少し前に、テラスハウスに出演されていた木村花さんのお母さんが
「花は人間としてではなく、金もうけの道具として使われた」とコメントされているのを知り、考えさせられたことがありました。
金もうけの道具として使われることの痛み、これはとてもよく分かります。
人間関係の痛みには、マウントされる痛み、疎外される痛み、関心を持たれない痛みなど、
色々な種類がありますが、
その中でも、「金もうけの道具として使われる痛み」というのも、かなり辛いものです。
職場というのは、自分の能力を切り売りして、その対価をいただくドライな場所というのが本質のはずなのですが、
人はどうしても、そこに親しみや温かみ、思いやりを見出したくなる生き物です。
お金ではなく、愛情や信頼でつながっていると信じたくなるのです。
そして、本来は利益追求を目標としているはずの利己的な組織に、利他的な振舞いを期待します。
金もうけの道具として使われた痛み、これは、信頼していた人や組織に裏切られたときに感じる痛みなのです。
厳しい人は、この痛みには、甘えが伴っていると指摘するでしょう。
人から親切にされること、自分のために動いてくれることを期待しすぎたせいだと。
確かにそのような面もあると思います。
でも、人間って、金ではなく、思いやりでつながるものではないですか。
それを、家族や友人だけではなく、職場の人たちにも求めてしまうことが、非難されるほど悪いこととは、私は思いません。
そして私も、仕事にやる気を失うのは、この「金もうけの道具として使われた痛み」を感じているときが多いです。
便利な消耗品として安く使われているだけだなと感じてしまうとき。
その痛みを癒すのは、やはり、人の温かい言葉です。
炎上に便乗して視聴率を上げるのではなく、花さんの傷つきを気遣って、守ってあげる人がいたらよかったね。