ファチマの聖母の会・プロライフ

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日本の少子化は、GHQによる "人災" だった

2017年07月14日 | プロライフ
日本の少子化は、GHQによる〝人災〟だった
河合雅司(産経新聞 論説委員)からの引用です。


●人為的に人口を減らす産児制限は「民族の自殺」であり、将来的な国家の滅亡につながる。
●芦田均厚相「一度出生率が減少する傾向になった場合には、いかなる民族でも、これを人口増加の傾向に回復することが困難である。」
●ベビーブームの終焉は、「中絶ブーム」の到来でもあった。
●70年近くも前の人工妊娠中絶の呪縛を解くことが必要。



なぜ日本の少子化はこんなにも深刻化したのだろう。年間出生数が戦後最多だったのは、終戦間もない1949年の269万7,000人だ。70年も経たないうちに約3分の1に減った計算である。あまりに速い。

古い文献にあたって行くと、意外な事実が浮き彫りになってきた。背後に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の関与の跡が見つかったのだ。人工妊娠中絶や避妊による産児制限が日本に普及するよう巧妙に仕向けていたのである。

戦後のベビーブームがわずか3年間で唐突に終わりを告げたことが、何よりの証拠だ。最終年の1949年と翌年の年間出生数を比較すると、一挙に36万人も減っている。戦後のベビーブームは「3年で終わった」のではなく、3年で終わらせた"人災"だったということになる。

だが、人口の多寡が「国力」を左右した戦前・戦中においては、人為的に人口を減らす産児制限は"禁断の政策"であった。占領下にあったとはいえ当時の日本政府は拒絶反応を示した。「民族の自殺」であり、将来的な国家の滅亡につながると考えたからだ。国会で芦田均厚相は「一度出生率が減少する傾向になった場合には、いかなる民族でも、これを人口増加の傾向に回復することが困難である」と危機感をあらわにしている。第二次世界大戦が終わってもなお、日米間で人口をめぐる戦争が続いていたのである。

詳細については、筆者の最新刊である『日本の少子化 百年の迷走 ――人口をめぐる「静かなる戦争」』(新潮社)にまとめたので是非、そちらをお読み頂きたい。本稿ではその一部を紹介することにする。

GHQが「人口戦」を仕掛けたのは、食糧難にあえいでいた戦後の日本で人口過剰論が擡頭したためだ。これを放置すれば、「いずれ日本は軍事的野望を再燃させるか、共産国化に結びつく」と懸念したのである。

だが、占領国が人口抑制策を押しつけることになれば、国際社会から厳しい批判を浴びる。そこでGHQは、日本人自身の手によって普及させるシナリオを描いた。

目を付けたのが、戦前の産児調節運動家のリーダーであった加藤シヅエ氏たちだった。そのやりとりが、自叙伝『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』(日本図書センター)に残されているので引用しよう。

「ある日、ジープが家の前に停まりましたの。(中略)二世で、塚本太郎さんというGHQの民間情報教育局の方でした。家に上がっていらっして、こうおっしゃるの。『今日は実は、お願いに来ました』って。何事かと思いましたら、『日本に新しい民主主義の法律を作らなくてはならないので、御夫婦にいろいろな意味で相談相手になって貰いたい。非公式に顧問を引き受けて頂けませんか』とおっしゃいました」というのだ。

GHQが加藤氏たちに期待したのは、産児制限の合法化だった。そのためには加藤氏を国会議員に押し上げる必要があった。これについても自叙伝に生々しく書かれている。

「ある日、GHQの将軍が突然訪ねていらっしゃったんです。『どうしてあなたは立候補しないんですか』って訊かれましたので、『夫が立候補しているのに、私まで出るなんて考えられません』と申しましたら、『婦人参政権を与えよと言ったのは、あなたじゃないですか。戦前から運動を続けて来た張本人が、そんなことでいいんですか』って、懇々と説得なさるんです」というのだ。衆議院議員となった加藤氏たちは、産児制限を認める優生保護法を成立に漕ぎ着けた。

産児制限が大きく普及したのは、日本政府が推進に転じてからだ。占領下の日本の悲願といえば国家主権の回復だが、サンフランシスコ講和会議を前にして政府内に「独立国になるには人口問題を自ら解決できることを国際社会にアピールする必要がある」との声が高まっていたことが背景にあった。

日本政府の方針転換を受けて優生保護法に改正が加えられ、世界で初めて「経済的理由」でも中絶が認められる国になると、戦後のベビーブームはピタリと終わった。そして、主権回復から間もない1952年5月には、「経済的理由」に該当するかどうかの判断を医師に委ねる再度の法改正も行われ、日本は今日に至る長い少子化の歴史を辿ることになったである。

GHQの働きかけは法改正だけではなかった。「少なく産んで、大事に育てる」という考え方を定着させて行ったのだ。産児制限はGHQの生活改善運動に乗って地域ぐるみの「新生活運動」の一環となり、日本人の価値観を決定的に変化させたのが新憲法であった。日本国憲法24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」と盛り込んだことが、日本人の結婚や出産に対する考え方を大きく変えた。結婚は人生における選択肢の一つとなり、現在の未婚・晩婚ともつながっている。

ベビーブームの終焉は、「中絶ブーム」の到来でもあった。1957年には10人の子供が生まれてくる間に7人は中絶されるという異常事態となった。これには、日本政府も動揺を隠せなかったが、妊娠をコントロールする術を知った国民の価値観を引き戻すことはできなかった。

さらに、戦後の民主化教育で「産めよ殖やせよ」という戦前・戦中の人口増加策に対する国民の反発やアレルギーが醸成されていたこともあって、政治家や官僚たちが国民の結婚や出産といった政策に口出しすることをタブーとする雰囲気が政府内に出来上がって行った。「民族の自殺だ」と強く抵抗していた敗戦直後のような強い反対意見は次第に聞かれなくなったのである。

ここまで、かなり大掴みながら、GHQの主導で始まった日本の少子化の流れを見て来た。そして今、安倍晋三政権は、歴代内閣が避けてきた「2060年に1億人程度の人口確保」という数値目標を掲げ、結婚や出産に関する国民の希望が叶った場合の「国民希望出生率1・8」を実現させるべく、取り組みを強化し始めた。人口が減り始め、もはや日本には時間的な余裕がなくなってきたということだ。

目標の実現は簡単ではないだろう。だが、出来ない理由を探すだけでは何も変わらない。久々の出生数増のニュースに接したことを契機に、70年近くも前のGHQによる呪縛を解くことから始めたい。

河合雅司(産経新聞 論説委員)

日本の戦争終結と平和のために真夜中に起きてファチマの聖母に祈っていた横浜教区長ラウレンチオ戸田帯刀神父

2017年07月13日 | ファチマの聖母
「戸田帯刀・横浜教区長暗殺70周年に思う」(by ジャーナリスト・佐々木宏人)の引用を紹介します。



戸田師が射殺死体で発見されたのは1945(昭和20)年8月18日の夕刻、カトリック保土ヶ谷教会聖堂の右手にある司祭館1階の現在の事務室だった。

当時、山手教会は聖堂も海軍横浜特設港湾警備隊に接収、司教座は保土ヶ谷教会に移らざるを得なかった。

戸田師は終戦の8月15日の天皇の敗戦を告げる玉音放送のあった翌日の16日、山手教会に居座る港湾警備隊の幹部の所に単身乗り込み、教会の返還を求めた。

しかし敗戦を受け止められない将校らに「アーメン野郎、何を言うか!」と軍刀で切りつけんばかりの怒声を浴びた。その怒りが憲兵に伝わり、拳銃で射殺されたといわれてきた。

司祭館に入っていく憲兵服姿を聖堂の窓越しに見た目撃者がいたが、犯人は分からず、戦後十数年後、東京・吉祥寺教会に「私が犯人です」と名乗り出た男がいた。

しかし連絡を受けた東京大司教区は、事情も聞かず「赦(ゆる)します」と伝えて行方は分からない。

1944(昭和19)年の横浜教区長の着座式が、伊勢佐木町近くの若葉町教会(現・末吉町教会)で行われた。

その時、丸坊主となって現れた戸田師は、「私は、世界平和のため、日本のため、自分の命をささげます」と決意を語った。今、保土ヶ谷教会の聖堂脇には、この言葉を刻んだ小ぶりな石碑が立てられている。



戸田師は保土ヶ谷教会に司教座が移る前の5月1日から50日間、午前0時から2時間、ファティマの聖母への取り継ぎを願い、山手教会の聖母像にひざまずき「平和」への祈りをささげたという。

この間には死者1万人を出した凄惨(せいさん)な横浜大空襲もあった。この祈りを終えた後、「日本は8月15日の聖母被昇天の日に終戦を迎える」と預言したという。


封印された神父殺害事件 終戦3日後の銃声からの引用をご紹介します。

横浜教区長の戸田帯刀(たてわき)神父(当時47歳)があおむけに倒れ、遺体で見つかったのは、終戦3日後の45年8月18日夕刻だった。軍用拳銃のものとみられる銃弾が頭部を貫通し、背後の窓ガラスを何枚も貫いて中庭に落ちていた。

 「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」。戦時下の44年10月、教区長に就任した際、そうあいさつしたという。・・・

 事件の約10年後、犯人を名乗る男がカトリック吉祥寺教会を訪れ、ドイツ人の神父に「悔いています」と言った。信徒らによる後の調査では、連絡を受けた東京大司教区は当時、元憲兵と思われるこの男から事情を聴くことも、警察に届けることもしなかったとされる。

 45年8月18日、土曜の午後だった。教会近くに住んでいた山本陽一さん(83)はふらりと家を出た。3日前に勤労動員先の工場で玉音放送を聞き、ようやく訪れた静かな日々だった。「教会の前の道に通りかかった時、『バーン』という鈍い音が聞こえたんです」。70年前の記憶をたぐり寄せるように証言した。

 何の音だろうか。驚いて立ち止まると、カーキ色の軍服に戦闘帽姿の男が教会の門から出てきた。どんな顔だったかは思い出せない。男は慌てた様子もなく山本さんとすれ違うと、右に曲がり、歩いて姿を消した。教会で何が起きたのか。その日は分からなかった。

 当時の信徒からの聞き取りによると、戸田帯刀(たてわき)・横浜教区長(当時47歳)が倒れていたのは司祭館1階の応接室。近くの柱時計は「午後2時40分」または「午後2時45分」で止まっていたという。逃走時に犯人が壁にぶつかり、止まったという説があり、黒い司祭服を着た戸田神父はその2-3時間後に遺体で見つかった。夕食の準備に訪れた賄いの女性が発見し、慌てて近所の信徒に知らせ、警察官が来た。

 戸田神父は2階の寝室で昼寝をしていた形跡があり、犯人は客を装って訪問し、至近距離から発砲したとみられる。1発で頭部を撃ち抜いた手口から銃の扱いに慣れていること、さらに神父が一人になる昼食後に訪問していることから、周到な計画性もうかがわせた。中庭に落ちていた銃弾は軍用だったと伝えられる。

 人の恨みを買うとは思えないカトリックの高位聖職者が教会内で射殺された異常な事件だった。だが、終戦間もない混乱の中、事件は報道されず、今となってはどのような捜査が行われたのかも不明だ。現場の応接室には長い間、厚いビロードのカーテンが引かれていたという。

 戸田神父は1898年、山梨県北部の山あいにある西保(にしほ)村(現山梨市牧丘町)の養蚕農家に生まれた。6人きょうだいの5番目。今はブドウの名産地として知られるが、当時の村は貧しく、2人の兄は移民として米国とカナダに渡った。帯刀少年は体が弱く農業に不向きだったという。ただ、成績は優等で、高等小学校や教員養成所を卒業後、いとこを頼って上京し、開成中学に進んだ。

カトリックとの出合いは、いとこの家族と東京下町の本所教会を訪ねた3年の時。洗礼を受け、神学校を経て、関東大震災があった1923年にローマ・ウルバノ大学に留学した。5年後に帰国すると、大正デモクラシーは終わり、日本は激動の昭和に突入していた。

開戦4カ月後の42年3月、札幌教区長を務めていた戸田神父は北海道の特高警察に連行された。

その直前には、理事長を務めていたカトリック系の商業学校での軍事教練に消極的だとして、軍部から批判されてもいた。


2年後の44年10月、横浜教区長に転任。就任の式に現れた戸田神父は丸刈り頭で、出席者はその姿に目を見張り、覚悟を感じ取ったという。戸田神父は述べた。「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」

ある学者が、米国立公文書館で日本のカトリックに関する資料を探した際、戸田神父の名がある報告書を見たというのだ。試みにインターネットで氏名を入力し検索すると、容易に見つかった。米中央情報局(CIA)のホームページだ。「機密 大統領宛て文書 日本人交渉者」のカテゴリーに報告書はあった。

「タテワキ・トダは」で始まる報告書は45年4月11日、CIAの前身、米戦略事務局(OSS)の情報源が発信したものとしている。死の直前のルーズベルト大統領に届けられた。戸田神父が当時のローマ法王ピオ12世に宛て、終戦工作のための提言を送ったとする内容だ。戸田神父は法王に「太平洋戦争についての調停の試みを放棄していない」ことを昭和天皇へ伝えるよう求めたとされている。

ローマ法王を仲介した日米の終戦工作は、同年6月に米側から提案したことが明らかになっている。OSS文書が事実なら、工作はより早く、沖縄戦のさなかに始まっていたことになる。しかし、報告書は、戸田神父を「皇族の一員」と記載するなど、明らかに事実と異なる内容が盛り込まれていた。

情報源を示すコードネームは「ベッセル(船)」とある。ベッセルは、バチカンで活動していた米国のスパイのコードネームで、イタリア人記者ら複数の人物が関わったとされる。ベッセルの報告書には偽情報が多い時期があり、内容の信用度をめぐって論議を呼んできた。「戸田神父に宮中との関係がないなら(報告書は)虚偽だろう」。日本近現代史の第一人者、保阪正康さんは言った。

ただ、戸田神父は、皇室の侍従らと交流のあったドイツ出身のシスターと親しく、この人に遺書を託していたと伝えられる。また、ローマに留学経験があるとはいえ、バチカンでは無名の存在といえる戸田神父が、なぜOSSの諜報(ちょうほう)網にキャッチされたのかという疑問も残る。

報告書は虚偽を含むが、実際に戸田神父がバチカンに働きかけていた可能性はないのか。あるいは、工作活動は事実無根であったとしても、報告書の内容が日本の官憲に伝わり、何らかの意図によって事件につながった可能性はないのだろうか。


カトリック吉祥寺教会は戦後間もなく、東京都武蔵野市の緑豊かな街並みに建てられた。戸田神父の事件を調べている元毎日新聞記者で、カトリック信者の佐々木宏人さん(74)によると、射殺事件の約10年後、この教会を中年の日本人の男が訪れた。応対したドイツ人の神父に自分の名を告げ、「私が射殺した」と話したという。しかし、男は警察に通報されることもなく、姿を消した。

佐々木さんは6年前、カトリック吉祥寺教会に在籍していた神父に取材を試みた。ドイツ人神父の後任にあたる人物で、取材依頼の返信はがきにこう書かれていた。名乗り出た男について「元憲兵隊の横浜地区の人だと聞いております。私はその事実を確かめることなく過ごしております。何らの手がかりもありません」。便りの数年後、神父は亡くなった。

やはり憲兵の犯行なのか。保阪さんは「終戦直後の憲兵は戦争責任を恐れて混乱していた。3日後ならなおさらだ。しかし、憲兵が戦後に民間人を射殺したケースは聞いたことがない。推測だが、神父を生かしておくと都合の悪い、よほどの事情があったのだろうか」と話した。

保土ケ谷教会の聖堂わきに「世界平和のために働きます」と刻まれた石碑がある。戦時下の44年10月、教区長の就任の式で戸田神父が述べた言葉だ。石碑は主任司祭だったニュージーランド出身のバリー・ケンズ神父(83)が10年前に建てた。

東京教区ニュース第344号より

2017年07月12日 | マーチフォーライフ
東京教区ニュース第344号からの引用です。

■いのちの行進〜マーチフォーライフ

7/17(月)
築地教会で
妊娠中絶を合法とする社会が「いのちの文化」に向かうことを求めて
15:00 ミサ「産まれる前の子どものために」
司式:レオ・シューマカ神父

16:00出発〜マーチフォーライフ(March for Life) 教会を出て築地、日本橋、八重洲、銀座をデモ行進します

主催:マーチフォーライフ実行委員会
問合せ:e-mail:info@prolife.jp
Tel/0422-27-1392(池田)



3人の牧童~ジャシンタについて

2017年07月11日 | ファチマ
「ファチマの聖母 2」 から、聖ジャシンタについて引用します。


ジャシンタ(1917年10月-1920年2月20日)

ジャシンタは兄のフランシスコとはかなり違った性格と気質を持っていました。兄と妹はファチマの聖母のメッセージの二つの面をそれぞれ生きる相補的な使命を摂理によって与えられたかのようでした。

フレール・ミッシェルはそのことについて次のようなことを言っています。瞑想的な魂を持っていたフランシスコはとりわけ神と聖母の悲しさに惹かれ、イエズスとマリアの苦しみに同情し、祈りによってイエズスとマリアの御心を慰めることを強く望んでいました。ジャシンタもまた優しい、愛情に溢れた心の持ち主でしたが、彼女は多くの霊魂が地獄の火の中に陥るのを見て心を痛め、できるかぎり彼らの罪の償いをし、マリアの汚れなき御心から彼らの回心の恵みを得たいと思いました。

聖母が1917年8月13日に告げられたメッセージの「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです」という言葉は彼女の心を捉え、彼女は聖母のこのメッセージを身をもって生きます。彼女の望みはできるかぎり多くの霊魂の救いであり、罪人の回心でした。そしてその罪人の回心のために祈りと犠牲を捧げました。

ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。1917年10月13日以降、ファチマの教区司祭フェレイラ師がその手記を完成させた1918年8月6日までのわずか10ヶ月くらいの間にも、聖母が少なくともジャシンタに3回御出現になった、とフェレイラ師はその手記の中に書いています。

シスター・ルシアの手記にはこれらのジャシンタへの聖母の御出現については何も述べていません。ルシアはその手記の中で、ジャシンタには独特の預言的な幻視があったことに触れています。それは1917年7月13日の秘密のなかで告知された出来事に関する幻視です。おそらく1917年7月13日からジャシンタがインフルエンザで病床につくまでの1918年10月の間のいつかにあった出来事です。

三人でシエスタ(お昼寝)を終えた後、ジャシンタがルシアを呼んで次のような光景が見えないかどうか訊ねます。ルシアには見えませんでした。教皇が大きな家にいて、手で顔を覆い、テーブルのところに跪いています。教皇は泣いていました。家の外には多くの人がおり、ある人々は石を投げ、他の人々は教皇を呪い、きたない言葉を使っていました。ジャシンタはこう言います。可哀想な教皇、わたしたちは教皇のためにたくさん祈らなければなりません、と。

別の日に彼らがラパ・ド・カベソという洞窟に行ったとき、ジャシンタは次のような幻視を経験しています。道に人々が溢れ、彼らは食べ物がなくて飢えて泣き叫んでいます。教皇がある教会の中で聖母マリアの汚れなき御心の前で祈っています。多くの人々が教皇と一緒に祈っています。

これらの幻視は7月13日の聖母の預言、教皇の迫害や戦争の勃発に関係しています。これらのジャシンタの幻視は聖母がこの純真で感受性の鋭い小さな魂に聖母の御心を打ち明けられたものだ、とルシアは思いました。聖母のメッセージは私的・個人的性格のものではなく、全世界に向けられた公的な性格のものでした。聖母はジャシンタに未来を明らかにされ、教皇が迫害され、嘲けられ、見捨てられる様を見せられました。ジャシンタは教皇のためにどれほど祈らなければならないかを理解しました。

1918年10月の終わりにジャシンタがインフルエンザにかかったとき彼女はそれが苦しみの始まりであることを自覚していました。彼女はすでに「十字架を通して光へ、死を通して生へ」(Per crucem ad lucem. Per mortem ad vitam)至るべきことを天使からそして聖母から教えられていました。1916年夏にアルネイロの井戸のそばで三人の子どもたちは天使から「主が与え給う苦しみを従順に受け入れ、堪え忍びなさい」と言われていました。

また1917年5月13日には聖母から「あなたがたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなたがた自身を神に捧げ、神があなたがたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか」と訊かれて、ルシアは皆を代表して、「はい、喜んで」と答えています。聖母はそのときこう言われました。「それでは、あなたがたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があなたがたの慰めとなるでしょう。」この時以来、ジャシンタはどれほど多くの祈りと犠牲をアルネイロの井戸のそばで捧げたことでしょう!

ジャシンタが病状がすこしよくなったときにルシアに次のように打ち明けたことがあります。彼女と兄のフランシスコに聖母が御出現になり、「フランシスコをまもなく天国に連れてゆきます」と言われましたが、ジャシンタに「罪人をもっとたくさん回心させることを望んでいますか」と訊ねられました。ジャシンタが「はい」と答えると、聖母はたくさん苦しむために病院に行くことになる、癒されるためにではなく、主の愛のため、また罪人のためにもっと苦しむために二つの病院に行くことになる、とジャシンタに告げられました。

ジャシンタは苦しむことが多ければ多いほど、それだけ多くの霊魂を地獄の火から救うことができるということを理解していました。このようにして、ジャシンタは家族やルシアから遠く離れた病院で孤独のうちにその短い生涯を終えることになります。

ジャシンタは1918年10月の終わり以降、気分のいい数日間を除いてベッドから離れることができませんでした。気管支肺炎の後に肋膜炎が彼女に大きな苦しみを与えました。彼女は自分の苦しみについて決して愚痴を言わないようにしていました。それは一つには母親であるオリンピアに対する繊細な配慮からであり、一つにはこのおまけの犠牲を捧げるためでした。ジャシンタは母親に言わない苦しみをルシアには告げていますが、こうつけ加えています。「わたしはわが主のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のためそして罪人の回心のために苦しみたいの」。

ジャシンタは誰の目から見ても愛すべき、感受性に富んだ、愛情深い心の持ち主でした。天使と聖母の御出現以来、ルシアやフランシスコとは特別な霊的関係で結ばれ、彼らとの友情は病気になって以来の彼女の最も甘美な慰めでした。ジャシンタはこの幸せの最後の源をも犠牲として捧げるために断念しようと努めていました。

1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、とお二人に伝えてちょうだい。」

フランシスコとの別れはジャシンタの心を引き裂きましたが、その悲しみ、苦しみを犠牲として捧げました。前にも述べましたように、病床に釘付けにされて、彼女は愛する兄の葬儀にも参加できませんでした。

1919年7月に医師の勧めで、ジャシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの聖アウグスティヌス病院に入院することになりました。このようにして聖母の預言は実現されるのです。ジャシンタは自分が癒されるためでなく、苦しむために入院するのだということを知っていました。

7月1日から8月31日までの2ヶ月間の入院生活はジャシンタには大きな苦しみを与えましたが、とりわけ彼女の苦しみを大きくしたのは孤独でした。フランシスコを失って、残るルシアにジャシンタは会いたくてたまりませんでした。アルジュストレルの村からヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムまでは15キロメールほどの距離があり、行くのは大変でした。それでも、母親のオリンピアはルシアを連れて2度ジャシンタの見舞いに行っています。このときにも、ジャシンタはルシアに大きな苦しみを罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために捧げると伝えています。

8月末に治療の結果もはかばかしくなく、またマルト家の家計も許さなくなったので、ジャシンタは退院して家に帰ります。ジャシンタは横腹の傷が化膿し、傷口がふさがりませんでした。彼女はいつも熱があり、身体は骸骨のように痩せていました。

ルシアは2年前に3人で訪れたカベソの丘へ行って、アイリスやシャクナゲの花を摘んでジャシンタの病床に持って行きます。ジャシンタは「わたしはもう二度とあそこに、そしてヴァリニョスやコヴァ・ダ・イリアにも行けないわ」と言って涙を流します。ルシアは「それが何よ。あなたは天国に行って主イエズスや聖母に会えるじゃないの」と言ってジャシンタを慰めます。ジャシンタにはもう残された時間はあまりありません。そのわずかの期間にはもっと辛い日々が待っていました。

ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。しかし、聖母はそのとき、御自分がジャシンタを天国に連れにくるから、怖がらなくてもよいとジャシンタに言われました。この聖母の預言は思いがけない仕方で実現されます。

ジャシンタの両親はヴィラ・ノヴァの病院での治療が思わしくなかったので、娘を別の病院に入院させることは無益だと考えていました。1920年1月半ば頃にリスボンの有名な医師であるリスボア博士がファチマを訪れ、フォルミガオ神父とサンタレムの神学校教授に会い、ジャシンタの治療について協力を求めました。この医師と教授の説得を受け、両親はフォルミガオ神父にも相談して、ジャシンタを首都リスボンの病院に送る決心をしました。

ファチマを永遠に去ることが決まって、ジャシンタは母親に願って最後の機会にコヴァ・ダ・イリアへ連れて行って貰いました。もちろんジャシンタは自分で歩けませんので、ロバの背に乗せられてそこへ行きました。カレイラ池についたとき、ジャシンタはロバから下りて、一人でロザリオの祈りを唱えました。彼女はチャペルに供えるために花を摘みました。チャペルでは跪いて祈りました。そして母親のオリンピアに聖母が御出現になったときの様子を語って聞かせるのでした。

ついにファチマを去る日が来ました。ジャシンタはルシアと抱き合って最後のお別れをしました。「わたしのためにたくさん祈ってね。わたしが天国に行ったらあなたのためにたくさん祈るわ。秘密を絶対漏らさないでね。イエズス様とマリアの汚れなき御心をたくさん愛してくださいね。そして罪人たちのためにたくさん犠牲を捧げてくださいね」

そう言って彼女は泣きました。母親と長兄のアントニオが付き添って行くことになりました。リスボンまで汽車に乗っての旅でした。

リスボンで彼女たちを病院に入るまでの間引き受けてくれるはずであった人が、ジャシンタのあまりにも惨めな状態を見て、引き受けることを拒みました。ジャシンタは傷口が化膿していて、いやなにおいを発していたこともありました。

何軒も家を廻って断られたあげく、最後に一軒の家に受け入れて貰い、一週間ほどそこにいて、オリンピアとアントニオはファチマへ帰りました。ジャシンタは最終的に「奇蹟の聖母」と呼ばれる孤児院に受け入れられました。

その施設の創設者マザー・ゴディーニョは最年少の幻視者の一人を自分のところに受け入れられたことをたいへん喜び、自分に与えられた名誉を誇らしく思いました。ジャシンタはその施設でミサに与り、御聖体を拝領するという思いがけない恵みを受けたことを喜びました。

リスボア博士はジャシンタを入院させて、手術をしようと思っていましたが、思いがけず母親のオリンピアの強い反対に出会いました。しかし、オリンピアも最終的には同意して、1920年2月2日にジャシンタは「奇蹟の聖母」孤児院を出て、ドナ・エステファニア病院小児病棟に入院します。

彼女は自分の最期が近いことを知っていましたが、それとは関係なしに事は進みます。彼女は孤児院にいたときのような、御聖体を礼拝したり、拝領したりできなくなりました。そのことはまさに彼女にとって一つの大きな犠牲でした。マルト家では他の子どもたちが病気にかかり、オリンピアはジャシンタを置いて帰郷しなければならなくなりました。

2月5日、ジャシンタは一人きりになりました。マザー・ゴディーニョや他の女性たちが毎日、見舞いには来てくれましたが、母親に代わることはできませんでした。このようにして、聖母の預言は実現されました。ジャシンタはこの大病院の中でたった一人で死んで行かなければなりません。

ジャシンタの手術を担当したのはカストロ・フェレイレ博士でした。「化膿した肋膜炎。左第7および第8肋骨骨炎」という診断でした。手術は2月10日に行われました。2本の肋骨が切除されました。毎日の傷の手当は耐えられないほどの苦痛を与えました。ジャシンタは聖母の御名を繰り返していました。

父親が一度見舞いに来ましたが、長く滞在できず、苦痛と孤独に悩まされているジャシンタを残して直ぐに帰りました。死の3日前、ジャシンタはマザー・ゴディーニョにこう打ち明けています。「マザー、わたしはもう痛みがありません。聖母がまた御出現になって、もうすぐわたしを連れていく、わたしはもう苦しまないでしょう、とおっしゃいました」。

リスボア博士が術後の経過のよいことを父親のマルト氏とアルヴェアゼレ男爵に手紙を書きましたが、ジャシンタは彼女の死の日時を知っていました。リスボア博士の報告によれば、2月20日金曜日の夕方6時頃、ジャシンタは気分が悪くなったから終油の秘蹟を受けたいと言いましたので、教区司祭のペレイラ・ドス・レイス博士が呼ばれました。夜8時頃に彼はジャシンタの告悔を聞きました。

ジャシンタは臨終の聖体拝領をさせてほしいと頼みましたが、レイス神父は彼女が元気そうに見えたので、その願いに同意せず、明朝御聖体を持って来てあげると言いました。ジャシンタは繰り返し、まもなく死ぬから臨終の聖体拝領をさせてほしいと願いました。結局その夜彼女は亡くなり、御聖体は拝領しないままでした。

このようにして、聖母の預言がすべて実現しました。ジャシンタはその最期に両親や友人も誰一人そばに付き添わずにたった一人で亡くなりました。彼女があれほどに望んでいたホスチアの中に現存されるイエズスをいただくという至高の慰めからも遠ざけられて最大の犠牲を捧げたのでした。

3人の牧童~フランシスコについて

2017年07月10日 | ファチマ
ファチマの聖母 2」から、聖フランシスコについて引用します。



フランシスコ(1917年10月-1919年4月4日)

フランシスコは瞑想的で優しい心の持ち主でした。彼は御出現を受けて聖母と神御自身が無限に悲しそうであると感じ、この御二人を慰めたいといつも考えていました。エフェソの信徒への手紙の中で聖パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4,30)と言っているように、神は私たちの罪のために悲しまれるのです。

イエズスはゲッセマネで祈られたときに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコ、14,34)と言われました。イエズスの御受難を預言していると言われる詩編69ではこう言われています。「わたしが受けている嘲りを、恥を、屈辱をあなたはよくご存じです。わたしを苦しめる者は、すべて御前にいます。嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見だせません。人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(20-22)。

イエズスはパレ・ル・モニアルで聖マルガリタ・マリアに御出現になったとき、詩編のこの言葉と同じ嘆きを、棘に取り巻かれた御自分の聖心をお示しになりながら洩らされました。

フランシスコはこの神の悲しみを慰めたいと心底から思っていました。彼は妹のジャシンタといとこのルシアにかつてこう言っています。「ぼくは神様をとても愛している。だけど罪があまりにも多いので、神様はたいへん悲しんでいらっしゃる。ぼくたちはもう二度と罪を犯してはいけないんだ。」

すでに1916年にカベソにおいて天使が3人の子どもたちに御聖体のうちにおられるイエズスに対する侮辱の償いをし、イエズスを慰めるように招きました。御聖体と御血を与える前に天使は彼らにこう言いました。「恩知らずの人々によって恐ろしく侮辱されたイエズス・キリストの御身体を受け、御血を飲みなさい。彼らの罪のために償いをし、あなたがたの神を慰めなさい。」

フランシスコはこの償いと慰めが祈りと犠牲によって行われることをよく理解していました。フランシスコは一人でいることを好み、神を慰めるためによく祈りました。彼はまた食事や水を自らに制限して犠牲を捧げ、神を慰めていました。

フランシスコは神の「悲しみ」に対する感受性を持っていましたが、同時にまた病人や苦しんでいる人々に対して同情する優しい心を持っていました。彼は人から祈りを頼まれると必ず約束を守り、また彼の祈りはよく聞き入れられました。

1917年6月13日の御出現のとき、ルシアは聖母に天国に連れて行ってもらえるかどうかを訊ねていますが、聖母はそれに対して「ええ、フランシスコとジャシンタをまもなく連れて行きます」と答えておられます。このときからフランシスコとジャシンタは自分たちの生命がそれほど長くないことを知っていました。フランシスコは最後の御出現から1年半後に天国に召されるのです。聖母から天国へ連れていってもらえるという確信と神の「悲しみ」に対する特別の感受性はフランシスコの行いをよく説明します。

彼は短期間に驚くほど進歩しました。彼はある婦人から将来何になりたいか、いろいろの職業を挙げて質問されますが、そのどれをも否定してこう言っています。「そのどれにもなりたくありません。ぼくは死んで天国に行きたいのです」と。彼は「隠れたイエズス」すなわち、御聖体をしばしば訪問します。

最後の御出現からわずか1年後の1918年10月終わりにスペインに端を発したインフルエンザがヨーロッパに猛威を振るい、ポルトガルにも大流行します。8歳だったジャシンタと10歳だったフランシスコもこのインフルエンザにかかります。フランシスコもジャシンタもいったんはよくなるのですが、12月23日に再び悪化します。このとき特にフランシスコは半月も高熱が続き、動くこともできないほどになりました。そのような病状にもかかわらず、フランシスコはいつも明るく振る舞い、主イエズスを慰めるために自分の苦しみを捧げていました。

ジャシンタがルシアに語ったところによると、聖母がフランシスコとジャシンタに再び御出現になり、フランシスコをまもなく天国に連れて行くと言われたそうです。おそらく1918年のクリスマスの頃だったようです。翌1919年1月の半ば頃には2度目の回復の兆しがあり、起きあがれるほどでした。家族は喜んだのですが、フランシスコは自分の運命をすでに知っていて、「聖母がまもなく迎えにこられます」と繰り返していました。

1月の終わりか2月の初めにフランシスコは懐かしいコヴァ・ダ・イリアへ行くことができました。彼はそれがこの祝福された土地への最後の訪問であることを知っていました。

フランシスコは自分の役割がイエズスの聖心と聖母マリアの汚れなき御心を慰めることであるということをよく知っていました。彼が病床に臥していちばん残念だったことは、教会に行って御聖体の前で長い時間を過ごすことができなくなったことでした。

4月2日水曜日、フランシスコは御聖体をうけるために告解をしたいと望み、父のティ・マルトは教区司祭フェレイラ師に家に来てくれるように司祭館まで頼みに行きます。フランシスコは告解のための入念な準備をします。告解の後、遂に念願の聖体拝領をします。

1919年4月4日金曜日フランシスコは最後の日を迎えます。彼は母親を側に呼び、こう言います。「お母さん、ドアの側にあの美しい光を見てよ!」しばらくして、「もう見えないよ」。夜10時頃、彼の顔は天使のほほえみで輝き、苦しむことなく静かに息を引き取ります。

4月5日土曜日小さな葬列がフランシスコの遺体をファチマの墓地へ運びました。ルシアは涙ながらに葬列に加わりましたが、ジャシンタは病床にとどまらなければなりませんでした。このようにして、聖母の預言は成就し、ファチマの幻視者の一人が天国へ旅立ちました。フレール・ミッシェルは聖ルイ・ド・モンフォールの次の言葉がフランシスコに適用できると言っています。「人は自分自身の意志に長年従い、自分自身に頼ることによってよりも、短い時間にマリアに従い、より頼むことによってより多く進歩する」。

3人の牧童~ルシアについて

2017年07月09日 | ファチマ
「ファチマの聖母 2」から、ルシアについて引用します。



ルシア(1917年-1925年まで)

「私はジャシンタとフランシスコをまもなく連れて行くでしょう。しかし、あなたはそれよりも少し長く地上にとどまらなければなりません。イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます。イエズスはこの世界に私の汚れなき御心への信心を打ち立てることを望んでおられます」

1917年6月13日の御出現のときに、聖母はルシアにこう言われました。定められたときにマリアの汚れなき御心と教会と世界に関するマリアのお望みのメッセンジャーとなる前にルシアが果たしておかなければならなかった仕事が二つありました。

一つは彼女が見そして聞いたすべてのことについて絶え間ない証言をすること、明瞭で説得力のある証言をすることでした。

その次ぎに、そのことを実現できるための力をつけること、-これも同じ日に聖母がルシアに望まれたことですが-「読み書きの勉強をすること」でした。聖母はルシアが天のメッセージを教会と世界に伝達することができるようになるために、勉強を望まれたのでした。「イエズスは人々に私を知らせ、愛させるためにあなたを使うことを望んでおられます」と聖母は言われたからです。

1917年10月の御出現以後、ルシアの身に起こったことを簡単に見ておこうと思います。

10月の大奇蹟以後、人々は三人の幻視者たちを追いかけては質問を試みました。彼らはそういう人々から身を隠すのに大変な労力を使っています。彼らは皆非常に謙遜でしたから、人々から褒められたり、聖人扱いされることを用心していました。ルシアは司祭たちから何度も厳しい尋問を受けています。聖母のメッセージの中でまだ明かしてはならない秘密の部分がありましたから、ルシアが尋問に対して答えられない場面が何度もありました。

ルシアは司祭たちの尋問の厳しさをいつも経験し、神と聖母にどうしたらよいか何度も祈って訴えています。司祭の中には脅迫や嘘や侮辱によってルシアから秘密を聞き出そうとする人もいました。ルシアにとって司祭と話をすることが神に捧げる最も大きな犠牲の一つであることもたびたびでした。もちろん、例外もありました。カノン・フォルミガオ神父やファウスティノ・ヤチント・フェレイラ神父などがそうです。フェレイラ神父は賢明で親切な助言者、真の霊的指導者でした。

1919年4月フランシスコの死が訪れ、ルシアは非常に悲しみ、寂しさを感じます。この悲しさはこれ以後の長い年月の間ルシアの心を貫く茨の冠であったと彼女は述べています。ジャシンタの項でものべましたが、フランシスコの死の3ヶ月後に今度はジャシンタがヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの病院に入院することになり、ルシアはまた辛い別れを経験します。ジャシンタが入院していたこの3ヶ月の間にたったの2度短い訪問をしただけでした。

ルシアには不幸が積み重なってきます。1919年7月31日に頑健であった父アントニオが肺炎で急死します。いつもルシアを理解し、ルシアの味方になってくれていた父を失ってルシアは死んだ方がよいと思うほどに悲しみました。聖母にたくさん苦しまなければならないと言われていたものの、このような悲しみが襲うとは思いもよらないことでした。しかし、ルシアはこの苦しみをマリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いとして、また教皇のため、罪人たちの回心のために捧げます。アントニオはあまり熱心な信者ではありませんでしたが、亡くなる前に神との和解である告解の秘蹟を受けていたことがせめてもの慰めでした。

1919年にはルシアの悲しみはまだ続きます。冬に母マリア・ロサが病に倒れます。心臓疾患によるひどい咳で死にそうになります。子どもたちが母の周りに集まって彼女から最後の祝福を受けました。皆泣きました。姉の一人がルシアに「あなたが巻き起こしたごたごたで母さんは悲しんで死んで行くのだわ」と言って責めます。ルシアは悲しくなって跪いて祈り、その苦しみを主に捧げました。別の二人の姉がルシアのところに来て、母の状態が絶望的だと考え、ルシアにこう頼みます。「ルシア、あなたがもし本当に聖母を見たのならば、いますぐコヴァ・ダ・イリアまで行ってお母さんを癒してくださるようマリア様にお願いして来て。」

ルシアは直ぐに出かけ、道々ロザリオを唱えながら、抜け道を通り野原を横切ってコヴァ・ダ・イリアまで急ぎました。そこで、聖母に涙ながらに母の癒しを願いました。聖母はきっと自分の祈りを聞き入れて母の健康を回復してくださるという希望に慰められてルシアは帰途につきました。

帰宅すると、母の気分は幾分よくなっていました。ルシアは聖母に願いを聞き入れてくださったら、姉たちと一緒に9日間コヴァ・ダ・イリアに行き、ロザリオを唱え、道路からウバメガシのところまで膝で歩いて行く苦行をし、9日目に9人の貧しい子どもたちを家に招いて食事を出す約束をしました。ルシアがしたこの苦行は今日でもファチマの巡礼者たちの間に見られるものです。

1920年2月20日にはリスボンの病院で聖母の預言どおりにジャシンタが一人ぽっちで亡くなりました。ルシアはリスボンへは一度も見舞いに行けませんでした。ジャシンタの遺体はヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムに葬られました。オリンピアに連れられてお墓参りに行きましたが、ルシアの悲しみはいやましに深くなりました。

フォルミガオ神父は1917年10月13日以来、子どもたちをファチマから離した方がよいと考えていました。今やルシアは13歳の思春期の少女です。神父は彼女が寄宿舎のある学校に入ることをマリア・ロサに勧めます。最初、渋っていた母も神父の説得によって承諾し、リスボンに行く決心をします。フォルミガオ神父の紹介で親切な婦人-ドーニャ・アスンサオ・アヴェラル-がルシアを経済的に援助してくれることになりました。

このようにして1920年7月7日にルシアは母と一緒にリスボンに行きました。母のマリア・ロサは悪かった腎臓の手術を医師に相談しますが、彼女には余病もあったので医師は責任を持てないと言い、結局手術をせずに、ルシアをアヴェラル女史に委ねてファチマに帰りました。ルシアはしばらくこの婦人の家にいましたが、行政当局がルシアの居所を探していることがわかり、8月6日にサンタレムのフォルミガオ神父のところにかくまわれます。

1920年7月25日にレイリア教区に新たにダ・シルヴァ司教が叙階されました。フォルミガオ神父と相談してダ・シルヴァ司教自身がポルトの近くのヴィラルにあるドロテア姉妹会の学院をルシアのために選びました。1921年6月13日、ルシアはある婦人に連れられて司教館に行き、初めてダ・シルヴァ司教に会います。司教はルシアに対してとても親切で、彼女を正当に遇してくれました。マリア・ロサとの相談もなされて、ルシアの出発は6月16日と決まりました。

ルシアは大急ぎでファチマに帰って身の回りのものを整え、懐かしい場所に別れを告げなければなりませんでした。しかし、司教との約束で、ファチマの親しい人々と別れの挨拶をすることは許されませんでした。ですから、ルシアは友人や親戚の者に一言も彼女の落ち着き先について語ることができませんでした。彼女は出発の前に、懐かしい場所、カベソ、ヴァリニョス、井戸、教区の聖堂などに別れを告げ、もう来ることはないだろうと思って胸が締め付けられました。

このようにして、ルシアは1921年6月15日にひっそりとファチマに別れを告げたのでした。翌6月16日、ルシアは朝2時に起き、母マリア・ロサとレイリアまで出かける労働者のマヌエル・コレイラと一緒に、誰にも別れを告げずに、家を出ました。彼らはコヴァ・ダ・イリアを通って行きましたので、ルシアは最後の別れをこの尊い場所に告げることができました。

シスター・ルシアの手記には書いてありませんが、彼女が後に1946年5月にファチマに巡礼したときにガランバ神父に語ったところによれば、このとき、聖母が無言のままルシアに御出現になったそうです。朝9時頃レイリアに着いたルシアと母親はレイリアの司教館に行きます。そのときに、ダ・シルヴァ司教はルシアにもう一度、これからは自分が何者であるかを人に告げてはならない、ファチマの御出現に関してもいっさい他言してはならない、という勧告をしました。

ルシアはパトロンとなるドーニャ・フィロメナ・ミランダ-この人はルシアの堅信の秘蹟の代母となった人です-とレイリアの駅からポルトの近くのヴィラルに行く汽車に乗ります。駅で母と涙の別れをしました。6月17日朝早く、ドーニャ・フィロメナはルシアをアシロ・デ・ヴィラルのドロテア会の学院へ連れて行きます。ミサに与り、聖体拝領をした後で、院長のマザー・マリア・ダス・ドーレス・マガリャエスに紹介されます。彼女はルシアに司教と同じように、身元を明かさないようにという強い勧告をします。

ルシアはこれからはマリア・ダス・ドーレスと名乗り、リスボンの近くの出身であると他人に言わなければなりません。14歳のルシアはこのようにして、世間から隠れて学院の寄宿生として勉学に励むことになりました。

1923年から1924年にかけてルシアはカルメル会入会を強く望んでいました。幼きイエズスのテレジアが列聖されたばかりのことで、多くの女性がカルメル会に惹きつけられていたときで、ルシアもそうした女性の一人でした。しかし、1917年10月13日の聖母の御出現のときに、ルシアがカルメル会の修道服を着、スカプラリオを手にした聖母を見たことも関係があるのかも知れません。ルシアはおそるおそる院長にこの希望を打ち明けますが、一言のもとに退けられます。院長の意見ではカルメル会はルシアには会則が厳格すぎる、もっと単純な会則のところを選んだ方がよいというものでした。

その後ルシアはドロテア会のシスターになる望みをマザー・マガリャエスに申し出ます。院長はまだ17歳で若すぎる、もう少し待ちなさいと言います。ルシアは沈黙と従順のうちに1年以上待ちます。18歳になったとき、院長がまだ修道女になることを考えているかと聞いたとき、ルシアはずっとそのことを考えてきた、修道女になりたいと言いました。このようにしてルシアは1925年8月24日堅信の秘蹟を受けました。そしてドロテア会入会志願者となりました。ダ・シルヴァ司教は修道会の修練院のあるトゥイへ出発する許可を喜んでルシアに与えました。

10月24日学院でのお別れの会が開かれました。このとき身元を隠していたルシアの素性が明かされました。学院の少女たちは感動と涙でルシアにさようならを言いました。

ルシアは管区長のマザー・モンファリムに伴われて、国境の近くのスペインの古い町トゥイへ向かう汽車に乗りました。このようにして少女ルシアはシスター・マリア・ルシア・デ・ヘスス・サントスになったのです。ルシアの喜びはどんなに大きかったことでしょう!



シスター・ルシアの手記の日本語訳  III. ジャシンタの病気と死(続き)聖母からの訪問を受ける 5~6

2017年07月08日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第一の手記

III. ジャシンタの病気と死




5. 聖母からの訪問を受ける

もう一度、聖母マリア様はジャシンタを訪問して、ジャシンタに新しい十字架と犠牲が待っているということを教えて下さいました。ジャシンタはそのニュースを私にこう教えてくれました。
「マリア様は、私がリスボンへ行って別の病院に行くことになるだろうって、もうルシアちゃんと会えなくなるって、お父さんともお母さんとも会えないって、たくさん苦しんだ後ひとりぼっちで死ぬんだって、教えてくれたの。でもマリア様は、恐れてはいけませんよって、何故ならマリア様が私を天国に連れて行くためにいらっしゃるからって言ったの。」

ジャシンタは私に抱きついて泣きました。
「私、もう二度とルシアちゃんと会えない!ルシアちゃんは私のところに来てくれないの。ねぇ、お願い!私のためにたくさんお祈りして。たったひとりぼっちで死ぬんだから!」

ジャシンタはリスボンに発つ日まで極めてひどく苦しみました。彼女は私から離れずにすすり泣いて言いました。
「私、もう二度とルシアちゃんと会えない!お母さんとも会えないの!お兄さんたちとも!お父さんとも!もう二度と誰とも会えないの!それから、ひとりぼっちで死ぬの!」

ある日私はジャシンタにアドバイスしました。
「そのこと考えるのやめなさい。」
「そのこと考えさせて。考えれば考えるほど、私、辛いの。イエズス様への愛のために、罪人たちのために、苦しみたいの。でも、大丈夫。マリア様がそこで私のもとに来て、天国に連れて行って下さるから。

時折、ジャシンタは十字架像に接吻してそれを抱きしめました。そしてこう叫ぶのです。
「ああ、イエズスよ、御身を愛し奉る!御身を愛するために苦しみたい。」

ジャシンタが「あぁ、イエズス様!これは本当に大きな犠牲だから、今、多くの罪人たちを回心させることができます!」と何度たびたび言ったことでしょうか!

時々、ジャシンタは私にこう尋ねました。
「隠れたイエズス様を受けずに、私、死ぬのかな?マリア様が私を迎えに来られるときに、マリア様がイエズス様を私のところに持ってきて下さるなら良いのに!」

ある日、私はジャシンタにこう聞きました。
「天国でジャシンタちゃん何するの?」
「私ね、イエズス様をたくさん愛するの。聖母の汚れなき御心も愛するの。ルシアちゃんのためにお祈りする。罪人たちのために、教皇様のために、お父さんやお母さんやお兄さんやお姉さんたちのために、お祈りしてって私にお願いした人みんなのために、お祈りする。」

彼女の母親がこの子供があまりにも病気なのを見て悲しんでいると、ジャシンタは良くこう言いました。
「お母さん、心配しないでね。私、天国に行くの。天国でお母さんのためにたくさんお祈りするから。」

或いはこうも言いました。
「泣かないで。私、大丈夫だから。」

もしも何か必要なものがあるかと聞かれると、ジャシンタはこう答えました。
「ありません。ありがとう。」

彼らが部屋を出て行くとジャシンタはこう言うのです。
「私、喉が渇いた。でも飲みたくないの。イエズス様に罪人たちのためにお捧げしているの。」

ある日、私の叔母が私にたくさんの質問をしました。ジャシンタは私を自分のところに呼んでこう言いました。
「ルシアちゃん、誰にも私が苦しんでいるって言わないでね。お母さんにも言っちゃだめよ。お母さんを怒らせたくないの。」

別の機会には、ジャシンタが聖母の御影を胸に押しつけてこう言っているのを見つけました。
「あぁ、私のとっても愛する天国のお母様、私、ひとりぼっちで死ななければならないの?」

かわいそうなこの子は、孤独のうちに死を迎えるという考えに非常に恐れをなしているようでした。

私は、ジャシンタを力づけようと試みてこう言いました。
「ジャシンタちゃんが一人で死んだとしても、一体何で怖がるのよ。マリア様がお迎えに来て下さるんでしょう?」
「本当ね。怖がることないね。ホント。何でか分からないけれど、私、時々マリア様がお迎えに来て下さるって言うこと忘れちゃうの。私、ただルシアちゃんが私の近くにいなくて死んでしまうって事だけを思い出すの。」


6. リスボンへと発つ

ついにジャシンタがリスボンへと行かなければならない日がやって来ました。[注22]それは心の張り裂けそうな別れでした。長い間、ジャシンタは腕を私の首の周りに回して離れませんでした。すすり泣きをしながら「私たちはもう二度と会えないね!私が天国に行くまで、私のためにたくさんお祈りして。そしたら天国で、ルシアちゃんのためにたくさんお祈りする。秘密を誰にも言っちゃダメ。たとえ殺されてもダメ。イエズス様と聖母の汚れなき御心をたくさん愛して、罪人たちのために多くの犠牲をして。」

リスボンから、ジャシンタは私に、聖母がリスボンでジャシンタに会いに来られたと言ってよこしました。聖母はジャシンタに何月何日のいつ死ぬかを教えてくれた、と。それからジャシンタは私に、いつも良い子でいるように、言ってくれました。

[注22]1920年1月21日、ジャシンタはリスボンに連れて行かれ、エストレラ通り17番にあるゴディニョ修母による経営の孤児院に入院した。2月2日、ジャシンタはドナ・エステファニャ病院に連れて行かれ、そこで1920年2月20日午後10時30分に死亡した。


第一の手記の結び

私は今、司教様にあてた、ジャシンタの生涯の思い出について書き終わりました。天主様が、この従順の行いを受け入れて下さいますように祈ります。それは、イエズスとマリアの聖心に対する愛の炎を人々の心に灯すためです。

私は司教様に、一つのことをお願いしたいと思います。もし、司教様が、私が書いた物から何かを出版する場合に[注23]、貧しいみじめな私が書いたものだとは、何も言わないようにそうして下さることをお願いしたします。また、司教様がこれを読みすらしないでこれを焼き捨てたということを私が知るようになったとしても、私は大変うれしく思う、と告白いたします。何故なら、私は、司教様のはっきりした御旨を通して私たちに知らされた天主様の御旨への従順のためだけにこれを書いたからです。

[注23] ルシアのこの第一の手記にある思い出は、ヨゼフ・ガランバ・デ・オリヴェイラ博士により使われて、1938年5月、「ファチマの花、ヤシンタ」という題で出版された。

赤ちゃんの命を受け止めるには~千葉茂樹氏と永原郁子氏による講演会「赤ちゃんの命のバトン」

2017年07月07日 | プロライフ
興味深い記事をご紹介します。

CHRISTIAN TODAYの記事(2017年5月15日の記事)
赤ちゃんの命を受け止めるには~千葉茂樹氏と永原郁子氏による講演会「赤ちゃんの命のバトン」
http://www.christiantoday.co.jp/articles/23763/20170515/baby-hatch.htm

この講演会は2017年5月14日に開催されました。
                             
        マナ助産院(兵庫県神戸市)院長の永原郁子氏               映画監督の千葉茂樹氏(生命尊重センター名誉会長)
        =14日、主婦会館プラザエフ(新宿区四ツ谷)で


【記事全文 引用開始】

思わぬ妊娠で揺れる母親と赤ちゃんの命を考える講演会「赤ちゃんの命のバトン」(日本カトリック医師会主催)が14日、主婦会館プラザエフ(新宿区四ツ谷)で開催された。
さまざまな事情から赤ちゃんを養育することのできない母親が子どもの命を託す「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)が慈恵病院(熊本県)に設置されて10年たつ。全国で唯一、赤ちゃんの命を託せる最後のとりでとして始められたが、熊本市の公表によると、15年度までの9年間で「こうのとりのゆりかご」に預けられた赤ちゃんは125人。一方、日本に先駆けて同制度に取り組んでいるドイツでは、どのような運用がされているのだろうか。

この日の講演会は、映画監督の千葉茂樹氏(生命尊重センター名誉会長)によるビデオ上映から始まった。これは、日本人医師や助産師がドイツを訪問し、その運用方法、利用した母親への取材、社会の反応などをまとめたドキュメンタリーだ。
それによると、日本国内では若者の性の乱れが深刻化し、年間中絶件数32万件のうち、およそ12パーセントが10代だという。ドイツでも同じような事態に直面し、その取り組みの1つとして「赤ちゃんポスト」の運用が始まった。2000年の設置以来、現在では100以上の病院や施設に設置されている。

またドイツでは、赤ちゃんを産むか産まないかに悩む女性は、専門家との相談が義務付けられている。この「妊娠葛藤相談」の結果、母親が自分で育てることを望まないと決めた場合、匿名で身元を明かすことなく、費用も負担することなく安全に出産できる「匿名出産」というシステムも選択肢の1つとして考えることができるという。この「妊娠葛藤相談」「赤ちゃんポスト」「匿名出産」が赤ちゃんの命を救う受け皿になっているのだ。

インタビューを受けたドイツ人女性は、当初、1人で無介助出産をし、その後、「赤ちゃんポスト」に赤ちゃんを預けようと考えていた。しかし、「妊娠葛藤相談」の中で「匿名出産」を知り、その方法を選んだ。出産後、自宅から遠く、自分のことを誰も知らない土地で2カ月間、子どもと共に過ごし、それでも子どもと一緒に生活できないと感じれば、養子縁組に出せるという方法を知った。彼女は最終的に、子どもと一緒に生きていく選択をした。

ドイツの法律では、養子縁組には8週間プラス1日の猶予期間がある。この間に、養子縁組に出すか、自分と一緒に住むかは、母親が結論を出せばいい。その8週間は、「マザー・チャイルド・ハウス」と呼ばれる施設で過ごすこともできる。匿名出産した女性の多くが、このような施設で過ごし、結論を出すのだという。

ビデオの後、千葉氏は次のように話した。「このマザー・チャイルド・ハウスの存在には大きな衝撃を受けた。ここで、養子縁組をする夫婦と産みの母親が対面する現場なども見た。ドイツはキリスト教徒が多い国。もともと昔から修道院などで赤ちゃんを引き取ったり育てたりしてきた。日本は10年前に運用が始まったばかりだが、引き取った赤ちゃんをどのように養子縁組に出すかなど、今後の課題は多い」

次に登壇したのは、マナ助産院(兵庫県神戸市)院長の永原郁子氏。マナ助産院では毎週水曜日、スタッフ全員で聖書を開き、礼拝をささげている。
永原氏は今まで16年間、年間約120箇所の小学校や中学校で命や性に関する講演会を行ってきた。このような活動が認められ、今年、厚労省から「最優秀助産師」に選出された。
「性教育や避妊指導といった観点ではなく、『あなたの命は大切な命だ』ということに働きかけ、自分の命、自分の性、他人の命、他人の性を大切にできるということを訴えてきた」と永原氏は話す。

しかし、現在もなお若者の性の乱れ、命の軽視は深刻だと感じるという。中絶率はなかなか下がらないばかりか、出生後0日の虐待死も深刻だ。2004年の統計では、1年間に0日で虐待死した赤ちゃんは、分かっているだけで15人。その加害者の9割以上が赤ちゃんの母親だ。
「このことから想像するのは、思わぬ妊娠をして、誰にも相談できないまま月数がたち、どこかで人知れず無介助で出産をして、赤ちゃんの口をふさいだり首を絞めたりしているということではないだろうか」

このような赤ちゃんの命を救うためにできたのが、慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」だ。そして、この働きを関西にも広めようと、多くの産婦人科医からの協力を得て、マナ助産院にも設置を試みたが、行政からの許可は下りず、現在は面談型の「こうのとりのゆりかご」を運用している。
これは「自分では育てられない」と思い悩む女性のための相談窓口。すでに子どもを出産し、自分で育てる意志がある中で育児の悩みがある母親の「育児相談」とは大きく異なる。

面談型の「こうのとりのゆりかご」には、3つのラインがあると永原氏はいう。1つは、「身元を明かすこともできず、養子縁組の可能性もない場合」、2つ目は「身元を明かし、養子縁組の可能性を相談できる場合」、そして最後は「妊娠中の妊婦」。3つとも状態の悪い場合は緊急搬送をする。
母親の年齢や環境によって相談内容や処遇はケース・バイ・ケースだというが、「身元を明かすこともできず、養子縁組の可能性もない場合」は、神戸市こども家庭センター、または実親の居住地の担当管区の児童相談所に連絡し、赤ちゃんを託す。

養子縁組が考えられる場合、養親のトレーニングをマナ助産院が行い、民間団体と協力しながら養子縁組をする。中には、自分で育てられるかを迷っている母親には、その方法を一緒に考えながら導いていく。

妊婦の場合、成年か未成年かによっても相談内容が異なる。成年だと、まずは生活の基盤を整えることを優先し、さまざまな行政支援を受けながら、母体も赤ちゃんも保護する方法を考えていく。未成年は、保護者の同意や協力が不可欠になるため、まず保護者との調整を行う。未成年が妊娠した場合、その母親は驚きのあまり怒ったり情けなく思ったりと、動揺していることが多いが、話をしているうちに調整がつく場合がほとんどだという。

マナ助産院では、「結婚に至らない妊娠」「育てることのできない妊娠」であっても、おなかの中で大切に命を育んだ女性の尊厳を守り、子どもの命を他の人に託すことによって子どもの命も守られることを目指している。言葉を発せない胎児を守り、その命を守った女性が前向きに生きていくことができるように今後も活動を続けていく。

講演後にある参加者が意見を述べた。
「世の中には、『妊娠したら、21週までに中絶すればいいじゃないか』と話す人たちもいる。しかし、私たちクリスチャンがこうした世の中の動きに立ち向かっていくのは、ほとんど福音宣教に近いと思う。神様から授かった命をいかに大切にするか。私たちキリスト者は一致していかなくてはならない」
永原氏はこれに対して、「この活動をしていると、非常に霊的な戦いを感じる。全国からの祈りが必要だ」と話した。

【記事全文 引用終わり】


千葉茂樹氏は、あさっての 「マーチフォーライフ・シンポジウム」 にもスピーカーとして参加されます。

マーチフォーライフ・シンポジウム 「世界を変えるプロライフ運動」
(2017年7月9日 16:00より カトリック築地教会の2Fホールにて)
スピーカー
千葉茂樹氏(映画監督、生命尊重センター名誉会長) 
辻岡健象氏(小さないのちを守る会 プロライフジャパン) 
池田正昭氏(マーチフォーライフ代表)


シスター・ルシアの手記の日本語訳  III. ジャシンタの病気と死(続き)4. アルジュストレルへ戻る

2017年07月06日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第一の手記

III. ジャシンタの病気と死

ジャシンタとフランシスコの両親と兄第たち

4. アルジュストレルへ戻る

ジャシンタはしばらくの間、両親のいる家に戻りました。ジャシンタの胸には大きく開かれた傷が一つあって、毎日治療を受けなければなりませんでした。しかし彼女は不平を言うことなく、イライラすることを少しも見せずにこれを耐えていました。彼女を最も苦しめたものは、彼女を見たがる多くの人々からの頻繁な訪問と質問でした。ジャシンタはもうこれらから逃げ隠れすることができなくなってしまったからです。

「私、この犠牲も罪人たちの回心のために捧げているの。」
ジャシンタはこうあきらめて言いました。

「私たちの大好きな場所カベソまで行って、そこでロザリオを祈ることができるなら、何だってあげちゃう!でももうそれもできないの。ルシアちゃんがコヴァ・ダ・イリヤに行くとき、私のためにお祈りして。私もうそこに二度と行くことができないの。考えてみて!」
そう言ってほほに涙を滴らせました。

ある日、叔母は私にこう頼みました。
「ジャシンタに何を考えているのか聞いてみて。あの子両手で顔を覆って長い間ずっと動かずにじっとしてるのよ。私あの子に聞いてみたんだけど、でもあの子ったらニコってするだけで答えないのよ。」
そこで私がジャシンタに質問しました。

「私、イエズス様のこと、マリア様のこと、罪人たちのこと、それから○○○(ここでジャシンタは秘密のある部分のことを言いました)のことを考えているの。考えるの好きなの。」

叔母はジャシンタがなんと答えたかを尋ねました。私はただほほえみました。このことのために叔母は母に、この出来事を話しました。
「この子供たちの生活、私には謎だわ。私には理解できないわ!」
叔母はこう叫んだのです。

すると母もこう付け加えました。
「ホントね。あの子たちだけになるとあの子たちったら早口にベラベラ話すのに、どんなに一生懸命に聞こうとしても一言も言ってはくれないんだから。本当に分からないわ。全くの神秘だわ。」

(続く)


シスター・ルシアの手記の日本語訳  III. ジャシンタの病気と死(続き)3. オウレムの病院にて

2017年07月05日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第一の手記

III. ジャシンタの病気と死



3. オウレムの病院にて

ジャシンタが病院に行く日が来ました。[注21] そこでジャシンタは本当にたくさん苦しみました。彼女の母がジャシンタを見舞いに行った時、ジャシンタに何かほしいものがあるか尋ねました。ジャシンタはルシアと会いたいと言いました。これは叔母にとって簡単なことでは決してありませんでした。しかし、叔母は良い機会が来るとすぐに私を病院に連れて行きました。ジャシンタが私を見るなり、喜んで私に抱きつき、母親に自分と私とだけにしてほしいと頼みました。ジャシンタの母はそこで買い物に出かけました。

[注21] これはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムにある聖アウグスチノ病院だった。ジャシンタはそこに1919年7月1日に連れて行かれ、8月31日にそこを去った。

二人きりになると私はジャシンタに、たくさん苦しんでいるの?、と尋ねました。
「うん、たくさん。でも私は罪人たちのために、聖母の汚れなき御心への償いのために、全てを捧げているの。」

そこで、ジャシンタは熱烈な感情でいっぱいになり、イエズス様とマリア様についてこう話しました。
「あぁ!イエズス様とマリア様のために、お喜ばせするためだけに、どれだけ多く苦しみたいと思っていることか!イエズス様とマリア様は、罪人たちの回心のために苦しむ人々をとっても愛しておられるの。」

許された訪問時間は、早くも過ぎてしましました。叔母は私を家に連れて帰るために戻ってきました。叔母はジャシンタに何かほしいものがあるか尋ねました。幼子は母親に懇願したことは、次回ジャシンタを訪問するときに私を一緒に連れてきてほしいと言うことでした。そこで良い私の叔母は、自分の幼い娘を喜ばせることを望み、次回も私を連れてきてくれました。

私はジャシンタがかつて無く喜んでいるのに、天主様を愛するために、聖母の汚れなき御心を愛するために、罪人たちのために、教皇様のために、喜んで苦しんでいることに気がつきました。これがジャシンタの理想でした。ジャシンタには、それ以外の何ものも話すことができませんでした。


(続く)

シスター・ルシアの手記の日本語訳  III. ジャシンタの病気と死 1~2

2017年07月03日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007

フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第一の手記

III. ジャシンタの病気と死


1. ジャシンタの病気

私たちの主がジャシンタと兄のフランシスコとにインフルエンザを送って病床の身になるまで [注19] 、以上がジャシンタがどうやって過ごしたかです。病気になる前の晩にジャシンタはこう言いました。
「私、頭がとっても痛いの。それから喉も渇いているの。でもお水は飲まないの。罪人たちのために苦しみたいから。」

[注19] ジャシンタは1918年10月に病気になり、そのすぐ後フランシスコも病の身となった。
学校と私に与えられた小さなお仕事の他に、私は自由時間になるといつも私の小さなお友達と一緒に過ごしました。ある日、通学の途中、ジャシンタは私にこう言いました。
「ねぇ!隠れたイエズス様に私が大好きだって言ってね。本当にイエズス様のことをすごく愛しているの。」

別の機会にはこう言いました。
「イエズス様に、私の愛を送るって、イエズスに会いたいって言ってね。」

私がジャシンタのお部屋を訪問するとジャシンタはこう言うのを常としました。
「じゃあ、もうフランシスコのところに会いに行ってね。私ここで一人でいる犠牲をするから。」

別の機会には、ジャシンタの母親はジャシンタに牛乳を一杯持って行き、これを飲むように言いました。
「お母さん、飲みたくないの。」
こうジャシンタは答えて、小さな手でコップを遠ざけました。
私の叔母はそれでも少し強要して、こう言いながら部屋を出ました。
「どうやってあの子に飲ませたらいいか分からないわ。あの子食欲がないんだから。」
私たちだけになると、私はジャシンタに聞きました。
「なんでお母さんそうやって不従順になることができるのよ、私たちの主にこの犠牲を捧げたくないの?」
ジャシンタがこの言葉を聞くと、涙を少し流しました。私はそれを拭いてあげるとジャシンタはこう言いました。
「今、私そのこと忘れちゃったの。」
ジャシンタは母親を呼び、赦しを求め、母が望むものは何でも食べるし飲むと言いました。
ジャシンタの母親は牛乳を一杯持ってきて、ジャシンタはそれをすこしもイヤそうな顔をせずに飲み干しました。後に私にこう言いました。
「あれを飲むのがどれほど辛かったか、もしルチアちゃんが知っていたら!」

別の機会には、ジャシンタはこう言いました。
「牛乳を飲むのがますます難しくなっているの。でも何も言わないの。私たちの主を愛するために、私たちの愛する天国のお母様である聖母の汚れなき御心を愛するために、私は全部飲むの。」

またの機会には、私はジャシンタに尋ねました。
「元気になった?」
「ちっとも良くならないの。胸がとっても痛いの。でも私何も言わないの。罪人の回心のために苦しんでいるの。」

私がジャシンタのところに来ると、彼女はこう尋ねました。
「今日、たくさんの犠牲を捧げた?私、たくさんしたの。お母さんが外出したから、私も行ってフランシスコに会いたいとたくさん思ったけど、行かなかったの。」


2. 聖母のご訪問

それでもジャシンタはすこし回復しました。起きることもできるようになり、フランシスコのベッドに座って時を過ごすこともできるようになりました。ある時には、ジャシンタは私に、すぐに自分のところに会いに来るように誰かを送ってきました。私は走って行きました。ジャシンタはこう言いました。
「マリア様が私たちに会いに来たの。マリア様はすぐにフランシスコを天国に連れて行くためにいらっしゃるって私たちに言ったの。それから私にもっと多くの罪人たちを回心したいかって聞いたの。私が、ハイって答えると、マリア様は、私が病院に行ってたくさん苦しむだろうって、私は罪人たちの回心のために、聖母の汚れなき御心に対しておかされる罪を償うために、イエズス様を愛するために、苦しまなければならないって、おっしゃったの。私が、ルチアも私と一緒に行くかって聞いたら、ルチアは行かないんだって。それが一番辛かった。マリア様は、私のお母さんが病院に連れて行ってくれて、私はそこでひとりぼっちでいなきゃならないんだって教えてくれた。」

この後、ジャシンタは少しの間考え込んだようになって、こう言いました
「あぁ、ルチアちゃんが私と一緒にいることができたらなぁ!ルチアちゃんと一緒に行けないのが一番辛いな。きっと病院って大きな暗い家で、何も見えなくて、ひとりぼっちで苦しまなければならないんだよね!でも、いいの。イエズス様を愛するために苦しむから。聖母の汚れなき御心に償いをして、罪人たちの回心のため、教皇様のために苦しむの。」

ジャシンタの兄が天国に行くときがやって来ました。ジャシンタは彼に次の最後のメッセージを告げました。[注20]
「イエズス様とマリア様に私の愛を全て伝えてね。それからイエズス様とマリア様がお望みのまま、罪人たちの回心のため、聖母の汚れなき御心に対する償いのために、私は苦しみたいって言ってね。」

ジャシンタは兄が亡くなると深く苦しみました。彼女は深く考えこんでいました。だれから彼女に何を考えているのかと尋ねると、こう答えました。
「フランシスコのこと。フランシスコともう一度会うためなら、何でもする!」
そういって目を涙で潤わせました。

ある日、私はジャシンタにこう言いました。
「ジャシンタちゃんが天国に行くのは、もうすぐじゃない。私は一体どうなるのよ!」
「かわいそうに!泣かないで!私、天国に行ったらルチアちゃんのためにたくさんたくさん祈るわ。ルチアちゃんにとって、それがマリア様がお望みのことなの。もしもマリア様がそれを私にお望みなら、喜んでとどまって罪人たちのためにもっとたくさん苦しむ。」

[注20] フランシスコは1919年4月4日に死亡した。


(続く)

「ぼくたちの子供たちは、人口がひたすら減りつづける国で生きていく。」より

2017年07月02日 | プロライフ
興味深い記事をご紹介します。

「ぼくたちの子供たちは、人口がひたすら減りつづける国で生きていく。」
http://sakaiosamu.com/2015/1214113339/


【引用開始】

それは、人口の問題だ。
総務省ではこれまでの日本の人口の推移と、今後の人口の減少の予測を数値としてWEBサイトに載せている。
→総務省統計局ホームページ「第2章:人口・世帯」

このサイトにある「人口の推移と将来人口」のエクセルデータをダウンロードし、5年ごとの数字を自分なりにグラフにしてみた。これを見ていると絶望的な気持ちになる。



このグラフを見ていると、2015年を境にして、そこまでの人生とそこからの人生が正反対になることを想像してしまい、暗澹たる気持ちになる。
例えば、1935年、昭和10年生まれの人は、今年80才になるわけだが、その人にとっての日本は人口が倍近くに増えた国だった。間に悲惨な戦争を経験しつつも、日本は高度成長を達成し、アジアでもっとも豊かな国になった。明治以来のこの国の悲願が実現した80年だった。

一方、今年2015年生まれの赤ちゃんは、80年の人生の中で人口がひたすら減っていく中を過ごすことになる。2035年、成人する頃には1億1212万人までおよそ1500万人減少し、30才で結婚した頃にはさらに1000万人減って1億221万人になる。2055年に40才になると9193万人、50才では8135万人と、10年ごとに1000万人ずつ減少していく。

60才になる2075年には7068万人で、昭和10年と同水準だ。80才の2095年にはついに5332万人になり、大正時代の水準にまで落ち込む。
日本が昭和に入って築き上げてきたものが平成にはすべてゼロに戻る、という感覚ではないだろうか。

人口と経済を直接関係づけることに疑問を呈する人もいるようだが、人口が倍になる国と半分に減る国と、比べたら後者には大変な困難が待ち受けているのはまちがいないだろう。日本の高度成長は、農村から都市に人びとが移動し核家族を形成することで、豊富な労働力を産業界に提供し、同時に大量消費社会の消費者が猛然と増えていったことが支えた。人口とはすなはち国内市場なのだ。それが半分になる。

高度成長社会は、一生懸命働いていたら気がつくと豊かになっていた。でもこれからはへたをすると、働いても働いても会社の業績が上がらず、収入もちっとも増えやしない。そんな社会になりかねないのだ。

いま起こっている少子化と人口急減を、どう深刻に受けとめても足りないと思う。いちばん欠けているのは、この深刻さの共有ではないだろうか。

【引用終わり】


私たちが、多くの方々と「赤ちゃんを歓迎する世の中」を創っていきますように!

ファチマの聖母、日本が世界が、赤ちゃんにやさしい国に、お腹の赤ちゃんにやさしい国とならせたまえ。


シスター・ルシアの手記の日本語訳  Ⅱ. 御出現の後(続き)聖なるクルズ神父様 3~5

2017年07月01日 | ファチマ シスタールシアの手記
シスター・ルシアの手記の日本語訳(続き)

ポルトガル語原文は次で読めます。
MEMÓRIAS DA IRMÃ LÚCIA I
Compilação do P.e Luís Kondor, SVD, 13ª edição, Outubro de 2007


英語訳は次にあります。
FATIMA in Lucia's own words (Sister Lucia's Memoirs)
Edited by FR. LOUIS KONDOR, SVD., 16th edition, July 2007


フランス語訳は次にあります。
MEMOIRES DE SŒUR LUCIE
Textes édités par le Père Louis Kondor, SVD, Septième édition, septembre 2008


この日本語訳は「ファチマの聖母の啓示 現代の危機を告げる ルチア修女の手記」(ヴィットリオ・ガバッソ/志村辰弥編)1987年/ドン・ボスコ社を参考にしました。


第一の手記

II. 御出現の後




3. 聖なるクルズ神父様

ある日、今度は、クルズ神父様[注18]が、リスボンからやって来て、私たちに質問しました。彼は質問を終えると、私たちに聖母が現れた場所を見せるように求めました。私たちは神父様の両側を歩いていましたが、神父様は、足がほとんど地面に着くような小さいろばに乗っていました。私たちが歩いている途中、神父様はたくさんの射祷を教えてくれました。ジャシンタは、その中の二つの射祷を自分のものとして、それ以後何度も終わりなく繰り返して唱えました。
「ああ、我がイエズスよ、我、御身を愛し奉る!聖マリアの甘美なる御心よ、我が救いとなり給え!」
ある日、ジャシンタが病気にかかった時、彼女は私にこう言いました。
「イエズス様に、御身を愛し奉るって、言うのがとっても好き。何度もイエズス様に言うとき、心の中に火が燃えるように感じるの。でもこの火は私を焼かないの。」
別の時は、ジャシンタはこう言いました。
「私、私たちの主と聖母をとても深く愛している。御身を愛し奉るってイエズス様やマリア様に何度もいっても全然飽きないの。」

[注18] フランシスコ・クルズ神父(Francisco Cruz)、イエズス会士で(1859-1948)天主のしもべ、現在列福調査中。


4. ジャシンタを通して受けたお恵み

私たちの村の近くに、一人の女の人がいました。彼女は、私たちに出会うといつも私たちを罵りました。ある日、彼女がお酒よりも何かもっと悪い酒場から出てこようとすると、私たちに出会いました。その時は、私たちを罵るだけで満足しないで、もっとひどいことをしました。彼女がそれを終えると、ジャシンタはこう言いました。
「私たちは、 この女の人の回心のために、聖母に祈って犠牲をしなきゃ。あの人はあんなにもたくさんの罪のことを言ったので、告解に行かないなら地獄へ落ちちゃうわ。」

数日の後、私たちがこの人の家の前を走って通った時、ジャシンタは急に立ち止まり、振り向いてこう言いました。
「ねぇ、貴婦人と会いに行くのは、明日よね?」
「そうよ。」
「じゃあ、これ以上遊ぶのをやめよう。私たちは罪人の回心のために、この犠牲を捧げましょう。」

誰かが自分のことを見ているかもしれないということに気がつかず、ジャシンタは両手を上げ天を仰いで祈り、この犠牲を捧げました。この間、例の女性は、家の鎧戸を通して、眺めていました。彼女は、その後、私の母に、ジャシンタがしたことは自分の心を深く打ったと言いました。御出現の現実を信じさせるには、他の証拠は必要ではなかった、と。

その時から私たちを罵ることをやめたばかりでなく、自分の罪が赦されるように、聖母に祈ってくださるようにと、私たちに頼みました。

またある時、恐ろしい病気にかかったかわいそうな女の人が、私たちに会いました。
泣きながら、ジャシンタの、前に跪き、自分の病気が治るように聖母に祈ってほしいと願いました。

ジャシンタは、自分の前に跪いた彼女を見ておどろき、手を震わせながら彼女をたちあがらせようとしました。けれどもこれが自分の力を超えることだと分かり、ジャシンタもひざまずいてこの女性と一緒に天使祝詞を三度となえました。そこで、ジャシンタは女性に立ち上がるように頼み、聖母が彼女を直して下さると確証しました。

その後、ジャシンタは毎日この女性のために祈りをつづけました。数日の後、彼女は全快したことを聖母に感謝するために戻ってきました。

別の機会には、子どものように泣いた一人の兵隊がいました。彼の妻は病気で寝ており、三人の小さい子供がいたにも関わらず、彼は前線に出征する命令を受けていました。

彼は、妻の病気が治るか、あるいは出征がとりやめになるか祈っていました。ジャシンタは彼といっしょにロザリオをとなえるように招き、こう言いました。
「泣かないでください。聖母はとても良いお方です。聖母はあなたが願っているお恵みを必ずくださいますから」と彼を慰めました。

ジャシンタは、そのときからこの兵隊のことを忘れませんでした。ロザリオの終わりに彼のために必ず天使祝詞を一回付け加えました。数か月後、彼は妻と三人の子供を連れて、自分が受けた両方の恵みを感謝するために現れました。
話によると、彼は出征出発の前日に高熱を出し、兵役が免除になり、妻は聖母によって、奇跡的に全快したというのです。


5. もっともっと多くの犠牲

ある日、とても聖なる方で、人々の心の奥底を悟ることのできる一人の司祭が私たちを訪ねに来ると聞きました。これはこの司祭が私たちが真理を言っているかそうでないかを言うことができると言うことでした。ジャシンタは喜びにあふれて、こう叫びました。

「この神父様はいつ来るの?もし本当に心の中を見ることができるなら、私たちが本当を言っていって分かってくれるね。」

ある日、私たちは前に話した井戸のところで遊んでいました。その近くに、ジャシンタの母親のブドウ畑がありました。ジャシンタの母親はブドウの房を取って私たちに食べさせるように持ってきました。でもジャシンタは自分の罪人たちのことを決して忘れませんでした。
「私たちはこれを食べないで、罪人のためにこの犠牲を捧げましょう」と言い、道で遊んでいる他の貧しい子供たちのところにブドウを持って走って行きました。ジャシンタは私たちのかわいそうな子供たちを見つけて彼らにブドウを上げて、喜んで帰ってきました。

もう一度は、私の叔母が、自分が家に持ってきたイチジクを食べるように、私たちを呼びました。それは実に美味しそうでした。ジャシンタは喜んで、イチジクの籠のそばに私たちと一緒に座って、最初の一つを手にとって食べようとしました。突然、犠牲をすることを思い出して、こう言いました。
「あれっ、本当だ!今日、私たち、 罪人の為に一つも犠牲をしていないんだった。これを犠牲にしなきゃあ。」

ジャシンタは、イチジクを籠の中へ戻して、その犠牲を捧げました。私たちも罪人の回心のために籠にイチジクを戻して食べませんでした。ジャシンタがこのような犠牲を何度も何度もしていましたが、ここに全てを書くことはできません。そうでないと私の話はいつまでも終わらないでしょう。

(続く)