ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

黙示録の時代!前線の英雄たちへの手紙「ヴィガノ大司教、新型コロナウイルス、妊娠中絶、家庭の破壊について語る」

2020年09月27日 | プロライフ
ヴィガノ大司教のイタリアの母親たちに宛てた手紙をご紹介します。

現在も世界を震撼させ混乱に陥れている新型コロナウイルス。ヴィガノ大司教によると、イタリアでは都市封鎖の間も、病人への世話がすべて中断されたにもかかわらず、中絶が続けられたそうです。ワクチンという解決策にも警鐘を鳴らしています。
「親愛なる母親の皆さん、忘れないでください。これは霊的な戦いであり、戦争であるとさえ言えるのです。」とヴィガノ大司教は続けます。
ノアは箱舟を作っていた時に社会から全く馬鹿にされました。私たちは、この現代社会に、映画や小説のシナリオのような、そんな権的なことが起こるわけがない。などと無関心の楽観主義でいつまでもいられないのではないでしょうか。なぜなら、黙示録に記されたことが、現実に起ころうとしていると言われているからです。
ヴィガノ大司教は語ります「私たちは、次の聖ヨハネの言葉が目の前で形になろうとしているのを目の当たりにしています。「偉大な者、小さな者、貧しい者、富む者、自由民、奴隷のすべては右の手と額にしるしをつけさせられた。獣の名あるいはその名の数をしるされていない者の他は、誰も売買することができぬようにするためである」(黙示録13章16-17節)。」と。
そして、この危機から守られるために、どうすべきかも。


前線の英雄たちへの手紙:ヴィガノ大司教、新型コロナウイルス、妊娠中絶、家庭の破壊について語る
https://remnantnewspaper.com/web/index.php/articles/item/5031-letter-to-mothers-from-archbishop-vigano
2020年8月21日(金曜日)
前線の英雄たちへの手紙「ヴィガノ大司教、新型コロナウイルス、妊娠中絶、家庭の破壊について語る」カルロ・マリア・ヴィガノ
「健康独裁から子供たちを救おう!凶暴な世界的暴政からイタリアを救おう!」

2020年8月15日
聖母マリアの被昇天

最愛なる母親の皆さん、親愛なる男性の皆さん、

今年の9月5日に予定されている取り組みについてお知らせする、あなたたちの親切なメールを受け取りました。それは、あなたたちの子供たちの身体的、道徳的、精神的な健康を守るための活動にかんすることでした。あなたたちにお返事をするにあたり、私はイタリアのすべての母親たちに宛てて書いています。

あなたたちが行おうとしておられるデモは、権力を乱用した政府が【9月からの】新学期を考慮して準備を進めている行動規範に対して、市民特に親が反対していることを示そうとしています。このような行動規範は、権威ある専門家が正当に証明しているように、学生の健康と心身の均衡に非常に重大な影響を及ぼすことになります。

まず第一に、社会の基盤である家族を解体しようとする組織的な試みを糾弾しなければなりません。また、キリストが秘蹟にまで高められた夫婦生活だけでなく、その自然の本質、すなわち結婚とは本来、男と女の間において忠実さと相互の助け合いを持つ解消できない絆で成り立っているという事実に対する猛烈な攻撃が増加していることについても同じく糾弾すべきです。



父親と母親の存在は、子どもたちを育てる上で基本となるものです。子どもたちは、統合的で調和のとれた成長のための手本として男女の姿を必要とするからです。また、子どもたちの最も感じやすい時期である乳児期と思春期に、反抗的な行動で自然の考え自体を拒否する者たちが、党派的なイデオロギー的主張を推進するために子どもたちを利用し、彼らの心身の均衡を著しく損なうことは許されないことです。皆さんは、家族の破壊が市民共同体に与える影響を容易に理解することができます。今日、私たちの目の前には、必然的に社会の崩壊につながる数十年にわたる不幸な政策の結果があるのです。



これらの政策は、創造主によって人間に刻み込まれた自然法、および十戒のうちの肯定的な掟の両方に反する原則に触発されており、子どもたちが個人の気まぐれに翻弄されることを許し、生命と受胎の持つ神聖さが商業の対象となり、母性と女性の尊厳を貶めています。子供たちは雇われ女に養育されてはなりません。なぜなら、子供たちは愛の実であるから、常に永続する愛でなければならない---- 自然の秩序においてさえも--- と御摂理が定めた愛の実であるからです。

親には、主要で奪われ得ない権利として、子どもを教育する責任があります。国家は、この権利を自らのものにすることはできず、ましてや子どもたちを堕落させたり、今日非常に広まっているような倒錯した原理を教え込んだりすることはできません。



親愛なる母親の皆さん、これは全体主義体制の特徴的な兆候であり、市民的でキリスト教的な国家の特徴ではないことを忘れないでください。皆さんの子どもたちの教育を盗もうとするこのような試みを、力を込めて糾弾し拒否するように声を上げるのは皆さんの義務です。そして、それは、皆さんの子どもたちや十代の人々にワクチンを押し付けるだけの問題ではなく、変質的な教理やジェンダー・イデオロギー、悪徳を受け入れたり罪深い行動を実践したりすることによって彼らの魂を堕落させる問題でもあります。

どんな法律をもってしても、真理を肯定することを合法的に犯罪とすることはできません。なぜなら、法律の権威は最終的には至高の真理である天主ご自身から来ているからです。殉教者たちや聖人たちの英雄的な証しは、暴君の弾圧に対応したものです。皆さんも今日、解き放たれた地獄の力に私たちを服従させようとするこの世に対するキリストの勇敢な証人となってくださいますように。

この家族のための戦いにおけるもう一つの重要な面は、受胎から自然死に至るまでの生命の擁護です。何百万人もの無垢な犠牲者を出し、天からの復讐を叫ぶ妊娠中絶という犯罪は、今日では普通の医療サービスとみなされていますが、つい最近イタリア政府は、中絶ピルがより広範に使用されるのを許可して、忌まわしい犯罪を助長し、母親の心理的、肉体的健康に及ぼす恐ろしい結果については沈黙したままです。



都市封鎖の間、病人への世話がすべて中断されたにもかかわらず、中絶が続けられたことを考えれば、私たちを統治する人々の優先事項が何であるかが理解できます。それは死の文化です。社会が自らの子どもを殺している場合、自由ではあり得ない選択という名の下に母性が恐ろしいほど侵害されている場合、罪のない命を終わらせて天主の戒律の一つに違反しているのですから、いったいどんな進歩があるというのでしょうか。もし、最も血なまぐさい蛮行の時代と同じように人間のいけにえが私たちの診療所で行われているならば、私たちの国は、いったいどのような繁栄を期待し、どのような天主の祝福を望むことができるというのでしょうか。

子どもは国家の所有物であるという考えは、すべての人間に嫌悪を覚えさせます。キリスト教の社会秩序においては、世俗の権威は、自然の幸福が霊的な善に向かって秩序づけられていることを市民に保証するために権力を行使します。それゆえに、この世の物事において国家が追求する共通善は、最高の法制定者である天主の法に抵触することができず、また抵触してはならないという明確な目的を持っています。国家がこの永遠不変の法を侵害するたびに、その権威は低下するのであり、市民はその権威に従うことを拒否すべきです。



このことは、妊娠中絶に関する憎むべき法律に当てはまりますが、危険性が不明であったり、その作製からして倫理的に問題があったりするワクチンの押しつけに権限の乱用が関係している他のケースにも適用されるべきです。私が言及しているのは、ワクチンに中絶された子どもたちの体に由来する胎児の一部が含まれている場合です。

しかし、現在想定されている他の不穏な面がいくつかあり、それは指導の内容だけでなく、授業への参加方法にも関係しています。教室内や学校の環境での社会的な距離、マスクの使用、その他の形態の推定伝染防止策は、子どもや若者の精神的、物理的な平衡に深刻なダメージを与え、彼らの学習能力、生徒と教師の間の対人関係を危険にさらし、何を考えるかだけでなく、どのように移動するか、どのように呼吸するかさえも命じられた自動人形へと彼らを貶めます。社会生活の中で結果を伴う選択を支配すべき「常識」の概念そのものが失われているように思われ、コロナウイルスに陽性反応が出た場合には、最も凶暴な独裁政権のように強制的な健康管理手続きが適用され、親から子どもを連れ去って行くという非人道的なことが行われる世界が予告されているように思われます。

また、WHOがマリオ・モンティ氏(訳注1)を「汎欧州保健および持続可能な発展委員会」の会長に選んだことも非常に不可解なことです。彼はイタリアに課した厳しい措置によって有名になりましたが、その中でも忘れてはならないのは、病院への公的予算の大幅な削減です。

これらの疑問は、モンティ氏が「三極委員会」や「ビルダーバーグ・クラブ」(訳注2)のような超国家的な組織のメンバーであることでも確認されます。それらの組織の目的は、政府を拘束するイタリア憲法自体によって保護されている不可侵の価値とは明らかに対照的です。このような公務と私的利益が混じっているのは、フリーメーソンや世界統一主義者(globalist)の思想に触発されたものであり、市民の代表者である人々や、その真の意向を決して秘密にはしてこなかった一人のエリートによって市民の正当な権力が簒奪されているのを見ている人々は、このことを厳しく糾弾すべきです。

(訳注1)マリオ・モンティはイタリア元首相、経済学者。
(訳注2)「三極委員会」は、北米、欧州、アジア太平洋州の三極の政治家、官僚、財界人らによる組織。「ビルダーバーグ・クラブ」は、欧米の王族、政治家、財界人らによる組織で、影の世界政府とも言われる。

イデオロギー的に倒錯した目的の追求には、それに抱き合わせのような経済的な性質の利益が必ず伴うという基本的な要素を見逃してはなりません。新型コロナウイルス感染症の治療のための高免疫血漿の提供が利益を生まないのと同じように、臍帯の自発的提供が利益を生まないという事実に同意することは容易です。

逆に言えば、中絶クリニックが胎児組織を提供することや、製薬会社がモノクローナル抗体や人工血漿を製造することは、非常に大きな利益を生むのです。ですから、単に利益を生むという論理に従えば、最も合理的で倫理的に持続可能な解決策が、その解決策を貶めるための意図的なキャンペーンの対象となることは驚くには当たりません。明らかに利害の対立する中で、自称専門家たちが自分たち自身が株式を保有していたり、高給のコンサルタントであったりする企業が提供する治療法の推進者になっているということを、私たちはこれまで聞いています。

このように述べてきましたが、ワクチンという解決策が常に、そしてどこでも、ウイルスへの健康上の最善の対応であるかどうかを理解する必要があります。例えば、新型コロナウイルス感染症の場合、弱めたウイルスを接種するよりも、自然免疫を強める方が有用であるということを認める点で、科学界の多くの解説者が一致しています。

しかし、この場合も、私たちが知っているように、集団免疫にはコストなしで到達するのに対し、ワクチン接種キャンペーンは莫大な投資を伴い、特許を取得して生産する者にも同様に大きな利益を保証します。また、「科学に基づく医療」の手続きに従って分離されていないように見えるウイルスに対するワクチンを製造することが可能であるかどうか、そして新たに生成された遺伝子組み換えワクチンを使用することによってどのような結果が生じる可能性があるかどうかも検証されなければなりません。しかし、これについては、専門家がさらに大きな確証をもって確実に述べることができるようになることでしょう。

WHOに率いられた世界の保健産業は、株主(製薬会社やいわゆる慈善財団)の利益を第一の目的とする真の多国籍企業となっており、その追求の手段は、市民を慢性的な病人に変えることです。明らかなことですが、製薬会社は薬やワクチンを売って金儲けをしたいのです。もし病気をなくし効果的な薬を作ることが病人の数を減らし、その結果利益を減らすことにつながるのであれば、彼らが作る薬は効果がなく、彼らが推進するワクチンは、病気を根絶するどころか病気を広める道具になるだろうと思うのが、まさに論理的だということになるでしょう。そして、これがまさに起こっていることなのです。もし、治療や治療法の研究に資金を提供する人々が、病状が長引くことで不釣り合いなほど利益を得ているならば、その研究が欲得づくでないやり方で推進されていると考えることができるでしょうか。

健康を守るべき人々が代わりに病気が続くのを確実にしたいと考えていることを納得するのは難しいように思えるかもしれません。そのような皮肉的な考え(cynicism)には、当然のことながら、ヘルスケアで確立されているメンタリティーをよく知らないに人々に反発を覚えさせます。しかしこれは、私たちの目の前で起こっていることであり、それは新型コロナウイルス感染症とワクチンの出現、特に新型コロナウイルス感染症が[2020年に]最も多くの犠牲者をもたらしたまさにその地域で2019年に広く配布された抗インフルエンザワクチンの出現がかかわっているだけでなく(訳注3)、すべての治療や治療法、そして出産や病人のためのケアにもかかわっています。倫理規定に違反しているそのような皮肉的な考えは、私たち一人ひとりを潜在的な利益をもたらす源とみなしていますが、そうではなく、すべての患者を苦しんでいるキリストの顔とみなさなければならないのです。それゆえに、私たちは、多くの多くのカトリック教徒の医師と善意のすべての医師に訴えて、お願いするのです。あなたがヒポクラテスの誓いと、あわれみと思いやり、苦しむ人々への愛、そして私たちの中で最も弱い人々への無私の奉仕であるあなたの職業のまさに核心部分を裏切ることがありませんように、また、私たちの主のみ言葉である「あなたたちが私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)を思い起こしてくださるように、と。

(訳注3)アメリカの研究者であるJudy Mikovitsによると、イタリアで2019年にインフルエンザ予防接種を受けていた人びとの方が、2020年のコロナウイルスに罹患しやすかったという統計上の報告をしたことを指す。

カトリック教会は、特にここ数十年、ヨハネ・パウロ二世によって設立された「教皇庁生命アカデミー」のおかげで、この議論に権威をもって介入をしてきました。数年前までは、このアカデミーのメンバーは、カトリック教徒の不可侵の道徳的原則に抵触することのない医学・科学的な指示を行っていました。

しかし、市民社会で私たちは、個人の責任だけでなく、医療を含む公共生活のさまざまな分野で統治する人々の責任が急激になくなっているのを目撃しているのと同様に、2013年に誕生した「あわれみの教会」(訳注4)でも、教皇庁の部局や「教皇庁生命アカデミー」の関与を、マルサス主義の意味合いを持つ環境主義の要求を含む「液体のようなビジョン」----それが真理を否定することから、私はあえて倒錯的ビジョンと呼びます----に適応させるのが好ましいとされています。新世界秩序(New World Order)が望む出生数の減少に反対する中絶との闘いは、もはや多くの牧者たちの優先事項ではありません。近年ローマで開催されたようなさまざまなプロ・ライフのデモの際、聖座と位階階級の沈黙と不参加は恥ずべきものでした。

(訳注4)「あわれみの教会」とは、教皇フランシスコが「あわれみ」をモットーとして、環境主義と呼ばれる新しい方針に従う教会を指す。

明らかなことですが、医療分野で採用されるべき行動規範の基礎となる道徳的原則は、永遠に有効なままであり無効になることはあり得ません。教会はキリストの教えの守護者であり、教会にはキリストの教えを自分の好みに合わせて修正したり適応させたりする権限はありません。

しかし、私たちは、胎児のいのちや最も弱い者の健康、末期の病人の支援よりも、リサイクルについての回勅を書くほどそれを促進することに関心を持っているように見えるローマの沈黙を目の当たりにして当惑しています。これは、私が何度も言ってきたように、かつてイエズス会だった者[教皇フランシスコ]に率いられた教会の逸脱した部分が権力を掌握し、教会をこの世のメンタリティーの奴隷としてしまったその瞬間から始まった、さらに広範囲に及ぶ問題、さらに大きな危機の一面に過ぎないのです。



「教皇庁生命アカデミー」(その会長は、テルニの司教時代に本領を発揮したことで知られる人物 [パリア大司教] に委任されています)の新しい方向性を考えると、自発的に中絶された子どもの胎児組織を利用する人々を非難することは期待できません。現在のメンバーは、集団予防接種と新世界秩序による普遍的な兄弟関係を望んでおり、同じ教皇庁生命アカデミーの以前の声明に反しています[1]。最近、イングランド・ウェールズ司教協議会[2]は、この異常な波の中に入りました。一方で、同協議会は「教会は中絶した胎児に由来する組織を使ったワクチンの製造に反対しており、私たちは、子どもにワクチンを接種しないか、あるいは中絶の共犯者になるように見えるかの選択に直面して、多くのカトリック教徒が経験する苦痛を認めています」と認識しながらも、そのあと、記載されたカトリックの道徳の変わり得ない原則[3]に非常に重大な矛盾がありながら、「教会は、子どもや他の脆弱な人の健康の最重要性が、これらの二倍体細胞株を使って過去に開発されたワクチンを使用することを親に許可することができると教えている」と[ワクチン接種を]肯定しています。この声明は教理的な権威を欠き、代わりにWHOやその主要スポンサーであるビル・ゲイツ、そして製薬会社が推進する支配的なイデオロギーに沿ったものなのです。

道徳的な観点から、自分の洗礼に忠実であり続けようと思っているすべてのカトリック教徒にとって、その製造過程で人間の胎児に由来する素材を利用した予防接種を受け入れることは絶対に認められません。このことは最近、米国のジョゼフ・E・ストリックランド司教が、4月27日の司牧書簡[4]と8月1日のツイート[5]で、権威をもって再表明しています。



ですから、私たちは主に祈り、私たち全員を服従させようとする世界統一主義者(globalist)のエリートたちのあまりにも大きな権力に対抗する統一戦線をつくるように、牧者たちに声を与えてくださるようお願いしなければなりません。製薬会社が経済的利益の面だけで事を進めている一方で、イデオロギー的な面では、ワクチンの機会を利用して、人を識別するための装置を移植したいと考えている人々がいること、そして、これらのナノテクノロジー(私が言及しているのは、「プロジェクトID2020」や「量子ドット」、他の類似の取り組みです)が、ウイルスとそのワクチンの特許を取得したのと同じ複数の個人によって特許を取得されていることを思い起こすべきです。

さらに言えば、暗号通貨の計画は、健康識別だけでなく個人情報および銀行業務情報も監視することを可能にする特許が取得されました。これは昨日までは、陰謀論者のほら話として追いやられていましたが、今日では例えばスウェーデンやドイツを含むいくつかの国々ですでに始まっている万能感という異常な精神状態においてです。私たちは、次の聖ヨハネの言葉が目の前で形になろうとしているのを目の当たりにしています。「偉大な者、小さな者、貧しい者、富む者、自由民、奴隷のすべては右の手と額にしるしをつけさせられた。獣の名あるいはその名の数をしるされていない者の他は、誰も売買することができぬようにするためである」(黙示録13章16-17節)。



状況の深刻さを考えると、私たちはこれらの面についても声を上げなければなりません。深刻な倫理的・道徳的問題を引き起こしたり、あるいはもっと平たく言えば約束された効果が得られる保証がなかったり、科学的見地からは絶対的に疑わしい効果しか期待できなかったりするワクチンを公的機関が義務化するのであれば、私たちは黙っていることはできません。教会の牧者たちが最後には、天主と人間に対するこのような組織的な攻撃から、自分たちにその世話を委ねられた信徒の群れを守るために声を上げますように。

親愛なる母親の皆さん、忘れないでください。これは霊的な戦いであり、戦争であるとさえ言えるのです。この戦争では、誰も選んでおらず、力と暴力以外に何の権限も持たない権力者たちが、子どもたちに対する天主の父としての権利、社会に対するキリストの王としての権利、そして至聖なるマリアの童貞なる母としての権利を想起させるものすべてを、わずかであっても破壊しようとしているのです。

これが彼らが父と母という言葉を嫌う理由であり、これが彼らが天主の法に反抗する無宗教社会を望む理由であり、これが彼らが悪徳を促進し聖徳を嫌う理由です。また、これが天主の名が取り消され、十字架上の御子の贖いのいけにえが冒涜されるような予見可能な未来のために、子どもたちや若者たちを堕落させ、従順なしもべの群れを確保しようとしている理由です。彼らが追放しようとしている十字架は、人間の人生の目的が快楽でも自己顕示欲でもなく、弱者の傲慢な威圧力でもなく、天主の栄光、天主の戒律への服従、キリスト教の愛徳の実践であるということを思い出させてくれるからです。

子どもたちの無垢さと、私たちの天の母である至聖なるマリアに信頼を寄せることが、まことに世界を救うことができるのです。この理由のため、敵[である悪魔]は彼らを主から遠ざけて悪と罪の種を彼らにまくために、彼らを堕落させようとするのです。

親愛なる母親の皆さん、物質的な秩序だけでなく、さらに重要なことに霊的な秩序においても、子どもたちを守る義務を決して怠ってはなりません。絶え間なく祈り、特に聖なるロザリオを唱え、償いと断食を行い、身体的・霊的なあわれみの業を実践し、ご聖体と聖なるミサに熱心に信心深く頻繁にあずかりつつ、子どもたちに御恵みの生活を育んでください。永遠のいのちのためのまことの糧である天使のパンで子どもたちを養い、悪魔の攻撃から身を守るのです。

明日、子供たちは誠実な市民となり、責任ある親となり、この世が取り消したいキリスト教社会の復興の主人公となります。そして、親愛なる母親の皆さん、どうか祈ってください。なぜなら、祈りは本当に恐ろしいほどの武器であり、私たちに押し付けられようとしている倒錯した独裁制に対する不可謬のワクチンでもあるからです。

親愛なる母親の皆さん、私はこの機会に、皆さんと皆さんの子どもたち、そして私たちの愛するイタリアを襲っているこの凶暴で全世界に及ぶ専制政治から私たちの子どもたちと私たち一人一人を救うために戦っているすべての人たちに、私が祈っていることを保証し、全員に祝福をお送りします。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2020年8月15日
童貞聖マリアの被昇天の祝日
__________
[1] Cf. Pontifical Academy for Life, Note on the Nature of Vaccination, 31 July 2017.
[2] Cf. Bishops’ Confernce of England and Wales, The Catholic position on vaccination.
[3] Cf. Pontifical Academy for Life, Moral Reflections on Vaccines Prepared from Cells Derived from Human Fetuses, 5 June 2005.
[4] Bishop Joseph E. Strickland, Pastoral Letter from Bishop Joseph E. Strickland On the Ethical Development of COVID-19 Vaccine, 23 April 2020.
[5] Tweet of August 1, 2020: “I renew my call that we reject any vaccine that is developed using aborted children. Even if it originated decades ago it still means a child’s life was ended before it was born & then their body was used as spare parts. We will never end abortion if we do not END THIS EVIL!”

迷信、占い・・・聖水や祈祷への虚しい遵守は、第一戒に背く罪です

2020年09月24日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十七講 第一誡に対する罪



第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

これは第一誡です。前回、崇拝を中心に第一誡の意味を説明しました。つまり、天主への崇拝を義務付ける第一誡です。要するに、第一誡を以て、自然法に沿って、創造主に対して報いるべきことを命じています。これは、天主への崇拝です。

しかしながら、第一誡を以て同時に、禁じられていることもあります。何が禁じられているかを知ることが大事です。というのも、第一誡に対して罪を犯すことがはあるからです。具体的にどうやって第一誡に対して罪を犯すのでしょうか。

過度になる場合、罪を犯すのです。「迷信」といった行為を行う時です。また、欠如になる場合、罪を犯すのです。「無宗教」といった行為を行う時です。

最初に、過度になる時の第一誡に対する罪を見ましょう。「迷信」といった行為を行う時です。これは、一言でいうと、偽りの神に崇拝を捧げる時です。あるいは、本物の神である天主に、相応しくない崇拝を捧げる時でもあります。

まず、偽りの神に崇拝を捧げる時はどうなるでしょうか。ここでは、程度の違いというか、具体的にいくつかの種類があります。
最初に思い浮かぶ言葉は「偶像崇拝」という表現ですね。偶像崇拝とは「被創造物に対しての崇拝」という意味です。被創造物というと、何でもありです。前にあった有名な例でいうと、旧約聖書の金の子牛の像があります。天主から十誡を授かりにいったモーゼがシナイ山に登っていた間に、ヘブライ人たちがは金の子牛の像を作って礼拝したという場面があります。



つまり、天主を礼拝するのではなく、被創造物を礼拝していたから大問題でした。偶像崇拝といいます。言いかえると、天主ではない何かに対して礼拝することは、崇拝することをは偶像崇拝といいます。このような行為は愚かだけではなく、天主に対する侮辱にもなります。これは、当然ながら、大罪です。

「迷信」といわれたら、最初に思い浮かぶのは「偶像崇拝」です。しかしながら、ほかにも、偽りの神を崇拝する、あるいは偽りの崇拝で天主を崇拝する、ということもあり得ます。

例えば、「占い」はまさにそうなのです。「占い」とは「明白にせよ、あるいは暗にせよ、自然な方法で知れない物事を知るために、悪魔に頼ること」という定義です。つまり、知られないことなのに、知られない物事を知るために、非常な手段を取りますが、これは悪い手段であり、つまり悪魔らに頼るのが「占い」です。

悪魔に頼る時、具体的に明白に直接に頼ることもあり得るし、間接に暗に頼ることもあり得ます。いずれにせよ、どちらもこれは「占い」です。つまり、本来ならば私たち必ずしも知る資格がないものの、天主が知っている物事を知ろうとするのが「占い」です。このような行為をは天主は大嫌いです。旧約聖書には次の文書があります。レビの書にあります。「占いも、まじないもするな。(…)口寄せを信じてたよったり、占い師のもとに足を運んだりしてはならぬ。」

占いはどういったようなものか覗ける文書ですけど、また「交霊術」とも呼ばれています。つまり、このような情報を知るために、悪魔に頼ること自体ははっきりと知らないとしても、結局、悪魔に頼る行為であるということです。

このような「占い」は数えきれないほど、種類は多いです。神託、それから女預言者と女占師なども有名です。旧約聖書には、サウル王は女占師を訪問する場面があります。何をすべきかを知るために、占い師に頼んだ場面です。また、降霊術あるいは、口寄せもあります。つまり、情報を得るためにも、死者に頼るということですね。

またトランプ占いもあります。この場合、トランプに頼って将来でも知ろうとするのです。考えてみると途方もない行為ですね。トランプと将来はそもそも全く関係がないのに、このような占いができたのも理不尽です。また、手相占いもあります。その他、多くあります。顔相占い、昔は鳥占いあるいは鳥腸占い、また縁起関連の迷信等々。

これらのことものをやるのは大罪となります。天主のために捧げるべき崇拝に対する罪となります。というのも、被創造物に頼って、天主にしか知らないことを知ろうとするから、非常に途方もないことですし、そして、最終的にこれらの被創造物の裏でに、悪魔は結局、人間をごまかすにすぎません。

また、「迷信」に陥れて第一誡に対する罪の第三の種類は「虚しい遵守」です。「虚しい遵守」とは「占い」に近いですが、「虚しい遵守」の場合、目的というよりも手段に拘る点で区別します。言いかえると、科学によって証明されていないのに、あるいは天主によって制定されている手段ではないのに、あるいは、カトリック教会によって承認されていない手段なのに、あえてこの手段を踏んでこそ、ある効果を期待する時の罪です。
言い換えると、根拠なし、何かを取ってかわるある祈祷をやると、ある効果が必ず実現することを期待するときです。

要するに、この「何か」と関係のない効果が実現することに期待するときです。これは「虚しい遵守」です。細かく入らないことにしますが、「虚しい遵守」というのは、意外とキリスト教徒でさえ犯しやすいかもしれません。いつの間にか。この場合、大罪にならないかもしれませんが、「虚しい遵守」の一種になります。例えば、「これに期待して必ず効果が出る」と確信している時です。

例えば、「聖水」があるからといって、安心するというような。つまり、天主の御憐みまたは天主の愛を求めない時です。いわゆるて「お守り」扱いをするときです。つまり、例えば、聖水の場合、この「聖水」そのもの自体から効果が出るかのように思い違って、聖水を通じて天主から恵を頂くことを忘れるような時です。

つまり、「虚しい遵守」の罪の根本的な問題は、天主よりも、「ある物」あるいは「ある手段」を中心にすることです。例えば、祈祷を捧げる時も「虚しい遵守」を犯すことはあり得ます。つまり、「祈祷」自体がまじないであるかのように、唱えるだけで効果があることを思い込むときです。実際はそうではなく、天主が善い祈祷を聞き入れ給うのです。祈祷のお陰ではなく、天主のお陰です。

もちろん、ここで申し上げるのは秘跡の文句と違います。また、ミサの聖変化の時の言葉と違います。後述しますが、秘跡の場合、条件が満たされたら、その文句自体は必ず効果を伴うから違いますが、いわゆるそれ以外の祈祷には自動的に必ずある結果を伴うと信じた時、迷信となりまです。祈祷はまじないであるかのように、祝詞であるかのように、呪文であるかのように信じ込む迷信。これは「虚しい遵守」という罪です。

時に、かなり深刻になることもあります。つまり「虚しい遵守」のせいで、根拠なしにも自分が禍から絶対に守られていることを信じ込んだりして、あるいはそれで必ず治ることを信じ込んだりします。しかしながら、例えば、奇跡的な治療とは天主が決めるものなので、奇跡とは天主の御憐みのみによって実現します。つまり、祈祷あるいは聖水によって治るのではないのです。



つまり、「虚しい遵守」というのは、正当なる祈祷などを「まじない」として扱いするような罪です。つまり祈祷や信心において「確実に効く」と間違って思い込むようなことです。実際は、効果が出るのはた時、天主の御憐みによってのみです。当然ながら、祈祷などを捧げて、効果があることを望んで期待するのはもっともですし、善いことです。しかしながら、祈祷の文句自体に期待するのではなく、天主の御憐みに期待するようにするということがは大事です。

また、ちょっと前に触れましたが、迷信のもう一つの罪は「まじない(魔法あるいは魔術)」です。まじないとは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。厳密にいうといわゆる黒魔術です。いわゆる「白魔術」もありますが、大体の場合、このような「白魔術」は自然上の原因があるのですがりますが、原因がは不明のままだからといってなので「白魔術だ」として使われている言葉です。悪魔に頼っている魔術とは「悪魔の助けを得て、不思議な物事を実現する術」だということです。これも現に存在することです。

例えば、旧約聖書ではモーセの時にマジナイに関する場面があります。モーセはファラオンの前に現れる時です。自分が天主の使者であることを証明するために、モーセはアロンに彼の棒を地面に投げるように命じます。そして、この棒は一瞬で蛇と化します。これは天主によって行われた奇跡です。次に、ファラオンの魔術師たちがはそれぞれ、棒を投げて、地面についたら、蛇と化します。この時は、魔術でした。そしてそういえば、天主はこの呪いより何倍もの強かったことを示されました。というのも、そのあと、アロンの蛇は魔術師の数匹の蛇を食ったのです。魔術師によるマジナイは黒魔術でした。



次に、迷信に属するもう一つの罪を紹介しましょう。呪いです。ラテン語でいうと「悪を成す」という意味ですが、マジナイの一種なのです。ただ、呪いの場合、悪魔の助けを得て隣人へあるいは隣人の持ち物への加有害を目的にするマジナイです。このような行為は流行っている国もあれば、流行っている地域もあります。フランスの幾つかの田舎でもこのような行為はかなりあったりしました。

つまり、呪詛を群にかけたり、家畜小屋にかけたりなどしていろいろあります。理由は何でもいいですが、争いがあったからとか、嫉妬があったからとか何でも。残念ながらも、このような呪詛をかける行為は意外と広まっていた地域もありました。迷信という罪の一種です。なぜでしょうか?悪魔へのある種の崇拝となるからです。それはして、天主の力を侮辱して、悪魔の力に頼るからです。
以上のこれらの罪はすべて深刻な罪です。

このように、天主への偽りの崇拝、それから偽りの神への崇拝をみてきました。また、天主への悪い崇拝もあり得ます。大体、前より軽い罪になることは多いですが、例えば、無駄なことをやる時、あるいは本来ならば礼儀作法でいっても無用なことをするときです。あるいは、完全に乱れる形で崇拝するときです。たとえば、日曜日に断食しながら、金曜日、断食しないようなことです。日曜日は主の日であるから、このような行為は乱れているのです。また無用です。もちろん、より軽い罪になりますが。

それから、第一誡に対して欠如しているせいで罪を犯すこともあります。「無宗教」という罪です。「無宗教」というのは、天主に値する敬意を払う義務に対する違反であり、天主の名誉に対する侮辱です。要するに、この場合、迷信と違って被創造物を対象にすることはないのですが、あるいは無宗教の罪に陥れてもまた天主に向けられるべき崇拝は残っているかもしれませんが、非常に悪い形で天主を崇拝するときの罪です。

「無宗教」の第一種は「天主への誘い」と呼ばれる罪です。要するに、言葉あるいは行為あるいは挑発をもって、「天主を試す」ような罪です。つまり、くだらないことなのに、天主の御業を要求するときです。無謀な行為です。天主を誘う行為です。言いかえると、例えばよくある話は「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」といったような類いの挑発です。天主への誘いです。

「奇跡を与えたまえ。奇跡を与えられたら信じるぞ。」残念ながらも、この場合、奇跡があるからといって、奇跡だけをもって回心して天主を信じるためのではに足りないのです。福音にはこれを示す場面があります。貧しいラザロの喩え話です。ラザロは乏しくて、病気で、体もボロボロです。金持ちの玄関に物乞いしているところ、金持ちの人は一円たりともラザロに与えないという。そして、二人は死にます。金持ちは地獄に行きます。ラザロはアブラハムの懐内に行くと福音に書いてあります。

そして、金持ちはラザロとアブラハムに「この世に残った兄弟たちに【私はどうなったかを】しらせてくださいませ。そうするために奇跡を起こしてくださいませ」といいます。しかしながら、「いや、それは無駄な時間だ」とアブラハムが言い返します。そして、金持ちは「死者である私は彼らの前に現れて知らせたら聞いてくれるだろう」と。アブラハムは答えます。「多くの預言者がいたのに、彼らは聞いてくれなかったのです」。天主への誘いはこのような態度です。



つまり、天主より限りのない物事や恵みをいただいているのに、「それよりもさらに多くの奇跡などが必要だ」と自分をごまかすような、天主を誘うようなことです。例えば、別の形ですが、自分がどうしてもいま、恩恵を受けていると確信しているから、重い罪を犯しやすい状況を積極的に自分が作るときです。これはまさに天主への誘いです。第一誡に対する罪です。また傲慢の罪です。深刻な罪です。以上は無宗教の罪の一種でした。

もう一種として、「涜聖」を行う時です。涜聖とは、「聖なる物事を冒涜するとき」です。「聖なる物事」とはつまり、場所・人・物をもさしています。天主に奉献された物事のなら、神聖となりますので、このような聖なる物事を世俗の使途のために使う時、「涜聖」となります。世俗とはつまり、ラテン語の意味を見ると「神殿の前にあるものごと」という意味です。要するに天主のものではなくて、奉献されていない物事です。従って、「涜聖」するとき、天主に奉献されている物事を、天主のものごとであるのに、天主の物事ではないかのように使う時です。

つまり、あえてたとえてみると、天主の持ち物を盗むような行為です。特に、天主への崇拝のために聖別された、奉献された何かをとって、これを「冒涜」するのです。例えば、聖職者を殴るような行為は冒涜です。なぜかというと、聖職者は天主へ奉献された人だからです。つまり、聖職者を殴ったり、あるいは無礼に扱ったりするのは冒涜です。人に対する「涜聖」です。

教会を冒涜することも同じです。つまり、教会に入って、天主と関係ないことをやるような冒涜です。場所に対する「涜聖」です。また、秘跡に対する冒涜もあります。例えば大罪を負っているのに、秘跡を受ける冒涜。「涜聖」です。なぜかというと、秘跡を授かる資格はないままであるのに、それでも受けてしまうという罪です。例えば、大罪の状態のままで、告解の秘跡を受けていないまま、聖体拝領するのは冒涜行為となります。

つまり、下品、卑しい行為です。また、御絵あるいは聖具などの冒涜もあります。現代でもこのような事件は話題になったりするのです。残念ながらも。教会の持ち物を冒涜するような行為もあります。以上は「涜聖」についてでした。

天主に捧げるべき崇拝のためにある物・人・場所をその使途から逸らす罪。つまり、本来ならば天主のためにある人、場所、物、秘跡などを相応しく使わないことによって、違う使途にして、第一誡に対する罪を犯すのです。

無宗教の最後の一種の罪は「聖物売買」です。フランス語で「シモニー」と呼ばれていますが、聖書に登場する「シモン」から転じる名称です。教皇初代の聖ペトロの時、使徒行録に登場する人物です。聖ペトロと聖ヨハネは人々に按手を以て聖霊を授けていた場面をシモンが見ます。そして、「自分も聖霊を授けられるようにしてください、金を払うから」と言い出して、その力を買おうとしました。

つまり、霊的な物の代わりに、世俗的な物で買おうとシモンがしました。聖霊を授ける力を買おうとしたシモンです。聖ペトロはこの依頼に対して強く咎めたのです。使徒行録の第八章にあります。聖ペトロは言います。「あなたの金にも、あなた自身にも呪いあれ。あなたは神の賜物を金で買おうと思いついた。」 これはシモンの話でした。つまり「聖物売買」なのです。

例えば、なんでもありですけど、例えば、金で天主のゆるしを得ようとするような行為です。「聖物売買」です。秘跡を金で買おうとしている時、あるいは司祭を買おうとしているときでもあります。繰り返しになりますが、「聖物売買」とは「世俗物の何かをもって、霊的なもの、あるいは霊的の権限に属するものを意図的に買おうあるいは売ろうとする行為」です。

「聖物売買」と「お礼」とは違います。例えば、死者のために特別にミサを捧げる時、頼まれた人から謝礼を貰っても大丈夫です。そのミサを捧げることに当たる費用や苦労などを労うための謝礼にすぎません。つまり、ミサを買うことではありません。あくまでも、ミサを捧げることに当たる苦労を労うことになります。司祭を買うことはありません。

同じように、いわゆる蝋燭など、このような物質的な物を売ることは大丈夫です。が、これらのものへの祝別を売ることはありません。祝別を売ることは禁止です。つまり、蝋燭やメダルなど、それを作るために苦労があったから、その代価を労うために売買しても大丈夫です。例えば、聖遺物などを売買うすることは禁止です。

ただ、聖遺物の箱を売買してもよいわけです。それらのものを作ったりすることに当たる苦労を労うのは正当であるからです。しかしながら、聖物を売買することは禁止です。例外なし、許可されることはありません。深刻な罪です。聖なるものを汚すようなことです。霊的な物を世俗化するような行為です。

以上は第一誡に対する罪をご紹介しました。


赤ちゃんは天主の使者。愛と尊敬とをもって受け取らなければ!

2020年09月20日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」の第11章をご紹介します

戦時中のドイツ、貧しさゆえに産後すぐでも働かなくてはならない母親たちのために、生まれた乳幼児たちのために、リスベートは工場に授乳室を設置してもらうことに成功します。そして母親たちと乳幼児のためにできる限りの工夫と支援をしました。当時でさえ、母親の授乳率は10人にひとり!美容とエゴと体裁が理由だったようです。リスベートの助産婦としてのモットーは、カトリック信者として、人間として、生命を尊ぶことでした。彼女の職務への忠実さと賢明さは、常に天主と天国に協力を求めていたからではないでしょうか?

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
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「助産婦の手記」11章 赤ちゃんは、実に天主の使者である。それはおのおの天主から特別の使命を受けて、この世に生まれて来る。

お産の後、四週間たつと、憐れな母親たちは、また工場に通った。彼女たちは、もしそれに該当する労働禁止規定が、そうすることを妨げなかったなら、もはや二週間後には、勤めに出たであろう。
しかし、それでも、二三日ぐらいは、この禁止令に違反した。夫が失業しているときには、彼女たちは、何をなすべきであろうか? 彼女たちは、大抵、よい女工であったから、工場では喜んで大目に見て、再び就業させた。また労働力の過剰ということも、今日ほどには大きくはなかった。最近、この冬に、私は六人の母親に分娩させたが、彼女たちは直ぐまた工場へ行った。生れた子供たちは、果してどうなるであろうか?

私は、主任司祭とウイレ先生とに、このことについて相談した後、三人一諸に、工場主のところに行って、私たちの切なる願いを述べた。彼は、私が心配していたほど非社会的な人ではなかった。

ところが支配人は、嘲笑的な皺をよせて顔をゆがめた。『どうして愚かな人たちは、そんな子沢山なのだろう? 劣等な人的資源……』しかし工場主は、授乳室を一つ作るよう命じた。そして母親たちは、午前と午後と、三十分ずつ休憩を与えられて、赤ちゃんに乳を飲ませることができた。今は母親たちは、工場に赤ちゃんを連れて行き、授乳室の中に入れておいた。私の妹と、二、三の娘さんたちが、母親たちの就業中、交替で世話をしてやった。また数人の親切な百姓のお上さんたちは、每日ミルクを母親たちの朝食のために、進んで提供してくれた。



私たちは、赤ちゃんのお守りを、バベット婆さんに任せるつもりであった。そこでは、婆さんは、一日中、暖かい部屋にいることができ、しかも工場主は、わずかながら報酬を与えようと思っていた。しかし婆さんは、もはや、その仕事をすることはできなかった。残念ながら、婆さんは、一切合財、飲みつぶして、全くひどい状態になっていた。そして一杯の火酒を買う金もないときには、一日中、泣きわめき、そして、もう十年も経った今日でも、私を罵った――というのは、私が婆さんから、パンを奪いとったというのである。そういう日には、婆さんは、私の家に昼飯を食べにやって来た。奇妙な論法ではある! しかし、私はもちろん、昼飯をいつも喜んで食べさせてやった。

バベット婆さんは、それにもかかわらず、妊婦を不思議によく見る眼を失わずにいた。婆さんは、子供が生れそうなところへは、いつも現われて、お産の手伝いを申し出た。すると、お母さんたちは、婆さんが満足するように、一瓶のブドー酒、一壺の果実酒または火酒を与えた。それゆえ婆さんは、いつも酒を飲むためにやって来たようなものである。こういうことは、この村が、婆さんに、もはや十マルクの定時収入を与えないで、貧民院に入れて、一部屋と薪を割り当ててやってからでも、やはり続けられた。

一人の人間が、誤った道に滑り落ちて行くことは、それ自体、悲しいことではあるが、しかしこのバベット婆さんの場合は、まさに私の仕事をよりたやすくしてくれた。そのわけは、こうである。この村の母親たちの間では、妊娠中に火酒を飲む悪習が残っていた。ある人たちは、大酒をのむとお産が軽くなると言った。そして他の人々は、美しい子が生まれると言った。しかし、その母親たちが、私の教訓と火酒の禁止を、少しも重んじようとしないときには、私はバベット婆さんのことを実例として彼女たちの眼の前に示した。

すなわち、あなた方は、やがてどういうことになろうとしているのか、そして特に、あなた方の子供を何になるように育てようとしているのか、よく考えて御覧なさい。そして居酒屋に入りびたっている父親を持つ子供たちが、全生徒のうちの最劣等のものでないかどうかを、一度、学校の先生に尋ねて御覧なさいと。すると、これは効き目があった。愚鈍な子供を、母親は欲しない。むしろ躾(しつけ)の悪い子供の方を、彼女たちは遙かに遙かに好むのである。
【注:妊娠中にアルコールの影響を受けた治りようもない生まれつきの愚鈍よりも、躾さえ良くすれば良くなる子供の方を好む、ということ。】

さて、授乳時間は、母親たちの授乳の励行を助けた。私が助産婦になった当時は、百人の産婦の中で、自分の子供に授乳したものは、殆んど十人もなかった。バベット婆さんには、授乳のことなどはどうでもよかった。婆さんは、産婦に、したい放題のことをさせていた。そして、その際、口実として利巧なことが言われたのであった。すなわち、授乳をすると、年を取る! 醜くなる! 暇がない!する仕事があまり多くなる! 体裁が悪い! というたぐいである。私は、一人でも母親を説得するまでには、骨の折れることがしばしばあった。

しかし私は一歩も譲らずに、成功するまではベッドから立ち去らなかった。それから、産婦が一たび授乳しはじめると、彼女たちは、間もなく、そうすることが子供のためにも、いかによいものであるかということを認識し、そしてそれをさらにやり続けた。しかし、場合によっては、彼女たちをそうさせるまでには、天国にあるすべての諸聖人の助けをかりねばならないことがたびたびあった。

私たちが授乳室を作ったときには、私はもう十年も助産婦をしていた。時は、経過する――どのようにかは、人は知らない。私は、非常に喜んで助産婦をやって来た。人間は、薔薇の上に寝かされているのではない。このことは、私がこれまでに述べた事件がよく示している。しかし、私はまだそれを仲々述べ終らないのである。私が書き、かつ備忘録を覗いている間に、私はさらにますます何ものかを思い出す。それをさらに、つけ加えねばならない、そしてあのことも。

しかし、何はともあれ、私は助産婦以外の何ものにもなっていなくてよかったと思う。実は、私もかつては、それとは違った考えを持っていたこともあった。しかし赤ちゃんを取り上げて、それを再び母親の腕の中に置くことのできるのは、一つの喜びである。父親が、赤ちゃんを注意深く胸に抱いて、髭だらけのキッスをその小さな顔に圧しつけて、こっそり臆病げに小さな十字を切るときも、そうである。大抵の愚かな父親は、私がそれを確かに見ていないかどうか、まず見まわす! もしも彼等が家庭の司祭として祝福を与えることは、いかに自分たちにふさわしいものであるかということを知っていたなら、そして、たとえ難産であっても、最後によい結果が得られたときには、お助け下さった天なる父の御手に接吻することができるなら、いかによかろうかと思うこともしばしばある。



親が子供を欲しがらないような場合でさえも、私はベッドのそばに坐っているのが楽しいのである。赤ちゃんが、この世に生れて来るときには、誰か多少なりとも愛情をもって挨拶する人がいればよいが。その赤ちゃんに対して、みんなが敵意を持っていなければよいが。

私は、いつもこう思う。赤ちゃんの受胎した時の状態というものは、その子の全生涯を通じて、人々の前に現われるに違いない。しかも、赤ちゃんは、実に天主の使者である。それはおのおの天主から特別の使命を受けて、この世に生まれて来る。父母は、子供がその任務を果すように助けてやらねばならない。ただし天主の使者は愛と尊敬とをもって受け取らねばならない。

少なくとも、私はそうしようと思う。そして、しばしば人は、母の心の中から、埋れた黄金を掘り出すことができる―まさに、そのような時に。すなわち、非常に長い心配な夜と昼には、人は多くのものを人間の心の中に目覚ますことができる。人間の心はこのような場合ほど、そんなに感じ易いことは稀である。そんなに正直で真実なことは稀である。それは、苦痛と心配とのため、私たちが普段、多かれ少なかれ、みんな持っているところの仮装と仮面を忘れ果ててしまうからである。まさにそれゆえに、私たちは、そういうときには、人間の心に、よりよく近づくことができるのである。

父親というものは、それが正しい父親である限り、大抵、バターのように心が全く柔らかである。父親は、母親がお産の時には、自分のために一緒に苦しんでいることを感じる。父母の双方にとっての喜びが――或いは父母の片方のみによって味わわれる喜びが――母親ただひとりによって、激しい苦しみをもって、購(あがな)われなければならぬとは! それゆえ、この時には、正しい夫もまた、妻のために非常に心配する。しばしば母親自身よりも遙かに心配し、昂奮しているのである。それゆえ、私は夫たちを大抵、室外に居らせて置き、そして時々彼等をして母親に何か親切な言葉をかけさせるのである。ところが、もし彼等が、いつも私たちの廻りにいると、彼等はやたらに心配するため、ただ不安と興奮とをまき起すだけである。残念ながら、こういう父親とは全く違った人々もいる。



隣村では、全く新しい一人の助産婦が、他所から引越して来た。ウッツという婦人だ。彼女は、そこの助産婦と激しい競走をし、そして今や、この村の私の領分にまで、はいって来ようと試みた。助産料金は、現在十二マルクであるが、彼女は十マルクでよいと申し出た。それは、ただ人々を獲得するためのものだった。ところが、後で彼女は臨時経費を請求するから、結局、私たちよりも多くの費用がかかることになる。彼女は、幾つかのお産を私から横取りした。しかし、婦人たちが、儲けたと思った喜びは、束の間であった。というのは、その助産婦は、自分に対するサーヴィスを非常に多く要求したので、人々は、やむなく彼女に非常に色んなものを、非常にしばしば運んで出さねばならなかった。それから、揚句のはて、臨時経費が請求された。

春になって私は、補足講習を受けることができた。私は職業に関しては、いつも最高水準を保っていたいと思う。私たちのように、いやしくも人命に関する職業にたずさわっている場合には、自分の知識を広め深めるためには、いくら熱心に努力しても足りるということはない。最近、私がある同僚と会ったとき、彼女はこのことを、いくら嘲笑しても足りないようであった。しかし、私はそんなことは、一向気にしない。どこでも 人間の欠点は現われるものだ。

私たちは生まれながらに天主に依存し続けていて、否定してもその事実は変わりません。

2020年09月13日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十六講 天主の十誡 第一誡



前回、天主の十誡と教会の掟の全体図を紹介しました。今回から一つずつ挙げてご紹介していきましょう。今回、第一誡を見ていきましょう。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

まず、「礼拝」するとはどういう意味でしょうか?礼拝するということは、天主に値する「讃え」あるいは敬意を捧げることです。そして、なぜ礼拝すべきであるかというと、天主は私たちの創造主であり、全宇宙のこその上なき主(あるじ)であるからです。

言いかえると、私たちは被創造物であるがゆえに、天主に必ず依存しています。そして、この依存を意識して、認めて、天主に報いることです。親へ依存している子供は親にある程度、その恩に報いて敬意を表すべきであると同じように、被創造物も創造主に対してその恩に報いて、敬意を表すべきです。天主へ依存している故の義務であって、天主との絆を意識するように、この絆に感謝して恩に報いるための義務です。天主よりすべてを賜ったものですから、このような礼拝に値するのです。つまり、天主に感謝するために、天主を礼拝すべきです。

要するに、天主を礼拝するというのは、天主に相応しい崇拝を捧げるという意味です。天主の恩に報いるというのは、天主のために崇拝を捧げるということを意味します。

そこで、崇拝(Culte、あるいは祭礼)というのは何でしょうか。厳密にいうと、道徳上の善徳の一つであり、正義の徳の一種なのです。「宗教の徳」と呼ばれる徳です。つまり、崇拝を捧げることはひとまず正しいことだという意味です。最もなことだということです。正義の問題であり、天主のために恩に報いるために天主を讃えるのは正しいことです。

これはなぜでしょうか? 私たちはどうしても生まれながら、天主に結びついているからです。我々はこれを拒否しようとするとも、意図せずして不本意にも、我々は天主に依存していて、天主との縁が現に存在する事実は変わりません。つまり、そもそも私が生まれたのは天主が創造してくださったからです。私は常に存在しているのは、天主が常に存在せしめてくださるからです。私がここにいるのは天主はそうお望みになったからです。

ですから、どうしても、これは嫌だと思っても、天主との縁があり、天主に結びつかれていて、天主との絆が存在することは変わりません。そして、正義が命令するのは、この現実に存在する絆を意識的に肯定して認めて受け入れるようにということです。そして、この絆を意識的に認めて受け入れる行為とは「宗教の行為」だということです。宗教の行為を行うと、天主との絆を強めます。

西洋語での「宗教(Religion)」の語源は「結びつく」という意味で、つまり崇拝などによって天主と結びつくという意味です。西洋では、宗教の本来の意味は、まさに創造主と被創造物の「絆」を大切にするための営みです。【訳注・本来ならば日本語で「Religio」を訳すには、開祖なる「宗」の教えというよりも、本来の意味に沿うのなら「結びつく礼」あるいは「むすび」といったような意味である】



つまり、天主は私たちを存在せしめてくださっているという現実を、この絆を表すために、私たちは「崇拝」を捧げて、天主を礼拝します。このようにして、崇拝を捧げるというのは、「宗教の徳」の実践なのです。そして、宗教の徳は正義の徳の一種類です。正しいことです。

思い出しましょう。正義の徳というのは、以前にみたように「各人に彼の本来の恩に報いること」という行為の実践の意味ですね。天主は私たちにあらゆる物事を与え給ったゆえに、その恩に報いるべきです。もちろん、頂いたほどに天主に恩を返すのは無理ですが、可能な限りに恩に報いるということです。つまり、宗教の徳を実践しても、天主に対する「正義」を完全に全うすることはできないものの、宗教の徳は正義の徳の一種なのです。崇拝をもって、可能な限り、天主に返すべき恩を返すように実践するのは宗教の徳です。

以上、は宗教の徳、または崇拝ということを見ました。宗教の徳自体は「対神徳」ではありません。なぜでしょうか?もちろん、宗教の徳は天主を対象にしている徳なのです。しかしながら、「対神徳」と違って、直接に天主を対象にする徳ではありません。宗教の徳の直接の対象は、天主のために捧げるべき「崇拝」なのです。言いかえると、天主のために行うべき行為(典礼、崇拝等々)を対象にしています。直接に天主を対象にするのではなく、崇拝を対象にしている「宗教の徳」なので、「対神徳」ではありません。

崇拝というのは、私たちより上にある者のために、その恩に報いために行う行為だ、またその上の立派さに報いるための行為だといいます。これこそ、宗教の存在理由です。天主はこその上なく立派なゆえに、典礼を以て、またほかの行為をもって礼拝すべきです。宗教の徳です。崇拝です。礼拝です。

要するに、第一の誡には、天主のために捧げるべきあらゆる崇拝を含んでいます。そして、次に「崇拝」をよく理解すべきです。いわゆる「はいはい、崇拝を捧げるべきだね」ということだけではまだ足りません。つまり、「崇拝の形を問わず、それぞれはその好みで崇拝を捧げたらよい」ということはありません。また後述しますが、天主のために崇拝を捧げることについて、崇拝にはいくつかの種類がありますが、それらは好みでこれを捧げてあれを捧げないというようなことはなくて、天主のお望みになった全ての崇拝を捧げるべきです。
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「崇拝」といった時、内面的な崇拝もあれば、外面的な崇拝もあります。
「内面的な崇拝」は何でしょうか。天主に恩に報いるための行為は霊魂における内面的な行為である時に、「内面的な崇拝」だといいます。例えば、天主のための思い、あるいは、天主への祈りなどなど。つまり、一瞬たち止まって、外面的に何も現れていないものの、心の内に天主に祈りをささげるような時の崇拝です。これは天主のための崇拝の一つです。天主を讃える行為なので、「崇拝」だといいます。

このような内面的な崇拝は一番基礎的な崇拝だと言えます。一番大事なのです。なぜかというと、人間において霊魂は一番大事であり、霊魂こそは生きていて、霊魂によってわれわれは生命に満ちているということなので、霊魂による崇拝こそがは一番大事です。この基礎的な崇拝は不可欠であり、これを捧げなくてもよい場合はもなく、免除される人もいません。内面的に天主のために崇拝を捧げるという義務があります。

しかしながら、それだけではなく、外面的な崇拝をも捧げるべきです。基本的に祭礼ですが、厳密にいうと、天主のための崇拝を行うには、体をも動員するときです。この崇拝も相応しくてよい崇拝です。内面的な行為に伴う外面的な行為の時の崇拝です。

例えば、カトリック信徒は教会に入る時、聖櫃に安置されている御聖体には天主がご現存されているので、礼拝の行為をやるべきです。具体的に、例えば、十字の印をきるのです。で、外面的な仕業である「十字の印をきる」という行為を通じて、内面的な行為をも実践します。「十字の印をきる」ことによって、つまり、三位一体の玄義、御托身の玄義、贖罪の玄義、ご聖体の玄義を信じる行為をやるのです。

つまり、「十字の印をきる」という外面的な行為は外面的な崇拝なのです。そして、この外面的な崇拝はもう一つの崇拝を表す行為です。つまり、内面的な崇拝を表す外面的な崇拝です。天主と天主の聖なる玄義への崇拝です。ご聖体の前に跪く、また平伏するキリスト教徒は外面的な崇拝を行うのです。

また、自宅で一人になって沈黙のうちに、祈るために跪くキリスト教徒は天主への祈りなので内面的な崇拝ですが、また身体をもって外面的な崇拝でもあります。外面的な崇拝は必要です。なぜでしょうか?人間は必ず身体と霊魂から構成されているからです。私たちは天使ではありません。つまり、人間は本質的に身体と霊魂は一体しています。つまり「私」だという時、「私は二人だ」といわないのですね。なんか、身体と霊魂は別々に行動するようなことはこの世にはありません。つまり、人間はある種の全体を成しています。この全体は身体と霊魂ですが、天主に崇拝を捧げる時に、全体を以て捧げるべきです。
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要するに、天主への外面的な崇拝を行う必要があります。あらゆる物事は天主に依存しています。
崇拝の行為には、次に、公的な崇拝と私的な崇拝があります。

公的なの崇拝は、「典礼」とも言います。あるいは「典礼に基づく祭礼」なのです。公教会の名において、公教会の権威のもと、定まった儀礼を行う「典礼」なのです。社会上の崇拝です。

一方、私的な崇拝は一人が自分の名において、個人として捧げる崇拝なのです。個人的に崇拝を捧げることはもちろん必要です。私たちは皆、天主によって創造されたがゆえに、私的な崇拝を捧げるべきです。

しかしながら、一つ特に注意していただきたいことがあります。現代においてこそ注意すべきことです。つまり、非常に世俗化した社会では、また近代民主主義をはじめ、人格主義といったような誤謬が蔓延する現代に生きていますので、特に強調すべきことがあります。



公的な崇拝は必要だということを強調しましょう。キリスト教徒は必ず公的な崇拝を行うべきです。言いかえると、社会上の崇拝を捧げるべきです。つまり、典礼に与預かることです。これはなぜでしょうか?

天主は社会的な存在として人間を創造したからです。つまり、社会あっての人間として天主が人間を創造したわけです。「個人」を創造したのではなく、社会的な人を創造したのです。つまり、生まれた時、必ず人は社会の一員になって、社会の内に生まれます。

必ず家族の一員です。そういえば「名字あるいは姓」というのはどの一族の一員であるかを特定するための便宜であり、人間の社会的な本質をよく表す慣習習慣でしょう。つまり、人は必ずある血統を引き継いで、遺伝子を以て、先祖もいるのです。

かならず、人は祖国の一員でもあります。人は文化を必ず持つのです。そうでなければ無理であり、人間は存在しません。人は必ず生まれると社会の内に生まれます。【これを否定できるかもしれない、忘れることはあるかもしれないが、現実はかわらない。家族、文化、国などを忘れても、それらの一員である現実に関してはかわらない】

このようにして、天主に崇拝を捧げる義務がありますが、社会的な存在であるがゆえに、人間は社会の一員としても崇拝を捧げるべきです。これは人間の本性です。社会抜きの人間は存在しない。それは人間ではないのです。

先ほど、伝えた通り人間は身体と霊魂の一体のゆえに、外面的な崇拝を行うべきだと同じように、人間は社会的な存在のゆえに、公的な崇拝を捧げるべきです。人間は現にこのように出来ているからこれらの形で崇拝を捧げるべきです。本来ならば、かなり自然な結論であって、常識であるはずです。人間は生まれながら社会的な存在であるから、社会上の崇拝を捧げる義務があるのは本来ならば当然のはずです。



具体的に公的な崇拝とは何ですか。公にミサに与ること、公に一緒に祈ること。例えば晩歌に参加する、あるいは行列に参加するような行為は公的な崇拝の実践です。また、公教会が捧げる多くの祭礼に参加するということです。このように、典礼を挙げるには、一般信徒の参加と協力は必要なのです。

最後に、崇拝のもう一つの区別を見ましょう。それはある意味で崇拝の対象次第です。
もちろん、最終的に、どの崇拝でも、天主にのみ向けられて、必ず天主に崇拝を捧げるべきです。そして、直接に天主に崇拝を捧げる時、礼拝だといいます。まさに第一の誡の内容です。
第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

しかしながら、諸聖人などにも崇拝を捧げることがあります。「崇敬」と言います。ギリシャ語で「Dulia」に由来しますが、「奉仕する」という意味です。諸聖人のために崇拝を捧げる時に相対的な崇拝になります。つまり、諸聖人を神格化することではなくて、天主の代わりに置くのでもはなくて、天主の何かを特に表した聖人として、天主の近くにいる聖人として崇敬するということです。ですから、諸聖人を崇敬するとき、最終的に間接に相変わらず天主を対象にしています。聖母マリアの場合の崇拝は「超崇敬」といいます。

つまり、諸聖人を礼拝することはありません。またいとも聖なるマリアを礼拝することもありません。厳密にいうと、礼拝ではなくて、崇敬です。崇拝はいつも最終的に天主を対象にしています。



たとえてみましょう。天皇陛下のために讃辞を申し上げたいとしましょう。しかしながら、恐れ多いことなので、どうすればよいかわからない。その代わりに陛下の側近の人、あるいはその使者死者に伝言を預けて、彼は善い形で陛下に伝えてくれるというようなことと似ています。つまり、直接に陛下に上奏するよりも、陛下は気に召す人を通じた方がお耳に入りやすいという感じです。これとちょっと似ています。

つまり、天主の友人である聖人を通じて祈祷すると、天主の耳に入りやすいし、また天主の友達が崇拝されて、天主は喜ばれるわけです。つまり、天主の友達を崇拝するのは、間接に天主を崇拝することです。諸聖人への崇拝、つまり、崇敬、あるいは聖母マリアの場合、超崇敬というのは、以上のとおりです。

つまり、崇拝の行為には、典礼などの祭礼と儀礼などもあれば、大きくに言うと、祈祷、拝む行為全般も含んでいます。フランス語でいうと「Devotion(崇拝)」という言葉がありますが、直訳すると、献身する、忠誠を果たすというような意味です。また、「献身する人に自分の意志を捧げる」という意味です。

以上、は簡単に崇拝のことを紹介しました。崇拝するお陰で、献身を実践することにもなりますし、また奉献することにもなります。また、諸聖人への崇拝などもあります。そういえば、御絵への崇拝もあります。注意しましょう。御絵への崇拝というのは、御絵を礼拝する、あるいは崇敬するというようなことは一切ありません。もちろんありません。御絵に表明されている天主、あるいは諸聖人を崇拝するということですね。わかりやすいと思いますが、念のために注意しましょう。

愛する人がいて、離れている時、その人の写真を大切にして、写真を見て偲ぶことと似ています。当然ながら、紙としての写真を偲ぶことはもちろんありませんね。写真に写っている大切な人を偲ぶわけですね。また、写真を見てその人を思い出すような効果があります。御絵への崇拝はまさにこのようなことです。御絵だから崇拝するのではなくて、天主の御絵だから、天主を思い出して天主を礼拝するということです。ご絵あるいはご像も一緒ですね。像の場合、石を崇拝するのではないのはいうまでもありません。そうすれば、偶像崇拝となりますね。いや、天主、あるいはその諸聖人を描くので、それを思い出して礼拝、あるいは崇敬するのです。



この意味で、同じように、諸聖人の聖遺物への崇拝もあります。諸聖人の残された遺物として、つまり諸聖人を思い出させてくれる遺物として、崇敬するのです。当然ながら、天主の遺物はありませんので、聖遺物の場合、崇敬だけになります。大切な人がいなくなって、その人の持ち物の何かを大切にすると同じです。つまり、その人を偲ぶため、その大切の人を記念に、その人を思い出すために、遺物を大切にするということですね。たとえば、何でもいいですけど、時に、ペンでもだとしましょう。当然ながら、このペンをペンとして大切にするのではなく、亡くなった人のペンだったということで、このペンを大切にすることによって、亡くなった人を結ぶことはできます。

そういえば諸聖人の人生を見てもあきらかです。例えば、ナポリのカプチン会の聖ヨセフがいましたが、彼の周りに多くの奇跡が起きていました。ある日、修道院から教会へ行っている途中、また奇跡が起きたりして、その場にいた人々はこれを見て、聖ヨセフの僧服の一部を切り取ろうとしていたという話がありました。これは一般的で、どうしても聖人の何かを貰いたい気持ちがどうしても出てきます。布自体が大切だったのではなくて、その聖人の持ち物だったとして、聖人との縁があるからです。
以上は天主への崇拝でした。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。

代わりに、天主が母となりたもうた!

2020年09月09日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたの小野田神父様のご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」の第19章をご紹介します

母親の偉大な任務を果たしたことで、代わりに天主が母となられ奇跡がおこりました。
母親の偉大な任務とは何だったのでしょうか? 子供たちを産み、愛ゆえに自分よりも子供の世話をして、愛ゆえに自分の生命と引き換えに我が子をふたり救ったのです。
天主の御摂理のままに、すべてを耐え忍び、天主を信頼したがゆえに、天主は母親の願いをお聞き入れになり、その母親は生きてより、もっと子供のために尽くすことができたのですね。

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
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「助産婦の手記」19章 神父様『さあ、お前たち、一生涯中、このようなお母さんにふさわしいように、やって行っておくれ。』

聖マリア被昇天の同じ祝日に、私の助産によって、もう一人の大へん心配をかけた赤ちゃんが生れた。村はずれの暗い森の中にある山林住宅の中に、よほど以前から、陰気な心配事が起きた。林務官の奥さんが、病気であった。最初、彼女は腎臓炎であったが、それを大して気にもしなかった。

周知のように、婦人には、二つの種類がある。一つの方は、あまりにも体をいたわり過ぎ、何の理由もないのに頭をうなだれ、そして医者を呼んで来させるのである。も一つの方は、あまりにも自分の健康に注意せず、何事でも真剣に取りあげようとはしない性質の人で、従って、自分がまだ這い回ることができる間は、病気とは思わぬのである。

その林務官の奥さんは、後の種類に属していた。彼女はまた、自分の体を大事にする時間的余裕もなかった。家には、子供が五人いた。長女は十三歲くらいで、普通なら母親の手助けがよくできるはずである。しかし、その子は全く落付きがなく、そそっかしい子だった。『若い頃のお父さんそっくりだ、』 と老人たちは言った。もしその娘が全く落ちつきがなく、どこへでも出しゃばりたがり、 しかもただ単に「私にもやらせて頂戴」ということばかり言って、全く何の役にも立たないなら、そういうことは、それが娘であるだけに、男の子よりも遙かに始末の悪いものである。そんな娘は、ややもすれば、しくじりを仕出かしやすく、そして人の予期しないうちに不幸が起るものである。

家の中では、娘は何の役にも立たなかった。竈(かまど)の前に坐ると、ミルクをこぼしたり、水を入れないで馬鈴薯を煮たりした。コーヒーを家畜小屋へ運んだり、山羊の飼料の入っている鍋をお八つの食卓へ持って来たりした……その娘は一体、何を考えているのか判らなかった!  家から出て行きなさい! と言われると、娘は、村をうろつき廻って、あちこちで何か仕出かす。この娘は、母親にとって最大の心配の種だった。

冬に、編物の授業が遅く終るとか、または、そのほか何かのために村からの帰りがおそくなった場合には、母親は腎臓炎にも拘らず、雨でも雪でも、娘を迎えに行ったことも稀れではなかった。しかし、謝肉祭の頃から、母親は咳をし、発熱しはじめた。肺病も併発した。今としては、医者にかからないわけには行かなかった。

森から行くと、村にとっ付きの最初の家に、医者のマルクスが住んでいた。そこで、林務官は、村の真中まで行かずに、その最寄りの医者を連れて来た。彼は、彼女に妊娠三ヶ月、腎臓炎および肺臓カタルという診断を下した。そして入院を命じた。妊娠は、何よりもまず中絶しなければならぬ、さもないと母体は、お産まで、もたないだろうということであった。



つらい日々が、林務官の家でつづいた。ある夜、子供たちがベッドにはいってから、父と母は向い合って坐っていた。
『今でも私たちは、もう子供が五人あるんですよ。六番目のも、やはりパンと小さなベッドがいります。それはまた大きくなるでしょう。ですから、私たちは、今それを葬ってもらわねばならないですね……』

『それは、赤ちゃんのためにはならないね、お母さん。私はもうそれが可愛ゆく、いとしくなって来ているようだ。でも、もしお前が死ぬとすると? お前が死ぬよりは、赤ちゃんが死ぬ方が、良くはないかね? ほかの子供たちは、どうなることか、そのことを考えて御覧。また赤ちゃんは、お前がいなければ、そう、お母さんなしには、どうすることやら?』

『では、私が死ぬだろう ということが、確かに判っているんですの? もし妊娠中絶をしさえすれば、私は死なないってことが、判っているんですの?  あなた、昨年、あの居酒屋「鹿」で、どういうことが起ったか思い出して下さい。そのときは、当のマルクス先生も、中絶せねばならぬと言ったんですよ。そしてお上さんは、その手術で死んだのですよ。』

『しかし、またうまく行ったこともたびたびあるんだからね。なぜ、お前の場合に限ってうまく行かないということが、あろうか?  私は、マルクスさんが、もう、二三回、妊娠中絶をさせた村の女の人を幾人か知っている。我々男たちが寄り合うと、色んなことを話すんだよ。ぶなの木や兎のことばかりじゃない。ある女は、神経がどうだとか、他のある女は心臓がどうだとか。そうだ、人は好きなことを考えることができるものだ。僕は医者ではないし、責任を負わない。しかし、徹夜でダンスをしたり、心臓や神経でもって、スキーをやったり、手橇(そり)に乗ったりすることのできるぐらいの女なら、辛抱して子供を生むことができると思うがね、もしその気があるなら……』

『あなたは、いつか私たちが一緒に見に行ったあの博覧会のことを覚えていませんか?  胎児は、もう二三ヶ月で、どんなに可愛らしくなっていたか覚えていますか? あすこでは、胎児はあんなに無慈悲に、蛇やひきがえるのように、アルコール漬けにして保存してあったのですが、それでも、それはほんとに小さな人間の子であったということは、どんなにか私たちを悲しませたことだったでしょうか。

二年前にエラ叔母さんが、ここに来て流産したとき、それはどんなにあなたを悲しませたか、覚えていますか?  あの小っちゃいのが、嘆願するかのように、自分の小さな手を動かしていて……それなのに、それはまだあまりにも小さすぎるので、誰も助けることができなかったのですよ。』



『覚えてる。お母さん、よく覚えてる。だが、もしお前が死ぬと何が起きるだろうか? もし、子供が生れても、お前が死ねば子供は、どうなるだろうか? そのときには、子供も、きっと死んでしまうだろう。』

『御覧なさい、ヤコブ、私たちが、そんなことを話していると、私のお腹の子供が、私たちの言葉を聞いて、恐ろしさに、その小さな心臓が停ってしまうような気がするんですよ。また、赤ちゃんがその小さな手を動かして、どうか私を生かして置いて下さい、と願っているようにも思われるのですよ。

赤ちゃんは、こう言っています。あなた方は、もともと私を呼んで生存させたんです。人間の生命というものは、この世では神聖なものではないんですか?  天主の戒めには、汝殺すなかれ、とあるではありませんか?  そしてあなた方は、私のお父さんとお母さんになろうと思ってるのです――私を生命へ目覚ましたのです――そして、私がいま生きていいかどうかについて、イエスかノーか、ただ一言いうことができるだけなのです、と。』

『お母さん、私は決して強いてお前にそれをやらせようとしているのじゃないよ。だが、もしお前が死んだら、子供はどうなるかね? そのときには、子供は、よりよい具合になるかね?』

『それは全く、確かにいい具合になりますよ、ヤコブ。そのときには、あなたは、赤ちゃんの父と母とにならねばなりません。地上の一番みじめな生命でも、無いよりはましです。それは天主の子ですし、天主と天国とのために育てなければなりません。それは洗礼を授けられねばなりません。ああ、私たちは一体、自分自身というものをどんなに重要なものと思っているんでしょう!  どれほど多くの子供が、父も母もないのに、生きていることでしょう。

もし天主が、私をこの世から取り去り給うたなら、天主が孤児の母となられるでしょう。そして私は永遠の彼方から、私が今このように、あなたのそばにいるよりも、多分もっとあなたのために尽くすことができるでしょう。ああ、全く私たちは、何事も私たちなしにはやって行けないと、いつも信じているんです。しかし、天主はそのお創りになった天地を統べることがおできになるし、またそうするためには、私たちの一人ぐらい何の必要ともなされないのです……』

日曜日の御ミサの後で、林務官は妻と一緒に、ウイレ先生のところへ行った。詳しい診察の後、医者は、体をよくよくいたわるよう命じた、すなわち、体力を強めるために、若干の薬剤を、殊に、ミルク、卵、果物をとるようにという処方を与えた。

『あなたは、御自身必要とするものを、自分で調達できますか?  あなたは、物事をあまり軽く見てはいけませんよ、特にあなたの状態では。あなたは、手助けする人を頼むことができますか?  もしできなければ、私はあなたに看護婦を一人、無料で世話してさし上げましょう……私たちは、私たちキリスト信者は、お互いに助け合うために存在しているんです。』

『それには及びません、親戚のものが誰か暫らく来てくれるでしょう、先生――。でも先生は、あのことについては、今まで何もおっしゃいませんでしたが――妊娠中絶をせねばならぬというのは、確かにほんとなのでしょうか?』

『多くの医者たちは、あなたに、このことを第一の救助策としてやらせようとするかも知れません。この赤ちゃんは――いや、すべてどの赤ちゃんでも――母親にとっては、非常に精力を消耗させるものであることは確かです。しかし、また同時に、どの赤ちゃんでも、母親にとっては、力の源泉です。そこには、何か相互関係があるのですが、これについては我々は、まだ仲々よく判っていないので、はっきりした断定を下すのは僭越の沙汰なんです。

ただ私は、こういう見地に立っています。生命を――すべての生命を――保護するということは、医者の神聖な義務である、と。殺さないということは、まさに医者の天職です。外見上、ある人の利益になると思われる場合でも、そうなのです。 そして、もし手術の結果が、どこか体の一局部に限られるのではなくて、心臓、神経、感情など、一切を含む有機体の全部にわたる場合には――私は、そのような手術は妊娠そのものよりも、もっと憂慮すべきものと考えるのです。

そうした考えからして、私は、もし母体に対するさし迫った死の危険が、このことを要求しない限り、中絶の手術をする決心は、ようしないのです。幸いに、こうしたことが起るのは、ごく稀れです。私は、病気の母親の方を手当てして、子供のことは出来る限り心配しないことにしているんです。』

『ですと、先生も、私の家內は子供のために、死ぬだろうと思われるのですか?』

『人間的な判断からすれば、妊娠が終ってしまうまでは、心配は増してゆくでしょう。それからまた、お産のときには、色んな混乱がおこりやすいものです。うまく行くかどうかは、本当をいえば、我々には判断できないんです。まさにこういう方面で、人は最も不思議な驚きを経験できるのです。そこで、お母さん、地上のあらゆる生命は、より高いもの御手の中にあるということをお考えになって、あまり心配しすぎないようになさい。必要なことだけに気を配って、静かに成行きにお任せなさい……』

親戚の或る女が、この家へ手伝いに来た。林務官の奥さんは、その女が、まるで五人の子供の母親であるかのように、よく世話をしてもらった。かようにして冬が過ぎ去った。医者は每週来診したが、その都度、「病気のお母さんが必要とするような何ものか」を持って来てくれた。彼女の健康は、大して悪くはならなかった。春がやって来て、暖かい太陽が森を照らすようになると、彼女の健康状態は快方に向っているかのように思われた。

そしてご昇天の祝日に、男の子が生れた。二三週間早すぎたように私には思われた。しかし、この小さな男の子は、大へん丈夫で、牡鶏と競争してはげしく鳴き立てた。実に、いい具合いに行った。よい看護のお蔭で、母親の健康は、半年前よりは一層よくなった。しかし、まだ赤ちゃんに授乳することは許されなかった。

産後四日目に、親戚の女は、赤ちゃんのために、哺乳器をアルコールの湯わかしの上で温めさせるために、十三歳のベルタを台所にやった。しかし、ベルタは、その仕事にまたもや注意を向けなかった。予期しないうちに、その十三の小さな姉は、焰に近寄りすぎたため火が燃えついた。恐ろしい叫び声を発して、その娘は部屋の中へ走りこんだ。親戚の女は、驚いて身動きができなかった。

しかし、母親は、ベッドから飛び下り、掛蒲団をもって焰を消し止めた。その娘は、大した火傷は負わなかった。ところが、母親は突然、悪寒の発作で、ブルブル慄えたので、歯はギシギシ音を立て、ベッドは一緒に揺れ出した。殆んど止め難い出血が起った。医者が連れて来られぬうちに――私は、ちょうどそのとき、お産のためウンテルワイレルに行っていた――事は既に遅すぎた。驚き、出血、突然に起った心臓衰弱……

三日後には、すでに死の蝋燭がともされた。気丈夫な母親の心臓が、停ったのであった。死骸の前に、父親は赤ちゃんを抱いて跪いた。『お母さんの遺(わす)れ形見たちよ。』と、彼は子供たちに言った。

『小さな弟に生命を与えるために、そして小さな姉を焼け死にから救うために、お前たちのお母さんは、死んだのだよ。ただただお前たちに対する愛から。さあ、お前たち、一生涯中、このようなお母さんにふさわしいように、やって行っておくれ。』

ベルタは、憂鬱な日々を送った。誰も彼女を非難しなかったのではあるが、母親の死んだのは、自分の責任だと、彼女は自ら感じていた。私は、その娘が、さらにまた愚かなことをするのを防ぐために、その娘に長い間、話して聞かさねばならなかった。とにかく、母の遺れ形見の小さな弟が、橋渡しをした。その子供を世話することが、その娘に生き甲斐と、生きる勇気とを取り戻させた。

キリストの十字架像の一角に、母親の肖像が掛っていた。忠実に義務を履行して、彼女は死んだのである。忠実に義務を履行して、今やベルタもまた、母の遺れ形見を保護することを学んだのである。その娘の不注意と軽卒の性質は、あの恐ろしい出来事によって消え去った。十三歳の娘にとっては、五人の小さな兄弟姉妹のいる世帯をやって行くことは、容易なことではなかった。しかし、彼女はそれに成功した。それは、あたかも、永遠の彼方にいる母親が、何本かの糸を手に操(あやつ)り、忠告と行為とをもって、その成功に協力したかのように思われたのである。

その小さな母の遺れ形見のハンスは、今日では年老いた父の若い助手であり、かつ最も忠実な相手となっている。祝福された子供。


教会の掟は信者のみ、天主の十戒はすべての人々が守るべき義務があります 【公教要理】第九十五講

2020年09月08日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十五講 天主の十誡と教会の掟



公教要理の道徳の部を引き続きご紹介しましょう。道徳の部といえば、人間的な行為に関する部分です。今まで、人間的な行為についての内的な諸原理を紹介してきました。善悪の区別それから善い行為と悪い行為の違いを見て、また罪、悪徳と善徳などをみてきました。これから外的な諸原理を見ておきましょう。つまり法についての部分です。以前には、法を概観してきました。要するに、永遠の法や自然法や天主の実定法、教会の実定法などを紹介してきました。

今回から、これらの法をより詳しく見ていきましょう。とりわけ人間のために天主が公布した法を中心に見ていきましょう。この法は「天主の十誡」と呼ばれています。ギリシャ語の「デカ(十)ロゴス(み言葉・ノリ)」に由来しています。

天主の十誡なのです。天主の十誡とは、天主が公布した自然法の要約版なのです。「天主が公布」したという言い回しをよく理解しましょう。思い出しましょう。自然法とは、人間の本性に刻印されている人間に課する生まれつきの法ですね。しかしながら、その上、天主は特別にこの自然法を公布なさいました。あらゆる人々に知らせるために、明白に宣言なさったということです。つまり、天主ご自身は、すべての人々に知らせて知ってもらうために、自然法を明らかに宣言して、10つの掟に要約してくださいました。天主の十誡なのです。新しく制定したのではなく、あくまでも既存の自然の法を明らかに明文化したという意味です。

このようにして天主はモーゼに自然法を授けました。周知のとおり、旧約聖書において、エジプトからヘブライ民を導いてモーゼが紅海を開けて脱出を果たしました。それから、天主の命令に従って、ヘブライ民は砂漠へ行きました。アラビアから南行して、シナイ山に到着しました。つまり、エジプトから出発した50日間後、ヘブライ民の全員はシナイ山のふもとに着きました。

それから、天主はモーゼをシナイ山の天辺に呼び出しました。モーゼは天辺まで登り、雷や稲妻の内に囲まれて、そこに40日間、滞在しました。この間に、ヘブライ民はふもとに滞在してモーゼを待っていました。そして、この40日間、天主はモーゼの前に出現なさった際、天主の十誡をモーゼに授け給い、天主が岩の板二枚に十誡を御自ら刻みたまわったのです。そして、モーゼはこの二枚を持って民に伝えるために下山してきました。

しかしながら、下山したところ、モーゼは不在だった間に、民が偶像崇拝に陥った状態にあいます。というのも、ヘブライ民はその間に、金の子ウシの像を作り、礼拝していました。これを見たモーゼは怒り立って、天主からいただいた岩の板の二枚を地面に投げて壊しました。
その後、モーゼは再び天辺に登り、もう一度40日間を過ごせざるを得ませんでした。で、天主は誡の岩の板の二枚を再び渡し給ったのです。
以上のようにわかるとおり、天主は十誡を実定なさいました。つまり、人間の本性において既に刻印される自然を岩の板に明記になさったのです。明文化なさったのです。明らかに示し賜ったのです。
~~


この二枚に要約された自然法は、私たちの主、イエズス・キリストによって、さらに二か条の掟をもって要約されました。そういえば、このようにして、二枚渡された理由は、イエズス・キリストの二つの掟の前兆を示しているのです。ファリサイ派の前にイエズス・キリストが仰せになる二つの掟です。次のように仰せになります。「イエズスは、〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。これが第一の最大の掟である。第二のもこれと似ている、〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。すべての立法と予言者はこの二つの掟による。」
聖マテオの福音に記されている御言葉です。

要するに、二枚の十か条の掟は後にイエズス・キリストは明らかに示したまわった二つの掟の明文化なのです。つまり、一枚目は天主への愛に関する掟を細かく明記します。第一から第三までの誡なのです。そして、残りの七つの誡めは二枚目に記されて、隣人への愛の掟を明文化して細かく規定しているのです。

要約すると、天主から直接に授けられた岩の板の二枚に記されている十誡があります。それから、この十誡は天主なるイエズス・キリストの二つの掟の詳細項目なのです。一枚目は〈すべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力があげて、主なる神を愛せよ〉。二枚目は〈隣人を自分と同じように愛せよ〉。
~~

天主の十誡を公教要理で習う時、簡潔された形で覚えるのです。というのも、天主はモーゼに授け給った時の場面は、脱出の書に記載されていますが、この場面に記されている天主の十誡の全文を読むと、かなり長い文章となります。特に、最初の諸誡はそうなのです。

このように始まります。「エジプトの地、奴隷の家から、おまえを連れ出したのは、神なる主、私である。私以外のどんなものも、神とするな。刻んだ像をつくってはならぬ、」 そして長く続きます。誡ごとの細かい紹介は次回からにします。第一から第三までの誡めは特に長いです。ですから、公教要理には、短い文章で次のように要約されています。

第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。
第五 なんじ、殺すなかれ。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。
第七 なんじ、盗むなかれ。
第八 なんじ、偽証するなかれ。
第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

以上、一行で要約された天主が授け給った誡めです。これは自然法全般の要約版なのです。また、完全度の高い自然法の表明なのです。前に申し上げたように、第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。天主への愛についての掟です。それから、残りの七つの掟は隣人への愛に関する掟です。第一から第三までの誡めは天主に関する掟なのです。第一の掟は、天主に対してわれわれが果たすべき忠誠を明確にします。


第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。
そして、この天主に対する忠誠から、第二の掟に規定されている畏敬につながります。
第二 なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。
そして、天主に対する忠誠、それから畏敬から、第三の掟に規定されている天主に対する奉仕につながります。 
第三 なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。

以上は最初の三つの掟です。一言でようやくすると、忠誠と畏敬と奉仕なのです。
次回から、それぞれの誡めを細かく説明しておきます。

残りの七つの誡めは隣人についてです。

第四の誡めは大事な具体的な義務を再確認します。これは、生命を中心に、すべてのことを頂いた先祖に対する敬いの義務です。孝行の実践です。積極的に孝行の実践を奨励することとして、肯定的な掟だといえます。

第四 なんじ、父母(ちちはは)を敬うべし。

また、この掟において、上司に対する義務なども含んでいます。あるいは、精神上の生命(学問、知識)、また霊的な生命を頂いている人々に対する報いの義務についての掟でもあります。また祖国への義務もこの掟において含んでいます。生まれたら、人々は必ずある祖国の一員となります。というのも、政治的な存在であることは人間の本性に刻印されている要素だからです。
要するに、第四の掟は、積極的な掟であり、あらゆるものごとを頂いた人々に対する報いの実践に関する規定なのです。

そして、残りの第五から第十の掟は「否定的な掟」だといえましょう。つまり、種々の行為を禁じる掟として、「やってはならぬ」という否定形が伴います。要するに、隣人に対して加害するような行為を禁じる諸条なのです。そして、行いにおいても、言葉においても、思いにおいても、隣人に対して有害なことをしてはならないということです。

行いにおいては、第五から第七の掟です。
言葉においては、第八の掟です。
思いあるいは望みにおいては、第九と第十の掟です。

行いにおいて隣人を害してはならぬ。
第一に、隣人にとっての至上の宝である生命、天主が生命の持ち主として生命において隣人を害してはならぬということです。
第五 なんじ、殺すなかれ。

また、行いにおいて、隣人にとっての大事な人々を害することによって隣人を害してはならぬというのは第六です。
第六 なんじ、かんいん(姦淫)するなかれ。

そして、最後に、行いにおいて、隣人にとっての大切な物を害することによって、つまり隣人の保有権において隣人を害してはならぬというのは第七です。
第七 なんじ、盗むなかれ。

それから、言葉において隣人を害してはならぬというのは第八です
第八 なんじ、偽証するなかれ。

最後に、思い、あるいは望みにおいてですら、隣人を害してはならないのです。というのも、ほとんどの場合、望みはある行い、ある行為のきっかけになります。少なくとも、あらゆる行為は最初に望みから生まれます。このようにして、隣人にとって大切な人々を奪うことを望んではいけません。

第九 なんじ、人の妻を恋(こ)うるなかれ。
意志的に、不浄な欲望を抱いてはならないのです。このうちの一番典型の罪は不倫です。

そして、最後に、隣人が持っている物事を望んではなりません。
第十 なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ。

以上のように、天主の十誡を簡潔に整理した形でご紹介しました。
この十誡において自然法全般は要約されています。


自然法の追加の規定として、教会はいくつかの掟をさらに制定しました。「教会の掟」と呼ばれています。実定の掟であって、つまり、自然法の上に追加された掟です。公教会には掟を制定する権限があります。天主より授けられた権限だからです。教会の掟には六つあります。公教会にはこのような追加法を制定する権限があるだけではなく、制定したとき、厳かに義務化させている掟となります。つまり、違反したら大罪となります。

教会の六つの掟は三つの要点で要約できます。
第一と第二の掟は、天主の名誉と天主の玄義に関する掟です。
第三と第四の掟は、秘跡に関するものです。つまり、信徒には不可欠の天主に助けと恩恵となる秘跡に関する掟掟です。
そして、第五と第六の掟は、苦行と改悛に関する掟です。キリスト教的な生活を営む上には不可欠である苦行と改悛です。

第一と第二の教会の掟は、主日の上に、他に与かるべき祝日を追加します。また後述します。この二つの掟の目的は信徒たちが天主をよりよく知ることを助けることです。
思い出しましょう。第一、われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。また、天主を何よりも愛すべし。
そうするために、天主を知る必要があります。ですから、公教会は大事な祝日、それから玄義をよりよくわかるために、いくつかの祝日に与かる義務を追加しました。つまり、教会の第一の掟により、守るべき祝日を制定します。

また、第二の教会には、主日を聖にするためにどうすればよいか規定します。つまり、主日と義務化された祝日のミサに与かることです。
思い出しましょう、十誡の第三はなんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。これをより明文化するのが教会の第一と第二の掟です。

第一 主日と守るべき祝日を聖とし、
第二 ミサ聖祭に与るべし。


第三と第四の掟には、天主の子であるキリスト教徒に、イエズス・キリストから授けた助けをもらうように命令します。臨終まで天主に忠誠しづづけるためのことです。

第三 少なくとも年に一度は必ず告白すべし。
第四 少なくとも年に一度は御復活のころに聖体を受くべし。

つまり、年一回、告白の義務、とご復活の頃、拝領の義務を規する掟です。告白と拝領は信仰を守るための一番大事な秘跡なのです。

それから、改悛と苦行に関する掟があります。イエズス・キリストは仰せになった通りです。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え」
このようにして、我々も改悛して、イエズスの後について、私たちの主に従うべきです。

第五 定められた期日には大斎(だいさい)を守るべし。
第六 金曜日およびその他定められたる期日には小斎(しょうさい)を守るべし。

公教会の掟は天主の誡めではありません。天主の誡めの上に追加された掟です。ですから、天主の十誡との性格は違います。天主の十誡とは自然法の明文化なのです。つまり、自然なので、人間の本性に刻印されている掟であって、不変不撓な掟なのです。時代場所を問わないで天主の十誡を変えることもできないし、いつも有効です。

たとえば、嘘をついていけないという掟は場所と時代を問わず変わりません。昔も将来も、いつまでも「嘘をついてもよい」ということはなりません。殺すなかれ。親を敬え。などなども一緒です。
十誡は自然法の一環なので、人間である限り従うべきです。従わなくてもよいことがあり得たとしたら、もう人間でなくなったということを意味するでしょう。
一方、公教会の掟の場合、実定法であり、制定法なのです。言い換えると追加された法なのです。このような追加法はいつでもどこでも義務を生じるとは限りません。事情次第では場合によって例外な時代と場所も出てくることはあります。

このようにして、密接に関係するものの、天主の十誡と教会の掟は違うのです。混同してはいけません。
ことに、公教会の掟は公教会が制定する法として、公教会の構成員である洗礼者に限って適用される法なのです。
一方、天主の十誡は自然法なのですから、洗礼者であるかどうかを問わず、あらゆる人々に適用されます。

たとえば、教会の第一と第二の掟、主日にミサに与かるべき掟は洗礼者に課するのです。しかしながら、洗礼者ではない人は、ミサに与かる義務を負わないのです。教会の一員ではないからです。当然といったら当然ですが、一員ではないのに、ある社会の法を負うことはないからです。
一方、「嘘をつくな」というのは自然法なのですから、人間性を持っている以上、つまり、人間に生まれて、人間である以上、あらゆる人々は守るべき掟です。

つまり、天主の十掟を守るべきは、あらゆる人々です。
一方、教会の掟を守るべき人々は洗礼者のみです。洗礼を受けると教会の一員になるからです。
また、前述したように、深刻な事情がある場合、教会の掟の義務から免除されることもあります。制定法だからです。
一方、天主の十誡は例外なし、いつでもどこでも守るべき義務があります。

以上は、天主の十誡と教会の掟の概観でした。
次回から、それぞれを詳しくご紹介していく予定です。

童貞なる聖母マリア様の行いに倣った職業

2020年09月05日 | 生命の美しさ・大切さ
Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの、「助産婦の手記」をご紹介します。
※この転載は、 Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のためアップしております

「助産婦の手記」の第1章をご紹介します

リスベート・ブルゲル(Lisbeth Burger)は三十歳の娘の時に、カトリック司祭の勧めで助産婦となりました。
神父様は助産婦という職業を説明します。童貞マリア様が実践なさった、出産のために母子をお助けするという、いわば天主の助手となる名誉ある職業であると。
リスベート・ブルゲル自身もカトリックであり、助産婦となった四十年間を、助産婦という天職の尊厳性、幼児のしつけ、青年男女の貞操、出産前後の夫婦の心得、夫婦愛などのあらゆる問題をカトリックの教義の視点から書き記しています。

以下、Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じたさんの記事を転載させていただきます。
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「助産婦の手記」1章 神父様『リスベートさん、私はあなたと真面目な話を一寸したいのですが…』

私が三十になろうとした頃、私たちの村で何事かが起った。それが何であつたかは、私は知らない。当時は、そのような事柄の上には、神秘的な厚いヴェールが被いかぶせられていて、未婚の上品な娘と見なされたいと思うものは、誰一人として、このヴェールを取り払おうとあえてするものはなかった。私の知っていることは、ある妊婦がお産のとき死んだということ、そして私たちの村の助産婦に、その責任が負わされたということだけであった。

この助産婦は七十六になるお婆さんで、見たところ体が少々ふるえていた。彼女は自分の子供を十人も育て上げ、しかも数年前までは、一生涯中大酒飲みで仕事は殆んど何一つしないような夫を養わねばならなかった。今では、もうその夫は死んでおり、そして子供たちも家から巣立って、それぞれの道を歩んでいる。この老母の世話をする人は、誰もいない。多くの人たちは、この婆さんも死んだ夫にならって適量以上の酒をたしなんでいるのではないかと知りたがっていた。とにかく、彼女は全く変になって来た。そこへもって来て、今また、一人の母親が死んだその責任を問われるという不運が起ったのであった。こんなことは、彼女としては初めての失策ではなかったであろうが、それ以外の失策は、大目に見のがされて来たに過ぎなかった。

とにかく、この村の医者たちや医監は、誰か新しい若い助産婦が養成されねばならないと非常に強く主張するようになった。隣り村の助産婦は結婚していて、毎年、自分自身で産褥についているというような始末であり、しかも私たちの村でその助産婦に用があるときには大抵そうなのであった。新しい工業がまた開始された結果、私たちの村はますます人口が増えることとなった。そこで婦人たちは、一体誰がこの村の助産婦になろうとするのかと、非常に熱心に話し合っていた。しかし、彼女たちの間からは、この重荷を背負おうとするものを見いだすことはできなかった。

私の父はかつて教員をしていたが、残念なことに、チブスが流行したとき、まだ大変若いのに死んでしまった。で、当時、私の弟は神学校に入っており、そしていつも病身な妹は家にいた。その頃、この村ですることのできる唯一の職業は裁縫だけだったので、私はそれを稽古して、乏しい恩給を補おうとした。しかし、そうしてもわずかに「酸っぱい一切れのパン」が得られるに過ぎなかった。というのは、この村には、もうすでに三人も古い縫手がおり、しかも村の女たちは、何十年も着つづけた衣服をまだ着ているという有様であり、そして普段着は、大抵の女は、自分で作ったからである。仮縫いの四つはぎのスカートや、前掛や肩掛を作るには、大した技術も要らなかった。

さてある日のこと、主任司祭が、私たちの家へお見えになった。神父様は、まるでこの家にお葬らいでもあるかのように、とても厳かな様子に見えた。
『リスベートさん、私はあなたと真面目な話を一寸したいのですが…』

おや、まさか縁談ではあるまいに!と私は思った。私は大分前から熟考したすえ、結婚はすまいと思っていた。しかし、神父様は、私にそう長くは気を揉ませなかった。

『あなたは、この村で新しい助産婦が必要だということを、もう聞いておられるでしよう。で、私はきょう、村会で、助産婦学校にあなたを入れるべきだと言ったのです……』

『まあ、神父様……』これはまさに、私が怖れていたこと以上に、いやなことであつた。私のような娘が助産婦になるなんて……

『費用はいらないんですよ。助産婦学校の学費は、村で負担しますから。で、 この村では、一年に大抵、八十件ぐらいお産があります。しかも、助産料金は、今日では十二マルクですから、大した収入になります――もっとも貧乏な女では、そんな大金は、ちょっと勘定できないでしようが。裁縫では、一杯の薄いスープに塩を入れるほどの稼ぎにもなりますまい。』

『誠に御もっともなお話です、神父様』と、私の母が言葉をさしはさんだ。『でも、私はリスベートをそういう風には育てなかったのです……そうです、全くそうなんです!この娘は、いつまでも、きちんとしていなければなりません!――それなのに、助產婦は、まともな娘のする仕事ではありません。』

『きちんとしたですって、奥さん……きちんとしたというのは、どういうことなんですか? 助産婦は全然きちんとしたものではないとでもおっしゃるのですかね? 御婦人たちを、苦しいお産のときに助けるのですよ。あなた方御婦人は、信賴できるきちんとした人が、そばについていてくれるとしたら、いつもどんなにか心丈夫でしように――それとも違いますか? そして赤ちゃんが生れて来る手助けをするんです! 自分が母親でない御婦人にとっては、お産のときに母子を助け、保護することより以上に、美しい職業は恐らくないでしよう。そして素晴らしく真面目な職業です! いつも母親と子供の二人の人間の生命を握っているんです。もし私が女であって、結婚もせず、子供もないとしたら、これ以上に望ましい、より美しい職業は、よもやほかにはなかろうと思うのですが。』

『でも、それは、まともな娘に適した仕事ではありません。結婚しないうちは、そんな事柄については、何一つ知るべきではありません………』

『ですが、奥さん、お宅のリスベートさんは、もう子供ではありませんよ。間もなく三十になるんです。もし、ほかの人たちのように早く結婚していたら、子供が四人も出来たことでしよう。』

『でも、あの娘はまだ子供がありません――そんな事柄とは、全く無関係なのです。そうです、私は娘がそんな事にたずさわるのには堪えられません……』

『あなたはやたらに、そんな事……そんな事と言いますね。奥さん』と老神父様は、本当に怒り出した。こんなに怒られたことは、珍しい。

『では、正しい結婚で赤ちゃんが生れて来るということは、罪悪だとでもいうのですか? それとも、私たちの天主様は、そういうようにはお定めにならなかったとでも言うのですか? 天主の御業は、善いものです、常に善いものです。悪いのは、ただ人間の考えのみで、従って人間のする業もまた悪いのです。今こそ我々のうちの善人は、天主の全き祝福が与えられるように、助産婦になるべきです。独り身の人は、その職業に一層よく専念することができます。そういう人は、母親としての義務や家事などで束縛されることもないし、殊にお宅のように、ほかに女手があるような場合には、なおさら、そうです。リスベートさんは、全く自由に他人のために働くことができるのです。』

『でも、それはどうしても適していません……』

『それでは、なぜ童貞マリア様は、山を越えて、従姉妹(いとこ)のエリザベト様のところへ行かれましたか?
これは、ただ、何か珍しい噂さ話を持ちこむためだけだったでしょうか? いえ、従姉妹のお産の苦しい時に、お助けしようと思われたからです。で、もしもこのことが、マリア様に――最も純潔な処女に――適していたとするなら、今日でもそれはやはりふさわしいことでしよう。まさに純な人々にとって、純潔な手と純真な心は、そのような責任のある職業に適しているのです。そして、どんな雑事によっても乱されず、また愚かな考えのひそまない明晰な頭脳。そして最後に、沈黙をよく守り、かつ万事において、心を正しく持つ婦德もまた必要なのです。



とにかく、奥さん、私はもう村会で、リスベートさんは勉強に行くと言ってしまったのです。ですから、どうか私を村中の笑いものにして下さいますな。村長はもうすでに、娘さんが十月から授業を受けられるようにするために、助産婦学校へ向けて出発されました。というのは、この村の生活改善は、焦眉の急を要するからです。もし、そうしなければ、また一年経ってしまいます。もし、この間のような事が起ったとしても、あなたは、その責任を負うことは全くできないでしよう。』

『では、もし私の娘が堕落したら、どなたがその責任を負うて下さいますか?』

『私が負います、奥さん。私は、リスベートさんが本当に立派な助産婦になることを保証します――すべての婦人や子供たちを幸福にして――そして助産婦をすることによって、心身に害を受けるというようなことは全くないのです。では、一週間以內に準備をして下さい、分りましたか?』

『はい、でも神父様――私は神父様のおっしゃることは、すべて正しいとかねてから信じています……しかし、私は助産婦というものは、一体何をするものなのか、ちっとも存じませんもの……』

『ああそうですか、それは、赤ちゃんが無事に生れ、そしてお母さんに何の別状もないように手助けすることです。そして赤ちゃんをきちんと整え、世話をすることです――ですが、赤ちゃんは、おむつと一緒に天から降りて来るのじゃありませんよ……』

『でも、私はちっとも知りませんもの、どういうように……どういうように……』

『どういうように何をするかということは、間もなく教わるでしよう。あなたは、在学中いつも一番だったのですから、そんなこともまた解るでしよう。それに、あなたのお母さんが、直きに何か話して下さるでしよう……』

『そんなことは、誰も話しはしませんよ、神父様。私の母もそうでした。』 と、母は言葉短かに言った。そして私は、もう一つ最後の異議をあえて申し述べた――というのは、私は、これから引きずりこんで行かれねばならないその神秘的なものに関して、とても不安で心配でたまらなかったから。

『でも、それは罪悪です――私のような者にとっては……』

『いえいえ、あなたは私のところの「公教要理」の勉強で、そんなことを教わったことはありませんよ!
で、もし、かりにそう教わったとしたなら、あなたを助産婦にならせようなどと私がすると思いますか? 子供が、どのようにして生れて来るかということを知ることは、成長した人なら、誰でもが持つ権利です。天主の御業は、それを理解できる年齢に達した人なら、誰でも知ってよいことです。そして、そういう場合に、手助けをし言わば天主の助手となるということは――一個の人間にとって大きな名誉です。罪というのは、自分の知識をあらゆる不正な事柄に悪用することだけです。このことは、あなたは間もなくよく理解し、区別することができるでしょう。』

私たちは、なお暫らく、あれやこれや話し合った。そして結局母は、どうしても承知しようとはしなかったが――私は一週間後には、助産婦学校へ向けて出発した。母も私も、その土地は不案内であったので、その町出身の教頭の奥さんが、私を連れて行って下さった。

私たち新入生は十四名で、三人ずつ小さな部屋に起居することとなった。そして晚になると、私たちは夕食の食卓を囲んだが、何を話し合ってよいか分らなかった。翌朝、教室で私たちは、アルファベット順に並ばされたので、私は一番目の席についた。校長先生は、この職業の厳粛なことについて一場の講話をされたので、私はすっかり気分が重くなってしまった。すると校長先生は、私にお尋ねになった。

『あなたは、もうお子さんがおありですか?』
まあ……こんなことを尋ねるなんて。一体、私のことを何と思っているんでしょう……全く狼狽して、私はどもった。
『いいえ……私の村の神父さんは、おっしゃいました……子供を持っている必要はないんですと……』
幾たりかが笑った。しかし、校長先生は大変まじめに、断固として言われた。

『全くその通りです。 この職業を正しく理解し、正しく行うには、その必要は全くありません。私は、処女たちが、母と子のために全力をつくして下さるなら、ほんとに嬉しいのです。』

しかし、私たち処女は、わずか三人だけであった。大抵の人は、既婚婦人であり、しかもそのうちの四人は、正式の結婚によらぬ母であった。そこで私の母が、どうして私を助産婦にならせたがらなかったかというわけについて、ほのかな光がごくおもむろに私にさして来た。老校長先生は、私たち三人のために、一般の授業が始まる前に、特別な講義をして下さった。このことについては、私は今日でもなお感謝している。校長先生は、私たちの知らないことを大変はっきり言って下さったので、私たちは、愚か者ながら、後になって、さほど大きな困難には全く会わずにすんだ。

しかし、当時私は、時々こう考えていた。私たち娘が成人した暁には、母親は娘たちをブラブラ遊ばせておくことはよくないことである。正式な結婚をして子供を儲けることは、ほんとに好ましいことであって、このことは、天主様が人間にそうさせるために、新たに霊魂をお造りになり、そしてこれを母親の胎內に宿らせ給うのであるということを考えて見れば判ることであると……

私たちは、昼も夜も一生懸命に勉強しなければならなかった。時は、非常に速く過ぎて行った。当時は、授業期間はわずか五ヶ月であり、それから試験があって、私たちは免許状を授けられた。これよりさき、私の村の村会は、私に最新式の器具を買って帰るようにと依頼して来ていた。そして私は三月の上旬に、ちょうど小さな椋鳥(むくどり)が初めて春のおとずれをするかのように故郷へ帰った。

私の母は、駅に出迎えに来ていた。そして私たちが一緒に村を通って行くと、どこでも好奇心に満ちた眼が庭の後ろからも、窓の中からも覗いていた。婦人たちは、不信な面持ちで。というのは、未婚の娘が、彼女たちの助産婦になろうなどということは、よく了解できなかったことだから。娘たちは、驚いて、彼女たちは、私の新知識をとても羨んだ。子供たちは、無邪気に喜んだ。

『ワーイ、新らしい助産婦さんが来るぞ!』と一人の腕白が友達仲間に叫んだ。『あの人、知ってるかい、どこへ赤ちゃんを持って行くか知ってるかい!』
『違うよ、あの人が持って来るんじゃないよ! こうの鳥が持つて来るんだい!』
『でも、あの人が来て、赤ちゃんをこうの鳥から取らなくちゃならないんだよ……そうしないと、こうの鳥がお母ちゃんの足に噛みつくんだ……』
『ちがうよ、こうの鳥が赤ちゃんをお母ちゃんのところへ持って来て、それからお母ちゃんが、それを黒い袋に入れて家の中に運ぶんだよ……』
幸福な子供の無邪気さよ……

なぜ誘惑があるのか?誘惑に打ち勝つ方法は?【公教要理】第九十四講

2020年09月02日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十四講 誘惑について



罪は何であるか、それから大罪と小罪との違いは何であるかをいままでご紹介しました。それから、七つの罪源を簡単に紹介しました。罪に関して、最後に説明する課題はもう一つ残っています。罪に先立つ「誘惑」のことを紹介する必要があります。

誘惑というのは非常にデリケートなときです。罪へ導くときにもなれば、うまく抵抗したら、逆に罪を退けて勝利へ導くときにもなります。罪を犯す前段階は誘惑なのです。罪を犯さないために、誘惑に負けないことです。そして、誘惑に負けないためにどうすればよいかについてが、今回の講話の課題なのです。

誘惑の意義は二つあります。第一に、誘惑とは天主から送られた試練でもあります。つまり、天主が許可した試練という意味です。周知のとおり、このような試練を許したことがよくあります。天使たちに対しても、アダムとエバに対しても試練を許したように、私たちにも天主が試練を許すことがあります。

もちろん、「罪に陥れる」ために送られる誘惑ではありません。天主はそうするわけがありません。むしろ、我々の天主への愛を試すために、試練を送るのです。よく考えてみたら当たり前でしょう。親も子供に対して優しく子供を試すことと似ています。つまり、子どもの能力を試して、刺激して、子供の改善と上達のための試練です。

また、「試験」のようなものですね。試験とは知識を試すために、この意味で試練です。そもそも「試し」といった時、どういう意味でしょうか?「証明するため」と意味が強いです。試験の場合、「知っていること」を証明して、明かすためにあるのです。誘惑という試練は「天主への愛の証」となります。

そして、天主への私たちの愛を天主がご覧になって喜んでおられます。私たちも愛されてほしいと同じように、天主も愛されてほしがっておられるのです。そして、私たちも愛の証を貰う時、喜ぶのです。そして、われわれは愛している人々を時々試すこともあります。同じように、天主は私たちへ試練を送るのは私たちの愛を試すためです。私たちの愛の強さを試すのです。

そういえば、私たちへ天主は試練を送ると同時に、その試練を乗り越えるための恩寵をも与えてくださいます。大事なことですが、誘惑に勝つために必要である恩寵を必ず天主が私たちに与えてくださいます。ですから、天主は本当の意味で善なのです。まさに善き天主なのです。

つまり、天主は試練を送るだけではなく、試練を乗り越えて、誘惑に勝つための力・手段・武器をも与えてくださいます。その上、実際、誘惑に凱旋した時、天主は私たちのためにさらに恩寵と栄光の増加をあたえてくださいます。つまり、誘惑が与えられて勝利する時、私たちにとって善いことばかりです。ですから、本当に善き天主です。試練を与えたもう時、誘惑に勝つための武器をも与え賜って、勝利した時、その勲章である恩寵と栄光の増加をも与え給う善き天主です。


誘惑の切っ掛けはなんでしょうか?罪へ導く刺激である誘惑とは三つに分けられます。

第一、現世欲があります。「現世欲」とは厳密にいうと、原罪によって我々の霊魂に残る傷跡なのです。前に観た通り、原罪のせいで、人間の霊魂は傷つけられました。そして、このせいで、塞がっていない傷口が霊魂に残っているのです。この傷口は「現世欲」と呼ばれています。で、時々、これらの傷口がまた開いてしまう時、現世欲による誘惑が出ています。

現世欲は三つあります。色欲をはじめ、感覚の欲望を満たすような貪食などがあります。それから、金をはじめこの世の物事に対する強欲などもあります。また、傲慢による現世欲もあります。要するに、「優秀になりたい、出世したい、人々に認めてもらいたい、目立ちたい」といったような現世欲もあります。これらは現世欲であって、現世欲において誘惑の一つの源があります。この源は日常にだれでも感じられて、残念ながらも現実に経験していますね。


第二、「世俗」なのです。これについても前にちょっと紹介しましたが、「この世」あるいは「世俗社会」は誘惑の源です。現代こそはそうです。例えば、街を歩いて広告やCMなどをご覧になってください。あるいは、世論調査をはじめ、いわゆる無用の商品を買わせるためにどうすればよいかという類の「マーケティング調査」などをご覧になってください。これらは、人々の現世欲を刺激するようなものです。こうした「世俗」あるいは「この世」こそは人々の霊魂の傷口を改めて開けてしまう時の誘惑です。人為的ですね。罪へ堕とすための人為的な誘惑ということです。


そして、誘惑の第三の源は悪魔自身です。悪魔が動き出す時です。ただ、悪魔は直接にかかわる前、人間の心にある現世欲と「この世」を利用するのです。そして、現世欲とこの世の誘惑を示しても霊魂に影響がない時だけ、悪魔は直接に手を出すことがあります。

諸聖人の人生を見ると、以上のような流れは明らかです。ある意味で、残念ながらも、罪をよく犯す人々、頑固に罪人になっている人々に対して、悪魔は手を出さなくてもよいわけです。現世欲だけで、このような罪人は罪に堕ちるからです。あるいは、「この世」の圧力だけで罪へ転んで充分であることがほとんどです。

残念ながら。しかしながら、「禁欲」と苦行を繰り返す修道士のような人々に対して、あるいはあえて俗の世から引いた人々に対して現世欲は効かなくなります。そういえば、私たちの主、イエズス・キリストも「この世」から出て砂漠に行った場面は有名ですね。断食と祈祷をするためでした。砂漠ですからもはや、砂漠では現世欲を刺激するようなこともなければ、この世の圧力もないのです。この場合、悪魔自身が動き出して、誘惑しにくることがあります。福音には、砂漠に行ったイエズス・キリストに対して、三回ほど悪魔が誘うのです。
そして、聖人の人生を調べても同じようなこともよくあります。聖人に対して、悪魔はよく誘うことがあります。悪魔自身も誘惑の源であり、人間を誘うのです。

さて、具体的に誘惑される時、どうなっているでしょうか?誘惑において、三段階に分けられています。

第一の段階は「客体」次元に起きて、それから、第二と第三の段階は「主体」において起きるといってもよいです。

第一の段階とは「示唆」なのです。
第二の段階とは「歓喜」なのです。
第三の段階とは「同意」それから「罪」なのです。あるいはもちろん「罪に対する勝利」ですね。

第一の段階とは「示唆」なのです。これは理解しやすいと思います。以上に紹介した誘惑の源に近いです。つまり、「罪の可能性」は私たちの目の前に現れる時です。あるいは、霊魂の前に「魅力」が提供されている時です。つまり、誘惑というのは、「磁化」のようなものです。つまり「示唆」として誘惑が働きかけて、霊魂を「磁化」させてみます。磁場のようなもので、誘惑は霊魂を魅力して引き寄せるような段階です。

つまり、現世欲の魅力が現れて、「この世」は魅力的な物事を提供して(身分、憧れ、快楽等々)、霊魂の傷口を開けるように働きかけます。この時、誘惑の対象によって霊魂は引き寄せられている状態なのです。なんでもいいですが、肉体的な快楽でもあり得るし、世俗の快楽でも精神的な快楽(悪い意味での好奇心、過剰に知識好き等々)でも何でもいいですが、霊魂はその何かにたいして磁化されていて、引き寄せされるような、つい巻き込まれるような段階です。

かなり強い示唆であるということです。そういえば、この意味で、残念ながらも、悪魔も世俗もかなりずる賢いです。ある意味でまさに奇術のようなものです。本来ならば偽りのものを「善いもの」として何かを私たちの目に見せかける奇術です。

実際、罪人も偽りのものであることはよく知っています。というのも、誘惑に負ける時、事後、必ず偽りのものだったことは気づくからです(改悛しない人々は一切認めませんが)。誘惑と罪のその虚しさ、その儚さ、その無意味性に必ず気づくのです。「まさか、このためにもう一度騙されたか」という気持ち。これは誘惑の第一の段階です。「示唆」です。

第二の段階は「歓喜」です。世俗も悪魔もずる賢くやるということはいうまでもありませんね。誘惑が現れる時、私たちは「歓喜」するように招かれています。例えば、具体的にいうと、営業者はこのような「商売術」をよく使っていますね。商売のために、何かを売ろうとするとき、商品は非常に立派でこの上ない良い商品であるといって売りつけようとするような。

「あらあら、この商品を持たないで君がいままでどうやって生活できただろうか?」というような感じですね。このような「心理的な働きかけ」ですね。そして、私たちの心において「歓喜」が生じるように働きかけるというものです。「この「罪」は善いよ、歓喜すべきだよ、快楽すればよいよ、いいものだからさ」といったような働きかけです。

創世記では、エバが誘われる際、「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」 と書いてある通りです。「歓喜」の段階です。悪魔はエバに「さあ、木の実をたべな」と示唆します。そして、エバは木の実を見て、「なんて美味しそうな実だ」と思っています。それは当たり前ですね。良き天主は綺麗な物事ばっかりを創りだされたから、綺麗に決まっています。

「女にはその木の実は望ましいもののように思えた」この段階では、歓喜してすでにある種の快楽があります。この第二段階では、「どうしても快楽したい、手に入れたい、享受したい」という欲望に囚われています。肉体的な快楽でも、世俗的な快楽でも、精神的な快楽でもなんでもいいです。自己満足にせよ、傲慢を満たすような快楽にせよなんでも。

以上は第二の段階なのです。「歓喜」です。私たちの心にそれぞれの感情などが動かされている段階です。激情によって動揺させられて、魅力に感じさせられたりするせいで、知性が暗くさせられる危険の段階であり、あるいは誘惑の対象のみに執着するあまりに、知性の光が弱くなると、意志すら激情に流されて「行こうよ、行こうよ」というこの偽りの善に引き寄せられる危険の潜んでいる段階です。

それから、第三段階こそ罪に落ちるかどうかは決まります。意志が関わっている段階です。つまり「同意」です。つまり、誘惑が示唆されても、歓喜させられても、意志が「やるかやらないか」を最終的に決定するのです。「やる」と決定してしまったら歓喜の誘いに同意することになります。罪へ飛び出すことになります。誘惑に負けました。罪によって引き寄せられてしまい、罪の奴隷となります。現世欲の奴隷となります。

あるいは、意志は「やらないぞ」と決定します。誘惑に勝ちます。凱旋します。その上、本当に自由となります。誘惑から解放されるだけではなく、自分の現世欲からも解放されます。自由となりました。ですから、罪は「奴隷」にさせるものです。一方、意志的に誘惑を拒絶する人は奴隷ではなくて、本当の意味で自由となります。

以上、誘惑をご紹介しました。
誘惑から逃れられる人は誰もいません。誘惑に必ず遭うのです。もちろん、人間なら皆、原罪によって傷つけられているからですが、また、「試練」としての誘惑でもありますので、誘惑自体は悪いことではありません。むしろ、善いことです。誘惑のお陰で「勝利」することができて、また善において「鍛える」こともできて、より自由になれます。

そして、必ず思い出しましょう。善き天主は誘惑を乗り越えるための恩寵を必ず与えてくださいます。また、勝利した時、恩寵と栄光の増加で報いを与え給います。

このようにして、誘惑に対する抵抗力を鍛えた時、誘惑が来てもあまり努力しなくても勝利するようになります。このようになったら、誘惑が出ても何のインパクトはないような境地となっていきます。つまり、最初にかなり強い印象を与えていた誘惑、歓喜を引き起こすような誘惑は、鍛えていくにつれて、霊魂はなんとも動揺しなくなります。

ただし、このような状態に達するためには誘惑に抵抗するように鍛えるべきです。さて、誘惑に抵抗するために、具体的にどうすればよいでしょうか。

定番の手段は祈祷と犠牲なのです。それ以外にもほかの手段もありますが、まず祈祷と犠牲はメインとなります。というのも、祈りによって、自分を天主に捧げることにしていますので、祈る者は天主の内に生きているのです。そして、天主の内に生きている者は誘惑が現れる時、反射的にでもすぐ、天主の方へ向かいます。誘惑に対する大きな武器となります。



祈りだけではなく、苦行も大事です。苦行によって、私たちの現世欲を抑制します。また、現世欲を意志に仕えるようにさせる苦行です。断食によって、清貧によって、貞潔によって現世欲を抑制します。そして、鍛えたら、身体は自然に霊魂に従うことになります。そして、そのおかげで、霊魂はより自由となり、天主によりよく従順になっていけます。

祈りと苦行の他に、誘惑に抵抗するための有力な手段は「無為を避けること」にあります。「無為は悪のもと」という諺があるのですが、まさにそうなのです。暇たっぷりのある人は悪魔による示唆の機会が増えるわけです。無為で暇なので、多くの誘惑が出てくることは簡単です。逆にいうと、無為にならない人には誘惑の機会も減っていきます。

そういえば、歴史に照らしても、教会が命じた修道会用の戒律は良くできています。修道会に入る男あるいは女はその修道会の戒律に従うことを誓います。そして、多くの修道会では違う戒律の一つの共通点は「いつも何かやることをあたえられている原則」という点です。修道士は忙しいです。いつも忙しいです。なぜでしょうか。忙しければ忙しいほど、誘惑される機会が少なくなるからです。そして、修道の生活がなぜ一番、人を聖化する生活様式であるかはそれでわかるのです。


ちなみに、現代では本物の「忙しさ」は見失われています。残念ながらも、いわゆる「IT技術」のせいで生じる弊害は大変です。画面を見て「暇つぶし」だと思っても、これは無為を避けることとは違います。かつてまで、いわゆる休む時にこそ、「意義的に休む」嗜みがありました。何か芸術をやっても、庭の仕事をやっても、嗜んで読書するのも、何かについて徹底的に調べることも、みんな自然にできていたのです。

最近になってなんか何事にも感激しなくなっているような空気になっています。そのせいで、無為になることが多くなります。そして、無為になる時、何もかも示唆されることは容易になって、罪を犯しやすくなります。ですから、誘惑を防ぐために無為を避けることは重要です。

最後に、誘惑を恐れてはいけないことを繰り返しましょう。カトリック信徒は必ず誘惑を受けます。私たちの主、イエズス・キリストは誘惑を受けることになさったのです。なぜでしょうか?私たちに模範を残すためです。イエズス・キリストは砂漠で四十日間、ずっと誘われた結果、勝利して凱旋しました。これを黙想するのがよいです。誘惑に対する武器をイエズス・キリストは私たちのためによく示していただきました。断食と祈祷という武器です。

そして、イエズス・キリストは誘惑に勝ちました。これはつまり、「あなた達も勝つために私は勝ちましたよ」ということです。ですから、誘惑を恐れてはいけません。常に、祈る習慣を身につけて、できるだけ犠牲を捧げて、苦行をやって、無為を常に避けたら、誘惑を恐れることはありません。誘惑が来てもその影響はほとんどでないからです。