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キリストは何も覚(さと)ったことはない! キリスト教と法華仏教(6)に寄せて:【国体文化】掲載記事への返答―本当のキリスト教を理解するために―

2021年05月29日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
キリストは何も覚(さと)ったことはない!キリスト教と法華仏教(6)に寄せて 
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

キリストは何も覚(さと)ったことはない!キリスト教と法華仏教(6)に寄せて

引き続き、国体文化3月号の相澤氏の記事を拝読したことを受けて、キリスト教に関する誤解を補うよう、本論を執筆することにした。
私は法華経を一通り読んだおかげで、いろいろなことが見えてきた経験から、相澤氏にぜひとも推奨したいことがある。それは相澤氏にも一通りひとつでよいので福音書を読んでいただきたいということである。比較的短く読みやすいのでそれほど時間もかからないだろう。できれば講談社のバルバロ訳をお勧めする。

また、3月分までの連稿は書籍の評論という形になっている。しかしながら、それぞれの評論はカトリックの伝統的な本来の立場から逸脱した世界で書かれていることを痛感してならず、いずれも本来ではない近代的な立場で書かれている。また仕方もないかもしれないが、いずれも最近の書籍ばかりであり、学術的にある程度にしっかりとされているとしても、本当のキリスト教を理解するためにはあまり役立たないと思われ、むしろ、誤解を招いていることを懼れる。

本来ならば、聖書全体、教父たちの多くの著作、聖トマス・アクイナス、何人かの聖人の人生を追うことによってカトリックひいてはキリスト教の実相に近づきうるが、その余裕はないだろうし、それほど良い和訳もなさそうなので、とりあえず福音書を一通り精読されたら、カトリックへの誤解と歪みはそれほど生じないと思う。

結論から言うと、そもそも情報源自体が歪曲しているから仕方がないのかもしれないが、3月号の記事における比較の基準はやはり誤っているので、いくつかの点について微力ながら改めてわかりやすく糺(ただ)してみたいと思う。

比較するためには、それぞれの比較対象をきちんと抑えることが大事である。19世紀からの学問上のキリスト教説は、本来のカトリック信仰を破壊するために作り上げられたものであるとの背景を忘れてはいけない。そういった学説程度に頼るだけではそもそもカトリックは何であるのかを理解することは不可能なのである。というのも、わざわざと一番大事なことから目を逸らすように説かれていることが殆どであるからである。

だから、比較するに際しては、そもそも、キリスト教とはどういう教えなのかをもう一度正確に身につける必要があろう。そうするためには、福音書を読むのが一番てっとり早いだろうが、あるいは何人かの聖人の生活を見るのも助けとなるだろう(たとえば高山右近でもいいのでは?)。あるいは簡単に公教要理を見るのもよいだろう(ユーチューブチャネルにて)。

また、典礼を感じ取るために、一回、聖伝のミサに与ることも推奨したい。また、広くカトリックの正当な神学者と認められている過去の学者の著作を読むのも手である。聖パウロの書簡、聖アウグスティヌス、聖トマス・アクイナスなどの著作はいいかもしれない。いわゆる、解説書ではなく、直接、原典を読むのがやはり重要であろう。

I.カトリック(キリスト教 )はユダヤ教から「発生」していない。
この誤解は恐らく19世から一番深く広まった誤謬であるので、要注意である。19世紀以前では全く論外のあり得ない立場ではあったのだが、近代主義による攻撃の一つは諸宗教を相対化して、また、ユダヤ教とキリスト教とをあたかも仲間であるかのように、少なくとも親子、あるいは兄弟の関係にあるかのように紹介するのである。

ところが、これは完全に間違った見解である。本論では深く入らないが、ちょうどこれについてLivernette氏によって細かく分析され、歴史的な変遷を紹介されている講演が和訳されたので、ぜひともその原稿を参照するようにお勧めする(「カトリック教会とシナゴーグ、2000年の対立の歴史」ユーチューブチャンネルで4月上旬公開。原稿を添付する)。

要約すると、「ユダヤ教」とはイエズス・キリストの復活後からできた宗教であり、イエズス・キリストを否定したユダヤ人を集めて、キリスト教の宿敵となっただけではなく、旧約聖書とすべてのヘブライの伝統を歪曲した宗教であるということである。言いかえると、イエズス・キリストという神人の到来を準備するために天主によって用意されたヘブライの民とその歴史はイエズス・キリストの到来によっていよいよ成就された結果、善意のすべてのヘブライ人はカトリックとなった。だから、ヘブライの民の伝統が果たされたのはイエズス・キリストであり、そのあとのユダヤ教は単に、その到来とその意味を否定した人々とその子孫にあたるに過ぎないということである。
ちなみに、Livernette氏が示すように「ユダヤ」という呼び名ですら、イエズス・キリストの復活後に定着して、イエズス・キリストを否定しつづけるヘブライ人を指す とされる。



したがって、キリスト教はユダヤ教から「独立」した、あるいは分派した宗派であるかのように「相違」が生じたとかではない。単に、イエズス・キリストは旧約聖書を成就しただけである。ただし、当時のファリサイ人たちを中心に、期待された現世的な救済主像とかなり違ったイエズス・キリストだったので、ユダヤ人たちはキリストを受難に送らせた。しかしながら、旧約聖書を見れば、現世的な救世主などは預言されていないことがわかっている。

自分たちに都合の良い解釈にしたかったファリサイ派は神人イエズス・キリストという現実にぶつかったわけであり、旧約聖書の多くの預言、奇跡と前兆の正当な意味がイエズス・キリストの言動によって明らかに想起されたものの、当時の大司祭の多くは高慢に溺れて、イエズス・キリストという存在を否定しようとして、現在まで続いている。本流はカトリックであり、ユダヤ教はその意味で最初の異端であるといっても過言ではない(ただ、厳密に言うと異端ではない。というのもそもそも洗礼を受けようともしなかったからである。異端者は洗礼者に限って言われている)。

II.宗教は感情でもないし、感情から生じない
この点もよく誤解されているとともに、非常に重要である。19世紀の宗教学の創立は多くの意味で宗教を相対化するために、また小ばかにするために、「宗教的な感情」から宗教という「現象」は生じるという仮説を前提にしている。要するに、天主たる存在はないかのようであり、さらに人間中心主義的な立ち位置を徹底させて、人間の宗教的な欲望を満たすためにだけに宗教は作り上げられたといった論調が普及してきて、現代に至っている。

ところが、こういった立場は本末転倒である。食欲があるからといって、食べ物が存在するのではなく、食べなければ死ぬので、食べる必要があるのであり、食べることを「忘れないように」、食欲という能力は付与されたのである。
同じように、宗教的な感情があることから、宗教が生じるのではなくて、天主は実存しているので、それを忘れないように宗教的な感情が付与されたのである。いうなれば宗教とは道具に過ぎない。

問題は天主とは具体的にどういう存在であるのかということだ。この問題に回答を与えるのが宗教学であるのだ。これが一番の関心ごとであるのに。これは、理性だけの力では把握しれないので、宗教学のように、「天主」が存在しないことを前提にして、感情と慣習と儀礼を並べた方が、つまり「現象」としてしか扱わない方が気持ちいいだろうが、それはただ難問を回避しているにすぎないのではないのか?

要するに、「天主」という存在が実存するので、我々は宗教的な感情を必ず持っているということである。そして、人間中心主義を捨てるべきであろう。つまり、我々の都合の良い天主ではなく、実際に天主とはどういう存在なのか?そしてそういった現実に従うという態度は現実主義が要求することであろう。ちなみにアリストテレスをはじめ古代ギリシャの哲学者はこのように哲学をやっていたからこそ、現代まで彼らの事績は残ったのである。

その中で、イエズス・キリストという真の人、真の天主は天主のことを細かく我々に知らせ給い、本来ならば人間の力では到底理解し尽くせない多くの真理を説き給うたのである。天主のさまは、単なる知識だけではなく、実践においても、秘蹟においても、具体的な人生や、目に見える托身と受難を通じて示されたのである。

カトリック信徒なら、宗教は感情ではないことを知っている。イエズス・キリストという肉体のある人に倣い、信頼して、従っていくだけなのである。そうするために、理性と意志を活かして、積極的にイエズス・キリストを愛するように、キリストに倣うように。だから、朝、起床して何も感じなくても、カトリック信徒が「信仰」があるといえるのである。

カトリック信徒はこの意味で真理を「探究」するのではない。イエズス・キリスト、聖伝と聖書において天啓された真理を受け入れて、従うだけなのである。また、神学などによって、これらの真理を黙想して、その理解を深めることができるかもしれないが、そもそも、本当の意味での新しい発見もないし、絶対的な意味での進歩もないのである。また学問とか神学とかは目的ではない。多くの平凡に生きた聖人たちはそれを証明する。イエズス・キリストもダヴィド王家の末裔でありながらも、レヴィ部族の司祭家の末裔でありながらも、30年間、単なる大工であったこともそれを証明する。

III.ローマ帝国は「キリスト教を快く採用された」わけではない
ローマ帝国は冷静に、慎重に分析した結果、キリスト教を認めたわけではない。選んだわけでもない。むしろ、キリスト教(つまりカトリック)を絶滅しようとしたのであった。数世紀の間、非常に残酷かつ厳しい迫害、時には絶滅政策を展開していった。対象はカトリックだったので、多くの場合はローマ人同士の迫害であった。この結果、殉教者は多かった。この意味で江戸初期からのキリシタンに対する迫害はそれと酷似している。その迫害の残酷さにおいても、日本人が日本人を絶滅させるという意味においても酷似している。





そして、このような数世紀が続いた結果、ローマ皇帝コンスタンティンがカトリックを肯定して、晩年に洗礼を受けた。これは多くの意味で奇跡的に起こった出来事だといえる。なんの必然性もなかったし、そして何の強要も策略もなく、自発的にカトリックへ回心していったのである。



キリスト教はローマ帝国の要求に応えることがなかったどころか、棄教者ユリアヌスのように、その前、ネロのように、カトリックを厳しく迫害を加えた。というのも、カトリックは単にイエズス・キリストに倣い、従おうとしているので、また天啓された真理は自分のものではなく、天主のものであるので、そういったことに関して妥協することはない姿勢をしめしている。例えば、皇帝を礼拝せよといわれたら、「礼拝は天主に対してのみであるので礼拝しない。ところが、(戦場でも)皇帝のために命を捧げてもいいし、皇帝に相応しい崇拝を示してもよい」という多くの忠誠なるカトリックローマ人たちが、それだけで皆殺しされたりしたのである。

いつでもどこでもそれは起こるし、起こるのも当然である。真理を受け入れるのが難しいからであり、都合のよくない真理から目を逸らす傾向もやはり人間の心に潜んでいるからである。また、イエズス・キリストは受難を受けて十字架にかけられただけの、真理の価値がある。だから、いつでもどこでもカトリックが広まると、必ず迫害を受けるのである。愛徳、慈善事業、よい臣下と顧問になっているのにもかかわらず。

IV.イエズス・キリストは何も覚(さと)ったことはない
内面的な覚(さと)りなどは、イエズス・キリストに関してはまったく意味のないことで、存在しない。
ご降誕のときから、イエズス・キリストは御父の使者であり、最初から完全に真の天主、真の人であった。福音書を読めば何度も何度も確認できる事柄であり、自明のことがらである。生まれる前から御告げによりイエズス・キリストの天主性とその使命はガブリエルの天使と聖母マリアの慎み深い謙遜と従順によってしめされていた。

またいわゆるイエズス・キリストの私生活(30歳まで。30歳から33歳からは公生活といって、福音書は主にこの三年の言動を記録している)については、福音書においてもほとんど何も知られていない。福音書において、ご降誕以外の一つだけの場面が記されている。それはイエズス・キリストが12歳ごろ、神殿への参拝があったが、帰り道に、童貞マリアと聖ヨゼフは幼いイエズスがいないことに気づいて、非常に心配となって、三日間エルサレムを歩いて迷子イエズスを求めている。

そして、「三日目に、神殿で学者の中に座り、聞いたり尋ねたりしておられるイエズスを見つけた。聞いている人々は、その子の知恵と答えを不思議がっていた。両親はこれを見て驚き、『私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ごらん、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ』と母がいうと、イエズスは、『なぜわたしを捜したのですか。私は私の父の家にいるはずだと知らなかったのですか」と答えられた。彼らはイエズスの言われたことがわからなかった」(ルカ、2、46-50)

要するに、この場面において、11、12歳のイエズス・キリストが一番偉い学者、司祭に教えているのである。またそれだけではなく、明らかに「天主の子だ」と断言している。ところがそれを聞いても誰もわからない。というのも、信じられないからである。復活まで、何度となくご自分が天主であることを断言し続けたが、だれもわかってくれなかったし、信じてくれなかったのである。以上のような場面は数えきれないほど多い。

たとえば本日の福音(四旬節第三週の金曜日)において、イエズス・キリストは改めて自分がメシアであることを断言する。ヘブライ人にとって忌まわしいサマリア人、さらに汚らわしい女性に出会うイエズス・キリストが彼女と普通にしゃべって話している時である。使徒たちはこれを見て驚いた。本物の神殿はどこにあるのかと女がイエズスに聞いた質問に対する答えの時だった。

「女は、『私は、メシア(すなわち、キリスト)が来ることを知っています。彼が来る時、私共に、すべてを告げるでありましょう」といった。イエズスは、『あなたに話す私がそれである」と言い給うた」。(ヨハネ、4、5-42)ここでも、イエズスははっきりと自分がメシアであると言う。メシアは御父に送られた人であるということなので、「さとる」ことでもない。以上のような場面は最初から最後まで数え切れないほど多くある。

また、「さとり」に似たような場面は一つもない。イエズス・キリストはあえて「さとる」ことはなかった。真の人、真の天主であることを教え続けて、また奇跡と行為で示されて、死と復活で示された。信じられないことであるが、問題は現実にイエズス・キリストは実在して、こういった言動をして、奇跡も施し、完璧な教えを説いて、受難を受けて、復活したといった事実があるのみである。

その事実に対して、人々は決める。イエズス・キリストを信用するのか、しないのか。しないのなら、しなくとも事実はそれでも変わらない。例えば、目の前にある壁が「存在しない」という人が出たら、「さて、壁は存在しないというのなら、前へ進めてみたら、ぶつかるよ」と答えるしかない。それでも相手は壁へぶつかろうとしたら、仕方がない。できることは、壁は壁であることを言つづけることだけなのだ。

確かに、キリストの齎(もたら)した教えは旧約聖書を完成化させて、内面的な信仰、霊的な生活をその上に齎(もたら)したことは確かである。外面的な儀礼、生贄、祈祷、秩序、位階制をそのままに保つとともに、「天主を愛する」ということのさらなる重要性が説かれた。

近代性とはチェスタートンがいうとおりである。「近代とはおかしくなったキリスト教の原理原則である」といっている。彼以外にも少なからぬ学者はそれを指摘している。つまり、イエズス・キリストによって教えられた真理の一部のみをとって、他の真理を捨てて、また天主を否定した結果、大変な誤謬である平等主義、自由主義、民主主義、グロバーリズムをはじめとする、多くのイデオロギーが発生した。イエズス・キリストが真理であるだけに、真理を正面から否定した近代の誤謬はより深くなっていく。

結びに代えて
カトリックにおいて、現世建築、世界建築へ貢献することは二次的なことである。目的ではない。というのも、隣人愛とは天主を愛すればこそであるとイエズス・キリストが教えるように、すべては天主の御栄光のためにのみ存在する。その結果、二次的に現世への貢献はあろうが、それは目的でもないし、積極的に実現しなくてもよいものである。隣人愛と天主への愛を実践すれば、そういった貢献も生じるだろうが、本来の目的ではない。

だからといって、マルクス主義の変なリベラルカトリックが言うのと違って、イエズス・キリストには革命的な要素はまったくない。社会秩序、権威、権力、位階制、従順、慎みなどはひきつづき重要視された。イエズス・キリストは単に、「天主のみ旨に」従って、十字架へかけられた。現世のために尽くそうと思われたら、そうせずに、期待されていた現世的な解放者になったらよかったのであるがそうはならなかった。というのも、イエズス・キリストは悲しんだが、彼の預言通りに、ユダヤ人の天主に対する不正の結果、神殿が破壊されて、国が解体されて、世界中にさまよわざるをえなくなったからである。



かなり前から、ハリウッド流のヒーローをはじめとして、世界の救済主といったフリーメイソン的な発想はカトリックの信仰を正面から背くこととなる。英雄、絶対平和、本物の幸せ、繁栄はこの世にはないとイエズス・キリストが教え続けた。カトリック教会も単にイエズス・キリストの教えを提唱し続けた。一般信徒としても、それに従って言い続ける。それだけのことである。救済主はすでに到来したのである。イエズス・キリストである。真理を探究することが大事であるが、すでにもたらされたのである。イエズス・キリストである。過去の賢者と聖人の多くは道が示されたが、イエズス・キリストこそ道そのものであるので、イエズス・キリストに倣うのがよいのである。地味ではあるが、人間の力だけではすごいことは何もできず、イエズス・キリストの助けを得て、はじめて、本格的に生きていけるのである。それはイエズス・キリストは命そのものであるからである。というのが、キリスト教の特徴であろう。

それはともかく、一瞬だけでも考えていただきたい点がある。もしも、一瞬だけでも、イエズス・キリストは本当に真の天主、真の人であると想定していただいたら、少しでもカトリックへの理解は深まるのではないかと信じるものである。


品級の秘蹟は救霊の秘蹟|主が司祭に託された権能、叙階の条件とは?

2021年05月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十五講 品級の秘蹟について



品級の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

さて、最後の秘蹟を見ていきましょう。品級の秘蹟であって、我らの主、イエズス・キリストが制定なさった秘蹟のなかでも素晴らしい秘蹟です。品級という秘蹟を通じて、我らの主、イエズス・キリストは人々をお選びになって召命したまい、司祭と成し給うのです。司祭の叙階というのはイエズス・キリストの代理者を任命し給うという意味です。言いかえると、司祭は地上においてイエズス・キリストの代わりに代理人として任命される人々なのです。我らの主はご自分の全ての権能を司祭たちに託し給うのです。これが品級の秘蹟なのです。

品級の秘蹟によって、聖職や司祭の義務を果たすための権能、それからこれらの使命を正しく果たすための恩寵が与えられます。
品級の秘蹟によって、我らの主は地上の特定の人々を選び出し給い、イエズス・キリストの代表者として、代理人として、イエズス・キリストご自身のみ名において、そしてイエズス・キリストの全権能を託し給い、この世に働くために品級の秘蹟を制定なさいました。

これが品級の秘蹟なのです。ここの品級はまたラテン語で「Ordo」で、秩序という意味もあって、つまり、秩序づけるという意味も色濃く出ています。言いかえると、各々の物事を各々の相応しい場にあるように努めること、これこそがまさに「品級」や秩序の役割です。そもそもの「秩序づける」という意味は、「それぞれの物事をそれぞれの目的地に向かわせて導き出す」という意味です。

要するに、「秩序づける」とは、品級の秘蹟のお陰で、司祭たちは霊魂たちを自分の目的地にたどり着くように導いていくという意味ということです。そして、霊魂の目的地は天国です。言いかえると霊魂の救霊を助けるのが司祭職なのです。
つまり、品級の秘蹟は救霊の秘蹟といえます。品級の秘蹟のお陰で、司祭たちは霊魂たちに救霊を与える秘跡となるのです。当然といえば当然です。


というのも、御(ご)聖体をお配りする司祭は天主ご自身を与えるということになるので、永遠の命である天主を与えるということであり、つまり救霊を与えることになるということです。思い出しましょう。御聖体の秘蹟は永遠の命の保証となるような秘蹟だからです。

また同じように司祭はお赦しの言葉を与えますがこれは、言いかえると、イエズス・キリストの御名において大罪を赦すという秘蹟です。つまり、救霊である聖寵を改めて与える秘蹟となるのです。同じように、終油の秘蹟を授ける時、最期を迎える信徒に救霊を与える秘蹟なのです。
要するに洗礼からはじまるすべての秘蹟はそもそも救霊を与えるために存在します。そして、品級の秘蹟のお陰で、他の秘蹟を授けられるようになるという意味で、品級は「救霊の秘蹟」なのです。

品級の秘蹟は他の秘蹟と同じように、我らの主、イエズス・キリストによって制定されました。トレント公会議は十分にこれを再断言しました。
そして、福音において我らの主は品級の秘蹟を明白に制定なさいました。最後の晩餐の時です。イエズス・キリストは使徒たちに向けて、「これを行え」と仰せになります。つまり、イエズス・キリストは使徒に命令を下します。そして行動せよ、「行え」という命令となります。

我らの主が使徒に与えた権能は本物の権能です。この権能はミサをもう一度行うことができる力をイエズス・キリストは使徒に与え給いました。ミサを再現する権能です。言いかえると、最後の晩餐の際、イエズス・キリストより、司祭たちはミサ聖祭を執り行い、再現する力を預かりました。「これを行え」と我らの主が仰せになりました。

我らの主は「これを記念せよ」とはあえて仰せにならないで、「これを行え」と仰せになられました。つまり、「私の記念のために、今の生贄をまた行え」ということです。ですから、イエズス・キリストは明白に記念することを命令するのではなくて、この犠牲を改めて執り行うように命令なさったのです。「記念せよ」と勝手に解釈するのはプロテスタントですが、福音書の原文に照らしても誤りですし、聖伝に照らしても誤りです。



それから、我らの主は福音の別の場面に、使徒に授洗する権能を与えて、授洗するように命じられました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ。」(マテオ、28、19-20)
また使徒たちに直接、罪を赦す権能をも我らの主が与えられました。
「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人にはその罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人にはゆるされない。」(ヨハネ、20、23)

以上のような場面において、イエズス・キリストは使徒たちに品級の権能を与え給うたことを明白に示し給いました。

品級の権能には位階制があります。つまり、司祭になるために、いくつかの段階を登らなければならないのです。
最初の段階は「カトリック教会」という位階制の社会に入る段階です。入会する段階です。カトリック教会は完全な社会であり、他の社会から別にある社会であり、世俗社会に依存しないで、自ずから社会のすべての要素を持ち、成り立つ社会なのです。そして、教会という社会の構成員は「聖職者」と呼ばれる人々です。

たとえてみましょう。国家は完全なる社会であるとされています。ある国家には国籍を持っている人々がありますね。フランスならフランス人がいて、日本なら日本人がいます。このように、世俗社会ではないのですが、霊的かつ超自然なる完全な社会である教会も国籍のような「戸籍」の人々があります。受洗者はもちろん、カトリック教会の構成員となります。そして、その上、カトリック教会に「入籍」する人々は、つまり、法律上もカトリック教会の法律の管轄にある人々もいます。「聖職者」と呼ばれる人々です。

聖職者というのはカトリック教会に入籍する人を指します。カトリック教会に入籍するために、剃髪式という儀礼があります。剃髪された人は聖職者となって、つまりカトリック教会に入籍しているということで、完全に教会の法律の管轄に移る人となります。
それから、司祭職までに、いくつかの段階があります。このように、剃髪された聖職者は少しずつ昇級していって、素晴らしい司祭職に近づいていきます。これが品級の秘蹟です。つまり、上下関係があって、位階制のある品級の秘蹟です。

まず、下級四段があります。最初の四つの段階ですね。第一、守門の段があります。守門の段に就いたら、鐘を鳴らす権能が与えられます。そして、この段の名前が示すように、教会にいることが相応しくない人々を教会から追い出す仕事もあります。第二の下級の段は読師です。この段に就いたら、聖職者は儀礼の際に信徒たちのために聖書などを朗読する権能が与えられます。第三の下級の段は祓魔師です。

ご覧のように、段ずつにミサ聖祭に近づいていくようにされています。というのも、司祭職のすべて、いやすべてはミサ聖祭を中心にしているからです。祓魔師の段に就くと、悪魔などを祓う権能が与えられていますが、この段についても、「制限付き」の権能であって、上司の許可なしに悪魔を祓うことはできません。そして、第四の下級の段は侍祭です。侍祭の段に就いたら、聖職者は聖壇まで、ミサ聖祭の質料(パンと葡萄酒の小瓶)を持っていく権能が与えられています。

このように、段ずつに聖壇に近づいていきます。「門」から聖域の辺境のある「朗読壇」へ、ミサ聖祭を始めるため、聖壇の階段の下に行くための悪魔祓い、それから、聖祭を助けるために祭壇のすぐ近くまでパンと葡萄酒を持っていく侍祭という段階がありますね。

以上は下級の四段です。剃髪者、それから下級の四段の聖職者たちはスータン(法衣)を着用する特権があります。現代は、スータンの着用の義務は免除されて、残念ながら弊害が多いです。というのも、司祭は地上においての天主の代理人たる人になるので、この司祭職を外面的にも示す必要があります。イエズス・キリストは人々にご自分を公に表し給ったように、司祭も公に常に人々に自分の司祭職を示す義務があります。スータンはいつも着用する法衣で、儀礼の際、スータンの上に、サープリスと呼ばれる白衣を着用するのです。

それから、上級三段があります。司祭職自体は上級の第三段であって、それを準備するために第一と第二の段があります。
上級の第一段は副助祭であり、第二段は助祭です。



副助祭に就くと、取り消しのできない決定的な約束が聖職者によってなされます。副助祭の段に就くと、祭壇へ決定的に近づいていく、司祭職への予備段なのです。同時に、副助祭の段に就くと、永続的な貞節と独身生活を送る義務が出てきます。つまり、副助祭は永続的な独身生活を送ることを誓います。副助祭以上の段に就くと、もはや結婚することはできません。副助祭になるために、独身生活を送る誓いをしなければならないということです。

また、副助祭の段に就くと、毎日の聖務日課を唱える義務もあります。しない場合、副助祭の大罪となります。聖務日課というのは、我らの主、イエズス・キリストが祈っておられた祈祷を続けるということなのです。つまり、上級の段から、聖務日課を唱えることになりますが、副助祭、助祭、司祭は聖務日課を祈る時、我らの主の名において、お祈りするという意味となります。聖務日課はイエズス・キリストが祈っておられた祈りとして、カトリック教会の祈祷中の祈祷で、至上の効果を伴う祈祷なのです。

以上の義務の他、副助祭の段に就くと、祭壇のより近くにいる栄光を持つのです。それを表すため、儀礼の際、副助祭服を着用する特権もあります。
そして、ミサ聖祭の時、副助祭は水の一滴を聖杯に注ぐのです。つまり、小瓶を持っていく侍祭よりも一歩先にミサ聖祭の中心に近づいていきます。副助祭は水の一滴を聖杯に注ぐのです。この水の一滴は何を象徴するでしょうか?すべての信徒たちの生贄を我らの主の生贄に合わせて一致することを象徴する儀式なのです。

また、副助祭はミサ聖祭の間、書簡を詠う権能もあります。最後に、副助祭はミサ聖祭の間、司祭を助けるのです。
上級の第二の段は、助祭なのです。副助祭より上です。司祭職の一段前の重要な段です。助祭も副助祭と同じように、儀礼の間、助祭服を着用します。副助祭の義務を引き継いで、永続の独身生活と聖務日課があります。



助祭はミサ聖祭の奉献の部の時、司祭と一緒に聖杯とパテナ(聖皿)を献げるのです。それから、助祭は説教する権能もあります。また、福音を詠う権能もあります。それから、司祭の許可で、聖体をお配りする権能もあります。また、助祭は荘厳に洗礼を授ける権能もあります。以上は助祭の権能でした。儀礼の時、助祭はスータンとサープリスを着用する上、斜めに結ばれているストラをも着用しています。左肩からストラが垂れて、右腰に結ばれています。助祭です。

最後の段は司祭の段です。司祭職です。
司祭の祝別式によって、司祭となる聖職者は我らの主の代理人となり、この世での「代わりのイエズス・キリスト」となります。司祭職に就くと、生贄を捧げる権能があります。つまり、ミサ聖祭という聖なる生贄を捧げる権能を持ちます。また罪を赦す秘蹟をも授ける権能を持ちます。品級の秘蹟と堅振の秘蹟以外、すべての秘蹟を授ける権能があります。品級の秘蹟と堅振の秘蹟は司教のみ授けられます。

厳密に言うと、上級の第三段は二つの小段に分けられています。司祭職と司教職に分けられています。司教職は大司祭であるということで、司祭職を完全に持っている時、「司教」となります。ですから、司祭職と司教職は本質的に違うのではなくて、同じ段に属します。司教職に就くと、品級の秘蹟(神父を作ることですね)と堅振の秘蹟を授ける権能もあります。また、司教は聖杯、教会、聖壇、聖油、童貞などを祝別する権能をも持ちます。

その上、司教職になると、別次元の権能も追加されます。ここは要注意で、この追加の権能は司祭職に属する権能ではありません。司教になると、統治権、指導権もついてきます。ようするに、司教は第一、完全なる司祭職の権能を持ちます。そして、その傍に、司祭職に属しない別次元の「統治権」をも持っています。

この統治権は教える権威、指導する権威でもあります。この統治権は教皇から直接に与えられています。
言いかえると、この統治権によって、司教たちはカトリック教会の統治に参加することになります。言いかえると、司教は「教える教会」の一員となります。しかしながら、司祭の場合、統治権はないことから、「教える教会」の一員ではなく、教えられる教会の一員なのです。



以上の区別は要注意です。というのも、司教は事実上に司祭職の全権と重なって、統治権をも持っています。が、統治権は司祭職から来るのではありません。別次元にあって、統治権は上司(教皇)の意志によって与えられているのです。簡単に言うと、統治権はカトリック教会において統治する権威と権能なのです。

ですから、ある小教区の主任司祭には小教区において統治権がありますが、あくまでも司教に委任された形でその統治権を持っているということです。裏を返せば主任司祭の統治権を司教がいつでも取り戻せるということです。

助祭と司祭(司教職を含めて)の段では、秘蹟の質料は司教の按手なのです。
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それから、秘蹟の形相は按手しながら司教が唱える諸祈祷なのです。

品級の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。だれが品級の秘蹟を受けられるでしょうか?もちろん、洗礼以外の他の秘蹟と同じように、受洗者でなければなりません。洗礼は「秘蹟の門」です。それから、男性でなければなりません。女性は品級の秘蹟を受けることはできません。女性はこのような秘蹟を授かったとしても、無効の儀礼となります。統治権は男性専用のことである他、イエズス・キリストが明白に男性にのみ司祭職を授け給いました。

他に、教会法はいくつかの妨げなどを制定しています。
簡単に言うと、もう一点だけを紹介しましょう。受洗者であり、男性である上に、品級の秘蹟に与るためは、召命もなければなりません。召命とは天主によって召し出されるという意味です。我らの主は明らかに使徒に次のことを仰せになります。「あなたたちがわたしを選んだのではなく、私があなたたちを選んだ」(ヨハネ、15、16)。

召命は神秘でありますが、天主が直接にある霊魂を選び給い、呼びかけ給うというようなことです。
司祭職に就くには、もちろん、身体上の能力は前提になります。いわゆる、司祭職を体力的に耐えられる身体がなければなりません。また、善徳を実践する慣習は深く身につけている条件もあります。要は、良き風習がなければなりません。残念ながら最近、カトリック教会において多くの風習の問題が出ていて、どれほど弊害があり、どれほどカトリック教会の汚れになり、どれほど信徒にとっての悲劇であるか、計り知れないのです。

また、司祭職に就くには最小限の知性もなければなりません。というのも、司祭は信徒に福音を伝えて伝道して、「よき知らせ」を説教する役割もあります。また、信仰を広めるだけではなく、誤謬から信仰を守る義務も司祭にあります。ですから、知性上のある程度の能力も前提です。

以上の条件は、わかりやすい条件ですが、その上、天主の召命、つまり、天主よりの呼びかけで「行け」という命令もなければなりません。それは神秘的なことというか、というのも、天主は物質的にわれわれに話しかけることはそもそもありませんので、この召命を示すために、叙階式の時、司教はそれぞれの受戒者を呼び出す儀式があります。

具体的に言うと、「召命があるのでは?」と考えている男性はまず、司祭に相談を受けてもらうのがよいです。
以上は、手短に品級の秘蹟をご紹介しました。この素晴らしい秘蹟のお陰で、地上において「Alter Christus」は作られています。つまり、イエズス・キリストの代わりに司祭はおられ、永遠の命をもたらすため、救霊のための秘蹟を授けていって、福音を伝道させる素晴らしい秘蹟なのです。
これで、公教要理の本講座は終了といたします。

新約聖書の位置づけについて:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月21日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
新約聖書の位置づけについて /ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ


「新約聖書の位置づけについて」

始めに
いつも相澤先生の連載を興味深く拝読しており、ここに改めて感謝の意を表したいと思う。
さて、今回の原稿は英国公教会のバウカム神学者の『イエス(ただしくはイエズス)入門』を手掛かりにして、新約聖書の位置付けを巡る原稿であった。バウカム氏自身がカトリック教徒ではないことから、その言説にはカトリックの教義と異なる可能性があるなかで、相澤先生からかなり重要な点を取り上げてくださったので、カトリックの教義からくる多少の理解の違いにつき共有できれば本稿の目的は達せられると信ずる。

予備的な知識。新約聖書と福音書の関係。訳語の意味。
新約聖書の内に福音書が入っていることは事実であるが、新約聖書は福音書のみからなるわけではない。新約聖書はそれに加え、多くの書簡(主に使徒たちの書簡で、聖パウロ、聖ペトロ、聖フィリップ、聖ヨハネ、聖ジャックなど)、使徒行録(イエズスの昇天のあとの使徒たちの活動を記録する歴史書)黙示録からなっている。

キリストとは確かに「油を注がれたもの」だという意味であり、創造主なる天主から択び出された者、王であることを意味する。「注油」という旧約聖書の儀礼から転じて、フランスの歴代国王の即位の際、「聖化祭(聖別式)」の中心が「注油式」であったわけであるが、その意味で、フランスの歴代国王は「キリスト」であったともいえる。ただ、イエズス・キリストは王の王として、この上ないキリストであるということを指摘しておきたい。ちなみにイエズスとは「救い主」という意味であり、「福音」とは「喜ばしき知らせ」であるという意味である。
そして、メシア(ヘブライ語)とは「キリスト(ギリシャ語)」と全く同じ意味である。

福音書は矛盾しているのか?
相澤先生が指摘されるように、福音書はまさに成文化された証言である。但し、福音書に記されている証言はイエズス・キリストの言動の一部に過ぎない。例えば、福音書はイエズス・キリストのご降誕周辺の出来事を除いたら、30歳ごろからの公生活以前の場面は一つのみしか記されていない。
つまり、一番肝心な場面や教えを記すが、網羅的ではない。本来ならば、イエズス・キリストより直接に与った口述で残されている伝承も考慮しなければならない。これは「聖伝」といい、カトリック信仰の二つ目の柱である。聖書と聖伝は補足的な立ち位置にあり、お互いに支え合っている関係にある。

要約すると、福音書は聖霊によって息吹きされた証言であり、歴史的な資料として一番信用できる資料である。「各福音書簡の齟齬」と書かれているが、このような「齟齬」は教えの中では本質的なものではない(例えば、復活後にお墓にいった最初の女性はマリア・マグダレナだけであるのか、あるいは、彼女と一緒に数人の女性であるか、あるいは二回行ってみたかなど)。むしろ、マリア・マグダレナを中心に、使徒ではなく敬虔な女性たちが空いたお墓を見つけ、復活が知らされて、使徒たちに伝えたという共通する証言は逆に証言の信ぴょう性を強化するのである。

というのも、イエズス・キリストを見た人々は、同じ出来事を見ても、微妙に記憶は違っており、前後の関係などは必ずしもすべてにおいて一致していないのが普通であり、それゆえに福音書というものは、人為的に計画された文書ではなく、ありのまま見たことを真摯に証言しようとして、成文化された文書であることの証左だといえよう。ここで大切なのは、すべての粗筋や教えの根本や主な出来事の間には矛盾が一つもないということなのである。

また、それぞれの福音書はそれぞれの事情あって成文化されたのであって、それぞれが必ずしもイエズス・キリストの同じ場面を記すわけでもない。例えば、一番遅い時期に書かれた、また一番若い使徒で長く生きた聖ヨハネの福音書は他の三つの福音書に記されていない場面を主に記すという意味あいで書かれた福音書であった。



福音書とその著者の簡単な紹介。
では、簡単に「福音書」を紹介しよう。年代順でいうと、マテオ、マルコ、ルカとヨハネである。マテオとヨハネは十二使徒のうちの二人である。一方、マルコは初代教皇、使徒聖ペトロの秘書のような立場の人間で、ルカは、聖パウロの秘書や通訳をしていた人間であった。つまり、いずれもイエズス・キリストによって選び出された十二使徒の一員であったり、(プラス聖パウロ)、そのゆかりの人間であり、特に十二使徒はカトリック教会の指導者として、イエズス・キリストの昇天の後に福音の布教を初めており、十二使徒は聖ヨハネ以外全員、殉教死を遂げている。

聖マテオの福音書は一番早く書かれた福音書であり、イエズスの昇天後、10年ぐらいたってから書かれたとされている。当初の弟子たちはエルサレムにいたが、使徒たちがいよいよエルサレムを出て、世界中に福音を運ぶことになった時、エルサレムの弟子たちは使徒たちが不在になることを補うため、イエズス・キリストの教えを纏めるように、使徒の内でも一番素養があり、もの書きができたマテオ(元取税吏)に対して、それぞれの弟子の証言を集めてイエズス・キリストの言動を書き残すように頼んだのである。
マテオの福音書はつまり、エルサレムの弟子たちからの依頼だったが故に、ユダヤ人向けで、最初はアラメアン語(ヘブライ語の方言)で書かれており、旧約聖書の強い知識を有するユダヤ人ならよくわかる予言の成就などを強調しているという特徴がある。冒頭にイエズス・キリストの系統図が載っていることから転じて「人」を象徴する福音書とも呼ばれている

聖マルコの福音書は最も短い福音書であるが、イエズス・キリストによって任命された初代教皇、聖ペトロの福音書とも呼ばれている。というのも、聖マルコは聖ペトロに従い、聖ペトロの秘書や通訳をやりつつ、聖ペトロの証言を書き下した福音書であるからである。イエズスの昇天後15年くらいたってから、ローマにおいてギリシャ語で書かれた回心した元の異教徒向けの福音書である。

このため、異教徒なら馴染みのない旧約聖書の預言やイエズスがダヴィド王の子孫にあたるといったような側面は強調されていない。この福音書が、冒頭、当時ライオンが住んでいた砂漠での洗礼者聖ヨハネの教えから始まることから転じて、「ライオン」で象徴される福音書である。ちなみに、聖ペトロはイエズス・キリストに従う前は洗礼者聖ヨハネに従い、洗礼者聖ヨハネの命令で、イエズス・キリストに従うようになった。

聖ルカの福音書はイエズスの昇天後30年ぐらいたってから書かれたとされている。聖ルカは教養のある元異教徒で、医者であり、優秀な作家でもあった。回心後、聖パウロの医者(医者の守護聖人でもある)や秘書のような役割を担う。聖ルカは直接にイエズス・キリストの言動を見ていないので、聖パウロとともに聖地での調査を行い、聖母マリアをはじめとするイエズス・キリストの多くの弟子の証言を収集、整理して、また聖マテオと聖マルコの福音書をも参照しながら書かれた。

現代風にいうと、最も「歴史家」が満足する福音書であろう。また、聖ルカは使徒行録の著者でもある。特に、聖ルカは医者でもあったことから、イエズス・キリストの十字架刑などの受難の描写は現代医学の見地からも十分耐えられるものであるといわれており、例えば、受難の始まりにルカ福音書にしか記されていない次の節がある。「イエズスは悶えて、いよいよ切に祈られたので、御汗は血のしずくのように地に落ちた」(ルカ、22,44)とある。これは、まさに非常に精神的なショック、恐怖などを受けた結果、汗に血が混じるシンドロームであるが、殆どの場合、このようなシンドロームで即死することが多いという。これは医者である聖ルカが気づいた点であり、現代でも確認できる病症である。つまり、このことから、受難がまだ始まらない段階で、すでにイエズス・キリストの精神的な受難は非常につらかったことが偲ばれるのである。
ちなみに聖ルカの福音書は、冒頭で神殿が登場することから、神殿に生贄として捧げられる牛から転じて「牛」で象徴される。

聖ヨハネの福音書はイエズスの昇天から70年たった後、つまり西暦100年前後に書かれた。聖ヨハネはイエズス・キリストの公生活の時、一番若い使徒で、「最も愛された」弟子だった。聖ヨハネは十字架上のイエズスからの直々の指示により、聖母マリアを母と仰ぎ、彼女の被昇天に至るまで居を同じゅうし、これを護られたほどである。

西暦100年ごろになって、イエズス・キリストの神性と人間性に関する多くの異端が発生し始めたことを鑑みて、多くの司教や弟子たちなどは使徒たちの内で唯一生存していた聖ヨハネに対しイエズス・キリストの御教えを纏めるように頼んだ。聖ヨハネは最初、拒んでいたが、しつこく頼まれたため、聖ヨハネは三日間の断食と祈祷を弟子と一緒に行い、その結果、福音書を書くことが天主のみ旨であることを悟り、福音書を書いたのである。

聖ヨハネは他の三つの福音書の特徴とは違い、より本質的にイエズス・キリストが真の天主、真の人であること、イエズス・キリストは三位一体の第二位格の御言葉であること、天主は愛であることなどがより強調されている。異端を念頭に置きながら、他の福音書が記していない場面と教えを中心に補足する形で書かれた福音書である。

また、彼もイエズス・キリストによって一番愛された使徒として、聖母マリアと一緒にずっと暮らしてイエズス・キリストの幼児期のことをも聞くことができ、そして、十二弟子の中にあって唯一、逃げずに聖母マリアたちとともに十字架の下でイエズス・キリストを仰ぎ見たのが、聖ヨハネであったという意味でも、独自の地位を占める福音書であるといえよう。ちなみに聖ヨハネは鷲のようにイエズス・キリストの教えの本質を一番よく理解していたことから転じて「鷲」で象徴される。

以上に見られるように、福音書は非常に信憑性の高い、お互いに支え合っている資料であり、と同時に、それらはすべて、聖伝と合わせて、信仰に欠かせない根本的な文献であるといえる。


科学と信仰は矛盾しない。
カトリックでは信仰と科学の成果は相矛盾するものではない。むしろ、科学の成果はどうしても信仰の中身を支えている。浅薄な科学なら、信仰が揺るがされるに見えるかもしれないが、カトリック信仰は現代でも一番攻撃されようとも、結局強化されている。

好例として取り上げられるのは、「聖骸布」というイエズス・キリストが死んだ後の死体を包むための聖遺物に関する科学的な調査であろう(注・聖骸布についての講話を参考に )。奇跡なども一緒である。例えば、フランス歴代国王の聖化祭の後に、歴代国王は瘰癧(るいれき)という皮膚の病気を手で触れることによって奇跡的に直していたが、それは歴史的に科学的に証明されていることである。というのも、18世紀になって、啓蒙思想である懐疑主義が流行ると、このような奇跡を否定するため、医者は瘰癧(るいれき)の治療儀礼の際に儀礼以前の病者の病症などを確認して(病者ではない者を除くためという意味でも)、儀礼後の病者をもみ続けた。この結果、「奇跡的に」、つまり「科学的に説明できない」病の治療は数多く確認されたのである。。。つまり、啓蒙思想派の人々が目論んだ逆効果となった。
歴史的にも科学的にこのような証明された奇跡は数えきれないほどある。調べていただければ明白になるかと思う。

天主の王国の実現はこの世にはない

実は、王国を地上での実現とみるか否かというポイントこそが、日蓮を初めとする異教とカトリックの違いである。ユダヤ人たちは確かに地上の王国の実現を渇望していたが、イエズス・キリストのいうところの王国とは地上的な王国の実現ではなかった。使徒たちですら復活までにこの意味をよく分からなかったのである。復活なども何度も予告されていたのに、信じようともしなかった。受難が始まると、使徒や弟子たちの皆が逃げて引き籠った。聖ヨハネと少数の女性たちのみがイエズスの近くに残ったのである。

復活して、イエズス・キリストは女性たちの前に現れても、まだ使徒たちが信じないで引き籠っていた。実際、イエズス・キリストは使徒たちと一緒に食べたり話したりしたときだけ、復活を確認していたが、まだまだ迫害者が怖くて表に出なかった。40日間、イエズス・キリストは多くの人々と出会い、子の復活の具体性が強く示され、証明されて、その上、ご昇天されるが、そのあとの聖霊降臨に至って、使徒たちは聖霊に導かれ、ようやく布教を始めることができた。福音書を読んでも、どれほど使徒たちがイエズス・キリストの教えを理解していなかったことがよくわかる。皆、現世的な救済主を待っていたから、だれも天主なるイエズス・キリストの教えを理解できなかったのである 。

この復活は歴史的にも証明されているし、科学的にも復活という過程しか成り立たない。そして、この復活が歴史的な出来事であるからこそ、カトリックには意味がある。信じがたくても、現実は現実である。数年前、目に見えない菌を懼れて、社会全体がおかしくなっていくと言われたら「ふざけている」と言われただろうが、信じがたかったものの、結局、目の前に現実的に起きているのである。そして、このような復活こそが歴史的な出来事であるからこそ、信仰がうまれたのである。

つまり、イエズス・キリストは真の天主であることを根拠づける復活を見て初めて、イエズス・キリストの教えを信じることができたのである。科学は信仰を支えている。真理は現実に背かないので、現実の一側面を見ている科学は本物の信仰と矛盾することはないのである。

要は、イエズス・キリストはユダヤ人たちによって迫害されたのは、期待された地上の王国を実現してくれる解放者ではなかったからである。永遠の命をもたらしに来たイエズス・キリストであるが故、十字架上の生贄によって原罪を贖うことにより、天国の門を開けられたが、あとはその救済を受け入れるかどうかにより、天国にいくか、地獄に行くかが、死の時に定まるのである。

もちろん、だからといって、これは、地上のことを無視することを意味しない。むしろ、地上を無視することは異端でもある。すなわち、この身体も、この地上も天主によって用意された現実である上、非常に大切にしなければならないということである。ただし、人類の究極の目的は天の王国であり、地上の王国などはかりそめの姿であり、常に相対的であり、亡びてゆくものに過ぎないことを忘れてはいけない。

また「絶対平和」、「八紘一宇」といったような理想は人間の本性を無視した思弁的、観念的なものであり、人間の目的、本地である天国からずれている。これこそが恐らくカトリックと諸異教との間の根本的な違いであろう。またカトリック教会の教えとは、まともに故郷を愛し、国を愛し、天に選ばれた天皇、王、君主に従い愛するのは当然だというものである。しかし、この世に理想的な国家を作ろうとは思っても無理であり非現実であるだけではなく、無駄である。というのも、我らの本当の目的地は天国であるからである。

結びに代えて
プロテスタントとドイツ系の学問の影響が強いせいで、西洋を一枚岩、キリスト教を一枚岩にする弊はいまだに大きいだろう。それを克服するためにはまだ相当に時間がかかるかもしれない。
グロバーリズムという新しいバベルの塔が蔓延しており、愛国主義、尊王主義をややもすると否定しがちな現代では、なおさら現実を直視する必要はあるのではないだろうか?そして、自分の故郷、愛しているわびしい大和心、皇室を守り抜くため、イエズス・キリストの教えを真に受ける必要はないだろうか?
また、キリスト教の本地なるカトリック信仰を知るため、例えば入手しやすい岩下神父の『カトリック信仰』を読んでいただいたら、今度の検討のためになるだろう。このような書評を書いていただければ、今度の議論のためにもより役立つだろう。



助産婦の手記 まとめ

2021年05月19日 | 生命の美しさ・大切さ
リスベート・ブリュゲル著 「助産婦の手記」をここからお読みできます

「助産婦の手記」結語 忠実な母たちに対する感謝の挨拶
「助産婦の手記」50章 我が国民の大きな待降節。アドベントリースと幼いキリスト様のための藁の茎
「助産婦の手記」49章 一滴の蜜をもってすれば、一樽の酢をもってするよりも
「助産婦の手記」48章 継母に関する意地悪い歌!
「助産婦の手記」47章  愛というものは、腸詰とは違うものです。
「助産婦の手記」46章 『結婚は、実に生命共同体ですよ……』
「助産婦の手記」45章 「でもそれは、神聖な自然法でありませんか?」
「助産婦の手記」44章 天主様と協力して、あらゆる木材を材料として、聖人でもルンペンでも彫刻することができるのです
「助産婦の手記」43章『私は、もう家へは帰らない、どんなことがあっても。』
「助産婦の手記」42章『一人から始めてそれを続けて行かねばなりません。』
「助産婦の手記」41章 自発的に取運ばれるものは良い結果になる
「助産婦の手記」40章  子供の誕生に先立つ処世法
「助産婦の手記」39章  新時代の一人の新市民を!
「助産婦の手記」38章  もし我々のすべてが、ただ活眼を持ち、そして何事かをすることを、そんなにおっくうがらなければ
「助産婦の手記」37章  再び物乞いの旅に
「助産婦の手記」36章  正真正銘の愛
「助産婦の手記」35章  『そうです、それは十三人です。』
「助産婦の手記」34章  しかも、二ポンドのバターのために!
「助産婦の手記」33章 「賜暇(かし)のお土産」
「助産婦の手記」32章 英雄の追憶を留めておく記念碑が英雄的な母親の名前を告げるために、永遠に書きしるされている
「助産婦の手記」31章  その家は、砂の上に建てられたのではなく、岩の礎の上に立っている。
「助産婦の手記」30章 今こそ自分で作ったスープを飲みほさねばならぬのだ!
「助産婦の手記」29章 『われ立てりと思う者は、倒れざるよう注意せよ』
「助産婦の手記」28章 人は独りでいることを、時期おくれにならないうちに学ばねばならない
「助産婦の手記」27章 『私は、それは大して重要なことではないと、ほんとに信じていました。』
「助産婦の手記」26章 禍(わざわい)なる遺産!
「助産婦の手記」25章 ああ天主よ、あなたの神聖な道徳律、あなたの掟の旧式な時代おくれの規定は、いかに善いものであることか!
「助産婦の手記」24章  かつて生命共同体であったところのものが、今や単に共同の給食場であり、寝る場所であるに過ぎなくなった
「助産婦の手記」23章 常に繰り返される一つの歌、悩みの歌
「助産婦の手記」22章 『今日では、結婚した人たちは――殊に上流社会では――別の課題を持っているのです。』
「助産婦の手記」21章『上から下へ、誤った精神が降りて来る…』
「助産婦の手記」20章 『母親は自分の心、自分の感情の一片をも一緒に、赤ちゃんの生命の中へ与えるのです。』
「助産婦の手記」19章『さあ、お前たち、一生涯中、このようなお母さんにふさわしいように、やって行っておくれ。』
「助産婦の手記」18章「赤ちゃんは、確かに守護の天使を持っています。」
「助産婦の手記」17章『わたしのただ一人の黄金の恋人……』
「助産婦の手記」16章 いつになったらは妻は、夫に対して指導者であり得るような結婚生活をさせ得るだろうか?
「助産婦の手記」15章 『あなたが、恥を知らないってことです! 』
「助産婦の手記」14章 「御婦人というものは、女王でなければなりません、王冠を戴いていなければならない。」
「助産婦の手記」13章 「この教育のお蔭で、私の結婚生活が、とにもかくにも、太陽に満ち、そして私たち二人が喜ばしく、幸福であるということを、私は母に感謝しているのです。」
「助産婦の手記」12章 『もうまた』
「助産婦の手記」11章 赤ちゃんは、実に天主の使者である。それはおのおの天主から特別の使命を受けて、この世に生まれて来る。
「助産婦の手記」10章『さあ、あっちへ行って仕事をなさい! ここで見物している必要はないんです! お母さんも、あんた方のために一度はこんなことがあったんですよ。行きなさい―― みんなここから! 』
「助産婦の手記」9章 『お医者さんへ使いをやりましたか。奥さんは死にますよ!』
「助産婦の手記」8章「私は、最初の過ちに対し、二度目の過ちをつけ加えることはできません。」
「助産婦の手記」7章『この子が物心つきさえすれば、すぐ変わって来るでしよう、まだそんなに小さいんですもの…』
「助産婦の手記」6章 『するとあなたは、 多分、小っちゃいお子さんが、まだ長い間、母親のもとにいるのをお喜びになるでしょう。』
「助産婦の手記」5章『赤ちゃんをここに置いて、可愛がってやって下さい すると噂はじきに消えますよ。』
「助産婦の手記」4章『嫁入支度をせねばならぬような女の子は、まっぴらだ。そうだとも。』
「助産婦の手記」3章『リスベートさん、何とか子供の手当を! 私はまだ死んだ子供を生んだことはないんです…この十二人目も生きているに違いありません』
「助産婦の手記」 2章 『今度があなたの始めてのお仕事でしょう。どうしても男の子でなくちゃ!』『いいえ、女の子ですよ!』
「助産婦の手記」1章 神父様『リスベートさん、私はあなたと真面目な話を一寸したいのですが…』

聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月17日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教。/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ

聖書を巡って。ユダヤ教とキリスト教。

始めに
いつも、相澤先生の原稿を楽しく拝読しており、かつてのような論争を原稿という形でもさせていただくことには一定の意味があると思うので、筆を執った次第である。相澤先生の学恩に感謝の意を表したいと思う。

さて、12月号の原稿に取り上げられる課題は私にとって非常に重要である。つまり、聖書はどういったものなのか?それからユダヤ教とカトリックとの関係は何なのか?といったものだからである。
現代では、とくに第二ヴァチカン公会議以降、この二点についての誤解は深刻なので、そのあたりを中心に語りたいと思っている。

聖書とは
聖書は文学的に見ても時代も作者もその言語にいたるまで多くの異なる文章からなっている。たとえば、その中には詩、歴史記録、預言書、教訓書、書簡、回顧録などがあるばかりか、言語的にみても、ヘブライ語、ギリシャ語からなっており、その意味で、聖書とは纏まった「聖典」ではなく、いわば「本棚」のようなものといえよう。

加えて、「聖書」は、カトリック教会の教父たちとカトリック初期の公会議が制定した「聖なる文章」という一面をももつ。一般にいわれるところの旧約聖書と新約聖書である。善き日本語訳としては講談社のフェデリコ・バルバロ訳を推奨する(後述するが、同じ聖書とはいえ、翻訳が重要になってくる)。当初の教父たちや公会議の制定において、この聖典の構成は変えられることはなかった。聖霊の導きによって書かれたものであろう。ただし、イスラム教とは違い、多言語で書かれたものなので、当初から学問的な種々の考察と解釈があったことは事実である。

つまり、「聖書」というのはカトリックの信仰の一つの源であり、ユダヤ教とプロテスタントとはその位置づけを異にする。というのも、「ユダヤ教」(厳密に言うとラビ教、あるいはタルムード教)はタルムードを典拠にして、新約聖書そのものを否定する。一方、プロテスタント諸派は自由気ままに旧約聖書や新約聖書において恣意的に都合の良い文章を選択したりするので、統一された解釈というものがない。

聖書という意味
旧約聖書は救世主、真の人、真の天主であるイエズス・キリストの到来を準備するために用意された「民族」の歴史である。つまり、ただの物語ではなく、歴史書である。

しかしながら、ユダヤ人は、聖書の預言を否定する。というのも、旧約聖書のすべての預言を成就したのはイエズス・キリストであったにもかかわらず、タルムード教はイエズス・キリストそのものを否定するので、その結果、旧約聖書の預言を否定したり、無視したり、歪曲したりせざるを得ないのである。

この結果、天主の本質を語る旧約聖書は、タルムードを信奉する現代のユダヤ教によって完全に無視され、ないがしろにされている。カトリックでは、聖書を読むに際して、四つの解釈がありえる。ひとつは、普通に「文字通りに」読んで、つまりその歴史事実を把握するという一番単純な読み方であり、わかりやすい読み方である。
また、ほかに霊的な読み方が三つある。「前表(ぜんぴょう)」の意味で読み取る。つまり、旧約聖書の文章を新約聖書のイエズス・キリストのまえぶれとして読みとるというものである。
それから「教訓」の意味がある。つまり、道徳上の教えや天主に近づけるための霊魂上の試練と修道を助ける教えとして読みとるというものである。
最後に、福音書に照らして、人間の目的地(天国と地獄、永遠の命など)を語るものとして読みとるものである。

旧約聖書のすべての文章が必ずしも以上の四つの解釈に妥当するとはいえないが、初期の数十人の教父たちが揃って同じ言及をする場合、それは定着した否定できない解釈とされている。

例えば、旧約聖書のダヴィド王の場合はこうである。歴史の意味でとらえたら、ダヴィド王の歴史を語るということになるが、前表という意味でとらえたら、王たるキリストの意味でイエズス・キリストのさきぶれということになるし、道徳的側面でとらえると、ダヴィド王が罪を犯したときの改悛から改悛の必要性、赦しを希う必要性という教訓という意味になる。


ユダヤ教とカトリック
さて、次の課題に移そう。相澤先生は次のように書かれる。
「キリスト教がユダヤ教を相承(信仰的系譜)する一例である。ユダヤ教とキリスト教とを別ものとする意見を散見するが、客観的にみれば両教は兄弟関係、同文脈上にあることは明白、そのことを旧約聖書の存在が明示しているのだ。」

これは現在、一般化された見解であるが、実は誤認がある。旧約聖書がなぜ存在したかというと、ひとえにイエズス・キリストの来臨を準備するためであった。だから、イエズス・キリストの来臨を受け入れて、三位一体なる創造主、真の人として真の天主として仰ぐカトリックこそが「真実のユダヤ教」であるといえる。

そこがポイントである。「ユダヤ人」と「ユダヤ教」と言っても、イエズス・キリストの来臨以前と以後ではその位置づけを異にすることになるからである。つまり、イエズス・キリストを旧約聖書の預言どおりと受け入れて、イエズス・キリストに従って行ったユダヤ教徒(使徒たちや多くの人々、それから多くの異教徒たち)はそのままカトリックとなっていくのであるが、一方で、ファリサイ人のようにイエズス・キリストを否定して、憎んでいる子孫たちは現代の「ユダヤ教」になるのである。

つまり、ユダヤ教とカトリック教とは兄弟関係にはなく、むしろ宿敵関係にあるのである。それだけではない。「ラビ教」とでも呼ぶべきイエズス・キリスト以降の「ユダヤ教」は聖書は読まない。彼らはタルムードを読んでいるのである。タルムードは1~5世紀まで纏まった経典であるが、カトリックを否定するために成立したものである。具体的に言うとイエズス・キリストの預言された文章を書き変えたり、歪曲したり、またカトリックの真理を予兆する多くの文章を平気で改竄したりしているのである。

さらにいうと、タルムードやラビ経が典拠としているヘブライ語の旧約聖書よりも、カトリックの読む聖書こそがイエズス・キリスト当時やイエズス・キリスト以前の聖書に近いのである。というの、基本版となっている聖ヒエロニムスのラテン語訳、「ウルガタ」(現代でも典礼で使われている基本版)は382年に訳が完成したが、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語の達人が、古代ギリシャ語の「70人訳」を参照にしたほか、ヘブライ語の古い写本やタルムードの準備書面の「Mishnah」をも参照して、訳されたものであるからである。それに加えて、多くの教父たちや聖伝(イエズス・キリストの教え、聖書の解釈を含め、使徒たちから継承された教え)にも基づいているのであるからである。紛れもなく、「聖書」という時、イエズス・キリストの時代に使われていた一番近いものはカトリックの側にある。
これは旧約聖書の話だけであり、福音書ならば、もちろん現代「ユダヤ教」はまっこうから否定する。

それから、次の下りである。
「バラモン教から見ると、釈迦も自らの系譜を引く覚者のひとりとなる。キリストもユダヤ教から見ると自らの系譜につながる預言者の一人と見做す。構造的には合致している。」
しかしながら、厳密に言うと、タルムード教はイエズス・キリストを正面から否定するので、預言者としてすらみなしていない。一方、イスラム教はイエズス・キリストを預言者のひとりとしてみなしている。

だが、これはイエズス・キリストが真の天主であることを否定するために、当初のファリサイ派や反カトリック諸派により勝手に論難されたものにすぎない。というのも、イエズス・キリストは至上の王であり、至上の大司祭であり、至上の大預言者である上、真の天主、真の人であるということで、托身と贖罪の御業のため来臨され、そして人間の存在理由を決定的に明らかにしたのである。この事実こそがイエズス・キリストの存在理由である。が、これを正面から否定するタルムード教、フリーメイソンなどの「自然主義」と呼ばれる誤謬は、これらの事実が見えないように歴史上に多くの策略を繰り返してきた。
たとえば、「ユダヤ教」と「キリスト教」は兄弟関係だという誤謬を勧めたり(歴史上に見ても教義上に見ても宿敵関係にあることは明白なのに)、托身と贖罪、三位一体の玄義を歪曲したり否定したり忘れさせようとしたり、また永遠の命や超自然の生命を否定して、現世のみを視界に入るようなものである。(これについて、ぜひとも、「グローバリズムの真相に迫る!『グローバリズムの図解』前編・後編」 https://youtu.be/NUFpWyQrrlQを参照してほしい)。

飲酒について
それほど重要な点でもないが、十戒において飲酒のことに触れられている。どちらかというと、世に流布している「十戒」はカトリック教会による伝統的な要約版に過ぎなくて、それぞれの項目には多くの「副題目」が入っている(出エジプト記、20章から全文がある)。それについて、「天主の十誡と教会の掟」と題される公教要理からの教室を参照(https://youtu.be/jGGsqhZrilg あるいは、「罪源(その二)」https://youtu.be/vCFTLH0UB14 また、ファチマの聖母の会のサイトにも書き起こしが掲載されている)。

また、相澤先生の指摘のように、仏教には第一戒から第四戒までに相当するものはないと指摘される。これは非常に重要なポイントであると思われる。仏教はこれを「必要としない」からではない。大事な事実である創造主を無視するか、知らないか、見ないふりにするか、いずれにせよ、現実に存在する「天主」を捨象することに原因がある。

この意味で、僭越ながら、冥合思想ではなく、天主のご啓示によって仏教における正しい原理・原則を保ちつつ、超自然・霊的な真実に背く誤謬を取り除く試みをされるのはいかがであろうか?

終末論的な予言について
イエズス・キリストが成就した予言の他にも、イエズス・キリストご自身が残した予言がある。いわゆる「世の終わり」についての予言であるが、深入りする余裕はないので一言で要約してみると、将来を知らせるためにある予言ではない。単に、改悛と永遠の命への準備を促すための予言である。

また、前提として、予言は成就されないかぎり、だれも(天使と悪魔を含めて)世の終わりの時は知らないし、それは天主のみが知ることである。したがって、終末論的な主張はカトリック教会によって好まれていないどころか、邪道であるとすらされている。それについて、「本物の陰謀とは?(マテオ、24、15-35)」(https://youtu.be/Mx0HpJHONrY)と「悪魔(サタン)の罠。(マテオ、24、15-35)」(https://youtu.be/6C9V1wKbbf4)を参照していただければ幸いである。

要は、世の終わりの予言などはそれほど重要ではなく、いつ起きるかはわからないが、我々は確実に死ぬという前提のなかで、イエズス・キリストの裁きに対する相応しい準備をし、カトリックのいうところの聖寵の状態で死ねるように努めることこそが一番重要であるということである。

結びに代えて
相澤先生の結びを引用させていただく。
「現在のキリスト教徒に考へてもらひたい。キリスト教と法華仏教、これらの両教の冥合点を認め合ふ態度を望みたい。キリストと日蓮、両聖人の使命は全人類の不幸な対立をもたらすことではない筈である。基本冥合思想の解明こそ、今に生きるクルスチャンおよび法華仏教者の使命であると強調しておく。」

残念ながら、賛成できない結論である。すでに別の原稿で説明したように、単なる人としての自然徳を持つ日蓮を模範にするのはいいのであるが、三位一体なる創造主、真の人、真の天主(これは信仰ではなく、歴史的な事実である)なるイエズス・キリストの存在とはまったく異質である。それは、まさにイエズス・キリストの御言葉の「私が真理であり、道であり、命である」ということからしても明らかである。

この意味において、イエズス・キリストの使命は、十字架上の贖罪の御業にあり、そして祭壇上のこの生贄の再現であるミサ聖祭という遺産を制定なさったことにある。あとは、我々はこの事実を受け入れるか拒むかだけである。天主なるイエズス・キリストは十字架上に懸けられてまでわれわれを愛し給うたのであり、僅かでもイエズス・キリストのように天主を愛しようとするかしないかはすべて我々次第である。

「Veritas(真理)」という意味は「現実・実体・真実」と「表題」が一致していることというのが古代からの哲学上の意味である。イエズス・キリストが真の天主、真の人であるという真実を受け入れる義務は我々にある。これは実に存在する真実であるからである。

対立とは、原罪を負うている我々が、現世欲に負けて、意志的に真実を受け入れないことにしたとき、生じるものである。すでにイエズス・キリストによって完全かつ明確に示された真理・真実をそのままに引き継ぎ、訴え、実践において守り切るのはカトリック信徒の使命である。そこには人為的な解明が入る余地はない。イエズス・キリストの奴隷としてイエズス・キリストの教えを実践していくように努めることこそ、カトリック信徒の使命である。

その観点からできるのは、自然徳や自然上の真理を仏教においても認定しつつ、形而上学上の誤謬などを取り除くことではあるまいか。
最後に強調したいのは、学問にとどまらず、理想と幻想を捨てた上、「真実」に沿った自覚こそが現代で必要ではないであろうか?ということである。

カトリックと戦争:【国体文化】掲載記事への返答

2021年05月15日 | カトリック
【国体文化】に掲載された連載への返答記事、ポール・ド・ラクビビエ氏の原文全文をご紹介します
〔書評〕相澤弘明著の『キリスト教と戦争』/ポール・ド・ラクビビエカトリックと戦争/ポール・ド・ラクビビエ
里見日本文化学研究所特別研究員 ポール・ド・ラクビビエ


カトリックと戦争
はじめに
相澤氏のキリスト教と戦争に関する記事を読み、感銘する部分もあり、ここに感謝の意を表したいと思う。大まかに相澤氏がまとめてくださった通り、カトリック、それからルターの戦争に対する立場は説明されている。カトリックはもともと正当防衛を認めていた他、正しい戦争をも説いていたので、後ほどそれについて、補足することにしよう。そして、相澤氏の言うように、ルターはかなり暴力主義であったのは知られていることである。戦争だけではなく、例えば魔女狩りについてもプロテスタントを創始したルターこそがかなり扇動した事実がある。ルターによる次の文書がある。1529年の彼の著書である『大教理』からの引用である。

「バターと牛乳と鶏小屋で卵などを盗む魔女にせよ、魔法使いにせよ、それらに対して容赦してはならない。旧法 において、司祭らが罪人に投石したように、できれば、私自身が彼女らの火刑台に火をつけたいところだ。」

それはともかく、「従軍司祭」の制度の起源はメロヴィング朝、8世紀までその前例があるが、制度として整備されたのは聖ルイの時代まで遡る。正確に言うと、「従軍司祭」というよりもフランスではいまだに「従軍教区」が敷かれている。革命があったにもかかわらず、これは聖ルイが整備した制度の遺産である。

「従軍教区」の淵源は「王室聖堂の教区」という特別な教区が教皇に認められたことにある。本来ならば、司教が束ねる教区とは地理上の単位であるが、「王室聖堂の教区」には地理的な基盤はなくて、王室の霊的要請に応えた教区であり、例外的に司教でも認可される教区であった。そこから、軍人のための教区として「従軍教区」ができて、司教はそれらの従軍司祭を束ねるのである。

これは、戦争を肯定するというよりも、国家に身を捧げる軍人の霊魂のための制度であって、戦場におもむく前に秘跡(特に告解とミサ聖祭)に与れるとともに、また瀕死の際も、秘蹟に与れるための制度である。というのも、カトリックでは死んですぐに、裁かれ、霊魂の行き先が天国、地獄、煉獄にいずれかが決せられるので、国家のために奉ずるという軍人の職分の本質に照らして、通常よりも秘跡を必要としている仕事とみなされているからである。

カトリックの戦争観
さて、カトリックの戦争観を簡単に紹介しよう。カトリックは戦争を肯定するといえるだろうか?肯定というよりも原罪の必然的な帰結として現実にあることからして、やむをえない罪の結果とみなされている。従って、罪と同じように戦争を嫌い、基本的には戦争は避けるべきであるものの、一方では正しい戦争もあるとされている。

オックスフォード大学の哲学博士であるJohn Laughland氏の明快な解説によると、正しい戦争はあり得ても、そうではないいわゆる「反乱」は必ず「大罪」となるとされる。現代世界を理解するためにかなり手がかりとなるので、ぜひとも参照していただければと思う(ユーチューブで『キリスト教の道徳と戦争法の変遷(国際法の起源に迫る)』を検索。https://youtu.be/Ko2Ak45QoXk)。

以下、引用開始。
「中世期を見ていきたいと思います。ここにいる多くの方々は中世期の戦争論を知っていると思いますが、「正しい戦争」という観念は有名であり、皆、一度ぐらい聞いたことがあるでしょう。また、ここにいる皆様は正しい戦争に関する聖アウグスティヌスと聖トマス・アクイナスの文章を知っていることを期待します。

ご存じのように、戦争は正しい戦争になるための条件として、聖トマス・アクイナスは三つの条件を提示します。第一に、宣戦布告と戦争自体の展開は正統な権威者がやるべきという条件。第二、戦争を開始する理由は正しくなければならない。つまり、具体的な不正、あるいは不公平を糺すための理由がなければならないという条件。そして、第三、それだけでは足りなくて、戦争開始をする意図も正しくなければなりません。言いかえると、慈悲をもって戦争に臨むべきとの条件。具体的には、暴力を最小限に戦争を展開して、復讐や暴行への欲望に落ちないことに努めるという意味です。

しかしながら、聖トマス・アクイナスはさらにもう一つの条件をつけ加えます。以上の三つの条件は神学大全の第二部、第2部の第40問に記されています。聖トマス・アクイナスはその次の第41問と第42問においても、暴力にかかわる他の事柄について解説します。これらの事柄も戦争を考える際に非常に重要となります。

第42問において、「反逆」あるいは「反乱」の解説があります。反乱というのは、簡単にいうと、ある国における武装化した反逆です。そして、聖トマス・アクイナスは彼ならではの明晰さをもって、反乱について「必ず大罪になる」と説明します。例外は一つのみあります。権力が僭主になった時なら、必ずしも大罪にならないのです。

それはともかく、大事なのは、戦争の場合、条件が満たされたら、正しい戦争になりえる一方、反乱の場合、聖トマス・アクイナスによると、大罪となって、反乱を正当化できないとされます。言いかえると、反乱は例外なく悪い事柄で、悪をもたらすとされているのです。」
以上、引用終了。

この意味で、カトリックの立場は正しい戦争にはいくつかの条件があるということであり、それはどこの文明においてもこのような正しい戦争はあって、かつ、正しい戦争というにはやはり条件があったということである。近代のみ、平和主義を建前に唱えながら、一番むごい戦争を実際に展開していった事実があることを忘れてはならない。それはさておいても、カトリックの戦争論の特徴は、戦争という事象というよりは、平和のありようにある。John Laughland博士の引用を紹介しよう。

以下、引用開始。
「要するに、古代にも現代にもない、キリスト教時代の戦争法の特徴は次の通りになります。平和条約においては、必ず「免責条文、あるいは特赦条文」というものがありました。(まあ、歴史だから、必ずとはいっても、例外も存在するはずですから、必ずといってはいけませんが)、とりあえず『中世においての平和条約』(Nicolas Offenstadt著)に参照していただければと思います。とても良い研究です。面白いことに、中世におけるこのような平和のありようは中世だけではなくて、20世紀まで続きます。

それで、キリスト教的な平和のありようの特徴は法律上の特徴でもありました。なぜ、それが非常にキリスト教的特徴であるのかということはすぐわかるかと思います。つまり、キリスト教時代の平和条約においては、中世、近代、20世紀に至るまでの間、必ず「特赦条文」がありました。あるいは「大赦条文」のような条文があったということです。」
以下、引用終了。

聖ルイの遺言に見えるカトリックの戦争観
聖ルイは王太子だった息子に有名な遺言を残して、そこに教訓を集めていた。その内、戦争に関する条文もあって、聖ルイの時代の間にフランス国内において戦争のなかった時代であったのにも関わらず、戦争に関する条文を残したということはキリスト教的国王として象徴的だと言えよう。戦争はなるべく避けるべきだが、やむを得ない場合は戦争を遂行する義務も残っているということだ。

以下引用開始。
戦争を極力避けよ。
「22. 愛する息子よ、できるだけ、キリスト教徒を相手に戦争を起こすことを控えるようにしなさい。不正と弊害をおまえが被った場合、戦争を起こす前、その不正を糺し弊害を晴らすために多くの選択肢を試みなさい。また、戦争のせいで発生する多くの罪を避けるためにあらゆる手段を尽くし、多く解決案を試みなさい。もしも、そうしても戦争をやらざるを得なくなった場合、例えば、おまえの朝臣が国王の権限を略奪しようとする場合、あるいは朝臣がどこかの教会に対して弊害・不正を犯し、または貧しき人々に対して弊害・不正を犯し、またその他の誰かの人々に対して弊害・不正を犯し、(加害者は)それを償おうとしない場合、また他に妥当な理由があって戦争を起こすべき場合、(加害者だけを罰して)反逆と裏切りの罪を負っていない人々については(戦争に巻き込まれないように)彼らを守るようにしなさい。
また火災でも他の戦災によって、それらの無罪の人々に何の弊害がおこらないように、丁寧に熱心に尽くしなさい。というのも、犯罪者の町・城を破壊するよりも攻囲の力で犯罪者を降伏させ、加害者の領地や財産を没収した方が良いからである。また、戦争を宣言する前、側近からでも本当に善く助言を頂くように努力をつくしなさい。また、戦争の理由は本当に妥当であるように確認し、また戦争を起こす前、必ず、事前に犯罪者を十分に善く忠告するように、そして犯罪者に十分に相応しい時間をちゃんと与えるように注意を払いなさい。」
以上引用終了。

カトリックの戦闘精神
武器を取ることを極力に避けるべきだとしているカトリックにおいて、霊的な戦闘精神は十分に備えている。それはイエズス・キリストが教えて、行動で見せた戦闘のやり方である。つまり、十字架である。福音書によってみよう。

「私が地上に平和を持ってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣をもってきた。つまり、私は息子をその父から、娘をその母から、若い嫁をしゅうとめから別れさすために来た。人は自分の家の者を敵に回すだろう。私よりも父や母を愛する者は私に相応しくなく、わたしよりも息子や娘を愛する者も私に相応しくない。自分の十字架を取って私に従おうとせぬ者も相応しくない。自分の命を保とうと努める者は命を失い、私のために命を失うものは命を見出す。」(マテオ、10,34~39)

「そばにいた番兵の一人はイエズスを平手打ちし、「大司祭に向かってそんな答えをするのか」といった。イエズスは、「私が悪いことを話したのなら、その悪い点を証明せよ。もしよいことを話したのなら、なぜ私を打つのか」といわれた。」(ヨハネ、18,22-23)
神殿から商人を追い出す場面(ヨハネ、2、13-25)

以上に見るように、キリストの平和は形式的な平和ではなく、キリストにおいての平和でしかありえないので、時には抵抗して、常に戦い、殉教死に曝してまで天主が啓示された真理、それからイエズス・キリストによって具現化された正義を通すべきだとされている。

結びに代えて
結論から言うと、法華仏教とカトリックは冥合してはいない。
自然法的な意味では、古代ローマや古代ギリシャもそうだったように、啓示がなくとも人間の本性に刻印されている「正当防衛」と「正しい戦争」に対しては確かにカトリックと法華仏教は共通してはいるが、平和の実践と戦う目的となる正義の中身は全然違ってくるからである。
一方で、平和主義を唱えるようなイデオロギーや宗教などがどれほど非現実的な基盤を持つか、どれほど実際に残酷な戦争を産むのかは革命以降の歴史が示していることに関して皆が同意するところだろう。

婚姻の秘蹟の制定の瞬間:「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」

2021年05月09日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百二十四講 婚姻の秘蹟について



婚姻の秘蹟について
Gabriel Billecocq神父

さて、最後の二つの秘蹟を見ていきましょう。殊に社会を聖化するために、我らの主、イエズス・キリストは婚姻と品級を制定なさいました。もちろん、個人もそれで聖化されていますが。

まず、婚姻の秘蹟を見ていきましょう。
最初にいうべきことは、秘蹟である前に婚姻の制度は自然の制度であるということです。言いかえると、婚姻の制度は自然の現実であります。つまり、人間の本性から生じる社会制度です。要は、天主はアダムのための連れとしてエワを創造なさった瞬間、婚姻制度をも設け給ったのです。
「天主は、人間を祝福して仰せられた、「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」」(創世の書、1、28)



天主はこのように仰せになることによって、婚姻制度を制定なさいました。婚姻制度は自然上の現実です。自然上の契約でありまして、婚姻によって一人の女と一人の男が同意して(契約は成り立つために同意する要件はあります)、お互いに誓い合って、いくつかの義務と権利を受けいれることに同意します。権利といえば、必ず義務も生じて、権利と義務は離れられるような存在ではありません。

繰り返しますが、何よりもまず、婚姻制度は人間の本性より生じる自然の現実なのです。それを忘れてはいけません。人間の本性に属するのが婚姻制度です。また、婚姻制度は契約でもあります。言いかえると、正義を実現させるための制度ということです。では、契約とは何でしょうか?それらは条件などからなっていて、それにより特徴づけられています。

で、婚姻という契約の趣旨、その条件は「生めよ、ふえよ」ということです。天主が制定なさったのが婚姻の契約、婚姻の制度です。天主は婚姻の制度の条件を制定なさった以上、人間によっては変えられないのです。

そして、人間の本性に刻印されている婚姻制度として天主は制定なさいました。「生めよ、ふえよ」。
言いかえると、婚姻の約束は子供の出産と子供の教育のために制定された制度です。また、婚姻制度の目的は人間が世界に広まっていくためにあります。「生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ」。

もちろん、地上に満ちる彼方に、婚姻制度の究極的な目的は天国が満ちるために制定されました。以上は自然次元として、人間の本性に属する婚姻制度としての婚姻の説明でした。

我らの主、イエズス・キリストは婚姻制度をそのままに維持しながら、人間の本性の一部である婚姻の約束として維持して、人間なら自然権となる婚姻制度として維持しながら、秘蹟の価値まで、婚姻制度を高めることになさいました。これは素晴らしい神秘であり、美しいことです。

その結果、婚姻は秘蹟ともなります。自然次元の契約として変わらない婚姻制度ですが、その上、秘蹟ともなる婚姻なのです。つまり、超自然の婚姻の約束となります。自然次元としての婚姻の約束は変わりません。つまり、婚姻制度の目的はそのまま、「生めよ、ふえよ」となります。婚姻の本質はつまり変わりません。

しかしながら、婚姻の秘蹟になると、すでに正当だった婚姻の絆は聖化されています。言いかえると、婚姻は秘蹟になると、聖なる現実となって、侵すべからざる制度となります。婚姻の秘蹟は我らの主、イエズス・キリストと公教会との関係になぞらえます。その結果、婚姻の約束が立派に果たせるように、夫婦のために特別な恩寵が与えられています。



要は、婚姻の秘蹟というのは、夫婦のために天主が用意した特別の御助け、特別の恩寵だと言えましょう。このポイントはデリケートなので気を付けましょう。というのも、自然次元の制度である婚姻は同時に秘蹟にもなっているという点がデリケートです。ですから、男女の二人の受洗者は結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けなければなりません。言いかえると、受洗者なら、婚姻の秘蹟以外の形で結婚してはいけません。
しかしながら、洗礼を受けてない男女が結婚しようと思ったら、つまり一般的な言い方で言うと、異教徒の男女が結婚しようと思ったら、婚姻の秘蹟を受けることは不可能です。洗礼を受けていないから、洗礼以外の秘蹟に与ることはできません。

婚姻の秘蹟を受けないからといって、異教徒の男女は人間の本性に刻印されている婚姻によって結婚する権利はそれでも残ります。「自然結婚」と呼ばれて、自然結婚としては成り立つということです。本物の結婚であるということです。結婚という契約はそれでも変わらないからです。婚姻の目的は子供の出産と子供の教育にあります。

カトリック信徒にとって、婚姻において二重の現実があります。自然次元の現実と超自然次元の現実があります。そして、カトリックにとって、この二つの現実は切り外せない現実なのです。つまり、カトリック信徒は「自然次元の結婚があるから、教会の秘蹟を受けずに結婚しよう」ということはできません。それはありません。

役所での手続きとしての結婚、無宗教の結婚、異教の結婚はカトリック信徒にとって、価値のないものです。たとえば、法律上の結婚はあくまでも国家から見た制度であって、カトリック信徒にとっては、何の価値はありません。というのも、天主にとってもカトリック教会にとってもこのような法律上の制度は価値のないことだからです。

ですから、男女の受洗者は秘蹟を受けないで役所で手続きしても、結婚していないということになって、内縁関係の罪を犯していることになります。カトリック信徒なら、このような法律上の結婚はもはや自然次元の婚姻にも相当しないということです。



一方、異教徒の男女は役所で結婚届けしたら、カトリック信徒と違って、本当に結婚していることになります。自然上の契約としての結婚で。逆に言うと、結婚届けしなくても、男女のカトリック信徒は婚姻の秘蹟を受けたら、天主の前に、本当に完全に結婚していることになります。このように、異教徒のために、自然次元の婚姻制度は残っています。しかしながら、受洗者なら、自然上の婚姻と秘蹟上の婚姻はセットとなっていて、切り外せない事実となっており、婚姻の秘蹟といった時は自然上の婚姻も含まれています。一致します。

婚姻の制度によって、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。婚姻の秘蹟の本質はそこにもあります。繰り返しますが、生殖するためのすべての行為に関して、夫婦はお互いに相手の身体への権利を得ることになります。最終的に生殖が実現されるかどうかを問うことなく、大事なのは完全に生殖のための行為である限り、許されている行為です。

婚姻の秘蹟はイエズス・キリストによっていつ制定されたでしょうか?はっきりとはわかりません。イエズス・キリストの最初の公活動、カナの婚宴の際に制定なさったという説が有力です。カナの婚宴の際、初めての奇跡をなさいます。本当に素晴らしいことです。カナの婚宴での奇跡はイエズス・キリストがどれほど婚姻を尊重しているかということを示すのです。



制定の時はともかく、婚姻の秘蹟は本物の秘蹟であることに関して変わらないのです。トレント公会議はこれを明白に再断言しました。

婚姻の秘蹟の質料と形相は「同意」なのです。発言される同意ですね。具体的にいうと、夫婦はお互いに交わし合う「はい」ですね。「○○、○○を妻として迎えることにしますか」「はい」、○○、○○を夫として迎えることにしますか」「はい」。

それから、この同意は有効になるため、証人たちの前、大声で発言されなければなりません。また、本物の同意でなければなりません。つまり、意識的に同意するという、言いかえると拘束されないで、自由に同意するという条件があります。また、その同意は相互でなければなりません。婚姻は契約ですから。
以上の条件が満たされることは、夫婦がお互いに相手に自分をあげることを示すのです。「生めよ、ふえよ」のために同意するということです。

婚姻の秘蹟の執行者は司祭ではありません。夫婦自身が婚姻の秘蹟の執行者です。言いかえると、婚姻の秘蹟に与る一人の男性と一人の女性が執行者です。残念ながら、以上のような当たり前のことをしつこく繰り返さざるを得ません。というのも、現代社会が進めようとする堕落めいた動きに抵抗するためです。同性の者の間に、結婚なんて存在しません。

これは当然のことです。婚姻という契約は「生めよ、ふえよ」のためにある制度ですから、男女でなければなりません。人類を増やすために生殖するためにある制度です。で、生殖する前提は男女の別です。また、男女はお互いに補い合うことは生殖の前提です。ですから、同性の者の間において婚姻の契約は文字通りに不可能です。文字通りに、反自然なのです。つまり、人間の本性に背くことです。そして、反自然のような行為は非常に深刻なことで、人間自体を破壊している罪なので非常に深刻なことです。

そういえば、自然に背くこれらの「法律」を推進している人々はどれほど堕落しているか、獣的な性格を持っているかは彼等を見るだけでも残念ながら明瞭なのです。
それはともかく、婚姻の秘蹟は「生めよ、ふえよ」という趣旨のために制定されているから、必然的にこの契約の対象者は一人の女と一人の男の間にだけ成り立つわけです。当然といえば当然ですが。そして、これは婚姻制度の本質でもあるので、また人間の本性でもあるので、いつまでも変わらない本質であり、変えられない婚姻制度なのです。

つまり、男と男の間に、女と女の間に結婚はありません。悲しいおどけにすぎません。悪魔のしわざであるといわざるを得ません。天主に対する深刻な侮辱です。このような反自然的な関係は結婚でもなんでもありません。

要するに、婚姻の秘蹟の執行者は夫婦自身なのです。婚姻の秘蹟は二つの特性を持っています。一夫一妻制と解消不可能性です。

一夫一妻制とは何でしょうか。一人のみの男は一人のみの女と結婚するという婚姻の秘蹟の特性が一夫一妻制です。一夫多妻制もなければ、多夫一妻制もありません。一夫一妻制です。我らの主、イエズス・キリストはこれを明白に再断言なさいました。そして、聖パウロも次のように書きました。「妻は夫の生きている間に彼に結ばれている」(コリント人への第一の手紙、7、39)。以上が一夫一妻制の原則です。

旧約聖書時代には、一夫多妻制が事実としてありました。天主は立法者であって、婚姻制度をも制定なさいましたが、天主は旧約聖書の時代、一夫多妻制を耐えて赦しておられました。しかしながら、我らの主、イエズス・キリストによって、決定的に一夫多妻制は永久に廃止されました。ファリサイ人の前の場面で、一夫多妻制を明らかに廃止なさったのです。

また、一夫多妻制の結果、良い実りはあまりなかったのです。アブラハムの例を見るだけでも、最初の妻、長男Ismaelイスマエルが生まれたAgarアガルを追い出さざるを得なくなりました。というのも、多妻の間の争いばかりとなって、不和の種を作るのが一夫多妻制だったからです。子供の教育にとっても妨げとなります。それはともかく、婚姻が秘蹟になってからは、厳格に一夫一妻制となっています。

第二の特性は解消不可能性です。解消不可能性は永続的な契約になるという意味です。永続という意味は夫婦の一人の死までという意味です。
婚姻の秘蹟によって結ばれた絆は非常に強いです。結婚した瞬間から、夫婦は離れることは不可能であるほどです。つまり、離婚はありません。国家は離婚を認めても、カトリックの結婚において離婚はありません。従って、国家の法に従って離婚しても、カトリックの秘蹟でいうと、離婚は無効で、結婚しているままです。



フランスのようなカトリックの国において離婚を合法化するなんて、宗教に対するとんでもない侮辱ですが、民間の裁判などが離婚を許可する判決をだしても、何の価値のない判決となります。カトリックの結婚は解消不可能であって、この世では一人も解消することはできません。天主の前に夫婦は夫婦のまま死ぬまで結婚しています。

つまり、国家の法律上理解したとしても、カトリック信徒は天主の前に再婚することは不可能です。そもそも、再婚することは不可能です。偽りの再婚をしても、内縁関係の罪を犯しているに過ぎないということです。

世俗の離婚は要するに無効で何の価値がありません。しかしながら、この制度は非常に邪悪で、危険です。まず、子供の教育にとって非常に悪い制度です。離婚の制度のせいで、多くの家族を不幸にして、子供の教育をめちゃくちゃにして、社会を破壊する制度です。というのも、家族こそが社会の基盤だからです。現在になって、離婚制度の悪しき帰結は目の前にあって、確認しやすいです。要は、カトリック信徒なら、離婚は無理であって、考えられない選択です。論外です。

場合によって、夫婦の一人がもう一人に離婚させられて、その状態を堪えざるを得ないことがあります。やはり、堪えざるを得ないことで、このカトリック信徒は再婚しないのです。相手のことを悲しんでも仕方がないだけです。

しかしながら、あえて裁判にいって、あるいは離婚を要求するようなことをしたら、カトリック信徒は大きな罪を犯すのです。これは大罪です。婚姻の秘蹟に対する直接の罪です。ですから、このような場合、他の秘蹟に与ることはできません。同じように、内縁関係にある人々は秘蹟に与れません。つまり、結婚していないのに同棲しているという結婚もどきことを知ってやっている人々は大罪を犯している状態なので聖体拝領することは不可能です。

場合によって、事情があって、夫婦は「身体の隔離」(結婚しているままですが、別居すること)が赦される場合があります。しかしながら、このような特別な措置を許可できる権威は司教のみです。要するに、夫婦は自分の判断で別居することを決めてはいけません。正当なる権威、つまり司教に「身体の隔離」を依頼しなければなりません。

婚姻の秘蹟を受ける条件は何でしょうか。妨げのない受洗者です。言い換えると、カトリック教会が決める妨げはありますが、妨げの種類は二つあります。一つ、禁止の妨げは結婚されたら有効であるものの違法の結婚という妨げ。もう一つ、無効を伴う妨げもあります。つまり、この場合、結婚してもそもそも結婚として成り立たないという結婚の無効を伴う妨げです。

この点は神学上のややこしい点で深入りしませんが、秘蹟や教会法とのかかわりと関係しています。
例を挙げましょう。カトリック信徒は異教徒と婚姻を結ぶのは、無効を伴う妨げとなります。ただし、場合によって特例もあり得て、つまり妨げがあっても秘蹟に与る許可が与えられることもあります。

許可が絶対にありえない妨げもあります。時間の問題で、細かい話を割愛します。
簡単に言うと、婚姻の秘蹟に与りたいと思うなら、二人の若者は司祭の下に行って、婚姻の秘蹟は何であるかを説明されて、結婚の準備をします。
そして、その際、司祭は当事者が自由に拘束なしで結婚しようとしていることを調べておきます。例えば、脅されて、あるいは拘束の下に結ばれる婚姻はもちろん無効です。それを事前に防ぐために司祭は確認する義務があります。
無効の結婚というのは、言いかえると、偽りの契約と似ていますね。つまり、契約として成り立たないので、結ばれても効果を伴わない契約ですね。無効の結婚も一緒です。要は、結婚したいと思うなら、司祭に伺うのがよいです。で、神父は結婚の要件などを確認しますので、安心できるでしょう。

婚姻の秘蹟の効果はどうなっているでしょうか?聖寵を増やします。そういえば、婚姻の秘蹟に与るために聖寵の状態も前提ですね。その上、夫婦の義務を立派に果たせるように助けて、婚姻の秘蹟による特別の聖寵も与えられています。