ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

「愛徳」―隣人への愛徳:天主において隣人を愛するとは  【公教要理】第八十六講

2020年03月31日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第八十六講 隣人に対する愛徳


「イエズスは〈すべての心、すべての霊、すべての知恵を上げて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。」(マテオ、22、37)
そして、私たちの主は続きます。「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」 (マテオ、22、38 )
天主への愛徳と離れられないのは、隣人への愛徳です。忘れないようにしましょう。天主への愛と隣人への愛は同じ愛なのです。隣人への愛徳は本当の意味での愛徳であり、人道主義のような、博愛のようなものではありません。というのも、ヒューマニズム(人道主義)というのは人のゆえに人を愛するに過ぎないからです。しかしながらここでの愛徳という愛は天主を愛するということです。だから、人道主義は愛徳ではありません。さて、隣人への愛徳は一体何なのでしょうか。

隣人への愛徳の内に第一に来るのは、一番近い存在である「自分自身」への愛徳です。「自分自身」を愛すべきです。自分自身の有りのままに自分を愛すべきです。また、天主は自分のためにお望みになるありのままの自分自身を愛すべきです。もちろん、自然次元においても、「自愛」というのは存在しますね。自然に誰でも自分自身を愛する本性を持っています。自然に(本性的に)その傾向があります。本能的に自分自身を愛するのは自然であり、普通であります。それ自体には問題がなくて、罪ではありません。

罪になるのは、自分自身を「悪く」愛することは罪ですが、自分自身を普通によく愛するのは極自然で正常です。善き天主は私たちを創造し給ったのです。そして、創造し給ったのですが、善き存在として創造し給ったのですから、我々は善き存在であるとして自分自身を愛する義務があります。しかしながら、自分自身への愛、つまり自愛は本当の意味で善き愛になるために、本当に愛徳になるために、自分自身への愛徳をも活かすことは大事ですし、これは隣人愛の最初ですし、要するに、自分自身への愛は聖でなければなりません。

「聖」といった時に、「天主のために」という意味です。それをよく理解する必要があります。自分自身は宇宙の全体でもなんでもなく、自分自身は宇宙のごく一部にすぎない存在なのです。そして、自然なことに、本性的に、一部は全体の善のために向かわせられている事実があります。で、天主はあらゆる物事のこの上ない最善であります。また、天主はあらゆる物事の共通善なのです。全体の一部はその全体のために存在するということです。言い換えると、ある固有の善は共通の善のために存在してそのために向かわされている、その共通の善のために秩序付けられているということです。

従って、自分自身への健全な愛、それから聖なる愛というのは、全体の一部として自分自身を愛するということです。そして、その全体は人類だけではありません。それを超えて、ある共通善、天主がお望みになった究極的な目的地のために方向づけられている、そのために存在する一部としてです。このように自分自身を愛するように努力しましょう。

たとえてみると、身体の経験で類似するところがあります。例えば、地面に転んだとしましょう。どうなるでしょうか。本能的に、幸いにも何も考えなくても反射的に、手はある意味で自分の動きで出されて身体という全体を支えようとします。手は場合によっては危険にさらして危害を受けてまで全体を支えようとします。また同じように、身体において一番貴重となる頭は何かにぶつかりそうになるとき、あるいは頭に何かぶつかるのではないかと予感している時、反射的に本能的にある意味で自分の動きで手が出て頭を守ろうとしますね。要するに、一部はその全体に使っている、「奉仕している」のです。全体のために存在するのです。

従って、自分自身への愛というのは、共通善という全体のゆえに愛するという愛でなければなりません。そして、私たちの究極的な共通善は天主です。従って、その意味で一番近い隣人である自分自身への愛徳は天主への愛徳であるのです。自分自身よりも遥かに天主を愛するゆえに自分自身を本当の意味で愛しうるようになるということです。全体の一部として「自分自身を愛しうる」ということです。

要約すると自分自身への愛徳は聖でなければなりません。聖なる愛なのです。それから、正しい愛でなければなりません。言い換えると、悪のための愛ではなく、善のための愛でなければならないという意味です。それは当然ですが、「悪」を望むたびに、結局どうしても「自分自身を敵にする」という結果を産むのですから悪を愛するなんて不可能です。「そうでもない」と思い込んでいても、結局、悪を望む時、天主を敵にすることであって、自分自身を敵にしています。その結果、自分自身への危害を加えるようなことです。

それから、第三、自分自身への愛は真でなければなりません。要は、善を目的にすべきだけではなく、清廉な善を目的にしなければなりません。それは、自分自身を一番効率的に完全に自分を完成させる善を目的にすべきだという意味です。「善」の定義ですが、そもそも「善」というのは、自分自身のために何かの「得」を与えるものは「善」と言います。善の種類は三つあります。快楽の善、有用の善、清廉の善があります。清廉の善とはまさに「聖徳」であり、自分を発展させる完成化させる徳であり、自分のすべての能力などを完成化させる聖徳です。
要約すると、自分自身への愛徳は、聖、正、真なる愛でなければなりません。

そして、残念ながら、こういった自分自身への本来の愛徳は、原罪以降の人間における深い傷である「三つの現世欲」にぶつかるのです。これは人間における三つの乱れ(反乱)だといえましょう。誰でも経験したことですが、心においての三つの反乱は、傲慢、快楽(肉欲)、強欲なのです。

傲慢という現世欲のせいで、自分自身を究極的な目的にしてしまうのです。自分自身が全体の一部である現実を否定させる傲慢です。「Non Serviam(奉仕しないぞ)」とサタンが言いました。これこそはサタンの大罪なのです。傲慢の罪でした。また、天主への憎しみという罪でもありました。天主はあらゆる被創造物の善と目的と全体であるのに、サタンは天主を憎しみ、サタンが自分自身を絶対なる目的にしてしまい、不可能であるものの、自分自身を「全体化」させようとする大罪を犯しました。つまり、現実に反しているものの、サタンは「何に依存するものはないぞ」としてしまいました。

そして、残念ながらも、私たちの心において、どうしてもいつまでも原罪の傷である傲慢がいつまでも多少残っています。その傲慢という現世欲のせいで、自分自身を過剰に愛する傾向が生じて、自分自身への愛はそのせいで、聖でなくなり、正でなくなり、真でなくなります。以上の原罪による大傷に対して、我々は常に抵抗し、戦うべきです。傲慢に対して戦うために、「従順」という徳があります。要注意なのは、本物の「よき従順」という意味であり、要は「天主への依存」としての従順という徳です。

第二の原罪による心においての大傷は「肉欲」なのです。「不正なる快楽」をさします。言い換えると、人間における下等なる諸能力(動物的な能力など)は上等なる能力に反乱を犯すような、下等なる能力が上等なる能力を無視して下等なる能力の善だけを望むという第二の現世欲なのです。別の次元でありながらも、反乱として乱れとして傲慢という現世欲と同じような乱れなのです。要するに、感覚をはじめ、下等なる諸能力は理性を無視して、理性の外に、これら固有の善のみを望んでしまう乱れなのです。その意味で傲慢と同じです。感覚は「自分が全体であり、何にも依存するものはない」と言っているかのようです。

つまり、人間における感情・激情などは反乱を宣言して、「我々は自律であり、理性の指導がなくても、知性の光がなくても、意志による拘束がなくてもよし、我々だけで自立できて全体である」と言っているかのようです。これはいわゆる肉欲(快楽)という第二の現世欲です。そして、その肉欲に勝ち取るために、「従順」というよりも、理性などは下等なる諸感覚を支配すべきであり、本来の立場にそれらの反乱者に戻すべきです。下等なる諸能力は上等なる諸能力の下にあるように常に我々は努力しなければなりません。そのための武器は禁欲であり、苦行であります。

最後に、第三の大傷である現世欲は強欲なのです。つまり、傲慢は自分自身を間違って絶対なる善としてとらえさせる傷です。肉欲は自分自身においての下等なる諸能力(感覚、感情など)を間違って絶対なる善としてとらえさせる傷です。強欲というのは、自分自身の外にある何かを間違って絶対なる善としてとらえさせる傷だということです。その意味で、下等なる諸能力よりも下等である物質的な何かにおいて善を置くという現世欲なのです。

残念ながらも、現代の社会を見たら、こういった強欲の事例は沢山ありますね。そういえば、三つの現世欲というのは、現代社会ではどれほど蔓延って発展してきたかは毎日のように確認できます。強欲とは周りにある善を貪りながら自分の幸せを得られるかのように欲しているという強欲です。だから、強欲とは愛徳の直接の敵です。その意味で強欲を亡くすための「苦行」という武器は不可欠です。

でも、苦行する、禁欲するというのは、欲を亡くすことではなくて、正しい目的に欲を向かわせる修行なのです。そして、苦行するときに思い出しましょう。周りにある多くの物事は我々のために天主が創り給った物事であると思い出す必要があります。カトリックはあらゆる被創造物を肯定して、禁欲を武器として必要であるからといって、被創造物を否定することではありません。被創造物はすべて良いことですから。

そしてカトリックは二元主義のような誤謬に堕ちていません。つまり、物質的なことだから「悪」だということは一切ありません。カトリックの言っていることは、物質は物質としてよいですが、正しい目的のための手段にすぎない物質だということです。苦行とは、それら物質を目的ではなく、手段としてしっかりと使えるための修行です。以上は自分自身への愛徳のご紹介でした。大事なのは、自分自身への本物の愛徳で生きられるために、自分自身において戦闘が必ず生じるということです。戦わなければなりません。三つの現世欲、傲慢、快楽、強欲に対して苦戦せざるを得なくて、激戦をせざるを得ないのです。

~~
次は、隣人への愛徳です。隣人への愛徳というのは、天主への愛徳のゆえにこそ生じる隣人への愛徳だと繰り返しに強調しておきましょう。愛徳は結局一つだけです。これを強調する必要があります。というのも、天主への愛と隣人への愛を別々にする傾向が少なくはないのですが、それは間違いです。愛徳は唯一であり、一つだけであり、分離できません。だから、隣人への愛徳というのは、天主への愛徳より生じるのみだということです。

私たちの主、イエズス・キリストは「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」( マテオ、22、38)と仰せになりました。第二ということは、区分できるということですが、同時に、「これと(第一の掟)と似ている」ということでもあります。従って、愛徳として同じ愛徳であって、隣人への愛徳は天主への愛徳と密接に依存しているという意味です。
「第二のもこれと似ている、〈隣人と自分と同じように愛せよ〉。」( マテオ、22、38)

これは一体何と意味することでしょうか。天主のゆえに、天主においてこそ、隣人を愛すべきだとの意味です。まず、もちろん、隣人を自然に愛する本性を我々が持っています。というのも、理性に照らしてだけでも、隣人を愛すべき結論を出せます。当然といったら当然ですが、周りの人々は私と同じ人間であるゆえに、同じ本性を共有しているわけです。人間の存在として皆、共通の本性ですので、自分と同じ本性ですから、隣人を愛するのは自然だし、人間らしいことです。しかしながら、それはまだ愛徳に至っていない「自然愛(本性的な愛)」なのです。まさに、「人道主義」の愛の次元を超えない自然愛なのです。

もちろん、そういった自然次元の愛自体は悪でもなんでもありませんが、まだ愛徳ではありません。そして、隣人への自然愛と隣人への愛徳を混同してはいけません。愛徳において、隣人を愛する根拠は天主がお望みになってその隣人が幸せになるために創られたことにあるのです。つまり、その隣人は天主の栄光のために創られた隣人です。しかも、その隣人は幸福に至りえる隣人です。

隣人とは、つまり私の周りにいる人々は天主によって故意に一人一人が創られて、そして天主の栄光のために一人一人が創られているのです。それだけでも、どれほど素晴らしいかなあ!周りの人々、皆が天主を奉仕するために創られたわけです。そして、その上、天主の栄光を分かち合うために創られた隣人として、至福に入るための隣人として創られたわけですよ。つまり、天主と一対一にその至福を分かち合い、天主を見て、永遠に天主を愛するために創られた隣人なのです。その上なく最善である天主のために創られた隣人です。で、人を愛するというのは、その人の善を望むという意味です。そして、隣人の善というのは、天主にほかならないのです。だから、隣人を愛するというのは、隣人においての天主を愛するということです。

また、隣人において、天主がほめたたえられていることを望むことです。これこそ愛徳です。つまり、隣人を愛するというのは、隣人がよく衣食住が全うされることを、苦しまないことを望むにとどまらないのです。それだけでは足りないのです。隣人のためにその上なく最善(これは天主)を与えようとしないのなら、隣人を愛しているとは言えないでしょう。「愛する」という定義は相手の「善を望む」ということですから、隣人を愛するというのは、愛徳において愛するとき、愛徳とはその上なく最善を望むという愛徳ですから、究極的な目的地である、最高の善である天主を隣人のために望むということです。

愛徳において隣人を愛するというのは、隣人のために天主を差し上げるということです。天主へ導きだすということです。隣人において天主が誉めたたえることを望むということです。従って、カトリック教会は隣人への愛徳を実現する意味であり、ずっと宣教を望み続けました。宣教というのは世界中に愛徳を広げるということです。それは福音をも運んでいくということです。ギリシャ語で、福音というのは「善き知らせ」という意味です。その善き知らせとはなんでしょうか。「あなたは天主のために存在するよ」という善き知らせです。「天主は肉体になり給うった」という善き知らせです。「天主はあなたに聖寵を与えたもう」という善き知らせです。「天主は我々のために御自らの御血を流し給うた」という善き知らせです。

これは隣人への本物の愛徳です。隣人を愛するというのは、「悪いことをしてもよいよ」というようなことを知らせるのではないのです。「まあ、天主が馬鹿なほどやさしいから、どうでもよい、何をしても良い、気にしなくてもよい、どうせ赦されるから」という知らせではないのです。悪いことをやって天主をほめたたえることはできない、天主の栄光にならないから、それは愛徳ではありません。だから、隣人への愛徳は天主への愛徳でもあり、隣人においての天主のゆえに天主への愛徳であるのです。隣人への愛というのは、天主に向かわせられている愛なのです。

従って、「隣人」とは至福に入りうる人々です。つまり、至福とは天国に入るということであるので、天国に入りうるすべての人間は隣人なのです。だから、「隣人」とはこの世に生きているすべての人々です。まだ死んでいないすべての人々です。つまり、また天国に入りうる人々は隣人です。また、「隣人」とは煉獄にいる霊魂たちなのです。煉獄の霊魂はまだ天主のみ前にいられないが、清められたらいずれか天国に入っていく霊魂たちなのです。また、「隣人」とは天国にいるすべての聖人たちなのです。もうすでに天主のご栄光の内に生きていられる霊魂たちだからです。だから、聖人は常に天主をほめたたえて、天主のご栄光を増やすことにおいてこそ聖人たちを愛徳の内に一番偉い隣人として我々は愛しているのです。

一方、地獄にいる霊魂たちは「隣人」ではありません。愛徳を持って地獄にいる霊魂たちを愛することは不可能なのです。地獄にいる霊魂たちのために何もできることはありません。永遠に罰せられた霊魂たちであり、その罪の報いとしてすでに劫罰を受けた霊魂たちであり、天主に呪われた霊魂たちです。「〈呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ〉」 。(マテオ、25、41)
地獄にいる霊魂たちはもはや天主に使えることは不可能です。至福を得ることはもはや不可能となりました。

そして、これは全く不正なことでもなんでもありません。というのも、これらの霊魂たちは至福に入ろうともできない状態になっているからですよ。天主がその至福を勝手に奪ったようなことではなくて、その逆です。あらゆる手段を尽くして、天主がその至福をこれらの霊魂に提供したものの、その霊魂が頑固に拒んだということであり、地獄に行くことにしました。このような霊魂を愛することは不可能です。悪魔に対して愛徳を持てないのです。地獄にいる霊魂たちに対して愛徳を持てないのです。あえて言えば、罪を望む罪人としてその罪人のために愛徳を持てないというべきです。

罪人を愛するというのは、その罪人が改心して、改めて「(恩寵の内に)生きる」ように望むという愛です。「悔い改めよ、そうすれば生き延びる」 。(エゼキエルの書、18、32) つまり、罪人に対して、その罪を見逃すような、あるいはその罪を勧めるような行為は愛徳に対する大罪なのです。また、罪人に対して、罪人が罪を犯しているのに、それを戒めないこと、あるいは糺さないことは愛徳に対する大罪なのです。こういったような自称親切さのせいでどれほどの弊害があるか計り知れないのです。とりわけ、聖職者こそこういった迷わせるような行為をやるとなおさらのことです。残念ながらも。

要するに、隣人を愛するには、自分自身を愛すると同じく、天主への聖、正、真な愛を持って愛すればよいです。それで愛徳になります。つまり、隣人の最高の善を望む(天主であり、聖)、隣人の善を望む(正)、また隣人のために罪ではなく清廉に善を望む(真)ということです。
~~

隣人とは天主の御血によって贖われた霊魂なのです。要は、隣人への愛徳、隣人を愛するとき、いつもこの事実を念頭に置くべきです。無罪の天主によって十字架に垂れた贖罪の御血は隣人の贖罪のために私たちの霊魂の贖罪のために流されたのです。従って、この世にいる限り、すべての人々は至福に入れる状態なのです。御血によって贖われた霊魂であり、天国に入れる霊魂なのです。これは我々の隣人への愛徳の根拠なのです。ですから、隣人を愛するということで、隣人への愛を実践すべきです。

隣人を愛することを具現化する具体的な行為をなすべきです。隣人の善を実践的に望まなければなりません。これこそ隣人を愛することです。行為というのは、内面的な行為もあれば、例えば隣人のためにお祈りすることですが、外面的な行為もあります。外面的な行為とは「憐みの施し」と呼ばれています。

「憐みの施し」には二重の種類があります。霊的な施しもあれば、身体的な施しもあります。霊的な施しには七つの種類があります。また身体的な施しにも七つの種類があります。霊的な施しの七つは次の通りです。一、無知の人々に教える施し。二、助言を必要とする人々に助言を与える施し。三、そして、デリケートな施しでありますが、慎重にやるべきですが、誤っている人々を糺す施し。「兄弟愛の矯正」と呼ばれている施しです。軽々しくやるわけにはいきませんが、やるべき時はやるべきことで愛徳による憐みの一つの施しです。四つ、悲嘆にくれた人々を慰める施し。五、罪を赦す施し。六、厄介な人々に根気よく耐える施し。七、死者と生者のために祈る施し。これは霊的な憐みの七つの施しでした。

そして、身体的な憐みの施しも七つあります。一、空腹の人々に糧を与える施し。二、のどが渇いている人々に水を与える施し。三、裸の人々に衣服を与える施し。四、異人(外国人)をもてなす施し。五、障害者の人々を訪問する施し。六、捕虜の人々を訪問する施し。七、死者を埋葬する施し。

これらの憐みの施しを実際に実践するには、現代に置かれた状況を見るとデリケートになっているところがあります。というのも、「福祉」というもの出てしまい、身体的な憐みの施しになると、政治的な話につながる傾向があります。だからこの場で深く入らないことにしますが、一つだけ念頭に置いておきましょう。愛徳というのは共通善を前提にしていることを忘れないようにしておきましょう。そして、共通善というのは、固有の善よりも優位であるという原則があるということを忘れないようにしておきましょう。この原則こそを念頭に入れたら、具体的な場合に遭った時、どうすべきかは自ずと導き出されるでしょう。

それから、わかりやすく説明するために、現代に置かれて多くの反駁が出てきそうな状況の中で、あえて次のことを言いましょう。隣人愛という時に、隣人の間には順番があるということを思い出せばよいです。その原則を思い出すと、具体的な問題に対してどうこたえるべきか見えてくるはずです。確かにデリケートな問題ですが、聖トマス・アクイナスがすでに説明した課題です。つまり、聖トマス・アクイナスはすでに隣人愛においての順番優先を指摘しました。つまり、隣人はまず誰ですかという質問に答えなければなりません。つまり、限られた私の力で、優先的に順番で誰に善を施すべきですかという質問に答えなければなりません。順番があるということです。常識といったら常識であり、当然ですが。

で、具体的に、隣人の間の優先順番はなんであるでしょうか。簡単です。定義を思い出しましょう。隣人を愛するのは隣人において天主を愛するということです。天主のゆえに、天主のために隣人を愛するということです。従って、隣人愛における順番には二重性があるというか、二つの側面があります。繰り返しますが、天主のゆえに隣人を愛するということです。隣人への愛徳です。

従って、第一、天主より近ければ近い隣人を愛するということです。なぜかというと、天主に近ければ近いほど、その隣人は天主をよりよく多く賛美するということになるからです。より賛美するゆえに愛徳を持ってより愛すべき隣人なのです。天主をより完全によくほめたたえる存在はより完全によく愛すべき対象です。愛徳は天主への愛なのですから。従って、隣人の間に一番愛すべき隣人とは天主より一番近い隣人なのです。一番完成されている隣人なのです。ですから、聖人たちは罪人よりも愛徳という次元でよりよく愛しうる存在なのです。だからといって、罪人を愛すべきではないということではもちろんありませんよ。単純に隣人の間に隣人愛においての順番を置くにすぎません。

これは隣人愛においての順番の第一の原則ですが、もう一つの原則もあります。隣人を愛すべきという掟もあります。一体どういうことでしょうか?隣人とは私より近い人を指すのです。要するに、自分自身より近ければ近いほどに愛すべき存在となります。つまり、日常に一緒に過ごしている人々です。また、日常、一緒に過ごすべき人々です。つまり、隣人と言ったら、第一、家族です。第二、村の人々です。地元の人々です。あるいは地方の人々です。第三、同胞の人々です。国の人々です。隣人愛における優先順番はその通りであって、その順番を逆さまにするのは愛徳に反しているわけです。

その意味で、このような愛徳の実践に当たっての原則を念頭に置きながら、現代での政治上の困難な問題に対してどういう風に答えればよいか手掛かりになるでしょう。それほど難しいことではないはずです。また、自分自身より一番「隣」の人々は自分と一番多くの共通点を持つ人々なのです。当然といったら当然ですが。そして、「近さ」を増やすのは、「近さ」を作るのは共同体に他なりません。だから、当然ながら一番守ることは自分の共同体なのです。それは自然なことであり、正当なことなのです。しかも、超自然の次元でさえ、その通りなのです。つまり、愛徳もその順番を大切にしています。

それから、もう一歩先にいくと、愛徳についてもう一つの掟があります。自分の敵をも愛すべきです。敵を愛するというのは一体どういう意味でしょうか?最低限に、第一、敵が自分に対する犯した罪を赦すということです。イエズス・キリストは十字架上に私たちを赦し給うたと同じです。「イエズスは、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか知らないからです」」 。(ルカ、23、34)

そして、もう一つ、敵に対して救援を必要とするときに救援して差し上げること。とりわけ霊的な救援ならなおさらです。つまり、敵でも、誰かの回心の恩寵を与えることを助けた時に、その隣人に対して一番高等な愛徳の示しであるのです。天主のゆえに隣人を愛しているということです。そして、隣人は回心したら天主の栄光の増加につながるし、本来の目的地である天主を仰ぐ霊魂は増えたということです。

それから、天主への愛徳に対して罪を犯すことがあるように、隣人への愛徳に対して罪を犯すこともあります。第一、隣人に対する憎しみによって愛徳に対する罪になります。つまり、敵意という憎悪による罪。つまり隣人の悪を望むような罪です。また、隣人の才能や能力を憎むといった愛徳に対する罪。要注意なのは、隣人においての悪を憎むべきです。それは当然であり、悪を愛してはいけません。愛するのは、聖、正、真なる愛でなければなりません。だから、隣人においての悪を愛してはいけません。そして、戦争、喧嘩、争いを起こすことなどは愛徳に対する罪です。
~~

それで、愛徳に対する大罪はもう一つがあります。「スキャンダル、不祥事」という罪があります。「不祥事」という罪は、ある行為をするせいで、隣人を悪へ傾かせて、悪へ誘惑してしまうような行為なのです。聖Jean Boscoによると、「不祥事は足掛けのようなものだ」と言われました。その通りです。足掛けするせいで、隣人が転んでしまうという。つまり、足掛けして、隣人を転ばすということです。つまり、私の行為は隣人の罪の原因になるとき、不祥事と言います。それは深刻な罪です。私が隣人の罪の原因であるということは、私のせいで隣人と天主の間に友情を破壊するという意味です。従って、不祥事のせいで、愛徳を破滅するのです。

だから、不祥事という罪は非常に深刻で重い罪です。不祥事の罪の帰結は計り知れないという意味でも重いです。例えば、ヨハネ・パウロ二世がコーランに接吻するような不祥事は典型的です。それはまさに不祥事です。なぜかというと、接吻するのは「愛することを示す仕業」だとして、偽りの神を礼拝する人々の誤謬を愛するような不祥事です。偽りの宗教を愛するような不祥事です。深刻です。愛徳に反することです。または、アッシジの集会は文字通りに不祥事です。

ルターの石像は最近フランシスコによってヴァチカンにおかれたのですが、これも大不祥事なのです。カトリック教会によって否認されたルターを崇拝するような行為ですから大不祥事です。つまり、プロテスタント教徒に対して「誤謬の内に残ってもよいぞ」というような印象を与えており、愛徳に対する大罪です。言い換えると、天主から離れた状態にあるプロテスタント教徒はそのままでよいということを知らせていることになり、これは大不祥事です。非常に深刻な重い罪なのです。この例でいうと、愛徳に対してだけではなく、信仰に対する大罪でもあります。不祥事というのはどうしても避けなければならない罪なのです。直接に愛徳に反する罪です。なぜかというと、不祥事のせいで、隣人の霊魂において、天主への愛を破壊する罪だからです。


【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その三【第2部】:社会契約論の限界

2020年03月04日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


それから、第二編において、ルソーは次のように強調します。
「前編で明らかにされた諸原則から、第一に生まれてくる、そして最も大切な結果は、国家を作った目的、つまり公共の幸福(共通善)にしたがって、国家の諸々の力を指導できるのは、一般意志だけだ、ということである。(…)だから私はいう、主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲り渡すことは決してできない、と。またいう、主権者とは集合的存在に他ならないから(この言葉に注目しましょう)、それはこの集合的存在そのものによってしか代表され得ない、と。権力は譲り渡すことも出来よう、しかし、意志はそうはできない。」(II,1)

要するに、市民は「集合的な存在」に全権を譲ることになるので、代表制も国会体制のようなものも全く論外です。その点において、ルソーがモンテスキューに対してすら反対しています。
続いて、
「ちょうど、自然が各々の人間に、その手足のすべてに対する絶対的な力を与えているように、社会契約も、政治体に、その全構成員に対する絶対的な力を与えるのである。そしてこの力こそ、一般意志によって指導される場合、すでにいったように、主権と名付けられるところのものなのである。」(II,4)

先ほど、説明しておきたかったのは、まさにこれです。つまり、主権者はいないのです。主権は全構成員の全体だとされています。「国民こそが主権者である」ということです。まさにそうです。「国民こそが主権者である」と言う時、これはルソーの論そのままです。
面白いことに、現代では、民主主義の名において、「ポピュリズム(国民主義)」が非難されていますね。滑稽なことでしょう。
ちょっとだけ次の文章をご紹介しましょう。「どちら側から原則に遡ったところで、いつでも同じ結論に到達する。すなわち、社会契約は、市民の間に平等を確立し、そこで、市民はすべて同じ条件で約束し合い、またすべて同じ権利を楽しむことになる。」(II,4)
いわゆる、「相互尊敬」ということですね。つまり、「あなたのやりたい事なら」「あなたの意見なら」「あなたがお望みのなら」といったような。

問題は、その平等は真理においても導入されてしまうということです。「あなたの価値観なら反対しないよ」といったような。そして、最近ではカトリック教会においてでさえ入り込んだ相対主義です。「あなたの宗教でそういわれるのなら」といったような。「法律上の平等」に他なりません。それは、「法律によってだけ確立される平等」という意味です。実際の事実ではどうなっているか別にして。
以上の基本的な原理を理解した時、ルソーの後のすべての結論を簡単に引き出せます。例えば、次の引用があります。
「法は、本来、社会的結合の諸条件以外のなにものでもない。法に従う人民が、その作り手でなければならない。社会の諸条件を規定することは、結合する人々だけに属することである。」(II,6)

これは、純粋な民主主義です。
「だから、法律を編むものは、何らの立法権も持たないし、また持ってはならない。」
なぜかというと、立法権は個人に属するのではなく、国民が持っているとされているからです。続いて
「そして、人民自身も、たとえそれを望んでも、この不可譲の権利をすてることはできない。」(II,7)

というのも、法を編む者は国民の「道具」に過ぎなくて、立法権は譲られていないとされています。そして、「道具」というのはなんであるかというと、「ある主な原因に従って動かされる物」ということです。ここでの主な原因はつまり、国民です。
「なぜなら、根本契約によれば、個々人を拘束するのは、一般意志だけであり、個別意志が一般意志と一致しているということは、個別意志を人民の自由を投票に委ねた後に、初めて確かめ得ることなのだから。」(II,7)

それから次の引用です。
「すべての人々の最大の全は、あらゆる律法の体系の究極目的であるべきだが、それが正確には、何から成り立っているかを尋ねるなら、われわれは、それが二つの主要な目的、即ち自由と平等とに帰することを見出すであろう。自由―なぜなら、あらゆる個別的な従属は、それだけ国家という〔政治〕体から力がそがれることを意味するから。平等―なぜなら、自由はそれを欠いては持続できないから。」(II,11)
自由と平等は常に手を組んでいると。両方とも、絶対的で、理想です。

面白いことに、この「社会契約論」において、哲学上にいうと、「自由」という概念が明白に定義されることは一度もないことです。これは、興味深いことです。社会契約論では、その「自由」は「独立」を意味するのであって、少なくとも、「好き勝手にやりたい放題にする」という意味です。絶対的な意味でいう自由だから、善悪はないという前提に基づきます。それは、善悪は自由に対してもう相対的なことに過ぎなくなるということになります。つまり、自由と善悪との間の本来のあるべき関係は、さかさまにされたということです。

本来ならば、自由こそが、善に対して相対的な関係にあります。つまり、本来ならば、善に従っての、善のための自由です。自由という能力は、善を遂げて、善を得るためにこそある「能力・道具」に過ぎないのに、ルソー以来、善を定義するために、必ず善は、自由に従属されます。善に従う自由から、自由に従う善へ。

本来ならば、「自由な人」とは「善に向かう人、善を実践する人」という前提があります。近代になってから、ルソー以来、「自由に貢献することこそが善だ」となり、本来の関係の逆さまになっています。または、誰かの自由を妨げることは、「悪いこと」だとされるようになります。要するに、その自由の対象はどうでもよくなるのです。

たとえば、最近、話題となっている同性結婚はまさにこれを語ります。
同性愛結婚に反対するのは、当事者の自由を妨げるになっているということで、「悪い事」だとされています。つまり、同性愛結婚という下劣な本質が無視されることになります。同性愛結婚は事実上、反自然であるという本質を完全に無視し、または、卑しむべき卑しい行為であることという事実をも無視するということです。というのも、客観的に物事を、目の前にある客体を見ることなく、主観的にだけ物事を見ることになってしまいます。言い換えると、内容はどうでもよくて「彼らの自由に反対した故に悪い事だ」ということになります。

やっぱり、「王たる人間」となるのです。「王たる人間」。従うべきことはもう何もない。ところで、最後の講演に詳しくご紹介する予定ですが、宗教についてのルソーの考えを見るとそれは明白です。「社会契約論」の最後にもちょっと出てくるのですが、ルソーは宗教を完全に切り捨てて、排除します。少なくとも、カトリックという宗教を徹底的に排除します。絶対に。なぜかというと、カトリックにおいては、掟があるからです。というのも、カトリックにおいて「客体」を有りのままに見せて示すからです。ルソーは「客体はみてはいかん」「現実を否定すべき」だとしますね。

それから、お配りした最後の二つの引用です。
「その性質上、全会一致の同意を必要とする法は、ただ一つしかない。それは、社会契約である。」(IV,2)
つまり、結合の基礎こそとしての社会契約ですね。言い換えると、社会が成り立つ基礎です。その場合に限って、「全会一致の同意を必要とする」と。

「なぜなら、市民的結合は、あらゆるものの中で、尤も自発的な行為であるから。総ての人間は、生まれた時は自由であり、自己自身の主人であるから、何びとも、彼の同意なしには、如何なる口実の許にも、彼を服従させることはできない。ドレイの子供は、ドレイとして生まれたのだと決めてしまうことは、彼は人間として生まれたのではないと決めてしまうことだ。」(IV,2)
言い換えると、人間は社会を作り出す瞬間に、自由の名において「社会契約」を結んだ時、絶対な全会一致の同意があるとされています。一人も欠かさずに全員が「自由のために自由の名において社会契約」を結ぶことにおいて一致して同意します。そして、ルソーも指摘するように、それ以外のすべての決定において、絶対的な全会一致は存在しないという問題が残ります。だから、どうするかというと、「数学的」な全会一致を採用することによってなんとかする、と。つまり、投票数によって決まると。投票数ですね。それで、最期の引用をご紹介しましょう。私に言わせれば、一番興味深い引用だと思います。なぜなら、一番逆説的な引用であって、ルソーの限界を良く示すのです。

「この原始契約の場合をのぞけば、大多数の人の意見は、常にほかのすべての人々を拘束する。これは、〔原始〕契約そのものの帰結である。」
繰り返します。
「この原始契約の場合をのぞけば、大多数の人の意見は、常にほかのすべての人々を拘束する。これは、〔原始〕契約そのものの帰結である。しかし、ある人が自由でありながら、自分以外の意志に従わねばならぬということが、どうして起きりうるか、を問う人がある。」(IV,2)
だから、投票しますよね。例えば、大統領選において、マクロンに票を入れた人々がいて大統領となりました。が、マクロンに表を入れなかった多くの人々もいます。でそこで、「反対者たちが自由でありながら、彼らの同意しない法律に服従するのはなぜだろうか?」(IV,2)

現代、我々が常に経験している現代の大問題はまさにこれですね。繰り返します。
「反対者たちが自由でありながら、彼らの同意しない法律に服従するのはなぜだろうか?」
確かに、なかなかの問題です。
「それは、問題の出し方が悪いのだ、と私は答える。」
さすがに、やっぱりね!
「市民はすべての法律、彼が反対したにもかかわらず通過した法律にさえ、またその一つに違反しても罰せられるような法律にさえ、同意しているのだ。国家のすべての構成員の不変の意志が、一般意志であり、この一般意志によってこそ、彼らは市民となり、自由になるのである。」(IV,2)

市民イコール自由です。
「ある法が人民の集会に提出される時、人民に問われていることは、正確には、彼らが提案を可決するか、否決するかということではなくて、それが人民の意志、すなわち、一般意志に一致しているか否か、ということである。各人は投票によって、それについての自らの意見をのべる。だから投票の数を計算すれば、一般意志が表明されるわけである。従って、私の意見に反対の意見が勝つときには、それは、私が間違っていたこと、私が一般意志だと思っていたものが、実はそうではなかった、ということを、証明しているに過ぎない。」
流石に、そうですね。
「あなたはマクロンに投票しなかった場合、間違っていたよ」というべきことになるのですね。

「もし私の個人的意見が、一般意志に勝ったとすれば、私の望んでいたのとは、別のことをしたことになろう。その場合には、わたしは自由ではなかったのである。」(IV,2)
上手く表現されているのは認めましょう。非常にうまく表現されていますね。しかしながら、問題が残ります。結局、自由になるように人を強制するのは不可能という事実は変わらないという問題です。

以上の文章を読んでみるだけで、表面的に解決になることに見えるかもしれません。つまり、「私を否定するその法律に従うといよいよ自由になる」との理屈は通りません。
「私の個人意見を否定するが一般意志に反対しない法律だから、私が間違っていたのだ」と。「私が私の個別意志と一般意志を離れようとして悪かった」と。だが、「法案が可決された瞬間に、一般意志に反対する私の個別意志は一般意志と一致していないということが表明されるから、私の個別意志が間違っていたということがいよいよ明らかになった」と。そういった理屈ですね。だから皆さん、「いや、でも正しい判断だと確信している」と思っても、「私が間違った」と思うべきだというのは民主主義そのものです。

従って、なぜか反対の票を入れたかを忘れることにして、可決された法律に従うまでだという理屈ですね。そして、その暁に「それでいよいよ私が自由になったぞ」と思うべきだと。なぜなら、「私が理解していなかった一般意志に従うことになるので、自由になるぞ」という理屈です。つまり「皆さん、訳が分からなくても、大事なのはあなたらが自由だということを覚えて置け」という理屈。つまりこういった感じのことです。バカな理屈です。完全に馬鹿な理屈だというべきです。
御覧になった通り、いつもいつも「自由」ばかりという問題が出てきます。

本日の講演を結ぶために、社会契約論の限界をご紹介したいと思います。以上は、社会契約は如何なるものかの簡単なご紹介でした。
これから、社会契約論を反駁していきたいと思っております。厳密に言うと反駁というよりも、社会契約論の限界とその帰結を示すことによって反駁することになります。

主要な大問題はやっぱり「自由」です。まず、社会契約論において、「自由」とは間違って定義されています。時間があれば、その自由の定義においてこそ、ルソーの理論の反駁の中心になるはずです。平等に関しても一緒です。間違って定義されています。というか、そもそもその平等はどこにも存在しないのです。平等というのは空想・幻想に過ぎないのです。というのも、平等は結局、法律上の擬制に過ぎなくて、自然(現実)を否定する擬制です。大自然において、平等ということはそもそも存在しないのです。だから、ルソーもそれを確認して、「人造的に」平等を作りだそうというのです。だから、ルソーの平等は「仮想的」な平等に過ぎないのです。問題は、現実上の大自然に織り込まれている自然な不平等・差別を否定する「人造的に平等」であることです。その挙句、どんどん緊張が高まって、ある日、その矛盾が爆発するという悲惨な運命がまっています。

だから、社会契約論の第一の帰結は次の通りです。
最初、社会契約を結ぶ「自由」を持つのなら、いつでもその社会契約を解約する自由をも持つはずです。ルソーが「その契約を結んだ時点で、もうだれ一人もその契約から去ることは不可能だ」といっているのですが、一体どの根拠をもってそれがいえるでしょうか。一体、どういった自由がその解約を不可能にするのでしょうか。本来ならば、もし一人が自分の力でいきなり元の独立の状態に戻ろうと思ったら、自由をもっていつでも契約から去ることはできるはずです。そうでなければおかしいでしょう。

だから、その結果、民主主義において無政府主義になる傾向が強いのです。つまり、社会契約は本当の意味での契約だったら、無秩序へ導く契約です。解約できないというのはどこからくるでしょうか。自由を維持する元の意志を、一体なぜいつまでも個人が持てるでしょうか。それは、自由のためだから、とされます。それなら、契約を結んで、ある時点でいよいよ一般意志のお陰で本来の私の自由を取り戻したと思った時に、社会契約から去ってもよいはずです。

つまり、社会を単なる人造的な契約にしてしまったことによって、ルソーは必然的に無政府・無秩序が伴う状況を作ったのです。なぜならルソーにとって、社会において生活するのは反自然なことだからです。従って、自由をもたらすために創られたとされている社会がもう自由をもたらせない時になった場合、純粋な契約になる社会から去るべきです。ルソーの社会契約は結局、長期にいうと原爆に似ています。社会契約は個々人の融合を行うようなものですが、融合がある程度の極まりを超えたら、ボーンと爆発します。もう個々人が自分の自由を取り戻そうとして、爆発してバラバラになっていく社会です。
要するに、社会契約論の長期的な帰結は、無政府です。個人、自分の自由を取り戻すためにある社会ですから。

つづいて、先ほど申し上げたように、一般意志にも限界があります。つまり、一般意志は「全会一致」になることは不可能ですから、大多数に基づいて決定するということになります。そこで、まず簡単な指摘ですが、「数」があるからといって、「質」がかならずしも伴わないということです。また、「数」から真理がかならずしも出ないのです。数と質とのそれぞれの次元は異なります。
そして、どうしても、少数派の問題は残っています。つまり、反対していたその少数派ですね。ルソーが美しい理屈を言っても、つまり、「その少数派が間違っているに過ぎない」といっても、何も解決になりません。
「私が間違っていたので、今、従うと自由になる」と積極的に個人が思い込もうとしても、最初に確信した反対の意見を思わずにいられないという状況は変わらないのは誰の目にも明白でしょう。「でも、私は自由だ、自由だ」と思いこんだとしても、事実としてその選択肢がなく、自由になるために強制されることになります。

だが、「自由になるために強制される」というのは結局、全体主義を意味します。全体主義そのものです。だから、逆説的にみても、民主主義の必然的なもう一つの結果は、全体主義を伴います。
ルソーの民主主義の結果は、必ずや、一方で「無政府主義」、他方で「全体主義」です。または、独裁主義です。ところで、ロベスピエールが次のようなことを言っていました。ロベスピエールはルソー主義でした。
「共和国の政治は、自由による独裁主義だ」と。丁度ぴったりと当たる表現です。
「共和国(民主主義)の政治は、自由による独裁主義だ」と。つまり、我々の政治家たちは独裁者です。

それから、別のもう一つの結果があります。民主主義において、政治指導者たちは主権者ではないのです。思い出しましょう。一般意志だけが主権者だ、と。とはいっても、事実上に、一般意志の決定を行使するために、またその一般意志の決定を解釈する何人の指導者たちが実際に存在するということになっています。

ロベスピエールの言っていた「共和国の政治は、自由による独裁主義だ」とは、次のようなことです。
つまり、一般意志の決定を行使するためにだけ、「民主主義的に選挙を通して選ばれた」代表者たちがいるのです。しかし、一般意志が選ばれた代表者たちの意志と違うようになった場合、どうなるでしょうか。その場合、当選された人々と一般意志の間の緊張感が生まれてきます。

具体的な例を挙げましょう。例えば、丁度、今日、マクロン大統領は80キロ速度制限という法案について発言しました。明らかに、一般意志に反する発言ですね。なんて反民主主義的な大統領だろうなあ。すると、どうなるでしょうか。「主権者」の立場にある指導者、まあ、ルソー論で言うとその指導者は「主権者」ではないが、それはともかく、一般意志の決定を行使するためにだけ存在する「指導者」が一般意志に反対するようなことをやり始めると、凄い緊張感が生まれます。どうなるでしょうか。その指導者は自分の席を確保するために、暴君のように振舞うようになるしかありません。

言い換えると、自由を保護、自由を守るはずの「社会契約」のせいで、暴政・僭主政治に落ちていくのです。ルイ・ジュニェ『哲学教義と政治システム』(Louis Jugnet : Doctrines philosophiques et systèmes politiques)による短い本を引用しましょう。ジュニェ(Jugnet)教授による政治についての講座の記録の本です。引用は、ルソーについての紹介であって、よく纏まっています。ご紹介します。
「前世紀(19世紀)の偉大なる共和国派の一人、Arthur Rankeが国家の右派に向けて憤怒しだしたことがあります。」
つまり、その人は左派ですね。
「彼は素直に次の発言を(右派に)投げつけました。」
先ほど申し上げたことを良く示す一つの例ですから引用します。
「(右派に向けて)君らが僅かな少数派に過ぎない場合、我々は君らを軽蔑しよう。君らが無視できない少数派になった場合、我々は君ら(の当選)を無効にしてやろう。君らが多数派になった場合、われわれは銃をとって町に行くだろう。」
明白な発言ですね。でも、毎日、現代においてまさにこれを経験している通りです。「君らが多数派になった場合、われわれは銃をとって町に行くだろう。」
今の黄色ヴェストの事件はどうなっていくかを知るのは天主様だけですが、「銃をとって町に行くだろう」というのはここで言うと、黄色ヴェストのことではなく、政府です。

最後に、ルソーが打ち出した社会契約の実現をしようとした1789年の革命以来、現代に至るまで、フランスの歴史を見ると明白です。いつもいつも、無政府主義と独裁主義の行き来ばっかりです。なぜかというと、相次いで出てくる共和国はすべて、ルソーの社会契約論に基づいているからで、必然的にそうなります。というのも、ルソーの社会契約論は出鱈目に過ぎないからです。なぜかというと、その社会契約は自然ではないどころか、反自然だからです。ルソー自身がそれを認めています。社会契約は自然ではないと。

だから、現代に置いて、どんどん痛感するように、こういった社会契約論の悲惨な帰結を味わわざるを得ないのです。
社会契約論について、これで終わらせていただきます。主要な筋を紹介するつもりで、これで社会契約論を理解するための鍵を得られたと何より幸いです。ご清聴ありがとうございました。
来月のテーマは「エミール、教育ついて」です。