ファチマの聖母の会・プロライフ

お母さんのお腹の中の赤ちゃんの命が守られるために!天主の創られた生命の美しさ・大切さを忘れないために!

ポンテヴェドラで説明された5ヶ月の初土曜日の信心の理由

2017年06月15日 | ファチマ
以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。



ポンテヴェドラ:1925年12月10日(木曜日)-5ヶ月の初土曜日の信心-


ルシアはポンテヴェドラのドロテア会修道院に志願者として1925年10月25日から1926年7月20日までいました。

1925年12月10日木曜日の夕方、18歳の志願者ルシアに聖母マリアと幼子イエズスが御出現になりました。そのときの様子はルシアの証言によれば、次の通りです。

聖母が御出現になり、彼女の横に輝く雲の上に高められて幼子イエズスがいらっしゃいました。聖母はルシアの肩の上に手を置かれ、棘によって取り巻かれた彼女の御心を片方の手に持たれて、それをルシアに示されました。そのとき、幼子イエズスがこう言われました。

「あなたのいと聖なる御母の御心に同情しなさい。それは棘で覆われています。恩知らずの人々はその棘で御心をいつも突き刺しています。そしてそれらの棘を取り除くために誰一人償いの業をしません。」

次ぎに聖母がこう言われました。

「私の娘よ、私の御心を見なさい。それは棘で取り巻かれています。その棘で恩知らずの人々は冒涜と忘恩によって絶えず私の御心を突き刺しています。少なくともあなたは私を慰めるよう努めてください。そして私の名において次のことを告げ知らせてください。私は、償いをするという意向をもって引き続き5ヶ月の間初土曜日に告悔をし、御聖体を受け、ロザリオ5連を唱え、ロザリオの15の玄義を黙想しながら15分間私と共にいるすべての人に、救いのために必要なすべての恵みをもって臨終のときに助けることを約束します。」

ルシアはこの御出現とメッセージを直ぐに院長のマザー・マガリャエスに告げ、またポンテヴェドラ修道院の霊的指導司祭ドン・リノ・ガルシア神父にも報告しました。彼はルシアに後で必要になるかもしれないから、すべて書き留めておくように命じました。

ルシアはこの出来事の詳細な説明をアシロ・デ・ヴィラルから来ている霊的指導司祭、ペレイラ・ロペス師のために書きました。12月29日に院長のマザー・マガリャエスはダ・シルヴァ司教に御出現の件を報告していますが、あまり正確ではなかったようです。ペレイラ・ロペス師はルシアに返事の手紙を出しました。その中で彼は留保を表明し、質問をし、待つように勧めました。2月15日にルシアは質問に答え、出来事の詳細な説明をする手紙をロペス師に送りました。

この手紙の中でルシアはロペス師に、聖体拝領の際にイエズスに対してロペス師の手紙を読んであげ、こう申し上げた、と書いています。

「おお、私のイエズスよ、あなたの恵みによって、祈り、苦行、信頼をもって私は従順が私に許し、そしてあなたが私に霊感をお与えになるすべてのことをなそうと思います。そのほかのことはあなたが御自身でなさらなければなりません」と。

数ヶ月前に一人の子どもに出会った同じ場所で、ルシアはゴミを捨てに行った際に、またその子どもに出会います。以前に会ったときにルシアはその子に「めでたし」を一緒に唱え、「おお、天にいます私の御母よ、私にあなたの御子イエズスを与えて下さい」という祈りを教えたのでした。

この日またその子どもに会ったので、「あなたは天の御母に御子イエズスを求めましたか?」と訊ねますと、その子どもは「あなたは、天の御母があなたに求められたことを世界に明らかにしましたか?」と言いながら、光輝く子どもに変りました。それで、ルシアはその子どもがイエズスであることが分かりこう言いました。

「私のイエズス!あなたは読んでさしあげた手紙の中で私の霊的指導司祭が言われたことをご存じです。彼はこの幻視は繰り返されなければならない、私たちにそれを信じさせる事実がなければならない、そして院長様だけではこの信心を広めることはできない、と言われました。」それに対してイエズスはこう答えられました。

「院長一人だけでは何もすることができないことは確かです。しかし、私の恵みがあれば、彼女は何でもできます。あなたの霊的指導司祭があなたに許可を与えること、あなたの上長がそのことのためにこれを告知することが必要です。それが誰に明らかにされたかを人々が知らなくても、人々によって信じられるようになるためです。」

「しかし、私の霊的指導司祭はその手紙の中で、この信心はすでに世間に存在すると言われました。と申しますのは、多くの霊魂は聖母の栄光のために毎月初めの土曜日に御聖体を受け、ロザリオの15玄義を唱えていますから。」

「私の娘よ、多くの霊魂が始めていることは確かです。しかしほとんどの人は最後までやり通しません。そしてやり通す人は約束された恵みを受けるためにやり通すのです。熱心に5ヶ月の初土曜日の信心をする霊魂、あなたがたの天の御母の御心に対する償いをする霊魂は15連のロザリオを唱えるが、しかし生ぬるい、どうでもよい仕方でそうする霊魂よりもずっと私を喜ばせます。」

「私のイエズス!多くの霊魂は土曜日に告悔するのを難しいと感じています。8日以内にする告悔を有効だと認めてくださいますか?」

「初土曜日に御聖体を拝領するときに恩寵の状態にあり、そしてマリアの汚れなき御心に対する償いをする意向を持っているならば、それ以後でも告悔の秘蹟を受けることができます。」

「私のイエズス!ではこの意向を入れることを忘れた人はどうでしょうか?」

「告悔に行く最初の機会を利用して次の告悔のときにその意向を入れることができます。」

イエズスとルシアの会話はこれで終わり、イエズスはルシアの前から姿を消されました。

聖母マリアのシスター・ルシアへのトゥイ(スペイン)における1929年6月13日の御出現

2017年06月14日 | ファチマ
聖母マリアのシスター・ルシアへのトゥイ(スペイン)における1929年6月13日の御出現

「ファチマ:世界平和への唯一の道」からの抜粋

「現代世界」は奇跡一般を嘲笑し、そして実際、その諸聖人がそのように多さにおいて奇跡を行った教会の神的主張を嘲笑します。

しかしロシアの奉献はまさに1917年10月13日の太陽の奇跡でもって神が本物であることを証明なさったそのメッセージにおいて神がお命じになったことです。

われわれは1917年7月13日のメッセージの中で聖母がルチアに「私は私の汚れなき御心へのロシアの奉献と初土曜日の償いの聖体拝領を求めるために戻って来るでしょう」と約束なさったということを思い起こします。

その御言葉通りに、童貞聖母マリアはスペイン、トゥイにおいて1929年6月13日にルチアに再び御出現になりました。そこで、ルチア - その時にはドロテア会修道女シスター・ルチア・ドス・サントス(彼女は1948年まではカルメル会修道女とはならないでしょう) - は礼拝と償いの聖時間の間修道院の聖堂において祈っていました。カトリック教会の諸聖人への天からの御出現の記録の中でさえ、この御出現は並はずれたものでした。

われわれはシスター・ルチアに彼女自身の単純なしかしまったく劇的な言葉においてその御出現を詳しく話してもらうことにしましょう - そしてここでもまたわれわれが、教会と教皇ヨハネ・パウロ二世および教皇ベネディクト十六世を含む諸教皇が信じるに値すると宣言なさった一つの御出現を取り扱っていることを覚えておきましょう。


トゥイの幻視


「私は木曜日から金曜日まで午後11時から真夜中まで聖時間をすることを求めて私の上長たちと聴罪司祭たちから許可を得ていました。ある夜独りでいる時に私はひれ伏して天使の祈りを唱えるために聖堂の中央の聖体拝領台の前で跪きました。疲れを感じましたので、私は起きあがり、そして跪きました。そして私の両腕を十字架の形に組んでその祈りを唱え続けました。唯一の光は内陣の[聖体安置を示す]ランプから来ていました。」

「突然、一つの超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井に届く光の十字架が現れました。より明るい部分に、十字架の上の方に一人の男の方の顔と腰までの身体を見ることができました。その胸のところには同様に光り輝く一羽の鳩がいました。そして十字架に釘づけにされたもう一人の男の人の身体がありました。」

「その方の胴の少し下のところに、空中に浮いて一つのカリスと一つの大きなホスチアを見ました。ホスチアの上には十字架につけられた方の顔から、そしてその方の胸にある傷から数滴の血が落ちていました。これらの[血の]滴はホスチアを伝わってカリスの中へ流れ落ちていました。十字架の右側の腕の下には聖母(その片手に汚れなき御心を持たれたファチマの聖母)がおられました...(十字架の)左側の腕の下には大きな文字が、いわば祭壇の上に流れ下る水晶のように透明な水で書かれたかのようにあり、これらの文字は『恩寵と憐れみ』という文字を形作っていました。」

「私は、私に示されたのがいとも聖なる三位一体の神秘であることを理解いたしました...」注42)

フレール・ミッシェルはこの御出現を正当に「三位一体の神の顕現」と呼びました(以下に掲げたある画家による解釈を見てください。)


[三位一体の神の顕現]


もちろん、神は文字通りの意味において、キリストがその肉において見られ得るようには、人間の目によって見られることはできませんが、この「神の顕現」は神によってその三位一体の本性の一つの視覚的な表現として認められました。太陽の奇跡についてそうであったと同じように、世界の歴史においてかつて記録されたそのような現象は何一つありません。このように、神御自身、ファチマの聖母がいとも聖なる三位一体の現前においてシスター・ルチアに話そうとされたことの並はずれた重要性をお示しになったのです。聖母はこう言われました:

「神が、この手段によってそれ(ロシア)を救うことを約束なさりながら、教皇に、世界のすべての司教たちと一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。」注43)

神御自身このことを要求しておられます。シスター・ルチアは、まさに神そのもの、いとも聖なる三位一体の現前において、神の名において話される神御自身の御母の口からこの要求を受け取りました。シスター・ルチアは、直ちにこの神の要求を彼女の聴罪司祭ゴンサルヴェス神父に、彼との彼女の公表された文通のうちに反映されているように、伝えました。注44)

次の75年間シスター・ルチア―オウレムのフリーメーソンの市長によって投獄され恐ろしい死をもって脅迫されたけれどもファチマの真実を否定しようとしなかったその同じルチア ― は同じ証言を与えました。聖母は、神のメッセージの伝達者として、教皇と世界のすべての司教たちとによって一緒に行われるべき一つの儀式においてロシアの荘厳で公的な奉献を要求なさいました。


世界が享受するであろうものの前触れ


童貞聖母マリアが要求なさった奉献の効力をあたかも証明するかのように、神はいわば、ポルトガルにおいて一つの証明を許すことを適当と見られました。

1931年5月13日、ファチマでの最初の御出現の記念日に、そしてそのイベントのためにファチマに来た30万人の信徒たちの列席する中で、ポルトガルの司教たちは彼らの国を荘厳にマリアの汚れなき御心に奉献しました。これらの善良な司教たちは、ヨーロッパ中、特にスペインに吹き荒れていた共産主義の伝染病からその国を保護するために聖母の御保護の下にポルトガルを置きました。実際、世界の至る所へのロシアの諸々の誤謬の拡がりという童貞聖母マリアの預言は情け容赦のない正確さですでに実現されていました。

1917年の7月に、誰が - ボルシェヴィキ革命とレーニンの権力掌握の数ヶ月前に - ロシアから発する世界共産主義の出現を予見することができたでしょうか?ただ神だけがそれを予見することができたのです。神の御子によって知らされた神の御母だけが予見することができました。


三重の奇跡


この(1931年の)奉献の結果として、ポルトガルは三重の奇跡を経験しました。ここに、われわれはただ最低限の項目だけを挙げることにします。

カトリック・ルネッサンス

まず最初に、一つの壮大なカトリック・ルネッサンス、その中を生きてきた人々がそれを疑いもなく神の働きに帰したほどにそのように際だったカトリック生命の偉大な再生がありました。この時期の間、ポルトガルは司祭の召命における激烈な急増を享受しました。修道者の数は10年の間にほとんど4倍になりました。諸々の宗教的共同体も同様に増えました。キリスト教的生活の大きな刷新がありました。それはカトリック新聞社、カトリック・ラジオの発達、巡礼、霊的黙想、そして司教区および小教区の枠内に統合されたカトリック・アクションの活発な運動を含む多くの領域において示されました。

このカトリック・ルネッサンスはそのように重要なものであったので、1942年にポルトガルの司教たちは共同司牧書簡において次のように宣言しました:「25年前にその目を閉じ、そして現在その目を開いた人は誰でももはやポルトガルをそれと識別しないであろう。ファチマでの祝せられた童貞聖母マリアの御出現のつつましいそして見えない要因によって行われた変化はそのように大きいからである。実際、聖母はポルトガルを救うことを望んでおられるのだ。」注45)


政治的および社会的な改革

そこにはまた、カトリック社会諸原理と一致した政治的および社会的改革の奇跡もありました。1931年の奉献のすぐ後に一人のカトリック教徒の指導者がポルトガルにおいて権力の座につきました。カトリック反革命計画を正式に開始したアントニオ・サラザールです。彼はできる限り、そこで政府の諸法律と社会諸制度がキリストの律法、キリストの福音そしてキリストの教会と調和されている一つのカトリック的な社会秩序を創ろうと努力しました。注46)社会主義と自由主義の猛烈な反対者として、彼は「家庭の重要性を低めあるいは家庭を解体するあらゆること」に反対しました。注47)


平和の奇跡

これらの驚くべき宗教的および政治的な変化に加えて、二重の平和の奇跡がありました。ポルトガルは共産主義の恐怖から、特に隣りで荒れ狂った(1936-39年)スペイン市民戦争から守られました。そしてポルトガルはまた第二次世界大戦の荒廃からも逃れました。

スペイン市民戦争に関しては、ポルトガルの司教たちは1936年に、もし聖母がポルトガルを守ってくださるならば、彼らはマリアの汚れなき御心への国家の奉献を更新することによって彼らの感謝を表明すると誓いました。彼らの言葉に忠実に、1938年5月13日に彼らは聖母の守護に感謝して聖母の汚れなき御心へのポルトガルの奉献を更新しました。セレイェイラ枢機卿は公衆の面前でこう認められました:「ファチマの聖母が1917年に御出現になって以来...神の特別の祝福がポルトガルの地に下りました...特に、もしわれわれがわれわれの誓約以来過ぎ去った2年間を回顧するならば、神の見えざる御手がポルトガルを、戦争の災難と無神論的共産主義のライ病から免れさせて、守ってくださったことを認めないわけにはいきません。」

教皇ピオ十二世さえ、ポルトガルがスペイン市民戦争と共産主義の脅威を免れたことに驚きを表明されました。ポルトガルの人々への挨拶の中で、教皇は「そのように脅威的でそのようにあなたがたに近かった、そしてにもかかわらずそのように思いがけない仕方で避けられた赤の危険」について話されました。注48)

ポルトガルの人々はこの最初の危険を無傷のままに過ごしましたが、しかし直ちに二番目に彼らの面前ににらみつけるものがありました。第二次世界大戦が勃発しようとしていました。1917年7月13日の童貞聖母マリアの預言のなおもう一つの実現において、「ある未知の光によって照らされた一夜...」(1938年1月25-26日)に引き続く「ピオ十一世の在位の時に」戦争が始まったのでした。

1939年2月6日、宣戦布告の7ヶ月前に、シスター・ルチアは彼女の司教モンセニョール・ダ・シルヴァに手紙を書きました。彼女は彼に戦争が差し迫っていると告げました。しかしそのとき一つの奇跡的な約束について話しました。彼女は言いました:「この恐るべき戦争において、ポルトガルは司教様たちによってなされたマリアの汚れなき御心への国家の奉献のゆえに[戦争から]逃れるでしょう。」

そしてポルトガルは戦争の諸々の恐怖を免れたのです。その詳細はここで詳しく述べるには余りにも数が多すぎます。注50)さらに驚くべきことには、シスター・ルチアは1940年12月2日に、もし司教たちが彼らの国々をマリアの汚れなき御心に奉献していたならば、他の国々が受けたであろう戦争の間の特別の保護をポルトガルが受けていたということを彼に告げるために、教皇ピオ十二世に手紙を書きました。彼女はこう書きました:「教皇様、聖母はポルトガルの高位聖職者たちによるマリアの汚れなき御心へのこの国の奉献のゆえに、この戦争において私たちの国に特別の保護を約束しておられます。他の国々ももし聖母に自分たちを奉献したならば与えられたであろう諸々の恩寵の証拠としてです。」注51)

同様に、ポルトガルのセレイェイラ枢機卿はこの時期の間聖母がポルトガルのために得られた大きな恩寵をファチマの聖母に帰することを躊躇されませんでした。1942年5月13日に彼はこう言われました:「ここで25年の間に起こってきたことを表現するためにポルトガルの語彙はただ一つの言葉しか持っていません:それは奇跡という言葉です。そうです、われわれはポルトガルのすばらしい変化をいとも聖なる童貞聖母マリアの保護に負っていると確信しています。」注53)

セレイェイラ枢機卿はわれわれがここで主張していることを主張されたのです:すなわち、聖母がポルトガルのために、その国の1931年の奉献に対する天からの報酬として得られた奇跡的な諸々の祝福は、ひとたびロシアがまた聖母の汚れなき御心に適切に奉献されるならば、聖母が全世界のためになされるであろうものの前兆にしかすぎないということです。注53)枢機卿が言われたように:「ポルトガルにおいて起こったことは奇跡を宣言しています。そしてそれはマリアの汚れなき御心が世界のために準備なさったことを予示しています。注54)


平和について聖書は何と言っているか?


聖書はわれわれに人類がもはや戦争をしない時が来るであろうと告げています。旧約聖書において預言者たちはわれわれに人類が彼らの剣をすきの刃先に変えるであろうと告げています。すなわち、彼らは、ミサイル、戦車、爆弾、銃、そして生物兵器のような戦争の諸々の道具をリサイクルして、それらを食物を生産する道具に変えるであろうということです。

聖書はまたわれわれにこう告げています:獅子は子羊と共に横たわるであろう。そして子羊は傷つけられることはないであろう。子どもはその手を毒蛇の巣の中に入れるであろう。そしてその子どもは傷つけられないであろう、と。

平和は、聖トマスと聖アウグスティヌスがわれわれに告げているように、秩序の静けさです。神は、われわれが世界中あまねくこの静けさを持つであろう時が人類の歴史において来るであろうことを約束なさいました。われわれはまさに今その預言を成就しようとしています - そしてそれは神が御自分の聖なる御母を通じてファチマでわれわれにお与えになったメッセージです。われわれは今世界的な真の平和のための処方箋を持っているのです。


(42) The Whole Truth About Fatima - Volume II, pp. 463-464.
(43) Ibid.
(44) Sister Lucy’s words cited from The Whole Truth About Fatima -Volume II, pp. 462-465. See also Sister Lucy’s Memorias e Cartas da Irma Lucia, pp. 463-465.
(45) Collective Pastoral Letter for the Jubilee of the Apparitions in 1942, Fatima, merveille du XX e siècle, p. 338. Cited from The Whole Truth About Fatima -Volume II, p. 410.
(46) Salazar’s influence in the Portuguese government had been growing since 1928. He becamePresident of the Council in 1933. Later, Salazar received for his efforts the praise and blessing of PopePius XII. Pius said, “I bless him with all my heart, and I cherish the most ardent desire that he be ableto complete successfully his work of national restoration, both spiritual and material.” Cited from The Whole Truth About Fatima - Volume II, p. 412.
(47) Ibid., p. 415 (Salazar’s own words).
(48) Ibid., p.422.
(49) Ibid., p. 428.
(50) See The Whole Truth About Fatima - Volume II, pp. 369-439.
(51) Ibid., p. 428.
(52) Ibid., p. 405. Cardinal Cerejeira spoke these words during the 1942 Jubileecelebration of the Fatima apparitions.
(53) We trust the word of a Fatima believer such as CardinalCerejeira, rather than a Fatima debunker.
(54) Cardinal Cerejeira, Preface to Jacinta (1942), Obras Pastorais, Volume II, p. 333. Cf. also his homily of May 13, 1942, Fatima, merveille du XXe siècle
, p.339. Cited from The Whole Truth About Fatima - Volume II, p. 437.
(54a) cf. Sir Winston Churchill, The Second World War, Vol. 4, p. 33.
(54b) Letter of May 4, 1943, Documentos de Fatima, (Porto,1976) pp. 446-447; see also The Whole Truth About Fatima – Volume III, pp. 18-21 (letters of Sister Lucy of February 28 and May 4).

シスター・ルシアの見たトゥイの幻視:私たちの聖母に対する償いの義務

2017年06月13日 | ファチマ
6月13日は、ファチマの第2回目の御出現で聖母の汚れなき御心のヴィジョンを示された日、またトゥイでの御出現の記念日です。

ピーター・チョジノフスキー、PH.D.

以下は「トゥイの聖なるイコン」からの編集された抜粋です。

余りにもしばしばファチマは多くの信心の中の一つの信心となっています。私たちは余りにもしばしばファチマがその強烈さとその必然性を失っているということを見ます。

しかしもちろん、これは聖母の責任ではありません。これはシスター・ルチアの責任ではありません。実際、皆さんが御出現そのものをご覧になるとき、皆さんが聖母とわれらの主から私たちが受けたメッセージをご覧になるとき、まさにここトゥイにおいてさえ、そしてリアンジョにおいて、私たちはファチマの諸々の信心に付随している、初土曜日の信心に付随している、ロシアの奉献に付随している、義務のしるしがあるということを見るのです。

私は、皆さんがファチマのトピックを研究なさるとき、皆さんは私たちが単に一つの信心を扱っているのではなくて、一つの義務を扱っているのだということを見ていると、最初に強調したいと思います。私はそれをまた最後にも強調するつもりです。

私たちはシスター・ルチアが、トゥイからちょうど数マイル下ったポンテヴェドラで受けた御出現を見るとき一つの非常に深い仕方でこのことが示されているのを予見します。皆さんたちは彼女の相談相手への手紙から、彼女があの幻視が含意していることを記述しているのを見ます。

これは彼女が言っていることです - ここにポンテヴェドラでの啓示の主題があります -
われらの主は御自分のいとも聖なる御母に対してなされている諸々の罪に対して心から怒っておられる、
そしてわれらの主はそれらをもはや許容することがお出来にならない、
これらの罪のために、御子のいとも愛すべき御心に対してそのように多く苦しみを引き起こした諸々の侮辱と冒涜のために、多くの霊魂は地獄へと堕ち、そして多くの他のものは滅びる危険に曝されている。

われらの主はこの信心が実践される程度に従って、そしてマリアの汚れなき御心に対して償いをする意向をもつ程度に従って、彼らを救うと約束なさっています。

私たちはここに非常に厳しいあるものを見ます - 私たちは聖母が天の元后として、教会の御母として、神の御母として、客観的である、尊敬されなければならないある種の尊厳を持っておられるということを示しておられるわれらの主を見ます。

私たちは聖母に敬意を捧げる義務があります。私たちはそれに応じて相応しく聖母に対して行動する義務があります。私たちは聖母を元后そして御母として尊敬する義務があります。

ここで私たちは一つの義務を持っています。

その義務はここでは聖母が尊敬されるべきように聖母を尊敬しない人々に対する大きな罰の脅威によって特徴づけられています。

聖母を冒涜する人々のため、神の御母としての聖母の地位を無視する人々のため、聖母の像や画像を冒涜する人々のために、このことのすべてに対して重大な諸結果があります。われらの主は多くの者がすでに地獄に堕ちたとさえ言っておられます。聖母は多くの者が彼らがしたことのために - 彼らが犯した諸々の冒涜のために - すでに地獄に堕ちた、と言っておられます。これらは厳粛な言葉です。

直ちに私たちはそこにはファチマについての何かあるものがある、人類に実行の義務があるポンテヴェドラとトゥイでの御出現があるということを見ます。それらは何でしょうか?実行の義務あるものは何でしょうか?

確かにポンテヴェドラで私たちは聖母に対する尊敬が全人類に実行の義務あるものであるということを見出します。そして聖母はこれらの霊魂が地獄から救われることができるためには、冒涜した人々のために償いがなされなければならないと言っておられます。

1926年7月16日にシスター・ルチアがドロテア会修道女の修道服を受けるためにここトゥイで修練女見習い期間のためにポンテヴェドラを去ったとき、彼女は初金曜日に償いのこれらの信心を実践し、そしてまた他の人々にこれらの信心について話すようにという聖母によって彼女に与えられた彼女の使命を忘れませんでした。

1929年以前の数年間彼女はここトゥイにあったイエズス会の家にこれらの信心について話すことができました。彼らはそれらの信心を実践し始めました。また修道院に集まった家族の小さなグループにも話し、彼らはこれらの信心を実践し始めました。しかし彼女は再び義務のこの局面を常に知っていました。シスター・ルチアは自分がこれらの信心を広める義務を持っていることを常に知っていました。彼女はマリアの汚れなき御心に対する信心を広める義務を持っていました。

単にマリアの汚れなき御心に対する信心ばかりでなく、またシスター・ルチアは聖マルガリタ・マリアによって主張された信心、すなわち聖心に対する信心の忠実な実践者でした。



実際、1929年6月13日、それが毎週の彼女の慣行であったように、木曜日の夕刻から金曜日の夜、11時から12時までのトゥイでの幻視の夜のことでした。彼女は聖マルガリタ・マリアによって主張された聖心に対する信心を行っていたのでした。

私たちはシスター・ルチアがまさにこの町であの夜に彼女に起こったことについて一つの説明を与えているのをここに見ます。その説明は何でしょうか?

以下は彼女が言っていることです。そして私たちは皆おののきます:

「夜独りで(聖時間のために)聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。唯一の光は聖櫃からの光でした。 突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。」

(シスター・ルチアはそれが汚れなき御心をその手にされたファチマの聖母であったと言っています - そしてここでそれは「剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎の冠のついた御心でした」と証言しています。このことは後に非常に重要なものとなるでしょう。)

それゆえ、十字架の右側下方に聖母がおられます。皆さんは聖三位一体、御父、十字架上の御子そして御父の胸のところに聖霊、の荘厳な描写を見ます。

皆さんは十字架の右側下方に聖母を見ます。そして聖母の近くにはカリスとホスチアがあります。そしてわれらの主から、十字架につけられたキリストから血の滴がホスチアの上を流れくだり、それからカリスの中へ落ちています。これがこれまでのイメージです。

これがこれまでの幻視、聖堂全体を照らしたこの光輝く幻視です。次に彼女はこう言いました:

「(十字架の)左側下方には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」

それゆえそれは十字架の左側から来ていました。そこには、完全に透明な洗礼の水のようにあたかもそれが水晶のきれいな水であるかのように、これらの水晶のようにきれいな『恩寵と憐れみ』という文字が流れ降っていました。



これがトゥイの幻視です。そこには現前するこの謙遜があります。シスター・ルチアはこう言っています:「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ、そして私が明かすことを許されていないこの神秘についての光を受けたということを理解しました。」

それゆえそれが御出現でした。私はメッセージを論じる前にここでただ一つの点を明らかにしたいと思います。

信仰、カトリック信仰の本質的な事柄についての何という完全な描写であることでしょう。

聖三位一体からミサの聖なる犠牲に対する贖罪的な行為に至るまでの何という完全な描写であることでしょう。神が人間に信じることをお求めになったすべての事柄、神が人間になすことをお求めになったすべての事柄がその御出現のうちに現前しています。

次にシスター・ルチアは世界中を走り抜け、世界中に一つの地震を創り出すであろうメッセージを話します。シスター・ルチアはこう言います:「それから、聖母が私にこうおっしゃいました」:

「神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。」

第二の要求はこれです。それは異なっているように見えます。それはあたかも異質のものであるかのように見えます。しかし第二の要求は完全に第一の要求の一部です。それら二つの要求は相伴うものです。

第二の要求は何でしょうか?聖母はこう言っておられます:

「私に対して犯される罪のために神の正義が断罪する霊魂たちがあまりにも多いので、私は償いを求めるために来ました。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。」

それゆえ私たちは二つの要点を持っています。私たちは二つの要求を持っています。

それら二つの要求はどのように相伴うのでしょうか?ロシアの奉献となされなければならないこれらの償いの行為とはどのように相伴うのでしょうか?

そうですね、シスター・ルチアは1930年に彼女の聴罪司祭に書いた手紙の中で私たちに告げています。彼女はこう言っています。

「よき主は、もし教皇様御自身が、世界のすべての司教様方に同じことをするようにお命じになると共に、イエズスの聖心とマリアの御心に対する償いの荘厳な行為とロシアの奉献をなさるならば、ロシアの迫害を終わらせると約束なさっています。教皇様はそのときこの迫害が終結すればすでに述べた償いの信心の実践を承認し推奨するということを約束なさらなければなりません。」

それゆえ、ロシアが奉献された後、迫害が終わった後、次に教皇は償いのこの信心、つまり、五回の初土曜日、マリアの汚れなき御心に対する信心、そして罪の償いの行為としての初土曜日の信心を推奨しなければなりません。

聖母はここで断定的にこう言っておられます:「最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。」

これがメッセージです。これがイメージです。これがトゥイのイコンです。

1929年6月13日トゥイでの「聖母の汚れなき御心と聖三位一体御出現」とロシアの奉献

2017年06月12日 | ファチマ
1929年6月13日、トゥイでの「聖母の汚れなき御心と聖三位一体御出現」とロシアの奉献

以下は、「マリアの汚れなき御心と霊魂の救い」からの引用です。


ロシアの誤謬と共産主義の悪

1917年の、特に7月13日の聖母の預言は世界史に深く関わっています。聖母はロシアの誤謬ということをはっきりと述べられました。聖母マリアが1917年7月13日の預言でロシアについて述べられたことは、世界平和がロシアの奉献とそれに伴うロシアの回心にかかっているということでした。ロシアの回心がなければ、世界には第一次世界大戦よりもはるかに恐ろしい戦争が起こるという預言は実現しました。戦争だけではなく、教会の迫害、教皇の苦しみ、民族の絶滅が預言されました。

第一次世界大戦がまだ終わっていない1917年、聖母の御出現が始まる3ヶ月ほど前の2月にロシアのペトログラードで反乱が起こり、皇帝ニコラス2世は3月15日退位を迫られました。

4月レーニンが密かにスイスからドイツ政府の保護の下に鉛で封印された列車に隠れてロシアに戻りました。ニューヨークのユダヤ人銀行家たちの財政援助を受けたボルシェヴィキは合計すれば32万部にもなる17の日刊紙を発行してプロパガンダを強めていました。

7月にフリーメーソンで民主主義者のケレンスキーが政権を握りますが、9月に起こった軍のコルニロフ将軍の反乱に対して、政権を渡すことを拒否してボルシェヴィキに援助を要請したことが彼の命取りになりました。ボルシェヴィキがコルニロフの軍隊に対するレジスタンスの指導権を握り、軍隊の大多数がコルニロフに従わないのを見て、コルニロフ将軍はボルシェヴィキの側につきます。

ケレンスキーは9月14日共和国樹立を宣言しますが、時すでに遅しで、セント・ベテルスブルグそしてモスクワのソヴィエトがボルシェヴィキにはせ参じます。

10月25日ボルシェヴィキは冬宮を攻撃して占領し革命は勝利しました。

この後に起こったことはまさに聖母の預言だった教会の迫害でした。1918年1月20日、教会と国家の分離、教会財産の没収、その法的諸権利の抑圧を布告する法令が出されました。ボルシェヴィキの戦闘的無神論はまず第一の敵であるキリスト教の撲滅に乗り出したわけです。

ボルシェヴィキの憎しみはしかし宗教の枠を越えて、ボルシェヴィキでないすべての者に向けられました。教会に忠実な信徒であったロマノフ王朝の最後の人々は1918年7月16日から17日にかけて、エカテリンブルグで側近の人々と共に暗殺されました。襲ったのはドイツの囚人たちだと言われていますが、実際はモスクワから送られたユダヤ人の暗殺者たちでした。

ボルシェヴィキが取ったやり方は、ソルジェニーツィンの言い方を借りれば、「ジャコバン・テロリズム」でした。フランス革命でもそうでしたが、自由、平等、友愛をスローガンにしながら、実行したのは組織的、制度的な恐怖による自由と平等の抑圧、いな圧殺でした。

1917年10月、農民たちは富裕な土地所有者から没収した土地を与えられましたが、その土地の収穫を全部供出させられたので、至る所で反乱を試みました。8月9日にレーニンは「容赦ない大衆恐怖の効果をあげる」ことに決め、この時に強制収容所を作っています。この強制収容所では秘密警察がまだ射殺していなかった政権の敵たち、すなわち、ボルシェヴィズムに反対する、あるいは反対しそうなインテリ、農民、軍人などあらゆる人たちが容赦なく消されました。

1919年11月にモスクワの総主教ティホン師はヨーロッパに向けて悲痛な訴えを出しました。「司教、司祭、修道者、修道女たちが『反革命』という曖昧な口実のもとに<ひとまとめにして>銃殺されています。残酷さに磨きをかけて彼らには秘蹟という至高の慰めが拒絶され、一方彼らの親族は彼らの遺体をキリスト教の儀式に従って埋葬することができないのです。」

1922年にメルシエ枢機卿が最初の数字を公にしました。「迫害の犠牲者の統計は恐るべきものである。1917年11月以来、兵卒26万人、将校5万4千人、土地所有者1万8千人、労働者19万2千人、農民81万5千人、司教28人、司祭1,215人が死刑にされた。....司教,司祭たちの数には、聖なる器物の没収を命じる法令に協力することを拒否したことでこの数ヶ月間に判決を受け、処刑されたまだ知られていない数の正教およびカトリックの両方の司祭たちの数をつけ加えなければならない。」

実際、1922年2月26日の法令は、聖別されたものを含む教会のすべての財産を没収しました。信徒たちはそれに反対することを試みました。次のように言われています。「3ヶ月の間に、信徒たちと軍隊の間に1,414件の流血事件が報告された。」

レーニンは政治局員全員を教育するためにこのことを利用しました。彼はこう言います。

「今は数年の間彼らがどんな種類の抵抗も考えないために教訓を与える、まさに最もよい機会だ。....われわれは反動的なブルジョワと反動的な聖職者たちの代表を出来る限り多く逮捕しなければならない。....1922年には全部で8,100人の司祭、修道者、修道女が銃殺された。」

革命はいたるところに荒廃をもたらしました。飢饉がロシアに襲いかかりました。無数の農民が革命以来殺され、移住させられて減った上に、1918,1919,1920年の3年間全収穫物を強制的に供出させられて、農民たちは赤軍と共産党員のためにだけ種を蒔き、働くことに意気阻喪しました。労働者もサボタージュを繰り返し、工場や輸送機関は散発的にしか機能しなくなりました。1921年には事態は恐るべきものとなりました。食糧、衣料、燃料がなく、病院には医薬品がなくなり医師、看護婦がいなくなりました。セント・ペテルスブルグでは多くの人々によって木造家屋が燃やされたりしました。

レーニンと共にロシアに戻ったジノヴィエフは、1918年9月にこう述べたと言われています。

「われわれは勝つであろう。ロシア人のうち、9千万人はソビエトの権力下に置かれる。残りの人間?われわれは彼らを絶滅するつもりである。」

ツァー(ロシア皇帝)の帝国は1億8千万人を擁していました。戦争と革命が人口を約1億3千万人に減らしました。それでも、ジノヴィエフの計算によればまだ4千万人多いということになります。1918年ペトログラードのソビエト公式機関には次の言葉が掲げられていました。「われわれはわれわれの心を残酷に、過酷に、容赦のないものにするであろう。われわれはこの血の海のダムを開くであろう。同情や憐れみを持つことなく、われわれはわれわれの敵を無数に殺すであろう。われわれは彼らを彼ら自身の血の中に沈めるであろう。」しかし、機関銃を用いるよりももっとすばやく、もっと静かに、手続きも要せずに、飢饉が彼らの意図を実行しました。

1924年レーニンが死んだ後、ライバルたちを倒したスターリンは1929年に決定的な権力を確立します。1925年には「戦闘的無神論者連盟」が作られ、その機関誌「ベズボジニク」は講演会を開催し、涜神的なデモをやったりしました。この連盟は特に青少年の間に無神論を広め、またより効果的に宗教に対する闘争をするために映画を見せ、博物館を作りました。

1929年4月9日の法律は迫害をさらに強める口実を与えました。これによって歴史的建造物を含む多くの教会が取り壊されました。8月27日には「連続した週」の制度が導入されましたが、これは日曜日(主日)を停止するためでした。秘密警察(KGB)は数年の間にウクライナのカトリック聖職者を全滅させました。1929年11月スターリンはコルホーズ(集団農場)制度を実施し、富農(クーラーク)の追放(dekulakization)を実行しました。富農たちは家族もろとも暖房のない貨車で数千マイルを僻遠の地であるウラル、シベリア、カザフスタンなどに送られ、多くの者が途中で死ぬか、あるいは到着すると死にました。これら追放された人々は人気のない場所すなわち森林地帯、山岳地帯、草原地帯に置き去りにされました。富農追放による農村の荒廃は1932-33年に飢饉を招き、それはその範囲とその犠牲者の数において1921-22年の飢饉よりもひどいものでした。

国家は飢饉を農民に対する市民戦争の武器として利用し、飢饉の度を強めることに貢献しさえしていました。農民たちが飢餓で死んでいるときに、政府は小麦の輸出をし続けていたのですから。

犠牲者の数を正確に知ることはできません。確実に言えることは秘密警察がスターリンに350万人のクーラークの抑圧について報告したということです。スターリン自身がチャーチルに「集団農場化の期間に1千万のクーラークに対して正義が行われた。彼らの大部分は絶滅させられ、他の者はシベリアに送られた」と得意げに語りました。

まじめな人口統計学者たちは1929-1933年の飢饉の犠牲者の数を少なくとも1千500万人と見積もっています。すぐに絶滅させられずに生き残った人々が送られたのはグーラーグ(収容所)でした。彼らは1928年の工業化5カ年計画のための無限に供給可能な原料として奴隷労働に従事させられました。以後ソビエト連邦共和国は「収容所群島」と化しました。

私たちはマルクスやレーニンの著作を研究するよりも、ボルシェヴィキ・ロシアの歴史の中に共産主義の真実の姿を見なければなりません。「木はその実によって知られる」からです。

ボルシェヴィキ革命は常にどこででも非人間性の深みに落ち込みました。そして誤謬と悪魔的な支配を拡大し、虚偽、暴力、殺人を制度的、法的に拡大しながら、真実と正義と平和の名を騙りました。

私たちはソビエト連邦の崩壊を目の当たりにしてもまだ共産主義の真の姿に幻想を抱いているところがあるかも知れません。ソビエト連邦の崩壊を単なる経済システムの破綻として理解するのは間違いです。自由経済に移行すれば、「ロシアの誤謬」が終わりを告げたと考えるのは誤解です。

共産主義は単なる経済のシステムではありません。

聖母マリアが預言された戦争、飢饉、教会の迫害は「ロシアの誤謬」の具体的な現れとして、第二次世界大戦が始まるずっと以前、1917年以来ロシアの地で実現されていたのです。しかも、この共産主義の悪はロシアの地にとどまらずに、その後全世界へと拡大されて行ったことは歴史が証明しています。



ロシアの奉献-1929年6月13日(火)トゥイの啓示-

1929年6月13日に彼女はトゥイの修道院で幻視を経験していました。それは汚れなき御心の聖母マリアを伴った聖三位一体御出現とロシアの奉献に関するイエズスの啓示でした。

1936年5月に彼女の霊的指導司祭であったゴンサルヴェス師がシスター・ルシアに自伝を書くように求めて、書かれた[オリジナルのものはルシアによって破棄されましたが、1941年4月にゴンサルヴェス師がルシアに会って再現しました]記録から、そのときの様子を知ることができます。

「ゴンサルヴェス神父様はときどき私たちの聖堂に告解を聞きにお見えになりました。私は神父様に告解をしていました。神父様に対しては落ち着きを感じることができましたので、ここに上長として3年間いらっしゃった間ずっと神父様に告解をしていました。

「この度、私たちの主はロシアの奉献のお望みとロシアを回心させる御約束とを聖なる教会に知らせるように私にお望みになる時が来たことを私にお知らせになりました。....そのお知らせは次のようにして起こりました。」

「(1929年6月13日)私は木曜日から金曜日にかけて午後11時から真夜中までの聖時間をしたいと私の上長と聴罪司祭に求めて許しを得ました。」
「夜独りで聖堂の真ん中の聖体拝領台の前で跪き、天使の祈りをひれ伏して唱えました。疲れを感じて、立ち上がり、跪きました。そして腕を十字架の形に伸ばして祈りを続けました。唯一の光は聖櫃からの光でした。」
「突然ある超自然的な光が聖堂全体を照らしました。そして祭壇の上に天井まで届く一つの光の十字架が現れました。」
「十字架の上の部分、いっそう明るい部分に一人の人のお顔と胸から上のお身体を見ることができました。」
「その方の胸の上には同じように光り輝く一羽の鳩がいました。」
「そして十字架に釘づけにされて、他のお方の身体がありました。」
「その少し下に、空中にカリスと大きなホスチアがかかっており、それらの上には十字架に付けられたお方の顔とそのお胸の傷から数滴の血が滴り落ちていました。これらの血の滴はホスチアの上を流れくだり、カリスの中へ落ちていました。」
「十字架の右側下方に、汚れなき御心をその手にされた聖母がいらっしゃいました。....[それは汚れなき御心を....その手にされたファチマの聖母でした。....その御心は剣の突き刺さった、あるいはバラに取り囲まれた御心ではなく、茨に取り囲まれ炎の冠のついた御心でした。....]」
「(十字架の)左側には何か大きな文字があり、あたかも祭壇の上に流れ落ちる水晶のきれいな水のようでしたが、『恩寵と憐れみ』という言葉を形作っていました。」
「私はそれが、私に示された至聖三位一体の神秘であるということ、そして私が明かすことを許されていないこの神秘についての光を受けたということを理解しました。」
「それから、聖母が私にこうおっしゃいました。『神が教皇に、この手段によって救うことを約束なさりながら、世界の全司教と一致して、私の汚れなき御心へのロシアの奉献をするようにお求めになる時が来ました。』」
「『私に対して犯される罪のために神の正義が断罪する霊魂たちがあまりにも多いので、私は償いを求めるために来ます。この意向のためにあなた自身を犠牲にし、祈りなさい。』

「私はこのことについて私の聴罪司祭に説明しました。彼は私たちの主が為すように望んでおられることを書くように私に命じました。」

「しばらく後に、私たちの主は、内的語らいという手段によって、不満を表明されながら、次のように私におっしゃいました。『彼らは私の要求を顧みることを望まなかった!....フランスの王のように彼らは後悔し、私の要求を顧みるであろう。しかしもう遅いであろう。ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、すでにその誤謬を世界中に広めてしまっているであろう。教皇は多く苦しまなければならないであろう。』」

シスター・ルシアは1930年に同じくゴンサルヴェス師に書いた手紙の中で、少し言い回しを変えて天の要求を次のように述べています。

「よき主は、もし教皇様が御自身、同じことをするようにカトリック世界のすべての司教様に同様に命じて、イエズスとマリアの聖なる御心に対して償いとロシアの奉献の荘厳な行為をなさるならば、ロシアにおける迫害を終わらせることを約束なさっています。教皇様はそのとき、この迫害が終わるときには、すでに述べました償いの信心の実行を認め、勧めると約束なさらなければなりません。」

1917年7月13日にルシアたちが見せられた地獄は哀れな罪人たちの霊魂がが行く地獄でしたが、1929年6月13日に聖母がルシアにおっしゃりたかったことはこうではないでしょうか?

「あなたは真の共産主義グーラーグの生ける地獄に見捨てられた哀れな人々を圧倒する飢饉、戦争、迫害を見ました。」

彼らを救うために聖母は執拗にこう言われたのでしょう。「神は世界の中に私の汚れなき御心に対する信心を打ち立てることを望んでおられます。」1929年はすでにスターリンがグーラーグの血に染まった恐怖を最高度にまき散らしていた時期ですが、そのときに、神はルシアに教会がロシアを聖母マリアの汚れなき御心に奉献すれば、ロシアの回心を約束することを、教会に知らせるように望まれたのでした。

神の御約束は「ロシアの迫害を終わらせること」であり、「ロシアを救うこと」でした。残虐な殺戮、冷酷に計画された飢饉、諸々の迫害、秘密警察の襲撃、愚かで非人間的な集団化、これらすべてのことは神の御母、すなわちロシアの人々がそのイコンを密かに崇敬し続けたテオトコス(神の御母)、の強力な仲介によって終わらせられるべきものでした。

ソルジェニーツィンはその著『西欧の誤り』(1980年)の中で、ソビエトのイデオロギー的、軍事的膨張主義についてこう言っています。

「共産主義は、公然たる戦争によってであれ、政府転覆的ないしテロリスト的な活動によってであれ、あるいは社会構造の安定をなくさせることによってであれ、世界征服の野望を自ら断念することはできない。....共産主義それ自身からは何一つ希望され得ない。共産主義の教義とは何一つ妥協は不可能である。われわれは、全世界における共産主義の全体的な勝利か、それとも至る所でのその完全な消滅かのいずれかを予見することができる。ロシアにとって、中国にとって、そして全世界にとって唯一の救いは共産主義を拒否することのうちに存する。さもなければ、世界は破滅させられ、絶滅させられる危険を冒すのである。」

これはまさに、1917年7月13日ファチマにおける聖母の預言を思い起こさせる発言です。

「もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。」

ロシアにとって、そして全世界にとっての唯一可能な救いはロシアの回心です。そしてこのロシアの回心の方法は、1929年6月13日トゥイにおいて、神の恩寵と憐れみのうちにシスター・ルシアに示されたのです。つまり、世界の全司教たちと一致した、教皇による聖母マリアの汚れなき御心へのロシアの奉献を神はお望みになりました。ロシアの奉献による神の平和の実現はこのようにして教皇様の決断にかかることになりました。

中絶された赤ちゃんの死体部分を売買するというビジネスがある事実

2017年06月10日 | プロライフ
中絶された赤ちゃんの死体部分を売買するというビジネスがある事実を知っていますか?

ノボトニー ⋆ ジェローム 神父様による
とんでもない恐怖:中絶された赤ちゃんの器官を売ることの記事を以下に掲載します。


毎年、家族計画連盟は中絶を資金的に援助するために米国民の税金5億ドル以上を受け取っています。その上、 中絶された赤ちゃんの死体部分を売ることによってさらに多くの利益を上げていることを最近公表しました。そうなのです !家族計画連盟はまだ生まれていない赤ちゃんの生命を終わらせるだけでなく、 中絶された赤ちゃんの死体部分を売ることで更なる利益を得ているのです。

Live Action)は次の情報を公表しています。家族計画連盟の医療責任者、 Deborah Nucatola 博士は、違法なパーシャルバース・アボーション(妊娠後期中絶)の方法で、 まだ生まれていない子どもを巧みに処理し、赤ちゃんの体の不要とされた他の部分を押しつぶし、 売れる価値のある部分を完全に取り出す方法について、自らテープで語っています。 これは吐き気を起こさせる残忍なもので、家族計画連盟のとんでもない恐怖の正体を暴いています。 このビデオをCenter for Medical Progressのリンクで見ることができ、記事はここで読むことができます。





このショッキングなビデオを見た後では、家族計画連盟を擁護する人がいるということを理解することは困難です。 73年前に類似した犯罪を犯したナチスと私たちは、どう違うというのでしょうか?アメリカ合衆国は、 すべての人々の権利を保護することを誇ります。どんな根拠で、その同じアメリカ国民は、 この殺戮産業に資金を提供して積極的に支持するような政府を自由のうちに選ぶのでしょうか?  考えようとすると頭が全く混乱に陥ります!

一方、米国は中国、北朝鮮、ロシアなどの国に対し、人権違反行為を非難しています。アメリカ合衆国は、 真剣に自らを振り返るべき時に来ているのではありませんか。多くのアメリカ人は中絶を“人権”ととらえています。 女性は生きている子どもを中絶する“憲法上の権利”を持つと最高裁判所は判決しています。

もはや驚きませんが、オバマ政権はこのスキャンダルについて「倫理的なことだ」とさえ答えています。 Lifenews.comは書いています:「バラク・オバマ大統領の首席報道官ジョシュ・アーネストは、今日、 妊娠中絶ビジネスが中絶された赤ちゃんの部位をどのように売っているかについて、 家族計画連盟のトップの医者が説明している衝撃的な新しいビデオが放映された後、 家族計画連盟の妊娠中絶ビジネスを擁護しました。家族計画連盟は「最高の倫理指針」に従っていると、 アーネストは言います。しかし、妊娠後期中絶や人間の部位を売ることは、米国の全域で違法ではないのですか? すべてのアメリカ人(オバマ政権と家族計画連盟を含む)に対し、これらの法律は拘束力があるのではないですか?

ビデオに対するある関連企業の反応:家族計画連盟から中絶された赤ちゃんの死体部分を購入している会社: そうすることを「我々は誇りに思っている」

生まれる前の子どもは自分の妊娠中絶に同意していないし、ばらばらに切り刻まれ、 個人の経済的利益のため売られることに確かに、同意していません。人間としての尊厳は、まだ生まれていない赤ちゃんが 、まさしくそのいのち始まりの時から、法律の下で人間としての完全な保護を受けることを要求します。

死の文化を終わらせましょう。1973年中絶合法化以来、 5800万以上の中絶がアメリカ合衆国の大人たちによって行われてきました。信じられないことです! 5800万人の赤ちゃんの生命が終わったのです。ふさわしい埋葬も行われず、そのうちどれほどの多くが、 一般市場に死体部分として売られたでしょうか???

殺戮をやめましょう! 国として神の言葉を聞き、 いのちの文化の重要性を認め、生まれてない赤ちゃんが生きるための自然的権利を求める声となりましょう。

使徒行録18-9 恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしはお前とともにいる。

ノボトニー・ジェローム、OMI
英語原文  ー Unimaginable Horror: selling aborted baby parts


For Your Information:



Planned Parenthood video: If media found out we sell aborted babies it ‘would be a disaster’

シスター・ルチアとフエンテス神父の預言的インタビュー

2017年06月09日 | ファチマ
今から丁度50年前、1957年12月26日にメキシコの司祭、フエンテス神父(Padre Augustin Fuentes)は、コインブラのカルメル会修道院にいたシスター・ルチアを訪問した。

フエンテス神父は、フランチスコとジャシンタの列福推進者(postulator)、また同時にフリーメーソンの迫害(1924-28年)のもとのメキシコ殉教者たちの列福推進者となる準備をしていた。

フエンテス神父はメキシコに戻り、1958年5月22日に聖心とガダルーペの聖母の宣教シスター会本部(Casa Madre de las Misioneras del Sagrado Corazon)で講話し、シスター・ルチアの言葉が報告され、後にこの講話の内容が公表された。

ファチマの公式文書保管者アロンソ神父(Padre Joaquin Maria Alonso)は、このインタビューの真理を検証し「正真正銘性の全ての保証とレイリアの司教認可を含めて、当然の司教認可(サンチェス大司教)の出版許可のこと)を持っている」と強調した。

フエンテス神父は、これがシスター・ルチアの「まさにその唇から」受けた内容であると断言している。アロンソ神父の公表したスペイン語原文は Veridad sobre Fatima (pp. 103-106)に掲載され、英語訳は、ライアン神父(Father Ryan)によって Fatima Findings, June 1959 誌に発表された。

それが最初にフエンテス神父によって公表されたとき、それは世界中の信徒の多くから広範な関心を呼び起こした。しかしながら、この重大なメッセージの勇敢な公表の結果として、フエンテス神父は、シスター・ルチアが1948年以来住んでいたコインブラ司教区における何人かの匿名の当局者たちからのまったくそれに値しないそして前例のない迫害を受けた。

第1と第2の秘密の本質を語りながら、シスター・ルチアはフエンテス神父に新しいテーマを語っている。聖母マリアと悪魔との決定的な闘いというテーマ、天主に捧げられた聖職者や司祭たちに対する悪魔的な攻撃の計画、償いへの呼びかけと招きを期待し待つことなく自発的に聖なる生活を送る信徒の義務、である。

聖職者達は悪魔の攻撃を受けて、罪の償いの生活・祈りの生活の重要さを疎んじるだろう。

「ローマから教皇様から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。」

"No esperemos que venga de Roma una llamada a la penitencia, de parte del Santo Padre, para todo el mundo: ni esperemos tampoco que venga de parte de los señores Obispos para cada una de sus diócesis: ni siquiera tampoco de parte de las Congregaciones Religiosas. No: ya nuestro Señor usó muchas veces de estos medios y el mundo no le ha hecho caso. Por eso, ahora, ahora que cada uno de nosotros comience por sí mismo su reforma espiritual: que tiene que salvar no sólo su alma, sino salvar a todas las almas que Dios ha puesto en su camino."

ファチマのシスター・ルチアは、既に1957年、教会の重大な危機を予知していた。



フエンテス神父とシスター・ルチアとの預言的インタビュー


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「昨年(1957年)12月26日に私がシスター・ルチアとした最後の会話についてあなたたちに告げることだけを私は望んでいます。私は彼女の修道院で彼女に会いました。彼女は非常に悲しんでおり、非常に青ざめそしてやつれていました。彼女は私にこう言いました。」

“Quiero contaros únicamente la última conversación que tuve con ella, que fue el 26 de diciembre del año pasado: La encontré en su convento muy triste, pálida y demacrada; y me dijo:


誰一人何の注意も払いませんでした

「神父様、聖母は、よい人も悪い人もだれもそのメッセージを重大視しないので悲しんでおられます。善人は彼らの道を続けていますが、しかし聖母のメッセージには何らの注意も払っていません。悪人は、彼らの上に実際に降りかかってくる天主の罰を見ずに、メッセージについては注意を払うことさえせずに、彼らの罪の生活を続けています。しかし、神父様、私を信じてください、天主は世界を罰しようとしておられます。そしてこの懲罰は恐るべき仕方で為されるでしょう。天からの懲罰は間近に迫っています。」

‘Padre, la Santísima Virgen está muy triste, porque nadie hace caso a Su Mensaje, ni los buenos ni los malos. Los buenos, porque prosiguen su camino de bondad; pero sin hacer caso a este Mensaje. Los malos, porque no viendo el castigo de Dios actualmente sobre ellos, a causa de sus pecados, prosiguen también su camino de maldad, sin hacer caso a este Mensaje. Pero, créame, Padre, Dios va a castigar al mundo, y lo va a castigar de una manera tremenda. El castigo del cielo es inminente.’”

秘密は明らかにされなかった

「神父様、1960年が来る前にどれだけの時間があるでしょうか?もし前もって世界が祈り償いをしないならば、それはすべての人にとって悲しいことでしょう、一人も喜ぶ人はいないでしょう。私はさらに詳しいことを言うことはできません。なぜなら、それはまだ秘密だからです。聖母マリア様の御旨によれば、ただ教皇様とファチマの司教様だけが、秘密を知ることをされています。しかし彼らは、影響を受けないように、それを知らないことを選びました。これは1960年まで秘密のままにとどまるであろう聖母のメッセージの第三の部分です。」

“¿Qué falta, Padre, para 1960; y qué sucederá entonces? Será una cosa muy triste para todos; y no una cosa alegre si antes el mundo no hace oración y penitencia. No puedo detallar más, ya que es aún secreto que, por voluntad de la Santísima Virgen, solamente pudieran saberlo tanto el Santo Padre como el señor Obispo de Fátima; pero que ambos no han querido saberlo para no influenciarse. Es la tercera parte del Mensaje de Nuestra Señora, que aún permanece secreto hasta esa fecha de 1960.”

天主の鞭、ロシア

「神父様、聖母マリア様は、私のいとこであるフランシスコとジャシンタ、そして私自身に、地上の多くの国々が(muchas naciones de la tierra)地の面から消え去るだろうと告げられたということを、皆に告げてください。聖母はもし私たちが前もってロシアの回心を勝ち取らないならば、あの哀れな国(ロシア)が世界を罰するために天によって選ばれた懲罰の道具となるだろうと言われました。・・・」

“Dígales, Padre, que la Santísima Virgen, repetidas veces, tanto a mis primos Francisco y Jacinta, como a mí, nos dijo; Que muchas naciones de la tierra desaparecerán sobre la faz de la misma, que Rusia sería el instrumento del castigo del Cielo para todo el mundo, si antes no alcanzábamos la conversión de ese pobrecita Nación (...)”.

マリアとサタンとの間の「決定的な戦い」: 奉献された霊魂たちと司祭たちの堕落

シスター・ルチアはまた私にこう告げました。
「神父様、悪魔は聖母マリアに対して決定的な戦いを挑もうとしています。悪魔は天主を最も侮辱することが何か、また最も短期間にどうやったら最も多くの霊魂らを地獄に落とすことが出来るか知っています。だから悪魔は天主に捧げられた霊魂(=聖職者たちのこと)を勝ち取ろうと全てのことをしています。何故なら、こうすることによって悪魔は、指導者によって捨てられた信者らの霊魂たちが取り残され、いとも簡単に彼らを餌食にすることが出来るからです。」

Padre el demonio está librando una batalla decisiva con la Virgen; y como sabe qué es lo que más ofende a Dios y lo que, en menos tiempo, le hará ganar mayor número de almas, está tratando de ganar a las almas consagradas a Dios, ya que de esta manera también deja el campo de las almas al desamparo, y más fácilmente se apodera de ellas.


「聖母の汚れ無き御心とイエズスの聖心を悲しませることは、修道者、司祭の霊魂たちが堕落することです。悪魔は、自分の美しい召命の道から堕ちた修道者と司祭らが、多くの霊魂を地獄に引きずり下ろすことを知っています。・・・ 」

“Lo que aflige al Inmaculado Corazón de María y al (Sagrado) Corazón de Jesús es la caída de las almas religiosas y sacerdotales. El diablo sabe que los religiosos y sacerdotes que apostatan de su hermosa vocación arrastran numerosas almas al infierno.

「悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちを奪いたいと望んでいます。悪魔は、彼らを腐敗させるように試みています。それは彼らが平信徒の霊魂たちを眠り込ませる子守歌を歌い、彼らが最終的に罪を痛悔しないように導くためです。悪魔は修道生活へ入ることを遅らせる暗示を与えるところまで行きさえして、あらゆる計略を採用します。このことから結果することは内的生活の不毛であり、そして平信徒の間では、諸々の快楽の断念や天主への全面的献身ということがらに関する冷淡さ(熱意の欠如)です。」

“El diablo quiere tomar posisión de las almas consagradas. El trata de corromperlas para adormecer las almas de los laicos y llevarlas así a la impenitencia final. El emplea todas las tretas, aún yendo tan lejos como sugerir la demora en el ingreso a la vida religiosa. Resultado de esto es la esterilidad de la vida interior, y entre los laicos frialdad en materia de renunciar a los placeres y su total dedicación a Dios”.

ジャシンタとフランシスコを聖化したこと

「また皆に告げてください、神父様、私のいとこのフランシスコとヤチンタは、聖母マリア様のすべての御出現において、彼らが常に聖母が非常に悲しんでおられるのを見たがゆえに、自己犠牲を行いました。聖母は私たちに決して微笑まれませんでした。私たちが聖母のうちに認めたこの悲しみ、この苦悩は私たちの霊魂を貫きました。この悲しみは天主に対する諸々の背きと罪人たちを脅かす罰によって引き起こされています。そしてそのように、私たち子どもたちは祈り、犠牲をするさまざまの方法を発明する以外に何を考えるべきか、知りませんでした。これらの子どもたちを聖化したもう一つの事柄は地獄の幻視を見ることでした。」

Dígales también, Padre, que mis primos Francisco y Jacinta se sacrificaron porque vieron siempre a la Santísima Virgen muy triste en todas sus apariciones. Nunca se sonrió con nosotros, y esa tristeza y angustia que notábamos en la Santísima Virgen, a causa de las ofensas a Dios y de los castigos que amenazaban a los pecadores, nos llegaban al alma. Lo segundo que santificó a los niños fue la visión del infierno.


ルシアの使命

「私の使命は、この世界が祈らず、償いを果たさなかったら必ず受けるであろう物質的な天罰について、この世界に指し示すことではありません。いいえ、違います。私の使命は全ての人々に、もし私たちがこのまま罪に頑なにとどまるなら、永遠に私たちの霊魂を失ってしまうというその身に迫る危険を指し示すことにあります。」

Por esto mismo Padre, no es mi misión indicarle al mundo los castigos materiales que ciertamente vendrán sobre al tierra si el mundo antes no hace oración y penitencia. No, mi misión es indicarle a todos lo inminente del peligro en que estamos de perder para siempre nuestra alma si seguimos aferrados al pecado.

回心の緊急性

シスター・ルチアは私にこうも言った。
「神父様、ローマから、教皇様の方から全世界のために改悛への呼びかけがくると期待しないようにしましょう。その呼びかけが司教区の司教様がたから、あるいは修道会からくると期待しないようにしましょう。今は私たち一人一人が自分で自分の霊的改革を始めなければなりません。一人一人は自分の霊魂を救わなければならないばかりか、その道に天主様が置かれ給うたすべての霊魂をも救わなければなりません。・・・」

Padre, no esperemos que venga de Roma una llamada a la penitencia, de parte del Santo Padre, para todo el mundo: ni esperemos tampoco que venga de parte de los señores Obispos para cada una de sus diócesis: ni siquiera tampoco de parte de las Congregaciones Religiosas. No: ya nuestro Señor usó muchas veces de estos medios y el mundo no le ha hecho caso. Por eso, ahora, ahora que cada uno de nosotros comience por sí mismo su reforma espiritual: que tiene que salvar no sólo su alma, sino salvar a todas las almas que Dios ha puesto en su camino.

「悪魔は私たちの気を散らせ、私たちから祈りに対する愛を取り去るために力の及ぶ限りあらゆることをします。私たちは一緒に救われるか、それとも一緒に地獄に落とされるか、でしょう。」


この世の最後の時

「神父様、聖母マリア様は、私たちが世の終わりの時にいると私に告げられませんでした。聖母はこのことを三つの理由で私に理解させてくださいました。」

Padre, la Santísima Virgen no me dijo que nos encontramos en los últimos tiempos del mundo, pero me lo dio a demostrar por tres motivos:


最終的な戦い

「第一の理由は、聖母が、悪魔は聖母マリアに対する一つの決定的な戦いに従事しようとしていると私に告げられたからです。そして決定的な戦いとは、そこで一方の側が勝利し、他方の側が敗北を喫する最終的な戦いです。また今からは、私たちはどちらかの側を選ばなければなりません。私たちは、天主の側に付くか、それとも悪魔の側に付くか、そのどちらかです。他のいかなる可能性もありません。」

– el primero porque me dijo que el demonio está librando una batalla decisiva con la Virgen, y una batalla decisiva es una batalla final, en donde se va a saber de qué partido es la victoria, de qué partido es la derrota. Así que ahora o somos de Dios o somos del demonio.

最後の救済策

「第二の理由は、聖母がいとこたち並びに私自身に、天主は世界に二つの最後の救済策をお与えになっていると言われたからです。これらの救済策とは、聖なるロザリオとマリアの汚れなき御心に対する信心です。これらは他の救済策はないだろうということを意味する最後の二つの救済策です。」

– Lo segundo porque me dijo que dos eran los últimos remedios que Dios daba al mundo: el santo Rosario y la devoción al Inmaculado Corazón de María.


聖霊に反する罪

「第三の理由は、天主の摂理の御計画において、天主は、世界を懲罰しようとなさる前に、常に他のすべての救済策を使い尽くされるからです。ところで、天主が世界は何であれいかなる注意も払わないということを御覧になるとき、そのとき、私たちが不完全な話し方で言うように、天主は『ある虞』と共に私たちに救いの最後の手段、すなわち、御自分のいとも聖なる御母、を提供なさいます。それは『ある虞』と共にです。なぜなら、もしあなたがこの最後の手段を軽蔑し退けるならば、私たちはもはや天から許しを得ることはないでしょうから。なぜなら、私たちは福音書が聖霊に反する罪と呼ぶ一つの罪を犯したことになるでしょうから。この罪は完全な知識と同意をもって、天主が提供なさる救いを公然と拒絶することに存します。イエズス・キリストが非常に善なる御子であり、イエズスのいとも聖なる御母に背き御母を軽蔑することをお許しにならないということを思い起こしましょう。私たちは教会史の多くの世紀を通じて、われらの主イエズス・キリストが御自分の御母の栄誉をどのように常に守られたかを、御母の栄誉を攻撃した人々に下されてきた恐るべき罰によって証明された明白な証言を記録してきました。」

– Y tercero, porque siempre en los planos de la Divina Providencia, cuando Dios va a castigar al mundo, agota antes todos los demás medios, y cuando ha visto que el mundo no le ha hecho caso a ninguno de ellos, entonces, como si dijéramos a nuestro modo imperfecto de hablar, nos presenta con cierto temor el último medio de salvación, su Santísima Madre. Porque si despreciamos y rechazamos este último medio, ya no tendremos perdón del cielo, porque hemos cometido un pecado que, en el Evangelio suele llamarse pecado contra el Espíritu Santo: que consiste en rechazar abiertamente, con todo conocimiento y voluntad, la salvación que se presenta en las manos; y también porque nuestro Señor es muy buen hijo; y no permite que ofendamos y despreciemos a su Santísima Madre, teniendo como testimonio patente la historia de varios siglos de la Iglesia que con ejemplos terribles nos indica como Nuestro Señor siempre ha salido en defensa del honor de su Santísima Madre.”

祈りと犠牲、そして聖なるロザリオ

「神父様、この世を救う手段は2つあります。祈りと犠牲です。
聖なるロザリオに関してシスター・ルチアはこう言いました。
「神父様、ご覧ください。私達の生きるこの最後のときに当たって聖母はロザリオを唱えることに新しい効果を与えてくださいました。たとえそれがどんなに難しくとも、この世的なあるいは、特に霊的な問題、私たち一人一人の個人的な生活上の問題、家族の問題、この世のすべての家族の問題、修道会の問題、民族の問題、国家の問題などなど私たちがこの聖なるロザリオの祈りによって解決できない問題などありません。もう一度言います。それがどれほど困難であろうとも、私たちが聖なるロザリオの祈りによって解決し得ない問題はありません。ロザリオを唱えることによって私たちは自分を救い、聖化し、我らの主を慰め、多くの霊魂の救いを勝ち取るのです。ですから私たちのいとも聖なる母、マリア様の汚れ無き聖心への信心をもたなければなりません。そして聖母を仁慈・善良さ・赦しの座であると考え、天国への確かな門であると考えなければなりません。」

“Mire, Padre, la Santísima Virgen, estos últimos tiempos en que estamos viviendo, ha dado una nueva eficacia al rezo del Santo Rosario. De tal manero que ahora no hay problema, por más difícil que sea, sea temporal o sobre todo espiritual, que se refiera a la vida personal de cada uno de nosotros; o a la vida de nuestras familias sean familias del mundo o Comunidades Religiosas; o la vida de los pueblos y naciones; no hay problema, repito, por más difícil que sea, que no podamos resolver ahora con el rezo del Santo Rosario. Con el Santo Rosario nos salvaremos, nos santificaremos, consolaremos a Nuestro Señor y obtendremos la salvación de muchas almas. (Y finalmente consideremos), la devoción al Corazón Inmaculado de María, Santísima Madre, poniéndonosla como sede de la clemencia, de la bondad y el perdón; y como puerta segura para entrar al cielo.”

シスター・ルシアの手記の日本語訳  Ⅰ. ジャシンタの性格(続き)6~8

2017年06月08日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008




第一の手記

I. ジャシンタの性格



6 小さい羊飼いのジャシンタ

私は羊のお世話する年になりました。うちの母は子供たちが私と同じ年頃になると、みんなに羊の番をさせました。姉カロリナ[注9] は、もう13歳になったので、外へ働きに行く年齢でした。 それで母は、私に群れの世話をする責任を負わせました。私はこの知らせを私の二人の友だちに告げ、もう一緒に遊ぶことができないと言いました。しかし二人は私から離れることができず、自分達も私と一緒に羊の所へ行かせてほしいとすぐに願いに行きましたが、彼らの母親は許しませんでした。
私たちは仕方がなく、別れねばなりませんでした。その時から、彼らは毎晩、私が家に帰る時迎えに行きました。私たちは、ちょっとの間一緒に走ってから、聖母と天使たちのランプが大空に現れるまで待って、その明かりが私たちを照らすように窓の上に置きましょうと言い合いました。月の出ない夜は、マリア様のランプのために油がないんだと言い合いました。

[注9] カロリナは1994年に死去した。

ジャシンタとフランシスコは、私が一緒にいないのに慣れることが出来ませんでした。そこで何度も私の手伝いをすることを許してくれるように母にねだりました。ふたりはまだ小さかったのに、私の叔母(彼らの母親)は、二人の子供があまりにもうるさく願ったので、彼らがあまりにも幼かったにもかかわらず、自分たちの羊の群れの世話をとうとう許しました。ふたりは晴れやかな顔をして、良いニュースを知らせに走って来て、毎日どこで羊を一緒に牧することができるかを相談しました。
それがどこであろうと彼らの母親が決めたところで、私たちはそれぞれ自分の群れの囲いを開き、バレイロに最初に着いた子が誰でも別の群れが来るのを待つことになっていました。バレイロというのは、丘の麓にあった沼の名前です。私たちがこの沼で会うと、その日、どこで一緒に羊を牧するかを決めました。そこで私たちはそこに出かけるのですが、あたかもお祭りに行くかのように嬉しく喜んで行きました。

では司教様、これからジャシンタの羊飼いとしての新しい生活を書きます。私たちは羊たちと私たちのお昼のお弁当を分けて羊の友達になりました。
これが意味することは、私たちは牧場に着くと、好きなように遊ぶことができたということです。何故なら、羊たちが私たちから離れて迷子にならないことが確かだったからです。
ジャシンタは自分の声のこだまを谷間で聞くのが好きでした。そのため、私たちの最も好きな遊びは、岡のいただきに登り、私たちが見つけることが出来る大きな岩の上に座って、色々な名前を声高く叫ぶことでした。一番良く反響した名前は「マリア」でした。
時々ジャシンタは天使祝詞をこんなふうに全部唱えていました。まず初めの言葉を言って、その反響を聞いてそれが響きやむと次の言葉を叫んで、天使祝詞を全部唱えました。私たちは歌うことも好きでした。
私たちは、なんと言うことでしょうか!、たくさんの世俗の歌を知っていました。そのなかで、ジャシンタのお気に入りだった歌は、‘Salve Nobre Padroeira’ (めでたし、高貴な保護の聖女よ), ‘Virgem Pura’, (清き童貞女), ‘Anjos, Cantai Comigo’, (天使たちよ、私と一緒に歌え)などでした。
また私たちはダンスをすることも好きでした。他の羊飼いたちが演奏するどんな楽器の音を聞いてでもすぐに踊りました。ジャシンタはあんなに小さかったのにダンスをする特別な才能を持っていました。
昼食を食べてから、ロザリオを唱えるように命令されていましたが、私たちの遊びのために時間が足りませんから、すぐにロザリオを唱えてしまう方法を考えました。それは「めでたし聖寵」とだけ言って、ロザリオの珠をくるのです。一連が終わったら、ちょっと黙って、「天にまします」と言うと、瞬く間に終わります。
ジャシンタはまた幼い白い子羊を抱くのが好きでした。座ってその膝の上に置き、また膝の上に乗せ、ほおずりをしてかわいがりました。夜になると子羊を肩に乗せて家まで連れて行きました。それは子羊が疲れないようにするためです。ある日彼女は家に帰るとき羊の群れの中に入って歩きました。
「ジャシンタ、羊たちの中で何をしているの?」と聞くと、
「頂いた御影のイエズス様のようにしたいの。イエズス様はこのように羊の真ん中にいて、一匹をその胸に抱いていたのよ」と答えました。


7. 最初の御出現

これで司教様、かの1917年5月13日までジャシンタが最初の7年をどう過ごしたかを多かれ少なかれお知りになったことでしょう。かの日、もしも御摂理において偶然などと言うことがありうるのなら、偶然に、私たちは、コヴァ・ダ・イリヤ私の両親の土地で羊の群れを牧することを選びました。私たちは、バレイロでいつもするように牧することを選びました。これが意味することは、私たちはそこに行くには荒れ地を通り越していかなければならなかったということです。これは道のりを二倍に長くしました。私たちは羊たちが着いてくることができるようにゆっくり行かなければなりませんでした。そこで私たちが着いたときにはもうほとんどお昼でした。その日何があったのかをここで司教様にお話しして、話を長引かせるつもりはありません。何故なら司教様はそれを既によくご存じだからです。ですからそれは時間の無駄となるでしょう。ただし従順のためということを除いては、私がこれを書くのは私にとっても時間の無駄のように思えます。何故ならこれから司教様がどんな善を引き出すことができるのか私には分からないからです。ただし、これで司教様がジャシンタの罪のない生涯をよく知ることができるということを除いて。

司教様にジャシンタの生涯のこの新しい時期について覚えていることを書き始める前に、私はこのことを認めなければなりません。それは聖母の御出現のいくつかの観点は、私たちが誰にも知らせてはならないと同意したいくつかがあると言うことです。しかし、今、私は、それらについて私は話さなければなりません。それはジャシンタがイエズスに対する愛、苦しみに対する愛、罪人の改心のため、彼らの救いのために自分を寛大に献げたことを説明するためです。

司教様は、彼女がその喜びを抑えることが出来ずに、出現の沈黙を守る約束を破ったということをご存じありません。

その日の午後、私たちがまだ考え深く夢中になっていた時、ジャシンタは熱をこめて香叫び続けました。、
 「なんと美しい貴婦人でしょう」
 「私には一体何が起こるか分かるわ。あなたはこのことを誰かに言ってしまうでしょう」と言いますと、
 「いいえ、絶対話さない。心配しないで」と答えました。

翌日、フランシスコは私のところに走ってやって来て、妹のジャシンタがどうやって夕方に家でそれを全部話したかを、知らせてくれました。ジャシンタは一言も言わずに黙って、告発を聞いていました。私は彼女に
 「ほらね。やっぱり私が思った通りのことが起こっちゃった」と言いました。
彼女は涙を流しながら
 「私の心の中で何かがあって、静かにしていられなかったの」と答えました。
 「分かったわ、もう泣かないで。それから、貴婦人が私たちに言ったことを、誰にも言っちゃだめよ。」
 「でも、もう全部話しちゃったの。」
 「何って言ったの?」
 「貴婦人が、私たちを天国へ連れて行く約束をなさったって。」
 「そんなことまでも言っちゃったの?」
 「赦して。もう誰にも決して話さないわ。」


8. 地獄のことを考えて

あの日、私たちが牧場へ行った時、ジャシンタは、岩の上に座って深く考え込んでいました。
 「ジャシンタ、遊びに来なよ」と私は言いました。
 「今日は遊びたくない」
 「なぜ?」
 「何故って、私は考えることがあるのよ。あの貴婦人は、私たちにロザリオを唱えることと、罪人の回心の為に犠牲をすることをお願いしたわ。私たちは、これからはロザリオを唱える時、天使祝詞と主の祈りを全部唱えなければいけないのね。そして、どんな方法で、犠牲をしたらよいでしょう?」
すぐにフランシスコは、よい犠牲を思いつきました。
 「僕たちの弁当を羊にあげよう。そうすれば、空腹の犠牲を捧げることができるから」と。
数分の間で、弁当を羊にみなあげてしまいました。そこで、その日は、私たちはカルトゥジオ会の修道士たちの最も厳しい断食のように、断食を守りました。
ジャシンタは深い黙想をしながら、岩の上にまだ座って、こう尋ねました。
 「あの貴婦人は、多くの霊魂が地獄へ落ちるとおっしゃったけれど、地獄とはどんなところかしら?」
 「野獣が住む深い大きな穴のようで、その中に大きな火があり、 -- いつも母がそうやって地獄のことを私に説明してくれていました -- 罪を犯して告解しない人々がその中に落ちるのよ。落ちた罪人は、いつまでもその中で燃やされるのよ!」
 「そこから二度と出る事は出来ないの?」
 「できないの。」
 「長い長い年月の後でも出られない?」
 「出られないの、地獄は終わりがないから。」
 「天国も終わりがないの?」
 「天国へ行く人は、いつまでもそこにいるのよ。」
 「でも地獄に入った人は、もう出られないの?」
 「天国と地獄は、永遠なの。分からないの?終わりがないのよ。」

これが、私たちがどうやって初めて地獄と永遠について黙想したかでした。ジャシンタは永遠という考えに最も心を奪われたので、遊んでいる間でも、それをやめてこう尋ねました。
 「でもね、ちょっと!地獄って長い長い年月の後にも終わりがないの?」
あるいは、
「地獄で焼かれている人々は、死なないの? 灰にはなってしまわないの?
もし人々が罪人らのためにたくさん祈っても、私たちの主がかれらを彼らは地獄から出してくれないの?もしも犠牲をしてもダメ?
かわいそうな罪人たち。私たちは、彼らのために祈らなければならないし、たくさんの犠牲をしなければ。」
それから続いてこう言いました。
 「あの貴婦人は、なんと良いお方でしょう。私たちを天国へ連れて行くと既に約束をなさったのだから。」

(続く)

秋葉悦子氏の論文から

2017年06月07日 | プロライフ
とても興味深い論文をご紹介します。

バチカン生命アカデミーのメンバーとして活躍する随一の日本人が、刑法学者の秋葉悦子教授です。秋葉さんは、ヒト胚研究の倫理的側面を論証してきた第一人者で、始まりのいのちが不可侵である真理を説く日本では稀有な存在です。( プロライフ.jpのエデュケーションのWEBページより )


秋葉悦子氏(富山大学経済学部経営法学科教授)
「イタリアとカトリックの生殖補助医療をめぐる倫理問題」
 2010年3月21日

※実際のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵に近いものです。

【引用開始】
これは、ヒト胚をテーマに2006年に開催された生命アカデミーの国際会議のプログラムの表紙に使われた14世紀の絵です。右側の赤い服を着ているのがマリアです。マリアのおなかの中にはイエスがいます。そして左側にいる女性、エリサベトのおなかの中には洗者ヨハネという預言者がいて、2人が出会ったとき、おなかの中の子が喜び躍った、と聖書には記されています。

この絵を生命アカデミーが使ったのは、生まれる前の子どももコミュニケーションしていること、人と人とのかかわりをしていることを示したかったからだと思います。そして、次のような人格概念を提示します。「個人」だけが孤立してあるのではなくて、人と人とのかかわりが人格にとって不可欠な要素である。その人格的なかかわりは、自意識のレベルに限られません。ヨハネと洗者ヨハネは、母胎内にあって自意識はなかったかもしれないけれども、何かを察知してコミュニケーションしていた。それは、精神的なコミュニケーションなのですが、それを示したかったのだと思います。

生命アカデミーの文書は、この絵について直接解説しているわけではありませんが、先ほど水野先生がおっしゃっていた「胎児と母のコミュニケーション」が生化学のレベルで行われていることを、子細に証明しています。受精卵、胚が子宮に着床する時期はごく短期間に限られていて、子宮はこの期間を過ぎれば胚を受け入れません。この着床期の子宮の受精卵に対する許容状態は窓にたとえられて「着床ウィンドウ」と呼ばれています。このウィンドウが開くのに合わせて、胚も着床できる状態に変化するのだそうです。このように、母と子の間では、生化学レベルで非常に猛烈な対話が交わされています。したがって、着床は、母親が一方的に決めるのではなくて、子どもと子宮との間のクロストークなのです。双方の条件が整わなければ着床は起こらないことが、生物学的に明らかにされています。ヴァチカンは胚が母との間でこのような生化学的なコミュニケーション、物理的な対話が交わされることを証明して、胚が人格であることを示そうとしているのです。
【引用終わり】

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シスター・ルシアの手記の日本語訳  Ⅰ. ジャシンタの性格 1~5

2017年06月06日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


第一の手記

I. ジャシンタの性格


1. ジャシンタの生まれつきの性格

司教様、
1917年に御出現の前には、私たちが親戚であったという絆を除いて、
私はジャシンタとフランシスコの2人を仲間として、他の子供たちよりも特別な愛情があったわけではありません。それどころか、時々、ジャシンタと一緒にいるのは、彼女が非常に感じやすい気質のために、私は嫌になりました。
子供たちの間で小さな争いをした時、彼女は泣きべそをかいて場を去りました。子供たちは上手に可愛がってなだめるのを知っていたのに、彼女を遊びに戻らせることはできませんでした。そこで子供たちは 彼女に遊びと自分の好きな相手を選ぶことを許しました。しかし、彼女のこころは良いものでした。天主は彼女に優しい親切な性質を与えたので、彼女は瞬く間に愛嬌のある可愛らしい子になりました。

理由は知りませんが、ジャシンタとその兄フランシスコは私のことを大変好きでしたから、遊びたい時いつも私を探しに来ました。ふたりは他の子どもたちと一緒に遊ぶことは喜びませんでした。私の家の庭にある井戸のところへ彼らと一緒に行くようにいつも私を誘いに来ました。一度、私たちがそこに来ると、ジャシンタは私たちのする遊びを決めました。ジャシンタが一番好きだったお遊びは、普通は「小石遊び」と「ボタン遊び」でした。これを私たちは、オリーブの木と二本のスモモの木の木陰で、井戸を覆っている石版の蓋の上に座って遊びました。

「ボタン遊び」をするとしばしば私は悲しくなりました。何故なら、家のものが食事をするように私を家の中に呼ぶと、私の服のボタンが少なくなっていたからです。非常にしばしばジャシンタはボタンを全て勝ち取ってしまったので、母が私を厳しく叱りました。そこでボタンを急いで縫い付けなければなりませんでした。

しかし、ボタンを返してくれるようにどのように頼んでも、ジャシンタは仏頂面の上に欲張りだったので消して返しませんでした!彼女は次の遊びのために、私から勝ったボタンを持っていたかったのです。何故なら、そうするなら自分の服のボタンを取らないですむからです。そこで私はもう一緒に遊ばないと脅して、やっと私のボタンを返してもらいました!

私は何度も私の小さな友だちの心を満足させることができませんでした。私の姉たちの一人は機織り、もう一人は裁縫して1日中家にいました。すると近所の人々は畑仕事に行く時、小さな子供を私の家に預けに来ました。子供たちは私と一緒に家で遊びました。その間、姉たちが私たちに目を見張っていました。二人の姉の仕事の邪魔になり、長い時間の無駄になりましたが、母はいつも子供たちの世話を引き受けました。

それで私は子供たちと庭で一緒に遊び、井戸の中に落ちないように気をつけて面倒を見るのは私の勤めでした。三本の大きなイチジクの木は熱い太陽から子どもたちを守りました。私たちはその枝を使ってブランコ遊びをして、脱穀場の床で食事をしました。

私が子供と一緒に遊ぶとき度々ジャシンタは兄フランシスコと一緒に来て私に好きな所へ行きましょうと誘いました。母は子供の面倒を見るように私に命令したので、いけないのといつも答えました。すると二人の小さい子友だちはがっかりして、仕方がないので私たちの遊びに加わりました。午後のお昼寝の時、母は特に四旬節が近づいたとき、自分の子供たちに公教要理を教えました。そしてこう言いました。
「主任神父さまが復活祭の時あなたたちに教理のテストをしても私が恥ずかしくないように今勉強しましょうね。」
すると子供たちはみんな母の許しで私と一緒に教理を学びました。ジャシンタとフランシスコもそこにおりました。


2 感じやすい気質

ある日、子供たちの一人が悪い言葉を言い、そう言った子供を別のある子が、母に訴えました。母はこの子供を厳しく叱り
「誰でもそのような言葉を言ってはいけません。罪ですから。幼いイエズスに嫌われますよ。あの悪いことをする人は告解しないなら地獄に落ちます」と言いました。
小さいジャシンタはこの教えを忘れませんでした。子供たちが私の家に来た時ジャシンタは、
「あなたのお母さんは、あなたが私と一緒に遊びに行くことを許してくれるかしら?」と聞いたので、
「ダメよ」と私は答えました。
「それなら、フランシスコと一緒に自分の家の庭へ行くわ。」
「どうしてここにいたくないの?」
「私の母は、他の子供たちがここにいるとき、私たち二人がいるのが嫌なの。母は家の庭で遊ぶように言ったの。私が悪いことを覚えるのが、母は嫌いなの。それは罪だし、幼きイエズス様が好きでないから。」
それから彼女は私に耳にささやいて、
「もしね、あなたのお母さんが許すなら私の家に来る?」
「うん、行く。」
「じゃあ、許しを頼んでみて。」
そしてジャシンタは兄フランシスコの手を取って一緒に家に帰りました。

ジャシンタの好きな遊びについて話すと、その中の一つは負けた相手に罰を与えるゲームでした。司教様もきっとご存じの通り、そこで負けた人は勝った人の言うことを聞いて実行しなければなりません。ジャシンタは負けた人に蝶を取りに行って、自分のところへ持ってくるようによく言いました。ある時は、ジャシンタは自分の選んだ花を摂ってくるように要求しました。
ある日、私たちは私の家でこの罰ゲームをして遊んでいましたが、私が遊びに勝ちました。そこでジャシンタに何をすべきか言いました。私の兄がテーブルに向かって何か書いていました。私はジャシンタに兄を抱きしめてキスするように言いました。ジャシンタはそれを断って、
「それは嫌よ!他の別のことを言って。何で、あそこの私たちの主イエズスを接吻するように行けと言ってくれないの? 」
壁には十字架像がかかっていました。
「いいわよ。椅子へあがり、十字架をとってここに持ってきてちょうだい。それから跪いて3度イエズスを抱きしめ接吻して。一回目はフランシスコのため、もう一つは私の為に、もう一度はあなたのためよ。」

「私の主イエズスになら、いいわ! あなたの望むまま何度でもするわ!」といってすぐに十字架を下ろしました。彼女は十字架に熱心な接吻をし、それを抱きしめたので私はそのことを忘れません。彼女は十字架を見つめながら、
「なぜ私たちの主はあのように十字架にクギづけられたの?」と尋ねました。
「私たちのために死なれたのよ」と私は答えました。
「どうしてそんなことになったのか教えて。」


3 十字架に付けられた救い主へのジャシンタの愛

晩になると、母はよくお話をしてくれました。父と姉たちは、私たちに、魔法とか金と王の服を着た王女さまなどのおとぎ話をしてくれましたが、母は主の御苦難と洗礼者ヨハネと、などのエピソードを物語ってくれました。そのおかげて私は主の御受難の話を知るようになりました。
私はお話を1回聞くだけで、その全ての細かい点まで覚えて他の人に話すことができたので、私の小さい友だちに「私たちの主の物語」と私が呼び習わしていたものを一言一言、詳しく繰り返し話しました。
ちょうどその時、私の姉[注6]が通りかかり、私たちが十字架像を手に持っているのに気がつきました。[注7] 姉は、私たちから十字架をとって私たちを厳しく叱りました。
「あなたたちはこのような聖なるものに触れてはいけません。」
ジャシンタは立ち上がって私の姉に近づきこう言いました。
「マリアお姉さん、ルチアを叱らないで。私がやったの。これからは決してしません。」
姉はジャシンタを抱きしめて、私に外で遊ぶように言いました。何故なら、家の中をめちゃくちゃにしてしまったからです。私たちは外の井戸の所へ行って主の物語を続けました。それは栗と、積み重ねた石で囲まれ、ちょうど隠れたところだったので、数年後、私たちは親密に話したり、熱心に祈ったり、全てのことを話し、涙を流す、しかも時には深い悲しみの涙のために、この静かな場所を選びました。私たちは、この同じ井戸の水に私たちの涙を混ぜ、そこから水を飲みました。この井戸は聖母マリアのイメージではありませんか?何故なら、私たちはその汚れなき御心おいて私たちの涙を乾かし、そこからもっとも清い慰めを飲むのですから。

しかし私たちの話に戻りましょう。私が主イエズスの苦しみの話を聞くと、ジャシンタはいつも涙を流すほど感動しました。その時から彼女は私に主の御受難を何度もはじめから話すように願いました。ジャシンタは涙を流して慟哭してこう言うのです。
「私たちの可哀想な主!私はもう罪を犯しません。主イエズスがこれ以上苦しむのを望みません」と言いました。

[注6]マリア・ドス・アンジョス(Maria dos Anjos)、ルシアの一番の姉、1986年に死去。
[注7]この十字架像は今でもルシアの旧家にあり、訪問者は今でも見ることが出来る。


4 ジャシンタの繊細な心

ジャシンタは日がとっぷり暮れる頃、家の近くにある脱穀場へ行く事も好きでした。彼女はそこで美しい日没と瞬く星でいっぱいの空を眺めたりしていました。彼女は綺麗な月夜に心を奪われました。私たちは誰が最も多くの星を数えることができるかと互いに競争しました。そして星は天使たちのランプ、月は聖母マリアのランプ、太陽は主イエズスのランプと呼びました。ジャシンタはこう言いました。「私は聖母のランプが一番好き。それは私たちの主のランプのように私たちを焼かないで目をくらませないから。」実に夏、ファチマでは太陽の光が強いので、ジャシンタは暑さのために非常に苦しみました。


5. ジャシンタは見て学ぶ
私の姉が小教区のイエズスの聖心会に加入していたので、子どもたちの盛大な初聖体式が来ると、必ず私の初聖体を更新するように私を教会へ連れて行きました。ある時私の叔母は、儀式を見にジャシンタを連れて行きました。するとジャシンタは天使の服装をした女の子が行列の時ご聖体の前で花を撒き散らしていることに心をうばわれました。その時から私たちが遊んでいると彼女は時々私たちから離れてエプロンにいっぱい花を摘んで一つ一つ私たちに投げかけました。
「ジャシンタ、なぜそんなことをするの?」と聞くと
「教会で小さい天使がしたようにするの。あなたたちに花を撒き散らしたいの」と答えました。

毎年、大祝日には、おそらくご聖体の祝日に、姉はご聖体行列でご聖体に花をまき散らす天使の衣装をつける女の子たちのために白衣を準備していました。この子供たちは、天蓋の横を歩いて花びらをまき散らします。私はいつもこの子供たちの中に選ばれました。ある日、姉が私のドレスの着付けをしてくれた後、私はジャシンタに来る祝日のこと、どうやってイエズス様の前で花びらをまき散らすかなどを教えました。
ジャシンタは、「私も行列に出るようにお姉さんに願ってください」と言ったので私たち二人は一緒に願いに行きました。姉は承諾し、ジャシンタに服が合うか試しました。練習の時、姉は幼きイエズスの前で私たちがどうやって花をまかねばならないかを説明しました。
「私たちはイエズスを見るでしょうか」と小さいジャシンタが聞くと姉は
「そうですよ、主任司祭はイエズス様を持って行きます」と簡単に答えました。

ジャシンタは喜び踊りました。そして私たちがこの祝日をどれだけ待たなければらないかをいつも尋ねました。
長い間待っていた祝日がとうとう来たので、この小さい女の子は、あまりの喜びに我を忘れていました。私たち二人は祭壇の近くでした。後に、行列の時は、私たちは天蓋の顕示台の横を、一人ずつ一つのカゴいっぱいの花を持って歩きました。姉が私たちに花を撒き散らすように合図するとどこででも、私はイエズス様に花を撒き散らしましたが、小さいジャシンタは私の合図にもかかわらずひとつも花をまきませんでした。彼女は行列のあいだじゅう、司祭をじっと見つめていました。それしかしませんでした。式が終わってから姉は私たち聖堂の外に連れて行きこう尋ねました。
「なぜあなたは、イエズス様に花をまかなかったの?」
「だって、イエズス様が見えなかったから。」

ジャシンタはそこで私にこう尋ねました。
「けれども、あなたには幼きイエズス様が見えたの?」
「もちろん見なかったわ。ホスチアの中の幼きイエズス様のお姿は、見ることができないって知らなかったの?イエズスはご聖体の中に隠れておられるのよ。イエズス様って、私たちが御聖体を拝領する時、頂くお方なのよ。」
「じゃあ、あなたは聖体拝領の時イエズス様に話しするの?」
「うん、お話しするわ。」
「それじゃあ、どうしてイエズス様が見まないの?」
「だって隠れておられるからよ。」
「私、お母さんにご聖体を拝領させて頂くように願いします。」
「主任神父様は、あなたが10歳になるまで、初聖体をいただくことをお許しませんよ。」[注8]
「でも、あなたは、まだ10歳にならないのに聖体拝領をしてるじゃないの!」
「私は公教要理をよく勉強したからよ。でもあなたは、まだそれを知らないでしょ。」

その時から、私の二人の友だちジャシンタとフランシスコは私に公教要理を教えて欲しいと頼みました。私は教理の先生となり、ふたりは熱心にそれを学びました。
けれども、私はジャシンタの質問には全て答えることが出来ましたが、公教要理を教えるとなると、わずかのことしか思い出すことが出来ませんでした。
このためにジャシンタは私にある日こう言ったのです。
「私たちにもっと他の事を教えて。私たちはそのことは全部知っているわ」と。
私は質問されたときならいろいろなことを思い出すことが出来ると認めなければなりませんでした。そこで、「あなたが公教要理の勉強をもっとしたいなら、お母さんに教会へ連れて行ってほしいと願ってください」と勧めました。
「隠れたイエズス」と彼らが名付けたご聖体を熱烈に拝領したかった二人の子供は、母親に願いに行き、許しを受けました。しかし彼女はたまにしか二人を教会へ連れていきませんでした。
「教会までの道のりはここからとても遠いから、あなたたち二人はまだ無理です。どうせ、主任司祭は10歳になるまで初聖体を授けませんよ」と言いました。
しかしジャシンタは、隠れたイエズスについて質問するのをやめませんでした。ある日私にこうやって質問したのを覚えています。、
「どうして同時に多くの人々が小さな隠れたイエズス様を拝領できるの?一人一人のためにイエズス様は小さく分けられているの?」と。
「そうではないの。ほら、たくさんのホスチアがあるのが分からないの?それぞれのホスチアにひとりの小さいイエズス様がいらっしゃるの」と答えました。
その時、私はきっとなんと多くの愚かなことを言ったのではないかと思います。

[注8]ジャシンタは1910年3月11日生まれだった。


(続く)

シスター・ルシアの手記の日本語訳 【序言】

2017年06月04日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳


ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008




第一の手記

序言 

1 祈りと従順

J. M. J.(イエズス・マリア・ヨゼフ)
司教様 [注1]、
イエズスと聖母の栄光にならないことは一つも書かないように、それだけのために、イエズスと私たちの優しいおん母マリアの至聖なる聖心の守護と、聖櫃[のご聖体]の下で光と恵みとを願い求めて、今、私はこの仕事に取りかかります。私は嫌気を感じるにもかかわらず、書きます。何故なら惨めな自分について直接にあるいは間接的に触れずに、ジャシンタについて話すことがほとんど出来ないからです。
しかし、私は、司教様の御旨に従順に従います。なぜなら司教様の御旨は私にとって私たちの天主様のみ旨だからです。イエズスとマリアの至聖なる聖心がこの仕事を祝福してくださることを願いつつ、これを始めます。ジャシンタが寛大に身を犠牲にして哀れな罪人の回心のために献げたように、この従順の行為を憐れな罪人らの回心を求めるために使うために、書き始めます。
司教様は私がどれほど無能でふさわしくないかを知っておられるので、私から良く書かれた報告書を期待していないと知っています。天主の恵みによって私はジャシンタの一番親しい友だったので、この霊魂について覚えている事を司教様に話しします。私は彼女の聖性をきわめて高く評価しており、彼女を非常に尊敬しその思い出を懐かしく思っています。

[注1] Dom José Alves Correia da Silva, 1872-1957, ファチマが属するレイリア司教区の再設立後の最初の司教。


2 秘密を守る
私は司教様に従順する意志を持っていますが、司教様は私とジャシンタとに関係ある特別のことについて、言い表せないのを許してくださると信じます。なぜなら私が永遠の生命に入る前にこれらのことが読まれるようにしてほしいからです。またある秘密とその他のことを永遠にとっておかなければならないことを、司教様に漏らさないことを変に思わないでください。何はともあれ、聖母こそが、私にこのような沈黙を守る手本をお示しくださったのではないでしょうか 。福音書は聖マリアが全ての事をご自分の心に思い巡らしていたかを、私たちに示しているではありませんか?[注2]
この聖母の汚れなき御心よりも一体誰が天主の御憐れみの秘密を私たちに明かすことが出来たでしょうか? それにもかかわらず、聖母は、あたかも閉ざされた花園にあるかのようにそれらをご自分のために秘して、天主たる王の宮殿に自分と一緒にそれを持って行かれました。

[注2]Luke 2,19-51

その上、私がまだ11歳だった時、1人の聖なる司祭から聞いた言葉を思い出します。多くの人と同じように、彼は私に質問をしましたが、その中でも、話したくないことについて尋ねました。山のような質問が終わった時、このことについて満足できるような返事を得ることに成功せず、デリケートすぎる内容に関することだとおそらく理解されたのでしょう、この良い司祭は私を祝福してこう言いました。
「わが子よ、あなたは正しい。王の娘の秘密は、自分の心の奥に隠しておくべきです。」
その時私は神父様の言った言葉の意味を悟りませんでしたが、後に彼は私のとった行動のやり方を認めて下さったのだと理解しました。私は神父様の言葉を忘れませんでした。そして、今ではその意味が分かりました。この聖なる司祭はその時
トレス・ノヴァスの助任司祭でした。[注3]
彼がこのわずかの言葉によって私の心にもたらした偉大な善を、神父様はほどんどご存じありません。それゆえ私は感謝の心を尽くして彼を思い出します。
しかし、ある日、そのような内容について私が秘密を守ることについて、ある1人の聖なる司祭の序言を私は求めました。何故なら、聖母はほかにも私に何かをおっしゃったのかと人から尋ねられたとき、一体何と答えて良いか分からなかったからです。
当時オリヴァルの助任司祭だったこの神父様[注4]は、私たちにこう言いました。
「我が子らよ、天主とあなたたちの間の、あなたたちの霊魂の秘密を守るのは良いことです。人々があなたたちにその質問をする時、あなたたちはただこう答えなさい。『はい、聖母は他の事もおっしゃいましたがそれは秘密です』と。もし人々がこの主題について質問をし続けるならばこう言いなさい。『聖母は誰にもそれを話さないように言われました。この理由で私たちはあなた方に何も言えません』と。そうすればあなたたちの秘密を聖母の御保護のもとに守ることができます。」
私はどれほどこの聖なる年老いた司祭の説明と指導とをよく理解したことでしょうか!私は、これらの前置きにあまり多くの時間を取り過ぎてしまいました。司教様は一体これら全ての目的は何だろうと不思議に思いになることでしょう。私にジャシンタの障碍で思い出すことが出来るお話を始めることが出来るかやってみなければなりません。私の自由になる時間が全くありませんので、イエズスとマリアの至聖なる聖心が私に思い出すことを望む全てを、思い出して、私の裁縫の下に隠しておく紙と鉛筆の助けで書き留めるために、沈黙のうちに働く時間をほとんど使わなければなりません。

[注3]アントニオ・デ・オリベイラ・レイス神父は当時トレス・ノヴァスの主任司祭で、1962年に死去。
[注4]ファウスティノ・ホセ・ジャシント・フェレイラ神父、1924年死去。


3. ジャシンタへの祈り
この世を通って、あなたは飛ぶように素速く行った、最愛のジャシンタ、
苦しみの最も深みで、イエズスを愛しながら、
私の願いとあなたへの祈りを忘れないでね、
いつも私の友でいてね、童貞マリアの玉座の御前で、
白く輝く百合よ、光る真珠よ、あそこ天国で、あなたは栄光のうちに住む、
愛のセラフィムよ、あなたの弟と一緒に、師の足元で
私のためにお祈りしてね。

Ó tu que a terra Passaste voando,
Jacinta querida, Numa dor intensa,
Jesus amando, Não esqueças a prece
Que eu te pedia.
Sê minha amiga Junto do trono
Da Virgem Maria. Lírio de candura,
Pérola brilhante Oh! lá no Céu
Onde vives triunfante,
Serafim de amor,
Com teu Irmãozinho
Roga por mim
Aos pés do Senhor.

(続く)

『胎児も立派な人間です』 3.心理学的証拠

2017年06月03日 | プロライフ
3 心理学的証拠

(注記:以下の質疑応答は1990年に人工中絶を経験したことのあるパメラ・カーにインタビューを行った際のものです。)

問: あなたは人間の生命が壊されているという感じがしましたか。もし、そうお感じになったのでしたら、それについて説明をお願いします。

答: 人工中絶を行う施設は、胎児のあらゆる組織および/又は物質(matter)を廃棄処分する権利を認める書類にサインするよう言われたことを記憶しています。どうしてこんな書類にサインしなくてはいけないのかと自問したことを覚えています。手術室に連れて行かれたとき、無知のベールが取り払われました。私は気づいたのです。自分の赤ちゃんを殺してしまったと。

人工中絶を受けたことのある女性、その夫または「愛人」ならびに医療関係者は調査の結果、ある人を失ってしまったという感覚、およびその他人工中絶にまつわる否定的な感情を抱くことが知られています。また人工中絶のあと、自殺志向の感情が生じることもあります。
以下の資料は、胎児の人工中絶に関連する感情がどのようなものであるかを示すものですが、その中には人工中絶の前、最中、そしてとりわけその後に見られる心理的証拠を含んでいます。
(中略)

3.1 人工中絶トラウマ
人工中絶トラウマとは、中絶の後に続いて起こる典型的な感情群のことです。「人工中絶トラウマ」という言葉は、次のような感情を含んでいますが、これが全てというわけではありません。
憂鬱(感)
後悔
悲しみ
罪悪感
喪失感
恐怖(悪夢あるいは突然起こる追想の際に経験される)

3.2 女性と人工中絶
最近、雑誌や新聞に掲載された数々のエピソードは、人工中絶に続いて起こる女性の感情的および心理的状態を明らかにしています。これらの記事は多岐にわたっていますが、自分の人工中絶する決断について否定的な感情をあらわした数多くの女性の体験から取られているという点では共通しています。彼女たちが体験した感情とは重度のうつ[憂鬱感]、罪悪感、悲しみ、喪失感などです。若干の女性の体験談は、彼女らが人工中絶トラウマの徴候(となる症状)を少しももっていないことを示唆するものです。しかし、多くの研究は、往々にして女性は人工中絶に続いて生じるつらい感情を抑圧ないし抑止してしまうという結論に達しています。例えばカナダで行われた研究は、アンケートの際には人工中絶後、いかなる悔恨の念も抱かなかったとしていた女性たちが多くの場合、人工中絶後生じた深い感情的・心理的影響を隠し、あるいは抑圧していたことを確証しました。次のウィルケ著『人工中絶Q&A』からの引用は、この研究についてふれています。

問:しかし、大部分のアンケートの結果は、ほとんど感情に関しての問題がないことを示しているのではないのですか。

答:はい。しかし、人工中絶について女性が実際に心の最も深いところで感じることは、その同じ女性がアンケートに答えて言うこととは、非常に異なるのです。カナダのある研究では、一定数の女性を選んで質問し、そのグループの中から無作為に半数をぬき出し、何の[感情的な]問題もないと言っている彼女たちに深層心理療法を受けさせました。カナダの研究の結果は以下のことを含んでいました。

心理療法をとおしてあらわれてきたことは、[アンケートの結果とは]まったく対照的でした。それは当の女性が人工中絶を不可避かつ唯一の[選択可能な]行動として理性的に考え、見なしていた場合も同様です。」これにより、意識的かつ理性的思考によって正当化された人工中絶の決断は、それに対する最も深いレベルでの拒絶と共存し得ることが証明されました 。この記事は、次のように続けています。「表面上の見かけに関わりなく、人工中絶はより深い感情、すなわち「いずれの場合にも激しい苦痛、悲嘆、および胎児と自分とを同一視する感覚を含んだ
を後に残すのです。」

以下は人工中絶の後、女性たちが共通して訴えた感情的・心理的症状の例のごく一部です。

女性たちは人工中絶の後、時には自殺を考えるほどの憂うつ感に見舞われます。何千という数の、この種のケースが報告されていますが、次のエピソードはその一例です。ある女性は、こう述べています。「私が憂うつを感じ始めたとき、それは本当につらい時でした。人工中絶のことが心の中にあらわれ出しました。つまり、自分が人工中絶したという意識です。それは非常に長い間抑圧されていました。夫は私が人工中絶をしたということを全く知りませんでした。そのことを私は誰にも打ち明けていなかったのです。それはただ、私の過去の一部でしかなかったのです。私がついに夫にそのことを言うときがやって来ました。と言うのも、そのときには、すでに私はほとんど何も出来ないような人間になっていたからです。私はただ椅子にこしかけて一日中壁を見つめ、どうしたら自殺できるかと考えていました。 」

別の女性は、こう言っています。「そのとき、私は学校をやめました。そのとき、私は自殺しようとしました。そのとき、私はどんな人間関係も続けていくことができなくなりました。家族とも、ボーイフレンドとも、友達とも。そのこと[人工中絶したこと]のために、全てが崩れ去ってしまいました。 」

もう一人の女性は、同様に激しい憂うつ感に襲われました。
「私は、この名門大学の教員という立場にありましたが、それでもこの自己嫌悪の念をふりはらうことができませんでした。ですから私は、家族が私を拒絶したとき、もう自殺しようと決めました。」

あるレポートは、2人の10代の母親が人工中絶の後、「自分の赤ちゃんが産まれることになっていた、その同じ日に自殺を図った」と伝えています 。

後悔と悲しみ
人工中絶を経験した女性がしばしば経験する他の徴候は、後悔と悲しみです。
人工中絶[手術]の後、私はすぐに後悔と悲嘆を感じて目を覚まし、叫び声を挙げたのを覚えています。そして私はそんな状態に耐えられませんでした。私はそこから抜け出さなければなりませんでした。」

別の女性は言っています。
「自分の赤ちゃんが子宮から引き剥がされる感じは、これまで経験した最悪の感覚の一つでした。機械が私の内側にあるものを吸い出そうとする間、体の中では全てが、引き出されるのを逃れようとして盛んに動いていました。その振動を感じて、私はものすごく気分が悪くなりました。自分がどれだけこれに耐えられるのか定かではありませんでした。カウンセラーは、私の動揺に気づいたに違いありません。彼女は、もうすぐに終わると言って励まそうとしてくれたからです。私は彼女の手をつかみ、強く握りしめました。機械が止まるまでの間...。クリニックから出てきた私は、まるで自分がつい今まで悪夢を見ていたように感じました。私は卑しめられ、保護をうけ、辱められ、つまらなく、堕落した存在であると―つまり、女性が体験し得るもっとも否定的な感情のすべてを味わったのです。私はあまりにも気分が悪く、[手術が終わって]ほっとすることさえありませんでした。

罪悪感
罪悪感は、女性が人工中絶の後にしばしば経験するもう一つのつらい感情です。ある女性はこう言っています。
「私がこの人工中絶の後、3、4か月の間なんとか対処しようとしながらできないでいる苦痛、つまり私の中に巣食い、どうしても取り除くことのできない自己嫌悪と恐ろしい罪悪感...」

罪悪感が人工中絶の後にしばしば現れることは、医学的研究によっても確証されています。例えば、「アメリカン・ジャーナル・オブ・サイカイアトリー」誌は「患者たちは明らかに、人工中絶以前にはよく機能していたが、その後、人工中絶に対する罪悪感によって引き起こされた種々の精神病を経験した。」 と、伝えています。

喪失感、突然の想起、悪夢、およびその他の否定的な感情
人工中絶後の女性が経験する感情には、しばしば喪失感が含まれ、この感情は突然の想起、悪夢などを伴います。「選択」という著書の中で、「人工中絶の合併症」を論じるジュディー・ブラウンは、こう述べています。
「ミネソタ大学のアンヌ・スペックハード博士による研究は、人工中絶をした女性の半数以上が中絶の体験に関連した悪夢や突然の想起に悩まされていることを発見しました。ほぼ4人中1人が幻覚を体験しています。35パーセントの女性は、死んだ赤ちゃんが夢や幻のかたちで戻ってきて現れると信じています。 」
この問題についての他の心理的研究は、人工中絶後のストレス障害についての、更なる証拠を提供しています。


3.3「父親になるはずだった男性」に対する人工中絶の影響
トラウマ後のストレス障害
それでは、もし人工中絶が行われなかったら、当の赤ん坊の父親となるはずだった男性についてはどうでしょうか。

複数の研究の結果は、男性も、特に自分の子供が人工中絶されたことを知ったとき、激しい否定的な感情を経験することを示しています。様々な理由により、胎児の解任に関わった男性は時として、人工中絶について全く何も知りません。これは第一に、女性が人工中絶のことを極秘にしておこうとすることが原因です。その結果、男性が自分の子供の人工中絶に対して示す反応については、女性の場合より、少ない報告しかありません。自分の子供が人工中絶されたことを知った男性に生じる人工中絶のトラウマ的影響の典型的なケースを以下に示します。この述懐は、胎児が人間であることの更なる心理的な証拠となっている点で非常に重要です。

ベトナム戦争の退役軍人が、説かれることの罪悪感や抑圧した感情のために、どんな風になってしまったかをきっとあなたは読んだことがあるでしょう。それは「トラウマ後ストレス障害」と呼ばれています。これは基本的に、彼らを取り巻いた市と暴力に対する激しい反応を心から消し去り、抑圧しようとする結果生じるものです。そしてこれは、私が妻の人工中絶に対して示したのと同じ種類の反応でした。私の場合、妻と一緒にクリニックから出て行くとき、ことが終わったのではありませんでした。
もう1人別の父親となるはずだった男性は、人工中絶するという妻の決定に同意したこの男性は、クリニックに入る前の体験をベトナム戦争中、彼が経験した感情の同様になぞらえて語っています。
「あの待合室に入っていくときの感じをけっして忘れることはないだろう。私はこの感じのために、その場を離れなければならなかった。私は、自分がそこで感じるだろうことについて直接の知識があったのだ。」

私はベトナム戦争末期(1970―73年)に兵士として加わり、陸軍を辞めた後は、救助隊で働いていた。私が人工中絶のクリニックで感じたのは死の空気だった。救いのない漢字、そして絶望がきりのようにかかっていた。私はそこにいることができなかった。妻にもそこにいてほしくなかった。

この男性と彼の妻とは、人工中絶をすることなしにクリニックを立ち去りました。とは言っても、彼は「自分自身のオフィスで人工中絶をしてくれる医者に診てもらう」ことに決めたのでした。始めのうち、その医師のオフィスの「優しく」、「こざっぱりとした」雰囲気は、とてもよく思われました。人工中絶は「滞りなく」済み、「そして、その日の午後は、妻と私が結婚生活の中で過ごした最も親密な時間の一つだった。すべてが済んだ。あるいは、そう私たちは思った。」
多くの人工中絶をした男女の場合と同じく、長く残る人工中絶の感情面での影響は、この2人の結婚生活を破壊してしまいました。男性はそのときの心情を次のように描写しています。
「その頃ずっと罪悪感が私の心を責めさいなみ、私は軍隊で非常にうまくやっていたことをしなければならなくなった。私は心を頑なにし、自分の感情を押し隠したのだった。だが私は感情にいつもフタをしておくことはできなかった。ちょうど兵役についていた頃の押し隠された苦痛と嫌悪感が時おり火山のように爆発したように、子供失った苦渋も火をふいてでてくるのだった。
この夫妻は人工中絶の1年後に別居し、その数か月後離婚しました。人工中絶は彼らの離婚の唯一の原因ではないとしても、たしかにその引き金となったのです。この男性は自分の体験談を次のように結んでいます。
妻と私がこの決断[人工中絶についての決断]に直面したとき、私たちは診療所からも、中絶クリニックからも、事実を聞かされていなかったのです。誰も私たちに、人工中絶が後々までおよぶ影響を残すとは言いませんでした。誰も私たちに、人工中絶に関わった人の多くが、中絶そのものが済んだ後も、罪悪感、憂鬱、後悔の念に苦しんでいるとは言ってくれなかったのです 。
この男性は、人工中絶は人生において「長い影響をもたらす決断」 の一つであると考えるようになったと述懐しています。

3.4 医療従事者からの証言
悲しみや、生命を失わせたという感覚といった消極的な感情は、人工中絶に携わる医療従事者の証言においても、はっきりと表れています。そしてこのことは胎児が人間であるという事実の心理的証拠に、さらなる重みを与えます。たとえば、人工中絶手術についてある看護婦が率直に語っていることを聞いてみましょう。

私たちは、ここで人工中絶をしています。それが私たちの仕事のすべてです。時々、もうこれ以上、[胎児の]血まみれの残骸の入ったボウル[たらい]を手にすること、[人工中絶を行った女性へ]優しい、励ましの言葉をかけることに耐えられないと感じる、気だるく、殺伐とした瞬間(とき)があります。ですから私は処置室を後にして、新たなカルテを取りに行くのです...。[そして]もう一つ別のボウルを準備します。また一つの手短で心をささくれ立たせる[生命の]喪失です。」

この看護婦はさらにこう自分の気持ちを伝えています。「女性のふくれ上がった腹部がぎこちなく流れる数秒間の中に元の柔らかな状態に戻っていくのを見て、私自身のおなかも悲しみで急変します。」 さらに、彼女は「けれども多くの女性は、その音を聞くとき、悲嘆の大海が自分の下に開けるのを感じるようです。」

別の記事は医療従事者が胎児が単なる「かたまり」でないことをわきまえているという事実を明るみに出しています。人工中絶を執り行った医師についてのこの記事には、次のようなくだりがあります。
『人工中絶の後、医師は残余物を調べて胎児の全ての部分と胎盤とが取り除かれていることを確認しなければなりません。何であれ、子宮内に残る組織があれば、感染の原因となってしまいます。ブース医師はsocの中身を浅い皿に絞り出し、指であちこちつつきました。「ほら、ちっちゃなちっちゃな手が見えるでしょ。」と、彼は言いました 。
同じ職場にいる別の従業員は、こう言いました。「私たちはみんな、それ(人工中絶された胎児)が形が無ければいいと思っている。だけど[実際は]そうじゃない...。そして、それは苦しいことだ。大きな感情の痛みがあるんだ。」』
これらの証言は人工中絶の際に人間[の生命]が失われるという意識があることを証明しています。医療従事者はしばしば、術後に感じる悲しみ、およびその他のネガティブな感情について物語っています。

外科医のマグダ・デネス氏は自著の研究の中で人工中絶は悲しみであると同時に必要なことであると主張しています。同氏によれば人工中絶は必要なことです。なぜなら、女性はこれを必要としているのだから。そして、それは悲しみです。なぜなら、人間の生命が取り去られてしまうのだから 。

別の医師は『沈黙の叫び』(人工中絶についてのドキュメンタリー)有名な映画を観た後、非常に「気分が悪く」なりました。この医師は映画の製作者であるナタンソン医師の同僚でした。しかし、ナタンソン医師が人工中絶を行うのをやめたのに、この医師はそれを続けていました。この映画を見るまでは...。

ジャーナリストのジム・エドワーズは同映画がこの医師に与えた心理的影響をこう表現しています。「しばらくその映像を見るだけで十分だった。超音波技術者と同様、人工中絶手術を行ってきたこの医者はスクリーン上で見たことのために。

『沈黙の叫び The Silent Scream』(1984)は、YouTubeでも視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=4Hb3DFELq4Y




バーナード・ナサンソンは産科医で、妊娠中絶を推進するNARAL(National Abortion Rights Action League 妊娠中絶権擁護全国連盟)の創始者でしたが、中絶で何が起こっているかを深く知るにつれ中絶反対の活動家に転向しました。

ナサンソンは、『理性の陰り Eclipse Of Reason』という続編映画も製作しました。
YouTubeでも視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=_nff8I2FVnI


マーチフォーライフ アメリカと日本

2017年06月01日 | マーチフォーライフ
マーチフォーライフは、1974年1月22日に、アメリカのワシントンDCで始まりました。その時には20,000人が行進しました。


アメリカでのマーチフォーライフは、2017年1月27日に44回目を迎えました。毎年参加者は増え続け、50万人を超え続けています。

日本でも、胎児が守られるために、マーチフォーライフに多くの方が参加されて、大行進となる日が来ることを祈っています。


アメリカでのマーチフォーライフの行進の様子です。

マーチフォーライフ2017 アメリカ(ワシントンDC)より
スタートするところ





マーチはどこまでも続きます(マーチフォーライフ2016より)




日本では今年、2017年7月17日で4回目を迎えます。
日本でも、胎児が守られるために、マーチフォーライフに多くの方が参加されて、大行進となる日が来ますように!
日本から堕胎・中絶がなくなりますように!


マーチフォーライフ2014 日本での様子です。



あなたに、できることがあります。生まれる前の赤ちゃんのいのちを助けてください!
わたしたちといっしょに、ファチマの聖母といっしょに歩いてください!
マーチフォーライフに参加してください!