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【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その三【第1部】:ルソーとその政治論

2020年01月31日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


初回の時に、お知らせしたとおり、
第一に、ルソーの人生をご紹介し、
第二に、ルソーにおける有名な課題である「芸術」、ルソーによる「学問芸術論」を中心にご紹介しました。
今回、第三回目として「ルソーとその政治論」と題します。
次回(第四回)は「ルソーとその教育論」、ルソーの政治論の延長線にある課題を取り上げます。
最終回となる第五回には「ルソーとその宗教論」についてお話しします。

【第一部】
さて、今夜は「ルソーとその政治論」です。
政治に対するルソーの思想を知るためには、ルソーの二つの著作を参照すればよいでしょう。
まず、「人間不平等起源論」という論文です。それから、「社会契約論」、その副題は「政治法の諸原理」です。
前者の「人間不平等起源論」は1753年に書かれました。後者の「社会契約論」は1762年に書かれました。

最初に、手短に、「人間不平等起源論」をご紹介したいと思います。お配りした資料には「社会契約論」の引用が載っています。「人間不平等起源論」からの引用はお配りしていません。
さて、この論文も、前回ご紹介した「学問芸術論」と同じような切っ掛けで書かれました。思い出しましょう。ルソーがある雑誌、恐らく「ル・メルキュール誌」を読んで、ディジョンのアカデミーがある課題または質問または問題を対象に論文募集としている記載がありました。

今回の質問は次の通りです。
「人間同士の間に存在する不平等の起源はどこにあるのか、また自然法によって許される不平等なのか」

「学問芸術論」の時と同じような「ひらめき」がなかったでしょうが、少なくともその問いを見たルソーは興奮し、考え、その有名な論文を書き下ろしました。その結果、彼は優賞を取りました。
一言で言うと、その論文において、ルソーは「自然」と「人為」とを区別します。つまり「自然」と「社会」とを区別します。ルソーにとって、「社会」とは「自然ではないこと」です。それについてはまた後述します。
または、『告白』においてもルソーが表現しているように「自然による人」と「人間による人」という区別をします。前者は自然な人であって、後者は「社会によって再構築された人」という意味です。

要するに、その論文においてルソーは説明していますが、「自然の人」は根本的に「無罪(罪が無い)」です。または「幸せ」です。さらにいうと、道徳以前の状態にあるのが「自然の人」としますから、善悪がまだ存在しない状態で、すべてにおいて上手くいって幸せな人です。その「自然な人」は、原始的な「善」のままだ、と。どちらかというと、その「自然の人」は動物と全く変わらず、唯一動物と違う様相というと、「自然の人」は「自由」という能力を持っていることです。いいじゃないのですか。つまり、これが有名な「善き未開人」という神話です。

しかし、この論文に関してよく理解すべき点があります。それは、ルソーがその論文において「人類史」を書いているわけではないことです。つまり、「最初に、人間にとって絶対に幸せな時代があった、原初において人間が善であった」と言ったような「歴史」を述べているのではないのです。このように「起源論」を読んで理解したら、ルソーの思想を間違って理解することになります。

実際のところ、ルソー自身は、18世紀当時の自分が生きている社会、または彼自身の立場から経験している社会における「不平等」を説明しようとします。そこで「科学者の方法」という思考様式を使います。というのは、科学者のように、最初、ある「仮説」を措定して、その仮説に基づいて、議論を展開していき、「哲学的な」結論を出そうとします。その結果、「社会契約論」という著作は、それらの結論を纏めて発展してきた本だと言えます。

言い換えると、「善き未開人」という神話は、仮定に過ぎません。ルソーがその神話を仮定して、そこから出発して18世紀、当時の彼の目の前にある現象を説明するために、その仮定を活かして、展開して考えていきます。将に「科学方法」の採用です。ここで科学者のやることを考えましょう。
例えば、惑星の動きを取り上げましょう。これは歴史上、教会においても含めて多くの議論を招いた科学的な課題なので、好例でしょう。科学者は、「惑星の動き」という問題にどのように具体的に接するでしょうか。
まず「今、観察できる惑星の動きを説明する理由が何であるか」と自分に問います。惑星の動きをできるだけ観察して、それらをノートして、それらの動きを描いたりします。いろいろ測定して、「それらの動きの裏にある説明は一体なんであるか」と自分に問いかけます。大事なのは、その「説明(方式)」は、観察できないということです。科学者は現象だけを観察します。その裏にある、それらの現象を規定する「法則」を観察することは不可能です。

従って、その法則に近づくために、科学者は多くの仮説を立ててみます。そして、観察された現象を、それらの仮説で説明しようとします。次に措定された仮説がその現象を説明できるかどうかを確認します。そして、以前に収穫した多くの観察のすべてが説明できる仮説を発見した時に、「やった!正しい結論を発見した」となり、例えば「太陽系において、地球ではなく太陽が中心に位置している」といったような結論をだすのです。だから、科学者の間に、いつもいつも論争が起きます。

例えば「地動説」と「天動説」の論争の原因は科学上の方法論にあります。というのも、複数の仮説を立てても、当時、観察できた現象のすべてを説明し切った仮説が、同時に複数があり、論争が起きたからです。当時確認できた観察で、両方の仮説は、科学的に言うなら「正しい」ので、どちらか実際に正しいかを争う余地があったのです。

ルソーに戻ると、彼は「人間不平等起源論」において、次の仮説を立てます。ところが、その仮説をいつまでも「是」として、(それが本当なのかを検討していないのに)これはすべての現象を説明しつくすと主張します。
その仮説とは「自然の人は完全に罪が無い」です。つまり「善き未開人」を根拠づけるために、歴史を探って証明するのではなく、単に科学的な仮説、即ち「仮説的な根拠」に過ぎません。言い換えると、「善き未開人」というのは「説」に過ぎません。問題はその仮説を「公理」にして、その思想を展開していくことです。

さて、ルソーにとって、最初に何が起きたでしょうか。彼によれば、自然状態にあった人間が、外部からのある事情のせいで、ある時点で「原始的な無罪」を失ったと見ます。例えば、ルソーは災害を取り上げます。そのせいで、自然状態から「未開の状態」に落ちてしまったと見ます。未開の状態になると、人々はもうやむを得ず、ある程度の不平等の状態となった、そして、「一人が他人の物を横取りし」、そうした時点で、私有地の始った、と見ます。そこで、その私有地を維持するために力を使って、他人が本人より弱い限り、本人はその私有地が奪われなくても済んだ、と。従って、多くの不平等が生まれただけなく、それらの不平等が定着し、または所有権も定着してきた、そのせいで、人間同士の関係において不均衡・不安定性を生んだ、と。
これは、第二の状態であって、「未開人の状態」です。

ある意味で、以上の話はカトリックの教義の貧しい滑稽な模倣だと言えましょう。
カトリックの教義では、楽園でのアダムとイブの無辜(むこ)の状態があり、そして、原罪によってその堕落、そして、イエズス・キリストによる贖罪があります。
ただし、贖罪されたからといって、誰も確認できるように、最初の無辜の状態が取り戻されたわけではありません。それは兎も角、ルソーの理論においても、カトリック教義とある程度の類似性が見られます。無罪状態の喪失です。

つまり、無罪の状態とは「善き未開人」の神話です。そして、無罪の状態を喪失してかは、「未開人の状態」です。その段階では「善き未開人」ではなく、「悪き未開人」となります。つまり、所有権が発生して、喧嘩し、争い、不平等が発生したと。これらの単語はルソーが良く使っていて、彼の著作に散見しています。

それから、不平等という問題を解決するためには、自然状態(未開の状態)に戻ることは不可能だという前提がありますので、人間同士に「社会契約」を作るしかなかったとします。
ルソーによると、部分的でも人間を治し、未開の状態に戻すために、人間自身が人間同士である契約によって社会を「作り出した」とします。不平等と喧嘩ばかりで、また自然状態における多くの「権利(自由)」の喪失を意味する「未開の状態」を部分的にも治す役割が社会にあるはずだとしています。

御覧の通り、ルソーにとって、社会は自然的な事実であるのではなく、あくまでも「契約」による現象に過ぎません。つまり、彼にとって、たまたま発生して定着してきていた問題を解決するためにだけ、社会は「人造的に」人間によって作り出されたに過ぎないのです。言い換えると、ルソーによると、自然状態の人間は、つまり、人間は本性的に「独立している存在」です。
要するに、「人間不平等起源論」は結局「絶対自由主義」を賞賛する文章です。または、「個人主義」を絶賛する文章であることは一目明瞭です。

ルソーは数年後、「社会契約論」という著作において、以上の政治思想をより詳しく説明していきます。これから、「社会契約論」と抜本した引用に基づいて、ルソーの政治論をご紹介していきたいと思います。

それについて、デュゾー(Dusaulx)という人にルソーが発言したとされている有名なセリフを良く取り上げられます。これは本当に言い出したかどうかは不明のままですが、少なくとも面白い側面を示すセリフですから、読み上げさせていただきます。ルソーはDusaulxに次のように言った可能性があります。

「私の『社会契約論』に関していえば、それを完全に把握し理解していると自慢している人がいれば、私よりも頭がすぐれている。本来ならば、その本を書き直すべきですが、その力と時間の余裕がもはや尽きたので、よりようがない。」
自分の「社会契約論」についてルソーが言ったとされている評価です。

それは兎も角、1762年、「社会契約論」は出版されて、その数ヵ月後、次回にご紹介する「エミール―教育について」という著作も出版されました。しかし出版されたばかりの「社会契約論」はフランスとジュネーブにおいてすぐに禁書となります。ルソーはその本を書こうと思ったのは、昔からのことでした。少なくとも、大使館の書記官としてヴェネチアに滞在した時期からその本について思っていたのです。少なくとも、「政治制度」についての理論をその時期から書こうと思いました。そこで、『社会契約論』はその「政治制度」の哲学上の部分に当たると言えましょう。

実は、『社会契約論』を要約し、それを理解するのは、非常に簡単なことです。三つの言葉を覚えていただけたらそれで済みます。
「自由」と「平等」。ただし、三つ目の言葉は当たらないと思いますよ。博愛ではなく、「一般意志」です。まあ、もしかしたら「博愛」でもなんとかなるかもしれませんけどね。

「自由」「平等」「一般意志」
「社会契約論」は四編に分かれています。一編はそれぞれ、およそ10章からなっています。それぞれの章は3-4ページからなっていますので、読みやすくなっています。最長の章でも6ページを超えません。だから、やはり、20ページからなる章の本よりも、読みやく快いですね。

総計すると、四分に分けられ、全書は180ページだけで、48章です。
繰り返し繰り返し出てくる主な課題は「一般意志」です。この概念こそが、『社会契約論』を理解するための鍵であって、主要となる概念です。つまりこれこそが『社会契約論』のキーワードです。

「一般意志」は絶対に正しいし、間違えることは一切ないし、単一であるし、譲渡不可能だが、残念ながら、時々、一般意思が誤魔化されることがある、とされます。それは、完璧すぎる一般意思に当て嵌まらない現実を説明するためのルソーによるコツですね。
また「一般意志」は「個別意志」あるいは「個人の意志」に反しています。その上、後述しますが「中間共同体」にも反しています。言い換えると、『社会契約論』において、中世期の政治生活の批判が織り込まれます。

「社会契約」というのはある「逆説」より誕生します。
逆説の一点目は、「社会は自然的(本性的)なことではない」です。

二点目「しかしながら、社会は現実に不可避である。」言い換えると「本来ならば、そして人間が自分の本性に従うのならば、人間は社会において生活すべきではないし、生活しないはずだ」が、現実として「人間は社会において生活せざるを得ない」という逆説です。言い換えると、「人間は社会において生活するのは理不尽だ。なぜかというと、人間は本性的に非社会的な存在だから」と見ながらも、「現実において、どう見ても、社会において生活せざるを得ず、社会の外に生活することはできない」、これが『社会契約論』を生んだ逆説です。

お配りした最初の引用です。『社会契約論』の最初の文章です。
「人間は自由なものとしてうまれた」(1,1)これは、ルソーが見ている人間の本性の一つの要素です。「しかもいたるところで鎖につながれている。」言い換えると、現実にどこにいても、人間は奴隷だと言わんばかりだ。「自分が他人の主人であると思っているようでも、実はその人々以上に奴隷なのだ。」
つまり、ある人々は自分が他人を支配していると思っているかもしれないが、彼らも含めて、ある意味で奴隷だ、と。他にある主人の奴隷でもあるのだ、と。

「どうしてこの変化が生じたのか?私は知らない。何がそれを正当なものとしうるのか?私はこの問題は解き得ると信じる。」(1,1)

つまり、人間は一体なぜ社会において生きているのか。また、社会においての人間の生活の基盤はなんであるべきか、という問いをあげて、ルソーがその著作において答えてみようとします。

「もし、私が力しか、または、そこから出てくる結果しか考えに入れないとすれば、わたしは次のように言うだろう。ある人民が服従を強いられ、また服従している間は、それもよろしい。人民がクビキをふりほどくことができ、またそれをふりほどくことが早ければ早いほど、なおよろしい。なぜなら、そのとき人民は、〔支配者が〕人民の自由を奪ったその同じ権利によって、自分の自由を回復するのであって、人民は自由を取り戻す資格を与えられたからだ。しかし、社会秩序は他のすべての権利の基礎となる神聖な権利である。しかしながら、この権利は自然から由来するものではない。それはだから、約束に基づくものといえる。これらの約束がどんなものであるかを知ることが、問題なのだ。それを論ずる前に、わたしはいま述べたことをハッキリさせておかねばならない。」(1,1)


要するに、最初、ルソーが言っていることは次のとおりです。
「人民が服従を強いられ、また服従している間は、それもよろしい。」
つまり、人間が誰かに服従せざるを得ない時は、人間は相応しい状態にはいないということでます。なぜでしょうか。以前にもちょっと触れたことですが、それは、「人間が自由を失ったからだ」とルソーは言っています。人間の一番貴重な権利は自由だと。これは、『社会契約論』の最初の文章です。「人間は自由なものとしてうまれた。」『社会契約論』を考えるために、いつもこの文書を念頭に置いておきましょう。「人間は自由なものとしてうまれた」と。

言い換えると、ルソーによると、本性的に言うと、人間を特徴づけて人間を定義づけるのは「自由」です。何があっても、どうしても人間が自由のままに残るべきで、人間は自分の自由を維持すべきだ、と。しかし社会において生活せざるを得ない時点で、人間はもう通常な状態でなくなった、従って、「人民がクビキをふりほどくことができ、またそれをふりほどくことが早ければ早いほど、なおよろしい。」それは、「自分の自由を回復する」から「なおよろしい」ということです。しかしながら、それでも社会秩序が存在しているということもルソーは確認しています。

そういえば、ルソーはちょっと不思議なことを書いています。
「しかし、社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である。」
実を言うと、ルソーがここで言おうとするのは「人間が自由のままにいられる社会秩序は存在している」というようなことです。そして、この社会秩序の如何について、またどうやって設立できるかなどについてが、『社会契約論』の論じる課題です。
要するに、ルソーから見ると、人間の本性を尊重する唯一の社会形態は人間の自由を尊重し、その自由を維持させる社会です。言い換えると、人間がその社会に入っても、自分の自由を失わなくても済むような社会をルソーは理想にします。

それで、『社会契約論』においてのルソーの解くべき難題は次のことです。
「人間は社会的な存在でありながら、つまり服従せざるを得ない存在でありながら、同時にどうやって自由な存在でありえるだろうか、つまり服従しなくてもよいだろうか。」

『社会契約論』はこの矛盾こそを解こうとしています。簡潔にいうと、「人間はどうやって同時に服従しながら自由のままにいられるのか」という問題です。
お配りした資料の引用毎の最初の数字は、例えば(I,1)と言った表記があると思いますが、第一桁は何編目であるか(全・4編)、第二の桁は編の中の章を指します。総ての引用は『社会契約論』からです。

つぎに、ルソーは引き続きこう書きます。
「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。」(1・2)
それは興味深い文章です。「ただ一つ自然な」社会は家族だけです。ルソーによる市民社会、あるいは村・国家などは自然な社会ではないということですね。言い換えると、我々が生活している社会は自然ではないのです。「国家Civitas」すなわち「政治的な社会」は自然ではないと見ます。

では家族についてルソーが何を言っているかを見ていきましょう。
「あらゆる社会の中でもっとも古く、またただ一つ自然なものは家族という社会である。」
もしもルソーが現代に生きていたならば、確かに彼の世紀よりも現代の方が家族を否定することは簡単だったといえるでしょう。「科学進歩」の「お陰で」、父母を隠して、父母抜きに子供を一応「作れる」ようになったので、昔より家族を否定しやすくなったかもしれません。ルソーの時代だと、そういったような否定は考えられなかったし、思いつきそうになってもまったく現実的な話ではなかったので、ルソーは「家族」に対して絶対に否定できなかったのです。

ルソーでさえ「家族が自然なものである」と認めざるを得なかったのです。ルソーの時代にも現代にも、父母がない限り、これは変わらない事実で、家族無しには子どもは生まれません。まあ、現代は、「有能」な政治家たちのお陰で、家族を奪ったまま子供を「作れる」ことが合法的になっています。素晴らしいことではないでしょうか。
それはともかく、ルソーは「家族が自然な社会だ」と言います。それをどうしても認めざるを得ないからです、本当に認めたくないけれど。
「ところが、子どもたちが父親に結び付けられているのは、自分たちを保存するのに父を必要とする間だけである。この必要がなくなるや否や、この自然の結びつきは解ける。」(1.2)
言い換えると、ルソーによると、子どもが独立するようになる瞬間から、父母を失うのです。ルソーの言葉です。そうなると「自然の結びつき」は解けると断言します。結論は、「家族はもうない」ということです。

考えてみると、なかなか信じられない論調ですね。
「子どもたちは(…)再び独立するようになる。」
ルソーは、いつも同じことに帰するのですけど、彼の妄想は「自由」です。あるいは独立と言ってもわかりやすいかもしれません。
「もし、彼らが相変わらず結合しているとしても、それはもはや自然ではなく、意志に基づいてである。」
これは、言い換えると「ある時点になると、血縁でさえ自然なことでなくなって、意志に基づく縁に変わる」と言います。要約すると、その意味です。

「だから、家族そのものも約束(契約)によってのみ維持されている。」
要するに、幼い時に限ってだけ、子どもは自然に父母を愛しているのですが、その後は、独立したら契約に基づいて父母を愛するようになると主張します。皆様はそういったことを経験したのでしょうかね。やっぱりまったくないなあ。
「両者に共通のこの自由は、人間の本性の結果である。」

これです。ルソーの言っている主要な点です。つまり、人間の本性は根本的に自由なので、自由の故に、独立が伴うしかないということです。
「人間の(本性)の最初の掟は、自己保存を図ることであり、その第一の配慮は自分自身に対する配慮である。そして、人間は、理性の年齢に達するや否や、彼のみが自己保存に適当ないろいろな手段の判定者となるから、そのことによって自分自身の主人となる。」(1.2)
「子どもの権利」と言った発想は、そういった考えに由来しています。というのも、子どもが肉体的に成長したら、何を食べたら良いか、学校で何を習ったらよいか、子どもが自分ですべてを決める権利があるといったような帰結を伴う思想だからです。
以上御覧の通り、なかなか過激な主張です。というのも、ルソーは、しいていえば社会の「自然性」のすべてをトコトンに否定するからです。

「自由のために」として否定します。お配りした次の引用は、引き続き第一遍にあります。
「自分の自由を放棄すること、それは人間たる資格、人類の権利並びに義務をさえ放棄することである。」(1.4)

こういったような雰囲気な引用は数え切れないほど頗る多いのですが、やっぱりこういった発想が『社会契約論』の底流にありますので大事です。絶対自由主義です。そういえば、現代ではとかく「自由」としつこく言われていますが、それはルソーに由来するものに他なりません。現代までルソーの理想をどうしても実現しようとし続けてきました。しかし、ルソーの望んだ理想は現代でも全く実現していないと思いますが、それは驚くべきことでもなくて、ルソーに従ったらうまくいくわけがありません。結局、いわゆる「ルソーのせいだ」ということですね。まあ、「ヴォルテール」のせいでもありますが。

「自分の自由を放棄すること、それは人間たる資格、人類の権利並びに義務をさえ放棄することである。何人にせよ、すべてを放棄する人には、どんな報いも与えられない。こうした放棄は、人間の本性と相容れない。意志から自由を全く奪い去ることは、行いから道徳性を全く奪い去ることである。要するに、約束する時、一方に絶対の権威を与え、他方に無制限の服従を強いるのは、空虚な矛盾した約束なのだ。」(1.4)
要するに、自由に背くことだと言っています。

さて、ルソーは引き続き議論を展開します。まず、人間は本性的に自由であって独立しているとします。「自分は自分の主だ」と言います。それから、お配りした次の引用になりますが、それは「人間不平等起源論」に織り込まれた仮説を再び打ち出します。
「私はつぎのように想定する。人々が自然状態において生存することを妨げる諸々の障害が、人間の抵抗力によって各個人を自然状態に留まらせる力に打ち勝つにいたる点まで到達した、と。そのときに、この原始状態はもはや存続し得なくなる。そして人類は、もしも生存の仕方を変えなければ、亡びるであろう。」(1,6)

言い換えると、ルソーの仮説を踏むと、人間は自分の抵抗力より強いもろもろの障害に対して無力のままで、というのも、ルソーがその後に言うように「人間は新しい力を生み出すことはできない」からですが、人間は障害に対して勝てず、それらの力は人間を支配するかのように、障害が妨げとなって、「自由の状態」という本性から堕落しつつある、としています。
それでは、人間はどうするのでしょうか。

次に続くこの文書があります。
「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて、守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。」

簡単に要約すると、ある時点になって、人間は予想外の非常な難事に遭います。自分の自由が拘束されてしまうほどのような難事だとされています。それらの障害のせいで、自分の自由が妨げられるようになります。それでは、それらの障害に対してその状態を解決するためにどうすればよいのか。人間は他の人間の人々と一緒に結合・結社せざるを得なくなった、ただし、こういった結合・結成の目的は各構成員の自由を維持する、あるいは自由を取り戻すためにあるだけです。ルソーによると、こういったようなことこそが「社会契約」の起源です。「社会契約」の目的も明記にされています。それは自由のためにあると。これが、しつこく「自由」という概念を強調している所以です。ルソーによると、人類史のある時点になって、いや、仮説的、科学的にいうある時点になると、人間は自由を失いそうになったとします。その状況を受けて、自由を失わないように、自由を取り戻すために、他人と結合したのだ、と。

「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてそれによって各人が、すべての人々を結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、依然と同じように自由であること。」
これは興味深いでしょう。
「そうしてそれによって各人が、すべての人々を結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、依然と同じように自由であること。これこそ根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える。」(1.6)

よし、それでよろしいでしょう。「社会契約論」はこの引用で終わりです。その引用を読めば、この本のすべてを理解できたと思います。つまり、「社会契約」とは何であるかというと、「各構成員が自分の自由を取り戻す目的をもって、人々が結合することによって社会を設立する契約」ということです。
「自分の自由を取り戻す」とは、「自分自身にしか服従せず」ということです。

そこで、新しい逆説が現れるということがお気づきになったでしょうか。というのも「他人と結合しているのに、一体どうやって自分自身にしか服従しないということはあり得るだろうか」または、「どうやって他人と契約を結んでいるのに、自分の自由を維持することは可能だろうか」という矛盾があるからです。

お配りしていない引用だと思いますが、次の興味深い文章があります。
「要するに、各人は自己をすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない。」(1.6)
これは、以上の矛盾に対するルソーの解決です。考えてみると単純ですね。思いつくことさえできれば。
「要するに、各人は自己をすべての人に与えて、しかも誰にも自己を与えない。そして、自分が譲り渡すのと同じ権利を受け取らないような、如何なる構成員も存在しないのだから、人は失うすべてのものと同じ価値のものを手に入れ、また所有している者を保存するためのより多くの力を手に入れる。」(1.6)

それに従って、お配りした次の引用が続きます。より明白になると思います。
「だから、もし社会契約から、その本質的でないものを取り除くと(コメント・言い換えるとその本性に属しないものを取り除くという意味)、それは次の言葉に帰着することが分かるだろう。「我々の各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意思の最高の指導の下に置く」と。」

はじめて「一般意志」という表現が登場する個所です。この概念は、以上の逆説を、自由のために結社せざるを得ないという矛盾を解決する役割をもつのです。
「我々の各々は、身体とすべての力を共同のものとして、一般意思の最高の指導の下に置く。そして、我々は各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ。」(1.6)

続いて、次のように書いてあります。「この結合行為は、直ちに、各契約者の特殊な自己に代わって、一つの精神的で集合的な団体を作り出す。その団体は集会における投票者と同数の構成員からなる。それは、この同じ行為から、その統一、その共同の自我、その生命及びその意志を受け取る。このように、すべての人々の結合によって形成されるこの公的な人格は、かつては都市国家(シテ)という名前をもっていたが、いまでは共和国(république)または政治体(corps politique)という名前を持っている。それは、受動的には、構成員から国家と呼ばれ、能動的には主権者、同種のものと比べる時は国(puissance)とよばれる。」

ここで、ルソーは一体何が言いたいでしょうか。要するに、人間は自分の自由を取り戻すために、結社する、これが第一歩です。そして、結社しますが、次に、人間はどうするでしょうか。社会を作りますが、その社会を指導するのは個別の人ではなく、肉体の指導家ではなく、「集会全体」を「指導家」にします。というのも、皆が結社するのは、自分の自由を取り戻し、維持するためですから、結社する全員が、自分が自分を指導するのです。すると、自分を自分で指導することによってだけ、他人をも指導するような、いやむしろ、裏返すと、他人を指導することによって自分を自分で指導するために結社するのです。

要するに、社会契約において指導者たちはいないことになります。または、それぞれの意志の結社に過ぎないが、その上に、その意志は皆が共通していると。それは自由を維持しようとする意志が皆の構成員にあった同じ意志だと。すると、こういった結社は非常に強いので、その結社は新しい団体を作って、それは「社会」とルソーが名付けています。ただし、その新しい団体は、新しい意志を生み、その意志は皆共通し、いわゆる、同時に各々の構成員が持つべき意志であり、共同でも持たれている意志です。

ちょっとわかりづらいですが、イメージはわかりましたか。これはルソーの「一般意志」です。つまり、「構成員」からなる契約社会には、皆が共通して同じ基礎・基盤である「目的」を持っているのです。その目的は「自分の自由を維持する」ためです。で、その契約社会というのは、ちょっと大げさにいうと、各々の構成員が自分の自由を提供することによってある種の「超自由(一般意思)」を作り出すのです。そして、それほど「超」自由なので、団体が誕生すると、その団体には、ルソーの言葉を借りたらあたらしい「自我」とか新しい「意志」とか新しい「自由」を持つ新しい人格を作り出します。一言で言うと、それは「一般意志」を作り出す結社だとルソーが言っています。そして、こういった「一般意志」というのは、同時に各々個人の意志でもあるのだとされます。個人の意志と一緒でありながら、一般意志は、個別の意志にとどまらないとされます。感じとしてそういったイメージです。

例えてみたら、こういいましょう。一人の体のそれぞれの四肢にある「生命」は全体の「生命」とまったく一緒だというのと似ていて、個人の意志が「一般意志」と全く一緒だとされます。つまり、身体において流れてくる生命は身体の部分を問わず同じ生命でありながら、全体としての「私」を特徴づける、区別できる「生命」です。

ただし問題があります。こういった類似は一般意志に関しては、実を言うとあてはめることは不可能です。というのも、共同体を説明するために、物質的だけの身体に比較することは不可能だからです。なぜかというと、一人の身体のすべての部分はバラバラではなく、本当の意味で統一してはいるからです。身体は、本当に統一した生命において存在するからです。

その統一を特に強調しましょう。ルソーの言うことはこうです。人間は結社する、それは社会を作り出すと。そして、結社することに当たって誓約を交わすと。それが「社会契約」だと。そして、その新しい社会において、唯一の生命が流れてくる、それが「自由」という生命だ、と言います。しかし、この生命を見つけるためには「一般意志」を通じてでなければできないと。で、また後述しますが「一般意志」というのは、結局、「皆の表現・現れ・総意の表明」である、まさに、これはルソーによる、近代的な「民主主義」の定義に他ならないのです。

しかし、その定義に沿うと、多くの問題が出てきます。例えば、結社する人々は皆が共通している目的をもって結社するとされているので、皆が同意するとされています。それは「自分の自由を維持するため」という目的で結社されるとされています。しかしながら、後はどうするというでしょうか。

より簡単にわかりやすくするために例えてみましょう。それらの人々を一緒に融合させてある種の「生地」になったとしましょう。たとえば、20人が居て、社会契約を結んで、それらの20人をよく混ぜて一つのある種の「等質体の生地」となったと。「やったぞ、社会契約ができたぞ、一般意志ができたぞ」と言い出します。ただし、問題が残りますね。どれほど結社したって、どれほど「一般意志」という者の下に置いたって、社会の構成員はそれぞれ個人であって、どうしても個人として存続するのです。

どういえばいいでしょうか。例えば、混ぜ得る二つの液体があるとしましょう。その二つの液体を混ぜた結果、新しい「全体」が等質となっています。問題は、人間の場合、どれほど「混ぜた」といっても、どれほど結社させたとしても、どれほど最初の契約の基盤を皆が共通に持っていたとしても、それぞれの構成員はすべてにおいて意志が一致することは不可能だということです。それぞれの構成員はどうしても「個別」の人としてのこり、個別の側面を無くすことは不可能です。これこそがルソーがぶっつかる次の問題です。
「皆が一致して全員全体として自由である」と同時に「それぞれ各々の構成員は個人として自由でいられるようにする」というのは一体どうやってできるかという問題です。

そこで、その問題を解決するためは、ルソーはもう一度、「一般意志」を打ち出して、一般意志で解決しようとします。一般意志というのは、結局(民主主義的な)「皆の表現、現れ、総意の表明」だとされています。
ただ、問題があります。そもそも「全員皆が絶対に「自由になるため」というところに同意している」というところです。そういえば、現代はこういった状況になっています。どういう手段をもって自由になれば良いかに関して、もう皆がばらばらとなっています。大問題です。

そこで、どうすれば良いでしょうか。お配りした次の引用に移りましょう。
「従って、社会契約を空虚な法規としないために、この契約は、何人にせよ一般意志への服従を拒むものは、団体全体によってそれに服従するように強制されるという約束を、暗黙の内に含んでいる。そして、この約束だけが他の約束に効力を与えうるのである。このことは、〔市民〕は自由であるように強制される、ということ以外の如何なることをも意味していない。」(I,7)

なんて思いつきでしょうか。
「そうしたことこそ、各市民を祖国に引き渡すことによって、彼をすべての個人的従属から保護する条件であり、政治機関の装置と運動を生み出す条件であり、市民としての様々の約束を合法的な物とする唯一の条件であるからだ。」(I,7)
なかなかの提言ですね。さすがに。

次にお配りした第八章の引用でルソーが言っているように、なかなかの利点がでてきます。つまり、「市民状態」となった社会において、人間は、確かに自然状態において持っていた幾つかの要素(独立、絶対な自由など)を失わざるを得ないものの、別の新しい要素を得ることができるとされます。ある面、「自由であるように強制される」といったなかなかの逆説的な要件を認めさせるために、そういった「利点」を打ち出します。というのも、皆が結社した時、現代でうるさくなるほど「自由!自由!」と叫んで同意したとしても、同意した途端、終わらない喧嘩ばっかりが始まるのです。どうせ、自由と言っても、なぜ自由になりたいか、どうやって自由になりたいか、誰と一緒に自由になりたいか、それは誰も結局知らないから、めちゃくちゃになっていくしないのですから。
ルソーいわく、そういった問題を解決するのは簡単です。「一般意志」に従わない個人を強制すればよいと。どうせ、その個人は「自由は何であるかを分からないから」彼を強制してもよいという。

しかしながら、注意しましょう。ルソーにとって、「団体」を作り出す「結社なる社会」は同時に「共同体」であり、同時に「主権者」であるのです。これを理解すべきです。社会契約において、「一般意志」というのは、それぞれの個別の意志が一緒に決める意志なのだから、その一般意志の持主は「一人の人」ではなくて(まあ現実問題として、結局、ある代表者が指導者として指定されるようになりますが、それはともかく)、社会契約における主権者は人ではなく、全構成員の全体です。これこそは「純粋な民主主義」です。現代風に言うと、「絶対的な国民投票」のようものですが、結局、それができたとしても何もならないのです。

そういえば、面白いことに、ルソー自身が民主主義は何もならない、うまく行かないということを認識していました。その引用も手元にあると思いますが、要約すると、こういっています。
つまり、社会契約ということ、つまり一般意志が機能するために、非常小さい国である必要があるという条件を認めています。簡単に言うと、二人で結社した方が、三・四人で結社するよりも、同意しやすいという単純なことですね。たとえば、記憶が正しかったら、ポーランドを「32ヵ国に分国する」とルソーが提案したことは典型的でしょう。フランスを分国しようとおもったら、どういった提案をルソーがやったかは興味深いですけど。ともかく、その32ヵ国に分けるというのは、政治がうまくいくためだと。ところで、実際問題としての国制について、ルソーは「ポーランド」と「コルシカ」についてだけ言及し、これらを例にしました。面白いことに、コルシカについては「大騒ぎになるだろう」といったのですね。確かにそうなりました。彼の言った意味と違う意味で大騒ぎになったのですけど。

それはともかく、構成員が多ければ多いほど、喧嘩と不和が増えるので、できるだけ、国を小さくにしようと提案しますね。そうじゃないと喧嘩になるから。
繰り返しますが、なぜか問題になるか、「主権者は決定する時こそ、共同体そのものだ」とされているからです。しかしながら、同時に、決定されたことに従うのも「共同体そのものだ」ともされています。今回は「自分のために自分が決定したことに従う」としての共同体。ようするに、主権者は集まった共同体であって、その社会自体が決定すると同時に、その決定に従う同じ共同体でもある、と。これは純粋な民主主義です。「自分が自分のためにきめる、主権者即臣民」。契約社会においてなら、「自分らが自分らのために決める」ですね。

次に、以上のような社会に属するに当たって、一体どういった利点があるでしょうか。次の引用です。
「この状態において、彼は、自然から受けていた多くの利益を失うけれど、その代わりに極めて大きいな利益をうけとるのであり(…)もし、この新しい状態の悪用が、彼を、抜け出てきた元の状態以下に堕落させるようなことがあまりなければ、元の状態から彼を永遠に引き離して、バカで劣等な動物から、知性あるもの、つまり人間たらしめたこの幸福の瞬間を。絶えず祝福するにちがいない。」(I,8)

次の引用に移ります。
「この賃貸勘定の全体を、たやすく比較できる言葉に要約してみよう。社会契約によって人間が失うもの、それはかれの自然的自由と、彼の気をひき、しかも彼が手に入れることのできる一切についての無制限の権利であり、人間が獲得するもの、これは市民的自由(これはつまり平等です。いわゆる〈すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、権利と尊厳について平等である。〉)と、彼の持っているもの一切についての所有権である。」(I,8)

御覧の通り、この所有権は「一般意志」によってこそ制限されています。というのは、一般意志によって制限されるというのは、自由をもって意志的に制限するという理屈で、各々の構成員の自由が保護されるとされているからです。サルトルもいったように「他人の自由の始まるところで我が自由は終わる」のです。要するに、自然的な自由である絶対なる自由を失う代わりに、所有権を得た上で、ある程度の自由を維持しながら、他人の自由を保護することに貢献すると言いたいのです。


「この埋め合わせについて、間違った判断を下らぬためには、個々人の力以外に制限を持たぬ自然的自由を、一般意志によって制約されている市民〔社会〕的自由から、はっきり区別することが必要だ。さらに、最初に取ったもの権利〔先占権〕或いは暴力の結果に他ならぬ占有を、法律上の権原なくしては、成り立ちえない所有権から、ハッキリ区別することが必要だ。」(I,8)

「わたしは、すべての社会組織の基礎として役立つに違いないことを一言して、本章及び本編をおわろう。それは、この基本契約は、自然平等を破壊するのではなくて、逆に、自然的人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上及び法律上の平等を置き換えること、また、人間は体力や、精神について不平等でありうるが、約束によって、また権利によってすべて平等になるということである。」(I,9)

この文章は非常に面白いです。というのも、この文章こそは、我々が毎日経験している現代社会の原理とその基礎をなすからです。まさに絶対な平等です。肉体的な違いを無視するのです。何でもいいですけど、年齢の差とか、民族とか、身長とか、性別等々。そういった平等は自然によって与えられたと言っていますね。そして、「社会のお陰でこういった自然な平等を消せる」と言います。消すというか、「無視する」ということで、そういった不平等に関してもう何もやらない、話さない、世話しないとした上で、別にある人造的な平等を設立しようとするのです。

それが、市民的な平等であって、「道徳上の平等」で、「社会上の平等」です。社会契約はこの平等を設立しようとします。だからこそ、〈すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、権利と尊厳について平等である〉とされています。その契約によってだけ、そうなっています。

たとえば、現代に話題となっている「子どもの権利」とか、これから、こういった「権利」が発展していくでしょう。また同じく、どんどん「男女平等」ということで、男女を同じものにさせようとする政策もそこから来ます。「権利の平等」、その結果、無数の「差別」が現れます。「差別」という言葉を言い出した時点で、実際はどうであっても差別で告訴したら勝つのです。また、結婚に至って結婚において平等を入れるということで、それに反対したら、いわゆる「同性愛に対する差別だ」と罵倒されるような。

要するに、ルソーの「社会」は、法律上の平等を与えます。例えば、同性愛で結婚するのも「権利」だと言われるようになります。また同じく、何でもいいですけど、「○○権利」を要求してもよいようになります。後は手短にせざるを得ず、後述しますが、以上のような発想に従うと多くの問題が出てきます。

アメリカのマーチフォーライフ2020―トランプ大統領がマーチ・フォー・ライフで直接演説する歴代初めての大統領に

2020年01月28日 | マーチフォーライフ
2020年1月24日に、ワシントンで47回目となるマーチフォーライフが行われました!
Time-lapse video shows massive turnout for 2020 March for Life



トランプ大統領がマーチ・フォー・ライフで直接演説する歴代初めての大統領に

President Trump March for Life 2020 full speech


ドナルド・トランプNEWS の2020年1月24日の投稿より
https://www.trumpnewsjapan.info/2020/01/24/trump-march-for-life/

<引用元:デイリー・コーラー 2020.1.22>
ドナルド・トランプ大統領は24日、ワシントンで行われる「マーチ・フォー・ライフ(March for Life:いのちの行進)」に参加する予定であり、米国大統領が参加するのは初のこととなる。

大統領はロー対ウェイド判決記念日に続いて行われる「プロライフ(中絶反対派)」デモの、第47回マーチ・フォー・ライフで演説すると、マーチ・フォー・ライフのジーン・マンチーニ会長が22日夜発表した。

発表の前日、大統領は1月22日のロー対ウェイド判決記念日を「人間の命の尊厳の日」として宣言していた。

「第47回マーチ・フォー・ライフにトランプ大統領を迎えられるのは非常に光栄なことだ。歴史上初めて参加する大統領となるが、我々の行進が命と胎児に関してどれほど情熱を持っているかを大統領がじかに体験されることに、非常に胸の高鳴る思いだ」とマンチーニは述べた。

See you on Friday…Big Crowd! https://t.co/MFyWLG4HFZ
— Donald J. Trump (@realDonaldTrump) January 22, 2020


マーチ・フォー・ライフの会長は大統領が中絶に対する税金による補助をカットし、後期中絶の廃止を呼びかけていることだけでなく、プロライフの裁判官を任命したことを称賛した。

「トランプ大統領と同政権は一貫して命の擁護者であり、マーチ・フォー・ライフに対する支持は揺るぎないものだった。我々はこうしたプロライフの成果全てに感謝しており、将来も命のためにより多くの勝利が得られることを心待ちにしている」とマンチーニは語った。

トランプがマーチ・フォー・ライフに直接参加する初めての大統領となることは、「いのちの尊厳を守ることに対する献身の証し」である、とトランプ陣営のサラ・マシューズ副報道官はデイリー・コーラー・ニュース・ファウンデーションに語った。

「全く対照的に、2020年大統領選の民主党候補者は、事実上生まれる瞬間までの中絶を含めて極端な中絶政策を採用し続けている。トランプ大統領が間違いなく米国の歴史上で最もプロライフな大統領であると言えるだろう」と彼女は続けた。
<引用終わり>

「望徳」―対神徳 望徳を持つことなしに天国に入ることは不可能 【公教要理】第八十三講

2020年01月26日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十三講 望徳

 

信徳の次に、望徳という第二の対神徳について見てゆきましょう。
望徳がなぜ第二の対神徳であるかというと、第一の対神徳である信徳の結果だからです。天主のおかげで、信徳によって私たちの知性はある程度まで完成されます。そして、信徳によって、私たちが人間の知性を超える諸真理を知ることが可能になります。つまり、天主は人々への啓示を通じてご自分を示し給うのです。信徳によって、私たちはそれらの諸真理を知り、積極的に肯定することによって、啓示された諸真理に同意します。啓示された諸真理はこの上なく美しく崇高です。天主についての諸真理であるからです。限りなく完璧なる天主についての諸真理だからです。

そして、啓示された諸真理が限りなく崇高で荘厳であるゆえに、人間が信徳によって諸真理を黙想することによって、心にもう一つの動きが必ず起こってくるようになります。つまり私たちは、黙想する諸真理を手に入れ、完全に享受したいという渇望を必ず持つようになるのです。それは単純なことです。素晴らしい宝を見ることができるようになると、その宝を手に入れて享受したくなるのは自然なことです。

子供が、「これがほしい」と言う気持ちと同類です。それに近いかもしれません。善き天主は啓示を通じて、ご自分自身の内面を示し、ご自分自身の至上なる豊かさを示し給うのです。ですから、私たちは聖なる三位一体の玄義を黙想すると、必ずその玄義を享受し、その玄義を手に入れたくなるのです。
そして、素晴らしいことに、善き天主は、「この玄義を与えることを約束する」という誓いを、私たちに与え給うたのです。そのため、私たちは望徳という対神徳を持つのです。

当然ながら、望徳は私たち自身から湧きでるのではありません。望徳は、天主が直接私たちに与え給うものです。望徳が私たち自身から湧きでることはないのは、それが私たちを超える諸真理を対象にしているからです。また、望徳は私たち人間を超える宝を対象にしているからです。

このように、望徳は私たちの本性を超えるものを対象としているので、天主が私たちに与え給う意志の能力が必要です。私たちはその能力によって、天主が私たちに約束し給うた永遠の命を欲することができるように、そして望むことができるようになります。これが第二の対神徳である望徳です。

望徳は超自然の徳であり、望徳によって、天主が御約束をなさったゆえに、また約束を違(たが)えることがないゆえに、私たちは揺るぎない確信をもって、永遠の命と永遠の命を得るための手段を望み求めることが可能になります 。[注1] 望徳唱。「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」

望徳には、信徳と三つの共通点があります。
私たちの意志となる望徳は、「超自然の宝を享受する渇望」という望みです。つまり、まだ得ていない宝である永遠の命への渇望、遠くから垣間見える永遠の命への渇望、天主によって約束された永遠の命への渇望、そして、永遠の命を手に入れるための手段への渇望です。
永遠の命と永遠の命を得るための手段とは、望徳の対象と呼ばれます。私たちの意志の前に、永遠の命と永遠の命を得るための手段という対象が示されているのです。つまり、望徳という習慣の備わっている意志は、示されている対象(永遠の命と永遠の命を得るための手段)を望む、ということです。

しかし、信徳の場合と同じように、それらを渇望する根拠が必要です。つまり、なぜそういった宝を私たちの意志が望むことができるのでしょうか。その根拠はどこにあるのでしょうか。これらの宝は私たち人間を遥かに超えるものですから、「望みなさい」といわれても、「でも、私には望むことができない。その能力がない。よくわからないし、およそ私の力を超える永遠の命なので、望むことができない。それが美しい考えだと認めるが、私はそれに値しないだろう」と私たちは考えてしまうかもしれません。

しかし、望徳によってそれが可能になるのです。では、どういった根拠から、私たちが望徳を持つことが可能になるのでしょうか。それは「天主の御約束」のゆえです。つまり、全能なる天主が私たちを支えてくださるという事実こそが、望徳の根拠です。

信徳のことを思い出してみましょう。信徳の場合、真理を啓示し給い、真理の源である天主という根拠があるからこそ、私たちは知性をもち真理なる天主に頼れるため、諸真理を知りうること、そしてそれが真の真理であることを確信することができるのです。望徳の場合も同じです。本来ならば、私たちを超える御宝ですから、それを望むことは人間の本性の意志だけではできないはずですが、望徳によってそれができるようになります。

つまり、天主は約束を違えることがないうえに、天主が私たちに永遠の命を与える御約束をし給うたゆえに、私たちは永遠の命を望むことができるのです。さらに言うと、天主が全能であるということも、またその根拠のひとつです。天主は全能ですから、天主が、本来ならば人間が享受できないはずの至福であるにもかかわらず、お恵みや聖寵によって我々の本性を超自然の次元へまで高め、超自然なるそれらの御宝を得ることを可能としてくださることがおできになるからです。

要するに、望徳の本質的な根拠は、天主の全能にあるのです。全能なる天主が永遠の命を得るための手段を私たちにお与えくださり、お助けくださるがゆえに、私たちは望むことについてのゆるぎない確信を持つことができるのです。天主は私たち人間に永遠の命をお約束くださっただけでなく、永遠の命を得るための手段をもお約束くださり、またそれを助けることをもお約束くださったからこそ、それを根拠として、私たちは望徳という意志を習慣として持つことができるのです。

したがって、私たちの意志においては、望徳という対神徳は非常に安定的な、非常に強い習慣となります。言い換えると、天主の父性への信頼こそが望徳の根拠だといえましょう。たとえば、子供は父親の頬に接吻したいとき、子供はなぜそれが可能だと確信しているのでしょうか。それは、父が自分を抱っこしてくれ、顔のところまで持ち上げてくれるから接吻できることを子供が知っているからです。



同じように、人を遥かに限りなく超える神秘であるにもかかわらず、天国に入ることが可能であることを、一体なぜキリスト教徒は確信できるのでしょうか。それは、父なる天主がキリスト教徒を持ち上げ、天国に入るための手段を与えてくださることを知っているからです。ですから、天国に入ることを望むことさえすれば、本当に入ることができるのです。これが望徳の根拠です。

ですから、望徳の根拠は天主の全能にあるのです。そして、天主は私たちに手段を与えることをお誓いになったのです。また、天主はご自身が全能であることを示すため、多くのしるしを与えてそれを証明してくださいました。例えば、奇跡です。「『人の子が地上で罪を赦す力を持っていることを知らせるために.... 』と言って、中風の人に向かい、『起きて、床をとって家に帰れ』といわれた。」[注2] マテオ、9、6



このように、体の病気の治療という奇跡を行うことによって、イエズス・キリストは体の回復よりも大きな「霊的、内面的な治療、復活」をも行える力があると知らせてくださいます。つまり「罪を赦す力」を持ち、聖寵を与え給うのです。
ですから、望徳の本質的な根拠は、私たちを助け給う全能なる天主にあります。
~~
救霊を得るためには、望徳が必要です。望徳を持つことなしに天国に入ることは不可能です。

なぜでしょうか?それは単純なことです。つまり望まない宝をどうやって得ることができるでしょうか。望まないのなら、人はその宝へは向かいません。望みというのは心の動きであると同時に、望徳の湧いてくる動きであり、その動きのおかげで、「我」を忘れることができ、御宝へ向かう力が湧いてきます。子供を見るとわかりやすいかと思います。自然の次元の希望ですが、子供の希望はそのようなものです。子供に何かの物事が約束されたとしましょう。その場合、子供は約束された玩具のようなものへの渇望がいつもいつも湧いてきて、その希望が力のもととなります。父親が約束してくれたから、父親がそれを与えてくれるということを確信していると同時に、実際にそれを与えてもらえるように、いい子にするという努力をします。

善き天主の場合もこれと似ています。望徳は、心の中に湧いてくる力のもとです。天主を信頼しているゆえに、「永遠の命を与えてくださることは間違いないことだ。それを知っているからうれしい。それを約束してくださったから、できるだけ早く永遠の命を得たい。どうしても得たい。」というような心の動きです。望徳のゆえに、天主への信頼と確信が私たちの心の中に生まれます。約束を違えない天主のゆえに、そして天主の約束のゆえに湧く確信と信頼です。また、天主は嘘をつかれないからでもあります。子供の場合も同じです。「お父さんが約束してくれたから、いつか必ずもらえるからうれしい」、と素直に知っているからです。幼い子供は父親の約束を疑うことは一切ありませんし、疑問に思うこともありません。

親子という関係は自然にそうなっているのですから、人と違って罪を犯すことのない天主の約束を、一体どうして疑うことができるでしょうか。
加えて、望みがあります。渇望もあります。ですから、私たちの望みは、全能なる天主への信頼、渇望、御助けへの期待に基づいているのです。
以上、美しい望徳についてお話ししました。

他方、残念ながら、望徳に対して罪を犯すことがあります。望むべきであるのに、希望を捨てる過失を犯してしまうことです。そのために、望徳を失うことがあります。ところが、望徳を失う人は、自分の目的である最高の善との繋がりを失います。望徳を失うということは、最高の御宝への希望を失うことを意味します。つまり、天国に入りたい渇望を失うことです。そして、天国への渇望を失うというのは、あえていえば、天国へ向かう力のもと、また天国へ向かおうとしている力を失うことです。したがって、望徳を失う人が天国に入れないのは当然のことです。
~~
では具体的に、人は望徳をどのように失うのでしょうか。主に二つの場合があります。

第一には、絶望に陥って、望徳を失う場合です。これは悲惨なことです。つまり、「私たちを救うには、私たちを天国に連れていくためには、天主の力が足りない」と間違って思い込むときです。典型的な事例は使徒ユダです。絶望に陥った挙句に自殺したユダです。

思い出してみましょう。ユダは、私たちの主、自分の主を裏切ります。裏切ったかわりに金をもらうのですが、良心が自分を責めます。「裏切って悪かった」と。それは確かに大罪でした。裏切ったのは真の天主であるイエズス・キリストでしたから、直接、天主に対する重大な罪を犯しました。そこでユダは、「私は罪なき者の血を売って罪を犯した」[注3] と言います。つまり、ユダは自分の罪を認めます。自分の罪を認めるのは赦しへの第一歩ですですから、そこまでは良いことでした。
[注3] マテオ、27、4

次に、ユダは貰った金をファリサイ派の人々へ返そうとします。その金を手放したいからです。ユダは神殿の中へ金を投げ入れます。そして、ユダは次に何をするでしょうか。残念ながら、彼は絶望するという罪を犯します。要するに、約三年間ずっとイエズス・キリストのすぐ傍にいたユダなのに、つまりイエズス・キリストの深い慈愛と憐みに長く接触していたユダなのに、また、イエズス・キリストの全能を何度も目撃したユダなのに、つまりイエズス・キリストに頼んでみることさえしたら無償でなんでも与えてくださることを知っていたユダなのに、イエズス・キリストのもとへは戻りませんでした。イエズス・キリストのもとに、罪の赦しを求めに行くことはしなかったのです。


罪の赦しを得て、天国に入る望徳を簡単に得ることができたにもかかわらず、ユダはあえて戻りませんでした。ユダは「私の犯した罪は重大すぎるから、赦せない罪だ」と思い込んでしまいました。つまり、ユダは天主の全能を否定したのです。「天主は赦すことができない」と決めつけて、絶望に陥いるという罪を犯しました。

突き詰めて言えば、絶望の奥には傲慢の罪です。「私は罪深過ぎる者だから、この罪深い者を天主が助けてくださるわけがない」と考える傲慢です。
そう考えてはなりません。当然ながら、我々は間違いなく罪人であって、天主の救いを得るに値しない存在です。しかし、天主は私たちを救うことを約束してくださったのです。
このように、ユダは絶望という罪を犯しました。「天主は私を救うことはできない。それは全く不可能である。」と信じた絶望という大罪です。
以上、望徳を失わせる絶望という罪についてお話ししました。

また第二に、絶望との反対の罪もあります。それは、過剰に希望することによって望徳を失うことです。
つまり、天主のお助けゆえに救いを得ることになるということを忘れて、「自分の力だけで救いを得られる」と間違って思い込む罪です。

これが全くの幻想であることは自明でしょう。そもそも私たちを超える宝、つまり私たちの手が届かない宝を自分の力で、自分の手で得ることが、いったいどうして可能だと思えるのでしょうか。それは無理です。不可能です。これは「傲慢の罪」と呼ばれます。つまり、「不可能だが、私ならできる」と思い込む傲慢です。それは間違っています。私たちは天主の御力によってのみ、天国に入ることができます。「傲慢の罪」も重大な罪です。傲慢は大きな罪ですから。つまりそれは、天主の全能なしに、その全能に頼ることなしに、自分の力でできると思い込む大罪です。

これは異端と似ています。それは、自分の好き嫌いで勝手に都合のよい真理を選ぶ異端者と似ているからです。「啓示されたゆえに」という部分を否定して、それらの真理を「自分の意見」に帰してしまう異端者と同じです。その意味で、「傲慢の罪」は「自然主義(本性主義)」という誤謬の一種にすぎません。なぜかというと、「超自然なる天主の全能によって天国に入ることができる」という事実を否定して、「人間の本性(自然)の力だけで天国に入れる」という誤謬です。それは自然主義の一種です。そもそも次元が異なる自然と超自然の二つを、つまり、そもそもまったく比べることもできず、対等でもなく、不釣り合いである自然と超自然とを同じもののように扱う誤謬です。それは幻想にすぎません。また観念主義でもあります。自分の力で、そもそも人間の力で得られない天主を得ることは可能だと思い込むことは幻想そのものですから、傲慢の大罪です。

望徳を養うためには、信徳の場合と同じように、希望するという行為を頻繁に繰り返す必要があります。
信徳唱。「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて(イエズス・キリストはまさにそのために十字架上に死に給うたのです)、その約束の如く、われに終わりなき命(これが目的の宝です)と、これを得べき聖寵(これが手段です)とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」

以上、望徳という対神徳についてお話ししました。
まさに絶望的に見える状況にある時にこそ、何もできず、すべてがだめになっている時にこそ、すべてが暗く、光がなく、闇に捨てられた存在に見える時にこそ、いつもよりも、より強い望徳をもって望まなくてはなりません。 「望みなきにもなお望みを捨てず信じた」[注4] と、 聖パウロが言う通りです。それは、人間の目から、人間の立場から見ると、どうしても絶望的な状況だと思わざるを得ない時にこそ、とりわけ全宇宙の主である善き天主に頼り、信頼して、希望すべきだということです。
[注4] ローマ人への手紙、4、18


「信徳」―対神徳 【公教要理】第八十二講

2020年01月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十二講 信徳

 

前回の講話で「習慣」とは何であるかをご紹介しました。
「習慣」とは安定的な状態であり、私たちの行為あるいは本性をある方向へ実践するように決定させ、傾かせます。善へ傾かせる習慣を善徳といい、悪へ傾かせる習慣は悪徳といいます。
これから数回にわたって、キリスト教的な生活にとって一番大事な習慣をご紹介していきたいと思います。

最初は対神徳という徳について説明してみましょう。天主を対象にしている善徳なので対神徳と呼ばれ、これによって信徒は天主と直接につながることができます。
超自然の徳である対神徳には三つあります。天主より賜る徳で、信徳、望徳、愛徳という三つです。

信徳という対神徳からご紹介しましょう。
信徳とは何なのでしょうか?信徳とは超自然の徳であり、信徳によって、天主が誤ることのない御方であるゆえに、公教会を通じて我々に啓示してくださる真理を断固として信じるように助けます 。
以上の定義を考察して、いくつかの点を指摘しましょう。

まず、信徳は対神徳であり、信徳は人間本性に備わる知性にくっつくかのような超自然(本性を超える)の徳です。本質的に私たちの知性は真理へ向かっています。どうしても真理を目的にしています。「知りたい」とは「真理が知りたい」という意味です。
「知る」というのは、本質的に「真理を知る」ということです。ところが、人間の知性を超える真理もあります。知性を超えるとは、これらの真理は自然(本性)次元の真理ではないという意味です。言い換えると、我々人間の知性に把握しきれない真理もあるということです。私たちの本性を超える超自然の真理もあるということです。

実に、私たちの人間の知性を超える真理、人間の知性によって把握しきれない真理があります。人間の知性は本性上、限られています。その結果、人間の知性は超自然の真理を自らでは知ることが不可能です。本当に知ろうとしても。

天主は超自然の真理を人々に啓示することにされました。それとともに、超自然の真理を知ることを可能にする能力をも与え給うたのです。それが信徳です。人間の知性を超える真理を「信じる」ように助ける「超自然の習慣」のおかげで、それらの超自然の真理を知ることができるようになります。

より分かりやすくするために、ちょっと例えてみましょう。ペットを飼っているとしましょう。そして、飼い主である私はペットと話し合いをしたいとしましょう。問題はペットには話す能力、話し合う知性はありません。想像してみましょう。私たち飼い主がペットの知性に何かを加えてあげることによって、ペットが動物次元の真理だけではなく、私たち人間の真理をも知ることを可能にする能力が与えられたとしましょう。その能力をペットの知性に入れると、ペットが人間と話し合える能力を与えられ、話し合うような傾向をもつような能力があるとしましょう。これが可能だったら、天主が人間に対してなさることと近いといえます。

つまり、人間は人間を超える真理を知ることはできません。それで、天主は霊魂に属する知性において、安定的な能力を入れます。「信徳」と呼ばれる習慣です。信徳によって、「信じる行為」を実践することが可能となります。「信じる行為」というのは、超自然の真理を知る行為という意味です。
超自然の信徳は以上のようなものです。

要約すると、信徳とは、天主が人間の知性に入れ給う超自然の真理を知ることを可能にする安定的な能力です。
信徳の対象は、言い換えると、信徳によって知れることは、天主が啓示なさった真理です。本来ならば、人間の本性だけでは把握できない、手の届かない真理を「啓示」されるからです。「啓示」という言葉は天主が「啓(ひら)いて示す」という意味ですが、またフランス語の語源では「覆いを外す」という意味です。啓示こそ、信徳の対象です。
~~


では、一体なぜ、それらの真理が本当に真理であるかということが分かるのでしょうか。これは非常に大事な点です。

思い出しましょう。信じるとは、我々の知性が真理を肯定して積極的に同意するということです。ですから、理性によって肯定する根拠がなければなりません。つまり、超自然の真理を知る「能力」が天主によって与えられるのが第一歩です。そして、啓示によって、知性の能力の前に真理を提供するのが第二歩です。
しかしながら、「信じる行為」を実践するためにはそれだけでは足りず、知性が意志を持って行為を行う(実践する)必要があります。つまり、真理を知るという能力が与えられ、提供された真理に「同意する」あるいは「従う」行為を実践して初めて「信じる」という行為が成り立つのです。

知性が啓示された真理に同意する根拠は何でしょうか。一体なぜ知性は啓示されたことが真理であるとを分かるのでしょうか?一体なぜ知性は「本当に真理だ」と言い切れるのでしょうか?あえて言えば、一体なぜ、超自然の真理に同意するとき、間違えることは不可能だと確信しているでしょうか?我々の信仰は、真理を対象にして、安定的でありうる根拠は何でしょうか?

その根拠は、啓示なさる御者が「天主」だからです。誤ることが不可能である天主、また私たちを騙すことが不可能である天主が啓示なさるから信じうるのです。
真理なる天主によって啓示されているから、信仰の対象となる啓示される諸真理を保証されて、私たち人間は信じうるのです。
信仰、つまり「信じる」という行為は、啓示なさる御者への信頼を前提にしている行為です。提供される対象が真理であると信じうる根拠は、啓示なさる天主が真理の源であるからです。

子供は自分の母を信じます。子供は自然に母に対して完全な信頼があります。母はどんどん教え、子供は素直にそれを信じます。そういえば、私たち大人の知っている多くのことも結局、親や先生の方々を信頼したおかげでこそ知っているにすぎません。その信頼がなければ、そもそも教わることは不可能です。

超自然の信頼である「信仰」においてもこれと同じです。天主は真理の源であるから、それを根拠に天主への信頼を前提に、誤りのない天主、それから人々を騙すこともできない天主が啓示される諸真理を信徳の助けを得て信じるのです。
言い換えると、私たちの信仰の本質は「天主が啓示なさるすべての真理を知る」のではありません。そうではなく、キリスト教における信仰の本質は「信仰の根拠そのもの」にあります。つまり、「天主が啓示なさったゆえに」という根拠こそが大事です。

ですから、皆様には見えてきたかもしれません。信仰にかかわる真理を一つだけでも否定してしまったら、完全に信仰を失うことになります。すべての真理を失うことになります。つまり、超自然の真理を一つでさえ否定してしまうと、信徳という習慣を失います。
一体なぜでしょうか?超自然の真理の一つでも否定してしまうというのは、天主の権威を否定するに他ならないからです。一つの真理を否定するだけでも、それはつまり、天主の啓示の一部を否定することで、つまり天主の権威を完全に否定するということです。
(啓示なされたたった一つの真理であっても、これが真理ではないとすると、誤りのない、人々を騙すことのない天主が真理の源であることを否定することになるからです。)

その結果、信徳を失い、信仰をも失うのです。なぜかというと、信仰の根拠である天主の権威を否定するからです。つまり、真理の源である天主の啓示ゆえに信じることはできなくなり、諸真理のうちのいくつかを個人が「選ぶ」ことになってしまいます。もう信徳でなくなります。対神徳としての信徳でなくなります。真理の中の何を信じるかを選び出したら人間的な「信仰」に過ぎなくなります。言い換えると、個人的な意見に過ぎなくなります。好き勝手に何か真理であるかを「私がそう思うから、そう信じるといい気持ちから真理だとする」のような安っぽい意見に過ぎなくなります。

裏を返せば、信徳がなぜ単一であるかがわかってきます。信徳の根拠である「啓示なさる天主」によって、信仰は単一であって、分裂不可です。以上、信徳をご紹介しました。美しい徳でしょう。
繰り返すと、信徳は超自然の徳であり、誤りのない天主、真理の源である天主、人々を騙すことができない天主が啓示なさったことを根拠に、諸真理を信徳という習慣の助けを得て「信じる」行為(知性による行為で、真理を肯定し、積極的に同意する行為)を実践させるものです。
~~

さらに、善き天主は信徳の効果を助けるために、信じることを容易にするために、啓示なさったことに関して、啓示の信憑性の根拠を多く与えてくださいます。もちろん、厳密に言うとこれらの根拠のおかげで、啓示された真理に同意するのではないのです。啓示された諸真理に同意することを促す根本的で厳格な根拠は「真理の源である天主」です。天主こそが私たちの信仰の根拠です。
しかしながら、さらに、おまけという形で、啓示の上に、啓示を信じるために、啓示の信憑性の多くの根拠をも与え給ったのです。
例えば、奇跡といった印はそういった根拠の一つです。

また、旧約聖書のすべての予言をイエズス・キリストが成就したのもその一つの根拠です。また、公教会における聖徳の事例もそうです。殉教者をはじめ、諸聖人の模範と人生もそうです。信仰のためにした殉教者たちの証言は大きな根拠です。また、公教会が世界中に広まった事実もそうです。また、数千年にわたって、公教会がそのまま継続し続けていることも信憑性の根拠です。また、公教会が文明や国々の繁栄を齎(もたら)したという多くの史実もそうです。これらは、啓示の信憑性を裏付けるいくつかの根拠です。

そう言った根拠だけから信ずるのではないのですが、それらの根拠のおかげで、「やっぱりどう見てもどうしてもそこに何か神秘があるぞ、神聖なものがあるぞ」と気づかせてくれ、啓示を指し示し、天主による働き(つまり啓示)があるということを気づかせてくれます。
信憑性を支える諸根拠は、手の指のように、啓示された真理の方へ我々の視線を指し示す役割があります。「天主が啓示なさったがゆえに信じるべきだぞ」と勧めて促して、指し示すのです。
~~

霊魂の救いを得るために、信徳が必要です。霊的な生活の基礎は信徳にあるからです。「信じない人は救われない」のです。私たちの主は仰せになりました。「信じて洗礼を受けるものは救われ、信じない者は滅ぼされる。」 信仰は、永遠の命への根本的な基礎です。

大人の求道者は、あるいは幼子の場合は代父代母は、教会で洗礼を授かる時、司祭からこのように問われます。
「あなたは天主の教会になにを求めますか?」
求道者あるいは代父代母は「信仰を求めます」と答えます。

受洗者が第一に求めるのは「信仰」です。
それから、司祭は続けます。
「信仰はあなたになにを与えますか」と。
この問いには「永遠の生命を与えます。」と答えます。

洗礼式の典礼は信仰が霊的な生活の根本的な基礎であることをよく表しています。そして、信徳のおかげで霊魂は超自然の次元まで高められることが可能となり、あえて言えば、天主との結合を可能になるのです。そうなったら、天主によって霊魂の救いを得ることは可能となります。ですから、信仰は霊魂の救いを得るために必須不可欠です。

残念ながら、信仰を失うことはあり得ます。あるいは、信仰を一度も持たないこともあり得ます。
信仰を持たない人を指して、「不信仰者」といいます。信じない人という意味です。(日本語では未信者ともいいます。)信者も同じ語源ですね。「信じる者」という意味です。ラテン語の「fideles」です。信者は信仰を持つ者で、信仰を実践する者という意味です。「不信仰者」は信仰を持たない者で、信仰を実践しない者という意味です。「異端者」の語源はギリシャ語での「選ぶ」という言葉に由来しています。異端者とは「諸真理を選ぶ者」という意味です。ですから、異端者は好き嫌いで勝手に、諸真理のいくつかを排除したり、いくつかを受け入れたりします。そうすることによって、啓示なさる天主の権威を否定することになります。したがって、信仰の単一性を否定します。したがって、異端者は信徳と信仰を失います。なぜかというと、信仰の根拠となる天主の権威を否定し、信じる根拠を失うからです。

つまり、異端者は啓示なさる天主の権威を肯定せず、「啓示だと個人的に思うものを自分勝手で選ぶ」のです。したがって異端者の「信仰」の根拠は「自分自身」に過ぎないのです。何も超自然な次元はなくなっているのです。「自分自身」は自然次元だからです。
それよりひどいのは背教者です。背教者は信仰のすべてを否定して捨てて、異教に行くか、何らかの適当な礼拝あるいは宗教に行く者です。

信仰を得たからと言って、信仰を失うこともありうるのです。ですから、信仰を大切にして、信仰を養う必要があります。そうするために、頻繁に「信じる行為」を繰り返して実践する必要があります。つまり、信徳唱をよく唱えることから始まります。
「真理の源なる天主、主は誤りなき御者にましますが故に、われは主が公教会に垂れて、われらに諭し給える教えを、ことごとく信じ奉る。」

そして、信徳を実践するとき、信徳の対象なる真理を対象にしましょう。
「我が天主よ、まことに御降誕なさり、ご托身なさり、肉体になり給ったことを信じ奉る。」
「イエズス・キリストよ、真の天主であることを信じ奉る。」
「イエズス・キリストよ、私を救うために、十字架上に死に給ったことを信じ奉る。」

こういったような信徳の行為を行うたびに、信徳を実践するのです。信仰を養うのです。
また、以上のような内面的な信徳の行為のほかに、外面的な信徳の行為を行う必要もあります。

第一、どうなっても信仰を否定することが決してないように。
第二、信仰に対する侵害があるとき、あるいは、ある状況において「黙っているままにすると深刻な過失になる」時、信仰を断言して公に宣言する義務があります。たとえば公の場で、あるいは公権によって信仰が問われたら、誤魔化さないで信仰を宣言すべきです。

このようにして、信徳を養うために、信じる行為を繰り返していく必要があります。
信徳を強化するために、その信じる習慣を強化するために、「信じる行為」を容易にする習慣を強化するために、「信じる行為」を繰り返す必要があります。このことに関しては、他の習慣と変わらないところです。そうすることによって、信じる行為は安定して、楽になって、喜ばしい行為になっていきます。


【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その二【第2部】:学問芸術論のなかにある誤謬

2020年01月16日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう



【第二部】
それでは、第二部となります。第一部より、多少短いですが、お配りした抜粋は第一部より多少多いです。というのも、一番有名な引用は第二部にありますから。
手元にある最初の抜粋こそは、恐らく一番一般的に、「学問芸術論」から紹介されている文章だと思われます。

「人間の休息を敵視するある神が学問を発明したというのは、エジプトからギリシャに伝わった古い伝説だった。」
C'était une ancienne tradition passée de l'Égypte en Grèce, qu'un dieu ennemi du repos des hommes était l'inventeur des sciences.

プロメテウスの神話の話ですね。「人間の休息を敵視する」ティタンのプロメテウスが「ゼウス」から火を奪って、人間に火を渡したという神話です。御存じの通り、ゼウスが憤怒して、罰としてプロメテウスを鎖で拘束し、毎日毎日、鷲によってプロメテウスの肝臓が食われるのです。そして、夜になって、肝臓が回復して、翌日が改めて鷲が来て肝臓をいつまでも食っているというのです。また、プロメテウスは人間に冶金術を教えたともされています。

ルソーによると、「エジプトからギリシャに伝わった古い伝説」はプロメテウスが人間の敵であることを証明するといっています。なぜでしょうか。ゼウスがプロメテウスを罰したからです。つまり、ゼウスが人間を守ろうとしたからだとルソーは言っています。
「では、学問の生みの親であるエジプト自身が、学問について持っていたに違いない見解は、どんなものだったのだろうか。エジプト人こそ学問を生み出した源を身近に見ていたのだから。」
Quelle opinion fallait-il donc qu'eussent d'elles les Égyptiens mêmes, chez qui elles étaient nées ? C'est qu'ils voyaient de près les sources qui les avaient produites.

ちょっと飛ばします。同じ段落の最後に次の文章があります。学問の原因を語る一行。これはよく引用されている部分です。
「天文学は迷信から生まれ、雄弁術は野心、憎悪、お世辞、虚偽から生まれ、幾何学は貪欲から、物理学は無益な好奇心から生まれた。これらすべて、道徳でさえ、人間の傲慢さから生まれたのだ。それゆえ、学問と芸術とが生まれたのは、我々の悪のせいなのであって、もし、徳のお陰で生まれたのなら、われわれが、学問芸術の利益について疑うことは、もっとすくないことだろう。」
L'astronomie est née de la superstition ; l'éloquence, de l'ambition, de la haine, de la flatterie, du mensonge ; la géométrie, de l'avarice ; la physique, d'une vaine curiosité ; toutes, et la morale même, de l'orgueil humain. Les sciences et les arts doivent donc leur naissance à nos vices : nous serions moins en doute sur leurs avantages, s'ils la devaient à nos vertus.


明記されていますね。
学問と芸術は悪い習俗を引き起こした、と。だが、その上に、学問と芸術の原因もまた人間の悪徳なのだと主張しています。

例えば人々は「丁寧さ」を身につけたのは、偽善心のせいであるか、あるいは、へつらいのせいであるかということになりますね。また、なぜ天文学者が出たかというと、ルソーによると、彼らは迷信的だったから、天体を見ることによってその迷信を満たそうとしていたからだということになります。道徳でさえ、なぜか存在するかというと、ルソーに言わせれば、「人間の傲慢さ」に由来しているからだといっています。なんか「自分の完成」を求める「傲慢な人間」のせいで道徳ができたという感じ。
「それゆえ、学問と芸術とが生まれたのは、我々の悪のせいなのであって、」
Les sciences et les arts doivent donc leur naissance à nos vices
書きぶりとして上手く良く出来上がっているでしょう。パッと読むと、一瞬「まあそうかもしれない」と思われてもおかしくないようにされている巧みな書きぶりですね。


【「原因」と「きっかけ」との二つの概念を混同】
以上の段落には、何らかの一理がなくはないかもしれませんが、そこでルソーが犯している主な誤謬は、次の通りです。つまり、区別すべき二つの言葉を混同して、間違って使っているという誤謬を犯すのです。「原因」と「きっかけ」との二つの概念を混同します。原因と切っ掛けは別々のことです。

つまり、ルソーは「人間の悪こそ学問と芸術の原因である」と主張します。
しかしながら、実際においては、「人間の悪は学問と芸術の原因ではなく、そのきっかけに過ぎない」というべきです。同じに見えても全く違う結論になります。なぜかというと、「原因」というのは、「必然的に」結果を伴うのです。「結果」は必ず「原因」から引き起こされているからです。結果はその原因と必然的に結んでいるということです。要するに、「原因」は「結果」を生むのです。

一方、その言葉の意味から自明な通り、「きっかけ」から、結果が生じるのではなく、その切っ掛けは「事情・状況」であって、「その状況において、ある結果がある原因から実現した」という意味です。原因と切っ掛けとの区別は見えたでしょうか。「原因は結果を生む」。それに対して、「きっかけは結果を生まない」ということです。きっかけは「ある原因がある結果を生んだ」状況・事情に過ぎないのです。

それでは、「人間の悪が幾つかの学問の “きっかけ”になった」ということは、それは可能だし、実際にあったかもしれません。しかしながら、「人間の悪が幾つかの学問の “原因”」だったのは、それは無理です。また後述しますが、実際において、「学問の原因」というのは、知りたい気持ちこと、理解したい気持ちといった人間においての「自然なる欲望」にあるからです。
御覧の通り、以上の段落では、良く書きあがったものの、根本的な誤謬があります。「原因」と「きっかけ」が混同されています。
ちょっと哲学用語を使わせていただいたら、「偶然を対象にした詭弁 [注2] 」という誤謬のある文章です。ちょっと飛ばします。手元にある次の段落に移ります。

[注2]つまり、偶然なことを「必然」なことをみなす詭弁。

「もし、我々の学問が、目指す目的において無益であるとするならば、それが生み出す結果によっても、学問はさらに一そう危険なものである。無為の中に生まれた学問が、今度は無為をはぐくむ。」
Si nos sciences sont vaines dans l'objet qu'elles se proposent, elles sont encore plus dangereuses par les effets qu'elles produisent. Nées dans l'oisiveté, elles la nourrissent à leur tour

ここでは、学問と芸術を生み出した悪の内に、ルソーが「無為」を加えるのです。諺は御存じですね。「無為はあらゆる悪徳の母だ」と。
「無為の中に生まれた学問が、今度は無為をはぐくむ。」
そこでは、ルソーにとって厳密にいう「悪循環」があるとされます。悪である無為が学問を生み出し、そしてルソーにとって悪である学問が無為を生み出すのです。

「そして、取り返しのつかない時間の浪費こそ、学問が必然的に社会に与える第一の害である。道徳においてと同じように、政治においても、すこしも害をしないことは、大きな悪である。無用な市民は、すべて有害な人とみなすことができる。」
et la perte irréparable du temps est le premier préjudice qu'elles causent nécessairement à la société. En politique, comme en morale, c'est un grand mal que de ne point faire de bien ; et tout citoyen inutile peut être regardé comme un homme pernicieux.

要するに、ルソーにとって、学者や芸術家は無用な人です。なぜかというと、これらは、ルソーにとって、善を施さない人々だからです。ルソーにとっての善は、徳そのものです。したがって、その理論だと、徳をもって行動しない人は、無用となるしかありません。故に、彼にとって学者や芸術家は無用な人です。手元にある抜粋に次を省いたと思いますが、そこで啓蒙哲学者たちと科学者たちに声をかけます。

「そこで、有害な哲学者諸君、物体は真空でどんな比例で引き合っているか、惑星の公転において、同一時間に通過する面積の比は、どれほどであるか、」云々「などを我々に教えてくれる諸君、かくも多くの崇高な知識を我々与えてくれる諸君よ、どうかつぎの問いに答えてくれ。もし諸君が、われわれに、以上のことを教えなかったとしたら、我々の人口がいまよりもすくなく、政治も良くなく、恐れられることも少なく、繁栄してもいず、あるいは一そう邪悪になっただろうか。」
Répondez-moi donc, philosophes illustres ; vous par qui nous savons en quelles raisons les corps s'attirent dans le vide ; quels sont, dans les révolutions des planètes, les rapports des aires parcourues en temps égaux ; … Répondez-moi, dis-je, vous de qui nous avons reçu tant de sublimes connaissances ; quand vous ne nous auriez jamais rien appris de ces choses, en serions-nous moins nombreux, moins bien gouvernés, moins redoutables, moins florissants ou plus pervers ?

要するに、徳に関して、学問などは無用だとルソーは主張します。
ルソーは学問学術と習俗の頽廃を因果関係で結ぶので、それに対して「徳」を弁護しようとします。彼にとって、徳が人間において存在するために、学問を除外すべきだと言っています。故に、次のように続きます。

「だから、あなた方の業績の重要性をふりかえってみてくれ。我々の学者や最良の市民の最も輝かしい業績が、我々にほとんど役に立たないとすれば、国家の物資を貪り食って、何の役にも立たないあの多くの無名作家たちや、なすところのない文士どもの群れを、どう考えたらよいかを、いっていただきたい。」
et Revenez donc sur l'importance de vos productions, si les travaux des plus éclairés de nos savants et de nos meilleurs citoyens nous procurent si peu d'utilité, dites-nous ce que nous devons penser de cette foule d'écrivains obscurs et de lettrés oisifs, qui dévorent en pure perte la substance de l'État.
国家に居候(いそうろう)している連中です。ルソーは現代に生きているのならば、現況に対してどう描いたでしょうかね。

「なすところがない、といえるだろうか。実際、文士どもが、そうであればありがたいのだが!そうだったら、習俗はもっと健全で、社会はもっと平和だったろうに!ところが、これらの生意気で、くだらぬ口やかましい連中は、有害な逆説を武器として、四方へ出かけてゆき、信仰の基礎をくつがえし、徳を破滅する。」
Que dis-je, oisifs ? et plût à Dieu qu'ils le fussent en effet! Les mœurs en seraient plus saines et la société plus paisible. Mais ces vains et futiles déclamateurs vont de tous côtés, armés de leurs funestes paradoxes ; sapant les fondements de la foi, et anéantissant la vertu.

どう見ても、啓蒙哲学者たちはなかなか狙われているのですね。
「彼らは、祖国とか、宗教とかいう古い言葉を嘲り笑い、人間の内にあるあらゆる神聖なものを打ち壊したり、卑しめたりするのに、自分たちの才能と哲学をささげている。」
Ils sourient dédaigneusement à ces vieux mots de patrie et de religion, et consacrent leurs talents et leur philosophie à détruire et avilir tout ce qu'il y a de sacré parmi les hommes.

確かにルソーの書きぶりは美しいですね。勿論、根本的に間違っている根拠を打ち出して啓蒙哲学者を攻撃しています。確かに啓蒙哲学者を攻撃するが、間違っている根拠で攻撃します。それについては、また後述します。
そして、ルソーは幾つかの事例を挙げてから、次のように続けます。

「それでは、この奢侈の問題において、正確には、何が問題なのか。それは、国家(帝国)にとって、輝かしいが短命であるのと、有徳であるが永続的であるのと、どちらが重要であるか、を知ることである。」
De quoi s'agit-il donc précisément dans cette question du luxe ? De savoir lequel importe le plus aux empires d'être brillants et momentanés, ou vertueux et durables.

同じ対立ですね。一方はピカピカな外観。他方は実際においてどうなっているのか。「輝かしい」のは外観であって、そして、建前なので、表面的に過ぎなくて、何れか崩れるというのです。だから、輝かしい帝国は短命だとルソーは言います。それは、第一部の時に事例を挙げた論調からの帰結ですね。エジプトとか古代ローマと古代ギリシャなどは、輝かしくなろうとした時に、衰退し始めたとルソーは確認しようとします。有徳のあるものは長生きするといっています。

「わたしは、いま輝かしい、といいましたが、その輝かしさは、どのような光によってだろうか。豪奢な趣味が、同一人の魂の中で、正直な趣味と結びつくことは、ほとんどない。」
Je dis brillants, mais de quel éclat ? Le goût du faste ne s'associe guère dans les mêmes âmes avec celui de l'honnête.
いつも、同じ対立ですね。ここでの「正直」は「有徳」との意味ですね。

「いや、極めて多くの下らぬ気づかいによって堕落した精神が、偉大なものにまで高まることは、決してないし、また高まる力があるにしても、その勇気に欠けている。」
Non, il n'est pas possible que des esprits dégra-dés par une multitude de soins futiles s'élèvent jamais à rien de grand ; et quand ils en auraient la force, le courage leur manquerait.

続きは、「芸術家というものはすべて、賞賛されることを望む。」
Tout artiste veut être applaudi.

その後は、ヴォルテール氏をちょっと嫌がらせするための指摘があります。
「有名なアルエよ!あなたは、雄々しく力強い美を、我々の偽りの繊細さのために犠牲にしたことが、いかに多かったか、また、あなたが、つまらぬことにはきわめて入念な、あの礼節の精神のために、あなたの中にある偉大なものを、失ったことが、いかに多かったかを、われわれにいっていただきたい。」
Dites-nous, célèbre Arouet, combien vous avez sacrifié de beautés mâles et fortes à notre fausse délicatesse, et combien l'esprit de la galanterie si fertile en petites choses vous en a coûté de grandes.
まあこれは、復讐でしょう。

「このようにして、奢侈の当然の結果である習俗の堕落が、こんどは趣味の腐敗を呼び起こすのだ。」
C'est ainsi que la dissolution des mœurs, suite nécessaire du luxe, entraîne à son tour la corruption du goût.
つまり、習俗の堕落の上に、趣味の腐敗も起こる、これで、もうルソーの理論が完成すると言えるでしょう。このようにして、ルソーが見ている悪循環となります。

今度は、手元にはない文章をご紹介しましょう。
「人々が、習俗について反省すれば、かならず原始時代の単純な姿を思い出して、楽しむことだろう。」
On ne peut réfléchir sur les mœurs, qu'on ne se plaise à se rappeler l'image de la simplicité des premiers temps.
ここは「自然状態で創られた」人間という課題にいつもルソーが打ち出すのですね。次は手元にはあります。

「生活の便宜さが増大し、芸術が完成に向かい、奢侈が広まる間に、真の勇気は萎靡し、武徳は消滅する。そして、これもやはり学問と、暗い小部屋の中でみがかれる、あのすべての芸術のしわざなのだ。」
Tandis que les commodités de la vie se multiplient, que les arts se perfectionnent et que le luxe s'étend ; le vrai courage s'énerve, les vertus militaires s'évanouissent, et c'est encore l'ouvrage des sciences et de tous ces arts qui s'exercent dans l'ombre du cabinet.
言い換えると、学問と芸術は無気力を引き起こすとルソーが言っています。
つづいて、ルソーが多くの事例を並べます。ゴート人とか、カール八世とか、ローマ人とか、ギリシャとか。

そして、手元にある次の段落になります。ほぼ最後の抜粋になるかもしれません。
「学問を修めることが、戦士としての資質にとって有害であるとすれば、それは道徳的資質にとっては、さらに一そう有害だ。幼年時代以来、無分別な教育が、我々の精神をかざり、われわれの判断力を腐敗させた。」
Si la culture des sciences est nuisible aux qualités guerrières, elle l'est encore plus aux qualités morales. C'est dès nos premières années qu'une éducation insensée orne notre esprit et corrompt notre jugement.

まさに、この論文は学問と芸術に対する大批判ですね。

「いたるところに見られる広大な施設(学校)で、莫大な費用をかけて、青年にあらゆることを教えているが、義務だけは例外のようである。あなた方の子供たちは、自国語はしらないのに、しかも、どこにも使われていない他国語を話すことだろう。」
Je vois de toutes parts des établissements immenses, où l'on élève à grands frais la jeunesse pour lui apprendre toutes choses, excepté ses devoirs. Vos enfants ignoreront leur propre langue, mais ils en parleront d'autres qui ne sont en usage nulle part

まあ現代風の学校に見えますね。
「また自分たちがほとんど理解することができないような詩を作ることはできるだろう。」
ils sauront composer des vers qu'à peine ils pourront comprendre
現代なら、もう誰も詩を作ることはできないなあ。理解しないことにかんしてはまあ変わりませんね。

「子どもたちは、誤謬と真理とを弁別できないのに、特殊な議論によって、他人にそれらを見分けにくいものにする技術を身につけるだろう。しかし、高邁、公正、節度、人間らしさ、勇気などの言葉が、何を意味するかは知らないだろう。」
sans savoir démêler l'erreur de la vérité, ils posséderont l'art de les rendre méconnaissables aux autres par des arguments spécieux : mais ces mots de magnanimité, de tempérance, d'humanité, de courage, ils ne sauront ce que c'est
確かに現代は全くその通りですけど。

「祖国というあの優しい名をけっして耳にすることはないだろう。また、神について語られるものを聞くとしても、それによって神を畏敬するよりは、むしろ神を怖がることになるだろう。」
ce doux nom de patrie ne frappera jamais leur oreille ; et s'ils entendent parler de Dieu, ce sera moins pour le craindre que pour en avoir peur.

「私は生徒たちが、ジュ・ド・ポーム(古式テニス)に時を過ごすことを望むだろう。少なくとも、生徒の体が一そう丈夫になるだろうから」と、ある賢者がいった。」
J'aimerais autant, disait un sage, que mon écolier eût passé le temps dans un jeu de paume, au moins le corps en serait plus dispos.
そして、お配りしたこの抜粋の最後の文章はこうです。

「子どもたちが学ぶのは、大人になった時になすべきことであって、大人になって忘れなければならないことではない。」
Qu'ils apprennent ce qu'ils doivent faire étant hommes ; et non ce qu'ils doivent oublier.
確かに、書きぶりは旨いですね。


さて、こういった悪徳と偽善心はどこから来るでしょうか。手元にある次の文章はその問いに応じるのです。
「才能の差別と得の堕落とによって人間の中に導き入れられた有害な不平等からでなければ、これらすべての悪習が、いったい、どこから生まれてくるのか。(…)人間に要求されるのは、もはや、誠実であるかない
かではなくてして、才能があるかないかである。書物が有益であるかどうかなくして、文章が上手かどうかである。」
D'où naissent tous ces abus, si ce n'est de l'inégalité funeste introduite entre les hommes par la distinction des talents et par l'avilissement des vertus ? … On ne demande plus d'un homme s'il a de la probité, mais s'il a des talents ; ni d'un livre s'il est utile, mais s'il est bien écrit.
いつも「外観・内面」、「建前・本音」の対立ですね。

「才人のうける報酬が莫大なものだが、徳のある人は依然として尊敬されない。」
Les récompenses sont prodiguées au bel esprit, et la vertu reste sans honneurs.
そして、その後は知識人がいるかもしれないが、市民はもはやいないとルソーは言います。

従って、彼に言わせれば、祖国もなくなったということです。それから、印刷術をもルソーは厳しく批判しています。それから、ホッブス、それから、スピノザを対象に批判を投げます。
そして、結びの前に、次の文章があります。手元にはないような気がしますが非常に面白いです。

「しかし、もしも学問芸術の進歩が、我々の真の幸福に何も加えることもなく、またもしこの進歩が、われわれの習俗を腐敗させ、されにまた、もし習俗の腐敗が純潔な趣味に害を与えたとするならば、あの初歩的な本ばかりを書いている人たち―ミューズの神殿に近寄るのを妨げるために、また、物を知ろうと試みる人々の力をためすかのように―自然がそこには張り巡らしたら障壁を、ミューズの神殿から取り除いてしまった人たち―の群れを、なんと考えたらよいのか。」
Mais si le progrès des sciences et des arts n'a rien ajouté à notre véritable félicité ; s'il a corrompu nos mœurs, et si la corruption des mœurs a porté atteinte à la pureté du goût, que penserons-nous de cette foule d'auteurs élémentaires qui ont écarté du temple des Muses les difficultés qui défendaient son abord, et que la nature y avait répandues comme une épreuve des forces de ceux qui seraient tentés de savoir ?
ここでは、数少ない本当に才能のある作家の弁護をルソーが行っているところです。一旦飛ばしまして、後で改めて触れます。
それから、この本は次の文章で終わります。

「おお 徳よ! 素朴な魂の崇高な学問よ!お前を知るには多くの苦労と道具とが必要なのだろうか。お前の原則はすべての人の心の中に刻みこまれていはしないのか。お前の掟を学ぶには、自分自身の中に帰り、情念を静めて自己の良心の声に声に耳を傾けるだけでは十分ではないのか。」
O vertu! Science sublime des âmes simples, faut-il donc tant de peines et d'appa-reil pour te connaître ? Tes principes ne sont-ils pas gravés dans tous les cœurs, et ne suffit-il pas pour apprendre tes lois de rentrer en soi-même et d'écouter la voix de sa conscience dans le silence des passions ?

また後述しますが、そこで触れられているのは「良心」という課題です。覚えていらっしゃるかもしれません。「良心よ!良心よ!神なる本能よ!」というセリフがありました。

「ここにそこ真の哲学がある。」
Voilà la véritable philosophie

つまり、ルソーにとって真の哲学は「自分自身の中に帰する」ことであり、「何をすべきか」と言ってくれる道徳的な行為を招く自分の良心を聞くことであると言っています。

「そして、文学の世界で不滅の生をえている、あの有名な人々の名誉を羨むことなく、かれらとわれわれとのあいだに、かつての二大民族のあいだに認められたあの輝かしい区別―一つはよく語らうことを知り、他はよく行うことが出来たーを設けるように努めよう。」
et sans envier la gloire de ces hommes célèbres qui s'immortalisent dans la république des lettres, tâchons de mettre entre eux et nous cette distinction glorieuse qu'on remarquait jadis entre deux grands peuples ; que l'un savait bien dire, et l'autre, bien faire.
これで、「学問芸術論」が終了します。



さて、要約してみましょう。この論文は、学問芸術に対する厳しい諭告(ゆこく)だと言えます。ルソーにとって、学問芸術は悪徳から生まれたものであって、その結果に、習俗を腐敗させる学問芸術です。これは、ルソーの中心となる主張です。
つまり、最初の問いを一言では答えてみたらこうなるでしょう。
「学問(科学)と芸術との再興は風俗の堕落あるいは風俗の洗練のどちらに貢献しただろうか」
ルソーの答えは「いいえ」と答えるべきだとしています。
いや、悪から生まれた学問と芸術との再興は逆に、歴史においても人類のことを調べても、悪を伴うということが示されているので、学問芸術は徳と関係ないどころか、徳に反対していると言っています。
そして、学問芸術に対する諭告の裏に、ルソーは徳を弁護します。それも間違いなくその文章にあって、ルソーはある種の徳を弁護します。
しかしながら、すぐに指摘しておきましましょう。一つは「すべての学問芸術が悪い」ということをルソーは言っていないのです。

要約してみると「学問芸術は数少ないエリートのためにだけあるべきだ」と主張し、そして、市民の徳を求めるべき政治上の指導者たちへそのエリートが助言を与えるべきだ、と手元にはなかった先ほどの文章の終わりにルソーは主張します。しかし、こういった学問芸術上のエリートは数少ないのです。有徳の士だからです。その場合に限って、学問芸術は悪から生まれず、悪を生まないことが可能となるとの主張です。しかし、それができるのは、限られた少ないエリートだけです。

そういえば、この主張は不思議なところがあります。つまり、言い換えると、学者あるいは芸術家になるために、まるで英雄的な徳を持たなければならないということになっています。要するに、学問芸術は少ないエリートのためである一方、他方、徳はみんなのためにあるとルソーは言います。

【ルソーの「自然」と「芸術」の対立関係は、実は「徳」と「悪習」の対立】
そして、結局、ルソーは「自然」と「芸術」を対立関係に置いている時、実際には、その裏で、「徳」と「悪習」の対立となっています。ごく僅かな例外を除いて、一般論としてこうなるとルソーは主張しています。
そこに注目しましょう。非常に面白いことです。

そこにその後のすべてのルソーの「哲学の基礎」はそこにあるので、注目しましょう。
つまり、自然と徳はいつも相伴うということになります。言い換えると、「人間は自然に善の状態でうまれる」ということですね。
そして、「学問芸術」に基づいた「社会」が「善い自然な人間」を腐敗させるという理論になっていきます。
ルソーがデビューしたこの「学問芸術論」の中に、ルソーの思想の中心にある主張が既に織り込まれているということです。つまり、「人間は自然に善の状態でうまれる」ということで、そして「学問」は人間を腐敗させます。学問というと「政治」でもあります。なぜかというと、ルソーが「自然と政治」とを対立関係に置いているので、「学問あるいは政治」が「有りのままの本来の人間」を腐敗させたという主張になります。
御覧の通り、文章の行間を掘り下げてみると、「ジャン=ジャック・ルソー」の思想の基盤をここで見つけるのです。要するに、ルソーにとって、「創造された人間」と「徳」との間に相関関係があります。人間は善い状態で創造されたというのです。
また、御覧の通り、自然の人間と社会の人間との間に、対立があるということになります。建前と本音。正直さと偽善さ。


【ルソーの間違いをどう指摘するべきか】
さて、以上の意見の前にして、どうこたえるべきでしょうか。
そこには、主に二つの誤謬が織り込まれています。

【ルソーは人間の「原罪」の代わりに、「自分の外・政治」のせいにする】

第一の誤謬は神学上の誤謬です。「原罪」を否定する誤謬です。一目明瞭です。
「原罪の否定」という誤謬。信仰上の真理ですけど、「原罪」さえを認めたら、すべて解決します。
つまり、原罪があると、我々それぞれの心にある原罪のせいで「悪は学問の切っ掛けになることは」可能となりえます。つまり、我々にある原罪は、言い換えると、三つの現世欲からなっていて、いつの間にか、我々を「悪い方向へ」押そうとする傾向を指すのです。そうすると、「悪(習)がきっかけとなっても」理解できますが、それだからといって、悪が原因とはならないのです。

それでも、我々人一人に、悪へのきっかけの可能性がずっとあるのです。そのことだけは、ルソーが痛感しています。イタリアに洗礼を受けに行った時のルソーは、ちょっと公教要理をならったはずなのにそれほど誤っていてしょうがないなあ。問題は次のように要約しましょう。
その切っ掛けをみて、「人間の心の中は何か腐敗している」つまりそれは「原罪がある」ということを断言すべきなのに、ルソーが「いやいや、人間にある腐敗は外から来る」と間違って主張します。つまり、あえていえば政治から腐敗が来るということになるが「自然・本性から来ない」とルソーが言ってます。
要するに、「人間の本性は傷つかれている」という真理をルソーが否定しています。つまり、ルソーにとって、「人間の本性は善いまま」だと主張しています。これは後でもいつも出てくる主張です。これこそ、ルソーの全思想の基盤となる誤謬です。


【ルソーは「意志」を過剰に重んじ、「知性」と「感受性」を否定する】

そして、原罪の否定の上に、人間の本性に対する誤解があります。人間の本性(自然)はなんであるかをルソーが誤解しています。
従って、原罪の問題をさておいても、「人間の本性」、「自然状態」を語る時に、ルソーは根本的に無理解にあります。なぜでしょうか。

本来ならば、人間というのは、命づける「霊魂」と「身体」とから構成されている存在です。従って、人間は理性が備わっているので、人間には「知性」があり、「意志」を持ち、「自由意志」をも持つ存在です。または、感受性(感覚)をも持ちます。これらのすべては人間には「自然に」備わっている要素です。要するに、能力です。ところが、「能力」というのは、何かが「できる力」であり、また「可能性」であります。たとえば、何かの能力を持つ時に、「それができる」と言いますが、その通りです。可能です。

ここでは何の意味を持つでしょうか。人々には「能力」が備わっているということは、人々には「可能性」が備わっているということです。そして、人々は、自分を完全にするために、それらの「可能性」を実現すべきですね。要するに、誰かが「何かができる」と言った時、その「できること」を実際に実践する時にこそ、「何か可能だ」といったよりも自分が完全になるのです。
ということで、人間の本性は、これらの能力を持つだけではなく、それらの能力をそれぞれの完全にまで達成するということも人間の本性です。

そして、「知性」の完全性は他でもない「学問」です。言い換えると、「真理」が知性の対象です。「意志」の完全性は他でもない「徳」です。言い換えると、善く「行動」することが、または「善」が意志の対象です。ところが、この「善」は何であるかを発見しなければなりません。そして、よく理解されていると思いますが、「善」を発見することは可能になるためには、「学問」を通じて「善」を知る必要があります。したがって、善を発見するためには、ある程度の真理を知性が事前に知る必要があります。言い換えると、ある程度に学問にまで知性が達成しなければ、善を発見できないのです。

だから、ルソーのいう「学問がないままに人間が自然に有徳である」という命題はあり得ないことです。どうやって、自然のままに、徳を身についていけるでしょうか。誰から徳を教わるというでしょうか。

ルソーの人生自体を見ると、この矛盾が自明です。ルソーを前にして、「あなたは自然の状態だった時に、つまり幼い児童と青春だった時に、自然に有徳だっただろうか」と聞きたいところですね。要するに、ルソーがまだ教育を完成に貰っていなかった時に、「自然に有徳」だったことはなかったどころか、まあ…

そして、あえて言えば、ルソーの誤った主張は結局、かれがパラノイアであることを示します。きっと、ルソーも誰もと同じように、自分が過去に犯した悪い事を思って痛く感じて、それは精神的な負担となっていたでしょう。そして、反省するよりも、自分が罪を犯したのに自分のせいにするよりも、その負担を忘れるために、ルソーにとって「良心が神の本音」だと思っているから、もしも「自分の良心」に従うことが出来るのなら、ルソーも「自分がいつも善いままだった」と彼は思っていたでしょう。そして、そうはならなかったのは、「社会のせいだ」と、「社会が私を腐敗させた」とルソーが信じ込むようになったのでしょう。たやすい責任回避ですね。

そして、人間の本性にある「感受性」は、知性と意志の作用を得て、「芸術」を生みます。芸術は感受性の完全化です。そういえば、「芸術」と言った時に、厳密に言うと二つの種類があります。
一方、美術そのものがあります。そして、他方、職人の技術もあります。言い換えると、有用性のある芸術です。

ところが、以上のすべては人間の「霊魂と身体の一致」の中に織り込まれています。全体図は見えるでしょうか。
従って、ルソーの思想には第一に原罪の否定という誤謬があります。つまり、「人間の本性」は自然に善い本性だ、つまり有徳の本性だとする誤謬ですね。

そして、同時に、ルソーは人間の本性の中に、「意志」を過剰に重んじるあまりに、「知性」と「感受性」を損害し、否定する誤謬となります。自明でしょう。

要するに、ルソーの思想には、ある種の「意志主義」があります。その「意志主義(自由意志・自由主義)」を踏んで、「知性/学問」と「感受性/芸術」を貶めるはめになります。結局、人間は本質的に何であるかについてのルソーの無理解だと言わざるを得なません。そういえば、ルソーは結石によって苦しめられたようです。その時に、ルソーはしっかりとした学問を持った医者に相談できたことを嬉しく思っていたはずです。まあ、最終的に必ずしも治ったかどうかは分かりませんが。

【ルソーは人間の本性について無知であった】
しかしながら、御覧の通り、ルソーがとかく「人間の本性・自然状態」を語ってばかりいるのに、実際において、ルソーが人間の本性を知らないのです。従って、人間の本性に関してルソーは「無知」であることは自明です。ルソーは「幸いなる無知」と讃えるかもしれないが、しかし、結局「不幸なるルソー」に過ぎません。そして、悲しいことに、その無知のせいで多くの人々を誤魔化して騙したのです。つまり、全く筋の通っていないことを近代人に「普及」させてしまったのです。
だから、実際には、ルソーの無知は幸いなことではないばかりか、不幸であって、そしてルソー自身もその無知のせいで、結局かなり不幸な人生を送りました。
以上は、学問芸術論の中にある誤謬のご紹介でした。


一言で要約してみましょう。それで、その一貫性がより見えて来るでしょう。

古典的にいうと、「学問」において次の区別をするのです。つまり、学問には二つの違う目的があります。
一方、学問は「知るためにだけ知ろう」とするのです。
他方、学問は「行動するために知ろう」とするのです。
そして、その後者の学問は、行動・行為するときに、何かの対象をもって実践するのです。
一方、行動の対象は自己となります。他方、別の物を対象に行為を実践します。前にご紹介したことと一緒であり、別の言い方に過ぎません。つまり、「知るためにだけ知ろう」とするのは、狭義の「学問」といいます。そして、自己を対象に、「行動するために知ろう」とするのは、自分を改めるため、自己を改善するためですから、「道徳」または「善き習俗・風俗」といいます。最後に、「別の物を対象に行動ために知ろう」とする営みは厳密に言う「芸術」です。

こういった古典的な紹介を見ると、「学問・習俗(道徳)・芸術」の一致がよく見えてくるでしょう。その三つとも、同じ「学問」ですが、その目的・対象だけが違ってくる「学問」だということです。見えてきたでしょうか。
従って、「学問」の原因は悪でもなんでもなくて、「学問」の原因は「知性」にあります。そして、「知性」は能力であり、求めている目的を得ようとする「知性」です。例えてみると、知性の在り方は、肺臓が「空気を呼吸」しようとすることと似ています。

また、徳の原因は「意志」です。しかしながら、悪の原因も「意志」です。なぜかというと、意志が間違った方向に行くのをゆるしてしまった時に、悪の原因となります。そして、最後に、芸術の原因は「感受性」です。「感受性」という能力も、「美」という目的において完全化しようとする能力です。「美」というのは、「感覚」を本当の意味で嬉しくすることですね。つまり、「知るのが快い」物事は「美」となります。見えてきましたかな。

従って、学問と芸術の本当の原因は、ルソーの言ったように悪でもなんでもなくて、本物の原因はつまり「人間の本性」自体にあるということです[注3]

[注3]したがって、人間がいるところには、芸術と学問が必ず生まれる。裏を返せば、学問と芸術抜きの人間はあり得ないことであり、人間でなくなると言える。

裏を返せば、ルソーには、人間は自然に何であるかと全く誤解しています。だから、間違った結論をルソーが出しています。
あとは、政治における芸術の位置を語るのも面白いですけど、時間の問題で割愛せざるを得ません。

『学問芸術論』はこれで終了します。
その著作の中心なる部分を示すつもりでした。そして、一番代表的な抜粋をご紹介して、そして、それに対してどう結論すべきかをご紹介しました。

ご清聴ありがとうございました。


善や悪に向かわせる「習慣」と「徳」について 【公教要理】第八十一講

2020年01月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十一講 善徳

 
引き続き、人間的行為 [注1] についてご紹介していきたいと思います。道徳という分野です。
人間が目的地にたどり着くために実践すべき行為についてです。

まず、人間的行為とは何であるかをご紹介しました。その次に、人間的行為を律する規範をご紹介しました。近因の規範は良心で、遠因の規範は法です。
従って、良心と法との二つの規範、近因と遠因、あるいはあえていえば内的と外的な両方の規範に基づいて、人は行為を実践するべきとなります。つまり、人間は規範に従ってその言動や行為を実践することにより、最終目的地にたどり着くことが出来るのです。

具体的な行為をするために、人間には多くの能力が備わっています。
身体を使って動くことが出来るし、意志を作動させて実際にある行為をなさしめ実現へと移す能力を持ちます。ところが、意志だけでは不足となります。なぜかというと、人には「習慣(habitus)」があるからです。

本日の講座は習慣 [注2] についてご紹介したいと思います。次回も少しずつ人間のいくつかの習慣を具体的にご紹介いたします。

習慣とは何でしょうか。習慣、厳密に言うとラテン語の「Habitus」というのが一番正確でしょうが、習慣とは、人間の一つの能力を指し、ある行為を「普通に」行わせる能力だと言います。
言い換えると、ある行為を頻繁により楽に行える能力を「習慣」といいます。

「習慣」には二つの種類があります。
良い行為を通常行わせる習慣と、悪い行為を通常行わせる習慣との二つです。

容易にいつも行うようにするという意味での「習慣」です。
反射的なものとまではいえないかもしれませんが、殆ど考えなくても自発的に行わせるようにするという意味での習慣です。良い行為を行わせる習慣は「善徳」です。悪い行為を行わせる習慣は「悪徳」といいます。

習慣とは、私たち人間が持つ多くの能力(意志あるいは知性など)を一定の方向へ傾かせます。容易に一定の方向に向かう行為を実践させるのです。
したがって、善徳とは、善い習慣を言います。つまり善徳とは善い行為を習慣的に普通に容易に行わせる状態です。
逆に言うと、悪徳は悪習です。悪しき習慣で、悪い行為を習慣的に普通に容易に行わせる状態です。
要約すると、習慣というのは安定的な能力で、それによって本人がその意志などの能力を善へあるいは悪へ傾かせます。
習慣は、悪い行為を実践するように傾かせるか、良い行為を実践するように傾かせるかするものです。
習慣のメリットはある行為を実践することを楽にさせる点にあります。
善徳のおかげで、良い行為を楽に行えるようになります。
また、残念ながら、悪徳のせいで、悪い行為を楽に行えるようになります。

習慣によって霊魂に、さらに強い「癖」の場合には見える形で体においてでさえ、ある種の傾向を刻印するかのようです。刻印するという表現はちょっと強すぎるかもしれませんが、やっぱりある習慣が身につくと簡単に変えられないものです。
だからこそ、善徳を身につけることにメリットが多いことは明らかでしょう。だから、なるべく早く善徳を身につけるべきであることの理由はわかりやすいでしょう。

裏を返せば、悪徳を身につけてしまったら、それをなくすことがどれほど難しいかは周知のとおりです。というのも、悪徳も善徳と同じように、「刻印されている安定的な傾向」ですから、悪習・悪癖のせいで人生は苦しくなり難しくなります。
しかし善徳を身につければ、人生はより簡単になり、楽になります。
~~

たとえてみましょう。非常に単純な例ですが、職人に頼んで、なにかやってほしい時、普通ならば、そのことをやったことがない、はじめての職人に頼むよりも、経験のある、そのことを何度もやっている職人の方にいくはずです。なぜでしょうか。後者の場合、いつもやっているので、安定的に習慣的に普通に頻繁に容易にそのことをやっているので、頼れるからです。
つまり後者の職人の作業はほとんど反射的に良い方向に傾いているわけです。
しかしながら、前者の職人の場合、やったことがないから、初めてやってもどうなるかはよくわからないのです。

道徳においても以上の事例と似ています。善に慣れていることもあれば、悪に慣れていることもあります。普通にいつも良い行為をしている人は、楽にこれからも良い行為を実践していく傾向があります。善徳です。
逆に、残念ながら、普通にいつも悪い行為をしている人は、楽にこれからも悪い行為を実践していく傾向があります。悪徳です。
要するに、習慣とは以上のようなものです。

良く悪くも、結果がどうなるかは別として、人生において人々は必ず習慣をもっています。必ず、年を取っていくと人は良くも悪くも習慣を身につけていきます。
だから、なぜ教育がそれほど大事なのかがよくわかるでしょう。教育とは、子供に当然ながら悪習ではなく良い習慣、つまり善徳を刻印させる営みです。

例えば、親はしつこく子供が礼儀正しく食べるように力を尽くします。これも良い習慣をつけさせるためです。「躾」です。また「慇懃さ」あるいは「礼儀ただしさ」といったものですね。つまり「文明」そのものです。
文明の語源は「市民としてスムーズにうまく生きていけること」といったような意味合いがありますが、社会においてまさに「和」を保つ「習慣」です。ある意味で文明国とは、「和の精神を刻印されている、善き習慣をもっている人々から構成される社会だ」と言えましょう。

以上で、人生においてどれほど習慣が大事かを理解していただけたかと思います。
どれほど若いうちに良い習慣を身につけていくことが大事であるかも理解していただけたかと思います。子供にたいしては常に気を付けて警戒し用心するのは非常に大事です。なぜかというと、大体の習慣は若いうちに身についていくものだからです。子供の時に得てしまった習慣は年を取るとどんどん強くなっていきます。年を取っていくと誰でも痛感するものです。
ある場面において、なぜかどうしてもあっちの方向へいってしまうという。
「もう癖だ、変えられない」といって、お手上げになることが多いのでは?なにか「しょうがない」という必然性があるかのように。

実際は、必然性はありませんが、習慣は霊魂に刻印されているので、無理では決してないとしてもその傾向に逆らうことは非常に難しいのです。善徳なら幸いですが、悪徳なら大変です。だから、教育が肝心かなめなのです。


習慣の種類を区別してみましょう。どうやって区別すればよいかというと、それほど簡単ではありません。

まず、天国に行けるために実践すべき行為をするように傾かせる習慣というものがあります。
人間の究極的の目的地である天国にたどり着くために、超自然の目的をえるための行為への傾向という習慣があります。「超自然の習慣」です。超自然の善徳です。

究極的の目的のためではないものの、自然上の善を得るような行為への傾向の場合は「自然上の習慣」です。
目的別、あるいは善により、習慣は超自然であるか自然であるかの区別ができます。

たとえば、信徳、望徳、愛徳は「超自然の善徳」です。信徳、望徳、愛徳といった習慣のおかげで、直接、人間の目的地、善である天国へ向かわせます。
後は、たとえば、礼儀正しく食事をとるといったような習慣、「躾」といったような習慣は「自然の習慣」です。
習慣の区別はまず「自然と超自然」で別れます。
~~

次は、ちょっと微妙なニュアンスですが、「能率」別でもそれぞれの習慣を区別します。どういえばいいでしょうか。つまり、どうやって習慣を得たかによって区別するといえましょう。つまり、それがいつ「習慣になる」かという問題ですが、習慣になるのは、同じ行為を繰り返すことによって身についていきます。

つまり、ある種の行為を繰り返すことによって、私たちの霊魂・知性などの能力において傾向を与えます。この場合は、後天性の習慣です。つまり、生まれてから教育において、人生において獲得された善徳はそういった習慣です。例えば、子供の時代、怒りといったような感情を抑制することを習って、柔和にふるまうように習った場合、剛毅とよばれる徳ですが、それは「後天性の習慣」です。

また、例えば、子供の内に、食べる際、与えられる食べ物を好き嫌いなく食べて、度を越えないで節度をもって食べる習慣を習った場合、節制という徳を身についていきますが、これも後天性の習慣です。要するに、ある種の行為を繰り返すことによって善徳を得ていくということから「後天性の習慣」だといいます。

たとえてみると、折り紙と似ています。この紙を一度折るとします。そして、何度も何度も同じ折に折っていったら、その折は深くなって、何もしないでも紙は自然に折れてくるような、もう折れているままになるしかないようなものは習慣と似ています。習慣は霊魂においての「折り」だと言えましょう。そして、頻繁にその霊魂においての折りを折ることによって、その習慣を強くします。また、ある種の行為をほとんど反射的にやるように、習慣を得ていきます。「後天性の習慣」です。

「後天性の習慣」以外に、「習えない」習慣、後天性ではない習慣もあります。天主より直接に与えられている習慣です。「天賦の習慣」だといいます。なぜ天賦かというと、天主が霊魂にその習慣を入れてくださるからです。直接に天主より賜る習慣です。
「天賦の習慣」は必ず「超自然の習慣」です。というのも、天主より直接に賜ったものなので、超自然に属するのですが、当然ながらそれらの超自然の習慣は自然上の対象に応用することも可能です。例えば、信徳、望徳、愛徳は天主より直接に賜る善徳です。



天賦の善徳のなかには、賢明徳、正義徳、剛毅徳、節制徳という徳さえもあります。天主は我々に聖寵を与えるたびに、これらの天賦の徳をも与え給うのです。
ただ、習慣なので、霊魂においてある種の「折り」を与えるかもしれませんが、それで実際に効果をもたらすために、霊魂による作用が必要です。したがって、具体的に言うと、天賦の徳は必ず後天性の徳と一緒に働くことになります。ただ、天賦の徳は後天性の徳を支えて、助けて、またそれらの徳の完成化をはかり、それらの善徳を霊魂においての定着化を助けます。


最後に、対象別で習慣を区別することもできます。習慣の対象は被造物である場合、つまり地上における何かが対象となる場合です。天主にたどり着く手段である被造物が対象になる場合、「道徳的な習慣」といいます。典型的なのは、四つの「枢要徳」です。賢明徳、正義徳、剛毅徳、節制徳です。それから、その四つの徳と並ぶ多くの善徳もあります。柔和、寛容、従順、貞節などなどです。
「道徳的な習慣」は被造の世界における何かがその徳の対象となり、その被造物を通じて、天主にたどり着くための手段、つまり私たちの究極的な善である天主を得るための手段に関するものです。
~~
それから、私たちの霊魂において、天主ご自身を対象にしている習慣もあります。いいかえると、それらの徳のおかげで、私たちの究極的な目的である天主とにつながらせる習慣(徳)です。
被造の世界の何かではなく、創造主が対象となります。「対神徳」です。三つあります。
信徳と望徳と愛徳です。これらの徳によって我々人々は天主と直接につながりうるのです。

また、上のすべての徳は私たちの霊魂において益々増やすことが可能です。当然、自然徳はすべて後天性の徳です。つまり、実践すればするほど、良い行為を繰り返せば繰り返すほど、それらの徳は霊魂において増えて、どんどん深く霊魂に備わっていくのです。

天賦の徳の場合、行為の繰り返しによってでは増えません。なぜかというと、天賦の徳の由来は私たち人間ではなく、天主だからです。したがって、天主によってのみそれらの天賦の徳は増えていきます。具体的にいうと、秘跡にあずかることによって、また超自然な愛徳による行為によって増えます。
人間による行為によってではなく、天主が私たちにおいて働きたもうおかげで、私たちにおいての天賦の徳が増えます。


全体図に戻ると あることが自明になったかと思います。
つまり、自然徳において、善の循環があります。良い行為を繰り返すことによって良い習慣が生まれて、そしてさらに良い行為をやるのは容易になっていき、そしてさらに良い行為をやるおかげで良い習慣は強くなっていくという善の循環ですね。
そのおかげで、善徳が強くなり、良い行為を実践するのも容易になり、そして容易になればなるほど実践するのが快く楽しくなります。容易にできる時こそ、快くなってきますから。悪徳なら、逆に悪循環です。

以上、習慣あるいは徳に関する全体図のご紹介でした。
善へ傾かせる習慣なら善徳であり、悪へ傾かせる習慣なら悪徳です。

[注1] 「人間的行為」と「人間の行為」とは意味が違う。区別する必要がある。
[注2]「習性」は野生動物の習性というようによく使われ、自然の本能のニュアンスがある。習慣は人間が繰り返し行って身につけるもので、ここでは全て習慣と修正した。

実定法:五つの法の種類[その③④⑤] 【公教要理】第八十講

2020年01月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十講 実定法

 

引き続きに、法についての講話を続けましょう。最初は法の定義をご紹介しました。それは大事なことです。いつも、定義に戻る必要があります。なぜかというと、定義はその意味の通りに「意義を定めて」ということで、何について話しているかを明らかにする定義なのですから、非常に大事です。定義のおかげで、その何かは何であるかを説明するということですが、法に関しても同じで、法の種類を問わず、どの法も法の定義に当てはまるということです。

この定義は「共通善を目指しての理性による規定であって、共同体の世話を担当している人によって公布(立法)される」となります。

以前にみた通り、法には大きく二つの種類があります。法を公布する立法者によって分けられます。天主が公布する法なら、「天主の法」といいます。人間が公布するのなら、「人間の法」といいます。

天主が公布する場合。最初に法を公布するのは創造の際です。被創造物を創造するときに、それぞれを目的に向かわせ給ったという法は「永遠の法」と言います。それから、天主は人間を創造します。そうすると、人間に自由意志を与えます。その自由意志によって、人間は与えられた目的に自分の動きで行くことができます。が、自由意志を適切に作用するために、また、人間は与えられた目的地に無事に辿り着くことができるように、天主は人々の人間性において法を刻印しました。本性(自然)から転じて、「自然法」と呼ばれています。

それから、その上に天主はいくつかの法をその上なく自由に公布することになさいました。追加された法であり、「実定法」と呼ばれています。そういえば、実定法という定義は名の通りです。つまり、ラテン語の「positus」に由来している「実定(positif)」なんですが、「その上に置かれた、追加された、付け加わった」といった意味です。したがって、実定法というのは、その上に、余分に追加された法だという意味です。だから、人間の法は必ず実定法となります。特に自然法に対しての実定法です。

また後述しますが、人間が公布する法律は自然法に追加された法だからです。そして、天主もいくらでも法を追加することができます。これらの法は、「天主の実定の法」と呼ばれています。天主が公布するから、天主の法であり、また追加された法だから、実定法だと言います。

追加されたというのは、人間性にとって本質的な法ではないという意味であり、天主によってさらに付け加わった法なのです。天主によって自由に立法された法なのです。当然ながら、超自然の目的のために追加された法なのです。なぜかというと、法は「理性による規定」あるいは「理(ことわり)による命令」なので、それらの実定法は自由に追加されたって、理に適うのです。

つまり、気まぐれで勝手に天主が「そうしたいから」追加された法ではありません。もちろん、存在しているあらゆる物事は天主のお気に入りのことだから存在しますが。それはともかく、法は公布される目的は、必ず共通善のためです。言い換えると、人間に関して、我々の至福、我々の永遠の目的であり、つまり、天主の賛美という目的のために制定された実定法なのです。なぜかというと、我々の永遠の目的は天主の賛美だからです。同じことです。

~~
要するに、実定法は自然法の上にさらにつき加わった天主の法なのです。ところが、自然法と違って、天主の実定法は理性によってだけ天主の実定法を発見することは不可能です。なぜかというと、天主は自由に決めた命令ですから、人間が天主の実定法を知るには、天主による啓示を必要としているからです。天主の実定法は天主のご啓示によってのみ知らせられているのです。なぜかというと、天主は実定法のゆえに、ご啓示することをお決めになるからです。

さらに付け加わった実定法なので、普遍な法ではありません。場所と時代によって変わりうるのです。また、人によっても変わりうるのです。例えば、特定の共同体にだけ、天主はいくつかの特別法を与えることがあり得ます。旧約はその好例なのです。

天主の実定法はまた不変でもありません。いつでも天主が撤去できる実定法だからです。

それから、天主の実定法は絶対でもありません。場合と事情によって変わりうる法なので、相対な法なのです。が、天主の法であることに関して変わりがありませんので、実定法が適用される場合、義務が発生します。

より詳しく言うと、天主の実定法にはさらに二つの種類で分けられます。正確に言うと、歴史的な区分になりますが、モーゼ法という種類があります。言い換えると、旧約の法なのです。過去の誓約という意味です。で、その旧約は私たちの主、イエズス・キリストご自身によって廃止された旧法なのです。そして、廃止された旧法の代わりに新法がイエズス・キリストによって公布されました。言い換えると、新約とも呼ばれています。要するに、旧法であるモーゼ法があって、それから旧法を廃止した新法もあります。「キリスト教の法」とも呼ばれています。

~~
旧法はいずれか廃止されるべき法でした。他方、新約の新法は「Novum et aeternum testamentum (永遠なる新たな法)」であり、永遠な法なのです。ここでの「永遠」という意味に、「世の終わりまで続く」という意味だけです。言い換えると、新法を廃止してその代わりに三つ目の実定法が出てくることはないという意味です。私たちの主、イエズス・キリストは新法をお定めになった時、世の終わりまで続く法になさいました。

聖パウロが書いたように、その新法は「墨ではなく生きる神の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」 ということです。石の板に書かれた法はモーゼ法であり、心に書かれた法は「福音の法」なのです。新法と福音の法は一緒であり、「キリスト教の法」とも言います。おもに、愛徳の法なのです。また、コリント人への第二の手紙において聖パウロは次のように書きます。先ほどの引用の全部です。「確かにあなたたちは、私たちによって書かれたキリストの手紙である。しかも墨ではなく生きる神の霊によって記されたもの、石の板ではなくあなたたちの肉体の心の板に書かれている」

以上は旧法と新法との間の違いをご紹介しました。また、旧法の場合、ユダヤ民族にだけ適用された実定法でした。言い換えると、選別された民族にのみ適用されていた旧法でした。一方、新法はすべての人々に適用されている実定法なのです。信経の部をご紹介したときにすでにご紹介したことですが、教会は「カトリック」でありますが、「公教会」といいますが、それは「普遍の教会」という意味であり、全人類に及ぶ教会だという信条を見ると、新法の性質を確認できます。「行け、諸国の民に教えよ」 とイエズス・キリストは仰せになったのです。「諸国の民」というのは、あらゆる国々だということです。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常にお前たちとともにいる」 と。

旧法のもう一つの特徴は、「畏怖」に基づいていた法でした。旧約において、天主は畏怖によって敬われるのは多いです。他方、新法の特徴は、「愛の法」であるということです。別の言い方でいうと、旧法は「奴隷の法」に近いです。奴隷は主人を恐れて生きていると似ているからです。他方、子供は父を恐れながら生きるのではなくて、父を慕い愛しながら子供が生きています。だから、新法は愛の法、あるいは「愛徳の法」と呼ばれています。もちろん、俗にいう「愛」ではないから、正しく理解する必要があると思いますが、新法は「愛の法」なのです。

旧法は新法の影だったかのようです。他方、新法は旧法の完成版、またその補足版なのです。「私が律法や預言者を廃するために来たと思ってはならぬ。廃しようとして来たのではなく、完成するために来た。」 そして、新法はさらにつき加わっていて新しいことをもたらしておきます。それは、内面的な完成なのです。「文字は殺し、霊は生かすものだからである。」 。

したがって、旧法は「生かす」ことがありませんでした。言い換えると、「恩寵の生命」を与えることはできませんでした。旧約において、恩寵の生命が与えられていたことがあったのですが、旧法時代においてイエズス・キリストへの信仰こそが恩寵の生命を与えました。他方、新法は「恩寵の生命」を与えることができます。例えば、新法においての「秘跡」は恩寵の生命を与えます。七つの秘跡です。秘跡によってこそ、霊魂は生かされて恩寵の生命が与えられています。旧法において秘跡なんかはありませんでした。旧法において、義認されるために、将来に到来すべき救い主への信仰を通じてのみ義認されることは可能でした。新法では、義認されるために、相応しい状態で秘跡にあずかると義認されるということです。秘跡によって恩寵が与えられています。

~~
以上は、天主の実定法をご紹介しました。要約するに、現代、天主の実定法は「福音の法」なのです。新法であります。完成化の法であります。また愛徳の法です。


最後に残りの法の種類を見る必要があります。つまり、人間の法なのです。難しくないのです。

人間の法には権威が国家であるか教会でかによって、二つの種類に分けられています。市民法教会法との二つの種類なのです。

前述したように、人間の法はすべて実定法なのです。さらにつき加わった法であって、理性によって発見されるような法ではありません。当然ながら、知性によって立法される法であることは言うまでもないのですが、また当然ながら、共通善のために立法される法であるべきだということも言うまでもないのです(でなければ法に値しないのです)。そして、市民法は自然法をより明確にする役割を持ちます。そして、教会法の場合、天主の実定法をより明確にする役割を持ちます。これらの人間の法より人間に義務が発生します。法なので、我々は守らなければなりません。

道徳法の場合は、道徳法に違反したときに、罪が発生します。刑法の場合は、刑法に違反したときに、罪が発生するのではなく、刑罰が発生します。それらの法の種類次第で、それらの法に対する義務はもちろん変わります。道徳法の場合は、例外なくその道徳法に従わなければなりません。なぜかというと、道徳法に違反するのは、天主を侮辱する行為になるからです。他方、純粋の刑法の場合、刑法に違反したときに、罪は発生するのではないのですが、必ず刑罰が発生するのです。要するに、市民法と教会法なのです。権威者によって公布される法なのです。

そして、公教要理において一番中心になるのは、教会法なのです。というのも、教会法こそは、キリスト教徒の生活を律するからです。教会法は教皇と司教によって公布される法なのです。当然ながら、必ず「共通善のために公布される法」であるのは前提であって、忘れてはいけない特徴です。教皇は法を決定するときに、「気まぐれで、面白いから、やりたいから立法する」ということはできません。教会法も法ですから、共通善のためにあるのです。

そして、教会の法典には「Prima lex, salus animarum」という言葉があります。それで教会法のすべては語られています。「第一の法は」、つまり一番先に来る法、残りのすべての法律の前提となる法は、「霊魂の救済だ」ということです。言い換えると、霊魂は自分の目的、自分の善である救済を得るために法があるということです。それは、「天主の永遠の法」の一部を明確にした文章に他なりません。「永遠の法」は被創造物をそれぞれの目的に向かわせておく法です。また、永遠の法によってあらゆる存在をその目的に傾かせるのです。だから、「Prima lex, salus animarum」という根本法があります。「第一法は霊魂の救済であります」。

したがって、教会のすべての法は霊魂の救済のためにあり、霊魂の救済のために立法されています。ある意味で、すべての教会の法は、「霊魂の救済」という根本法をより明確にし、その救済を得るように人々を助ける法律に過ぎないといえます。そのために教会は法律を立法して、またそのため法律を立法する権威があります。ただ、必ず、霊魂の救済のためにある法律であります。そうでなければ、法に値しないのです。言い換えると、信仰の生活を助け、秘跡の享受を助ける教会法なのです。これらの教会法は、教会法典において記録されているほかに、ローマ教皇庁による文書と教区の規定にも記録されています。なぜかというと、「教える側の教会」、つまり教会において権威を持つ人々は教皇と司教たちだからです。以上は教会の法をご紹介しました。

最後に、市民法に関して公教要理の観点からいうとそれほど関係がないのです。が、とはいえ、市民法は自然法をより明確にする法律に過ぎないということを指摘しておきましょう。したがって、市民法は一切自然法に反することはできません。もしも、ある「法律」は自然法に反したら、もはや「法」ではないのです。法としての効力を失います。なぜかというと、そういったような「法律」はもう理性による法、理に適う法でなくなります。というのも、人間の理性に、人間の理に反する法になるからです。同時に、共通善のためにある法律でなくなります。なぜかというと、自然法に反する「法律」は自然の秩序、(人間性によって存在する秩序)を破壊するような法律になりますので、法ではありません。だから、例えば、堕胎を合法化するような「法律」はけしからぬ「法律」であり、法律でなくなり、法としての効力をそれきり失います。なぜかというと、人間性に反するという意味で、反自然な法律ですから。本性に反する法ですから。人間性に反するあらゆる「法律」は法ではなく、法としての効力を持たないのです。なぜかというと、人間性に反する「法律」は、理にもかなわないし、共通善のためにあることでもないからです。自然法を破壊するような「法律」であるから、天主である永遠の法を妨げる「法律」となります。




【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その二【第1部】:学問芸術論を巡って

2020年01月01日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう



お知らせした通り、前回は、簡単手短にジャン=ジャック・ルソーの生涯をご紹介しました。

今日は、その次の「ルソーと芸術」というテーマです。というのも、今まで、芸術について詳しくご紹介した機会がなく、面白いテーマなので、今日の話を切っ掛けに哲学でいう芸術をご紹介できたらと思います。難しい課題なので一時間では足りないかもしれません。

なぜ今日このテーマにしたかというと、もう一つの理由があります。ジャン=ジャック・ルソーの初めての大作は芸術についての文書だからです。前回、ご紹介したように「学問芸術論」であり、それはいろいろな意味でルソーの思想上の決定的な著作だと言えます。少なくとも暗黙の内に「学問芸術論」の中には、ジャン=ジャックの思想のすべてが織り込まれていると言っても過言ではありません。今日はそのことをご紹介していきたいと思います。

本日、主に「学問芸術論」についての話をします。これは1750年に作成されました。前回は作成に至った事情などをご紹介したと思いますが、要約しておきましょう。

【「学問芸術論」執筆に至った事情:復習】
パリに滞在していたルソーが、ヴァンセンヌへ行く途中、恐らく自然の中を通って小道を歩いていたでしょう。当時、まだ緑が多くて都市の農密度は現代ほど高くなかったからです。徒歩でルソーはヴァンセンヌに向かっています。大自然の中を歩くのは、ルソーの大好きな趣味ですから。ルソーの友達だったドニ・ディデロがヴァンセンヌの牢屋に禁固されているので、ルソーは彼を訪ねに行ったのでした。だから、ディデロが禁固されても一応寛大な扱いを得られていたというか、少なくとも訪問を受けることは可能でした。だから、ルソーは訪問に行ったのです。どうせ歩く機会にもなるし、大自然を散策する機会にもなるし、そして、読書する機会にもなるからです。本を読むのもルソーの趣味であり、いつも読み物あるいは書き下ろせる白い紙とペンを持ち歩いていたと言われています。

散策しながら、点々と止まったりして読んだり書いたりしていたと言われています。だから、何か思いついた時ルソーは散策していても書き下ろせたのです。なかなか田園的な雰囲気ですね。これは1749年、ヴァンセンヌへ向いていた途中でした。その時「Le Mercure de France」という雑誌を持ち歩いていました。その雑誌の中に、ディジョンのアカデミーによってある問いが論文募集の対象となっていました。ルソーが応じた論文の最初にその問いが記載されています。
「科学(学問)と芸術との再興は風俗(習俗)の堕落あるいは風俗の洗練のどちらに貢献しただろうか。」

ルソーは自分の論文においてその問いに応じることになります。そして、私たちもその問いをみて、ルソーの返事を細かく見ていきたいと思っております。

ルソーの論文は芸術と科学(学問)と風俗(習俗)について触れることになります。言い換えると、芸術と学問との諸関係についての論文となる一方で、他方、芸術・学問と風俗との関係についてでもあります。すると、政治との関係ともかかわってきます。というのも、ラテン語で言えば「in ubiquo」になりますが、つまり間接的に、風俗を通じてルソーは政治について言及することになります。そして、御存じの通り、風俗とは、政治学の一部をなす分野でもあります。良い指導者は自国の民族の風俗を深く考慮しています。そして、本来ならば、良い指導者の唯一の目的は、善き徳高き民族になるように全力を尽くすという目的に帰するはずです。それだけですね。現代はそれだけはなかなか大変みたいですけど。

それでは、Mercure雑誌にルソーはたまたま上記の問いを見ました。ルソーにとって、人生における「ひらめき」となりました。ルソー自身が次のようにコメントを残しています。「偉大且つ不吉な体制を垣間見た」といっています。少なくとも夢中となって、メモを書きおろしたりして興奮していました。彼にとって回心そのものでした。ディデロを訪ねて、いま書こうとしている論文と考えを打ち明けたら、ディデロがルソーを励んで「応募したら?」というような激励をしました。そこで、ルソーは論文を書くことにしました。

彼自身が何か所ではその場面を語ります。『告白』の第八篇とか、『対話』においても、また『孤独な散歩者の夢想』の第三の散歩においてもその場面を語ります。

ディジョンのアカデミーに応募してから一年が経って、彼の応募した論文は大成功を納めました。というのも1750年、アカデミーの賞を受けたからです。最初に提出された論文にちょっとだけ書き足して、注を入れて出版されたと思いますが、応募した版とほぼ変わりません。すると、その論文のお陰で、全世界において有名となります。出版名は「学問芸術論」と称されました。次の問いに応じた論文です。「科学(学問)と芸術との再興は風俗の堕落あるいは風俗の洗練のどちらに貢献しただろうか」。

【「学問芸術論」の中に、ジャン=ジャック・ルソーの思想のすべてが織り込まれている】
これからご紹介しますが、その論文をもって、ルソーにとっての思想の歩みの第一歩となります。彼の思想の基礎はそこに織り込まれています。他の作品はある意味で、『学問芸術論』において既に潜在的に織り込まれている思想の基本要素の発展というか、彼の思想を明文化する作品だと言えます。
その論文自体は長くもなくて、20枚ぐらいです。手元にあるのは抜粋に過ぎないのですが、一番象徴的な抜粋を提供することにします。それを読んで、それに沿ってコメントを述べると一番やりやすいと思います。ルソーの思想の本質の要素をご紹介できたらと思います。


これは芸術と科学との関係を分析する作品ですが、芸術と科学は並べられて対象となります。「芸術」と言った時、その論文ではルネサンスから来た「芸術」を指します。そして「science 学知・科学」と言った時、ルソーは「哲学」をも含みます。つまり、物理学などといった自然科学だけではありません。御存じの通り18世紀は自然科学の大発展の世紀です。ニュートンもいたし、科学が発展していた世紀でした。デカルトも既に出て、新しい哲学の発展もあります。要するに「science 学知・科学・学問 [注1] 」と言った時に、現代風に言う「物理的科学」をも含み、「哲学」をも含みます。

[注1]Science は日本語で、学問と科学の両方の訳語があります。「哲学」という部分もscienceとして数えられているので、「学問」といった方が適切であると思われますが、啓蒙思想家の口には、どちらかというと「科学」という意味で「science」を使うことが多く、「哲学」も入っていましたが、近代的な「哲学」だったので、伝統的な「学問」のありかたと啓蒙的な「科学」とのありかたはちょっと違うのですが、フランス語では同じ言葉になっているので、両意味が混同したりします。一貫性のために、以降は「学問」で統一する。


【第一部】
それで、ルソーは以上の問いに答えます。これから、幾つかの抜粋を読み上げたいと思います。お配りした文章になったらお知らせしますね。次は第一部の第一行です。因みに、論文の構造は第一部と第二部からなっています。第一部は次のように始まります。

C'est un grand et beau spectacle de voir l'homme sortir en quelque manière du néant par ses propres efforts ; dissiper, par les lumières de sa raison les ténèbres dans lesquelles la nature l'avait enveloppé ; s'élever au-dessus de lui-même, s'élancer par l'esprit jusque dans les régions célestes ; parcourir à pas de géant, ainsi que le soleil, la veste étendue de l'univers ; et, ce qui est encore plus grand et plus difficile, rentrer en soi pour y étudier l'homme et connaître sa nature, ses devoirs et sa fin. Toutes ces merveilles se sont renouvelées depuis peu de générations.
「人間が、自分自身の努力で、何らかのやり方で無から抜け出したり、生まれながらつつまれている闇を自分の理性の光で払いのけたり、自己自身を超越したり、精神の力で天界にまで飛び上がったり、巨人のような足取りで、太陽のように、広い宇宙を馳せめぐったり、さらに、これは立派で困難なことだが、自分自身にたちもどってそこにおいて人間を研究し、人間の性質、その義務、その目的を認識したりするのを見るのは、すばらしく美しい光景である。しかもこれらすべてのおどろくべきことが、少し前の時代から、つねに新しくくりかえされている。」

つまり、ルネサンスの時代からですね。[…]
L'esprit a ses besoins, ainsi que le corps. Ceux-ci sont les fondements de la société, les autres en sont l'agrément.
「人間の精神は、肉体と同じように、それ自身の欲求を持っている。肉体の欲求が社会の基礎であり、精神の欲求が社会の娯しみである。」

御覧の通りです。最後の文章は手元に配っていないと思いますが、
「人間の精神は、肉体と同じように、それ自身の欲求を持っている。肉体の欲求が社会の基礎であり、精神の欲求が社会の娯しみである。」

要するに、社会の基礎は肉体の欲求であり、社会の娯しみは精神の欲求だというのです。こういった社会における肉体と精神との区別を頻繁にルソーは繰り返しますので、既にそれを指摘しておきましょう。お配りした抜粋の最初の文章には次の主張がされています。

Tandis que le gouvernement et les lois pourvoient à la sûreté et au bien-être des hommes assemblés, les sciences, les lettres et les arts, moins despotiques et plus puissants peut-être, étendent des guirlandes de fleurs sur les chaînes de fer dont ils sont chargés, étouffent en eux le sentiment de cette liberté originelle pour laquelle ils semblaient être nés, leur font aimer leur esclavage et en forment ce qu'on appelle des peuples policés.
「政府や諸法律が、人間集団の安全と幸福とを配慮するのに対し、学問、文学、芸術は、政府や法律ほど専制的ではなく、おそらくより強力に、人間を縛っている鉄鎖を花環でかざり、人生の目的と思われる人間の生まれながらの自由の感情を押し殺し、人間をして隷従状態を好ませるようにし、いわゆる文化人(ポリス化した国民ら)を作り上げた。」

面白いでしょう。

【見せ掛けの徳と本当に持っている徳との対立】
それから、手元に配ってある文章にある直前に、次の文章があります。
Peuples policés, cultivez-les : heureux esclaves, vous leur devez ce goût délicat et fin dont vous vous piquez ; cette douceur de caractère et cette urbanité de mœurs qui rendent parmi vous le commerce si liant et si facile ; en un mot, les apparences de toutes les vertus sans en avoir aucune.
「文化人たちよ(ポリス化した国民らよ)、才能をつちかえ。幸福な奴隷たちよ、お前たちが誇りとしている繊細で巧緻な趣味、お前たちの間の交際を究めてたやすく気持ちのよいものにしているあのおだやかな性格とみやびやかな習俗、要するに、何一つ徳を持たないのに、あらゆる徳があるかのような見せ掛け、これらはみな才能の力に負うものなのだ。」

以上の文章だけでも、学問と芸術をルソーが攻撃し始めます。ルソーの主張を整理しましょう。
彼にとって学問と芸術とは、要するに、人生の飾りであり、楽しみであり、つまり花飾りに過ぎないのです。また「人間の生まれながらの自由の感情を押し殺す」学問と芸術のせいで、「あらゆる徳があるかのようにみせかける」ことが出来るが、実際に「何一つ徳を持たない」というのです。
この文章だけでも、ジャン=ジャック・ルソーの意見の中心に直接ぶつかることになります。

C'est par cette sorte de politesse, d'autant plus aimable qu'elle affecte moins de se montrer, que se distinguèrent autrefois Athènes et Rome dans les jours si vantés de leur magnificence et de leur éclat.
「その偉容と輝きを誇った時期のアテナイとローマとがかつて他に抜きんでいたのは、この見せびからすふりをすることがすくなければすくないほどより愛すべきものとなるような上品さによるものだ。」

それから、お配りした文章に移ります。次の通りです。手元にあるちょっと長い最初の文章です。
「もし外観が、常に心情の映像であったなら、[…]我々の人生は快いものとなったことでしょう。」
Qu'il serait doux de vivre parmi nous, si la contenance extérieure était toujours l'image des dispositions du cœur

【「内面」と「外観」の対立関係】
つまり、先ほどに見たとおりに、徳の見せ掛けと本当に持っている徳との対立を改めて強調します。言い換えると、「有様」と「見せ掛け」との対立を中心に置きます。この対立こそ、ルソーにとっての大事な対立となって、この作品の文章には常に出てくる対立です。つまり、我々は本当に「有りのままにいる」姿と「見せ掛ける」姿との対立が常にこの作品に出てきます。

実際、こういった対立はどこから来るのでしょうか。というのも、ルソーの書いていた時代に置いて、こういった対立があまりにも目立っていたようだったから、ルソーが「人々は見せ掛けるふりにするが」つまり、外見的にある偽りの像を打ち出すが、実際に内面的に全く違う人となっているという印象から来る主張です。言い換えると、当時の人々は本来の自分のありのままではない偽りの方を見せ掛けるとルソーは主張します。別の言い方をすると、彼らは「あらゆる徳を持つかのように」見えるかもしれないが、実際において、それらの徳を本当の意味で持つのではないとルソーは主張するのです。

そういえば、お配りした最初の文章の最後を読みになったら自明でしょう。
「我々の人生は快いものとなったことでしょう。」ということは、希望の形を取って語っていますね。そして、希望・願いというのは、今持たないものへの欲望を表現することですね。つまり、こういった願いを表明することによって、ルソーが明白に「私の望んでいる社会は存在しない」ということを断言するのです。

「もし外観が、常に心情の映像であったなら、[…]我々の人生は快いものとなったことでしょう。」
要するに、「実際にないが」と言わんばかり、我々の有りのままが外観に写るならば、どれほど我々は皆と一緒に過ごして気持ちよかろうという感じですね。続きはこうなります。
「もし行儀のよいことが徳であったならば、」
si la décence était la vertu

また希望の形にして、行儀は作法などであって、つまり彼の言う「飾りと見せ掛け」の一種ですね。で、しっかりとした丁寧さなどが本当に徳の現れであればよかったのに(実際にそうではないが)という意味ですね。まだ希望の形で続いて、
「もし格言が規範として我々に役立ったのならば、」。
si nos maximes nous servaient de règles

つまり、「我々の言う格言を本当に宣言して、本当の意味で、真にその格言に従って喜んで具現化することができればよかったのに(実際にそうではないが)」と言わんばかりです。確かに、格言を言い出すのは容易ですが、実際に格言に従って模範的に生きていくのは困難ですね。

「もし真の哲学が « 哲学者 »という肩書と切り離せなかったならば、我々の人生は快いものとなったことだろう。」
si la véritable philosophie était inséparable du titre de philosophe

この最後の部分では、すでに啓蒙哲学者たちを攻撃します。お配りした他の文章でも、その攻撃がその後に続きます。ルソーは結局、啓蒙哲学者を敵に回すのです。特にヴォルテールを敵に回しました。そして、次のことを書き加えます。

「しかし、これだけ多くの美点が一つに集まることは極めてまれであり、」
Mais tant de qualités vont trop rarement ensemble,

言い換えると、「有りのまま」と「外観」の一致が非常に稀だということです。また、外観が内面と一致することも、あるいは内面が外観と一致することも稀だと彼はいっています。従って、ルソーは次のように続けます。
「徳がこれほど華々しく現れることも、まためったにありません。」
et la vertu ne marche guère en si grande pompe.

ルソーの当時はルネサンス期の後の時代であることを念に置きましょう。言い換えると豪華と輝きがある時に、つまり華美や壮大さや壮麗な作法・礼儀または言葉の綾とか、なんでもいいですが、兎に角、それらはあるのなら、裏には徳がないとルソーが断言します。
「衣装の豊かさは富者のしるしであり、衣装のみやびやかさは風流人のしるしといえるかもしれない。しかし健全で強壮なひとびとは、他の特徴によって見分けられる。」
La richesse de la parure peut annoncer un homme opulent, et son élégance un homme de goût ; l'homme sain et robuste se reconnaît à d'autres marques

ここも同じことが繰り返されていますね。ルソーの書きぶり自体は紛れもなく綺麗だと言わざるを得ません。要するに、「豊かさ」などは徳にならないとルソーは断言します。いろいろな意味で「豊か」に見える人々は「徳」を現すのではないと言っています。なぜかというと、徳のある人、「健全で強壮なひとびとは、他の特徴によって見分けられるもので」あるからです。

「肉体の力強さがみられるのは、農夫の質素な衣の下にであって、廷臣の金ピカの衣装の下にではない。魂の力であり生気である徳にとっても、衣装は同じく無縁なものだ。善行の士は裸で戦うのを好む力士である。彼は自分の力の使用を妨げるつまらぬ装飾物、多くはなんらかの奇形を隠すために発明された装飾物を、すべて軽蔑する。」
c'est sous l'habit rustique d'un laboureur, et non sous la dorure d'un courtisan, qu'on trouvera la force et la vigueur du corps. La parure n'est pas moins étrangère à la vertu qui est la force et la vigueur de l'âme. L'homme de bien est un athlète qui se plaît à combattre nu : il méprise tous ces vils ornements qui gêneraient l'usage de ses forces, et dont la plupart n'ont été inventés que pour cacher quelque difformité.

ここです。「内面」と「外観」を対立関係に置くついでに、ルソーはまだはっきりと言わないが、後に紹介する通りハッキリしますが、ルソーはもう一つの対立を被らせます。つまり「本性・自然」と「文化・教養」との対立です。ここに言う「文化」という表現は、「学問と芸術」を指すに他なりません。なぜでしょうか。

【「本性・自然」と「文化・教養」との対立】
最初は、「本性」と「芸術」を対立させますが、結局同じ結論になります。
「魂の力であり生気である徳にとっても、衣装は同じく無縁なものである。善行の士は裸で戦うのを好む力士である。」
La parure n'est pas moins étrangère à la vertu qui est la force et la vigueur de l'âme. L'homme de bien est un athlète qui se plaît à combattre nu

ここにある「裸」というのは、必ずしも身体の裸だけではなくて、「自然」状態に戻るということです。言い換えると、人間の芸術、人間による教養で加えられていない自然状態に戻るということです。わかりますか。
「彼は自分の力の使用を妨げるつまらぬ装飾物、多くはなんらかの奇形を隠すために発明された装飾物を、すべて軽蔑します。」
il méprise tous ces vils ornements qui gêneraient l'usage de ses forces, et dont la plupart n'ont été inventés que pour cacher quelque difformité.

言い換えると、「文化」は醜い「本性・自然」を隠し、発展に足りない「本性・自然」を隠すためだけにあるとルソーは言います。御覧の通り、ここでは、「外観」と「内面」との対立の上に、「自然・本性」と「芸術・教養」、または、「自然」と「文化」との対立が打ち出されています。それから、手元にある次の段落も明白です。

「芸術がわれわれのもったいぶった態度を作り上げ、飾った言葉で話すことを我々の情念に教えるまでは、我々の習俗は粗野であったが、自然なものだった。」
Avant que l'art eût façonné nos manières et appris à nos passions à parler un langage apprêté, nos mœurs - et la différence des étaient rustiques, mais naturelles

「我々の習俗は粗野であったが、自然なものだった。」言い換えると、習俗は善かったということです。「粗野」だったということは、丁寧さも礼儀もないという意味として「粗」く、または、「文明化」されていなかった習俗は「芸術」によって窒息させられていなかったと言うことです。

そして、ルソーは更に以上の対立を究めていきます。もう既に、ルソーの結論が打ち出されている文章です。また最後に改めて触れたいと思いますが、残りの文章はその結論の説明、そしてそれに関する事例に過ぎません。要するに、ルソーの打ち出す対立から対立への間に、ある種の発展が見えています。

最初は「外観」と「内面」とを対立関係に置かれています。彼にとって本当に乗り越えられない対立。
それから、第二の対立は「自然・本性」と「芸術」との対立となります。

【「自然・本性」と「政治的なもの」との対立】
第三の対立は、この文章を読むと、究極的に言うと「自然・本性」と「政治的な生活/営み」との対立となります。
「芸術がわれわれのもったいぶった態度を作り上げ、飾った言葉で話すことを我々の情念に教えるまでは、」
「態度」とか「言葉で話す」とか、他人との関わりにおいて不可欠な営みですし、他人との関係を特徴づけると言えますね。だから、あえて言えば、そういった他人との関係を持てる言葉などは政治上の営みを特徴づけるのです。なぜかというと、政治上の生活は、基本的に他の人々との関係を指すからです。
つまり、「芸術」によって「政治的な性格」を作り上げるまでは「我々の習俗は粗野だったが、自然なものだった」という意味になります。
見えてくると思いますが、その論理がどこに辿り着くか分かってくるでしょう。以上の対立こそ、ルソーの思想における中心たる根本的な要素です。

「そして態度の相異が、一目で性格の相異を示していた。人間の性質(本性・本質)が根本的に今日よりよかったわけではないが、ひとびとはお互いをたやすく見抜くことが出来たので、安心していた。そして弧のような利益---もはやその価値を、我々は感じなくなってるが---によって、彼らは多くの悪徳をおかさないで済んだのだ。」
procédés annonçait au premier coup d'œil celle des caractères. La nature humaine, au fond, n'était pas meilleure ; mais les hommes trouvaient leur sécurité dans la facilité de se pénétrer réciproquement, et cet avantage, dont nous ne sentons plus le prix, leur épargnait bien des vices.

言い換えると、「善徳ぶった態度」がなかった時、「芸術と学問による装飾物」がなかった時、また、ルソーの言うように、「偽善である礼儀・丁寧さ」、あるいは「あらゆる外観の偽善さ」がなかった時にこそ、人々はお互いに有りのままに見え合っていたと言うのです。芸術と学問がなかった時に、人々はお互いに有りのままに見え合っていたと。
従って、ありのままに、本当の姿でお互いに知り合えていた「自然状態」だったと言っています。また言い換えると、学問と芸術のもたらした物事のせいで、人々はお互いに有りのままに見抜けなくなったということを彼は言っています。従って、お互いに知り合うことができず、少なくとも、お互いに本音を見抜くことができないと。

以上は、ルソーが打ち出した幾つかの典型的な対立です。

そして、お配りした長い抜粋の続きを読み上げましょう。
「一そう精緻な研究と一そう繊細な趣味とが、ひとをよろこばす術を道徳律にしてしまった今日では」
Aujourd'hui que des recherches plus subtiles et un goût plus fin ont réduit l'art de plaire en principes,

また同じですね。「道徳律」は徳ではなくなって、「人を喜ばす」ということになっていると言います。
「つまらなくて偽りの画一さが、我々の習俗で支配的となり、あらゆる人の精神が、同じ鋳型の中に投げ込まれてしまったように思われる。たえずお上品さが強要され、礼儀作法が守らされる。つねにひとびとは自己本来の才能ではなく、慣習に従っている。」
il règne dans nos mœurs une vile et trompeuse uniformité, et tous les esprits semblent avoir été jetés dans un même moule : sans cesse la politesse exige, la bienséance ordonne : sans cesse on suit des usages, jamais son propre génie.

御覧の通り、いつも「外観に礼儀作法によって偽られている」とルソーは主張します。言い換えると、18世紀における典型的な「オネトム・善き忠誠なる人」という追求すべき模範をルソーは否定するのです。

以上をもってルソーは何と言いたいのでしょうか。
「芸術は不自然に人造的・人為的」なこととなってしまった、とルソーは言いたいのです。言い換えると、「偽りの建前」になったということです。次の文書はより明白です。
「人々はもはや、あえてありのままの姿を現そうとはしません。」
On n'ose plus paraître ce qu'on est

言い換えると、礼儀作法などを使うが、結局、礼儀作法とは本音を隠すためだ、と。また、配慮・低調さ、上品さを人々が使っているが、相手のありのままの姿はそれで伝わらないし、本音は隠されているままだと。

つまり、取り敢えずその文章では(あとはちょっと違う意味になりますが)、礼儀作法としての「芸術と学問」のせいで、人間関係を歪めたと言っています。つまり、彼にとって、人々の関係はもはや忠実でなくなり、偽善と偽りの関係になってしまったと。なぜかというと、本性がありのままの姿で現れないから、人間関係が歪曲されたと。
「外観に遮蔽されるありのままの姿」。
「芸術という建前によって遮蔽される本音」また「礼儀作法・人為的な営みなどなどによって遮蔽される本音」。ルソーに言わせれば、画一化したせいで、個性が現れなくなった。
「こういった不断の強制の中で、」
ここの「強制」という言葉は、「自然・本性」との対立をまさに現します。
「礼儀作法」、また、ルソーの批判している多くの「行儀」などは、例えば文学と表現の形式も含めて、「不断の強制」だといいます。

【ルソーは啓蒙哲学者を対象に批判する】
「こういった不断の強制の中で、社会と呼ばれる群を形作っているひとびとは、同じ環境の中におかれると、ますます強力な動機によって方向を逸らされない限り、全く同一のことをするだろう。したがって、どの人と関わるべきかよくわからず、自分の友を知るためには、重大な機会、すなわち、万事が終わった時を待たねばならない。というのは、友を知ることが極めて重要なのは、そのような機会のためだから。」
et dans cette contrainte perpétuelle, les hommes qui forment ce troupeau qu'on appelle société, placés dans les mêmes circonstances, feront tous les mêmes choses si des motifs plus puissants ne les en détournent. On ne saura donc jamais bien à qui l'on a affaire : il faudra donc, pour connaître son ami, attendre les grandes occasions, c'est-à-dire attendre qu'il n'en soit plus temps, puisque c'est pour ces occasions mêmes qu'il eût été essentiel de le connaître.

要するに、社会とそれらの礼儀作法などの外に出られた時だけはじめて、我々の親しい人々をいよいよ本当に知りうるとルソーは主張します。
それでは、ルソーにとって、社会がなぜこうなっているかの理由はどこにあるのでしょうか。次の段落は手元にないと思いますが読み上げましょう。

「(この友を知ることの)不安に、何といろいろな悪をお伴がつきまとうことか!もはや真面目な友情も、本当の尊敬も、基礎の固い信頼もない。」
Quel cortège de vices n'accompagnera point cette incertitude ? Plus d'amitiés sincères ; plus d'estime réelle ; plus de confiance fondée.

これは以上のある種の帰結ですね。総ては建前に過ぎないのなら、友情でさえすべてうわべだけに過ぎないということになります。建前だからうわべだけですね。外観だけです。

「あの画一的で不実なお上品さのおおいの下に、現代の知識のおかげであるあの誇らしげなみやびやかさの下に、疑惑、猜疑、恐怖、冷淡、遠慮、憎悪、裏切り、と言ったものが常に隠されている。」
Les soupçons, les ombrages, les craintes, la froideur, la réserve, la haine, la trahison se cacheront sans cesse sous ce voile uniforme et perfide de politesse, sous cette urbanité si vantée que nous de-vons aux lumières de notre siècle.

前回、ルソーの人生をご紹介したことを覚えていらっしゃるかもしれません。ルソーにはある種のパラノイアという精神病にかかっているという要素がありました。以上の文章はその意味で明白でしょう。
「疑惑、猜疑、恐怖、冷淡、遠慮、憎悪、裏切り」。少なくともこの文章でルソーが自分のありのままを現していると言えますね。
「あの画一的で不実なお上品さのおおいの下に、現代の知識のおかけであるあの誇らしげなみやびやかさの下に、」
これが直接に啓蒙哲学者を攻撃する文章です。この裏にヴォルテールが特に狙われていて、ルソーが関わっていた啓蒙系の社交界を狙うのです。というのも、ルソーには啓蒙哲学者たちとの交際が多くあって、その社交界をよくわかっていたし、百科全書の作成のためにも誘われたのですから。
勿論、ルソーの能力に相応しい項目の作成が頼まれて、つまり音楽についての項目だけです。少なくとも、啓蒙系の連中を良く知っているルソーです。

ルソーは皮肉ぶって次のように結論付けます。
「このようなものが、我々の習俗が手に入れた純粋さだ」。
Telle est la pureté que nos mœurs ont acquise.

というのも、こういった「純粋さ」というのは、概観だけの人造的な純粋さであって、絶対にうわべの純粋さに過ぎないという皮肉です。この文章は勿論皮肉ですね。そして、
「このようにして、われわれは善行の人となった。」
C'est ainsi que nous sommes devenus gens de bien.

要するに、人々を「善行の人」だと評価するためには、本音はどうなっているのか、実際にどう行動するのかという基準ではなく、建前と外観だけが基準となっている、と言います。もちろん、ルソーはここでまた啓蒙哲学者を対象に批判しています。

「このありがたい仕業の中で、文学、学問、芸術の力に帰すべきものは、これらに要求させておきましょう。」
C'est aux lettres, aux sciences et aux arts à revendiquer ce qui leur appartient dans un si salutaire ouvrage.

【「学問と芸術とが完成に近づくにつれて、魂は腐敗した」】 
それから、お配りした一枚目の第二の引用に移したいと思います。以上垣間見た主張をルソーが更に発展していくことをご紹介しましょう。

「何らかの結果もないところには、探究すべき原因もない。だが今のばあい、現実の頽廃という結果は確かなことだ、我々の学問と芸術とが完成に近づくにつれて、我々の魂は腐敗したのだ。」
Où il n'y a nul effet, il n'y a point de cause à chercher : mais ici l'effet est certain, la dépravation réelle, et nos âmes se sont corrompues à mesure que nos sciences et nos arts se sont avancés à la perfection.

この一行で、ルソーの主張は要約されています。つまり、「我々の学問と芸術とが完成に近づくにつれて、我々の魂は腐敗したのだ。」
「これは我々の時代に特有な不幸と言えるだろうか。いいえ、諸君、我々の無益な好奇心によって引き起こされた禍は、世界とともに古いものだ。」
Dira-t-on que c'est un malheur particulier à notre âge ? Non, messieurs ; les maux causés par notre vaine curiosité sont aussi vieux que le monde.

ここでいう好奇心というのは、知識上の好奇心をさすのです。言い換えると、学問の嗜みを指すのです。または、18世紀において言われていた学問と科学を指すのです。というのも、当時は学問の飛躍的な発展な時代だったのは紛れもない事実ですから。

「いいえ、諸君、我々の無益な好奇心によって引き起こされた禍は、世界とともに古いものだ。大洋の水の日々の干満が、夜中に我々を照らしている天体(月)の運行に従う規則正しさと雖も、習俗と誠実さの運命が、学問と芸術の進歩に従う規則正しさには及ばないだろう。」
Non, messieurs ; les maux causés par notre vaine curiosité sont aussi vieux que le monde. L'élévation et l'abaissement journalier des eaux de l'océan n'ont pas été plus régulièrement assujettis au cours de l'astre qui nous éclaire durant la nuit que le sort des mœurs et de la probité au progrès des sciences et des arts.

ここでは、ルソーは科学的に結論付けようとしています。つまり、干満を引き起こす月と習俗の頽廃と引き起こす学問芸術との関係を関連付けて、類似性を見出して、同じような関係にあるとしています。つまり、両方とも因果の関係にあると主張します。つまり、干満の原因である月と同じように、習俗の頽廃の原因には学問と芸術がある、と。そして、その段落の最後の文章は次の通りです。

「学問学術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのが見られる。これと同じ現象は、あらゆる時代、あらゆる場所においてみられる。」
On a vu la vertu s'enfuir à mesure que leur lumière s'élevait sur notre horizon, et le même phénomène s'est observé dans tous les temps et dans tous les lieux.

「学問学術の光が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのが見られる。」
つまり、ここでいう「光」は他にならない「学問の発展」であるが、つまり「学問学術の発展が地平にのぼるにつれて、徳が逃げてゆくのが見られる。」

先ず、第一の対立として、「外観と内面」(あるいは建前と本音)が打ち出されています。
そして、第二の対立として、「自然と芸術」が打ち出されています。あるいは「自然と文化」ともいえます。
続いて、その延長線に、「自然と政治」との対立となっていきます。
要するに、ルソーに言わせれば、学問と芸術は習俗の頽廃を引き起こす原因なのだと言っています。

原文の数枚を飛ばしておきました。というのも、以上に見た主張を根拠づけるために、幾つかの歴史上の事例を述べ並べるのです。ルソーの父は、ルソーの子供の時に、多くの本を読ませておいて、ローマと古代史についての本も多くルソーは読みました。だから、愛読者だったルソーがそれらの歴史の本を読んだりして、夢中になって、古代の英雄になりたかったかもしれません。

ということで、ルソーはまずエジプトという事例を出します。エジプトは「世界最初の学園」であるからと彼はいっています。
また「英雄たちが多くいたギリシャ」。そして、「一人の羊飼いによって築かれ、農民たちによって興隆したローマ」。これは象徴的ですね。「一人の羊飼いによって築かれ、農民たちによって興隆したローマ」。
要するに「自然たる人々によってローマが創立された」ということで、最初は「ローマが善かった」と主張しているルソー。
しかし「テレンティアリス」とか「エンニウス」とか出てきた時代から、ローマが衰退し始めたとされています。つまり、知識人が出てきた時ですね。そしてルソーはさらに非難します。

「オヴィディウス(Ovidius)、カトゥルス(Catullus)、マルティアリス(Martialis)のようなひとびとや、その名を聞くだけでも恥ずかしい思いのする多くの淫らな作家たちが出た後、かつては徳の殿堂であったローマは」
つまりかつては羊飼いの時代のよきローマは「犯罪の舞台、諸国民の汚辱、蛮族のもてあそびものになった。」
Mais après les Ovide, les Catulle, les Martial, et cette foule d'auteurs obscènes, dont les noms seuls alarment la pudeur, Rome, jadis le temple de la vertu, devient le théâtre du crime, l'opprobre des nations et le jouet des barbares.

ルソーの書きぶりは美しく、その論調が綺麗なのは綺麗です。
「ついにこの世界の首府は」云々。事例を打ち出し続けていきます。
Cette capitale du monde tombe enfin sous le joug qu'elle avait imposé à tant de peuples, et le jour de sa chute fut la veille de celui où l'on donna à l'un de ses citoyens le titre d'arbitre du bon goût.

「しかし、なぜ、この真理の証拠を、遠く過ぎ去った時代に求める必要があるだろうか。いまなお眼前にその証拠が残っているではないか。」
Mais pourquoi chercher dans des temps reculés des preuves d'une vérité dont nous avons sous nos yeux des témoignages subsistants.

そして同じ調子でルソーがつづけます。
「いままでのべてきた、色々の事例に、少数の民族―空虚な知識の伝染を免れて、自らの徳によって、自分自身の幸福を作り、他の民族模範となった民族―の習俗の事例を、対比してみよう。」
Opposons à ces tableaux celui des mœurs du petit nombre des peuples qui, préservés de cette contagion des vaines connaissances ont par leurs vertus fait leur propre bonheur et l'exemple des autres nations.

そして、それに続いて「反対推論」、「裏を返せば」という様式で、別の事例を述べ並んでいきます。
最初のペルシャ人やゲルマン族やスキタイの事例を挙げます。また古来のローマ。そして、長くスパルタの事例を打ち出します。スパルタが大好きのルソーです。そして、スパルタをアテナイに対立関係におきます。

「アテナイは上品さと風雅さとのすみかとなり、雄弁家と哲学者の国となった。アテナイの建築の優雅さは、言語の優雅さと相応した。(…)あらゆる堕落の時代に置いて模範として役立つ、あの驚くべき作品ができたのは、そのアテナイからだった。」
Athènes devint le séjour de la politesse et du bon goût, le pays des orateurs et des philosophes. L'élégance des bâtiments y répondait à celle du langage. … C'est d'Athènes que sont sortis ces ouvrages surprenants qui serviront de modèles dans tous les âges corrompus.

ちょっと飛ばします。
そして、ルソーはソクラテスを引用するのです。ルソーにとってのソクラテスは「無知のソクラテス」に帰します。「わしは、何も知らないことだけは知っている」。これなら、ルソーは自慢にして好きな引用ですね。
ソクラテスについて、次のようになります。「このようなのが、ソクラテス、神々の判断によれば最も賢明な人間であり、全ギリシャ人の考えではアテナイ人の貨で最も卓越した学者であるソクラテスがなした無知の賛美なのだ!」
Voilà donc le plus sage des hommes au jugement des dieux, et le plus savant des Athéniens au sentiment de la Grèce entière, Socrate, faisant l'éloge de l'ignorance!

象徴的でしょう。
要するに、ルソーは「無知」と「徳」と同一視するということです。厳密に言うと、無知を徳の原因として見なすのです。
「同胞市民たちの徳を腐敗させ、この勇気を弱めた、この技巧的な巧緻なギリシャ人たちに対して、激しく反抗することはアテナイではソクラテスがはじめ、ローマでは老カトーが、それを続けた。」
Socrate avait commencé dans Athènes ; le vieux Caton continua dans Rome …

続いて、「おお、ファブリキウスよ!」。言うまでもなく、流石に評価すべき書きぶりです。ちょっと飛ばします。
「時と場所との隔たりを飛び越えて、われわれのくにで、我々の眼前で起こっていることを見よう。いやむしろ、我々の繊細な心を傷つけるような、いまわしい描写はやめ、また同じことを違った名でくりかえす労を省こう。(…)」
「我々の間では、ソクラテスはじっとして毒を飲むことはないだろう。しかし彼は侮辱的な嘲笑や、死よりも百倍も有害な軽蔑を、もっと苦しい盃でのみ込むだろう。」
Niais franchissons la distance des lieux et des temps, et voyons ce qui s'est passé dans nos contrées et sous nos yeux ; ou plutôt, écartons des peintures odieuses qui blesseraient notre délicatesse, et épargnons-nous la peine de répéter les mêmes choses sous d'autres noms. …
Parmi nous, il est vrai, Socrate n'eût point bu la ciguë ; mais il eût bu, dans une coupe encore plus amère, la raillerie insultante, et le mépris pire cent fois que la mort.


ここも、ヴォルテールと啓蒙哲学者に関する指摘です。

【「幸福な無知の状態」】
それでは、以上の大結論をご紹介しましょう。この第一部の最後の段落です。
「このようにして、永遠の叡智のおかげで、我々が味わっていた幸福な無知の状態から抜け出るために、我々が行った傲慢な努力の天罰は、いつの時代でも、奢侈、頽廃、奴隷状態だった。」
Voilà comment le luxe, la dissolution et l'esclavage ont été de tout temps le châtiment des efforts orgueilleux que nous avons faits pour sortir de l'heureuse ignorance où la sagesse éternelle nous avait placés.

「幸福な無知の状態」を指摘しておきましょう。
ルソーに言わせれば、学び始めた人々は少しずつ頽廃してきたということです。裏を返せば、無知を大切にし続けた人々は幸福のままになって、つまり有徳の士だったと言っています。

「永遠の叡智が、そのすべての働きの上に熱い蔽いをかぶせていたのは、われわれが空虚な研究をするように、神が決して運命づけてはいなかったことを充分に予告しているように思われる。」
Le voile épais dont elle a couvert toutes ses opérations semblait nous avertir assez qu'elle ne nous a point destinés à de vaines recherches.

言い換えると、人間は学ぶ時に苦労しているということは事実です。確かに、我々も誰も否定しないと思いますが、学校に行って辛い思いをする(勉強したくないという傾向)のは、結局、ルソーにとっては「怠惰さ」のせいではなく、「神の恩恵」です。彼の理論だと当然でしょう。
彼にとって、「幸福な無知」を守るために「学問をするときの自然な苦労」があるわけです。その自然な苦労は、英知・智慧・学問・芸術に「陥らない」ために備わっている、自然なるよき「怠惰」となります。それは、単純な習俗のままに留まるための(自然状態のままでいるための)、つまり「有徳の士」のままで留まるための良き「怠惰」だと言えますね。これがルソーの理論です。

【学問と邪悪の間に因果関係がある】
手元にある同じ抜粋のちょっと後に次があります。
「人々よ、母がその子の手から危険な武器をもぎとるように、自然はお前たちを学問から守ろうと望んでいたことを知るがよい。」
Peuples, sachez donc une fois que la nature a voulu vous préserver de la science, comme une mère arrache une arme dangereuse des mains de son enfant

勿論、彼の言っていることは、一理あるのです。「母がその子の手から危険な武器をもぎとるように」
「自然がお前たちに隠しているあらゆる秘密は、それだけ悪であって、自然はお前たちがその悪に落ち込むのを保護してくれていること、お前たちが知識を手に入れるのに要する苦労は、自然の恩恵の中でも、最少のものではないことを、一度は知るがよい。人間というものは、邪悪なものだが、不幸にして学者として生まれていたなら、もっと邪悪なものだろう。」
que tous les secrets qu'elle vous cache sont autant de maux dont elle vous garantit, et que la peine que vous trouvez à vous instruire n'est pas le moindre de ses bienfaits. Les hommes sont pervers ; ils seraient pires encore, s'ils avaient eu le malheur de naître savants.

これを見ると、明白ですね。学問と邪悪の間に、明白な因果関係があると主張しています。
そして、次のことで第一部を結びます。
「上に述べたような反省は、人類にとって、なんと屈辱的なことか!」
Que ces réflexions sont humiliantes pour l'humanité!

そして、これで第一部を結びます。
「それでは、学問と芸術それ自体を考察しよう。学問と芸術の進歩から生まれるに違いない結果を見よう。そしてわれわれの推論と、歴史からの帰納とが、一致するあらゆる点を、もはやためらうことなく認めよう。」
Considérons donc les sciences et les arts en eux-mêmes. Voyons ce qui doit résulter de leur progrès ; et ne balançons plus à convenir de tous les points où nos raisonnements se trouveront d'accord avec les inductions historiques.

要するに、多くの悪い結果が学問と芸術の進歩からどうやってきたかということを次にルソーが説明しようとします。

(続く)