ファチマの聖母の会・プロライフ

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ファチマの太陽の奇跡

2017年05月31日 | ファチマ
「ファチマ:世界平和への唯一の道」からの抜粋

われわれは、おそらくこの奇跡について公正さを欠くとは非難ができない - 次のしかるべき理由のために! - 一人の報告者の証言をここで詳しく述べることにします。われわれはアヴェリーノ・デ・アルメイダの名前を挙げます。彼はリスボンの最大の「リベラルな」反カトリック的でフリーメーソンの日刊紙 O Seculo の編集主任でした。彼はこう書いています:

「馬車が混み合っており、そして数千人の人々がぬかるみの大地を横切って前進するのに十分な勇気を持たないために立ち止まっている道路から、われわれは巨大な群衆が雲から出て天頂にきらきら輝く太陽の方を振り向くのを見た。それは一枚の銀の円盤に似ていた。そして少しの不快さも伴わずにそれを凝視することができた。それは両眼を焼かなかった。それは人々を盲目にしなかった。われわれはそれが蝕を産み出したと言ってもよかったであろう。それからすさまじい叫びが鳴り響いた。そしてわれわれのすぐ側にいた群衆がこう叫ぶのを聞いた:『奇跡だ!奇跡だ!...不思議だ!...不思議だ!』その態度がわれわれを聖書の時代へと移ったかのような気にさせた人々、そしてものが言えないほどに驚き、むき出しの頭で、空の青さを凝視している人々の眩んだ目の前で、太陽は震動した。それはすべての宇宙的な諸法則からはずれて奇妙なそして突然の動きをした。農民たちの典型的な表現に従えば『太陽が踊った』...」注8)

反教会権力的なすべての新聞によって猛烈に攻撃されて、アヴェリーノ・デ・アルメイダは、14日後に、彼の評論雑誌 Ilustracao Portuguesa において彼の証言を繰り返しています。今回は、彼はその説明を巨大な狂喜した群衆の多数の写真でもって例証しました。彼の論攷の至る所で「私は...を見た...私は...を見た...私は...を見た」を一つの同じことの繰り返しとして繰り返しました。

そして彼はこう結論づけます。
「人々が叫んだように、奇跡なのか?専門家たちが言うように、自然現象なのか?今のところそのことは私にとってはどうでもいいことである。私はただ私が見たことを語っているにすぎない...その他のことは科学の、そして教会の問題である。」注9)

10月13日土曜日は、その前日の夜からずっと雨だったために償いの巡礼として始まりました。今や、「ほこりまみれの道路を激しい雨によってぬかるみの湿地へと変え、秋の甘美さを冬の身を切るような厳しさと、一日の間に置き換えるこの ほとんど突然の天候の変化は、彼らを動かすこと、あるいは彼らを断念させる、あるいは絶望させることに成功しなかった。」注10)

目撃についての多くの説明を比較することによって、われわれはすべての人によって見られた驚くべき現象のさまざまの局面とその結果とを区別することができます。諸々の現象の各々のためにそれら自体が一つの印象的な書物を構成するであろう諸々の目撃の十数ページを集めることができるでしょう。

目撃者の報告

ここにおびただしい数の信用し得る目撃者たちのうちの一人によって記述された最初の驚くべき事実があります:

「子どもたちがいた正確な場所で淡い、きれいなそして青みがかった雲の柱が立ったのは午後1時30分であったに違いありません。その柱は彼らの頭上おそらく2メートルほどまで拡がっており、そしてその高さで蒸気になっていました。完全に裸眼に見えるものであるこの現象は2,3秒の間続きました。それがどのくらい長く続いたか気をつけていませんでしたので、私はそれが1分間よりも長かったかそれとも短かったかを言うことはできません。その煙は突然散らされました。そしてしばらく後にそれは二度目に再び起こりました。それから三度目に...」

「低いそして重い空は非常に暗い色をしており、湿気を帯びていました。それは大量のそして長く続く雨を降らせました。御出現の時の間に雨はすっかり止みました。突然空が明るくなりました。太陽はその時までそれを隠している雲の厚い層を勝ち誇ったように突き破りました。そして強烈に輝きました。」(アルメイダ・ガレット博士)注11)

天候のこの急激な変化はすべての目撃者たちをあっと言わせました:

「その日は激しいそして連続的な雨の日でした。しかし奇跡の数秒前に雨は突然降り止みました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)

そして、太陽が目に害を与えることなしに直接見られるのを許す、説明不可能な太陽の銀色化に関するある物理学者、科学者からの以下の証言があります:

「突然私は数千人の人々がわめき叫ぶ声を聞きました。そして私は私の足下であの広大な場所に拡がっている大群衆が...その時まで彼らのすべての期待がそこへ集中させられていたあの場所に彼らの背を向けて、他方の側にある太陽を見ていました...私もまた、彼らに見ることを要求している地点の方へ向きを変えました。そして私は太陽を見ることができたのです。それはその鋭い縁をもった非常に透明な円盤のようでした。それは視覚を損なうことなしに輝いていました...それは霧を通して見た太陽(その瞬間には霧は出ていませんでした)と混同されることはあり得ませんでした。なぜなら、それはヴェールをかけられたのでもなく、またぼやけてもいなかったからです。ファチマではそれはその光と熱とを保ち、そして一つの大きなゲーム用のテーブルのように、鋭い縁をもって、空にくっきりとかかっていました。最も驚くべきことは、目を害することなしに、あるいは網膜に傷を与えることなしに、光と熱をもって輝いている太陽の円盤を長時間凝視することができることでした。」(アルメイダ・ガレット博士)注12)。

O Seculo の編集主任による以下の証言も同じ調子です:

「そしてそれからわれわれは、もしあなたがそれを目撃していなかったならば信じることができない、一つの類のない大仕掛けな見せ物、途方もない見せ物を目撃しました。道路の上の方から...われわれは巨大な群衆が太陽の方へ向きを変えるのを見ます。太陽は雲から出て天頂に現れました。それは鈍い銀色の平皿のように見えました。そして全然不快感なしにそれを凝視することができました。私は両眼を焼くことはありませんでした。私は盲目になりませんでした。」(1917年10月15日の論攷)

そして同様に:「人々は、われわれが月を注視するのと同じように、太陽を注視することができました。」(マリア・ド・カルモ)注13)

人は、ある反教権的な新聞の世俗的な編集主任によってさえ目撃された次のような太陽現象についての証言を果てしなく増やすことができるでしょう。以下のものをよく考えてみてください:

「それは揺れ動き、そして震えました。それは火の車のように見えました。」(マリア・ダ・カペリーニャ)注14)

「太陽は虹のすべての色を帯びながら、火の車のように回転しました。」(マリア・ド・カルモ)注15)

「それはそれ自体回転している雪の球のように見えました。」(ロウレンソ神父)注16)

「真珠のような円盤はめまぐるしい動きをしていました。これは一つの星がそのすべての輝きにおいてきらきら光っているようなものではありませんでした。それは猛烈な速さでそれ自身が回転していました。」(アルメイダ・ガレット博士)注17)

「ある瞬間に太陽は止まりました。そしてそれから再び踊り始め、回転し始めました。それは再び止まりました。そして再び踊り始めました。」(ティ・マルト)注18)

「太陽は虹のすべての色を帯びました。あらゆる事物:すなわち、われわれの顔、われわれの衣服、大地自身がそれらの同じ色彩を帯びました。」(マリア・ド・カルモ)注19)

「その色が一つの瞬間から次の瞬間へと変化した一つの光は人々と諸々の事物に反射していました。」(ペレイラ・ゲンス博士)注20)

次に起こったことは奇跡の最も恐ろしい局面を、そしてその中で人間が空からの火でもって全世界を破壊する能力を完成したわれわれの時代に対する重大な影響をもった局面を構成しています:太陽は空から離れて大地に向かって突っ込んで来るように見えました。

「われわれは突然、あの群衆全体の苦痛の叫びのような、一つの大きな叫び声を聞きました。事実、太陽はその回転の急速な運動を保ちながら、それ自身を天空から解放し、そして血のように赤くなって、その燃えさかるかたまりでもってわれわれを押し潰そうと威嚇しながら、大地の方へ突っ込んで来るように見えました。それは恐ろしい数秒間でした。」(アルメイダ・ガレット博士)注21)

「私は太陽が回転するのを見ました。そしてそれは降りて来るように見えました。それは自転車の車輪のようでした。」(ジョン・カレイラ)注22)

「太陽は踊り始めました。そしてある瞬間にそれは天空から離れて、火の車のように、われわれに向かって突進してくるように見えました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)注23)

「私はそれがあたかも地上に激突しに来たかのごとく完全に降りて来るのを見ました。それは空から離れ、われわれの方へ向かって突進してくるように見えました。それはわれわれの頭上で短い距離を保っていました。しかしその種の攻撃の持続時間は非常に短いものでした...それは人々の非常に近くに見えました。そしてそれは反対の方向へと変化し続けました。」(マリア・ド・カルモ)注24)

「突然、太陽はその円周がはっきりした形で現れました。それはあたかも雲の高さまで降りるかのように降りて来ました。そして一つの閉じ込められた火の球のようにめまぐるしく旋回し始めました。何回か中断しながら、この旋回は8分間ほど続きました。」(ペレイラ・ダ・シルヴァ神父)注25)

「それは突然、大地を脅しながら、ジグザグに降りて来るように見えました。」(ロウレンソ神父)注26)

「われわれの上に落ちて来る太陽を見ながら...」(ジョン・ゴメス神父)注27)

「最後に、太陽は止まりました。そして誰もが助かった安堵の吐息をもらしました...」(マリア・ダ・カペリーニャ)注28)

「あの数千人の人々の口から私は喜びの叫び声といとも聖なるおとめ[マリア]への愛の叫び声を聞きました。そしてそれから私は信じました。私は暗示の犠牲者ではなかったことについて確信を持ちました。私は再び見ないであろうような太陽を見たのです。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注29)

もう一つの驚くべき事実:その大部分が徹底的にびしょぬれであったあのすべての人々が、自分たちが乾いているということを喜びと驚きをもって事実であることを証明したのです。その事実は、最終的に2000年5月13日に列福されたヤシンタとフランシスコのための教会法上の訴訟手続きにおいて確証されています。

「人がそれをまったく期待していなかったであろうその瞬間にわれわれの衣服は完全に乾いていました。」(マリア・ド・カルモ)注30)

「私の衣服は一瞬のうちに乾きました。」(ジョン・カレイラ)注31)

アカデミー会員、マルケス・ダ・クルスは次のように証言しました:

「この巨大な群衆はびしょぬれでした。なぜなら、明け方から雨が止むことなく降っていたからです。しかし - このことは信じられないことと見えるかも知れませんが - 大きな奇跡の後には、誰もが心地よいと感じました。そして彼の衣服がまったく乾いていることを見出しました。これは大多数の人に共通する不思議の主題です...この事実の真理は、私が子どもの時から知っており、そして今も生存している(1937年)絶対的に信用のおける何十人もの人々によって、同様にまたこの国のさまざまの地域出身のまだ現存している人々によっても、最大の誠実さをもって保証されてきました。」注32)

そして最後に、また多くの人々の回心という道徳的な奇跡もありました。『目撃者たちに会う』(Meet the Witnesses)という彼の書物の中でジョン・ハッファートはこう書いています:


「山岳兵連隊の将校はその日 - 群衆の集合を中止させる命令を受けていた - 直ちに回心しました。明らかに、彼らの証言が示すであろうように、多くの他の不信仰者たちもそうでした。」注33)

「一人の普通の女の子を見るためにファチマに出かけた『ばか者たち』を嘲りながらその朝を過ごした一人の不信仰者がそこにいました。彼は今麻痺したように見えました。彼の目は太陽に釘づけになりました。彼は頭から足まで震え始めました。そして両腕を上げながら、神に叫び声をあげて泥の中に跪きました。」(ロウレンソ神父)注34)

「私はファチマから18マイル離れた所に住んでいます。そして1917年の5月にわれわれは驚くべき御出現について話を聞きました。しかしそのニュースは人々の幻想と混ぜ合わされてわれわれのところに届きました。当然私は信じませんでした。私はそれは単に誰かある者の想像の産物であると心から思いました...私の母の要求で、私は8月の御出現の時にコヴァ・ダ・イリアに一度行きました。もう一度、私は落胆させられ、そして失望させられて帰って来ました。しかしそのとき何か驚くべきある事が起こりました。長年の間その片一方の目に大きな腫瘍を持っていた私の母が癒されたのです。彼女を診ていた医師たちはそのような治癒を自分たちは説明することができないと言いました。それでもなお私は御出現を信じませんでした。最後に、そして再び母の要求で私は10月13日にもう一度コヴァ・ダ・イリアに行きました...私の母に起こったことにもかかわらず、私は失望させられ、そして御出現を信じませんでした。それで私は車の中に坐っていました。その時突然、私は誰もが空を見るのに気づきました。自然的な好奇心が私の注意を惹きました。そして車から出て、私も空を見ました...数万人の人々の口から私は信仰と祝せられたおとめ[マリア]への愛の言葉を聞きました。そしてそれから私は信じました。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注35)

治癒と回心の他の多くの例は、他の箇所にもありますが、以下の書物の中に記録されています:Documentacao Critica de Fatima および Fatima from the Beginning 注36)

奇跡はその場の「集団ヒステリー」の産物であったと言うであろう人々に対しては、神御自身が一つの用意のできた反駁を手配なさいました:すなわち、その現象はファチマで何が起こっていたかを彼らに知らせる人を周りに誰も持っていなかった25マイルも離れた個々の人たちによってさえ見られたのです。コヴァ・ダ・イリアから非常に遠く離れた所にいた完全に信用のできる目撃者たちが、おとめ[マリア]の御出現になったトキワガシの木の周りに集まった7万人の巡礼者たちと正確に同じように、太陽のダンスという先例のない見せ物を見たと話しました。注37)

ファチマからおよそ10マイルの所に位置するアルブリテルの小さな村では、全村あげてその太陽の驚異の光景を楽しむことができました。しばしば引用された証言はイナシオ・ロウレンソ神父の証言です。というのは、それは最も詳細なものだからです。しかし、彼が見たと語っていることは、調査者たちによって質問されたすべての村民が正確に同じ仕方で見たと確証しました。

その出来事の目撃者たちは実際数え切れないくらいおおぜいでした。彼らの証言は一致しています。そしてわれわれは彼らがわれわれに残した文書の洪水に襲われます。注38)

まず第一に、数多くの説明が一度にポルトガルの新聞に現れました。最初に証言を提供した人々が反教権的な報告者たちであったということは注目すべきことです。アヴェリーノ・アルメイダの三つの論攷 - その出来事の直前の10月13日の論攷、13日の夕方に Vila Nova de Ourem で編集された10月15日の他の論攷、そして10月29日の第三の論攷 - は特別の注目に値します。部分的に最初の論攷に霊感を与えているひやかしの論調とヴォルテール式の皮肉にもかかわらず、15日の論攷においてなお現れている予期された反教権的な論調にもかかわらず、一人の才能を持ったレポーター - 彼はその上誠実で良心的です - から出ているこれらのテキストは第一級の重要性を持った歴史的文書です。しかし彼は諸事実を語る唯一の人物ではありませんでした。なぜなら、他のレポーターたちがコヴァ・ダ・イリアにはいたからです。

次に、諸々の公式的な調査がありました。1917年11月に、当時リスボンの司教区を指導していたリマ・ヴィダルの司教の要求で、ファチマの小教区司祭が調査を行い、小教区の何人かの目撃者たちに質問をしました。不幸なことに、彼はただ四例の証言録取書だけ書き写しました!

歴史家たちの諸々の調査が幸いなことに公式的な調査者たちの不注意を埋め合わせました。フォルミガオ神父 - 彼はコインブラ大学理学部教授ホセ・マリア・デ・アルメイダ博士から非常に詳しい説明を得ました - の報告はわれわれが所有している最も科学的な報告です。注40)その上に、われわれはダ・フォンセカ神父の諸々の報告を持っています。(彼の仕事は証拠を検討することを拒否したダニス神父注41)によって反論された諸点の正しいことを立証するためになされました)われわれはデ・マルキ神父、カノン・バルタス、ディアス・コエリョ神父そしてリチャード神父の報告を持っています。

1977年には、最後の御出現の60周年記念日を祝うために、ファチマに太陽の奇跡に立ち会い、そしてかれらの記憶をはっきり述べることができる30人以上の人々を集めることがまだ可能でした。これらの多くの証言のおかげで、確かに世界の歴史の中でも最も重要な日の一つである、この決定的な日を時間毎に、分毎にわれわれに体験することを許す一つの正確な実況放送を再構成することができるのです。実際、1917年10月13日の太陽の奇跡の証拠は非常に圧倒的でしたので、1952年にハリウッドでさえファチマの聖母の奇跡 The Miracle of Our Lady of Fatima という題名の古典的な映画 - これは今日でもビデオで利用可能です - を公開することによってその真正性を保証したほどです。

疑いを超えて

なぜこの日はそのように重要なのでしょうか?それは神の御母からの天のメッセージがいかなる筋の通った疑いをも超えて真だと証明された日だからです。このメッセージは90年後に、われわれにそこから抜け出す唯一の実現可能な道を提供しながら、人類の歴史におけるまさにこの瞬間に教会と世界の危機的な状況の中心に立っています。

註:
(8)   O Seculo of October 15, 1917. 
(9) Article of October 29, 1917. See also Frère François deMarie des Anges,  Fatima: The Astonishing Truth , p. 164. 
(10)    Ilustração Portuguesa , October 29,1917. 
(11)    Fatima: The Astonishing Truth , pp. 171-172. 
(12) Ibid., pp. 172-173. 
(13) Ibid., p. 173. 
(14)   The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337. 
(15)    Fatima: The Astonishing Truth , p. 178. 
(16) Ibid. 
(17) Ibid. 
(18) Ibid. 
(19) Ibid. 
(20) Ibid. 
(21) Ibid. 
(22) Ibid. 
(23) Ibid., pp. 178-179. 
(24) Ibid., p.179. 
(25) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337. 
(26) Ibid., p. 339. 
(27) Ibid., p. 340. 
(28)  Ibid. 
(29)  Fatima: The Astonishing Truth , p. 179. 
(30) Ibid. 
(31) Ibid. There is also this fact about thatmiracle which is the most surprising. The quantity of energy necessary to accomplish the drying out of the ground and the clothes in such a rapid manner would have been so great that all persons presentthere would have been incinerated. Given that this aspect of the miracle radically contradicts the law of nature, no devil could have performed this miracle. 
(32) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p.340. See also Father John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  ,
(Missões Consolata, Fatima,Portugal, 1981, third edition, rst published in 1950) p. 141; and Joseph A. Pelletier, A.A., The Sun Danced at Fatima ,
(Doubleday, New York, 1983) pp. 129-130. 
(33) John M. Haffert, Meet theWitnesses ,
(AMI International Press, Fatima, Portugal, 1961) p. 62. This book was published with anImprimatur from the Bishop of Leiria, Portugal and provides us with credible direct testimonies of numerous witnesses to the Miracle of the Sun. 
(34) Ibid., p. 65. 
(35) Ibid., pp. 86-89. 
(36)  DocumentaçãoCrítica de Fátima , Volume II,
(Santuário de Fátima, 1999) 17 cases documented on pp. 277-372; andFather John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  . 
(37) Father John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  , p. 136. See also  Documentação Crítica de Fátima, Volume I,
(Santuário de Fátima,1992) p. 408. See also The Whole Truth About Fatima - Volume I, pp. 330-331.   
(38) Among the manyreference works, see: The Whole Truth About Fatima - Volume I; John M. Haffert, Meet the Witnesses ;Father John de Marchi, I.M.C.,  Fatima from the Beginning  , pp. 135-142. 
(39) We find the photographic reproduction of those three articles in Fatima 50 of October 13, 1967, pp. 6-10; 14-15. 
(40)    Novos Documentos de Fatima , Loyola editions, Sao Paulo, 1984, pp. 60-63. 
(41) The modernist Jesuit priest,Father Dhanis, would later attempt to “debunk” the vision of hell and the prophetic elements of theMessage, including the consecration and ultimate conversion of Russia. Father Dhanis refused theinvitation of Sister Lucy herself to come to Fatima and study the Fatima archives. Father Dhanis willeventually be cited as an “authority” on Fatima by key members of the Vatican apparatus in their attempt to revise the Message of Fatima according to a “commentary” published on June 26, 2000. 

Only Way to World Peace by The Fatima Center on Scribd

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ロシアの誤謬(続き)

2017年05月30日 | ファチマ
「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。(…)」
(ファチマの聖母 1917年7月13日)

「ファチマ:世界平和への唯一の道」からの抜粋

今日、ロシアは世界で最高の中絶率を持っています。ロシアに8年間過ごしたダニエル・マウラー神父 C.J.D. は、統計的に平均的なロシア女性はその出産年の間に8回の中絶をするであろうと言っています - マウラー神父は実際の数は一人の女性について平均して12の中絶になると考えています。

彼は25回もの中絶をした女性たちと話したことがあります。これらの非常に恐ろしい数字の主要な理由は他の諸々の避妊の方法(それらはいずれにせよ非道徳的です)がロシアには導入されてこなかったし、またそれらが信用されていないということです。このことは中絶を「家族の大きさを制限する最も安価な方法」とさせています。現在ロシアにおいては中絶は無料ですが、しかし出産はそうではありません。注70)

ロシアの出生率は急落しています。そしてロシアの人口は毎年70万人の割合で下落しています - これは「平和時」の間の文明化された国においては先例のない出来事です。注71)

ロシアは世界において最高のアルコール消費をしています。注72)

ロシア正教総主教アレクセイ二世さえ公に認めているように、悪魔崇拝、オカルトそして妖術はロシアにおいて増加しています。注73)

同性愛はモスクワそして国の至る所で猛威をふるっています。実際、1984年「奉献」の9年後の1993年4月に、ボリス・エリツィンは同性愛が罪の対象から外されることを許可しました。同性愛は今やロシアにおいては「合法的」です。注74)

ロシアは児童ポルノの配布のための一つの指導的な世界センターです。Associated Press はテキサスにあるもう一つの児童ポルノの一味とつながっているモスクワを本拠とした児童ポルノの一味に関して報道しました。AP を引用すれば:「ロシアの法律は児童ポルノと成人を含むポルノとの間を区別していない。そしていずれのポルノの製作や配布も比較的重要でない犯罪として取り扱っている」とロシア内務省ハイテク犯罪部局長ディミートリ・チェプチュゴフは言いました。ロシア警察はロシアを児童ポルノ製作の国際的センターへと変えた法的混沌についてしばしば苦情を言っています。「不幸なことに、ロシアは児童ポルノの世界ゴミ箱へと変わってしまった。」 注75)

ロシア人たちは「現実に基づいた」テレビの中毒症状にかかっています。「現実に基づいた」ショーの最も恥ずべき[場面に]おいて複数のカメラが、[十戒の]第六戒[汝姦淫するなかれ]を破る彼らの活動を含むロシアの「カップルたち」の親密な個人生活を撮影しています。古い硬派の共産主義者たちからの反感の不満にもかかわらず、ロシアの視聴者たちはこのポルノから「十分に得ることができません。」そのプログラムは「50%以上の視聴率を誇っています。そして多くのロシア人たちは零度以下の気温を辛抱して耐え、アパートの窓を通じてそれを一目みるために一時間以上も列をなして立っていました。数百万の人々はそのウェッブサイトにログ・オンし、そのウェッブサイトはしばしばその通信の重さのためにクラッシュして動かなくなりました。」注76)

もっと多くの事実


ウラディーミル・、プーチンは、1999年に権力の座に登って以来、自らを組織的にロシアの実際の独裁者として来ました:すなわち、彼の国内の批判者たちをでっち上げた罪で逮捕し投獄しながら、すべての反対派のメディアを閉鎖しながら、ロシアの地方知事たちの普通選挙を禁止しながら、そして彼らをクレムリンの被指名者たちと取って代わらせながら、そうして来ました。

ロシアの本物の回心 - すなわち、ロシアのカトリック信仰への回心 - の問題に関しては1984年以来の数十年は、今日教会がプーチン政権の下で徹底的な迫害を経験するという点にまで、ロシアにおける教会の立場の着実な衰微を目撃して来ました。以下の諸事実を考えてください:

[ロシア]の国全体にはわずか10人のロシア生まれのカトリック司祭たちしかいません - 5人はシベリアにそして5人はカザフスタンにいます - 。ロシアにいるカトリック司祭たちと修道女たちの 95% は外国生まれです。ブコフスキー大司教の率直な意見では、カトリック教会は「小さい」。注77)

バチカンによれば、ロシアには50万人のカトリック信者がいます。そして彼らの大部分はシベリアにいます。スターリンが彼らの祖父母たちをそこへ送ったのです。

1997年にロシアは「良心の自由」に関する一つの新しい法律を制定しました。その法律はロシア正教、イスラム教、ユダヤ教そして仏教に、ロシアの「伝統的諸宗教」としての特権的な地位を与えました。一方でカトリックの小教区には彼らのまさに存在そのもののために地方の官僚たちからの承認を得ることを要求しています。

バチカンが2002年2月にロシアにおける「使徒座管理区」が「司教区」と呼ばれるであろうと告知したとき、ロシア正教の位階はその憤慨を爆発させました。これらは伝統的なカトリック的な意味においては「司教区」ですらなかったのです。司教区としてあったのは、ただ「モスクワにある神の御母の大司教区」だけでした。そしてこの「使徒座管理区」を管理している大司教は、バチカンがモスクワのロシア正教会総主教で前 KGB スパイのアレクシー二世の感情を害することがないように、「モスクワの大司教」とは呼ばれないのです。

2002年3月2日に教皇は衛星放送によってバチカンからロシアへと放送された土曜日の祈りの儀式を執行されました。その放送は今ウラディーミル・プーチンの言いなりになっている同じロシアのテレビ放送網によって完全に差し止められました。

特別の機器(最後の可能な瞬間までそれは税関に止められました)の船積みによってのみ、わずか千人ほどのカトリック教徒たちがモスクワにある被昇天大聖堂に設定されたテレビ・スクリーンで教皇を見ることができました。BBC は「ロシア正教会のアレクシー総主教はそれ(衛星放送)は『ロシアへの侵略』であると言い、そしてそれを十七世紀初頭のポーランドのモスクワ占領に例えたと報じました。ヨハネ・パウロ二世がポーランド出身であるからです。

それゆえに、東方政策と「エキュメニカルな対話」の40年後に、正教会の位階はモスクワのたった一つのカトリック教会においてさえ教皇の一つのビデオ映像すら許容しようとはしないのです。

ロシアにおける総崩れに平気を装おうと努力しながら、「モスクワにある神の御母の大司教区の当時の長であるタデウス・コンドルイシエヴィッツ大司教は、カトリック教会がロシアにおいて「布教して」いるという正教会の告発に言及しながら「それはすべて誤解です」と主張しました。

正教会の敵意に対するコンドルイシエヴィッツの反応に関する Associated Press の記事は、「2月11日以来国内ニュース番組における正教会の指導者たちによる憤慨したレトリックが彼らの信仰を実践することを彼らに恐れさせたと訴えながら、最近小教区の人々が涙ながらにコンドルイシエヴィッツの所へやって来た」と述べました。注80)

「良心の自由」に関するロシアの1997年の法律は、カトリックの「布教」を禁止し、そして地方官僚たちへのカトリック教会の登録を要求する一方で、ロシア正教、ユダヤ教、イスラム教そして仏教に特別の法的地位を与え続けています。

2002年現在で、ロシアにおいてはカトリック教徒は一つの小さな、行き暮れた少数派にとどまっています - おそらく1億4400万人の国民のうち50万人の名目的なカトリック教徒です。日曜日にミサに行ってさえいるカトリック教徒の小さなパーセンテージ(彼らの大部分はシベリアにいます)は全体で190人のロシア人ではない司祭たちにほとんどまったく依存しています。彼ら司祭たちは3ヶ月毎に更新を求めるために国から出ることを要求する滞在者ヴィザでもってのみロシアに入国することを許されています。その更新はいつでも、そして何らかの理由のために、しばしばまったく何の理由もなしに拒否され得ます。

2002年にロシア当局者たちはロシア人ではないカトリック聖職者を国から追放し始めました。2002年11月現在、シベリアのための司教であるジェルズィー・マズール司教を含む5人の司祭たちが追放されました。そして彼らのヴィザは説明なしに没収されました。マズール司教は、彼が「望ましからざる人々」と考えられているカトリック聖職者の秘密「リスト」に加えられたことそしてロシアの領土に入ることをもはや許されないであろうということを知りました。追放の理由を求める教皇の要求すら無視した後に、ウラディーミル・プーチンは、追放がロシアの法律に従ったものであるということより以上何一つ述べていない一通のおざなりな手紙を送りました。注81)

コンドルイシエヴィッツ大司教は、「ロシアにおける宗教的自由は重大な危険状態のうちにある」と題されたロシアのカトリック司教たちの会議のために一つの公式的な抗議文書を出しました。その抗議文書は次のように宣言しています:

「ロシアにおけるカトリック教徒たちは自問している:次に何が起こるか?良心の自由、彼ら自身の司牧者を持つ権利 - それは、81年間にわたってカトリック教会がそれ自身の司祭たちを養成し、叙階する権利を奪われたきたことを忘れずに、司牧者たちを海外から招くことを含んでいる - を含む憲法上の諸々の保証は、彼らにとってもまた有効なのか?おそらく、国家はカトリック教徒を二級の市民と実際に考えているのか?彼ら(国家)は信仰の迫害の時代へと戻りつつあるのだろうか?...どんな法律にも違反していなかった司教の追放は国家と教会との間の文明化された関係のすべての考えられる限りの限界を超えている...深刻に心配しながらわれわれは、カトリック教徒の憲法上の諸権利の侵害に関してわれわれの決定的な抗議を表明する。」注82)

2002年10月に教皇自身のスポークスマン、ホアキン・ナヴァロ-ヴァルスはロシア当局によるカトリック教会に対抗する諸々の行動が「真の迫害」のレベルに達したと宣言しました。



脚注
(70)  Radio Free Europe Report, June 20, 2001.See also Catholic News Service, February 17, 2002. 
(71) “Religion in Russia,” at http://www.russianembassy.org/RUSSIA/religion.htm. 
(72) “Rebuff for the Pope: Vatican Fears New Persecution,” The Catholic World Report  , October 2002, p. 9. 
(73)    BBC Online , March 2, 2002. 
(74) AP News,March 1, 2002. 
(75)  National Catholic Register  Online Web Edition, April 28 - May 5, 2002. 
(76) The Catholic World Report  , October 2002, p. 10. 
(77) U.S. Department of State, International Religious Freedom Report (2008) at http://www.state.gov/g/drl/rls/irf/2008/108468.htm. 
(78) CWNews, March2, 2002. 
(79) Ibid. 
(80) Zenit News, December 22, 2000. 
(81) CBC News, July 30, 2009, “13 millionabortions a year reported in China,” at http://www.cbc.ca/health/story/2009/07/30/abortions-china.html. 
(82) Father Maurer’s remarks appeared in an interview in Catholic World Report  , Feb. 2001. Asynopsis and commentary on this interview was published in “The Myth of a Converted Russia Exposed”, Marian Horvat, Ph.D., Catholic Family News , March 2001. 

ロシアの誤謬

2017年05月29日 | ファチマ
「もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。」(ファチマの聖母 1917年7月13日)

共産主義のもとで、人間は奴隷化しました。歴史的に言うと、世界で最初に堕胎が合法化されたのはレーニンの下のロシアで1920年のことです。人間の奴隷化と、堕胎とは、考えがそっくりです。

1857年アメリカでの奴隷制度は次の主張をしていました(Dred Scott 1857)。
*黒人は人間であるが下等の権利しか持たない。
*奴隷は、主人の所有になる。
*所有者は奴隷を売り買いし生死の権利を持つ。
*奴隷廃止主義者たちは、自分の道徳観を奴隷所有者に押しつけるべきではない。
*奴隷制度は合法である。

1973年アメリカでは堕胎について次の主張がなされました(Roe vs Wade 1973)。
*胎児は人間ではない。
*胎児は、母親の所有になる。
*母親は胎児の生死の権利を持つ。
*プロライフ支持者たちは、自分の道徳観を母親に押しつけるべきではない。
*堕胎は合法である。

同性愛は、世界で最初にソ連で1922年合法化されました。

天主の創造の世界が、私たちにとっての最大の幸福への道です。

サタンの嘘で固められた「反創造」の世界では、胎児を守ることも、婚姻の聖性を守ることも禁止され処罰されるでしょう。

それを防ぐために、ファチマの聖母は、私たちに償いの聖体拝領を求めています。

罪の償いと、罪人の回心の希求のために、私たち自身を天主に捧げ、私たちの苦しみを堪え忍ぶことを求めています。

1917年5月13日、ファチマの聖母は子供たちに尋ねました。
「あなたたちは、天主に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなた自身を天主に捧げ、天主があなたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか?」

1917年6月13日、子供たちは聖母の汚れなき御心を見ました。
「聖母の右の手の前に、茨によって取り囲まれた心臓があって、それを茨が突き刺していました。私たちはこれがマリアの汚れなき御心であり、人間の罪によって踏みにじられ、償いを求めておられるということを理解しました。」

1917年7月13日、聖母はこう言われました。
「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」

ファチマの聖母の訴えに耳を傾けましょう。

ファチマの聖母は私たちに約束されました。

「最後には、私の汚れ無き御心が勝利を収めるでしょう。教皇様は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心するでしょう。そして世界には平和の一時期が与えられるでしょう。」(1917年7月13日)

ファチマの聖母の会とは?

2017年05月27日 | ファチマの聖母の会とは?
【Q1】ファチマの聖母の会とは何ですか?

ファチマの聖母の会は、 ファチマの聖母に関する信心業をはじめとした、 カトリック信仰に基づく諸活動(プロライフなど)を行うことにより、 より多くの人々の回心に貢献することを目的としています。
ファチマの聖母の第1回目の御出現から100年目という記念すべき日(2017年5月13日)に発足しました。


【Q2】ファチマの聖母の会はどういう活動をするのですか?

ファチマの聖母のご意向は、天主、 聖母を他の人の分もあわせてお慰めすることにあり、 より多くの人々の回心のために祈り犠牲を捧げることにあります。 そのご意向にしたがった活動をします。

具体的には、

①聖母の汚れ無き御心に対する信心(初土曜日の信心など)」 を実践し、広めます。

②ファチマの聖母、ご出現を受けた3人の子供たち、 実際のご出現に関する理解を深め、 ファチマの聖母についてより多くのかたに知っていただこうとしています。

③カトリック信仰に基づいた活動にも参加します。( マーチフォーライフ、プロライフ活動など)

『胎児も立派な人間です』 1.生物学的証拠 2.医学的証拠

2017年05月27日 | プロライフ


『胎児も立派な人間です』 エリック・パストゥーシェク 著

以下は、TAN Booksで出版された “Is the Fetus Human?” by Eric J. Pastuszek の抄訳です。


前書き


出産前の子供たちが人間であるかどうかという問いは、そもそもまやかしに過ぎない。もし、それが人間でないとしたら、いったい何なのだろう。エリック・パストゥーシェクは出産前の幼児が人間であるだけでなく、かつて彼に与えられていた法的保護に値するものであるという事実に興味を寄せる人に説得力のある数々の証拠を提示している。
カール・トーマス (コラムニスト)


序 [Introduction]


受胎後18日ですでに脈打っている心臓、まつ毛も爪もそなえながら、24週間目で人工中絶された胎児の写真、以前人工中絶を行った経験のある人たちの証言、―これらは「胎児は人間なのか」という問いを発さざるを得なくする圧倒的な証拠のごく一部です。1973年の1月22日、合衆国最高裁判所はロー・ウェイド裁判(410 US 113)において同国内で妊娠9ヶ月[まで]の胎児に事実上、希望があれば即人工中絶を施すことを合法化しました。この判決は、人工中絶を非合法とするか、あるいは厳しく制限していた大部分の州の法律をなし崩しにしてしまうものでした。(最高裁判所はかろうじて、最後の3分の1の期間―すなわち最後の3か月間になされる人工中絶を禁止する選択の余地を各州に残しました。しかし、これさえ母親の生命を守るためという名目がある場合は、人工中絶する自由を母親に認めなければなりません。

しかし、人工中絶を妊娠期間全体を通じて、事実上、求めがあり次第許すこととした判決は胎児の「人間性」に関する生物学的およびその他の事実を考慮に入れていませんでした。様々な証拠が示すかぎり、子宮内の胎児は、はっきりそれと分かる、他の誰とも違う人間なのです。ロー・ウェイド訴訟の判決以来、進歩する科学技術―たとえば子宮内の胎児を見ることを可能にする胎視鏡など―によってさらに多くの証拠が生み出されています。

米国政府の立法府も司法府(即ち最高裁判所)も「胎児は人間か」という問いにふれていません。もし胎児が人間なら、求めに応じて人工中絶を行うことは、私たちの社会があらゆる倫理を放棄し殺人を許すのでないかぎり、まちがっています。ただ胎児が人間でないとすれば、その場合のみ、法律は人工中絶を許すことができるのです。

ここ10年の間、特に80年代後半では、人工中絶の枠を制限することに重点が置かれています。裁判所での判決ならびに立法のレベルでは、こうした制限を設けるのに幾分成功しましたが、それでもロー・ウェイド裁判で判決を下したブラックマン判事が1973年に直面せず回避した問題、つまり胎児が人間であるのかという問題にいまだ取り組んでいません。

たとえ人が胎内における生命の存在を示す全ての証拠を否定し、胎児をただの「かたまり」に過ぎないものとして片付けてしまおうとしても、胎児が一の日か、他の誰とも違う大人に成長する、かけがえのない生命であることには変わりありません。一旦胎児が抹殺されてしまうと、他の誰とも違う、世界でたった一人の大人は、その存在を永久に打ちなわれてしまいます。一体、どれほど多くの偉大な政治家、建築家、聖職者、―そして医師たち―が人工中絶のために失われてきたことでしょうか。


1 生物学的証拠


以下の問答は、以前2つの人工中絶クリニックを所有し、2つの人工中絶クリニックを
経営していたキャロル・エヴァレットとのインタビューからの抜粋です。

問:クリニック内の会話であなた、あるいはあなたの同僚は人工中絶されるものを男の子とか女の子、または赤ちゃんと呼びましたか。

答:私たちは1度も男の子とか、女の子とか読んだことはありません。私たちはそれを赤ちゃんと呼んでいました。私たちはよく「今日は何人の赤ちゃんを殺すことになっているの?」と言っていました。

はっきりとした心臓の鼓動、他の誰のとも違う独自の人間としての遺伝子構成、動き、音を聞き、さらに光を感知さえする ―これらは、子宮内の胎児が持つ多くの生物学的側面の一部です。心臓の鼓動は受胎後18日ですでに確認されます。遺伝子的構成(たとえば一人々々の大人のほかの誰のとも違う遺伝子的構図である46の染色体)は、受胎のときから胎児の中に存在しています。胎児は妊娠期の最初の3分の1で動き始め、視聴覚は妊娠中のさまざまな段階で発達します。胎児は痛みの感覚さえ持つようになります。

この章で取りあつかわれる問題は次のとおりです。

生物学と胎児学
胎児に関する基本的な生物学的事実
胎児の遺伝子的構成
胎内における人間の生命の存在を裏付ける科学的根拠
人工中絶を行ったことのある人たちの証言


1.1 生物学と胎児学
胎児に関する生物学的証拠は20世紀以前にも、すでに存在していました。この研究においての生物学的証拠というのは、胎児が人間であるかどうかという問題にかかわる科学的、医学的、およびその他の事実です。元人工中絶支持者だったある人はこう書いています。「19世紀に生み出された数多くの生物学的発展は、人工中絶の倫理性についての医師たちの考えに影響を及ぼした。胎内の生命が「胎動」[女性が最初に胎児ガ動くのを感じること]を待って始まるという考え方は、新たな勢いを得た胎児学の分野[の研究]により衰えていった。この胎児学というものは1827年にフォン・バウアーが初めて哺乳類の卵子を視覚化して報告した後、広まり発展しました。 」

近年、生物学の領域において蓄積された胎児の「人間性」に関する証拠も、強い説得力をもっています。たとえば、合衆国最高裁判所判事のサンドラ・デイ・オコーナーは、こう述べています。「医学が胎児の[母親から]分離した生存をより可能にするにしたがって、生存可能性はますます受胎[の時点]へとさかのぼってゆきます。」 「生存可能性」とは、胎児が子宮外で生存できる能力のことを言います。医学の進歩のおかげで、早い時期での胎児の生存と早産を可能にする医学の進歩のおかげで、胎児の生存可能性は、妊娠の中頃の時期にまで及んでいます。
胎児学という分野は子宮内における生命に関する近年の研究の一例です。胎内の胎児の写真を撮る胎児鏡によって、誕生前の生命を見ることできるようになりました。


1.2 胎児に関する基本的な事実
胎児に関する基本的な事実として次のことが挙げられます。

心臓は受胎後18日目で早くも動き出す。
20日目までに、神経系の全てが出来上がる。
42日目には骨格が完全に出来上がり、反射運動も見られるようになる。
8週間の時点で胎児の鼻をくすぐると、頭を後ろにのけぞらせ、当の刺激から逃れようとする。
9から10週間目には、胎児は目を細め、飲み込み、舌を動かす。手の平をなでれば、握りしめる。
11から12週間で、胎児は親指をしきりにしゃぶり、アミノ酸質の流動物を吸っては吐いて、呼吸器の発達をはかる。 
11から12週間で指の爪が生え揃い、16週間で眉毛も出てくる。
胎児は母親が感じ取る前に、すでに胎内で動いている。
12週間で、身体の全ての系統が機能している。
胎児は母親のそれとは別個の血液供給を有している。
 
メロディー・グリーン氏が報告しているその他の生物学的な事実は次のとおりです。胎児は「6週目までには手足を動かし、43日目には脳波を読み取ることができます。」「8週目には、その赤ちゃんは自分の指紋を持ち、受精から老年期にいたるまでの発達の各段階は、最初の時点で全部出揃っているものが成熟するだけのことです。」 もう一人別の著作家ボブ・ラルソンは、胎児の早期の発達についてさらに詳しい情報を提供しています。

[受胎後]1週間で、脊髄、背骨、それに神経系が形成され、また腎臓、肝臓、および消化器系が発達し始めます。18日目には原初的な心臓が自前の血液を送り出すようになります。30日目には、手足の基礎が現れます。骨格は1ヵ月半で成立し[出来上がり]、最初の動きを始めます。5週間目で能力は3つの部分に分かれ、休息に発達していきます。[受胎後]8週間経った胎児の体長はかろうじて1インチといったところですが、ほとんどの内臓器官はそろっています。胎児は対象物をつかみ、泳ぎ、しゃっくりをし、親指をしゃぶり、目を覚まし、規則的に眠ります。」 ラルソン氏はさらに、「11週間後の段階で身体系統の全てが形成され、機能しています。」 まだ十分に発達していないとは言え、胎児は2歳の子どもと比較できます。例えば、2歳の子どもの骨は十分に発達していません。同様に、胎児も体の部分を全てを具えていながら、発達の段階にあるのです。


1.3 胎児の遺伝子的組成
一部の科学者は胎児を魚あるいはおたまじゃくしと似たようなものだと主張していますが、しかし、胎児は実にヒト的な諸機関をそなえているため、人間にきわめてよく似通っています。事実、科学者たち自身、胎児の器官を「人体実験」のために取り出して使うのです。(1.8項参照)胎児は子どもと同様、十分に発達しきっていない唯一無二の生物学的存在です。一人々々の人は、受胎のときから、成人の段階にいたるまで、同じ遺伝子的組成をもっているのです。胎児の細胞は、大人の細胞と同数の染色体を含んでいますが、この染色体こそ、一人々々の人が、どのような人になるのかを決定する、他の誰のとも違う遺伝子的特長をもっているのです。健常な人は46の染色体を持っていますが、例外としてたとえば、ダウン症の子どもは47個の染色体を持っています。[24ページ]


2 医学的証拠

この章に載せてある写真は人工中絶の結果を示しています。これらは3つとも合衆国内で合法的に人工中絶された胎児の写真です。科学的な定義にしたがえば、胎内の幼児は[妊娠後役12週間で胎児(fetus)と呼ばれ、それ以前は胚種embryoと呼ばれますが、実際の人間の発達は継続的に起こるものです。3枚の写真は、それぞれ妊娠後6.5週間、19週間、24.5週間後の胎児の姿を明らかにしています。妊娠後8~10週間後以内の人工中絶には、すでに人間の全ての器官がそなわっています。

一番若い6.5週間の胎児は、まだ全ての器官を持っていませんが、主要な器官―例えば男性の生殖器官など―人間を人間ならしめる遺伝子的構成をすでに持ち合わせています。残りの胎児は、毛髪、鼻、まゆ毛など細かいところまで人間の姿・かたちを示しています。人工中絶には7つの基本的なやり方があります。(RU-486と呼ばれる薬品を用いる、最近開発された方法は、ここでは取り上げません。本書が出版された1992年の時点では、まだこの手段は合法化されていませんでした。)

「D&C(dilation-and-curettageの略)式人工中絶」 は、輪が先に付いたナイフで胎児を切り刻み、子宮から取り除くというものです。この方法は妊娠後7から12週間目(あるいはそれ以降)の胎児に対して用いられます。

「拡張・摘出式人工中絶」 は歯の付いたピンセットを用います。この方法は、先のD&C 法に似ています。ただこの手法が用いられるのは、比較的成長した胎児(受胎後12から20週間、あるいはそれ以降)であるため、胎児の頭部をくだき、体を引き裂いた後に、そのバラバラになった各部分を子宮から取り除くことになります。

「プロスタグランディン人工中絶」 では、早産を招くプロスタグランディンというやくざいをちゅうにゅうしておこなわれます。この手法は妊娠後12から20週間あるいはそれ以降の胎児に対して用いられますが、妊娠7、8、9か月目に至っている場合には、ふつう決まって使われる手段です。もし、プロスタグランディンによる中絶の結果、生きた胎児が出産された場合(そして実際、こうなることが多いのですが)、その赤ちゃんはほとんどの場合、放置して死なせます。

「塩分中毒人工中絶」 では、高濃度の塩素の溶液を注入して胎児に中毒と火傷を負わせます。このようにして殺傷された胎児は人工的な流産によって体外に排出されます。この方式は妊娠後14週間かそれ以降の胎児にしか用いられません。

「D&X(Dilation-and-Extractionの略)式人工中絶」 では、吸入カテーテルを使って、まだ子宮内にいる生きた胎児から、脳を引き出します。こうすれば胎児の頭蓋骨はくずれやすくなり、体の残りの部分と共に頭部を簡単に取り出すことができ、この手法は妊娠期間の第2三半期末期から第3三半期初頭にかけて用いられます。

[26ページの写真説明]
ステファンは妊娠後約6.5週間目でした。身長は2インチで体重は3分の1オンスでした。ステファンの体は、保存のためホルマリンの溶液に浸されました。この段階の胎児は、大部分の臓器がそろっているくらい発達しています。手足は、はっきりそれと分かり、へその緒付近に小さな男性生殖器官がみられます。

[27ページの写真説明]
エステルは妊娠後約19週間でした。身長は14インチで、体重は283グラムありました。エステルは高濃度の塩水の注入によって、皮膚の外層を焼かれ、中毒症状を起こして亡くなりました。写真では、頭髪と爪の存在が分かります。黒いまだらの点は、火傷を起こした皮膚の部分です。この段階の胎児は、全ての臓器をそなえているほど発達しています。

[28ページの写真説明]
グレースは妊娠後約24.5週間目でした。身長は19インチ、体重は519グラムありました。グレースはプロスタグランディンという薬剤によって中絶されました。この写真では、頭髪と爪が生えているのがよく分かります。また、この写真は、この段階での胎児は全ての臓器をそなえているほど発達していることを証明しています。

(続く)

堕胎、同性愛は、天主とサタンとの最後の戦いが到来したことを示しているーカッファラ枢機卿

2017年05月27日 | ファチマ
堕胎、同性愛は、天主とサタンとの最後の戦いが到来したことを示している

From Abortion, homosexuality show ‘final battle’ between God and Satan has come: Cardinal

「(…)戦争は終わるでしょう。しかし、もし天主を侮辱することを止めないなら、ピオ11世の統治下で別の更にひどい戦争が起こるでしょう。
あなたたちが未知の光を見るとき、天主がこの世をその罪のために戦争と飢饉、教会と教皇に対する迫害を使って罰を下そうという大いなる印を天主様があなたたちに下さっているのだと言うことを知りなさい。
これを避けるために私はロシアを私の汚れ無き御心に奉献することと、月の初土曜日に償いの聖体拝領をすることとを求めに来るでしょう。
もし人が私の要求を聞くなら、ロシアは回心し平和がやってくるでしょう。さもなければロシアはその誤謬を世界中に広め、戦争と教会に対する迫害とをもって挑発するでしょう。多くの善良なものが殉教し、教皇様は多く苦しまねばならないでしょう。無くなってしまう国々もあるでしょう。(…)」
(ファチマの聖母 1917年7月13日)

つい最近、カッファラ枢機卿は、シスター・ルシアは天主とサタンとの最後の戦いは、婚姻と家庭に関わるものであると言ったと証言した。

カッファラ枢機卿は、婚姻と家庭に関する教皇庁立ヨハネ・パウロ二世研究所の創立所長であるが、1980年代シスター・ルシアに手紙を書き、自分の新しい創立事業のために祈りを依頼した。返事は期待していなかったが、カッファラは驚いたことにシスター・ルシアから長い手紙を受け取った。その中で彼女は、時の終わりに「最後の戦い」が来ると書いてよこした。

ルシアはこう書いた。「天主とサタンとの最後の戦いは、婚姻と家庭に関わるものでしょう。恐れないで下さい。何故なら婚姻と家庭の聖性を守るために働く人々は誰でも、どこででも必ず攻撃され反対されるでしょうから。何故なら、これこそが決定的な論点だからです。しかし、聖母は既にサタンのかしらを踏み砕いています。」

カッファラ枢機卿は、堕胎の合法化が「嘘の文化」から由来することを指摘した。何故なら、人間を殺害する犯罪が「良いこと」であるかのように思われているからだ。カッファラは堕胎は「冒涜的行為だ」と言う。「人間の真理を最も深く否定する行為」だからだ。

「人間が、人の血を流してはならない理由は、人間が天主の似姿だからです。人間を通して、天主はご自分の創造に住まわれます。この創造は、主の神殿です。何故なら人間がそこに住んでいるからです。人間のペルソナの不可侵性を犯すことは、天主の聖性に反する冒涜的行為です。「反創造」を生み出そうとする悪魔的な試みです。人間の殺害を高貴なことにしつつ、サタンは自分の「産物」の基礎を置きました。創造の御業から天主の似姿を取り除き、そこにある天主の現存を曇らせるためです。」と枢機卿は言う。

カッファラは、同性愛の「結婚」も「嘘の文化」からであるという。何故なら、これは婚姻が「創造主なる天主の考え」に由来するという「婚姻の真理を全く否定する」からだ。

「天主の啓示は、天主が婚姻についてどのように考えておられるかを私たちに語りました。一人の男と一人の女の合法的な一致であり、命の根源として。天主のお考えにおいて、婚姻は永続的な構造を持っています。女性と男性という人間の存在の二重の様式に基礎を置くものです。この両性は、反対し合う二つの対立の極ではなく、一つはもう一つとともにありお互いのためのものです。」

ところがサタンは、堕胎と同性愛の嘘を進めて、創造の二つの最も重要な柱を怖そうとしている。一つは天主の似姿によって創造された人間のペルソナであり、もう一つは男と女との間の婚姻の一致である。

枢機卿は言う。「堕胎を主体的な権利へと高揚することは、最初の柱を破壊することです。同性愛的関係を婚姻と同等なものと高めることは、第二の柱を壊すことです。」

サタンの最終の目的は、「反創造を作り上げる」こと、天主と、主の美しさと善さのしるしが消し去られている「別のものを作り上げること」だ。