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ミサ聖祭の重要な「四つの目的」

2021年02月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十五講 生贄・犠牲の諸目的



生贄・犠牲の諸目的
Gabriel Billecocq神父

前回、犠牲・生贄の定義を示したように、犠牲には三つの要素があります。
一つは、お供えがあります。いわゆる「奉納」あるいは「奉献」です。天主へ私たちが持っている「何か」を捧げるということで、その「何か」を完全に投げ捨てて、離れていて、天主の物にするという「奉納」。そして、このように外的な奉納を行うことによって、「天主への内面的な献身」を示しています。それから、犠牲の第二の要素はお供え物の崩壊があるとみました。それから、第三の要素は天主との一致のために犠牲を捧げるということをもみました。

今回、犠牲の諸目的を中心に見ていきたいと思います。つまり、何のために犠牲を捧げるでしょうか?

以前、すでにちょっと触れた課題です。祈りについてご紹介した時、祈りの目的は四つあると説明しました。当然と言えば当然ですが、この四つの目的は犠牲の目的としても数えられています。

犠牲は祭礼の一環でありますので、公的な儀礼であり、政治的かつ社会的な役割を持つ祭礼でもありますので、犠牲は全く祭礼の一つなのです。祈りもまた祭礼に属します。もちろん、祈りの場合、犠牲よりも私的な行為としても行われることが多いし、そして場合によって、外的な行為を伴わない完全な内面的な行為としての祈りもあるわけですが、祭礼の一つの執り行いとしても祈りがちゃんと存在しています。

従って、祭礼のすべての執り行いに共通している様子がありまして、犠牲も祈りも同じ四つの目的があります。あえて言えば、祈りの場合よりも、犠牲においてこの四つの目的が明確となると言えましょう。では、これから、犠牲の四つの目的をゆっくり見ていきましょう。
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犠牲の定義を思い出しましょう。
「犠牲」とは「祭礼の内の一つの儀礼であり、可視的な奉納を通じて、内面的な宗教的な行為の実践を示す物質的な「何か」を投げ捨てて神の物にする儀礼です。そうすることによって、自分自身を奉献する人々は神との一致をはかるのです。」

そして、犠牲の諸目的は以上の定義で見た犠牲の本質から生まれます。
そして、犠牲の第一の目的、また一番大事な目的は「礼拝する」ということです。ですから、犠牲という祭礼を捧げる第一の目的は天主を礼拝することにあります。この目的は一番中心にあって、犠牲という儀礼の本質から生じる目的です。なぜでしょうか?

犠牲を執り行うことによって、人々は自分の持っている「何か」の所有権を捨てて、この「何か」を天主に奉献するわけです。俗に言うと、神にお供えするという形で神に「プレゼント」を差し上げるということです。では、「お供えする」あるい「奉納する」という行為は何を意味しているでしょうか?奉納先への依存を表して認める儀礼となります。

言いかえると、犠牲者あるいは奉納品を奉献することによって、その所有権を人間から天主へ移転させるというのは、まさに犠牲という儀式です。この奉納品の所有権をあきらめるという外的な行為によって、内面的な天主への献身が示されています。要するに、外的な奉献を通じて、内面的な実践を示し、それは内面的な献身を意味する「犠牲」なのです。言いかえると、天主への依存を認めて積極的に示している「犠牲、お供え物」なのです。

ですから、犠牲の一番の特徴は天主への依存を示していることにあります。これこそが「礼拝する目的」の意味です。「天主を礼拝する」というのは、天主は我らの主であること、我らの創造主であることを積極的に認める行為です。また、我らは天主の使い人であること、また聖寵によって我らが天主の養子であることを積極的に認める行為です。要するに、我ら人間は天主に依存しているよという事実を積極的に認める行為です。犠牲という祭礼は天主への依存を示しているという目的が中心にあります。

そして、お分かりのように、天主への依存を示していることによって、ミサ聖祭という犠牲は被創造物と創造主との絆を語っているのです。つまり、犠牲を通じて、人間は天主に事実としてどうしても依存していること、それから人間が天主との一体によってその天主との絆を深めて実践していきたいという願いをも表しています。

被創造物として、人間はみな、天主に依存しています。そして、カトリック信徒は洗礼によって贖罪された天主の養子として、他の宗教では存在しない、比較できないほどの天主との深い絆があります。ミサ聖祭はカトリック信徒に限って、カトリックにおいてのみある、天主との親子関係という絆を示す犠牲です。

それはともかく、繰り返しになりますが、犠牲の第一の目的は天主との絆、天主との関係を表すことにあります。しかしながら、絆とはなんでしょうか?そもそも西洋語では「宗教」の語源的な意味です。「Religio」とは「Religare」に由来していて、つまり宗教とは人間を「(天主に)つながらせる」という意味です。ですから、犠牲という儀礼は祭礼の儀礼中の儀礼です。一番、この上なく、宗教的な行為を実践する儀礼です。なぜでしょうか?犠牲という祭礼こそが、天主への依存をあらわすための執り行いです。天主との絆をあらわしているための執り行いです。

要するに、天主を礼拝するという目的は犠牲の目的中の目的です。ミサ聖祭に参列する際、必ず「礼拝する」という目的を思い出しましょう。また、十字架上の聖なる犠牲を黙想するとき、その「礼拝する」こと、天主との絆のことを思い出しましょう。あるいは、ミサ聖祭と別に、個人的に犠牲を払おうとするときにおいても、天主への礼拝を表すことは非常に大事です。つまり、天主への依存という関係を表すことが非常に大事です。

ご覧のように、犠牲を通じて、犠牲を払う人は自分自身を天主に奉献するのです。自分自身を天主に投げ捨てます。犠牲を天主に奉納することによって、犠牲を払う人自身の奉献を示しているのです。まさにこれは「献身する」ということで、自分自身を天主に捧げるということで、礼拝するということです。これらの言い回しは類似していますね。献身、奉献、捧げる、礼拝するなど。

だからこそ、司祭はこの上なく「天主にささげられている」存在なのです。また、だからこそ、三つの誓願を捧げる修道女と修道士も「天主にささげられている」存在なのです。そして、聖職者は天主の奉献の上、その内に最期まで生きていきます。つまり「聖別」された存在です。

まとめると、犠牲の第一の目的は「礼拝する」ことにあります。



犠牲の第二の目的も非常に大事です。この目的はこの世での我々の状態から生じます。つまり、我々は必ず罪人であるということから生じます。人間は罪人であることは誰人も簡単に確認できるし、また信仰もその真理を教えています。原罪があったゆえに、われわれは罪人という状態の内に生きざるをえません。あえていえば、かならず罪の支配の下にこの世に生まれる人という事実。皆、罪人です。みな、欠陥があって不完全です。罪とは「天主への侮辱」です。で、天主への侮辱を償うためにはどうすればよいのでしょうか?贖罪することによって罪を償えるのです。では、贖罪するためにどうすればよいですか?犠牲をもって、贖罪するのです。

ここでも、外的な犠牲は内面的な犠牲を表します。つまり、罪の償いを行うための犠牲です。罪を贖うためです。
罪を犯したら、その罪を償う必要があります。つまり侮辱した相手の下に慎み深く行って、その「赦し」を希う必要があります。まさに、犠牲はそのためにあります。人間が侮辱している天主の赦しを希うために、貴重な奉納品、つまりある犠牲を天主に捧げて、罪を償おうとします。

そして、天主の赦しを希(ねが)うことによって、罪によって反逆者となった人間に対するもっともな天主の怒りを鎮めようとしています。犠牲を通じて、天主に対する反逆(つまり罪のこと)を償うことになります。ですから、犠牲において、奉納品を破壊することによって、犠牲を払う人の「償いたい心」を表して、天主との「仲直りしたい心」を表します。

ようするに、犠牲の一つの目的は天主の赦しを得て、天主の好意を得ることにあります。また後述しますが、残念ながらもこの第二の目的は新しいミサにおいてかなり薄められてしまいました。つまり、犠牲の第二の目的は贖罪にあります。要は、我々が犯した罪を償うという目的です。そうすることによって、天主の怒りを鎮めて、我々に対する天主の好意を得て、つまり、天主のご慈悲を得るように、御憐みをえるためです。

罪のせいで苛立った天主は我々が捧げる犠牲のお陰で、天主を喜ばせて、天主との仲直りを得るのです。天主からの我々への好意、そのご慈悲を得るのです。また、天主の御赦しを得しめる犠牲です。これが第二の目的です。

要するに、犠牲における「供犠」あるいは「犠牲」という行為自体によって、つまり「お供え」する部分よりも、奉納品、犠牲者を破壊する行為によって、苦しい形で、負担付きの形で、つまり奉納品を完全に失うという形で、これは破壊ですが、犠牲を払う人は「罪を償いたい意志」を実際に表します。

つまり、犠牲において、必ず償いの目的があります。そういえば、罪を償い、罪を贖うこと、そして天主の好意、天主との仲直りを得ることは非常に密接につながっています。双方は同時に両立するわけです。人間が罪を償う。そして、天主の怒りは鎮まってほしいという。犠牲において、この双方の側面があります。というのも、先ほどに申し上げたように、犠牲によって、天主との絆を積極的に認めて深めていく祭礼です。したがって、天主との絆は単なる「依存」だけではなく、本物の暖かい相互な絆になるために、人間が贖罪する必要があります。天主への侮辱を払った暁に、つまり犠牲によって罪を償った暁に、天主はいよいよ人間を好意的にみることになります。

贖罪という犠牲の第二の目的は非常に大事です。
繰り返しますが、犠牲から「贖罪」という目的がなくなったら、天主と人間との間の絆がきちんとしているという確信はなくなります。ようするに、贖罪という側面をなくしてしまうと、人間の犠牲、あるいは人間の祈りを天主は聞き入れ給うかどうかということがぼやけしてしまいます。これは悲劇的なことです。



また今度、話しますが、本当に困ったことです。新ミサにおいて、この「贖罪」の効果は薄められて、不信の種となります。罪を償うという側面は新ミサにおいて薄くなる分、天主の御赦し、天主からの好意を得られなくなるわけです。天主は馬鹿やさしい存在であるわけがありません。天主は正しいです。正義を全うする天主です。ですから、憐み深い天主であると同時に、正義を全うする天主でもあります。つまり、天主が憐みを配るために、その前提に正義が全うされる必要があります。

つまり、御赦しを得るために、罪を償うことは必要不可欠です。憐みと正義は密接につながっています。いわゆる、正義が全うされた途端、無限に正義が要求する対価よりも遥かに非常に天主が我々に恵みを施し給うという憐み深いことです。犠牲において、人間側は恩返しするだけではなく、天主に対する侮辱を償うことによって正義を全うする結果、天主が御憐みを垂れたまうのです。以上は犠牲の第二の目的です。
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犠牲の第三の目的に移りましょう。以上の二つの目的からの帰結になります。
贖罪することによって、人間は天主と仲直りして、その絆を強めて、その絆をよくした結果、天主からの好意を人間が得た関係となりました。つまり、積極的に罪を償おうとして、犠牲を捧げたおかげで、天主の御赦しを得ました。つまり、礼拝と贖罪によって、このような好意的な関係ができた暁に、天主は多くの恵み、おおくの恩寵を人間のために分配されて、また人間はこれらの恩寵を希うことも可能となります。

礼拝の行為を捧げて(天主に従う心をあらわす)、罪を償った(天主に従うことを完成させる行為の)おかげで、願いを天主に捧げても聞き入れ給うことが可能となります。天主は礼拝と贖罪によって人間に対して好意的になったので、人間の願いを叶い給うことは可能となりました。

要するに、犠牲の第三の目的は「恩寵を希(ねが)う」ことにあります。そういえば、天主はいわゆる「恵みの自動的な配分者」ではありません。なにか自動的に、いつもどこも、かならず天主が機械的に恩寵を配分するような存在ではありません。天主は恩寵を垂れるためには、天主と人間の間に犠牲によって清められた絆・関係が前提となります。「恩寵を希う」という目的は「礼拝」と「贖罪」との目的から直接に生じます。



そして、犠牲の最後の目的は「感謝する」ことにあります。天主より頂いた無数の恵みのために天主に感謝するという意味ですが、それだけではなく、「聖体拝領」というニュアンスもあります。つまり、ミサ聖祭の第四の目的は天主との一致であります。それは御聖体の拝領によって実現します。単なる一致だけではなく、天主との一体、天主との完全な分かち合い、合体となります。ですから、犠牲の第四の目的は「天主との一致」であって、つまり「イエズス・キリストになる犠牲者を拝領」することにもあります。

繰り返しになりますが、外的な犠牲は内面的な犠牲を示しています。ですから、犠牲を払う人は犠牲者を拝領することによって自分をも犠牲にすることを表します。

具体的に、殆どの場合、犠牲のあと、その犠牲者(ユダヤ教だったら羊)を食べるか、つまりお供えした奉納品を飲食することですが、いつでもどこでも犠牲を完成させるために、捧げた犠牲を食べ飲むのです。これは「拝領」と言います。つまり、奉献された犠牲者と一致するということです。で、犠牲者と一致することによって、天主に「自分自身」を捧げることを示して、天主との一致を願うことを示しています。これはどこいつも、犠牲の特徴でした。捧げられたお供えを食べ飲むことによって、つまり犠牲者との一致をすることによって、犠牲を捧げる人々は「自分自身を神にささげる」ことを示しています。犠牲はこれを示すためにもあります。

しかしながら、同時に、犠牲によって、奉納されている犠牲者は神に属する「聖なる物」となりました。ですから、天主に属するものを拝領することによって、犠牲者と一致して、自分人間も自分を犠牲にすることを表すだけではなく、ある意味で、聖なる犠牲者を拝領することによって、天主と一致して、天主との絆を強めようとしています。

要するに「拝領」は犠牲を完成させる儀式です。一方、犠牲を捧げる人々の内面的な犠牲を表すとともに、天主との一致をも表す「拝領」です。というのも、犠牲によって、犠牲者の所有権は人間から天主に移ったので、聖なる物となった犠牲者を食べ飲むことによって、非物質的な神と一致する手段とされています。

ですから、拝領というのは犠牲の大事な目的です。また犠牲の必然なる帰結だと言えます。拝領するという目的は天主と人間との絆を、その一体を実現するためのことです。犠牲者を拝領することによって、人間は自分自身を捧げることになって、その結果、天主との一体をはかるものです。

聖アウグスティヌスは次のように書いています。「本物の犠牲とは聖なる社会の内に我々が天主において合体される執り行いなのです」

非常に核心をえた定義です。「天主に合体される」ということはまさに「聖体拝領」、ミサ聖祭です。
そういえば、聖アウグスティヌスの定義だけを見ても、犠牲の社会的な、あるいは政治的な側面も窺えます。つまり、個人としての人が捧げるというよりも、社会上の人々は共同体として天主に合体すべきだという犠牲の側面が窺えます。

そして、そうするために、社会として、共同体の人々はミサ聖祭に参列しなければならないということです。つまり、ミサ聖祭は公の犠牲として、政治的上と社会上の役割があるとして、この上なく政治的な公けに属する祭礼という位置づけであり、聖なる執り行いなのです。ですから、以上の第四の目的も大事です。犠牲において拝領をしないことは、犠牲による効果を被らないようなことで、いやむしろ、犠牲の効果を拒否するようなことです。



ある著作者の言葉を借ります。「要約すると、人間あるいは天主による制定に従い、犠牲を執り行い、犠牲とは物質的な奉献なのです。そして、この物質的な奉献は内面的な奉献を示しています。この犠牲において、天主への尊敬の印として【これは礼拝の目的に当たります】、至上の主のために、貴重な財物を投げ捨てます。このように、天主に召した形に沿って捧げられた犠牲は天主が犠牲を払う人々に好意的になることが期待されています【これは贖罪の目的に当たります】。そして、その結果、天主との同盟、あるいは宗教的な親交関係を結ぶことが期待されています。」

この意味で、犠牲こそが宗教の儀礼中の儀礼で、宗教的中の宗教的な行いなのです。というのも、犠牲によって、神と人をつながらせますが、それだけではなく、「拝領によって」神との合体を実現します。ですから、拝領という目的は犠牲にとって非常に大事です。以上は犠牲の四つの目的についてでした。カトリックのミサ聖祭だけではなく、一般的に犠牲において以上のような目的があります。旧約聖書においても、他のすべての犠牲において、何らかの形でお供えする奉納品を「拝領」することがあるからです。

生贄・犠牲という一般的な意味

2021年02月22日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十四講 生贄・犠牲という観念



生贄・犠牲という観念
Gabriel Billecocq神父

ミサ聖祭という秘跡を前回まで見ておきました。思い出しましょう。秘跡を一つずつご紹介する公教要理の第三部となります。ミサ聖祭という秘跡とは、我らの主、イエズス・キリストがこの世に私たちと一緒に留まることになさる秘跡であって、パンと葡萄酒の外観の下にましまし給う秘跡です。

そして、今回から、ミサ聖祭という秘跡の二つ目の側面を見ておきましょう。つまり、生贄・犠牲としてのミサ聖祭です。
以前に申し上げた通り、ミサ聖祭は秘跡であります。つまり、霊的な現実を示す物質的な目に見える印であるということです。そして、ミサ聖祭の物質的な印は双方の形色です。パンと葡萄酒ですね。我らの主のご現存を示す御聖体です。
しかしながら、同時に、ミサ聖祭は生贄でもあります。生贄としてのミサ聖祭という側面をこれから見ておきましょう。
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生贄とは何でしょうか?まず、一般的に生贄あるいは犠牲という観念を説明しておきましょう。
さて、生贄とは何でしょうか?「Sacrificum(生贄)」の語源は「聖別する、あるいは神聖にする」ことを意味します。「Sacrum Facere」という意味で、「聖なる行事を行う」という意味でもあります。

そういえば、フランス語では「聖なる」という言葉は「俗なる」という言葉の対義語となっています。そして「俗なる」ことは「聖なる」ことではないことを指していますが、「俗なる」の語源はラテン語の「Profanum」に由来しています。「神殿の前」という意味です。「神殿の前」という意味は何でしょうか?「神殿の内にはない」ことであって、神殿の外にある物を指しています。このように、「俗なる」物事は神に属さない物事を指します。一方、聖なる物事は神殿内に置かれて、神に属する物事を指しています。

このように、生贄は神殿内に執り行われる儀礼です。聖なる執り行いなのです。生贄という祭祀をもって、「何か」を聖別します、「何か」を神の物にさせます。まさに、犠牲・生贄の本来の意味は、聖なるものではない「何か」を取って、聖なるものにするという執り行いを言う意味です。俗なる「何か」を聖なる存在にさせる「犠牲」です。「Sacrificium」、「Sacrum facere」です。

犠牲には、必ず「移転」があります。どういった移転でしょうか?俗なる物事を取り、聖なる存在にさせるという「移転」です。
言いかえると、人間に属する「何か」を取ります。つまり、人間が所有する、支配する「何か」を取り、つまり「俗なる」何かを取ります。そして、犠牲を通じて、その所有権を神に移転させるのです。つまり、この「何か」を神にささげて、神に「差し上げる」ということで、この「何か」を「聖なる」ものにさせる執り行いを「犠牲」と言います。



要するに、犠牲・生贄という観念には、必ず「移転」、「通過」が伴います。俗なる何かを取り、聖なるものにさせるという意味です。【この意味で、お供えなどは犠牲の一種となります。必ずしも動物の流血とか伴わなくてもです。】

一言で言うと、犠牲とは「神に捧げる行為」です。つまり、私が持っている「何か」を投げ捨てて神に差し上げる行為なのです。ですから、犠牲においては必ず「奉納」があります。または「奉献」があります。犠牲が成り立つためには奉納が必要不可欠です。というのも、犠牲とは人間に属する「何か」を神にささげるために、その何かを投げ捨てて、神に「奉納」するからです。

その上、神にささげる意向も必要です。言いかえると、神に「何か」を奉納するとき、この「何か」は自分のものでは完全になくなって、私はその「何か」の主人では無くなったことを表す必要があります。それは、神の物になったことを表すためです。

ですから、多くの場合、犠牲を完成させるためには、奉納する上で、あるいは奉献する上で、つまり、お供えする上で、「奉納する物の破壊」が伴います。それは、奉納する「物」を破壊することによって、「神こそが新しくその物の主になったぞ」ということを示すための破壊です。つまり、人間は神に奉納する物を本当の意味で神に差し上げた心の真摯さを示すための破壊です。完全に本当に「私に属するこのものを神のために捨てた、その物への支配権、所有権を完全に投げて神に譲った」ということを示すための破壊です。奉献される物は破壊されると、人間はもはやその物を使うこともできないことになっていて、自分の好き勝手にもはやできない、神の物でしかないということを示すための破壊です。

ですから、人類史において、殆どの場合、犠牲にはお供えする物の破壊があります。それは犠牲の本質ではなくて、犠牲の本質は「神にささげる」、「神のために何かを奉納する」ということですが、その奉献、その「神への奉納」を徹底的に本格的に示すために、自然に「供え物の破壊」につながるのが殆どです。いわゆる、奉納するに当たって、お供えする物に対する人々の超然たる態度を示すため、本当に完全に「神に差し上げるよ」ということを示すための破壊となります。

ですから、長い歴史を振り返っても、どこでもいつでも、お供えという要素がありますが、殆どの場合、その上に、何らかの形でのお供え物の破壊もあります(最小限の犠牲としては、お供え物を食べることによる破壊も含む)。
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では、犠牲の目的は何でしょうか?その一つの大事な目的は「拝領する」ということです。言いかえると、「神と一致」するということです。要するに、犠牲によって、人間が所有している何らかの所有権を神に移転させます。俗なる物を聖なる物にさせる犠牲です。目的は神と一体化するためです。神と一致させるためです。神に奉納するということは、奉納する人々が神との一致を望むことを表す執り行いなのです。人間が持っている何かを積極的に投げ捨てて、神に奉納することによって、神との一致を願うということです。

要するに、犠牲という観念は、主に三つの事柄からなっています。奉納・破壊・神との一体(拝領)。神との一体化は奉納と奉納品の破壊の結果です。要するに、犠牲とは目に見える外的な執り行いであって、神に何かを捧げる行為です。それは、この外的な執り行いを通じて、もう一つの内面的な現実を表すためにあります。それは神との一致ですね。

ですから、犠牲とは本質的に外的な行為に留まらないで、内面的な行為をも表すための儀礼です。人間が支配している何かの被創造物を神にささげる、神に奉納することによって、人間は神の優位性を認めて、人間に対して神が持っている権限を認める行為です。

つまり、犠牲を執り行うことによって、人間は神が人間の主人だよということを示します。つまり、神は奉納される「お供え」の御主であるだけではなく、奉納者の御主であることをも示す「犠牲」です。



犠牲をもって、人間は自分が支配している何かを投げ捨てて神に捧げるだけではなく、加えて、そうすることによって、神が「上位にある」ということを人間は認めて、人間の御主であることを人間が認める執り行いなのです。

要するに、犠牲とは物質的な外的な可視的な現実です(その儀礼など)。そして、この現実は目に見えない、内面的な、別の現実を示すための犠牲でもあります。神との一致。神の拝領。あるいは、神に何かを奉納することによって、奉納者をも神にささげる行為となります。

同時に、犠牲とはそれだけではなく、公然なる公けの儀礼です。社会的な儀礼です。いつでもどこでも犠牲とは大事な社会的な儀礼でした。犠牲とは社会上、政治上の儀礼でもあります。

繰り返しますが、犠牲が成り立つために三つのことが必要となります。第一、いわゆる「いけにえ」、「犠牲者」、「お供え物」です。つまり、俗なる「奉納品」を聖なる物にする「いけにえ」、あるいは「犠牲者」あるいは「お供え物」です。

第二、犠牲を執り行う者も必要です。祭祀者あるいは司祭と呼ばれています。供物をささげる司祭ですね。犠牲は神が受け取るために、つまり犠牲が有効になるために、犠牲を執り行う者は神のお気に召す者であるとの条件があります。つまり、司祭となる者は「聖職者・僧侶・神官」でもなんでもいいですが、一般人から引き出されて特有の役割・資格・身分を持っています。



司祭の役割は公けです。そして、司祭は社会上、政治上にも役割を持ちます。歴史に照らしても、社会上の生活における司祭・祭祀者の立場が窺えます。司祭は一般人ではなくて、公の特別の立場と使命と権限を持つのです。これは、犠牲(祭祀、お供え)という儀礼の社会上と政治上の役割から来ます。

そして、第三、「いけにえを執り行う行為(祭礼)」も必要です。要するに、いけにえ、司祭と犠牲の行為(祭礼)からなる「犠牲」です。

また、第四の要素があります。司祭は多くの人々の代わりに犠牲を捧げるということになりますので、祭祀が執り行われるための人々も出席する要素があります。つまり、祭祀などは公けの行為で、人前の行為です。つまり、神に何かを奉納しようとする人々は司祭の下に行って、その執り行いを頼んで、儀礼に臨むということです。

ですから、「犠牲」というのは本当の意味で祭礼の一環です。第一、神のためにある祭礼の一環です。第二、また、外的な儀礼を通じて内面的な行為を表す行為としての祭礼の一環です。そして、第三、個人による祭礼のではなく、公けの祭礼に属する犠牲でとしての政治的な祭礼です。共同体のため、家族のため、国家のため、何でもいいですが、社会単位、社会のために捧げられる犠牲です。

要するに、犠牲とは本当に外的な祭礼であります。この祭礼をもって、人間は物質的な奉納を捧げるという具体的な行為を通じて、自分を神に捧げる行為を表す儀礼です。というのも、目に見える「奉納する」生贄を通じて、神との一体化を実現する「目に見えない現実」を得るための儀礼だからです。つまり、外的な行為を通じて、内面的な宗教上の行為を通じて自分自身を捧げる儀礼なのです。神と一体化するためです。



以上に見た犠牲は複雑な現実だと言えましょう。以上に見た犠牲はすべての犠牲に当てはまります。ミサ聖祭だけではなくて、我らの主、イエズス・キリストによる犠牲だけではなくて、歴史上のすべての犠牲、お供え、奉納などに当てはまる定義です。どこでもいつでも、すべての民族はこのような犠牲を捧げました。単なる供え物から人々を生贄にするまで形はいろいろありますが、この多様な形を越えて、犠牲の本質は一つです。
奉納する「犠牲者」、つまりその奉納品、そして殆どの場合、ある形で奉納品を破壊する、そして、何かの外的な形で「拝領」することによって、神との一体化を示す祭礼。

以上「犠牲・生贄」に関する一般的の意味を紹介しました。

イエズス・キリストご自身が命令された「聖体拝領」―すべては御聖体の聖寵をより完全にうけるために

2021年02月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十三講 ミサ聖祭、聖体拝領



ミサ聖祭、聖体拝領
Gabriel Billecocq神父

ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。ミサ聖祭の秘跡は秘跡中の秘跡であって、一番偉大な秘跡なのです。なぜでしょうか?理由はいくつかあります。

前にも見たように、第一に、ミサ聖祭の秘跡は聖寵を与えるだけではなく、聖寵の御主、言いかえると天主ご自身を与える秘跡であり、その意味で一番の秘跡です。例えば、洗礼や堅振などは確かに聖寵を与えますが、御聖体は天主ご自身そのもの、真の人、真の天主である我らの主、イエズス・キリストを与えるのです。それだから、秘跡中の秘跡です。

また、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡であるのはなぜでしょうか?天主は御聖体にましまし給うということだけではなく、御聖体においてとどまり給うわけです。つまり、一瞬にしてご現存するだけではなく、御聖体は継続的にましまし給うのです。言いかえると、聖変化された形色が存続するかぎり、天主のご現存も存続するということです。従って、御聖体にある天主をご礼拝することができます。

ご現存は一時的でもなく、一瞬でもなく、継続的に安定的に通常にましまし給うのです。つまり、御聖体の秘跡は時間においてとどまり、継続しています。他の秘跡は一時的です。例えば、洗礼は一定の行いなので、秘蹟としては一時的です。もちろん、洗礼の効果はいつまでも続くのですが、聖寵を与える行いは一時的です。「洗礼を受けた」といった時、過去形を使って、一回限りであって、時間においても一時のことです。

他方、御聖体において「現存しておられる」というように、現在形を使って、常に秘蹟は続いているということです。ご現存というのは、秘蹟の効果によるものだけではなく、秘蹟そのものなのです。堅振もほかの秘跡も、秘蹟として一時の行いなのです。御聖体のみ、常に残っています。
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「我らの父なる天主を望み奉る。我らの主なる天主を望み奉る」
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そして、他のすべての秘跡はミサ聖祭の秘跡に収斂するという意味からしても、ミサ聖祭の秘跡は偉大中の偉大なる秘跡です。ミサ聖祭は諸秘跡の中心にある秘跡です。

聖体拝領できるように洗礼を受けるのです。御聖体の聖寵をより完全にうけるために、堅振を受けるのです。結婚も叙階もそうなのです。要するに、ミサ聖祭は秘跡中の秘跡です。天主は人々と一緒に留まることをお望みになります。素晴らしいでしょう。

我らの主、イエズス・キリストはこの世にいらっしゃいました。天主は御托身をなされ、人々の間で人生を送り給うことになさったことは限りなく素晴らしいことです。考えてみると、何よりも素晴らしいことでしょう。33年間、この世にお住まいでいらっしゃっただけでも人類への愛がどれほどに示されているでしょうか。しかしながら、御托身に留まらないで、その上、更に私たちと一緒に常におられることになさったのです。これが御聖体です。どれほど私たちへの愛を示されているのでしょうか?

ですから、御聖体は、「愛徳の秘跡」あるいは「愛の秘跡」とも呼ばれています。なぜでしょうか?

愛を示すために、本当に愛していることを行為で示す一つの手段は、愛している人々のそばにいつまでもとどまることです。お互いに愛している人々はずっと一緒にいたいわけです。我らの主は人々と一緒におられることになさいました。御聖体という愛の秘跡です。御聖体において天主がご現存しておられて、そして私たちと一緒に常におられる秘蹟です。素晴らしいことでしょう。

しかしながら、これだけではありません。これよりも我らの主は素晴らしいことをなさいました。ご存じのように愛を示すために、愛している人のそばにただ物質的にいるだけでは済まないのですね。いわゆる、傍にいることによって、物質的にいることを越えて、「愛している人と一緒に心理的にいる」という親しく暖かい関係ができて初めて愛は証明されています。

聖トマス・アクイナスの言葉を借りると、「愛している人は愛されている人の心の内にいる。愛されている人は愛している人の心の内にいる」ということになります。つまり、物質的な親しみを越えて、その上、心理的な親しみとなっていきます。この世ではこのような親しみは一番高貴な親しみなのです。つまり、お互いに愛している人々は相手を自分の心の内にいるというような関係になります。友人を愛している人は、友人を常に自分の心の内に持っていて、つまり、常に自分と一緒にいるというようなことです。そして、相手も一緒です。要するに、双方の霊魂は一致します。一体にまします。

聖バジルあるいは、聖ナジアンゾスのグレゴリオスでしたかな、とにかく次のように友好的な関係を説明していました。「二人の友人は二つの身体においての一つの霊魂だ」と言っていました。この文章は美しく友好を語ると思います。つまり、本当の意味で友人になる時、このような心理的な一致、一体ができていることを示している定義です。このような内面的な霊魂の一致ができている時、まさに「愛している」状態を特徴づけています。



そして、我らの主、イエズス・キリストは私たちと一致するために、素晴らしい手段を制定なさいました。それが聖体拝領なのです。そもそも、ラテン語で「Communio」と言っていまして「○○と一致する」という意味です。「ある人の心と結びつく」という意味です。まさに聖体拝領です。

要約すると、御聖体をもって、第一、我らの主は常にとどまる手段を制定なさいました。それだけでも、私たちへの天主の愛は示されています。しかしながら、それにとどまらないで、その上、私たちと一致するための手段をも制定なさいました。我らの主は我らとどうしても一致したいと思っておられるので、その愛を示すために聖体拝領を与え給ったのです。我らの主、イエズス・キリストは我らとの一致がお望みになるのは我らを愛しておられることを示しています。

そして、私たちも主を愛しているのなら、主と一致したいという気持ちになるはずです。愛しているのなら、必ず相手と一致したいからです。天主との一致は、この結びつきは聖体拝領と呼ばれています。聖体拝領という素晴らしい手段を設け給うイエズス・キリストは、常に私たちと一致する手段を与えたもうということです。

そして、食べ物として聖体を拝領するので、物質的な一致にもなりますが、それよりもまず、聖体拝領を通じて我らの主、イエズス・キリストは我らの霊魂を養い給うのです。また、そうすることによって、私たちとの一致を強化したまい、その一致へ激しい欲望を強化し給うのです。どう考えてもこれは、天主の限りない優しさ、善良さを示しているのです。なんと豊かな秘跡でしょう。

ですから、御聖体においての天主のご現存、我らの霊魂にご自分を与える、我らと一緒に常に一致しようとなさっておられるという限りなく素晴らしい豊かさを感じていない人々、嗜んでいない人々はどれほど残念なことでしょうか。そして、我らの霊魂を養うことによって、我らの霊魂の天主のご現存はさらに強くなって深くなって、よりよく天主を愛するように導き給う素晴らしい秘跡です。ミサ聖祭によって天主と一致することをお望みになって、ゆるし給うのです。

これは聖体拝領で給う秘跡の素晴らしい玄義です。御聖体はカトリック信徒にとって本物の食べ物なのです。「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉をたべ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者の内に宿る。」(ヨハネ、6、53-56)

我らの主、イエズス・キリストのお言葉は非常に明白なのです。そして、天主から人々への愛に満ちているお言葉です。ですから、よく聖体拝領をする習慣を身につけていきましょう。言いかえると、御聖体において、我らの主、イエズス・キリストご自身を我らの霊魂のための食べ物として頂くようにしましょう。これが聖体拝領なのです。

救霊のために聖体拝領は手段として必要ではないと言われています。つまり、聖体拝領は救霊のために必要不可欠ではないということです。救霊のための条件の一つではないという意味です。一方、洗礼とは救霊のために手段として必要不可欠です。言いかえると、洗礼を受けない者は天国に行けないのです。救われることは不可能です。一方、聖体拝領をしなくても、洗礼を受けたら天国に行けるわけです。この意味で、「救霊のために御聖体は必要不可欠ではない」と言っています。

しかしながら、掟として、御聖体は必要不可欠となっています。言いかえると、「聖体拝領せよ」という命令はあります。
この掟は、あるいは命令は、我らの主、イエズス・キリストご自身が命令したことです。聖ヨハネの第六章においてこの命令が記されています。本当にこの第六章を読むようにお勧めします。本当に素晴らしい場面です。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。」



つまり、「私の肉を食べ、私の血を飲んだら、あなたたちの中に私の命を持ち続けられる」という意味ですね。つまり、聖体拝領をすることによって、いわゆる「聖寵の状態」の内のままにいられるということです。ときどき、信徒からこの質問があります。「善において粘り強く徹底的にやり続けるために、聖寵でいつまでもいられるようにするには、どうすればよいでしょうか」と。

答えは簡単で明白です。聖体拝領することです。我らの主、イエズス・キリストの御体と御血を頂くことです。霊魂を養う聖なる食べ物を頂くことです。イエズス・キリストにおいて霊魂を置く御聖体、そして確実に強くイエズス・キリストにおいていられるようにする秘蹟です。危険においても誘惑においても強くいられるようにする秘蹟です。要するに、我らの主、イエズス・キリストによって「聖体拝領せよ」という掟があります。

その上、カトリック教会はイエズス・キリストの命令をより明確に規定しておきました。カトリック教会は本当に良い母なのです。カトリック教会が命令する、つまり義務化する掟は非常に少ないのです。母なるカトリック教会なので、母らしく自分の子供のことを想っています。ですから、「復活祭の時期、年に一回、聖体拝領するように」とカトリック教会は信徒に義務づけています。要するに、カトリック信徒なら以前に見た通りに、年一回、復活祭の時期に聖体拝領する義務があります。

また、死の危険がある時、カトリック教会は「聖体拝領すること」を義務化づけています。
また後述しますが、聖体拝領は永遠の命を示してもたらす効果がありますから、瀕死になった時、聖体拝領することによって、最期を強く毅然とした態度で迎えるように助けるのです。最期の時は人生における一番大事な戦いとなるからです。その時、悪魔は全力を尽くして、天主から霊魂を外して地獄に引っ張ろうとするのです。ですから、最期を迎えた時、聖体拝領は非常に大事です。霊魂を養い、戦う力を備えることが大事です。

もちろん、義務を越えて、何か人生において大変な誘惑がある時、あるいは試練があるとき、聖体拝領は欠かせない薬となっています。なるべく聖体拝領をしましょう。

それから、聖体拝領の効果は何でしょうか?聖体拝領は成聖の聖寵をいや増す効果があります。つまり、聖体拝領をする者は自分において天主のご実存がいや増します。思い出しましょう。成聖の聖寵とは三位一体が我らの霊魂において居を構えて、我らの霊魂において「おられる」という意味です。ですから、聖体拝領すると、我らの主、イエズス・キリストと一致して、結びついて、密接に一体することになりますので、聖体拝領すればするほどに、天主との絆は強まります。言いかえると、我らの主、イエズス・キリストと一緒にいる絆はどんどん強まるということです。

次に、秘蹟のもう一つの効果は多くの助力の聖成を与えるということです。つまり、ご聖体は日常の私たちの義務において、超自然の次元においてより忠実に完全に使命を果たすように助けてくれる聖寵を与えるのです。また、食べ物は身体の生命の回復のために必要となっているように、御聖体は霊魂の生命を回復するように助ける秘跡です。つまり、成聖の聖寵をいや増し、または多くの助力の聖寵をも与えます。

そして、もう一つの効果があります。以上の効果から生じますが、聖体拝領すればするほど、激情は弱くなっていって、誘惑に対する抵抗力も増えます。そして、当然と言えば当然ですが、天主がおられると、悪魔は恐れて近づくことすらできなくなります。天主は悪魔を支配するのが当然だからです。

また、御聖体は永遠の命を示し、すでに天国をもたらす秘跡ですから、非常に大事な秘跡です。我らの主、イエズス・キリストを頂くということは天国を頂くということですよ。言いかえると、聖体拝領すると、もうすでにちょっと永遠に入りかけたことになるというか、いや厳密にいうと永遠は拝領者においてちょっと入ってきたということになります。聖体拝領すると、天主は我らの霊魂に下り給います。そして、私たちは死んでいくと天主の下へ参ります。聖寵の状態であるのなら。



ですから、瀕死になった時、命の危険があった時、聖体拝領することが大事です。というのも、聖体拝領することによって、天主を頂くのですが、同時に天主が私たちを頂くのですから、その時に死んだら永遠に入っていけます。つまり、死ぬ直前に聖体拝領すると、天国に入れることは殆ど保証されているといってもよいでしょう。かなり救霊は近づくということです。御聖体はまさに我らの主、イエズス・キリストは人々に与え給った素晴らしい愛の証、永遠の命への保証です。

死ぬとき、聖体拝領すると、天国に行くための通行証を貰うようなことです。御聖体は永遠の命をもたらす秘跡ですから。
さらにいうと、この世では頻繁に聖体拝領する者は、そのぶん頻繁に自分の霊魂を天主に向かわせて、よく死ねるように、よく永遠の命の内にいられるための訓練となります。どれほど善き天主が善いかを感じられるでしょう。永遠の命を約束するだけではなく、永遠の命を得るためのすべての手段を与え給うのです。

しかしながら、聖体拝領するためには、条件があります。相応しい状態にあるべきです。霊魂の条件もありながら、身体の条件もあります。聖体拝領するとき、形色の外観の下に、現に天主を頂くことになりますので、物質的な印においてこそご現存しておられますので、拝領するために、霊魂だけではなく、身体も相応しい状態にあるべきであって、条件があります。もちろん、なによりも霊魂の条件が大事です。

原則として、分別のできる状態でなければなりません。そして、適法に聖体拝領するために、十分な教育をも受ける必要があります。つまり、御聖体がなんであるかということを知らなければなりません。

そして、一番大事な条件は「霊魂は聖寵の状態にあるべきだ」ということです。言いかえると、大罪の状態にある霊魂は聖体拝領することができません。なぜでしょうか?大罪を犯した霊魂は「天主の敵」となっています。つまり、大罪を犯したことによって、霊魂から天主を追い出したという意味ですから、御聖体を受けることはできません。「でも、天主を拝領したら、逆に天主を取り戻せるのではないか」と思う人もいるかもしれませんが、違います。天主を取り戻すために、告解がまず必要です。つまり、悔い改めて償う必要があります。罪を改悛して償う前提があります。いわゆる、天主に対して侮辱を犯したままに、天主に対して反目しているなかで、愛の秘跡、友好の証を受けることは無理です。

この意味で、近代主義者の説は非常に悲惨的なのです。悔い改めていないまま、大罪を犯している状態の者に聖体拝領を許す司祭たちは醜いのです。残念ながら、これはよく経験していることですよ。ある信徒は私に「大罪を犯しても聖体拝領できるとある司祭から聞いた」といいます。大変なことです。悲劇的なことです。このような軽い気持ちで、このような軽率なことは、我らの天主の愛への侮辱です。冒涜です。天主のやさしさ、天主の友好さを馬鹿にするようなことです。天主を馬鹿にするようなことです。天主はばかばかしいほどに優しい方ではありません。本当の意味での友人なので、私たちへの忠実と正直さについては徹底したものがあります。友人を本当に愛していたら、だめなことはだめなこととして言って、目をつぶるわけにはいきません。



聖書の多くのところで明記されています。一番象徴的なのは知恵の書でしょう。天主との友好的な関係を傷つける事柄、つまり罪ですね。大罪ですね。大罪は友好的な関係を潰す行為だからこそ忌まわしいのです。当然と言えば当然ですが、天主と仲直りするためには、努力が必要になるわけです。ですから、告解が必要となります。要するに、聖体拝領するためには、「聖寵の状態にいる」条件があります。必要な条件です。

また、当然と言えば当然ですが、聖体拝領するためには、最小限の慎みの心を持たなければなりません。天主ご自身はこの上なく至上の慎みを示すでしょう。ほら、威光あふれる姿でもなんでもなく、単なるパンとワインの外観の下にという質素な形を取り、ご自分を霊魂に与えるという素晴らしい慎み。このぐらい、聖体拝領するために、最小限の慎みの心を持っていきましょう。

また、聖体拝領するためにはまっすぐな心づもりでいるという条件があります。つまり、傲慢、誇示、自慢などの気持ちなしに聖壇に近づくことが大事です。なにか人間的な理由で聖体拝領してはいけません。薬を頂こうとする心が大事です。御聖体はまさに人間の現世欲への薬です。

最後に、聖体拝領するために、身体上の条件もあります。いわゆる断食することです。現在の教会法では、残念ながら、断食の義務はかなり減ったのです。「御聖体の断食」と呼ばれる断食ですが、聖職者に義務化づけられる断食ほど重くないのはいうまでもありません。最近まで、「御聖体のための断食」は、前夜の夜中から聖体拝領まで食べるのも飲むのも控えるということでした。いつも、聖体拝領するのは朝だったのですね。
教皇ピオ十二世は午後中にも聖体拝領を許すとともに、「御聖体の断食」の義務を減らしました。つまり、聖体拝領する前の三時間の間に食べるのも飲むのも控えるということです。つまり、「御聖体の断食」は本当に断食であって、聖体拝領する前の三時間、何も食べないで飲まないことです。ただ、「水」は対象外です。水を飲んでも大丈夫だということです。

残念ながらも現在、さらに教会法は緩くされて、現在法では断食を聖体拝領前一時間にまで減らせられたのです。もう、意味のない断食となっているということです。ここで、近代的なこのような法、つまり近代主義の精神を汲むこのような法律はどれほど悲劇的であって、悲惨であるかよく感じられます。このような法律は天主を馬鹿にしているようにしか見えません。もはや、天主に近づけるために、何の犠牲を払わなくてもよいような不敬。ご現存に対するこのような不敬は本当に悲しいことです。今度の講座においてまたご紹介します。

当然、病者などは「御聖体の断食」の義務から免除されています。例えば、薬を取るべき病者は薬を飲んでも断食の掟に違反していないのです。教会は母らしくて善いですから。ただし、健康である人は、御聖体の断食をすべきです。言いかえると、自分の体を準備するということです。我らの主を拝領するように、自分の体を準備して、断食によって清めるという。いわゆる、聖体拝領によって、我らの身体は聖櫃になっているので、聖なる場所となっているので、聖なる場所を清めることが必要であって、また当然なことです。

最後に、聖体拝領するためには、ある程度の礼儀正しい状態でなければなりません。ですから、聖体拝領するために、跪きますが、その上、服装ももちろん礼儀正しくなければなりません。例えば、水着のような恰好で教会に行くわけには行けません。当然ですが。今の例はちょっと極端ですが、天主様ですから、礼儀正しい服装は最低限です。



最近まで、教会法はこのようなところに関しても厳しかったですが、残念ながらも「近代への妥協」ということで、第二ヴァチカン公会議が決めた「世俗への妥協」の結果、これらの常識的な最小限な規定ですらなくなっています。残念ながらも礼儀正しい心を失うと、悲劇的なことが起きます。我らの主、イエズス・キリストに対して持つべき畏敬、畏怖を忘れて、危うくなっていきます。

最後に、御聖体は両形色をもって拝領することは昔からもはやありません。パンと葡萄酒の双方の形色で拝領することは「教会の当初の時代に回帰することだから」あるいは「よいことだろう」というよう理由で最近取り上げられて、この掟を緩くする動きがあります。しかしながら、それは違います。カトリック教会は賢明です。時間の積み重ねを顧みて、その英知を活かして、パンだけの聖体拝領にするようになりました。もちろん、特別な少数の典礼では、例えばギリシャ系の典礼では、今でも双方の形色で聖体拝領することはあります。

が、実際問題として、双方の形色での聖体拝領になると、多くの問題と困難が生じます。特に、冒涜する恐れがありますので、控えます。いと貴き御血を拝領することになると、液体なので、当然と言ったら当然ですが、こぼし易いし、配りにくいし、いろいろ問題があります。想像してください。皆、同じ杯に拝領するようなことには無理があります。ですから、賢明なる教会は信徒の葡萄酒の拝領を禁止しました。

当然ながら、霊的にいうと何も変わらないのです。聖変化されたパンにおいて完全にイエズス・キリストがましまし給うのですから、聖変化された葡萄酒を拝領しても何も変わりませんし。これは大事です。双方の形色の下に、同じく御体と御血とご霊魂とご神聖が完全にましまし給うから、パンの形色で拝領しても、完全な拝領となります。葡萄酒の形色を拝領する必要がどこにもありません。【後述しますが、なぜ形色が二つあるというと、生贄としてのミサ聖祭が成り立つためです】

それから、聖体拝領するために舌で拝領すべきです。近代主義者たちは舌で拝領しなくともよいという説を根拠づけるためにあまり関係のない教父の文書を引き出します。例えば「拝領しに行くと、右の手を左の手に置くようにしてください。」といった。確かに、当初の時代、手で聖体拝領することもありました。が、教会の長い経験と賢明を尊重すべきです。御聖体への尊敬のために、冒涜行為を避けるために、司祭が直接に舌に御聖体を置くことになっています。

以上聖体拝領という美しい事柄についてご紹介しました。


ミサ聖祭の「ご現存」|だから聖変化の瞬間から司祭はホスチアとカリスに跪く

2021年02月11日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十二講 ミサ聖祭、ご現存



ミサ聖祭、ご現存
Gabriel Billecocq神父

前回にご紹介したように、ミサ聖祭という秘跡は秘跡として物資的な印であります。そして、ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。

ミサ聖祭の秘跡は、我らの主、イエズス・キリストご自身によって制定されました。制定を控えて、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を人々に告げられました。聖ヨハネの第6章においてこの場面は記されています。それから、我らの主、イエズス・キリストは「これは私の体である。」それから「これは私の血である」という言葉を以てミサ聖祭の秘跡を制定なさいました。最後の晩餐のことです。聖マテオ、聖マルコ、聖ルカの三つの福音書において記されている最後の晩餐です。または、聖パウロのコリント人への第一の手紙においても記されているミサ聖祭のご制定です。

要するに、ミサ聖祭は、我らの主、イエズス・キリストによって制定された秘蹟なのです。

秘跡は物質的な(感知可能な)印なのです。これはどういう意味でしょうか?以前、秘跡全般についてご紹介した時、すでにご説明した点ですが、思い出しましょう。

印とは具体的な現実なのですが、この具体的な現実を以て、別にある違う現実を示す、指し示すということです。例えば、「煙は火の印だ」といった時、まさにこのような関係があります。つまり、煙は具体的な目に見える現実ですが、煙を見ると、なにかその煙を産みだしただ火を示すかのように、火を指し示すかのようなことになっています。火は煙と違う現実です。

同じように、ミサ聖祭という秘跡も物質的な印なのです。言いかえると、ミサ聖祭において物質的な印がありますが、この印は別に存在する現実を指し示すことになるという意味です。

秘跡においての物質的な印は質料と形相からなっています。ちなみに、ミサ聖祭と御聖体は同じ意味です。御聖体の秘跡において、物質的な印があります。ですから、質料と形相はあります。では質料はなんでしょうか?遠因の質料は小麦のパンと葡萄酒です。この二つの物は印となっています。本当の意味での印です。何を示す印でしょうか?パンと葡萄酒は食物・糧を示すのです。前にも申し上げたように、ミサ聖祭という秘跡は霊魂を養う秘跡なのです。洗礼は霊魂に生命を与えて、堅振は霊魂の生命を完成化させると同じように、ミサ聖祭は霊魂を養うのです。霊的な生命を養うのです。

ですから、ミサ聖祭の秘跡における印のために、我らの主、イエズス・キリストが体を養う一番普通な食物としてお選びになったものが、つまりパンと葡萄酒なのです。宴、食物、糧を示すには一番普通の印です。

パンと葡萄酒は非常に具体的な食物であるともに、これらの印が何を示すかということも非常に明白です。つまり、霊魂の生命を養うことを示す印です。洗礼において、流される水は霊魂を洗う聖寵を示すのと同じように、パンと葡萄酒という「形色」は霊魂を養いにいらっしゃる天主ご自身を明白に示すのです。

要するに、ミサ聖祭の秘跡の質料はパンと葡萄酒という「形色」からなっています。もうちょっと後に、「形色」という言葉を説明します。難しいというか、哲学用語なので説明が要ります。

それはともかく、ミサ聖祭の秘跡が成り立つためには、パンが必要だということです。ラテン教会においては、種無しパンとなっています。つまり、無酵母のパンです。一方、ギリシャ教会では、発酵させたパンを使うことになっています。

大事なのはミサ聖祭の秘跡が有効になるためには「パン」を使わなければならないということです。パンの種類は問いませんが、パンを使ったミサ聖祭の秘跡が有効となります。しかしながら、ミサ聖祭の秘跡が適法になるためには、言いかえると罪なくミサ聖祭の秘跡を執行するためには、ラテン教会においては種無しパンが必要となっていて、そしてギリシャ教会においては無酵母のパンが必要となっているのです。

それから、葡萄酒は自然の葡萄酒でなければなりません。それは、葡萄という実りから発酵されたワインでなければならないという意味です。「ブドウの木の実り」という言い回しは福音において明記されていて、我らの主、イエズス・キリストもこの表現をなさっています。例えば、いろいろな実から酒を造ることができるわけです。日本酒はコメから、あるいは梅酒など、何でもいいですが、ミサ聖祭の秘跡のためには、葡萄酒でなければなりません。他の酒を使っても、ミサ聖祭は有効になりません。それから、ミサ聖祭の有効性のために必要ではないとしても、適法にミサ聖祭を捧げるためには、酸っぱくなりかけている葡萄酒も甘口の葡萄酒も使ってはいけないことになっています。それは秘跡の有効性とかかわらないから、それほど大事ではありませんが。

それはともかく、ミサ聖祭の時、ミサ用の葡萄酒には数滴の水を司祭が入れることを教会は命じています。一滴ぐらいです。この一滴の水は人類を示すとともに、そして我らの主、イエズス・キリストのご犠牲への私たちの参加を示すのです。
以上は質料の紹介でした。パンと葡萄酒なのです。食物を示す質料なのです。

それでは、形相はどうなっているでしょうか。
ミサ聖祭の秘跡の形相は、聖変化の時、司祭が言う言葉です。これらの言葉は我らの主、イエズス・キリストご自身が聖木曜日の最後の晩餐の際、仰せになったお言葉です。「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」以上の形相はミサ聖祭の聖変化の時に実際に起きていることを示す言葉です。要するに、まさに聖変化を示すのです。パンは御体となります。葡萄酒は御血となります。

「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」



まさに、我らの主、イエズス・キリストは「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになりました。または「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになりました。

要するに、聖変化の言葉をもって、パンを御体に変えて、葡萄酒を御血に変える効果があります。聖変化によって、パンと葡萄酒の形色は残ったままですが、つまり簡単にいうとその外観はパンと葡萄酒のままです。が、聖変化が行われると、パンと葡萄酒の形色は変わらなくても、その実体はかわります。もはやパンと葡萄酒ではなくなって、我らの主、イエズス・キリストの御体と御血となります。

このように、食物の「印」は残っていることになりますが、私たちは拝領する食物はもはやパンと葡萄酒ではなくなって、我らの主、イエズス・キリストご自身となります。御体と御血なのです。
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ミサ聖祭の秘跡は「ご現存」という玄義、「ご現存」という奇跡を実現する秘蹟です。「ご現存」とはなんでしょうか? つまり、パンと葡萄酒の外観の下に、形相を通じて、つまり聖変化の司祭がいうお言葉、「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血のカリスである。」を以て、パンと葡萄酒の本質が変わるのです。

ここに至って、哲学用語とその概念をちょっとだけ簡単に説明することが大事だと思われます。物質的な存在は本質と偶然からなっているのです。
簡単にいうと「本質」とはラテン語の「Sub stare(下に立っている実体)」に由来しますが、その存在の本性を決める事柄です。つまり、ある「物」は「何であるか」ということを決めるものです。例えば、「彼は人間だ」といった時、その人の本質を語るのです。あるいは、ある物をみて「これは机だ」、「これ椅子だ」「これはエビだ」「これは花だ」という時、それらの物の本質を表現します。

ただ、私たちは人間なので、物事を知るために、それらの物事の「外観」を通じてだけその本質を把握できるのです。言いかえると、物事の外観、あるいは感知できる要素を受けて、それを見て、私たち人間は「何であるか」ということを言いきれることはできるのです。これは人間の特徴であると言えましょう。物事の本質を言い切れるという。要するに、人間は外観を見て、その中身を認定するというようなやりかたです。

つまり、私たちは「外観」を見ます。哲学用語を使うと、この「外観」は「偶然」と呼ばれています。偶然とは「Ac cidere」というラテン語に由来していて「現に現れている物事」という意味です。また「形色」とも呼ばれています。「現れる物事」という意味です。

要するに、私たち人間は物事の外面、感知できる要素を見受けて、これらの物事は何であるか、つまりその本質を言い切れる能力を持つのです。
例えば、目の前に二つの腕、二つの足、頭などという「物」を見た時、「これは人間だ」と言いきれます。つまり、その外観などを見て、その本質を言い切れます。もちろん、これらの外観はひとびとによって変わります。例えば目の色とか、身長、体重などはみんな違うわけです。つまり、これらの外観は多様性がありますが、それでもこれらの感知できる要素のお陰でいずれにしても「彼は人間だ」と言い切れる現実があります。あるいは「これはエビだ」あるいは「これは植物だ」あるいは「これは木だ」あるいは「これは雲だ」など。

つまり、人間は物事の外観を通じて、その本質を知ることができます。ですから、存在物には「本質」と「偶然(外観)」の区別があるのです。もちろん、本質と偶然は区別されても、現に密接に結ばれているので、私たち人間はある物の本質と偶然を離すことは不可能です。無理です。例えば、体を持たない人といっても、無意味なことです。理不尽です。無理です。人は必ず頭とかあります。

要するに、物事の本質と偶然(外観)は存在することに当たって密接に強く結ばれているのです。離れられないほど。

さて、ミサ聖祭の秘跡の際、現に起きる聖変化は天主によってしかできない奇跡となります。天主のみ、万象の創造主とその主人であるがゆえに聖変化が可能です。どういうことでしょうか?



我らの主、イエズス・キリストは聖木曜日の最後の晩餐の時、あるいは、司祭はミサ聖祭の聖変化の時、「実に、これは私の体である」「実に、これは私の血である。」という言葉を言ったとたんに、パンと葡萄酒の「形色」、言いかえると「外観、偶然」はそのままに残るのですが、パンと葡萄酒の本質は変わります。このような御業は天主のみができる奇跡です。というのも、天主のみ、万象の存在を支配して、万象を操ることができるからです。なぜでしょうか?天主こそがこの上なく至上の存在であり、天主こそが万象に各々の存在を与える御方であるがゆえです。

つまり、天主のみが聖変化において実現する本質の変化を行えるということです。繰り返しになりますが、我らの主、イエズス・キリストはパンを手に取り「実に、これは私の体である」と仰せになった時、あるいはミサ聖祭の際、司祭がパンを手に取り「実に、これは私の体である」と申し上げたとたんに、もはやパンではなくなってしまい、我らの主、イエズス・キリストご自身に変わります。現存されます。ただ、「パンの外観のもとに」実にましまし給うということです。つまり、聖変化のあとでも、パンのすべての「偶然」、「形色」、つまり「外観」は残っています。例えば、白く、丸くて、パンの味がしているなどの「感知できる偶然」は残っているままです。が、御聖体はその外観の下に隠れている本質が変わって、我らの主、イエズス・キリストご自身となります。

この現実は信仰が私たちに教えることです。そして、我らの主、イエズス・キリストご自身がミサ聖祭を約束なさったことを信仰を通して確証させるのです。また、現在において、御聖体にかかわる多くの奇跡によっても確証されています。

聖書においても、聖伝に(使徒たちによって伝えられて伝統)においても、それからカトリック教会の長い歴史に渡る確認できる多くの「弁証の証拠」においてもご現存の証拠は数多くあります。しかしながら、これらの証拠はともかく、ご啓示された信仰の一つの玄義として、そのままにご現存されるという真理は素直に受け止めなければなりません。

典礼において、聖変化から司祭は御聖体の前に跪くのですが、それはご現存に対して礼拝しているのです。もはやパンではなくなっているのです。これは大事です。もはやパンではないからこそ、イエズス・キリストご自身であるからこそ、ご現存にましまし給う御聖体だからこそ、跪くのです。礼拝の行為を表します。


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同じように、イエズス・キリストがカリスを手に取ったように、ミサの時、司祭がカリスを手に取って「実に、これは私の血である。」といったとたんに、もはや葡萄酒ではなくなります。ただ、葡萄酒の外観など、葡萄酒の偶然は残っていますが、その本質は変わって、もはや葡萄酒ではなく、我らの主、イエズス・キリストの御血です。

まさに聖変化です。つまり、本質が変化されたということです。パンと葡萄酒の本質から我らの主、イエズス・キリストの本質へ変わります。神学用語でいうと「聖変化-transsubstantiatio」と言います。直訳すると「本質を変える」という意味です。本質が変化します。

ちなみに、秘蹟の定義は次のようになっていますね。「ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。」この「本質的に」という部分が重要となります。偶然(外観)は変わらないのですが、本質は変わります。聖変化です。

で、聖変化を通じて、我らの主、イエズス・キリストが御聖体において現存しておられます。本当にましまし給うのです。パンと葡萄酒の形色の下に、それぞれに完全にましまし給うということです。言いかえると、御聖体において、つまり、パンの外観の下に、イエズス・キリストの全部がましまし給うということです。御体、御血、ご霊魂、ご神性とともに、御聖体において現存しておられます。我らの主が現存しておられるという時、当然といえば当然ですが、我らの主、イエズス・キリストの全体がましまし給うということです。イエズス・キリストの一部を除いてにおられることはありません。御体、御血、ご霊魂、ご神性のすべてをもってましまし給うということです。



同じように、カリスの御血においても、我らの主、イエズス・キリストの全体がましまし給うということです。ですから、御体と御血だからといって、パンには御体だけ、葡萄酒には御血だけというようなことはありません。

コリント人への第一の手紙において、聖パウロの次の言葉があります。「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ(あるいは)、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)
以上の引用の「あるいは」と「と」はこの意味で大事になっています。つまり相応しい心なしに主のパンを食べる者、あるいは杯を飲む者は、つまりどちらかでもという意味で、主の御体と御血を犯すということは、御血と御体の双方を犯すということになります。
要約すると、聖変化されたパンだけをもっても、御血と御体があるということです(そして、ご霊魂とご神聖、つまりイエズス・キリストのすべて)。同じように聖変化された葡萄酒だけをもっても、御血と御体があるということです。

要するに、パンと葡萄酒のそれぞれの形色の下に、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。さらに言うと、それぞれの形色の一部の下においても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。具体的にいうと、つまり、御聖体は、つまり聖変化された種無しのパンの一部のかけらだけにおいても、我らの主、イエズス・キリストのすべてが完全にましまし給うということです。言いかえると、司祭は御聖体を二つに分けても、我らの主、イエズス・キリストは分かれていないのです。別れた二つのかけらにおいても、完全にすべてましまし給うということです。一部のかけらをとって、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。もう一部のかけらにおいても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。
同じように聖変化された葡萄酒の一滴においても、我らの主、イエズス・キリストのすべてがましまし給うということです。



ここに至って、お勧めがあります。皆様の毎日のミサ典書をに参照するのがよいです。御聖体の祝日の典礼に素晴らしい「続誦」があります。御聖体の祝日は聖霊降臨の祝日のあとに来ます。その日の典礼には素晴らしい「続誦」がありまして、「詩」のような「歌」のような美しい祈りです。アレルヤのあとにあって、福音書の前にあります。聖トマス・アクイナスが作成した「続誦」です。御聖体について、カトリック信徒として信じるべきすべての真理がその「続誦」に収まって簡潔に記されています。一部だけ引用しましょう。

「異なる形色、象徴的な表面の下に、すぐれた実在がかくれましまし給う。
御肉は糧、御血は飲み物である、キリストはその双方の形色の下に、完全にこもりまします。
これを受ける者も、切ることなく、割ることなく、分けることなく、全き実体を受け奉る。
一人拝領するも、全員拝領するも、等しきものを完全に受け奉る。いかに多くが受けても、尽きることはない。」

以上の文章は「続誦」の一部ですから、ぜひともご覧ください。多少長いですが本当に素晴らしい文章です。

ミサ聖祭という秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給うのです。


ミサ聖祭は秘蹟:イエズス・キリストは本当に、実際に、ご聖体におられる

2021年02月07日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第百十一講 ミサ聖祭、その制定



ミサ聖祭、その制定
Gabriel Billecocq神父

洗礼と堅振の次に、ミサ聖祭を見ていきましょう。
前にもご紹介したように、秘跡を理解するために、秘跡を「自然の人生の流れ(誕生、成長、養い)」に例えてみることができます。
洗礼とは超自然の命を与えます。つまり、超自然における誕生なのです。堅振とは超自然の生命を成長させて、洗礼者をキリストの戦士にすることによって、完成化させます。

それから、今回からご紹介するミサ聖祭、あるいはご聖体という秘跡は超自然の生命を養うのです。言いかえると、超自然の人生における補給なのです。

ミサ聖祭の秘跡はかなり難しい秘跡であり、複雑でもあります。ミサ聖祭には主に二つの異なる現実が重なっていて、この二つの側面をちゃんと理解すべきですから、これから一つずつじっくりとご紹介していきたいと思います。

第一、秘蹟としてのミサ聖祭です。ミサ聖祭は秘跡中の一番偉大なる秘跡となります。一般的にいうと、「御(ご)聖体」の秘跡といいます。
そして、第二、ミサ聖祭という秘跡は「犠牲」あるいは「生贄」を執行することによって実現する秘蹟だということです。要するに、生贄としてのミサ聖祭も次に説明することになります。一般的に、「ミサ聖祭」といった時、犠牲としての側面を重視します。
とりあえず、秘蹟としてのミサ聖祭を見ていきましょう。
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ミサ聖祭は秘跡です。まず、ミサ聖祭を指す別の言い方は、フランス語で「Eucharistie」がありますが、ギリシャ語での意味は「感謝の表明」、または「恩返しを施す」、つまり「感謝する」というような意味です。ですから、ミサ聖祭という秘跡を通じて、天主に感謝して、天主への恩返しを実践するような意味があります。

それはともかく、ミサ聖祭の定義は厳密にいうと次のようになります。「ミサ聖祭は一つの秘跡です。その秘跡には、我らの主、イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性が葡萄酒とパンの外観の下に、本質的に実際に真に、在(ましま)し給う【あるいは現存し給う】のです」

以上の定義にあるすべての言葉は大事であって、その意味に注意しましょう。
ミサ聖祭には私たちの主、イエズス・キリストは「実際に」、つまり現に目の前にいらっしゃるという意味です。「真に」、つまり、本当の意味で、イエズス・キリストのままにイエズス様はいらっしゃるという意味です。「本質的に」いらっしゃるという意味は後で詳しく説明します。



それから、「イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性」がましますということは、イエズス・キリストの全体、人としてのイエズス・キリストと天主としてのイエズス・キリスト、その全てが本当にいらっしゃるという意味です。ただし、目に見える形は普通の体ではなく、「葡萄酒とパンの外観の下に」、イエズス・キリストのすべてはいらっしゃるという意味です。

さて、これから、以上の定義を見ていきましょう。すべての秘跡と同じように、ご聖体の秘跡も「物質的な印」、「天主による制定」、「聖寵の施し」という三点からなっています。

思い出しましょう。秘跡の定義は「我らの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、秘跡は聖寵を施すために制定さた」という定義でした。ミサ聖祭も秘跡なので以上の定義に当てはまります。

つまり、ミサ聖祭は「私たちの主、イエズス・キリストによって制定された物質的な印であって、聖寵を施すために制定された」秘跡です。

さてに最初、イエズス・キリストのミサ聖祭のご制定について見ていきましょう。

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ご存じのように、我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったのは死に給った前日、聖木曜日です。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にも明記されているほか、聖パウロの手紙においても記述があります。
「私があなたたちに伝えたことは主から預かったことである。すなわち主イエズスは裏切られた夜、パンを取り、感謝したのちそれを裂き、『これはあなたたちのための体である。』」(コリント人への第一の手紙、11、23-24)

我らの主、イエズス・キリストはミサ聖祭を制定なさったことによって、まず、イエズス・キリストは彼がなさった約束を果たし給ったのです。かなり明白にミサ聖祭を制定することを約束なさったのです。実は、約束なさったとき、聞いていた人々はびっくりしてショックを受けていました。聖ヨハネの第六章に記されている場面です。



その前日、我らの主は大きな奇跡を行ったのです。いわゆる、パンの増加の奇跡です。ちなみに、このパンの増加はミサ聖祭を準備する奇跡でもあり、つまりご聖体の玄義を知らせるための奇跡であって、そうすることによってご聖体への理解を助けるためになされたパンの増加の秘跡です。そして、その翌日は準備された人々へご聖体をはっきり示し、約束されます。

カファルナウムという町にいましたが、前日の奇跡、パンの増加のことを見ていた人々、それからその話を聞いていた人々が多く、我らの主のもとに来ます。パンの増加だけでも、現地の多くの人々はイエズス・キリストの天主性を自覚しました。そして、集まっている大衆はイエズス・キリストに「これからもまたずっとずっと、昨日のようにパンを与えてください」と主に頼みに来るという場面です。
その依頼に応じて、イエズス・キリストは次のように答えます。「命のパンはわたしのことだ。」(ヨハネ、6、35)

ご覧のように、我らの主、イエズス・キリストは奇跡を通じて、つまり普通のパンの増加を通じて、目に見えない別の現実を示し給うたのです。「命のパンはわたしのことだ。」と仰せになって、また「私は天から下ったパンだ」(ヨハネ、6,41)とも仰せになります。ここに、旧約聖書のマナになぞらえるのです。マナとは40年間ずっと、聖地に入る前に砂漠にいたヘブライ民族が食べられるために、毎日、天から下った食べ物です。粉のようなマナで、それでパンを作って、そのおかげでヘブライ民族は長年にわたって砂漠にいてもマナを食べて生き残り、聖地にやっと入れました。

「私は天から下ったパンだ」と仰せになります。
さらに、イエズス・キリストは次のことを付き加えます。その時の目撃者にとって、かなり謎めいたお言葉だったと思いますが、そのあとの経緯を見ると意味がはっきりするのです。
「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
繰り返します、ご自分を指して、「私がパンだ」と仰せになっていますね。「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」そして、つづいて、
「私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」(ヨハネ、6、51-52)と仰せになります。このパンは「生かす」パンだからです。

当時の人々にとってかなり謎めいたお言葉でしたが、そのあとの歴史を知っていると、かなり明白なお言葉です。
ちょっと、当時の人々の反応を想像してください。我らの主、イエズス・キリストは「私は天から下った生きているパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは世の命のために渡される私の肉である。」と仰せになります。肉ですよ。当時の人々はこのようなことが言われてもまずピンと来ないことは言うまでもありませんが、非常にショックを受けるのです。なにか、このようにして「私の肉をあなたたちに与えるので、養うパンのようになるので、私を食べてください」というようなことですので、ちょっとこれをはじめて聞いたらびっくりするでしょう。

面白いことに、聖ヨハネは人々の反応を記していますが、意外と人々は何となくわかっていた様子だったのはわかります。「ユダヤ人は互いに議論し合った」。ということは理解しようしていました。謎だったものの。
そういえば、以上の場面の時、使徒たちは追加の説明をイエズス・キリストに頼んでいないのは特徴的です。謎めいたお言葉ですが、あとになって何となくわかっていたということを表します。福音書において、使徒たちは主の箴言がわからないとき、遠慮なくイエズス・キリストにその追加の説明を聞いてみることが多いので、以上のお言葉に対する使徒の反応は例外です。しかも、上の言葉は箴言ではなく、現実のことについて仰せになります。

その時、福音書の次の場面にはこうあります。「そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった。【多くのユダヤ人たちはイエズスのお言葉を聞いてショックで受け入れなかったことを表す】イエズスは十二人に向かい、『あなたたちも去っていきたいか」といわれた。シモン・ペトロは『主よ、だれのところにいきましょう。あなたは永遠の命の言葉を有しておられます。また私たちは、あなたが神の聖なるお方であることを知っていますし、信じています。』」(ヨハネ、6、66-69)

以上の場面はイエズス・キリストがミサ聖祭を制定することを約束する場面です。同じ場面のイエズス・キリストのお言葉は次の通りにあります。
「まことにまことに私は言う。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である。」(ヨハネ、6、53-55)

聖ヨハネの福音書の第六章は以上に見た通りに明白です。ミサ聖祭を前もって示す場面です。ここでは、我らの主は霊魂のために霊魂の食べ物としてご自分を与えることを約束なさいます。要するに、ミサ聖祭の約束です。

次に以上の約束を我らの主は果たされます。聖木曜日になってミサ聖祭を制定することによって、御約束を果たされます。最後の晩餐のさい、セナクルで、12人の使徒たちに囲まれて制定なさいます。
制定なさるときも、非常に明白に制定なさいます。周知のように福音においてのミサ聖祭の制定を記す記述には、パンを手にとって「これは私の体である。」と仰せになります。

つまり、私たちの主は「これは私の体に似ている。」あるいは「これは私の体の外観である」あるいは「これは私の体を象徴するものだ」というようなことはおしゃっていません。「これは私の体である。」と仰せになります。



そういえば、私たちの主はいつもいつもはっきりとお言葉を発して、いつも明白でぴったりと現実をそのままに仰せになっています。真理について仰せになっています。「これは私の体である。」と仰せになります。
そして、ご存じのように葡萄酒の杯を手に取って「これは私の血である」と仰せになります。

以上は、我らの主、イエズス・キリストの遺言です。遺言というのは、後世の人々のために遺された宝です。また私たちのために引き継がれた遺産です。私たち、洗礼者が受け取れるこの遺産は何でしょうか?イエズス・キリストの御体です。イエズス・キリストの御血です。言いかえると、イエズス・キリストのおん命です。というのも、前にも紹介したように、おん体とおん血とご霊魂とご神聖はミサ聖祭の秘跡において本当にましますので、イエズス・キリストのすべての生命です。

以上ミサ聖祭の制定を紹介しました。
また、三つの福音書以外にも、聖パウロはコリント人への第一の手紙において、ミサ聖祭の制定を語ります。主な点において福音書と同じ描写となっています。そして、聖パウロもコリント人にはっきりと明白に次のことを言っています。
「だから、相応しい心なしに主のパンを食べ、この杯を飲む者は。主の御体と御血を犯す。」(コリント人への第一の手紙、11、27)

つまり、聖パウロの言葉も明白です。ミサ聖祭では、本当の意味で我らの主、イエズス・キリストの御体と御血が、パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるのです。

また、ミサ聖祭の制定とその現実はすべての教父たちは揃って改めて確認して断言します。パンと葡萄酒の外観のもとに、実際に本当に現存なさっておられるということはもちろん玄義であって、理性で理解しようともできないわけです。

そして、このような玄義は本当に現実であることのさらなる根拠は、歴史においての多くのご聖体のお陰での奇跡です。ご聖体による奇跡は数えきれないほど多くあって、いつでもどこでも確認されています。最近でも、いわゆる御血が流されて、その血を検査の結果に、本当に血であることが証明されたりしました。

あるいは、逆に、異端者などがご聖体を冒涜した時にちゃんと実証された奇跡が多く起きたことも確認されています。ここにいう奇跡はカトリック教会によって認定されたものだけであって、つまり確認されてしっかりと実証された奇跡のことを言います。今でも見られる奇跡もあちこちあるので、巡礼の地にもなっていることが少なくありません。



あとは、具体的に有名な奇跡でいうと、いわゆるルルドでの多くの奇跡がありますね。ルルドでは司祭は顕示台に安置されているご聖体を捧げながら、病者たちの前に通行するという儀礼があります。そこで、ご聖体をもって十字架を病者の上に切ります。

ルルドで実証的に確認された奇跡は非常に多いわけです。ご興味あったら、どうぞご確認ください。非常に多いので確認しやすいのです。このような奇跡はご聖体には本当に我らの主、イエズス・キリストが現存しておられることを証明する、さらにご聖体の現実を根拠づける奇跡です。

イエズス・キリストは本当に、実際に、ご聖体におられるのです。

ヴィガノ大司教:全員が新型コロナウイルス感染症のワクチンを受けねばならないと言う教皇フランシスコに反応

2021年02月03日 | 迫り来る危機
ヴィガノ大司教、全員が新型コロナウイルス感染症のワクチンを受けねばならないと言う教皇フランシスコに反応

聖座によるワクチン推進に関するカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の考察:2021年1月15日(LifeSiteNews)
https://www.lifesitenews.com/opinion/abp-vigano-on-francis-push-for-vaccination-the-salvation-of-the-body-is-the-supreme-law


Sanitas corporum suprema lex.
体の健康は最高の法である。(教会法の Salus animarum suprema lex 「霊魂の救いは最高の法である」 をもじった表現)

数日前、イタリアの民放テレビ「カナレ5」(Canale5)で、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ( [注]フランシスコ教皇の本名) が製薬会社の「スポンサー」という異例の役割で登場したインタビューが放送されました。私たちはすでに彼を政治家の役割で、労働組合員の役割で、制御なしの移民容認の推進者という役割で、不法移民を歓迎する支持者という役割で、そして慈善家という役割で見てきました。

これらすべての役割の変容の中で常に浮かび上がってきているのは、自分の組織の役割[教皇職]から完全に遠ざかることができる彼の能力と並んで、このアルゼンチン人の多面体的な性格です。私たちは今、彼が製薬会社の「推進者」であり、確信的なワクチンの「支持者」であり、1年前から大衆をコントロールし、世界経済フォーラムが望んでいる「グレート・リセット」を押し付ける手段として新型コロナウイルス感染症を利用してきた人々の熱烈な「応援者」でもあることを発見しています。

ワクチンが有効性を保証するものではなく、むしろ深刻な副反応を引き起こす可能性があるという事実もあります。いくつかのケースでは、ワクチンが中絶した胎児から採取された細胞に由来して製造され、それゆえにカトリックの道徳と完全に相容れないという事実もあります。高免疫血漿(けっしょう)を用いた治療、そのほかの代替治療プログラムを用いた治療は、その有効性の証拠があるにもかかわらず、使用を拒否されているという事実も存在します。

こういったすべてがあっても、全くゼロの医学的能力に基づいて今、信徒にワクチンを推奨している一方で、ベルゴリオの主権者としての権威を利用して不特定の「倫理的義務」の名の下に、疑わしい治療を受けるようバチカンの市民に要求している新しい「専門家たち」にとっては、それらの事実はほとんど意味がないのです。殺風景なパウロ六世記念ホールは、この新しい公衆衛生の儀式を行うための神殿として、象徴的に選ばれました。そこでは「新型コロナウイルス感染症教」という宗教の役務者たちが司式を務めますが、それは霊魂の救いを保証するためではなく、体の健康に対する偽りの約束を保証するためです。

異端者や偶像崇拝者との対話という名の下に、無節操にも少なくないカトリックの諸真理を破壊した後、ベルゴリオが放棄することができないただ一つの「教義」が、予防接種の義務という教義であるのは、不愉快なことです。気を付けてください。これは[シノドス好きの]彼が、いかなるシノドスの手続きもなしで一方的に定義した「教義」です。教義とは、その発表前に、たとえ道徳的な一貫性がなくても、少なくとも功利主義的な細心の注意によって、最低限の賢明さがあることを人々が期待するようなものです。

なぜなら、遅かれ早かれ、人々に対するワクチンの効果が発言するようになったとき、ワクチンが引き起こした死者の数や、まだ実験中の薬によって生涯にわたって不具になってしまった人々がどれほど多くいるのかを数え始めたとき、誰かが確信的なワクチン支持者に説明を求めることができるようになるからです。

その時点では、自分たちに認められた権威に基づいて、無防備な被験者に、いわゆるワクチンを接種するように説得した者たちのリストを作成するのが、まったく当然のことになるでしょう。彼らは、自称専門家、利益相反のあるウイルス学者や免疫学者たち、大手製薬会社に雇われている蚊の専門の科学者たち(zanzarologi)、科学的野心を持った獣医師、政府が資金提供したジャーナリストや世論形成を行った者、面目を失った映画スターや人気歌手らですが、このリストにベルゴリオも例外的な支持者として、側近の高位聖職者たちとともに加えなければなりません。[訳者注:特にイタリア人読者には、ヴィガノ大司教の挙げたリストで誰のことを言っているのか個人を特定できるだろう]

そして、もしも現在、この問題に関する専門能力に欠けているということが、それを理由に少なくとも賢明な沈黙を守るべきだと考えるには十分でないと思われるなら、その時が来れば「知らなかった…」「想像もしなかった…」「私の専門分野ではなかった…」と彼らが抗弁しても、彼らの罪を重くさせる要因としてのみ判断されるでしょうし、そのように判断されるべきです。「Stultum est dicere putabam [「私はそうと思っていた」と言うのは愚かなことである]」。

もちろん、ベルゴリオの教会では、同棲は使徒的勧告「アモーリス・レティチア」(Amoris Lætitia)で合法化することができ、イタリアのカトリック日刊紙「アッヴェニーレ」(Avvenire)は今日、ジェンダー・プロパガンダのパンフレットのように簡単に「LGBTの子育て」を語ることができ、母なる大地を礼拝する偶像崇拝的な儀式は、マルサス的環境主義に好意を示しながら聖ペトロ大聖堂で行うことができます。聖なる叙階の秘蹟の問題は修正され、女性に役務者の資格を授与することできます。死刑は不道徳と宣言することができ、他方で妊娠中絶についてはさりげなく黙っているのです。汚聖を犯さないために舌でご聖体を受けることを望む人々にはそれを拒否しながら、公の罪人にご聖体を授与することができます。教室へ入るのは、すでにアイルランドで起こったように、予防接種を受けていないカトリック学校の生徒には拒否することができます。

そして、さらにカトリックの教義に対するこれらの露骨な冒涜は、公会議による革命と完璧なイデオロギー的連続性をもっており、しかも、秘教と迷信の境界線上にある「科学」というものへの確固とした揺るぎない信仰告白を伴っているのです。一方で、天主を信じることをやめれば、何でも信じることができます。

このように、ベルゴリオにとって、洗礼によって唯一のキリストの教会に属することが霊魂の永遠の救いに究極的には余計なことであったとしても、ワクチン開始の儀式は、個人の肉体的な健康に不可欠であることが「エクス・カテドラ」(ex cathedra [聖座からの不可謬宣言に例えている])で宣言されており、不可欠なものとして、それは延期不可能で必要なものとして提示されています。

エキュメニズムと宗教間対話の名の下に、啓示された真理を脇に置くことが可能であるならば、新型コロナウイルス感染症の「教義」や、パンデミックについてのメディアによる啓示、ワクチンという救いの秘蹟に疑問を呈することは同様に許されません。そして、回勅「フラテッリ・トゥッティ」(Fratelli Tutti)によって、普遍的な兄弟愛が、生けるまことの唯一の天主への信仰から離れて推し進められるのならば、いわゆる「否む者」との接触は許されません。否む者とは、新しいカテゴリーの「避けるべき」罪人であって、群れへの警告となるように、健康の異端審問とメディアの破門によって異端として処罰されなければなりません。

「この教えを持たずにあなたたちのところに来る者があれば、その人を家に入れず、挨拶もするな」(ヨハネの第二の手紙10節)と聖ヨハネは警告しています。ベルゴリオは誤解したに違いないので、彼は中絶賛成者や犯罪者に挨拶をしたり受け入れたりしていますが、自らを「反ワクチン派」に汚染させることはないのです。

この科学絶対の教義主義は ---- この教条主義は、科学が宗教よりも優先するということを最も熱烈に支持している者たちさえをも恐怖に陥れるものですが ---- 、科学者ではない人々によって広められています。影響力のある情報発信者(インフルエンサー)たちからベルゴリオまで、スポーツ選手からバイデンまで、いわゆる「専門家」から政治家までが宣伝しており、私たちは逃げられないでしょう。彼らは皆、テレビカメラの前で腕を出すことに熱心ですが、ビデオでよく見ると多くの場合は注射器の針がまだキャップで覆われていたり、ワクチンの血清は実際には不透明であるはずなのに接種液が透明だったりします。

これらは明らかに、新型コロナウイルス感染症の大司祭たちが軽蔑をもって[ワクチンを]拒否している[ワクチンへの]反対意見です。「神秘」(mysterium)とは、神聖な行為を儀式化することの一部です。それはちょうど「秘蹟」(sacramentum)がそれが意味するものを成し遂げるのと同じように、です。

押すと引っ込む針で、あるいは注射器のプランジャー [押し子] を押すことなくワクチンを投与することは、大衆の信者たちに伝わるべきメッセージを「劇的に演出する」のに役立ちます。そして、この儀式の犠牲者たち、すなわちファイザーやモデルナ、アストラゼネカでさえ保証する勇気がない免疫という幻影に、すべての人の善のために素直に身を捧げている人々は、新しい健康宗教の一部でもある「いけにえ」(sacrificium)を表しています。

さらによく調べてみると、ワクチンを製造するために妊娠3カ月目に中絶された罪のない赤ちゃんたちは、邪悪な者だけが見て見ぬふりをすることができる恐ろしいパロディーの中で、地獄の力を讃美するための一種の人間のいけにえとなっているように見えます。

グロテスクな儀式の狂ったような興奮状態の中で、典礼聖省の注意書きさえも欠くこともありません。同省は、不条理を完全に無視しながら、灰の水曜日に聖灰を塗る方法についてをおかしなラテン語で公布しています。「Deinde sacerdos abstergit manus ac personam ad protegendas nares et os induit[その後、司祭は手を洗い、鼻と口を保護するためにマスクを着けます]」[古代ローマの演劇用の"仮面"という単語をマスクとして使っている]。洗剤を使った手の清めとマスクの使用は科学的には無意味ですが、儀式によって表現された「信仰」の伝達には象徴的に必要なことです。そして、まさにこのことから、アキタニアのプロスぺロの古代の格言「Lex orandi, lex credendi」[祈りの法は信仰の法]がいかに真実であり、いかに有効であるかを理解することができます。この格言によれば、祈る方法が信じることを反映させているからです。

誰かが、ベルゴリオが実行した教皇職の完全な崩壊を避けようとする敬虔な試みで、ベルゴリオが表明した「意見」はまさに意見であり、まさに意見のままにとどまっており、それゆえに、カトリック教徒には自分の良心と自然道徳とが不道徳であることを証明するそのワクチンを受ける義務はない、と異議を唱えるでしょう。

しかし、「カナレ5」では、新しい「教皇の教導職」が、明示的に発表されたのです。それはちょうど、飛行機の中で、LGBTについての教義「裁くような私は一体誰なのか?[だれも裁くことはしない、私は裁かない]」が定義されたのと同じであり、また、ちょうどそれは「アモーリス・レティチア」の脚注で、結婚の非解消性が司牧的実践の名の下に否定されたのと同じです。政治家がソーシャルメディアでツイートし、自称専門家がテレビスタジオでもったいぶって話し、高位聖職者たちがインタビューで説教します。将来のいつかベルゴリオが[エコロジーの]電動スクーターを勧めるために宣伝に登場しても驚かないでください。

カトリック教徒は、信仰や道徳と衝突するものを自分たちに本能的に指し示してくれる「信仰の感覚(sensus fidei)」によって照らされ、この医療供給物のセールスマンの役割が、多面体的なベルゴリオが果たす多くの役割のうちの一つに過ぎないことをすでに理解しています。

彼が頑なに果たしたくないと強く主張している唯一の役割は、キリストの代理者の役割です。その理由は、彼のあからさまな無能さのため、生来の短気さのため、あるいはまさに最初から意図的にそれを選択していたためです。このキリストの代理者の役割を果たしたくないということは、まさにこれ以外の何ものでもなく、このアルゼンチン人の参照ポイントが何であるのか、彼を動かしているイデオロギーが何であるのか、彼が設定している目標と、その目標を達成するために彼が使おうとしている手段が一体何なのかを明らかにしているのです。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年1月14日
司教証聖者教会博士聖ヒラリオ