルを復元する予定です。フランス風の整然とした風に合わせて、穏やかなカーブを持つイギリス風の庭なのです。



Jean-Pierre Maugendre 本日のルポルタージュにおいて、当地の遺産にかかわる者を中心にご紹介しております。切っ掛けとして、「Valeurs Actuelles誌」の記事で、「シスターたちが国家遺産を維持してくれる!」と題された記事です。
それから、増築の計画もあると聞いておりますが、詳細を聞かせてください。

Marie-Pascale修道女 増築の計画は具体的にいうと二つの別館を作ることにあります。両別館合わせて、一階での広い二つの部屋、それから、二と三階で合わせて教室を14つ整備して、本館と歩道橋でつながらせる計画です。建築の計画は領土の様式を尊敬して合わせて造るということです。庭の均衡も保って、町側で庭の低度あたりに建てるという方針です。建築家、Madelin氏によると、「森の宝石に安置された海中の別館」となる予定です。国会遺産の建築家や国会財産委員会の調査委員会の基準を満たすために、建築家はほぼ20ほどに計画を見直すことがありました。最初の提案は大昔の図式をそのままに採用することでしたが、何度も修正版を経て、より斬新的な建築計画となっていきました。

Jean-Pierre Maugendre 先ほど申し上げた記事において、ヴェルサイユ宮殿の管理保管長は本計画について非常に積極的に称賛したと記されています。Marie-Laure de Rochebruneです。彼女はここに来たと思いますが、どういった反応だったでしょうか?

Diane-Marie修道女 Rochebrune氏をはじめ、他の多くの方々もそうでしたように、当地を訪れて、美しい遺産だとすごく驚嘆されました。ヴェルサイユ宮殿の管理保管長としても、他の方々よりもヴェルサイユ宮殿との特別な絆を深く感じられたようです。また、教育でいうと、どういった芸術の教育を生徒に伝えているかを見て、大変に喜ばれたとされています。



Jean-Pierre Maugendre さて、そろそろ最後になりますが、結びの言葉はあるでしょうか?また、具体的に協力したいと思うなら、どうすればよいかを教えてください。

Marie-Pascale修道女 結びとして、Ternay城で過ごしている若い娘は詩人になる話をやりたいともいます。内の一人の生徒が作成した詩です。小学校四年生です。「我が学校」と題されています。
「王たる住いよ、大昔はこの松の下にルイ15世はおられたのではないのか?
昔の門は王の前に開かないが、夢の並木道を歩く女子たちを教室まで道ばれる
美しき天井の下と豪華な壁に囲まれて、教室で時間が経つ。
城主となった有名な作家もここに住んだよ。
私らも羊毛の帽子をかぶっても、城主になったよ。」

Jean-Pierre Maugendre なかなかうまかった。さて、視聴者たちが協力したいと思うのならどうすればよいでしょうか?

Marie-Pascale修道女 庭園の維持に貢献して、樹木一本でも植えることを支えたい方がいらっしゃるでしょうか?あるいは、ヴェルサイユの平に位置している王たる空気の一本の維持のために協力したい方がいらっしゃるでしょうか?あるいは、別館の建築に、岩を一個でも一〇個でも建てるために協力したい方がいらっしゃるでしょうか?
Peguyの言葉を借りたら、フランスもキリスト界も続くために協力したい方がいるでしょうか?未来の世代へ知識や文明を伝えていくために協力したい方がいらっしゃるでしょうか?
ぜひともウェブサイトのwww.scholae-fanjeaux.orgにて、寄付するための詳細情報がありますので、ご参照までよろしくお願いいたします。

Jean-Pierre Maugendre 院長様、私たちを迎え入れてくださってありがとうございました。
次回の番組のため、また来週に会いましょう。そこまで、聖父と聖子と聖霊である天主様のご加護があるように。皆さま、よい日曜日、よい週になるように。


フリーメイソンはルシファー教なのです【3】回心の経緯|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月21日 | カトリック
元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


続き)
「フリーメイソンを辞めた理由」

セルジュ「これはね、いろいろ経緯がありました。
その時、車を運転していました。ある会議から帰る道でした。渋滞がありました。で、ラジオをつけてみたら自動検索モードでした。で、カトリックの地域ラジオ、RCF Pays d’Audeに当たります。で、全国のカトリックラジオと同じように、毎日、午後3時30分から、ルルドのロザリオが放送されていました。つまり、その時、私はロザリオの生中継に当たりました。たまたま。ロザリオと言う祈りを聞いたことは一度もありませんでした。ロザリオの存在ですら知りませんでした。

その時の記憶、その時に感じたことを表現するために、このたとえにしましょう。つまり、生まれながら耳が聞こえない人はいきなり奇跡的にも聴覚が復活して耳が聞こえるようになるうえに、モーツァルトのレクイエムを聞かせるような経験でした。本当にこの上なく綺麗なものでした。その綺麗さを表現しようとも言葉に絶するような素晴らしいことでした。



ロザリオを聞いて、私の心が刺されて絶えまなく感動していました。そのあと、子供時代の時、初聖体拝領の際にもらったロザリオを何とか見つけたほどに感動していました。家のどこかの引き出しで落としていたような感じでした。このロザリオは家にまだあったということもたまたまではありませんでした。というのも、昔から私は何度もこのロザリオを手放そうとしたのに、どうしても私の手に戻ってしまったわけです。主はやはりこのロザリオを手放さないようにお望みでした。私はこのロザリオをカトリックの友人に何回もあげたのに、毎回返されてしまったのです。

で、この経験のあと、ロザリオの祈りを習い、ロザリオを祈り始めました。そして、ついにルルドへ参りました。ルルドの洞窟に行って(注・1858年、聖母マリアが出現した場所。有名な巡礼地)、聖母マリアの御像の前にロザリオを祈っていました。
そして、祈りが終わったら、帰ろうと思って、手荷物を片づけました。で、出発しようとした瞬間、私はドンッと地面に倒れました。なんか、私の足は麻痺していたかのように倒れたのです。私の足は亡くなったかのような感じでした。周りの人々は私の転倒を見て近づいてきました。

その時の私の状態はまず仰天で、茫然自失していました。その上、やはり怖い気持ちもありました。「これはなんだ。どうしているのか」という恐れもありました。なんか、いきなり理由もなくこのように地面に倒れたら、心配に値しますね。そして、前にある聖母像を眺めました。その時、聖母マリアの出現はありませんでしたが、聖母像は妙に光っていました。その時、何が起きているかなんて私は何もわからなかったのです。途方にくれました。そして、周りの人々は私が起こすように助けてくれながら、「あらあら、膝の障害で奇跡を乞いに来たのか」といわんばかりの多くのコメント。その時、私は頭の中で、彼等を罵倒したかったのです。「ほら、毎週10キロを二回走っているし、いつも元気いっぱいで健康だったから、もう。。。」という思いで。。。やはり不思議でした。



しばらくしたら、どのぐらいの時間だったか、なんとも言えないのですが、ある程度長かったと思いますが、周りの人々はいよいよ私を持ち上げて起こしました。というのも、周りの人々は私を起こそうとしても、私の足は持てなくて立てなかったのですよ。一旦、持ち上げられても足は麻痺しているかのように、もう一度倒れたりしていました。
で、しばらくしたら、ようやく足は戻って、帰りました。私のヴェストが裂けていていたので、ホテルに帰ってヴェストなどを見た家内が心配していました。「どうしたの」といわれて、私は恥ずかしくて実際に何があったかを言えなかったのです。なんか「滑って倒れた」というような言葉で逃げました。

私はやはり心配していて、医者を訪問しました。いわゆる、検査してもらうために健診を受けました。私はいきなり理由なし倒れたことを医者に報告していました。もちろん、ルルドなどの話はしませんでした。というのも、私は狂気でもあるかと疑われることは怖かったし。で、私は深刻な癌でも、多発性硬化症でも何か重病にかかっているのではないかと医者に私の疑問を聞かせました。で、検査の結果、問題なし。。。

で、検査の結果が報告されたら、私は医者に転倒の事情をより詳しく報告しました。ルルドでいきなり倒れたと。医者は「いや、なんだろう?健康上の問題はないし」と答えて。で、私は怖かったその言葉を言いました。「もしかしたら、私は精神錯乱でも心理的な問題がある可能性が?」と私は医者に聞きました。で、医者は「セルジュ、10年前から私はあなたのかかりつけ医でしょう。もう、精神的にも心理的にもあなたは問題なく安定ですので、それはないと思います。精神病も神経症もあなたにないと見ています」と答えられました。

その結果、私は結論しました。もう、これは病気とか身体とかの問題ではなくて、やはり超自然の問題だったと認めざるを得ませんでした。ですから、そのあと、神父の助けを求めにいきました。
一番不思議なのは、以上の経験は身体上の経験にとどまらなかったのです。同時に、説明しづらいですが、ある種の「当たり前」の気持ちが私の心に溢れました。つまりキリストと聖母マリアの私への愛がいっぱいであるという事実を「当たり前だ」という気持ちが溢れて不思議にも強くその気持ちを抱いていました。

この愛は両側だったというか、つまり、私の方で聖母マリアとキリストを初めて愛しました。初恋のような気持ちで、15歳になって初めて恋するという激動の愛。そして、同時に聖母マリアとキリスト側の私への愛は幾倍も大きくて、私は凄く愛されていることを感じました。で、何よりも聖母マリアとキリストの愛は私のためにあったという不思議な気持ち。

その結果、どこかの修道院で黙想会に参加することにしました。Lagrasseの修道院で、一週間を過ごすことになりました。本当に私にとって不思議なことでした。修道院の門を潜って、私のために用意された小室に入ったら、壁に十字架上のキリストがありました。で、それを見て泣き出しました。私は泣かない人です。というのも、私の先祖がアンダルーサ出身で、アンダルーサの人々の誇りは非常に高いわけですよ。ですから、「男なら泣かないのだ」と子供の時から父から教え込まれていた者だから、私は泣かない者です。しかしながら、十字架上のキリストを見て、生まれてから初めて、涙のかれるまで泣きましたよ。

このように、信仰に戻った経緯をちょっと語りましたが、もちろん、経緯はその他にもいろいろありました。
要は、いろいろのことがあって、「わかった」ということです。フリーメイソンの神、フリーメイソン的な自然主義的な神は概念、観念に過ぎないことをいよいよわかったわけです。フリーメイソンの神は理念上の観念に過ぎないのです。一方、天主は実在します。本物の神、カトリックの神である天主はまさに実在するということを初めて知りました。で、実際に天主は我々を愛し給うのです。

で、認識しました。私の理性の力で理解したのではなくてね、天主の恩寵の働きと助けのおかげで分かったのです。
結局、単純で簡単なことです。フリーメイソンのいわゆる「光」はたとえてみると電球の光にすぎません。いわゆる、その上なく輝かしい太陽、核兵器の爆発を越えるキリストの愛に比べて、似非光である電球。

ですから、はいそうですね。私は直されたのです。癒されたのです。回復せられたのです。一旦、救われたでしょう。もちろん、この世では最期まで救いを決定的に獲得することはないのです。天主は単純にわれわれを呼び求めておられます。そして、その呼びかけに答えるかどうかは我々の自由意志です。いわゆる、街を歩いて出会う乞食のようなものでしょう。つまり、良き心の人が乞食に一札をあげるとしましょう。我々は乞食であるとして、手を握っているままで一札を貰わないことにしたら、この一札を得ることはできません。天主は私たちに対してこのようなやり方で接触しておられます。かつてまで、私は手を握っているままでしたが、もう今、手を開いて天主の賜物を頂こうとしています。

それ以来、説明できない、言葉に絶する愛を経験しているわけです。この「説明できない」という部分を取ったら、フリーメイソンの秘密との類似性があります。しかしながら、この類似性はあくまでも形式的な類似性にすぎません。中身は全然違います。というのも、フリーメイソン会員は自分の秘密を追求していることを信じています。ただし、フリーメイソンは精神療法ではないわけです。フリーメイソンは曖昧にして「真理」をいつまでも追及しています。「自分の真理」を追究しています。しかしながら、結局、追究した結果、自分自身のみがあります。自分自身にぶつかるのです。しかしながら、キリストなしの自分自身は非常に貧しい者で、愚かな者に過ぎないわけです。」

取材者 「今日になって、引き返せるとしても、絶対に引き返さないことにするでしょうか?」

セルジュ「絶対に引き返したくないのです。物質的に、回心する前の日常と今の日常を交替できたとしても絶対にしません。というのも、回心する前の生活標準は物質的に言うと、今よりはるかに豊かでした。もちろん、今、地味でも貧乏になったわけではないのですが。言いたいのは、回心したおかげで得られたキリストの内に信仰を失うことを意味したら、絶対に嫌です。決して手放したくないのです。キリストから距離を取って豊かになるよりも、イエズス・キリストの愛のうちに乞食になった方が絶対にいいと思って覚悟しています。

どちらかというと、私にとってこのような問いすら成り立たないのです。当然になによりもまずキリストです。他のすべては二次的です。世間と天主があります。マモン(お金)と天主があります。私は決定的に天主を選びました。この選択は絶対に変えられないように毎日、祈っています。私から見ると、この選択は不可逆だと思います。そして、キリストから見ると、天主は人間と違ってこの上なく誠実なので、私を見捨てることはいつまでもないことを確信しています。

天主はいつもおられます。いつも傍におられます。このように元気に見えるでしょうけど、回心してからかなり大変なことがあって、ひどい目にも合っているけど、イエズス・キリストのお陰で乗り越えられます。私が倒れてもイエズス・キリストは私を持ち上げ給うのです。そして、聖母マリアもおられます。表現しづらいことです。説明するのは難しいです。しかしながら、これは毎日生きている現実です。殆ど感知できる現実です。
まあ、この動画を見るフリーメイソン会員は私の話を聞いておそらく疑いを表すでしょう。

そのような方に二つのご提案があります。最近に出た書籍を読むことをお勧めします。私の本ではないですよ。自分の本の広告はしない者ですからね(笑)。Sarah枢機卿がお書きになった書籍で、「沈黙の力」と題されています。素晴らしい本です。そして、この本を読んだ上に、一回ぐらい、御聖体のみ前に礼拝するようにお勧めします。それでもフリーメイソンを捨てなくて回心しないのなら、もう、彼等は心を閉ざすことにしているということです。それなら、仕方がありません。乞食が手を握っているままと一緒です。」

取材者「御証言、真にありがとうございました」

セルジュ「こちらこそ、ありがとうございます。」 終

フリーメイソンはルシファー教なのです【2】影響力|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月19日 | カトリック
元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


続き)
フリーメイソンの影響力について

セルジュ「フリーメイソンの影響力は紛れもない事実です。「人権ロッジ」においてよく経験したことですが、大東社ロッジの方にさらに多いと思いますが、毎年、いわゆる「社会問題」が提示されて我々は勉強することになっていました。全国のロッジにおいてこの問題が議論された結果、全国レベルで総合報告書が作成されます。そして、この総合報告書は大統領と政府に提出されます。要は、政治家たちは必ず正式にフリーメイソンの立場がどうなっているか報告されているわけです。しかしながら、それよりも大事なのは、いわゆる「国会の友愛クラブ」の影響力は決定的です。」

Le Point新聞(左派の大手雑誌)記録資料。「国会の友愛クラブ」の信徒たち(2007年1月18日の記事)
抜本「地方に長年の間、やってきたフリーメイソン会員が次のように説明しています。「この地方では、フリーメイソンとかかわらないで、政治をやるのは至難の業である。左派の政治家ならなおさらだ」」

セルジュ「考えてください。地方のどこかの田舎に40人がいて、これらはある程度の権力と人脈を持っています。で、一人ずつ、ある課題について、例えば社会問題について、重要な立場にある、人脈の20数人に働きかけたら、全体的にどれほどに強い人脈と影響圏になるか想像に難くないのです。そして、全国レベルでも同じです。同じ問題、同じ対策を全国のロッジに流されたら、なおさらのことです。このようなやり方はフリーメイソンがフリーメイソンの理想を拡散するための一つの手段です。」

セルジュ「「国会の友愛クラブ」は、当選されたフリーメイソン会員、あるいは国家の高等官僚のフリーメイソン会員からなっています。私が手元にある正式に公開されている数字によると、「国会の友愛クラブ」には400人ぐらい会員がいます。その内の250~300人ぐらいは当選された政治家です。残りは官僚の人々です。言いかえると、国会両院の内、300人ぐらいはフリーメイソン会員であることになります。つまり、議員全員の三分の一の議員たちはフリーメイソン会員になっています。もちろん、この割合は少なく見積もってなのです。

「国会の友愛クラブ」に属しないフリーメイソン会員もいることが想定されているからです。かつて、「国会の友愛クラブ」の会長は公けに宣言しました。これを証明する資料を保管しているので、本において紹介しています。会長はこういっています。「私は会長としての役割をちゃんと果たしたら、左派右派を問わず、フリーメイソン会員の両院の全員は社会問題に関する法案で同じ投票をするでしょう。」
「社会問題」とはいわゆる男女平等、同性愛、安楽死、堕胎などなど。ですから、数年前のいわゆる「同性愛結婚」が一体なぜ通ることが可能になったかというと、フリーメイソン議員の投票で理由が尽きます。

また、有名人でFred Zellerの例を挙げましょう。彼は大東社のグランド・マスターでした。また、当時、トロツキーの秘書官としても活躍しました。どういった人物だったかを理解するために面白い事実でしょう。で、Fred Zellerが明白に言ったことがあります。つまり、国会にいるフリーメイソン会員の仕事は何よりもまずフリーメイソンの理想を支えるために働くことだと、このフリーメイソンの大物が明白に言いました。私が言っているのではないのですよ。」

フランス国立視聴覚研究所の記録動画
取材者「フリーメイソン結社はいまだに政治への影響力はあるでしょうか?」
Fred Zeller「はい、もちろん。どちらかというと、第三共和国と第四共和国の時代よりも、フリーメイソンの影響力はいまのほうが強いかもしれません。(注・第三共和国の時、大東社だけで、議員の八割がフリーメイソン会員だったという時代もあった)今は、昔と比べて、フリーメイソンは別次元に移っただけです。」

取材者「どこの次元でしょうか?」
Fred Zeller「簡単でしょう。全国のどこの団体にも、労働組合にも、グループにも、フリーメイソン会員はその中枢の立場やトップにいるわけだから、(その影響力は)自明でしょう。」

2017年2月27日, RTLラジオ局(大手ラジオの一つ)の公式ホームページにて
「彼は(オランド大統領)、現役の大統領でありながら、フラン大東社のロッジの本部に正式に訪問したのは(歴代大統領の内で)初めてです。」

2017年2月、L’Express誌(大手の左派雑誌)より(2017年の大統領選挙のちょっと前)
「(ロッジへの)大統領の訪問の意味はどこにあるだろうか?選挙における効果はおそらくゼロに近いだろう。しかも、歴代大統領の内で初めて再選を諦めた大統領として、選挙上の効果が期待できない。しかしながら大統領は何の利益を求めないで訪問したことになるだろうか?ちょっと惑っている兄弟たちに慰めの言葉を伝えるだろうか?Benoit Hamon会員(注・当時、文部科学大臣でもあった)はライシテを厳格に捧げているのに、兄弟であるはずのManuel Valls(当時の内務大臣)がBenoit Hamonがそうでもないだろうと発言して、また(当時の右派の代表人物だった)Francois Fillonがカトリック主義を唱えることも話されるだろう。」

テレビにて発言するフランソワ・オランド。
オランド大統領「私もそうなのですが、共和政を固く信じている者ならば、いずれかフリーメイソンを通じなければ何もできません。」

セルジュ「「フランス大ロッジ」の元グランド・マスター、Pierre Simonもいますね。彼は堕胎の合法化に大きく貢献した人物です。」

「生命を与えるというのは、障害のない子供を産むということだろう。。。ダウン症の者は以上の枠内にはないだだろう」Pierre Simon フランス大ロッジの元グランド・マスター『すべてのことにおける生命』からの抜粋

セルジュ「このように堕胎に関する諸法律は直接、フリーメイソン結社とかかわっているわけです。フランスでは、このような「社会問題」に関するすべての法律はやはりロッジにおいて考えられて成熟されています。「成熟」という言葉はPierre Simonが使っている言葉で、ロッジで国の法律は成熟されていると彼はいっています。

この意味で、最近、私が出した第二の書籍において、最近の事例を取り上げました。いわゆる「レオネッティ法(注・晩年に関する法律)」の改革法案がありましたね。いわゆる、安楽死を合法化するための法案でしたが、私はこの法案において、ロッジの文書でつかわれている同じ表現、まだ「女性フランス大ロッジ」が政府宛の手紙にある全く同じ表現が使われていることがわかりました。同じ言葉ですよ。それはたまたまではありません。具体的にいうと、「深刻鎮静化」と「最終鎮静化」といった表現ですが、安楽死を婉曲の形で表現するための表現です。

ときどき、フリーメイソン会員は私を非難して、「彼はフリーメイソン嫌いだけであるからばかだ」といっています。しかしながら、全く違います。私はフリーメイソン会員の不幸を願うようなことは全くありません。その逆です。フリーメイソン会員がキリストの光を見られるように毎日祈っています。残念ながら、フランスの法律はロッジにおいて作成されている単なる現実確認にすぎません。これで本当に民主主義の実践だといえるかはちょっと疑問ですが。」

取材者「いつの間にかルシファーに奉仕していたことに気づいた、とおっしゃったことがありますが」

セルジュ「その通りです。当然といえば当然ですが、紛れもなくフリーメイソンはルシファー教なのです。ただ、ルシファー教という意味はどうなっているかを説明しましょう。ルシファー教あるいは悪魔教の意味になりますが、フリーメイソンではいわゆる「黒いミサ(注・カトリックミサを真似て、冒涜して、カトリックの典礼を覆す悪魔教の儀礼)」や「子供を殺して生贄を捧げること」や「集団乱行」などはありません。いわゆる、性的行為を踏まえたサタン的な儀礼などはありません。」

取材者「セルジュ様の知る限りということですね」

セルジュ「はい、その通りです。指摘してくださってよかったです。私の個人的な経験に照らして、このような儀礼を見たことはありませんでしたが、確かに全くないとは限らないのです。私はあくまでも証人です。神学者でも宗教学者でもありません。私は長年、フリーメイソン会員だったということで、単なる証人ですが、そして聖霊の導きのお陰で信仰に戻った一人にすぎません。つまり、私はこの目で見たことについてのみ証言しています。

ですから訂正しましょう。私は黒いミサのような儀礼を見たことがありません。しかしながら、多くの著者は確かにこのような儀礼について証言したりします。特にスペイン人の学者ですが、Ricardo de la Ciervaという有名な学者があります。彼はこう説明しています。「すべてのフリーメイソン会員は悪魔礼拝者ではありません。しかしながら、すべての悪魔礼拝者はフリーメイソン会員なのです」と説明しています。このことは単なる現実の確認なのです。学界では彼の研究の成果は評価されているわけです。例えば、合衆国での悪魔教の創立者はAleister Crowleyですが、彼はフリーメイソン会員でした。」

Aleister Crowley(1875-1947)あだ名は「666の大猛獣」

セルジュ「また、他の研究によると、Albert Pikeも悪魔礼拝者の一人だったことが明らかです。で、Albert Pikeは平気に言っていました。「フリーメイソン教」。はい、「教」といっています。私が想像した表現ではないことが明らかでしょう。で、Albert Pikeは「フリーメイソン教はその上なく悪魔の宗教なのです」。それだけではなく、Albert Pikeはさらに言っています。「ルシファーもAdonai(注・キリスト)も神だ」といっています。そして、「残念なことにAdonaiも神です」と。」

Albert Pike(1809-1891)
Albert Pikeの言葉
「我々は神を崇拝しますが、実際に迷信のない神なのです。我々、秘伝に与った高等階級の(フリーメイソン)会員らはルシファーの清い教えの内に我々の宗教を生きてい行かなければなりません。ルシファーが唯一の本物の神ではなければ、一体なぜAdonai(注・キリスト)がルシファーを誹謗するでしょうか。Adonaiのすべての言動は隣人に対する過酷さ、(。。。)憎しみと科学の否定を語っているのではないでしょうか?はい、ルシファーは確かに神です。しかしながら、残念なことにAdonaiも神です」
(スコットランド典礼の32級の会員向けの発表からの抜本。1889年7月4日の言葉。)
Albert Pike曰く、「ルシファーの清い教え」

セルジュ「要するに、フリーメイソンは悪魔教の側面が強いといっているのは、私が想像していることではないのです。ただし、フリーメイソンの場合、この悪魔教的な要素が少しずつ現れてくるわけです。非常に段階的に示されている様子なのです。言い方を変えると、悪魔教であるしるしは多くあって、そして、昇級すればするほど明らかになっていきますが、それを見ないふりする会員が多いです。

一例を取り上げましょう。マスターの階級になると、特定の合言葉と「聖なる」言葉があります。この二つの言葉はTubalcainとMoabonなのです。Tubalcainはつまり「マスター」の言葉なのです。で、TubalcainはCainの子孫にあたる人物です。マスターになるための儀礼の時、本人は象徴的に死ぬかのようにして本人が倒れるのですが、いわゆる、フリーメイソン会員の模範となるHiramの殺人を演技するような儀礼がありますが、そのあと立ち上げられたら、「Tubalcain」という言葉は本人の耳に呟かれます。で、その通過儀礼の結果、本人は新しいHiramとなるということを意味する儀礼です。ここはキリスト教的な復活でもなんでもなくて、ある種の輪廻転生のようなことで、Hiramの霊を受けるような、本人において再生するような意味です。で、その時、「Tubalcain」という言葉も耳に呟かれます。

言いかえると、フリーメイソンのマスターになると、精神的にCainの末裔になったよということを意味する儀礼です。しかも、二つ目の言葉をみると、更に自明となります。Moabonはヘブライ語ですが、その語源を見ていきますとね。ちなみに、私はヘブライ語の専門家ではありませんが、ヘブライ語の専門家の研究によると、皆同意しています。またフリーメイソンは自ら同じことを断言しています。Moabonは「父の息子」という意味です。

要約すると、マスターになると、特定の言葉を二つ預かります。マスター同士の合言葉としても、マスターという資格を主張するためにも使われているTubalcainとMoabonという合言葉です。つまり、人類史上、初めて殺人したとされるCainの子孫にあたるTubalcainという父にして、マスターはその霊的な子孫になったことを意味する「マスターの合言葉」ですね。まあ、このようなわざとらしい象徴は好ましいとは言えないと思います。

まあ、「セルジュの個人的な意見だ」、「間違った意見だ」と思われる人々が出てくるかもしれません。しかしながら、Jean Baptiste Willermozという人物の証言を見ておきましょう。彼は有名な評判のあるフリーメイソン会員ですが、19世紀の時、「改革され、承認されしスコットランド典礼」を編纂した大人物です。この典礼はフリーメイソンでは大きな存在感を持っているので、フリーメイソン関連でいえば、知るべき典礼です。

で、Jean Baptiste Willermozはマスター階級の儀礼から、「Tubalcain」という言葉を削除しました。その理由は「悪魔的な言葉」だからだと説明しています。ですから、セルジュ アバド・ガラルドが主張していることではなくて、19世紀、「改革され、承認されしスコットランド典礼」を作成した大人物が言っていることです。高等階級にいるフリーメイソン会員なら、フリーメイソンの正体をよく知っているわけです。問題は、多数派のフリーメイソン会員はこのようなことを知らないままです。隠されているからです。私も経験したことですよ。長年いても、何をやっているかはよくわからないままでした。

つまり、通過儀礼の時、「Tubalcain」という言葉を耳にしたとき、もちろん、私は私なりにその時、疑問に思いました。だから、私をフリーメイソンへ推薦してくれた親友、当時、通っていたロッジの上の人間でしたが、直接に彼に聞いてみました。彼に信頼していたから。「Tubalcainはどういう意味なのか」と。彼は答えました。「心配はいりません。Tubalcainは単なる鍛冶屋という意味ですから」。つまり、Cainの子孫であるというような話は一切何も言われなかったのです。そここそ、フリーメイソンの危険性があります。というのも、フリーメイソンなら、書かれていないことこそが大事だからです。」

「真っすぐさ、垂直さ、良心の印であるこの定規の上に、そして、これから我が法になるこの憲章の本の上に、また、不可侵にしてフリーメイソンの秘密を固く守りつくすことと、許可なしにフリーメイソンに関する見聞を絶対に記さないことを誓います」

セルジュ「フリーメイソンの本質を把握するために、それぞれの儀礼と組織の行間を見なければならないから、ある程度、深入りして検討しないかぎり、見えていないことは多々あります。講演などで、私はフリーメイソン会員に向けてよく言っています。「気を付けてください。Tubalcainの意味を考えたことがありますか?象徴的な意味があるから、よく考えてみてください。検討すべき点でしょう」と警戒するように頑張っていますが、殆どの場合、フリーメイソン会員の多くは象徴的な事柄と理論上の事柄を混同しています。しかしながら、両方は異質であって、象徴と理論は全く違います。象徴を通じて具体的に人間の精神へ作用して、精神的な影響力は実際にあるので、理論と違います。だから、象徴を軽視してはいけません。」

フリーメイソンにおいて溢れるほどに数多くの象徴がありますが、一つには服装にかかわる象徴があります。
セルジュ アバド・ガラルドはフリーメイソン会員だった時代の幾つかの遺物を保管しているので見せていただきました。

セルジュ「例えば、これはフリーメイソンの手袋なのです。コンパスと定規が刺繍されていることからフリーメイソンの手袋だとされています。すべてのフリーメイソンはこのような手袋を持っていて、定期の儀礼の際、その着用は義務化されています。もちろん、象徴的な意味があって、いわゆる「意志の清さ」を象徴しています。というのも、入会の儀礼が終わってからすぐ、このような手袋が新会員に渡される時、その象徴的な意味があることも伝えられます。

次に、これは見習いの前掛けなのです。入会の通過礼を受けた時、腰に纏われる前掛けの布です。
これは、マスターの前掛けなのですが、二つの文字が刺繍されています。「Mと三点」「Bと三点」。フリーメイソン的な暗号ですが、Moabonの略号を意味して「父の子」という意味ですね。先ほど紹介したように、Tubalcainとの絆を表して、つまりフリーメイソンのマスター(親方)はCainの霊的な子孫にあたることを示すための象徴です。



そして、前掛けの布のあと、(つるぎ用の)負い革もあります。いわゆる、剣を掲げていることを想起するための服装です。そういえば、「承認されし古きスコットランド典礼」(注・一つの主流なフリーメイソンの典礼)において、神殿騎士団との霊的な絆が重視されています。この負い革には定規とコンパスがあります。そして、その中に「G」という文字があります。それぞれのロッジでは多少、違う意味がありますが、「グノーシス」あるいは「重力(Gravitation)」あるいは「ゴッド」などの意味があります。このようなことは恐ろしいです。というのも、隠されている事実なので、皆、黙っている事柄だからです。・・・続く

フリーメイソンはルシファー教なのです【1】入会|元フリーメイソンでカトリックに回心したセルジュさんの証言

2021年06月16日 | カトリック
フリーメイソンの多くはロベスピエールの時代、あるいは少なくとも革命時代を懐かしんでいます。フリーメイソンはやはりルシファー教なのです。この負い革には定規とコンパスがあります。そして、その中に「G」という文字があります。このようなことは恐ろしいです。というのも、隠されている事実なので、皆、黙っている事柄だからです。

その時、一番不思議なのは、単に身体にかかっただけではなく、聖母マリアとキリストによって愛されているというこのうえなくはっきりとした気持ちとなったことです。その時、十字架上のキリストを見ましたが、生まれてから初めて、涙のかれるまで泣きましたよ。

元フリーメイソン、カトリックに回心したSerge Abad Gallardo(セルジュ アバド・ガラルド)
「フリーメイソンはルシファー教なのです」

記録映画
編集長 Armel Joubert des Ouches
音楽 Stephan Cayre
ミキシング Cali Schmidt


Reinformation.tv https://www.youtube.com/watch?v=kCZQnT_6sLE

彼は元高等公務員なのです。都市の元局長の他、建築家でもあります。そして、法律家でもあります。セルジュ アバド・ガラルドはその上、元フリーメイソン会員です。コルシカ島のバスチアで入会しました。「大東社ロッジ(グランド・オリエント)」から発生した「人権ロッジ(ドロア・ヒューマン)」において大親方(グランド・マスター)の地位を務めていました。彼は24年間、ロッジに通っていました。第18階級まで昇級していました。

フリーメイソンへの入会はごく普通のパターンです。最初、人生の意義について悩んだ結果、ある日、フリーメイソンに入ってしまいました。
数日ほど、南部フランスの故郷で、セルジュ アバド・ガラルドと一緒に過ごしました。
映画に入る前に、一点だけことわっておく必要があります。セルジュは多くの元兄弟から攻められていることです。

当初、13分の記録動画を出して、短編にしていましたが、重要かつ深刻な課題であるので、今回、記録動画の長編を公開することになりました。
最初は現場まで行くことにしました。セルジュ アバド・ガラルドはかつて通っていた神殿の近くまで連れていってくれました。ナルボンヌの郊外にある小工業地帯にあります。

「ここに戻って、どういった気持ちになっているでしょうか?」
「正直に言うと、悲しいです。フリーメイソンの支配下にまだいるこれらの人々の状況を考えて悲しいです。支配とはいっても、殆どの場合、フリーメイソン会員は自由に同意して意図的に支配されているわけです。それでも私は悲しむのです。というのも、彼等は、さきほどご覧になったように、文字通りにも比喩的にも閉じこもっている人々だからです。」

ナルボンヌの郊外にて、セルジュ アバド・ガラルドが通っていたフリーメイソンのロッジ。


「つまり、セルジュはここを通っていたということですね」
「その通りです。ここを通っていたのです。建物の中、フリーメイソン神殿はありまして、いわゆる、フリーメイソン神殿が通常安置されています。「柱」と呼ばれる二列の椅子や「東方」や多くのフリーメイソン的な象徴で飾ってあります。その神殿において、定期的な開催礼、入会の儀式、それぞれの儀礼が執り行われています。」

「そこにある門は今になって、つまり午後の8時ごろですが、閉まっているはずです。というのも、先ほどご覧になったように、駐車場に多くの車が止まっていて、もう誰も来ていないのです。つまり、定期の開催礼はまもなく始まる時間です。ですから、この門は鍵で閉まっていてもう外から入れないのです。もしも今から入ろうと思ったら、ベルを鳴らさなければなりません。そして、そうするために、暗号はあるわけです。具体的に言うと、通常の合言葉と聖なる言葉はMoabon・Tubalcainの対があります。」

Tubalcain(チュバルカイン)の意味は

「世界の御主(おんあるじ)」、「世界支配」となります。
聖書において、チュバルカインはアベルを殺人したカインの子孫にあたる人物です。。。

定期の開催礼には約40人のフリーメイソン会員が出席します。あるロッジにおいて40人を超えた場合、「分封」が行われます。つまり、15人ぐらいがそのロッジを出て、別の場所で、別の名前で新しいロッジを創立していきます。そして、新しいロッジは40人に達したら、また「分封」していきます。なるべく「分封」していくように、ロッジは拡散していきます。

取材者「セルジュ アバド・ガラルド、こんにちは」
セルジュ「こんにちは」
取材者「お宅に迎えてくださってありがとうございます。最初に聞きたい質問は次の通りです。「フリーメイソン」といった時、どういう定義になるでしょうか?」



セルジュ「フリーメイソン結社を定義するために、フリーメイソンによる定義を提示しましょう。フリーメイソンによると、「思想勉強会」あるいは「友愛団体」だと自称していますが、実際に私に言わせると、私の経験に照らして、フリーメイソンは宗教なのです。これを簡単に証明できるかと思いますし、私の意見というよりも、多くの専門家はフリーメイソン結社を宗教として定義しています。私に関して、まず、証人としていままで経験してきたフリーメイソンは宗教だったことは明らかで間違いないと断言できます。それだけではなく、フリーメイソン会員あるいはフリーメイソンの多くの書物に基づいても、フリーメイソンが宗教であることを簡単に裏付けられて、私なりに証明しておきました。一番早いのは、フリーメイソンの基礎憲章である「アンデルソン憲章」を参照すると明らかです。それから、フリーメイソン会員の間、評判のある大教養人らの文章を参照しても明らかです。」

フリーメイソンの憲章、Worcestershireのフリーメイソン図書館と博物館にて。

「アンデルソン憲章」はフリーメイソンの諸規定を記した規定集なのです。1721年、プロテスタントのジェイムズ・アンデルソン牧師が作成した憲章です。憲章において、フリーメイソンは「神への帰依」に基づいていることが明記されています。しかしながら、問題はこの「神」とはどういった神になっているかということです。というのも、フリーメイソンの「神」、憲章にある「神」はカトリック教会の天主と全く相容れない存在で全く違う存在となっているからです。

セルジュ「フリーメイソンの定期の開催礼に基本的に一か月に二回あって、出席する義務がありますが、つまり定期の会ですが、それについて一つの経験を述べましょう。開催礼が終わったらすぐ、いつものようなことで、数人の会員は「共和政、万歳!」と叫ぶことはよくありました。まあ、そこまで、フランス人ならだれも驚かない事柄だと思いますし、ある程度、政治意見に留まる感もしなくもないので、まあいいでしょう。ただ、その次、「カトリック!くそったれ!」と叫んで結ぶこともよくありました。これは一番著しい現象ですが、ほかでも、ロッジで多くの反教権的な話は出ていたことは言うまでもありません。」

取材者「さて、セルジュがフリーメイソン結社に入った時に戻りましょう。どうやって入ったでしょうか?そして、入ってから間もなく、どういったことが分かったでしょうか?」


セルジュ「フリーメイソンに入る前に、本人に関する調査が行われます。これらの調査の内、明らかな調査がありまして、つまり、面接して、多々の質問がされました。本人の思想はどうなっているか、本人の仕事と環境はどうなっているか、本人の個人情報はどうなっているかなど調べられます。それ自体は問題がないわけです。どこかの団体に新しいメンバーを入れる前に、どういった人であるかある程度調べるのは正当だと言えましょう。多くの場合、以上のような調査の結果、入会できない人々も少なくないのです。それはともかく、以上のような明らかな調査だけにとどまりません。隠れた調査も行われています。つまり、本人が知らない内に行われる調査もあります。要は、本人の周りに数人のフリーメイソン会員が普段からいますが、その正体は本人に隠されています。で、これらの会員は日常の生活において、職場であろうが、どこかのクラブであろうが、本人の思想、好み、行動を調べています。そして、入会に当たってこれらの会員はロッジに報告することがあります。これらの調査に基づいて、ロッジが本人の入会願望に対して配慮するかどうか決めていきます。そして、この入会願望が配慮されたら、次に本人が「目隠し布」の取り調べがあります。要は、本人は目隠しされながら、取り調べられます。」

フランス国立視聴覚研究所の記録動画 『ヴェールを脱いだフリーメイソン結社』

「君の前にある門を叩きなさい」
(中から)「尊敬すべきマスターよ、不規則に門が叩かれました」
(マスター)「不規則に門が叩かれたのはだれか?」
「フリーメイソンとして入会するように依頼している門外漢の者です。」

(マスター)「大エキスパート兄弟よ、大司会者兄弟よ、この門外漢の者を入れなさい」
(マスター)「兄弟たちよ、剣を手にして立ち上がりなさい。」

(マスター)「あなた、ここまでたどり着いた毅然とした態度の実りをそろそろ得られよう。
大エキスパート兄弟よ、大司会者兄弟よ、入門志願者が誓約するため、彼を東方台の第三の階段まで連れなさい。
あなた、右手を伸ばしなさい。頭の中に、私がこれから荘厳に読み上げる誓いを繰り返しなさい。」

セルジュ「入会の儀礼はかなり印象に残っています。質問は多くありますが、中心となる目的は志願者の誠実さを確認するためにあります。ですから、罠の質問も多々あります。つまり、三か月前、本人が知らない内に本人の言葉あるいは行動が報告されて、それについての間接な質問とかも普通にあります。本人は気づかない内ですが、いわゆる本人が正直であることを確認するための取り調べです。まさに、「異端審問的な手続き」と似ています。「異端審問的な手続き」といっても私の口ではまったく批判的な意味はありません。何を思っているか、正直であるかを確認するためには効果的な手続きであることは確かですし、そして、フリーメイソンは侵入されないようにフリーメイソン結社がは非常に警戒している事実もあります。で、ときどき実際に侵入されることはあります。まれですが。
そして、以上の取り調べが終わったら、次にいくつかの試練というか、試みがあります。身体上の試練もあれば精神上の試練もあります。あえて「霊的な試練」とは言いません。というのも、フリーメイソンにおける「霊性」といったら、ちょっと違うと思うからです。」

セルジュ「入会の儀礼の言葉はロッジのマスターたちが唱えますが、非常に演劇的だというか、非常に荘厳にすべく執り行われる儀礼です。例えば、入会儀礼の最初あたりの儀式に、マスターはそこにいるフリーメイソン会員に次のことを言います。「兄弟よ、(あるいは姉妹よ、というのもいくつかのロッジは男女共同になりますが、男性専用のロッジは一番多くて、女性専用のロッジも稀にあるわけです)」。で、マスターが、「兄弟よ、門外漢の者を連れていって、第一の旅をさせなさい。命が残るように無事に戻るように頑張りなさい」と。

あなたが目隠しされながら、このようなことを聞くと、やはりちょっと心配してしまうのですね。例えば、大東社の儀礼だと、入会儀礼の一場面は次の通りになります。舞台には一人の人が地面に横になっている。そして白いシャツを着ているが、血を思わせる赤い色のしみにシャツは染まっているという設定です。つまり、地面にある人が深刻な傷を負っているかのように、あるいは死んでいるかのように見せかけられている設定です。また、身体に剣が刺されているような設定です。で、志願者の目隠し布がいきなりその現場の前に脱がれて、この死体もどき舞台を志願者がみますね。で、「尊敬すべきマスター」が次のことを言います。「裏切り者はこのような目に会うから」と。ですから、このような時、志願者が惑ってもおかしくないと思います。」

取材者「しかしながら、そのような威嚇的な儀礼があっても、あなたはそのまま、24年間、続けられたのはなぜでしょうか?」

セルジュ「確かにそうなのですね。入会の儀礼だけでいってもこれほど威嚇的なのに確かに続けられました。というのも、入会の儀礼の間、何度も何度も聞かれました。「それでも入会の決心を変えないのか」と何度も聞かれました。どちらかというと、入会儀礼もそうなのですが、これこそはフリーメイソン結社の邪悪さがあります。というのも、このような質問があるということは、志願者がやはり同意して、覚悟した上に入会するようにされているわけです。しかしながら、同意するとはいうものの、会員を操縦する側面は否定できないことでしょう。というのも、荘厳な儀礼、猛烈な場面、威嚇的な言葉、強い誓い。これらはどう見たって、心理的な操縦というか、少なくとも強い誘導ですね。これらは感動させて激しい印象を残すわけですから。しかしながら、同時に、本人が覚悟するように、完全に同意して入会するようにされています。ここにこそその邪悪さがあります。
でも、これは一体なぜあり得るでしょうか?志願者にはフリーメイソン会員の推薦者がいるわけです。大体前からの知り合いで、やはり、ロッジへ志願者を推薦した会員に志願者が信頼しているからです。入会の儀礼の間、推薦者は志願者を安心させようとするというか、いわゆる「あくまでも象徴的な儀礼だし」というようなことが言われていますね。あるいは、「これからの儀礼はもちろん非常に重要なので、ちゃんとやって。しかしながら、皆無事にその儀礼を通じたので、大変なことでもない」といったようなことが言われるので、儀礼の間、これを思い出して何とか安心しようとしていますね。」  ・・・続く

キリスト教と法華仏教(8)に寄せて:【国体文化】掲載記事への返答―本当のキリスト教を理解するために―

2021年06月10日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
キリスト教と法華仏教(8)に寄せて 
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

キリスト教と法華仏教(8)に寄せて

ご丁寧に山川説を紹介してくださり、ここに感謝の意を表したい。
本稿において、手短かに、三位一体に関するもう一つの「おさらい」を簡単にさせていただくとともに前もって質問もさせていただきたく思う。

聖書の和訳問題
福音書を直接引用していただけたことはとても良かったと思う。今後の考察のよすがにもなると思うからである。そのさい注意しなければならないと巷間よく言われるのは、どの和訳を使うかという問題である。相澤先生は共同訳を利用されたかと思うが(それは一番正式に見える和訳なので自然な選択ではあるが)、この共同訳には多くの問題があると指摘されている。

というのは、プロテスタント主義と妥協した形で、カトリックの本来の教義を曖昧にさせたり、時には否定したりすらする明らかな誤訳も多々あるからである。例えば、「地獄」ではなく「黄泉」としたり、「天主」ではなく「神」としたり、「イエズス(ラテン語により近い)」ではなく「イエス(日本語訳では歴史上にプロテスタント系)」としたりなどがあげられる。そのほか、敬語などの問題や論考に出てくる「悟らせる」という翻訳も疑問である。

本来ならば福音書を含む新約聖書はラテン語とギリシャ語で書かれている原文を参考にしながら、和訳を見るのがいいが、それには無理があるのは承知している。個人的には講談社のバルバロ訳をよく使っている。注も多くて、歴史背景や翻訳に当たる補足説明も付属しているので便利であるからである。また、典礼用の和訳よりも読みやすいうえに、プロテスタントのいう「無礼」にもならないからである。

ご質問
相澤先生の論を毎回読んで、山川説を継承していることがわかった。それで山川博の著作を紐解いたのだが、参考文献のリストが見えなかった。そこで、どういった文献にもとづき、聖書を説いているか、あるいはキリスト教について判断しているのかを知りたいと思った。ユニテリアンの問題なども出てくるが(無論、その極端説は否定されているかと思う)、しかしながら、こういった立場はかなりドイツ系あるいはアメリカ系のプロテスタント内部での議論と相まって書かれたのであろうか。山川先生はキリストの実在を肯定して(それを否定することは学問上に無理であるので最もなことだが)、また三位一体に特に注目されている。これは興味深いことである。というのは、どういった著書から三位一体を理解したのか?邪説も入っているので、カトリック系のものは少ないだろうと感じたが、実際のところはどうだろうか?

というのも、相澤先生の仏教に関する解説を読んで深く感じたのは「仏教」といっても、無数に宗派はあって統一性は歴史上一度もなかった。この点はプロテスタント諸派と似てはいる。ただし、大きな違いはカトリックという正当な存在に類する存在は仏教においては過去存在していないことも興味深かった。

加えて、本体一仏教?においてですら、汎仏教的な性格が濃厚で、「本尊」もバラバラであることにも驚いた。
つまり、ありていにいうと、明治維新になってから、西洋との接触によって起きた日本における諸宗派の危機を乗り越えるために、西洋にあったキリスト教を比定させることにより、日本の諸宗派を再編成する試みであったと思ってならないのである。つまり歴史も浅い上に、それぞれの「説」に依存しながら、それぞれが当時西洋において流行だった「定説」(しかしながらドイツ系は強くて、反カトリック的なところが濃厚であるという)を受け入れつつも、その実、キリスト教の全体像も、歴史過程もよく把握できていなかったように思われる。それは当時の学者たちに責任をすべてかぶせるのは適当ではなかろう。なぜなら、当時西洋の第一次史料をみることができなかったし、歴史上かなり革命的な近代的な思考を展開していたドイツ系の学派の強い影響があったからである。

三位一体の再度のおさらい
カトリック教会はイエズス・キリストの復活後に制定された。キリストはご自分の教えを弟子に託して、それを守り、布教していくように命じた。相澤先生も引用する有名な一句である。
「私には天と地のいっさいの権威が与えられている。行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ、28,18-20)

ここで二点について注意を頂きたい。正統なるカトリック教会は以上の一句にも見られるように、また他にも多々出るように、イエズスによって制定されて、正式に「イエズスの教えを預かった」ことである。聖ペトロが教皇になることも、司教たちが存在すること、つまりこの位階制が存在することも、ミサをはじめそれぞれの秘跡なども、また霊的な生活のための基本的な戒律なども、すべてイエズスご自身の御言に由来する。いわゆる「統一させる」ためにとか、「利益を得るために」ということではなかった。これを示すのは、使徒全員が殉教死を遂げたこと(福音作成者のヨハネも一応迫害を受けて、殉教死の寸前に奇跡的に救われた結果、自然死を遂げた)や、少なくとも4世紀まではキリスト教(ひいてカトリック)徒になるのは殉教死切符だったということからも明らかである。ローマをはじめ、それぞれの部族も含めて、貴族層から奴隷まで、かなり多くの違う人々は回心していったという事実がある。


それはさておいても、三位一体はやはり事後にできた「説」ではなくて、もともと聖書の中にあったからこそ、三位一体という教義は早い段階で明記されたのである。また、使徒たちはそれをよく知っていて、キリストの本質に関する異端説が出始めると、カトリック教会は最初から徹底的に戦った。そうしても何の利益がなかったのにもかかわらずである。いや、逆に権力者たちの多くはアリウス主義者あるいは他の三位一体を否定する異端説を提唱していたことから考えると、三位一体を守るのはむしろ「自殺行為」に近かったと言えるだろう。

また、このような人間の理性が理解できない三位一体という玄義になぜそれほど執着したのだろうか?これこそ信仰を抜きにして理解不能である。異端説も出たのはむしろ驚かないことであろう。三位一体はまったく人間の発想ではなく、まさに天主のみが啓示できるような理解不能な教義なので、天主の天啓を無視した人間の理性にとってよりわかりやすい何らかの説として思いついたのがそもそもの異端説の端緒にあったということは想像に難くないだろう。

ここでいいたいのは三位一体を信じよということではない。信じるためには、本人の意志の行為が必要であり、つまり自由意志を利用して、イエズス・キリストに信用しようと決意することにあるので、最終的に本人次第である。ここで強調したいのは、三位一体は単なる説ではなく、構造でもなく、全聖書に最初から織り込まれている根本的な教義でありながら、イエズス・キリストが到来して初めてこの教義があるということを知らされたということである。というのも、単なる人間の能力では理解できない、なつかない教義なので、イエズスや旧約聖書の長い準備がなければ、このような真理を言われてもだれも気付かなかったからである。

さて、では簡単に聖書における三位一体を語るところを見ていこう(主な文書に限って。)
まず、以上の一句に戻ると、「聖父と聖子と聖霊の名によって」という文章に三位一体は現れている。残念ながら、和訳ではそのニュアンスを正確に反映できない。というのも、単数形と複数形との区別が日本語にはないからだ。原文では、「聖父と聖子と聖霊」という三つの複数の名詞があるのに、「名」は単数形である。つまり文法上愚かな誤りであるが、それは誤りではなくてわざとそういう風に書いているのである。


福音書だけではない。創世記からもこのようなことが見てとれるのである。創世記の最初の一句に「神々は天と地をつくられた」という一句がある。普通の翻訳では「神々」ではなく「神」となる。しかしながら、Elohim(神々)という言葉はもともと複数形でありながら、造られたという動詞は単数形となり、文法上に誤っていることになる。しかし、これも誤りではなく、あえて三位一体を表しているのである。すなわち、唯一なる神でありながら、神の内に一つだけではないということである(他に、創世記、1,25-26。創世記、3,22)。あとはヨハネ、20,29(またヨハネ、14,16)などにもある。あるいは詩編109,1-3やイザヤ、6,3でも一般的に取り上げられている。

ちなみに、ヨハネの福音書は他の福音書と違うように見えるのは、起筆の時期と目的の違いからくる。つまり、一番若かった使徒であるヨハネは晩年になって、他の三つの福音はすでに書かれていたが、異端説が出始めて、それを未然に防ぐために、聖霊などの指示もあって、他の福音書においては書かれていないイエズス・キリストの御言や行為を記しておくようにしたのである。初代教皇であり、イエズス・キリストの使徒であり、聖マルコの福音書の基である聖ペトロの書簡もそれを明記する(ペトロの第一の手紙、1,2)。
そして、現代まで、カトリック教会はこの教義を絶えまなく、正式に、公会議、教皇の教書なりを通して、ずっと繰り返し断言していったのである。

結論からいうと、キリスト教において「敷衍(ふえん)」することはなかった。最初からすでにカトリック教会は成り立っていて、そのあとの作業はいわゆる二次的なものに過ぎず、攻撃されたら教義をさらに明確にしたり、典礼を強化したりするものだったが、根本的な部分は全く変わっていない。聖人たちの人生を見ても、場所と時間こそどれほど違っていても、皆、同じ宗教であることがよくわかる。

結びに代えて
山川先生は三位一体こそがキリスト教の重要な教義であることに気づいておられ、慧眼といえる。また、このようなところにカトリックの普遍性があることに気づいておられ、それを日蓮仏教へ移植しようとしたという風に見えている。問題は形式的に構造だけを移植したところでは全然成り立たず、イエズス・キリストの生命を引き継がない限りは同じ実を結ぶことはできないのである。だからこそ、イエズス・キリストその人を受け入れない限り、「世界宗教」などにはならないという。
この意味でも、イエズスを通じなければ、救いはないと確信する。

日本らしさはグローバリズムによって完全に食い込まれないようにすべきで、日本の固有性を守りながら、本物の普遍性を持つカトリックへ帰依するしかないのではないのか?
また、明治維新より、アジア主義にもみられるような普遍主義(普遍性)と特有性(日本主義でも)の間にあって多くの先人たちが悩んだと見ている。これは西洋にある「普遍性」をどうにかして移植しようとすることから来た悩みだったかもしれないが、問題は本物の、破壊的ではない普遍性は唯一にカトリックにおいて、イエズスにおいてあるのみだということに理解が至っていなかったことにあるものと思われる。
そうではない俗にいう普遍性では固有の伝統文化を否定し、果ては誤った普遍性による全体主義にも陥ることになるのではないだろうか?

宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!

2021年06月06日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

宗教の非宗教化はグローバリズムにつながる!

立正文化の河本理事長の原稿を拝読し、本論を執筆することにした。
河本理事長は元気にお過ごしになられているようで、何より幸いなことである。また最近、お会いできなくて申し訳なく思っている。
本論の目的は相澤氏の記事への返答と同じように、いくつかの考察を共有することにある。キリスト教に関する不正確な題目はさておいても、「宗教の非宗教化」あるいは「絶対な平和」にある種の「フリーメイソン的なグローバリズム」が潜んでいるのではないかと否応なく看取したことから、河本師からの学恩に報いるためにも、私には誠実に考察の結果をお知らせする義務があると信じ、本論を執筆するものである。微力ではあるが、極力手短に要点だけに絞って論じていきたいと思う。いくつかの諸課題に関しては割愛せざるを得ないので、ぜひとも他の返答記事も参考していただけたら、今度のための論争の資すると思う。

I.冥合思想はなぜ無理なのか?
1.現実的な理由
仮にキリスト教と法華仏教の冥合思想のようなものがあり得る話だったとしても、それは非現実的であると言わざるを得ない。日蓮宗、あるいは法華宗は纏まった宗教でもないし、その信徒数からも、地域分配からも非常に小さい。世界中の諸宗教の間にあっては存在感がないどころか完全に無視されている。それが日本固有の仏教なら、なおさらのことであろう。

要するにだれもこのような夢想に耳を傾けてくれないに相違ない。私は恩返しということでこのような原稿を敢えて書く義務があると思っているのだが、実は何度もこれを諦め、皆様を見捨てて無関心になろうという誘惑を何度も受けたのである。ところが、やはり恩人なので、いずれ天国で会いたいと思ったとき、私のできる範囲でやれることをやらなければならないと決意したのである。正直に言おう。どうせ、このままだと長くとも数十年後には神道も仏教も亡くなるに違いない。ほら、立正教団あたりでも状況は芳しくないだろう。若者もいないし、なかには本当に信念がある人もいるかもしれないが、それでも世界中な規模に達するにはもはや無理がある。

カトリック教会は二千年近く続いてずっと纏まった形で、また、世界規模であり、また自分自身の自由意志をなくしてまでもイエズス・キリストに倣おうとするのがカトリックの中核であると言えよう。私も本論を書くに際しては、極力私心をなくして、イエズス・キリストのみ旨のままに書けるよう祈りながら書いている次第なのである。

元の話に戻ろう。現実的に日本のために尽くすためにどうすればよいか?里見氏などが築き上げたことを引き継ぐためにどうすればよいか?破綻寸前にみえてならない中、戦前の状況などは変わっていないかのようにつづけて、キリスト教などへの誤解を見てみないふりにし続けると、いずれかその報いは訪れるだろう。すでにこれらの帰結は現に起きつつあるのではないだろうか?

2.本質的な理由
他の私の返答記事に参照していただけたらすぐお分かりだと思うが、本質的にいっても冥合思想が間違っていると断言する。というのも、比較基準自体が間違っており、キリスト教とは何であるかということも著しく誤解されている。戦前なら、近代流の間違った見解ばかりが日本で紹介されており、また反カトリックが強いドイツ流とイギリス流の学問も強かったので、仕方がない部分があるとは思う。このなかで、私が国体学会と出会ったのも御摂理の導きであると信じているのだが、それはこのような誤解を解消させるためであったかもしれないと思うのである。

カトリックなら間違いなく、また。多くのプロテスタント宗派もそうであるように、絶対にイエズス・キリストを相対化することは許されていない。問題はそうしたくないからではなく、イエズス・キリストご自身がそのように言い切られたことであるからだ。我々、カトリック信徒、カトリック教会は単にイエズス・キリストの肢体、あえて誤解を恐れずいうと奴隷に過ぎないので、それに従って行くことにしている。だから、そうしたものとしてカトリックがある限り、このような冥合思想には無理がある。冥合思想は信徒にとってはイエズス・キリストを否定することになり、ひいては、救済の御業を否定することになり、さらにひいては秘蹟の営みを否定することになるのであり、それはとりもなおさず地獄と悪魔を招くことになるからである。

ユダヤ教とカトリックとの位置づけや、神人の本質を持つイエズス・キリストや、キリスト教において覚りという過程はないことや、思想ではなく実践こそがカトリックであるとの教義の上に、カトリックにしかない無比無窮の秘蹟があることや、三位一体などは「学説」ではなく、天啓によって示された「真理」そのものなので、信徒として信じなければならない真理であるようなこと(天主が啓示したものであるがゆえに、それがかりに理解できなくても信じなければならない、人間の弱い理性でそれを疑ってはならない、また、つまり、「思想、学問」の問題ではなく、現実はどうなっているかという問題でもある)

3. 融合、冥合は真理に反対する、相対主義をもたらし、真理は破壊される。
融合などを聞くと現代の「Inclusion」あるいは「Diversity」といった流行語は思い浮かび、まさに近代的な「寛容論」あるいは「平等主義」あるいは「相対主義」に見える。

というのも、真理はその定義にそったのなら、必ず排他的であるからだ。同時に矛盾しあう命題はあり得ないという原理に因らなければ、何の学問も理性の作用も無理となるはずである。いわゆる二律背反という「公理」を肯定しなければ何でもかんでもめちゃくちゃになっていく。このように、二律背反を否定している近代こそ、むやみに相容れないものを融合させようとして、戦争、軋轢、対立を生んできた。歴史に照らしても明らかである。

だから真理は排他的であるがゆえに、教義の討論などが存在する。というのも、人間の理性を越える真理であるのなら、その真理を教えてくれた人に信頼するしかない(信仰)。イエズス・キリストに信頼するか、日蓮に信頼するか?福音書に信頼するか、法華経に信頼するか?そう決めるために客観的な基準もある。いわゆる、教義上、信条の全体図の一貫性を検討する以前にも、教義上の高度さ?を検討するよりも、教える人への信頼度を評価できるはずである。

たとえば、福音書は直接目撃した人々によって書かれて、数年間、イエズスの傍にいた人々によって書かれて、その復活後からすべて、早い時期に完成された。史学でいうと、第一史料と言われて、もっとも信憑性が高い。そして、イエズス・キリストの人物の言動を見ても他のすべての賢者に比べたら桁が違う、遥かに勝る。(これらも別途の原稿で少し触れたので割愛する)。

また、真理があるからと言って、人々を否定するのではない。逆である。人々は偽りの真理ではなく、本物の真理を受け入れなければ、問題が起こる。だから、伝道があり、布教があり、だからイエズス・キリストが布教するように使徒たちを送り、信仰を告白することは信徒の一つの義務である。だから、真理を受け入れない人々が出ても、真理を断言し続けるだけであり、誤謬において頑固となる人々によって迫害されて多くの殉教者が出た。真理のためなら命を惜しまないのがカトリック信徒である。また、真理を宣言しつづけても、実践においても愛徳と慈善の行いに尽くそうとしている。かなり惨めでも、無力でも、罪をも多く犯し続けるとも(原罪を負った人間としてかわらないので、仕方がない)。
なぜこのように告白できるだろうか?その真理は自分の口からでるのではなく、単にイエズス・キリストの教えをオウムのように繰り返すから、できるものだ。

II.聖俗の一致は平和を産まないどころか、混沌をもたらす―バベル塔、グローバリズムの呪
1.歴史を追っていく

世俗一致などの話は非常に大である。というのも、人類学も歴史学も証明しているように、世俗一致になっていくと野蛮な「文明」が生まれ、極まりのない暴力的な体制が出来上がって、全体主義的な国家となっていく。そして多くの意味で近代期以降、いわゆる「世俗化」という流れとなっていき、カトリック教会は国家によって飲まれようとされている。この意味で昔から欧州の学問では「異教化」という名前で呼ばれることもあって、千年以上に欧州大陸から消えた奴隷制、肉刑、強調圧力、「正史」、人間の生贄(現代版は堕胎、あるいは安楽死)などが再び姿を現す。神格化される国家もかつての異教国においてすら経験したことのない「全体主義」が勃興してきた。革命期の恐怖政治、ナチス、ソ連、ジェノサイド、大規模の世界戦争などなど。


なぜ近代化した世界が異教化でありながら、異教時代よりもひどくなっていくのか?自然法ですら否定されることになるからだ。
しかしながら、日本に置かれては、誤解は生みやすい。明治時代の時、受容された「西洋」、つまり日本に置ける「近代化」の大きな部分は結局、「カトリックの善い遺産」を受容したことが大きかった。江戸時代や戦国時代の世界に比べたら、桁が違うほどにキリスト教を基礎にしている法制度、司法制度、奴隷制廃止などが行われた。当時はそれでよかったし、この意味で日本に置ける「近代化」は進歩だったかもしれない(欧州では同じ近代化は非カトリック化を意味したので非常に堕落を意味した、このような乖離があるから、日本に置ける近代化に対する評価においてかなりの歪曲があると思われる)。現代はもはやカトリックの遺産はなくなっている。

また歴史を見ていこう。世俗一致、世界政府、バベル塔、つまりある種の「絶対平和」は図られた時にとんでもない災いをもたらした。聖書におけるバベル塔、ソドムとゴモラ、漢族による侵略、近代期以降の近代化の流れと大きな帝国などなど、数が数えきれないほどある。

2.宗教の非宗教化はまさに悪い意味での欧州における「近代化」であり、グローバリズム、世界政府を築こうとするフリーメイソン的な発想である
宗教の非宗教化を望むのなら、もはや安心したらよいと思われる。というのも、近代期以降、宗教の非宗教化が進んで、現代になってその絶頂期に達する。世界政府もグローバリズムもまさに宗教の非宗教化を遂げつつあって、融合された「人間中心主義」的な博愛的な「非宗教化された宗教」ができあがりつつある。世界政府において世俗が一致するように歴史が進んでいる。

昔と比べて規模が違うだけであるが、つまり、バラバラの小宇宙だった国家においての世俗一致ではなく今回は世界規模になる。(小規模で同じような帰結を伴っていたが、技術も野望も現代に比べて桁が違うので、その弊害も違う。また近代的な「世界宗教」において自然法なども否定されて、より深く危険ではあるが)。

また、第二ヴァチカン公会議以降、近代主義という誤謬、まさに宗教の非宗教化を図る誤謬が教会内に入ってから、グローバリズムという完全に非宗教化されたフリーメイソン的な宗教に対する堤防は崩れた。いや、最近のフランシスコ教皇などにより、宗教の非宗教化は速まって、世界規模で世俗一致が進んでいる。

だから、宗教の非宗教化はいま、勝とうとしている。この結果、どういった「平和」が訪れるかはコロナ騒動でわずかにも味わえていると思われる。また共産党の中国を見ても、西洋を見ても自明である。あえて言えば、21世紀の技術で、江戸幕府的な専制政治を過激化した感じに見えなくはない。自治体も基本的な自由もなくされて、確かに外見的には「平和」になろう。

また、グローバリズム教によってそれぞれの文化の固有性と文化は消えつつある。私は国体学会に行ってその教義などをかなり誤解していたようであり、恥ずかしいが、それはともかく、国体学会のずっと好きなところが具体的に和風の「伝統」を引き継いでいたことである。畳、孝行、剣術、仲間精神、伝統的な勉学方法などなど。これは文化を一つにしていない「西洋」における伝統に通じるはずである。真理は排他的なので、「カトリック」において皆、纏まっていたが、それ以外の固有性(つまり文化)はむしろどんどん固有化していった。
私は日本の伝統が好きなのは「曖昧な思想」ではなく、以上のような具体的な和風であり、その言語であり、その礼儀作法である。
絶対平和のために、以上のような和風を蔑ろにしてもよいだろうか?

3. 二元対立は問題であるどころか、戦争の原因でもない。

世俗の対立、あるいは二元対立は混乱の原因ではない。混乱の原因は罪であり、誤謬である。そして、真理は誤謬に毒されたら(融合によって、世俗の一致によって、宗教の非宗教化によって、相対主義的な寛容論によって)状況はさらにひどくなっていく。近世近代の欧州の歴史を見たら、以上の流れは自明である。解決するためには融合ではなく、罪を犯さないで、誤謬を除いて真理を固く守るしかない。

4.いずれにせよ厳しい時代が訪れて、一人一人の回心にこそ解決がある
理想的な解決がこの世に存在しないというのはイエズス・キリストの教えである。だからといって、無為になることはない。本来にあるべき秩序を自分のレベルで取り戻すということだ。天主のみ旨に従い、イエズス・キリストに倣い、天国を得るためにこの世における使命を果たし続ける。
また罪を償い、多くの犠牲を捧げていく。また、十字架を愛して、苦しみを喜んで受け入れて、人々の回心を願うしかない。

政治上にもやるべきことが多いに違いない。しかしながら、これは宗教の非宗教化でもないと思われる。国体を宗教化することでもないと思われる。単に、天主様によって皇位にまします天皇に忠実を続けて、東西の歴史にある叡智と経験を活かして近代的な特別な脅迫であるグローバリズム、革命思想、近代主義を打開するために考えていきたいと思う。正直にいって、聖伝カトリックへの回心なしに、日本は生き残れるかは疑問である。

結びに代えて・将来への展望
現代に置かれている我々には共通の敵はあるのではないのか?グローバリズムというイデオロギーを中心に、ジェンダー論、家族と社会への破壊力を持った革命思想(ひいて啓蒙思想)を汲む思想である。また、「環境問題」や衛生(コロナ騒動)などもその一環であることは表舞台に現れつつある。

これらの勢力は伝統的な日本、固有性のある和風の破壊を毎日のように進んでいる。こういった革命の勢力の厄介なところは共産党や帝国主義などと違って、敵陣を特定できるのではなく、だれでもどこでも悪しき思想は浸透していて、社会を侵害していて、いつの間にか破壊は進んでいる。
それと戦うため、いくつかの見える敵はあるものの(ワクチン、国際組織、ビルゲイツなどなど)、我々の主な仕事はこれらの悪しき原理原則を暴いて、伝統的な原理原則に立ち戻ることにあるのではないのか?

その中、近代全体、革命全体は世界中にその歴史に照らしてカトリック教会を第一の敵にしていることを知るべきである。だから、カトリックへ回心しないとしても、カトリックなしに、カトリックの復興なしに、勝ちつつあるグローバリズムを食い止めようがない。
だから、御武運を祈りながら、日本、皇室の将来のためにどこで戦うべきか、何のために戦うべきか、見直す時期は迫っているのではないだろうか?


キリストは何も覚(さと)ったことはない! キリスト教と法華仏教(6)に寄せて:【国体文化】掲載記事への返答―本当のキリスト教を理解するために―

2021年05月29日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
キリストは何も覚(さと)ったことはない!キリスト教と法華仏教(6)に寄せて 
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

キリストは何も覚(さと)ったことはない!キリスト教と法華仏教(6)に寄せて

引き続き、国体文化3月号の相澤氏の記事を拝読したことを受けて、キリスト教に関する誤解を補うよう、本論を執筆することにした。
私は法華経を一通り読んだおかげで、いろいろなことが見えてきた経験から、相澤氏にぜひとも推奨したいことがある。それは相澤氏にも一通りひとつでよいので福音書を読んでいただきたいということである。比較的短く読みやすいのでそれほど時間もかからないだろう。できれば講談社のバルバロ訳をお勧めする。

また、3月分までの連稿は書籍の評論という形になっている。しかしながら、それぞれの評論はカトリックの伝統的な本来の立場から逸脱した世界で書かれていることを痛感してならず、いずれも本来ではない近代的な立場で書かれている。また仕方もないかもしれないが、いずれも最近の書籍ばかりであり、学術的にある程度にしっかりとされているとしても、本当のキリスト教を理解するためにはあまり役立たないと思われ、むしろ、誤解を招いていることを懼れる。

本来ならば、聖書全体、教父たちの多くの著作、聖トマス・アクイナス、何人かの聖人の人生を追うことによってカトリックひいてはキリスト教の実相に近づきうるが、その余裕はないだろうし、それほど良い和訳もなさそうなので、とりあえず福音書を一通り精読されたら、カトリックへの誤解と歪みはそれほど生じないと思う。

結論から言うと、そもそも情報源自体が歪曲しているから仕方がないのかもしれないが、3月号の記事における比較の基準はやはり誤っているので、いくつかの点について微力ながら改めてわかりやすく糺(ただ)してみたいと思う。

比較するためには、それぞれの比較対象をきちんと抑えることが大事である。19世紀からの学問上のキリスト教説は、本来のカトリック信仰を破壊するために作り上げられたものであるとの背景を忘れてはいけない。そういった学説程度に頼るだけではそもそもカトリックは何であるのかを理解することは不可能なのである。というのも、わざわざと一番大事なことから目を逸らすように説かれていることが殆どであるからである。

だから、比較するに際しては、そもそも、キリスト教とはどういう教えなのかをもう一度正確に身につける必要があろう。そうするためには、福音書を読むのが一番てっとり早いだろうが、あるいは何人かの聖人の生活を見るのも助けとなるだろう(たとえば高山右近でもいいのでは?)。あるいは簡単に公教要理を見るのもよいだろう(ユーチューブチャネルにて)。

また、典礼を感じ取るために、一回、聖伝のミサに与ることも推奨したい。また、広くカトリックの正当な神学者と認められている過去の学者の著作を読むのも手である。聖パウロの書簡、聖アウグスティヌス、聖トマス・アクイナスなどの著作はいいかもしれない。いわゆる、解説書ではなく、直接、原典を読むのがやはり重要であろう。

I.カトリック(キリスト教 )はユダヤ教から「発生」していない。
この誤解は恐らく19世から一番深く広まった誤謬であるので、要注意である。19世紀以前では全く論外のあり得ない立場ではあったのだが、近代主義による攻撃の一つは諸宗教を相対化して、また、ユダヤ教とキリスト教とをあたかも仲間であるかのように、少なくとも親子、あるいは兄弟の関係にあるかのように紹介するのである。

ところが、これは完全に間違った見解である。本論では深く入らないが、ちょうどこれについてLivernette氏によって細かく分析され、歴史的な変遷を紹介されている講演が和訳されたので、ぜひともその原稿を参照するようにお勧めする(「カトリック教会とシナゴーグ、2000年の対立の歴史」ユーチューブチャンネルで4月上旬公開。原稿を添付する)。

要約すると、「ユダヤ教」とはイエズス・キリストの復活後からできた宗教であり、イエズス・キリストを否定したユダヤ人を集めて、キリスト教の宿敵となっただけではなく、旧約聖書とすべてのヘブライの伝統を歪曲した宗教であるということである。言いかえると、イエズス・キリストという神人の到来を準備するために天主によって用意されたヘブライの民とその歴史はイエズス・キリストの到来によっていよいよ成就された結果、善意のすべてのヘブライ人はカトリックとなった。だから、ヘブライの民の伝統が果たされたのはイエズス・キリストであり、そのあとのユダヤ教は単に、その到来とその意味を否定した人々とその子孫にあたるに過ぎないということである。
ちなみに、Livernette氏が示すように「ユダヤ」という呼び名ですら、イエズス・キリストの復活後に定着して、イエズス・キリストを否定しつづけるヘブライ人を指す とされる。



したがって、キリスト教はユダヤ教から「独立」した、あるいは分派した宗派であるかのように「相違」が生じたとかではない。単に、イエズス・キリストは旧約聖書を成就しただけである。ただし、当時のファリサイ人たちを中心に、期待された現世的な救済主像とかなり違ったイエズス・キリストだったので、ユダヤ人たちはキリストを受難に送らせた。しかしながら、旧約聖書を見れば、現世的な救世主などは預言されていないことがわかっている。

自分たちに都合の良い解釈にしたかったファリサイ派は神人イエズス・キリストという現実にぶつかったわけであり、旧約聖書の多くの預言、奇跡と前兆の正当な意味がイエズス・キリストの言動によって明らかに想起されたものの、当時の大司祭の多くは高慢に溺れて、イエズス・キリストという存在を否定しようとして、現在まで続いている。本流はカトリックであり、ユダヤ教はその意味で最初の異端であるといっても過言ではない(ただ、厳密に言うと異端ではない。というのもそもそも洗礼を受けようともしなかったからである。異端者は洗礼者に限って言われている)。

II.宗教は感情でもないし、感情から生じない
この点もよく誤解されているとともに、非常に重要である。19世紀の宗教学の創立は多くの意味で宗教を相対化するために、また小ばかにするために、「宗教的な感情」から宗教という「現象」は生じるという仮説を前提にしている。要するに、天主たる存在はないかのようであり、さらに人間中心主義的な立ち位置を徹底させて、人間の宗教的な欲望を満たすためにだけに宗教は作り上げられたといった論調が普及してきて、現代に至っている。

ところが、こういった立場は本末転倒である。食欲があるからといって、食べ物が存在するのではなく、食べなければ死ぬので、食べる必要があるのであり、食べることを「忘れないように」、食欲という能力は付与されたのである。
同じように、宗教的な感情があることから、宗教が生じるのではなくて、天主は実存しているので、それを忘れないように宗教的な感情が付与されたのである。いうなれば宗教とは道具に過ぎない。

問題は天主とは具体的にどういう存在であるのかということだ。この問題に回答を与えるのが宗教学であるのだ。これが一番の関心ごとであるのに。これは、理性だけの力では把握しれないので、宗教学のように、「天主」が存在しないことを前提にして、感情と慣習と儀礼を並べた方が、つまり「現象」としてしか扱わない方が気持ちいいだろうが、それはただ難問を回避しているにすぎないのではないのか?

要するに、「天主」という存在が実存するので、我々は宗教的な感情を必ず持っているということである。そして、人間中心主義を捨てるべきであろう。つまり、我々の都合の良い天主ではなく、実際に天主とはどういう存在なのか?そしてそういった現実に従うという態度は現実主義が要求することであろう。ちなみにアリストテレスをはじめ古代ギリシャの哲学者はこのように哲学をやっていたからこそ、現代まで彼らの事績は残ったのである。

その中で、イエズス・キリストという真の人、真の天主は天主のことを細かく我々に知らせ給い、本来ならば人間の力では到底理解し尽くせない多くの真理を説き給うたのである。天主のさまは、単なる知識だけではなく、実践においても、秘蹟においても、具体的な人生や、目に見える托身と受難を通じて示されたのである。

カトリック信徒なら、宗教は感情ではないことを知っている。イエズス・キリストという肉体のある人に倣い、信頼して、従っていくだけなのである。そうするために、理性と意志を活かして、積極的にイエズス・キリストを愛するように、キリストに倣うように。だから、朝、起床して何も感じなくても、カトリック信徒が「信仰」があるといえるのである。

カトリック信徒はこの意味で真理を「探究」するのではない。イエズス・キリスト、聖伝と聖書において天啓された真理を受け入れて、従うだけなのである。また、神学などによって、これらの真理を黙想して、その理解を深めることができるかもしれないが、そもそも、本当の意味での新しい発見もないし、絶対的な意味での進歩もないのである。また学問とか神学とかは目的ではない。多くの平凡に生きた聖人たちはそれを証明する。イエズス・キリストもダヴィド王家の末裔でありながらも、レヴィ部族の司祭家の末裔でありながらも、30年間、単なる大工であったこともそれを証明する。

III.ローマ帝国は「キリスト教を快く採用された」わけではない
ローマ帝国は冷静に、慎重に分析した結果、キリスト教を認めたわけではない。選んだわけでもない。むしろ、キリスト教(つまりカトリック)を絶滅しようとしたのであった。数世紀の間、非常に残酷かつ厳しい迫害、時には絶滅政策を展開していった。対象はカトリックだったので、多くの場合はローマ人同士の迫害であった。この結果、殉教者は多かった。この意味で江戸初期からのキリシタンに対する迫害はそれと酷似している。その迫害の残酷さにおいても、日本人が日本人を絶滅させるという意味においても酷似している。





そして、このような数世紀が続いた結果、ローマ皇帝コンスタンティンがカトリックを肯定して、晩年に洗礼を受けた。これは多くの意味で奇跡的に起こった出来事だといえる。なんの必然性もなかったし、そして何の強要も策略もなく、自発的にカトリックへ回心していったのである。



キリスト教はローマ帝国の要求に応えることがなかったどころか、棄教者ユリアヌスのように、その前、ネロのように、カトリックを厳しく迫害を加えた。というのも、カトリックは単にイエズス・キリストに倣い、従おうとしているので、また天啓された真理は自分のものではなく、天主のものであるので、そういったことに関して妥協することはない姿勢をしめしている。例えば、皇帝を礼拝せよといわれたら、「礼拝は天主に対してのみであるので礼拝しない。ところが、(戦場でも)皇帝のために命を捧げてもいいし、皇帝に相応しい崇拝を示してもよい」という多くの忠誠なるカトリックローマ人たちが、それだけで皆殺しされたりしたのである。

いつでもどこでもそれは起こるし、起こるのも当然である。真理を受け入れるのが難しいからであり、都合のよくない真理から目を逸らす傾向もやはり人間の心に潜んでいるからである。また、イエズス・キリストは受難を受けて十字架にかけられただけの、真理の価値がある。だから、いつでもどこでもカトリックが広まると、必ず迫害を受けるのである。愛徳、慈善事業、よい臣下と顧問になっているのにもかかわらず。

IV.イエズス・キリストは何も覚(さと)ったことはない
内面的な覚(さと)りなどは、イエズス・キリストに関してはまったく意味のないことで、存在しない。
ご降誕のときから、イエズス・キリストは御父の使者であり、最初から完全に真の天主、真の人であった。福音書を読めば何度も何度も確認できる事柄であり、自明のことがらである。生まれる前から御告げによりイエズス・キリストの天主性とその使命はガブリエルの天使と聖母マリアの慎み深い謙遜と従順によってしめされていた。

またいわゆるイエズス・キリストの私生活(30歳まで。30歳から33歳からは公生活といって、福音書は主にこの三年の言動を記録している)については、福音書においてもほとんど何も知られていない。福音書において、ご降誕以外の一つだけの場面が記されている。それはイエズス・キリストが12歳ごろ、神殿への参拝があったが、帰り道に、童貞マリアと聖ヨゼフは幼いイエズスがいないことに気づいて、非常に心配となって、三日間エルサレムを歩いて迷子イエズスを求めている。

そして、「三日目に、神殿で学者の中に座り、聞いたり尋ねたりしておられるイエズスを見つけた。聞いている人々は、その子の知恵と答えを不思議がっていた。両親はこれを見て驚き、『私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ごらん、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ』と母がいうと、イエズスは、『なぜわたしを捜したのですか。私は私の父の家にいるはずだと知らなかったのですか」と答えられた。彼らはイエズスの言われたことがわからなかった」(ルカ、2、46-50)

要するに、この場面において、11、12歳のイエズス・キリストが一番偉い学者、司祭に教えているのである。またそれだけではなく、明らかに「天主の子だ」と断言している。ところがそれを聞いても誰もわからない。というのも、信じられないからである。復活まで、何度となくご自分が天主であることを断言し続けたが、だれもわかってくれなかったし、信じてくれなかったのである。以上のような場面は数えきれないほど多い。

たとえば本日の福音(四旬節第三週の金曜日)において、イエズス・キリストは改めて自分がメシアであることを断言する。ヘブライ人にとって忌まわしいサマリア人、さらに汚らわしい女性に出会うイエズス・キリストが彼女と普通にしゃべって話している時である。使徒たちはこれを見て驚いた。本物の神殿はどこにあるのかと女がイエズスに聞いた質問に対する答えの時だった。

「女は、『私は、メシア(すなわち、キリスト)が来ることを知っています。彼が来る時、私共に、すべてを告げるでありましょう」といった。イエズスは、『あなたに話す私がそれである」と言い給うた」。(ヨハネ、4、5-42)ここでも、イエズスははっきりと自分がメシアであると言う。メシアは御父に送られた人であるということなので、「さとる」ことでもない。以上のような場面は最初から最後まで数え切れないほど多くある。

また、「さとり」に似たような場面は一つもない。イエズス・キリストはあえて「さとる」ことはなかった。真の人、真の天主であることを教え続けて、また奇跡と行為で示されて、死と復活で示された。信じられないことであるが、問題は現実にイエズス・キリストは実在して、こういった言動をして、奇跡も施し、完璧な教えを説いて、受難を受けて、復活したといった事実があるのみである。

その事実に対して、人々は決める。イエズス・キリストを信用するのか、しないのか。しないのなら、しなくとも事実はそれでも変わらない。例えば、目の前にある壁が「存在しない」という人が出たら、「さて、壁は存在しないというのなら、前へ進めてみたら、ぶつかるよ」と答えるしかない。それでも相手は壁へぶつかろうとしたら、仕方がない。できることは、壁は壁であることを言つづけることだけなのだ。

確かに、キリストの齎(もたら)した教えは旧約聖書を完成化させて、内面的な信仰、霊的な生活をその上に齎(もたら)したことは確かである。外面的な儀礼、生贄、祈祷、秩序、位階制をそのままに保つとともに、「天主を愛する」ということのさらなる重要性が説かれた。

近代性とはチェスタートンがいうとおりである。「近代とはおかしくなったキリスト教の原理原則である」といっている。彼以外にも少なからぬ学者はそれを指摘している。つまり、イエズス・キリストによって教えられた真理の一部のみをとって、他の真理を捨てて、また天主を否定した結果、大変な誤謬である平等主義、自由主義、民主主義、グロバーリズムをはじめとする、多くのイデオロギーが発生した。イエズス・キリストが真理であるだけに、真理を正面から否定した近代の誤謬はより深くなっていく。

結びに代えて
カトリックにおいて、現世建築、世界建築へ貢献することは二次的なことである。目的ではない。というのも、隣人愛とは天主を愛すればこそであるとイエズス・キリストが教えるように、すべては天主の御栄光のためにのみ存在する。その結果、二次的に現世への貢献はあろうが、それは目的でもないし、積極的に実現しなくてもよいものである。隣人愛と天主への愛を実践すれば、そういった貢献も生じるだろうが、本来の目的ではない。

だからといって、マルクス主義の変なリベラルカトリックが言うのと違って、イエズス・キリストには革命的な要素はまったくない。社会秩序、権威、権力、位階制、従順、慎みなどはひきつづき重要視された。イエズス・キリストは単に、「天主のみ旨に」従って、十字架へかけられた。現世のために尽くそうと思われたら、そうせずに、期待されていた現世的な解放者になったらよかったのであるがそうはならなかった。というのも、イエズス・キリストは悲しんだが、彼の預言通りに、ユダヤ人の天主に対する不正の結果、神殿が破壊されて、国が解体されて、世界中にさまよわざるをえなくなったからである。



かなり前から、ハリウッド流のヒーローをはじめとして、世界の救済主といったフリーメイソン的な発想はカトリックの信仰を正面から背くこととなる。英雄、絶対平和、本物の幸せ、繁栄はこの世にはないとイエズス・キリストが教え続けた。カトリック教会も単にイエズス・キリストの教えを提唱し続けた。一般信徒としても、それに従って言い続ける。それだけのことである。救済主はすでに到来したのである。イエズス・キリストである。真理を探究することが大事であるが、すでにもたらされたのである。イエズス・キリストである。過去の賢者と聖人の多くは道が示されたが、イエズス・キリストこそ道そのものであるので、イエズス・キリストに倣うのがよいのである。地味ではあるが、人間の力だけではすごいことは何もできず、イエズス・キリストの助けを得て、はじめて、本格的に生きていけるのである。それはイエズス・キリストは命そのものであるからである。というのが、キリスト教の特徴であろう。

それはともかく、一瞬だけでも考えていただきたい点がある。もしも、一瞬だけでも、イエズス・キリストは本当に真の天主、真の人であると想定していただいたら、少しでもカトリックへの理解は深まるのではないかと信じるものである。


新約聖書の位置づけについて:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月21日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
新約聖書の位置づけについて /ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ


「新約聖書の位置づけについて」

始めに
いつも相澤先生の連載を興味深く拝読しており、ここに改めて感謝の意を表したいと思う。
さて、今回の原稿は英国公教会のバウカム神学者の『イエス(ただしくはイエズス)入門』を手掛かりにして、新約聖書の位置付けを巡る原稿であった。バウカム氏自身がカトリック教徒ではないことから、その言説にはカトリックの教義と異なる可能性があるなかで、相澤先生からかなり重要な点を取り上げてくださったので、カトリックの教義からくる多少の理解の違いにつき共有できれば本稿の目的は達せられると信ずる。

予備的な知識。新約聖書と福音書の関係。訳語の意味。
新約聖書の内に福音書が入っていることは事実であるが、新約聖書は福音書のみからなるわけではない。新約聖書はそれに加え、多くの書簡(主に使徒たちの書簡で、聖パウロ、聖ペトロ、聖フィリップ、聖ヨハネ、聖ジャックなど)、使徒行録(イエズスの昇天のあとの使徒たちの活動を記録する歴史書)黙示録からなっている。

キリストとは確かに「油を注がれたもの」だという意味であり、創造主なる天主から択び出された者、王であることを意味する。「注油」という旧約聖書の儀礼から転じて、フランスの歴代国王の即位の際、「聖化祭(聖別式)」の中心が「注油式」であったわけであるが、その意味で、フランスの歴代国王は「キリスト」であったともいえる。ただ、イエズス・キリストは王の王として、この上ないキリストであるということを指摘しておきたい。ちなみにイエズスとは「救い主」という意味であり、「福音」とは「喜ばしき知らせ」であるという意味である。
そして、メシア(ヘブライ語)とは「キリスト(ギリシャ語)」と全く同じ意味である。

福音書は矛盾しているのか?
相澤先生が指摘されるように、福音書はまさに成文化された証言である。但し、福音書に記されている証言はイエズス・キリストの言動の一部に過ぎない。例えば、福音書はイエズス・キリストのご降誕周辺の出来事を除いたら、30歳ごろからの公生活以前の場面は一つのみしか記されていない。
つまり、一番肝心な場面や教えを記すが、網羅的ではない。本来ならば、イエズス・キリストより直接に与った口述で残されている伝承も考慮しなければならない。これは「聖伝」といい、カトリック信仰の二つ目の柱である。聖書と聖伝は補足的な立ち位置にあり、お互いに支え合っている関係にある。

要約すると、福音書は聖霊によって息吹きされた証言であり、歴史的な資料として一番信用できる資料である。「各福音書簡の齟齬」と書かれているが、このような「齟齬」は教えの中では本質的なものではない(例えば、復活後にお墓にいった最初の女性はマリア・マグダレナだけであるのか、あるいは、彼女と一緒に数人の女性であるか、あるいは二回行ってみたかなど)。むしろ、マリア・マグダレナを中心に、使徒ではなく敬虔な女性たちが空いたお墓を見つけ、復活が知らされて、使徒たちに伝えたという共通する証言は逆に証言の信ぴょう性を強化するのである。

というのも、イエズス・キリストを見た人々は、同じ出来事を見ても、微妙に記憶は違っており、前後の関係などは必ずしもすべてにおいて一致していないのが普通であり、それゆえに福音書というものは、人為的に計画された文書ではなく、ありのまま見たことを真摯に証言しようとして、成文化された文書であることの証左だといえよう。ここで大切なのは、すべての粗筋や教えの根本や主な出来事の間には矛盾が一つもないということなのである。

また、それぞれの福音書はそれぞれの事情あって成文化されたのであって、それぞれが必ずしもイエズス・キリストの同じ場面を記すわけでもない。例えば、一番遅い時期に書かれた、また一番若い使徒で長く生きた聖ヨハネの福音書は他の三つの福音書に記されていない場面を主に記すという意味あいで書かれた福音書であった。



福音書とその著者の簡単な紹介。
では、簡単に「福音書」を紹介しよう。年代順でいうと、マテオ、マルコ、ルカとヨハネである。マテオとヨハネは十二使徒のうちの二人である。一方、マルコは初代教皇、使徒聖ペトロの秘書のような立場の人間で、ルカは、聖パウロの秘書や通訳をしていた人間であった。つまり、いずれもイエズス・キリストによって選び出された十二使徒の一員であったり、(プラス聖パウロ)、そのゆかりの人間であり、特に十二使徒はカトリック教会の指導者として、イエズス・キリストの昇天の後に福音の布教を初めており、十二使徒は聖ヨハネ以外全員、殉教死を遂げている。

聖マテオの福音書は一番早く書かれた福音書であり、イエズスの昇天後、10年ぐらいたってから書かれたとされている。当初の弟子たちはエルサレムにいたが、使徒たちがいよいよエルサレムを出て、世界中に福音を運ぶことになった時、エルサレムの弟子たちは使徒たちが不在になることを補うため、イエズス・キリストの教えを纏めるように、使徒の内でも一番素養があり、もの書きができたマテオ(元取税吏)に対して、それぞれの弟子の証言を集めてイエズス・キリストの言動を書き残すように頼んだのである。
マテオの福音書はつまり、エルサレムの弟子たちからの依頼だったが故に、ユダヤ人向けで、最初はアラメアン語(ヘブライ語の方言)で書かれており、旧約聖書の強い知識を有するユダヤ人ならよくわかる予言の成就などを強調しているという特徴がある。冒頭にイエズス・キリストの系統図が載っていることから転じて「人」を象徴する福音書とも呼ばれている

聖マルコの福音書は最も短い福音書であるが、イエズス・キリストによって任命された初代教皇、聖ペトロの福音書とも呼ばれている。というのも、聖マルコは聖ペトロに従い、聖ペトロの秘書や通訳をやりつつ、聖ペトロの証言を書き下した福音書であるからである。イエズスの昇天後15年くらいたってから、ローマにおいてギリシャ語で書かれた回心した元の異教徒向けの福音書である。

このため、異教徒なら馴染みのない旧約聖書の預言やイエズスがダヴィド王の子孫にあたるといったような側面は強調されていない。この福音書が、冒頭、当時ライオンが住んでいた砂漠での洗礼者聖ヨハネの教えから始まることから転じて、「ライオン」で象徴される福音書である。ちなみに、聖ペトロはイエズス・キリストに従う前は洗礼者聖ヨハネに従い、洗礼者聖ヨハネの命令で、イエズス・キリストに従うようになった。

聖ルカの福音書はイエズスの昇天後30年ぐらいたってから書かれたとされている。聖ルカは教養のある元異教徒で、医者であり、優秀な作家でもあった。回心後、聖パウロの医者(医者の守護聖人でもある)や秘書のような役割を担う。聖ルカは直接にイエズス・キリストの言動を見ていないので、聖パウロとともに聖地での調査を行い、聖母マリアをはじめとするイエズス・キリストの多くの弟子の証言を収集、整理して、また聖マテオと聖マルコの福音書をも参照しながら書かれた。

現代風にいうと、最も「歴史家」が満足する福音書であろう。また、聖ルカは使徒行録の著者でもある。特に、聖ルカは医者でもあったことから、イエズス・キリストの十字架刑などの受難の描写は現代医学の見地からも十分耐えられるものであるといわれており、例えば、受難の始まりにルカ福音書にしか記されていない次の節がある。「イエズスは悶えて、いよいよ切に祈られたので、御汗は血のしずくのように地に落ちた」(ルカ、22,44)とある。これは、まさに非常に精神的なショック、恐怖などを受けた結果、汗に血が混じるシンドロームであるが、殆どの場合、このようなシンドロームで即死することが多いという。これは医者である聖ルカが気づいた点であり、現代でも確認できる病症である。つまり、このことから、受難がまだ始まらない段階で、すでにイエズス・キリストの精神的な受難は非常につらかったことが偲ばれるのである。
ちなみに聖ルカの福音書は、冒頭で神殿が登場することから、神殿に生贄として捧げられる牛から転じて「牛」で象徴される。

聖ヨハネの福音書はイエズスの昇天から70年たった後、つまり西暦100年前後に書かれた。聖ヨハネはイエズス・キリストの公生活の時、一番若い使徒で、「最も愛された」弟子だった。聖ヨハネは十字架上のイエズスからの直々の指示により、聖母マリアを母と仰ぎ、彼女の被昇天に至るまで居を同じゅうし、これを護られたほどである。

西暦100年ごろになって、イエズス・キリストの神性と人間性に関する多くの異端が発生し始めたことを鑑みて、多くの司教や弟子たちなどは使徒たちの内で唯一生存していた聖ヨハネに対しイエズス・キリストの御教えを纏めるように頼んだ。聖ヨハネは最初、拒んでいたが、しつこく頼まれたため、聖ヨハネは三日間の断食と祈祷を弟子と一緒に行い、その結果、福音書を書くことが天主のみ旨であることを悟り、福音書を書いたのである。

聖ヨハネは他の三つの福音書の特徴とは違い、より本質的にイエズス・キリストが真の天主、真の人であること、イエズス・キリストは三位一体の第二位格の御言葉であること、天主は愛であることなどがより強調されている。異端を念頭に置きながら、他の福音書が記していない場面と教えを中心に補足する形で書かれた福音書である。

また、彼もイエズス・キリストによって一番愛された使徒として、聖母マリアと一緒にずっと暮らしてイエズス・キリストの幼児期のことをも聞くことができ、そして、十二弟子の中にあって唯一、逃げずに聖母マリアたちとともに十字架の下でイエズス・キリストを仰ぎ見たのが、聖ヨハネであったという意味でも、独自の地位を占める福音書であるといえよう。ちなみに聖ヨハネは鷲のようにイエズス・キリストの教えの本質を一番よく理解していたことから転じて「鷲」で象徴される。

以上に見られるように、福音書は非常に信憑性の高い、お互いに支え合っている資料であり、と同時に、それらはすべて、聖伝と合わせて、信仰に欠かせない根本的な文献であるといえる。


科学と信仰は矛盾しない。
カトリックでは信仰と科学の成果は相矛盾するものではない。むしろ、科学の成果はどうしても信仰の中身を支えている。浅薄な科学なら、信仰が揺るがされるに見えるかもしれないが、カトリック信仰は現代でも一番攻撃されようとも、結局強化されている。

好例として取り上げられるのは、「聖骸布」というイエズス・キリストが死んだ後の死体を包むための聖遺物に関する科学的な調査であろう(注・聖骸布についての講話を参考に )。奇跡なども一緒である。例えば、フランス歴代国王の聖化祭の後に、歴代国王は瘰癧(るいれき)という皮膚の病気を手で触れることによって奇跡的に直していたが、それは歴史的に科学的に証明されていることである。というのも、18世紀になって、啓蒙思想である懐疑主義が流行ると、このような奇跡を否定するため、医者は瘰癧(るいれき)の治療儀礼の際に儀礼以前の病者の病症などを確認して(病者ではない者を除くためという意味でも)、儀礼後の病者をもみ続けた。この結果、「奇跡的に」、つまり「科学的に説明できない」病の治療は数多く確認されたのである。。。つまり、啓蒙思想派の人々が目論んだ逆効果となった。
歴史的にも科学的にこのような証明された奇跡は数えきれないほどある。調べていただければ明白になるかと思う。

天主の王国の実現はこの世にはない

実は、王国を地上での実現とみるか否かというポイントこそが、日蓮を初めとする異教とカトリックの違いである。ユダヤ人たちは確かに地上の王国の実現を渇望していたが、イエズス・キリストのいうところの王国とは地上的な王国の実現ではなかった。使徒たちですら復活までにこの意味をよく分からなかったのである。復活なども何度も予告されていたのに、信じようともしなかった。受難が始まると、使徒や弟子たちの皆が逃げて引き籠った。聖ヨハネと少数の女性たちのみがイエズスの近くに残ったのである。

復活して、イエズス・キリストは女性たちの前に現れても、まだ使徒たちが信じないで引き籠っていた。実際、イエズス・キリストは使徒たちと一緒に食べたり話したりしたときだけ、復活を確認していたが、まだまだ迫害者が怖くて表に出なかった。40日間、イエズス・キリストは多くの人々と出会い、子の復活の具体性が強く示され、証明されて、その上、ご昇天されるが、そのあとの聖霊降臨に至って、使徒たちは聖霊に導かれ、ようやく布教を始めることができた。福音書を読んでも、どれほど使徒たちがイエズス・キリストの教えを理解していなかったことがよくわかる。皆、現世的な救済主を待っていたから、だれも天主なるイエズス・キリストの教えを理解できなかったのである 。

この復活は歴史的にも証明されているし、科学的にも復活という過程しか成り立たない。そして、この復活が歴史的な出来事であるからこそ、カトリックには意味がある。信じがたくても、現実は現実である。数年前、目に見えない菌を懼れて、社会全体がおかしくなっていくと言われたら「ふざけている」と言われただろうが、信じがたかったものの、結局、目の前に現実的に起きているのである。そして、このような復活こそが歴史的な出来事であるからこそ、信仰がうまれたのである。

つまり、イエズス・キリストは真の天主であることを根拠づける復活を見て初めて、イエズス・キリストの教えを信じることができたのである。科学は信仰を支えている。真理は現実に背かないので、現実の一側面を見ている科学は本物の信仰と矛盾することはないのである。

要は、イエズス・キリストはユダヤ人たちによって迫害されたのは、期待された地上の王国を実現してくれる解放者ではなかったからである。永遠の命をもたらしに来たイエズス・キリストであるが故、十字架上の生贄によって原罪を贖うことにより、天国の門を開けられたが、あとはその救済を受け入れるかどうかにより、天国にいくか、地獄に行くかが、死の時に定まるのである。

もちろん、だからといって、これは、地上のことを無視することを意味しない。むしろ、地上を無視することは異端でもある。すなわち、この身体も、この地上も天主によって用意された現実である上、非常に大切にしなければならないということである。ただし、人類の究極の目的は天の王国であり、地上の王国などはかりそめの姿であり、常に相対的であり、亡びてゆくものに過ぎないことを忘れてはいけない。

また「絶対平和」、「八紘一宇」といったような理想は人間の本性を無視した思弁的、観念的なものであり、人間の目的、本地である天国からずれている。これこそが恐らくカトリックと諸異教との間の根本的な違いであろう。またカトリック教会の教えとは、まともに故郷を愛し、国を愛し、天に選ばれた天皇、王、君主に従い愛するのは当然だというものである。しかし、この世に理想的な国家を作ろうとは思っても無理であり非現実であるだけではなく、無駄である。というのも、我らの本当の目的地は天国であるからである。

結びに代えて
プロテスタントとドイツ系の学問の影響が強いせいで、西洋を一枚岩、キリスト教を一枚岩にする弊はいまだに大きいだろう。それを克服するためにはまだ相当に時間がかかるかもしれない。
グロバーリズムという新しいバベルの塔が蔓延しており、愛国主義、尊王主義をややもすると否定しがちな現代では、なおさら現実を直視する必要はあるのではないだろうか?そして、自分の故郷、愛しているわびしい大和心、皇室を守り抜くため、イエズス・キリストの教えを真に受ける必要はないだろうか?
また、キリスト教の本地なるカトリック信仰を知るため、例えば入手しやすい岩下神父の『カトリック信仰』を読んでいただいたら、今度の検討のためになるだろう。このような書評を書いていただければ、今度の議論のためにもより役立つだろう。



聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月17日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教。/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教。

始めに
いつも、相澤先生の原稿を楽しく拝読しており、かつてのような論争を原稿という形でもさせていただくことには一定の意味があると思うので、筆を執った次第である。相澤先生の学恩に感謝の意を表したいと思う。

さて、12月号の原稿に取り上げられる課題は私にとって非常に重要である。つまり、聖書はどういったものなのか?それからユダヤ教とカトリックとの関係は何なのか?といったものだからである。
現代では、とくに第二ヴァチカン公会議以降、この二点についての誤解は深刻なので、そのあたりを中心に語りたいと思っている。

聖書とは
聖書は文学的に見ても時代も作者もその言語にいたるまで多くの異なる文章からなっている。たとえば、その中には詩、歴史記録、預言書、教訓書、書簡、回顧録などがあるばかりか、言語的にみても、ヘブライ語、ギリシャ語からなっており、その意味で、聖書とは纏まった「聖典」ではなく、いわば「本棚」のようなものといえよう。

加えて、「聖書」は、カトリック教会の教父たちとカトリック初期の公会議が制定した「聖なる文章」という一面をももつ。一般にいわれるところの旧約聖書と新約聖書である。善き日本語訳としては講談社のフェデリコ・バルバロ訳を推奨する(後述するが、同じ聖書とはいえ、翻訳が重要になってくる)。当初の教父たちや公会議の制定において、この聖典の構成は変えられることはなかった。聖霊の導きによって書かれたものであろう。ただし、イスラム教とは違い、多言語で書かれたものなので、当初から学問的な種々の考察と解釈があったことは事実である。

つまり、「聖書」というのはカトリックの信仰の一つの源であり、ユダヤ教とプロテスタントとはその位置づけを異にする。というのも、「ユダヤ教」(厳密に言うとラビ教、あるいはタルムード教)はタルムードを典拠にして、新約聖書そのものを否定する。一方、プロテスタント諸派は自由気ままに旧約聖書や新約聖書において恣意的に都合の良い文章を選択したりするので、統一された解釈というものがない。

聖書という意味
旧約聖書は救世主、真の人、真の天主であるイエズス・キリストの到来を準備するために用意された「民族」の歴史である。つまり、ただの物語ではなく、歴史書である。

しかしながら、ユダヤ人は、聖書の預言を否定する。というのも、旧約聖書のすべての預言を成就したのはイエズス・キリストであったにもかかわらず、タルムード教はイエズス・キリストそのものを否定するので、その結果、旧約聖書の預言を否定したり、無視したり、歪曲したりせざるを得ないのである。

この結果、天主の本質を語る旧約聖書は、タルムードを信奉する現代のユダヤ教によって完全に無視され、ないがしろにされている。カトリックでは、聖書を読むに際して、四つの解釈がありえる。ひとつは、普通に「文字通りに」読んで、つまりその歴史事実を把握するという一番単純な読み方であり、わかりやすい読み方である。
また、ほかに霊的な読み方が三つある。「前表(ぜんぴょう)」の意味で読み取る。つまり、旧約聖書の文章を新約聖書のイエズス・キリストのまえぶれとして読みとるというものである。
それから「教訓」の意味がある。つまり、道徳上の教えや天主に近づけるための霊魂上の試練と修道を助ける教えとして読みとるというものである。
最後に、福音書に照らして、人間の目的地(天国と地獄、永遠の命など)を語るものとして読みとるものである。

旧約聖書のすべての文章が必ずしも以上の四つの解釈に妥当するとはいえないが、初期の数十人の教父たちが揃って同じ言及をする場合、それは定着した否定できない解釈とされている。

例えば、旧約聖書のダヴィド王の場合はこうである。歴史の意味でとらえたら、ダヴィド王の歴史を語るということになるが、前表という意味でとらえたら、王たるキリストの意味でイエズス・キリストのさきぶれということになるし、道徳的側面でとらえると、ダヴィド王が罪を犯したときの改悛から改悛の必要性、赦しを希う必要性という教訓という意味になる。


ユダヤ教とカトリック
さて、次の課題に移そう。相澤先生は次のように書かれる。
「キリスト教がユダヤ教を相承(信仰的系譜)する一例である。ユダヤ教とキリスト教とを別ものとする意見を散見するが、客観的にみれば両教は兄弟関係、同文脈上にあることは明白、そのことを旧約聖書の存在が明示しているのだ。」

これは現在、一般化された見解であるが、実は誤認がある。旧約聖書がなぜ存在したかというと、ひとえにイエズス・キリストの来臨を準備するためであった。だから、イエズス・キリストの来臨を受け入れて、三位一体なる創造主、真の人として真の天主として仰ぐカトリックこそが「真実のユダヤ教」であるといえる。

そこがポイントである。「ユダヤ人」と「ユダヤ教」と言っても、イエズス・キリストの来臨以前と以後ではその位置づけを異にすることになるからである。つまり、イエズス・キリストを旧約聖書の預言どおりと受け入れて、イエズス・キリストに従って行ったユダヤ教徒(使徒たちや多くの人々、それから多くの異教徒たち)はそのままカトリックとなっていくのであるが、一方で、ファリサイ人のようにイエズス・キリストを否定して、憎んでいる子孫たちは現代の「ユダヤ教」になるのである。

つまり、ユダヤ教とカトリック教とは兄弟関係にはなく、むしろ宿敵関係にあるのである。それだけではない。「ラビ教」とでも呼ぶべきイエズス・キリスト以降の「ユダヤ教」は聖書は読まない。彼らはタルムードを読んでいるのである。タルムードは1~5世紀まで纏まった経典であるが、カトリックを否定するために成立したものである。具体的に言うとイエズス・キリストの預言された文章を書き変えたり、歪曲したり、またカトリックの真理を予兆する多くの文章を平気で改竄したりしているのである。

さらにいうと、タルムードやラビ経が典拠としているヘブライ語の旧約聖書よりも、カトリックの読む聖書こそがイエズス・キリスト当時やイエズス・キリスト以前の聖書に近いのである。というの、基本版となっている聖ヒエロニムスのラテン語訳、「ウルガタ」(現代でも典礼で使われている基本版)は382年に訳が完成したが、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語の達人が、古代ギリシャ語の「70人訳」を参照にしたほか、ヘブライ語の古い写本やタルムードの準備書面の「Mishnah」をも参照して、訳されたものであるからである。それに加えて、多くの教父たちや聖伝(イエズス・キリストの教え、聖書の解釈を含め、使徒たちから継承された教え)にも基づいているのであるからである。紛れもなく、「聖書」という時、イエズス・キリストの時代に使われていた一番近いものはカトリックの側にある。
これは旧約聖書の話だけであり、福音書ならば、もちろん現代「ユダヤ教」はまっこうから否定する。

それから、次の下りである。
「バラモン教から見ると、釈迦も自らの系譜を引く覚者のひとりとなる。キリストもユダヤ教から見ると自らの系譜につながる預言者の一人と見做す。構造的には合致している。」
しかしながら、厳密に言うと、タルムード教はイエズス・キリストを正面から否定するので、預言者としてすらみなしていない。一方、イスラム教はイエズス・キリストを預言者のひとりとしてみなしている。

だが、これはイエズス・キリストが真の天主であることを否定するために、当初のファリサイ派や反カトリック諸派により勝手に論難されたものにすぎない。というのも、イエズス・キリストは至上の王であり、至上の大司祭であり、至上の大預言者である上、真の天主、真の人であるということで、托身と贖罪の御業のため来臨され、そして人間の存在理由を決定的に明らかにしたのである。この事実こそがイエズス・キリストの存在理由である。が、これを正面から否定するタルムード教、フリーメイソンなどの「自然主義」と呼ばれる誤謬は、これらの事実が見えないように歴史上に多くの策略を繰り返してきた。
たとえば、「ユダヤ教」と「キリスト教」は兄弟関係だという誤謬を勧めたり(歴史上に見ても教義上に見ても宿敵関係にあることは明白なのに)、托身と贖罪、三位一体の玄義を歪曲したり否定したり忘れさせようとしたり、また永遠の命や超自然の生命を否定して、現世のみを視界に入るようなものである。(これについて、ぜひとも、「グローバリズムの真相に迫る!『グローバリズムの図解』前編・後編」 https://youtu.be/NUFpWyQrrlQを参照してほしい)。

飲酒について
それほど重要な点でもないが、十戒において飲酒のことに触れられている。どちらかというと、世に流布している「十戒」はカトリック教会による伝統的な要約版に過ぎなくて、それぞれの項目には多くの「副題目」が入っている(出エジプト記、20章から全文がある)。それについて、「天主の十誡と教会の掟」と題される公教要理からの教室を参照(https://youtu.be/jGGsqhZrilg あるいは、「罪源(その二)」https://youtu.be/vCFTLH0UB14 また、ファチマの聖母の会のサイトにも書き起こしが掲載されている)。

また、相澤先生の指摘のように、仏教には第一戒から第四戒までに相当するものはないと指摘される。これは非常に重要なポイントであると思われる。仏教はこれを「必要としない」からではない。大事な事実である創造主を無視するか、知らないか、見ないふりにするか、いずれにせよ、現実に存在する「天主」を捨象することに原因がある。

この意味で、僭越ながら、冥合思想ではなく、天主のご啓示によって仏教における正しい原理・原則を保ちつつ、超自然・霊的な真実に背く誤謬を取り除く試みをされるのはいかがであろうか?

終末論的な予言について
イエズス・キリストが成就した予言の他にも、イエズス・キリストご自身が残した予言がある。いわゆる「世の終わり」についての予言であるが、深入りする余裕はないので一言で要約してみると、将来を知らせるためにある予言ではない。単に、改悛と永遠の命への準備を促すための予言である。

また、前提として、予言は成就されないかぎり、だれも(天使と悪魔を含めて)世の終わりの時は知らないし、それは天主のみが知ることである。したがって、終末論的な主張はカトリック教会によって好まれていないどころか、邪道であるとすらされている。それについて、「本物の陰謀とは?(マテオ、24、15-35)」(https://youtu.be/Mx0HpJHONrY)と「悪魔(サタン)の罠。(マテオ、24、15-35)」(https://youtu.be/6C9V1wKbbf4)を参照していただければ幸いである。

要は、世の終わりの予言などはそれほど重要ではなく、いつ起きるかはわからないが、我々は確実に死ぬという前提のなかで、イエズス・キリストの裁きに対する相応しい準備をし、カトリックのいうところの聖寵の状態で死ねるように努めることこそが一番重要であるということである。

結びに代えて
相澤先生の結びを引用させていただく。
「現在のキリスト教徒に考へてもらひたい。キリスト教と法華仏教、これらの両教の冥合点を認め合ふ態度を望みたい。キリストと日蓮、両聖人の使命は全人類の不幸な対立をもたらすことではない筈である。基本冥合思想の解明こそ、今に生きるクルスチャンおよび法華仏教者の使命であると強調しておく。」

残念ながら、賛成できない結論である。すでに別の原稿で説明したように、単なる人としての自然徳を持つ日蓮を模範にするのはいいのであるが、三位一体なる創造主、真の人、真の天主(これは信仰ではなく、歴史的な事実である)なるイエズス・キリストの存在とはまったく異質である。それは、まさにイエズス・キリストの御言葉の「私が真理であり、道であり、命である」ということからしても明らかである。

この意味において、イエズス・キリストの使命は、十字架上の贖罪の御業にあり、そして祭壇上のこの生贄の再現であるミサ聖祭という遺産を制定なさったことにある。あとは、我々はこの事実を受け入れるか拒むかだけである。天主なるイエズス・キリストは十字架上に懸けられてまでわれわれを愛し給うたのであり、僅かでもイエズス・キリストのように天主を愛しようとするかしないかはすべて我々次第である。

「Veritas(真理)」という意味は「現実・実体・真実」と「表題」が一致していることというのが古代からの哲学上の意味である。イエズス・キリストが真の天主、真の人であるという真実を受け入れる義務は我々にある。これは実に存在する真実であるからである。

対立とは、原罪を負うている我々が、現世欲に負けて、意志的に真実を受け入れないことにしたとき、生じるものである。すでにイエズス・キリストによって完全かつ明確に示された真理・真実をそのままに引き継ぎ、訴え、実践において守り切るのはカトリック信徒の使命である。そこには人為的な解明が入る余地はない。イエズス・キリストの奴隷としてイエズス・キリストの教えを実践していくように努めることこそ、カトリック信徒の使命である。

その観点からできるのは、自然徳や自然上の真理を仏教においても認定しつつ、形而上学上の誤謬などを取り除くことではあるまいか。
最後に強調したいのは、学問にとどまらず、理想と幻想を捨てた上、「真実」に沿った自覚こそが現代で必要ではないであろうか?ということである。

カトリックと戦争:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月15日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『キリスト教と戦争』/ポール・ド・ラクビビエカトリックと戦争/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ


カトリックと戦争
はじめに
相澤氏のキリスト教と戦争に関する記事を読み、感銘する部分もあり、ここに感謝の意を表したいと思う。大まかに相澤氏がまとめてくださった通り、カトリック、それからルターの戦争に対する立場は説明されている。カトリックはもともと正当防衛を認めていた他、正しい戦争をも説いていたので、後ほどそれについて、補足することにしよう。そして、相澤氏の言うように、ルターはかなり暴力主義であったのは知られていることである。戦争だけではなく、例えば魔女狩りについてもプロテスタントを創始したルターこそがかなり扇動した事実がある。ルターによる次の文書がある。1529年の彼の著書である『大教理』からの引用である。

「バターと牛乳と鶏小屋で卵などを盗む魔女にせよ、魔法使いにせよ、それらに対して容赦してはならない。旧法 において、司祭らが罪人に投石したように、できれば、私自身が彼女らの火刑台に火をつけたいところだ。」

それはともかく、「従軍司祭」の制度の起源はメロヴィング朝、8世紀までその前例があるが、制度として整備されたのは聖ルイの時代まで遡る。正確に言うと、「従軍司祭」というよりもフランスではいまだに「従軍教区」が敷かれている。革命があったにもかかわらず、これは聖ルイが整備した制度の遺産である。

「従軍教区」の淵源は「王室聖堂の教区」という特別な教区が教皇に認められたことにある。本来ならば、司教が束ねる教区とは地理上の単位であるが、「王室聖堂の教区」には地理的な基盤はなくて、王室の霊的要請に応えた教区であり、例外的に司教でも認可される教区であった。そこから、軍人のための教区として「従軍教区」ができて、司教はそれらの従軍司祭を束ねるのである。

これは、戦争を肯定するというよりも、国家に身を捧げる軍人の霊魂のための制度であって、戦場におもむく前に秘跡(特に告解とミサ聖祭)に与れるとともに、また瀕死の際も、秘蹟に与れるための制度である。というのも、カトリックでは死んですぐに、裁かれ、霊魂の行き先が天国、地獄、煉獄にいずれかが決せられるので、国家のために奉ずるという軍人の職分の本質に照らして、通常よりも秘跡を必要としている仕事とみなされているからである。

カトリックの戦争観
さて、カトリックの戦争観を簡単に紹介しよう。カトリックは戦争を肯定するといえるだろうか?肯定というよりも原罪の必然的な帰結として現実にあることからして、やむをえない罪の結果とみなされている。従って、罪と同じように戦争を嫌い、基本的には戦争は避けるべきであるものの、一方では正しい戦争もあるとされている。

オックスフォード大学の哲学博士であるJohn Laughland氏の明快な解説によると、正しい戦争はあり得ても、そうではないいわゆる「反乱」は必ず「大罪」となるとされる。現代世界を理解するためにかなり手がかりとなるので、ぜひとも参照していただければと思う(ユーチューブで『キリスト教の道徳と戦争法の変遷(国際法の起源に迫る)』を検索。https://youtu.be/Ko2Ak45QoXk)。

以下、引用開始。
「中世期を見ていきたいと思います。ここにいる多くの方々は中世期の戦争論を知っていると思いますが、「正しい戦争」という観念は有名であり、皆、一度ぐらい聞いたことがあるでしょう。また、ここにいる皆様は正しい戦争に関する聖アウグスティヌスと聖トマス・アクイナスの文章を知っていることを期待します。

ご存じのように、戦争は正しい戦争になるための条件として、聖トマス・アクイナスは三つの条件を提示します。第一に、宣戦布告と戦争自体の展開は正統な権威者がやるべきという条件。第二、戦争を開始する理由は正しくなければならない。つまり、具体的な不正、あるいは不公平を糺すための理由がなければならないという条件。そして、第三、それだけでは足りなくて、戦争開始をする意図も正しくなければなりません。言いかえると、慈悲をもって戦争に臨むべきとの条件。具体的には、暴力を最小限に戦争を展開して、復讐や暴行への欲望に落ちないことに努めるという意味です。

しかしながら、聖トマス・アクイナスはさらにもう一つの条件をつけ加えます。以上の三つの条件は神学大全の第二部、第2部の第40問に記されています。聖トマス・アクイナスはその次の第41問と第42問においても、暴力にかかわる他の事柄について解説します。これらの事柄も戦争を考える際に非常に重要となります。

第42問において、「反逆」あるいは「反乱」の解説があります。反乱というのは、簡単にいうと、ある国における武装化した反逆です。そして、聖トマス・アクイナスは彼ならではの明晰さをもって、反乱について「必ず大罪になる」と説明します。例外は一つのみあります。権力が僭主になった時なら、必ずしも大罪にならないのです。

それはともかく、大事なのは、戦争の場合、条件が満たされたら、正しい戦争になりえる一方、反乱の場合、聖トマス・アクイナスによると、大罪となって、反乱を正当化できないとされます。言いかえると、反乱は例外なく悪い事柄で、悪をもたらすとされているのです。」
以上、引用終了。

この意味で、カトリックの立場は正しい戦争にはいくつかの条件があるということであり、それはどこの文明においてもこのような正しい戦争はあって、かつ、正しい戦争というにはやはり条件があったということである。近代のみ、平和主義を建前に唱えながら、一番むごい戦争を実際に展開していった事実があることを忘れてはならない。それはさておいても、カトリックの戦争論の特徴は、戦争という事象というよりは、平和のありようにある。John Laughland博士の引用を紹介しよう。

以下、引用開始。
「要するに、古代にも現代にもない、キリスト教時代の戦争法の特徴は次の通りになります。平和条約においては、必ず「免責条文、あるいは特赦条文」というものがありました。(まあ、歴史だから、必ずとはいっても、例外も存在するはずですから、必ずといってはいけませんが)、とりあえず『中世においての平和条約』(Nicolas Offenstadt著)に参照していただければと思います。とても良い研究です。面白いことに、中世におけるこのような平和のありようは中世だけではなくて、20世紀まで続きます。

それで、キリスト教的な平和のありようの特徴は法律上の特徴でもありました。なぜ、それが非常にキリスト教的特徴であるのかということはすぐわかるかと思います。つまり、キリスト教時代の平和条約においては、中世、近代、20世紀に至るまでの間、必ず「特赦条文」がありました。あるいは「大赦条文」のような条文があったということです。」
以下、引用終了。

聖ルイの遺言に見えるカトリックの戦争観
聖ルイは王太子だった息子に有名な遺言を残して、そこに教訓を集めていた。その内、戦争に関する条文もあって、聖ルイの時代の間にフランス国内において戦争のなかった時代であったのにも関わらず、戦争に関する条文を残したということはキリスト教的国王として象徴的だと言えよう。戦争はなるべく避けるべきだが、やむを得ない場合は戦争を遂行する義務も残っているということだ。

以下引用開始。
戦争を極力避けよ。
「22. 愛する息子よ、できるだけ、キリスト教徒を相手に戦争を起こすことを控えるようにしなさい。不正と弊害をおまえが被った場合、戦争を起こす前、その不正を糺し弊害を晴らすために多くの選択肢を試みなさい。また、戦争のせいで発生する多くの罪を避けるためにあらゆる手段を尽くし、多く解決案を試みなさい。もしも、そうしても戦争をやらざるを得なくなった場合、例えば、おまえの朝臣が国王の権限を略奪しようとする場合、あるいは朝臣がどこかの教会に対して弊害・不正を犯し、または貧しき人々に対して弊害・不正を犯し、またその他の誰かの人々に対して弊害・不正を犯し、(加害者は)それを償おうとしない場合、また他に妥当な理由があって戦争を起こすべき場合、(加害者だけを罰して)反逆と裏切りの罪を負っていない人々については(戦争に巻き込まれないように)彼らを守るようにしなさい。
また火災でも他の戦災によって、それらの無罪の人々に何の弊害がおこらないように、丁寧に熱心に尽くしなさい。というのも、犯罪者の町・城を破壊するよりも攻囲の力で犯罪者を降伏させ、加害者の領地や財産を没収した方が良いからである。また、戦争を宣言する前、側近からでも本当に善く助言を頂くように努力をつくしなさい。また、戦争の理由は本当に妥当であるように確認し、また戦争を起こす前、必ず、事前に犯罪者を十分に善く忠告するように、そして犯罪者に十分に相応しい時間をちゃんと与えるように注意を払いなさい。」
以上引用終了。

カトリックの戦闘精神
武器を取ることを極力に避けるべきだとしているカトリックにおいて、霊的な戦闘精神は十分に備えている。それはイエズス・キリストが教えて、行動で見せた戦闘のやり方である。つまり、十字架である。福音書によってみよう。

「私が地上に平和を持ってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣をもってきた。つまり、私は息子をその父から、娘をその母から、若い嫁をしゅうとめから別れさすために来た。人は自分の家の者を敵に回すだろう。私よりも父や母を愛する者は私に相応しくなく、わたしよりも息子や娘を愛する者も私に相応しくない。自分の十字架を取って私に従おうとせぬ者も相応しくない。自分の命を保とうと努める者は命を失い、私のために命を失うものは命を見出す。」(マテオ、10,34~39)

「そばにいた番兵の一人はイエズスを平手打ちし、「大司祭に向かってそんな答えをするのか」といった。イエズスは、「私が悪いことを話したのなら、その悪い点を証明せよ。もしよいことを話したのなら、なぜ私を打つのか」といわれた。」(ヨハネ、18,22-23)
神殿から商人を追い出す場面(ヨハネ、2、13-25)

以上に見るように、キリストの平和は形式的な平和ではなく、キリストにおいての平和でしかありえないので、時には抵抗して、常に戦い、殉教死に曝してまで天主が啓示された真理、それからイエズス・キリストによって具現化された正義を通すべきだとされている。

結びに代えて
結論から言うと、法華仏教とカトリックは冥合してはいない。
自然法的な意味では、古代ローマや古代ギリシャもそうだったように、啓示がなくとも人間の本性に刻印されている「正当防衛」と「正しい戦争」に対しては確かにカトリックと法華仏教は共通してはいるが、平和の実践と戦う目的となる正義の中身は全然違ってくるからである。
一方で、平和主義を唱えるようなイデオロギーや宗教などがどれほど非現実的な基盤を持つか、どれほど実際に残酷な戦争を産むのかは革命以降の歴史が示していることに関して皆が同意するところだろう。

祈りとは何でしょう?祈る時にはどうすればよいでしょう?

2021年01月17日 | カトリック
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百七講 祈りについて



前回の講座では、聖寵とは何であるかを紹介しました。第一、聖寵の状態、すなわち「平常の聖寵」とは天主の三つの位格が私たちの霊魂にお住いになることによって、「天主の生命という賜物を天主が人間に与える」という恩寵です。第二、「助力の聖寵」とは一時的な助けの聖寵です。助力の聖寵を通じて、善き天主は私たちがある行為を実践するために、あるいは悪い行為を躊躇するための一助を与え給うということです。
そして、聖寵を得るための主な手段は祈りと秘跡なのです。

今日は祈りについて見ていきましょう。祈りとは何でしょうか。
公教要理が記す通り、祈ることとは、父に話しかけると同じように天主に話しかけるということです。この定義は本当によくできています。(くりかえしますが)祈ることとは、父に話しかけると同じように天主に話しかけるということです。そういえば、私たちの主は祈ることを教えている際、「あなたたちはこう祈れ、〈父よ〉」(ルカ、11、2)と使徒たちに仰せになりました。

要するに、天主に話しかける時に重要なことは「父なる存在に話している」ということを思い出すことです。天主に話しかけるのは一体なぜ「父に話す」と同じことなのでしょうか?これも注意すべきことなのではっきりと説明しておきましょう。私たちの霊魂においてお住いを構え給うた善き天主は、私たちの友人になる恩恵を与え給うだけではなく、私たちの父になり給うからです。

聖寵の状態というのは、天主が私たちの父になっているという状態です。これは大切なことです。現代、いわゆる曖昧な「エキュメニズム」が流行しているせいで、「皆、同じ天主を父として頂いている」かのように信じ込む羽目に陥ることが少なくないでしょう。しかしながら、それは正確ではありません。より厳密にいうと、人々は全員、皆、同じ創造主としての天主を頂いています。

このように、人間なら必ず天主による「創造のみ業」より生じたということです。しかしながら、本来の「父」という意味では、人々は皆、同じ父を頂いていないわけです。聖寵の状態にいる人々のみ、同じ父を頂いているのです。言いかえると、つまり、聖寵という「大家族」に属する人々だけが同じ父を頂いています。ですから、狭義でいう「兄弟」、つまり本来の意味の兄弟となっている人々は同じ父を頂いている人々に限られるのです。つまり、聖寵の状態にいる人々は本当の意味での兄弟です。

言いかえると、聖寵の状態にいるカトリックの信徒たちです。カトリック信徒たちは聖寵を得ていない人々の兄弟ではありません。カトリック信徒たちはカトリックではない人々の兄弟ではありません。50年前ぐらいから、「皆、兄弟だ!」という誤謬は広まりましたが実際はそうではありません。言葉の意味を曖昧に使うことによってそのあたりが曖昧になりましたから、注意が必要です。



家族において、兄弟になっているという意味は「血統でつながっていて、つまり同じ父を頂いている」という意味でしょう。なぜこのような意味になっているでしょうか?同じ父によって生まれて生きているからです。つまり、一番厳密な意味でいうと、狭義な意味でいうと、兄弟になるためは、聖父なる天主によって超自然の命として生まれた時に限ります。つまり、超自然としての命にまだ生まれていない人は天主を父として頂いていないのです。従って、イエズス・キリストを兄弟として頂いていないのです。したがって、キリスト教徒を兄弟として頂いていないのです。

そして、父として天主を頂いていない人は、当然といえば当然ですが、聖父なる天主の遺産(これは天国あるいは救霊ですが)を相続する権利はありません。当然と言えば当然ですが、このような基礎知識はよく覚えておきましょう。基礎中の基礎ですから。
皆、必ずしも兄弟ではないということを忘れてはいけません。カトリック信徒たちのみ、兄弟となっています。そして、聖寵の状態の内に生きている人々に限って、天主は父となっています。

当然のことながら、この世に生きている限り、人間ならだれでも聖寵の状態の内にいずれの日にか生まれ変わることが期待できますし、望ましいことです。私たちが兄弟になることを教会が深く望んでいるからこそ、宣教があり、福音を伝えるのです。そのため、「善き知らせ」を伝えていくのです。「天主は私たちを養子にしてくださった!」という善き知らせです。「天主の子になった!」という善き知らせです。

要するに、祈りをするとき、父なる天主に話しかけるのです。そして、父に話しかけるとおなじように、天主に話しかけるのです。
この短い定義においては、祈りとはどれほど単純なこと、自然なことであるかが語られています。ときどき、祈ろうとするとき、物事を無駄に難しくする傾向が少なくないでしょう。「どうすればよくいのれるのか?どういった言葉を使ったらよいか」とか。それを一旦わすれて、単純に素直に祈るのがよいです。祈る時、私たちの父である天主に話しているということを思い出しましょう。

さて、祈ろうとしたらどうすればよいでしょうか?
第一、天主を礼拝しましょう。というのも、天主は私たちの父であると同時に、私たちの創造主であることに変わりはないからです。天主は私たちの父になり給うたお陰で、あるいは私たちは天主の子になることによって、私たちは超自然の次元に引き上げられているということを忘れてはいけません。つまり、人の力だけで、到底に取得できない宝を天主のお陰で取得したということです。ですから、祈る時、第一に、天主を礼拝しましょう。本来ならば、キリスト教徒ならあたりまえの習慣になっていることですが、天主に祈りをささげる際、まず天主の偉大さを認めて唱えて、礼拝するのです。
~~

残念ながら、近代主義による悪影響もあり、「天主は私の仲間、わたしの友達」といったような意見が意外と多くなっているようです。天主はなにか、何の遠慮もなく、何の礼儀もなく、何でも「会話」できるような存在であるかのような。それはありませんよ。父に話しかける時、丁寧に話すでしょう。友達ではないからです。この世は私の父のお陰で、生きているわけです。そして、父から生命を受けているし、人生においていつまでも父に依存する部分があるし、つまり多くの恩を受けています。

このように、天主の場合も同じです。天主は単なる「友達」ではありません。砕けたような口調で話しかけるのは論外でしょう。善き天主は善き天主なので、偉大中の偉大な存在です。「自分を欺いてはいけない。神を侮ってはならない」(ガラツィア人への手紙、6、7)。
当然ながら、天主との親しみはもちろんあります。ありますが、この親しみはいわゆる馴れ馴れしくなることはないというか、粗野な砕けたような関係ということにはなりません。

そして、「天主はいとも優しい御方なので、どれほどダメな傾向が私にあったとしても、許してくれるからさ、私のレベルに卑下してくれるからさ」ということはありませんよ。



普通の家族において、父の仕事は子供たちを引き上げて、高めてあげることにあるのです。つまり父は卑下してはならないのです。なにか、大人でなくなって、子供になるかのように、父が自分を貶めて、卑下することはありませんよ。もちろん、一時的に、父が「子供のレベルに自分を貶める」ことがあります。しかしながら、それはいわゆる、子供のレベルまで下がって、子供を引き上げるためです。そして、同じように、子供もどんどん高まってほしくて、全力を尽くして努力します。たとえば、子供は大人の会話に混じることによって自分がより大人っぽくなりたいということです。聖パウロがおっしゃる通りです。「私はこどものころは、子どものようにはなし、子どものように考え、子どものように論じたが、大人になってからは子どもらしいことを捨てた。」(コリント人への第一の手紙、13、11)

要するに、祈る時に、最初の目的は、天主を礼拝し、天主のいと高き威厳を積極的に認めることにあります。
それから、祈りの第二の目的は天主に感謝することにあります。当たり前といったら当たり前ですが、それほど多くのことを頂いているから、感謝するのは最低の最低でしょう。考えてみると、天主は私たちのようなちっぽけな存在を超自然の次元にまで引き上げてくださることになさるなんて、信じられないことでしょう。また、恩寵を私たちに与えてくださるなんて、冷静に考えると本当に信じられないことです。その分、感謝しましょう。

そうすることによって、父という関係の上に、天主は私らにその親交関係を結び、ある程度の対等性を与えてくださるわけです。どれほど素晴らしいことでしょうか。天主のみ内に天主が私たちを入れ給うなんて!これを思い出すと、天主を感謝することはいつまでも十分にできなくて物足りないでしょう。ですから、出来る限り、よく感謝していきましょう。また、善き天主は感謝の意を大御心のなかで受けるのです。これを思い出しましょう。善き天主は感謝の意を大御心のなかで受けるのです。ですから、感謝をよくしていきましょう。

そういえば、現代の社会では感謝することが珍しくなりました。というのも「人権」をはじめ、「現代人には権利がある」といって、「すべて得て当然だ」といったような空気なので、感謝することがなくなりつつあります。なんか、個人が権利を貰っているのが当然であるかのように、個人がすべてを貰っているのが当然であるかのような空気です。そして、天主に対するこのような態度はときどきあります。天主は人間に物事を与えるのは当然であるかのように、人間の言いなりになるべきだというような態度。それはまったくありません。逆です。人間こそは天主に仕えて、従っているのです。ですから、感謝してください。そうすると、天主によって恵まれることになります。

思い出しましょう。福音において、10人のハンセン病がわれらの主のもとに来る場面を思い出しましょう。その時、「治してほしい」という願いですが、われらの主は善き御方なので、当然ながら10人とも治してあげます。そして、10人は治りました。10人ともうれしいですが、そのうち、われらの主に感謝を表したのはたった一人だけです。感謝するのは人間にとってどれほど難しいかこれでお分かり頂けたと思います。

経験に照らしてもそうでしょう。そして、その10人の内、たった一人のみ、私たちの主の下に戻って、「ありがとうございます」といいます。そして、私たちの主は「10人を治したのではなかったのか?残りの9人はどこにいったのか」と仰せになります。残りの9人は恩知らずな人々でした。感謝を表さないのです。そして、感謝しに来た一人のために、イエズス・キリストは彼の身体を治した上に、今度、彼の霊魂を治すのです。素晴らしいでしょう。善き天主に感謝を表したから、更に私たちの主はより多くの賜物を送るのです。

あと、周知のように、親は子供が「ありがとう」といわせるためにどれほど苦労を掛けているかを見ても明白でしょう。そして、このように躾のある子、よく「ありがとう」といってくれる子に会う時、その子により多く与えたくなっていきますね。この子は、現実の「依存」をありのままに認めているから、ありがたいことですね。
要するに、礼拝し、感謝しましょう。祈りの一つの目的は天主に感謝することにあります。
~~

それから、祈りの第三の目的は一番知られているところでしょう。つまり願いを立てる目的ですね。恵みを乞う目的です。よく礼拝しないでよく感謝しないことが多いため、願っても成就することはまれでしょう。それでも、どうしても私たちは恵みを希っていますね。そして、私たちが天主に意外と多くの恵みを希っているのが常ですね。

そして、臨終の時、天主のみ前に来る時が来たら、いよいよどれほど天主から頂いたかということに気づくことになりますが、私たちは驚くでしょう。そして、なぜ、私たちの願いがあまり成就されていなかったのかもわかるでしょう。つまり、私たちが願っている多くのことは私たちのためにならないから与えられるわけがないということです。

ですから、これは多くあることでしょう。私たちの救霊とあまり関係ないことを願ったりすることが多いでしょう。あるいは、救霊を得るためにまったくためにならないことを意外と願っていることも少なくないでしょう。しかしながら、天主は私たちのために気づかない内に与えてくださった多くの物事をはじめて分かった時、皆、驚くでしょう。要約すると、祈りの第三の目的は恵みを希うことにあります。

そして、祈りの第四の目的は、私たちが犯した罪の赦しを希うことにあります。これも非常に大切です。親は子どもがなにか罪あるいは過失を犯したとき、謝罪を要求するのと同じです。そして、謝罪して、赦しを希うのは、慎みの行為なのです。つまり、天主のみ前に、私たちはどれほど小さいかを認める行為だからです。

謝罪すること、赦しを希うことは大事です。現代の社会では赦しを希うことがまれになっています。いわゆる、謝罪するよりも、裁判に訴えて賠償金を貰うのはむしろ普通になりつつあります。天主に赦しを希うのは大事であって、そしてその分、多くの恵みを頂くのです。

以上は祈りの四つの目的でした。第一、礼拝すること。第二、感謝すること。第三、恵みを希うこと。第四、罪の赦しを希うこと。
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キリスト教徒には祈ることが義務です。「祈らない人は救われない、祈る人は救われる」とは聖アルフォンソ ・デ・リゴリのことばです。
祈りというのは、信徒と天主の間の親交を大切にする手段です。維持・持続する手段です。たとえば、二人の親友はお互いに大事な方だと思ったら、よく話し合うでしょう。その関係を大切にするため、よく手紙を交換したり、あるいは会話したりするでしょう。このような関係がなくなったら、親交はどんどん薄くなっていき、ある時、絶交になるでしょう。

逆に、このような関係を大切にして、よく話し合ったりすると、親交を保つたけではなく、その親交を深めていくのです。その絆を強化していきます。これは祈りの役割です。ですから、祈りはキリスト教徒の義務です。祈ることによって天主との絆を強化していきます。また、祈ることによって、聖寵の状態が確固たるものとなっていきます。つまり、よく祈っているキリスト教徒は信仰において、聖寵において毅然として強くなっていきます。そして、祈れば祈るほど、罪を犯すことも少なくなっていきます。このように考えると、聖アルフォンソの言葉の意味が分かります。「祈らない人は救われない、祈る人は救われる」。要するに、祈りは義務です。

それから、いつ祈ればよいでしょうか。もちろん、なるべく頻繁に祈るのがよいです。聖パウロが言う通りです。「絶えず祈れ」(テサロニケ人への第一の手紙、5、17)。もちろん文字通りには無理ですけど、なるべくよく祈ることです。
良い習慣として、起きる時、一日を天主に捧げるために祈るのがよいです。また、寝る前に、一日にいただいた恵みを感謝して、罪の赦しを願うために祈るのがよいです。それから、日中、時々祈るのがよいです。悲しみがある時、苦しみがある時、危険がある時、誘惑がある時、祈るのが重要です。

そういえば、日曜日のミサに与る戒め以外に、教会は祈祷に関して細かく規定することはありません。たとえば、「必ず毎日三回祈れ」というような規定はありません。もちろん、祈れば祈るほどよいことで、それに越したことはありませんね。というのも、親友を愛すればするほど、頻繁に会いたくなってよりよく話したいと同じように、天主を愛すればするほど、祈りたくなっていきます。天主はなによりも、この上なく貴重なことですから。ですから、天主に近づこうとすればするほど、よく頻繁に祈っていくことになります。

そして、よく祈るためには、注意深く、慎み深く祈ることが重要です。礼拝することは慎みの行為です。同時に天主を信頼して安心感を以て祈ることが大事です。また、一番難しいところであるかもしれませんが、忍耐強く絶えず祈り続けることが大事です。よくあることでしょう。恵みを得るために祈りますが、叶わないからといって、祈りを止めることが少なくないでしょう。



これは過ちです。天主は私たちに与えるべきこと、与える義務はまったくありません。その逆です。私たちはすべてを天主により賜っているので、恩返しする義務があって、祈る義務があるのです。いわゆる、私たちの祈祷が成就するか否かにもかかわらず、いつまでも私たちは天主に依存して、また天主に深く恩に来ている事実は変わりません。

従って、いつまでも祈り続けることが大事です。忍耐強く祈り続けることが大事です。福音ではこれについての立派なたとえがあります。ある人が夜中に友人の家まで来て戸を叩く話です。いま不足している物を友人に頼みに来ました。夜中だし、騒ぎになるから、起きざるを得ないその友人に対する願いです。そして、私たちの主はこのように仰せになります。この友人は友人として頼まれたことを与えないとしても、静かに寝ることができるために与えるだろうと。このたとえを通じて、私たちの主は「忍耐強く、あきらめることはなく祈り続けなさい」と教えるのです。つまり、「正当な頼みであるかぎり、いずれか成就してあげるから」という意味を込めたたとえ話です。
要するに、祈る時に、注意深く、慎み深く、信頼して、忍耐強く祈っていきましょう。

それから、祈る時、まず、自分自身のために祈ることが大事です。聖寵を失わないように、信仰において忠実であり続けるように祈るのがよいです。それから、生きている者と死んでいる者とのためにも祈ることが大事です。死者は既にその運命は裁かれたので、煉獄からなるべく早く解放されるように信徒の死者のために祈るのが大事です。

そして、何よりも大事なのは、生きている人々のために祈ることです。生きている人々が天国に入れるように祈りましょう。これこそ重要です。罪人のために祈るのが重要です。聖母は何度もこれを私たちに頼んでいます。Pontmainのご出現の際でも涙をながし、ファチマの際に聖母が子供に地獄を見せて「そうならないように、罪人のために祈りなさい」と頼みました。永劫は非常に深刻なことで、取り消しのない状態ですから。そして、生きている人々の間に、愛徳の順番に従って、第一に、私たちに近い人々のために祈りましょう。家族、親、兄弟姉妹、友人、それから信仰において私たちに近い人々のために祈りましょう。「親交においての同胞者」とでも呼ばれうる人々のために祈りましょう。お互いのために祈り合うことが重要です。祈るということは自分自身のためだけではありません。お互いのために祈ることが大事です。そして、教会の構成員の皆さんのために祈るのも大事です。
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祈ることに当たって何を願えばよいでしょうか。一番重要なことを願いましょう。つまり、私たちの救霊のために必要である物事を願いましょう。
地上の物事あるいは現世の利益はいつまでも続かないし、いつか終わるから、現世の利益は救霊のために必ずしも必要ではない物事です。従って、祈りにおいて、何よりも超自然な恵みを願いましょう。

祈りには二種類があります。心の祈りと声の祈りです。この区別を理解すると、聖パウロの「絶えず祈れ」という命令の意味をも理解できます。「声の祈り」とは、言葉を以て発声して、また体の姿勢をもって行う祈りを指します。いわゆる、言葉をもっての祈りです。知るべき「声の祈り」には次の重要な祈りがあります。「アヴェマリア」あるいは「天使祝詞」と呼ばれる祈祷。天使聖ガブリエルがいとも高き聖母に祝いの言葉を知らせたことから「天使祝詞」と呼ばれます。そして、天主の言葉に追加された形で、聖エリザベートの言葉に続き、最後の部分は教会によって追加された部分から構成されています。


「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。」
以上、前半の部分は天使ガブリエルと聖エリザベートの言葉です。そして、後半は教会が追加した祈祷です。
「▲天主の御母聖マリア、
罪人なるわれらのために、
今も臨終のときも祈り給え。アーメン。」

キリスト教徒にとって重要中の重要な祈祷です。そして、非常に覚えやすい祈祷なのです。そして、司祭として経験を述べさせていただくなら、老人あるいは病者の世話をする時、疲労していたり、病気のせいで何もできなくなっている状態でも、何も読めない覚えられない状態でも、アヴェマリアは最期まで残ります。臨終の人々の大きな慰めとなる祈祷なのです。

「めでたし 聖寵充ち満てるマリア、
主御身とともにまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。」

それから、キリスト教徒なら必ず知るべき祈祷は主祷文です。天主は使徒たちに向けて直接に教えられた祈祷なのです。「あなたたちはこう祈るのがよい」(マテオ、6、9-13)

「天にましますわれらの父よ、
(願わくは、)御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを。
▲われらの日用の糧を、今日われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。アーメン。」

この祈祷には常に私たちの父なる天主に願い出るべき項目はすべて揃っています。以上、声の祈祷でした。もちろん、祈りは数えきれないほどに、その他たくさんありますね。栄唱などの短い祈祷、あるいは聖ベルナルドの素晴らしい「聖母への祈り」、そのほか多くの連祷は無数なほどあります。カトリック教会は非常に多くの祷りを受け入れました。好みもあってよいですし、いくつかを覚えておくといいですし。

それから、心の祈りという祈祷の種類もあります。その呼称通り、より内面的な祈りになります。もちろん、声の祈りも内面を含めて心を込めての祈りですが、心の祈りの特徴は発生する言葉はないという意味です。心の内にだけ祈るという。要するに、霊魂は天主のご現存を心に迎えるという祈りです。信仰の行為、希望の行為、愛徳の行為を内面的に行い、霊魂に天主を迎えるということです。そうすることによって、天主を礼拝するのはもちろんですが、そして感謝し、そして天主は霊魂にご自分自身を与え給います。
黙想あるいはとも呼ばれる祈りです。霊的な祈りの達者とされている聖アヴィラのテレサはこういっていました。「毎日、15分の黙想をする人は天国に入ることが確実です」。



黙想あるいは心の祈り、あるいは内面的な祈りは「静寂主義」という誤謬ではありあません。「静寂主義」は誤謬としてカトリック教会によって断罪されました。つまり、「静寂主義」といのはすべてにおいて消極的で、静寂しながら天主の間に動かないまま、15分の間に何もしないでそのまま立っているような感じですが、それは心の祈りではありません。黙想になりません。いや、それはなくて、黙想というのは、信仰の行為、希望の行為、愛徳の行為を込めて、天主を迎える状態にするということです。自分の霊魂を天主に捧げて、天主を迎える積極的な祈りです。そうすることによって、天主は霊魂にご自分自身を捧げることは可能となります。

たとえてみると、ちょっとだけ似てはいますが、こう言いましょう。母が食事の準備をしているとしましょう。台所にいて準備していいます。そして、二歳の子供は傍にいて母のやっている事をじっと眺めています。二歳の子供はそして話しかけます。おぼつかない言葉で。そして、母を手伝おうとしても何もできないのです。まあ、卵を下手に壊して、粉を散らかすぐらいですね。しかしながら、子どもができるのは母のそばにいることです。そして、いることだけで、母は喜びます。また子供も喜びます。そして、二人は実は消極的ではなく、お互いにいることによって喜びます。子供は具体的にあまり何もできないとしても、消極的にならないわけですね。興味津々になって、母を手伝おうとします。
もちろん、これはかなり弱いたとえにすぎませんが、心の祈りはこれとちょっと似てはいます。天主のご現存を心に迎える心の祈りです。
以上、祈りについてでした。

カトリックにおける世俗と宗教の関係について : 法華経とキリスト教の比較について【原文全文】

2020年12月15日 | カトリック
【国体文化】令和 2 年 11月号掲載された書評のポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

カトリックにおける世俗と宗教の関係について

法華経とキリスト教の比較について/ポール・ド・ラクビビエ

相澤弘明氏による『法華経世界への誘い』と『日蓮の王法思想への誘い』を興味深く拝読させていただいた。研究家として、また、一カトリック信徒として、二冊に関する評価が求められたので、ささやかな拙文を作成してみたので以下、紹介したい。

まず、これらの書籍を通して、今回、初めて、法華経と日蓮の思想を細かく知る良い契機になったことに対し、著者に感謝の意を表したい。
そして、「なるほど」と思いながら、読ませていただいたが、日本史、さらには東洋史における法華経そして日蓮の王法思想の思想背景と議論がよくわかり、大変、勉強になった。

ただ、二冊とも内容が多岐に及ぶが、本文で取り扱う課題はごくわずかであることについて大方のご容赦をいただきたい。
本文の中心課題として、相澤弘明氏が提起するキリスト教と法華経の比較に焦点を絞ることとする。

I.共通点について
以下にわずかな共通点を取り上げることにする。統一への渇望などあるだろうが、それには触れず、とりあえず、顕著な点だけを取り上げることにする。

1.三位一体的な構成について
日蓮主義系を基礎づける法華経において、一体三宝観という教義があることは私にとって大変興味深い発見だった。また面白いことに、ジョルジュ・デュメジルの研究の成果によって、彼が提唱した説をさらにあとづける事実だと思った。

ご存知のように、ジョルジュ・デュメジルは多言語ができて、多くの民族と宗教の神話、それから多くの宗教を研究していた大研究家である。
ジョルジュ・デュメジルを象徴する学説は、いわゆる、インド・ヨーロッパ語族における比較神話学の構造的体系化を行った結果としての「三機能仮説」である。面白いことには、この三機能仮説をフランス語から直訳すると「三位一体的な構成あるいは構造」とでも訳せるのである。
このように、一体三宝観というのはまさにその仮説(三機能仮説)をあとづけているとも言えよう。

さらに興味深い発見だったのは、世界中の宗教において「三位一体的」な構成、あるいは構造があるという現象が確認されていることだ。仏教ではこのような構成は存在しないと思っていたが、日蓮主義において存在するということを知って「やはり、三位一体的な構造は普遍的な現象である」と改めて新鮮に感じたのである。

加えて、興味深かったのは、田中知学系の日蓮主義においてはキリスト教になぞろうとする意志がみうけられたことだった。そこまで無理に類似性を見出さなくてもいいのにと思いつつも、このような発想、思考については、個人的にシンパシーを感じた次第である。

2.戦闘精神
『日蓮の王法思想への誘い』を読んで、強く感じたことはカトリックの戦闘精神と日蓮主義の戦闘精神はあい通じるところがあるいうことである。ともに消極的に受動的にやるだけにとどまらず、積極的かつ能動的に真理を勧め、実践しているのである。

武家による支配の長い歴史も関係しているのかもしれないが、日蓮の態度はその意味で評価すべきだと思う。つまり、信念があり、誤謬をはっきりと指摘し、誤謬を誤謬として叩いていく姿勢。そうすることによって、なるべく多くの人々を真理へ導くような熱心さ。

3.王法と仏法の間の調和
また、王法と仏法を調和させようという姿勢は、フランス国体からみてもカトリックからみても、かなり通じるところだと思った。つまり、王権と教権は補完的にも調和的に働き合うときこそ、繁栄な時代が訪れて、そしてその「和」のために全力に尽くそうとする姿勢がある。

人類学の成果を見ても、多くの民族では宗教と政治は密接につながっていて、時には一体化するが、とにかく、枢要的な位置を占めることが殆どであり、これも普遍的な現象だと思った。人間は常に政治的な平安も精神的な平安も求め、そうするために全力を尽くしてきたということが歴史と人類学が教えることであろう。

II.相違点について
以下になるべく簡単にキリスト教との比較に当たって疑問をいだいた点をいくつか紹介しよう。カトリックはどうなっているかについてはなるべく簡単に紹介して、結論を各位に任せることにしたい。細かい話には入れないので、三位一体について、また御托身と贖罪の玄義については、ユーチューブのチャンネル[注1]に公開されている公教要理の当該箇所をぜひ見ていただければと思う 。

1.異質なのにすべてをキリスト教として同視化するには無理がある。
これは根本的な重要な問題であるが、日本ではかなり誤解があるようで、認識してほしいことがある。ユダヤ教(諸宗派)、カトリック、イスラム教(諸宗派)とプロテスタント(諸宗派)は全く違う宗教であること。

それについて詳しく知りたい方はプロテスタント主義に関する講演[注2] 、あるいは9月中に発信予定のHillard先生の講演(ユダヤ教の誕生を紹介する) に参照するようにお勧めする。
それはともかく、なぜ、それぞれ異質なのだろうか?

一、ユダヤ教もプロテスタントもイスラム教もひとくくりにまとめられてはいるが、実体は数えきれないほどの宗派があってお互いに争いあっている。一方でカトリック教会は最初から教義上も組織上もイエズス・キリストによって統一されたカトリック教会として制定されたという違いがある。

二、ユダヤ教もプロテスタント諸宗派もカトリックを否定する形で成り立っている(この史実を知るために、ユーチューブ動画を参照)。ここにいう「ユダヤ教」とはイエズス・キリストの時代のユダヤ教ではなく、そのあとに出来上がったタルムード教である。このタルムード教は(ユダヤ教と一般的に呼ばれてはいるが)カトリックを否定する形で出来上がった。プロテスタントもそうであることは言うまでもない。イスラム教もタルムード教とキリスト教の異端が混ざった形でなりたっており、その意味でカトリックを否定している(そういえば、イスラム教から見ると、カトリックは多神教だと軽蔑されている)。

どういう形で否定されているかというと、三位一体の玄義、御托身の玄義(真の天主、真の人なるイエズス・キリストという存在)、十字架上の生贄の徹底的な否定である。プロテスタントも一緒である。キリストを優れた預言者、賢者としてしか評価しない。



一方、異教の宗教はどうなのか?異教を指して、用語をあえて使うと「自然宗教」とよばれることがある。キリスト教以前の宗教なので、あるいはキリスト教との接触はなかったので、正面からカトリックを否定するために成り立ったことはない宗教である。自然法(簡単にいうと基本的な秩序と道徳)に従っているという意味で、自然宗教ともいわれている。

ではカトリックの教父たちによる正統的な解釈において、自然宗教はどう評価されているだろうか?
第一、知らない内に悪魔たちを礼拝している自然宗教もあれば、第二、単なる偶像崇拝(つまり物質的であるか、そうではないかを問わず、何らかの被創造物を絶対化して神として礼拝する)もある。例えば、この意味で、現在はかなり深い偶像崇拝となっている。民主主義という偶像に。そして、第三、だからといって、自然宗教において、原始的な予言は(ノア時代、あるいはアダム時代)ぼやけた形で残っていることもありえる。その意味で、自然宗教においてイエズス・キリストの到来を予兆する要素も確認できることがある。あえて言えば、三位一体的な構造が確認できるのはそういったケースであろう。

しかしながら、例えば、先祖を崇拝することは当然にできるが、先祖を神(創造主)として礼拝するのは誤っているという立場になる。

2.三位一体なる玄義と一体三宝観は異質である。
三位一体なる原義と一体三宝観は、その構造的こそ似てはいるものの、その中身はまったく異質であると言わざるを得ない。例えば、共産主義はカトリックと同じような構造をとろうとしている。ただ、その中身は違う。共産主義になると、救済はあの世ではなく、この世に実現されることになる。救済主はイエズス・キリストではなく、共産党によることになる。

恩寵は否定され、唯物史観の法則ですべて決まっているとされる。まさに外観はメシア信仰的であるが、その本尊ともいうべきカトリックについては徹底的に否定する宗教もどきのイデオロギーなのだ 。要するに、構造が近いからといって、その本質も近いとはかぎらないということである。
では、なぜ、異質といえるのだろうか?

たとえば、三位一体というのは説ではなくて、教義であるが、天主の内面的な現実を指している。玄義なので、人知は及ばないものではあるものの、黙想できてそれについて述べることもできる。

三位一体という玄義の中身を簡単にいうと次のようである。
天主は唯一である。そして、天主は万象において宇宙において天主として働き給う。だから、地上に御托身なさったイエズス・キリストのすべての業は天主ご自身の御業だった。宇宙を創造したのも天主だった。聖霊降臨の時にも天主ご自身が降臨した。

つまり、天主の外的のすべての働きは三位一体なる天主による御業であり、父と子と聖霊を区別できない。人間はその能力が限られた存在なので、便宜上、より分かりやすくするために、それぞれの働きを割り振る(例えば父なる天主が宇宙を創造した)ことがあるが、あくまでもより簡単にイメージを持たせるためであって、天主の唯一性はそれでも変わらない。

では、三位一体の父と子と聖霊の区別はどこにあるのか?内面的な営みにおいてである。子は父のみ言葉であり、そして子と父の間の完全なる愛は聖霊である。そういった関係を示している。愛としての三位一体。

また、イエズス・キリストは真の天主、真の人であるとご自身が何度も宣言しているのだが、これは肉身をもった人であると同時に、真の天主でもあるという意味だ。また多くの奇跡によってこの「御托身」の玄義を証明して(ご自分の復活、病気の治療、死者の復活、時間と場所を決めて十字架上に自分に意志で掛かられたことなど)、また旧約聖書のすべての預言を成就したこと(誕生した時と場所、受難のすべての流れ、王家の末裔として生まれたことなど)などが完璧な教えによって証明されている。要するに、三位一体はただの説ではなく、根拠が非常に強くて、聖書においても聖伝においても明白になっている教義なのである。

3.もう一つの違い。三位一体は後で発見された説ではない。
『法華経世界への誘い』の313ページに、三位一体は4世紀に作られた説だという意見があるが、それは違う。福音書において数えきれないところで三位一体を確認できる。旧約聖書にもあれば(創世期の最初の一句から、天主を指している言葉は「Elohim・神々」と複数形になっているのに、ヘブライ語では「創造した」という動詞は単数系になっている。(ほかにも創世記、I,25,26。創世記、III、22。イザヤ、VI、3.など)新約聖書において数多く出る(マテオ、28、19。ヨハネ、V,7。ヨハネ、1、1。ヨハネ、14、16など)。

そして、聖伝(使徒から伝わってきた伝承)も同じことを断言する。
教義として4世紀になって初めて再断言されたのは、多くの異端が三位一体を攻撃していたからだ。
ここに、注目していただきたい点がある。イエズス・キリストによってカトリック教会が制定されて、聖ペトロをトップに最初の使徒たちが教会の基礎を敷いた。13人は、ヨハネを除き(ヨハネは何度か処刑されかけたが、いずれも生還を果たしている)殉教死を遂げた。その殆どは漁夫あるいは低い身分な人々で、高い教育は受けていなかった。それなのに、僅かな数十年で当時の全世界までその教えは広まった(インドまで及んだ形跡もあり、西へも東へも広まった)。

4.聖典と解釈の違い
「聖書」という聖典は図書館のようなものであり、異質の多くの本が一緒になっている。旧約聖書は救い主の到来を準備して予言して、新約聖書は救い主の人生とその教えを記録する。

そして、最初から天主の啓示として聖書が古典化された。また、何が中に入っているかも決定的に決められた。また、聖なる言語も決められている。つまり、ラテン語、ギリシャ語とヘブライ語である。翻訳してもいいのだが参照になり得るのは、古典化された三つの言語だけである。
解釈においても使徒たちの聖伝によって、また当初の多くの教父たちによって定着した。聖書についての一番大事な場面への解釈はかたまっていて、言い換えたり、それを改めることはできない。また、他のところへの解釈方法も規定されていて、プロテスタントのように、自由に解釈してはいけない。解釈することはもちろんできるが、勝手にはできない。

つまり使徒や教父らによって、最初の時代から、教え(教義)と権威(教皇)の正当性は確立された。だからこそ、「異端」という存在が出てくる。信仰の中身は最初から明確に定められているので、何が異端であるかも明確になっている。つまり、教義上の真理は何であるのかというような議論は基本的におこらない。天主によって示された真理を受け入れるかどうかで異端になるかどうか決まる。異端が出た時、攻撃される真理を再断言することによってカトリック教会がイエズス・キリストから預けられた真理を守る。

5.融合か回心か
カトリックの教義においては、真の人、真の天主なるイエズス・キリストの外に救済はない(ヨハネ、3、17-18。マテオ、28、19-20。使徒行録、4、12、などなど)。1+1=2と1+1=3という二つの真理は同時に成り立つわけがない。両方とも1という文字を使っていることにおいて共通点があるが、その中身は違って、一方、正しくて、もう一方、誤っている。

このように真理は本質的に排他的である。現実は排他的である。私は男性である。女性ではない。女性だと言い出したら、間違いである。
それはそれとして、カトリック教会の信仰では、イエズス・キリストを通じてのみ救済が得られる。だから布教、宣教、伝道がある。その天主に関する現実を伝えなければ、多くの霊魂は救われない。

また、天主によって提示された信仰、つまりその教義を受け入れてイエズス・キリストに倣うかどうかが関心事である。教皇から一般使徒まで一緒である。つまり、真理を追究することもなかったら、「覚る」こともない。繰り返すが、天主によってあらかじめ提示される真理(基本的に信経で要約されているが)に同意するかどうかにカトリックの信仰はかかっている。だからといって、回心した時に元のすべてを捨てるべきなのか?誤ったことのすべてを捨てて、間違っていないことは捨てなくてもよいということである。

しかしながら、融合などはあり得ない。畳上ミサをやってもいいのだが、イエズス・キリストは唯一の真なる天主、真なる人間とされているのに対し、日蓮はあくまでも被造物にすぎない点において明確に異なる。

結びに変えて
不思議なことに、フリーメーソンあるいはノア宗教あるいはグノーシスのような宗教をみると、すべては融合して統一化して、すべての宗教は真理をある程度に把握しているとされ、正に「エキュメニカル」なところがある。現在のグローバリズムの原動力にはそういった「バベルの塔を再建しよう」という理想を描く思想があると言えよう。

日蓮主義においても、三位一体的な構造、あるいは御托身を思わせる要素もあるように見えた。また、実践面でもカトリックとの共通点も感じた。しかしながら、結果的には、グローバリズムといった危険思想が蔓延したり、あるいは亡国を避けるために伝統を守り本来あるべき現実的な秩序を取り戻す必要はないと説かれているのではないだろうか?

融合的な思想もあるかもしれないが、現在の世界ではこのような思想はグローバリズムにつながってくるのではないのか?日蓮も保守派の皆さんも、日本の亡国、それから日本文化の抹消につながることを望んでいないと思う。日本国を守るために、日本国の亡国を誘導する危険を含んでいる思想に対して少しでも警戒を持った方がいいのではないだろうか?

カトリック信徒としては、イエズス・キリストにおいてこそ、本物の復興があり、本来の秩序があると信ずる。また、日本はイエズス・キリストに回心したらより日本的になり、日本らしさをも守れると確信している。

日蓮を優れた人間として模範と教訓を仰ぐのはかまわないだろう。しかしながら、聖母マリアの御宿りによってご降誕なさった肉体をもった赤ちゃん、真の天主であるイエズス・キリストと混同するのはその属性(イエズスは受肉した天主、創造主。日蓮は被造物たる人間)から全くして違うような気がする。
すでに長すぎる文章になり、また、伝わらないことも多いことを懼れるが、この小稿が次の議論につながれば幸いである。

[注1]:白百合と菊Lys et Chrysanthèmeのユーチューブチャンネルで、「公教要理」プレイリスト。三位一体に関して第九講から第十一講まで。ご托身の玄義贖罪の玄義
[注2]:白百合と菊Lys et Chrysanthèmeのユーチューブチャンネルで、「プロテスタント主義とその政治的な帰結について(後編)」 講演録は王権学会のサイトに載っている。
[注3]:九月下旬、公開予定。