白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
今日は信経の第六条へ移ります。
死者の内によりよみがえった後に続いて第六条は「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し」給うたイエズス・キリストを信じます。以上は第六条です。
イエズス・キリストは「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し」ました。
よみがえった後に、私たちの主は四十日間ほど地上にましました。四十日間に、使徒たちの傍におられました。
まず、ご自分の復活と出現を証明するためで、以前ご紹介したとおり、ご自分の御体を見せて触らせたりしました。
それから、使徒たちへの教訓を告げ終わりました。またその上、ご自分の公教会を創立なさったのです。聖ヨハネの福音書第21章で語られている創立です。私たちの主はご自分の公教会を創立なさいました。
第一に、ペトロの否認を赦し給うた上に、正式にペトロを公教会の長として任命したもうたのです。ペトロはキリストの初代の地上における代理者となりました。ガリラヤ湖の岸辺で創立なさいました。奇跡の大漁のすぐ後の場面です。私たちの主は聖ペトロに話しかけます。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているのか」 。「この人たち」というのは、使徒たちです。聖ペトロが使徒たちの内に私たちの主のことを一番愛していたことは周知のことです。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているのか」 。で聖ペトロが「主よ、そうです」 。ただ、今回は気取りなどが一切ありません。「主よ、そうです。あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 。以前のペトロなら、気取ったところがありましたね。「主よ、私はあなたのために命を捨てます」 とか「先生、どこに行っても私はあなたについて行きます」 ですね。以前は、かなりの自慢があったと対照的に、今回は謙遜の極まりです。「愛しています」というのではなくて、「あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 といっていますね。つまり、「私よりもあなたが知っておられます」と暗に謙遜に言うことです。聖ペトロはこう答えると謙遜の行為を果たすのです。これで、第一回の否認を償うのです。それから、私たちの主は「私の子羊を牧せよ」 と仰せになります。
そしてもう一回、「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しているか」 と聖ペトロに問われます。同じく、「主よ、そうです。あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 と聖ペトロが答えます。で、第二の否認が償われて、イエズス・キリストが同じく「私の子羊を牧せよ」 と仰せになります。
そして、三回目に、私たちの主が問いかけられます。「私を愛しているか」 。つづいて聖ヨハネの福音書に「三度に言われたのを聞いてペトロは悲しみ」 と記されています。続いて「主よ、あなたはすべてをご存知です。私があなたを愛していることはあなたがご存知です」 と聖ペトロが三度目に答えます。そうすると、聖ペトロの答えには大事な意味織り込まれています。つまり、聖ペトロ自身が、自分の動きで「ある真理を言い出す」のではなくて、「イエズス・キリストに従ってこそ、イエズス・キリストと共にこそ、イエズス・キリストの仰せになっている真理であるからこそ」聖ペトロが言い出せるという意志が示されています。真理なるイエズス・キリストなので「私よりもあなたイエズス・キリストの方が御存じで、私があなたを愛していることも私よりもどれほど愛しているかあなたが御存じである」というような意味です。私たちの主の答えは「私の羊を牧せよ」 と今度仰せになります。「子羊」ではなく「羊」を仰せになることによって、私たちの主は聖ペトロが「羊と子羊との牧者になる」ということを告げ給うのです。
言い換えると公教会において「信徒の牧者と牧者の牧者」となるという命令です。聖ペトロをはじめ歴代教皇たちは、「他の司教たちと共に信徒の牧者である」だけではなく、「司教たちの牧者でもある」ということで、言い換えると司教の権威を上回る至上権威を持つという意味です。要するに、司教たちよりも教皇の権威が優位であるということです。従って至上権威を持つのです。
以上のとおり、使徒たちの前にご出現の際、私たちの主は三度にわたっての「愛の宣言」の機会を聖ペトロに与え給い、聖ペトロが自分の愛を宣言することによって、自分の犯した三度にわたる否認を償うことができました。そして、私たちの主は三度のお答えを通じて、公教会における聖ペトロの権威を断言して宣言なさったのです。
続いて、私たちの主は使徒たちを使徒たちという「公教会の牧者である」という立場・高位を改めて断言し再確認して確立なさいます。次のように仰せになりました。
「私には天と地の一切の権威が与えられている。」 因みに、この場面でもう一度明らかにご自分が天主であることを再断言する発言です。
「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常にお前たちと共にいる」 。
使徒たちへの以上の御言葉によって、司教の三つの使命を与えます。
第一に、「真理を教える」使命です。「行け、諸国の民に教えよ」。
第二に、また後述しますが、「秘蹟を授けることによって人々を聖化する」使命もあります。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」。
それから最後の第三に、「行動の模範と戒律と掟のおける指導をする」使命です。「私が命じたことをすべて守るように教えよ。」「守る」というのは、実践において、行動において、風習において、「命じたことをすべて守るように教えよ」ということです。そこで、司教たちは「指揮する」使命と権威も備わっているということです。
以上、私たちの主はご自分の公教会を創立なさいました。また、聖ペトロに至上権威を与え給いました。「私の子羊を牧せよ」。「私の羊を牧せよ」。
それから、牧者たちに、つまり使徒たちとその継承者となる歴代司教たちには、公教会での三重の教導権を与え給ったのです。「教える権威と聖化する権威と率いる権威」との三つの教導権です。
また、私たちの主が使徒たちに「罪を赦す」力を与え給います。そういえば、よみがえった日の夕方に、使徒たちの前に現れましたが、最初に与えた権威はまさに「赦す力」でした。「Pax Vobis」「あなたちに平和」と仰せになりました。その場面に続いて、「罪を赦す権威」を与え給ったのですが、その力は御受難の実りである上に、ご復活の実りです。
というのも、御受難の生贄のお陰で、人類が贖われて、天主に対する侮辱が償われた暁に天主との「仲直り」ができたということです。それで、同じく「悔悛の秘跡」、「悔悛の秘跡」は、最近「赦しの秘跡」とも言われることがありますが、「悔悛の秘跡」こそが、致命的な罪(大罪)のせいで恩寵を失われてしまった霊魂を天主の御心の愛に復帰させてくださる秘蹟に他なりません。
要するに、使徒たちに「罪を赦す」力がイエズス・キリストによって与えられました。「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」 と仰せになりました。
以上、ご復活後のこの地上での四十日間ほどのご滞在をご紹介しました。それから、四十日間の最後に私たちの主が天に昇りました。
使徒たちと一緒にご飯を食べて終わると、恐らく最後の晩餐の会場だったチェナクルムで聖木曜日と似ていて、使徒たちと一緒にご飯を食べました。それから、食べ終わるとオリーブ山のベタニアの庭にいらっしゃいました。
最後の晩餐と対照的に対をなす場面となります。つまり、聖木曜日以降はすべての侮辱や苦しみを受け給って、十字架上の死までにかれの天主性が見えなくなるほどになるということと対照的に、昇天の日に私たちの主が同じオリーブ山の庭にいらっしゃるのですが、聖木曜日と違ってキリストの人間性が見えなくなって、天主性によって完全にその人間性が追われるようになって、天に昇りました。
オリーブ山のベタニアの庭に私たちの主がいらっしゃり、そこで、昇天において褒め称えられました。そこで、感嘆すべき点があります。というのは、天に昇りましたが、昇りながら使徒たちを祝福なさったのです。いや、正確に言うと、使徒たちを祝福しながら、天に昇りました。そうすることによって、イエズス・キリストが天におけるご自分の御働きをしめしたもうのです。
つまり「祝福」する御働きです。天にましますイエズス・キリストの絶えない御働きは、我々人類を祝福したまうということです。語源でいうと「祝福」というのは「誰かのことについて良い事を言う・人をほめる」という意味です。「Benedicere」。そして「祝福」するというのは、また我々に「恩寵を送り注ぎ給う」という意味も織り込まれています。言い換えると、我々を祝福するために、つまり恩寵を注ぎ給うために、天に昇られたということです。
天に昇りましたが、その場面の神秘というと、イエズス・キリストがそれで消えたということです。使徒たちはイエズス・キリストが天に昇ることを目撃していました。どんどん上の方に昇っていたところに、いきなり姿が消えました。使徒たちは天を見つめているままですが、もう何もありませんでした。使徒たちはこのまま動きませんでした。
それから、二位の天使らが使徒たちの前に現れ、こう告げました。「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか。今、あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」
イエズスは天に昇りました。凱旋した王として、褒め称えられながら、天に昇りました。当然です。天使たちに賛美されながら、凱旋的な昇天です。昇天祝日典礼のアレルヤのように「主は捕虜されていた奴隷を伴って昇り給った」のですから、言いかえると旧約聖書のすべての忠実だった霊魂たちを伴って、昇天しました。つまり、天国の門が開かれたその時を待っていた古聖所にいた霊魂たちを連れて天に昇りました。
それから、私たちの主は、ご復活後ですから「栄光なる身体」を持っておられました。従って、身体に相応しい場所に昇天することは適切でしたので、イエズス・キリストの「栄光なる身体」に相応しい「栄光なる場所」にましますのは相応しかったのです。「栄光なる場所」は天に他なりません。天国こそイエズス・キリストのご身体に相応しい場所です。
私たちの主は昇天しました。使徒たちの目から消えて、使徒たちが地上に残りました。ところが、使徒たちの内に私たちの主がもういません。天にましますイエズス・キリスト。人間のために罪のせいで閉じられていた天門をお開けもなさいました。また、我々の上に聖霊を送り給うために、天にまします。また、我々のために、御父に御取り次ぎし給うために、天にまします。
私たちの主が昇天して天にましますが、引き続きに私たちのために御働きを続けたまっています。
信経の第六条に戻ると、「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し」とあります。つまり、私たちの主は父なる天主の「右」に座られます。
「坐する」という姿勢の意味はまず「休む姿勢」であります。というのも、私たちの主はご自分の使命を果たしまして、「すべては成し遂げられた」 と仰せになった通りです。つまり、贖罪の玄義自体はもう遂げられました。永遠に天にましまして、贖罪の完成による効果・恩恵を霊魂たちに与え続けたもうだけです。だから「坐し」ました。そして、「坐する」という姿勢は「君臨して裁く王」の姿勢であって、イエズス・キリストが天主として「王と裁判官」であることを意味します。私たちの主は、本当の意味で王であります。ピラトに「私が王である」と仰せになった通りです。
要するに、「座す」という姿勢であることは、「休み」と「王と裁判官」を意味します。その上に、信経によると「全能の父なる天主の右に坐し」で、「右」の位置が強調されています。なぜでしょうか。それは、「天主として」のイエズス・キリストが「天主に同等する」ということを意味します。
その上に、「人として」イエズス・キリストということを通じて、イエズス・キリストの人間の本性を高揚するためです。というのも、イエズス・キリストの人間の本性がどの被創造物よりも優位であるよということを意味します。宇宙で創造されたすべてのことより優位するということを示します。ご托身の玄義をご紹介したときに説明したとおりです。従って、イエズス・キリストの人間の本性としても、「天主の右に坐し」て、天主と対等な高位まで高揚されて、あらゆる被創造界のなによりも優位に立てられているということです。天使よりも、いと童貞なる聖母よりも、優位に立てられているということです。なぜかというと、被創造物としてのイエズス・キリストは完全に限りなく完成で完璧だからです。
以上、信経の第六条をご紹介しました。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第五十五講 贖罪の玄義・神学編・その八 天に昇りて
今日は信経の第六条へ移ります。
死者の内によりよみがえった後に続いて第六条は「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し」給うたイエズス・キリストを信じます。以上は第六条です。
イエズス・キリストは「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し」ました。
よみがえった後に、私たちの主は四十日間ほど地上にましました。四十日間に、使徒たちの傍におられました。
まず、ご自分の復活と出現を証明するためで、以前ご紹介したとおり、ご自分の御体を見せて触らせたりしました。
それから、使徒たちへの教訓を告げ終わりました。またその上、ご自分の公教会を創立なさったのです。聖ヨハネの福音書第21章で語られている創立です。私たちの主はご自分の公教会を創立なさいました。
第一に、ペトロの否認を赦し給うた上に、正式にペトロを公教会の長として任命したもうたのです。ペトロはキリストの初代の地上における代理者となりました。ガリラヤ湖の岸辺で創立なさいました。奇跡の大漁のすぐ後の場面です。私たちの主は聖ペトロに話しかけます。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているのか」 。「この人たち」というのは、使徒たちです。聖ペトロが使徒たちの内に私たちの主のことを一番愛していたことは周知のことです。
「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているのか」 。で聖ペトロが「主よ、そうです」 。ただ、今回は気取りなどが一切ありません。「主よ、そうです。あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 。以前のペトロなら、気取ったところがありましたね。「主よ、私はあなたのために命を捨てます」 とか「先生、どこに行っても私はあなたについて行きます」 ですね。以前は、かなりの自慢があったと対照的に、今回は謙遜の極まりです。「愛しています」というのではなくて、「あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 といっていますね。つまり、「私よりもあなたが知っておられます」と暗に謙遜に言うことです。聖ペトロはこう答えると謙遜の行為を果たすのです。これで、第一回の否認を償うのです。それから、私たちの主は「私の子羊を牧せよ」 と仰せになります。
そしてもう一回、「ヨハネの子シモン、あなたは私を愛しているか」 と聖ペトロに問われます。同じく、「主よ、そうです。あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 と聖ペトロが答えます。で、第二の否認が償われて、イエズス・キリストが同じく「私の子羊を牧せよ」 と仰せになります。
そして、三回目に、私たちの主が問いかけられます。「私を愛しているか」 。つづいて聖ヨハネの福音書に「三度に言われたのを聞いてペトロは悲しみ」 と記されています。続いて「主よ、あなたはすべてをご存知です。私があなたを愛していることはあなたがご存知です」 と聖ペトロが三度目に答えます。そうすると、聖ペトロの答えには大事な意味織り込まれています。つまり、聖ペトロ自身が、自分の動きで「ある真理を言い出す」のではなくて、「イエズス・キリストに従ってこそ、イエズス・キリストと共にこそ、イエズス・キリストの仰せになっている真理であるからこそ」聖ペトロが言い出せるという意志が示されています。真理なるイエズス・キリストなので「私よりもあなたイエズス・キリストの方が御存じで、私があなたを愛していることも私よりもどれほど愛しているかあなたが御存じである」というような意味です。私たちの主の答えは「私の羊を牧せよ」 と今度仰せになります。「子羊」ではなく「羊」を仰せになることによって、私たちの主は聖ペトロが「羊と子羊との牧者になる」ということを告げ給うのです。
言い換えると公教会において「信徒の牧者と牧者の牧者」となるという命令です。聖ペトロをはじめ歴代教皇たちは、「他の司教たちと共に信徒の牧者である」だけではなく、「司教たちの牧者でもある」ということで、言い換えると司教の権威を上回る至上権威を持つという意味です。要するに、司教たちよりも教皇の権威が優位であるということです。従って至上権威を持つのです。
以上のとおり、使徒たちの前にご出現の際、私たちの主は三度にわたっての「愛の宣言」の機会を聖ペトロに与え給い、聖ペトロが自分の愛を宣言することによって、自分の犯した三度にわたる否認を償うことができました。そして、私たちの主は三度のお答えを通じて、公教会における聖ペトロの権威を断言して宣言なさったのです。
続いて、私たちの主は使徒たちを使徒たちという「公教会の牧者である」という立場・高位を改めて断言し再確認して確立なさいます。次のように仰せになりました。
「私には天と地の一切の権威が与えられている。」 因みに、この場面でもう一度明らかにご自分が天主であることを再断言する発言です。
「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。私は世の終わりまで常にお前たちと共にいる」 。
使徒たちへの以上の御言葉によって、司教の三つの使命を与えます。
第一に、「真理を教える」使命です。「行け、諸国の民に教えよ」。
第二に、また後述しますが、「秘蹟を授けることによって人々を聖化する」使命もあります。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」。
それから最後の第三に、「行動の模範と戒律と掟のおける指導をする」使命です。「私が命じたことをすべて守るように教えよ。」「守る」というのは、実践において、行動において、風習において、「命じたことをすべて守るように教えよ」ということです。そこで、司教たちは「指揮する」使命と権威も備わっているということです。
以上、私たちの主はご自分の公教会を創立なさいました。また、聖ペトロに至上権威を与え給いました。「私の子羊を牧せよ」。「私の羊を牧せよ」。
それから、牧者たちに、つまり使徒たちとその継承者となる歴代司教たちには、公教会での三重の教導権を与え給ったのです。「教える権威と聖化する権威と率いる権威」との三つの教導権です。
また、私たちの主が使徒たちに「罪を赦す」力を与え給います。そういえば、よみがえった日の夕方に、使徒たちの前に現れましたが、最初に与えた権威はまさに「赦す力」でした。「Pax Vobis」「あなたちに平和」と仰せになりました。その場面に続いて、「罪を赦す権威」を与え給ったのですが、その力は御受難の実りである上に、ご復活の実りです。
というのも、御受難の生贄のお陰で、人類が贖われて、天主に対する侮辱が償われた暁に天主との「仲直り」ができたということです。それで、同じく「悔悛の秘跡」、「悔悛の秘跡」は、最近「赦しの秘跡」とも言われることがありますが、「悔悛の秘跡」こそが、致命的な罪(大罪)のせいで恩寵を失われてしまった霊魂を天主の御心の愛に復帰させてくださる秘蹟に他なりません。
要するに、使徒たちに「罪を赦す」力がイエズス・キリストによって与えられました。「あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたちが罪をゆるさぬ人はゆるされない」 と仰せになりました。
以上、ご復活後のこの地上での四十日間ほどのご滞在をご紹介しました。それから、四十日間の最後に私たちの主が天に昇りました。
使徒たちと一緒にご飯を食べて終わると、恐らく最後の晩餐の会場だったチェナクルムで聖木曜日と似ていて、使徒たちと一緒にご飯を食べました。それから、食べ終わるとオリーブ山のベタニアの庭にいらっしゃいました。
最後の晩餐と対照的に対をなす場面となります。つまり、聖木曜日以降はすべての侮辱や苦しみを受け給って、十字架上の死までにかれの天主性が見えなくなるほどになるということと対照的に、昇天の日に私たちの主が同じオリーブ山の庭にいらっしゃるのですが、聖木曜日と違ってキリストの人間性が見えなくなって、天主性によって完全にその人間性が追われるようになって、天に昇りました。
オリーブ山のベタニアの庭に私たちの主がいらっしゃり、そこで、昇天において褒め称えられました。そこで、感嘆すべき点があります。というのは、天に昇りましたが、昇りながら使徒たちを祝福なさったのです。いや、正確に言うと、使徒たちを祝福しながら、天に昇りました。そうすることによって、イエズス・キリストが天におけるご自分の御働きをしめしたもうのです。
つまり「祝福」する御働きです。天にましますイエズス・キリストの絶えない御働きは、我々人類を祝福したまうということです。語源でいうと「祝福」というのは「誰かのことについて良い事を言う・人をほめる」という意味です。「Benedicere」。そして「祝福」するというのは、また我々に「恩寵を送り注ぎ給う」という意味も織り込まれています。言い換えると、我々を祝福するために、つまり恩寵を注ぎ給うために、天に昇られたということです。
天に昇りましたが、その場面の神秘というと、イエズス・キリストがそれで消えたということです。使徒たちはイエズス・キリストが天に昇ることを目撃していました。どんどん上の方に昇っていたところに、いきなり姿が消えました。使徒たちは天を見つめているままですが、もう何もありませんでした。使徒たちはこのまま動きませんでした。
それから、二位の天使らが使徒たちの前に現れ、こう告げました。「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか。今、あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」
イエズスは天に昇りました。凱旋した王として、褒め称えられながら、天に昇りました。当然です。天使たちに賛美されながら、凱旋的な昇天です。昇天祝日典礼のアレルヤのように「主は捕虜されていた奴隷を伴って昇り給った」のですから、言いかえると旧約聖書のすべての忠実だった霊魂たちを伴って、昇天しました。つまり、天国の門が開かれたその時を待っていた古聖所にいた霊魂たちを連れて天に昇りました。
それから、私たちの主は、ご復活後ですから「栄光なる身体」を持っておられました。従って、身体に相応しい場所に昇天することは適切でしたので、イエズス・キリストの「栄光なる身体」に相応しい「栄光なる場所」にましますのは相応しかったのです。「栄光なる場所」は天に他なりません。天国こそイエズス・キリストのご身体に相応しい場所です。
私たちの主は昇天しました。使徒たちの目から消えて、使徒たちが地上に残りました。ところが、使徒たちの内に私たちの主がもういません。天にましますイエズス・キリスト。人間のために罪のせいで閉じられていた天門をお開けもなさいました。また、我々の上に聖霊を送り給うために、天にまします。また、我々のために、御父に御取り次ぎし給うために、天にまします。
私たちの主が昇天して天にましますが、引き続きに私たちのために御働きを続けたまっています。
信経の第六条に戻ると、「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し」とあります。つまり、私たちの主は父なる天主の「右」に座られます。
「坐する」という姿勢の意味はまず「休む姿勢」であります。というのも、私たちの主はご自分の使命を果たしまして、「すべては成し遂げられた」 と仰せになった通りです。つまり、贖罪の玄義自体はもう遂げられました。永遠に天にましまして、贖罪の完成による効果・恩恵を霊魂たちに与え続けたもうだけです。だから「坐し」ました。そして、「坐する」という姿勢は「君臨して裁く王」の姿勢であって、イエズス・キリストが天主として「王と裁判官」であることを意味します。私たちの主は、本当の意味で王であります。ピラトに「私が王である」と仰せになった通りです。
要するに、「座す」という姿勢であることは、「休み」と「王と裁判官」を意味します。その上に、信経によると「全能の父なる天主の右に坐し」で、「右」の位置が強調されています。なぜでしょうか。それは、「天主として」のイエズス・キリストが「天主に同等する」ということを意味します。
その上に、「人として」イエズス・キリストということを通じて、イエズス・キリストの人間の本性を高揚するためです。というのも、イエズス・キリストの人間の本性がどの被創造物よりも優位であるよということを意味します。宇宙で創造されたすべてのことより優位するということを示します。ご托身の玄義をご紹介したときに説明したとおりです。従って、イエズス・キリストの人間の本性としても、「天主の右に坐し」て、天主と対等な高位まで高揚されて、あらゆる被創造界のなによりも優位に立てられているということです。天使よりも、いと童貞なる聖母よりも、優位に立てられているということです。なぜかというと、被創造物としてのイエズス・キリストは完全に限りなく完成で完璧だからです。
以上、信経の第六条をご紹介しました。