子宮頸がんワクチンと健康被害 因果関係を調査 日産婦 - 朝日新聞 t.asahi.com/bf1c 小西京都大教授「重い症状が報告されているので、日産婦としても改めて安全性を評価したい。ただし、このワクチンが安全だというこれまでの認識は基本的に変わっていない」
原子力学会:除染、被災者支援を事業に 定款改定 :毎日 mainichi.jp/select/news/20… 総会で新会長に選出された堀池氏は「これまで原子炉の解析などに偏りすぎていたが、被災地が早く元に戻るため、除染や廃炉などの活動に率先して貢献したい」と話した。
強まる再除染の声=一巡後も線量下がらず-福島 :時事 jiji.com/jc/zc?k=201306… 住宅地などで除染が一巡した後も、政府が長期目標としている「年間線量1ミリシーベルト以下」まで数値が下がらないケースがある
違うカメラを通して撮られる写真が違うように、私達それぞれの目を通して認識される世界はまた違うように思う。例えば私にとって陸上競技場は人生の体験からあまりに多くに意味を含んで胸がいっぱいになるけど、同じものを見て全くそうでない人もいる。
どんなカメラで撮るかによって写真がどうなりがちかをある程度予測できるけれど、私達は自分というカメラを通して起きる偏りを意識する事があまりできない。違うカメラで撮るという体験ができないのも影響してか、自分を通して見えているものをみんな同じように見えているとつい思ってしまう。
私はそれをどんな風に認識しているか。その偏りや癖の、実は大部分は無意識の領域で影響されているのではないか。自分自身の歴史と、そして生まれながらのものにより、それをそう見がちな自分がいる。いくら自分でその事に気付いて意識しても、そう見えてしまうものは見えてしまう。
何かが好きである為には、それを好きだと感じる自分がいて成り立つ。それを好ましく思う自分をある程度は客観視できても、好ましさが消えるわけではない。感性や好き嫌いの領域も、認識の偏りだと思う。
自分自身の偏りを形成した過去は、環境であって自分との関わりだとしたら、一体自分自身と呼べるものの範囲はどの程度までなのだろうか。私達は私というものを介在してしか世の中を認識できず、そして私はつねに世の中に影響を受け、私達はその私を理解しきれない。\
【終わり】私にとってはゾーンとは観察者不在、走るという行為がそこに在るという感じだった。観察している自分がまた観察している対象、もしくは意識的に観察していないものからも影響を受けていて、切り離されて確かな自分がいるという感覚がどうしても僕はもてないでいる。