今回の障害者入所施設事件について
容疑者が発している、障害者は死んだほうがいい!という言葉
これは絶対的に間違っている!って言いたくて、、
そして障害があっても社会で普通に暮らしていけるってことが、すべての人にとって大切なことでもあるんだって、、
容疑者はゆがんだ正義感から、逆にいいことをしたくらいに思っているのかもしれないけれども、障害のある人が世の中に存在することの意味を理解できてなかったようで、、
もし障害者がいない世の中になると、とてもギスギスした、いろいろな争いごとが今よりも絶えない社会になるんだって、、
障害があるということは、自分の意思表出が難しいということでもあったり、日常の生活自体も自分のみでは難しいことを意味するんだけども、、
それを周囲の人間が支援することにより、普通に自然に当たり前に生活していける
それには周囲の人間が本人が何を考え、何を必要とし、何がしたいのかを想像することが大事であり、気持ちに寄り添う必要があって、
これは人に対する、思いやりの大切さに気付かせてくれる機会になるんですよね☆
障害のある人の物を投げたり、噛み付いたりなどの問題行動(健常者から見ると)には、必ず背景があり、本人の意思の表出であるんだけども、、
その原因は、、
職員に対する関係性(以前に強く叱られた、体罰を受けたなど)であったり、他の障害のある人との関係性であったり、騒音、気温、季節、トイレ、空腹、体調、やりたいことができない、などなど…
様々に想像する必要があるんですよね!
それらを想像する機会があるというのは、人間関係には思いやりが大切なんだということに気付く機会になってるなあって思ったりで、、
またよく言われる、誰もが障害のある人に生まれる可能性もあったということや、、
人生の途中から障害のある人になるってこともあると考えると、障害のある人が住みよい社会は、すべての人にとって住みよい社会(ノーマライゼーション)ということになるんですよね!
もし障害のある人が世の中から居なくなると、とても恐ろしい世の中になりそうって思ったり、、
すべてにおいて競争意識が働き、人の支援は必要としないけれど、その中での優劣ははっきりされるだろうし、、
そのような世の中が住みよいはずがない! って、、
それを障害のある人が存在することによって、ゆるやかにしてもらっているってね
それは何かに秀でていなくても、自分として生まれてきて、生きているだけで価値のあることなんだと思わせてくれるってことでね
生きてるだけで丸儲けってことですね!
ある重度の障害のある子どもの保護者の方は、
朝、呼吸をしているのを確認できるだけで、よかった、生きていてくれてありがとうと思えると聞いたことがあるんだけども、、
そんなふうに思わせてくれるのは、障害があるからこそだろうと、、
健常の子どもなら、保護者があれやこれやと要求したり希望したりするんだろうけど、生きているだけでありがたいと思わせてくれるなんてことはまずないだろうなって、、
ただ、障害のある子どもの保護者は、想像も出来ないほど、大変な想いで日々子育てをしていたりで、、
それはキレイごとでは済まないほどで、、
そして表面上は障害を受け入れているように見えても、ほとんどの保護者が一生本質的には子どもの障害受容はできないと言われていることもあってね、、
だからこそ、第三者である、支援者は障害受容を充分にし、本人にも保護者の方にも気持ちに寄り添って支援する大切さをしっかりと認識する必要があるんだって、、
今回の事件は、障害に対する理解不足が招いたとも言えるけども、、
施設は大規模で、郊外に位置し、社会との接点自体が少ない状況で過ごしていたように見えるし、
障害に対する理解を社会全体に深めるには、障害のある人がもっと身近に感じられる存在にならないといけないんじゃないかなって、、
それには子どものころから障害のある人との交流や障害者福祉の教育をすることなんかをして、
社会に出てからも身近に住んでいたり、職場で障害のある人と共に働くのが自然で当たり前にならないと、またこのような事件が起きてしまうのではないかなって、、、
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