お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話 をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう
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ルソーは「地理学」ならちょっとでもやるといいといっています。というのも、地理学だと、周りの世界に基づいているからやっても良い学問だといっています。ただ、非常に手軽に限定的にやるべきだと。遊べる近くの川と芝生ぐらいを教えるだけでよい、まあ、ちょっと大げさに言ってみましたが、原文を見るとほとんど大げさに言っているわけでもありません。
というのも、ルソーが問題にしているのは、近くだけの地理学ではないのなら、地球模型を差し出す必要が出てしまい、そしてそれは「人工的な」段ボールの模型だからけしからんというのがルソーのスタンスです。本物の地球ではないから、地理学を習ってはいけないというロジックです。
歴史はダメ。言語学はダメ。死語ならなおさらのことだと言いますが、いつもラテン語で引用しているルソーなのになあ。これは、ルソーの多くの矛盾の一つなのです。
読書なら、一冊しか許されていないと言います。これは『ロビンソン・クルーソー』です。象徴的でしょう。「善き未開人」の再登場です。ここではその良き未開人はエミールですね。
しかし、続いて、エミールは職業を習うべきだと言います。それは、「独立に生計を立てる」ことができるためです。
「わたしはどうしてもエミールに何か職業を学ばせることにしたい。少なくとも何か品のいい職業を(…)えらぶことによう。それにしても、有用性のないところには品もないということをいつも忘れないでおくことにしよう。」
また、いつも同じ繰り返しになります。ルソー論において、「知る」のは有用でなければなりません。そういえば、現代社会では全くその空気です。何かを学ぶときに、「何のために」、「何の役に立てる」とすぐに聞かれるでしょう。例えば、「哲学を学んでいます」、すぐに「何のため?」と。「いや、哲学は何の役に立たない学問だ」。はい、哲学は具体的には何の役にも立たないが、「良く生きるために」役に立ちます。
「何のために?」「何の役立つ?」。近代的な質問です。しいて言えば、他人に奉仕するためとかは論外となっていて、自分の何かの利益がなければやらないといった雰囲気があります。有用性がなければならないということが常識になりつつあります。
現代社会では、役に立たない職業は、好まれていないようです。修道士や一生独身の神父などは何の役に立つでしょうか。具体的に、物質的にいうと、何も役立たないのです。結果、観想系の修道会をつぶそうとする動きが強くなっています。フランシスコ教皇は例えば、近代主義に染まって、観想系の修道会を迫害しています。理由は「社会上、何の役に立たないから」というだけです。
「天主に栄光を捧げる」修道会ですが、それは「役立たない」らしいのです。悲惨なことですが、ルソーらしく有用性を重んじるあまり、とんでもなくなります。
「彼には島にいるロビンソンの役に立ちうるような職業が必要だ。」と言います。
「すべてをよく考えてみると、わたしがいちばん好ましく思う職業で、私の生徒の好みに合っていると思われるのは、指物師の職業だ。それは清潔で、有益で、家の中で仕事をすることができる。それは十分に体をはたらかせ、職人の器用さと工夫を必要とし、用途によって決定される作品の形には、優美さと趣味も排除されてはいない。」
「こうして私たち自身のところに帰ってきた。私たちの子供は、自分という個人を認めて、もう子供ではなくなろうとしている。いま彼は、これまで感じていたよりもずっと痛切に、彼を事物に結び付けている必然を感じている。(12歳から14歳まで)まず彼の体と感官を訓練したあとで、わたしたちは彼の精神と判断力を訓練した。」
なんてね。「精神と判断力」の訓練なんて、何も習っていないのに。それでも、判断力と精神があるようになったとされています。歴史も、言語も、何も習っていないのに、知性は訓練されているみたいです。
「そして彼の手足を用いることを彼の能力を用いることにむすびつけていた。」
これは教育の第二段階と第三段階の関係です。第二段階は体の教育でした。第三段階は精神と判断力だと言います。
「彼を行動し思考する存在につくりあげた。」
つまり、15歳になる前、行動していたかもしれないが何も思考していなかったという意味ですね。ルソーの理想教育です。
「人間として完成させるには、人を愛する感じやすい存在にすること、つまり感情によって理性を完成することだけが残されている。」
要するに、「14歳になる前に、理性などはなかったかのように、まともな感情がなかったかのように」ルソーがいわんばかりです。あり得ないでしょう。
「人間は知れば知るほど誤りをおかすことになるのだから、誤りを避けるただ一つの方法は何も知らないでいることだ。」
これは、最後の方にある引用です。
第三編の最後の部分には、ルソーが若きエミールを描写しています。
「エミールは純粋に物体的な自然についての知識しかもたない。彼は歴史という名詞さえ知らないし、形而上学とか倫理学とかいうものがどういうものがどういうものかも知らない。」
つまり、15歳にもなって、また道徳などは何も知らないということです。
「事物に対する人間の基本的な関係は知っているが、人間対人間の倫理的な関係については何も知らない。」
しいて言えば、エミールは「自然(状態)の人」だということです。
「観念を一般化することはほとんどできないし、抽象化することもほとんどできない。」
ルソーは明白に明かしますね。エミールはほとんど何も知らないって。つまり、エミールはまさに「幸せな馬鹿」です。
「ある種の物体に共通の性質はわかっているが、その性質自体について考えることはしない。」
ちょっと飛ばします。
「エミールはよく働き、節制を守り、忍耐心に富み、健気で、勇気にみちている。けっして燃え上がることのない彼の想像力は、危険を大きくして見せるようなことはない。」
ちょっと飛ばしていたところですが、ルソーはエミールに「一人で闇に行かせたりして」とかありますよ。なんかコツみたいな、完全に無知でありながら、無知ではないかのようにね。まあ。
「死ということについては、それはどういうことかまだよく知らない。」15歳なのに、滑稽ですな。
「しかし、(自然状態に生きているから)反抗せずに必然の掟をうけいれることになれているから、死ななければならないときには、うめき声をあげたり、悶えたりすることもなく、死んでいくだろう。」どうでしょう。
「それがすべての人に恐れられているこの瞬間において自然が許していることのすべてだ。自由に死、人間的なものにあまり執着しないこと、それが死ぬことを学ぶ一番いい方法だ。」
「一言でいえば、エミールは彼自身に関係のある徳はすべてもっている。」
自明でしょう。「彼自身に関係のある」と。いつもこういった個人主義です。
「社会的な徳ももつためには、そういう徳を必要としている関係を知ることだけが残されている。」
それでは、第四編になります。今日は第四編に深く入らないことにしています。なぜかというと、まず第四編は15歳から20歳までですから、成長上の非常に大事な時期です。ルソーは「青春時代」だといっています。で、ルソー論において、その15歳から20歳まで、「人生の物事を教える」ほかに、「心と感情を持つように」教えると言います。
第四編の最初あたり、次の描写があります。
「ところが、私のエミールを見るがいい。私が彼を導いてきた時期には、彼は感じたこともなければ、嘘をついたこともない。」
なんて素直な教育者でしょう。
「彼は、愛することはどういうことか知らないうちに、だれかに「わたしはあなたを本当に愛します」といったことはない。」
つまり、15歳になっても、感情などはまだないという。不思議でしょう。まあ、エミールは孤児だから、愛している親もない当然か。まあ、ルソーの教育を施すために、生徒を厳格に選ばないとできないのですね。
「父親の部屋、母親の部屋、あるいは病気で寝ている教師の部屋にはいるときにはこういうふうにしなさい、などと彼は言いつけられたことはない。感じてもいない悲しみをよそおう技巧を教えられていないからだ。」
感情はないということです。悲しみでさえ感じていないエミール。
「誰が死んでも、それ涙を流したことはない。死ぬとはどういうことか知らないからだ。」
エミールには感情が一切ないのです。なんて理想的な!
「心情が無関心なら、態度も同じように無関心だ。ほかの子供もすべてそうであるように、自分のことのほかには一切関心を持たない彼は、誰にも興味を感じない。」
つまり、ルソーの教育によって、頑固なる「わがまま」を作ったのです。ただ、ルソーに言わせると、その「エゴイストの者」は一応道徳的に振る舞うといっています。15歳ですよ。しかも、何も知識がありません。無知です。
それでも、エミールには15歳から「愛することを教える」ことになると。それでは、ルソー教育論の最後の段階ですが、愛の仕方を教えるということで、他人との関係の持ち方を教えることとされています。
しかしながら、第四編において、エミールは他人と触れ合うことは一度もないのです。第五編になっていよいよ少女ソフィーと出会うことになりますが、いきなり登場する者です。そして、そのソフィーには何の養成・教養・教育はないと。「女性のゆえに当然だ」とルソーがしています。「母になる最低限の知識でよい」としています。
そして、いきなり、ルソーはエミールとソフィーと結婚させます。理由は?ありません。決まったことですから、と。
第四編において、もう一つ指摘しましょう。エミールはいよいよ歴史を習うことになります。15歳になってから。しかしながら、歴史といっても限られた歴史ですよ。ちょっと引用を探してみます。配布していないかと思います。
「青年にとって一番悪い歴史家は判断を下している歴史家だ。」(中・64頁)
繰り返します。「青年にとって一番悪い歴史家は判断を下している歴史家だ。事実を!事実を!そして生徒自身に判断させるのだ。」
つまり、ルソーにとって良い歴史家は、事実だけを取り上げて、判断を下すことは一度もないということです。で、プルタルコスはいいとルソーが判断しますから、エミールはプルタルコスを読むことになります。
また、一応、個人の人生についての本を読んでも良いと。まあ、もちろん、聖人の人生ではないのですが、一般人の人生ならいいと。 ・・・続く
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第二編に移りましょう。文章は長いです。
ルソーに言わせれば、第二編は人生の第二段階についてです。二歳から十二歳まです。
第二編では、生徒の代わりに少年です。もう泣かない、もう叫ばない、喋り始めるとされています。ルソーにとって、二歳から十二歳までの教育は感覚の教育だけなのです。
禁止することなどは一切ないとします。それは非常に大事な点です。先ほどの引用をもう一度読み上げます。
「子どもは、ただ事物にだけ抵抗をみいだし、けっして人々の意志に抵抗をみいだすことがなければ、反抗的にも怒りやすくもならず、いっそう健康に身を保つことになる。」
ルソーに言わせれば、子どもの意志に抵抗すれば、教育者の抵抗にぶつかるから生徒が反逆者になるか(そして、ルソーはそれを避けたいといっていますが)、あるいは、教育者に確かに従うのですが、奴隷になってしまうということで、自由でなくなると言います。ルソーに言わせれば、子どもには命令をしてはいけないのです。子供の気まぐれだけが許されます。
子どもは成長に連れて少しずつ自分自身の力を認識するようになって、少しずつ他人に頼らなくなってもよいようになっていくとします。子どもは自分の力だけですべてをやるべきだと。
次の引用です。
「さらにもう一つの進歩が子どもにとって泣くことをそれほど必要にしなくなる。それは力がついてくることだ。自分ひとりで多くのことができるようになると、子どもはいままでのように他人のつけを求める必要がなくなる、力とともにそれを正しく用いることを可能にする知識も発達する。」
「第二の段階において、正確にいって個人の生活がはじまる。ここで人は自分自身を意識することになる。記憶があらゆる瞬間における自分の存在の同一性という感情を拡大する。彼は本当に一個の同一の人間となり、したがってすでに幸福あるいは不幸の感情を持つことができる。ですから、これからは彼を一個の精神的存在と考える必要がある。」
「自然が彼らに与えている短い時を奪い去って、後で悔やむようなことをしてはならない。子どもが生きる喜びを感じることができるようになったら、できるだけ人生を楽しませるがいい。いつ神に呼ばれても、人生を味わうこともなく死んでいくことにならないようにするがいい。」
ルソーの教育論では、「楽しませる」「充実させる」ことだけが教育の目的とします。
「人生を味わうこともなく死んでいくことにならないように」と。
人生の第二段階になって、生徒にルソーが初めて教えます。しかし習うすべてのことは生徒が自然において見出さなければならないとします。
時間の問題で、多くの引用を割愛せざるを得ませんが、すでに申し上げたように、生徒は自分の力で真理を見出すべきだと言っています。やらせっぱなしにすべきだと。
配布した引用の内、第二編の最後の二つの引用です。後ろから二つ目です。
「そうだ、自然はあらゆる種類の印象を受け取れるような柔軟性をこどもの頭脳にあたえているが、それは、陰気で不毛な少年時代を悩ましている、国王たちの名前や日付けや、紋章学、天球、地理などの術語、要するに子どもにとって何の意味もないことば、あらゆる年齢の人にとって何の役にもたたないことばを覚えこませるためではない。」
要するに、12歳まで、学問を一切教えてはならないとルソーは言うのです。一切です。歴史も地理も教えません。知的な学問は一切ダメだと言います。用語も読書もダメです。でも、読み書きは習わなければならないだろうといわれるかもしれません。ルソーはこう答えます。招待状が届いたら、その時、読み方を教えたらよいと。かなり理想主義ですね。
それから、道徳をも一切教えてはならないと言います。ルソーは生徒と家庭教師の間に会話を設けてみます。
家庭教師は「そういうことをしてはいけない」といってしまう場面です。つまり、道徳を教えようとします。
子ども、「なぜ、こういうことをしてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
子ども 「悪いこと。どういうことが悪いことなのですか。」
先生 「止められていることです。」
子ども 「止められていることをすると、どんな悪いことがあるのですか。」
先生 「あなたはいうことをきかなかったために罰を受ける。」
子ども 「ぼくは人にわからないようにそうします。」
先生 「誰かがあなたを見張っているでしょう。」
子ども 「ぼくはかくれているでしょう。」
先生 「あなたはたずねられるでしょう。」
子ども 「ぼくはうそをつきます。」
先生 「うそをついてはいけない。」
子ども 「なぜうそをついてはいけないのですか。」
先生 「それは悪いことだから。」
そして繰り返しになりますから、道徳を教えることはどうにもならないと言いたいのです。悪循環だと。ですから、道徳を教えてはいけないと。子どもは生まれながら自然に良いから、道徳はいらないと。
ルソーが言うとおりに子どもを教育していったら、どうなるか試したい人いますか?(笑)
次は、寓話についての話があります。
ルソーはラ・フォンテーヌの一つの寓話 を取り上げて、もてあそびます。
「烏と狐 « 烏先生、とまっていた、木の枝に、 » 先生、この言葉はそれ自体何を意味するんですか。固有名詞の前にある時はどういう意味になるんですか。烏とは何ですか。」
続いて、ルソーがコメントします。
「「とまっていた木の枝に」とは何か。わたしたちは「とまっていた木の枝に」とは言わない。「木の枝にとまっていた」と言う。だから、詩における倒置法と言わなければならない。散文とはどういうものか、詩とはどういうものか、ということを述べなければならない。」
それは子どもにとって難しすぎるといっています。
「 « チーズを一つ口にくわえて。 »
どんなチーズだったのか?スイスのチーズ、それともイギリスの?それともオランダの?子どもがまだ烏を見たことがなかったら、その話をしたところで何になるだろう。すでに見たことがあるなら、烏が口にチーズをくわえるというようなことを、どう考えるだろう。いつも自然のままの姿を描くことにしよう。」
ルソーはこのように寓話の一句一句について述べていきます。
「 « 狐先生、匂いにいざなわれ »
また、先生。しかしこれは狐にふさわしい呼びかけだ。狐はその道にかけてはすぐれた腕を持つりっぱな先生だから。狐とはどういうものかを話し、そのほんとうの性質と、寓話で与えられている性格とを区別しなければならない。
「いざなわれ」このことばは日常もちいられない。その意味を説明しなければならない。こんにちではこのことばは詩においてだけ用いられることを話さなければならない。子どもは、なぜ詩では散文とはちがった話しかたするのか、とたずねるだろう。あなた方は何と答えるつもりか。
「チーズの匂いにいざなわれ」云々」
寓話の一句一句、最後までルソーはやります。
「「嘘は申しません」では、ときどき嘘をついているのか。狐は嘘をついているからこそ「嘘は申しません」と言っているのだ、と教えたとしたら、子どもはどういうことになるだろう。」
つまり、ルソーが「嘘をつくのを子供に教えることになるぞ」と言わんばかりです。「嘘は申しません」と言われたら、嘘のことを教えざるをえないと言いますね。
また、
「フェニックスとは何か。ここでわたしたちはとつぜんでたらめな古代世界に投げ込まれる。神話の世界に、と言ってもいい。」
このようにのびのびとルソーがすべてを馬鹿にしています。
結論、寓話を教えてはならないと。寓話は無用だと。
結局、ルソーの教育様式は子どもを生意気なもの、気まぐれ者にするということです。
「それではどういうことになるか。第一に、あなたがたは、子どもにわかりもしない義務を押し付けることによって、あなたがたの圧政に対して不愉快な思いをさせ、あなたがたを愛さなくなるようにしているのだ。褒美をせしめるために、あるいは罰を免れるために、ごまかしたり、嘘をついたりすることを教えることになるのだ。」
以上の引用において、ルソーは固く道徳を教えてはならないと断言します。もう一つの引用があり、そのあとに出てきますが、そこでルソーはこう言っています。子どもには義務を教えてはならないが、権利を教えるべきだと。もう明らかです。子どもには義務・禁止などといったものはいらないということです。
以上の引用の続きです。
「法律というものは、良心にとっては義務的なものだが、大人に対してやはり拘束を加えている、とあなたがたは言うかもしれない。そのとおりだ。しかし、そういう大人は教育によって損なわれた子どもにほかならないのではないか。それこそまさに防止しなければならないことだ。子どもに対しては力を、大人に対しては道理を用いるがいい。それが自然の秩序だ。賢者は法律を必要としない。」
次の引用は先ほど申し上げた話です。
「わたしたちの第一の義務は私たちに対する義務だ。私たちの原始的な感情は私たち自身に集中する。私たちの自然の動きはすべて、まず自己保存と自分の快適な生活に結び付く。そこで最初の正義感は、私たちがなすべき正義からではなく、私たちに対してなされるべき正義から生まれる。ですから、子どもにまず彼らの義務について語り、彼らの権利について語らず、必要なこととは正反対のこと、子どもが理解できないこと、そして彼らが関心をもつことができないことを最初に話すというのも、一般に行われている教育の矛盾の一つだ。」
御覧の通りに明らかに書かれています。いわゆる、現代、出てくる「児童の権利」はルソーの教育論の結果にすぎません。ルソーは子どもに所有権という感覚を教えるために、子どもに小さい庭を栽培することを勧めます。
第二編の残りを飛ばしまして、その最後だけを取り上げましょう。第二編の結果、エミールはどうなっているかをルソーが描写してくれるので、参考になります。
要約すると、二歳から十二歳まで、エミールは何も習っていないということです。自然をみたりして、自然を見出そうとしたのですが、学問も習いことも何もしていないままです。
「彼の姿、様子、身のこなしは、自信と満足感を示している。彼の顔は健康に輝いている。しっかりした足取りは力強い感じを感じさせる。なま白くはないがまだ繊細な顔色には柔弱な女々しい面影は全然みられない(それはどうやってあり得るかはルソーはいっていませんが)。すでに、大気と太陽はそこに男子の尊敬すべきしるしを与えている。まだ丸味のある筋肉はつくられつつある容貌のいくつかの線を示し始めている。まだ感情の火を燃え立たたせていない両眼は、」
これは面白いです。子どもを自然のままにしているのは、子どもには感情が湧かないようにするためだとルソーが明らかに言っています。なんて現実から離れた理想主義でしょう。
「少なくとも生まれながらの清朗さをそのままにたもち、長い悲しみに暗くされたこともなく、涙がとめどなく頬をつたって流れたことはない。」
つまり、二歳から、いつも自然のままに教育されたから、泣いたことがなかったと言います。
「その年齢の活発さを、何ものにもとらわれない健気さを、多くの訓練によって獲得された経験を見るがいい。彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」なんてね。きれいな言葉ではないのでしょうか。
「彼はうちとけた、自由な態度をしめしている」。さすがに。どうせ、エミールは何一つ知らないし、わかっていないままですから、打ち解けてもいいかもしれません。
「しかし傲慢でも生意気でもない態度を示している。書物のうちにかがみこんでいるようなことをさせられたことのない顔は下ばかりむいてはいない。彼には「顔を上げなさい」という必要はない。恥らいや恐れを感じて面を伏せるようなことは全然なかったのだ。」
「みなさん、この子をためしてごらんなさい。安心して何かきいてごらんなさい。この子は、人をうるさがらせたり、おしゃべりをしたり、ぶしつけなことをきいたりする恐れはありません。」
以上はエミールの描写でした。ルソーはまだ続けます。
「彼は、子どもとしての成熟期に達している。彼は子どもとしての生活を生きてきた。彼は、その完成を自分の幸福を犠牲にして手に入れたのではない。そうではなく、二つのものはたがいに協力し合っていたのだ。」
「すくなくとも彼はその子どもの時代を楽しんだのだ。わたしたちは自然が彼に与えたものを何一つ失わせたようなことはしなかったのだ、と。」
そこで、こう言ったような教育は一般に「消極的な教育」だといわれています。これはなぜでしょうか。子どもに何も教えてあげないから消極的だと言われています。その教育では、子どもが悪くならないようにするにとどまるのです。これだけですね。ルソーは以上のように教育を見ています。
ルソーの教育論では、子どもには善徳・美徳を教えることも、真理を教えることもまずありません。つまり、何ものを与えず、何も糧をあげず、子供を空っぽのままにしておく教育です。いわゆる、すくなくとも「悪」をもあたえないので、何も教えないことによって、悪をも教えないで済むというルソーの考え方です。
『エミール』の中心はこれです。子どもには誤謬をも自尊心をももたらさないことにとどまる教育が理想だとします。そうすると、子どもは傲慢に生意気にならないと。まさに子どもは空っぽにするのが彼の教育論の理想です。
中身がないままです。それは考えてみると矛盾というか、少なくとも逆説です。子どもには誤謬というか、悪徳をもたらさないために、真理も善徳も教えないという変わったロジックですから。つまり、ルソーに言わせれば、暗に誤謬と悪徳は「真理と善徳から生まれる」と言わんばかりですから。こういったことを暗に前提にしているのです。ですから、「空っぽな子どもにしておこう」という結果になってしまいます。
周知のとおり、皆様は経験しているかと思いますが、12歳の子供がいれば、もしかしたら善良さが多少あるかもしれないが、悪徳も確実にあるに決まっています。その意味で、ルソーは本当に信じられない夢想の内に生きているかのようです。つまり、12歳まで悪徳に触れないことがあり得るという空想を抱いているのです。ルソーはこのようなことを信じているので「寓話を教えてはいけない」と結論付けるのです。寓話を教えると、悪徳を教えるからというロジック。
「エミールは嘘をついたことはないから、生意気な態度を示したことはいちどもない」などと、あり得ないことを平気で言っているわけです。家庭教師と二人きりの設定ですから、まあそういった夢の中にあり得るかもしれませんが。家庭教師に対して、一度も生意気になったことはないなんて。ルソーのロジックでは、どうせ家庭教師はエミールに一度も求めたことはないから、生意気になる機会もなかったというロジックです。いい子ですね。
第三編に移りたいと思っております。幼児期から青年期にかけて。12歳から14歳までです。いよいよ、「積極的な教育」という段階に入ることになります。
子どもとしての人生をたっぷり楽しめて、何も知らないままの子供として楽しめた状態です。そのときまで、走ったり、泳いだりして、要は体を動かすようなものばっかりで、知性に頼ることを一つもしなかった状態です。つまり、子どもは「完全にうれしい状態」だと言います。現実の子供を知る人々は笑うかもしれませんが、12歳の子供はルソーにとって一度も質問をしたことはない、何も知りたくなったこともないとしています。ルソーにとって、それは普通みたいです。
12歳から14歳まで、突然、子どもの知性を埋めることになります。
そういった状態で、ルソーは第三編の最初から、次のように言っています。ちなみに、ルソーにとって、12歳から14歳までは、まだ青年期になっていないようです。子どもの時代の終わりだと言います。もしかしたら、14歳のルソーはこのようにまだかなり未成熟のままだったかはわかりませんが。でも、どうみても、こういった年齢だと、青年期に入っているというのは間違いないことです。
「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。」
この文章は非常に大事です。つまり、存在することを習うのではなく、有用なものだけを習うがいいと。最初からルソーはそう書いています。第三編の文頭の部分です。
それは何を意味するでしょうか。つまり「純理的」あるいは「思索的」な学問を絶対に教えてはならないということです。
実用的な学問だけでよい、理論的な授業、あるいは教科書的な授業、いわゆるえらい教師からの一方的な「講義」はけしからんと。いや、そうではなく、経験を通じてだけ習うのがよいと。しいて言えば、経験主義だけが教育方法としてよいと。このように教育の理想を見ています。しかしながら、ルソーはなぜそう言っているでしょうか。
彼の思考様式でいうと、講義など、単純に真理を教える教育をするとき、子どもに真理を押し付けると見ているからです。彼にとってそれは自由に反することだからです。従って、そうならないように子どもは経験を通じて、経験を積むことによってだけ、自分の力で真理を発見するがいいと。その教育方式では、教師は子どもを導くにとどまります。これがルソーにとっての教育者の理想像です。
「存在するものではなく、有用なものだけを知ることが必要だ。この少数のもののなかから、ここではさらに、それを理解するには、もうすっかりできあがった悟性を必要とする真理を除かなければならない。(…)無知はけっして悪を生み出さなかった」と言います。さすがに。
「誤謬だけが有害であること」つまり、ルソーにとっては、無知はけっして悪ではないから善だ、という思考様式です。
「無知はけっして悪を生み出さなかったこと、誤謬だけが有害であることを忘れずに、絶えず心に留めておくがいい。(…)まず、具体的な物質から教えるがいい。これこそは子どもの注意を自然に引くものだからである。 」
そういえば、具体的なこと、あるいは物質なことを勉強するために、12歳になるのを待つなんて、考えてみるとなかなかふざけていることですが。
「精神の最初のはたらきにおいては、感覚が常に精神の案内者となるようにしなければならない。」
ここでは、まさに、経験主義を定義するかのようです。
「世界のほかにはどんな書物も、事実のほかにはどんな授業もあたえてはならない。」
ちなみに、ルソーの場合、子どものとき、読んでばかりいましたが。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」
なんか、読者に対して意外と意地悪いですね。不思議なことに、ルソー自身は子どものとき、多くの本を読んでいたのに。しかも、読書して気に入っていたようだし、自分の父は積極的に本をルソーに勧めていたし。それなの、でも、ここでは「本はダメだ」と言っています。
「読む子供は考えない。読むだけだ。彼は知識を身につけないで、言葉を学ぶ。」
要するに、本はダメだということで、唯一に許される「本」は「周りの世界のみ」だといっています。つまり大自然です。ですから次にどうすればよいかというと、ルソーは、「あなたがたの生徒の注意を自然現象に向けさせるがいい。やがて彼は好奇心をもつようになるだろう。しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」
要するに、生徒の好奇心を刺激すべきだと言います。そして、そうするには、どうすればよいかというと、生徒に質問を聞くことによって好奇心を刺激すると。
先ほど読み上げたとおり「しかし、好奇心をはぐくむには、決して急いでそれをたしてやってはいけない。」と。
したがって、生徒には好奇心が湧かせるのがいいことだとされていますが、それに対して、教育者はその好奇心に応じないということになっています。つまり、教育者は生徒の好奇心を満たすためにいるのではないと言うのです。
次の段落も大事です。
「彼の能力にふさわしいいろいろな問題を出して、それを自分で解かせるがいい。」
子どもは自分の力で真理を見出すという発想ですね。要するに、ルソーの教育論では「教える」ことはありません。「教育する」ことはそもそもありません。ルソー論において、エミール自身が自分の主です。その「教育者」はあくまでも「案内者」というか、導く者にすぎないで、「教師」でも、「先生」でも、「師匠」でもありません。子どもは自分の力で真理を習うということになっています。そこで、教育者は「案内」するだけです。
「何ごとも、あなたが教えたからではなく、自分で理解したからこそ知っている、というふうにしなければならない。」
明白に書いていますね。
つまり、普遍的な真理ではなく、子ども版の、子どもの主体だけの「真理」であるべきだと言います。
「彼は学問を学び取るのではなく、それを作り出さなければならない。」
ここの「作り出す」という言葉は「発明する」という意味です。
「彼の頭の中に理性の代わりに権威を置くようなことをすれば、彼はもはや理性を働かせなくなるだろう。もはやほかの人々に翻弄されるだけだろう。」
ルソー論における「教育者」には権威がありません。そもそも何も「押し付けてはいけない」と言います。子どもは自分で見い出す、と。ルソー論において、まさに「子どもは王様」主義です。
続いて、
「それにもかかわらず、たしかに、すこし彼を指導してやる必要があるだろう。しかし、ごくすこし、それとわからない程度にだ。彼がまちがったことをしても、そのままにしておき、誤りを訂正してやるようなことはせず、何にも言わずに、自分で誤りがわかり、それを自分で訂正するまで待っていることだ。」
考えてみると、ひどいことです。最近の「エキュメニズム」というのは、この教育論の遠い応用ですが、同類のことです。要するに、「相手は誤っているのだ。しかしそれには構わないで、待つだけでよい。彼が自分で気づけることを待てばよい。真理を示してはいけない」という感じです。
「あるいは、せいぜい、適当な機会に、何らかの手段を用いて誤りを気付かせるがいい。」
要するに、ルソー論だと、絶対に真理を示し説得してはいけない、相手の知性を納得させようともしてはいけないということです。
「決して誤りを犯すことがなければ、それほどよく学ぶことにはならないだろう。」また、
「彼の方から質問してきたら、好奇心を十分に満たしてやるのではなく、それを(好奇心を)はぐくむのに必要な程度の返事をしたらいい。」
いつも同じ思考様式です。繰り返しますが「子どもは自分の主だ」がルソー論の中心にあります。
・・・続く
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話 をご紹介します。
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また、ルソーは特に生徒の自律について強調しています。
「自然人は自分がすべてである。彼は単位となる数であり、絶対的な整数である」
ですから、御覧の通り、人間は社会の一部ではないということです。人は自律した全体であり、絶対的な単位だと。絶対的ですよ。
「自分に対して、あるいは自分と同等のものに対して(他人を一応認めますね)関係を持つだけである。」
「社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。この価値は社会という全体との関係において決まる。」
ですから、ルソーにとって、社会に入ると人間は自分の本性が否定されると言います。なぜかというと、全体として自分がなくなるから、社会は反自然(本性に反する)からだと。
「立派な社会制度とは、人間をこの上なく不自然なものにして、」 明記していますね。「絶対的存在を奪いさって、相対的な存在をあたえ、」ルソーにとってこれこそは人を腐敗させます。
「「自我」を共通の統一体の中に移すような制度である。そこでは、個人の一人一人は自分を一個の人間とは考えず、その統一体の一部分だと考え、何ごとも全体においてしか考えない。」
要するに、社会は人間を反自然な存在にし、「自分において自分自身であるという絶対的な存在かつ全体」としての性格を奪うので、社会は人々を堕落させると。これは、ある種の実存主義の始まりだとみてもよいでしょう。以上は人間の自律についての部分でもあります。
次の引用の最後の部分に移します。
「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」 繰り返します。「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」「生きることは、それは呼吸することではない。活動することだ。私たちの器官、感官、能力を、私たちに存在感を与える体のあらゆる部分を用いることだ。」
ルソー論だと、いつも「自分」が中心です。
「もっとも長生きした人とは、最も多くの歳月を生きた人ではなく、最も良く人生を体験した人だ。」
体験とかは、まさに、「自分中心」主義ですね。純粋な個人主義だといえます。現代風にいうと、「生きるとは、充実していることだ」といったような感じですね。「彼は好きなことをやったらそれでよい」といった発想です。「多くの体験をして、やりたいことをする人生を送るのが良いことだ、それが生きていることなのだ」といった感じです。
「百歳の葬られる人が、生まれてすぐ死んだのと同じようこともある。そんな人は、若いうちに墓場に行った方がましだったのだ。せめてその時まで生きることができたならばのはなしだが。」
ルソーの教育論の目的です。「生きること、それが私の生徒に教えたいと思っている職業だ。」
要するに、人間の目的は「自分自身」であり、「自分自身」に従っての人間だと言います。
続いて、ルソーはいくつかの「偏見」を非難します。
「私たちの知恵と称するものはすべて卑屈な偏見にすぎない。私たちの習慣というものはすべて屈従と拘束にすぎない。社会人は奴隷状態の内に生まれ、生き、死んでいく。」
また出てきましたね。以前にもみたとおり、ルソー主義の中心となる概念がまた出てきます。「自由」です。自分のために人間が生きなければならないのは「完全に自由になる」ためです。自分が自分自身の主である、これがルソーの目的であり、自律するのは絶対的な目的だとするのがルソーのスタンスです。従って、ここに、実存主義の始まりが潜んでいます。というのも、近代的な実存主義でいうと、つまり、サルトルから流行ってきた実存主義だと、「人は自分自身を自分の力で形成していく」とされています。
「自分自身はなんであるかを自分自身で決める」が実存主義だからです。つまり人は実存するのだから、活動していることによって存在理由を持つ、やりたいことをやって存在理由を持つと説明します。シモーヌ・ド・ボヴォワール(Simone de Beauvoir)は「生まれながら女性ではなく、女性になる」といった有名な発言は象徴的です。現代においてまさにそういった空気ですね。
それはともかく、これは何を意味しているでしょうか。「個人が全体であるから、自分自身の望み通り、やりたい放題で自分自身を形成する力がある」ということの断言です。ですから、「自分自身の形成」あるいは、現代風にいうと「自己実現」の裏に、自由という前提があります。限りのない自由がなければ「自分自身やりたい放題に実現できない」からです。
自由というのはやはりルソーの思想の根本的な中心なる理想です。ルソーは続いて、奴隷について次のように語ります。
「生まれると産衣にくるまれる。」生まれたばかりなのに、もう奴隷になると言います。
「死ぬと棺桶にいれられる。」まあ、これも奴隷の一種かなあ。今、死んだルソーはそれについてどう感じているかは知りたいぐらいですね。
「人間の形をしている間は、社会制度に縛られている。」
それから、かなり時間がかかりましたが、いよいよ出てきますよ。文章はのびのびしていますが。次の引用になる前に、母の役割についてちょっと触れます。母の役割に関しては、常識的なことを口では言います。また、父の役割についてもちょっと触れます。ルソーが「子供には父と母が必要だ」といっているから、それだけは常識的だと認めざるを得ません。
しかしながら、ルソーの文章の流れにおいて以上の意見は逆説です。ルソーの文章にはいったん、直感的に常識的なことを言っていることはもちろんあります。しかしながら、次に、同時に逆なことを遺憾なく述べていきます。「母と父が子供に必要だ」といっているのに、次はその教育論において母と父は完全に否定されていて、取り消されています。というのも、エミールを教育するのは家庭教師しかいないのですから。父と母の存在はどこにもありません。さすがにルソーです。優しい夢想家のルソーです。
「そこでわたしは、一人に架空の生徒を自分に与え」ここではルソー自身が言っていますね。「わたしは」です。
「そこでわたしは、一人に架空の生徒を自分に与え、その教育にたずさわるにふさわしい年齢、健康状態、知識、そしてあらゆる才能を自分がもっているものと仮定し、その生徒を、生まれた時から、一人前の人間になって自分自身のほかに指導する者を必要としなくなるまで導いていくことにした。」
面白いでしょう。社会は一切子供を導くことはない、法は一切子供を導くことはないと。象徴的でしょう。
「この方法は自分の力を危ぶんでいる著者が幻想に迷いこむのをふせぐのに有効だと思われる。ふつうの方法から離れることになったら、生徒に自分の方法を試してみればいいことになるので、子供の進歩と人間の心の自然の歩みに従っているかどうか、彼にはすぐにわかってくる、あるいは、彼のかわりに読者にわかってくることになるからだ。」
要するに、ここで、架空の生徒を作ります。「エミール」と名付けます。また家庭教師を与えます。家庭教師から見ましょう。次の引用です。
「ただ注意しておきたいのは、一般の意見に反して、子どもの教師は若くなければならない」
教育者として「さすが」な意見でしょう。
「賢明な人であれば、できるだけ若い方がいい、ということだ。できれば教師自身が子どもであれば」
御覧の通り、現実を知らない小説にすぎませんね。
「生徒の友だちになって一緒に遊びながら信頼を売ることができれば、と思う。子どもと成熟した人間とのあいだにはあまり共通なものがないし、そんなに年齢の差があっては十分にかたい結びつきは決してできあがらない。子どもはときに老人に媚びることもあるが、決して老人を愛することはない。」
また次に出てきます。
「それに、この学問の先生は教師ではなく、むしろ師傅(しふ)と呼びたい。教えることよりも導くことが問題だからだ。彼は教訓を与えるべきではなく、それを見出させるべきだ。」【師傅(しふ)とは、貴人の子弟を養育し教え導く役の人、もりやくのこと】
先ほど申し上げましたね。教えるのではなく、導くだけだと。真理を教えるのではなく、子どもが自分なりの真理を見出せるということです。
「彼は教訓を与えるべきではなく、それを見出させるべきだ。」
どちらかというと、子ども自身が自分の教育をするようにすべきだとルソーは言っています。それは、矛盾しています。また最後にご紹介しますが、矛盾があります。
教師は子供に「自由であることを思いこませておく」ことによって、子どもを自分の奴隷にしているという矛盾です。教師は導くから、子どもが自分の力で「真理」を見出しているように教師は子供に思いこませるのです。「自由だ」といっても、教師は導くままですから、教師は実際は子供の支配者です。
まさに、現代の民主主義と同じです。「民主主義で権利がある」と思い込ませつつ、結局、現実にぶつかってみると権利など私たちにはありませんね。
「子どもにつけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ。」
ですから、このように教育するため、立派な「師傅」が必要だと言います。
それから、生徒ですね。これらの引用は配布資料に乗っていませんが、なかなか才能のある生徒をルソーは作っておきます。さすがにね。教育を成功させるために、その子供は、そもそも優秀ではないと。ひどいなあ。
いわく「貧乏人は教育する必要はない。」「金持ちを生徒に選ぶことにしよう。わたしたちは少なくとも一人の人間を増やすことになるのは確実だ。一方、貧乏人は自分の力で人間になることができる。」
エミールは金持ちでなければなりません。
「同様の理由によって、エミールが名門の生まれであっても私は困らない。」
貴族出身の方が悪くないと。「とにかく一人の犠牲者が偏見から救われることになる。」
「エミールはみなし子である。」先ほどは父と母があった方が良いといっていたが、理想のエミールはみなし子です。
「父と母があっても同じことだ。父母の義務を引き受ける私は父母の権利のすべてを受け継ぐのだ。」さすがです。
「エミールは両親を敬わなければならないが、わたしにだけ服従しなければならない。」ルソー曰くですよ。
「それが私の第一の、というより、ただ一つの条件である。」
「この条件に、その当然の結果として、私たちの同意がなければ、私たちは互いに離れることはないという条件をつけくわえなければならない。」
ルソーは師傅と生徒の間の絆は非常に強いということを前提にしています。
次に、ルソーの教育論では「強壮で健康な生徒でなければならない」という条件を出します。ですから、空疎な小説にすぎませんね。現実では、ルソーが出している状況にかなう子どもはどれほどいるかちょっと疑問です。以上が「エミール」で、これで、小説の設定ができました。
それから、第一編の残りは、生まれてから二歳までの子供について語ります。本質的に何も面白いことはないのですが、のびのびと多くの詳細に入っています。ルソーは、次のようなことを言います。幼児を苦しませなければならないとか、病気にさせなければならないとか、また産衣で拘束しないようにして、それで自由を覚えさせるべきだとか。中心は自由です。第一編の最後を引用します。
「自然の習性をたもたせることによって」自然のままにほったらかせばよいということです。
「いつでも自分で自分を支配するように、ひとたび意志を持つに至ったなら、何ごとも自分の意志でするようにしてやることによって、早くから自由の時代と力の使用を準備させるのだ。」
ルソーは「気まぐれ」ではなく「意志」とあえて書いてありますが。ルソーにとって、意志とは実際に何かを実現できることであることに対して、気まぐれとは実現する力がないとしています。それは勝手な定義で成り立たないのですが。
「子どもは、ただ事物にだけ抵抗をみいだし、けっして人々の意志に抵抗をみいだすことがなければ、反抗的にも怒りやすくもならず、いっそう健康に身を保つことになる。」
要するに、教育者として、子どもの意志に一切抵抗してはならないということです。一言でいうと、かなり悪い子になるようにと言うのです。しかも社会で生きていない生徒ですから、躾はもちろんゼロです。
これで、第一編を閉めます。
・・・続く
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話 をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
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ルソーに関する講話を続けましょう。
今晩は、ちょっと特別な著作に関することをご紹介したいと思います。『エミール』です。これを中心にお話しします。この本の副題は「教育について」です。比較的に長い著作ですから、手元にお配りした資料に、今回、多く引用を載せました。もっと多くの引用をご紹介したかったのですが時間の問題で絞りました。
『エミール』は長い分、それだけ面白い点も多くあります。ご紹介に当たって、お配りした資料を読みながら、『エミール』におけるルソーの思想をよく把握するために一番役立つ点を取り上げます。
1756年、ド・シュノンソ(de Chenonceaux)婦人より、ルソーは教育に関する質問を受けていました。その依頼に応じるために、ルソーは『エミール』を書きました。
数年後、それを出版します。ルソーは次のようにこの著作を紹介します。自分で書いた面白い紹介文です。
「これから、教育論みたいな本を出版することになり、その中で私がいつも夢見ている空想を盛り込んだ。」(Jacob Vernetへの書簡、1760年11月29日)これは、ルソーによる『エミール』についてのまさに完璧な要約です。「いつも夢見ている空想を盛り込んだ」と。
教育論の依頼は1756年でしたが、『エミール 教育について』の出版は1762年5月でした。出版されてすぐ、話題となり、論争の対象となります。その著作はかなり批判されました。政府は書籍の在庫を没収し、ソルボンヌ大学は1762年6月、『エミール』を正式に否認しました。
1762年5月に出版され、同年6月7日ソルボンヌ大学からの否認に続いて、二日後、パリ高等法院(国王の権威を代理する裁判所)も『エミール』を否認する、と発表します。なかなかの大騒ぎであるのも想像に難くありません。
そこでルソーは逃げざるを得なくなります。ヌフシャテル(Neufchatel)へ避難することになりました。しかしながら、世間では『エミール』による余波は4年間ほど、1766年まで続きました。
さて1766年、ルソーが英国へ移住すると、一旦『エミール』に関する世間の動揺は落ち着きます。そういえば、ヴォルテールは全力を尽くしてルソーを非難し、ルソーへの害を図りました。というのも、ヴォルテールは、自分の広い人脈を活かして、諸国のあちこちの裁判所でルソーを告訴させるように、厳しい判決が下るように全力を尽くしたからです。ヴォルテールにはルソーによる「教育論」が気に入らなかったようです。
ある意味では信じられないことかもしれませんが、それほど世間は動揺しており、正面から非難されたにもかかわらず、『エミール』は後世においてかなりの影響を及ぼすようになりました。その意味で、ルソーが夢見て訴えている教育論からの支配を、現代でも私たちはかなり受けているといわざるを得ません。
また、『エミール』は単なる教育論にとどまらず、ルソーの全思想を総括するような著作でもあります。その意味で、面白いことに『エミール』を検討することによって、前にすでにご紹介したいくつかの要素・特徴が再確認されます。
ルソーの思想の諸原理が『エミール』において、もう一度、主張されていることは明らかです。さらに言うと、『エミール』においては、ルソーの思想が教育について適用されているので、ほかの著作よりもその分、より具体的に紹介されて分かりやすいかもしれません。
『エミール』はまた、『社会契約論』の続きでもあります。というのも、『社会契約論』において、ルソーは社会を対象に検討し、全人類に関することについて論及するのに対し、『エミール』では、教育論として、個人を中心に検討して論及していきます。
つまり、『社会契約論』と同じ人間観をもって個人の教育が論じられ、『社会契約論』において紹介されている社会の中で、個人がいずれか生活せざるを得ないという観点からも書かれています。
ある面、逆説的に見えます。ルソーは社会を否定していますが、『エミール』においては、教育論の目的として、社会とは非常な悪であるが、それでも個人が社交生活し、社会において何とか生きていけるように助けるべきであるとします。
しかし、問題はそこから出てきます。社会において生きる必要があるという前提に立つならば生徒を社会において教育すべきなのに、ルソーはその社会を否定して、社会の外での教育を提案し、これを「自然な教育」と呼ぶからです。ただし、「自然な教育」なのに、その教育の目的の一つは一応社交のできる大人になるように、社会において何とか活きられるようにとの教育論でもあります。
長い著作なので、多くの意見が出たりしまして、時々自ら矛盾している論及も少なくありません。Jean de Viguerie著の『教育論者』という立派な著作において、ルソーに関する章があります。ぜひとも、それを読んでいただけたらと思っております。というのも、10枚数だけで、今晩の一時間ぐらいの講話のすべてを要約してあります。
では、ルソーの教育論の問題点を取り上げましょう。まず、ルソー自身はまともな教育を受けていません。自分の母をほとんど知らなかったのです。母は家を出て、ルソーを見捨てましたから。また、ルソーには何人の子供が生まれましたが、生まれてすぐの自分の子を見捨てて教育しなかったのです。
また、一応、ルヴァサー(Levasseur)という女性と結婚していましたが、ルソーは、人生において付き合った女性たちと一緒に、本物の家庭や夫婦的な愛を経験したことはありませんでした。ルソーは付き合っていても、あまり真面目になれず、軽い恋愛の連続ばかりです。つまり、教育について説明するには、ルソーの立場は非常に悪いわけです。
次にJean de Viguerie氏を引用します。
「これは、教育論の中でも一番驚くべき本でしょう。著者は子供を育てた経験もありません。ルヴァサー(Levasseur)との間に5人の子供が生まれましたが、全員を保護所へ預ける形で見捨てました。非常勤という形での家庭教師の少ない経験を除けば、教師の経験は全くありません。ルソー自身、家庭教師の仕事が提案されたときに拒否したと自分自身が認めて次のように明かしています。「私には家庭教師の職に向いていない」と。」
『エミール』は文章としてはよくできています。書きぶりはやはり上手で、ルソーの筆は達者です。抒情的な文章だといっても過言ではありません。
『エミール』は小説であることを忘れてはいけません。教育に関する小説です。つまり、ルソーは夢の中でだけ経験した理想的な教育を描いている小説なのです。ルソーは現実に経験したことがない夢を教えようとしています。あえて言えば、『エミール』はルソーのダメな悲しい人生を埋め合わせるための空想論だといえましょう。このような思考様式で『エミール』を書くのです。
それから、著作の構造を見ましょう。五編からなっています。ルソーに言わせれば、編は人生の一般の五段階の一つ一つの段階により構成されています。つまり、ルソーは人生を五つの時期に分けます。生まれてから結婚までに人生を五つの時期に分けます。
小説の最後、エミールは結婚して父となって社会において生活しており、そこまでです。五編です。一遍ずつご紹介できればと思っておりますが、主に第一編から第三編までを中心にご紹介します。
教育論でいうと、一番大事なのは最初の二編です。そこに、ルソー思想のすべての諸原理が収まっているからです。第四編は宗教論を中心に語るのですが、次回にそれを中心に紹介する予定です。ルソーの宗教論に関する『サヴォアの主任司祭の信仰宣言』という大事な文書は、第四編にあるからです。
最後に、第五編についてほんの少しだけ触れることになりますが、ルソーの教育論においていよいよ一人の女性、唯一の女性が登場する場面です。エミールの結婚のために登場せざるを得ないのですが、ルソーは女性の教育に関してそもそも興味がありません。第五編は小説であって、次に書く『新エロイーズ』へとつながる結びだといってもよいでしょう。
要するに、五編からなっています。登場人物は厳密にいうと二人ですが、結局、三人です。これは面白い現象です。主人公はフィクション上のエミールという子供です。それから、エミールの家庭教師という人物も登場します。ですから、『エミール』は二人だけの登場人物の演劇なのです。
しかしながら、もう一人の登場人物も出てきます。それはルソー自身です。というのも、頻繁に家庭教師の代わりに、ルソー自身が宣言したりします。「家庭教師は」と言わないで、よく「私は」と書くのですから。要するに、登場人物は二人いて、見方によって三人がいます。
小説の目的は幼いエミールを育てることにあります。そして、エミールを大人にすることが目的です。ルソーに言わせれば、「大人にする」のはどういう意味なのかというと、「よく生きる」ようにするということです。これが、小説の目的です。
ルソー曰く「生きるとは職業だ。」 また「(生きるとは)体の器官や感覚やすべての能力を作用することだ 。生きることは感じること 。」また「生きることだけを望む人は幸いになる。」と。
エミールという子供は家庭教師の完全な支配の下に置かれていて、家庭教師はいつも彼のそばにいます。家庭教師はエミールが自由であることをエミールに思い込ませながら、実際にはエミールは自由ではないというのが小説の中心テーマです。
それでは、第一編に入りましょう。幼児期前期についてです。お配りした引用は編ごとに纏まってあります。多すぎてすべてを読めないのですが、ご参考のまで、編ごとに、『エミール』の流れに沿って引用を纏めました。
『エミール』の第一編の最初の文書から引用します。
「万物を創る者の手をはなれるときすべては良いものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。」
『社会契約論』を思い出してみると、この二行でもうルソーの思想のすべてですね。この二行に『社会契約論』が要約されています。万物を創る者は良く万物を創り、自然は良いが、「人間の手にうつるとすべてが悪くなる」ということで、人間は自然を堕落させるということを言います。
前回に見たように、ルソーの第一の前提は「人間の本性は善である」です。従って、これの単なる帰結ですが、教育論では、「子供も生まれながら自然に善良な者」という前提を置きます。そして、これの対称となるもう一つの前提は「社会は堕落をもたらす」です。つまり、社会において生きている人間は社会によって堕落させられているということを前提にしているのです。
この二つの前提を見るだけで矛盾があります。もしも本当に人間が生まれながら自然に良ければ、つまり、人間本性が絶対に善だったら、一体どうやって社会は人間を堕落させうるのでしょうか、それは不明のままです。
というのも、社会は人間より前に存在しないのなら、また人々の集まりによって構成されていないのなら(それはもちろんあり得ない仮説ですが)、そもそも良い人々を堕落させることはあり得ないはずです。
なぜかというと、社会はそもそも人々の結合ですから。そもそも良い人々ばかり集まったら、一体なぜ良い人々のままにいられなくなるでしょうか?あるいは、一体なぜ本当に良い人々は集まるだけで必ず悪くなれるでしょうか。どう見ても、結局、逆説的な前提です。
共同生活しているせいで、人々は悪くなるとは?ルソーはそのあたりについて明らかにしていないのです。社会から生じる悪はどこに由来するのでしょうか?『社会契約論』においては「所有権」に由来していると言っていました。根拠はそれだけです。ルソーはほかに理屈を見つけていません。結局、人間はそもそも良い存在なのに、悪い存在になっているという矛盾があります。
「人間の手にうつるとすべてが悪くなる。人間はある土地にほかの土地の産物を作らせたり、ある木に他の木の実をならせたりする。風土、環境、季節をごちゃまぜにする。犬、馬、奴隷をかたわにする。すべてのものをひっくりかえし、すべての物の形を変える。人間はみにくいもの、怪物を好む。何一つ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、すきなようにねじまげなければならない。」
人間はそもそも良いものでありながら、社会は人間を堕落させているという前提に立つルソーは、人間を教育するために、大人にするためにどうすべきかというと次のようにいいます。すなわち、社会から子供を離れて彼を一人にして、社会抜きに教育すべきだという対策を打ち出します。そうしながらも、いずれか社交がでてくるから、子が社交できるようにすべきだと。
「こんにちのような状態にあっては、生まれた時からほかの人々の中にほうり出されている人間は、誰よりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、私たちを押さえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、何ももたらさないことになるだろう。」
このようにして、ルソーは、社会において子供を教育すると子供は堕落するとします。
「自然はたまたま道のまんなかに生えた小さな木のように、通行人に踏みつけられ、あらゆる方向に折り曲げられて、間もなく枯れてしまうだろう。」
したがって、人間を教育するために社会から離れる必要があるとします。次の引用を飛ばしますが、そのあとの引用はこうです。
「この教育は、自然か人間か事物から私たちのところに来ている。」
つまり、人間を教育するために社会から離れ、子供の教育者とは、次の三つの現実だとします。
第一、自然。それは「人間の本性」という意味で、自分の本性です。
第二、人間。理想的な教育を受けているエミールでさえ、ある種の社会から逃れようがない、これはルソーでさえ認めていることです。教育を受けるために、最低限、家庭教師が必要とされているから、どうしても社会はいつのまにか再登場します。従って、社会から子供を完全に離れることは不可能です。ルソーは最低限の社会にすることにしています。子供ともう一人と二人きりの社会にします。そういえば、小説のすべてはエミールとその家庭教師の関係を語ることになっています。ちなみに、その家庭教師には名前がないのです。ルソー曰く、「私だ」ということで、実際、ルソーです。
第三、事物。それは、エミールの周辺にある環境を指します。周辺の自然です。
要するに、第一、自分自身の内面にある本性(自然)。第二、家庭教師、第三、周辺の自然です。
「私たちの能力と器官の内部的発展は、自然の教育である。この発展をいかに利用すべきかを教えるのは人間の教育である。私たちを刺激する事物について私たち自身の経験が獲得するのは事物の教育である。」
これは非常に面白いことです。ルソーにとって第一、発展すべき能力と器官とは、自分自身の中にあるのですね。ですから、結局、第一の教育者は自分自身だということです。
それから、それらの能力をいかに「利用すべきか」は他人から教わるということになっています。ここは要注意です。ルソーは能力をいかに「利用」するかということだけを取り上げます。いかに利用するか。しかし能力は何を対象にしているかあるいは他の対象にすべきか否かに関しては、全く無視されています。
ご存じのように、私たちのすべての能力は、ある特定の対象のために備わっているわけです。つまり、私たちには多くの能力があります。例えば、知性や意志や諸感覚などは備わっています。能力と呼ばれています。これは「何かを知る機能」あるいは「何かを作用する(働く)機能」という意味での能力です。
そして、それらの能力はある対象を目的にしています。つまりある対象に従っての能力です。例えば、知性という能力は本性的に真理に向かわせてあります。意志なら、善に向かいます。それより簡単な例を挙げると、「目」は視覚のためにあります。つまり、色のついた物体を見るためです。「聴覚」は「音」という対象に向かわせてあります。
しかしながら、『エミール』において、教育者の仕事はそれぞれの能力にふさわしい対象を与えることではありません。しかし能力を養う相応しい対象を与えるのは本来の教育であるはずです。
しかしながら、『エミール』においてそうではなく、教育者は能力の利用だけを指導しますが、能力の対象を全く与えないのです。それは自然が自然に対象を与えられているから、です。ルソーはその理屈を出します。少しずつ見えてきたでしょうか。
また後述しますが、これはルソーの教育論の基盤です。つまり、ルソーの教育論では、「教育者」は対象を「教えない」のです。いや、さらに言うと教えてはならないのです。指導するにとどまるべきだと。
「教える」と「指導する」という違いは非常に大事です。一言でいうと、教育者は「真理を教える」ことではなくして、「子供が自分の力で真理を見つけるべきだ」と。本来の教育の完全な転倒です。
御覧の通り、現代ではどれほど一般の教育論はルソー主義になっているかは自明でしょう。
「ですから、この本来の傾向にすべて(の能力)を結び付けなければならないのだが」
要するに、ある種の主観主義です。「ある種の」ですけど、そこまで言わなくても、少なくとも個人主義であることは確かです。こういったような原理に基づくと、必然的に、人々は「私だけの真理を作る」と言い出すことになってしまうしかありません。
こういった教育論の遠い帰結は「真理を相対化する」ということです。一人一人がそれぞれ違う真理を持つことになります。その結果、真理という概念自体は破壊されています。なぜかというと、すべての真理は相対的なものだったら、あることとその逆のことを同時に肯定できるということになりからです。
ですから、真理自体という概念を否定することになりますし、また実際において、いずれか現実にぶつかります。当然、相対化には限界があるのです。矛盾している「真理」が同時に二つあるのはあり得ないからです。それぞれの人々に違う真理がある、と思い込んでしまうと、真理は相対化されて、「真理は存在しない」と断言することと同然になります。
また、人は真理を決めることができるということを断言するようなことですから、「人は神になる」ということをも意味しています。従って、ルソー論だと、自分にとって自分は神です。それから、必然的に、自分が神ならば、神なる自分を他人に無理やりに認めさせるようになるしかありません。ですから、その時、確かに社会は息苦しくなってもおかしくありませんね。
要約すると、自然すなわち能力。人間すなわち家庭教師。それから事物がルソーの教育の三つの先生でした。
・・・続く
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理 をご紹介します。
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公教要理-第九十一講 大罪と小罪
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罪に関する講座を続けましょう。前回は罪の定義を提示しました。罪とは「天主の法への違反である」という定義です。つまり、罪とは天主が人間に対して人間の救いのために命じた戒め・掟・法などに反する行為なのです。ですから、罪とはそもそも私たちの完全化に反する行為となります。というのも、戒めなどによって「行うべき行為」とは自分の完全化のために天主によって規定された行為であるからです。
そして、究極的に人間の完全な境地は天主なのです。天主は万物やあらゆる物事のこの上なき目的であり、善であるのです。従って、罪は「天主の法への違反である」でいう天主の法とは、究極的にこの上なき人間の善である天主を私たちが承るために天主が与え給った掟や法や戒めなのです。
そういえば、これを見ると、聖トマス・アクイナスの罪の定義をよりよく理解できます。聖トマス・アクイナスによると、罪とはラテン語で「Aversio a deo et conversio al creaturam」という定義になっています。つまり、罪とは「天主からの被創造物の離脱である」となります。
要するに、あえて言えば、罪には二つの側面があります。そもそも人間の目的地は天主であり、天主へ向かうべき人間です。が、罪を犯す時、人間は天主への道から、つまり人間の本来の目的から逸脱するということになります。後述するように道を外れるには程度の差があります。それはともかく、罪を犯している人は自分の本来の目的を拒絶する行為を犯し、あるいは目的地から背を向けるようなことを意味しています。
だからこの意味で、罪とは「乱れた行為である」とよく言われています。「乱れた」とは、その言葉の意味通りであって、つまり、「秩序がなくなった状態」あるいは「方向性を失った状態」という意味です。「乱れる」の反対語はフランス語で、「秩序づける」あるいは「方向付ける」という意味であり、その存在の本来の目的通りに方向付けるという意味です。
要するに、罪とは「本来の目的を乱して曖昧にする」ような行為です。従って、罪を犯す人は天主から逸らすことになって、天主に背を向けるようになってしまうという意味です。そして、そうすることによって、被創造物へ向かうことになります。「天主から被創造物へ自分の方向を変える」という意味が罪です。
言いかえると、罪を犯す人は、「創造主よりも被創造物を優先する」ということです。つまり、罪を犯す時、創造主において自分の喜びと善を置かなくなって、被創造物において自分の喜びと善があると間違って思うのです。なぜでしょうか?つまり、罪びとは「善」を間違うのです。
つまり、罪人は「創造主よりも、なんらかの被造物においてより多くの善と喜びがある」と間違って思い込んだりして、このように見えてしまう状態に陥ります。言いかえると、罪人は「善」を間違っているのです。つまり、罪とは「偽りの善」を間違って選ぶ行為です。あるいは罪とは「うわべだけの善にみえる」被創造物を間違って絶対な善として選ぶ行為なのです。
実際に、これらの偽りの善は禍なのですが、多くの場合は禍・悪は善として見せかけられているのです。そして、現に本当の善なる天主よりも見せかけの善を選ぶときに罪を犯すのです。一言でいうと、「天主に背を向けて、ある被創造物へ方向を変える」行為を罪というのです。
罪の犯行を促す原因とは何でしょうか?第一に、無知があります。善を知らないから、無知のせいで善を間違って悪いことを選ぶ時もあります。それから、すでに見てきたように、乱れた欲望と悪意という原因もあります。それから、もう一つの罪の大きな原因は「世間」にあります。
「世間」あるいは「この世」は罪の原因の一つなのです。いわゆる、「偽りの善を提示する」世間です。良いことに、格好良いこととして見せかけるまがい物を提示する「この世」のことです。あえて、この上なき善なる創造主と単なる創られた相対的な善との間には「差がない、一緒だよ」と見せかける世間です。
なんか、「この世の物事だけでは幸せを得ることはあり得るよ、充実な生活したら幸せになるよ、金持ちになったら幸せになるよ、権力と身分を得たら幸せになるよ」といったような偽りの幸せを提示する「この世のこと」です。少ない例ですが、これらを絶対的な善として、つまり理想として提示する「この世」です。一言でいうと、多くの誘惑を潜んでいる「世間」なのです。
現代では特に明白でしょう。「天主の法を犯してもよいよ」と誘っている現代では明らかでしょう。例えば、結婚に関する天主の法を否定する制度を正当化するときは自明です。要は、この世というのは誘惑の原因であり、罪を促す原因なのです。
そして、罪を促す最後の原因は「悪魔」自身です。福音には有名な場面があります。私たちの主は砂漠にいる間の場面ですが、三回ほどに悪魔によって誘われる場面です。私たちの主、イエズス・キリストには、当然ながら「無知」もなければ、「乱れた欲望」もなくて、「悪意」も当然になかったのです。そして、砂漠にいた間に、「世間」も罪への誘惑の原因になることは不可能な状態でした。砂漠には何もないからですね。ですから、福音のこの場面での誘惑の原因は悪魔自体です。そして、時には現に悪魔が人間にも働きかけて誘って誘惑の原因となったりします。
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これから、罪に関する大事な区別について注意しましょう。小罪と大罪という区別です。というのも、罪を考える時、罪の「軽重」で、区別するのです。より厳密にいうと、罪の結果次第で、小罪と大罪という区別ができます。
小罪と大罪という区別はカトリック教会だけにあるのではなくて、曖昧ながらももかなりどこにでもいつでも定着している区別なのです。歴史上、罪に関する誤謬を特に提供したのはプロテスタントですが、トレント公会議の際、罪に関する本来の教義を再断言しました。「罪とは、必ずしも大罪のみではない。罪には小罪もある」。言いかえると、罪には深刻さでいうと軽重の別があると。とても重い罪もあったら、軽い罪もあるということです。このような違いで、小罪と大罪との区別をつけます。
当然ながら、「罪」である限り、天主に対して常に深刻な行為ですが、それでも、罪ごとに、天主の法への違反(の程度)は必ずしも一様ではないので、罪の内容により同じ結果を伴わないので、大小の区別があります。小罪と大罪という区別をするとき、殆どの場合、罪という行為の中身で考えるのです。多くはどういった悪い行為をするかによって、その罪の行為の軽重が決まります。
例えば、無罪の人を殺す罪は、ジョークのために嘘をつく罪と比較ならないほど、前者の方がより深刻であるのは言うまでもないのですね。当然といったら当然ですが、ちょっと笑わせるための嘘と殺人を同じく扱うことは無理です。行為とその中身次第で大小の罪の区別がつけられます。そして、行為の深刻さによって、小罪と大罪という区分で分類します。
第一に、大罪とは一体何なのでしょうか?大罪とは重い罪であります。大罪のせいで、天主との友好関係を失うのです。言いかえると、大罪とは、ラテン語でいうと「死なせる罪」という意味ですが、つまり、文字通りに、大罪とは死を伴う罪なのです。もちろん、ここの「死」は身体の死ではありません。霊魂の死です。これは大事であり、よく理解する必要がありますので注意していただきたいです。
「霊魂の死」とは何でしょうか?霊魂の死は、「霊魂にある命、生命を失うこと」という意味です。そして、「霊魂にある命」とは何でしょうか?「霊魂にある命」は天主ご自身です。洗礼を預かった日に、天主は幼き洗礼者の霊魂にお住まいになることになさったのです。洗礼によって、天主は霊魂において居を構えたのです。つまり、洗礼によって聖父と聖子と聖霊なる天主が現に霊魂に降りて実存することになったのです。洗礼によって「恩寵によって霊魂に居を構えた」と通常にいわれています。
恩寵などについての細かい説明は別の機会に譲ります。それはともかく、簡単にいうと、「恩寵」とは「天主の命に与ること」を意味する言葉です。言いかえると、「恩寵」によって、天主はご自分の命の何かを我々の霊魂に垂れ給うことです。そして、そうすることによって、天主は私たちにご自分の友情の印を現に与えて、その友情を私たちに与えたもうのです。
ラテン語で、友情とは「Convivere」というのですが、直訳すると「一緒に生きる、一緒に生活する、一緒に生命に与る」といったような意味です。本物の友人は「一緒に生きる」のです(実際の場所じゃなくても、距離を超えて心を合わせて)。この意味を天主の次元に運ぶと、愛徳そのものです。
つまり、天主の生命に与り、天主の生命において生きることを、自分の霊魂に天主の生命が居を構えたことを意味して、天主との友情の状態にあるということです。これが恩寵なのです。霊魂においての天主の生命の内に私が生きている時は恩寵の状態にあるというのです。
しかしながら、天主の生命を根絶して霊魂から追い出すことも人間にはできることです。このような行為はまさに大罪というのです。というのも、天主に対して背を向けるほどに天主の法を違反した時の罪です。つまり、そもそも、天主は人々にご自分の生命を垂れるのです。そうすることによって、恩寵によって、人々を(人間の目的である)天主へ向かわせておいてくださるのです。ただ、大罪を犯す時、その人が意図的に天主から逸らすことにします。それは、天主との友情を絶交する行為なのです。そして、自分の霊魂に住んでいた天主の生命を追い出して、殺すのです。これは大罪という行為です。
また、別の言い方をしましょう。ある被創造物を天主より優先するあまりに、罪人は自分の目的を間違って被創造物に置くことにする時、実際にそのことをするとき、大罪というのです。まさに大罪の行為なのです。天主こそは現に目的であるのに、意図的に天主において目的を置かないことにするとき、大罪を犯すのです。
この際、「天主よ、邪魔者だから、あなたを追い出そう。出ていけ」と言わんばかりの大罪を犯す罪人です。また、大罪を犯す時、「ある被創造物を優先して、この被創造物においてこそわが善を置くぞ」と言わんばかりの時です。
そして、具体的に、ある行為はいつどう大罪となるのでしょうか?違反される天主の法の中身が重大である時です。その重大さを知るには、聖書や公教会の教義や教父と神学者の証言などで知られています。要するに、重大な掟が侵されたときに、大罪となるということです。いくつの大罪をご紹介しましょう。一番有名な大罪となり、一番重い罪なのです。
第一に、天主を直接に対象にする罪です。天主に反乱を犯す時、天主の法を違反するだけではなく、また正面から天主を拒み、攻撃する行為となります。当然と言ったら当然ですが、天主を攻撃するのは、天主を拒むことですね。
例えば、涜聖と冒涜の行為は大罪です。つまり、聖なる物事を汚す行為は天主に対する直接な侮辱であります。ある教会に入って汚すのは大罪です。教会を汚す時に、天主を攻撃する行為であるのは自明です。また、宗教を冒涜するのも大罪です。これは、天主と宗教に対して無礼と誹謗をいうことは明らかに天主を直接に霊魂から追い出す行為です。
要するに、これらの罪をはじめ、天主を直接に攻撃する罪は大罪なのです。また例えば、主日の安息の掟を破ることも大罪です。このような掟に関して、日曜日でも人々を働かせようとする社会はどれほど有罪であるか明らかでしょう。社会の責任にもあるのです。つまり、社会、国家、政府は天主への奉仕から逸らすことを促す時、大変です。主日にミサに与る掟は重大であるのに、日曜日、ミサに与らないことも大罪です。
以上のように、第一の大罪の種類は「天主に対して直接に攻撃するような行為だ」ということです。
それから、第二の大罪の大きな種類は、淫乱にかかわる罪です。つまり、みだらな、汚らわしい行為です。孤独で行う行為でも自然に反する行為の時です。つまり、本来の目的から外れた時に、すなわち生殖という目的のためにある行為はその目的から外れた時に大罪となります。
天主を敵にする行為です。もちろん、人間を敵にする行為でもありますし、隣人を敵にする行為でもありますが、ひとまず、生命に対する侮辱であり、したがって生命を創った天主に対する侮辱なのです。天主はそもそも善です。そして、その善の一番具体的な産物は生命を与えることにあります。
ですから、淫乱によって、人間の生命を破壊する人、あるいは人間の生命に反する行為を犯す人は、天主の生命に対しての反乱、侮辱、敵対の行為です。というのも天主は人間の生命には天主の生命を垂れたまわっているから、人間の生命を否定するのは、まさに天主の生命の垂れ流しを無にして、天主の生命を否定する行為ともなります。
ですから、淫乱にかかわる罪は大罪です。本来の目的から離れた行為だから罪となります。つまり、生殖を目的にする行為、つまり、生命を与えるためにある行為なのに、この目的から離れたら、乱れることになって、天主に反乱を起こすことになります。
聖書によると、かなり明白に、しつこいほど、このような淫乱にかかわる行為を断罪します。聖書では、淫乱に陥れる人はいつも地獄に行く運命は明らかに書かれています。淫乱を犯す人々は改めなければ残念ながらも地獄に堕ちます。
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また、隣人を深く傷つける罪も大罪です。例えば、殺人は大罪です。当然と言えば当然ですが、生命という人間の最も大切な宝を破壊する殺人だからです。
深刻な場合、窃盗も大罪です。誰かの大切な物、彼の命に必要な物を盗むことは、深刻な結果を伴うような窃盗は大罪です。というのも、このような深刻な場合、物を盗むことによって隣人の生活を妨げるからです。その意味で、生命を奪うようなものです。
隣人を侮辱することも大罪です。誰かについて誹謗して、その名誉を奪うことは、つまり名声を傷づくことは大罪です。だれでも、社会においてよく生きるためによき名声を必要としています。そういえば報道機関や新聞がどれほど人々の名声を破壊することを好んでいるか周知のとおりです。誹謗によって、ののしりによってでも、名声を破壊することによって、その人の生活、その善い社交を壊して、攻撃するようなことです。時には、隣人の名声を気づくことによって、隣人の生活を無にすることもあります。
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以上、大罪を簡単にご紹介しました。もちろん、大罪になるには、何をやっているかをよく知って、その罪は意図的に行われる前提があります。もしも、何をやっているか完全に認識していない場合、あるいは意図していない場合、大罪とはなりません。
それはともかく、大罪になるには、第一に罪の中身で決まるのです。そのあと、状況ももちろんあって、場合によって罪の深刻さを重くする事情もあれば、軽くする事情もあるし、ときには罪を完全に弁解する事情もあります。
とりあえず、大事なのは、大罪というのは深刻な違反です。「死なせる罪」である大罪は文字通りに霊魂においての天主の生命を殺すのです。その上、なぜ「死なせる罪」と呼ばれるかというと、「永劫」の罰に値する罪になるからです。というのも、大罪を犯した人は天主よりある被創造物を決定的に優先したということですね。そうすることによって、深刻な違反を犯したから、その犯行に値する罰も深刻になります。
この罰は永劫の罰です。つまり、いつまでも終わらない地獄での滞在という罰です。地獄は永遠ではないと時々言われることがあるようですが、地獄は永遠です。この真理は福音に明記されています。私たちの主、イエズス・キリストご自身は「永遠の火、永遠の刑罰」 と仰せのとおりです。
つまり、大罪を犯す罪人は自分の動きで自分が地獄へ飛び込むのです。なぜかというと、大罪を犯すことによって天主を拒絶し天主を霊魂から追い出すからです。そして、そういうことをするということは、まさに自分の動きで地獄に飛び込む行為なのです。天主を拒否するのです。
サタンと同じように「奉仕しないぞ」ということです。「奉仕しないぞ」といったサタンが、「地獄に落とされた」と書いています。厳密にいうと、サタンが「地獄に飛び込んだ」といった方はイメージされやすいでしょう。同じように、深刻に天主の法に違反する人、つまり淫乱を犯す人、天主に対して直接に攻撃するような冒涜や涜聖、また、隣人に対して深刻に罪を犯す人は、天主の法を深刻に犯すので、天主を拒絶して、侮辱して、創造主より被創造物を選び優先することになります。そうすることによって、自分の動きで地獄に飛び込むことになります。「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 。
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以上、大罪を簡単にご紹介しました。どれほど重大であり深刻であることは理解いただけたかと思います。聖母マリアは多くの出現の際、特にファチマでの出現の際、三人の子供の前に現れた時、地獄をちょっと見せました。地獄は空っぽではありませんでした。その時、聖母マリアは言いました。「地獄へ落とす罪人のために祈り給え」。「罪人のために祈り給え」と何度もおっしゃった聖母マリアです。それは地獄へ落ちるから祈る必要があります。大変なことです。落ちたら、もう二度と戻ることはありません。
地獄に関してすでにご紹介したとおりですが、地獄には喜びはありません。幸せもありません。
大罪は以上のとおりでした。
そして、小罪もあります。小罪を犯す時、天主の友情を失わないのです。その結果、恩寵、即ち天主の友情は霊魂に残っているママです。ただ、それでも天主の法へ違反があります。そして、天主への侮辱もあることに関して変わらないのです。
ちょっと説明してみましょう。本来ならば、この世においては人は巡礼者のような存在です。目的は天主であり、目的地は至福です。その目的地へ歩んでいく巡礼者です。大罪を犯す時、道を変えることになります。大罪の場合、「この目的地はもういやだ」ということで、道を変えるということです。方向を完全に変えることになります。
小罪の場合、方向を変えることはありません。本来の人間の目的である天主への方向は変わらないままです。ただ、小罪を犯した前と比べたら、善い方向に真っすぐに行くのは微妙にできなくなっているような感じです。なんか、道の途中では立ち留まったりして、あるいは蛇行したりします。具体的に、なんかある趣味に夢中になって歩むことを忘れたかのような感じでありながらも、道を離れることはない時です。このような時に、小罪なのです。
小罪を犯す時、天主の友情、即ち恩寵を失わないのです。従って、恩寵は霊魂において残っているママなので、霊魂は天主へ向かってあるままです。しかしながら、天主への道に相応しくないことに止まっているようなことです。
小罪とは軽い罪です。なぜ軽いかというと霊魂を殺す罪ではないからです。小罪を犯しても、霊魂は引き続きに恩寵によって生かされているのです。しかしながら、小罪を犯したときに、罪が罪のままであり、究極的な目的からちょっと秩序を失った、乱れたことに関して罪のままです。天主に対するちょっとした軽蔑のようなものであるものの、絶交するまでのことではない時に小罪です。
もちろん、小罪を犯したときに、それに値する罰があります。が、有限の罰となります。つまり、時間上、限られている罪だけが課されるのです。ある期間だけ与えられる罰です。
つまり、小罪を犯して罪を償わなかった人がそのままに死んだら、犯した罪の償いを行う必要が残っています。これが煉獄です。煉獄は小罪を償う、小罪にかかわる刑罰を果たす場です。小罪とは以上のような罪です。
例えば一つの嘘が小罪です。余計にちょっと甘い物を過剰に食べた一回は小罪となります。このような時、軽い時、天主の友情を失わないで済みます。このような罪では、被創造物を過剰に「気に入った」かもしれないが、天主をそのせいで忘れることもなくて、天主を見捨てることはない時です。
大罪と小罪との区別は大事です。というのも、大罪を犯した人は天主の友情を失うので、秘跡の効果を被ることは不可能となるからです。大罪を犯した人は速やかに告解に行くべきです。小罪を犯した人は引き続きに諸秘跡の効果を被ることができます。
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理 をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております
公教要理-第九十講 罪とは
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道徳の部を引き続きご紹介します。
最初、人間的な行為とは何であるか、人間的な行為の原理原則や基準は何であるかをご紹介しました。その後、「良心」や「法」についてもご紹介しました。次に、「徳」を見てみました。三つの対神徳の他、枢要徳などの倫理徳を見て、人間的な行為を善く実践するための良き習慣なる徳をご紹介しました。
善徳の反対は悪徳です。あるいは罪です。罪についてきちんと学ばなければなりません。まず、罪とは一体何でしょうか?それから、七つの罪原(capitalia peccata)と呼ばれるいくつか個別の罪を見ていきます。そして、ほとんどの場合、罪に先立つ「誘惑」をもご紹介していきます。
今回、まず、罪とは何かを見ましょう。罪の基本的な特徴は「違反」です。罪とは「意図的に天主の法に違反すること」と定義されます。繰り返します。「意図的に天主の法に違反すること」。
前には諸般の法をご紹介しました。天主の法、自然法、実定法などの法です。これらは、法のいかんを問わず、「違反」があった場合、罪となります。「違反 transgression」とは語源的な意味でいうと、「限度を超えて入り込んでしまう」という意味で、「不適切な領域」に入るという意味です。つまり、法が規定することを超えて入り込んで、違反し、罪となります。
罪とは「法に違反すること」ですが、それだけではなく、罪になるために「意志的」「意図的」である前提があります。思い出しましょう。単なる人間の行動ではなく、ある行為が「人間的な行為」になるには条件があります。
第一、知性が必要です。つまり、何をしているのかを「知っている」条件。
第二、そして意志も条件です。ある行為をやろうと思っているということです。意志的に、意図的に、行為を踏まえるときに人間的な行為となります。
ですから、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為だ」といいます。言い換えると、人間が罪を犯すとは、何の行為をやっているかを知りつつ、この行為を意図して行うのです。つまり、罪を犯す時、罪の前提である、自分の行動を完全に認識し、実践している行為の責任を完全に負っているということです。これは定義の「意志的に」という部分の意味です。つまり、「罪を犯した」と言った時、罪人には責任があるのです。
ですから罪とは「意図的に天主の法を犯すこと」です。天主の法は、種類を問わず、違反すると罪となります。天主の法の永遠の法でも、天主の法の自然法でも、天主の法の実定法でも、天主の法の教会法でもそうです。一言で言うと、罪とは基本的に天主の法にたいする違反です。
徳と違って、罪に関して二つの表現を利用することがあります。罪とは行為です。つまり人間が実践する或る行為が天主の法に違反する時、その行為を「罪」といいます。これに対して、「悪徳」という表現もあります。罪とは「一時の個別の具体的な行為」を指します。この行為が犯され、すでにこの行為が終わっているというような語感があります。
他方で、「悪徳」とは習慣です。つまり、ある種の行為の繰り返しを意味しています。たとえてみると、霊魂がある種の行為をついどうしてもやってしまうという意味です。善徳に関して言えば、一般に徳あるいは善徳の行為を言いますが、罪に関して悪徳といいます。悪徳とは悪い慣習であり、悪い傾向です。例えば酒飲みの人は酒を飲みすぎる癖をもち、悪習を持つのです。悪い傾向です。
一方、「罪」とは必ずしも悪い慣習による行為ではありません。時には一時の行為にとどまることがあります。例えば、いつも正直な者、一切嘘をつかない人が、ある日、嘘をついて罪を犯したといいます。このような場合、嘘つきという悪習はないものの、悪い行為を実践して、天主の法に違反したので、罪といいます。
要するに、罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」です。
罪は、いくつかの種類で分けられます。この区別はちょっと細かくて退屈なところがありますがやはり大事です。また、このような区別を習うと多くのことが見えてくるのでやってみましょう。
まず、原理あるいは起源において罪を区別することがあります。原罪と自罪という区別です。
原罪とは、その文字通り、原初にアダムによって一回だけ犯された罪です。アダムは全人類の元祖です。教義の部で、原罪についてすでにご紹介しましたが、アダムの一回だけ犯した罪が、子孫である全人類に継がれ、これを原罪と言います。ただ、私たちにおいて、アダムが犯した罪は原罪ですが、自罪ではありません。
自罪と原罪の違いは、自罪とは「個人の責任がある」時です。私が犯した罪なので私がその責任を負う時です。他方、原罪は、全人類の人々の霊魂における痕跡のようなものです。罪の痕跡、なぜかというと、アダムが原罪を犯した時、天主を侮辱したので、天主に対して「負債を負った」かのようになりました。アダムは人類の元祖なので、永遠の天主に対して到底代償できない負債、その債務を子孫に継ぎ、全人類はこの債務を負っているのです。
たとえてみると、父が家族の名で借金したら、亡くなってもその家がこの借金を負う時と同じです。
一方で、自罪は、個人として負う「天主に対する負債」のようです。つまり、人類の元祖としてではなく、個人として負う罪です。一般的にいうと、罪を犯すとは、自罪のことです。具体的にいうと、告解に行く時に「原罪を犯した」と言うことは当然ありません。これは意味をなさないことです。
自罪には、さらに二つの種類が分類あります。現実の罪と習慣的な罪です。現実の罪は一時の、具体的な、限った時間と場所の罪を指します。この罪は一旦犯され、もう終わっています。一回限りです。
習慣的な罪とは、霊魂に残る汚点のようです。一回限りではなく、時には長く続く「罪の状態」を指します。平常に罪の状態にあるという意味です。言い換えると、天主の法に違反している状態が継続的で、常に天主の法に違反している状態にあるということです。
例えば、教会はカトリック信徒に次のように要求します。結婚は、教会で婚姻の秘跡を受ける義務がある、婚姻の秘跡を受けて初めて男女は同居することができる、と。ですから、洗礼を受けた信者が、教会で婚姻せずに同居するなら、「同棲生活」という罪の状態にあるということになります。このようなとき、常に同居しているので、平常に罪を犯しているという状態にあることになります。習慣的な罪です。
現実の罪にはさらにいくつかの分類があります。まず、掟が犯されたので、怠りによる罪と犯行の罪との区別があります。
告解を準備するために自分の罪について反省する際、主に「犯行の罪」を中心に検討することが多いのですが、「怠りの罪」について反省することはよく忘れています。
「犯行の罪」というのは、実際の行為であり、具体的に踏まえる行為の時の罪です。例えば、嘘あるいは不倫あるいは貪食などです。これらの罪は実際に犯す行為であって、犯行してしまった行為です。
一方、「怠りの罪」とは、ある行為をしなかったことによる罪です。ですから「何もやらなかったから罪がない」とは限りません。実際、何も行為しないことによって、「あれこれをすべきだ」と命令する天主の法に違反するのです。ですから、「怠りの罪」といいます。
ある掟を実践しなかった罪です。例えば、教会は洗礼者には灰の水曜日と聖金曜日の日に、小斎大斎を命じています。そして、この二つの日に小斎大斎を行わなかった場合、「怠りの罪」となります。この場合、教会が規定する行為を怠って実行しなかった時の罪です。また、例えば主日を聖とするという教会の掟があります。具体的に、日曜日にミサに与かることによって果たされる掟ですが、理由なしにミサに与からない信徒は「怠りの罪」を犯すということになります。つまり、本来ならば実践すべき行為を実践しなかった罪です。
次に、罪を原因別で分けることもあります。つまり、人間には何のために罪を犯すかによっての区別であり、動機別です。
人間において、人間の三つの能力別に従って、三つの罪の種類があります。
第一の能力は知性です。無知のせいで罪を犯すことがあります。第一の種類です。知らなかったから、罪を犯す。無知にはいくつかの区別があります。克服できない無知もあれば(この時に限って罪にならないのですが)、克服できる時もあります。つまり、ちょっとでも努力したら「知ることができた」のに、面倒だから知りたくないということで、知らないことにして、やるべきことをやらないというパターンが多いです。
このように罪を犯す人はどうなりますか?つまり、掟を知るべきだったのに、知らないせいで罪を犯したという時です。このような場合には、「無知による罪」を犯します。この場合、罪の原因は無知だから、「無知による罪」と呼ばれています。しかし、知っているべきことを知らないのは咎めるべきことです。したがって、無知のせいで罪を犯しても、結局、無知である責任は相変わらず残っているので、罪の責任を負います。
たとえば、想像してみましょう。建築家であるのに、幾何学が知らないからといって作った家が崩れても私の責任ではないというような建築家がいたらどう思いますか。いや、この建築家がいるのなら、有罪ですね。建築家である限り、幾何学に関して知ろうとも知るまいとも、作り上げた家のすべての結果の責任者です。無知によって罪を犯す建築家です。建築家であるから、幾何学を知るべきでした。
第二の罪の原因、弱さです。つまり、ある感情に対する弱さのせいで、意志がこの感情あるいは感覚に流されてしまう罪です。本来ならば、意志は感情を支配すべきですが、意志が弱く感情が勝ってしまうのです。不本意にも感情のあまりにも強い要求に屈してしまい、弱さによって、罪を犯す時です。
次に、これが一番深刻な罪ですが、「悪意による罪」です。この場合、無知のせいで罪を犯すことでもなく、また、激情に負けて感情に流されて罪を犯すのでもありません。意図的に断行する罪です。言いかえると、「罪をあえて望んで犯す罪」であり、あるいは「罪を犯していると知りながらも悔い改めることを頑固に拒絶する罪」です。悪意による罪です。ほかの罪よりも重くなります、なぜかというと、意志まで侵されているからです。意志がすべての行為の根源なので、行為の根源の意志にまで侵されているという意味で深刻です。
さらに、罪の実践様式によって罪の区別があります。体で犯すのではない内的な罪と具体的な行為あるいは言葉での外的な罪があります。内的な罪とは、思いや欲望の罪です。思いと欲望は本当の行為なので、罪を思い望む時、本当の罪を犯します。なぜかというと、外面的な結果がなくても、思いと欲する時、知性と意思が行う本物の行為だからです。何かを意図的に思うのは、「思い」という行為だからです。
例えば、誰かに対しての憎しみの思い、あるいは悪い思いを意図的に思索するのは罪です。内的でも、意図的な行為であるかぎり罪です。そして、現に、悪い思いをあえて思うあまり、外的にも具体的な行為につながることは少なくないのです。例えば、言葉で傷づくことを言う、あるいは無礼なこと言うことにもつながるし、そして場合によって悪しきを犯すことにもなります。
次に、罪の対象別で罪を分けます。天主に対して犯す罪もあれば、隣人に対して犯す罪もあります。また罪を犯している人自身を犯す罪もあります。
後述しますが、この最後の罪はある意味で自分を殺すようなときです。対象別の罪の分類です。例えば、貪食を犯す人は自分自身に対して罪を犯します。なぜかというと、乱れて食べると自分の健康を崩すからです。悪口を言う人は、つまり隣人について悪いことを言う人は、隣人に対して罪を犯すといいます。そして、冒涜する時、天主に対して罪を犯すといいます。このように、罪の対象に従って罪を分類することも可能です。
そして、罪の結果で罪を分類することもあります。小罪と大罪です。次回は、小罪と大罪について詳しく説明します。
最後に、罪源であるかどうかによって罪を分類することもできます。言い換えると、罪により、その罪のせいで、他の罪を犯させる「罪の原因」となる罪もあれば、他の罪の原因とならない罪もあります。前者は「罪源」とよばれています。これらの罪のせいで、他の多くの罪の原因になるからということです。七つの「罪源」に関しては、のちに詳しく説明します。
以上、罪のいくつかの分類をご紹介しました。当然、これらの分類は重なっているところがあります。
最後に罪の定義を総括してみましょう。罪を特徴づけるものは、何でしょうか?
結局のところ、罪を次のように定義できます。「罪とは、天主への正しい方向付けを失った人間的な行為」と。さきほど罪とは「意図的に天主の法を犯す行為」といいました。まさにそうであり、言い換えると、罪とは「天主に対する正しい方向付けの欠如」ともいえます。
天主のためにあるのではない人間的な行為です。大事なのは、罪という違反は意図的であること、そして、天主の法に違反することという二つの要素をよくおさえておきましょう。