ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

隠された十字架や御像

2023年03月30日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


隠された十字架や御像
プーガ神父様(D.Puga)
2023年3月26日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。親愛なる信徒の皆様、今日からご受難節に入ります。四旬節の一部ですが、四旬節中の頂点となります。今までの数週間はご受難節を準備するためにあります。公教会と一緒に、我らの主イエズス・キリストのご受難を再び追体験するのです。そして、その御死去を記念し、その三日後の日曜日の復活祭でご復活を祝うことになります。

公教会は喪を不思議な形で記念することになります。ご受難の節に入ると典礼上に変更が生じます。特に十字架や御像は紫色のヴェールで隠されます。昼間に、本教会を訪問しに来る人々はこの古い慣行の姿を見て驚くことが多いです。
この典礼上の慣行は非常に古くて、聖伝の典礼では厳格に守られています。新しい典礼では任意となってしまいましたが、とにかく古い慣行です。
初期キリスト教時代から引き継がれた改悛の精神を思い起こすための慣行です。



ヴェールの慣行についての質問を受けたら、以上のように答えましょう。

なぜなら、古代の教会では四旬節という期間は洗礼を受けようとする人々のための準備期間として重要な時期だったからです。これらの人々は典礼に与かってはいるもののまだ公教会の一員ではないのですね。
また、四旬節は公けに罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。つまり、重大な罪を犯して、しかも人々にとってあからさまな罪で、公けになる大罪を犯した罪人の改悛のための期間でもありました。
四旬節の間、これらの深刻な罪を犯した罪人は改悛するように求められて、告解の秘蹟を通じて天主との仲直りを準備するための期間であり、その暁には復活祭のミサに再びご聖体拝領をできることになります。



四旬節の間にこれらのいわば「公けの罪人」は教会から排除されていたわけです。つまり、教会から追放されて、公教会の交わりから除かれて「破門」されていた状態でした。
時間が経つと、平信徒は自分も改悛して苦行することが相応しいと思いました。なぜなら多くの信徒は公けに罪を犯さなくても天主のみ前で重大な罪を犯すこともあるからですね。もちろん、これら罪人は見えていない罪人なので、罪であるかどうか判断しかねる場合が多いです。

このように、多くの信徒は罪人であることを意識して、公けに改悛する人々とともに、自分自身も改悛したいという気持ちがありました。そういったことから、四旬節の間に教会の内陣を隠す慣行が生まれました。教会の内陣には十字架や諸聖人の御絵、御像などがありました。古代なら、教会の中心にあった十字架の周りには諸聖人の御絵、御像は必ずといってもよいほどありました。

要するに、内陣の前に広い紫色の布を吊って、改悛という四旬節の期間に内陣が見えないようになっていました。つまり、四旬節の間は信徒たちは聖なる生贄、ミサ聖祭を見ることができませんでした。これはつまり、「私は罪人であり、ミサ聖祭にあずかる資格はない、天主の聖性に触れる資格はないことを認める」という想いを表すためでした。

このように、吊るされたヴェールは四旬節の最初から聖金曜日までありました。聖金曜日になったら、諸聖人の御像などは隠されたままでしたが、十字架のヴェールを外しました。つまり、聖金曜日になると、信徒の皆さんは十字架だけは見られるように助ける典礼上の工夫でした。
我らの主イエズス・キリストの十字架によってこそ、我々は改悛できるということを表すためでした。

聖金曜日、聖土曜日の間、教会にあるすべての十字架は見られるようになります。それは、天主の素晴らしい御愛を印す十字架であり、我らの主イエズス・キリストの御死去を思い起こさせる十字架です。イエズスは我々のために犠牲になり給うたほどに我々を愛し給うたことを思い起こさせる十字架です。また、今日もイエズス・キリストはもう一度十字架を担ってまで我々一人ひとりの霊魂を救う覚悟があるほどの御愛だということを思い起こさせる十字架です。

そして復活祭の徹夜祭の最後、我らの主の復活を祝うときに合わせて、残りのヴェールを外します。諸聖人も見られるようになります。
それは、キリスト教徒たちの罪人はイエズス・キリストに従いながら行った改悛の末に、いよいよ天にいる諸聖人の通功に復帰したということを表します。

時代を追うごとに、内陣を隠す広いヴェールは覆われなくなりましたが、四旬節の最初からではなく復活祭になる前の二週間となるご受難節から十字架や諸聖人をヴェールで隠す慣行は現代まで残りました。

聖木曜日、聖金曜日と聖土曜日の典礼にあずかれるのなら、是非与かってくださいね、以上の話が目で見えることになりますので。
聖金曜日の典礼では、十字架を荘厳に礼拝する儀式があります。十字架を礼拝する儀式の前に、助祭と副助祭の補佐をうける司祭が十字架のヴェールを外す儀式があります。そのあと、信徒は十字架を礼拝します。

それから、聖土曜日の徹夜祭にあずかるのなら、その途中ですべての御像のヴェールは外されます。それは、よい改悛の末に、再び諸聖人の通功へ復帰できるということを象徴します。天にある我々の故郷へ再び帰れるということを表すのです。

これらの典礼上のことは細かなことでしょうが、公教会はこのように多くの典礼上に工夫を尽くすことで、我々が典礼をよく体験できるように、またご受難節の間に教えられる真理をよりよく理解させるのです。

こうしてご受難節の間、四旬節の間、特に改悛のために尽くした苦行や、遷善の決心などをさらに頑張って努力して尽くしましょうということを助けるのです。

またそれよりも重要で、この世から一歩距離をおいて、現世から、またこの世の精神から離れるように、ご受難の二週間、現世にある多くの遊楽、忙しさから離れるようにと励ますのです。ご受難の節はちょうど14日間ですが、十字架の道行の14つの留に相当します。

親愛なる信徒の皆様、我々も自分の生活の中に、紫色のヴェールですべて空しい物事を隠しましょう。二週間ぐらい、我らの主、イエズス・キリストのご受難を黙想して、一致するように努力しましょう。
ぜひとも、それを努力するようにお勧めします。

そうするために、聖母マリアとともに、聖母マリアと一致して、祈りましょう。先ほど、お知らせにあったように来週の金曜日は哀れみの聖母マリアの祝日です。また聖マリアの七つの御苦しみとも言います。



十字架のもとに立っておられる聖母の祝日です。復活祭までの残りの時間を聖母マリアと一緒に過ごしましょう。
14日間あるので、例えばですが、十字架の道行の一留を毎日黙想することができます。

御哀れみの聖母と一緒に黙想しましょう。福音書の中に、イエズスの公生活になってから、聖母マリアに関する記述はほぼなくなります。公生活の最初、イエズスが起こす最初の奇跡の時、聖母マリアがいます。召使いに「何でもあの人の言う通りにしなさい」(ヨハネ、2,5)といいます。そして、それ以降、聖母マリアはあらわれなくなります。そして、聖母マリアはふたたび登場します。イエズスがすべての人々から見捨てられたときに、聖母マリアがいます。十字架の下に聖母マリアがいました。



想像してみください。童貞聖マリアの苦しみがどれほど大きかったか。自分の子が苦しめられて軽蔑されて誹謗されて拷問されることを見て、そして十字架上のイエズスの最期の叫び声が聞こえたとき、聖母マリアはどれほど苦しんだでしょうか。聖母マリアはご降誕の日、幼いイエズスを抱いて、赤ちゃんの最初の泣き声が聞こえたときと十字架の時との声、最初と最後にいたのが聖母マリアです。

親愛なる信徒の皆様、ご受難節を聖母マリアとともに過ごしたら、天主のみから来る安泰、平和のうちに我らの主イエズス・キリストのご受難節を過ごすことができることでしょう。

また、我らの霊魂が天主から見てどれほど貴重なものであるかをも理解するでしょう。
天主は、ご自身の御子なる我らの主イエズス・キリストを我らの霊魂の救いのために、我々の罪を償って天国の門を開けるために、送られるほどに我々の霊魂を大切なものとしてくれたのです。



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


カトリックにおいて、子供の教育とは?

2023年03月29日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ド・ジョルナ神父様(B. de Jorna)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

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子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事
ド・ジョルナ神父様 
2023年3月19日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、福音書の中でも一番感動するだろうと思われる場面があります。イエズスが歩きながら使徒たちに何について話し合ったのかと聞きます。使徒たちはちょっと恥じらって答えません。なぜなら、使徒たちは誰が一番偉いのかについて議論していたからです。

聖マルコによると、イエズスはカファルナウムのある家に座って、使徒たちに仰せになりました。「「第一の者になろうと思うのなら、みなのあとになり、みなの召使いにならなければならぬ」といわれ、一人の子どもを彼らの真ん中に立たせ、その子の肩を抱き、「私の名のために、こういう子どもを受け入れる者は私を受け入れる。私を受け入れる者は私を受け入れるのではなく、私を遣わされたお方を受け入れる」といわれた」(マルコ、9,35-37)



教皇ピオ十一世は教育に関する回勅において、以上の福音書の場面はどの言葉よりもこの上なくよく、キリスト教的に子を育てること、偉大な仕事、美しい仕事、超自然的な仕事であることを表現しているといっています。イエズスご自身がご自分を子どもであるかのようにおっしゃった場面です。

ですから、福音書から明白に読み取れるように、我らの主は子どもの霊魂を非常に大切にしていらっしゃり、また教育はとても重要なことであると思っておられます。ピオ十一世がいうように、キリスト教的な教育は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事です。両親をはじめ、子どもを育てる責任のある者にとって子どもを育てるために全力をつくし、時間を与えて、すべての手段を尽くすことは最も偉大な仕事です。

良く成功する教育を与えるためには多くの状況があります。その内で一番重要なことがあります。学校の問題です。両親と学校との関係の問題です。

現代ならなおさら重要な問題です。なぜなら、学校はだんだん大きな一角を占めるようになっているからです。ご存じだと思いますが、最近、政府が決定した法律で、就学義務は六歳から三歳へ繰り下げられました。そして、ホームスクーリングは実質上禁止されました。

ピオ十一世は同じ回勅において、最も穏当なことを述べます。自然法上にも、カトリック的にも学校をどう見るべきか述べられています。引用します。
「学校は本質的に二次的制度に過ぎなくて家族と教会を補助するために存在する。それがゆえに、学校は家族と教会と反対してはいけないどころか、積極的に家庭と教会に和合する必要がある。このように、家庭と教会とともに、学校はキリスト教的な教育のために一つの聖域をなすべきことである。そうならなければ学校はその存在理由を全うしないで、その目的から外れて、かえって、破壊的な組織になっていく。」

カトリックの教えの中に、ご覧のように学校の存在が認められているものの、学校の立場は二次的にすぎない、次席にすぎない。主役ではなく脇役にすぎません。なぜなら、学校はあくまでも親の仕事を補助するためにあるだけだからです。ですから、道徳的にも理論的にもキリスト教徒の両親には、教育の責任があるので、学校を通わせるなら、カトリック学校に通わせる義務があるというふうに教皇は結論づけます。それは家庭、教会、学校の教育の一貫性を実現するために必要です。

しかしながら、どこにでも本当に徹底的なカトリック学校があるわけではありません。現実は厳しいです。なぜなら、19世紀末からカトリック学校は激しく攻撃され続けてきたからです。

非常に手短に要点だけを思い出しましょう。1880年、修道士の国外への追放令がありました。多くの修道士は教員で、学校施設を運営していました。例えばイエズス会、サレジオ会、ラ・サール会などはそうでした。
またそのちょっと後、フェリーとGoblet諸法は教育内容と教員たちの世俗化(無宗教化)を強いました。そして、1904年7月、Combes法があります。これをもって、フランス国内で、カトリック修道会が学校施設、教えることは厳禁されました。フランス滞在が合法化されている修道士も含めてです。またこれら修道会のすべての財産を没収することを命じる法律です。

これではカトリック系の教育は生き残るために、方便を見つけざるを得ませんでした。世俗者の信徒の助けを求めて、もともと教区から独立した修道会らは教区の加護のもとに自分を置かざるを得なかったのです。
幸いなことに、第一次世界大戦を経てから、これらの法律は適用されなくなり、カトリック学校は黙認されるようになって、第四共和政になったとき、一時的に公認されるときもありました。第五共和制の間、カトリック学校は一応その存在が許されていましたが、国家からは、何の保護も補助もなしでした。
一世紀半から、フランスにおけるカトリック学校の歴史を要約してみましょう。戦闘の歴史です。その存在を認めてもらうための政治上の戦闘の歴史です。国家など、公の助成金に頼らない、金銭上の戦闘の歴史でもあります。

この戦闘の歴史を代表的に象徴しているのは、聖ビンセンシオ・ア・パウロとルイーズ・ド・マリヤックとが創立した聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会があります。角頭巾のシスターたちとかつて親しく呼ばれていましたね。聖ビンセンシオ・ア・パウロによると、シスターたちは修道院は病者の家であり、禁域が町の通りだといいましたが、この修道会は多くの試練を通して現代まで生き残りました。

例えばですが、フランス革命の直後、多くの修道会の内に、愛徳姉妹会が最初に正式の存在を取り戻しました。また19世紀中に、愛徳姉妹会のシスターたちは子どもを治して、教えて、世話しつづけました。特に女性を。現代の誠意のある歴史家は19世紀における女性の識字化教育の発展の歴史は、愛徳姉妹会が重要かつ中心的な役割を担ったと認めています。

同じように、ジャン=バティスト・ド・ラ・サールが創立したラ・サール会またはキリスト教学校修士会があります。どれほど革命の混乱があっても、政治反乱があっても、迫害を押し付ける法律が出ても、戦い続けた修道会です。
二つの修道会とも、時には解体されたり、追放されたりしました。しかし、必ず戻ってきて、改めて組織化して、キリスト教的な教育を与え続けるために戦いました。

愛徳姉妹会の有名なシスターの事例を取り上げましょう。Jeanne Marie Renduですが、修道名はシスター・ロザリーです。19世紀の前半、54年間以上に、パリのムフタール通りの女性に教え、貧乏人の世話をし続けました。



現在はどうなっているでしょうか。
以上のような迫害の歴史があって、現代、本当に徹底的にカトリック的な教育を貫くカトリック学校すなわち国家契約を結ばない学校は少ないのです。このような学校を開校するのもほとんどの場合、利潤目的です。生き残って長生きするのは至難の業です。このように成功する学校を可能にさせるのは、毎年絶えない教員、両親、寄付者の寛大な気前の良さによるものです。

ここの小教区付属の学校、聖ルイ学校(昔は聖ベルナール学校)も一緒です。40年前に開校されましたが、最初は利潤目的でした。生徒の数は少なくて、教員と院長は若かったです。歴代校長ら、教員ら、両親と寄付者のすこぶる貢献によって、徐々に大きくなっていきました。1990年、中学校は郊外のクールブヴォアへ引っ越ししました。そして、小学校は当時と同じ場所にあります。聖ルイ学校は我々のための模範でしょう。よき天主さまは現代、我々に何を求めておられるかを教えてくださる事例でしょう。

我々はみな、よく、大きな「すべき論」を簡単にやるでしょう。キリスト教圏を再建築するためになにをすべきかなど、大きな夢を見ることが多いでしょうが、そのあまり、ときどき、善業は既に存在することが忘れられます。そしてこれらの善業を支えるべきことを忘れることもあるでしょう。この世に広まる悪はよき天主によって許可されているものの、よき天主は我々に戦うように求めておられます。既存の善を守り、増やすように戦闘することを求めておられます。

カトリック学校、とくに聖伝系のカトリック学校は既存の善業の中心なる部分を占めるに違いありません。なぜなら、将来があるからです。子どもの将来につなげるために、我々はこれらの施設を守り、増やしなければなりません。

ですから、毎年の通例のように、我々は皆さまの助けを求めに来ました。もちろん、物質的、金銭的な助けは必要です。我々の学校は両親が払う学費と寄付だけで成り立つわけです。そして、最近、建物などの改善事業を行っているので、必要です。

また、霊的な助けを求めます。なぜなら、我々がやっている教育の仕事は我々の力を超えているからです。キリスト教的にこどもを育てることにしていますが、そのために、超自然なる恩寵が前提です。このようなところは人間の力をはるかに超えています。一人前のカトリック信徒、大人を養成するためには、天主からの恩寵が必要です。それは皆さまの祈りにかかります。皆さまの助けのもとに、我々の学校は使命を尽くし続けます。

この使命は偉大な仕事であり、美しい仕事であり、超自然的な仕事である子を育てることという大目的のために、家庭の補助のためにあります。皆さまにお頼りして、天主に信頼して、毎年のように皆さまの助けで足りることを祈っています。
よき天主は皆さまを祝福されますように。
そして施しの代わりに、よき天主からあふれるほどの恩寵を受けらえますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

四旬節には、まず愛徳を

2023年03月25日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、フラメント神父様(Frament)のお説教 をご紹介します。
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四旬節には、まず愛徳を
フラメント神父様 
2023年3月8日
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン
親愛なる学生の皆さん、親愛なる信徒の皆様、本日、天主の聖ヨハネという聖人を祝います。ポルトガルに1495年ごろ生まれました。ちょうど、クリストファー・コロンブスがアメリカを発見した同じ時期です。天主の聖ヨハネは熱心なキリスト教の家族に生まれましたがとても貧しい家庭でした。

そして、不思議なことに、彼がまだ若かったとき、ある旅人が家を訪れました。そして、愛想のよいこの旅人はヨハネに一緒に行くように誘います。ヨハネの親はその提案を承認して、ヨハネを旅立つことをゆるします。この旅人を信頼したわけです。

そして数か月後、未成年のヨハネはスペインにいますが、独りぼっちとなってしまいます。自分の家を捜そうとしましたが、全然だめで、死ぬまでもう二度と親と会ったことがありません。これは彼にとっての最初の大試練でした。



そして、カール五世の軍隊に志願兵として入りました。そして、多くの兵士もそうであるように、その時、ヨハネは多くの罪を犯しました。兵士という身分なら、多くの誘惑があります。殺人でも略奪でも強姦でも売春の女性との不潔な関係でも多くの誘惑がある中に、きっとヨハネも悪い模範に引っ張られて罪を犯したでしょう。

そしてある日、ヨハネは非常にピンチとなりました。何かの重い違法行為、盗みだったと思いますが、嘘でしたが、だれかに訴えられました。彼の士官が彼を吊って殺すことを決定したとき、ぎりぎり彼を救った証人が出ました。その時、ヨハネは分かりました。どれほど人生は儚いことであるのかを知りました。かれはその時、地獄に落ちる直前までいたっていました。罪を犯しているままに死にそうになったからです。告解も改悛もよくできないままに急に死にそうになったわけです。

しかしながら、幸いなことにそうならないで、救われました。そして、そのあと、ヨハネはスペイン南部のアンダルシアにあるグラナダに行きました。そして、ある日、当時、襲名な説教者として知られているアビラの聖ヨハネ神父のお説教をたまたま聞くことになりました。改悛と天主への愛についてのお説教でした。

この説教を聞いて天主の聖ヨハネは教会を出たら大声で自分の罪を悔い改めて涙を流すほどに感動しました。かれは「私は大罪人です」と叫んでばかりいたので、周りの人々から彼は狂人ではないかという扱いを受けました。
その結果、彼は逮捕されて、精神病棟に押しこまれました。縁のない狂気の沙汰として扱われたので、彼を癒そうとして、相当大変な「治療」をうけました。当時、水を顔に投げたり、殴ったら発作は鎮まるだろうと信じられていた時代でした。

そして少し時間が経ったら、かれは正気であることに気づかれて、保護所から解放されました。
しかし、この経験はヨハネに強い印象を残しました。つまり狂人といわれる人々はこれほどひどい目に合わせられて苦しみを受けるということを知ったからです。

そして、その時から、貧しい人々へ眼を傾けるようになりました。まず、冬に備えて、また一年中パンが焼けるように、貧しい人々のための薪を拾って配ってあるいていました。最初、皆、彼をにらむような視線でみていましたが、少しずつそれも変わって、良い模範がひろまるかのように、他の人々も彼に倣って一緒に貧しい人々を助けることになりました。



そして、グラナダの人々から多くの施しをいただいたおかげで、貧しい人々のために家を購入しました。最も死にかけている貧しい人々のための避難所でした。ヨハネは母親のように貧しい人々の世話をしていました。身体だけではなく、霊魂の世話もしていました。いつもいつも良き天主の話をしていました。そして彼の愛徳と柔和に多くの貧しい人々が感動して回心しました。

本日の集祷分では、天主の聖ヨハネの人生の中の有名な場面を思い起こします。
グラナダである日、ある家が火災となります。火災の家に閉じこめられた数人の霊魂がいます。聖霊につき動かされて、ヨハネは火の家へ入ってゆき、皆を救いました。そして、何の傷もなく、ヨハネは家から出てきました。多くの人々は教会もこれを見て、奇跡的に天主の御助けがあったと見ました。普通ならば、このような大変な火災の家に入り込むと死ぬしかなったからです。
彼の愛徳の報いとして、その時、無傷で家から出られました。やけども一つもなかったのです。まさに奇跡でした。
天主の聖ヨハネは後に、「病院の兄弟たち」という修道会を創立しました。

親愛なる信徒の皆さま、この聖人はとても立派な愛徳の模範をわれらのために遺しました。とくに四旬節の間なら、なお大切な模範です。
四旬節の愛、多くの遷善の決心をして、犠牲など、自分の霊魂の救いを中心に考えることが多いでしょう。しかしながら、隣人をも考えるべきです。もちろん、自分の罪を償い、自分の事情で妥当な犠牲、それから多くの祈りをお捧げするのは最低限です。

しかしながら、使徒的活動をも視野に入れるべきです。ご存じのように、この世で我々は独りぼっちではありません。多くの社会、グループに属します。

隣人とは、まず家族と親戚です。また小教区の教会です。また大学のサークルや職場なのです。隣人への愛徳は近い順で行うことです。四旬節になって、自分を考えてから、隣人をも考えるべきです。愛徳と聖徳における完成、上達は矛盾しないどころか、一緒に発展していくのです。隣人への愛徳を施すことによって、自分の聖化を助けるわけです。

これから四旬節は一か月ぐらいで終わるのであっという間になりますので、全力で頑張りましょう。
すでに犯した罪への償いと祈りの上で、隣人のために何かの遷善の決心をとることを提案します。例えば、毎日、隣人への愛徳の行為を一つ行うとかいろいろあります。隣人への愛徳は具体的にいろいろできます。乞食に施しをあげるか、ちょっと悲しげな人へほほえみを送るか笑顔で接触するか、ちょっと疲れていてつまらない話がされても、相手をよく聞くとか、近所の人の何かの手伝いするとか、小教区の手伝いとか、多くあります。
やりやすいこともいっぱいあります。そうすると、教会全体のためにも自分のためにも多くの恩寵をいただけます。

ですから、天主の聖ヨハネに祈りましょう。思いにおいても言葉においても行動においても愛徳を施せるように。
隣人愛を実践するために、遠く海を渡って旅立つ必要はありません。我々のすぐ近くに惨め、悲しみ、貧しさはいっぱいあります。パリなら大変です。自分の家族でもときにあるでしょう。我々のできる範囲で、愛徳を施しましょう。霊的な手伝い、物質的な手伝い、つまらない人々へ忍耐、天主の聖ヨハネに倣って愛徳をほどこしましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


聖パトリックと大鍋

2023年03月21日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

日本語字幕つきは近日掲載!

▼フランス語原文はこちら▼


青銅のへび
D.Puga神父  
2023年3月15日 
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン。
親愛なる信徒の皆様、いま、四旬節の最中であり、ご覧のように聖人の祝いは次席にとどまっているところがあります。聖人の祝日は四旬節の期間中は、典礼上にその記憶にとどめて、個別のミサを捧げないことになります。

本日、あさっての3月17日に祝われる聖人について話したいと思います。聖パトリックです。アイルランドの守護聖人です。アイルランドはかつてまでとてもカトリック的な国でした。聖パトリックはケルト族のアイルランドという島へ福音を運んだ宣教師です。

なぜ聖パトリックについて特に今日、話すことにしているかというと、3月17日になると、パリをはじめ世界の多くの場所で、聖パトリックの祝日ということで、ビストロでもバーでもパブでも結構、賑やかにすることが多いです。しかしほとんどの人々は聖パトリックが誰なのかなどよくわかりません。なぜ、聖パトリックになってこのような祝いをするのかもほぼ誰も知らなくなりました。

ですから、聖パトリックはアイリッシュ・コーヒーと緑色の帽子だけではないことを知っていただくために聖パトリックについて話しましょう。

聖パトリック現在のグレート・ブリテンのどこかで生まれました。おそらく現在のスコットランドの境界に近い辺りだったと思われますが、定かではありません。四世紀中葉に生まれました。372年でした。372年だと、ローマ帝国がカトリックを国教化して間もないころです。そして、そのころ、ローマ人は少しずつグレート・ブリテンから撤収しはじめます。大陸における防衛を強化するためでした。大きく言うと、ローマ帝国のいわゆる衰退の最初の最初ですが、このような衰退は先ず遠隔地、周辺地あたりから最初の兆候が確認できます。



聖パトリックはキリスト教の家庭に生まれましたが、彼自身が後世になって、不当に中傷されたため、それに応えるために、回顧録を書きましたが、その中で聖パトリックは明かします。少年時代は、キリスト教の信仰にあまり熱心に生きていなくて、忍耐強く実践しなくて、覚悟を持った信仰生活ではありませんでした。彼の家庭は敬虔なカトリックのようではありましたが、聖パトリックをはじめ、多くの少年は親に倣わなくてあまり熱心ではありませんでした。天主のお言葉をあまり実践していなかったのです。

司祭などはいつも少年たちにハッキリと真理を述べて警告していたのにもかかわらずです。つまり、天主の掟を無視して生きていったらいずれ罰せられるだろうと司祭たちははっきりと教えていたのに、聖パトリックはそれを無視しました。

しかしながら、16歳になると、ローマ人が時々、何かあって大きな島から撤収したり戻ったりしていた時期ですが、アイルランドから来る海賊が結構、はびこるようになっていました。これらの海賊は海岸をよくせめて、人々を拉致してそして奴隷として売買していました。囚われていた人々は特に若い人々でした。

そして、ある日、パトリックはその目に合わせられました。アイルランド人の海賊の一味に拉致されました。アイルランドで売られて主人から任せられた仕事は家畜の群れの番でした。そして夜になると、パトリックは牢屋に入れられて、鎖にも縛られて逃げられないようにされていました。聖パトリックは後で明かしましたが、奴隷になったおかげで、いろいろ考えることが多くなりました。この奴隷生活は六年間ほど続いたのですが、その間に、いろいろ自分の人生の意味について考えました。また、若い時に司祭たちが説教していたことを思い出しました。

「我々は夢の中に生きているかのように自分をごまかす。今日も明日もいつまでも楽しい日々が続くだろうと思い込んでいたが、一瞬で拉致されて、奴隷におちいって、非常に厳しい拘束される生活が強いられた」というようなことを思いおこしました。
ケルト族の性格は火のように燃えて、きつくて、強くて、そこでの主人らは非常に厳格だったとされています。また、アイルランドで一番広まっていた宗教はケルトの民族宗教でしたが、多神教で、非常に残酷な宗教でした。人の生贄などを常にしていて、我々が想像しづらいところがあります。

22歳まで、奴隷生活を送っていた聖パトリックはいろいろ考えました。自分の不幸ではなく、主人をはじめとする周りにいる多くの異教徒の不幸を知り、憐れみました。異教徒はキリストの掟と全く反対の掟の中に生きている結果、格好良くしようとしても、皆、悲しいということを目撃しました。自分よりも、奴隷よりもはるかに不幸なことだとおもい知りました。愛徳も信徳も望徳もない人生は不幸です。

アイルランド人たちは多神教に非常に慣れ親しんでいて徹底的に実行していたので聖パトリックはその現実と遭いました。
そしてある日、聖パトリックは逃亡しました。海岸まで行って、異教徒の船で雇われて、この船はガリアへ犬を運んでいました。アイルランドの訓練された犬は帝国中で攻撃力のある番犬としてとして高く評価されていました。

このようにして聖パトリックは何とかフランスへ着きましたが、船で主人らにかなりいじめられました。そしてまた逃亡して、本当に自由になれました。22歳でしたが、どこへ避難したかというとフランス南部へ行きます。なぜなら、犬の搬送はイタリア半島を目的地にしていましたので、カンヌあたりで、聖パトリックは逃亡したのです。レランス諸島へ避難します。そこには有名な修道院がありました。

そこで、信徳、望徳と愛徳の実践だけではなく、自己犠牲を捧げることを習い、また福音的勧告の実践に従いました。二、三年ぐらい、そこの修道院で修練しました。そして、理由はいまだに不明ですが、ローヌ川の谷を北方へ旅して、オセールまで行きます。そこに有名なる聖ジェルマンという司教がいました。聖パトリックは聖ジェルマンに奉仕することになって、司教から司祭職になるための養成を受けました。司祭となって10年か15年間ほど努めました。そして、聖ジェルマンは聖パトリックに司教聖別式を授けて、聖パトリックは司教となりました。

聖ジェルマンはよくローマにいる教皇と連絡していたものですから、聖パトリックを中心にした数人の聖職者のために、アイルランドへ宣教せよという召命を教皇から得ました。聖パトリックはずっと前からどうしてもアイルランドの異教徒たちのために尽くしたくて宣教しに行きたかったのです。それがいよいよ実現することとなり、司教としてアイルランドへ戻りました。

それからの一生を尽くして、粗暴な人だったと言わざるを得ないアイルランド人のための布教に尽くしました。ドルイド僧とよく論争して戦いました。人々はクランという部族単位で生きていました。

布教様式として、人々の回心を実現させるために、必ず部族長の回心を得なければなりませんでした。そして、部族長が回心したら、大体部族の構成員は回心していきます。近世になって、イエズス会が東洋への布教をしましたときに、同じような様式で宣教していきました。中国でも日本でもそうでした。

聖パトリックは多くの苦行と自己犠牲を果たし続けた暁に、すこしずつ部族長が回心していきました。聖パトリックは80-90歳まで長く生き、長年の使徒的な活動となりました。数人の司教を聖別して、また司祭などからしっかりとした位階制を建てて、また人々がドルイド僧の宗教を捨てる成果をもあげました。もちろん、そのせいで、ドルイド僧から強く嫌悪されました。聖パトリックは特に、ドルイド僧の悪魔的な儀式や魔法などと毅然とした態度で戦い続けました。その結果、いろいろ苦労しましたが、勝利しました。

そして、強固な異教の国からカトリックへの国となっても、アイルランドでの布教の特徴はほとんど流血を伴った迫害が異教から発生しつづけました。もちろん、虐殺とか、あったりしましたが、アイルランドの場合、キリスト教徒を破滅するためというより、いわゆるいつからもあったような単なる暴力沙汰であったという特徴があります。あともちろん、迫害もありましたが、ローマ帝国のような大掛かりな迫害とか、日本での徹底的な迫害とかのような、大体の場合、大掛かりな迫害は、アイルランドの場合はほぼありませんでした。

聖パトリックは非常に柔和でした。しかしながら同時に厳しかったです。どうしても真理を人々に伝えたくて、人々を真理へ導くように全力を尽くしました。
ご存じのようにアイルランドの徽章はクローバーです。なぜでしょうか。
聖パトリックに由来しますが、聖パトリックが公教要理を教えていた時のことから来ます。聖パトリックが信徳がまだない、多神教なる異教徒に向けて三位一体という最も説明しづらい玄義を教えていた時に、クローバーという例えを使っていました。



聖パトリックの御像には必ずクローバーがあります。三つ葉のクローバーですね。三位一体を説明するためにこういっていました。クローバーは一つしかないが、葉っぱ三つあります。三つの葉っぱは完全同じです。聖なる三位一体の三つの位格も完全におなじです。しかしながら、三つの葉っぱともちゃんと区別できます。しかし、花としてのクローバーは一つしかありません。三つの葉っぱからなる唯一なクローバーというたとえで、三位一体を説明していました。また、一つの葉っぱを除いたら、もはやクローバーといいません。
もちろん、このたとえはたとえに過ぎなくて三位一体の現実からは遠いですが、一応すっきりとした説明で、現代まで教会の中で、三位一体を教えるために有名な説明として残っています。

親愛なる信徒の皆さま、我々にとっても非常に重要なことです。三位一体という玄義は我々の信仰の礎です。ところが玄義の中でも一番不思議で、我々の理性を超えている玄義でもあります。

三位一体は間違って理解しやすいです。過剰にとらえてしまうと、神が三つあると思い違ってしまい、多神教となってしまいます。そして、もともと多神教だったケルト人たちには、そうならないように特に注意する必要がありました。

また、三つの位格の絶対的な同一性を強調するあまりに出てくる誤謬もあります。三つの位格の絶対的な同一性は福音書において主が仰せられています。「私と父とは一つである」(ヨハネ、10,30)。それを強調するあまりに、三つの位格の区別を否定してしまい、その挙句に、三つの位格といっても、同一の位格をちょっと違う視点で見たに過ぎないという誤謬になって、三位一体ではない一神教という誤謬になります。自然宗教系の誤った一神教となります。つまり、ユダヤ人とイスラム教徒のように、天主からの天啓を否定するか、無視するかという羽目におちいります。

ですから、求道者や信徒に三位一体という最も重要な玄義を説明するためには、誤解を与えないように、どちらの誤謬にもおちいらないように、工夫して旨く説明する必要がありますね。その中で、聖パトリックは有名な説明を残して、彼の宣教の結果、人々は全員が回心しました。重要なのは三位一体という玄義は、理性で、頭ではいつまでも理解尽くせないものになるということです。我々をはるかに乗り越える天主の現実を示すからです。三位一体はいつまでも玄義です。

また聖パトリックはどういう人であるのかを感じさせるために、彼の人生の中の一つの面白い話を取り上げましょう。
ある日、ある丘で、聖パトリックは聖堂を建てることにしました。そのために、そこの部族長の許可を仰ごうとしたら、部族長から拒まれました。絶対に建てるなと。時間がしばらくたって、この部族長が病気になったと聖パトリックは聞きました。この部族長のために特別に祝別した聖水を彼のもとに届けさせました。部族長は聖水を貰って、掛けたら、大変よく回復しました。

感謝の意を込めて、部族長は礼として大鍋を贈りました。まあ、我々現代人から見たら、大鍋といってもあまり貴重品ではないと思われるかもしれないが、当時は大鍋ということは貴重品でした。また日常生活上も必需品でした。ケルト製の大変華麗な大鍋はこのように聖パトリックへ贈られました。部族長が召使いを送って、大鍋を届けさせますが、召使いは部族長のもとに戻って、部族長はどうだったのかなど報告を求めますね。なにか、私が贈った大鍋にお気入りだったのかなというような質問でした。

召使いは「聖パトリックが「Deo Gratias(天主に感謝!)」と言いました」と報告しました。
それを聞いて部族長は自尊心を傷つけられたというか、なんか「これだけの感謝言葉か、私が苦労してよいプレゼントを用意したのに返礼もないし」と怒って、召使いを再び、聖パトリックのもとに派遣して、大鍋を返してもらえと命じました。ちょっと困った召使いが聖パトリックのもとに行って、返してもらって部族長のところに大鍋をもって帰りました。また報告でしたが、部族長から「さあ、聖パトリックはなんといったのか」と聞いて、召使いは「Deo Gratias(天主に感謝!)と言いました」と報告しました。

以上の聖パトリックのちょっとした話ですが、そこには彼の現世利益に対する無関心が現れています。ヨブの模範したかったことですね。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ」(ヨブ、1,21)
ヨブがこれを行ったときは、生命についてのことでした。大鍋のような品物ではなく、生命のことでした。これはキリスト教徒がとるべき基本的な態度です。キリスト教徒なら、すべては天主から与えられていることを知っているからです。ですから、天主から与えられたものを取り戻されたら、理由があって、より大きな善のためであるとキリスト教徒が知っているからです。

数年前の思い出をはなしましょう。若い夫婦でしたが、すでに二人の子がいましたが、三人目の娘がうまれたばかりでした。彼らはとても喜んでいました。しかし、娘は敗血症という深刻な病気でした。赤ちゃんで、治療しづらいところまで行っていました。そして心臓発作が併発して、蘇生のための救急医療で医者たちは頑張りました。数日だけの生まれたばかりの赤ちゃんでした。
その中で、敬虔だったこの夫婦は一緒にいた司祭に言いました。「我々はうれしいです。天主から授かれてうれしかったです。天主が娘を呼び戻すというみ旨なら、天主のみ名が祝されるようにといいました。」
そして、天主のみ旨はこの時、娘を呼びもどすことではなく、遺し給いました。娘は救われました。いまは、この娘は大人となり、多くの子どもを産みました。

ご覧のように、我々は常に天主のみ摂理への従順を増やす必要があります。でもこの天主のみ旨への従順はいわゆる愛をこめての従順でなければ意味がありません。天主は独裁者ではありません。独裁者だから、従わざるを得ないような暴君ではありません。我々は天主の奴隷ではありません。
我々は天主の子たちです。ですから父を愛して、頼まれることに愛している故に従って、送られる試練などを受け入れます。我々を憐れみ給う天主が用意し給た試練であることをよく思い出しましょう。ですからその試練は我々の善のためにあります。

聖パトリックはこのように愛徳と柔和と福音的な善行を施したおかげで、アイルランドをカトリックへと導きました。そしてアイルランドは大変に長い間にカトリック国のままでした。

そして聖パトリックは隣人に対していつも柔和でしたが、自分自身に対して非常に厳しかったです。例えば、凍ったような水風呂に入るような非常に厳格な苦行をしていました。それは厳しすぎる苦行といえるかもしれません。これに由来して、アイルランド系の修道会の伝統は特に厳しいということで知られています。それはともかく、同じ苦行をしなくてもいいですが、このような精神が重要です。自分自身に対して厳しくて、隣人に対して柔和でなければなりません。

考えてみると、人々は普通、よく、逆のことをします。自分自身に対して言い訳を見つけたり、甘くなりがちですが、隣人の軽い過失でもすぐ厳しくて許せないような態度をとりがちですね。
死の時が近づいたと感じた聖パトリックは自らの修道院へ引退しました。司教の座を譲って数年の間に、死を準備するために、天主との出会いを準備するために、修道院での生活を送りました。

ご覧のように、奴隷になったという大きな試練は、数十万人以上の霊魂の救霊につながりました。現代まで入れたら、数億人ものの救霊といえましょう。後世になっても、さらに、アイルランドから多くの宣教師も輩出しました。このすべては16歳の少年が受けた試練のおかげです。6年間、酷い奴隷の生活を送ってきたことが出発点でした。聖パトリックがこの試練は天主から用意されているということを肯定して受け入れたおかげで、多くの実りがうまれました。

ですから、聖パトリックを祝うことをとおして、何よりも信仰を大切にして、今、復活しつつある新しい異教の闇が天主の光によって照らされますように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン