「この子らを世の光に」は社会福祉の父と呼ばれる糸賀一雄の言葉。
この子ら(に)世の光(を)じゃなくてこの子ら(を)世の光(に)。
「障害児に光を当ててあげよう」ではなく、「障害児の光を世の中に当てよう」という考え方。
この映画の主人公は、貧困層の黒人でセクシャリティ的にも未だに後ろ指を刺されるもの。
本当はなんの困難でもないはずのこの3つ(貧困は困難ですね…)だけど、社会の無理解や堂々とした差別感情によってただ普通に生きるということを阻害されてしまう。
映画では、主人公シャロンを年代別に子供、高校生、大人のパートに分けて3人の俳優で演じ、一人の男性の半生を静かに描いている。
少年期のシャロンは、家にはシングルマザーで麻薬中毒の母がいるがネグレクトでさらに学校に行けばいじめられる。
ある日、いじめられて廃墟に隠れているところをあるおじさんに助けられ、その後困った時など助けてくれる存在になってくれる。シャロンがおそらく初めて、彼の家の真っ白でふっかふかの枕とベッドで眠る姿が愛おしくも悲しい。
この人物、シャロンにとって父親がわり、そして生きる道しるべの人物となる。
高校時代のシャロンもまた、学校でのいじめは続き、母の麻薬中毒も強まっており、自分のバイト代も母の麻薬を買う金として使われてしまう。
そして、大人になったシャロン。華奢だった体はアニメのような筋肉隆々になり、周りを威嚇するように装飾品をつけ、高級車をステレオガンガンで走らせる。が、その目だけは、かつての弱い、常に怯えたような目のまま。
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衝撃なのはこれのほとんどが実話だということ。主人公に起きることは全部、原作者か監督に起きたこと、だそう。(原作者の母も、監督も母も麻薬中毒であった)
実際に起きた(つまり現在も起きている)衝撃的なエピーソドの連続だけど、直接的な描写はなるべく避けて、ひたすらに美しい映像の中で意外と淡々と物語は進む。
こんなに過酷なストーリーなのに「もう一度見たい」と思えるのは映像が美しいからかもしれない。この世界にもう一度浸りたいと思える。
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シャロンの父親がわりになるフアンという男がかっこよくて、いちいち名言を言ってくる。
「自分の人生は自分で決めろ 周りに決めさせるな」はわかりやすい名言だけど、
本当に何気ないし、全然名言のつもりもなかったと思うけど僕がぐさっときたのは「ここで何してる」。
あ、俺ここで何してるんだろと思っちゃうし、そういえば「ここで何してる」ってあんまり言われたくない。。
おそらく大人シャロンも昔フアンに言われた「ここで何してる」という言葉が常に自分を追いかけてきてるんだと思う。
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話が個人的であればあるほど普遍性を持って観る人の心に直接刺さってくる。
それはつまり、住んでる場所が違おうと体の表面の色が違おうとセクシャリティが違おうと、人間であれば何が悲しくて何が嬉しいかは同じだということ。
本当はこんな映画なければよかった。
こんな映画が生まれない世の中ならよかった。
「観てください」なんて言わなくていい世の中ならよかったのにね。