「ファチマ:世界平和への唯一の道」からの抜粋
われわれは、おそらくこの奇跡について公正さを欠くとは非難ができない - 次のしかるべき理由のために! - 一人の報告者の証言をここで詳しく述べることにします。われわれはアヴェリーノ・デ・アルメイダの名前を挙げます。彼はリスボンの最大の「リベラルな」反カトリック的でフリーメーソンの日刊紙 O Seculo の編集主任でした。彼はこう書いています:
「馬車が混み合っており、そして数千人の人々がぬかるみの大地を横切って前進するのに十分な勇気を持たないために立ち止まっている道路から、われわれは巨大な群衆が雲から出て天頂にきらきら輝く太陽の方を振り向くのを見た。それは一枚の銀の円盤に似ていた。そして少しの不快さも伴わずにそれを凝視することができた。それは両眼を焼かなかった。それは人々を盲目にしなかった。われわれはそれが蝕を産み出したと言ってもよかったであろう。それからすさまじい叫びが鳴り響いた。そしてわれわれのすぐ側にいた群衆がこう叫ぶのを聞いた:『奇跡だ!奇跡だ!...不思議だ!...不思議だ!』その態度がわれわれを聖書の時代へと移ったかのような気にさせた人々、そしてものが言えないほどに驚き、むき出しの頭で、空の青さを凝視している人々の眩んだ目の前で、太陽は震動した。それはすべての宇宙的な諸法則からはずれて奇妙なそして突然の動きをした。農民たちの典型的な表現に従えば『太陽が踊った』...」注8)
反教会権力的なすべての新聞によって猛烈に攻撃されて、アヴェリーノ・デ・アルメイダは、14日後に、彼の評論雑誌 Ilustracao Portuguesa において彼の証言を繰り返しています。今回は、彼はその説明を巨大な狂喜した群衆の多数の写真でもって例証しました。彼の論攷の至る所で「私は...を見た...私は...を見た...私は...を見た」を一つの同じことの繰り返しとして繰り返しました。
そして彼はこう結論づけます。
「人々が叫んだように、奇跡なのか?専門家たちが言うように、自然現象なのか?今のところそのことは私にとってはどうでもいいことである。私はただ私が見たことを語っているにすぎない...その他のことは科学の、そして教会の問題である。」注9)
10月13日土曜日は、その前日の夜からずっと雨だったために償いの巡礼として始まりました。今や、「ほこりまみれの道路を激しい雨によってぬかるみの湿地へと変え、秋の甘美さを冬の身を切るような厳しさと、一日の間に置き換えるこの ほとんど突然の天候の変化は、彼らを動かすこと、あるいは彼らを断念させる、あるいは絶望させることに成功しなかった。」注10)
目撃についての多くの説明を比較することによって、われわれはすべての人によって見られた驚くべき現象のさまざまの局面とその結果とを区別することができます。諸々の現象の各々のためにそれら自体が一つの印象的な書物を構成するであろう諸々の目撃の十数ページを集めることができるでしょう。
目撃者の報告
ここにおびただしい数の信用し得る目撃者たちのうちの一人によって記述された最初の驚くべき事実があります:
「子どもたちがいた正確な場所で淡い、きれいなそして青みがかった雲の柱が立ったのは午後1時30分であったに違いありません。その柱は彼らの頭上おそらく2メートルほどまで拡がっており、そしてその高さで蒸気になっていました。完全に裸眼に見えるものであるこの現象は2,3秒の間続きました。それがどのくらい長く続いたか気をつけていませんでしたので、私はそれが1分間よりも長かったかそれとも短かったかを言うことはできません。その煙は突然散らされました。そしてしばらく後にそれは二度目に再び起こりました。それから三度目に...」
「低いそして重い空は非常に暗い色をしており、湿気を帯びていました。それは大量のそして長く続く雨を降らせました。御出現の時の間に雨はすっかり止みました。突然空が明るくなりました。太陽はその時までそれを隠している雲の厚い層を勝ち誇ったように突き破りました。そして強烈に輝きました。」(アルメイダ・ガレット博士)注11)
天候のこの急激な変化はすべての目撃者たちをあっと言わせました:
「その日は激しいそして連続的な雨の日でした。しかし奇跡の数秒前に雨は突然降り止みました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)
そして、太陽が目に害を与えることなしに直接見られるのを許す、説明不可能な太陽の銀色化に関するある物理学者、科学者からの以下の証言があります:
「突然私は数千人の人々がわめき叫ぶ声を聞きました。そして私は私の足下であの広大な場所に拡がっている大群衆が...その時まで彼らのすべての期待がそこへ集中させられていたあの場所に彼らの背を向けて、他方の側にある太陽を見ていました...私もまた、彼らに見ることを要求している地点の方へ向きを変えました。そして私は太陽を見ることができたのです。それはその鋭い縁をもった非常に透明な円盤のようでした。それは視覚を損なうことなしに輝いていました...それは霧を通して見た太陽(その瞬間には霧は出ていませんでした)と混同されることはあり得ませんでした。なぜなら、それはヴェールをかけられたのでもなく、またぼやけてもいなかったからです。ファチマではそれはその光と熱とを保ち、そして一つの大きなゲーム用のテーブルのように、鋭い縁をもって、空にくっきりとかかっていました。最も驚くべきことは、目を害することなしに、あるいは網膜に傷を与えることなしに、光と熱をもって輝いている太陽の円盤を長時間凝視することができることでした。」(アルメイダ・ガレット博士)注12)。
O Seculo の編集主任による以下の証言も同じ調子です:
「そしてそれからわれわれは、もしあなたがそれを目撃していなかったならば信じることができない、一つの類のない大仕掛けな見せ物、途方もない見せ物を目撃しました。道路の上の方から...われわれは巨大な群衆が太陽の方へ向きを変えるのを見ます。太陽は雲から出て天頂に現れました。それは鈍い銀色の平皿のように見えました。そして全然不快感なしにそれを凝視することができました。私は両眼を焼くことはありませんでした。私は盲目になりませんでした。」(1917年10月15日の論攷)
そして同様に:「人々は、われわれが月を注視するのと同じように、太陽を注視することができました。」(マリア・ド・カルモ)注13)
人は、ある反教権的な新聞の世俗的な編集主任によってさえ目撃された次のような太陽現象についての証言を果てしなく増やすことができるでしょう。以下のものをよく考えてみてください:
「それは揺れ動き、そして震えました。それは火の車のように見えました。」(マリア・ダ・カペリーニャ)注14)
「太陽は虹のすべての色を帯びながら、火の車のように回転しました。」(マリア・ド・カルモ)注15)
「それはそれ自体回転している雪の球のように見えました。」(ロウレンソ神父)注16)
「真珠のような円盤はめまぐるしい動きをしていました。これは一つの星がそのすべての輝きにおいてきらきら光っているようなものではありませんでした。それは猛烈な速さでそれ自身が回転していました。」(アルメイダ・ガレット博士)注17)
「ある瞬間に太陽は止まりました。そしてそれから再び踊り始め、回転し始めました。それは再び止まりました。そして再び踊り始めました。」(ティ・マルト)注18)
「太陽は虹のすべての色を帯びました。あらゆる事物:すなわち、われわれの顔、われわれの衣服、大地自身がそれらの同じ色彩を帯びました。」(マリア・ド・カルモ)注19)
「その色が一つの瞬間から次の瞬間へと変化した一つの光は人々と諸々の事物に反射していました。」(ペレイラ・ゲンス博士)注20)
次に起こったことは奇跡の最も恐ろしい局面を、そしてその中で人間が空からの火でもって全世界を破壊する能力を完成したわれわれの時代に対する重大な影響をもった局面を構成しています:太陽は空から離れて大地に向かって突っ込んで来るように見えました。
「われわれは突然、あの群衆全体の苦痛の叫びのような、一つの大きな叫び声を聞きました。事実、太陽はその回転の急速な運動を保ちながら、それ自身を天空から解放し、そして血のように赤くなって、その燃えさかるかたまりでもってわれわれを押し潰そうと威嚇しながら、大地の方へ突っ込んで来るように見えました。それは恐ろしい数秒間でした。」(アルメイダ・ガレット博士)注21)
「私は太陽が回転するのを見ました。そしてそれは降りて来るように見えました。それは自転車の車輪のようでした。」(ジョン・カレイラ)注22)
「太陽は踊り始めました。そしてある瞬間にそれは天空から離れて、火の車のように、われわれに向かって突進してくるように見えました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)注23)
「私はそれがあたかも地上に激突しに来たかのごとく完全に降りて来るのを見ました。それは空から離れ、われわれの方へ向かって突進してくるように見えました。それはわれわれの頭上で短い距離を保っていました。しかしその種の攻撃の持続時間は非常に短いものでした...それは人々の非常に近くに見えました。そしてそれは反対の方向へと変化し続けました。」(マリア・ド・カルモ)注24)
「突然、太陽はその円周がはっきりした形で現れました。それはあたかも雲の高さまで降りるかのように降りて来ました。そして一つの閉じ込められた火の球のようにめまぐるしく旋回し始めました。何回か中断しながら、この旋回は8分間ほど続きました。」(ペレイラ・ダ・シルヴァ神父)注25)
「それは突然、大地を脅しながら、ジグザグに降りて来るように見えました。」(ロウレンソ神父)注26)
「われわれの上に落ちて来る太陽を見ながら...」(ジョン・ゴメス神父)注27)
「最後に、太陽は止まりました。そして誰もが助かった安堵の吐息をもらしました...」(マリア・ダ・カペリーニャ)注28)
「あの数千人の人々の口から私は喜びの叫び声といとも聖なるおとめ[マリア]への愛の叫び声を聞きました。そしてそれから私は信じました。私は暗示の犠牲者ではなかったことについて確信を持ちました。私は再び見ないであろうような太陽を見たのです。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注29)
もう一つの驚くべき事実:その大部分が徹底的にびしょぬれであったあのすべての人々が、自分たちが乾いているということを喜びと驚きをもって事実であることを証明したのです。その事実は、最終的に2000年5月13日に列福されたヤシンタとフランシスコのための教会法上の訴訟手続きにおいて確証されています。
「人がそれをまったく期待していなかったであろうその瞬間にわれわれの衣服は完全に乾いていました。」(マリア・ド・カルモ)注30)
「私の衣服は一瞬のうちに乾きました。」(ジョン・カレイラ)注31)
アカデミー会員、マルケス・ダ・クルスは次のように証言しました:
「この巨大な群衆はびしょぬれでした。なぜなら、明け方から雨が止むことなく降っていたからです。しかし - このことは信じられないことと見えるかも知れませんが - 大きな奇跡の後には、誰もが心地よいと感じました。そして彼の衣服がまったく乾いていることを見出しました。これは大多数の人に共通する不思議の主題です...この事実の真理は、私が子どもの時から知っており、そして今も生存している(1937年)絶対的に信用のおける何十人もの人々によって、同様にまたこの国のさまざまの地域出身のまだ現存している人々によっても、最大の誠実さをもって保証されてきました。」注32)
そして最後に、また多くの人々の回心という道徳的な奇跡もありました。『目撃者たちに会う』(Meet the Witnesses)という彼の書物の中でジョン・ハッファートはこう書いています:
「山岳兵連隊の将校はその日 - 群衆の集合を中止させる命令を受けていた - 直ちに回心しました。明らかに、彼らの証言が示すであろうように、多くの他の不信仰者たちもそうでした。」注33)
「一人の普通の女の子を見るためにファチマに出かけた『ばか者たち』を嘲りながらその朝を過ごした一人の不信仰者がそこにいました。彼は今麻痺したように見えました。彼の目は太陽に釘づけになりました。彼は頭から足まで震え始めました。そして両腕を上げながら、神に叫び声をあげて泥の中に跪きました。」(ロウレンソ神父)注34)
「私はファチマから18マイル離れた所に住んでいます。そして1917年の5月にわれわれは驚くべき御出現について話を聞きました。しかしそのニュースは人々の幻想と混ぜ合わされてわれわれのところに届きました。当然私は信じませんでした。私はそれは単に誰かある者の想像の産物であると心から思いました...私の母の要求で、私は8月の御出現の時にコヴァ・ダ・イリアに一度行きました。もう一度、私は落胆させられ、そして失望させられて帰って来ました。しかしそのとき何か驚くべきある事が起こりました。長年の間その片一方の目に大きな腫瘍を持っていた私の母が癒されたのです。彼女を診ていた医師たちはそのような治癒を自分たちは説明することができないと言いました。それでもなお私は御出現を信じませんでした。最後に、そして再び母の要求で私は10月13日にもう一度コヴァ・ダ・イリアに行きました...私の母に起こったことにもかかわらず、私は失望させられ、そして御出現を信じませんでした。それで私は車の中に坐っていました。その時突然、私は誰もが空を見るのに気づきました。自然的な好奇心が私の注意を惹きました。そして車から出て、私も空を見ました...数万人の人々の口から私は信仰と祝せられたおとめ[マリア]への愛の言葉を聞きました。そしてそれから私は信じました。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注35)
治癒と回心の他の多くの例は、他の箇所にもありますが、以下の書物の中に記録されています:Documentacao Critica de Fatima および Fatima from the Beginning 注36)
奇跡はその場の「集団ヒステリー」の産物であったと言うであろう人々に対しては、神御自身が一つの用意のできた反駁を手配なさいました:すなわち、その現象はファチマで何が起こっていたかを彼らに知らせる人を周りに誰も持っていなかった25マイルも離れた個々の人たちによってさえ見られたのです。コヴァ・ダ・イリアから非常に遠く離れた所にいた完全に信用のできる目撃者たちが、おとめ[マリア]の御出現になったトキワガシの木の周りに集まった7万人の巡礼者たちと正確に同じように、太陽のダンスという先例のない見せ物を見たと話しました。注37)
ファチマからおよそ10マイルの所に位置するアルブリテルの小さな村では、全村あげてその太陽の驚異の光景を楽しむことができました。しばしば引用された証言はイナシオ・ロウレンソ神父の証言です。というのは、それは最も詳細なものだからです。しかし、彼が見たと語っていることは、調査者たちによって質問されたすべての村民が正確に同じ仕方で見たと確証しました。
その出来事の目撃者たちは実際数え切れないくらいおおぜいでした。彼らの証言は一致しています。そしてわれわれは彼らがわれわれに残した文書の洪水に襲われます。注38)
まず第一に、数多くの説明が一度にポルトガルの新聞に現れました。最初に証言を提供した人々が反教権的な報告者たちであったということは注目すべきことです。アヴェリーノ・アルメイダの三つの論攷 - その出来事の直前の10月13日の論攷、13日の夕方に Vila Nova de Ourem で編集された10月15日の他の論攷、そして10月29日の第三の論攷 - は特別の注目に値します。部分的に最初の論攷に霊感を与えているひやかしの論調とヴォルテール式の皮肉にもかかわらず、15日の論攷においてなお現れている予期された反教権的な論調にもかかわらず、一人の才能を持ったレポーター - 彼はその上誠実で良心的です - から出ているこれらのテキストは第一級の重要性を持った歴史的文書です。しかし彼は諸事実を語る唯一の人物ではありませんでした。なぜなら、他のレポーターたちがコヴァ・ダ・イリアにはいたからです。
次に、諸々の公式的な調査がありました。1917年11月に、当時リスボンの司教区を指導していたリマ・ヴィダルの司教の要求で、ファチマの小教区司祭が調査を行い、小教区の何人かの目撃者たちに質問をしました。不幸なことに、彼はただ四例の証言録取書だけ書き写しました!
歴史家たちの諸々の調査が幸いなことに公式的な調査者たちの不注意を埋め合わせました。フォルミガオ神父 - 彼はコインブラ大学理学部教授ホセ・マリア・デ・アルメイダ博士から非常に詳しい説明を得ました - の報告はわれわれが所有している最も科学的な報告です。注40)その上に、われわれはダ・フォンセカ神父の諸々の報告を持っています。(彼の仕事は証拠を検討することを拒否したダニス神父注41)によって反論された諸点の正しいことを立証するためになされました)われわれはデ・マルキ神父、カノン・バルタス、ディアス・コエリョ神父そしてリチャード神父の報告を持っています。
1977年には、最後の御出現の60周年記念日を祝うために、ファチマに太陽の奇跡に立ち会い、そしてかれらの記憶をはっきり述べることができる30人以上の人々を集めることがまだ可能でした。これらの多くの証言のおかげで、確かに世界の歴史の中でも最も重要な日の一つである、この決定的な日を時間毎に、分毎にわれわれに体験することを許す一つの正確な実況放送を再構成することができるのです。実際、1917年10月13日の太陽の奇跡の証拠は非常に圧倒的でしたので、1952年にハリウッドでさえファチマの聖母の奇跡 The Miracle of Our Lady of Fatima という題名の古典的な映画 - これは今日でもビデオで利用可能です - を公開することによってその真正性を保証したほどです。
疑いを超えて
なぜこの日はそのように重要なのでしょうか?それは神の御母からの天のメッセージがいかなる筋の通った疑いをも超えて真だと証明された日だからです。このメッセージは90年後に、われわれにそこから抜け出す唯一の実現可能な道を提供しながら、人類の歴史におけるまさにこの瞬間に教会と世界の危機的な状況の中心に立っています。
註:
(8) O Seculo of October 15, 1917.
(9) Article of October 29, 1917. See also Frère François deMarie des Anges, Fatima: The Astonishing Truth , p. 164.
(10) Ilustração Portuguesa , October 29,1917.
(11) Fatima: The Astonishing Truth , pp. 171-172.
(12) Ibid., pp. 172-173.
(13) Ibid., p. 173.
(14) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337.
(15) Fatima: The Astonishing Truth , p. 178.
(16) Ibid.
(17) Ibid.
(18) Ibid.
(19) Ibid.
(20) Ibid.
(21) Ibid.
(22) Ibid.
(23) Ibid., pp. 178-179.
(24) Ibid., p.179.
(25) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337.
(26) Ibid., p. 339.
(27) Ibid., p. 340.
(28) Ibid.
(29) Fatima: The Astonishing Truth , p. 179.
(30) Ibid.
(31) Ibid. There is also this fact about thatmiracle which is the most surprising. The quantity of energy necessary to accomplish the drying out of the ground and the clothes in such a rapid manner would have been so great that all persons presentthere would have been incinerated. Given that this aspect of the miracle radically contradicts the law of nature, no devil could have performed this miracle.
(32) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p.340. See also Father John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning ,
(Missões Consolata, Fatima,Portugal, 1981, third edition, rst published in 1950) p. 141; and Joseph A. Pelletier, A.A., The Sun Danced at Fatima ,
(Doubleday, New York, 1983) pp. 129-130.
(33) John M. Haffert, Meet theWitnesses ,
(AMI International Press, Fatima, Portugal, 1961) p. 62. This book was published with anImprimatur from the Bishop of Leiria, Portugal and provides us with credible direct testimonies of numerous witnesses to the Miracle of the Sun.
(34) Ibid., p. 65.
(35) Ibid., pp. 86-89.
(36) DocumentaçãoCrítica de Fátima , Volume II,
(Santuário de Fátima, 1999) 17 cases documented on pp. 277-372; andFather John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning .
(37) Father John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning , p. 136. See also Documentação Crítica de Fátima, Volume I,
(Santuário de Fátima,1992) p. 408. See also The Whole Truth About Fatima - Volume I, pp. 330-331.
(38) Among the manyreference works, see: The Whole Truth About Fatima - Volume I; John M. Haffert, Meet the Witnesses ;Father John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning , pp. 135-142.
(39) We find the photographic reproduction of those three articles in Fatima 50 of October 13, 1967, pp. 6-10; 14-15.
(40) Novos Documentos de Fatima , Loyola editions, Sao Paulo, 1984, pp. 60-63.
(41) The modernist Jesuit priest,Father Dhanis, would later attempt to “debunk” the vision of hell and the prophetic elements of theMessage, including the consecration and ultimate conversion of Russia. Father Dhanis refused theinvitation of Sister Lucy herself to come to Fatima and study the Fatima archives. Father Dhanis willeventually be cited as an “authority” on Fatima by key members of the Vatican apparatus in their attempt to revise the Message of Fatima according to a “commentary” published on June 26, 2000.
われわれは、おそらくこの奇跡について公正さを欠くとは非難ができない - 次のしかるべき理由のために! - 一人の報告者の証言をここで詳しく述べることにします。われわれはアヴェリーノ・デ・アルメイダの名前を挙げます。彼はリスボンの最大の「リベラルな」反カトリック的でフリーメーソンの日刊紙 O Seculo の編集主任でした。彼はこう書いています:
「馬車が混み合っており、そして数千人の人々がぬかるみの大地を横切って前進するのに十分な勇気を持たないために立ち止まっている道路から、われわれは巨大な群衆が雲から出て天頂にきらきら輝く太陽の方を振り向くのを見た。それは一枚の銀の円盤に似ていた。そして少しの不快さも伴わずにそれを凝視することができた。それは両眼を焼かなかった。それは人々を盲目にしなかった。われわれはそれが蝕を産み出したと言ってもよかったであろう。それからすさまじい叫びが鳴り響いた。そしてわれわれのすぐ側にいた群衆がこう叫ぶのを聞いた:『奇跡だ!奇跡だ!...不思議だ!...不思議だ!』その態度がわれわれを聖書の時代へと移ったかのような気にさせた人々、そしてものが言えないほどに驚き、むき出しの頭で、空の青さを凝視している人々の眩んだ目の前で、太陽は震動した。それはすべての宇宙的な諸法則からはずれて奇妙なそして突然の動きをした。農民たちの典型的な表現に従えば『太陽が踊った』...」注8)
反教会権力的なすべての新聞によって猛烈に攻撃されて、アヴェリーノ・デ・アルメイダは、14日後に、彼の評論雑誌 Ilustracao Portuguesa において彼の証言を繰り返しています。今回は、彼はその説明を巨大な狂喜した群衆の多数の写真でもって例証しました。彼の論攷の至る所で「私は...を見た...私は...を見た...私は...を見た」を一つの同じことの繰り返しとして繰り返しました。
そして彼はこう結論づけます。
「人々が叫んだように、奇跡なのか?専門家たちが言うように、自然現象なのか?今のところそのことは私にとってはどうでもいいことである。私はただ私が見たことを語っているにすぎない...その他のことは科学の、そして教会の問題である。」注9)
10月13日土曜日は、その前日の夜からずっと雨だったために償いの巡礼として始まりました。今や、「ほこりまみれの道路を激しい雨によってぬかるみの湿地へと変え、秋の甘美さを冬の身を切るような厳しさと、一日の間に置き換えるこの ほとんど突然の天候の変化は、彼らを動かすこと、あるいは彼らを断念させる、あるいは絶望させることに成功しなかった。」注10)
目撃についての多くの説明を比較することによって、われわれはすべての人によって見られた驚くべき現象のさまざまの局面とその結果とを区別することができます。諸々の現象の各々のためにそれら自体が一つの印象的な書物を構成するであろう諸々の目撃の十数ページを集めることができるでしょう。
目撃者の報告
ここにおびただしい数の信用し得る目撃者たちのうちの一人によって記述された最初の驚くべき事実があります:
「子どもたちがいた正確な場所で淡い、きれいなそして青みがかった雲の柱が立ったのは午後1時30分であったに違いありません。その柱は彼らの頭上おそらく2メートルほどまで拡がっており、そしてその高さで蒸気になっていました。完全に裸眼に見えるものであるこの現象は2,3秒の間続きました。それがどのくらい長く続いたか気をつけていませんでしたので、私はそれが1分間よりも長かったかそれとも短かったかを言うことはできません。その煙は突然散らされました。そしてしばらく後にそれは二度目に再び起こりました。それから三度目に...」
「低いそして重い空は非常に暗い色をしており、湿気を帯びていました。それは大量のそして長く続く雨を降らせました。御出現の時の間に雨はすっかり止みました。突然空が明るくなりました。太陽はその時までそれを隠している雲の厚い層を勝ち誇ったように突き破りました。そして強烈に輝きました。」(アルメイダ・ガレット博士)注11)
天候のこの急激な変化はすべての目撃者たちをあっと言わせました:
「その日は激しいそして連続的な雨の日でした。しかし奇跡の数秒前に雨は突然降り止みました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)
そして、太陽が目に害を与えることなしに直接見られるのを許す、説明不可能な太陽の銀色化に関するある物理学者、科学者からの以下の証言があります:
「突然私は数千人の人々がわめき叫ぶ声を聞きました。そして私は私の足下であの広大な場所に拡がっている大群衆が...その時まで彼らのすべての期待がそこへ集中させられていたあの場所に彼らの背を向けて、他方の側にある太陽を見ていました...私もまた、彼らに見ることを要求している地点の方へ向きを変えました。そして私は太陽を見ることができたのです。それはその鋭い縁をもった非常に透明な円盤のようでした。それは視覚を損なうことなしに輝いていました...それは霧を通して見た太陽(その瞬間には霧は出ていませんでした)と混同されることはあり得ませんでした。なぜなら、それはヴェールをかけられたのでもなく、またぼやけてもいなかったからです。ファチマではそれはその光と熱とを保ち、そして一つの大きなゲーム用のテーブルのように、鋭い縁をもって、空にくっきりとかかっていました。最も驚くべきことは、目を害することなしに、あるいは網膜に傷を与えることなしに、光と熱をもって輝いている太陽の円盤を長時間凝視することができることでした。」(アルメイダ・ガレット博士)注12)。
O Seculo の編集主任による以下の証言も同じ調子です:
「そしてそれからわれわれは、もしあなたがそれを目撃していなかったならば信じることができない、一つの類のない大仕掛けな見せ物、途方もない見せ物を目撃しました。道路の上の方から...われわれは巨大な群衆が太陽の方へ向きを変えるのを見ます。太陽は雲から出て天頂に現れました。それは鈍い銀色の平皿のように見えました。そして全然不快感なしにそれを凝視することができました。私は両眼を焼くことはありませんでした。私は盲目になりませんでした。」(1917年10月15日の論攷)
そして同様に:「人々は、われわれが月を注視するのと同じように、太陽を注視することができました。」(マリア・ド・カルモ)注13)
人は、ある反教権的な新聞の世俗的な編集主任によってさえ目撃された次のような太陽現象についての証言を果てしなく増やすことができるでしょう。以下のものをよく考えてみてください:
「それは揺れ動き、そして震えました。それは火の車のように見えました。」(マリア・ダ・カペリーニャ)注14)
「太陽は虹のすべての色を帯びながら、火の車のように回転しました。」(マリア・ド・カルモ)注15)
「それはそれ自体回転している雪の球のように見えました。」(ロウレンソ神父)注16)
「真珠のような円盤はめまぐるしい動きをしていました。これは一つの星がそのすべての輝きにおいてきらきら光っているようなものではありませんでした。それは猛烈な速さでそれ自身が回転していました。」(アルメイダ・ガレット博士)注17)
「ある瞬間に太陽は止まりました。そしてそれから再び踊り始め、回転し始めました。それは再び止まりました。そして再び踊り始めました。」(ティ・マルト)注18)
「太陽は虹のすべての色を帯びました。あらゆる事物:すなわち、われわれの顔、われわれの衣服、大地自身がそれらの同じ色彩を帯びました。」(マリア・ド・カルモ)注19)
「その色が一つの瞬間から次の瞬間へと変化した一つの光は人々と諸々の事物に反射していました。」(ペレイラ・ゲンス博士)注20)
次に起こったことは奇跡の最も恐ろしい局面を、そしてその中で人間が空からの火でもって全世界を破壊する能力を完成したわれわれの時代に対する重大な影響をもった局面を構成しています:太陽は空から離れて大地に向かって突っ込んで来るように見えました。
「われわれは突然、あの群衆全体の苦痛の叫びのような、一つの大きな叫び声を聞きました。事実、太陽はその回転の急速な運動を保ちながら、それ自身を天空から解放し、そして血のように赤くなって、その燃えさかるかたまりでもってわれわれを押し潰そうと威嚇しながら、大地の方へ突っ込んで来るように見えました。それは恐ろしい数秒間でした。」(アルメイダ・ガレット博士)注21)
「私は太陽が回転するのを見ました。そしてそれは降りて来るように見えました。それは自転車の車輪のようでした。」(ジョン・カレイラ)注22)
「太陽は踊り始めました。そしてある瞬間にそれは天空から離れて、火の車のように、われわれに向かって突進してくるように見えました。」(アルフレド・ダ・シルヴァ・サントス)注23)
「私はそれがあたかも地上に激突しに来たかのごとく完全に降りて来るのを見ました。それは空から離れ、われわれの方へ向かって突進してくるように見えました。それはわれわれの頭上で短い距離を保っていました。しかしその種の攻撃の持続時間は非常に短いものでした...それは人々の非常に近くに見えました。そしてそれは反対の方向へと変化し続けました。」(マリア・ド・カルモ)注24)
「突然、太陽はその円周がはっきりした形で現れました。それはあたかも雲の高さまで降りるかのように降りて来ました。そして一つの閉じ込められた火の球のようにめまぐるしく旋回し始めました。何回か中断しながら、この旋回は8分間ほど続きました。」(ペレイラ・ダ・シルヴァ神父)注25)
「それは突然、大地を脅しながら、ジグザグに降りて来るように見えました。」(ロウレンソ神父)注26)
「われわれの上に落ちて来る太陽を見ながら...」(ジョン・ゴメス神父)注27)
「最後に、太陽は止まりました。そして誰もが助かった安堵の吐息をもらしました...」(マリア・ダ・カペリーニャ)注28)
「あの数千人の人々の口から私は喜びの叫び声といとも聖なるおとめ[マリア]への愛の叫び声を聞きました。そしてそれから私は信じました。私は暗示の犠牲者ではなかったことについて確信を持ちました。私は再び見ないであろうような太陽を見たのです。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注29)
もう一つの驚くべき事実:その大部分が徹底的にびしょぬれであったあのすべての人々が、自分たちが乾いているということを喜びと驚きをもって事実であることを証明したのです。その事実は、最終的に2000年5月13日に列福されたヤシンタとフランシスコのための教会法上の訴訟手続きにおいて確証されています。
「人がそれをまったく期待していなかったであろうその瞬間にわれわれの衣服は完全に乾いていました。」(マリア・ド・カルモ)注30)
「私の衣服は一瞬のうちに乾きました。」(ジョン・カレイラ)注31)
アカデミー会員、マルケス・ダ・クルスは次のように証言しました:
「この巨大な群衆はびしょぬれでした。なぜなら、明け方から雨が止むことなく降っていたからです。しかし - このことは信じられないことと見えるかも知れませんが - 大きな奇跡の後には、誰もが心地よいと感じました。そして彼の衣服がまったく乾いていることを見出しました。これは大多数の人に共通する不思議の主題です...この事実の真理は、私が子どもの時から知っており、そして今も生存している(1937年)絶対的に信用のおける何十人もの人々によって、同様にまたこの国のさまざまの地域出身のまだ現存している人々によっても、最大の誠実さをもって保証されてきました。」注32)
そして最後に、また多くの人々の回心という道徳的な奇跡もありました。『目撃者たちに会う』(Meet the Witnesses)という彼の書物の中でジョン・ハッファートはこう書いています:
「山岳兵連隊の将校はその日 - 群衆の集合を中止させる命令を受けていた - 直ちに回心しました。明らかに、彼らの証言が示すであろうように、多くの他の不信仰者たちもそうでした。」注33)
「一人の普通の女の子を見るためにファチマに出かけた『ばか者たち』を嘲りながらその朝を過ごした一人の不信仰者がそこにいました。彼は今麻痺したように見えました。彼の目は太陽に釘づけになりました。彼は頭から足まで震え始めました。そして両腕を上げながら、神に叫び声をあげて泥の中に跪きました。」(ロウレンソ神父)注34)
「私はファチマから18マイル離れた所に住んでいます。そして1917年の5月にわれわれは驚くべき御出現について話を聞きました。しかしそのニュースは人々の幻想と混ぜ合わされてわれわれのところに届きました。当然私は信じませんでした。私はそれは単に誰かある者の想像の産物であると心から思いました...私の母の要求で、私は8月の御出現の時にコヴァ・ダ・イリアに一度行きました。もう一度、私は落胆させられ、そして失望させられて帰って来ました。しかしそのとき何か驚くべきある事が起こりました。長年の間その片一方の目に大きな腫瘍を持っていた私の母が癒されたのです。彼女を診ていた医師たちはそのような治癒を自分たちは説明することができないと言いました。それでもなお私は御出現を信じませんでした。最後に、そして再び母の要求で私は10月13日にもう一度コヴァ・ダ・イリアに行きました...私の母に起こったことにもかかわらず、私は失望させられ、そして御出現を信じませんでした。それで私は車の中に坐っていました。その時突然、私は誰もが空を見るのに気づきました。自然的な好奇心が私の注意を惹きました。そして車から出て、私も空を見ました...数万人の人々の口から私は信仰と祝せられたおとめ[マリア]への愛の言葉を聞きました。そしてそれから私は信じました。」(マリオ・ゴディーニョ、エンジニア)注35)
治癒と回心の他の多くの例は、他の箇所にもありますが、以下の書物の中に記録されています:Documentacao Critica de Fatima および Fatima from the Beginning 注36)
奇跡はその場の「集団ヒステリー」の産物であったと言うであろう人々に対しては、神御自身が一つの用意のできた反駁を手配なさいました:すなわち、その現象はファチマで何が起こっていたかを彼らに知らせる人を周りに誰も持っていなかった25マイルも離れた個々の人たちによってさえ見られたのです。コヴァ・ダ・イリアから非常に遠く離れた所にいた完全に信用のできる目撃者たちが、おとめ[マリア]の御出現になったトキワガシの木の周りに集まった7万人の巡礼者たちと正確に同じように、太陽のダンスという先例のない見せ物を見たと話しました。注37)
ファチマからおよそ10マイルの所に位置するアルブリテルの小さな村では、全村あげてその太陽の驚異の光景を楽しむことができました。しばしば引用された証言はイナシオ・ロウレンソ神父の証言です。というのは、それは最も詳細なものだからです。しかし、彼が見たと語っていることは、調査者たちによって質問されたすべての村民が正確に同じ仕方で見たと確証しました。
その出来事の目撃者たちは実際数え切れないくらいおおぜいでした。彼らの証言は一致しています。そしてわれわれは彼らがわれわれに残した文書の洪水に襲われます。注38)
まず第一に、数多くの説明が一度にポルトガルの新聞に現れました。最初に証言を提供した人々が反教権的な報告者たちであったということは注目すべきことです。アヴェリーノ・アルメイダの三つの論攷 - その出来事の直前の10月13日の論攷、13日の夕方に Vila Nova de Ourem で編集された10月15日の他の論攷、そして10月29日の第三の論攷 - は特別の注目に値します。部分的に最初の論攷に霊感を与えているひやかしの論調とヴォルテール式の皮肉にもかかわらず、15日の論攷においてなお現れている予期された反教権的な論調にもかかわらず、一人の才能を持ったレポーター - 彼はその上誠実で良心的です - から出ているこれらのテキストは第一級の重要性を持った歴史的文書です。しかし彼は諸事実を語る唯一の人物ではありませんでした。なぜなら、他のレポーターたちがコヴァ・ダ・イリアにはいたからです。
次に、諸々の公式的な調査がありました。1917年11月に、当時リスボンの司教区を指導していたリマ・ヴィダルの司教の要求で、ファチマの小教区司祭が調査を行い、小教区の何人かの目撃者たちに質問をしました。不幸なことに、彼はただ四例の証言録取書だけ書き写しました!
歴史家たちの諸々の調査が幸いなことに公式的な調査者たちの不注意を埋め合わせました。フォルミガオ神父 - 彼はコインブラ大学理学部教授ホセ・マリア・デ・アルメイダ博士から非常に詳しい説明を得ました - の報告はわれわれが所有している最も科学的な報告です。注40)その上に、われわれはダ・フォンセカ神父の諸々の報告を持っています。(彼の仕事は証拠を検討することを拒否したダニス神父注41)によって反論された諸点の正しいことを立証するためになされました)われわれはデ・マルキ神父、カノン・バルタス、ディアス・コエリョ神父そしてリチャード神父の報告を持っています。
1977年には、最後の御出現の60周年記念日を祝うために、ファチマに太陽の奇跡に立ち会い、そしてかれらの記憶をはっきり述べることができる30人以上の人々を集めることがまだ可能でした。これらの多くの証言のおかげで、確かに世界の歴史の中でも最も重要な日の一つである、この決定的な日を時間毎に、分毎にわれわれに体験することを許す一つの正確な実況放送を再構成することができるのです。実際、1917年10月13日の太陽の奇跡の証拠は非常に圧倒的でしたので、1952年にハリウッドでさえファチマの聖母の奇跡 The Miracle of Our Lady of Fatima という題名の古典的な映画 - これは今日でもビデオで利用可能です - を公開することによってその真正性を保証したほどです。
疑いを超えて
なぜこの日はそのように重要なのでしょうか?それは神の御母からの天のメッセージがいかなる筋の通った疑いをも超えて真だと証明された日だからです。このメッセージは90年後に、われわれにそこから抜け出す唯一の実現可能な道を提供しながら、人類の歴史におけるまさにこの瞬間に教会と世界の危機的な状況の中心に立っています。
註:
(8) O Seculo of October 15, 1917.
(9) Article of October 29, 1917. See also Frère François deMarie des Anges, Fatima: The Astonishing Truth , p. 164.
(10) Ilustração Portuguesa , October 29,1917.
(11) Fatima: The Astonishing Truth , pp. 171-172.
(12) Ibid., pp. 172-173.
(13) Ibid., p. 173.
(14) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337.
(15) Fatima: The Astonishing Truth , p. 178.
(16) Ibid.
(17) Ibid.
(18) Ibid.
(19) Ibid.
(20) Ibid.
(21) Ibid.
(22) Ibid.
(23) Ibid., pp. 178-179.
(24) Ibid., p.179.
(25) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p. 337.
(26) Ibid., p. 339.
(27) Ibid., p. 340.
(28) Ibid.
(29) Fatima: The Astonishing Truth , p. 179.
(30) Ibid.
(31) Ibid. There is also this fact about thatmiracle which is the most surprising. The quantity of energy necessary to accomplish the drying out of the ground and the clothes in such a rapid manner would have been so great that all persons presentthere would have been incinerated. Given that this aspect of the miracle radically contradicts the law of nature, no devil could have performed this miracle.
(32) The Whole Truth About Fatima - Volume I, p.340. See also Father John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning ,
(Missões Consolata, Fatima,Portugal, 1981, third edition, rst published in 1950) p. 141; and Joseph A. Pelletier, A.A., The Sun Danced at Fatima ,
(Doubleday, New York, 1983) pp. 129-130.
(33) John M. Haffert, Meet theWitnesses ,
(AMI International Press, Fatima, Portugal, 1961) p. 62. This book was published with anImprimatur from the Bishop of Leiria, Portugal and provides us with credible direct testimonies of numerous witnesses to the Miracle of the Sun.
(34) Ibid., p. 65.
(35) Ibid., pp. 86-89.
(36) DocumentaçãoCrítica de Fátima , Volume II,
(Santuário de Fátima, 1999) 17 cases documented on pp. 277-372; andFather John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning .
(37) Father John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning , p. 136. See also Documentação Crítica de Fátima, Volume I,
(Santuário de Fátima,1992) p. 408. See also The Whole Truth About Fatima - Volume I, pp. 330-331.
(38) Among the manyreference works, see: The Whole Truth About Fatima - Volume I; John M. Haffert, Meet the Witnesses ;Father John de Marchi, I.M.C., Fatima from the Beginning , pp. 135-142.
(39) We find the photographic reproduction of those three articles in Fatima 50 of October 13, 1967, pp. 6-10; 14-15.
(40) Novos Documentos de Fatima , Loyola editions, Sao Paulo, 1984, pp. 60-63.
(41) The modernist Jesuit priest,Father Dhanis, would later attempt to “debunk” the vision of hell and the prophetic elements of theMessage, including the consecration and ultimate conversion of Russia. Father Dhanis refused theinvitation of Sister Lucy herself to come to Fatima and study the Fatima archives. Father Dhanis willeventually be cited as an “authority” on Fatima by key members of the Vatican apparatus in their attempt to revise the Message of Fatima according to a “commentary” published on June 26, 2000.
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