@Shinjukudaisy 「3月7日小沢無罪報告国民大集会」で配布した資料の一部です。多くの方に拡散してほしい。【「小沢検察審の検察審査員はホントにいたのか」第一章 "小沢検審議決を「架空議決」とした根拠"】civilopinions.main.jp/2013/03/311_1 .
ちょうど1年ちょっと前だろうか、東日本大震災で母親を亡くした陸上部の子と話す機会があった。彼は少しずつ震災直後の出来事を話し、こっそり家に帰って母親が亡くなったと知った後の事をこう表現していた。”今もなんで僕の母親だったのかがわからないんです”
物事には因果があり、努力や苦労は報われるとスポーツの世界では言われるけれど、災害で犠牲になった人を前にして僕は因果が何も無いと感じた。犠牲者とそうではない人の間には特に理由がない。何か理由があって犠牲になったわけではなく、ただそうだったとしか言えない。
努力が全てだと言われて僕は育っていたから、僕に敗れ去っていった選手に対してどこか努力が足りなかったんだろうという目で見ていた。でも、引退近くになり自分の実力が落ちていく中で、努力量と実力は比例しないのを知った。スポーツはまず才能を持って生まれないとステージにすらのらない。
僕よりも努力した選手も一生懸命だった選手もいただろう。でも、そういう選手が才能を持ち合わせているとは限らない。日々を一生懸命に生きた漁師さんが津波で亡くなった例もあるだろう。そこに理由は無く、ひたすらに不条理なものを僕は感じる。
そもそもこの勝利が自分で作り上げたものだけでないのなら、自分は、自分という役割は何をすべきなんだろうか。引退していったライバル達がもし僕ならどうしただろうか。現役の最後はもう自分の身体が自分のものだけではない感覚で競技を続けていた。
【終わり】自分が自分である事に理由は無く、物事にも因果は無く、真面目な人に災害が降り掛かり、豊かな所に生まれ平穏無事に暮らしている人もいる。世の中は不条理で、それでも人は生きていくしか無い。
多くの人がかけがえのないものを失ったあの日から2年。時間はすべての人に平等に流れますが、2年の月日をあっという間と思う人と、長かったと思う人といると思います。祈ることで役には立たないかもしれませんが、どうか時間が、もう十分に辛い思いとした人たちに、やさしいものでありますよう。
ブログに『下流志向』韓国語版のための序文をアップしました。blog.tatsuru.com書いてるうちにだんだん興奮してきて6000字も書いてしまいました。どぞ。
『下流志向』韓国語版序文 (内田樹の研究室) blog.tatsuru.com/2013/03/11_165…
国中に危険極まりない放射能の毒をまき散らした張本人たちは、五年後、十年後に待ち構えている悲惨な結果など知ったことかと言わんばかりに悠然たる笑みを浮かべ、引退後の優雅な第二の生を付与されたことに満足し、さあらぬ様子を保って孫や曾孫を相手に悦に入り、何不自由なく生涯を閉じてゆく。
悲劇を前に目を赤く泣きはらし、はらはらと落涙するだけで、そこから先へ思考を進められなければ、思慮分別に富んだ一人前のおとなとはとても言えない。語り継ぐべきは、その悲劇それ自体ではなく、なぜそんなことになってしまったのかという原因と責任の追及によって弾き出された、答えなのだ。
国家に対して国民が攻勢に出るための絶好の機会を、今回もまたみすみす逃してしまったようだ。権力や権威に対して異様なまでに受け身な日本人は、その刹那刹那の感情に振り回されるばかりで、じっくりと理性を働かせて正解を出すことができず、ために、精神に不動の中心点を定めることができない。