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「罪源その2」―貪食・嫉妬・憤怒・怠惰 【公教要理】第九十三講

2020年06月28日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

公教要理 第九十三講 罪源その二


今回、罪源の紹介を続けたいと思っております。前回は、「自分に対する乱れた愛着」である傲慢を紹介した後に、「この世にある物事、移り変わる儚い物質的な財産などに対する乱れた愛着」である強欲を紹介しました。

これから、残りの罪源をご紹介したいと思います。邪淫に関しては前に申し上げたように一旦保留しておきます。天主の第六と第九の誡めの際に譲ることにします。

さて、貪食について説明しましょう。他の罪源と同じように、乱れた愛着です。というのも、罪というもの自体は、偽りの善への愛着であるということを思い出しましょう。貪食は「飲食に対する乱れた愛着」なのです。また、傲慢についても申し上げた通りです。「自分に対する乱れた愛着」である傲慢だからといって、「自分を愛すべきだ」ということに関して変わりはありません。ただ、相応しく適切に自分を愛すべきだということです。

同じように、「この世にある物事に対する乱れた愛着」である強欲の場合も、天主によく奉仕するために役立つ「この世の物事に対する」相応しい愛もあるのです。同じように、「飲食に対する乱れた愛着」である貪食の場合も、本来、「飲食に対する相応しい愛」も当然、あるわけです。

良き天主は身体を持った人間として私たちを創造してくださいました。そして、飲食する必要がある体を持った人間として天主は私たちを創造してくださいました。ですから、天主は私たちにとって必要不可欠な飲食を嫌うようにしむけるわけにはいかないということです。

天主ご自身はこの飲食の必要性を私たちに付与したし、飲食すると、ある程度の安楽を感じうる能力をも与えてくださいました。ですから、貪食とは飲食に対する「乱れた」愛着なのです。

また、飲食からくる快感に対する乱れた愛着です。言いかえると、飲食の本来の目的に沿った「愛」でなくなる時に、乱れた愛着というのです。飲食の本来の目的は食欲と渇きを癒すためにあるのです。で、貪食の場合、食欲と渇きの癒しだけでは足りなくて、飲食する快楽を求めるためにだけ飲食するという乱れです。または、飲食による快感のみを求める時の乱れです。

繰り返しますが、食べ物において味を嗜むこと自体、料理をうまくすること自体は善いことです。われわれは五感が備わっていますし、天主は人間には五感を持った存在として生活するように我々に命じていっらしゃるのです。だから、相応しい程度に、五感を満たすのは悪いことではありません。ただし、身体は霊魂によく仕えるようにするために五感を満たす程度は認められています。ここはポイントです。

徳とはそもそも「秩序」なのです。一方、罪とは「乱れ」なのです。貪食の場合、五感は過剰に満たされたあまりの乱れのせいで、身体自体はもう霊魂の奉仕をやらなくなり、身体は自分自身のみに奉仕するという羽目に陥るのです。従って、快楽するためにのみ、おなかを壊してまで飲食するのは罪です。そして、理に適う秩序を乱すほどの貪食になる時、大罪となります。

例えば、ある人は過剰に飲酒するとしましょう。そのせいで、酔っぱらって理性を使えなくなったら、自分自身に対する罪になります。この場合、明らかに、身体は理性に仕えることもできなくなり、霊魂に仕えることにできなくなり、大罪となります。泥酔とは大罪です。貪食のせいで、罪を犯すことはよくあります。過剰に飲食するとき、あるいは貪欲に飲食するとき、快楽のみを求める時、過剰に食事の豪華を求め、料理の質を過剰に求めるときも罪になります。もちろん、「過剰に」という時です。これらは大体、小罪になるでしょうが、とにかく秩序を乱す行為になるから罪となります。言いかえると、本来、人間の本性上求められている傾向に反する行為ということになります。つまり、本来、我々の本性が要求する使命を果たせなくする行為なのです。時には、理性の作用ですらなくさせる貪食なのです。

貪食が大罪になるもう一つの場合があります。教会が命じる小斎大斎を守らない時です。現代では、残念ながらも、小斎大斎が義務付けられている日は少なくなって灰の水曜日と聖金曜日のみです。ちょっと昔まで、この二日以外にも、通年の多くの機会に、ほかの小斎大斎はあったし、あるいは小斎だけの日も多かったです。小斎というのは、「肉を食べない日」ということです。基本的に、毎週金曜日は小斎をやるといいです。

なぜ、教会はそういったような戒律を立てているでしょうか?それは、我々においての飲食に対する本能を節制するためです。というのも、原罪以降、飲食に対する本能は乱れてしまったので、何もしないで霊魂は身体を簡単にいつも従わせることができないのです。霊魂はいつも物質的な物事に対して超然たる態度をとれるように、またいつも、身体は速やかに、自由に霊魂をよく奉仕できるように規定されてあった戒律なのです。
要するに、義務付けられている日に、小斎大斎を破る時、大罪となります。

貪食の一つの典型的な結果はもちろん泥酔と飲食癖です。そして、飲食癖の一般の結果は精神上の愚鈍化なのです。ほとんどの場合、過剰に飲食すると、愚かになるような、愚鈍化してしまう結果を伴います。聖書に書いている通りです。シラの書には「泥酔は愚か者の怒りを掻き立て、身を滅ぼさせ、力を衰えさせ、人からたたかれるもとをつくる。」 とあります。

愚鈍化の他には、残念ながら、ほとんどの場合、貪食すると、宗教に対する義務の怠慢に陥ることが多いです。そういえば、修道士の生活と飲食の節制との関係性は高い現象は確認されています。つまり、修道者たちは、世俗社会に生きている一般信徒の小斎大斎よりも、飲食に対する厳しい戒律を実践しているのです。大斎においても、修道士ならより厳格であること、そして、小斎においても、時には常時小斎の戒律の修道会もあります。例えば、ドミニコ修道会では、常時小斎となっています。このような特徴はなぜあるでしょうか?大斎小斎などの規定のおかげで、霊魂は天主によりよく仕えるための非常な助けとなる節制につながるからです。

貪食のもう一つの結果は、邪淫と怠惰によくつながっているのです。聖書にも書いてあります。エゼキエル書にあります。「ソドムの罪はこうだった」、周知のように、ソドムの罪は邪淫を中心にしています。「妹のソドムの罪はこうだった。おごりをきわめ、ぜいたくと安逸をむさぼっていた彼女とその娘たちは、貧しい者と不幸な者を助けようとしなかった。」エゼキエル書、16、49に書かれています。
後は、貪食のせいで争いと喧嘩の種になります。そして、健康をも破壊します。それが過剰な時には、生命を危うくすることもあります。

貪食に抵抗するためにどうすればよいでしょうか。第一に、祈ることは大事です。特に、食前と食後の祈りをすると、我々のすべての行為を天主に捧げるために善い助けとなります。そして、単純に、いつもいつも節度を保つことです。
~~

次に、嫉妬という罪源があります。妬み、羨ましがることなどです。嫉妬の定義をよく抑えることは大切です。注意しましょう。嫉妬とは「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるということです。言葉遣いは大事です。「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」。言いかえると、隣人の恵みを見て、自分に対する損であると捉えることをいう罪です。

ですから、それに似ているものの違っているほかの感情と嫉妬の罪とを混同しないように気を付けましょう。例えば善い意味での競争心は嫉妬ではありません。また、例えば、隣人は自分が欲しがっている物を持つことを見て、ちょっとガッカリして悲しむことはまだ嫉妬ではありません。隣人はその物を持つこと自体を認めていたらまだ嫉妬とは言えません。嫉妬の罪を特徴づける根本な様子は「隣人の持つ善・恵を見て悲しみ、自分に対する損であることを思い込む」ことにあります。

例えば、隣人が持つ何かを見て正当に悲しむこともあり得ます。例えば、それに値しないのに、誰かがある物を持つときはその典型です。例えば、不正や窃盗、あるいは時には殺人などを常に犯しているのに、何も罰を受けないどころか、時には名誉が与えられたりする悪人もいるのですね。このように正義が全うされない場合が少なくないのが現実です。

で、例えば、それに値しないのに犯罪者が無断に解放されるとき、その解放を見て悲しんでも罪にならないのです。全くそうではありません。このような場合、その犯罪者にとっての「善」である「解放」というのは、実際に他の人々に対する損であるから、それを悲しむのは正当であります。時には、このような場合、社会に及ばしての損になることもあります。

嫉妬の罪は大体の場合、かなり重いのです。なぜでしょうか?嫉妬とは必ず「隣人に対する愛徳」に反対する罪だからです。隣人にはある恵み、喜び、善を持っていることは喜ばしいことであるはずなのに、めでたいことなのに、それを見て悲しむという罪。愛徳の欠如なのです。嫉妬するとき、隣人に対する愛徳の欠如である上に、嫉妬の対象の善に対する愛の欠如でもあるのです。というのも、本来ならば、誰かを愛することは、このだれかの善を望むことにあります。ですから、嫉妬の罪の場合のように、隣人の善を求めないことは隣人を愛していないということを意味します。隣人に対する愛徳に反対する嫉妬なのです。

嫉妬の挙句に、隣人に対する嫌悪につながります。そして、嫌悪のあまり、殺人に至ることもあります。また、嫉妬のあまりに、隣人の不幸に対する喜びにつながるのです。言いかえると、隣人が被る損と悪を喜ぶ罪です。

嫉妬の罪自体は「隣人が享受する恵みと善の前に悲しむこと」であるとして、その嫉妬の結果は、「隣人の不幸に対して喜ぶ」ということになります。例えば、隣人を見て、その隣人が困った場面、虐められる場面、罵倒される場面を喜ぶような時です。嫉妬の罪の結果です。もう一つの結果は隣人の成功を見て悲嘆するということもあります。

また、嫉妬のもう一つの結果があります。具体的な結果でいうと、かなり深刻な結果です。隣人について小言を言い、誹謗・罵倒したりすることです。噂を流すことです。このような結果は、かなり大変です。邪悪であるだけに、いつの間にか広まってこれらによる損害は大きいです。
それから、嫉妬のせいで不和の種となることも多いです。

嫉妬に対して抵抗するためにはどうすればよいでしょうか?隣人の善をみて喜ぶことに努めましょう。隣人に恵みが与えられた時、善がある時、素直に喜ぶように努力することです。また、この世の物事や名誉などの虚しさ・儚さをよく黙想することも大事です。そして、隣人の善を素直に喜ぶことは大事です。そして、天主こそあらゆる物事のお主であることを忘れないことは大事です。
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次に、憤怒という罪源があります。憤怒というのは、「困難・障害に対する霊魂の乱れた反応の結果、復讐することに及ぶ」というのがその定義です。怒りというのは自分が気に入らない物事に対してその障害を強く退けるようにする感情です。そういえば、一般的にいっても、「怒りっぽい」、「苛立ちやすい」と「暴力」とを普段、結びついています。そして、憤怒のあまりに、復讐に及ぶという。憤怒というのは乱れた動きです。理性に従わない、秩序に沿わない怒りとして罪となります。当然ながら、正当な怒りもあります。正しい怒りはもちろんあるのです。そういえば、聖書に書いてある通りです。「怒っても罪を犯すな」 。

また、私たちの主、イエズス・キリストも怒ったことがありました。天主に対する本物の侮辱を晴らした時での場面です。神殿が冒涜されることを見て、私たちの主が怒ったのです。そして、神殿から商人らを追い出したのです。最もな怒りの発動とその正当な復讐の好例です。

憤怒の罪になるのはいつでしょうか?例えば、相手には何も咎められることはないのに、それでも復讐してしまう時です。あるいは、相手は罰せられるべきだとはいえ、私が復讐する権威を持っていないのに、それでも復讐するときです。あるいは、相手に咎めがあって、私も正当に復讐できるものの、乱れた形で、大体、犯された侮辱に比べて、過剰に復讐してしまう時です。あるいは、不正を糺して正義を全うするために復讐を行うのではなく、自分の気持ちを済ませるため、満足させるために悪意を持って復讐するときです。これらは憤怒の罪となります。

時には、そもそも怒ってもよい状況ではあるものの、過剰に度を越えて憤怒するのも罪なのです。憤怒の罪は多くの結果につながります。憤慨があります。また、心の誇張もあります。心の誇張のせいで、なんでもかんでも、「速やかに復讐に及ぼしがち」という弊害が生まれます。言うまでもないのですが、憤怒の罪のせいで、喧嘩、争い、罵倒などは生じます。そのほかに、慌ただしさと極端な自負も生じます。これも憤怒の大変な産物です。というのも、理性に反する動きであるから、罪となります。例えば、極端な自負のせいで、理性はもう何も接することはできなくなって、節度がどこにあるのか見えなくなってしまうような。

憤怒の罪に抵抗するのはそれほど簡単ではありませんが、一番良い対策とは、イエズス・キリストの極まりない柔和を黙想するがよいです。不思議なことにも、私たちの主、イエズス・キリストはご自分自身を指してはっきりと仰せになった徳は二つしかありません。「私は心の柔和なへりくだった者であるからくびきをとって私に習え」

このお言葉で、イエズス・キリストは二つの重い罪源に対する対策を提供してくださいます。憤怒と傲慢に対して、柔和と慎みです。だから、憤怒と傲慢に対して柔和と慎みの心を養うように努力するのがよいです。耐えて、時には沈黙を保つことにして、寛大さと親切さを養うのがよいです。憤怒に抵抗するのは確かに容易ではないのです。
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次に、最後の罪源となるのですが、怠慢さであります。怠慢さとは「休みにおいての乱れ」だということです。言いかえると、休みすぎるせいで、私たちが果たすべき物事を怠ったりする時です。怠慢の罪というのは、ことに宗教の義務にたいして適用できます。要は、乱れた休みのせいで、天主に対する義務を怠るようになってしまうという時です。

聖書には次のことが書いてあります。「天の国」という表現は宗教の義務に関するお言葉であることを示します。「天の国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う。」 イエズス・キリストは仰せになります。このお言葉は怠慢に対するお言葉です。なまくらな者は自分に対して何の暴力はできないわけです。つまり、やるべきことを踏ん張っていやでもやるように頑張るような「自分自身に対する暴力」という意味です。

このような怠慢の罪のせいで、天の多くの善を無視したり、宗教の義務を破ったりするとき、大罪となります。なまくらな者は例えば、主日にミサに行かないとか、あとにするからあまり祈らないとか、その場合、大罪となります。怠慢の罪は愛徳を深く傷つけるものです。

怠慢の罪に抵抗するために、一番早いのは、私たちの主、イエズス・キリストが我々のためになさったことを黙想するのがよいです。苦難を受けて十字架に上ってまで贖ってくださったイエズス・キリストの行動を黙想するのがよいです。それを考えると、怠慢になるのは、どれほど贖罪の玄義に対して無礼であるかを自覚できるでしょう。つまり、私たちの主はそれほど私たちのためになさったので、天主は私たちに対して命じる物事は結局、天主がご自分の御子イエズス・キリストに命じたことに比べたら、本当にちっぽけのことだけです。

要するに、怠慢さのせいで、本来果たすべき義務を無視することになります。特に、私たちの救済のためにすべてをなさったイエズス・キリストへの感謝を怠ることになります。また、怠慢さのせいで、無気力の状態が生じます。その結果も大変です。ひどいものです。このような無気力のせいで、何の意志も徹底することはできなくなり、何の行動も無理にしてしまい、時には麻痺状態、愚鈍につながります。

また、怠慢さから、卑怯になることも多いです。卑怯であることは、難しい働きに対して恐れてやらない、避けるということです。勇気の欠如です。なまくらな者は勇気を欠如しています。時には、「私はカトリックだ」という勇気でさえなくなるのです。怠慢さのせいで、祈りにおいて取り留めなくなったりします。または、恨みを生みます。

そして、一番大変なのは、怠慢さのあまりに、絶望になることもあります。これはひどいものです。「何もやることはできない、やりたいけどどうしてもやりだすことはできない」とみているなまくらな者はそれをみて絶望に陥るという弊害。まさに悪循環になっていきます。やらないから、絶望となって、余計にやらなくなって、絶望は深まっていくような悪循環です。

怠慢さに抵抗するためには、「自分に対して暴力を振るう」のがよいです。一番早いのは、私たちの主は受難の時、私たち一人ひとりのためにどれほど苦しみと暴力を受けたかを黙想するのがよいです。そして、イエズス・キリストが受難の際に受けた暴力に比べたら、私が自分自身に対して課する暴力とはちっぽけだと認識するのがよいです。

以上、それぞれの罪源を手短くご紹介しました。罪源とはあらゆる罪の種になるのです。



【すらすら読める】ジャン=ジャック・ルソー・その人生・その思想 その四:ルソーの教育論の問題点まとめ【エミール】5

2020年06月18日 | 哲学
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による哲学の講話をご紹介します。
※この公教要理は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

Billecocq神父に哲学の講話を聴きましょう


それから、最後に、15歳になってから、エミールにはいよいよ宗教を教わり始めるということです。ルソー論において、宗教教育の始まりは15歳からです。これについての文章は次の引用で始まります。
「私の生徒のよう少年時代を通じて、私が彼に宗教について何も語らないのを知って、どれほど多くの読者が驚きを感じることだろう。それを私は予想する。十五歳になっても彼は、自分が魂を持っているかどうか知らなかったが、十八歳になっても、まだそれを学ぶ時期ではあるまい。」

さすがに。エミールは自分自身しか見ていなく、自分中心主義になっているものの、霊魂とは何であるかに関して教えなくてはならないとね。

「真理を理解できる状態に置かれていない者にむかって真理を告げるようなことは控えよう。それは真理の代わりに誤謬に置かれていないことを与えようとすることだ。神にふさわしくない卑俗で幻想的な観念、冒涜的な観念をもつよりは神について何の観念も持たないでいる方がましだ。」(106頁)

次に、宗教に対する過激な攻撃文があります。有名な文章ですが、次回、見ておきたいと思っております。それは『サヴォアの助任司祭による信仰宣言』という部分です。要するに、神父を登場させて、エミールに宗教を教える設定です。
それによって、ルソーはエミールを社会的な生活に投げ込むのです。次回にご紹介することにします。時間を必要とするし、今回はもう時間をオーバーしています。

『サヴォアの助任司祭による信仰宣言』を見ることによって、ルソーの宗教生活というか、ルソーにとっての宗教はなんであるかをよく示しています。



それから、第五編になります。第五編においてソフィーと出会って、結婚します。出会ってから、まず恋愛して、そして、二年間ほどエミールが旅立ってソフィーと会っていないが、そのあと、いよいよ結婚するという流れです。そして、父です。そして、次は小説となって、『ジュリ または新エロイーズ』とつながります。最終的に、「身内だけで自立して生活している」というのが理想とされます。それによって、社会を避けるためであるといっています。

こういった理想こそは『ジュリ または新エロイーズ』著作の中心テーマです。思い出しましょう。二組の夫婦は同じ家に住んでいて自給自足のような状態で小説が終わります。

以上、ルソーの『エミール』を簡潔に要約する試みをしてみました。どうしても、多くの引用をご紹介することにしました。それは、ルソーが言っていることをよく示して、ルソーの思想とされているものが本当にルソーが思っていたことだと強調するためでした。

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結びとして、いくつかの点を指摘したいと思っております。

第一、理想主義ばっかりです。これは一目瞭然でしょう。
まず、生まれながら人間は善性であるという理想主義です。生まれながら善性の子供なんて合ったことはありません。それが現実です。
それから、エミールという生徒に関する理想主義です。エミールを完全に夢から生まれさせて一から作り上げるのです。綺麗な教育論かもしれませんが、そもそもこういった「エミール」は現実に存在しない生徒です。しかも、ルソーはどうしてもその生徒が独りぼっちとなり、唯一、一人しかない教師を許すだけと言います。教師でさえ、ルソーでさえ、あり得ない設定を作ります。教師はいつも生徒のそばにいられるかのように書いてありますが、それはルソーの夢想にすぎません。

一言でいうと、この教育論は、ルソーの失敗だらけの自分の人生に対する復讐のようなものだと言えましょう。
教師についての理想主義もあります。全く存在しない教師です。つまり、エミールといった存在しない生徒に、そう言った存在しない教師が付くという設定の教育論ですが、実際の世界では一体どうやって適用できるといえるでしょうか。ルソーはあり得ないほど、大げさに議論を展開します。それが本質的にルソーの教育論の真相だと認めざるを得ません。

ルソーによる過剰論です。そういった大げさな夢想はまたほかにあります。それは、教育の段階の仕切り方です。そもそも完全にあり得ない仕切り方です。

ルソーに言わせると、0歳から2歳まで、人間は体だけ。2歳から12歳まで感覚的な霊だけ。12歳から15歳までいよいよ理性の始まりが出始めて。そして、いよいよ15歳以降、道徳感がでてくると言っているわけです。

それはあり得ません。実際は、人間は最初から人間です。つまり、生まれた瞬間から、もう人は人です。つまり、体と霊魂を生まれた瞬間から持っているというのは真実なのです。言い換えると、子どもは生まれると体を持ち、五感で感覚を持ち、それから理性をも持っています。

潜在力として、少なくとも成長していく能力としてもうすでに知性がそなわっているのです。そういえば、7歳は分別の時代だとよくいわれていますね。平均だけですから、それより早く分別がついてくる子どももいますが、分別の年齢になると、子どもは本物の質問、深い質問を聞いてきます。

「なぜ?」と聞く子どもは紛れもなく理性があるということを具体的に示しています。動物はどうしても「なぜ?」と思うことはできません。「なぜ?」と問う子供は物事の理由、物事の目的を知りたいわけです。また、「何のためにある」ということを知りたいわけです。あるいは、子どもは「何ですか?」と聞くときに、ある物事の本性を知りたいわけです。それも理性があるということを表しています。

ルソーにとって、理性は大体12歳になってから出てくるといっています。というか、早くて12歳で、おそらくより遅く出てくるといっています。というのも、18歳になっても、霊魂があるということを知らなくてもよいと主張するぐらいですから。そういった主張を見てみるとね、どう見ても。

ちょっと大げさに言わせてもらうと、ルソー論は狂気です。なぜか狂気であるかというと、「非現実」的な理論ですから。この『エミール』は教育論でもなんでもなく、ある程度のフィクション、小説にすぎないだけではなく、しかも人間の心理を完全に読み間違っている小説です。

それはともかく、『エミール』の中心の目的は、「真理を否定するための攻撃文」だと思っています。ルソーは根本的に、真理を教えることを固く拒みます。

そして、子どもはたまたま自分の力で真理をみつけたとしても、あくまでも有用性のある真理でなければならないと言います。彼にとって目に見えないことに関する真理は論外です。彼にとって形而上学や宗教は教えてはいけないのです。宗教に関して、ルソー論における「教育論」においてどうなっているかを次回ご紹介しますが、なかなか大変です。

要するに、ルソーの教育論において、真理はダメです。ところが、それよりひどい話があります。真理どころか、何の知恵・ノウハウ・技術の継承も、ダメだとされています。教育論における「師傅」は教師でもなく、師匠でもなく、先生でもありません。つまり、何の継承も、何の権威もありません。ルソーの教育論は「自分を自分で教育する」という「セルフ教育」なのです。つまり、きわめて個人主義であり、また児童の権利を称賛する教育論です。本質的にそういったものです。

これから、ある考察を引用したいと思っております。その方は若手で、世間で意外と人気のあるかたです。私は彼の言動に関してすべてに同意しているわけではありませんが、François-Xavier Bellamyです。『不運の時代・継承すべしという緊急について』 という本を出しました。その中に、ルソーについて次のことを言っています。

「最初の二つの「論」において(第一回と第二回のときご紹介したルソーの論ですね)、現代普及した空気の原点がそこにあります。」確かに。
「しかしながら、『エミール』において、さらに一歩先です。完全になっているつもりの教育論で、実際の応用のための計画であるという位置づけで書かれています。そして、現代の公教育、非常に組織化された文部省によって実現された計画なのです。」
面白いでしょう。

「ルソーの教育論を読むと、現代、公教育の失敗だとよく評価されている多くの悪い結果は、ルソーの教育論でいうと実際にはかなりの成功であることに気づきます。現代の公教育は、完全に明白に紹介されたルソー教育論の成功なのです。一言でいうと、何の知恵・知識を継承することを固く絶対に拒む教育論の実現です。」

当たっていますね。言い換えると、現代の公教育は成功しています。なぜかというと、馬鹿な愚かな大人を養成しているからです。つまり、近代主義でいうと、愚かな人間を養成するのは失敗ではありません。わたしたちからみると、失敗に見えるかもしれませんが、近代主義的な教育論の筋でいうと本来ならば、とんでもない成功なのです。つまり、知恵・知識を継承しないという基本です。エミールは無知であるべきだからです。

彼はこう続けます。
「そういった教育は経験主義を基盤にしています。それはある種の自然主義です。」まさに当たっています。

また、エミールが自由であるかのように描写されていますが、実際に自由なんて何もありません。いや、それよりひどく、かなりの矛盾があります。というのも、エミールは結局、他人のまねをする、完全に順応主義になっています。その「師傅」についていくだけです。実際において、その「師傅」はエミールに対して暗に多くのことを禁じて、何もやらせていないのです。そして、案の定、エミールは社会人になったら、そういった教育ですから、順応主義にならざるを得ません。本当にひどいものです。

そういえば、『エミール』の最後には、エミールがソフィーと結婚しますが、なぜ結婚するかというと「師傅が望んだから」ということだけですよ!つまり、結婚する自由でさえありません。師傅は自由であることをエミールに信じ込ませていますが、実際において師傅の人形にすぎないのです。

最初にちょっと申し上げた通りです。自由に対する偽りの称賛です。自由であることを信じ込ませながら、実際、何も選べない、すべてにおいて誘導されているだけで、自由はないということです。まさに現代の民主主義における我々と一緒ですね。

また、その教育論のひどいところは、目的のない教育です。目的はありません。何を目指していることはありません。ルソーにいわせると、子どもは「生きるがいい」といっていますが、生きるだけでよいというような感じです。まさに現代、普及している雰囲気です。

しかし、よく考えてみると、それほどひどいことはありません。理性のある被造物である人間が「どこへも向けられていない、何も狙っていない」のです。そんなことなんて非常に苦しいことです。ひどいです。「何のために生まれたか」という質問にルソーは「いや、何もない。何の理由のために生まれてきてはいない。生きるためだけ」と答えています。ひどいでしょう。理性のある人なら、それを聞くと絶望しかないでしょう。

つまり、永遠を思いはせる人、偉大なことを実現することが可能である人にとって、美しい立派なことをやり遂げることが可能な人に対して「いやいや、動物的に生きるだけでよいから」と言ったらどれほどひどいことでしょうか。「自分自身のために生きろ」ということで、子どもには目的を与えない教育です。目的を与えない教育です。

ルソーの教育論だと、「やる」だけでよいです。「何かのためにやる」ことはありません。目的がないから、方向づけられる行動はない、それは人間にとって悲惨なことです。何の目標・目的なしに生きるなんて悲惨で苦しいことです。なぜかというと、人間は、本性に刻印されている一つの特徴として、ある目的のために創られて、ある目的に方向づけられているのですから。目的を取り消して、目的を否定する教育なんて、子どもはそれを知らされないままになっているかもしれないが、それこそがルソー教育論の一番大きいな弊害です。

つまり、人間なら必ず「幸せ・幸福」を追求する気持ちは本性に刻印されています。が、そういった幸せに関して、ルソーは何も言わないのです。というのも、ルソーにとっての「幸福」は「今の状態だけの享楽」だけです。言い換えると、子どもは本性的に何か普遍的な、永遠なことを求めているものの、「今の瞬間」だけを享楽するがよいとしているのです。つまり、普遍的なことではなく、あくまでも偶然のもの、儚いもの、去っていくものだけがルソーの教育論の中心です。こういったような人生は本当に悲しいものです。ある意味で地獄のような人生です。

地獄の本質は永遠の苦しみである「劫罰」にあると言いますが、それは何と意味するでしょうか。地獄に落ちている霊魂は方向づけられている目的を自覚して、そしてその目的(天主)を渇望しているものの、いつまでその「渇望している善なる目的」を享受できないのが「劫罰」です。

その意味で、ルソーの『エミール』はこの世にいるうちから、地獄の準備のために働くかのような理論です。言い換えると、極端な個人主義ですから、自分自身中心で生きながら、同時にどうしても目的を持ちたい渇望もありながら、何の目的もないというこの世の地獄です。たとえてみると、呼吸したいのに、吸い込めないような状態です。つまり、肺臓は呼吸のためにある器官であることを実感しているから、肺臓を開けたいのですが、それでも吸い込めないような。


「目的への渇望」はそれと似ています。「目的(幸せ)への渇望」は人間の本性に刻印されています。どうしても幸せになりたいとみんな思うわけです。が、ルソーの教育論でいうと、「幸せはない」とされ、絶望しか残らないわけです。目的はない教育だからです。ですから、『エミール』は本物の地獄なのです。

最後、ルソーは「自然教育」を勧めますが、結局、自然に反する教育になります。
まず、ルソーは「自然」という言葉を定義していません。そして、家族を否定します。エミールには親も兄弟もいません。文化もありません。文化はゼロです。しかも文化をもたらしてはいけないと言います。エミールの理想像は結局、モーグリというキャラクターです。なんか、自然に投げ込んで、独りぼっちにさせて、自分自身ですべてやるようにならせるというような。

『エミール』は以上のようなものです。ルソーによる教育論。本物の理想主義です。そして、現代を見ると、ルソー教育論の凱旋的な成功です。というのも、最近の子供たちはエミールに似ているのが多いからです。しいていえば、最近の子供は「幸せ」ですが、馬鹿です。

次回、「サヴォアの助任司祭の信仰宣言」をご紹介します。ご清聴ありがとうございました。

~~
「エミールは何一つ、寓話さえも、暗記するようなことはしないだろう。ラ・フォンテーヌの寓話がどんなに素朴で魅力的だろうと、それさえも暗誦するようなことはしないだろう。歴史の言葉は歴史ではない、それ以上に寓話の言葉は寓話ではないからだ。」

「罪源その1」―あらゆる罪の源は”傲慢” 【公教要理】第九十二講

2020年06月10日 | 公教要理
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ビルコック(Billecocq)神父様による公教要理をご紹介します。
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公教要理 第九十二講 罪源その一


前に、「天主の法への違反」とは罪の定義だと紹介しました。あるいは、聖トマス・アクイナスの罪の定義も非常に緻密で参考になります。罪とは「天主への嫌悪、そしてある被創造物への転向」という聖トマス・アクイナスの定義です。

そして、前回は大罪と小罪との区別を見ました。大罪は霊魂においての天主の友情を失うことを言います。ですから、大罪は深刻です。大罪とは自分の霊魂から天主を追い出すまで、霊魂に傷をつく罪なのです。そして、小罪とは霊魂において天主の友情を失わなくても済む罪なのです。

今回、罪源という特別な罪の種類についてご紹介したいと思います。罪源は文字通りに「多くの罪の源である罪」だという意味です。つまり、罪源こそは他の罪の源であり、その種であるということです。つまり、罪源のような罪を犯すと、ほかの多くの罪につながっていくという意味であります。

そういえば、罪源を指すには、枢要悪徳ともいわれています。というのも、一発の行為よりも、罪源とは大体の場合、潜在的な傾向であり、悪い習慣であるからです。つまり、常に悪習のような悪徳であるからこそ、罪源は多くの罪の源になっています。

そして、罪源には七つありますが、その七つも共有の基本的な罪を源にしています。傲慢という罪はあらゆる罪の源だということです。言いかえると、あらゆる罪の根源には、「自分自身に対する乱れた愛着がある」と間違いなくいえます。例えば、罪というのは天主より被創造物を選び、被創造物を優先することですが、そうすることによって、間接でも自尊心を満たすような側面が必ずあります。従って、あらゆる罪の源は究極的にずっと傲慢があるのです。罪源中の罪源は傲慢です。一番重要な罪源です。

七つの罪源は次のとおりです。傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰です。繰り返します。七つの罪源は次のとおりです。傲慢、貪欲、邪淫、嫉妬、貪食、憤怒、怠惰です。簡単に、一つずつについて説明しておきましょう。今回は邪淫に関して省きます。別途の機会、十誡を見る時、より詳しく説明する予定です。特に、天主の第六と第九の誡は邪淫に関する誡なので、その時にご紹介します。

第一、罪源中の罪源は傲慢です。傲慢とは何でしょうか?「自分自身への過剰な愛着である」と定義づけましょう。つまり、傲慢は自分自身への乱れた愛着であり、不適当な愛なのです。当然ながら、一方、自分自身を愛することは義務です。天主によって創られた被創造物として、また天主は私を愛し給う被創造物として、自分自身を愛すべきです。しかしながら、それとは言っても、自分自身を自分自身のありのままに愛すべきことであり、また自分自身に値する相応しい程度で愛すべきだということです。

言いかえると、被創造物として、また、天国に行くべき人として、自分自身を愛すべきだということです。要するに、傲慢とは「自分自身への乱れた愛」です。自分自身を邪道に愛するあまりに、どうしても自分が優秀になりたいという野望に陥れてしまいます。この挙句の果て、天主の代わりに自分自身、人を置くという欲望になってしまう傲慢。まさに、サタンの罪です。

「奉仕しないぞ」といったサタンです。傲慢の罪です。その時、聖ミカエルはサタンに答えました。ちなみに「ミカエル」というの名前の意味ですが、「天主に似たるものは誰か」と答えました。ちなみに「ミカエル」という名前の意味ですが、「天主に似たるものは誰かという意味です。言いかえると、自分自身には自分の力で至福を与えられるものは誰か?自分自身において完全なるすべての満足を見つけるものは誰か?いや、我々が持っている善いものことはなんてすべて天主より頂いているのです。天主においてしか私たちは人間が幸せを見つけることはできないのです。

そして、傲慢という罪は「天主において幸せを望む」欲望に反対しています。傲慢のせいで、自分だけが優秀になり、立派になり、優れたいあまりに、本来、天主への欲望を失亡くすのです。傲慢はまさに自己満足です。実際には、唯一、自己満足できるのは天主のみです。しかしながら、もちろん天主は傲慢でも何でもありません。その上なく善なる天主なので、天主は単にご自分自身のありのままに、つまり創造主として至上の善として自分を愛しているということだけです。

同じように、被創造物として、それから天主に依存している存在として、自分自身を愛している人は傲慢な人ではありません。現実にそって、人のありのままに、自分を愛しているから、愛徳なのです。しかしながら、人間を超えた偽りの虚像であるかのように自分自身を愛するときに、傲慢となります。

傲慢のせいで、かなり大変なことになることもあります。最悪なのは、天主を侮辱することに至ることもあります。この場合、傲慢の罪は深刻になります。当然ながら、軽い形での傲慢もありますよ。ちょっと優秀になりたいとき、他人にたいしてちょっと勝ち取りたい程度の時の傲慢なら、まだ軽いです。

すでに傲慢の罪ですが、自分自身を過剰に評価するあまりに、天主の代わりに自分自身を置いた羽目になる時、その場合、非常に深刻です。で、傲慢という罪には多くの「産物」があります。つまり、傲慢が生む罪は多いです。罪源なので、ほかの罪を生むのです。

傲慢のせいで、うぬぼれが出てきます。自尊心の一種でありますが、つまり自分が実際に現実的にできることを認識するよりも、実際にできないものの自分がより多くのことができると間違って思い込む罪です。実際よりも、自分が力強いと信じる罪です。

また、野望という罪もあります。野望とは何でしょうか。過度に、身分・地位・権力などを望むということです。そして、共通善のために望むのではなく、自分自身のために望む野望です。本来ならば、権力を持つ人は共通善のために行動すべきです。

要するに、下にある人々の善のために働く上の者なのです。しかしながら、現代ではこのような本来の形はもはや存在しません。残念ながらもトップに就く人々はほとんどの場合、野望だけでその地位に就いたわけです。簡単にいうと野望とは傲慢の帰結の一つなのです。

そういえば、悪魔は私たちの主、イエズス・キリストを誘惑するとき、イエズス・キリストを高い山に移動されて、サタンが彼に世界の国々を見せます。そして悪魔は言います。「あなたが私の前に礼拝するなら、わたしはこれをみなあなたにやろう」 。まさにこれです。野望は直接に天主を敵にしているのです。というのも、野望は福音の中に、サタンへの服従を意味するのです。

残念ながらも悪魔と契約を結んだ人々は歴史上にいるのは周知のとおりです。ほとんどの場合、野望のせいです。悪魔から、何かの権力、力、宝、ある程度の、充実した福祉がサタンへの服従の代わりに約束されたから、誘惑に負けたのです。野望はよく、罪として深刻です。というのも、大体の場合、野望のせいで不正な手段を選んだりしたする挙句に、多くの罪を犯すという弊になります。現代の政治界を一瞬でも見たら、残念ながらも明らかでしょう。

そして、傲慢から生じる第三の罪は「虚栄心」です。虚栄心とは人間・世間からの賞賛に対する乱れた・不適切な愛着です。言いかえると、自分自身のためにだけ、世間の賞賛を求めるということです。虚栄心です。むなしいです。虚栄心のせいで、天主に帰する賞賛を自分自身に帰させようとすることです。

ある詩編には「Non nobis domine, non nobis sed nomini tuo da gloriam」「主よ、光栄を帰せよ、われらにではなく、われらにではなく、あなたのみ名に、」 。虚栄心はいつ深刻な罪となるでしょうか?天主に帰すべき光栄を自分に帰させようとするときに大罪となります。

また、虚栄心のせいでさらにほかの罪につながることが多いです。命令に対する不従順。また高慢になることもあります。つまり、愚かに、馬鹿なに発言をするという罪です。また自慢にもつながるのです。また虚栄心のせいで、偽善につながることもあります。偽善というのは、文字通りに、実際に持たない善徳を偽って見せかけるということです。まあ、17世紀のフランス文学では、特にモリエールの喜劇において、このような偽善者、虚栄を愛着していた偽りの熱心な信徒者を非難する喜劇は有名ですね。このような偽りの信徒者は熱心であるように見せかけて、他人からの賞賛を求めているという虚栄心。

私たちの主、イエズス・キリストはまさに虚栄心を咎めて、ファリサイ派の人々を叱ったのです。これはすべて傲慢の一種なのです。

また、傲慢のせいで、議論における喧嘩と争いも起きます。不和もその意味で傲慢の帰結です。つまり、傲慢のせいで、多くの場合は喧嘩・不和・争いが起きるわけです。つまり、自分自身に対する過度な愛着、自分への賞賛への愛着、自分の権力への愛着のせいで、他人が自分より優秀であり、権力があり、賞賛があることにを耐えられないことになってしまう結果、喧嘩、争いなどが起きます。そして、最悪の場合、傲慢者は傲慢のあまりに、汚い手段を使ってでも自尊心を守るようなことに至ったりします。大変です。

以上に観たように、傲慢という罪を出発点にして、殺人にいたることもあります。
そういえば、聖ヨハネはサタンについて次のことをいっています。「彼(悪魔)は始めから殺人者だった。」
つまり、傲慢と殺人はつながっているということを示す文章です。傲慢者は殺人者になることは少なくないということです。悪魔は傲慢者であり、人殺しであるのです。以上は傲慢でした。

で、傲慢に抵抗するために、傲慢と戦うためにどうすればいいでしょうか?慎みによってです。つまり、自分自身をこのありのままに素直に見ることによってです。つまり、自分自身は被創造物であること、天主に依存すること、限られた存在であることを考えて、適切に自分のことを思うことによってです。

特に効果的なのは、人間の究極的の目的地を考えるのがよいです。つまり地獄と天国のことです。また死を黙想するのもよいです。いつでも死が起きうるわけです。地上の国々の指導者でさえ、必ず死ぬものです。死んだときに、一番強い人でも一番弱い人でも全く同じ状態になります。死んで、体は屍となって、塵に戻るのです。これは全人類の共通の運命です。死に関して、栄光や権力・権威などは人間のためにならないのです。死に対して、一番乏しい人と変わらないで、どれほど金持ちになっても何も変わらないのです。ですから、死のことをよく考えるのは善いことです。傲慢に抵抗するために効果的です。この世の物事はどれほどむなしいか、儚いかを黙想することもよいです。

また、イエズス・キリストに倣うことがよいです。そして、目立たない小さい使命や役割をとるのも傲慢に抵抗するために効果的です。

そして、第二の罪源に移りましょう。貪欲があります。傲慢と密接にかかわる罪です。地上の多くの善・物事、即ち外面的な物事に対する乱れた・邪道な愛着なのです。

傲慢の場合、「自分自身」に対する乱れた愛着である一方、貪欲は時間においての周りの世界にある何かに対する乱れた愛着です。

なぜ、乱れた愛着というでしょうか?このような世俗の物事はすべて天主によって創られたのです。そして、傲慢の場合と同じようなことです。自分自身を相応しくこのありのままに愛するのは非常に良いことです。同じように世俗の物事に対しても、それぞれの物事のありのままに、それ以上も以下もなく、相応しく愛することは善いことです。つまり、地上にある善い物事の全ては天主によって私たちに与えられた手段であり、天主へ近づくために与えられた手段なのです。このようにこれらを愛するのはいいです。

しかしながら、貪欲になる時、過度に愛着するあまりに、天主を忘れて、天主よりもこの世の何かに愛着してしまうという罪です。物質的でも精神的でも、天主を忘れてこの世の何かに過剰に愛着するとき、貪欲となってしまいます。いつ貪欲は深刻な罪になるでしょうか?

例えば、一番典型なのは、「金」あるいは財産において目的を置く時です。そういえば、典型的な現象があります。貪欲に満ちた金持ちは常に「自分の財産を失うことを心配していていつも不安だ」という傾向があります。このように、常に不安になった時に、貪欲の罪が深刻になったということがわかります。つまり、多くの財産と金を得ていくだけではないのです。

ちなみに、死に対して、財産を多く集めても何のためにもならないのです。どれほど、死なないために膨大な財産を使っても、結局必ず死ぬのです。ですから、いずれか天主の前に出廷して裁かれることになります。それでも、膨大な金を集めることに留まらないです、貪欲者の霊魂において、財産と金のせいで、不安の種となってきます。いつもいつも財産を失うことを恐れています。

このような現象は貪欲者が財産においてこそ、あるいは、世俗の何かに、変わりゆく儚い一時的な何かにおいてこそ、自分のすべての目的を置くことは明らかです。つまり、自分の霊魂の命よりも、霊的な善よりも、世俗の善を優先する、そこに自分の目的を置くということです。

このように、貪欲は大罪になります。そして、どれほど金かねと財産を集めたところに、何がのためにあるのでしょうか?このようになると、金、財産は手段でなくなり、目的になってしまいます。金を使うのではなく、金に仕えるということです。

つまり、貪欲者は世俗の何かの奴隷となります。よく考えると理不尽です。やはり、人間には知性と理性があるから、霊的な存在でもあるのに、世俗的な、物質的なことの奴隷になるなんて、理不尽です。このようになると、貪欲は大罪になります。金を使うのではなく、金に仕えるということです。イエズス・キリストは福音では次のように仰せになります。「人は二人の主人に仕えるわけにはいかぬ。(…)神とマンモンとにともに使えることはできぬ」 。マンモンとは金の神です。
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貪欲から生まれる罪は多いです。貪欲のせいで、精神的な不安が生まれます。また、無関心になる弊もでます。これは大変なことです。つまり、貪欲者は心が固くなって無関心になり、施すために、他人の苦しみを和らげるために自分の財産を使うことはできなくなる時です。

現代の社会はまさにこのような世界と化してしまいました。例外があっても、現代では、いわゆる豊富裕者たちは貧乏人のために施すことはできなくなっています。心が固まっていて、無関心になっています。残念ながらも、このような無関心が確認できる時、霊魂には天主の生命はもはやなくなったことを物語る現象です。

天主への愛を排除した結果に、貧しい人々への憐みもできなくなっています。隣人にたいして憐れむことはできなくなった時、天主への愛はいったいどうやってありえるでしょうか?この世での霊的なことに対して何の関心がなくなった時、一体どうやって本質的に霊的である天主への関心はどうやってありえるでしょうか?

また、貪欲のもう一つの帰結は残念ながらも、暴力なのです。傲慢と一緒です。またけんかと争いです。すぐ思い浮かぶのはいわゆるゴールドラッシュですね。その時、争いあって自分の土を奪い取り、金属を集める争いは典型的でしょう。貪欲は争いと喧嘩の種になります。

そして、当然と言ったら当然ですが貪欲のあまりに詐欺や不正な手段の種となります。詐欺、偽証、不正な手段は現代では蔓延しています。なんか、貪欲者は公の場でも、人の前で、誓ったことを平気に破ったりするような。もう、名誉は貪欲者にもはやなくなります。政治家たちなら、名誉はもはやまったくないのです。明らかでしょう。
要するに、貪欲のあまりに、霊的な営みと生活を完全に破壊しています。そして、挙句の果てに超自然次元の生活の営みはもちろん、自然次元の生活すら破壊します。悲劇的です。人間より低い存在に対する乱れた愛着である貪欲です。

貪欲を理解するために、偶像崇拝の一種だといえます。旧約聖書において、石のかけらなどを過剰に愛着するヘブライ民を見て天主はよくヘブライ人を咎めていました。ですから、旧約聖書の時代に、天主の絵を作成することは厳禁でした。偶像崇拝にならないためでした。貪欲者は偶像崇拝者でした。破滅の運命を持つ、一時的な物事への礼拝者にすぎません。そして、礼拝する対象のように、貪欲者も破滅の運命となります。