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お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

現代世界は、エルサレムから学ばなければならない。平和をもたらす天主イエズス・キリストを拒むと自業自得となることを。

2022年10月23日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



エルサレムよ!戦争の国か平和の国か
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年8月07日  
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、エルサレムの東にあるオリブ木の丘(ゲッセマネ園)に沿って歩き降りると、「Dominus Flevit」と呼ばれる小聖堂は建っています。そこは聖伝に従って本日の福音で思い起こされるように、イエズスは泣いておられた場所だとされています。

本当に小聖堂であり、中には聖壇があって、そして聖壇の後ろも壁に広い開きがあり、この格子窓からエルサレムの全貌が見られます。エルサレムへの展望台のように造られています。大昔に神殿のあった場所を中心に見えています。巡礼者はこの小聖堂に祈りに行ったらイエズスのようにエルサレムを見ながら祈ります。





そこでイエズスはエルサレムのために泣いておられました。泣いておられた日はエルサレムへの凱旋的な入場の日でした。枝の主日の際に祝われる出来事ですね。ゲッセマネ園から降りたイエズスを大衆が迎え入れます。大勢の人々はイエズスを迎えて、「陛下、万歳」というように、彼を王として仰いで、メシアが来たことについて喜び立ちます。
ご存じのように、人々は上着などを地面に敷いて、枝を切って手にして、歓呼しながらイエズスを仰ぎます。御受難の数日前の出来事です。

キリスト教徒ならイエズスという神人を礼拝しているので、泣いておられるイエズスを見て感動せざるを得ないのです。

なぜイエズスを礼拝するかというと、天主の御子であるので、信経にあるようにイエズスは「創られずにして生まれ給うた」として、天主と同質にして真の天主であるからです。そしてイエズスは同時に本当の感情をも持っておられて、それらの感情を見て、イエズスは同時に真の人でもあることが思い起こされます。

イエズスは真の天主であり、真の人なのです。このように、イエズスは泣いておられます。このように、イエズスは我々の人間性を共有しておられることが思い起こされて感動的です。

イエズスはエルサレムを見てなぜ泣きだされたのでしょうか。
福音では、他にもイエズスが泣いておられます。友人、ラザロの死の時にイエズスは泣きだされます。深い絆でラザロとの親友でしたので、イエズスはラザロの死を知って、ラザロの墓の前まで来たら、泣きだされました。要するに、人間にとって必ず悲劇となる死の前に、イエズスは泣きだされます。私たちも、みんな、例外なく、ある時、誰か大切な人の死の前にいると同じように。

今回、エルサレムをみてイエズスは泣きだされます。なぜでしょうか。故郷だからです。祖国だからです。
イエズスは天主でありながら真の人なので、イエズスには故郷があります。このように、人ならだれでも祖国、故郷をもって、祖国を愛する義務があります。

愛する兄弟の皆様、キリスト教徒にはそれぞれ、祖国、故郷があります。キリスト教徒は無国籍でありえないのです。普遍的な教会に属しているからといって、つまり「カトリック」として全世界へ広めるべき教会に属しているからといって、キリスト教徒は国際人でもなく、無国籍でもなく、グローバルな人ではありません。

キリスト教徒は自分の故郷を愛して、祖国を愛します。そしてこの祖国愛はよいことです。
もちろん、我が国は最高であるということになりません。またナショナリズム的に、傲慢になって自国が最高であると断定した上に、八紘一宇のような、万国無比なので全世界へ広めるべきだということは論外です。もはや祖国愛ではなく、傲慢的なナショナリズムになります。残念ながらも、このような過剰なナショナリズム、民族主義は歴史の中に、多くの弊害を及ぼして、大変な帰結を伴ったことは確認しやすいです。

祖国愛というのは、単純に生まれた土地、故郷を愛することであって、孝行の一種なのです。これ以上でも以下ではありません。
我々を産んでくれて、我々の存在を可能にした先祖への敬愛、育った故郷への感謝と愛なのです。

祖国愛は父母への愛とよく似ています。誰に聞いても自分の母が最高の母だと評価しているのは自然な気持ちです。また我が母を愛していて、全世界のすべての他の母を選べたとしても、我が母しか欲しくないというような気持ちがありますね。実際、客観的に見ても最高の母ではないとしてもです。しかしながら我が母であるので、母をどうしても大切にしたくなります。生んでくれた母なので、一生の恩人なのです。
祖国、故郷に対しても同じようなことです。

イエズスもこのように故郷を愛して、国を愛して、自分の民を愛しておられました。さて、イエズスは国のために、そして国の首都を見てなぜ泣いておられたでしょうか。



イエズスはご自分でその理由を述べておられます。エルサレムに向けて仰せになります。
「おまえが訪れの時を知らなかったからである」(ルカ、19,44)
イエズスの悲しみの理由は以上の通りです。

エルサレムは訪れの時を知らなかったからです。この「訪れ」はなんでしょうか。天主の訪れです。イエズスの御托身によって、天主の民への天主の訪れに他なりません。
しかしながら、「ホザンナ」という歓呼を浴びながら、その日は凱旋の日、喜びの日であるはずです。しかしながら、このような現世的な栄光の彼方までイエズスはお察しです。この世の栄光は変わりやすいく儚いものであるはよく知っておられます。たしかに、数日後、イエズスを仰いでいた同じ大衆は彼を罵って十字架につけよと要求することになります。

イエズスは天主であるので、未来を知っておられます。そして未来についてのご存知のことを述べておられます。エルサレムの破壊を述べておられます。神殿の破壊を述べておられます。またローマ人によって多くの破壊と死者を述べておられます。

ユダヤ人たちはその通り、後世になって、ローマ帝国に対して反逆した結果、報復としてエルサレムの神殿が破壊されました。紀元後70年になるので、イエズスのご死去とご復活の僅か40年後の出来事です。



ローマ軍はエルサレムを攻囲することになります。大変なことになりました。なぜなら、神殿の境内まで激しい戦闘となり、多くの死者が出ました。神殿のホロコースト祭壇の周辺まで戦闘は及び、ローマ軍は結局勝りました。そして、ローマ軍は神殿を完全に破壊しました。言いかえると、天主がおられた神殿は破壊されました。ユダヤ人が天主のまします場所としてお参りしに来たこの神殿は破壊されました。

また続きもありました。神殿が破壊されても、エルサレムはまだまだ存続しました。しかしながら、ハドリアヌス帝の代に、130年になって、エルサレムを復興させることを決めました。しかしながら、エルサレムの住人たちは異教徒の皇帝による復興を拒みます。

このように、ユダヤ人たちは一揆します。135年のBar Kokhba(バル・コルバ)の乱なのです。そして、この一揆はローマ軍によって厳しく鎮圧されて、多くの流血を伴いました。この一揆への報復として、エルサレムは壊滅されました。神殿が立った場所に、ユピテル神のための神殿が建てられました。最悪の冒涜ということです。最も聖域だったはずの場所、天主が礼拝されるはずの場所に異教が凱旋しているという惨事になりました。それだけではなく、エルサレムに住むユダヤ人たちは都市から追い出されました。また、ユダヤ人ならエルサレムに戻ることも移住することも禁じられました。

これらを知っておられたイエズスは泣いておられました。「ああ、エルサレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。。。」(ルカ、19,42)と仰せになりました。

愛する兄弟の皆様、エルサレムという語源を辿ったら「平和の国」という意味です。イエズスはエルサレムに向けて、「ああ、エルサレム、もしこの日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら。。。」と仰せになります。

平和をもたらすものというのは天主ご自身の訪れ、即ちメシアを認めて受け入れることなのです。「おまえが訪れの時を知らなかったからである」

そこに、因果関係があります。誤解しないでください。エルサレムはメシアを認めないでメシアの教えを拒んだゆえに、天主は罰をあたえたということではありません。いや、そうではなく、天主の御托身を拒んで、メシアの教えを拒んで、イエズスがもたらした真理を拒んだせいで、ユダヤ人たちは平和をもたらすすべてを拒んだということです。なぜなら、キリストの教えに従わなければ、本物の平和を享受できないからです。

そしてイエズスによって昇華、改革、完全化されたにもかかわらず、ユダヤ人たちは旧法を旧法のままに頑固にも固く捧げ続けてしまいます。この結果、ユダヤ人たちはある種の過激的なナショナリズム、民族主義になってしまいました。そして、この民族主義の結果、一揆を引き起こしたり反逆を犯したりしました。

そして、ご存じのように、ローマ帝国では、反逆、一揆のようなことになると、なかなか厳しかったわけです。ローマ帝国の権威に手を触れると、帝国の逆鱗に触れるようなことになります。ご存じのように、罪を犯したことによって罰せられます。天主を拒むのなら、天主ではない他の人々に渡されよう。彼らはおまえを酷く虐めるだろう。自業自得というような罰です。

愛する兄弟の皆様、このような自業自得の罰を現代で改めて考えるべき時代でしょう。

世界中の国々、社会は徹底的に天主を拒んでいます。天主の統治を仰ぐ国はもはやいません。あらゆる側面を見ても天主の統治を徹底的に拒まれています。いわゆる、自然法ですら拒まれて、自然次元ですら否定されているぐらいです。

キリストの国になることを徹底的に世界中で拒まれています。以上のようにキリストを拒みながら、「平和を確保しよう」とみんな、望んでいて、国々も望んでいます。残念ながら、このままでは平和を得ないでしょう。平和をもたらす原因、要件なるイエズスを拒んだら、平和を求めても無駄です。現代世界はこれで自業自得になるでしょう。平和の原因を拒んで、戦争しかならないでしょう。

現代世界を見たら、皆心配しているでしょう。世界中の戦争と不安定は懸念されています。そうでしょう。しかしながら、これらの戦争の原因は、石油でもなく、核兵器でもなく、ガスでもなく、人々は天主に対して反逆していることが原因です。人間は天主に対して反逆しているからです。

我々は天主の手に自分をお渡しすることを拒んだら、我々の敵らの手に渡されることになりましょう。

また、イエズスは神殿のために泣かれるのではなく、エルザレムのために泣かれます。なぜでしょうか。

当時、神殿でまだ有効に捧げられている生贄はあくまでも全人類のためのイエズス・キリストの真の犠牲の前兆に過ぎないからです。そのために泣かれるわけがありません。ですから、神殿が破壊されても悲しいことではありません。本物の生贄はイエズス・キリストの生贄なので、その再現なるミサ聖祭なので、そもそも旧約聖書の生贄はなくなる運命でした。我らの主イエズス・キリストの生贄の準備のためにだけありました。

また、世の終わりの時代になったら、御生贄(ミサ聖祭)の行使も廃止されるだろうと預言者はいっています。現代、教会内、どこでもどのレベルでも聖伝ミサに対して行われる激しい戦争はその預言を思い起こさずにいられません。

また、イスラエル国の事情をみてみると、神殿を再建する運動はどんどん活発になっていて、組織化されつつあります。神殿の再建は世の終わりの一つの兆しとしても予言されています。しかしながら、神殿の再建は実現しないでしょう。

ユリアヌス皇帝の時代を思い出しましょう。ユリアヌス皇帝は棄教者と呼ばれています。なぜなら、若いうちに洗礼を受けたにもかかわらず、信仰を捨てて異教を掲げたからです。4世紀中ごろです。前帝なら数人がキリスト教徒だったのに、ユリアヌスが即位すると、キリスト教を捨てて異教を復興することを図りました。

キリスト教の徹底的な排除を示すために、エルサレムの神殿の再建を実現させることにしました。このように工事は始まりました。しかしながら、完全に失敗となりました。土運び作業で挫折してしまい、逆に旧神殿の廃墟で残っていた礎は破壊されたぐらいでした。

そして、ユリアヌス帝は亡くなります。死ぬ直前にユリアヌス帝は次のように述べたとされています。もしかしたら実際に言っていないかもしれませんが、かなり代表的です。イエズスについて「ガリラヤ人よ、あなたが勝ったな」と。

天主を馬鹿にしたら大変なことになります。

エルサレムと神殿の破壊を見て、我らの主イエズス・キリストを通じてのみ救いがあると思い起こされます。この事実をよく考えましょう。思い出しましょう。

また勇気あれ!天主に忠実でいられ続けたら本物の平和を享受するからです。この平和は我々を永遠の平和のために心構えを助け、天主の内に永遠の平和へ導いてくれます。

そして童貞マリアの御取り次ぎに頼りましょう。天主は世界中の平和の確立のために聖母マリアに特別な使命を与え給うたのです。
償うために聖母マリアへの汚れなき心への信心を通してです。

今日から九日後、被昇天の祝日になりますので、今日から聖母マリアへのノベナがはじまりますが、ぜひとも、毎日、聖母マリアのために何か特別にお捧げしなさい。
聖母マリアを特に崇拝している人々、特に聖母マリアの祝日になる時、8月15日、それから8月22日(聖母マリアの汚れなき心祝日)にむけて聖母マリアへの信心を行うと、聖母マリアは我々罪人に特別な恩寵を与えてくださいますので、怠りなくそれを行いましょう。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン


どのように人を赦せばよいか?

2022年10月16日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、プーガ神父様(D.Puga)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております



我々も人を赦せるように―赦すための手引き
プーガ神父様(D.Puga)のお説教  
2022年7月31日 

Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン 
愛する兄弟の皆さま、我々が知っているように、信じているように、良き天主は我々に対し限りなく憐み深いです。なぜなら我々は被創造物であるにすぎなくても憐み深いからです。そして我々は被創造物であるが故に、弱い存在であり、罪を犯しやすくても憐れんでくださるからです。
天主は、限りなく正しき存在であり、限りなく正義を全うする天主であり、限りなく憐み深い天主なのです。このように限りなく憐み深くおられると同時に、限りなく公平に裁いておられる天主なのです。両方の要素は常にともにあるのです。

天主は何でもお赦しになれます。なぜなら、天主はよき存在であると同時に、人間の一人である天主の御子であるイエズスの功徳のお陰で、天主から我々のための赦しを得られるようになったからです。イエズスの御血の一滴だけでも、人類の全員が犯しうるあらゆる罪、可能な罪を赦すためには十分なのです。このように無限な価値があるのです。

天主がお赦しならないことは一つだけあります。それは聖霊に対する罪なのです。愛する兄弟の皆さま、なぜでしょうか。聖霊に対する罪とは赦してほしくないと思い込んでいる人が犯す罪だからです。言いかえると、赦されなくてもよい、このような赦しが要らない、このような赦しは私なら余計なことだと思い込む人の罪だからです。

また、聖霊に対する罪とはいわゆる赦されることを認めていても、天主からの御赦しだけを拒む人の罪なのです。つまり、天主がお赦しになることをもって、天主から来ることを拒む人の罪なのです。要するに、これは天主に対する反逆の一環であるというか、サタン的なところがあるのです。

しかしながら、以上の例外を除いたら、天主はあらゆる罪をお赦しになります。聖霊に対する罪に至っても、その人が聖寵の息吹きを受け入れてまことに悔い改めたら天主はもちろん彼をお赦しになります。

しかしながら、天主は我々をお赦しになるという時、どれほど我々をお赦しになるでしょうか。なぜこの質問をするのでしょうか。
天主は何でもお赦しなられますが、それはつまり、限りなくお赦しになるということです。

この質問への答えは我らの主、イエズス・キリストが我々のために残されて、教えられて、祈るように頼まれた立派な祈りの中にあります。それが主祷文です。主祷文の後半部分を思い出しましょう。天主へお祈りを捧げながら、「われらが人に赦す如く、われらの罪を赦し給え。」

われらが人に赦す如くということです。愛する兄弟の皆さま、そこがポイントです。天主の御赦しの程度は我々の言動次第で決まるということです。我々は自分に対して罪を犯した人を赦せば赦すほどに、天主は我々をお赦しになるということです。

このように、天主は我々が犯したいくつかの罪をお赦しにならない時に、その責任は我々にあるということです。なぜなら、我々の心こそが冷淡で、隣人を赦さない堅い心になってしまうことに由来するからです。

さて、もう一点の質問があるでしょう。私は私に対して罪を犯した人を赦してもいいですし、赦したいのですが、では具体的にどうやって赦せばよいのでしょうか。要するに侮辱された人々の前に、どのように言動したら赦せるかという問題です。
何よりも大事なのは基本になるのは、受けた悪、弊害に対して応報しないこと、復讐しないこと、悪で返さないことなのです。そして、その意図、気持ちと戦い、なくすことに努めることです。要するに、赦しは内面的な態度で始まるのです。

復讐はまったくキリスト教的ではありません。つまりどれほど悪を受けていても仇討ちしない、復讐しないということです。
もちろん、受けた悪は悪のままです。罪です。だから悪を咎めるのはいいですが、しかしながら罪人は憐れむべき人であり、このように、罪人から受けた悪を悪で返してはいけません。
もしも、我々を侮辱した、我々に対して悪いことをした人がさらに後悔していて、我々へ向けて我々の赦しを求めるのなら、我々はキリスト教徒として、その依頼に応じる義務があります。それに応じて、仲直りの依頼を受け入れて赦してあげる義務があります。

天主が赦し給うことを望む人は、隣人に赦すこと、善行を受け入れる必要があります。そして、本物の赦しになる必要があります。つまり形式的に小さな声で「赦した」のではなく、心を込めて赦してあげて、言動上も帳消しにするという赦しが必要です。

次の問題はお分かりですね。我々を侮辱して、我々に対して罪を犯したのに、私の赦しを頼みに来ない人、赦しを頼みに来ることを拒み続ける人についてどうすればよいですか。つまり私を傷つけた人で「ごめんなさい」と絶対に言わない人々に対して、どうすればよいですか。このような場合は、まず大事なのは、これらが許しを求める機会、仲直りできる機会を少なくとも一回与えてあげることです。つまり、何らかの形で、我々は赦してあげる準備ができていて、向こうはいつでも赦しを乞うことができて、そうしたら心を込めてまことに赦してあげるよということを示してあげることが大事です。

このことは福音書のイエズス・キリストのお言葉を思い起こさせます。
兄弟が何か自分に対して含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ、祭壇の前に置き、まず兄弟のところに行って和睦し、それからかえって供え物を捧げよ。」(マテオ、5,24)とイエズスは仰せになります。

それでも、その人はその罪を悔い改めないで、赦しを絶対に求めないことにしつづけたら、あるいは我々に対して悪いことをし続けようとするとき、どうすればよいですか。

この場合、少なくとも彼らのために引き続き祈りましょう。よく祈りましょう。少なくとも嫌悪感、憎しみを絶対に自分の心に入れないようにしましょう。そうするために、彼らが犯している罪を憐みましょう。同情しましょう。なぜできるのでしょうか。これらの罪を最期まで悔い改めないのなら、裁かれることを知っているので、この大変な裁きを思って憐れむことができるからです。

また、政治家や責任のある人々についても適用できます。よく極悪の政策やとんでもない弊害を及ぼす決定をした人々に対して文句を言ったり、憤怒したりすることがよくあると思います。我々は完全に無力になっていて、共通善を守るべき人々が共通善に弊害を加えていることをみて、また一回限りではなく、彼らは悪をやり続けることにしていることを見て憤怒することがありますよね。

そういう時は、我々は彼らの天主のお裁きについて考えてみましょう。恐ろしいことで、ぞっとするほどの裁きになりましょう。我々は無力で何もできないとしても、彼らもある日、我らの主、イエズス・キリストによって裁かれることになるからです。このように、彼らのために祈りましょう。彼らは罪を犯して悪を行うことをやめるように祈りましょう。祈りだけではなく、彼らの回心のために犠牲をも捧げましょう。

最後に、ある話をさせてください。実際にあった話です。聖ヨハネ・ガルベー(Saint Jean Galbert)の人生の一つの場面ですが、彼は11世紀の聖人です。西暦1000年のちょっと前に生まれました。フィレンツェの人で、そこで生まれました。鉄のような時代で、厳しい時代でした。
この聖人はかなり偉い家柄の子で、カトリックの信仰の家に育ちました。しかしながら、青年期になった時、騎士になることを志しました。ご存知のように、騎士は、特に昔のそのような時代では、限られた例外がいるものの、聖徳を行いやすい職業ではありません。
このように聖ヨハネには信徳が残っていても、その人生はまっすぐではなくただしくありませんでした。

ある日、彼の兄弟、ユーグですが、一人だけの兄弟でしたが、フィレンツェのもう一人のある貴族によって殺されました。このように、ヨハネ・ガルベーはフィレンツェの貴き一族の代表者になり、ユーグ兄の殺人にたいして仇討ちを必ず果たすことを誓ったわけです。
そして、時間が経って、ある日、ヨハネ・ガルベーは馬に乗って数人の騎士と共にフィレンツェへ帰っていたときでした。ある細道では向こうから馬に乗る一人きりの人と出会うのです。その人はユーグ兄の殺人者でした。それを分かったヨハネは、すぐさま、剣を手にし、兄の名誉をすすぐためにと思って、仇討ちを果たそうとして、相手を斬りそうになりました。
そして、兄を殺した人は自分の最期が近いことを察して、馬から降りて跪き、腕を十字架のように組みました。これは赦しを希うためではなく、死ぬ前に、天主へ自分の霊魂をすすめるためです。なぜなら、もう逃げることができなく、殺されることを知っているからです。

剣を抜いたヨハネ・ガルベーも馬から降りて、兄の殺人者を斬りに行きます。そして、彼の前にいる十字形に腕を組んで跪いているその男を斬りそうになった瞬間、ヨハネ・ガルベーは前に我らの主、イエズス・キリストがおられるかのようなすごい印象におおわれました。

実は、その日は聖金曜日でした。聖ヨハネ・ガルベーはその後、この時を顧みた時に記した文章によると、「私はその男を赦さざるを得なかった」と明かします。なぜなら、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ、23,34)と天主の御赦しを希った十字架上のキリストをヨハネ・ガルベーが見たので、兄の殺人者を赦さざるを得なかったと明かしました。
聖ヨハネ・ガルベーはその時、剣を鞘に戻して、体をかがみ、兄の殺人者へ手を伸ばして彼を起して「平和の内にいけ」と言いました。



しかしながら、これで以上の話は終わったわけではありません。このように兄の殺人者を赦したのですが、その後、聖金曜日だったその日、ヨハネ・ガルベーはまた帰り道を走っていました。フィレンツェに到着したら、先に家の準備のために伴の騎士たちを送っておきました。そして、ヨハネ・ガルベーはSan Miniato al Monteという教会に行きました。祈るために教会の中へ入りました。そこで、大きな十字架の絵の前に留まります。その前に跪きます。そして、十字架に向けて、「私は彼に赦した如く、我に赦し給え」と言います。なぜなら、
ヨハネ・ガルベーは正しい生き方をしていなかったことをよく知っていたからです。
そしてその瞬間ですが、その時に起きたことはヨハネ・ガルベーの人生を覆して回心の切っ掛けになり、そのあと聖人になっていきますが、画の十字架上のキリストの頭はさがって「はい、赦してあげた」という風に示されました。

これを機に、聖ヨハネ・ガルベーは回心して、彼の生き方は一変していきます。その後、修道会にも入り、また彼自身がその修道会の改革修道会を設立することになりました。Vallombreuse修道会だったので、Vallombreuse改革と呼ばれていますが、このように聖ヨハネ・ガルベーは偉大な聖人となっていき、彼の周りに多くの善行と善を施しました。



この聖人は我々のための模範です。聖ヨハネ・ガルベーの祝日は7月12日でしたが、彼の人生を読むようにお勧めします。多くの教訓と模範があり、我々のキリスト教的な日常のために助けとなります。模範になるように。

我々を侮辱した人々に赦すための模範です。
また聖母マリアに希いましょう。憐みの御母なるマリア様よ、天主が我々を赦す如く、我々も人に赦せるように教えるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

幼きイエズスの聖テレジアは薔薇と共に茨を愛した

2022年10月04日 | お説教
白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんの、ランパン神父様(Rampon)のお説教 をご紹介します。
※このお説教は、 白百合と菊Lys et Chrysanthèmeさんのご協力とご了承を得て、多くの皆様の利益のために書き起こしをアップしております

ランパン神父様(Rampon)のお説教     
2022年09月25日  
聖テレジアに倣って苦行をしましょう!
Saint-Nicolas du Chardonnet教会にて



聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン

神父様、親愛する兄弟の皆様、幼きイエズスの聖テレジアを本日、祝います。
1897年9月30日、聖テレジアが天国に生まれました。そして、ピオ十一世の決定によって、聖テレジアはフランスの二位の守護者となりました。聖テレジアという聖人はきっと現代の一番有名な聖人でしょう。聖ピオ十世が述べていたように、聖テレジアは「この時代の一番偉大な聖人である」のです。
聖テレジアが行った奇跡は数多くありますが、ここは時間の問題で省きます。
一つだけを取り上げると、第一次世界大戦の際、多くの兵士たちが聖テレジアの執り成しの恩恵をうけました。

このように聖テレジアは我々に近いのですが、同時に遠い聖人でもあります。

聖テレジアの人生の間に、聖テレジアが大がかりな奇跡を行ったことがありませんでした。この意味で我々に近い聖人です。歴史には水面上を歩く聖人もいれば、未来を予言する聖人もいたし、相手の心を読みとれる聖人も数多くいました。ところが、聖テレジアはそのようなことはありませんでした。聖テレジアは平凡な人生、日常を送ってきました。

このポイントが大事です。聖人になるために何が一番重要なのかを思い起こしてくれるのが聖テレジアです。聖人になるにはひとまず対神徳の優れた実践が必要です。それからキリストに倣ってのキリスト教的な生活上のすべての聖徳の実践が必要です。

しかしながら、一方で聖テレジアを見ると、我々から遠い存在でもあることを感じることがあるでしょう。なぜなら、聖テレジアの覚悟と精神上の剛毅さは桁違いであるからです。罪に対して聖テレジアは一度も脆弱な態度を見せたことはありませんでした。もちろん、どの聖人とも同じように、いくつかの脆弱さによって罪を犯したことがありますが、最期まで大罪を犯したことはありませんでした。

このようにして最期を迎えていた聖テレジアは次のように明かしていました。「三歳の時から、天主からのみ旨を一つも拒んだことがなかった」。
これは聖テレジアの精神上の剛毅さを語ります。我々なら、このような剛毅さからはなかなか遠いでしょう。いつも、崩れることなく、誘惑に負けない剛毅さを聖テレジアほど持てる人は誰かいるでしょうか。



さて、聖テレジアは霊魂ですごい剛毅さがありました。それはどこから来ていたのでしょうか。どうやってその剛毅さを継続できたのでしょうか。これほど固く覚悟して、誘惑に負けず、聖人になれた剛毅さの秘密はなんなのでしょうか。

ここで細かい検討は無理ですが、一番大事な点だけを覚えていただきたいと思います。聖テレジアは苦行を愛し、徹底的に苦行を実践してきたのです。

聖テレジアはよく薔薇をもつ姿で描かれます。それは確かにそうですが、薔薇には多くの茨があることを忘れてはいけません。

聖テレジアは薔薇と共に茨を愛しました。

苦行とは何でしょうか。我々が持つ悪い傾向、原罪の帰結なるこれらの悪い傾向に対する戦いです。原罪による傷のせいで、我々の感情などは自分の理性に対して反乱をおかすことが多いのです。このように、苦行という行為、苦行という実践はこれらの悪い傾向と戦い、我々の本性にある下等な部分である感情、感覚などを理性と意志に従わせることです。こうした苦行によって、最終的に我々の意思と理性を天主のみ旨に従わせるのです。

苦行をするためのやり方は無数にあります。聖テレジアは例えば、食べる時、材料などを交えないことにしていました。なぜなら、それらの材料の味を薄くさせるためでした。あるいは、不本意にスプーンなどを皿に落としてしまったら、聖テレジアがあえてそのスプーンを洗わないで取り直して、改悛の精神でそういった苦行ですらしていました。

また、正当に文句を言えたのに、聖テレジアは何の文句も言わないことにしていました。具体的には、掃除で服などを洗っていた時、ちょっと虐められていたことがあって、汚水で振りかけられることがありましたが、それでも文句を言わないで、その場を去らないで、その作業を続けていました。

このような苦行はほぼだれにも気付かれませんでしたが、考えてみると、それを行うための剛毅さは凄いものがあります。

聖テレジアは修練期のシスターたちにこう述べていました。
「これらの小さな行い(苦行)は自分の健康にも悪くもないし、誰にも気づかれないし、自分の霊魂だけが超自然の熱心さを常に養ってくれる」



もちろん、現代では苦行といったら多くの人々が嫌悪感を抱くかもしれません。現代はかなり物質主義的であり、エゴイズムであり、自己満足、自分の利益、自己実現、自分の出世を何よりも優先するので、驚くことではありません。

ですから、このような世界では苦行をあまり考えたがらない傾向があります。そして、残念ながら、信徒の間でも苦行を行うことが足りないことは珍しくありません。苦行の精神が足りないこともあります。

しかしながら、苦行は必要不可欠です。

第一、 時々、苦行は義務化されています。時期、場所によって。我らの主が仰せになりました。「色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通している。」(マテオ、5,28)

つまり、罪深い眼差しもあるので、それを避けるための苦行が必要です。このような場合、苦行は任意ではありません。常に苦行を繰り返すことによる訓練のようなものです。大きな誘惑あるいは試練が来たら、抵抗できるための訓練としての苦行です。小さなことで誘惑に負けたら、大きな誘惑に抵抗することはあり得ないのです。

それから、もう一つあります。我々の心の中に、現世欲の源泉というものがあります。言いかえると、洗礼を受けることによって原罪が消されます。しかしながら、原罪が消されても、霊魂には現世欲の源泉が残っていて、傷であるかのように、そこから罪へ引っ張る悪い傾向などが出てきます。それに対して戦う必要があります。戦うには苦行が必要です。

このような現世欲の源泉は火のようなものです。火のように、火に燃料を補給すればするほど、火が強くなっていきます。そして火が強ければ強いほど、これを消すことは難しくなっていきます。逆に、火から燃料の補給を止めたら、火はどんどん弱くなっていきます。最初、小さな弱い炎だけになるでしょう。

現世欲についても、以上の火と全く同じようなありようがあります。時には正当な楽しみも含めて、毎日のように現世欲を煽っていたら現世欲を強めて拡大させる羽目になります。

逆に、正当な楽しみをも含めて、意志的にそれを拒むことを頻繁にしたら、現世欲も弱くなります。例えば、インターネット上の動画を見たり、好奇心だけで何かを視たりするような時、それは正当な楽しみであるのに、あえてそれを見捨てるような苦行などいろいろ考えられます。このような苦行によって、自分の欲望、現世欲をよりよく支配できるようになります。

それから、何よりも我らの主に倣いましょう。このように我らの主は生まれた時から最期まで、常に断念して自己犠牲を行っていらっしゃいました。「人の子には枕するところもない」(マテオ、8,20)と仰せになったほどの苦行を行われました。

そして、もちろん、ご受難の時、なおさらです。我らの主はつねに、自己犠牲、謙遜、清貧などの模範を見せ給いました。ですから、遊楽と自己満足を追求したら、イエズスに倣うことができなくなります。

イエズスご自身は以上のことを思い起こさせてくださり、仰せになりました。「私に従おうと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を担って従え。」(マテオ、16,24)

最後に、苦行は誘惑に対して抵抗するために非常に役立つことを覚えておきましょう。なぜでしょうか。誘惑が来た時、誘惑に負けたとしましょう。なぜ誘惑に負けるでしょうか。理由は主に二つあります。

ひとつは遊楽への愛着があります。偽りの遊楽によって騙される霊魂は誘惑に負けるわけです。つまり、単なる遊楽であるのに、幸せあるいは幸福であるかのようにみあやまり、遊楽へ飛び込む羽目になります。

苦行によって、このような乱れた遊楽を征服することが出来て、本物の幸せと喜びとはこれらの遊楽にはないことを常に思い出させ、この世での本物の喜びは霊的な喜びだけだということを身につけさせますs。

誘惑に負けるもう一つの理由があります。いわゆる、誘惑に抵抗するために生じる苦しみと疲労への恐れがあります。しんどいから、苦しいから、この戦いが難しいから、誘惑に負けることにしてしまうことです。

苦行は、誘惑との戦いに鍛えるための訓練です。少しずつ、意志は苦行によって鍛えられて強くなっていきます。そして、天主の恩寵によって霊魂は誘惑に対して剛毅となっていきます。

このように、自分の聖化のためにも同じようなことがあります。よりよく聖化していきたい、聖徳を実践していきたいと思っていてもつい、怠けてしまう、聖徳の実践が難しいからといって、のんびりとなってしまうようなことがあるでしょう。

聖徳の実践で足もとがすくわれることがある時、誘惑に対する戦いとの同じ二つの原因があります。それは遊楽、この世の喜びなどへの愛着、または十字架に対する恐れです。ですから、常に苦行がどれほど役立つかを思い起こしましょう。

聖テレジアが最期を迎えた時、また次のことを述べました。「私は大きく苦しんだ。霊魂たちにそのことを知らせよう。」

はい、確かです。聖テレジアはこの世で非常に苦しんだのです。多くの苦行をも果たしました。その結果、聖テレジアは次のように明かしてくれます。「この世で過ごせる最高の幸せな人生を送ってきた」



聖パウロも書簡で同じようなことを述べておられます。「私は慰めに満たされ、どんな試練の中にあっても喜びにあふれている」(コリント人への第二の手紙、7,4)

はい、苦行のおかげで、試練のおかげで、天主の子になる本物の自由を取得できることを知っている恩恵を我々は受けています。一番最高の喜びはこれらの試練から得られる天主の子になる自由をもって行う善業にあります。

ですから、よくよく思い出しましょう。苦行は必要不可欠です。また苦行は悲しいことではなく、むしろ、霊魂に多くの喜びを伴わせます。

ですから、我らの主にも、聖母にも、聖テレジアにも、毎日、多くの小さな苦行を果たせるようにと希いましょう。そうすることによって、毎日、いつも、どんどん我らの主、イエズスに倣えるように。

聖父と聖子と聖霊とのみ名によりて、アーメン