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教皇の役割とは 【公教要理】第六十四講

2019年09月29日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十四講 公教会における権威



「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
今回も、この信条の説明を続けましょう。公教会における権威という課題をご紹介していきたいと思います。
前回は公教会の構造をご紹介しました。教会の構造の基礎は「叙階の権能」と「統治権」にあります。
また、公教会の構造においては、教皇しか権威を持たず、司教たちは本物の権威をもってはいるものの、それは必ず教皇に依存しながらの権威となっています。

教皇が預かっている権威は具体的にどう行使されているのか、教皇の権威はどうなっているのでしょうか。
言い換えると、教皇の役割とは一体何なのでしょうか。カトリック教会の頭であることとは、一体何を意味するのでしょうか。

以前申し上げましたが繰り返しましょう。イエズス・キリストによって使徒たちに三重の使命が与えられました教義上の権能司祭上の権能統治上の権能の三つです。教える役割、聖化する役割、そして、第一と第二の役割に依存しながら、統治する役割です。教皇の権威は直接に天主から、私たちの主から由来しています。また、教会の権威は私たちの主の権威の延長に過ぎません。

私たちの主は第一に教えた御方でした。この上ない教師です。12歳の時、すでに神殿で教えていたイエズス・キリストの姿がある通りです。この上ない教師です。私たちの主は「真理そのもの」です。天主なる御子であられるイエズス・キリスト、至聖なる三位一体の第二の位格は、真理そのものです。真理、天主の聖子、御言葉であるからこそ、イエズス・キリストは真理そのものです。従って、イエズス・キリストは何よりもまず真理であり、教義であり、教師です。教えるためにイエズス・キリストは来たり給うたのです。

続いて、第二に、私たちの主は本当の最高司祭なのです。この上ない司祭です。童貞聖マリアの汚れのないご胎内に御宿り給うた御告げの最初の時から、すでにイエズスは永遠に司祭でした。そして、イエズス・キリストが司祭職をこの上なく果たしたのは、十字架の上です。というのも、「大司祭・Pontifex」の語源の通り、十字架上のイエズス・キリストは司祭職を果たし尽くしたからです

大司祭(Pontifex)として橋(pons)を造った、天主と人間との間の「橋」をかけたからです。従って、イエズス・キリストは人々の祈祷を天主へ届け挙げる本当の司祭であると同時に、聖化するための恩恵を天主から人々へ垂れたもう本当の司祭なのです。

それから、私たちの主は教師であり、司祭である上に、最後にでもあります。「あなたの言うとおりに私は王なのだ」 と私たちの主がピラトに仰せになった通りです。王である故に、私たちの主は本物の統治権をお持ちです。

注意しましょう。私たちの主は教える権威と聖化する権威と共に、聖ペトロと彼の継承者たち(歴代教皇)へ与えたもうこの統治・統治する権威は好き勝手にさせるためでは決してありません。私たちの主は「私は王である」と断言なさった時、興味深いことに、その後すぐ、「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た」 と言い加えます。これは、聖ヨハネが福音に記す言葉で、ピラトに対する質問の答えの中にあります。「あなたの言うとおりに私は王なのだ。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」 と。

したがって、非常に興味深いことですが、私たちの主の統治権とその王権は真理の上にこそ存在します。その福音の言葉で、あえて言えば、教皇の権威の定義がすべて明記されています。

私たちの主が教皇へ直接に賜った権威であって、教皇はキリストの代理者である故に、この世において、キリストの地位を教皇が占めて、代理するのです。従って、御覧の通り、教皇は好き勝手にその権威を発揮することは一切できません。教皇の持っている権威はあくまでも代理の権利であるので、自分で何でも好き勝手に決められるわけではないからです。

違います。キリストの代理者として、できるだけイエズス・キリストと一致して、イエズス・キリストが直接統治するかのように常に統治を行う努力をせねばなりません。キリストがお望みになる通り、教皇は受けた権威を発揮すべきです。
イエズス・キリストがお望みなる通りに統治する、主の教えをそのまま教える、また天主と人々との仲介者なる本物の司祭であることが求められます。天主の恩恵を人間に与え届ける「司祭」です。

私たちの主は「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た」 と仰せになります。教皇の第一の役割は教師であること、言い換えると教義上の役割です。
私たちの主イエズス・キリストによって啓示された真理を引き続き継承し、引き継いでいくことが教皇の第一の役割です。というのも、公教会の真理、また教会の遺産である真理は「ある人間」の真理ではなく、「天主の真理」であるからこそ大切だからです。真理の持主は天主でしかなく、天主しか真理を啓示できないからです。教皇はその真理の擁護者と守護者に過ぎないのです。啓示された真理の擁護者、その守護者です。

だれかが「でも諸世紀にわたって新しい真理(教義)が出てきただろう」と非難を出してくるかもしれません。違います。「新しい真理」が出されたことは一度もありませんでした

というのも、もしも「新しい教義」があったとすれば、それは「作り出された真理」ではなく、既存の真理を明徴したに過ぎません。「新しい教義」というのは、信仰において既に暗に包含されていた「真理」の明白化に過ぎないのです。ただ、その教義が明白に断言される以前には、それほど明文化する必要がなかっただけです。

「真理を明白化する」ことはあっても、「新しい真理を作り出す」ということはそもそもありません。新しい真理とか新しい法とかはありません。既存の真理の明白化だけです。言いかえると、真理を明白に述べるということです。より明白に、より明晰に、より明徴された真理ですが、真理としてはずっと初めからありました。既に啓示の中に暗に包含されていた真理をあらわにするような営みに過ぎないのです。
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教皇は啓示された真理の擁護者であり、その守護者です。そのために、そしてそのためにだけ、教皇に「不可謬性」というカリスマが備わっています。「不可謬性」が与えられた理由は啓示に含められている諸真理を保護、そして明徴するためです。

教皇は常に不可謬性であるわけではありません。言い換えると、「教皇は不可謬性」であるからといって、何か常に教皇が本質的に不可謬であるかのような性格を持っているというようなことではありません。「不可謬性」というカリスマは、一時的かつこの世においての教皇に対する聖霊の働きなのです。
一時的に、時間において、その聖霊の働きによって、教皇のために教皇が発せられる一つの真理の不可謬性を保証するカリスマのことです。言い換えると、真理であることの確信を保証するカリスマです。この「不可謬性」というカリスマの対象は「信条」と「道徳上の命題」だけであって、そういった真理を保証するためだけに「不可謬性」が与えられています

世界中のキリスト教徒に対して、ある真理はイエズス・キリストが「啓示された真理において包含されている真理である」ということを断言するためだけのカリスマです。教皇の不可謬性で一番最近に行使されたのは、教皇ピオ12世の御代の時でした。それは、世界中に向けて、「聖母マリアの被昇天」という教義を宣言した時でした。というのも、「聖母マリアの被昇天」という真理は既に暗に啓示された真理の中に含められている真理でしたが、これを明白に再断言・再確認したのです。ピオ12世が新しい真理を作りだしたのではなく、聖書においても聖伝においても、暗にすでに含められていた真理を宣言したに過ぎないのです。

以前にご紹介した通り、啓示の基礎は聖伝と聖書です。そして、聖書に基づき、また聖伝に基づき、教皇ピオ12世は「聖母マリアの被昇天」という真理を強調し、啓示され預かった信仰の遺産の中に、その真理を改めて明白に述べ、世界中に改めて再提示して発布しました。その際、教皇への一時的な聖霊の御働きによって、「天主によって啓示された真理であり、私たちの主イエズス・キリストの啓示の遺産に包含されている」ということを不可謬的に保証したのです。留意していただきたいことですが、私たちの主イエズス・キリストの啓示は最後の使徒の死によって、つまり聖ヨハネの死によってもう完全に閉じられました

以上は教皇の第一の役割です。教義上の役割で、その役割によって、教師となりながら、この世と人々を照らす光となるのです。私たちは主の後を歩くだけです。イエズス・キリストこそが光からの光「Lumen de lumine」と信経の中にあるように、光からの光なのです。
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続いて、教義上の権威により、教皇には統治権も備わっています。言い換えると、聖なる教義または啓示された教義の擁護と真理の伝播のために、教皇は法律を制定し、規律を施し、司教を任命し、公会議を招集します
教義(信仰)を守るために公教会の初めの諸世紀において多くの公会議が招集されていました。以上、公教会の権威の紹介でした。


次は、権威という課題をもうちょっと深めていくために、司教たちも本当の権威を持っていることを改めて繰りかえしましょう。
司教たちは教える権威、聖化する権威、統治する権威を本当に持っているのです。神授権として、司教たちはその三重の権威を完全に持っているのです。
しかしながら、教義にかんして、司教たちは牧者たちの牧者である教皇に、任せます。それでも、司教たちは教区において本物の教える権威、聖化する権威、統治する権利を持っています。教会において、教皇は絶対的な主要な権威を持っている一方、他方、司教たちは教皇に依存しながらも副次的に権威を持っていますが、本物の権威であることに関しては何も変わらないのです。

そして、公教会において、教皇と司教たちの間には多くの称号などがあって、あえていえば他の権威者たちもいるのです。これらは場所と時間によって変わったりするのです。そして、それらの敬称・称号などは多くあって、それらの個別の言葉も「教会用語」になって多くあって場所時間次第で違ったりします。

公会議についてちょっと説明していきたいと思います。公会議というのは、一般的に言うと司教たちの集会なのです。公会議には二つの種類があります。「エキュメニカル」と言われている会議(「公」会議)が、全世界の司教たちを集会する公会議です。教皇が司教たちを招集します。招待されて集まった司教たちの集会の普遍的な権威は、教皇自身から得ているにすぎません。だいたいの場合は、公会議はある真理を明白化するために集りますが、歴史において公会議はいつも信仰の教義と信条を守るために集まってきました

それから、「特定の会議」または「地方の会議」と呼ばれるものもあります。これらは、ある首都大司教が特定の地方の司教たちを招集する教会会議です。これらの特定の教会会議は勿論「公会議」ほど権威が備わっていません。


その他に、教会において、多くの「等級」があります。多くの「称号」があるが、かならずしも空っぽな「敬称」だけではなくて、時々、教会においての特別な義務・役割を現す称号でもあります。
最高牧者である教皇が教会の頭であることをすでに紹介しました。司教たちについても紹介しました。例えば、司教たちの間に、実際に「裁判権・統治権」が備わっている司教たちとそうでもない司教たちを区別するために、後者を「肩書き司教」と呼びます。

また、時々、ある司教には「総大司教」あるいは「首座大司教」という敬称で呼ばれています。これらは敬称であります。「総大司教」という敬称について、特定の特別の名誉のある司教座についている敬称なのです。例えば、ローマの司教(教皇)なら、「ローマ総大司教」とも呼ばれています。ローマには普遍なる教会の聖座があるからです。またエルサレムは最初に出来た教会なので、エルサレムの司教をも「総大司教」と言います。また、例えば、コンスタンティノープルの司教をも「総大司教」と言います。教会においての幾つかの司教座についている敬称であって、現場の教区の歴史からそれらの司教は名誉上の優位性があるということを現す敬称なのです。

他に「首座大司教」という称号もあります。「首座大司教」は大司教であって、昔はある国の全国を担当していたか、特定の広い領土を担当していた大司教だったということから転じた称号なのです。現代は「首座大司教」だといっても、古代にあった具体的な権力は、もはや存在しないが、その敬称としてだけ残りました。
例えば、フランスにおいて、リオンの大司教は「ガリアの首座大司教」という敬称を持っています。リオンの大司教はフランス全国に及んでいた権限は遙か以前からもうすべてなくなったが、敬称だけは残りました。
幾つかの場合は、司教であるが、複数の教区に及ぶ権限を持つということから、別の称号を持ったりします。
以上のように、公教会において多くの称号があるわけです。特別の使命によって、歴史によって、領土によって与えられたりしますが、公教会の構造でいうとそういった称号があるからといって基本的に何も変わらないのです。



教皇・司教・司祭の権能の区別 【公教要理】第六十三講

2019年09月25日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十三講 公教会の構成について



「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
真理に溢れている信条なので、引き続きこれを説明しましょう。カトリック教会は「社会」ということを見ました。位階制の社会で、最高の司祭(つまり教皇)を頭(かしら)とする君主制の社会ということを見ました。
前回は公教会の構成員、言い換えると公教会に属する人々を見たので、今回は公教会の位階制自体を見ましょう。公教会の「構造・構成」です。

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公教会は社会共同体であり、位階制の共同体であります。従って、公教会には権威者が備わっています。その権威者とは一体、何でしょうか、何のためにあるでしょうか。
簡潔に言えば、公教会において、権威のある構成員権威のない構成員とに区別できます。哲学的な言い方をするなら、「能動」と「受動」という用語に当たる概念でしょう。

あるいは、定着した表現としては「教える教会」(Ecclesia docens)「教わる教会」(Ecclesia discens) とも言います。「教える教会」の「教える」とは、「教える行為」という積極的な営みを指して、権威者を指します。それから「教わる教会」というのは、教えを受ける側、教えを受け入れるように心の準備をしておく側、また権威者たちによって導かれ、教えられて聖化されるように頑張る「教わる教会」です。従って、教会の位階制は「教える教会」に他なりません。

ここに至ると、実体はこれから少しややこしくなってきます。というのは、公教会には二重の位階制があるからです。なぜややこしいかというと、この二重の位階制は、ハッキリと区別されて、混同してはならないからです。
ところが、具体的に言うと、多くの場合、両方の位階制はもつれたり重なったりするのでややこしいと言えます。
先ず、両方の位階制の区別を明らかにしましょう。

公教会には二重の位階制があります。
第一の位階制「品級・叙階の権能」に基づきます。思い出しておきましょう。私たちの主イエズス・キリストは教会の牧者たちに、三重の使命を与えられました。それぞれの使命に、三つの権威、あるいは三つの「秩序・聖職」を備えられました。

第一の位階制は「叙階の権能」に基づき、つまり「聖化する」権能に基づくのです。この位階制において、司教と司祭が区別されます。司教は「叙階の完全なる権能」を持つのに対して、司祭は、叙階の権能を持ち、聖化できるものの、「司祭の完全なる権能」は備わっていません。そして、司祭以下、教会の他の諸聖職者が並びます。以上が、叙階の権能あるいは聖化の権能に基づく位階制です。
一方で、司教は「聖化の全ての権能」を持ち、他方、その他の司祭らは「聖化の部分的権能」を持ちます。それから、他の聖職者たちが並びます。


もう一つの位階制は、「教導の権能」に基づく位階制です。この位階制を、ゆっくりご紹介しましょう。というのも、この「教導」の位階制こそが、目に見える公教会の構成を成して現れるからです。とはいえ「教導」の位階制は、「聖化」の位階制を否定しません。
統治権に基づく位階制は教皇と司教たちからなっています。教皇と司教たちこそが、「教える教会」です。教皇と司教たちこそが教会の位階制を成すのです。司祭たちと信徒たちは「教わる教会」に属します。司祭は、信徒と違って、「教える」任務を司教から委任されますが、司教の統治権は持ちません。司祭は委任という意味で、「教える教会」と「教わる教会」とをまたがる存在です。


ところで「Jurisdictio・栽治権」と呼ばれる権能があり、これは「統治権」でもあり、「霊的な職務を正当に実行」する権威です。一方で教皇が、他方で司教たちが、この栽治権を持ちます。

注意しましょう。混同してはいけません。先ほどの「叙階(聖化)の権能」では、一方で司教たち、他方で司祭たちとの間の位階制でした。
「聖化の位階制」については、教皇でも、他の司教たちと変わらない権能しか持たないことになります。聖化上の権能においてだけです。
統治上の権能については、教皇は司教たちより優位な統治権を持ち、より多くの権限を持つのです。

公教会の構成は、教皇と司教たちからなり、司教たちは教皇に依存するという構成です。教皇は、「全世界の牧者」あるいは「聖なる父」あるいは「ローマの司教」とよばれ、全世界に及ぶ権能を持つのです。万国に及ぶ権能です。
注意しましょう。正しく理解せねばならない命題です。「全世界で何でも好き勝手にできる」という意味の「全世界に及ぶ権能」ではありません。「全世界の権能」とは、教皇が「全世界にある教会を対象に権能を持つ」ということです。具体的にいうと、教会に属さない人々に対して、何の権能もありません。ある社会において、権能があるということは、当然、社会に属する人々に対してのみ、その統治権があるのです。

教皇は全世界における全ての教会への権能を備え、これは主イエズス・キリスト御自らから直接に授かった権能です。聖ペトロが主から直接に最高の権能を頂いたと同じように、教皇も直接に最高の権能を頂きます。教皇の権能は私たちの主によって与えられたのです。



しかしながら教皇は選挙によって選ばれるのではないかといわれるかもしれません。確かに、枢機卿団によって教皇が選ばれます。前教皇が亡くなられたら、枢機卿が集まって、新教皇を選び出すのです。教皇を選ぶ団体は「枢機卿団」と言います。
枢機卿とは教皇の輔弼者(顧問者・助言者)の役を務める聖職者たちです。枢機卿には司教が多いのですが、司教ではなくても枢機卿になれます。枢機卿たちは教皇の責務において、教皇の働きを助ける人々です。教皇の「輔弼」です。
枢機卿たちは集まり「枢機卿団」が新教皇を選び出しますが、枢機卿たちが教皇に権能を与えるのではないのです。枢機卿たちが、自分の権能を教皇に委任するのではありません。全く違います。教会は決して民主主義ではありません。君主制です。教皇の権能は直接に天主から由来します
言い換えると、教皇の選定は次のようになります。枢機卿たちはある候補者を選定します。選定された候補者は選定の旨に対して同意するか拒否するかです。同意したら、教皇になりますが、教皇としての権能は枢機卿からではなくて、私たちの主イエズス・キリストなる天主御自らから頂くのです。つまり、上から垂れ給う権能を授かることによってこそ、教皇となります。枢機卿らは新教皇の至上権を示し、至上権を認めるために、新教皇の前に伏するという儀式があります。
つまり、教皇は、単に、他の枢機卿らと同等の一人ではないのです。
司教職に至っては、更にそうです。

同等のうちの第一の人をラテン語で「Primus inter pares」と言いますが、教皇はそうでは決してありません。教皇は単なる「Primus inter pares(同類の間の第一)」ではありません。つまり、教皇職は単なる「名誉上の首位」ではありません。例えてみると、ある会議に皆「同輩」、「仲間」、つまり対等な立場にいるものの、その一人に「司会」を委任するというか、「面目上のある種の優位性」を与えるが、本質的に皆同等ということにおいて変わらないといったようものは、教皇の至上権とは全く違います。いや、教皇の権能は司教たちの権能と同質のようなものではありません。
教皇の権能は司教たちの権能に勝るのです。以前にもご紹介した通りに、私たちの主は聖ペトロに「子羊を牧せよ」 と命令されます。つまり信徒たちへの権能。それから「羊を牧せよ」 と命令されます。つまり「牧者の牧者になれ」、つまり「司教たちを牧せよ」という命令です。
したがって、教皇は司教たちに対して、真の権能を持ち、司教たちの頭なのです。
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以上は、カトリック教会の頭である教皇の位置付けのご紹介でした。

「教導権と統治権」に基づく「栽治権」は、「教皇」と「司教たち」とでは違ったやり方で備わっています。
司教たちには、教会において、真の権能が備わっています。司教は、使徒たちの継承者です。使徒の継承者である故に、教会における栽治権を持つのです。
ところが注意しましょう。司教の統治権は従属関係にあります。司教たちの統治権はあくまでも教皇から委任されています。言い換えると、公教会において全世界に及ぶ統治権を持つ教皇は、司教に教区(言い換えるとテリトリーの一部)を託することによって、その統治権の一部を司教に委託するのです。司教の統治権は直接に教皇に委託されている統治権なのです。教区における司教の統治権は教皇から与えられました。そして、勿論、教区において、司教こそが立法者であり、本当の意味で、司教こそは教区の正当なる統治者です。とはいえ、教皇から統治権を委託されていることに関して変わらないのです。

いつも統治権において、司教は教皇に対する従属関係にあります。なぜこの点を強調する必要があるというと、司教と教皇の統治権は違うからです。まず、司教なら、どこでなにを統治できるかは、司教が決めることはできないからです。
裏を返せば、ある司教が勝手に栽治権を自分で自分に与えるのなら、教会分裂を起こす行為です。つまり、教皇から離れる行為なのです。つまり、離教というのは、教皇の承知以外に統治権を簒奪するような行為に他なりません。また言い換えると、統治権上に教皇への従属関係を否定することによって、イエズス・キリストへの従属関係を否定することになり、教会から離れることになります。だから、統治権上という次元において、ある司教が教皇からの「独立」を求めてしまったら、離教者になります。教会から自分で離れてしまうことになります。

司教の統治権は教皇に直接依存しているのです。こういった要素こそ、教会の構成を特徴づけます。教皇は唯一です。教皇という一人の牧者だけは、統治するために他の司教たちに何の依存も関係もありません。つまり、独りで統治できるのです。親政できるのです。なぜ強調するかというと、近代的な「団体制」(collegialité)という誤謬に反対している信条だからです。「団体制」という謬説によると、教会内の統治権は「全司教によって全司教の名において」実行されるとされます。いえ、教会は君主制です。「私は言う。あなたはペトロ(岩)である。」「あなた」とおっしゃるのですから、聖ペトロにむかってだけのお言葉で、司教たちは関係ありません。続いて、「私はこの岩の上に私の教会を立てよう。」 、また「羊を牧せよ」 と仰せになった通りに、統治上のすべての権能は教皇に依存し、教皇に起源を持って、教皇から湧いてきます

その上、教皇の統治権はイエズス・キリストから直接与えられています。というのも、以前にご紹介した通り、教皇は「キリストの代理者」だからで、教皇の使命は、主イエズス・キリストの使命を引き続き、信仰と秘跡をもって続けるということです。そして、当然ながら、教皇の統治権の対象は「信仰と秘跡」に関することだけです。(世俗上の統治権ではありません。)以上は公教会の構成・構造でした。

「公教会の外に、救いなし」の解説 【公教要理】第六十二講

2019年09月21日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十二講 公教会の構成員について



「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」。
信経の第九条です。大事な信条です。というのは、第九条を宣言する時に、次の真理を思い起こすからです。
つまり、私たちの主は公教会を創立し、カトリック(普遍)教会として位階制のある社会として公教会を創立なさったという真理を再断言するからです。しかしながら、この第九条は単なる一つの真理を信じるだけでよいといった真理ではありません。というのも、この第九条はカトリック教会に属するように要求する信条だからです。
言い換えると、第九条の信条はカトリック教会の一員になるように、公教会の構成員になるようにと要求する信条です。

私たちの主は聖マルコ福音書では次のことを仰せになりました。「信じない者は滅ぼされる」 。また別の場面で、「私の味方でない人は私に背き」 とも仰せになりました。

従って、天国に入りたいと思うのなら、確かにカトリック信徒ならば天国に入ろうとするし、天国に入ろうとすべきですが、天国に入りたいと思うのなら、私たちの主イエズス・キリストに従う必要があります
私たちの主イエズス・キリストに従うための手段は単純です。私たちの主の公教会に属する必要があるということだけです。
つまり、霊魂の救いを得るために、特別に明白にイエズス・キリストによって創立された公教会に属すべきだということです。

私たちの主は十字架上で死に給うたお陰で、天の門を開け給いました。ところが、私達が実際に天国に入る為には、用意し給うたカトリック教会を通る必要があります。ノアの箱舟こそ、公教会の典型的な原型です。言い換えると、ノアの箱舟こそがカトリック教会の象徴です。ノアの時代に大洪水があった時に、ノアの箱舟に乗っていた者だけが全て大洪水から救われました。ノアの箱舟は公教会を示します。だから、次の信条を再断言しましょう。信仰の一つの教義で、信じるべき信条です。

「公教会の外には、救いなし」という信条です。つまり、カトリック教会に属さない人々は、救われることはない、のです。公教会の外では救いを得ることは不可能です。
勿論、この信条を正しく理解しましょう。救いを得られない人とは、自覚しながら意図的に誤謬を掲げ続けて、公教会が何であるかを知っているのに、入ろうとしない人々を指します。

また、公教会は本物の教会であることを確認し、公教会の四つの特徴を確認して、二千年以上に存続し続けたという、常時の奇跡とでも呼べる公教会の真相を確認して、また信徒と聖職者をも含めての人間の弱みや罪や悪にもかかわらず存続し続ける公教会という奇跡を確信したのに、本物の教会に属することを拒絶する人は、救いを得ることは不可能だということです。

以上の人々と違って、公教会を全く知らない人がたくさんいます。素直な無知の者ですが、現代なら大昔より多少、少なくなったかもしれませんが、国あるいは場所によってカトリック教会を全く知れない人々はまだたくさんいると言えましょう。それでは、カトリック教会の存在さえ知らずに、公教会に接触する機会もない人々。こういった人々は救いを得られるでしょうか。教義は「公教会の外には、救いなし」です。これは教義ですから、受け入れるべき信条で、信じるべき信条なのです。

ところが、克服できない無知に陥っている人々に対して、この信条をどう理解すべきでしょうか。ここで、神学上、次の区別があります。
公教会の身体公教会の霊魂という区別です。微妙で繊細な区別です。なぜかというと、我々が常に経験している「霊魂と身体から構成される人間」という経験に類似する区別ですから、妙に理解しづらいところがあるかもしれません。類似に過ぎないので、両方の間に似ている側面もあるとはいっても、相違する側面も多いということです。

「公教会の身体」という表現を使う時、「社会としての公教会」ということを指します。公教会の入門をご紹介した時に少しだけ触れましたが、「公教会の霊魂」とは、「全くその存在さえも知らないという理由だけで、社会としての公教会に属することができない人々も、聖寵の状態にだけはなれるが故に、救いを得られる」という可能性を指します。言い換えると、無知のままに置かれていて知ることができないため公教会に属すことができない人々には、聖寵の状態になれるなら救いを得られることが限定的にあり得るという特別な可能性が語られています。
勿論、公教会のことを知った者なのに、入ろうとしないのなら、善意であり続けることはあり得なくなるので、公教会の霊魂に属することはできないということです。
従って、公教会を知りえない人々である条件のもとに、少なくとも自然法に従って「聖人」のように生きてきた人ならば、彼らのことを「良心」の人々と呼ぶのですが、彼らは「公教会の霊魂」に属するといえます。教皇ピオ12世は以上の公教会の教義を特に明確にしました。

次のことは明らかに言えます。
社会としての公教会、つまり「公教会の身体」に、簡単に言うとよく知られている「公教会」に属さない人々はだれでしょうか。
第一に、異端者です。「異端者」という言葉はギリシャ語に起源を持つのですが、「ある教義を否認した者」です。ギリシャ語の語源の意味は「選ぶ」という意味です。本来ならば、信徒の「天主は誤ることが不可能なので、天主に啓示されたすべての教義を受け入れて信じる」という態度の真逆で、異端者とは「自分勝手に教義の中で選びをする」者です。そうすると、異端者は、結局「天主の啓示を理性の下に置いてしまう」のです。「理性の方が絶対だ」という傲慢。「理性は天主の真理より上だ」という傲慢です。つまり、「理性が、理性の上である最高の真理なる天主を裁ける立場にあるぞ」という幻想です。従って、異端者は、教義の中の教えを 勝手にあれを取ったり、これを捨てたりする者です。積極的に、意志をもって、教義の一つだけでさえ排除してしまったら、異端者となります。言い換えると、信仰を失う行為になります。なぜかというと、啓示している天主という信仰の形相を失うことになるからです。従って、異端者は公教会に属さないのです。
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第二に、異教徒があります。異教徒は洗礼を受けていない人々です。語源の意味の通りに「in・fideles」は「信仰なし」の内に生きている人々を指します。「信徒」という言葉にもある「信」と同じ「信仰」です。以前にも申し上げたように、「信仰」こそが公教会の基礎と根拠となります。つまり「信仰」によってこそ、「信徒」になりえて、公教会の一員となるのです。
一方、異教徒は信仰を持たず、さらに言うと、信仰の基礎となる「洗礼」を受けていない人々です。繰り返しますが、洗礼を授かって初めて超自然の信仰を得られ、そして、信仰のお陰ででこそ、永遠の命を得ることが可能となります。そこで、洗礼を受けていない人々は「異教徒」と呼ばれて、公教会に属していません。言い換えると、異教徒は「公教会の外にある」ということです。従って異教徒には救いを得ることは不可能です。

第三に公教会の外にあるのは、その他の離教者たちです。離教者は「教皇の至上権を否認する者」を指します。従って、「正当なる権威への従順を否認しながら、権威としての権威を否認する者」を指します。言い換えると「私たちの主イエズス・キリストご自身によって望まれた権威を否認する者」を指します。これが離教者です。公教会の権威を拒絶して離れることになります。要するに、結局「位階制の教会」という教義を否認するのです。そして、大体の場合は、別の位階制を作るか、何かの別の社会を作るかです。この意味でこそ「離教者」だと言います。公教会の権威から離れて、その権威を切り捨てます。離教者は公教会に属しません。

次は第四に、棄教者も公教会に属しません。「棄教者」は「自分の宗教を否認した者」を指します。言い換えると、カトリック宗教を拒む者。現代に時々ある話ですけど、ある洗礼者が「洗礼を無い事にしてほしい」という典型的な棄教者。洗礼を無いことにすることは無理なのですが、「教会の洗礼者名簿から取り消してほしい」といった棄教者。言い換えると、受け継がれた信仰を完全に否認し捨てるということになります。それが棄教者です。たとえてみると、ある子供が自分の家族を否定するような感じなのです。当然ながら棄教者は自分の動きで公教会を去るのです。公教会に属しませんし、救いを得ることはできません。

最後に第五に、破門者として正式に「破門の宣言」された者も公教会に属しません。「共通善に対する深刻な過失を犯したせいで、信徒たちの通功から追放が宣言された信徒」です。従って、破門者たちは公教会の共通善に反逆した故に、公教会の共通善を享受することは不可能となります。要するに、公の祈祷やその他の公教会の恩恵を受けられなくなり、また公教会の秘跡を授かることは不可能となります。破門者は共通善を害した故に破門されるということです。また、公教会において信仰或いは秘跡という死活にかかわる根本を破壊しようとしたゆえに、破門されるのです。
ほとんどの場合、破門の理由は信仰あるいは秘跡を害することにあります。従って、破門者は公教会の身体に属しません。言い換えると、「公教会の身体」という時に、社会なる公教会に属しないということなのです。
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先ほど公教会の霊魂についてご紹介しました。「公教会の霊魂」とは、信仰によってだけ公教会に属しながらも、社会としての公教会に属しない人々を指します。あえて言えば、社会としての公教会に属していないものの、諸聖人の通功としての公教会に一応属しているということです。これは存在することはするといっても、常例でも普通でもなく、例外的なことです。
本来なら、あるはずがない場合です。それでもなぜ存在しているかというと、本物の善意の心を持ち、キリスト教的に聖徳を実践しながらも、カトリック公教会を知ることは不可能な状況に置かれたから、「公教会の霊魂」にだけ属するからです。

しかしながら、厳密に言うと、「公教会の霊魂」に属しているには、「聖寵の状態」にあることが必要です。言い換えると、天主の生命に活かされる必要があるということです。というのも、「公教会」というのは、常にこの世に注がれるイエズス・キリストの生命に他ならないからです。イエズス・キリストの御教えと生命こそ公教会なのですから。
従って、「聖寵の状態」にありながらも、社会としての公教会を知ることも出来ない者は「公教会の霊魂」に属するといいます。当然なのですが、「公教会の霊魂」に属するのなら、救いを得ることはできます。ところが、大事なのは「聖寵の状態」において生きる必要があります。つまり、罪の状態において生きている者、反自然状態に生きている者は当然ながら、「聖寵の状態」において生きることは不可能なのですから、天国には入れず、救いを得ることは不可能なのです。

以上、「公教会の外に、救いなし」という教義の意味をご紹介してみました。



これは私たち一人一人の救いにとっても極めて大事な教義です。イエズス・キリストが確かに天門を開けてくださいましたが、天の門に辿る道は一つしかありません。典礼や祈祷に頻繁にある「Per Christum Dominum nostrum」の通りです。「私たちの主イエズス・キリストによりて」。「私たちの主イエズス・キリストによりて」とはどういう意味でしょうか。

「公教会を通じて」という意味に他なりません。いや、より厳密に言うと「イエズス・キリストの公教会を通じて」という意味です。

思い出しましょう。十字架上の私たちの主イエズス・キリストは槍に刺されて貫かれました。既に死なれた時に、十字架刑に関する通例の規定に従って、そこの兵士は槍をもって、イエズス・キリストの心臓を刺しました。目撃者だった聖ヨハネによると、血と水が湧いてきたという記録があります。この「水と血」は「諸秘蹟」を象徴しています。水は洗礼という秘跡を、血は霊魂を養うミサ聖祭を。その上、「私たちの主の御血は罪の償いのために流された御血」なのですから、「改悛の秘跡」をも象徴します。教父たちが揃って「御脇腹より公教会が生まれた」と解釈します。公教会こそは「イエズス・キリストの神秘的な浄配」で、第二のアダムであるキリストの「あばら骨から生まれ」たのです。エヴァがアダムのあばら骨から生まれたように、公教会もキリストのあばら骨から生まれました



アダムとその配偶者であるエヴァと、イエズス・キリストとその神秘的浄配である公教会の間に、類似関係があります。つまり、「私たちの主イエズス・キリストによりて」救いを得るというのは、必ず神秘的浄配である「公教会によって」救いを得ることになります。なぜかというと、公教会とイエズス・キリストは一体となっているからです。公教会は、時におけるキリストの延長なのですから。




カトリックとプロテスタントと正教会 【公教要理】第六十一講

2019年09月17日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十一講 公教会に対する反論



「聖なる公教会を信じ奉る」。
前回にご紹介したように、私たちの主イエズス・キリストの使命を引き続いて地上において続ける教会を識別するには、四つの特徴を確認すれば良いのです。
「一性、聖性、普遍性、使徒継承」の四つの特徴でした。この四つの特徴のお陰で、公教会に対する幾つかの反論を解決することはでき、その他に別の反論をもたらすでしょう。

第一に、反論を解決することを見ていきます。特にプロテスタントと正教会による反論に答えます。ある典型的な反論はこれです。
「でも、プロテスタントこそカトリックではないだろうか」
「でも、正教会こそカトリックではないだろうか」と言った反論です。

勿論、プロテスタントの諸派の教義と、正教会あるいはギリシャ離教教会の教義の誤謬性を示すことはいくらでもできますし、機会があったら今度ちょっとご紹介しようかと思いますが、それよりも単純な方法があります。

プロテスタントであるにせよ、正教会であるにせよ、この四つの特徴を持つかどうかを検討すればよいのです。言い換えると、「私たちの主イエズス・キリストに完全に本当に依存するだろうか」という質問に答えてみたら良いのです。というのも、前回ご紹介した通り、四つの特徴の一番大事なところは、「一性、聖性、普遍性、使徒継承」の四つの印の最も大事なポイントは、私たちの主イエズス・キリストへ収斂するような流れであるように、時間と時において教会は、私たちの主イエズス・キリストの「一性、聖性、普遍性、使徒継承」を反映するに過ぎないということです。

だから、考えてみましょう。プロテスタントに一性はあるでしょか。聖性があるでしょうか。普遍性があるでしょうか。使徒継承があるでしょうか。同じように、ギリシャ離教教会についても同じ質問をしてみましょう。
プロテスタントに関して「一性」を見出せるのはどう見ても難しい事だと言わざるを得ません。というのは、プロテスタントにおける「自由解釈」という教義、つまり聖書を読んで自由に自分の解釈を加える「自由解釈」というプロテスタントの原理は、一性を破戒します。ところで「自由解釈」こそが、プロテスタントを特徴づける要素です。「自由解釈」というのは、それぞれ自分なりに勝手に解釈してもよいという原理です。「自由解釈」という原理から必然に出てくる帰結は、限りのない分離の連鎖と宗派と派閥の絶えることのない増加という結果に繋がってしまいました。

結果は、それぞれのプロテスタントの宗派の間に、何の統一性もないし、一性もありません。教義上の一性も全くありません。プロテスタントの諸セクトがあるという感じですが、一性は全くありません。残念ながら、ある種の一性をどうしてもしいて見出そうとしたら、否定的な一性に過ぎなく、つまりカトリック教会に対するある種の嫌悪のみが何とかプロテスタントでは共通しています。ところが、否定的な共通性に過ぎなくて、何かを生み出せるような一性ではありません。いわゆる破壊しようとする一性に他なりません。一方、カトリック教会の特徴である「一性」はあえて言えば肯定的で、教義と秘跡を肯定する一性です。一なる教義と秘跡の故に、一性を持つカトリックの司牧者たちを中心とする教会です。したがって、プロテスタントには、一性はありません。

それから「聖なる」という特徴において、プロテスタントはどうでしょうか。一番やりやすいのはやはり創立者の性質をみて、その人物の聖徳の実践を検討すれば一番早いでしょう。残念ながら、プロテスタントの諸宗派を創立した人々は、ルターにせよ、カルヴィンにせよ、ツヴィングリにせよ、残念なことに、聖徳では知られていない人物ばかりであると言わざるを得ません。ルターの人生の伝記を読んでみるとどういった悪徳の内に彼の人生が終わったかは、残念なことに、目に余るほどです。従って、プロテスタントでは聖というのはありません。ルターは、秘跡の聖性でさえを否定してしまいました。また、その他の聖化の方法のすべてを否定してしまいました。断食や祈祷や福音的勧告や誓願や聖母マリアに対する崇拝などをすべて否定してしまったのです。以前にも、童貞聖母マリアについてご紹介したことがありますが、いとも聖なる童貞母への崇敬を否定すると、聖母の聖性をも拒絶します。
プロテスタントでは、諸聖人などは崇敬されてはいません。また、プロテスタントの構成員の間に、「聖人」と言ったような溢れた聖徳を実践し遂げた者を、いくら検討しても出てきません。「善い人」がいるかもしれませんが、「英雄的な聖徳の内に偉業を遂げる」ような聖人はいません。



第三の特徴である「カトリック性・普遍性」はどうでしょうか。プロテスタントというのは16世紀に生まれたのですが、確かに世界中に広まりはしました。それは事実ですが、宗派はまったくばらばらなので「プロテスタントが広まった」とはいっても、同じプロテスタントなのではありません。こういった状態なので「普遍性」を欠いています。というのも、一性の欠如の故に、普遍性を不可能なことにしています。というのも、普遍性というのは、時代を問わず場所を問わない一性だと言えるからです。それで、教義上の一性がなければ、時間において長く存続することも出来ないし、場所においても長く存続できないということです。要するに、プロテスタントのセクトは無数である故に、無数の「プロテスタント宗派」があって、例えばドイツならルター派とか、ジュネーヴならカルヴィン派とか、イギリスなら英国国教派とか無数にあります。その多数の故に、何らかの普遍性をも不可能にしています。また、その多数の宗派の故に、それぞれの構成員が纏まることを不可能にしています。

最後に、プロテスタントには使徒継承という特徴は全くありません。というのも、当初から、使徒からの聖伝の大部分を切り捨てて、使徒という基盤から離れてしまったからです。その上に、プロテスタントは単なる人間に由来している諸派にすぎません。何らかの宗派にしても、ルターをはじめその創立者たちは単なる人間にすぎなく、使徒たちから受け継がれた使命は全くありません。それらの創立者は自分勝手に妄想した使命を自分で自分に与えたにすぎません。

要約すると、公教会を特徴づける四つの刻印はプロテスタントにおいて一つもありません。従って、プロテスタントは私たちの主イエズス・キリストが望み給った救済の道ではないということです。プロテスタント主義はイエズス・キリストの働きを続けていないということです。私たちの主イエズス・キリストにおいてそしてイエズス・キリストの働きを引きつぐ教会において見いだせるべきこの四つの特徴は、一つもプロテスタントにはありません。
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今度ギリシャ離教教会の方に目を当ててみましょう。また正教会と呼ばれていますが、検討してみると、キリストの真の教会であることを識別できるこの四つの特徴がないということが分かります。ほぼ千年前にあったギリシャ離教は間もなくして多くの独立した教会に分かれて、お互いに何の関係も繋がりもなくなりました。それぞれの教会は自分の権威者を持つほど、完全にそれぞれが独立しました。さらにいうと、それぞれの教会の権威者の間にかなり多くの争いがあるほどです。要するに、プロテスタントとおなじように、正教会と言っても、纏まった教会ではなくて、それぞれ全く独立していて、一性はないということです。



次に、聖性に関してどうでしょうか。創立者に目を当ててみましょう。残念ながら、9世紀のフォティオスと11世紀のミハイル1世という創立者たちを見ましょう。そういえば、カトリックからの離教自体は1054年に起こしたのですが、9世紀のフォティオスこそが、その離教を始めた人物です。フォティオスもミハイル1世もローマ教会から離れてしまったのは、野望のせいであるに他なりません。また、自分の支配権を確立するためだったし、また愚かな聖職者たちの間の喧嘩のせいで分離までしてしまったのです。

結果として、正教会の歴史を見ると、奇跡は非常に少ないと言わざるをえないし、聖人も輩出しないし、偉業も生まれなくなったということです。ギリシャ離教教会には普遍性が全くありません。主に東方を中心にやっているだけです。世界中に広まってはいません。

使徒継承にかんして、ギリシャ離教教会はかなり早い段階で、使徒の教えを捨てた部分があります。以前にご紹介したように、特に聖霊の発生に関する使徒的教義を否定してしまいました。「聖霊は聖父と聖子より発する」という信条を否定してしまいました。ギリシャ離教教会は、「聖霊は聖父よりしか発しない」とするのです。さらにいうと、残念ながら、公教会の司牧者である教皇との繋がりを切り捨ててしまいました。公教会の位階制と聖ペトロの継承者であるキリストの代理者である教皇から離れて、そのつながりを切り捨ててしまいました。すると、公教会の使徒継承の基盤へのつながりを切り捨ててしまいました。従って、正教会は「一性、聖性、不偏性、使徒継承」の一つも持ちません。だから、正教会は私たちの主イエズス・キリストの働きを受けついで続ける教会ではありません。

以上、主な「諸教会」に関して簡潔に言えることをご紹介しました。以上のように、神学上に議論に入らなくても、信徒の誰もが知っている公教要理だけでも言い返せることをご紹介しました。
四つの特徴を基準に検討してみるとかなり評価しやすくなります。要約すると、私たちの主イエズス・キリストとご自分の公教会の四つの特徴を持たないからこそ、主の働きを続けていない諸教会と言えます。
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次に、以上のようにカトリック教会に対しても同じ反論で攻めることはできるのではないかという問題を検討しましょう。この課題を無視するわけにはいきません。時間の問題で、完全にすべてを深く説明しきれなくても、幾つかのカトリック教会に対する主な反論を取り上げましょう。

例えば、歴史上にあった諸スキャンダルが良く揚げられています。しかも、最高の権威者たちの間でさえ今でもスキャンダルが出ています。10・11・12世紀において、破廉恥の歴代教皇が何人かいたのは確かだし、時に最低の行為も司教たちの間にあったのも事実です。それに対してどう答えたらよいでしょうか。

まずそれらのスキャンダルなどは、公教会の御教えによって起こされた事件ではないと言うべきです。それらのスキャンダルと罪は必ず「自由意志」の乱用によってこそ出てきたので、公教会は常にこういった行為や罪を断罪したし、罰し続けています
つまり、これは非常に大事ですけど、公教会がいつも悪者を悪者として断言して、スキャンダルや罪を奨励するようなことは一切なかったのです。いつも厳しく罰して断罪し続けました。そこで、公教会とその聖職者の間に潜り込んできたすべて悪徳は、絶えず断罪され続けて罰され続けました。これからも断罪され罰され続けるでしょう。また、必ず、多くのスキャンダルに時代の後に、偉大な聖なる教皇が現れます。例えばイルデブランドの聖グレゴリオ七世とか全力を尽くし、あらゆる手段を尽くして、広まっていた悪用や乱用を根絶します。

またほかの典型的なカトリック教会に対する批判は「不寛容」です。
例えば、アルビジョア派聖地への十字架軍派遣とかです。また尋問裁判所とか。それぞれ一つずつは検討すべきかなり広い課題です。それらの課題について多く言われたりしますが、残念ながら、言われている多くのことは間違っていると言わざるを得ません。それぞれの課題について、それぞれの時代背景も理解した上で、教会史の講演をして、その真相を紹介する必要があるでしょう。実際のところ、乱用と言われている十字軍などは、乱用でもなんでもなかったというのが真相です。公教会はいつも絶えず託された遺産を守ろうとし続けてきたのがポイントです。

主は御教え・聖性という遺産を託して、その遺産を守る為に公教会を制定なさったのです。公教会は当然ながらその遺産を広め、広く配分し続けたのですが、時に遺産を守る為に厳しい態度をせざるを得なかった時も生じました。家長と似ているといえましょう。家族における父は、あえて言えば子供を通じて自分の存在を存続・延長するという側面があると同時に、自分の子供たちが善い道を歩み続けるために、罰したり厳しくしたり正当な手段を使うのはごく自然のことで、使わなかったら無責任な父になります。

この例でみるように、どの指導においても、両側面があるのです。勧善懲悪ですね。また一方、家業であれ何であれ、ある働きを継承し続け、さらに発展させようとする勢いもあり、同時に指導というもう一つの側面もあります。これは引き継がれた遺産という善を守ろうとする時に必要なのです。例えば、十字架軍を取り上げるなら、公教会は聖地に巡礼に行っていた信徒たちを守ろうとしていたのです。巡礼者たちは必ず巡礼中に襲われたり盗まれたりしていたので、彼らを守る必要が生じたのです。また同じくイスラム教徒たちに略奪されて占領されてしまった聖地を守ろうとしました。単純な正当防衛でした。

また、アルビジョア派も、公教会はカトリック教義を守ろうとしたのです。尋問裁判所でさえも、ほとんどの場合に大げさに言われています。例えば、宗教裁判による死者の数は出鱈目ばかりです。どれほど公教会が憐れみ深く判決を出したかは、裁判の判決文さえ読んでみたらすぐわかるのです。
大体の人々は、一次史料を無視しながらいろいろなことを断言するのですが、一次史料さえ読んだら、公教会がどれほど慈悲深く裁いていたかが分かっています。悪を成していた人々をあらゆる手段を尽くして最後の最後まで回心させて助けようとし続けていました。

またある病者が癌でも、いや壊疽にかかってしまっても、生き残る為に腐っている四肢の一本を切断することを一瞬も憚れません。当然でしょう。この病者が生き残る為に自分の四肢の一本を切断せざるを得ないことを決定した時に、かれに「なんだ!この酷い者。あなたの四肢の一本の尊厳はどうなるのか」と言われたら理不尽でしょう。違うでしょう。その四肢の一本のせいで、全身が腐りかけて、病者が死にそうになっているのではないでしょうか。切断しなければ死ぬことになるという状態です。

公教会もこういったような非常な状況に遭うこともあります。つまり自分の体から一部を切断し切り捨てなかったら、公教会全体が滅びるというような状況にあったら、切断せざるを得ません。つまり、悪と誤謬を公教会内に広めていく人々のせいで、公教会が滅びる危険に晒されている時に、健全な社会として自分の存続を守るべきです。

だからこそ、私たちの主イエズス・キリストは、聖ペトロに本物の指導権を与え給ったのです。この権能によって、体内で弊害を起こしている部分を切り捨てる権能があるのです。以上のような発想でそれらの歴史を見るべきです。

また、典型的な批判は、公教会が「科学」に反対しているとかもあります。有名なのはガリレオ事件ですね。一次史料を読むのをお勧めします。そうすると、すぐ明白になります。まずガリレオは何の虐待、何の厳しい刑も受けたことはないことが確認されます。しかも、ガリレオは、当時の教皇の親しい友人だったし、Bellarmin枢機卿のお陰でガリレオ事件は一旦何も問題なく収まったのです。ところが、残念ながら、数年後に事件が再発したものの、ガリレオが諸教皇や多くの枢機卿たちの庇護を得たのは事実です。

また、公教会はずっと学問の味方であり続け、学問を保護し続けました。ピオ十二世の御代を見たら、すぐわかるでしょう。ピオ十二世は科学を激励しました。どれほど多くのカトリック信徒が科学者で、学者で、天才であって科学の進歩に貢献し発明をしたかを見たら明白明瞭でしょう。以上のような課題は現代になって微妙に取り扱いにくくなりましたが、時間の問題でそれぞれ細かく深い入りできないものの、それぞれの問題に対して表面にとどまってはいけません。それではなくて、一次史料を中心にもうちょっと詳しく調べて見ようと思ったら直ぐ明白になってきます

そういえば、それぞれの課題に対して、公教会が何の遠慮も何の恐れも感じていません。簡単にそれぞれの真相を打ち出して、弁明することができるからですが、公教会に弁明させ得る余地も無くしているのは、どれほど不正なことでしょうか。

要するに、それぞれの問題に対して、歴史学の方法をもって一次史料を調べるのは第一の規則です。どれほど公教会が全てを施し続けてきたか再確認すればよいでしょう。使徒たちに向けて私たちの主イエズス・キリストが仰せになったことを思い出しましょう。ある意味で、公教会の「第五の特徴」であるといっても過言ではないかもしれません。とにかくカトリック教会の典型的な特徴です。

使徒たちに「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだことを忘れてはならぬ」 と仰せになった通りです。そこで、公教会の第五の特徴とで呼ぶべき特徴は、常に迫害されていることです。もう当初から迫害されたし、そしてその後に現代までずっと絶えずに迫害され続けている教会です。

当然ながら苦痛を礼賛してはいけないのですが、確かに次のことが言えます。私たちの主イエズス・キリストを死なせたい気持ちがあったと同じように、公教会を死なせたい気持と迫害しようとする勢いが実際にあって、いまでも続いていることも間違いありません。だから、イエズス・キリストに続いて、公教会も迫害されています。でも私たちカトリック信徒はこの迫害を受け入れて、自分の霊魂と隣人霊魂たちの回心を得るための償いとして受け入れます



公教会を識別するための四つの特徴とは? 【公教要理】第六十講

2019年09月14日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第六十講 公教会の特徴について



イエズス・キリスト曰く「一つの群れ、一つの牧者」 と聖ヨハネの福音に記されています。その通りに、私たちの主がご自分の公教会を制定なさいました。つまり、主は、公教会の頭として至上の牧者である教皇と本物の位階制と信徒たちとからなる一つの社会を制定しました。

公教会というのは、時において、霊魂たちの聖化のために私たちの主イエズス・キリストの御業を引き継いで続ける社会です。

御自分の教会を簡単に識別できるように、私たちの主イエズス・キリストは公教会に四つの特徴(しるし)を与え給うたのです。「公教会の特徴」と呼ばれますが、時空を問わず、時代や地理的な場所を問わず、イエズス・キリストが制定して以来、世の終わりまで、公教会は全く同一のままです。つまり、制定から世の終わりまでいつでも同じ教会です。こういった本質的に変わらない教会が、信徒たちあるいは良識ある霊魂たちの誰によっても、容易に識別し認定できるように、教会に四つの特徴が与えられたのです。
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第一と第二の特徴は周知の通りです。信教の信条を読むと「聖なるカトリック公教会を信じ奉る」とあります。
つまり、公教会の第一の特徴は「聖」であることということです。そして第二の特徴は「カトリック」であることです。

主日のミサ聖祭の時に唱えるニケア信経の中に、四つの特徴が記されています。「Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam ecclesiam」「唯一、聖、公、使徒継承の教会」を信じ奉る。
「Et unam(唯一), sanctam(聖), catholicam (公・普遍)et apostolicam (使徒継承)」。これらは存在するすべての諸教会とすべての社会・組織・国家を検討するなら、キリストの教会を特定・識別できる四つの特徴です。

私たちの主イエズス・キリストが制定なさった教会、つまりカトリック教会が「一、聖、公、使徒継承の教会」です。

次にこれらの四つの言葉の意味を説明してみましょう。
まず、なぜこの四つの言葉が使われているのかと思われるかもしれません。先ず、公教会と主イエズス・キリストとの継続性を強調するためです。なぜでしょうか。私たちの主イエズス・キリストご自身がこの四つの性質の完璧な持主だからです。

第一、イエズス・キリストは「一」でした。つまり、聖父(ちち)と聖子(こ)とは完全に一にして、唯一の天主です。聖なる三位一体の第二位格としての私たちの主イエズス・キリストは「私と父は一つである」 と仰せになった通り、聖父と聖子とは完全に一つであって、唯一の天主です。また、地上においても、二つの本性を持つイエズス・キリストは、同一の唯一のペルソナ・個別の存在です。このペルソナ・特定の存在が唯一であるからこそ、人間の本性と天主の本性は唯一のイエズス・キリストという存在において共存出来ています。つまりイエズス・キリストには「一」という性質があります。

私たちの主イエズス・キリストには「聖」という性質があります。これは当然なのですけど、イエズス・キリストご自身、ユダヤ人たちに「私に罪があると確認できる人がいるか」 と仰せになった通りです。私たちの主イエズス・キリストには一つの罪もありません。イエズス・キリストはこの上なく聖なる存在で、完全に聖徳を実現し続け、罪一つもありませんでした。

イエズス・キリストは「カトリック」でした。「カトリック」というのは、後述しますが「普遍・公」という意味です。従ってイエズス・キリストはこの上なく至上の光であります。言い換えると、この世を照らす唯一の光、本物の唯一の光であるとともに、イエズス・キリストが天主への接近の唯一の道であるということは「カトリック(普遍・公)」との性質の至上の持主を現す要素です。「私によらずには誰一人も父のみもとに行けない」 と仰せになった通りです。従って、私たちの主イエズス・キリストは、天国に辿り着けるために唯一の道であります。というのも、私たちの主イエズス・キリストが十字架上に死に給うたお陰で、私たちは天国に入れるのです。天国に私たちが行くために払うべき代価は、イエズス・キリストご自身でした。キリストこそが私たちのために御自分の命を捨てたお陰で、キリストの命は私たちの命ともなります。したがって、イエズス・キリスト以外に、救済を得る手段はないのです。私たちの主イエズス・キリストこそが、救済への唯一の手段・道です。

だから、イエズス・キリストは「普遍」な道、まさに唯一のこの上なく「公」の道で、「カトリック」なのです。カトリックとは「公・普遍」を意味しますが、またそれについて補足的に後述します。

イエズス・キリストは「使徒的」でもあります。なぜかというと、イエズス・キリストはこの上なく使わされた者(使徒)であるからです。イエズス・キリストは、聖父から送られて使わされた方なので「使徒」です。キリストご自身が「私は自分で来たのではなく天主から遣わされた」 と仰せになった通りです。なぜイエズス・キリストが「使徒的」なのかというと、イエズス・キリストこそが、使徒たちを選定し、宣教に送った使徒的宣教者だからなのです。

これらの四つの特徴・性質は、私たちの主イエズス・キリストにおいてこそ見出せます。公教会はイエズス・キリストの御業を続ける教会ですから、イエズス・キリストの持つ同じ「唯一・聖・公・使徒継承」という四つの特徴をも持っています。
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それでは、公教会の一性についてご紹介しましょう。何でしょうか。曖昧な意味で「一つになる」といったような、何かみんなで一緒に手を繋ぐようなことではありません。つまり、単に「一緒になって一つの社会をなす」という意味ではありません。
当然ながら、公教会は一般の社会と同じく統一した同一性を持つ、一社会であるに違いありませんが、究極的に言うと、公教会の一性を根拠づけるのは、何よりも先ず「信仰」に他なりません。
つまり、私たちの主イエズス・キリストから頂いた御教え・教義に他なりません。「私の教えは私のものではなく、私を使わされた御方の教えである」 とイエズス・キリストが仰せになった通りです。
公教会の一性を根拠づけるのは「信仰」であり、教会は唯一の信仰をもってこそ特徴づけられています。これは非常に大事なので特に念頭においておきましょう。なぜそれほど大事な特徴であるか、これからの説明で明らかになってきます。

「信仰の一性」という特徴ですが、公教会において普遍的な信仰を識別できる掟です。信仰というのは「何処でも何時でも信じられた」教えです。これこそが信仰の一性を成します。
信仰の一性とは、「使徒たちが信じていた真理」であり、「我々が現在に信じている真理」であり、つまり、二千年の隔たりがあっても、信仰は不変のままで、同じということです。
二千年前に使徒たちが信じていた教義は、彼らが信じていたイエズス・キリストの天主性は、現代において私たちの信じている同じ教義で「信仰の一性」を成します。

この「信仰の唯一性」こそが、私たちの主イエズス・キリストの一性を示しつつ、また聖父との一性を延長するかのようです。以上が「信仰の一性」でした。

それから次に、「一性」は「秘蹟」にも適用されます。霊魂たちの聖化のための諸秘跡にも一性があります。またいずれ、秘跡についてご紹介する際に細かく説明しますが、イエズス・キリストにより制定され、公教会に委託された七つの秘跡は、時空を問わず人々を問わず、全く不変で不動で同一です。

二次元的な「副次儀式・作法」において多少違ったりして変遷があるにしても、秘跡としての根本的な中心と本質は変わりません。その中心をなすのはなんでしょうか。「天主の聖寵」を施すために通る印号(しるし)としての「秘蹟」には、具体的に「質料・形相・授与者の意向」という基本要素が不動で不変で、イエズスに制定された通りで、同一です。信仰の一性の上に「秘蹟の一性」もあります。

その上に「権威の一性」もあるというべきです。位階制における権威の一性。同じ権威ですが、信仰のために、信仰を守る為にある権威です。信仰に仕える権威です。だからこそ、先ず公教会を特徴づける「信仰の一性」が第一にあります。

一般の社会においても、ある「権威」に従っているということだけでは済まず、すべての「権威」はある共通善のためにこそあるということを思い出しましょう。共通善に仕える権威でなければなりません。そこで、ある権威の正当性の基本的な基準は、共通善にどれほど仕えているかということです。一人一人がある社会に属するのも、ある共通善、人間を完成させ得る共通善を追求するためです。一社会である公教会も同じく、人々はある共通善を追求するために公教会に属しているということです。その共通善とは、まさに共通で一性をもち、霊魂の完成を追求する共通善で、天国を得られるという共通善です。

公教会の共通善は具体的に言うと、信仰秘跡に他なりません。言い換えると、公教会の共通善は「理性を照らす御教え」と「聖徳の内に成長させ糧を与える恩寵を注ぐ秘跡」です。権威とその一性は、信仰と秘跡との共通善に仕えるためです。従って、「権威の一性」とは、共通善のため、信仰と秘跡という共通善に仕える範囲内にある時に存在するということです。

以上は、同じ信仰、同じ秘蹟、同じ権威を言う時、概念では区別しているものの、究極的には公教会の共通善として一致しています。信仰と秘跡と権威を分離することは不可能です。
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以上、公教会の一性をご紹介しましたが、次は公教会が「聖」ということです。

どういう意味でしょうか。まず、公教会は創立者であるイエズス・キリストが聖なる故に、聖なる教会です。
ミサ聖祭には栄光頌を唱える時に「Tu solus sanctus御身のみ聖なり」という句で言う通りです。
繰り返しますが、イエズス・キリストご自身がユダヤ人たちに「私に罪があると確認できる人がいるか」 と仰せになった通りです。私たちの主は至上の聖なるお方です。従って、主イエズス・キリストから生まれた公教会は、その創立者が聖なるが故に、聖なる社会となります。また、公教会は聖なる御教えを預かっているが故に、聖なる教会です。

ところで気を付けましょう。その御教えは、公教会が宣教しているから、或いは公教会がその受託者であるから、聖なる御教えではなくて、その逆です。私たちの主イエズス・キリストの御教えであるからこそ聖なる御教えなのです。
時において公教会は、その御教えを預かり、引き継いで、宣教してそして教義の一性を守る使命を持つだけです。

イエズス・キリストの御教えであることにおいてこそ公教会の御教えは聖なのです。つまり、何か公教会内に言い出されているからすべてのモノが「聖である」といったようなレッテル付けなのではありません。公教会においての御教えの神聖さは、時において、代々に連綿として、不変に引き継がれてくる私たちの主イエズス・キリストの聖なる御教えとしての神聖さなのです。


次に、公教会は聖なる構成員を持つゆえに聖です。これも誤解しないように気を付けましょう。教会の一員なら皆聖人だという意味ではありません。
確かに公教会が制定された当初の諸世紀なら、構成員を指して「聖人」とは呼ばれていた習慣がありました。なぜそうだったかというと「聖寵」の状態にあるということを表すためでした。つまり、「聖寵」の状態ということは、「本物の神聖の始まり・第一歩」ということから転じた呼び方です。「聖寵」というのは、霊魂における神聖さの始まりです。

ところで、構成員の故に公教会は聖であるという時、「公教会を通して公教会のすべての構成員は聖徳の英雄的な実践を遂げ得る手段と聖寵が与えられているので」構成員の故に公教会は聖であると言います。教会は、英雄的な聖なる実践を遂げ得るように助けます。

構成員の故に公教会が聖であるとは、確かに、公教会が輩出した列聖されて認められてきた諸聖人を見て、公教会が確かに聖であると確認できます。これらの聖人こそ、それぞれの聖徳を実践する際に、聖徳の英雄的な偉業を遂げ切った人々で、聖人として輝いています。公教会の一員として「聖人になりうる」可能性を実現した聖人たちです。

この意味で勿論私たちへの模範ですが、それより大事なのは、聖人たちは主イエズス・キリストの聖徳の実践の反映であるということです。御覧の通り、「一性」についてと同様に、公教会の聖性について語るときに、必ず私たちの主イエズス・キリストとの関係でしか成り立ちません。つまり、私たちの主イエズス・キリスト抜きに聖人はあり得ません(英雄がいるかもしれませんが)。
そして、御教えが聖というのも、構成員が聖というのも、イエズス・キリストの聖性が時において引き継がれたことにおいてしか意味を成しません。

第四に、働きと実践の故に、公教会は聖です。勿論、奇跡を取り上げてもよいですが、それとは別に、公教会と共に歩んできた諸国家の繁栄も典型的な例です。言い換えると、公教会を受け入れたおかげで、諸国家の多くの働きが聖化されて、その偉業が遂げられました。特に憐れみと愛徳の働き・業・実践です。世俗のことも、精神的なことも。以上、公教会の聖性をご紹介しましたが、いつも私たちの主イエズス・キリストとその御教えと常に関連付けた一性と聖性です。


次に、教会は「カトリック」です。教会の「公性」です。何の意味でしょうか。
カトリック教会とは、教会が「普遍」であるという意味で、世界中に広まる社会だということです。
というのも、公教会は差別一つなく、すべての霊魂たちに及んでいます。これは聖パウロの示しているところです。つまり男女を問わず、身分を問わず、人種を問わず、だれでも公教会に所属できるというのです。この意味で公教会は普遍です。一人も欠かさずにすべての時代のすべての場所のすべての人々のために存在する教会です。この特徴も相変わらずイエズス・キリストに由来し、単純ですが、私たちの主イエズス・キリストが普遍であるが故に公教会も普遍であります。

では公教会の最後の特徴に移りましょう。
公教会は「使徒継承」であります。公教会が「使徒継承」ということは、イエズス・キリストの弟子たちである使徒たちの上に建てられている教会、使徒たちを柱として基盤として根拠としているが故に教会は「使徒継承」なのです。

公教会の教えは、使徒たちが教えていた教義だけであり、他に何も教えないということです。これが「使徒継承」の意味です。これも非常に大事です。もしも教会が使徒継承でなくなったら、自分の根拠を否定して、自分の基盤から離れるようなことなので、教会のお終いです。

家と一緒です。家あるいは建物が建っている下の基盤を破滅したら、家あるいは建物自体がいずれか崩壊するしかいないのです。したがって、教会の四ツ目の特徴は使徒継承であって、この特徴も非常に大事です。

聖パウロ自身も記したとおりです。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。」 この聖パウロの発言は非常に激しいでしょう。異なった教えを伝えようとする単なる人間を取り上げているのではありません。周知の通り、人間なら、至上の権威を持った人でさえ、すべての人々は過ちを犯す紛れもない事実があります。聖パウロはそれより強い例を取り上げます。
天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。」
この「私たちがあなたたちに伝えた福音」とは、イエズス・キリストから直接に受け継がれたそのままの御教えです。「天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。」 「のろいあれ」というのは、排除せよという意味です。

従って、公教会には、何も「革新」しうることは一つもありません。その逆です。託されたものを維持・保存・保守するにすぎません。できるだけ、明徴し、精華しうるかもしれませんが、先ずに託された遺産を継承するだけです。一切革新することはありません。

第一ヴァチカン公会議の勅令によると、「新しい教義を教えるために、聖霊は公教会を制定したのではない」とあります。「新しい教義」は存在しないしあり得ません。
「使徒継承」の御教えであるからこそ、全く同じ教義で変わらないままです。これこそ公教会の強みなのです。あえていうと、ある種の「愛国主義・憂国心」に喩えても良いかもしれません。というのも、「愛国・憂国」というのは、受け継がれた伝統・精神・遺産を守り引き継いでいくということと類似していますから。

両親から引き継がれたことを侮る人はいるでしょうか。そうする者がいたら自分の両親に対する侮辱的行為になります。同じように、使徒たちを通じてイエズス・キリストからの遺産を受け継ぎました。そして、公教会はその遺産を保存・保守し、引き続き継承していきます。この意味でこそ、公教会は「使徒継承」なのです。
「一、 聖、公、使徒継承の教会」。これは公教会の四つの特徴です。またこの四つの要素が揃ってはじめて本物の公教会であることを識別・確認できます。

公教会はいつ制定されましたか? 【公教要理】第五十九講

2019年09月11日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十九講 公教会の制定について



「公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」
今回は、信経の第九条第一部について、時間をかけてご紹介しましょう。
「聖なる公教会を信じ奉る」

イエズス・キリストは良き知らせをもたらしに地上に来たり給いました。
「良き知らせ」とは、ギリシャ語で「エヴァンゲリオン」で「福音」です。要するに、福音は「人類が贖罪された」という福(よ)き音(おと)ずれに他なりません。私たちの主は贖罪を人類にもたらし給うと共に、御教えをもたらし、私たちに聖化の方法と聖化の道具をも与え給うたのです。

贖罪・御教え・聖化の方法を与えに来たり給うのですが、主はご自分のなし給うた御業を世々に至るまで続けるように配慮されました。地上におられる間、イエズス・キリストは使徒たちと弟子たちを選びました。彼らに教え、秘跡を託し、聖化の方法を与え給い、使徒たちを通じて、使徒たちを柱にして、真の社会である公教会を制定なさったのです。

その制定の目的は、私たちの主イエズス・キリストの御教えと聖化の方法がいつまでも引き継がれて存続するためです。直接によってイエズスに選ばれた委託を受けた人・代理者・牧者と、これらの選ばれた聖職者らが選ぶ歴代の継承者(聖職者)たちを通じて、御教えと聖化の方法とが継承され続けられるようになさったのです。

公教会はいつまでも時間において存続できるように制定されました。
いや、より厳密に言うと、公教会のおかげで、とりわけ委託を受けた聖職者のおかげで、イエズス・キリストの御業はいつまでも時間において存続できるようになりました。委託を受けた聖職者はイエズス・キリストによって選ばれた使徒たちとその歴代の継承者たちです。

イエズス・キリストの委託を受けた人たち(聖職者たち)は、公教会において、恩寵を本当の意味で授かり、注ぎ広める者です。言い換えると、恩寵を、また、天主の生命を人々に与え、霊魂たちを聖化するために、イエズス・キリストが特定の聖職者たちを選んだのです。一般に信じられがちなことと違い、私たち一人一人の聖化は個別の霊魂と天主なるイエズス・キリストとの直接な関係だけで行われることではありません

当然ながら天主は全能ですが、全能なる天主は人間という副次的原因を通じて恩寵を注ぐことを望まれたのです。良き天主はご自分の恩寵を授与するために、多くの道具を使うことにしたのです。
こういった召使を通じて御業を行うということは、天主の全能さを裏返しに証明しています。つまり、ある国王は完成していればいるほど、ある指導者やある権威者は、完成していればいるほど、あえて言えば、多くの歯車の媒体を通じて司るのです。権威があればあるほど、容易にあっさりに指導権を実行するより、多くの道具・機構・召使を使うのです。

同じように、人間の本性を尊重し、特に社会及び政治的という本性の側面を考慮し、私たちの主は、ご自分の恩寵という天主の生命を私たちの霊魂に注ぐために、特にご自分の委託を受けた人たちを、召使・授与者・道具として使うことになさったのです。
従って、第一の結論を出しておきましょう。使徒たちとその歴代の継承者である、キリストから委託を受けた人たちは、つまり時間において歴代教皇と司教たちこそが恩寵の代理授与者たちです。言い換えると、恩寵はこれらの委託を受けた人である聖職者を通じて人々に与えられるのです。
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福音を読んでみると、私たちの主イエズス・キリストは使徒たちに三つの使命を与えたことが明らかになります。この三重の使命から、三重の権威が生まれ、それぞれの三つの使命に、天主なるイエズス・キリストがそれぞれ違う権威を公教会に与え給うたのです。イエズス・キリストが使徒たちに与えた第一の使命は「教える」という使命です。教える使命から、教義上の権威が与えられました。たとえば、聖マテオの福音の第28章にこう記されています。使徒たちに「行け、諸国の民に教え よ」との命令を出し給うのです。
聖マルコも、第16章においてこの「教えよ」というイエズス・キリストの命令について記録しています。「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ」 と仰せになりました。この「信じて」というところに、教える権威が暗に織り込まれているのです。信じるということはある教えに積極的に同意して、ある真理に積極的に同意するということです。つまり、「信じる者が救われる」ということです。イエズス・キリストは使徒たちに「教える」という第一の使命、「教える」権威を、教義上の権威を与え給うたのです。



イエズス・キリストが使徒たちに与えた第二の使命と権威は、「聖化する」という使命と権威です。
司祭上の権威と呼ばれています。福音に現れる第二の使命です。
先ほどの聖マテオの引用の続きですが、イエズス・キリストはこう仰せになりました。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」 と。要するに、教訓する権威、教義上の権威のさらに上に、霊魂たちを聖化する権能と権威をも与え給うたのです。「聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授けよ」。
私たちが天国に行ける条件として「信仰を持つこと」というのは勿論ですが、その上に「洗礼を受ける」ことも必要です。信じて洗礼を受ける者だけが救われます。「信じて洗礼を受ける者は救われる」 と仰せになりました。つまり、一般信徒の立場に置いて、救霊を得るために上の二重の権威の許に自分を置くべきです。
司祭の権威である「聖化する」権威と、教義上の権威である「教える権威」の二重の権威の下に自分を置き、救われるために「洗礼を受け」「信じる」ことが必要です。

以上イエズス・キリストが使徒たちに与えた第二の使命と権威ですが、福音の別の所では、イエズスは使徒たちに「聖霊を受けよ。あなたたちが罪をゆるす人に罪がゆるされ、あなたたちが罪をゆるさぬ人は罪をゆるされない」 と仰せになりました。これは、聖化するもう一つの与えられた権能と方法です。「改悛の秘跡」です。また「告解」ともよばれています。告解というのは、天主によって自分の犯した罪がゆるされるために、自分が自分自身を断罪するという秘跡です。霊魂たちを聖化するために与えられた秘跡なのです。また、使徒たちにイエズス・キリストが与え給うたもう一つの司祭上の権能は、最後の晩餐の時に与えられました。つまり、パンとワインを聖変化なさったときに、主は使徒たちに「これを行え」 と命令なさいました。「これを行え」 とは「今やったこの聖変化を」これからもいつまでも「私の記念としてこれを行え」 という明白な命令です。これはその上なく司祭の権能であるミサ聖祭を捧げる使命です。言い換えると、イエズス・キリストに続いて、改めて、パンとワインを私たちの主の御体と御血とに聖変化するという司祭の権威であり使命です。

以上、使徒たちに私たちの主のイエズス・キリストが与え給うた「聖化する」という第二の権威と使命のご紹介でした。


聖福音に記録される第三の使命と権威は指導権です。あえて言えば「導く」権威とも言えます。ここも、先ほどの聖マテオの記録の続きにあります。「行け、諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」 。
「私が命じたことをすべて守るように教えよ」 。

言い換えると、私たちの主は使徒たちに「指導する権威」を与え給うたのです。また、イエズス・キリストの命じたことを守る為に「法律を制定する」という権威も与えられたのです。「法律を制定する」権威を与え給うたことによって、「指導権」あるいは「指揮権」をも与え給うたのです。
以上に見たように、福音に基づくと、公教会、さらに教会において恩寵を授与する委託を受けた人なる聖職者たちは三重の権威を持つということが明らかになります。「教える」権能と「聖化する」権能と「指導」する権能との三重の権威です。

以上から転じる大事な結論があります。私たちの主は、公教会の制定時に、位階制の社会であるように制定されたということです。言い換えると、教会において真の位階制があるのです。つまり、指導する者もあれば、従う者もあるのです。まさに位階制は、「指導者」と「従順者」があるという前提があるのですから。

この位階制をより良く理解するために、さらにより細かく説明してみましょう。
私たちの主イエズス・キリストご自分自身が、公教会の頭として至上の指導者を選定して置き給うたことです。つまり聖ペトロを公教会の頭として選び給うたのです。

私たちの主は聖ペトロに首位権を約束されました。「私は言う。あなたはペトロ(岩)である。私はこの岩の上に私の教会を立てよう。地獄の門はこれに勝てぬ。私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものは、みな天でも解かれる」 と仰せになりました。聖マテオの第16章です。そういえば、この場面では、イエズス・キリストは使徒「シモン・バルヨナ」を改名し新しい「ペトロ(岩)」の名前を与えます。「ペトロ」は岩という意味ですから、イエズスに改名された聖ペトロこそ教会の岩になって、聖ペトロというその岩の上にイエズス・キリストがカトリック公教会を立てたということを意味します。

聖ペトロこそが、カトリック公教会がその上に立てられた岩です。また、周知のように、ご復活の後に私たちの主が三度も聖ペトロに問う場面からも、聖ペトロの首位権が示されています。この三度の問いは聖ペトロによる三度の否認という罪を償わせるためでもありましたが、「ヨハネの子シモン、あなたはこの人たちよりも私を愛しているのか」 と聖ペトロにイエズスが問い給い、聖ペトロは三度も「主よ、そうです。あなたのご存知の通り、私はあなたを愛しています」 と答えます。
この場面における聖ペトロの答えは以前と違って傲慢心とかが全くなく、謙遜の心のままに答えます。聖ペトロはイエズス・キリストに対する愛を宣言するたびに、二度にわたって主は「私の子羊を牧せよ」 と命令なさいます。そして、三度目の命令は「私の羊を牧せよ」 です。「私の子羊を牧せよ」「私の羊を牧せよ」。要するに「信徒たちを牧せよ。牧者たちを牧せよ」ということなのです。牧者たちというのは、また後述しますが信徒なる子羊を牧すべき全ての牧者(司教たち)を指すのです。
以上、御覧の通り、私たちの主は聖ペトロにすべてにおいて首位的な権威を与え給うのです。

実際においても、公教会の歴史を見る限り、初代から歴代教皇の至上権は常に真の権威として発揮されつづけました。使徒行録を読むだけでも明白です。
使徒行録ではイエズス・キリストに与えられた至上の権威を常に聖ペトロが発揮します。例えば、自殺した使徒ユダの後継者を選ぶのは聖ペトロに他なりません。また、エルサレムに集まった歴史上の最初の公会議を主宰したのも聖ペトロに他になりません。聖ペトロは公教会の頭です。

第一に、イエズス・キリストの委託を受けた人である、選ばれた聖職者たちこそが、天主の恩寵を授与する代理者であることを見ました。
第二に、これは第一の帰結ですが、公教会は位階制の社会であることを見ました。
そして、以上を見て、私たちの主が制定した通り、お望みの通り、第三の結論を言います。
イエズス・キリストは、位階制の公教会を制定しただけではなく、その上に、「君主制」の公教会を制定しました。語源的な意味での「君主制」です。「頭は一つしかいない」という意味です。公教会の唯一の頭(君主)は聖ペトロとその継承者である歴代教皇です。歴代教皇たちは聖ペトロの正当上の継承者たちです。そして、事実上、歴代教皇がカトリック教会の頭です。教皇は聖ペトロの継承者であり、カトリック公教会の君主・元首・頭・指導者なのです。

公教会について・入門 【公教要理】第五十八講

2019年09月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十八講 公教会について・入門



今日は信経の第九条に移りたいと思います。私たちの霊魂における聖化の御働きと聖霊を前回ご紹介したので、今回は、聖なるカトリック公教会に関する信条をご紹介します。

信経において、聖なる公教会に関する信条は次の通りです。
「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」。

第九条は二つの部分に分けられていて、両部分を区別するのは大事です。
ところが区別しても一つの信条を成します。「聖なる公教会を信じ奉る」というのは、第九条の前部です。
「諸聖人の通功を信じ奉る」というのは、同じ第九条の後部です。
つまり、別々の二つの信条ではありません。一つの信条です。前部と後部とも同じ「聖なる公教会」という真理について語りますが、「二つの違う側面から見て」その真理を語るということです。
従ってこれから数回にわたって、公教会あるいはカトリック教会についてご紹介しますが、混同せずにしっかりと整理すべき二つの違う側面から公教会を見ていきます。混同せず同時に整理するのは、微妙に難しいところかもしれません。

それで、第一の側面は「聖なるカトリック教会を信じ奉る」という前部です。
第二の側面が「諸聖人の通功を信じ奉る」という後部です。
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第一の側面「目に見える位階制」としての公教会を語る内容です。言い換えると、この天下においてよく知られている公教会のことです。言い換えると、天国に行くために一員となるべき「社会上の事実」としての公教会のことです。「聖なるカトリック教会を信じ奉る」。これが信条の前部です。

「諸聖人の通功を信じ奉る」という後部は、同じ公教会の違う現実あるいは側面を強調します。つまり、この後部は「神秘的事実」としての公教会のことです。「諸聖人の通功」という神秘的事実です。

ところが、この「神秘的事実」としての公教会こそ、「社会上の事実」としての公教会に目的を与え、「社会上の事実」としての公教会をその目的に向かわせるという関係があります。だから、「社会上の事実」としての位階制の公教会と「神秘的事実」としての霊魂たちの通功なる公教会との間に何の矛盾もありません



両方の間は、次の関係にあります。社会上の存在としてのカトリック教会は、公教会に属する霊魂たちあるいは公教会の一員となっている霊魂たちが「諸聖人の通功」の内に生きることが出来るようにする、可能にする社会上の事実としてあるということです。

言い換えると、天下において、今、公教会というのは、必然的に、先ず社会上の事実です。社会上の事実である公教会に属さない限り、諸聖人の通功の内に生きられないし、その通功を享受することもできません。この「諸聖人の通功」というのは、天国に入って初めて永遠となります位階制の公教会は厳密にいうと「地上に属する」社会上の存在です。「諸聖人の通功」というのは天国の専有物です。

だからこそ、両方の側面を混同してはいけません。さらにいうと、天下のこの地上における公教会は単なる「通功(コムニオン)」というか、俗に言われている単なる「一致」とか「共同体」であるなどと信じてはいけません。こういった間違った考え方となる誤謬は、第二ヴァチカン公会議における「教会憲章(Lumen Gentium)」という文章にかなり出てきます。その文章によると、公教会とは、暗に、単なる「通功」のことを言っています。しかし、公教会は「通功」である以前に、先ずこの地上において、位階制の社会上の事実です。ですから、この前部なる側面をじっくりと勉強しなければなりません。

公教会が本当の意味で完全に「通功(コムニオン)」であるのは、天国においてでしかありません。勿論、この地上においても公教会が「通功」でもあるということは言いますが、「社会上の事実」としての公教会に属して初めて、「通功」を享受することは可能となります。言い換えると、公教会は「諸聖人の通功」を可能にするために、先ず必要な「社会上の事実」です。この二つの側面を混同しないで区別するのは非常に大事です。

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天主なる私たちの主イエズス・キリストは、人間の本性を尊重なさいます。「人間の尊厳」などによるものではなく、天主はこのように人間を創り給い、ご自分の創造なさった本性通りに働かれるのです。
「生まれつきの政治的な動物」としての人間を、良き天主は創造し給うたのです。言い換えると、人間が「社会的な動物」であることは、自分の本性に織り込まれているので、「自然に」社会的存在です。

公教会の使命は「本性・自然」に付き加わる「恩寵・超自然」を与えるということにあるのですから、「本性・自然」を否定せず、破滅させないどころか、むしろ「恩寵・超自然」は「本性・自然」とそのすべての「能力・良質・徳」をそのまま受け入れて、それら聖化・精華・完成化し、「超自然の次元」まで高めるという聖寵の働きを助けることです。
「聖寵」というのは「本性」を完全に受け入れるのみならず、更には、本性を治し、精華し、完成化し、高めます。人間は、本性的に「政治的な動物」ですから、良き天主は政治的な動物である本性を当然のことに尊重します。
だからこそ、良き天主は公教会を位階制のある社会として制定しました。人間は、人間として社会で生きる必要がある本性をもつので「恩寵の内に生きている」ことができたとしても、その本性に従って社会において生き続けなければなりません。

また後述しますが、確かに信徒は二つの社会に属します。一方では地上の共通善のためにある国家に属し、他方では天上の至福のために、単なる「通功」だけではない位階制のカトリック公教会にも属します。

~~

「通功」としての公教会は、位階制としてのカトリック教会が追求している目的です。
要約すると、一つの信条「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」です。真理として一つしかありません。
全体としての公教会は、地上と天国(と煉獄)にある唯一の公教会です。唯一の玄義です。
カトリック教会という玄義です。
言い換えると、私たちの聖化の玄義、永遠の至福に至らしめる玄義としてのカトリック教会です。
しかしながら、二つの違う側面がしっかりと区別されていて混同してはいけません。
以上、「聖なる公教会、諸聖人の通功を信じ奉る」という信条への入門でした。



これから、まず「聖なるカトリック教会」をご紹介します。
この部分は一番長くなります。というのも、救済を得るために地上にて「聖なるカトリック教会」という社会現実に属すべきという前提ですから、じっくりと見る必要があります。
そして、その後、永遠の至福の専有物である「諸聖人の通功」としての公教会を見ていきます。

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先ず、カトリック公教会ということに時間をかけてご紹介しましょう。まず「教会」という言葉を使う時、ご存知の通り、幾つかの意味があります。
勿論、まず「建物」を指して「教会」といいます。祈るためとか儀式に与るためとか、天主を礼拝するために信徒たちが集まる物質的な場所を指して、「教会」といいます。

それからより広義の意味もあります。聖書に書かれている「教会」はその意味に属します。
つまり、「ある特定の国・ある特定の地域の信徒全員」を指して「教会」という意味で使われています。
例えば黙示録では「ラオディケの教会に知らせに行きなさい」という記録があります。また特定の地域の信徒たちをさして「パリの教会」とか「リオンの教会」とか言われています。あえて言えば、特定の「教区」と理解していただいたら結構です。第一の意味より、この意味はより広義となります。

それから、カトリック教会というのは、以上の意味よりさらに広義です。まさに「公」の付いている公教会ですが、すべての信徒を指し、厳密に言うと「同じ信仰を宣言し、同じ秘蹟を授かり、正当な牧者に従う、すべての信徒たちの社会」です。

つまり、公教会を特徴づける要素は三つあります。
第一、信仰の一性・単一性。それについてまた後述します。また、第二、同じ秘蹟を授かること。つまり同じ信仰と同じ秘蹟。そして、第三に正当なる牧者に対する従順という要素です。この第三の要素は、公教会が「位階制の社会」であるということを示します。つまり、混沌し、ごたまぜになっている信徒たちの大衆・集まりではなく、言わば、多少「民主主義的な集り」ではなく、公教会は頭をもつ社会的な存在です。この頭は「教皇」です。後述しますが、教皇は、諸司教に囲まれて世界を司ります。

以上、公教会が何かをご紹介しました。位階制の社会で、その頭となる権威者は教え、統治します。他方で、カトリックの民は教皇に教えを受け導かれます。カトリック教会です。

聖霊について 【公教要理】第五十七講

2019年09月05日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理-第五十七講  聖霊について




前回まで私たちの主イエズス・キリストの人生をご紹介しました。これから、信経の次の信条に移りたいと思います。聖霊に関する信条、第八条です。「われは聖霊を信じ奉る」。

第一条は、聖父なる天主に関する信条でした。まず、全体的に「天主」とは何か、それから、聖父なる天主とは何か、それから、御創造と被創造世界とは何か、を取り扱いました。
第二条とその次の信条では、三位の第二の位格に関することをご紹介しました。
聖子なる私たちの主はご托身し、地上に降り給い、人間となり給い、我々を救い、我々の罪を贖うために十字架上で死に給うたおかげで、天主と人類の和解が実現し、天門を開け給うたのです。私たちの救済と贖罪のために、十字架上に死に給うたのです。

これから、ある意味で信経の第三部というか、最後の部に入ることになります。この部は第八条で始まります。「われは聖霊を信じ奉る」。

~~
以前にも聖霊についてご紹介したことがあります。聖なる三位一体の玄義をご説明したときに、聖霊についてちょっと触れました。三つの位格でありながら、唯一の天主という玄義。
第八条を機に三位一体について手短く復習してみましょう。聖霊というのは、三位一体の第三位格であるということを改めて思い起こしましょう。
天主は唯一です。言い換えると、天主の本性は一つしかありません。天主の唯一なる本性において、三つの位格があります。聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)との三つの位格です。聖霊は第三の位格です。聖霊は聖父(ちち)と聖子(こ)より劣るところが一つもありません。裏返して言うと、聖霊は聖父と聖子とすべてにおいて等しいのです。その理由は単純で、聖霊が天主だからです。聖父と聖子とも同じく、聖霊はあえて言えば完全なる天主です。聖霊には何も欠けたところがない天主そのものです。聖父と聖子と全く同じく、聖霊は天主のすべての特性と特徴を持っています。

聖父と聖子と同じく聖霊も永遠です。
聖父と聖子と同じく聖霊も全能です。
聖父と聖子と同じく聖霊も限りなく、普遍です。
その他のすべての天主の特性に関しても同じです。
聖父と聖子と同じく聖霊も限りなく善良です。天主聖父について言えることのすべて、また聖子について言えることのすべては、聖霊についても全く同じく言えるのです。聖霊は聖父と聖子と等しいからです。
第三の位格ですが、すべてのことにおいて、天主なる聖霊は、天主なる聖父と天主なる聖子とまったく等しいからです。

聖父と聖子と聖霊を区別する唯一のことは、「聖父と聖子より発する」ということだけです。
聖なる三位一体の玄義をご紹介した時、説明した通りです。

聖父はご自分を知ります。聖父はご自分を知ることによって、「智慧」「御言葉」という第二の位格を生みます。聖なる三位一体の第二の位格である「御言葉」は聖父のすべてを語っておられます。それほど完璧に聖父のことを語っておられているので、「聖父より発生した」ということ以外に、すべてにおいて聖父と全く等しく、同じです。ですから、聖子において聖父はご自分を完全に知り、完璧にご自分を認めるのです。聖父と聖子はすべてにおいて等しいので、聖子において聖父は完全にご自分を認め、従って、限りなく完全な愛で聖子を愛します。
同じく、聖子は限りなく完全な愛で聖父を愛します。この愛こそ第三位格というペルソナで、あえていえば聖父と聖子から「湧く」のです。これが聖霊です。聖霊は聖父と聖子との愛そのものです。従って、聖霊は、あえて言えば全く共同という形で、聖父と聖子より発するのです。天主において、聖霊が「御愛」と呼ばれているのは、まさに聖父と聖子との間の相互の愛より発するからです。聖霊が「聖」と呼ばれているのは天主だからです。天主のすべてにおいて全く等しいから「聖」霊といいます。つまり聖父が聖なるように、聖子が聖なるように、聖霊は「聖なるもの」です。

聖霊を「霊」と言うのは、ラテン語で「霊」の語源は「Spiritus」ですが、「息吹」という意味で、まさに人間の限られた力で「愛」を表現できるような最高の言葉としての「霊・息吹(Spiritus)」だから、「聖霊」と呼ばれています。聖なる三位一体においての聖霊の別称号は「御愛」とも呼ばれています。

要するに、聖霊は聖父と聖子より発するのです。
ところで聖霊の発出に関して、残念ながら諸誤謬が言われたことがあります。

まず、紀元後四世紀のマセドニウスによる誤謬で、聖霊の天主性を否定しました。マセドニウスによると、聖霊は天主ではないとし、何らかの天主の流出のようなものだと主張していて、これは天主ではないとする誤謬です。この誤謬は、381年のコンスタンティノポリス公会議によって、排斥されました。このコンスタンティノポリス公会議の際に、聖霊の天主性は明白に再断言されました。

時代が下って聖霊についてのもう一つの誤謬が広まりました。正教会とも呼ばれているギリシア離教教会によるものですが、聖霊は、聖父よりしか発しないという誤謬です。聖父と聖子とより聖霊が発するというのを認めないという誤謬です。ギリシア離教教会にとって、聖霊は聖父よりしか発しないということで、四世紀のニケア公会議の時に固まった信経より「filioque「フィリオ・クエ」」という言葉を取り消してしまったのです。ミサ聖祭の流れの中に唱えている信経ですが、「filioque」とは「○○と聖子より」という意味です。
聖霊が「聖父と聖子より発する」という信経の信条から「と聖子より」が否定されたのです。要するに、ギリシア離教教会では聖子よりの聖霊の発生を否定してしまう誤謬を訴えています。
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以上、位格としての聖霊についてご紹介しました。

これから聖霊の特別の使命についてご紹介しましょう。特別の使命とは、簡単に言うと、聖霊に「便宜上帰属」する使命ということですが、厳密に言うと当然ながら、聖父と聖子との御働きでもあります。

聖なる三位一体の玄義をご紹介した時に説明した通り、「ad extra」つまり三位一体の「外で」のすべての働き・御業(みわざ)は、常に三つの位格に共同の働きです。

例えば、全世界の創造という御業を聖父なる天主に帰属することは一般ですが、全能なる聖父というイメージが強く、またすべての発生などは聖父なる天主から生じることから転じて、宇宙の創造を聖父に帰属するのは普通です。が、厳密に言うと天主なる聖父も天主なる聖子も天主なる聖霊も同じく共同で宇宙を創造したのです。存在しているすべての物事を創造したのは共同に働く三つの位格、つまり天主なのです。

聖父に帰属する創造と同じように、一般的に、聖霊には聖化の御働きを帰属させます。なぜかというと、信徒たちの霊魂における聖化の御働きは、聖霊を特徴づける「愛」あるいは「御憐れみ」による御働きだからです。

聖化は慣習的に聖霊に帰属する特別の使命です。聖化を定義すると、人が愛徳を増せば増すほど聖化されていきます。そして、私たちの霊魂における「神聖さ」の程度は、私たちの心に染みた「愛徳」の程度に他なりません。三位一体において聖霊は「御愛」であり、また「愛・カリタス」そのものなのだということから転じて、慣習的に、聖霊に霊魂における「聖化の御働き」を帰属させます。

それから、「聖霊の使命(ミッシオ)」もあります。あえて言えば、聖霊は「送られた・遣わされた」ということです。因みに語源で言うと、ミッシオmissioは「派遣(はけん)」という意味ですが、聖霊は地上において特に二度にわたって示されたことがあります。



一度目は、私たちの主イエズス・キリストの洗礼の時でした。白鳩という形で現れ給いました。

二度目は、聖霊降臨の日に、使徒たちの前に「火の炎」という形で現れ給いました。
私たちの主イエズス・キリストの昇天の後に、使徒たちがチェナクルムにいました。私たちの主が天に昇り給った後、聖母マリアと一緒に十日間ぐらいチェナクルムに泊まっていました。そして、聖霊降臨の日の午前九時ごろ、「天から激しい風が吹いてくるような音がきこえ」 ました。その騒音は町のどこにも広く聞こえたと思われ、多くの人々がチェナクルムの近くに集まりました。それから、「彼ら(使徒たちと聖母)の座っていた家に満ち、火のような舌が現れ、分かれておのおのの上に止まった」 。つまり、この場面は聖霊が使徒たちの霊魂に注ぎ、霊魂を占領するということを示します。



また、「火のような舌」というのは、使徒たちはいきなり「諸国民の諸言語が話せるようになった」という賜物を指します。また、「火のように」、火が光をもたらすように、聖霊も霊魂において光をもたらして、霊魂を照らすという意味もあります。
または、火のように、火が燃やすように、聖霊によって霊魂が燃え出して、その愛がどうしても広まろうと伝って、愛によって周辺にある霊魂たちを燃やし尽くそうとするという意味もあります。

聖霊降臨の日に、「心を変えた」という意味で、聖霊は使徒たちの霊魂を回心させました。聖霊に燃やし尽くされて、使徒たちも世界中を歩きだして伝道してきました。
以上、聖霊の地上でのご出現をご紹介しました。

それから、聖霊の働きは聖霊降臨以降からずっと続いています
いまでも公教会においてこそ、聖霊の働きが続いています。だから、聖霊についての信条の次は、公教会についての信条に続くことになります。というのも、繰り返しますが、「聖霊に帰属する」だけですが、聖霊こそが公教会を導くからです。聖霊こそが公教会を守るのです。聖霊の御働きのお陰でこそ、布教できるようになり、公教会が保全なる信仰を世界中に宣教して広めていきます

また、霊魂たちの聖化のためにイエズス・キリストによって用意された諸秘跡を授けることによって、公教会は保全なる信仰を世界中に宣教して広めていきます。

聖霊には「七つの賜物」も帰属します。聖霊の七つの賜物は次の通りです。
上智、聰明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、天主への敬畏です。これを聖霊の賜物といいます。



七つの賜物というのは恩寵と愛徳が天主によって注がれているたびに義人に一緒に与えられる賜物です。つまり、ある人が聖寵の状態にある間、自分の霊魂が聖霊の賜物を享受しているのです。

聖霊の賜物というのは、聖寵の状態にある霊魂に注がれた超自然の良い状態あるいは良い習慣です。こういった超自然の良き習慣のお陰で、義人(つまり聖寵の状態にある者・義化された者)の霊魂が完成化していきます。聖霊の賜物による完成化というお陰で、聖霊の「息吹」あるいは聖霊の「霊感」を霊魂が受け得るようになります。

聖霊の賜物を例える時、船の帆を取り上げることが多くあります。聖霊の賜物は、船の帆のようなもので、風を受けうる装置に喩えられ、風を受ける帆で船が動きます。現代風にこの喩えを改めていってみると、聖霊の賜物はアンテナのようなものですね。このアンテナという装置のお陰で、聖霊からの「受信」ができるようになります。

同じように、「帆」のように、また「アンテナ」のように、聖寵の状態にある時、聖霊の賜物は霊魂に装置されています。勿論、比喩にすぎませんが、イメージが分かりやすいですね。



つまり、七つの賜物は霊魂の良い状態・性質のようもので、これらの良い性質を働かせることによって、霊魂が聖霊の「息吹」を受け得る状態にさせるのです。聖霊の息吹を受けるというのは、「風が帆に当たって船が風の流れへ動き出すように」聖霊によって導かれて動きだすのです。実に「聖なる人生」、あるいは「聖人として生きる」というのは、まさに、聖霊の導きのままに行動するということです。つまり、霊魂にとって「聖なる生き方」というのは、聖霊の完全なる支配の下に自分を置くということです。そして、聖霊による霊魂への支配は、「七つの賜物」を通じてこそ実現しているのです。

聖霊の七つの賜物の上に、12つの「聖霊の実り」もあります。「聖霊の実り」というのは、簡単に言うと「聖霊と常に生きている」のなら、また、「霊魂が聖霊と一致すればするほど」結ばれる特別の結果とでも言いましょう。



この12つの「聖霊の実り」は、ガラツィア人への手紙の中に記されていて、聖パウロが書き並べています。
愛、喜び、平和、忍耐、温厚、仁慈、善良、寛容、誠実、柔和、節制と純潔との12つの聖霊の実です。
霊魂が聖霊の支配下に置かれている状態だから、結ばれる12つの実りです。
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聖霊の賜物聖霊の実りの上に、聖霊は他の賜物をも与えるのですが、七つの賜物と違って、公教会の時代事情に応じたりして、条件なしの賜物をも与えます。「無償の賜物」と呼ばれています。

「賜物」なら必ず無償だと言われるかもしれませんが、聖霊の「無償の賜物」は「隣人の救いのために」無条件に与えられる賜物なので「無償の賜物」といいます。
つまり、自分の聖化のためにある賜物のではない、ということです。

聖霊の七つの賜物とその実りは自分の聖化のために用意されている賜物で、その賜物によって霊魂が聖霊の感化を受け得るようになり、常に聖霊の導きのまま生きれば生きるほど結果として実りを結びます。その上、それ以外に、聖霊は霊魂に「無償の賜物gratia gratis data」をも与えます。

この「無償の賜物」の特徴というのは賜物が注がれた霊魂自身のために与えられているのではなくて、共通善のために、公教会の善のために、隣人の善のために与えられている「無償の賜物」なのです。ラテン語で「gratia gratis data」というのですが、「賜物」の別名として、「カリスマ」とも呼ばれています。九つあります。
智慧について旨く話す賜物知識の賜物治療あるいは病を治す賜物信仰の賜物奇跡を起こす能力という賜物預言の賜物心の判別の賜物言語を流暢に話せる賜物解釈の賜物

公教会の全歴史を見ても、以上のある賜物はその時代に応じて、ある聖人に与えられて隣人の救いのために、他の霊魂の回心のために、無償に与えられたことが確認できます。
ところが、これらの無償の賜物は、歴史を見ても、聖人自身のためにあるのではありません。例えば、「病を治す」とか「奇跡を起こす」とかは、聖人が治し起こしますが、自分の救済にとって何の価値もありません。何の役も立ちません。隣人の聖化のために、病を治したり奇跡を起こしたりするものです。
例えば、天主の御働きを示すためとか、より単純に、天主が存在するということを証明するためとか、隣人の聖化のために特別に用意されている無償の賜物です。

当然ながら、聖霊を特に礼拝すべきです。天主ですから、礼拝すべきです。
天主なる聖父と天主なる聖子に対する同じ礼拝を聖霊に対しても捧げるべきです。
言い換えると、天主を礼拝するたびに、聖霊をも礼拝しているのです。それでも、私たちの人生において、特別に聖霊に祈ることもありましょう。この世で、この現代で、光がもたらされるように。また、特に現代では「剛毅」という賜物を頂くように。また、たとえば「誠実」でずっといられるように。
自分自身の聖化のために、特別に聖霊に祈ったらよいでしょう。

以上、聖霊に対して祈る意向の幾つかの典型的な例を挙げましたが、ある聖人は「もしも毎日15分だけでも聖霊に祈ることが出来たら、至福に入ることは確実になるだろう」といっていました。つまり、臨終の時まで、信仰における堅忍を確保できて、天国にはいれるというような意味です。

ですから、より頻繁に聖霊に祈るという遷善の決心をいたしましょう。
常にこの地上で働き給う聖霊なのに、比較的に忘れられがちの聖霊ですから、より多く聖霊に祈りましょう。

かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う 【公教要理】第五十六講 贖罪の玄義[神学編] 

2019年09月02日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理-第五十六講  贖罪の玄義・神学編・その九 「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」




信経の第七条はこう続きます。「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」
「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」イエズス・キリストを信じ奉る、とも読めるし、または、前条の続きとしても読めます。

「天に昇りて全能の父なる天主の右に坐し、
かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」

まず面白いことに、この信条を読むと「かしこより」という表現から始まって、天にましましながら我らを裁きに来るという動きが強調されます。地上に「再び来たり給う」という意味です。
つまり、第七条は昇天の玄義の延長線にあります。思い出しましょう。天に昇り給うた時、使徒たちの目から姿がいきなり消えましたが、二位の天使らが使徒たちの前に現れて、「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか今、あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」 と告げたように、私たちの主は地上に再臨するのです。

何をしに再臨されるでしょうか。「生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」ためです。

勿論、天主こそがあらゆる物事の裁判官です。これは当然で、天主はあらゆる物事の創造主なのですから。従って間違いなく天主は至上の裁判官です。

ところが、第六条には、「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給うイエズス・キリストを信じ奉る」とあります。私たちの主は勿論、正当に、天主として「裁かんためにきたり給う」が、同時に人間としても「裁かんためにきたり給う」のです。人間として、他のすべての人々を裁く権威が与えられたという意味です。
聖ヨハネによると「父は子を最高の審判者と定められた、彼は人の子だからである」 。
また別の文章で、聖ヨハネによると、「父は審判をされず、子に審判のことをまったく任せられた」

念に置いていただきたいのは、死ぬ時にまずすでに審判が行われます。人が死ぬと、霊魂は身体と分離して去ります。「死」とは、身体と霊魂との苦しい分離です。そして、離脱した霊魂は自分の源泉に戻り、「無に帰る」のではありません。天主の許に、そのみ前に出廷し、裁かれるのです。
私たちの主はこれをたとえ話で語られます。主人が家にいるという設定ではじまる話ですが、家に帰ると奉仕者を呼び「会計の報告を出せ」 と言います。

同じように、死ぬと霊魂は天主のみ前に出て「会計の報告を出せ」と仰せになります。「地上での生活が終わったのだから、自分の人生の会計の報告を出せ」という意味です。

死んだとき「私審判」といわれる審判が行われます。人間全ては、死んだ瞬間に霊魂が抜けて、「私審判」を受けます。「会計の報告を出せ。」 霊魂は天主のみ前に現れ、上訴なく、取り消せない判決で、決定的に裁かれるのです。

さらに、主は、第二の審判をするために世の終わりに再臨なさるのです。「公審判」と呼ばれています。世の終わりに、私たちの主は「生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」のです。
御栄光と御力をもって輝かしく来たりたもうのです。主はこう仰せになりました。
「あなたたちは人の子が力あるものの右に座し、天の雲に乗り来るのを見る」
主は「生ける人と死せる人とを裁かんために」再臨することになりますが、十字架に先立たれて再臨なさいます。地上にまだ生きている者とすでに死んだ者を裁くという意味です。

また、違う意味でも捉えられます。つまり、「聖寵の状態にある者」としての「生者」です。超自然の命は本物の「命」なのですから。「聖寵の状態にはない」者、つまり大罪の状態なので、地獄の劫罰に判定された者としての「死者」をも裁かんために来たりたもうということです。
私たちの主は「人間として」も普遍的な審判者・裁判官です。例外なくすべての人々を裁く権威の持主です。なぜでしょうか。
聖パウロの言う通り、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた」 からです。


世の終わりに、公審判をするために再臨なさいます。
具体的に公審判とはどういうものなのかは想像しにくいのです。少なくとも言えるのは、ご自分の奉仕者を慰めご自分の人間の本性を高揚するための再臨であるのは間違いないことです。イエズス・キリストの人間性は、代々に冒涜と侮辱を被り続けています。残念ながらも、現代こそ特にそうです。



一人も欠かさずに、すべての人類の前に、イエズス・キリストの人間性が公に高揚されるのは正義を全うするために尤も相応しいことです。全人類とは、踏みにじられた人間性をみて嘆き続けた正しき者の前にも、他方で不信の人々の前にも現れ給います。不信の人々は主の人間性を踏みにじった罪で罰せられて正しき者はその正義の業を見て喜ぶでしょう。

正義があるからです。時々「この世では正義はない」という人々がいます。彼らに「辛抱強く待ったら?」といいたくなりますね。

というのも、「公審判」がいずれ来るので、その時に何も咎められることはない方がいいのです。天主によって咎められることがあったら厳しいからです。かなり厳しく。正義に従って「生ける人と死せる人とを裁き給う」のです。

一方で「聖寵の状態にある」者を、他方で「大罪の状態にある」者を、この両方を裁かんために来たり給うのです。

忠実に良くイエズス・キリストに従いつづけた者とイエズス・キリストを踏みにじって、冒瀆して、侮辱、瀆聖し続けた者ら両方を裁くために来たり給うのです。

後者は罰せられます。公に罰せられます。なぜかというと、正義を全うするために、公な罪は公に償われる必要があるからです。

私たちの主の再臨は一体いつになるでしょうか。世の終わりの時です。
、世の終わりは一体いつでしょうか。誰も知りません。しかも、誰が知りえるかを知ることもありません。私たちの主ご自身こう仰せになります。
「その日そのとき(世の終わり)を知る者は一人もない。天にいる使いたちも子もしらぬ。ただ父だけが知られる」 。

この御言葉を正しく理解する必要があります。この「子」というのは、「人間」としてのイエズス・キリストを指します。人間としては知らぬが、当然、天主として知っておられます。ご托身の玄義を念に置きましょう。ご托身の玄義により、常に、私たちの主において人間性と天主性が区別されて、両方は混同せず、混じらず、別々にあります。従って公審判の日を人間としては知らないのですが、当然、天主として知っておられます。

人間として、私たちの主は特別のご啓示によって知っておられるはずですが、人間の智慧では知りようがないという意味がある文章です。従って、われわれも、知りうるはずがありません。確かに言えるのは、世の終わりが迫ったら、私たちの主が前兆を与え給うことです。

これらの前兆は福音書に啓示されています。それでも、「世の終わりの前兆を見て世の終わりを予言しよう」としてはいけません。「終末の時代が来るかもしれない」と恐れ震えてもいけません。前兆は前兆で、われわれは前兆に期待すべきではありません

福音書に記されているので、啓示された真理の一部でもあり、世の終わりの前兆をご紹介しましょう。ただし一つ気を付けましょう。

前兆があるからといって、一番大事なことを忘れてはいけません。
世の終わりを待つのも、察知するのも、世の終わりの到来を確かめるのもどうでもよい事です。大事ではありません。一番大事なのは、自分の霊魂の救いを得るに他になりません。
(今、公審判が起きても準備できていることが大事です。)

世の終わりの前兆を「好奇心」をもって探求してはだめ、「病的に不健全な」探究をもって求めてもいけません
その上でそれらの前兆をご紹介しましょう。
繰り返しますが前兆が分かったところで、我々はこれで聖人になりません。天主は世の終わりの時を相応しい時に決め給います。その時が来たら、われわれは自分の霊魂が裁かれる準備ができているように祈りましょう。良い判決が下るように祈りましょう。

前兆ですが、先ず遠い前兆があります。
福音書には、諸国民への説教が記されてます。聖マテオにはこうあります。
「天の国のこの福音が、全世界に宣べ伝えられ、諸国の人々に向かって証明されるとき、そのとき終わりが来る」

洪水の日の前と同様に、信仰の全体的な衰退が起こり、風習の堕落が極まると言われています。周知のように、ソドマとゴモラは完全に退廃し堕落した風俗の町で、残念ながら「ソドマ」という名から転じたある大罪を指すようになり、この世に普及してしまっています。

偽キリストの出現も預言されています。
「それより先に、棄教のことがあり、罪の人すなわち滅びの子が、天主の聖所に座り、自分を天主として示し、天主ととなえられるもの、崇敬されるものの上に自分を立てる反逆者として現れるまで、主の日は来ない」
これは、テサロニケ人への第二の手紙に記されています。

繰り返しますが、「偽キリストがもう現れたかどうか」を探らないようにしましょう。これらの前兆は、好奇心を煽るようなものではなく、逆にイエズス・キリストへの従順と忠実を励ますために与え給うものです。完全にすべての予言を理解し尽くそうとするのではなく、イエズス・キリストへの忠誠を増しましょう。預言というのは、実現されるまでハッキリ分かりませんから、察しようとしても無駄なのです。

続いて、テサロニケ人への第二の手紙に聖パウロが記すように、私たちの主はこうなさるでしょう。
「そして主イエズスは御口の息でその者を殺し」  
神秘的で意味不明のままですね。

以上は再臨の時よりすこし遠い前兆でしたが、近い前兆もあります。



近い前兆を見たら、再臨が間もないことが確かだということです。天地に現れる近い前兆を紹介しましょう。

「日は暗くなり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力は揺れ動く。そのとき人の子のしるしは天に現れる。地上の民族はみな後悔し、人の子が勢力と大いなる栄光をおびてそれの雲に乗り来るのをみるだろう」

私たちの主は、栄光の十字架に先立たれて現れたまいます。十字架を見る信徒たちが喜び踊るのです。信徒というのは、十字架を愛する人々です。キリスト教徒は自分の十字架を担う者、私たちの主の呼びかけに応じた者に他なりません。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」 との誘いに応じる者です。

だから、信徒なら、天に御十字架が現れるのを見ると、これほど愛し続けて実践したこのしるしをみて喜び踊るでしょう。一方、私たちの主の敵らにとっては、十字架こそつまずきの石で、何よりも憎むものです。常に確認できるように、悪魔がやろうとしていることは、十字架の姿とその存在を消して破滅することです。それを通じて、悪魔は十字架の玄義を攻撃します。十字架の玄義というのは、贖罪の玄義で、ミサ聖祭の玄義です。私たちの主は栄光の十字架に先立たれて現れたもうのです。

「また、ラッパの高いひびきとともに、遣わされた天使たちが天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集める。」  聖マテオが記す預言です。

以上は、公審判に先立つ前兆でした。


具体的に公審判はどこでどういう流れで行われるか、啓示がなくて不明ですが、そういったことは知ろうとしなくても良いと思われます。

繰り返し申し上げますが、大事なのは、イエズス・キリストがいつ再臨しても、心の準備ができていることです。審判者として私たちの主が再臨するというのは、信条の一つです。

尤ものことです。何時になるか不明のままです。
公審判の際に使徒たちが陪席判事となると啓示されています。
「私に従ったあなたたちも(使徒たち)十二の座につき、イスラエルの十二族をさばくであろう」 とイエズスは仰せになりました。

その時、皆の心が全人類の前にすらすらと暴露されます。だれでも全人類はお互いの心を読み取れるようになります。それも神秘です。

そこでイエズス・キリストは永劫の判決をくだします。

「父に祝せられた者よ、来て、世の初めからあなたたちに備えられていた国を受けよ」 と。そして、私たちの主に従おうとしなかった人々には、
「のろわれた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ」 と仰せになります。

以上のように、私たちの主は判決を下すでしょう。
御覧の通り、我々の愛徳の程度を基準に、また不幸にも愛徳の無さの程度に従い、判決をくだすでしょう。
選ばれた人々は永遠に天国に入り、不幸にも断罪された人々は永遠に地獄に落とされます。
そして、あらゆる物事が再生されます。この地上での生命は消えます。

以上、第六条をご紹介しました。
神秘の多い信条で、実際どうなるかに関して神秘が多いのです。

「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」は信じるまでです。
天主としても人間としてもイエズス・キリストがご自分の人間性に対する冒瀆を償うために「裁かんために来たり給う」という真理は明白です。
善人を報いて、悪人を罰するために来たり給うということも明白な真理です。

再臨の事情だけは不明点が多く、神秘が多いのですが、世の終わりに「かしこより生ける人と死せる人とを裁かんために来り給う」ということは紛れもない真理です。
「公審判」です。