安倍首相観艦式訓辞

2015年10月19日 21時17分05秒 | Weblog

安倍首相観艦式訓辞

海上自衛隊観艦式で観閲艦である護衛艦「くらま」に乗艦した安倍晋三首相=18日午前、城ヶ島沖(酒巻俊介撮影)

海上自衛隊観艦式で観閲艦である護衛艦「くらま」に乗艦した安倍晋三首相=18日午前、城ヶ島沖(酒巻俊介撮影)

護衛艦「くらま」の艦上で、訓示を述べる安倍晋三首相=18日午後、神奈川県沖の相模湾(三尾郁恵撮影)

護衛艦「くらま」の艦上で、訓示を述べる安倍晋三首相=18日午後、神奈川県沖の相模湾(三尾郁恵撮影)

 「海に囲まれ、海に生きる。一心に平和を守り続けた自衛隊員は日本の誇りだ!」

安倍晋三首相は18日、神奈川県沖の相模湾で行われた海上自衛隊の観艦式に出席し、安全保障関連法の成立を踏まえ、「積極的平和主義の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献していく決意だ」と強調した。

 「本日の観艦式に臨み、堂々たる艦隊、清々たる航空機、そして高い練度を誇る隊員職員のりりしい姿に接し、自衛隊の最高指揮官として大変心強く頼もしく思います」

 「海に囲まれ、海に生きる。海の安全を自らの安全とする国が日本です。われわれには自由で平和な海を守る国としての責任がある。その崇高なる務めを諸君は立派に果たしてくれています。この大海原の真ん中にあって、波涛(はとう)をもろともせず、正確無比なる海の防人としての雄姿を目の当たりにし、その感激もひとしおであります。

 荒波を恐れず、乱気流を乗り越え、泥まみれになってもなお、ただ一心に日本の平和を守り続けてきた全ての隊員職員。この困難な任務につく道を自らの意志で進み、自衛隊員となった諸君は日本の誇りであります」

「この夏、先の大戦から70回目の8月15日を迎えました。この70年間、日本はひたすらに平和国家としての道を歩んできました。それは諸君たち自衛隊の存在なくして語ることはできません。先人たちは変転する国際情勢の下、平和を守るために、そして平和を愛するが故に自衛隊を創設したわけであります」

 「諸君の先輩は心ない多くの批判にさらされてきた」

 「残念なことに諸君の先輩たちは心ない多くの批判にさらされてきました。中には自衛隊の存在自体が憲法に違反するといった議論すらありました。しかし、そうした批判に歯を食いしばり、国の存立を全うし、国民を守るために黙々と任務を果たしてきた諸君の先輩たち。現在の平和はそのたゆまぬ努力の上に築かれたものであります」

 「相次ぐ自然災害、そこには必ず諸君たちの姿がありました。先月の関東・東北豪雨におけるヘリコプター部隊による懸命の救助活動、逃げ遅れた人々を救うため、危険も省みず濁流へと飛び込む自衛隊員の姿は多くの国民の目に焼き付いております。豪雪、地震、火山噴火、自衛隊の災害派遣は実に4万回に達します。そして今や自衛隊に対する国民の信頼は揺るぎないものであります。その自信をもって、これからもあらゆる任務で全力で当たってほしいと思います」

「われわれにはもう一つ忘れてはならない8月15日があります。『緊急発進せよ』。16年前の8月15日、宮崎県新田原基地に夜明け前のしじまを切り裂くサイレンが鳴り響きました。国籍不明機による領空接近により近者明宏・2等空佐と森山将英・3等空佐は、F4戦闘機でスクランブル発進しました。稲妻がとどろく悪天候も、上昇性能ぎりぎりの高い空も、2人は全く恐れることはありませんでした」

 「そして、『目標発見』の声。領空侵犯は決して許さないという2人の強い決意が国籍不明機を見事に追い詰め、わが国の危険を守りました。しかし、その直後、突然、交信が途絶えてしまった。2人が再び基地に戻ることはありませんでした」

 「『事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえる』の宣誓にたがうことなく、近者2等空佐と森山3等空佐は、文字通り命を懸けて、自衛隊員としての強い使命感と責任感を私たちに示してくれました」

 「アジア太平洋地域における諸君の確固たるプレゼンスが、米国や志を共にする民主主義国とともに冷戦を勝利へと導き、そして日本の平和を守ってきた。そのことは歴史が証明しています」

「諸君を前にするたびに私は一つの言葉を思い出します。『雪中の松柏、いよいよ青々たり』。雪が降り積もる中でも、青々と葉をつける凛とした松の木のたたずまい。いかなる困難に直面しても、強い信念をもって立ち向かう人をたたえる言葉であります。ただひたすら国民のため、その志を抱いて、24時間、365日、大きなリスクもいとわず、任務を全うする。諸君の崇高なる覚悟に、改めて心から敬意を表します。どうか諸君にはこれからも、どんな風雪にもびくともしない、松の木のごとく、いかなる厳しい任務にも耐えてもらいたい。そして常に国民のそばにあって、安心と勇気を与える存在であってほしいと願います」

 「ソマリア沖の襲撃事案はゼロに…献身的努力の結果です」 「はるかかなた、アフリカ・ソマリア沖、海の大動脈、アデン湾はかつて年間200件を上回る海賊襲撃事案が発生していた危険な海でした。ここを通過するある船の日本人船長は、海賊への不安を口にする乗員やその家族に、こう語ったそうであります。『海上自衛隊が守ってくれるから大丈夫だ。安心していいんだ』」

 「今年ついに海賊による襲撃事案はゼロになりました。諸君の献身的な努力の結果であり、世界に誇るべき大成果であります。そして、戦後初めて自衛隊から多国籍部隊の司令官が誕生しました。それはこれまでの自衛隊の活動が、国際的に高く評価され、信頼されている何よりの証でありましょう」

 「先日来日したフィリピンのアキノ大統領は、国会で演説を行い、このように語っています。『かつて戦艦伊勢が、史上最大の海戦に参加するため、フィリピンの海域を航行しました。しかし、2年前の台風のとき、同じ名前、護衛艦いせは、救援、思いやり、そして連帯を被災者に届けてくれました』」

 「これまでの自衛隊の国際協力は間違いなく、世界の平和と安全に大きく貢献している。大いに感謝されている。世界が諸君の力を頼みにしています。その大いなる誇りを胸に、諸君にはより一層の役割を担ってもらいたいと思います」

 「さて、本日の観艦式には、オーストラリア、フランス、インド、韓国、そしてアメリカの艦艇が参加してくれていています。全ての乗組員の皆さん、はるばるご参加いただきありがとうございます。また、本日は、アメリカの空母、ロナルド・レーガンも日米共同訓練の途中、姿を見せてくれました。東日本大震災のとき、被災地にかけつけてくれたトモダチであります。今月から横須賀を母港に、再び日本の守りについてくれる。ありがとう、ようこそ日本へ。心から歓迎します」

「日本は皆さんの母国をはじめ、国際社会と手を携えながら、自由で平和な海を守るため全力を尽くします。積極的平和主義の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄に、これまで以上に貢献していく決意であります。平和は人から与えられるものではありません。自らの手で勝ち取るものであります」

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日本は八紘一宇の精神である 日本はユダヤ人を救うことを国策の一つとしていた!

2015年10月19日 20時59分43秒 | Weblog

 

 大東亜戦争時  日本はユダヤ人を救うことを国策の一つとしていた!

                               https://youtu.be/gyvNaDwN3oE

      樋口季一郎少将:関東軍ハルビン特務機関長 昭和13年

   松岡洋介:南満州鉄道総裁

   東条英機参謀長

 昭和12年12月26日にハルビンで開かれた第1回の「極東ユダヤ人大会」で、樋口季一郎(陸軍少将・のちに中将)は、次のように演説した。

「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行き先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺に等しい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。

 ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ!

そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。

 この樋口季一郎の演説が終わると、凄まじい歓声が起こり、熱狂した青年が壇上に駆け上がって、樋口季一郎の前にひざまずいて号泣し始めたという。協会の幹部達も、感動の色を浮かべ、次々に握手を求めてきたという。

この樋口中将のユダヤ難民保護に対して、案の定、ナチス・ドイツ政府から強硬な抗議が来た。しかし、彼は人道主義の名のもと、それをきっぱりとはねつけたのであった。

(※ もう少し詳しく紹介すると、樋口中将はドイツの抗議に対して、「ドイツが自国内でユダヤ人をどう扱おうがそれはドイツの勝手であるが、満州国のような独立の主権国家の領域内での決定にドイツが干渉することは許されない。日本はドイツの属国ではなく、また満州国も日本の属国ではない」と主張したのである。

樋口中将の上司であった東條英機は彼の主張に完全に同意し、外務省にその通りに回答した。かくして、ドイツの抗議は空振りに終わったのである

昭和13年3月、満州国と国境を接したソ連領のオトポールに、大勢のユダヤ難民(2万人という説があるが、数千人という説もあり正確な人数は定かではない)が、吹雪の中で立往生していた。

これらのユダヤ人は、ヨーロッパで迫害を受けた人たちで、満州国に助けを求めるためにシべリア鉄道を貨車でゆられてきたのであるが、満州国が入国を拒否したため、難民は前へ進むこともできず、そうかといって退くこともできなかった。

 食糧はすでにつき、飢餓と寒さのために凍死者が続出し、危険な状態にさらされていた。

 ●当時、満州国のハルビン特務機関長を務めていた樋口季一郎のところに、ハルビンのユダヤ人協会会長アブラハム・カウフマン博士が飛んできて、同胞の窮状を訴えた。しかし、満州国外務部(外務省)を飛び越えて、独断でユダヤ人を受け入れるのは、明らかな職務権限逸脱であったが、樋口中将は自分の判断で、ユダヤ難民全員を受け入れることを認めた。

 難民の8割は大連、上海を経由してアメリカへ渡っていき、残りの難民は開拓農民として、ハルビン奥地に入植することになった。樋口中将は部下に指示し、それらの農民のために、土地と住居をあっせんするなど、最後まで面倒を見たのである。

   昭和13年12月 

  五相会議にて(近衛文麿首相・有田八郎外相・板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相内閣総理大臣)

  ユダヤ人を排斥することは、日本が多年に渡り主張してきた人種平等に反する 日本は満州、中国に居住するユダヤ人を排撃することなく、他の外国人と同等に扱う 等と宣言し、日本政府として、満州や日本国内にいるユダヤ人を擁護する事を正式に決めた

  陸軍大臣の板垣征四郎は、「日本は八紘一宇の精神である」と言った

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中国機へのスクランブル、過去最多を更新 今年上半期 「特異な飛行」も

2015年10月19日 20時57分34秒 | Weblog

中国機へのスクランブル、過去最多を更新 今年上半期 「特異な飛行」も

中国機に対するスクランブルは直近の7~9月で117回にのぼり、四半期ごとの統計を取り始めた平成17年度以降、第2四半期ベースで最多となった。中国軍の爆撃機や情報収集機が沖縄本島と宮古島の間の公海上空を往復するなど「特異な飛行」(統幕幹部)もあった。

 ロシア機への発進は減少したものの、9月には北海道の根室半島沖上空を飛行し、約2年ぶりに領空侵犯した。防衛省関係者は「ロシアの活動が停滞したわけではない。引き続き注視する必要がある」と強調している。

 27年度上半期の方面隊別では、主に中国機に対応する南西航空混成団が222回、主にロシア機に対応する北部航空方面隊が91回だった。発進対象は中国機、ロシア機ともに戦闘機が多かった。一方、北朝鮮や台湾の軍用機に対する発進はなかった

 

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『欧州人が世界を騙していた』VW不正問題を厳しく批判するEU主要国が秘密裏に行っていた

2015年10月19日 18時54分08秒 | Weblog

『欧州人が世界を騙していた』 VW不正問題を厳しく批判するEU主要国が秘密裏に行っていた絶望的すぎる新事実とは?!https://youtu.be/g6TxVfxfrn4

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フクロウ「フク」と子猫「マリモ」

2015年10月19日 18時34分39秒 | Weblog

『フクとマリモ』書影

『フクとマリモ』書影

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

 

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

『フクとマリモ』(KADOKAWA)から

 

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米海軍横須賀基地に配備されたイージス艦ベンフォールド

2015年10月19日 18時07分49秒 | Weblog

米海軍横須賀基地に配備されたイージス艦ベンフォールド=19日午前、神奈川県横須賀市

米海軍横須賀基地に配備されたイージス艦ベンフォールド=19日午前、神奈川県横須賀市

 米海軍横須賀基地に配備されたイージス艦ベンフォールド=19日午前、神奈川県横須賀市

©2015 The Sankei Shimbun & SANKEI DIGITAL All rights reserved.

米海軍横須賀基地に配備されたイージス艦ベンフォールド=19日午前、神奈川県横須賀市 

©2015 The Sankei Shimbun & SANKEI DIGITAL All rights reserved.

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多摩地域

2015年10月19日 17時57分26秒 | Weblog
多摩地域のデータ
日本の旗 日本
地方 関東地方南関東
都道府県 東京都
面積 1,169.49km²
(2010年1月1日現在)
総人口 4,220,989
(2015年5月1日現在)
人口密度 3,609人/km²
(2015年5月1日現在)
位置 Map tokyo 3tama p01-01.png

令制国多摩郡に相当し、行政の中心地である武蔵国国府が置かれた地

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”日本の技術封鎖”で『中国の開発計画が軒並み頓挫する』

2015年10月19日 17時04分50秒 | Weblog

”日本の技術封鎖”で『中国の開発計画が軒並み頓挫する』

                   https://youtu.be/ffeul9BaMKk

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日本の技術力がVW排ガス不正を見破った測定器だったと発覚

2015年10月19日 16時08分45秒 | Weblog

日本の技術力がVW排ガス不正を見破った測定器だったと発覚

                    https://youtu.be/tNSAjlCDmVQ

            堀場製作所

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独VWの排ガス不正問題で日本車人気に拍車 中国で日本車が記録的売上!

2015年10月19日 16時05分10秒 | Weblog

独VWの排ガス不正問題で日本車人気に拍車 中国で日本車が記録的売上!

                   https://youtu.be/_MM0GiamhEM

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中国銀聯カード(ユニオンペイ)使用制限 深刻な外貨不足か!

2015年10月19日 15時39分59秒 | Weblog

中国銀聯カード(ユニオンペイ)使用制限 

            深刻な外貨不足か! https://youtu.be/D5nKhW4SrLE

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中国がインドネシア高速鉄道を受注できた本当の理由がひどい

2015年10月19日 15時29分19秒 | Weblog

中国がインドネシア高速鉄道を受注できた本当の理由がひどい

                                     https://youtu.be/HtJuOh_qhOM

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仏首相「日中の緊張、安倍首相が穏やかにする」

2015年10月19日 13時38分07秒 | Weblog

仏首相「日中の緊張、安倍首相が穏やかにする」

来日中のバルス仏首相は4日、都内で読売新聞など日本メディアと会見し、安倍首相が先月末の国連総会で決意を示した国連安全保障理事会の常任理事国入りについて、「将来、常任理事国として日本が果たす役割、日本の立場を十分理解している」と述べ、支持を表明した。

 また、3日夜の京都市内での安倍氏との非公式会談で、日中関係について突っ込んだ意見交換を行ったことを明らかにした。バルス氏の方から、日中関係や中国経済など安倍氏の中国観を尋ねた。安倍氏は、近く行われる見通しの日中韓首脳会談などについて説明したという。日中間の緊張について、バルス氏は記者団に「外交、対話、法(の支配)にのっとり、安倍首相が必ず穏やかにすると考えている」と述べた。
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習主席も止められない 中国ビジネス、腐敗の現場

2015年10月19日 12時56分40秒 | Weblog

習主席も止められない 中国ビジネス、腐敗の現場

中国国家主席、習近平が躍起になる政権中枢の腐敗撲滅。その手も行き届かない闇が社会を覆っている。ビジネスの現場も例外ではない。現地に進出する日本企業の末端でも、仕事の発注の見返りに金品を要求する「キックバック」が横行する。最前線の現場で“腐敗の実態”に迫った。

 日本人営業マンの高塚克彦は、「中国でキックバックを止めれば、仕事は他の会社に持っていかれるだけだ」と話す

日本人営業マンの高塚克彦は、「中国でキックバックを止めれば、仕事は他の会社に持っていかれるだけだ」と話す

 中国ビジネスの裏側、実態について話をしてくれた張建新は、「できればキックバックなどはやりたくない」と語った  (9月、広東省)

中国ビジネスの裏側、実態について話をしてくれた張建新は、「できればキックバックなどはやりたくない」と語った
(9月、広東省)

 30代課長、もう一つの財布

 中国南部の一大経済圏、広東省――。2000社を超える日系企業が集中し、トヨタ自動車、日産自動車、ホンダなど日本の大手自動車メーカーが主力拠点を置く、日本にもなじみの深いこの街で、日系の大手自動車部品メーカーに勤務する30代前半の中国人男性、寧恩達(仮名)が、腐敗に手を染め始めてから、もうすぐ1年になる。

 見た目は小柄で、非常に真面目な雰囲気。身なりもきっちりとしたIT(情報技術)管理部の課長だ。寧の給料は月額5000元(約10万円)。一般的な民間企業に勤める中国人の給料は数万円だから、待遇は良いと言っていい。

 ところが彼には、実はもう一つ別の財布がある。「キックバック専用」の財布だ。昨年12月、4年間務めた前任の中国人の課長から引き継ぎ、手に入れたその“黒い財布”には、給料の4倍の2万元(約40万円)が毎月、自動的に振り込まれるようになった。

 振り込んでくるのは、寧がIT管理部の課長権限で毎月発注するパソコンやモニター、プリンターのインクなど、工場で日常的に使う各種製品を取り扱うIT関連の中国企業だ。製品を毎月、寧に大量に発注してもらう代わりに、発注価格の10%分を「お礼」として、寧にキックバックしている。

 寧が勤務する日系企業の従業員は、現在約2000人。IT関連の製品だけでも毎月の発注金額は400万円ほどになるため、その10%の40万円がキックバックされ、寧の懐に入る仕組み。だから、寧は正規の給料の10万円と合わせ、合計毎月50万円を、この日系企業で稼いでいる計算になるのだ。寧にも、もちろん後ろめたいことをしている自覚はある。だからこそ月々40万円ものお金の振り込み先は、寧本人の銀行口座ではなく、寧の妹の口座にして、毎月振り込んでもらってきた

だが、それでもまだ寧は不安になったのか、ここ2カ月は、中国で人気のスマートフォンのアプリ「微信(ウィーチャット)」の決済サービスを使って送金してもらい、銀行間の直接取引は止める念の入れようだ。

■「権限委譲、好都合だった」

 しかしなぜ、コンプライアンス(法令順守)に厳しいはずの日本企業で、こんな不正が可能なのか。寧に毎月、キックバックを振り込むIT関連企業の中国人男性担当者、張建新(36、仮名)との接触に成功した。彼は中国ビジネス社会の常識や裏側を、分かりやすく、丁寧に語り始めた

「中国でビジネスをするなら、何かしらの便宜やキックバックは欠かせません。何も無ければ、人は動かない。仕事は永遠にもらえない。ただ、それだけですよ」

張はそう言い切った。張が勤める中国企業は中国では中堅クラスのIT企業。取引先は、ほぼすべてが中国に進出する大手日系企業だ。張によると、取引がある100社の日系企業のうち、約90社の日系企業でこうしたキックバックの裏取引が「中国人同士の間で日常的に行われている」のだという。

 「今のキックバックの相場は5~10%」(張)。だが、「こんな中国ビジネスの常識ですら、日系企業の駐在員の日本人ビジネスマンは良く分かっていません」。張はそう言って話を続けた。「彼ら大手の日本企業のサラリーマンの中国駐在は、おおよそ4、5年と短く、複雑な中国人社会や中国ビジネスをよく理解しないまま、人事異動で日本へ帰国してしまいます」

 「それでいて日本企業は最近、一生懸命、現地化が大切だとか、中国人に権限を委譲すべきだとか、中国になじもうと努力はしてくれてはいるが、それは反面、中国人にとっては非常に都合の良いことだった」と張は話す。

 なぜなら、「中国人に権限を委譲してくれる分、キックバックなど裏取引はやりやすくなる」からだ。「ただ、仮にもし日本人社員が中国人社員の不正に気付いたとしても、日本人はおとなしいからなのか、中国人同士の面倒な事に巻き込まれたくないのか、大抵何も言ってこない」。張は少し苦々しい表情で、こう中国ビジネスの裏側を語った

■偽領収書で経費水増し

 寧が勤める日系大手自動車部品メーカーの場合も、状況は全く同じだ。IT管理部門で働く寧の上司の部長は、40代男性の日本人。中国駐在歴は約1年とまだ浅く、「中国の事情をあまり良く分かっていないまま、今も仕事を続けている」(張)といい、一見、真面目に見える部下の寧にも、全幅の信頼を寄せているのだという。

 そんな日本人上司の下で働ける寧が喜んでいるのは言うまでもない。「まさか裏でキックバックの取引が行われているとは、日本人の部長は全く思っていない」(同)のだ。

張は問題の核心、キックバックの費用をどう会計処理しているかについても語り始めた。

 「一般に中国の民間企業の場合、社員が、家族や友人と食事に行った時、会社名義で領収書をもらうなど、普段から会社全体で領収書をあちこちから集める工夫をしています。それでも、キックバックなどで客先に支払った金額に比べ、到底足りませんから、足りない金額分は、領収書を専門に売る業者のところにわざわざ買いに行って、帳尻を合わせるのです」。実際、中国には、領収書を不正に販売する業者が山ほどある

■車の中で、札束を

 「私は絶対に足跡が付かないように、銀行口座は使わず、キックバックは、いつも現金で相手に手渡ししています」

 中国内陸部の中核都市、湖北省武漢市。経済発展著しい同市内の中心部で、大手企業向けに通信関連のシステム工事を手掛ける企業のトップ、中国人男性の李金平(50、仮名)はこう打ち明ける。この会社は電子部品や自動車関連メーカー向けに、各種のシステム工事を手掛けているが、やはり「取引先の中国企業はもちろん、大半の日本企業の取引先でも、当たり前のように中国人担当者からキックバックを求められ、裏取引を行っている」という。

 手口はいつも同じだ。

まずは商品を注文してくる先方の日系企業の中国人担当者から、李の会社に、システムの注文段階で合図が送られてくる。例えば「今回はプラス1で」といった具合だ。プラス1とは1万元(約20万円)のこと。プラス6なら6万元(約120万円)だ。それがつまりキックバックの要求金額になる。そのキックバック分の金額を、見積もり金額の中にうまく入れ込み、先方の会社に、正式な見積書として提出するのだ。

 そうして、商品を注文してくれる中国人担当者の“指示通り”に作った見積書を、提出しさえすれば、仕事は予定通りに落札、受注させてもらえる。その後、システム工事が無事完了した段階で、李はいよいよ工事を発注してくれた中国人担当者を、電話で食事に誘い出す。

 2人だけで食事を済ませた後、李が車で相手を自宅の目の前まで送り届けた段階で、誰も見ていない車の中で、資料に札束を入れた封筒をはさんで手渡すのが、李のいつものやり方だという。「相手は何も言わずに黙って受け取ってくれ、次の仕事のチャンスをまたくれる」。いつもがこの繰り返し。キックバックの相場はやはり、工事代金の5~10%だ。

■タイミング良く席を立つ

 日本人がまったく蚊帳の外かというと、そうでもない

「もう、私は、中国ビジネスのやり方に、慣れ過ぎてしまいましたけど…」。そう話すのは、広東省広州市に拠点を持つ、ある日系大手の上場企業で営業マンを務める日本人男性の高塚克彦(44、仮名)だ。

 彼には、10年近い長年の中国駐在経験で身につけたちょっとした“技術”がある。中国に進出する日系メーカーを中心に営業をかける高塚の会社では、営業に強い中国人の営業マンと、技術に強い高塚のような日本人の営業マンが、ペアを組んで、客先に営業をかけるのが、社内ルールになっている。

いくらキックバック慣れした中国人でも、引け目はあるのだろう。「日本人の前で、そういう話はしたくないのは、彼らのせめてものプライドなんです。だから私は、自然な形で席を立ち、中国人のプライドを傷つけないよう心がけている」という。

 もちろん高塚自身、日本人として、思いは複雑だ。取引先の日系企業に勤める若い中国人社員が、自分がもらう給料の何倍ものお金をキックバックで得て、数千万円のマンションを買い、高級車に乗る姿を幾度となく見てきたからだ。

 業種で見ると、広告業界、建設業界、自動車関連業界、IT業界、不動産業界など、扱う商品やサービスの金額規模が比較的大きかったり、商品の価格設定が分かりにくい業界で、やはりキックバックが横行し、腐敗の温床となっている場合が多い。

 しかし、高塚は「この中国のビジネスの世界で、顧客からのキックバックの要求を断らずに商売をやることは相当厳しい」と切実に打ち明ける。自らがやめても、やめない会社は中国には無数にあり、「それらの会社に仕事を持っていかれるだけ」だからだ

庶民にはびこる腐敗

 中国には誰もが知る有名なことわざがある。

 「過了這個村,没這個店」

 村をいったん通り過ぎてしまえば、もうお店を見つけることはできない――。日本のことわざで言うなら、「柳の下の泥鰌(どじょう)」。柳の下で一度、泥鰌を捕まえたからといって、いつもそこに泥鰌がいるとは限らない。いつも幸運を得られるものではないという戒めを込めたことわざだが、今の中国では、こんな解釈がはやっている。

 「その職場で、権限を使わないと、2度とチャンスは訪れない」――。

 習近平は「虎(大物)もハエ(小物)も同時にたたく」とのスローガンを掲げ腐敗撲滅運動を推し進める。共産党内部の権力闘争はいまだ冷めやらず、大物取りが連日、報道で伝えられる。それを見てスカッとしている庶民が実は腐敗に漬かっているのだ。

 子供を有名大学に入れるための袖の下は序の口だ。将来自分の子を共産党幹部にしようと、小学校の学級委員にさせたり、病院で不機嫌な看護師から機嫌良く注射1本を打ってもらったり、ただそれだけのためにカネが動く。社会のありとあらゆるところで、賄賂の類いが頻繁に行き来する、それが中国の一面である。

日本の場合、一般企業でも従業員が取引先から裏リベートを受け取れば就業規則違反による懲戒免職に相当する。それだけでなく、本来値引きで会社の利益になる分をキックバックとして受け取ったことが立証されれば、背任や詐欺、業務上横領などの刑事責任を問われる可能性もある。雇用主の企業にとっては思わぬイメージダウンにつながりかねない。独フォルクスワーゲンや東芝の不祥事で企業統治にこれまでにない厳しい目が注がれる中、日系企業はいつまで見て見ぬふりをできるだろうか。

 今年1月、日立製作所の中国エレベーター合弁子会社のトップが突然、当局に拘束されたことが明らかになった。汚職容疑だった。容疑は日立合弁での業務に関わるものなのか、別にトップを務める国有企業でのものなのか明らかになっていない。だが、彼の下で仕事をしていた中国人社員が最近、こんな事を話してくれた。

 「捕まったあの方は、我々のような日系の外資企業が、中国ビジネスでいかに勝ち抜くか、まさにそれを全身で教えてくれた立派な人でした。だからこそ、うちは中国では大きくなれました。ですが、あの方が突然いなくなり、今後、うちのような日系企業がどうなるのか心配です。中国では建前だけでは会社は大きくはなれません。大きな仕事を取るためには、人脈が必要です。人脈をつくるには、多くのお金がかかるのが現実です」

 今回の取材では、紹介し切れぬほど、数多くの日系大手の企業の名前が挙がってきた。改めて、中国に駐在する日本人ビジネスマンに感想をたずねてみると、こんな答えが返ってきた。

 「これ(腐敗)は、もはや中国の商習慣なんです」「中国の文化、必要悪なんです」「いまさら言ったところで、しょうがない」「目をつぶっておいた方がいいんですよ」「知らないふりが一番」

  「そっとしておいた方がいいんですよ」

                                                                             (広州=中村裕)

 

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八王子城

2015年10月19日 12時44分33秒 | Weblog
 八王子城の縄張り

八王子城は、深沢山(八王子城山)を利用して築かれた山城で、次の5つの地区から構成されます。

①城主、北条氏照の御主殿を中心とした居館地区
②山頂曲輪を中心としそれを取りまく曲輪群などからなる要害地区
③家臣団の居住区である根小屋地区
④城山川の東南部に連なる尾根の太鼓曲輪地区
⑤太鼓曲輪のさらに南麓の防御に機能した御霊谷(ごれいや)地区

 2006「東京都の中世城館」東京都教育委員会 を Fuma Project(HP事務局) が八王子城域の個別名称を付記し戦略拠点を明示化し編集した

   _八王子城 縄張り図の詳細表示(PDF)


■ 八王子城 最後の大規模山城


八王子城は、戦国時代の末期に小田原に本拠をおき関東に覇権をもった北条氏の三代目当主、氏康の次男の北条氏照によって築かれた山城です。
氏照は幼い頃、武蔵国守護代だった滝山城主大石定久の養子となり、のちに定久の娘・比佐の婿となり、定久の隠居後に滝山城主となりました。
その後、氏照としては晩年となるのですが、滝山城を捨て、急峻な深沢山(八王子城山)に、我が国最後の大規模な山城の築城を開始しました。
一般的にいってこの時期は、山城の役割は終焉し築城は平城に移っているときです。

ここで最初に明確にしておきたいのは、八王子城は山城なのでもともと天守閣は存在しません。
一方、聳え立つ天守閣をもつ城郭は江戸時代初期に構築されたものが殆どです。
また、戦国期の城は江戸期のそれに比べて残された古文書、縄張り図なども圧倒的に少なく、まして落城した側の情報を得るのは至難の業といえます。
したがって、口伝や子孫の方々の伝承、郷土史家や歴史文学作家などの思い入れ、さらには庶民の妄想までも内包しながら現在に続いています。
ここでは、積み重ねられた事実の一端を提示したいと思います。
それは完成をみることのなかった最後の大規模山城・八王子城の存在の証明です。


■ 八王子城の築城  (1580年代初め)

八王子城は、関東平野の西端で八王子城山富士見台山塊がせり出した突端の深沢山(標高460m)を利用して築かれた山城です。
築城の時期は戦国の末期、天正十年(1582)から十五年(1587)と考えられています。
その構造は、城山の山頂部を頂点として作り上げられた戦いのための要害部、城主氏照公の居館である御主殿を中心とした居館地区があり、さらに下の平地域には城下を形成する根小屋地区、御主殿に対峙する尾根には太鼓曲輪地区、山頂を挟んで背後には詰の城などを配置し、広大な規模で構成されています。
居城を滝山城から八王子城に移転しながらも、八王子城は最後まで未完のままであったとされています。


■ 八王子城の落城  (1590年)

天下統一をめざす豊臣秀吉は天正十八年(1590)三月、大軍を率いて小田原に向かい、四月には北条勢が立てこもる小田原城を包囲しました。
一方、前田利家と上杉景勝らが率いる北国勢は信濃から上州へ攻め込み、北条方の諸城を落としながら南下し、氏照の弟、北条氏邦の居城の鉢形城(埼玉県寄居)も攻略しています。
さらに秀吉による強い指示を受けた北国勢は八王子城に迫って来ました。このとき氏照とその精鋭部隊は小田原城に援軍中でした。
六月二十三日(旧暦)、北国勢による大軍の猛攻を受け八王子城は1日にして落城しました(西暦では7月24日)。
■ 幽閉幾星霜、八王子城存在の証明


落城後、八王子城は徳川家康の手にゆだねられそののち徳川幕府の直轄領となり再利用されることはありませんでした。
三百余年の時空は八王子城の多くの部分を大地の中に風化させましたが、またある部分はその中でも生き長らえてその存在を現代の我々に伝えています。
その糸を手繰り寄せることによって口伝、伝承、伝説の世界ではなく、真の八王子城の姿を科学的に提示することができます。


■ 慶安の古図 八王子城絵図の原典

江戸時代慶安年間(1648~51)に記された「慶安の古図」は落城時の八王子城を知る原典となります。
1987年(昭和62年)、88年の発掘が行われる前は現在の虎口周辺から御主殿曲輪あたりは山野の状態であり、それまで「慶安の古図」に描かれている「北条陸奥守御主殿」はじめその存在物の真贋はいかにと考えられていました。
また「慶安の古図」には落城時の北国勢の布陣も前田利家軍(羽柴筑前殿と記載)や上杉景勝軍(景勝殿と記載)などと明記されています。
「慶安の古図」に記載されている実態を掘り起こすことこそが八王子城の存在の証明です。

■ 生き長らえた遺構

三百余年の時空を経て土石の侵食にもうずもれることなく生き長らえてきた遺構がいくつかあります。
そのひとつが、山頂(本丸跡)をめざして登山道を登り始めてじきに左手に現れる馬蹄段です。
これは上に述べた「慶安の古図」にも明瞭に描かれています。
また、山頂地区の「松木曲輪」、「小宮曲輪」、さらには「山頂の曲輪」などもむき出しのまま生き長らえてきた遺構です。これらも「慶安の古図」に描かれていて八王子城の存在を実証するものです。
でありながら、時代が現代に進んでも人々の目に展開する城山は森林でありただの山でした。

一方、「慶安の古図」には城主氏照公の「御主殿」、またそこへ導入する登城道の存在も明確に描かれています。
そのギャップを埋めるためには幽閉された存在を白日のもとにさらけ出す作業が必然です。

(馬蹄段はむき出しの戦国遺構)

■ 発掘された事実 科学的証明①

主立った発掘調査は1987年(昭和62年)から行われました。
これは、「慶安の古図」に描かれた絵空事から、土石にうずもれた八王子城の実態を白日のもとにさらけ出す作業です。

87年には御主殿への登城口などが調査され、それまでただ単に森林の中の谷だった部分から、古図に描かれていたとおり御主殿に直結した石段と2ケ所の踊り場が発掘され虎口の全容が我々の眼前に展開されました。
これは口伝・伝承、妄想などから醸成されたものとは別の次元で、八王子城の存在を科学的に証明するものであります。

 (発掘された御主殿に直結する石段、踊場。城跡内掲示資料より)

■ 落城四百年事業に向けた復元

翌88年には御主殿地区と城山川を挟んだ、曳橋々台部や御主殿への登城道(大手道)、大手門跡などが調査・検出されています。

一方、これらの結果をもとに89年(平成元年)から90年にわたって復元工事が行われ、大手門・大手道から虎口を経由し、御主殿の入り口である冠木門までの整備が行われました。
これは八王子市の落城四百年事業に向けたものです。


■ 復元された虎口・城壁・石段

落城四百年事業(1990年)に向けて整備されたのはここまです。
しかしながら、これは八王子城跡の見た目のかなりの部分を形作っています。
これからのち20年間はこの風景が突出して八王子城のイメージを演出してきました。

復元された石垣も戦国時代と同じ野面積(のづら)という工法によって積み上げられたものです。
曳橋の下の見学道あたりからじっくりとこの石垣を見上げて下さい。
石にナンバーを振っているのが見てとれるでしょう。
発掘して出てきた遺物である石をもとに出来るだけ忠実に復元することに腐心したであろう関係者の方々のご努力を賛辞します。そして感謝いたします。


■ 御主殿跡の発掘 科学的証明②

御主殿地区の発掘調査は、まず、87年には試掘調査が行われ内部に大型の礎石建物の存在が確認されました。さらに、御主殿地区の本格的な発掘調査は四百年記念事業が一段落したのち、92年、93年(平成4年、5年)にわたり行われました。
その結果、「慶安の古図」に北条陸奥守(氏照公)の御主殿と描かれていた、大型建物遺構(2棟)が姿を見せることになります。
周辺には関連する施設の遺構も認められました。
またこの地区では7万点におよぶ遺物などが出土しました。

「慶安の古図」に描かれた御主殿が発掘されたことにより、登城道(大手道)、虎口などの発掘からさらに場面を大きく転回し、八王子城の中枢部の存在の証明が見事に科学的に完結です。


■ 御主殿曲輪 雌伏二十年

しかしながら、御主殿地区の調査・測量ののち、ここは60cmくらいの覆土がなされ、その後20年近く広いただの芝生の原っぱでした。

氏照公が造り上げた御主殿はどこへ行ったのでしょう。
氏照公が茶席を催してながめたであろう庭園はどうなったのでしょうか?


■ 御主殿地区の復元的整備(遺構イメージの創出)

89年(平成元年)から90年の2年で行われた工事で終息していた復元も、御主殿地区で再び景色を塗り替える波が起こりました。
2012年(平成24年)から13年に御主殿地区の復元的整備が行われることとなったからです。

下の写真が2013年(平成25年)4月に完成した御主殿跡の遺構イメージです。
これは大型礎石建物跡(いわゆる御主殿跡:遺構No.[SB02])です。
ここは氏照公の執務や生活のための館であり、いわば、八王子城の本社機能がつまったビルということになります。
今、下に配置されているのはレプリカ、というよりはイメージ石です。
本物はこの地表から60cm下にしっかりと眠らせたままです。後世まで大事にとっておくためです。
地中に存在する発掘されたそれぞれの礎石(土台石)に対応した位置に配置されています。

下は会所とそれに隣接する石庭の遺構イメージです。
左側は床まで復元された2つ目の大型礎石建物跡(いわゆる会所跡:遺構No.[SB01])です。
中央から右に展開するのが庭園状遺構(遺構No.[SG01])です。
御主殿跡は全てイメージ石であったのに対し、ここに配置されているのはレプリカが中心となります。
ここに見える石は出所の由来により3つのグループに分かれます。
一つ目は、小ぶりで黒っぽく光沢がありエッジが鋭いものです。硬質砂岩で市内および青梅市の採石業者から買ってきたものです。
二つ目は、比較的大ぶりで白っぽいものです。これは20年ほど前に発掘されたときの資料をもとに職人の方々が丹念に作り上げた擬岩です。
三つ目は、右上にある大きくて黒っぽい三角の石です。
これこそが戦国時代から生き抜いてきたほんまもんの遺物です。いわば、「戦国証言石」です。

■ PS-1: 復元的整備の作業はこんな感じで行われました。

下は復元的整備の作業の1シーンです(12/10/31)。

擬岩は次のようにして作られました。
まず、地下60cmにある遺石の真上に金枠を組み上げます(写真のように溶接バーナーの炎が見えます)。
それにモルタルを塗り込み、職人の方々が地中の遺石に忠実に丹念に作り上げました。


■ 2013年の発掘調査

この発掘調査は、92年、93年(平成4年、5年)にわたり行われた発掘調査の際も緑地環境保全という呪縛から手が出せなかった部分が、2012年の復元的整備の過程で思いがけず樹木の伐採がOKとなったことにより進展したものです。
2013年7月の発掘開始当初は、御主殿の未確認部分の礎石(土台石)など、想定内のものが出現するだろうと考えられていました。

ところが発掘作業が進むにつれ驚くような予想外の展開を見せることになりました。

未発掘だったちょうど真下の部分から大きな池遺構とそれをとり巻くように池泉式の庭園遺構が出現したのです。
戦国の当時の関東平野にはなかったような規模と完成度の高い庭園です。
このレビューの中で「戦国証言石」として注目してきた石は今回の発掘時、石組みとしては3つのセットの中の中心をなすものとして発掘されたということです。
すなわち、枯山水形式の庭園の個別の守護石や景石(けいせき)などではなく、三尊石組(さんぞんいわぐみ)の中心をなす主石(中尊石)だったんです(13/09/13)。
しかし発掘の作業時、3つのセットの中の左側の石は原形をとどめずに砕けきった状態で発掘され「欠損」にしたようです(矢印のように別の場所に移管)。
ちなみに、その右手前の大きな石は三尊構成の中の添石(脇侍石)です。

三尊石の右奥に新たに落城時の焼土面が検出されています。これは92年の発掘時に出現した焼土面より1~2mほど高いところにあります。ということはここには築山とかがあったのでしょうか。

主石(中尊石)は最初の発掘から20年間は芝生の原っぱの中で少しだけ頭をのぞかせていました(ここをクリック)

■ PS-2: 発掘調査中の池に水(台風のいたずら)。

発掘調査により出現した池遺構の底は山砂利を固く突き固めた上に粘土を6~10cmの厚さで貼られています。これは水を溜めるための工夫です。
ですが、戦国の時、はたして水を張るところまで完成していたのでしょうか?
氏照公は実際に水が張られた池を眺めることはあったのでしょうか?
発掘の結果では池の中はいたってきれいで、鯉でも泳がせていたとすると背骨くらいは残っていてほしいのですが、そういうものは見つかっていません。

(13年10月)16日未明に関東地方を台風が通過しました。
この台風の雨で思わぬ水張りの実験となりました(13/10/17)。


■ 埋め戻し作業

のちの時代に伝聞や想像から書かれた百の文言よりも、今回提示された遺構は揺るぎもない八王子城のいとなみの一部をつぶさに提示するものです。
不完全燃焼の気持ちを残しながら埋め戻しのときを迎えました(13/12/04)。
我々は生きている間に二度とこの遺構を目にすることはないはずです。

発掘された遺構のデリケートな部分は緩衝材でくるみ、そののち全面をブルーシートで覆い、出てきた玉石を投げ込み、あとは残土を被せ60cmくらいの厚さで埋めてしまうというものです。

■ 埋め戻された庭園遺構

5ヶ月を超す時空の知見や興奮を封じ込めたまま、また平穏な御主殿地区が戻ってきました。

さあ、しばしこの床敷きの回廊に腰を落とし、戦国の武将たちが戦いに明け暮れた日々の中にも、ひとときの安らぎを求め、一服のお茶を飲んだことを心に描いてみましょう。

■ 八王子城の遺構復元図

郷土史家 椚 國男さんが以前から作成し提供してきた「八王子城の遺構復元図」の原図を当ホームページの作成事務局(風魔Project)がお借りし目視しやすいように手を入れ製版し直しました。
椚さんのご了解をいただきましたので以下に収載しました。A3版を想定しPDFファイルとしたものを「詳細表示」から閲覧できます。


  郷土史家 椚 國男氏作成 

  _English edition(PDF)



■ 八王子城遺構鳥瞰図

須永克彌さん作成の「八王子城遺構鳥瞰図」を当ホームページの作成事務局(風魔Project)が目視しやすいように製版し直しました。
PDFファイルとしたものを「詳細表示」から閲覧できます。


  八王子城跡ガイド http://hshiro.fuma-kotaro.com/index.html

                                                 須永克彌氏作成                                     

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